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第080〜089話へ

広がる宇宙の中、小さな地球(ほし)の話をしよう



「のう、あれ喰うて良いか?」
 ある夕方のメインストリート。何かを指差す少女が傍らの青年を見上げた。
「ダメ」
 腹部に寄り添って目を輝かす少女を呆れたように見下しながら、紺のブレザー姿の青年は
嘆息した。一方の少女はやや紫かかった黒髪の果てでポニーテールを揺らしながら「え?」と
息を呑んだ。「ダメ」という答えが心外だったらしい。平素は活発そうに吊りあがった大きな瞳
は言葉の意味を理解すると同時に悲しみにくしゃくしゃと歪み始めた。
「なんでいつもお前は人の喰ってる物欲しがるんだ?」
「だってわし、食べ物持っとる人みるとお腹がすいてしまうのじゃ。ええのう、自由に喰えてえ
えのう、手軽に満腹になれてええのう……とな」
 少女の指の遥か先では、クレープを食べながらにこやかに会話する女子高生の一団がいた。
青年としてはクレープよりもミニスカートから覗く白い足に注視したいところだが、しきりに「喰い
たい喰いたい」と地団太踏み始めた少女が傍にいてはそれもできない。光の加減だろうか。忸
怩たる思いの青年の眼下で少女の髪が錫製の酒器のごとく蒼く濡れ輝いている。錫色の髪。
彼は不覚にもぼうと一瞬見とれかけたが、耳に響く笑い声のハーモニーにすぐさま現実に立ち
返った。
 見れば女子高生軍団がくすくす笑いながら青年と少女を眺めている。ワガママな妹を持て余
す兄。そう思っているのが微笑ましい表情から見て取れた。
(違う! こいつはただ隣に住んでるだけで)
 内心慌てて弁解しつつ少女の肩を抑えると、一段と大きな笑い声を残しながら女子高生軍団
が視界の中から消えていく。
「ああっ! 行ってしもうた……。喰いたかったのうあれ」
 指していた指を物欲しげにしゃぶりながら、少女は黒珊瑚の色した大きな瞳を涙にうるうると
潤ませた。
「尖十郎が許可をよこさんから、尖十郎が許可をよこさんからわしはまた腹ぺこじゃ……」
「俺のせいにすんな! だいたいさっき特盛チャーハン十杯も平らげたのはどこのどいつだよ!」
「ここのわしじゃ! 恐れ入ったか!」
 薄い胸を誇らしげにそっくり返す少女に、尖十郎と呼ばれた青年の頬がみるみる怒りに歪んだ。
「フザけんな! あれ一杯で五合分ぐらいの米使ってんだぞ! 歩きながら計算したけど十杯
だいたい大体16.5kgぐらいの米がお前の体内に入った計算だ!」
「ほう。我ながら凄いのう。確か”すーぱー”で売っとる一番でっかい米袋でも15kgじゃったか」
「それのだいたい一割増しを平らげといてなんでまだ喰いたがるんだ! だいたいそんなちっこ
い体のどこにさっきの喰い物が収まってるんだよ! そもそも学校帰りに飲食店で堂々と買い
食いすんな!!」
 後半は半ば悲鳴である。さもあらん、少女の身長は青年の腹ほど……130cmあるかない
かという位の小柄なのだ。これ位の身長の小学生女子の平均体重がおよそ27〜30kgであ
り、大食漢で知られるラッコでさえ一日に食べる量は己の体重の三分の一ほどである事を考
えると、一食で体重の半分以上を食べてなお空腹を覚える少女というものはいかがなものか。
「さあのう。普通に考えれば胃袋あたりなのじゃが……この点わしにもとんと皆目がつかん」
 少女は困ったように眉を潜めて腕を組んだ。
 衣装は今日びの小学生には珍しい黒ブレザーにネズミ色のミニスカート
「実をいうとあれの数倍ある代物を喰ったとてあまり腹持ちせんのじゃ。科学の神秘じゃのう」
「生物だろ」
「まあ生物学の範疇でもあるじゃろな」
 うむうむと頷く少女の名は木錫(きしゃく)という。
「しかしいつも思うけど変わった名前だな」
「これでも結構簡単にした方じゃぞ。わし自身の”ぱーそなりてぃー”とやらを表すために」
 彼女は横文字が不得手らしく、発音するときはいつも舌ッ足らずである。
 ちなみに先ほどから少女に悩まされている紺ブレザーで短髪している以外あまり特徴のない
青年の名は坪錐尖十郎(つぼきりせんじゅうろう)といい、少女との間柄を分かりやすくいえば
「お隣さん」である。

「わしの年齢は500歳をゆうに超えておる。しかも職業は忍者なのじゃ!」
 三か月前。坪錐家の隣に両親ともども引っ越してきた木錫は、挨拶もそこそこに尖十郎の肩
に飛びかかってこう切り出した。
「だから若いの、くれぐれもわしを敬うのじゃ!」
「はぁ」
 いったい何を言い出すのかと尖十郎は木錫の顔を眺めた。
 ややツリ目気味だが大きな瞳。前髪は左半分が白い額を大きく剥き出し右半分は先端が目
にかかる程の長さで子供っぽい雰囲気だ。短めのポニーテールの付け根には、正面からでも
見えるぐらい大きなかんざしが斜めに刺さっている。確かにそれは現代っ子っぽくなくもないが、
しかしブラ下がっている物ときたら白いフェレットやら赤いマンゴーやらの小物で、やはり子供
くさい。低い鼻の頭にうっすらピンク色が差しているところなどどこからどう見てもまったくの少
女ではないか。尖十郎の首にしがみついたまま口を波線に綻ばせたまま、彼の驚きに満ちた
回答を今か今かと期待しているところなど長寿の忍者にしてはいささか稚気がありすぎる。
「あ、あの。この子忍者とかが好きで時々変な事いいますけど……気になさらないで下さいね」
 一緒に挨拶しにきた木錫の母親は困ったようにフォローを入れた。こちらは年の頃ようやく
三十で主婦を絵に描いたような格好である。柔らかそうなセーターを着て後ろ髪を所帯じみた
様子で無造作にくくっているところは眼前の木錫よりも尖十郎の好みに合うように思われた。
 何かと木錫の世話を焼く羽目になったのは、隣家だからとか彼女の通う小学校が尖十郎の
高校の隣にあるとかといった物理的要因よりもむしろ木錫の母に対する青年らしい下心──
あくまで褒められたり手料理を御馳走になれたらなあ程度の──が作用しているのだろう。
 本日も高校から出るなり正門でとっ捕まえられ、手を引かれるまま導かれるまま中華料理屋
で繰り広げられた暴挙をニンニク焦がしチャーシューメン啜りながら見る羽目になったのも下心
のせいであろう。
 もっとも実はそれに加えてもう一つほど理由があるのだが、そちらは後段に譲る。

 とにかく。
 そんなわけで通り道にある公園に立ち寄った木錫と尖十郎である。

「だいだがだいだがだいだがだいだがぎゃーばんっ! (とぅるつっつー!)」
「おい」
「だいだがだいだがだいだがだいだがぎゃーばんっ! (とぅるつっつー!)」
「おい!」
「だがでぃだっでぃ! だがでぃだっでぃ! だぁだっだっだぁーやだだ、ぎゃぁばん!!」
「聞けよ! つか降りろ!」
「くらーっしゅ!?」
 怪鳥のごとき異様な叫びとともに木錫は大きく飛びあがった。
 そこだけを描くとあまり以上ではないが、それまで彼女が歌って両手広げて走り回っていた
場所が問題なのである。
 雲梯。金属製の梯子を弧状に設置したぶらさがりの遊具。
 その上を木錫は爆走していた訳であり、尖十郎が降りるのを促したのも危険きわまりないた
めである。もっとも呼びかけが届くまで距離にして10mはあろうかという雲梯を木錫は平地を
走るように軽く二往復半していたが。
 果たせるかな、スカート抑えつつクルリと宙をうった木錫は体操選手顔負けの綺麗な姿勢で
着地し、それがまったく日常動作のような調子で顔をしかめて反問した。
「なんじゃ? 歌が古いから気に入らんかったか? じゃがわしの年齢からすればこれもだい
ぶ新しいんじゃぞ。ちなみに走ったり叫んだり転がったり飛んだりする刑事の歌じゃ!」
「いや、危ないというか」
 尖十郎は額に冷たい物を感じた。網目のごとく穴の多い雲梯なのだ。線の部分とてパイプを
連ねただけである。この細さを思えば平均台など関東平野だ。常人には乗って立つ事さえは
ばかられる。だが木錫はその上を疾走したのだ。ただ平坦なのではない。緩やかとはいえアー
チ状の勾配ある細い金属のパイプを昇り下ること二往復半──…
「どうして走れるんだよあの上を」
「む! まーだわしを信じておらんのかヌシは! わしは忍者じゃぞ! あの程度など造作も
ないのじゃ! ”ふぇれっと”のごとく狭い穴の中に潜り込んですいすい走る事とてできよう!」
 指立てて唾飛ばしまくる木錫から甘い匂いが立ち上る。
(果物の匂い? ……マンゴーだな。そーいやかんざしにも付けてるが、好きなのか? ……
いや、違う。そういう問題じゃない)
 見なかったコトにする。多分俺は疲れている……暗澹たる面持ちの尖十郎は話題を変えた。
「ところでどうして今日はまっすぐ帰らないんだ?」
「なんとなくじゃ。尖十郎とあれこれ寄り道したくなっただけじゃな」
 腰の後ろで手を組みつつ木錫はベンチに腰かけた。
「別に帰宅部だからいいけどさ、さっさと帰らないとお母さん心配するぜ。ただでさえ最近──…」
「うむ。何だか物騒じゃからのう」
 というのも最近県内のとある学校で猟奇殺人事件が起きた為である。
(狙われたのは学生寮。幸い騒ぎに気づいた管理人たちが生徒たちを避難させたから被害は
拡大しなかったっていうけど……)
 この世の物と思えぬ絶叫に管理人が駆け付けた部屋には──…
(腹部から食べかけの内臓を引きずり出された死体が居たとか、ドアを開けたらアンパンマン
よろしく頭齧られた女生徒が目玉こぼしつつコンニチワだとか……。まったく。明治か大正ごろ
の北海道じゃあるまいし、そういう熊にやられたような傷できる訳ないだろ)
 生徒たちの噂話を一笑に伏したい尖十郎である。
 とにもかくにも女生徒が五〜六人殺されたというのは事実らしい。川に漂着したほとんど骨
ばかりの両足をDNA鑑定した結果、どうやら行方不明の女生徒の物らしいというニュースも
耳にした。
 刺激的なニュースを欲するマスコミ連中は「きっと犯人は食人癖のある者で足の肉を喰い尽
したから骨だらけ」などと煽りたててはいるが、現状は魚か鳥に喰われたか、或いは岩か何か
にぶつかって損傷したする見解の方が一般的であり尖十郎もその支持派だ。
(もっとも、その女生徒が足を切断されたって事実にゃ変わりねーけど)
 顔も名前も知らないが、尖十郎はその若さゆえに五歳と年の離れていない者が酸鼻を極め
た目に遭うのを聞くとどうにもやるせない。
 ぶすっとした表情の尖十郎につられたのか、木錫も若干心細げな声を出した。
「少し前は県外で似たような事件があったそうじゃが」
「今度は県内だもんな。距離的にはあんまりここから離れていないし」
 おかげでこの界隈で子を持つ親の不安は日に日に高まり、尖十郎の母などもしきりに木錫を
送り迎えするよう口はばったくいう始末。
「しまいにゃ不審者を見たとかいうウワサが立つ始末だ。本当にいるのかねーそういう奴。口
裂け女とか人面犬みたく社会不安がどうとかで出てきた代物っぽいが」
「まー、大丈夫じゃろ。わしとヌシが一緒にいれば襲われても何とかなろう」
「いや、だからさっさと帰った方が親御さんも安心するだろ。もうそろそろ暗くなってきたし」
「んー、しばらくこうしていたいのじゃ。わしは」
 ピトリと身を寄せてきた木錫にため息が漏れた。
「いっとくが俺はお前なんか恋愛対象なんかにしない。ロリコンじゃないからな。小学校で年相
応の奴見つけて仲良くやってろマセガキ。ま、大喰らいで雲梯の上走り回るような奴がモテる
とは思えねーけど。鼻だって低いしな」
 からかうようにいうと、木錫は露骨に頬を膨らませた。
「また馬鹿にする」
(ハイ怒った。忍者がどうとかいってもやっぱ子供だなコイツ)
「前々からいっておるがわしの方がヌシより年上なんじゃ! 本当にもうずっとずっとずーっと
年上なんじゃぞ!! だいたいこの低い鼻はわしの”こんぷれっくす”なんじゃぞ! いうてく
れるな!」
「年上は小学校なんかに通いません」
「う……! そ、それはじゃな、義務教育とやらに興味があるし、第一今後の任務のためにも
色々と必要なワケで…………」
「任務って難しい言葉良く知ってるな。で、何の任務なんだ?」
「そ、それはいえん。いったらきっと、ヌシはわしを嫌う……。絶対に嫌う」
「どうせ給食係とかザリガニの水槽の掃除とかだろ。まあ頑張れ。小学生は小学生らしく毎日
身の丈にあった事を楽しくやりゃあいいんだ」
「う、うん。そうす……ちーがーう! わしのが年上なんじゃ! 何うまい事なだめておる!!」
「へいへいこりゃ失礼しました」
「う゛ぅ〜」
 頭をぱしぱし叩かれると、木錫は下唇を噛んで呻いた。
「とにかく早く送ってかないと今度は俺が不審者にされるからな。幼女誘拐犯なんて疑いかけ
られるのはまっぴらだし。まあなんだ。守ってやるさ送り迎えの時ぐらいは」
 半泣きで睨むように尖十郎をしばらく眺めていた木錫は、腹の虫がぐぅと鳴るとバツが悪そう
に立ちあがった。
「無礼の詫びに手を繋いでけ。そしたら……許してやらんでもない」
「了解」
 繋いだ手はしかし妹にするような軽やかさがあり、木錫はムズ痒そうに眉を潜めた後、ちょっ
と諦めたような表情をした。
「そうじゃな。うん。色恋は……良くない。きっと制御ができなくなる」
「何かいったか?」
「別に」

 街並みが後方に流れ、段々と見慣れた住宅街に染まっていく。

 ややあって。
「ところでさ、どうしてお前ん家ここに越してきたんだ? 転勤なのか?」
 繋いだ手をぶんぶんと振りながら木錫は答えた。
「うーん、わしはな……探しておるのじゃ! 昔生き別れになった動物を」
「ペットか?」
「そんなところじゃな。何しろ生まれる前から色々と世話をしておったからのう。その母親に
も並々ならぬ手間暇をかけたのじゃ。だから逢いたい。この街に来たのも目撃情報を掴んだか
ら腰据えてしばらく探すために引っ越したのじゃ」
「そりゃまた」
 動物一匹のために引っ越しできるというのも大した物である。
「で、何の動物だ?」
 聞いてみるとどうして先に言わなかったのか不思議なぐらいポピュラーな動物だった。
「で、特徴はじゃな……」
 木錫は繋いでない方の手で指折りつつ特徴を列挙した。
 尖十郎はしばらく考えた後、心当たりのある種類を挙げた。
「そうそれ。ちなみに別れてざっと10年ぐらいじゃ!」
「10年……」
 その種類が人の手を離れて生き延びるには絶望的な数字である。
 ぽつねんと呟いたまま表情を暗くする尖十郎に木錫はからからと笑った。
「なぁに生きておるよ。聞く所によるとそこそこの者に拾われたらしいしの」
 そうか、と話を聞いているうち、尖十郎はふと別の感覚に気づいた。
(ん? なんか木錫と繋いでる手が痒いな? 何でだ?)
「そろそろ痒くなってきたじゃろ? すまんの。そういう体質でな」
 素早く手をほどいた木錫は尖十郎の前でピースを開閉しながら笑った。
「ふぉっふぉっふぉ」
「……そりゃもしかしなくても」
「そう、バルタンじゃ! バルタンは宇宙忍者だから好きじゃ」
「じゃあバルタンと恋愛したらどうだ?」
「ぐ、そういう意味の好きじゃないのじゃ! 実在せんモノにわしの食指は動かんという話じゃ!
もっとも食指動く限りはどんなに離れていても諦めんがな」
「食指ってお前……」
「あ!」
 しまったというように木錫は口を覆った。
「本当マセガキだな。そういう言い方で恋愛を語るのはおっさんのする事だぞ」
「……」
 木錫がほっとしたような腹立たしげな顔をする間に、彼女の家が見えた。
 闇にけぶり暗い暗い家が。

 チャイムを鳴らし、木錫の両親を呼んで玄関先で適当な挨拶を交わす。

 いつもと同じ光景がその後起こるはずだった。

「どういう……事だ?」
 チャイムを何度押しても木錫の両親は出てこなかった。
 玄関のドアに手を掛ける。
 鍵が掛っていない。
 まるで家人を招き入れるかの如くドアは容易く開いた。
 覗くのは長方形に区切られたドス黒い深淵。
 もはや夜だというのに家屋には電灯の類がいっさい灯らず静まり返っている。
 そういえば遠巻きに見た木錫の家は薄闇にけぶっていた。
(光が、見えなかった)
 嫌な予感をなるべく表に出さぬようにしながら、傍らの木錫に「今夜両親が出かける予定は?」
と聞く。すぐに返事。「そんな予定はない」。嘘でも冗談でもない事は強張る顔から見て取れた。
 尖十郎も軽く唾を呑んだ。
 県内での猟奇殺人。近ごろ近辺に出没したという不審者。
 ウワサ程度の代物だと分かっていてもこのおかしな事態に結びつけてしまう。
 しかし有事を裏付けるにはまだ何も確かめていない段階なのだ。警察を呼べば一番安全な
のだろうが、推測がいい方向に外れていた場合の事を考えるとまだできない。
 だが。
「……なんだかヤバそうだ。お前は俺の家に行ってろ」
「尖十郎はどうするのじゃ?」
 不安げに木錫が聞く間にはもう尖十郎は靴を脱いで上がり込んでいる。
「家の中を確認する。もしかすると何か急ぎの用事で家を空けてるかも知れないだろ? 書き
置きでも見つけたらすぐに戻るさ」
 パチリという小気味の良い音とともに白い光が満ち満ちた。
 玄関口からL字を描くように伸びる廊下の電灯だ。それは廊下に面する三つの部屋を照らし
だしている。何度か遊びに来た経験が見慣れさせた部屋の数々。突き当たりは物置、左は居
間で右は台所。尖十郎が現在位置から左に歩み廊下に沿えばいつかは辿りつく。
 逆に右に歩めばすぐトイレのドアで行き止まり。その近くには階段もある。二階には寝室が
あるらしいが、流石に高校生たる尖十郎にお泊りの経験がないため全容は分からない。ただ、
書き置きを置くとすれば一階の居間か台所であるだろう。彼はそう類推した。
「ま、十分もあれば分かるだろうし、それまでお前は待ってろ。何か言伝があるかも知れないし」
「……いやじゃ!」
「いやってお前」
「さっきもいうたじゃろ。わしとヌシが一緒にいれば襲われても何とかなる!」
「そういうけどお前。大体、誰かが不法侵入したと決まった訳じゃ──…」
 言葉と同時に尖十郎の視線が一点に止まった。
 それは階段に向かう廊下の部分。灰色にくすんだ異様な模様が刻まれている。
(靴跡……!?)
「やっぱり!!」
 尖十郎と同じ物を見た木錫が一目散に階段目がけて走りだした。
「待て! やっぱりって何だよオイ!」
 小動物のような速度で遠ざかるかんざし付きの後ろ髪に怒鳴りながら尖十郎も走りだした。
 その頃にはもう木錫、階段を五段ほど飛ばして駆けあがっている。その差を何とかコンパス
の差で埋める頃には両者とも二階に上がっていた。
 不意の無酸素運動に尖十郎は膝へ手を付き荒い息をついた。この時ほど帰宅部特有のな
よっちい体力を痛感した事はない。
「やっぱりってどういう事だよ。何か心当たりでも」
「静かに」
 息も絶え絶えの質問を鋭く遮った木錫は、閉じた木戸の前を指差した。
 暗くてよく分からなかったが、茫洋とした灰色の模様が浮かんでいる。靴跡だとすれば何者
かが侵入したという可能性はますます否めない。
 引き返そう。その言葉はしかし紡ぐべき時期を逸していた。
 放胆にも木錫は木戸を開けた。自動ドアというよりSF映画に出てくる宇宙船のドア。そんな
形容がぴったりな速度で開いた扉の向こうに……果たして木錫の両親は居た。
 布団の上でもつれ合うように倒れている姿から尖十郎が目を背けたのは痴態を想像しての
事ではない。
 彼らは確かに体を重ねていた。部分によっては絡み合っていもした。
 下にいるのが木錫の母親だと尖十郎がかろうじて分かったのは、破れたセーターの肩胸か
ら白い膨らみがまろび出ていたためである。それが木錫の父親の左肩に押しつぶされ、更に
彼の左大腿部の影に黒く焙られている。と見えたのは木錫が扉を開けると同時に部屋の電灯
のスイッチを入れたせいであろう。おかげで全体像がよく見えた。部屋の全体像がよく見えた。
 前述の通り木錫母の胸は夫の左肩に潰され、その上にある右大腿部の影を浴びている。し
かしそれは本来おかしいのだ。一体どうして左肩に右大腿部が乗っいるのだろうか?
 結論からいえばそれは非常に簡単である。酸鼻なる光景を直視できれば、だが。
 生のフライドチキンのように無造作に斬られた木錫の父の大腿部が彼の肩に乗っている。
 肩は付け根から斬られ、腕らしい肉塊が骨を覗かせながら散乱している。腹も首もなくした
木錫の母親の胸は内臓の断面を尖十郎に赤々と見せつけ、腹らしい物体が新鮮な色の臓物
(ハラワタ)をブチ撒けながら首の付け根のあたりに転がってもいた。畳にはそろそろ黒ずみつ
つある血液がべっとりとこびりつき、その上に目を剥き苦悶の表情の生首が二つ転がっても居
た。指がばらばらと零れ実にバリエーション豊かに切断された手や足の破片は十や二十に収
まらない。
 ……さて、描くと長いが尖十郎はその総てを確認したワケではない。
 ただ木錫の両親がバラバラになっていると認識するや、部屋に籠っていた臓腑の生々しい
匂いに吐気を催しかけた。嗅覚は初見以上の情報を掴み、視覚は初見以上の情報を拒んだ。
 にも関わらず咄嗟に彼が木錫の前に立ちはだかり、踵を返し、彼女を抱え込むようにしゃが
んだのは、黒い疾風のような物が飛び込んできたのを察知したからだ。
 後で思えばどうやら影は押入れのドアを破ってきたらしい。
 とにかく彼は木錫をかばうと同時に背中で異様な熱気が通り過ぎるのを感じた。
「尖十郎!」
 絹を裂くような悲鳴を胸の中に籠らせる青年は声にならぬ悲痛な叫びで激痛を表現した。
 背中が斬られている。
 傷の灼熱感、そして汗よりも粘っこく背筋を流れていく生暖かい液体。人生始めて直面する
異常な事態に脂汗を流し歯を食いしばる尖十郎を木錫は沈痛の面持ちで見上げた。
「かばったか」
 ひどく粛然とした静かな声に遅れて、ひゅっと風を切る音がした。
 振り返り、血の流れる背中の後ろに木錫をやりながら尖十郎は相手の姿を眺めた。
 年の頃は30半ばというところか。丸々としたいがぐり頭の下で酷薄そうな目を更に細めてい
る。鼻の頭にはあばたともイボとも思えるブツブツが浮き出ていかにも見苦しい。頬はこけ肌
の色はどこかの内臓の病気を疑いたくなるほど黄味がかっている。
 そんな彼の両手には鉤のついた手甲。振られるたびに鮮血が鉄臭い点描を畳に描いていく。
(アレで俺を……いや! 木錫の両親を!)
 傷の痛みも忘れて若い面頬を怒りに紅くする尖十郎に涼やかな声がかかった。
「お前、人間か?」
「何を」
 お前こそ人間なのかと叫び出したい衝動を抑えたのは理性ではなく傷の激痛である。
「『信奉』もしていないな?」
「何の話だ!」
「ならば気をつけろ
 回答と同時に男は一足飛びに尖十郎と間合いを詰めた。
 斬られる。身をすくめた彼はしかし意外な感覚が到来すると同時に右へ数歩たたらを踏んだ。
 男は──…
 掌で尖十郎の顔を横にいなした。鉤手甲を用いるのでもなく、また殴るのでもなく平手を見舞
うのではなく、ただひたすらふんわりとした手つきで尖十郎を横に逸らしたのである。
「──っ!?」
「そいつは人を喰う化け物だ」
 鉤手甲は尖十郎の背後にいた木錫目がけて轟然と打ち下ろされた。
 だがその瞬間にはもう彼女は残影を描きつつ両親の死骸転がる部屋に滑り込んでいる。
 代わりに元の背後にあった襖がバリバリと凄まじい音を立てて破られた。
 それを見届けた木錫はふうとため息をついた。
「やはり『戦士』か。まったく仮初とはいえいい感じの父母(ちちはは)だったのじゃがなあ」
 仮初? 傷の痛みに喘ぎながら尖十郎は部屋を覗こうとしたが、男に制された。
「まあ、上司が命ずれば何でもやるのが忍びだがの。とはいえここまで仕込むのに10年はか
かったのじゃぞ? そこまでの苦労と今までの平和な暮らしどうしてくれる」
 それでも何とか首を伸ばし覗きこんだ部屋の中で──…
「まったく。余暇を利用して”ぺっと”の”ちわわ”を探す以外特に悪行を働いておらんというの
に。狙うならわしの同僚どもにせい。連中のが遥かにえげつないぞ。人間どもへの害悪はわ
しの比ではない」
 木錫はニュっと唇を歪めて笑っていた。
 見る者次第では悪戯っぽいとも、意地悪とも老獪とも見える凄絶な笑みだ。
 しかも彼女は掌から母の物とも父の物とも知れぬ腕をポンポン投げて弄んでいる。
 散乱していた中で一番大きな肉塊は、戯れと共に切断面から血しぶき飛ばし幼き頬を穢して
いく。だが声音ときたら実に軽やかで朗らかで、まるでシュークリームを顔に塗りたくっている
程度の気楽さが全身から立ち上っている。
「木錫……お前は一体?」
 ちらと尖十郎を見た木錫は少し視線を泳がせた後、男に向きなおって朗々と喋り出した。
「だいたい人喰いはこの県来て以来『県内では』慎んでおったというのによくもまあ嗅ぎつけ
たの」
「貴様の部下が白状した」
「部下……ああ、これじゃなく下っ端の方か」
 土気色の腕をぶんぶんと振りながら木錫は嘆息した。
「やれやれこれじゃから組織務めはやり辛いのう。どうせ空腹に耐えきれず県内で粗相でもや
らかしたとみえる。お、そういえば最近近くで殺人があったとみなみな噂しとったが、もしかす
るとそれかの? 若く瑞々しい肉があるゆえ、学生寮を狙うのは基本中の基本じゃからな」
「ああ。だからこの近辺を張っていた」
「成程。学校襲った輩は捕獲済みなんじゃな。そして上司たるわしの所在も吐かせたのか。むー。
せめてわしの部下なら忍びらしゅう間者を務めるとでもうそぶき切り抜ければいいものを。どう
せ今頃は墓の下……これじゃから若人はいかんの。考えなしに行動して命を捨てよる」
 額に自分の物ではない手を当て、芝居がかった仕草で木錫は首を横に振った。
 麻痺しつつある尖十郎の脳髄はしかしどこか冷静に状況を分析し始めた。
 きっとそうでもしないと狂ってしまう……隣人の豹変に底冷えのする思いだ。

──「少し前は県外で似たような事件があったそうじゃが」

(他人事みたいにいっておいて何だよ。結局お前がやったのかよ……)
 
 県内の猟奇殺人は木錫の部下の仕業。
 ここしばらく近辺で目撃された不審者は鉤手甲を持つ男なのだろう。
 総ての元凶であり関係者たる木錫を尖十郎は守ろうとしていたというのは皮肉な話だが、彼
はそれを笑えるほどの精神状態ならびに状況には存在していない。
「既に聞いたと思うが、そこに転がっている連中もこいつの部下だ」
 男は言い聞かせるように呟きだした。
「信奉する見返りに、自分たちも化け物に格上げされんとする見下げ果てた人間の敵。同じ
人間だとしても自らの勝手で他社に害悪を振りまかんとする連中だ。分かったか? 分かった
らさっさとこの場から離脱しろ」
「逃げるって。あんたは。それに……木錫は?」
 青ざめた面頬を震わせながら、尖十郎は男と木錫を見比べだした。
「安心しろ。多くは語れんが俺のこの鉤手甲は化け物を仕留めるに適した最高の武器。これ
で奴を斃すのが俺に与えられた任務だ」
「で、でも木錫は!」
「『化け物じゃないかも知れない』。そういいたいのだろう? だがお前は奴に違和感を感じな
かった事が一度でもあるのか?」
「それは──…」
 尖十郎は言葉に詰まった。
(確かに……アイツは)
 16・5kgほどに相当する特盛チャーハン十杯を平らげてなおすきっ腹を抱えていた。
 雲梯の上を平然と駆けていた。
 だいたい初対面からして1000歳を超えているといっていた。
「心当たりがあるようだな」
 死刑宣告を告げるに等しい男の言葉に、尖十郎の肩がビクリと震えた。
「それでも……悪い奴じゃないんです。本当に化け物で忍者やってるにしてはいつもいつも
無防備に色々やらかしてて、俺が世話焼かないと危なっかしい部分があって、本当に子供み
たいで。だから! だから……!」
「……奴の話を聞いていなかったのか?」
「え?」
「人を喰うのだぞ奴は」
 言葉の意味を理解した尖十郎の表情に絶望の色が黒々と広がった。

──「だいたい人喰いはこの県来て以来『県内では』慎んでおったというのに」

(それじゃあ)

──「のう、あれ喰うて良いか?」

(あの時、木錫が食べたがっていたのは)

 少女の指の遥か先では、クレープを食べながらにこやかに会話する女子高生の一団がいた。

人間の……方…………?)

 激痛の灼熱さえ押しのける怖気が背筋一面を冷やした。

「如何なる姿を見せていようと、アイツはひとたび飢餓に狂えば平然と人を喰らう化け物だ」
 鉤手甲の男は悠然と部屋に足を踏み入れた。
「分かったらさっさと逃げろ。そして忘れろ。この女の存在も過ごした日々も」
 気死したがごとくのろのろと階段に向かって歩く尖十郎は……横目で見た。
 ゆっくりと木錫の周囲を回りながら手甲を振りかざす男を。ただし距離は詰めない。ゆえに手
甲は鉤の先端さえかすりもしない。
 面妖な攻撃である。
 男は木錫の周囲を回り、遂には頭上を飛び違えたり横を行き過ぎたりしながらもなお攻撃を
空ぶるのである。しかしその攻撃は威嚇でも牽制でもまして技量の未熟さゆえに当たらぬと
いう様子でもなく、一撃一撃に斬り殺さんばかりの気迫が充溢しているのである。
 立場としては男に守られている尖十郎でさえ身ぶるいするほどの殺気である。
 だがそれを向けられている筈の木錫は大した動揺も見せず、男が正面に舞い戻るやいなや
うーんと大きく両腕を上げて生あくびを浮かべた。
「んん……。お、なにかよう分からんが、終わったかの?」
「ああ。少なくてもあの青年を逃がすまでの時間稼ぎはこれでできる」
「ほう」
 感嘆めいた声が木錫の口から飛び出した。見れば先ほど上げた両腕に微細な傷がついて
いる。
「ぬぅ。何かに斬られたようじゃのう」
 濡れた手ぬぐいを叩くような異様な音が木錫から走ったと見るや、彼女と男の間で血しぶきと
肉片が飛び散った。掴んでいた腕が投げられそれがサイコロステーキのように寸断されたの
である。
「こりゃあまたひどいのう。何も講じず出ようとすればばらばらじゃ」
「そこに転がっている信奉者どものようにな」
 ふむ、と木錫は両腕の血をねぶりながらしばし思案にくれ、やがて言葉を発した。
「風閂(かぜかんぬき)という忍法を知っておるかの? 主に風摩に伝わる忍法なんじゃが、
髪の毛を周囲に張り巡らすとちょうどこんな感じになるのじゃ。うむ。髪ではないが髪によらざ
るしてかような物を作ろうとはいやはやまさに眼福眼福。見えこそせんが眼福じゃ」
「御託を」
「いやいや。褒めておる。ここまでできるヌシは間違いなく相当の使い手じゃ」
「……」
 男は悠然と踏み出した。しかし木錫が「出ようとすればばらばら」と看破した部屋なのだ。そ
れは男自身も首肯したではないか。なれば左様な斬撃の結界に踏み込めば彼もまた足元の
骸と同じ運命を辿るのではないか? いやいや先ほど結界を張った時を思い出してほしい。彼
は部屋を縦横無尽に駆け巡っておきながらかすり傷さえ負っていないのだ。蜘蛛が自らの糸
に絡め取られないように彼もまた自身の巡らす結界の攻撃対象から外れているとみえる。
 そうして彼は一歩、また一歩と歩みを進めていく。
 迂闊に動けば木錫は足元の偽両親と同じ命運を辿るであろう。
 かといって動かねば、結界をすり抜けてきた男の餌食。見よ。彼の手に光る一対の鉤手甲
を。先ほど尖十郎を切り裂いたそれは異様な殺気と憎悪に鈍く輝いている!
 しかし果たせるかな、木錫もまた男に向かってじりっと一歩踏み出した!
「斬撃軌道の保持……というところかの? ヌシの能力。その鉤手甲の軌道に沿って斬撃が
残りあたかも透明な刃を置いたかのごとく敵を斬り裂く……とみたがどうじゃ?」
 男の顔にありありと驚愕が浮かんだのもむべなるかな。
「大した能力じゃが相手が悪かったの。わしとの相性は残念ながら最悪じゃ」
 彼は木錫が踏み出した瞬間、斬れる! と確信していた。
 現に部下二人は寸断し酸鼻極まる地獄絵図を醸し出していたではないか。
 だが実情はどうか? やんぬるかな、斬れると見えた木錫はまるで斬れぬ!!
 いや正確には張り巡らした斬撃軌道の細い線自体には引っかかっている!
 それが証拠に皮膚がわずかにへこみ、少女らしい外観に見合った柔らかな肉さえも斬撃の
線にそってすうっと斬られているのだ。木錫は男の能力を「あたかも透明な刃を置いたかのご
とく敵を斬り裂く」と形容したが、まさにその透明な刃は木錫自身の体を通り過ぎてもいるので
ある。現に男は目撃した! 木錫の腹が水平なる透明刃を浴び、脇腹から背中に向かって斬
られていく様を!
 なのに斬れぬ!!
 物理的には無数の刃が当たっているにも関わらず、傷口が一つたりとも開かない!
 刃を浴びた体は次の瞬間にはもう癒合し、何事もなかったかのごとく平然と歩んでいるので
ある。──いかなる名刀とて一ツ所に溜まった水を切断する事は不可能なのだ。斬ったと思っ
た次の瞬間にはもう再生している。
 まさに木錫はそれ。立ちながらにして桶の中の水のごとく斬られないのだ。
 変化といえばせいぜいが白い肌が蝋のように軽く透けて見える程度──…
 何という怪異! 端倪すべからざる魔人のわざ!!
「忍法蝋涙鬼(ろうるいき)。ヌシにはチト余る代物じゃて」
 やがて茫然たる男の前にたどり着いた木錫は、意地悪い笑みの籠った上目遣いをしながら
しっしと手を振った。
「ほぅれほれほれ。逃ーげーたーらーどうじゃあ〜? どうせヌシはわしにゃ勝てん」
 身長差は大人と子供ほどあるにも関わらずこの所業というのは何とも間が抜けた感じだが、
言葉自体は至極理性的で的を射てもいた。
「戦略的撤退もまた良しじゃ。弱いものいじめをする趣味はないし、ヌシほどの使い手をかよう
なつまらぬ争いで殺めるのもつまらん。何十年かの修練、呆気なく水泡に帰したくはなかろ?
第一な。これが一番重要なんじゃが……喰ってもまずそうじゃからのう」
 ケラケラとした嘲笑を浴びる男の風采は確かに悪い。だが彼は蒼然たる面持ちから絞り出す
ような声を漏らした。
「逃げたら貴様は先ほどの一般人を喰うつもりだろう」
「わしは彼が好きなのじゃ」
 答えになっているかどうかも分からない答えである。
「ところで『きしゃく』というのは名ではなく苗字でのう。字も本当は『木錫』ではない。わしの居
る組織の連中みなみな能力がそのまま名字でな、くされ縁のえろぐろ女医など衛生兵の英語
読みを苗字にしておる。とはいえわしは見ての通りの老体ゆえに横文字には疎い。よってそ
のまま能力を苗字にしたのじゃが、はて困った、みなみなわしが名と苗字を漢字で連ねるたび
に難しくて読めぬという。やはり今日びの若人には漢字は受けんのじゃろうな。よって両方か
たかなにしたのはやんぬるかな。しかし字面で並べるとどうも名より苗字の方が見栄えがよく
てのう、偽名を名乗る際は苗字を名前としておる」
 つらつらと長広舌に及ぶ木錫……いやもはや木錫が偽名と自白した少女に、男は何も手出
しが出来ぬ。そうであろう。自らの能力を既に封殺した相手に一体何ができようか……。
「ところでヌシは錬金術と占星術の関連を知っておるか? ああ、別に答えんでもいい。わしが
いいたいのはそれら総ての知識に比ぶれば砂粒のごとき小さな知識、一言二言ですむのじゃ。
要するにじゃな、木星は錫(すず)と関連が深いのじゃ。錫というのは”ぶりき”やら”ぱいぷお
るがん”の”ぱいぷ”やらに使われとる金属だそうなんじゃが、錬金術やら占星術的にはこれと
木星が関連付けられておるという。そしてわしは『まれふぃっくじゅぴたー』なる役職でな。漢字
で書けば『凶木星』……ま、本来、”ぐれーたー・べねふぃっく(大吉星)”といわれるほどの木
星が凶象意を孕むのも妙な話じゃが、そういう決まりゆえ仕方ない。ま、陰陽五行の観点からすれ
ば僚友の雷使いにこそ『まれふぃっくじゅぴたー』を名乗らせるべきじゃとも思うが……おと。話
が逸れてしもうたな。まあぼけた老人の長話として笑って許せい」
 まったく隙だらけの少女である。
 男は考えた。いかな術法であれ集中力が途切れたその瞬間にならば解けるのではないか?
「要するにだから木錫なのじゃ。わしの偽名な。役職が『木星』で『錫』がそれに連なる金属ゆ
えに縮めて木錫。なかなか頓知が効いてて面白いじゃろ?」
 少女が優越混じりの息を吐いた瞬間、うねりを上げた鉤手甲が殺到した。
 果たして小さな頭はガリっという音とともに爆ぜ、錫色の髪の毛がばらばらと舞い散った。
(やったか!?)
 そう息をのむ男の前で少女の頭はどろどろと溶けていく……。
 よく観察すると傷によって溶解したのではなく、口から流れる涎のような液体によって顔面全
体が溶けていくようだった。例えるなら地盤沈下を来したビルの如く、下から順に顎、頬、目、
額、最後に頭というように溶けた肉汁が口中へ埋没していくのだ。そしてその肉汁は首を伝っ
て胸を流れ少しずつ少しずつ少女の原型を崩していく──…
「こりん奴よのう。亀の甲より年の功……。年長者の話はじっくりと聴いて損はないというのに」
 だが少女は喋る。動くべき唇も声を発すべき声帯も溶けてなくなっているというのに、どうい
う理屈か声だけは響くのだ。
「仕方ない。退かぬとあらば殺す他なかろうて。仮にも『まれふぃっくじゅぴたー』という要職に
あるわしがここまでされて何もせぬとあらば沽券にかかわろう。といってものう、あまり喰いで
がなさそうな相手ゆえ気乗りせんがのぅ……」
 腹も足もとろけて下に垂れて行き、やがてマンゴー色の飴を溶かしたような水たまりが畳に
溜まっても声は続く。まったく不気味極まりない。
「忍法我喰い(われくらい)もどき」
 細い目つきをカッと剥きながら男は足元を眺めた。少女だった”モノ”はいまやアメーバか何
かのごとく、ズズッ、ズズッと男に向かって這いだしている。不思議な事に畳に染みついた血や
そこらに転がる肉片とは混ざらないらしく、波濤が砂浜をこそぐる様な調子で通りすぎるのだ。
 男は素早くしゃがみ鉤手甲を振り下ろした。もちろん手ごたえなどない。
「愚かじゃのう。液体の類はまず斬れまいよ。わしを従わせるやんどころなき御方なら別じゃが」
 ちなみに彼女の服や下着は先ほど突っ立っていた場所で無造作に転がっている。白いフェレッ
トと赤いマンゴーの飾りのついたかんざしも服の上に落ちている。
「あ、そうそう。わしの能力と本名をまだ紹介しておらんかったの」
 男の背後で少女は再生した。
「まず能力名じゃが『ハッピーアイスクリーム』という。可愛らしいじゃろ? 横文字に疎いわし
がかたかなで発音できるぐらい気に入っておる」
 背中に話しかけるように突っ立つ彼女は当然ながら一糸まとわぬ姿である。
 胸に膨らみはなく胴も筒のごとくだ。小さな臀部には絹のごとき肌がしっとりと纏わりつくだけ
で肉は薄い。両足も白木の細棒を揃えたように頼りない。後ろ髪はほどけ肩や背中に見事な
紫混じりの錫の波を落としている。
 一方で表情はどこまでも明るく、双眸は少女的な無垢の美しさに生き生きと輝いている。
「ヌシの能力が鉤手甲の形を取っているのと同様、わしの能力は『耆著(きしゃく)』の形を取っ
ておってな。耆著というのは忍者が使う方位磁石みたいなもんじゃ。磁力を帯びており水に浮
かべると北を示す」
 濡れ光る肌からはマンゴーの芳しい匂いが立ち上る。どうやら服を脱ぎ捨てたせいで直に体
臭が飛散しているらしい。
「よって苗字は耆著。かたかなで書けばキシャク。偽名にしてた奴じゃな。で、肝心の本名じゃが」

「イオイソゴ、と云う」

「横文字で本名並べるならば『イオイソゴ=キシャク』、奥ゆかしい日本語で書くなれば……ふむ。
戯れに筆談的な会話もやるかの? じゃが『彼女』のあれはサブマシンガンあってこその術技でも
あるからどうしたものか。まあ物はためしじゃ、やってみよう」
 何かが男の肘に打ち込まれた。
 とみるや畳にぼとりと液状の物が落ちる音がした。
「耆著五百五十五じゃな」
 畳の上にできた肉の縦文字を小学生特有の本読みのような調子で読み上げる少女……い
や、イオイソゴとは対照的に、男はこらえにこらえていた悲鳴を遂に上げた。
 さもあらん。彼の肘から先は見事に溶けてなくなっている!
 それだけでもおぞましいのに、溶けた腕は畳の上で「耆著五百五十五」という文字を描いて
いるのだ。
 しかも文字は動く。トカゲの尾は切られた後もしばらく動くというが、この文字の動きはそうい
う反射的な物というよりは例えば電光掲示板に浮かぶイルミネーションのような規則正しさが
あった。肉で描かれた漢字は上から順々にそのフチを膨らませてウェーブを打っている。
「うーむ。我が名ながらいつ見ても仰々しいのう」
 仰々しい悲鳴が轟いているのはまったく意に介さぬイオイソゴ、自分の名を眺めつつ、更に
講釈を続けた。
「五百は『いお』とも読むのじゃ。万葉集にも『白雲の五百重(いおえ)に隠り遠くとも夕(よひ)
去らず見む妹があたりは』などという句もある」
 溶けた肉が男の残る腕から滴り落ち、イオイソゴの言葉を速記していく。
 二本目の鉤手甲がからからと畳を転がり……やがて六角形かつ掌大の金属片へと姿を変えた。
「五十を『いそ』と読むのは馴染み深いじゃろう。山本五十六というお偉い大将がおったからの。
ちなみにわしは越後長岡で小さい頃のこやつと遊んだ事もあるが……まあいらざる話かのう。
五が『ご』と読むと講釈するよりいらざる話。しかしどうも筆記は疲れるのう。やはりわしには
向いておらんようじゃ。ふぉふぉふぉ」
 両足の肉が解けて地面に溜まり、文字を描きながら素早く避けた。
 何を避けたか……、無論、支えを失いうつぶせに倒れる男をである。
 それをきっけけに速記は終了した。
「と。またしても長話がすぎたのう。生きておるか? 聞こえておるか? そのまま死んでは閻
魔の前でも首傾げたままとなろ。されば不敬を問われ沙汰が重うなる。それを良しとするほど
わしは鬼じゃないゆえ教えてやろう」
 倒れた男はもはや達磨状態である。
 それをよっこらとひっくり返しながら、イオイソゴは呟いた。
「ヌシが溶けたのはわしの耆著・ハッピーアイスクリームの特性のせいじゃ」
 その手にはドングリとも銃弾とも取れる先の尖った小さな物体が握られている。
 耆著とは正にこれを指すのだが、男の知る由ではない。
「わしも理屈はわからんが、これを撃ちこまれた物体はの、いい感じの磁性流体と化すらしい。
で、わしの持つ耆著で操れるという寸法じゃ。大雑把な磁力操作ゆえ精密動作は難しいがの。
磁性流体というのはそもそも強磁性体の固体微粒子を”べーす”となる液体中に界面活性剤を
用いて分散させた懸濁液。字面は難しいが要するに磁石を近づけたら海栗みたいな形に尖っ
たりいろいろ変形する不思議で面白な液じゃ。恐らくわしの耆著に元来そなわっておる磁力が
物体に作用する事で磁性流体を作るのか……。しかしそれにしては本来の磁性流体よろしく
黒くならぬのが不思議じゃのう……。まあ、わしは錬金術師ではないから科学的究明などは
専門外。ただしわしが数百年来やっとる職業的見地からなれば断言できる」
 ピっと親指と人差し指が動くと、耆著が男の胸に突き刺さった。
「忍法だからじゃ!」
 男の全身が溶けていく。
「忍者のわしが使うこんな能力は忍法としかいいようがなかろ」
 イオイソゴは満面の笑みでハイハイをしながら、かんざしをひったくった。
「なれば荒唐無稽大いに結構じゃっ!」
 起伏のない裸体をいきいきと反転させてイオイソゴは男の前に舞い戻った。
「おおそうだ聞いてくれ聞いてくれ。蝋涙鬼やら我喰いもどきやらも耆著の特性の応用なのじゃ。
わし自身に打ち込んだ場合はの、わし自身の意思である程度動けるのじゃ。まぁ、本来の我
喰いは消化液で色々溶かすものじゃから、わしの使うのは”もどき”にすぎぬが」
 そしてかんざしの端を持って軽く捻ると、果たしてキャップのように開くと……
 ストローが出てきた。
「ふぉっふぉっふぉー! いっつぁ食事たーいむ!! ……あぁでもやっぱまずそうじゃのう。
しかし喰いもせんものを殺すのは主義ではないし、第一自然の摂理に反する。かといってどう
も中年の肉は瑞々しさが無く脂ぎっててうまくない……仕方がない」
 ドロドロの肉塊を困ったように眺めると、イオイソゴはその上に握った左拳をかざした。
「わしは”ふぇれっと”と”まんごー”の細胞を入れられた調せ……ええと、そう、怪人なのじゃ」
 果たしてぎゅっと絞った左拳からはオレンジ色の汁がダクダクとあふれ出る。
 むろんその匂いはマンゴーの物であるから、どうやらイオイソゴは汗腺よりマンゴーの果汁
を出せるらしい。それで味付けするという発想に行きつくのは当人にとりごくごく自然といえよう。
 なおこれは余談になるが、マンゴーはウルシ科の植物のため人によっては果汁にかぶれて
しまう事もある。先ほどイオイソゴと手を繋いだ尖十郎が手に痒みを覚えたのはそのせいなの
であろう。
「本当は”らっこ”と”こうがいびる”が良かったのにえろぐろ女医がいらんコトしおったから……」
 えぐえぐと泣きながらイオイソゴは『男』だった肉塊にストローをプスリと差し込んだ。
「じゅるじゅる。”ふぇれっと”と”まんごー”の細胞を入れた理由は『淫猥な響き』だからだそう
じゃ。うぅ。何がどう淫猥なのかもわしにゃ分からんから忌々しい。じゅる。じゅるるる」

 やがて男を食べ終わると、イオイソゴは粛然と呟いた。
「大丈夫じゃ。お主を痛めつけようとかそういう意思は持っておらぬ」
 向き直った遥か先にいたのは尖十郎。壊れた襖の中に茫然と座り込んでいる。
 一連の戦いの妖気に囚われたという訳ではない。
 彼の周囲の床はことごとくドロドロと溶けている。立てないのはその溶けた床が強烈な磁気を
帯びて尖十郎を拘束しているためである。
 イオイソゴは戦闘の最中に尖十郎の足元へ耆著を打ち込み、辺り一帯を磁性流体と化して
いたと見える。
 むろん最初は逃れようともがいていた尖十郎であるが、磁力は血中の鉄分に反応したのか
彼を床へと吸いつけた。傷の痛みを堪え必死の思いで階段へ逃れんともがいた彼だが、横目
で見たそこも既に磁性流体のるつぼであった。かろうじて見えた一段目はとろけていた。左右
の壁に至っては何らかの磁力線に沿ったらしく針山のように激しく隆起し、向かいのそれと癒
合するや……扉よろしくばったりと閉じた。後はもう最初からそこに階段などなかったようにふ
よふよと波打つ異常な壁があるばかりである。ならば二階の窓から、と振り返っても磁性流体
と化した窓枠総てことごとく癒合し退路を断っている。そも退路があったとしても、尖十郎はそ
の場から一歩も動けぬ。
 そうこうしているうちに前出の妖気を孕んだ戦いを観戦せざるを得なくなり、かつて「木錫」と
呼んでいた憎からぬ隣人が人を喰うおぞましい情景さえまじまじと見せつけられる羽目になっ
たという次第。
 脱出を阻まれた時点ですでに精も根も尽き果てていた尖十郎だ。
 もはや瞳からは光が消え、ただただ呆けたようにイオイソゴを眺めている。
「できれば知られたくなかったのう。わしの本性」
 ストローを仕舞ったかんざしを口に咥えながら、イオイソゴは無邪気な調子で髪をポニーテー
ルに結わえた。服はまだ着ていない。にも拘わらず彼女は裸体を隠そうともしない。少女らしく
そういう所業にあまり羞恥がないのだろう。
 とはいえ瞳には憂いと悲しみの光が限りなく宿っている。
「わしはな。人間が憎くて喰っとる訳ではないんじゃ。仲間たちは……それぞれ凶悪な理由で
人間を殺しておるが、わしは違う」
 やがてできたポニーテールへかんざしを斜めに刺すと、イオイソゴは白い裸体をくゆらせるよ
うに四つ足で尖十郎にすり寄った。
「ヌシら牛肉とか好きじゃろ? でも牛を見てすぐに殺したいとは思わぬじゃろ? 殺されるさ
だめの牛を見たら、まず『可哀相』って思うじゃろ? ……わしの人間観もそれなんじゃ。食べ
たい。けれど隣人としては愛おしい。だからわしは憎悪で人を殺したくないのじゃ」
 そっと尖十郎の首をかき抱くと、イオイソゴは甘い匂いのする唇を彼のそれへと押しつけた。
しばらくそうしていただろうか。ねっとりとした果汁の糸を引きながら、気恥しげに視線を外しな
がら、イオイソゴは呟いた。
「その……好きじゃ。わしはお主の事。許可が出なかったとしても、好きなんじゃ」
 わずかに尖十郎の瞳に光が戻った。そして彼は何かを言いかけた。
「だから喰うのじゃ」
 耆著が尖十郎の喉笛に深々と突き刺さった。
「安心せい。さっき言った通り『痛めつけは』せん。そのうち脳髄さえもとろけ痛みも何も感じな
くなる。ただわしの中で甘く甘く溶けていくだけじゃ。そう……」

「ハッピーなアイスクリームのように」

「だが唇を合わせるのは好きな者だけじゃぞ。ストローなぞ……使いとうない。ヌシを直接感じ
させて欲しいのじゃ…………」
 再び合わせられた唇から、じゅるじゅると何かをすするような音が響いていく。
 尖十郎の体はいつしか横たえられ、ずずずと音が響くたび少しずつだがしぼんでいく──…

 およそ一時間後。

「くふふ……。好きになった者を喰いたくなるわしの性、正に業腹」
 尖十郎のブレザーを前に、口を拭うイオイソゴの姿があった。
 彼の姿はもはや辺りにはない。
 或いはイオイソゴの腹部を解剖する者があれば観察できるかも知れないが……。
 果たして見えざる斬撃線をスルリと切り抜け、果てはゲル状にさえ溶解できる彼女を解剖で
きる者など存在するのだろうか? そもそも磁性流体と化した状態で喰われた”物”を元の存
在として認識できるかどうかと問われればそれもまた難しい。DNA鑑定を用いれば照合自
体はできるが人間的感情では色々認めがたい部分が多いだろう。
「旨かったのう。でも……」
 法悦の極みという態でニンマリと笑っていたイオイソゴの瞳にみるみると涙があふれた。
「やっぱり悲しいのう」
 涙は頬を伝い、持ち主亡きブレザーの上へぽろぽろとこぼれていく。
「いくら喰っても腹が減る。満腹になっても腹が減る。いつになったらわしは満たされるのじゃ
ろうなあ。わしのような化け物が世界に満つれば変わるのかのう? 教えておくれ……尖十郎」
 ひとしきり泣いた後、黒ブレザーを着ると、イオイソゴ=キシャクは仮初の自宅から姿を消した。
 
 以後、その街で彼女を見た者はいない。


第080〜089話へ
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