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第060〜069話へ

鳩尾無銘と鐶光、靴を買いに行く。



 鐶光はドーナツをおいしそうにくわえたまま、ふと首を傾げた。
「……なぜか…………足の裏が涼しい、です」
「そう思うのは貴様が鈍いからだ」
 うだるような暑さの街を睨むように歩きながら、鳩尾無銘は嘆息した。
「そもそもなぜ貴様の靴を買うのに我が同伴せねばならんのだ」

 事は鐶光の「靴を履かない」という奇癖に端を発している。そも鐶がなぜ靴を履かないか?
それは例の特異体質のせいだ。人間形態→原型の細胞変質を利用した変身能力は、場合に
よっては着衣を破く。といっても鐶のダウンジャケットやシャツ、スカートについては羽毛の凝
集であるから、この点はいくら変形しようと後でどうにも取り繕える。
 然るに足。
 足についてはほとんどの鳥の場合、羽毛がない。恐竜か爬虫類かとみまごうほどの鱗がび
しりと生えているのみだ。いや、もしかするとそうじゃない鳥もいるかも知れないが、少なくても
無銘が「例の特異体質とやらで足にも羽毛を生やせ」と提言しても鐶は「このままで……いい
です」と薄暗いぼんやりとした表情でつっぱねる。
 なら靴でも買えといえば、「変形したら破れるので……勿体ないです」と当たり前のコトをい
うばかり。変形の時だけ脱ぐという選択肢はないのか? ない。無銘の見るところ、鐶は切り
替えが非常に遅いので「咄嗟に靴を脱いで変形」という敏捷な選択は不可能なのだ。
 よって現状は裸足に甘んじている。
 街を歩く時も森を歩く時も一人で殲滅したホムンクルスの死骸の山を歩く時も、常に裸足で
もそりもそりと進んでいく。
 しかも瞳ときたら名前とは裏腹に光がないため大変だ。街で鐶とすれ違った者は、裸足で虚
ろに歩く少女の姿に見てはならない物を見たような、行く末が心配なような悪い気になってし
まう。警察に通報され事情聴取を受けたのもの二度や三度ではない。
 大体にして鐶が街を一人で歩いている時というのは、持ち前の方向音痴によって総角たちと
はぐれた時だからやるせない。総角に連絡が行って、彼が「フ。苦労をかけて申し訳ない」と警
官に頭を下げる横で無銘は鐶を睨んで軽挙をなじるのももはや定番の情景だ。
 どうにかならないものか。無銘が苛立っていると、総角がごくごく普通の提案をした。
「靴を買えばいい。そうすれば職務に忠実な警察官たちをわざわざ無意味な通報によって悩
ますコトもなくなるさ」
「そうはいいますが師父。奴が変身によって破れる事を察知しているのは周知の事実」
 今さら説いたところで無意味ではありませんか。と、つい最近人間形態に変形できるように
なった無銘は、凶悪な童顔を精一杯忠義に砕くようにしてとくとくと総角に進言した。
「フ。何事も観察すればやりようも見えてくる。むかし鐶を倒して仲間に引き入れた時もそうだっ
ただろ」
 無銘の小柄な体を震える冷気がぞくりと突き抜けた。
「二度と戦いたくあらず」
「お前と戦った相手も恐らくそう思っているだろうがな」
 総角は微苦笑した。無銘の自動人形ときたらどうだ。忍法満載で忍六具も使用可能、加えて
攻撃した相手の武装錬金を創造者に敵対させるから始末が悪い。まして人間形態になれる
ようになってからは、映像性質付与の龕灯さえ操り、それで「忍法時よどみ」なる時間遅延の
おぞましい現象を敵に与えるのだ。しかも近頃の無銘ときたら自動人形にしか使えなかった忍
法を綿に水を流し込むような様子で次々と再取得し、ますます力をつけつつある。これも齢十
たるうら若い無銘なればこその成長性だ。そんな末恐ろしい無銘が「二度と戦いたくあらず」と
鐶を評する是非はどうか。「お前がいうな」という代わりに総角は目を細めた。
「奴は強いが精神は幼い。靴を履かすとしたらそれへつけ込めばいい」
「といいますと?」
「お前は奴に好かれている。だからプレゼントしてやれば履くだろう」
「我は奴など嫌いです」
 青春美の結晶のような顔がさあっと怒りにけぶり、犬歯が露になった。
「師父は我がチワワの姿だった頃、奴に何をされたか覚えておいてですか」
「そりゃあ、尻尾をつままれたり耳を噛まれたり、ああ、確か頭に乗せられたりもしたな。ハヤ
ブサの急降下の時に。他は……ふむ。濡れた鼻に鐶の鼻を押しつけられているのも見たコト
がある。魚を買いに行かせたら、ペリカンの口からどばどばと吐き捨てられたのは確か鐶が入
って間もない頃だったか。あの時、お前は魚に埋まって大変だったな」
「猛禽類状態の奴に蹴りまわされ死にかけたのと、ジャワガマグチヨタカの大口に半日監禁
されたのが抜けてます」
「なんだ。お前ひょっとして鐶がトラウマなのか?」
 無銘は怒りの奥に深い悲しみを湛えてこくりと頷いた。
「奴は訳の分からぬ女ゆえ、傍にいると必ず災禍が我に振りかかります」
「だから嫌いか」
「大嫌いです」
「フ。お前ぐらいの年齢の男はみなそういう。だがな無銘」
「なんですか」
「あいつは副長。というか俺達の仲間。大事にするのも義務の一つだぞ。そして義務を大義名
分にアイツに優しくしてやるコトもできる。ああ、まだ残暑の残るこの時期、あいつは裸足で毎
日暑い思いをして大変だなぁ、何とかしてやらなければなぁ、と優しくしてやってもいいじゃない
か。あいつだって昔はお前が人間形態になれるよう祈ってくれてたんだし、お前を好いてるし」
「……我が奴に尽す道理はありません」
「フ。素直じゃないな。まあいい。とにかく、靴の件は頼んだぞ」

 回想の中の総角に、無銘はわずかながら複雑な表情をした。
(師父のためならばこそ。師父のためならばこそ)
 鐶に靴を買えばつまらぬ呼び出しで総角の時間が割かれ、ぺこぺこと頭を下げさせるコトも
なくなるのだ。それを思わば私財を投げ出し鐶に靴を買うのは部下として当然……と無銘は
自分に言い聞かせながら虚ろな裸足と並んで歩いて行く。
 鐶はいつもの姿だ。バンダナから三日月型の横髪と三つ編みの後ろ髪を伸ばし、その赤を
相殺するような水色で七分袖したシャツに迷彩柄のダウンベストを羽織り、チュール連なるカッ
トフレアーのミニスカートを青くはためかせながらもぞもぞと動いていく。
 芋虫のようにのろい。半ば八つ当たり気味に思いながら、視線はこの鬱陶しい自体の元凶
たる白い足に吸いついた。まるで鳥のようにのびやかで細く、無駄な肉のない白い足。さしも
の無銘が見とれたのは少年ならではの青臭い好奇心であるだろう。地面から断続的に浮き
あがり前進するその足の裏は、堅い地上の反発や障害を常に受けている筈なのにぷよぷよ
と血色良く滑らかだ。指の形も丸く、綺麗な半円状に切り揃えられた爪ときたら鮮やかな桃色
に染まっていて、何故だか無銘の胸をずきりと一打した。
(な、何を見ている我は!!)
 ぶんぶんと被りを振る少年忍者を鐶は不思議そうに見た。
「……無銘くん」
 ちなみに通常時の彼女は155cm。無銘は145cm。見下ろされる彼は威圧される思いで
ある。まだ十歳で少年らしくか細い無銘に対し、十二歳の鐶は思春期らしい丸みを随所に帯
びているから悩ましい。目のやり場に困る。胸へ斜めにかかるポシェットの紐が丘陵をうっす
ら盛り上げているのを見るや、無銘が顔が赤とも黒ともつかぬ異様な色に染まるのを感じた。
「な!! 何だ! 要件はさっさといえ!」
「ありがとう……」
 何がありがとうなのか。混乱状態の無銘はてっきり裸足への観察かと勘違いしかけて、また
慌てて思考を修正した。靴だ。靴の購入に対する礼と決まっている。
「師父からの命だ。それ以上でも以下でもない」
 ぼつりと呟くと、鐶は「そう……ですか」とやや口調を沈めた。
(……沈みたいのはむしろ我の方だ。おのれ。靴の購入資金のために対・忍法相伝73用の
貯蓄を取り崩す羽目になろうとは)
 無銘もつられて肩を落とした。
 実のところ靴の購入を聞きつけた小札が「少年たる無銘くんにはいろいろ他に買いたい物も
あるでしょう! ここは一つ不肖がえいやとガマグチ爪弾き、ずずいっと援助をば!」といってき
たが断った。無銘にしてみれば鐶のような訳の分からない輩の靴の購入資金のために、母と
仰ぐ小札の自腹を切らせたくはないのである。一方、香美や貴信は無銘の後にブレミュへ加入
してきた連中だからいちいち援助をせがむのも腹立たしい。歳こそ若いが無銘には組織にお
ける先達としての誇りや気概があるのだ。
(というか貴様が靴を買え。ただでさえ分不相応な肩書とお小遣いを拝領している貴様が)
 よほど怒鳴りつけたい無銘だが、これも総角からの命とあらば仕方ない。
 とまれ無銘は客観的に見れば自縄自縛でもあるが。意地やら見栄やらで援助を自らフイに
する様は滑稽でもある。
(ああ。──まことに忍法は忍の一字なり)
 これもまた誤魔化しである。
 
 余談ながら忍法相伝73は山田風太郎先生自身さえ駄作と広言してやまぬ本である。しかし
それが却って数寄屋どもに好かれる羽目となり絶版を経てしばらく経った現在ではまことに稀
覯本であり、値段たるやいかなる古本屋でも二万円より下がったコトはない。それを読まんと
コツコツ積み立てた資金を鐶の靴に充てねばならぬ少年無銘の胸中や、如何。

 やがて靴のお店についた。全国チェーンであるらしく、看板はこれまでの旅で無銘が何度か
見た覚えがある。そのためか内装はいやに画一的で小奇麗な整然さに満ちあふれ、てかてか
と光る無数の蛍光灯の下で靴たちが新鮮な匂いを撒いている。
(靴、か)
 無銘は街中でも中華の意匠がやや混じった忍び装束に草鞋といういでたちだから、あまり
既製品には興味がない。
「ヤスく〜ん。今日は私の誕生日だからちゃんといい靴買ってね〜」
「ああ。買うともさミッちゃん! 頑張ったお前へのご褒美さ。はっはっは」
 何やらカップルがベタベタしながら歩いて行くが、無銘にとって靴などは小札のおやつで余
った藁をなって作ればいいという念頭があるから到底理解しがたい。
「で、貴様は何を買う」
「……えぇと」
 鐶は相変わらずぼんやりとした瞳のまま店内をおろおろと見渡している。
 一人で歩けば迷子になる。なれば無銘に怒られる。そういう危惧があるらしい。やがてバン
ダナに怯えたスズメの顔を浮かべて、無銘の袖口を握った。
「案内を……してくれますか……?」
「放せ」
 無造作にそれをほどくと無銘はのしのしと歩き出した。
「いかに方向音痴でも店の中では迷うまい。ああそうだとも。我の後ろをただ付いてくるだけだ!
迷う道理などあろう筈もない! あってたまるか!!」
「そう…………ですね」
 二分後、鐶の行方が分からなくなった。

「なぜ迷う!!」
 店外。駐車場の人気のない一角で、無銘は半ば絶望的な叫びをあげていた。
「すいません……」
「百歩譲って迷うのは分かるとしよう。初めて入った店だからな。師父なればそういうコトもある
とお許しになる。我も頼まれればその程度の寛容さは見せてやらなくもない」
「は、はい。お願い……します」
 腕組みする無銘の眼前では鐶が死体とみまごう無表情で自動人形・無銘にぶら下げられて
いた。この巨躯の人形に仕留められた餌といっても通じるほどの体に力はなく、ただただ申し
訳なさそうなニワトリの顔をバンダナに浮かべるばかりである。
「だがどうして店の外へ行くのだ貴様!! おかげでわざわざ我は兵馬俑で貴様を追跡する
羽目になったではないか! この頭に生えた耳を見ろ! 我は自動人形を使うときは半獣半
人にならねばならぬ故、犬の耳など生やし人影のない場所でじつと佇む羽目にもなったのだ
ぞ!!」
「その…………外に無銘くんがいるような気がしたので……」
「おらんわ!!」
 声と同時に自動人形が解除され、鐶が地上に落下した。その細身を影も見せずに柔らかく抱
きとめた無銘は鐶の手をがしりと掴み店へ向かって駆けだした。
 鐶の手もまた実にまろやかである。先ほど見た足裏もこうではないかと思えるほどに。
「か、かような状況に二度と陥っては困る故、しばらく拘束させてもらう」
 駆ける無銘は披膊(ひはく)という名の肩当てじみた布がひらひらと瞬くだけで表情は分から
ない。ただ鐶は虚ろな瞳に嬉しそうな光を灯した。
「あの……」
「なんだ!」
「追跡なら…………無銘くんが……私の匂いを嗅いで……すれば良かったのでは……?」
(……できるか)
 揺れる長髪の中、無銘は拗ねたような表情をした。
「つまらぬ事をいうと以前のように敵対特性で貴様を身をズタ裂くぞ。口も二度と聞かん」
「黙り……ます。喋ってもらえないのは……寂しい……ので」

「きゃん。この靴超ステキ〜! コレも買って買って〜!」
「ああ買うともさ! クレカは便利だね! 先にブツだけ得て後で踏み倒せるから!」
 とベタつくカップルのいるレディースの靴売り場へと疾風のように滑り込んだ無銘は、ぜいぜ
いと息をつきながら靴の群れの前で左手をめいいっぱいのばした。
 その様、まるで案内人のごとく。
「さあ選べ! 予算は二万円以内! 時間は二時間以内!」
「…………といわれても」
 鐶は微かな困惑を浮かべて色々な靴を見た。だいたい、今まで裸足だったのだ。そのまま靴
を試着(?)しては確実に汚れる。だから店員さんを呼んでまず足を拭いたい。というコトを考
える鐶なのだがうまく口に上らせるコトができない。何というか、言葉は頭の中にあるのだが、
それを人に伝えるべく翻訳を開始すると途端に声へ変換できなくなってしまうのだ。
「あ!! あの……足を」
 運良く店員さんが通りかかったので鐶は懸命に足を指さした。それだけで伝わったらしく、店
員はぬるま湯を湛えた洗面器と二枚のタオルを持ってきてくれた。それで足の汚れは落ちたが
果たして何を買えばいいか。
 ブーツ? ハイヒール? サンダル? ミュール?
 グラディエーターサンダルはロボットとか聖闘士みたいでカッコいい。けどピンクのラインの入っ
た白いスニーカーも捨てがたい。丸いフォルムとか紐がちょうちょ結びなのが可愛い。
 かといってつま先にぽっかり穴の開いたエナメルのウェッジヒールもいい。横から見るとキリっ
とした直角三角形で鋭い攻撃性がある。目に心地よい光沢を放っているのもいい。脛に当てる
ために弓状をした革ベルトがくるぶしの辺りから可動するのもまたカッコいい。
 しかし値段は二万円を三千円ほど超えている。だから諦めた。
 とにかく目についた靴を鐶は履いて、とんとんとつま先を鳴らしたり歩いたり、裸足とは違う
快適さに驚いたりした。
(どれに……しよう)
 どうやら鐶は可愛いのもカッコいいのも好きであるらしい。初めて気づいた自分の好みに戸
惑いながら物色するが、どうにもこうにもまとまらない。時計を見ればすでに一時間半も経って
いる。残り三十分。とても決めれそうにない。まさかクロムクレイドルトゥグレイヴで街の年齢
を吸収して時間を戻すワケにもいかない。
 鐶は意を決して無銘に呼びかけた。
「無銘くんが…………選んでください」
 彼は一瞬苦い顔をしたが、迷うコトなくエナメルのウェッジヒールを摘み上げた。
「三十八分五十八秒」
「え?」
「貴様がコレを眺め思案に暮れていた時間だ。最も長く、な」
「無銘くん……」
 きらりと瞳を光らせる鐶であったが、しかしその体がやにわに前のめりに崩れたのにはさし
もの無銘も「あ」と呻くばかりである。しかも彼女の体には靴の箱がいくつもいくつも降り注い
で体に当たる。
「ヤダー。せっかく目をつけた靴が壊れちゃうじゃないの」
「まったく。これだからガキは困るね! 仕方ないミッちゃん、別のお店で買おう」
 無銘は無言で声の主を睨んだ。女の方はパーマの掛かったセミロングの茶髪の十代後半。
マニキュアやらラメ入りのワンピースやらがいかにも毒々しい。男の方は二十代前半で黒い
短髪。黒ブチメガネ。角丸のたくましい顎にT字のヒゲを生やしている。黒いトレーナーとGパン
という気軽な服装だが、高そうでぱりっと整えられた生地は衣食に不自由がないコトを如実に
物語っている。
 そんな彼らに無銘が何故だか無性に腹が立った。同時に崩れた靴の箱を文句もいわずに
元の場所へ戻そうとする鐶にも。
(貴様は強いのになぜ抗弁をしない。つくづく訳のわからん女だ)
 しかしその怒りはどうもぶつかった連中に向いている。一瞬、血の沸騰の赴くまま連中を叩
きのめしたくなった無銘だが、店員さんが鐶に駆け寄って「大丈夫?」と聞くのを見ると急激に
怒りが収束するのも感じた。
(ココで騒げば迷惑がかかる。忍法は忍の一字なり。一般人相手に激発すればキリがない)
 ないが。
 去りゆく連中へ恐ろしげな金の光をらんらんと瞳から叩きつける無銘である。
(人間に生まれついた事をとくと感謝しろ。ホムンクルスなれば殺していた)

 そんなこんなで会計が終わった。
「……ありがとうございます」
「師父の命だ」
 憮然としながらも「礼をいうなら代金をよこして忍法相伝73の購入代金を弁済しろ」とはいわ
ぬ変わった合理主義者である。
(おのれ。余分に持ってきた貯蓄さえ底をついた……。また母上を手伝ってお小遣いを稼ぐし
かないのか)
 その合理主義者の目の前で鐶は先ほど購入した靴をポシェットに仕舞い込んだ。
「履け!!」
 無銘は頭痛を催した。本当に訳が分からない。履くために買った靴をなぜ仕舞うのか。
 大体、小さなポシェットに何で靴が入るのか。ワケが分からない。
「その……」
 見るにおぼつかない手つきで靴を押し込め終えた鐶は、小さく口を綻ばせた。
「無銘くんが買ってくれたので……大事にしたい……です」
 彼はその笑顔を泳ぐ視線の片隅に置きながら、乾いた口をぱくつかせた。
(こ、こやつが履かぬとなると我の貯蓄は何のために死んだのだ。師父の命は……師父の命
は……!!)
「大丈夫……です」
 鐶は「¥980」の値札がついたスニーカーを顔の横にあげた。
「貴様!? まさか万引きしたのか!!」
 無銘は無表情に詰め寄りながら、恐ろしい速度で何度も何度も指を突き出した。
「万引きは良くないのだぞ!! ちゃんと商売しているお店の人が大迷惑するのだぞ! 返
せ!! それから謝れ!!」
 無銘の気迫にお店の内外の人がびっくりしたように視線を向けた。
「万引き」という単語に店員さんは血相を変えて飛び出してきた。
「い、いえ……ちゃんと私のお金で……」
 いったいいつ買ったのか、鐶はレシートとスニーカーを交互に指さした。

(ふははは……。奴と絡むと常にこうだ。こうなのだ。我は割を食う一方なのだ)
 そんなこんなで帰り道にある公園に鐶と二人連れだってやってきた無銘は、ベンチの上で
果てしない落胆に浸っていた。
(貴様が自腹を切るなら……我に二万三千円も出させるなという話だ……)
「ビーフジャーキー、食べます?」
 隣にちょこりんと座った鐶がポシェットからいい匂いのおやつを取り出した。
「おうとも。どうせ我は犬なのだ。貴様に行使される犬なのだ。人型への拘泥が何の意味を持つ……」
 ため息交じりにそれをガジガジかじっていると、ふと公園の向こうにクレープの屋台があるの
が目に入った。
「……食べます? 無銘くんに……たくさんお金を使わせてしまったので…………おごります」
「常々思っているが」
 鐶の問いに無銘が別な反問を仕掛ける気になったのは、靴による大幅な出費への傷心あっ
たらばこそだろう。くわえたビーフジャーキをびゅるびゅると上下させながら彼は云う。
「貴様は鶏肉が嫌いだったな。そしてドーナツなどの菓子が好きだと」
「はぁ。そう……ですが。私はニワトリ型……共食いのようで……(鶏肉)はダメ……です」
 噛みちぎったビーフを飲み干すと、無銘はニヤリと笑った。
「ほとんどの菓子にはニワトリの卵が使われているのだぞ。その辺りはどうする?」
「え……!?」
 虚ろな瞳が珍しく瞳孔をきゅうっと縮め、いわゆる四白眼のような点目になった。
「共食いではないか。それも同属の胎児以前に対する。その辺り、貴様ははたしてどう考えて
いる?」
 糾弾というよりは憂さ晴らしを兼ねたからかいである。
「ど、どうって……いわれても……分かりません。好きな物は……好きです……」
 顔をそむけた鐶は、太ももの上で拳を握って困惑したように震えた。
「共食い。共食い」
 そんな動揺の鐶を無銘は柏手(かしわで)打って囃し立てたくなった。
「と……共食いじゃない……です。お菓子はお菓子で……鶏肉は鶏肉で……」
「そんな理屈は通じんなあ。菓子にも卵は混じっている。仮にウズラの卵でも共食いだ。日本
人が毛唐を喰らうような共食いだ。共食い、共食い」
 縮こまる鐶を楽しげに詰問しながら、さりげなくポシェットに手を突っ込みビーフジャーキーを
強奪する無銘である。
「で!! でも、他の鳥の卵を食べる鳥だって……います……! エジプトハゲワシとか……」
「ほう。では貴様は菓子を食う時だけ都合よくエジプトハゲワシになっているのか」
「そ、そうじゃ……ないですけど……」
「ならば共食──…」
 いよいよ楽しくなってきた無銘は、しかしクレープの屋台に見おぼえのある人影が並んでいる
のに気づいた。
「靴なかったねヤスくん」
「まったく。先ほどのガキのせいで買い逃したね! これだからガキは困るよ」
 先ほど、靴屋で鐶にぶつかった連中だ。
 無銘は一瞬黙ると、懐に手を入れ、核鉄を握りしめ。

「痛い!!」
「痛い痛い痛い!!」
 クレープ屋の店主は唖然とした。クレープを注文していざお会計という時に、男が財布から
小銭をばらばらと落としたのが異変の発端だ。
 突然カップルが二人揃って足を跳ね上げ、けんけんをするように跳躍し始めた。
 やがて彼らの顔には脂汗が浮かび、どうっと地面に倒れてのたうち回りさえした。
「足が痛いよヤス君! 主に小指の辺りが!」
「靴を脱がそうにも手に痛みが登ってきて脱げない! な、なんで……!?」
 彼らは激痛の中で見た。「先ほどのガキ」が二人、悠然と近づくのを。
「我が龕灯の武装錬金・無銘の特性は映像付与。龕灯から射出される光を浴びた物は、姿
かたちはそのままに浴びせた映像の属性を付与される。例えばチョコレートは鉄板のように
硬くなり、鉄板はチョコレートのように甘くなる」
 くく、と笑う無銘の周囲を一瞬、龕灯が旋回するのを見たクレープ屋台の店主は白昼夢を見
たような気分になった。
「映像なれば何でもいい。静止画のみならず動画であっても可能だ。もっとも最大一分前後の
動画だが、要は重要部分だけ抜き出せばいい。卵が割れる瞬間のみを思い描き、その衝撃
を水に付与して、飲む者を苛むコトさえできるのだ。割れる瞬間だけを反復再生し、断続的な
痛みつきの映像を付与するのは少しばかりコツがいるがな」
 いよいよ凄まじい声をあげて臆面もなくカップルはのたうち回る。
「ちなみに我以外の生物への映像付与はどうもできないらしい。とはいえ、生物に接触する
『物体』にならば可能であり、前述の水や、または人の着衣……装飾物に映像を付与すれば
生物にも影響を及ぼす事ができる。事実我はかの早坂秋水を氷の床で滑らせた」
 男の黒ブチ眼鏡はずれにずれ髪さえずれてカツラを露呈した。女の方は女の方で、メイクが
涙で剥がれて服が破れて大変な状態だ。
「そして貴様らの靴には、先ほど我が見た『鐶へぶつかる箱の群れ』の映像を付与してある」
 無銘はしゃがみ込むと、男女の顔を凶悪な笑顔で覗き込んだ。
「最も多くの箱が当たる、最も痛みの激しい瞬間の映像だけをな。だが安心しろ。人間が相手
ゆえ加減はしてある。走るのは少々重い箱の群れがぶつかる程度の痛み。生死には関わら
ないし肉体的な損傷もない。ただただ感覚的な衝撃が五時間ばかり続くだけだ」
 もっとも、と無銘は人差し指を立てて恐ろしい形相を黒ずませた。
「足の小指の安全は保障しないがな。クク。重い物を足の小指に落とすというのがどれほど恐
ろしいか、我々を『ガキ』と呼べるほど大層な人生経験を積んだ者なら十分に分かろう。そして
ここからの五時間はずっとずっと貴様たちの落とした靴の箱が小指を中心にずっとぶつかり続
ける。ずっと。ずっと……」
「ご、五時間!?」
「助かりたいか?」
 男女は痛みに──無銘のいう言葉の意味は半分も分からないが、小指に重い物が五時間
ずっとぶつかるというのは理解できたので──こくこくと頷いた。
「ならばまず鐶に謝れ。そして先ほどの店で貴様たちが落とした靴を買うと約束しろ。無論、現
金でだ。逃げればどこまでも追跡して、激辛チゲ鍋の映像を付与したクレープを馳走してやる」
 男女は鐶に頭を下げると、ぼろぼろの格好で公園を脱出し、先ほどの店で靴を買って箱と
レシートを持ってきた。

「……ありがとう無銘くん。けど……」
「なんだ」
 得意満面でクレープを一舐めした無銘は、少年らしい期待に目を輝かせて鐶を見た。
「やるコトが…………なんだかセコい……です」
(だろうな)
 くつくつと笑いながらクレープを平らげると、折り目正しく紙をくずかごに放り込み
「クリームを鼻の頭につけるな。みっともない」
「あ……」
 鐶の鼻から取った甘ったるい物体を、無造作に舐めとった。
「あ…………」
 しばし呆然と頬を赤らめる鐶に、無銘の溜飲は少し下がった。

「……なぜか…………足の裏が涼しい、です」
「そう思うのは貴様が鈍いからだ」
 帰り道、無銘は鐶の足元に龕灯の光を密かに当てながら皮肉な笑みを浮かべた。
(我が龕灯の特性は映像付与)
 例えば裸足が踏みしめる灼熱のアスファルトに、涼やかな川の温度を付与するコトもできる。


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