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【今はもう】武装錬金総合萌えスレ78【楽しかったコトしか】より

パピヨさんはそのままでいい

ツンデレっぽいのにツンデレな描写って実は全くないですよね、彼女。小説もドラマCDもゲームも出なかった点はソウヤと似たり寄ったり。



 ガラパゴスを見ても分かるように島国とは何がしか独自の進化系統を編み出すものだ。日本が開国以来取り入れてきた
欧米文化もまた例外ではない。白い核鉄精製の労働力──ルリヲヘッドで操る生徒だ──を見繕うためニュートンアップ
ル女学院で生徒として生活してきた本場生まれのヒネくれ少女はハロウィンやクリスマスの浮かれ具合を見るたび眉をしか
め胸中で毒を吐いた。

 ヴィクトリア=パワードの話である。

 なぜお菓子をくれなきゃいたずらするぞの行事が仮装パーティになったのか。
 なぜイエスさまの誕生日にプレゼント交換やら恋人たちの甘い夜が繰り広げられるのか。

 気難しい少女の薄い胸の奥はお気楽な乱痴気騒ぎのタネになりさがったイベントを見るたびむかむかする。「私は本場
生まれなのよ」などという一種の識者めいた気位で日本特有の歪んだ欧米文化を一世紀ずっと糾弾してきた。といっても
実は彼女が欧州で過ごした時間、20年あるかどうかである。物心がつくまでの乳幼児期を差し引けばもっと短くなろう。後
はもう100年近く日本育ちだ。だから実をいうと『本場』のハロウィンやらクリスマスがどういう物かあまりよく分かっていな
い。身もフタもない言い方をすればそれらの日本版を白眼視しているのは郷土愛ゆえではない。単にお祭り騒ぎを楽しそ
うにやっている連中が我慢ならないのだ。論理のすり替え。ミクロな個人的事情しかない癖に、欧米文化の保全なるマク
ロな大義を胸中声高に掲げている。文化人ぶって、和洋折衷に付き纏いがちな自然な誤謬をいかにも悪であるように目
ざとく取り上げた糾弾を内心つねづね口幅ったくやっている。
 なんともしょっぱいが、父を怪物にされ母を脳髄にされ己を人外にされた不幸極まる生涯を汲々と送ってきた少女なのだ、
仕方ない。とにかく普通の人生を普通に幸せに送っている輩どもを見るとただでさえ酷薄な瞳を不快にスウっと細める。

 中でも嫌いなのがバレンタインである。インフルエンザがそろそろ流行り出すころ女学院の生徒たちの雰囲気がうっすら
とした桃色に染まるのが我慢ならない。教室やら校庭やらヴィクトリアの行くところ奴等は女学院の生徒でありながら事もあ
ろうに男の話で袖引き合い、顔見合わせて外部の誰々にチョコを贈る贈らないの相談をやらかしている。いかにも思春期の
恋愛を謳歌してますという表情を見ると孤独を運命付けられた少女は苛苛と内心で毒を吐く。「羨ましいわねお気楽で」。
さすがにホムンクルスに喰われろとまで念じたらそれはもう自分を怪物にした戦団と変わりなくなるからどうにか自重するが
フラれて泣けと願うのまでは止められない。

「だいたいどうしてチョコなのよ」

 聖人の命日だか誕生日だかに──そういった知識的な部分があやふやにも関わらずイベント内容には難癖をつけるあ
たりヴィクトリアの文句は本当ただのやっかみだ──命日だか誕生日だかに意中の男性にチョコを贈る。訳がわからない
よという感じである。【ろこどる】のクリスマススペシャルとどっこいどっこいである。なぜ斯様な事象が勃発しえたのか不可解
だがしかし男どもは贈られて悪い気がしないという点でも同じである。

 とにかく。

 ヴィクトリア=パワードにとってバレンタインほど縁遠い行事はなかった。何しろ一番身近な異性たる父とは1世紀近く離
れていたのだ。しかも錬金戦団によってホムンクルスにさせられてしまった身上、避難壕たる武装錬金に象徴されるよう
正に社会から隠れて生きてきたから普通の女子のような『出逢い』にはとんと恵まれなかった。



 故に彼女はアンチ・バレンタインの連中がよくやる修辞を以って2月14日を白眼視していた。自分だけの世界から牙を
剥くコトは誰にだってできるが、やっていた。ディスっていた。バレンタインなど製菓業界の陰謀だと。


「なのに何で作ってるのよ……」


 月での最初の年越しを迎えておよそ1ヵ月後、ヴィクトリアは邸宅のキッチンで微妙な表情をしていた。まな板(※彼女の
胸部ではない)やら銀色のボールやらの調理器具は苦闘を表すようにココア色に汚れている。結果できあがった直径20cm
のまぁるいチョコレートパイは形も味もヴィクトリア的には問題ない。(クッキングブックちゃんと見て作ったし……)。世の女性
が陥りがちな目分量やら創作料理を一切廃しトコトン基本を守りぬいた逸品は苦労して作ったが故の手前味噌を差し引い
ても存分に輝いて見えた。


 チョコレートパイ。

 初心者らしく造詣は至ってシンプルだ。パイ生地全面に生チョコレートをたっぷり塗りこめた。厚さ3cmにも及ぶチョコの
層はここ1週間ずっと苦慮しつづけた甲斐あって歯ごたえと柔らかさを兼ね備えたヴィクトリア会心の逸品だ。彼女は日本
について間もないころ『陶器』という欧米にはない独自の茶器の色艶に目を丸くしたが、いま生み出したパイの色艶もちょうど
そんな感じに上品だ。陶器に着色する代物を『釉(うわぐすり)』といい、釉は「ひかり」とも読むらしいが、パイより上3cmの
味覚的地層の表面をコーティングした薄くて硬いチョコレート──これで生チョコにはないカリっとした歯ごたえをもたらす
算段だ──表面のチョコレートもまた『釉(ひか)って』いた。安いプラスチックのテカリではなく、上質な陶器の表面のような
コクと光のある光沢を放っていた。

 パイ生地についてはそこはヴィクトリア、100年『ママの味』に添え続けてきた熟練の腕前が存分に裏打ちしている。何層
ものパイがサクサクとした触感をもたらす。敢えて濃い味付けを避けたのは無論濃密すぎるチョコレートたちの調和を狙った
からだ。単体では無味乾燥だからこそ甘すぎるチョコを程よく抑える。パイ単品のおいしさもまた引き立てる。

 ……という検証をヴィクトリアは何度も繰り返した。結果、味については問題ないというのが脳細胞たちの総意になった。そも
そもチョコについてはずぶの素人だからこそ、作りなれた料理である程度フォローできるパイを選んだ。これでマズいとなれば
100年の料理歴は何だったのかという話になる。試食用の奴を摘む。もぐもぐ。問題ないと改めて思う。ダークマターでも
なければブッ飛ぶニトロでもないごくごく普通の手作りチョコレートパイだ。ドーナツにしなかった己の判断をヴィクトリアは
褒める。何しろドーナツはキメると幻覚が見える。人形が動いて喋るのだ。中毒者が集まると七福神の乗ったタイヤつき宝
船が光と共に夜空を悠然と航行するといった集団幻覚すら発生する。危険だ。避けて当然であろう。

 ともかく味、ヴィクトリアの試食に於いては問題ない。

(でも……私の味覚がおかしかった場合、大変なコトになるんじゃ……)

 初めて真剣に贈呈用のお菓子を作ったが故の初々しい不安にヴィクトリアの心臓はらしくもなく速まった。混ぜるな危険と
ねんごろにされている物を知らず知らずに混ぜているのではないかと危惧した。こういうとき気軽に味見してくれる女友達
が居れば何かと安心なのだがあいにく月にいる女性の中でめぼしいのは花房ぐらいだ。(アイツにだけは……!) ヴィクト
リアは彼女が嫌いだ。父に色目を使うのもあるが、それ以上に……。

(…………)

 チョコを見る。贈られる方の苦い過去が蘇る。カカオな、だけに!

(他に味見できそうなのは)

 金城は論外。陣内は垂れ目が気色悪いので却下。太と細に食わせるぐらいならブタにやった方がマシそうなので除外。
ムーンフェイスは的確に品評するだろうが、しかし『誰に贈る』かという弱味を握らせると後でどうなるか分からない。巳田。
面倒くさがる。猿渡。最近はマシュマロしか受け付けぬ。鷲バードもとい鷲尾は何を食べてもうまいというから当てにならな
い。あと何かキモい髪型のオタクが居たような気がするが風が吹いたため忘れた。

(だいたい嫌いなホムンクルスに味見させるの……嫌だし)

 かといって月だから人間はいない。時々坂口照星がバスターバロンで資材を運んでくるが彼も戦士で嫌いな人種だから
抵抗がある。

(じゃあいないじゃない味見役。自分の味覚を信じるしか……)
「珍しいなヴィクトリア。お前が菓子を作るとは」

 いや、いた。味見するもの、居た。ヴィクター。いわずとしれたヴィクトリアの父である。巨躯を屈めるようにヌっと入ってきた
彼の姿にヴィクトリアは珍しく狼狽した表情を浮かべつつサっとチョコレートパイを隠すようその前へ回り込んだ。透き通る
ような金髪を通した筒(ヘアバンチ)が揺れてカラカラと打ち当たった。

(パ、パパ。なんてタイミングで入ってくるのよ……)

 毒舌だが両親に対しては割りと甘いのがヴィクトリアである。1世紀以上生きているのにいまだに子供じみた二人称で父らを
呼んでいるのが何よりの証拠。決して嫌いではない。寧ろ100年の離別を母の分までしっかり埋めたいとは思っている。だが
何もかも見せたいかといえばそこは13歳、隠したいコトの1つや2つ当然あるのだ。初めて作ったバレンタインチョコレートを
男親に差し出して○○君にあげるんだエヘヘが許されるのは小学生までだよねーというアレだ。味見はして欲しい。ホムンク
ルスだがヴィクトリアの身内(シマ)じゃノーカンだから。だが誰に贈るかまでは追求されたくないのだ。

(義理チョコ贈る方はいま人間だし、パパも恩があるから問題ないけど……)

 本命、というショッキングピンクで彩られた言葉を(違うわよ、そっちも……義理、だし)と直視しないようすると赤くなったり
青くなったりだ。贈りたい相手は人間では……ない。錬金術嫌いのヴィクターには伏せるべきかとも思ったがしかし話す。

「パパにあげるついでに夏の件の貸しを返そうと思ったの。だから作っただけよ」

 娘の、いかにも事前に用意してあったようなスラスラとした返答を父は端正な面持ちで聞いていたが、聞き終わると頷いた。
「ああ、あの少年に」
「そうよ。ムトウカズキ」

 ここまでは予定通り策動できたヴィクトリア。パイ完成の現場に父が入ってくるのには驚いたがしかしまったく予想してい
なかった訳ではない。親子なのだ。着替え中やお風呂中に間違って遭遇するハプニングがパイ製造だけ避けて通ると楽観
するにはヴィクトリアの人生は呪われすぎていた。だから誰に贈るか聞かれた場合どう答えるか考えていた。何かとイビら
れた存在は時々己の行動に対する糾弾を勝手に妄想し対処を練るのだ。そしてカズキに贈るチョコは義理だ。彼が彼にで
はなく父に白い核鉄を打ち込んでくれたのは感謝しているが、しかしチョコは義理である。

(問題は──…)

 耳たぶがさあっと赤くけぶるのをヴィクトリアは感じた。借りを返すべき存在はもう1人いる。カズキへの感情を義理チョコ
1つで虚無の申し子に喰わせられのは結局のところその『もう1人』との共同作業あらばこそだ。それぞれ大事な存在を
人間に戻したい一心でどちらからともなく手を組んだ。期間はヴィクトリアの長すぎる人生からすれば一瞬だが、心に焼き
つかせるには充分だった。利用しあって終わる筈だったのに、残影は、達成の喜びでさえ消せぬほど大きくなってしまった。
バレンタインを蔑視していたのにらしくもなくチョコレートパイを作ったのは、心を切なく締め続ける衝動にそろそろ耐えられ
なくなったからだ。

 彼との経緯は父に話している。ただそれは客観的事実に過ぎない。『誰と、どうした』。レポートに纏められそうなほど簡素
な事実だけ再会時に話したのがヴィクトリアだ。主観は、敢えて排した。彼がどういう人物かは一切触れなかった。言えば欠
点を語る時ですら好意的な笑みが浮かびそうで、そこから父に総て見抜かれそうで、だから100年がかりで醸成した冷笑
的な仮面で以って客観的事実のみを話した。

(だからパパが次に誰の名前を挙げるかなんて……分かってる)

 触れられたくない部分に触れてくるのが世界だ。少なくてもヴィクトリアが歩まざるを得なかったのは素晴らしくて祝福な
ヤツじゃなく灰と幻想に彩られたヤツだ。身内だからこそ容赦なく触れてくる場合もある。そもそも男親ほど娘の交友関係に
敏感で口やかましい存在もない。そういうのが分からないほど短く生きていない少女だから”彼”について一切感情交えず
父に伝えているのだが、無表情すぎるほど無表情に語ったからこそ勘繰られるケースもまたあるのは重々承知、試行どお
りにヴィクトリア、用意していた返答を用意する。

(いい。名前を言われるのは予想済みなのよ。落ち着いて対処するのよ。だいたい……義理なのよ。義理でうろたえるなん
て変じゃない。名前を言われておかしな反応したらパパに誤解されるでしょ)

 果たして父は、告げる。もう1人、その名を。

「パピヨンか」

 爆発的な熱量が顔面で膨れ上がった瞬間、少女のこざかしい思慮は怒涛の彼方へ流れ去った。己の現状に気付いた
ヴィクトリアが釈明より建て直しを優先したのは思考の流れとして当然であろう。赤面状態では予定の言葉をすらすら読
める気がしない。むしろドツボに嵌ってしまう。全力疾走の後のように激しく波打つ心臓の形を捧げるおかしな行事を彼女
は心から呪った。参画を決めたのは他ならぬ自分だが、世を拗ねる捩くれた精神構造だから行事の方が悪いと責任転嫁。

(な、なにを赤くなってるのよ……! だ、だいたい、私アイツと、普通に……あんなに普通に話していたじゃない……)

 カズキが月から帰参する少し前。津村斗貴子率いる戦士一同がヴィクトリアとパピヨンの拠点たるオバケ工場にいよいよ
迫りつつある時、少女は他愛もないやり取りを幾つも幾つも彼と交わした。その時は冷笑混じりだったではないか。

(あんなに……普通に……)

 なのに今は名前を言われただけで赤くなっている。
 葛藤の光がエメラルド色した双眸という名のグラスの中で旋転して揺らめいた。

 恐るべきはバレンタインの魔力であろう。カカオと砂糖で構成された物質を雑多なプラスチックや包装紙で彩って渡すだ
けの行為がまるで粘膜に連なる恥部をちょっと覗かせるような意味合いを持つのだから全く恐ろしい。きっと製菓会社の幹
部どもは恋愛幻想を操って儲ける山崎くんのような連中に違いない。

 一方父の方は、赤くなって俯き、太ももの前で紺色のミニスカートをモジモジといじる娘の姿にだいたい察した。察すると同
時に浮かんだのは白髪の友人だ。蝶のような立派な髭をたくわえた白衣の彼とパピヨンの関係は大体わかっている。銀成
学園の決戦。覚醒にむかってまどろむヴィクターの聴覚は友の最後の戦いを捉えていた。そのとき響いていた傲岸なる声
はヴィクターが破壊男爵と共に月から地球へ降り立った時も響いていた。カズキと最後の決戦を繰り広げる彼の姿はヴィ
クターだって見ていたのだ。高みへ執心する姿勢と毒々しい蝶の覆面を見て他人の空似と寝ぼけるのは彼は些か戦団
相手に暴れすぎていていた。

(もうそういう年頃。いや、100年以上生きているんだ。やっと、か)

 ヴィクターとて一児の父親である。娘への愛情は深い。でなければ彼女のホムンクルス化によって憤怒の権化になりは
しない。それ以上の傷をどこの馬の骨とも知らぬ男が与えるのなら父として相応の抗議はするつもりだし、ヴィクトリア自身
のためにならぬと判断したら交際に反対する。

 娘が選んだのはパピヨン。見た目だけ言うならこれほどダメな存在もないだろう。父親諸兄はアウトだよとダミ声で叫んで
いい。性格も最低だ。勝手極まりない。もしこんな代物が家に来て娘を寄越せといったら悪夢である。

 といったコトを踏まえた上でヴィクターは嘆息した。

(血は、争えないな)

 人間誰しも波長の合う存在は居る。波長を感受するのは遺伝子だ。だから家族ぐるみの付き合いは成立する。どうやら
蝶野家とパワード家は代々相性がいいらしい。それが今度は蝶野家の方が尽くされる立場になった……というコトらしい。

(彼の子孫なら大丈夫、か)

 バタフライも有していた高すぎる気位は難点だがしかし美点でもある。軽挙な火遊びを絶対にしない保証がある。認めも
しない存在に手を出すのは誇りが許さない。完璧主義だから有象無象では満足できないのだ。だからこそ、一度認めてし
まえば彼我の関係を唯一無二の存在にせんと恐ろしいまでの執念を発揮し……結果として尽くす形に帰順する。

(問題があるとすれば)

 パピヨンの心はカズキにしか向いていない。そこを何とかしない限りヴィクトリアの未来は玉砕しかないだろう。もっともそ
れは恋愛をやるとき必ず発生するリスクでしかない。袖にされるかされないかは自己責任という奴だ。父としては適当な
火遊びで傷つけられなければそれでいいし、前述通り蝶野家は認めもしない存在に手をつけぬと信頼している。1世紀ず
っと尽くしてくれた友人の子孫が黒い火焔のような執心振るってカズキと戦う姿を見たのだ、そこは信ずる。なればもう恋愛
は娘の自由、父として1世紀なにもしてやれなかったのなら、尚更ヴィクトリアの自由意志に委ねるべきだろう。

「再人間化……」
「ん?」

 やっと落ち着いたらしい。火照りきっていた頬を赤い残雪が残る程度にまで鎮静した少女が口を開いた。恐る恐るといった
調子だ。視線を左右に動かしながら用意していたらしき言い訳を薄紅色の唇から出力する。

「その、アイツとこの先……再人間化の研究をするかも知れないから、最低限の付き合いだけは保っていた方が、後々……
有利…………でしょ。だから、だから……」

 新米劇団員のような初々しいしどろもどろに父は頭をかいた。

(お前……歳暮も年賀状も送らなかっただろ)

 日本での100年の殆どを寝て過ごしたヴィクターがそういう国有の年末行事を知っているのは月で共に過ごす連中からチ
ラチラ聞いているからだ。どうせあの蝶人の好感度パラメータなど庶民的な贈答品程度では微増すらしないだろうが、それでも
『彼と事務的な交誼だけ結びたい』なるポーズを取りたいのであればヴィクトリアは形だけでも”やる”べきであった。なのに
それらを飛ばしチョコだけ作った。作っておきながら再人間化の付き合いの保持用の義理だという言い訳が通じると思って
いる。何とも間の抜けた行動だ。

(微笑ましいな)

 ある意味一直線なのだ。いろいろ子供らしい理屈を心の中で捏ねているのは分かったが、本質的には周囲の目とか父の
大人らしい洞察を分かっていない。『チョコを作り、渡す』。単純極まる一事だけがまだ幼児の丸さを残す小さな頭の中に充
満していていっぱいいっぱい。阻むものに対しては力押ししか考えられない状態、やっつけじみた口先三寸で撃退できると
思っている。

(だとしても、オレのように何もかも憎悪するよりはマシ……か)

 しかもヴィクトリアは困ったように

「ホムンクルスが嫌いな私がホムンクルスなアイツに物を贈るのは変だけど、再人間化のためだし、それにパパ、アイツは、
アイツはね……」

 違う、と言いたげだ。真の意味での脱・人間を成し遂げ食人衝動なき蝶人へ至った彼はホムンクルスではないまったく別の
存在だから、ヴィクトリアが嫌う意味がない……言葉にならない言葉でニュアンスだけを伝えるのは、明文化してしまうと本当
ただの惚気になってしまうのは当人も分かっているらしい。『好きになったあの人だけは違う、特別』などという、女性ならよく
ある贔屓目、悪く言えばダブルスタンダードをやらかしている点を指摘されたら終わりだと是認しつつも、自分は自分なりに
相手を見定めているコトだけは伝えたいという真摯さを青春期の動揺のなか懸命にやろうとしている。

 氷解。やっとヴィクトリアは普通の少女らしい人生に回帰しつつあるようだ。100年の地下壕で凍てついた心はどうやら
ヴィクターとの再会で春暖に向けて溶け始めているらしい。

 再会した当時こそ、長らく離れていた家族同士特有のぎこちなさで距離感を測りあっていた2人だが、今はごく普通の親子
に戻りつつあるのがヴィクターとヴィクトリア。父はちょっと娘可愛さでからかいたくなったが、ホムンクルス化の件を除いても
13歳という難しい年頃の彼女だ、迂闊につつけば可愛らしくも鋭い三白眼を更に三角にして憤激しかねない。怒られるだけ
なら不用意な発言をしたヴィクターの自業自得で済むが、ヘソ曲げたヴィクトリアが片意地張ってチョコレートパイを渡さぬ
と言い出したら可哀想だ。バレンタインデーは年に1度なのだ。些細な親娘の言い争いで逃してしまったらヴィクトリアはきっ
と落ち込む。ヴィクターは、避けたい。人外にならざるを得なかった状況を作ってしまった父ゆえ贖罪の意味を込めて。

「輸送するのか? バスターバロンで」
「……それしかないし、だいたい直接行くには遠すぎるでしょ」

 次の便がちょうど2日後、日本時間では2月11日早朝である。地球までの移動時間を考えるとちょうどいい塩梅だ。

(直接なんて…………恥ずかしいし)

 再人間化の協力がどうとかもっともらしいコトを言ったヴィクトリアだが、実際は父を人間に戻してくれた恩義の数万分の
1でも返せればいいと思っている。パピヨンの残したデバイスが無ければ白い核鉄が作れなかった。父もヴィクター化なる呪
いを解けなかった。

(借りさえ返せれば、いいのよ)

 男女の関係の発展については人ならざる身上だから半ば諦めている。相手も人外だが、”だからこそ”だ。怪物同士の
恋愛をおぞましがるのは人間の性だ。ヴィクターに良く似た死体の怪物だって花嫁を求めた挙句討伐されたではないか。
 もちろんそう言った理屈は気恥ずかしいコトを避けるための方便である。闇に蠢く者同士の恋愛がおおっぴらになるコト
はない。それを嗅ぎつけた人類が騒ぐ理由の大半だって結局は『増えられると恐ろしい』だ。だがホムンクルスは恋愛せず
とも増える。フラスコというガラスの子宮さえあれば幾らでも。だから人類の糾弾を理由に色恋を諦めるのは詭弁でしかない。
 少女の最近息を吹き返しつつあるやわこい部分のむずむずは踏み込みたいのに踏み込めないという13歳特有の右往
左往をやっている。
 借りを返す礼儀を達したいのであれば手渡しすべきだ。しかしよんどころない事情があるなら代理的手段もまた社会は認
める。ドラクエ20が発売されるくらいの未来の話になるが、どこぞの美人主任(チーフ)だって遠隔操作のロボで登校しているのだ。気恥ずかしいヴィクトリアが宅配に頼って何
が悪いという話である。

(でもそんな手間暇かけてまで送るなんて……変な風に思われたりは、感づかれたりは……)

 ガラでもない葛藤。ヴィクトリアはつくづくとそう思う。

(だって私、100年以上生きているのよ。なのに今さら恋とか……ないじゃない。笑われるに……決まってる)

 人間だったら老齢もいいところだ。それが女子高生のように浮ついた感情に動かされるなどいい物笑いの種ではないか。
むしろヴィクトリアは笑う側だった。すっぱいブドウを奪い合う連中を安全圏から笑い、軽蔑していた。それをやらない、或い
はやれない自分が一段階高尚な存在であると思い込むコトで劣等感や寂しさを辛うじて紛らわしていたのだ。なのに今さら
グレープ色の房の下で手を挙げてぴょんぴょん飛ぶなど理性と誇りが許さない。敗者という笑われる立場になるのは耐え
られないし、軽侮を抱いたなら抱いたなりに”そう”ならないよう貫くべきだ。この点ヴィクトリアは頑固である。ホムンクルス
が嫌いだから人食いはせず(主食は母の細胞謹製ミートパイ)、戦士が嫌いだからホムンクルスを殺さない。望まぬまま
怪物にされたからこそ正しくあらんと務めて事実実際やりぬいた。

(なのに今さら色恋沙汰とか……)

 本命チョコを渡したい相手はそういう機微を黒く嘲笑うタイプだし、そもそも人間時代の花房との醜聞ですっかり女性不信
らしいというウワサを聞けばあっと察するのが筋であろう。つまり守備範囲外の少女──実年齢はともかく心身は少女──
が熱を上げれば上げるほど相手が冷めるのは分かりすぎるほど分かっている。
 なのに敢えて乗り出すほどヴィクトリアは馬鹿ではない。
 母のため白い核鉄のため戦士に捕捉されぬ安全な生き方をずっとずっと選んできた自衛的な臆病な機知は恋愛にだって
作用するのだ。
 足音を殺して歩くのがカッコいいと思う時期は誰にだってある。
”はしか”のようなものだ。挙措やら感情やらを響かせえぬ怯惰抱く自分を闇と静寂の傍観者に置き換え陶酔するのだ。ヴ
ィクトリアもそれだ。したコトもない恋愛を見聞だけで築き上げた経験則で予測し判断し、戦わずして撤退する判断力を讃え
てやまぬ部分はある。
 もしその一要素のみを蒸留し純化できるのであればヴィクトリアは元帥の類として立派な得難い才覚を得られるだろう。だ
が惜しむらくはヴィクトリアは一兵たりと預からぬ少女に過ぎぬ。しかも撤退すべきと思いながらも恩義だの交誼だのを言い
訳に未練がましく結局は贈ろうとしているのだ、チョコを。感情の最後の一線をスパっと断ち切れないあたりヴィクトリアに元
帥の才はない。もしムーンフェイスと組んで大反乱を首謀していたら彼女の未来はチョコどころではない暗黒に没していたで
あろう。カカオ98%のブラックチョコレートのような、未来に!!

 とにかくチョコレートパイを手渡しなどヴィクトリアには耐えられない。

 白い包装紙とピンクのリボンに包まれた箱を両手持ちし赤面全開の気まずそうな表情で差し出す……そんなテンプレ全開
な状態で──そんな感じの漫画は女学院時代付き合いでちょくちょく読まされた──テンプレな表情でパピヨンにチョコを
差し出す自分など想像するだけでベッドを左右にゴロゴロ転げたくなるほど悶絶モノだ。

(なんでそんなカオしなくちゃいけないのよ……。ただチョコレートパイを渡すだけ……なのに……)

 だからバスターバロンの宅急便♪による運送を選んだ。戦団にはヴィクトリアを無理やりホムンクルスにした負い目があ
るから、言いさえすれば地球帰還など容易くできる。できるのに直接の手渡しより贈りつける方を選んだのだ。

 ヴィクターは何か考えていたが、ふと窓を見た彼は無表情のまま電球マークを瞳の傍に灯した。やがてヴィクトリアが銀
成市で色々しょうもない目に遭うのは父がこのとき催した瞬発的な企てのせいである。

「ところでオレは次の便で地球に帰ろうと思っている。友人の墓参りだ。お前はどうする」
「どうするって」

 特に地球に用はない。実際にはチョコを手渡したい心境もあるにはあるが、現状維持だけ考えるなら行かない方が遥かに
安全だ。

 ただ、ヴィクターが窓の外をチラっと見てから言ったのが気になったのでヴィクトリアはそちらを振り返る。花房が何やら
メモを取っていた。外は真空なのにさすがはホムンクルスというべきか。どうやらヴィクターの地球行きをメモっているらし
い。花房。月で何かと父に色目を使う油断ならない女。彼女を見る時ただでさえ剣呑な美少女の目つきは一層険しくなる。
このいかにも情婦な女は帰省に使うバスターバロンにこっそり紛れこむぐらいするだろう。ヴィクトリアがいなければ、例え
父の出立直前アンダーグラウンドの地下彼方深くへ幽閉されていたとしてもさかりのついたオス犬(女性だがヴィクトリアの
侮蔑はメス犬という比喩すら拒んだ。それほど花房の情動は浅ましく激しい)オス犬のような勢いで脱出しヴィクターに随伴
するだろう。されば既成事実、なし崩し的に作られかねない。父母の絆を人間同士のつながりの唯一の規範とする少女に
とって情欲任せの再婚は潔癖に反す許しがたき行為だ。何より胸がデカいのが気に入らない。削げとか禁止とか思ってい
る。

「行くわよ地球。行けばいいんでしょ、行けば……」

 ヴィクトリアは目元を赤く染めたまま軽く俯く。

(地球行くからって別に直接渡す必要は……そうよ、宅急便とかだって、まだ……)

 翠色の透き通った瞳はいま分水嶺。渡さないか、渡すか。贈りつけるに留まれば良くも悪くも現状は留められる。だがなけ
なしの勇気を振り絞って直接渡せば100年の鬱屈が良い方向に弾けて消えると期待してもいる。なのに失敗は怖れている。
懸命な姿を笑われて傷つくのはまだいい。傷は辛いがある程度は慣れている。一番怖いのは、笑われたコトで好意が一転、
嫌悪となり憎悪になるコトだ。やっと見つけた蝶人という可能性にすら唾棄したらもうヴィクトリアは父以外の誰にも心を開け
なくなる気がして怖いのだ。

「ところでこのパイの味、大丈夫だと思う」

 真・味見するもの、降臨! 娘の肩越しに彼女謹製の菓子を摘んだヴィクターはむぐむぐ咀嚼。

「つまみ食いしないでよ!!」

 試食用とはいえ無言で摘まれると心を見透かされているようで耐えられない。ヴィクトリア、今度は怒りの朱で怒鳴った。



 そんなこんなで2月11日午後。
 月から帰省したヴィクトリアがオバケ工場で見たのは発熱で苦しむパピヨンであった。
 帰省の次はインフルエンザ。立て続けに出逢った冬固有の行事にヴィクトリアは額を押さえる。

「なんでホムンクルスが人間の病気に罹るのよ……」

 担ぎこんだ聖サンジェルマン病院の大部屋で点滴中の蝶人を見ながら少女は溜息をついた。医師の話によるとどうも
パピヨンだけが特別らしい。ホムンクルスを錬金術以外の力で殺すのは不可能。しかしある程度までは壊せる。それはア
ニメ最終回のホムンクルス月面大集合に唯一いなかったコトで有名な巳田先生がカズキの鉄パイプで顔面ボロボロにされ
ていたコトを見れば確定的に明らかである。
 故にホムンクルスは錬金術以外の力で壊されても直る。修復速度が破壊を上回る。
 以上の事例は細菌感染にも当てはまる。ホムンクルスはインフルエンザという【錬金術以外の力】に罹患しても、ウィルス
が悪さを働く前に殲滅して快癒する、それが原則。
 ただ周知のとおりパピヨンは、病気を抱えたまま人間になった存在、その免疫力は著しく低いまま。それでもカゼ程度なら
ホムンクルス特有の修復速度で瞬く間に直るが、感染力増殖力とも最悪の部類を誇るインフルエンザウィルス相手となる
と死にこそしないが結構な重篤状態に陥ってしまうようである。

 といった錬金術的な理屈によってパピヨンはインフルになった。別にゾロアスター最強の悪神が何かした訳ではない。

 点滴が終わると自宅療養でも大丈夫とメガネのナースが太鼓判を押してくれたのでパピヨンのアジトへ向かう。

(なんでこんな時に限って病気になるのよ……)

 肩貸して運ぶ途中ヴィクトリアは不機嫌そうなカオをした。
 このとき2月11日。期日まではあと3日である。長引けば、どうなるか。

(食べて貰えない)

 一生懸命作った初めてのチョコレートパイを、である。自分の一生懸命を受け入れられないと怒るのは生真面目な少女
によくある出来事だ。”なぜこのタイミング、他の日だってあるでしょ”という運命の行き違い、普段は平々凡々なのに何ら
かの一大事に焦って急いでいる時に限って立て続けに厄介ごとが雪崩れ込みややこしくなる日常の形質にヴィクトリアは
つくづくと腹を立てたが、それ以上に機嫌を損ねたのは、病気の者相手に己の都合を押し付けんとしている自分に気付い
たからである。(これじゃ私をホムンクルスにした戦団の連中と同じじゃない……)。

 拾ったタクシーの中で街並みが後ろへ向かって溶けていく。

「……」

 高熱に喘ぐ彼を見る。つい看病したくなるのは母を介護したが故だ。首から下が動かなくなった母を甲斐甲斐しく世話する
のが当たり前だと信じて──1つにはそういう根本的な人間機微を遵守するコトでしか忌み嫌う怪物たちとの違いを証明で
きなかったから──弱った者を労わるのが当然と考える部分が生まれた。

(看病したいけど)

 実は困ったコトが1つ生まれている。チョコレートパイだ。結論からいうと宅配便による送付をヴィクトリアは選んだ。届け
先はいま向かっているパピヨンのアジトだ。期日指定により到着は2月14日の午前中。

(予定じゃ手続きしてすぐ月に戻る筈だったのに……)

 ヴィクトリアには誰の物かわからない墓の前で静かに佇む父に気を使い、単身銀成の街を散策するうち自然と足が向いた
思い出深いオバケ工場で病気に苦しむパピヨンを見つけた。

 看護の必要が、できた。

 だが看病が長引けばヴィクトリアは2月14日以降までの逗留を余儀なくされる。余儀なくされれば当日の午前中チョコレ
ートパイが届いてしまう。その小包をパピヨンが開ける現場に居合わせてみよ、ヴィクトリアは結局手渡しを選んだのと何ら
変わらなくなるではないか。面映いわ。本当に面映いわ。使い方はやや違うかもしれないが、いたたまれなくなるのは確か。

(じゃあ看病せず帰る……?)

 ありえない。病気の彼をちょっと病院に連れてたっきり後はアジトに放置などという対応をしてみよ。ヴィクトリアは恨まれる。
14日に届くチョコレートパイは確実に八つ当たりで捨てられるだろう。少女は赤の他人のため生まれて初めて一生懸命
お菓子を作ったのだ。なのにそれが食べられるコトなく捨てられるのは……ひたすらに悲しい。想像するだけで双眸が潤む。
世の中には残酷な仕打ちが幾らでも転がっているのをヴィクトリアは知っている。ただ普通に暮らしていただけなのに、父
の変転した運命が巡り巡って自分を人外へ変え恐ろしい怪物の群れの中へ放り込む不条理を体感したから、『見捨てたら
初めてのチョコが捨てられる』という構図は簡単に想像できた。

(一番いいのは)

 看病をし、13日までに平癒させる、だ。さればヴィクトリアはチョコレートパイの宅配前に後腐れなく帰れる。治すのだか
ら恨みは絶対に買わない。

(けど13日といったら明後日よ? たった2日でインフルエンザを治す……?)

 これまた限りなく難しい条件だ。核鉄の治癒力を使えば或いはだが、不老不死とはいえ無断で寿命を削るような行為は
不興を買うだろう。早坂桜花のエンゼル御前の鏑矢で引き受けられるのはあくまで負傷と疲労のみである。負傷の定義が
病魔による体細胞損傷にまで及ぶと期待するのは些か牽強付会が過ぎるし、単純な肉体疲労を和らげたところでウィル
スの活動自体は収まらない。結局点滴程度の効果しか見込めぬし、そもそも桜花とは交友がないどころか秋の一件では
斗貴子や剛太ともども敵対関係にあったから頼める好(よしみ)もない。

 独りが長かった存在はたいてい自負に足る問題解決能力と達成までやりおおす持久力を有するものだ。反面、桜花に
頼れぬヴィクトリアのように、他者との協同がまったく言い出せない弱点も有する。それは時々おそろしく要領の悪い姿を
も形成する。

 このケースにおける最適解の1つは『13日まで看護するがそれから先はどうしても月に戻る他ない旨を予め告げ、その
上で後任をカズキまたは桜花といったパピヨンが比較的とっつきやすい連中に任せる』であろう。聖サンジェルマン病院で
点滴が終わった時点で無理やりにでも入院させる方法もあった。チョコレートパイの宅配を取りやめ一旦手元に取り戻す
……というのも手段であろう。核鉄治療とて本人の了解を得た上でならアリだ。

 なのに偏狭な少女は「14日に必ずチョコレートパイを渡す」とか「パピヨンの世話は自分だけしかできない」とかいった
先入観やらちょっぴりの独占欲やらに囚われ自分で自分の選択肢を狭めている。

(明日までにインフルエンザ……治せるの?)

 という本人の深刻な不安は傍目から見れば滑稽なものでしかない。子どもらしさが蘇ってきたとも言えるが。

(そもそも私だけの都合じゃない。明日までに治って欲しいって……)

 押し付ける自分にイライラしたのはついさっき。ならどうするか考えていると



「余計なコトを……!」



 パピヨンが目を覚ました。第一声はだいたい予想通りだった。ベッドの上で目覚めた彼は熱にうかされているのが信じら
れないぐらい早く現状を把握するや双眸を濁らせすぐさまヴィクトリアに抗議した。ベッドの横に当たり前のように置いた
イスに腰掛けるヴィクトリアへ。まったく彼ときたら助けられたというのに上から目線のてんこもりである。

「そうね。余計なお世話。アナタが感染したのは非錬金術製のインフルエンザウィルス。予ねてより抱えている免疫力低下に
よって苦しみこそすれ死ぬコトは決してない」

 病状報告も兼ね、務めて以前のように会話する。本当は顔を見るだけで迫り来るチョコレートパイが脳裏を過ぎり赤面
しそうになるが、いちいちそうしていては看病どころではなくなるので耐える。

 パピヨンの頭は熱の中でも回るらしい。人間時代、重病の中たった1人でホムンクルス幼体の製造作業をやらざるを得
なかった事情が高熱下での理性制御の訓練になったらしい。

「だいたい貴様がどうして地球(ココ)にいる。何のために月から戻ってきた」

 いきなり核心を突かれたヴィクトリアはちょっと背中に冷たいものを感じたが、しかし予想の範囲内、予定通り答える。

「パパの付き添いよ。友人の墓参りをするからついて来ただけ。じゃないとアナタの作った植物型が勝手に同伴しそうだから」
「ならヒイヒイクソジジイの墓参りが終わるなりさっさと帰れ。大方手持ち無沙汰でうろついている所で俺に出くわしたんだろ
うが、こっちは貴様のヒマ潰しに付き合うつもりはないんでね」

 あ、帰っていい言質取れたとヴィクトリアは冷笑家らしいドライな理解をしたが、だがどうにも置いて帰るのは忍びない。
つまるところ、病気のパピヨンを1人で苦しませたくないのは、自分がそうされるのが怖いからに他ならないのだ。投影と
いうべきか。或いは友人らしい友人がいないから、同じく孤独なパピヨンの危機に寄り添うコトで必要とされたい……など
という寂しげな欲求が首をもたげているのかも知れない。

 そういう押し付けがましい心が奥底にあるかも知れないと思いつつも、病に伏せるパピヨンを見るとついつい世話したく
なってしまうのがヴィクトリアだ。極論すれば母性本能かも知れない。19にもなってまだ思春期を引きずっている難儀な
年下だからこそ可愛くて面倒が見たくなる。

(明日までに治らなくてもいいわよもう。私の都合だけで治れ治れと急かすなんて……)

 チョコレートパイが届けばヴィクトリアは嘲弄されるだろうが、それもいいと考える。(どうせいいコトなんてなかった人生だ
もの。今さら恥の1つや2つ増えたっていいじゃない)。寧ろそういう目先の恥を避けるため利己的に慌てふためく方がパピ
ヨンは笑うだろう。

(…………。一緒に居られる、だけでも…………)

 鼓動はときめく。ちょっと綻んだ頬が薄く色づく。
 あれほど逢うのが恥ずかしかったのに、いざ逢ってしまうと同じ場所に居られるコトそのものが幸福になってしまう。長丁場
になるかも知れない看病さえ苦にならなくなるから少女の心は複雑である。

 腹を決めた。決めると心は軽やかになった。呼びかける。

「アナタが看病されるの嫌いって知ってるわよ。保護されるようで気に入らないんでしょ?」
「……分かっているならとっとと帰れ」
 布団を顎の辺りまで被ったままのパピヨンは体を右に向けた。椅子に腰掛けるヴィクトリアに背を向ける格好だ。起き上
がってニアデスハピネスの羽で飛び立たないのはそれができないほど消耗しているせいだろう。何しろ体力が低い。パピ
ヨンパークでウシに数発殴られるだけでゲームオーバーなぐらい体力一番ゴミである。
 彼の人となりは白い核鉄の精製で手を組んだとき概ね把握しているヴィクトリアだ。彼は自分が上に置かれないと納得し
ない性分だ。ゆえにその辺りをくすぐるような物言いを選ぶ。少女がしたいのは支配ではない、看護だ。パピヨンへの様々な
想いを手助けという形で昇華したいだけだ。意地を押し付けたばかりにケンカとなり、拒否され、チョコレートパイが捨てられ
たらヴィクトリアは耐えられない。だがそれ以上に胸を締め付ける想像は、やっぱり病で苦しむパピヨンだ。つまらぬ意地
で看護を拒んだばかりに闇の中で何日も何日も余計に苦しむ姿を想像すると我が事のようにささやかな胸の奥が苦しく
なる。
「なら……私を利用すればいいじゃない。雑務を押し付けて浮いた時間を睡眠に当てればそのぶん早く治るでしょ?」
「……?」
 妙な言葉への疑問が刺々しい雰囲気を緩める。立ち上がったヴィクトリアはベッドの縁に手を置いた。3枚重ねの掛け布団
がマットレスごと沈んだ。
「私はパパを元に戻す白い核鉄を得るためアナタの作ったデバイスを利用した。でもまだその対価は支払っていないじゃない。
そして私は周知の通り錬金術の総てが嫌い。アナタといえど貸し借りは作りたくないの」
「だから雑役で返す、か。俺も安く見られた物だな」
「こんな人目につかない場所で長々とうずくまってるよりはマシでしょ?」
 ベッドに両肘をついたヴィクトリア、意地悪く笑いながらパピヨンを覗き込むよう呼びかける。何よりも衆人環視を求めて
やまない彼への上記が如き物言いは、ともすれば病も構わず街へ繰り出させるかも知れないが、そこは賭けだ。
(蝶のような美しさに拘るアナタが病で憔悴しきった情けない姿を群集に見せる……? すればどうなるかぐらい分かる
わよね。一刻も早く快癒していつもの姿を取り戻す方が遥かに得策)
 言外を察したのか、伏臥していたパピヨンは最初の仰向けに戻りつつ返答。

「この俺に借りを返す以上、完治するまでしっかり俺のために働け。手抜きは許さん」
「分かってるわ。じゃあ、まずは最初に」
 無造作に顔をパピヨンマスクに近づけたヴィクトリアは前髪をかき上げると額をパピヨンのそこへ当てた。

 体温が染み透るまで少しの”間”があった。少女は単なる伝導完了までの物理的な時間として受け取った。青年の精神世界
に己の挙動が如何なる影響を与えたかなどこれっぽっちも考えなかった。2人が重なったのは僅かな時間だった。重なるという
言葉の意味を解するには少女はまだ幼すぎた。

 やがてヴィクトリアは面を上げた。かき上げていた前髪が原状回復のため揺れた瞬間ケラチンに付着していたチョコレー
トパイの香りが空気へ放たれパピヨンの鼻梁を刺激した。

 そうとも知らずヴィクトリアは額の熱を検分すると冷笑交じりに呼びかけた。

「熱は……ちょっと下がってるようね」
「オイ」

 低い、とても不愉快そうな声がしたが、彼女は病人ゆえのよくある声音だと思い気にも留めなかった。

「でも病院で投与された解熱剤のせいだと思うから、早く治りたかったら無理はしないコトね」
「俺が言っているのはそういうコトじゃない」
「え?」
「何だ今の測り方は」

 はかりかた……恐ろしくあどけない調子で反芻したヴィクトリアは先ほどの己が行為を反芻するや耳から蒸気を吹いて
俯いた。

(しまった……!! おでこ、おでこで熱を…………! ママ、ママにしていた時の調子で、つい…………!!)

 異性にするにはあまりに距離が近すぎる行為である。実をいうと看病で熱を測るなどずいぶん久しぶりなのだ。だから
つい過去の慣習でやってしまった。

(恥ずかしい……)

 ヴィクトリアにパルス走る。

 真赤に潤んだ瞳を切なげに細める。これで顔を上げたときパピヨンまでもが照れていたら甘酸っぱさに耐えられなくなる
……と思う少女の耳を極めて現実的な声が叩いた。

「熱を測るならちゃんと体温計を使え。体温の低い貴様では正確に計測できるかどうか分からん」

 覆面(マスク)の奥で黒々と目を細め怒りを露にするパピヨン。向こうが同じ反応だったら耐えられないとつい今しがた思っ
た筈の少女はしかし、パピヨンが自分ほど揺らいでいない現実にムッと目を尖らせた。

「悪かったわね。久しぶりだからついうっかりしただけよ。次からは気をつけるわよ」

 必要なら記録すらつけてもいい。という申し出は看護者としての純粋な履行義務でしたつもりだが、若干トゲのある言い方
になってしまった。普段ならパピヨンは反論の1つでも打つところだが、しかし極度の体調不良ゆえか打つのはプイとした寝
返りのみで、背中を見せると「勝手にしろ」とだけ短く告げた。

「…………」

 羞恥に充血する半眼したヴィクトリアは恨めしげに唇結び背中丸めて彼を睨んだ。もう少し若くそして人間の身であれば
うーうー唸っていたかも知れない。


「とにかく。病院で処方して貰った薬は枕元のキャスターに置いてあるから、袋に書いてある通り服用しなさいよ。飲み物も
一応置いたから。水分補給もサボらないコト。いいわね。アナタただでさえ体力ないんだから」

 2リットルのスポーツドリンクを3本と幾重にも重なった紙コップを見ながら言う。更に洗面器やバケツの存在も示唆し、気
持ち悪くなったら使うよう静かに諭す。いずれも売店で購入したものだ。少女はゴタゴタした荷物片手にパピヨンをアジトまで
運んだのだ。

「舐めるな。その程度気付けん俺じゃない」

 うるさそうに手を振るパピヨンの声音はやはりちょっと弱々しい。それでも先ほど辺りを見回した時すでに看護体制を確認して
いた眼力にヴィクトリアはちょっと舌を巻いた。

 口を開きかけてからちょっと黙って佇む。さらに何か入用な品がないか聞こうと思ったが、熱ゆえにうるさがっている青年
を詮索するのは不興のタネだ。(コイツ頭だけはいいから、一般的な看護用品とは違う特殊な品が必要ならとっくに調達す
るよう言ってるし)。そういう主体性を重んじ、上に置いてやらなければ、仮にヴィクトリアが代議士秘書の如く需要に合致す
る問いかけをやったとしても却って不機嫌になるのがパピヨである。『今言おうと思っていたのに』。些細な先取りにすら
面目を潰されたと過剰反応する難物なのだ。体力一番ゴミだから”お前に言われると何か違うわ”ともヘソ曲げるしょうもない
部分をヴィクトリアは重々承知しているから、だから敢えて黙りパピヨンが要望を口に出せるだけの”間”を作った。返答は、
ない。寝ているのかと思ったが、やや苛立たしげな吐息が一瞬したのを見るにどうやら意識はあるらしい。

(睡眠優先ね。他の看護用品はアジトにある、と)

 ひとまず体温計を取るため部屋を出るヴィクトリア。気遣いはできるが、さればこそ相手のつれなさ、取れ高の少なさに
苛立ちが湧いてくる。世の女性はときどき言葉ではなく態度で己の怒りを示す。ヴィクトリアもその文法でドアを乱暴に閉めて
やろうかと思ったが、寝に入るかも知れない病人を不毛な怒りの雑音で起こすのは気が引けた。

 それほど気遣っているのに、パピヨンときたら礼の1つも言わなかった。照れて言えないだけなら可愛げもあるが、それ
すらない。少なくてもヴィクトリアにはとてもそうは思えなかった。

(何よ。私だけが空回りしてるじゃない……)

 おでこで脈は感じたがしかし脈はなさそうだ。別に篭絡目当てでやった行為ではなく純粋なハプニングだが、だからこそ、
向こうが一切動じていない現状は不愉快だ。

(私はチョコレートパイのコトでたくさん悩んでるのに、あっちは、全然)

 ヴィクトリアはパピヨンに憧れている。困難を自力で打開する姿は、地下で100年ずっと母の補助に甘んじてきた少女に
とって眩く映るのだ。(私は自分で考えたり、自分で何かを始めたりしなかったから)。母と死別し父に再会するまで1世紀
かかった。もし毛嫌いするコトなく錬金術と向き合えば、母が老衰するよりも早く父を取り戻せたかも知れないのだ。

 パピヨンはヴィクトリアにとっての”たられば”を現実のものとした。
 何百人という人材を要する錬金戦団が100年かかって克服できなかったヴィクター化すら消失させた。
 もちろんそれができた理由の1つはアレキサンドリアの研究あらばこそだ。だがそれを”引き継いだ”のは結局ヴィクトリ
アではなくパピヨンなのだ。ヴィクトリアが100年かかってなれなかった継承者にパピヨンはたった数ヶ月で到達した。

(私が勝手に決めていた錬金術の限界を彼は壊した)

 蝶人。ホムンクルスには成し得なかった脱・人間を成し遂げた彼を見るとき、ヴィクトリアは錬金術の新たな可能性を感じ
るのだ。希望の象徴と言ってもいい。彼のようになりたいから、ヴィクトリアは月に渡って以降少しずつだが嫌いな錬金術
と向き合おうとしている。母の指示に従うだけだった女学院とは違い、自らの意志で。本当の、意味で。

 話してすらいない陰の努力を褒めろまでは言わない。
 ただ、憧れている存在が、若い異性間でのみハプニングたりうる肉体的接触をしてなお自分を一顧だにしなかった事実
は肺に石を詰められたかの如く心身を重くする。

 向こうは、関心が、ない。

 憤懣が引いた干潟で寂しさの泥濘が凍る気分だ。普通の若者は若芽のようなナイーブな部分に傷を受けるたび良くも
悪くも慣れていく。痛みが来るのは当然と割り切って覚悟したり、心の組成をしなやかな茎からざらざら固い木肌へ変質さ
せたり、柳のように受け流しヤンワリ返す技を体得したり。ヴィクトリアは帰還兵だ。衝撃の飛んでくる爆心地ずっと逃げ続
けていたがこのたび戦場に舞い戻った。ゼロからのリスタート。若芽を言うならほぼ寸断の痛みを感じている。

 だのに痛みを与えている筈のパピヨンの、異性たるヴィクトリアにまったく動じていない姿が彼らしいとも思ってしまう。
 立腹を抑えきれないのに、断絶だけは選びたくないと思ってしまう。

 そもそも、である。少女は己に問うてみる。

 額の接触でポッと頬を赤らめバッと布団を被るようなパピヨンを見たいか……? と。

(そんなの見たくない。それはそれで腹が立つわ)

 ギッと珍しくギャグチックな半眼になるヴィクトリア。頭の、漫画家がベレー帽を被る辺りに至ってはGペン謹製の怒りの十
字路が発現した。それだけ神経を逆撫でする姿なのだ、乙女パピヨン。

 寧ろストイックな反応を示してこそ彼ではないか。少女はうんうん頷いた。つれない態度を怒っていた筈なのに、気付けば
それが相手の美点であるよう解釈している。ネコ好きが、ガン無視で通り過ぎると分かりきっている筈のボス猫を見かける
たび性懲りもなくチチチと呼びかけるような調子である。ちくわやチーズを置いて離れて、それをもそもそ食べているボス猫
を電柱の影から遠巻きに見るだけで満足するような微妙な距離感がヴィクトリアには程よいのだ。

(だいたいアイツが私を褒めたコトなんて一度もないじゃない。いつもあんな風。白い核鉄の精製完了直前とか)

 年上ぶってドヤ顔で付き纏うヴィクトリアとそれを煙たがるパピヨン。

(でも……黒色火薬で追い立てたりはしなかったし…………)

 心底嫌われていないと確信しうっすら頬を染める根拠はそこだ。ただ猜疑心のカタマリな少女だから『あの時は研究に必
要だったから追放しなかっただけじゃない?』とも思った。『でもついさっきだって特に何も』とも。『馬鹿ね、体調不良が原因
だったらどうするの。本当は追い払いたかったけどニアデスハピネス発動する体力がなくて諦めただけ……とかなら後で痛
い目見るの自分なのよ、分かってる?』などとも思考を巡らせた。”私は人間(ヒト)じゃなかったんだ”的な危険性を、隠され
た真実が後になって心を貫く世界の無情さを知っているにも関わらず嫌われていないと無条件に信じ浮かれるのは、つまり
それが初恋だからだ。

(……うん。私、アイツのコト……)

 色白の頬に切なげな血潮をのぼらせ、きゅうっと胸をいだく。トクトクとした鼓動が脳に響いた。

 決して言葉にはできないからこそ、思い切って内心素直になる。それも初めてだった。ずっと認めるのが怖かった真意を
認めてしまうと、苦難に殺されていた筈の瑞々しい感情が鮮やかに蘇ってくる。幼き頃のヴィクトリアは純朴で素直だった。
黒い核鉄さえなければきっと市井の少女のような普通さで恋に敏感に揺れていただろう。今はそれだ。しっぽの付け根をム
ズムズされた子猫のように、こそばゆい脳刺激をどうすればいいかちょっと分からなくなってしまったから、いっそとばかり
身を委ねた。素直になった。素直になると抑圧されていた様々が楽になった。引き換えに、成就しなかった場合の恐怖を
抱え込みもしたが、まだ赤の他人を好きになれる自分を発見した喜びは春先のような雪融けの風を心に吹かす。

(ガラじゃないのに……。恥ずかしいのに……)

 喜び叫んで走り出したい若年な衝動が湧いてくる。壁をぽかぽかしたり、らしくもなく両目を対立する不等号に細め口を波
打たせる戯画的な表情をしたくなったりするが、その辺りの自我崩壊ともいえる暴走は100年生きた自負と自重が辛うじ
て押し留める。

(いい年してそんなのは恥ずかし過ぎるわ。冗談じゃない)

 キリっといつもの冷然たる面持ちに戻すが、気を抜くと頬が僅かだがふやーっと緩む。もっとも目つきだけは鋭さを保持して
いるから、口の細いワニが獲物を見つけた時のような『攻撃的な笑い』になっている。手鏡を見たヴィクトリアは「これでこそ
私」と思いながらも、想像ほど可愛くない表情に軽くショックも覚えた。ヴィクトリアは演技と寒冷以外の笑いに慣れていない。
例えば父が何か褒めてくれた時だって、嬉しさをストレートに示すとぐにゃぐにゃした変な笑いになりそうで、だからちょっと頬
を染めた状態でツンと答えるのが精一杯だ。だからキリっとした表情を要求すると照れ笑いすら獰猛なワニになる。

「うーーーーーーーーー!」

 と手鏡見るヴィクトリアは心底唸りたくなった。こんな表情では歓心を得られないというガッカリ感に暴れたくなった。ニキビ
や吹き出物にむかむかする少女のテンションだった。(ああもう何なのよさっきから。私らしくないじゃないそんな感情)。肩肘
張って作ってきたペルソナはどうやら恋によって割れつつようだ。仮面の下の幼き頃が這い上がってきているようだ。仮面。
向こうもそれを付けている。ややもすると共通項ゆえ惹かれているのかも知れない。

(とにかくおでこはもう当てたりしないわ)

 あなぐらぐらし(ゾンビの代わりに脳が居たホラー)の長さゆえ自らの美貌に無自覚なヴィクトリアだ。欧米人特有のミル
クを流し込んだような柔肌やスラリとした鼻梁、冷めきっているが故に宝玉のような静かな輝きを帯びる碧眼、それに無数
の新品の金色の針を束ねたような光沢ある髪といった要素は、もし活動拠点たる女学院が共学であったなら、きっと何十
人もの男子生徒からウンザリするほど数多い告白を引き出したであろう。
 そんな自分が額を当てる体温計測法を彼女はただ『アナログだからパピヨンが嫌がる』程度にしか思わなかった。例えば
これが早坂桜花であれば自信に裏打ちされた邪推を以って『照れたからこそ敢えてぶっきらぼうにあしらった』と願望し、
正解か否かをからかい混じりに検証していく所だが、白い核鉄精製の件で恩義と憧憬感じたがゆえ貢献第一のヴィクトリ
アはパピヨンの態度を目に見えた通りの物と解釈し、ただ純粋に背反せぬよう決意した。

 衰弱しているのだ、彼は。いつものような『好意があるからこそ嫌がらせチックに絡む』というのはしたくない。

 果たしてパピヨンは額と額の触れあいに全く何も感じなかったのか。本人のみぞ知るところだが、確かなコトは1つある。
 彼の文言を反芻したヴィクトリア、突然面頬から蒸気を飛ばす。

(『体温の低い貴様では』って……。私のおでこをアイツが感じ、感じて…………)

 受け入れよと言われても受け入れられぬ事実。加速する鼓動、押さえ込む衝動。

 ヴィクターとの再会からこっち青春期は少しずつ蘇りつつあるのだ。



 30分尾。

「結局いろいろ買う破目になったし……!」

 手近なドラッグストアで看護に使えそうな物品を色々購入して外に出る。背後で自動ドアが小気味いい駆動音で閉じた。

「体温計ぐらいちゃんと管理しなさいよまったく」

 アジトであちこちの机の引き出しをさんざ開けまくった挙句ようやく見つけたレトロな水銀式は何があったのか半ばから
折れていた。他にも水枕などの看護に必要な物資が悉く払底していた。そのためヴィクトリアは買い出しを余儀なくされた。

(そもそも何で自腹切らなきゃ行けないのよ)

 一応日本円の持ち合わせはある。でなければチョコレートパイの宅配など頼まない。ヴィクトリアとしては日帰りのつもり
だったが、戦団を猜疑に歪んだ昏い瞳でせせら笑う性分は、月への運行便たるバスターバロンが不慮の事故または事件で
使えなくなった場合を想定し、浪費しなければホテルで2週間は逗留できるぐらいの資金を持ち出させた。(もともと戦団か
ら強制ホムンクルス化に対する損害賠償をたんまり貰っているのだ)。
 だから看護費用を出すのは問題ない。問題ないが、渋面を作るヴィクトリアだ。ここで「尽くせて嬉しい」と笑うと何だか
パピヨンに負けたような気分になってしまうから、わざと苛立たしげなカオをする。

(でも今はいろいろあるのね)

 冷却シートやデジタル式の体温計といった物品の数々は知らなかった訳ではない。地下に100年居たとはいえときどきは
女学院に生徒として紛れ込んでいたのだ。風聞のみなら伝わっていた。いたが唯一の家族たる母が脳だけになって久しい
身上、使う機会はまったくなかった。だから購入は初めてで、ちょっとした伝説の品を手にしたような気分である。

 冷却シートなる代物を店内で発見した時は心底瞠目した。瞠目しつつも激しい好奇とわくわくが湧いてきて、箱の裏の効用
だとか使い方だとかを何度も何度も読み直した。(凄いわねコレ。凄い)、厭世的だった故に現代文明との接触が極端に少な
いヴィクトリアは何度も何度も感心した。(洗面器の中でタオルを絞らなくても頭を冷やせるなんて。錬金術なしでここまで凄い
物を作れるなんてやるじゃない人間)、うんうんと意味もなく頷いた。こんな凄いものを買ってやったらあの生意気なパピヨン
もきっと驚くに違いないとすら思った。

(凄いといえば体温計もよ)

 デジタルである。驚くほど短い時間で体温を示すのである。初めて手にしたときはあまりの眩さに眉の上へ掲げ仰ぎ見る
ばかりであった。持って帰ればパピヨン、「やっぱヴィクはすげぇや」と感心するに違いない。

 そういった感動の余韻に浸るまま入り口の前に立っていたのが悪かった。

「へぷち」

 可愛らしいくしゃみにヴィクトリアは現実に引き戻された。見ればどんよりした目つきの人が居る。

「ムトウ……カズキ」

 カズキが居た。しかしその表情は暗い。黒い核鉄の件で差し迫ったときですら陥らなかった渓谷の底にある。眠そうな気
だるそうな半眼で、普段ツンツンしている特徴的な髪はいまボサボサで寝癖だらけ、女学院地下で見た姿勢の良さはいま
猫背に犯されている。そしてマスク。パピヨンのとはまったく違う白いオーソドックスなカゼ用のそれを見るにどうやら体調
不良らしい。カズキ。パピヨンとどっこいどっこいのドブ川が腐ったような瞳同士の間を灰色の影でたっぷり彩りそしてヴィ
クトリアをジットリ睨んでいる。「どけ」といいたいらしい。自動ドアの前で戦利品を物色していた邪魔な少女に。

(……)

 少女は迷った。
 カズキといえば父を月から連れ戻してくれた存在である。女学院の地下では「ママがパパのために100年苦労して造っ
た白い核鉄を横から取ろうとするなんて許せない」とばかり露骨に白眼視していたが、されど太平洋上の顛末よ、カズキは
白い核鉄をあるべき場所に打ち込んだ。自分ではなくヴィクターの胸内に押し込んだ。そこでちょっと感情は葛藤を帯び始
め、父の帰還によってお礼を言いたいけど言い辛いという微妙なものになってしまった。
 
 月への移住であたふたしていたため、結局ゆっくり話せず別れてしまったカズキがいま目の前にいる。彼は義理チョコを
渡すべき相手でもある。宅配便で寄宿舎の部屋に送りつけたため今は手元にないが、しかし問題はそこではない。

 前述のとおり、カズキのようすがちょっとおかしいのだ。

 体調不良のせいかもしれない。でなくばドラッグストアで出くわさない。ジトっとした影だらけの表情で彼はヴィクトリアを
睨んでいる。

「ど、どけばいいんでしょどけば」

 飛びのく。「どうも」。少年は普段の爽やかなソプラノ声がウソのような暗く低い返事を残し店の中に消えた。
 声をかけたかったが、そうしたら最後、何をされるか分からぬ危険な雰囲気が今のカズキにあった。

「何よアイツ……。体調不良とはいえちょっとおかしく──…」
「ひょっとして猫、飼ってない?」
「ひゃああ!?」

 背後からかかってきた意味不明な問いかけにたまぎるような声をあげて伸び上がる。振り向くと力なく笑うカズキが居た。
 もちろん猫などヴィクトリアは飼っていない。もっとも猫被りならする。白も黒も演じられる。もう一役演れば牙生えたヴィク
ターの南南西のパーティで千歳が消える。
 ともかく猫、飼ってないのに飼っているとかカズキは聞くのだ。
 明らかにヤバい笑いでどうしようかとドキドキしているとどこからか飛んできた斗貴子が貫手をかました。

「だからキミは外に出るな! インフルエンザなんだぞ!! 完治が遠のくし他者にもうつる!!」

 昏倒するカズキ。斗貴子はヴィクトリアの存在に一瞬面食らったが、そういえば帰省の話も聞いてたなというカオでカズキを
引きずり去っていった。やがて武藤家に生まれし長男は蝶・加速と滅日(ほろび)を愛する男。鉾の角度が鋭いだろ? 何と
言ってもゲームキャラ、小説出ないしアニメも出ない、最後まで実家(パピヨンパーク)から離れないぜぇ。という属性に片足
突っ込んでいる。(声は違う)

 メンタルリセット。ヴィクトリアはおかしなカズキを忘れるコトにした。

「お兄ちゃんを見ませんでしたか!!」

 ぴきっ。ヴィクトリアの眉が露骨に引き攣った。帰途に入ろうとした瞬間絶妙なまでのタイミングで邪魔しにかかった声は
非常に腹が立つもので、だから少女は怒りにギュっと目を閉じた。早くパピヨンに冷却シートやデジタル体温計を見せたい
のに妨害したというのもあるが、何というか声音が生理的に受け付けなかった。いかにも人生を満喫しているという明るい
声。どうしようもない不幸を背負って生きているヴィクトリアにとって、貴様がその声を出しているというコトそれだけで、楽天
気楽の者というコトだけで、お前を斬る100万の理由に勝るという感じである。

 なのにスーパーソプラノな声はヴィクトリアの意など介さず呼びかける。

「たぶんこっちに来たと思うけど、いなかったかなー。それらしい人」
「知らないわよ。そもそもアナタが誰か分からないのに兄のカオまで分かる訳ないでしょ」

 普段なら猫かぶりで応対するところだが虫の居所が悪いヴィクトリアは一刻も早く不快な相手を排すべく”素”全開で応対
する。最初敬語だった相手が二言目にはもうタメ口という馴れ馴れしさもまた第一類や第六類の危険物が如く黒い炎の燃
焼を助長した。

 振り返ったヴィクトリアは見る。栗毛の少女を。少女というには些か大人びた風貌だが、滲み出る性分が中学生のような
あどけなさを与えている何ともチクハグでトンチンカンな見た目である。大きなくりっとした瞳を不思議そうに開きながら小首
を傾げる様は太陽の如く暖かさに満ちている。対するヴィクトリアは冷然とした月であろう。

「えーとね。お兄ちゃんはね、いまナゾで秘密な戦士の斗貴子さんに追っかけられている筈なんだけど……」
「……。名前を挙げるならせめて本人のにしなさいよ。だいたい誰か分かったけど……」

 音だけなら「トキコ」に掠る名前は沢山ある。だが戦士と言われれば1人だろう。

 それはともかく。

「私は武藤まひろ。お兄ちゃんは武藤カズキなのです!」

 少女──まひろ──を受け付けない理由をゲンナリと理解するヴィクトリア。(女ムトウカズキ……)。絶対性格合わないと
思った。いやらし系への追従笑いをして免疫細胞を自壊せしめ「もう休め太郎」と泣きじゃくる土木作業員のような心持ちに
なった。よってカズキたちが消えた方角を教える。でなければ延々付き合わされる羽目になるからだ。

「というか兄なり津村斗貴子なりにケータイで連絡するって選択肢はないの?」
 ヴィクトリアは訝しんだ。
「おお。その手があった。連絡連絡、エイっ!」

 メール1つ打つにも騒がしい。(話してるだけでインフルエンザになりそう……)。免疫細胞の死滅を感じるヒネクレ少女。

「うん連絡ついた。アレ? なんで斗貴子さんの名字知って……あ、制服同じだしひょっとして知り合い?」
 勝手に納得するまひろに「そんなところよ」と適当に相槌。向こうはそれを親愛と受け止めたらしい。
「それはともかく教えてくれたお礼をしなきゃ! あのねあのね!」

 上背のある少女が溌剌とした表情で詰め寄ってきた。ヴィクトリアは気圧され──…




 アジト。


「なんだその格好は」


 真赤な顔で床上ぜえはあと息をついていたパピヨンは帰ってきたヴィクトリアを見るなり気だるげに呟いた。

「うるさいわね。好きでこんな格好している訳じゃないわよ。ムトウカズキの妹にやられたのよ」

 垂直に垂らした左腕のほぼ中央部に右拳を撫でるように当てながら若干俯き気味の少女。冬にも関わらず半袖で、彫像の
ようにすらりとした両腕が覗いている。ふにふにとした肉感に纏わりつく半透明のパイ生地のような肌に青緑の静脈が透けて
見えた。

 その格好は普段のセーラー服ではない。

 ナース服。

 ピンクを基調としたいささかコスプレめいた衣装へと変貌していた。同色のナースキャップすらつけていた。
 パピヨンのドヨリとした視線が自分に集中しているのをイヤというほど感じた少女は赤面しつつ潤んだ瞳を背ける。

(あの女……!!)

 お礼と称して詰め寄ってきたまひろは恐るべき速度でヴィクトリアの衣装を剥ぎ取った。購入したての看護用品がたくさん
詰まった白いポリ袋が陥落を意味するようトサリと落ちた。水兵のブラウスとスカートが旗のごとく生地を打ち鳴らしながら
弱々しき昼光めがけ跳ね上がる。憤然と抗議するヴィクトリア。だが一切黙殺するまひろの手はナース服を鮮やかに着せ
付けた。普段太もものあたりで絶対領域を作っている黒いハイソックスまでもが問答無用で剥ぎ取られヴィクトリアは厳寒
のさなか生足となった。抵抗などできなかった。異常な話だが天然少女の力は高出力(ハイパワー)であるところのヴィク
トリアをどういう訳か軽く上回っていた。かくて了する着替え。澄んだ音立て地面で跳ねた核鉄はスカートのポケットから零れ
たものである。

「袋から冷却シートや体温計が見えてるってコトは誰か看病する筈! だったらナース服にすべきだよ!」
「すべきだよじゃないわよ!! なに勝手に人を着替えさせてるの!? セーラー服! 返して!」
「大丈夫! 私のじゃなくて新品だよ! 斗貴子さんに着せるため今朝完成させた……あ! 斗貴子さん! 追いかけなきゃ!」
 そういうとまひろはヴィクトリアのセーラー服をどういう訳かひっつかみ走り去った。まひろなだけにもってけセーラー服という
訳である。

「待ちなさいよ!! ああ、もういない……」

 下半身をナルト渦にする古式ゆかしき走法でギュンと彼方へ溶け去る少女に唖然とするヴィクトリアの心象を代弁するよ
うに北風が筆記体のLを描いた。ぞぞっとする寒さが少女の体を突き抜けた。思わず目を閉じ細身抱えるヴィクトリア。

(この服……スカートが……短い…………)

 決してロングではないセーラー服のスカートすら上回る丈の短さに思わず前を押さえ頬を染める。この場合すーすーすると
言いつつ裾を引っ張るのは鉄板だが果たしてヴィクトリアも鉄板をやった。そもそも長靴下を取られ素足なのだ。防寒に適し
たぬくぬくなそれすら剥ぎ取ったまひろを恨む。未発達な足を晒す機会は余り無かったので偏狭ゆえに貞淑な少女は頬を
染める。
 だが無為に佇むヒマはない。アジトには看護すべき対象が居るのだ。動く。嘆息交じりにしゃがみ核鉄を拾う。落ちたの
は先ほどの物音で気付いていた。(危なかった。コレまで服ごと取られていたら……)。と一瞬考えたヴィクトリア、1つマズ
い事実に気付いた。

「あ!!」

 声張り上げたヴィクトリアはナース服のポケットをまさぐる。やられた。財布がない。セーラー服のスカートの中に入れてい
たのが災いした。結構な手持ちゆえに膨張しポケットに引っ掛かるそれは核鉄のように落ちなかったらしい。そしてまひろは
財布までには頭が回らなかったらしい。(そういう配慮できるならそもそも無理やり着替えさせたりは……!) 周囲を見るが
やはり無い。序盤大金を持っているとすぐ失くすのは王子がカエルにカエルがヘビになるゲーム以来であろう。

(これじゃ代わりの服すら買えない…………!!)

 実をいうとまだ手持ちは1万円あった。ネガティブ極まる少女は強迫観念の患者のような入念さで『もし追い剥ぎに遭った
場合どうにかなるように』と靴下の中に諭吉を隠していた。ならそれで服を買えばいいようなものだが、しかしパピヨンの看病
がある。いろいろ入用になるから服に費やすお金はない。

(ムトウカズキの妹を探す……?)

 首を振る。いつ見つかるか分からないのだ。時間をかければかけた分だけパピヨンは病気で苦しむだろう。

 結局少女は、コスプレのような格好で衆人環視の最中アジトまで歩くという恥辱を演じた。髪色や佇まいで正に月の如く
淡く輝く美しい少女に注がれた目線は羨望や感嘆だが、ずっと地下に篭っていた少女にとってはそれも鬱陶しくそして恥ず
かしいものでしかない。


 そしてアジトに時間は戻る。

「服や財布を取り戻そうにも連絡先が分からないし……! いまパパから戦団経由でムトウカズキや津村斗貴子に連絡
して貰ってるけど、いつ元の格好になれるか…………」
 好きでナース服になった訳じゃない、本当です、信じてくださいとばかり1週間の謹慎すら覚悟しているような切実な声で
訴えると、パピヨンは。
「ムモー。ムモー」
「って寝てるし!! いや別に病気だからいいけど……」
 睡眠の重要性。睡眠の重要性。
 鼻ちょうちんを膨らませたり萎ませたりするパピヨンに安堵する。ナース服姿を見られなくて済むのもあるが、ちゃんと自分
の提案どおり療養してくれているのが嬉しい。(許してくれてるんだ。看病してもいいって)。単に寝たいだけかも知れないが、
仄かな思慕に浸る少女のささやかな欲目は無言の信頼をちょっとだけ期待する。

 とりあえず検温。熱は39度2分。まだまだ予断を許さない。冷却シートから透明なシールを剥がし額に張る。

(というか蝶々覆面(パピヨンマスク)邪魔ね。凄く邪魔)

 素顔を見ないよう貼るのに難儀した。

 だからヴィクトリアは気付かない。実は起きていたパピヨンがマスクに触れられた瞬間恐ろしい眼光を放ったのを。だが
ヴィクトリアが剥がす気配がないのに気付くと(……)。彼女の配慮に何か感じたらしく目を閉じた。


 数時間後。そろそろ夕刻なので食事の準備に。


(何を作ろうかしら)


 ヴィクトリアの趣味はミートパイ作りだ。それはバレンタインの進物にも影響を与えている。主食に関しては見た目こそモ
ザイク必至のエグさだが、味は決して悪くない。ママの味にしなければ市販品と遜色ない見た目と評したのは月移住組のホ
ムども。
 とにかくパイは手軽に食べれる料理なのだ。ニシンさえ入っていなければ誰でも食べれるとヴィクトリアは自負している。変
わらぬマズさのアップルパイを愛し続ける奇特なメロンだって世の中には居るそうだ。
 ただパピヨンはいまインフルってる。もっと消化のいい物を選ぶべきだろう。ヴィクトリアはタコスも好きだが以ての外だ。お
粥を供出すべき時にお粥でないものを供出すると色々大変なコトになる。
 ただお粥なるいかにも病人食な代物をあの蝶人が好むかどうか。いっそ柔らかめのレトルト食品にしようかと思ったが、
(ボンカレーはどう作ってもうまいのだ)、何と言うかそういうのは冷たい感じがして嫌なのだ。

 何を作って振舞うか。何を食べさせれば彼が幸腹もとい幸福になるかだ。いわゆるとまどい→レシピであろう。いわゆらねー
かも知れないが、いわゆるのだ。



 しばらく考えた後、寝室をノックして入り問うた。

「アナタ食欲ある?」

 ある。寝起きのような声で短く答えたパピヨンにこれまた短く応じたヴィクトリアは扉を閉める。

(なら──…)


『成せば大抵なんとかなる』。某所ではエースなヴィクトリア的には5ヶ条より5つの誓いの方がしっくりくるがそれはともかく。

 ケータイを取り出すと何やら調べつつ買い物へ。



 ベーコンとジャガイモとタマネギのスープ。

 長芋のチーズソテー。

 豆腐のバター炒め。

 乳酸菌のサプリメントにそれから……種を抜いた梅干入りのお粥。

 軽食程度の量が乗ったベッドサイドテーブルを前にパピヨンはくたあっと座っていた。

 座ったまま、湯気を上げる食事を無言で眺めた。

(湯気を上げる食事、か)

 ここ数年、爪や牙で生肉を裂くだけが能の怪物連中としか同居していなかった孤独な青年とは縁遠い物である。
 しかし、ある。

(…………)


 熱で淀む視界の中にいるヴィクトリアがひどく不思議な存在に思えた。


(コイツは何故居る? 何のために……居る?)


 栄養などレトルトパウチやサプリメントやドリンク剤で賄えるのだ。それらを買って渡されるだけでパピヨンの食欲は概ね
満足したのだ。平常時なら全く足りないが、臥せっている今は何か腹に入りさえすればそれでよかった。なのにヴィクトリアは
そんな安物の既製品で代用可能な、さして重大でもない食事をしかし手間隙かけて作ってきた。意図が分からない。熱で
渦巻く蝶人の脳は少しずつ迷い始めた。


「いちおう柔らかい物ばかりにしたけど、ちゃんと噛みなさいよ。特にこのお粥とか言う日本料理は煮ると固い表面が剥が
れ落ちて、”おもゆ”とかいう水気の方に行くんだから。丸呑みしたら胃に負担がかかるのよ。ちゃんと噛みなさい。弱って
るんだから余計な負担を消化器官にかけちゃダメよ。梅干が唾液の分泌を促すからある程度まではカバーできるけど……。
すっぱくない代わりに疲労回復のクエン酸の含有量が少ない調味梅干じゃないのよ。私はちゃんと普通の梅干を選んだん
だから。何軒もスーパー覗いたのよ。恩に着るコトね」
「……やかましい」
 汗まみれでぜえぜえ言いながらもお腹は空いているらしいパピヨンは、匙でつやつやしたドロドロを掬う。口に運んだ。半
ば放心状態で顎を動かす。飲む。今度はスープに匙を伸ばした。

(たんぱく質はベーコンで、抗酸化作用を高めるビタミンCはジャガイモで、抗菌作用向上を促す硫酸アリルはタマネギで……
……それぞれ摂れるはず……よね)

 管理栄養士ならぬヴィクトリアはケータイで「インフルエンザ 食事」で調べた程度の付け焼刃な料理でいいのかと僅かだが
戦々恐々。コンソメで軽く味付けした程度のシンプルなスープは消化を考え具をくたくたになるまで煮ている。

 無言で匙を往復するパピヨン。白い皿の湖はどんどんと干上がりやがて空になった。(あ、全部……食べてくれた)。おいし
く作れたのかも知れない、期待に少女の胸は高鳴った。

 用意してあった箸で次にパピヨンが摘んだのは長芋のチーズソテーである。長芋に含まれるディオリスコリンAは抗インフル
エンザ活性があるらしい。とネットで見ても何が何やらだったヴィクトリアだが、インフルエンザに効くならとわざわざ八百屋さん
に行って新鮮なのを購入した。

(それを鼻やノドの粘膜の回復を促すっていうビタミンAが豊富なチーズで炒めた。油はオリーブオイル。白血球やリンパ球を
活発にするビタミンEとその吸収を助けるオレイン酸がたっぷりっていうから試してみたわ)

 食べやすさ優先で一口サイズに切り分けたのを、チーズの風味が生きる程度にサっと炒めた。ほくほくとした歯ごたえに
トロリと絡むチーズはヴィクトリアとしても自信作だ。果たしてパピヨンはあっという間に平らげた。

 次は豆腐のバター炒めである。軽くキツネ色の焦げ目がついてパリっとした豆腐にコクのあるバターの塩味が絡み、長芋
のチーズソテーとはまた違った食感と旨さを醸し出している。ほどよく残った水気は熱でひりつく口内粘膜を心地よく冷やす
だろう。

(亜鉛。不足したら免疫機能が低下するから)
 レバーやカキより摂り易い豆腐を選んだ。更にバターにもビタミンAはありましたよ。ウナギのビタミンAとは比較にならな
いほど摂り易いビタミンAがね……。

 パピヨンはそんな料理を半分ほど食べてからお粥を咀嚼し、ちょっと休んでから完食。マスクの奥のぼやーっとした目で
乳酸菌のサプリメントを見た。

「ラクトバチルス・ブルガリクス1073R−1乳酸菌はナチュラルキラー細胞を活性化させるそうだけど飲む?」

 乳酸菌は腹なし性悪でも摂取するほど重要なファクターだ。ヨーグルトで供出しなかったのは体調不良なパピヨンがデザー
トまで食べれるかどうか分からなかったからである。

「でも乳酸菌って病院処方のタミフルとの飲み合わせどうなのかしらね」

「とっとと治るなら構わん。どっちも錬金術の代物じゃないんだ、少々悪かろうとくたばったりはしない……」

 うるさく用法容量を指図するヴィクトリアに従い、飲んだ。

「純粋に栄養だけ摂取したいなら気の抜けたコーラもいいっていうわよ」
「気が向いたら飲む……」

 夕食らしい夕食だったからこそ甘みが欲しくなったらしい。枕元へ置けというようにボトルを顎でしゃくるパピヨン。

「紅茶が欲しくなったら淹れるわよ。アナタ紅茶好きそうな声だし、カテキンもいいらしいし」
「講釈を垂れたいなら紙にでも書け」

 料理の中で一番多いお粥が最後に残った。のろのろと匙を動かしながら呟くパピヨンは気だるそうで、時々咳すらした
血が混じらないかヴィクトリアはややハラハラと眺めたが、ごく普通の咳らしく青年はぼんやりしたままお粥を食べる。

 腕が、止まった。もう満腹なのかと思い下げかけたヴィクトリアの耳を腹時計が叩いた。

「呆れた。アナタまだ足りないの?」
「黙れ。こっちは消耗しているんだ。消化吸収が追いつき次第また手を動かす……」

 食欲はまだあるがカッ込むための体力が尽きたという感じらしい。

「その、コーラじゃ足りないっていうなら、作るけど……?」
 食べっぷりのいい年下の男を相手どると腕の振るい甲斐もあるという物だ。唯一怖いのは「マズいからいらない」」と
言われるコトだが、パピヨンはもっと別な話題をのぼらせた。

「発症後メシを喰ったのは今が最初だ」
「? それが何よ」
「胃腸まで冒す類の病であろうとなかろうと無闇に喰うと後が大変なんでね。さっき貴様は消化器系への負担がどうとか言っ
ていたが、生憎その程度のコトなど言われずとも知っている。熱でどれほどダメージを受けているか見定めもしないまま喰
いすぎる程この俺パピヨンは馬鹿じゃない。喰った物を吐くのにも体力は居るし何より美しくない。だが吐くより早く消化吸収
すれば問題なしさ。少なく喰えばその分リスクは低くなる。だから追加は結構。ま、貴様がどうしても同じものを食いたいと
いうなら話は別だが。部屋を出たくば勝手にしろ」
 俺は粥を食う。とだけいって瀬戸物同士をカチカチ打ち鳴らす蝶人。口数が多くなったのは食事が精神をにいい影響
を及ぼした証拠であろう。匙を進める体力こそないが、精神的な面は一足早く回復した。
「……ふーん」
 微妙な表情でヴィクトリアは双眸を細めた。妙に病気慣れしている、いや、慣れるほかなかった境涯にちょっと同情が
湧いたり、天才という自称どおりの念の入った対処に感心したり色々な感情が湧いたが、心の中で一番大きな声は
(マズいからお代わりしないって訳じゃないのね)
 だった。
 パピヨンはグルメである。横浜中華街で食べ歩いたのをヴィクトリアが知っているのは、同じく横浜の女学院に在住して
いたからだ。彼を妖精さんと慕う生徒たちから写メを見せて貰った。だから味にはうるさい。
(でも、マズいからお代わりしたくないとは……言わなかったわよね)
 それどころか味ゆえに吐くのを惜しんでいる……と考えるのは少女の欲目であろうか。
(あと)

──ま、貴様がどうしても同じものを食いたいというなら話は別だが。部屋を出たくば勝手にしろ。

(私にも食事させるため言ってるように聞こえるけど……まさかね。コイツに限ってそんなコトある訳ないじゃない)

 よーく聞くと遠まわしな食事のお誘いの気配もあるが──…

 アナタのために空腹こらえて頑張ってるのよ的な恩着せを避ける文言である確率の方が大きい。

 もっとも人間の文言というのはAとBの要素のどちらか1つしか乗せられない排他的な代物ではない。Aを80%、Bを20
%というように、晴れと雨の確率を量子的な重ね合わせで同時に再現しうるものである。

 パピヨンは、特にそうだ。


『謝るなよ、偽善者』


 カズキにそう言ったのだ。





「眠い……」

 腕が止まった。なのにパピヨンは未練がましく白い陶器の底をかりかりやっている。食べたいらしい。

「ああもうそんなコトしてないでさっさと寝なさいよ。栄養より睡眠の方が大事よ」
「黙れ……。俺は、喰う……」

 空転する匙はどうも梅干付属のいかにもしょっぱそうな紫蘇を狙っているらしい。紫蘇。欧米人ゆえ日本独特の梅干の
酸味が駄目なヴィクトリアですらリピーターになった独特の旨みのそれをパピヨンはどうやら最後まで残していたらしい。

(確かにおいしいから、分かるけど……)

 もともと思い通りにならないと目を濁らす性分のパピヨンが、不機嫌になる高熱の最中、匙で紫蘇を掬う面倒くさい作業
に手間取っている。放っておくとニアデスハピネスという武装的・属性的な癇癪玉が破裂しかねない。

「はいはい。食べさせてあげるから早く寝るコト。いいわね」

 ゾンビのようにスローモーなパピヨンから匙を奪うのは容易かった。ゾンビでなければ「僕のだゾ!」とでも言われたろうが、
とにかく底の深い丸皿に匙をやったヴィクトリア、手早く周囲の粥ごと紫蘇を掬い上げ彼の口へ運ぶ。
 どうも彼はさっきのちょっとした長広舌ですら体力が払底するほど消耗しているらしい。胃に血が集まってもいるらしく、だか
ら促されるままボンヤリと口を開けて匙を受け入れた。

「どう? 吐き気とかは大丈夫」
「問題ない。もっと……寄越せ」

 まだ食べたいらしい。弱りきっている癖に命令口調なのがヴィクトリアはちょっと面白くなってきた。いたずらっぽい冷笑を
浮かべながら匙を運ぶ。残り4分の1ほどだった粥はどんどんと減った。

 ぱくぱくムグムグと食べていくパピヨン。疲労と眠気で麻痺する理性は「ヴィクトリアに食べさせて貰っている」という本来
絶対避けるべき事態をしかし当たり前のように誤認しつつあるようで、とうとう匙を差し出される前に口を開けるようになった。

(ヒナじゃないんだから……)

 あんぐりと開口するパピヨンは熱で火照った頬と相まってあどけなくも色っぽい。だのに口の粘膜や舌はゾっとするほどの
青紫である。(怖いわねアナタ怖いわね)己の爬虫類のようなスリットした双眸を棚に上げるヴィクトリア。

 匙の先端を咥えたパピヨンが弱々しく粥を啜った。唇を上に上げゴクリと飲む。残っていた梅の果肉が舌に当たったようだ。
思わぬ刺激に少女のように瞳を開き口に手を当てるパピヨン。(……いやその反応ウザいから。やめて。何か腹立つわ)。
ヴィクトリアがやや殺意に目を吊り上げ頬に血管すら浮かばせたのは、彼が女性たる自分より可憐に見えたからだ。でも
苦労して買ってきた梅干がどうだったかちゃんと聞きたくなって、だから聞く。

「おいしい……?」
「んー。おいしいっ」

 赤子のような声音で語尾にハートマークをつけて答えるパピヨンはどうやら熱などで相当キているらしい。

 ぼうっと頬染め力なく笑う彼にヴィクトリアは一瞬見とれた。ドキリとした。その拍子に匙が落ち……パピヨンの黒スーツの
胸の部分に着弾した。運悪く残っていた粥がちらばり服を汚した。

「っ! あ、ご、ごめんなさい!」

 お気に入りの服なのに……と謝るヴィクトリアにパピヨンは、

「大丈夫大丈夫〜〜〜。気にしないで」

 屈託なく笑った。

(笑った!?)

 満面の笑みだった。ありえない反応だった。インフルエンザウィルスはここまで人を変貌させるのかと驚愕した。確かに
パピヨンパークのパピヨン館では退出時、「もう帰るのか」という心細げな声音を漏らす男ではあるが、笑顔はそれ以上に
”ありえない”反応だ。

(でも……)

 焦点定まらぬトロリとした目で笑うパピヨン。黒スーツの胸から零れ素肌を汚す白い粥。

 ヴィクトリアはごくりと唾を飲んだ。よく分からないが、とてもインモラルな物を見てしまったような気になった。

「でもちょっと着替えていい?」
「え、ええ。じゃあ、ちょっと外出てるわね!」

 いつも何かを耐えているような張り詰めた声を出しているヴィクトリアが大声を出すのは滅多にない。ナース服を着せる
まひろへ金切り声を上げたのだってそれが規格外のありえからぬ異常事態だったからだ。

(うぅーーー。なんか……なんかぁあああ!!!)

 全力でドアを閉じ廊下に出たヴィクトリアはつい持ってきていた空の粥皿を頭に抱えたまま座り込んだ。

 パピヨさんはそのままでいい。



 そして深夜。


 ヴィクター=パワードは闇切り裂く懐中電灯の輪の中で健やかな寝息を立てるパピヨンを見ると無言で扉を閉じた。


(交代制、か)


 19時半ごろ後逗留するホテルに戻ってきたヴィクトリアは、出し抜けに具申した。

「その、パピヨンを看病してるっていうのは、メールで伝えた通りだけど、あのねパパ」

 夜は交代して欲しいの……と困ったように上目遣いで訴えた。さすがに泊り込むのは憚られたらしい。


(まあ、いいか)


 そういう所をちゃんとしている娘の要望をどうして跳ね除けられよう。

(それに)

 別室のベッドに横渡るヴィクターの片手が暗い天井を刳り抜くように羊皮紙のレポートを掲げる。

 自分で決めた巡回時間までのヒマつぶしにアジトを散策したとき古びた書庫の奥で見つけた代物だ。

 そこには友人が生前自分のためにアレコレ苦心した痕跡が残っている。
 看病。
 元の体に戻るまで寄り添うのが看病というなら、爆爵は100年がかりでヴィクターを看病した。

(その子孫が苦しんでいるんだ。看るのは当然、だろう)

 しかし。ヴィクターは考えた。


(なぜヴィクトリアは看護師の制服を着たままなんだ……?)


 父と合流したのだ。お金を借りて別の服を買えばいいではないか。


(まさか……気に入ってるのか?)




 病を終息させるのは結局日常の累積である。2月12日は特に波風なく過ぎた。理性あるものは発症や入院に少なからず
動揺するが、対迎撃姿勢が整うや途端にルーチンワークへ馴染んでいく。検温。冷却シートの交換。調理。提供。後片付け。
汗を拭くのはお粥の件以来さすがに恥ずかしいのでヴィクターに頼んだ。ようこそ、男の世界へ。2mを超える筋骨隆々の大
男に衣服をはだかれるパピヨンの心境や如何に。

 汗を拭ってもらっている最中は買い物へ。スポーツドリンクを始め消耗する物は幾らでもある。食材だって新鮮な物を仕入れ
たい。荷物の多さを考えるとそれもヴィクターにやらせればいいような物だし実際かれもそう申し出たが、「別にいいでしょ。パパ
だって行きたい場所あるでしょうし」とやや不快そうに目を尖らせ拒んだ。

(私が選ぶのよ)

 妙な使命感に燃える少女。パピヨンにしてみればどっちが買おうが同じコトと分かっているのに自分が出張るべきだと頑固に
思っている。

 お昼。

 スーパーで買い物。歩いていたヴィクトリアの瞳がちょっと曇ったのはバレンタインフェアのコーナーを見たからだ。

(あ……)

 気付いた。
 もしパピヨンが14日になっても平癒しなかった場合、チョコレートパイは当日食べてもらえなくなるという事実に。
 いまは12日。明後日までのインフルエンザ完治はやはり難しいだろう。

 治したいが治したくないという葛藤にヴィクトリアは囚われた。異性との関係に臆病な少女は、バレンタインという勝負所が
相手方の病気でノーゲームになった方が楽なのではないかとちょっと思った。ノーゲームだがノーライフにパピヨンがならなけ
ればヴィクトリアは盤上を支配する唯一神のような立場でバレンタインをやりおおせる。14日を無傷で通過できる。宅配され
るパイだって彼が臥せっているのにかこつけて回収すれば問題なしだ。

(でもそんなの逃げるみたいじゃない。分かってるけど、でも……)

「超重! 合身!!」

 カズキの万引き犯を殴り飛ばす声がヴィクトリアの精神を現実に引き戻した。よく分からないが懐かしい響きだった。昨日
以来の再会となる少女を見た彼は瞠目して叫ぶ。

「ヴィク……………………トリア!」
「なんで溜めたのよ」

(声的に)彼女はトリアではない。カズキに斗貴子無言の腹パンが炸裂した。


「オレは正気に戻った!」
 戻っていなさそうな文言を吐きながらカズキはシャンとした。アル中どもの言うシャキっとする瞬間である。
「ヴィクトリア!? 月に行った筈じゃ……?」
 トリックだよなどという気の利いた返しが出来るほど世間に慣れていないヴィクトリアは普通にバスターバロンで帰ってきた
旨を告げた。
「そうかー。でもどうして? まさか月で何かあった?」
 某死神の過去編前ならその声で言うなと言いたくなるセリフに「別に何も無いわよ。野暮用で来ただけ」とだけヴィクトリア
は告げた。
「うろついていいの? インフルエンザじゃなかったのアナタ」
「んー。時々はぼうっとするけど昨日寝たらだいぶ良くなったというか。心臓が核鉄だからかな。カゼとか治るの早いんだ」
「その割にはさっきも奇行に及んでいたがな。……いや、健康でもキミは奇行に走るか」
 まったく仕方ない。という顔で斗貴子は両目を三角にした。カズキは涼しい顔で両手をポンと打ち鳴らした。
「お。じゃあもう治ってるかも。いつも通りな訳だし、熱だってもう37度8分だし」
(いやソレ充分高いでしょ。なんで歩いて買い物来れるのよ)
 斗貴子も同意らしい。「なのにもう治ったと言い張って買い物に出たんだ。追いかけるこっちの身にもなれ」と不機嫌そう。
「あ、そうだ。白い核鉄。本当にありがとう」
 ぺこりと頭を下げるカズキ。「礼なんてアナタの方はさんざんしたでしょ」。母謹製のそれをまず父に使って貰った礼をいまだ
していないヴィクトリアにとって重ね重ねの謝礼はムズ痒いものでしかない。
「だいたい私はパパを元に戻すため精製装置を作っただけ。それをパピヨンがまずアナタに使っただけなんだから」
「でもヴィクトリアが居なかったら流石の蝶野だってもっと手こずっていたと思う。こんなに早く帰ってこれたのはヴィクトリア
のお陰だから、もし何かあったら迷わず言って。オレなんかで良かったら幾らでも力になるから」
 やり辛い……パピヨンとは違った意味で直視できない微笑に少女は戸惑ったが……。
「ところで何でナース服なの?」
 というカズキの問いかけに。
(思い……出した!)
”何か”はとっくに起こっているのだ。色んな意味で”わるぶる”少女は双眸を極限まで冷たく砥いで言い放つ。
「じゃあ言わせて貰うけど、昨日アナタの妹に私、服とかサイフとか取られたんだけど?」
「え、そうなの? よく分からないけどゴメン。返すよう伝えて──…」
 ケータイを開いたカズキの顔色が変わった。
「というかまひろ、ヴィクターの所に返しに行ったみたいだよ?」
「は?」
 間の抜けた声を漏らすヴィクトリアに、斗貴子が若干申し訳なさそうに眉を顰めた。
「済まない。その件については昨晩ヴィクターや戦団から連絡が来た時点で私がまひろちゃんに話しておいた。ただ……
今さら動くとは思いもしなかった。だってあのコ学校休んででも返すって言ったんだぞ!? だから朝の内に済ますとばかり
……!)
 まさか昼にまで伸びるとは……苦虫を噛み潰したような斗貴子と鏡写しな表情をヴィクトリアもした。
「あれ? 何だか大事になってるようだけど、オレ、まひろのそういう話、全然聞いてないよ?」
「キミは昨晩臥せっていたからだろ。ケータイを見ろ。ほら。ココとココ。連絡あるだろ戦団とかヴィクターとかから」
 本当だーという暢気な声に付き合うヒマはない。

「私帰るわ」

 よく分からないが父の元へ。残されたカズキと斗貴子はその後姿をどうしたものかと眺めていたが、何かあればまた連絡
が来るだろうと結論付けて別方向へ歩き出す。

「んー。分からないなー。どうしてヴィクトリアが帰ってきたんだろ」
 再人間化の研究? ならヴィクター化から戻ったオレも協力した方が参考になるんじゃ……などと顎に手を当て難しげに
考えるカズキに斗貴子は盛大な溜息をついた。
「キミは鈍いな。今何月だ」
「何月って2月だけど?」
「そうだ。じゃ2月といえば」
「節分?」
「……もういい」
 ドラッグストアで看護用品を大量に買い込んだヴィクトリアは斗貴子も見ている。なら『誰に使うか』考えるのは当然だ。本人
は至って元気。父たるヴィクターはまひろと対面可能な状態だ。横浜の女学院ならともかく埼玉の銀成に人間の知己がいる
可能性は限りなく低い。赤の他人を殺傷せしめた後始末にドラッグストアはないだろう。

「つまり今ヴィクトリアは、人間じゃない知り合いの内、人間じゃない癖に大量の看護用品が必要になる奴を世話している。そん
な奴1人しか居ないだろ。他にも居たらたまったもんじゃない」
「蝶野の看病を? へー。月からわざわざ来るなんて」
 斗貴子の推理を聞いたカズキは素直に感嘆した。どれほどの距離かそれこそ身を以って知っているのだ、彼は。だが斗
貴子と伝えたいニュアンスとはズレている。「ああもう分かってないな」とぐしゃぐしゃした声を上げる。
「前半は合ってるが後半は違う! 順番も逆だ! 看病のために来たんじゃなく、来たら病気のパピヨンに遭遇して看病す
る破目になったんだ! それぐらい分かれ! もうすぐ2月中旬だって言ってるだろ!」
「ハハハ。斗貴子さんさっき『2月だ』としか言ってないじゃないか。中旬が重要ならちゃんとそこまで言ってくれなきゃ分から
ないよ」
 可愛い勘違いをしたねーという感じで笑うカズキを見たばかりに斗貴子は掌を顔面に押し付けざるを得なくなった。
「ああもう分かってない癖につまらない揚げ足取りだけはする……! しかもコレがいつも通りだから始末が悪い」
 憤然と顔を背ける斗貴子。カズキは口を開いた。
「そっかー。もうすぐバレンタインだから、蝶野にチョコ渡しに来たんだねヴィクトリア」
「今さら気付くな! いやずっと気づかれないのも腹が立つが、キミの理解のテンポは正直疲れる!」
「でも意外。女学院じゃいきなり胸貫かれていたじゃないヴィクトリア。あとほら、オレには結構親切だったアレキサンドリアさ
んだってさ、蝶野には何だか冷たい態度だったしさ、ならヴィクトリアもそうだとばかり」
「フン。私すら置いて月に行くから色々分からなくなるんだ。キミが、私達を置いて、月に行ってる間、地上(こっち)じゃ色々
あったんだ。エロスが自転車をドミノ倒しにしたせいで私まで謝りに行ったり、キミが月に行ったコトを告げた戦士長がまひろ
ちゃんに泣きつかれたり、あと早坂秋水がどういう訳か胴着姿で見舞いに来たり……いろいろ」
 腕組みした斗貴子が正に処刑鎌のような冷たく硬い声音で言うとカズキは「その節はホントごめん。斗貴子さんやみんな
に迷惑かけて……」と頭を下げた。
「でも斗貴子さん、怒るというより拗ねてない?」
「……うるさい」
 運命の悪戯というべきか。カズキを求め大声で泣き叫んだ通りが車道を挟んで遠くに見えた。思い出すだけで恥ずかしくなる
惑乱振りだ。斗貴子の肌がほんのり染まる。色合いはカズキに両肩を掴まれた瞬間さらに濃くなった。
「じゃあもうすぐバレンタインだし、オレからチョコ贈る? 心配かけたお詫びにさ、高くておいしいのをご馳走するっていうのは」
 覗き込んで朗らかに笑う少年に斗貴子の金色の瞳がみるみる大きくなり琥珀色にまで希釈された。凛然たる口元も古びた
ゴム紐のようにグニャグニャである。
「きゃ、却下だ! おかしな慣習を作るな! ただでさえバレンタインを忘れていたんだぞキミは! だったらせめて普通に受け
取れ! こ、こっちは……初めて、なんだぞ!! 出鼻挫くようなマネは慎め!」
 初めて……? 首を傾げたカズキは不思議そうに聞いた。
「じゃあもしかして斗貴子さん、オレに……?」
「い、言っておくが義理だからな! 戦士長や大戦士長、剛太たちにも配るんだ! そのついでなんだからな!」
「いやついででもいいよ! 斗貴子さんから貰えるならオレどんなチョコだって大事にするよ!」
「食べろ! 愛(め)でなくていいから普通に食べろ!!」
「もちろん食べるよ! でも写真は取るし包装紙とか保存できそうな物はゼンブ厳重に保管するから!」
「いい! 鑑識めいたコトまでしなくていい!! 普通に食べて普通に捨てろ!」
「でもオレだってまひろや母さん以外から貰うのは初めてだし! 初めて同士なんだよ! 大事にしようよ!」
「ええいうるさい道端でそういう言葉を連呼するなァ!! 誤解されたらどうするんだ!!」
 がなられても介さず嬉しそうに手を握ってぴょこぴょこするカズキ。斗貴子は圧されるばかり。テンパった顔を左右に振るの
が精一杯。
「うるさい」。軽いチョップがカズキに炸裂。「痛い」。鎮静する少年。斗貴子は騒ぎの反動でぜえぜえした息を収めるとやがて
ほんのり赤い顔で話題をシフト。
「本題はヴィクトリアだったろ。脱線するな」
 相手がシャドーラインの幹部声だから言ったわけではない。あるべき会話への是正である。
「ヴィクトリア……。何で胸貫いた蝶野とイキナリ仲良くなったんだろ? 斗貴子さんは何か知ってる?」
「知ってるも何も、キミさっき自分で言ってただろ。文字通り胸に手を当てて考えろ」
 胸……右胸を押さえたカズキは気付く。
「コレの、白い核鉄の精製で仲良くなったとかそんなカンジ?」
「だろうな。私はパピヨンとの交戦中ヴィクトリアの姿を見た覚えがないが、鷲尾が協力を仄めかすコトを言っていた。ま、白
い核鉄以外のコトについては不干渉を決め込んでいたフシもある。パピヨンをアンダーグラウンドサーチライトで援護してい
ればそれなりの脅威になったろうに、しなかった所を見ると私たち戦士と敵対するつもりはなかったようだ」
 アレ落とし穴が開くから空飛べない斗貴子さんにとっては厄介だよねーといいつつ、カズキはパピヨンとヴィクトリアのコンビ
を総括した。
「いやー。『闇夜の鉄砲、暗中的を射る』とは言うけど予想外の組み合わせで驚いたよ」
「……キミまたちょっとおかしくなってないか?」
 新シリーズのSHはサンライトハートの略。あの妖刀いつかインテリジェンスさんの因子で槍になるってはっきり分かんだね。

「てかヴィクトリアがバレンタインの為にきたってすぐ分かったの、斗貴子さんもソレで頭一杯だったからじゃって痛い痛い」

 脇腹を強めにぎゅうぎゅうと抓られたカズキは追求をやめた。

(本当うるさいぞ……キミ)

 反論できない年上は恥ずかしそうに目を伏せた。


「でさ、ヴィクトリア。蝶野を看病するときマスクとかしてるのかな。斗貴子さんはしてたよね?」
「パピヨンが罹っているのが人間と同じインフルエンザとすれば必要ないだろ。それについてはアイツだけが感染する物だ。
人間時代の病で免疫力が低下しているアイツなら、たかが人間の病にすら苦しむだろ。いい気味だ」
「いい気味ってヒドいよ……。でもヴィクトリアは何もしてないよ。大丈夫だよね?」
「人間のインフルエンザは、な。だがウィルス兵器の武装錬金などで作られた錬金術製の病であればヴィクトリアも例外で
はなくなる」
「そっかー。ホムンクルスを倒せるのは錬金術の力だけだもんね。あれ? でもそういう危ない武装錬金とかホムンクルスの
話って」
「少なくても戦団には入っていないようだ。そもそもホムンクルス自体そのほとんどが月に行っているからな。核鉄も夏の共同
体制圧で大部分が集まっている。残り少ない核鉄の中から、バンデミック的な武装錬金を発動する不逞の輩と出会う物が
現われるのは確率だけいえば低い」
「そういう難しい話は分からないけど」「いや別に難しくないだろ!?」 斗貴子の引き攣った声をよそにカズキは言う。

「じゃあ蝶野の病気はただのインフルエンザで、だからヴィクトリアも感染したりしないってコトだよね」
「理屈だけいえばそうなんだが……。なんか忘れているような気がするぞ」

 斗貴子は引っ掛かった。パピヨンがインフルエンザに罹患した錬金術的構造だけに目を奪われて、インフルエンザという
病気そのものをしっかり考えていない気がした。


 アジト。ヴィクターを探していたヴィクトリアはどうも彼が不在らしいと気付く。

(そもそも『パパの所に行く』とだけムトウカズキの妹はメールしていた。パパは日中ここに常駐している訳じゃないわよね?
じゃあどこに……?)

 と考えているとヴィクターがぬっと入ってきた。手にした紙袋からはセーラー服が覗いている。


「ふーん。じゃあココを知られない為に手近な喫茶店に呼び出したのね。ムトウカズキの妹を」
「ああ。お前もパピヨンも静かな方がいいだろうからな」

 どうやらヴィクターもまひろの騒がしさに辟易したらしい。彼女のアポが電話だったかメールだったかは不明だが、いずれに
せよ難儀な雰囲気は伝わるのであろう。

「今となっては済んだ話よ。服共々無事みたいだし」。念のため財布を検分したヴィクトリアは盗難被害ゼロを確認。安堵する。

 さて夕食の準備でもしようかしら。細腕を頭上で滑らかに組んで伸ばし終わるやナース服で歩き出すヴィクトリア。

 父、再び思う。

(やはりその服気に入っているんじゃ……?)

 セーラー服が戻ってきたにも関わらず着替えない娘を彼は見てみぬ振りした。彼はチェンジマンではない。霞のジョーだ。

「おおー。やっぱり似合ってる」

 明るい声。んっ!? と傍見たヴィクターは仰天した。まひろ。当たり前のようにアジトに居るではないか。かつて戦団の全
戦力相手に一歩も引かず戦いぬいた憤怒の権化なのがウソのように愕然とするヴィクターに気付いたまひろは

「あ。もうすぐバレンタインでしょ。袖すりあうも多少の縁って言うし、服返したあと、2人に友チョコ贈ろうかなーって思いついて
近くのお店で買ってね、追いかけてきたの」
(……なんでオレに気配をつかませなかったんだこのコ。元大戦士なんだぞオレは…………)
 冷然たるヴィクトリアが成す術なくナース服にされた理由をヴィクターは実感し、戦慄した。まひろはホムンクルス以上の
なにかワケの分からん存在らしい。
 とにかくヤサが割れた。やっと振り返ったヴィクトリアもまひろを見て表情を凍らせた。

 そのとき少女が真先に恐怖したのは、毎日押しかけられるようになるコト……ではない。

(もしよ。もし、このコが、パピヨンに気付いたら……? そして友チョコとかいうノリでパピヨンにチョコを渡したら……?)

 思春期を揺るがすのはいつだって小さな危惧である。まひろがパピヨンにチョコを渡す。前者の方は明るい性分に則った
気楽なノリだろう。人気者に義理チョコを贈る。たったその程度の意味合いだ。

 だが。

(パピヨンの方は……どうなの……?)

 執心してやまない武藤カズキの妹から貰うのだ。そこから彼の変心が始まらぬと確約できる権能などヴィクトリアにはない。
少女はまひろを受け付けられないと思っている。だが見下してはいない。太陽のようにパアっと輝く雰囲気は絶対自分に出せ
ないものだと直観したから、劣等感を抱いたから、だから拒絶めいた反応を催した。

 そして深層心理に形成されたカーストは恋愛にも作用する。

(もしパピヨンがこのコを見つけたら……チョコを要求したら……)

 そしてヴィクトリアには何も求めなかったら。

 彼女は彼女なりに頑張ってきたここ両日の苦労を否定されたような気になってしまう。

 看護して、尽くしたのに、何もしていないポッと出のまひろが性分のみで歓心を買うのは絶望だ。

(何よ。たかがチョコ1つの話じゃない。そこまで深刻にならなくても……いいじゃない)

 思うのに鼓動は嫌な響きを立てる。
 そんな中、思わぬ助け舟は父から出された。

「キミは武藤まひろといったな」
「うん。そうだけど」
「バレンタインは明後日だ。渡すのはその日がいいだろう。オレたちもその日まで大事な用事があって、のんびり食べられない」

 ここで食い下がるまひろならヴィクトリアは嘲弄を以って優越感を味わえたが

「分かった。その日までガマンだね」

 と聞き分けよく去っていくのがまた心を掻き乱す。ヘンな少女だが、気が良くて優しそうな部分がカズキそっくりで、パピヨン
にすら気に入られそうだと思ってしまう。



 2日目の夜。

「38度5分。少しずつ治りつつあるようね」

 体温計を置いたヴィクトリアは皿を片付け始めた。手料理の量は前日の3割増しといったところだ。消化器系に深刻な
症状が見られないため、食べ過ぎない範囲であれば食べていいと医者からも許諾を得たため本日はやや多め。

「んー。そろそろ肉もガッツリ食べたい感じ。決めたぞ。明日の昼はセットAだ。ウマカバーガーで買って来い。他の料理の
量はそうだな。昨晩の半分ぐらいでいい。朝食を多めに作れば残りで賄えるだろ? 休ませてやる。感謝して敬え」
「ハイハイ。感謝してあげるわよ。しかし本当食べるわね……。人喰いで補わないのか補えないのかは知らないけど、そ
の代わり本当、食べるわよね普通の料理を」
 今晩だってミニのカップ麺を実験的な意味で食べている。他にもプリンや板チョコといった軽いデザートを幾つか。
「当然。体力回復には旨い物を喰らうのが一番さ。ダメージだけなら修復フラスコどころか睡眠でも回復できるが、生憎
今は熱がある。お陰で眠るにも結構体力使う身分なんでね。だから料理、手を抜くなよ」
(旨い物、ね)
 それはヴィクトリアの腕を褒めているのか、それともそれじゃ足らないからバーガーセットAを買って来いと揶揄してい
るのか、ちょっと分かり辛い文脈だ。いや、もしかするとヴィクトリアが勝手にパピヨンの言葉を難しく解釈しているだけ
かも知れない。誰だって回復期の晴れやかな状態ではポロっと口が滑り本音を漏らすのだ。今の賛辞が手料理に対す
る本音ではないと言い切れる者は誰もいない。パピヨンですら、言った瞬間照れ隠しの弁明と見られてしまうのだ。

「それじゃまた明日。別室でパパと交代したら帰るから」
「? 泊まり込みじゃなかったのか?」

 何を今さらというカオをヴィクトリアはした。

「な、何を言ってるのよ。昨日だって夜はパパが当直してたでしょ? 覚えてないの……!?」
「全然。確かに朝やその他の時間帯に時々ヴィクターの奴が来ていた気もするが、奴は貴様が眠りこけている時の代理
じゃなかったのか?」
「半分はそうだけど……。夜の当直はパパなの。私が、私が……あ、アナタの所に泊まれる訳ないでしょ……!」
 13歳というオシャマ(死語)な年頃のヴィクトリアに一泊という言葉は少し刺激的すぎるのだ。
 パピヨンは何も言わず不満そうに顔を背けた。
 そうされると何だか、引き止められているような気がして満更でもなくなる。女心とガニメデの空である。緑の筒(ヘアバン
チ)に結わえた金髪の房をやや嬉しげな顔で弄びながら、しかし言葉上ではからかうように呼びかける。
「まさかその歳でママが恋しいとか思ってるの?」
「貴様が言うな、貴様が」
「何よひどい」
 図星で不快だが先にブーメランを投げたのはヴィクトリアである。「言われてみればそうね、全くよ」。軽く肩を揺する。亡
き母への寂寥は実際まだまだ心にある。パピヨンを看病するのだって母にそうした記憶がまだ残っているからだ。でも曝露
療法というか、外部に冗談の形で出したり、皮肉混じりに指摘されると、心はちょっとだけ軽くなる。きっと人間はそういった
微細な砂を直視しがたい過去へちょっとずつ掛けるコトで記憶と感情の連動を希薄にしていくのだろう。

「どうしても寂しいって言うならトランプ遊びの相手ぐらいしてあげるけど?」
「父の方よりからかい甲斐があると言うだけだ。調子に乗るなよ」

 10数分後、交代時間にもなって別室に来ない娘を訝しんだ父が部屋に入って見た物は、パピヨンとババ抜きに熱中する
ヴィクトリアだった。

(やれやれ。どちらもまだ子供か)

 父というより教師のような口調で決着後すぐの散会を命じると、2人は気のない返事のあと宿敵に向かって闘志を燃やし
始めた。



 2月13日。

 病が深刻かそうでないのが分かるのは概ね発症3日目である。ここで一向好転の兆しが見えなければ人は入院を考える。
小学校あたりの子供達は気だるいながらも明日はもう学校かと一喜一憂するのが殆どだ。

「両手の捕食孔で料理を食べた場合、味って分かるのかしらね」
「するさ。悪魔のように黒く、地獄のように熱く、接吻のように甘い味がな」

 フルハウスにブタが負けた。回復し、頭が以前の回転を取り戻したパピヨンは負け知らずだ。女の子が願いを叶えるカード
ゲームこそ得意だがポーカーではまったく太刀打ちできないヴィクトリア。

(ヒマ潰しだし、別にいいけど)

 37度5分と日増しにメキメキ回復しているパピヨンだからトランプ程度は問題ない。

 発症3日目は一喜一憂の時節である。回復を喜ぶヴィクトリアだが憂いもある。なにしろ憂う者とはチョコの人と本質を
同じくする存在だと古事記にも書いてある。ゆえに少女の上記が如き心境はバレンタインと合致した物と言えよう。

(このままだと、明日……チョコが……)

 食べれる状態になる。そのために作ったのだが、いざ食べて貰えるとなると急に怖くなってくる。

(だいたい……その……ほんめい…………なのに、何日も前に作ったものを冷蔵で送るってどうなのよ……)

 手渡しを怖がったが故の消極的戦法の致命的欠陥にヴィクトリアは今さらながら気付いた。
 贈るなら当日作りたてか、最悪でも前日完成の物品であるべきだろう。

(いっそもう、今日、月に帰る……? この回復ぶりなら明日はもう完治だろうし……)

 と思うが懸案事項が2つある。

 1つ。急速な悪化。母の介護で何度か見たが、峠を越えた筈の人間が突如として再び危篤状態に陥るコトはままある。
 だからできれば完治するまで付き添っていたい。欲をいえば完治後一週間は念のために経過を観察したい。

 2つ。まひろの存在。ヴィクトリアが月に帰った場合、彼女はパピヨンと遭遇するかも知れない。
 そしてチョコを渡す。チョコレートパイの宅配より早く渡された場合、ここまで色々尽くしてきたヴィクトリアはうら寂しい気分
を味わう。バレンタインデーは別にその日一番にチョコを渡した女性に愛の成就を約束する日ではないが、そうだとしても、
ここ数日ずっと一緒に居たヴィクトリアが他の女性に先を越されるのは何となくガマンがならない。
 まひろのチョコが持て囃されるなか届いたがため放置されるヴィクトリアのチョコレートパイ。
 数日後ほかのゴミと一緒に捨てられるチョコレートパイ。
 耐えられるわけがない。

 なら看病がてら今日、新たなチョコレートパイを作り日付が変わると同時にパピヨンを叩き起こし渡してしまえば万事解決
だが、そういう電撃的で肉食な戦法はむしろ斗貴子の領分であろう。(実際は千歳がやった。宵闇の空間を未婚女性の怨念
のような紫電と共にデロデロと現れた彼女が防人にチョコをやり幽鬼の如く融け消えた)。
 渡したいけど渡したくないという臆病で純情な少女はそれすらできない。
 だのに何も妨害していないまひろの存在が核兵器のような存在感で脳を蝕む。

 考えながらやっていたのが悪かった。せっかく来たAを2枚もチェンジしてしまった。(こんな風に失敗するんじゃ……) 嫌な
予感ばかりが募っていく。

(…………)

 パピヨンの暗い瞳がそんな少女をじっと見据えた。



 悩みは身体まで重くするものらしい。

 買い物に出たヴィクトリアは何だか冴えない、ドンヨリした足取りだった。






 2月14日。

 逗留しているホテルのベッドの上で見る混沌とした夢から魂魄を引き出したのはケータイのバイブレーションだった。

 ひどくけだるい手つきでそれを止めると結構な件数の着信があった。総て父からだ。時刻はいつもの交代時刻を2時間
もオーバーしていた。

「悩みすぎたせいか……昨日眠れなかったし…………気だるい……」

 いわゆる看護疲れがそろそろ出ているのかも知れないと思った。

 いっそ父に看病を任せたくなったが、しかし彼はまひろを手近な喫茶店に呼びつけアジトに近づけぬ役目があった。それ
をさせねばまひろがパピヨンにチョコを渡し、渡したばかりに関係が芽生える恐れがあった。

「行かなきゃ…………」

 くらくらする頭でそれだけを思いながらナース服を着る。アジトに着くまでの記憶はなかった。夢の中を歩いているような
ぐらぐらした心持ちだけが残った。

(バレンタインってここまで悩むものだったの……? なんだか……変、変よ……)

 アジトのドアを開くとパピヨンが立っていた。(遅刻を咎められる)。生真面目な少女は咄嗟に怯えた。

 だが彼は糾弾はせず、しかし静かな声を漏らした。

「俺についてはもう問題ない」

 体温計を出す。いつだったかヴィクトリアが感銘したデジタル計は36度9分という劇的な数字を弾き出していた。良かった。
思わず花が咲くように頬を緩める少女を一瞥した彼はしかし何故か疑惑の色を濃くして尋ねる。

「問題は貴様だ。昨日からの様子を見て聞きたいコトが幾つか出来た。答えろ」
 聞きたいコト。ヴィクトリアの鼓動が跳ねた。
(まさかチョコレートパイのコトが…………?)

 どうしよう。隠さなきゃ。などと狼狽しているとチャイムが鳴り宅配業者がやってきた。
 慣れた様子でサインを書き込み小包受け取るパピヨン。

(パイじゃなかったらって思ったけど、差出人に私の名前が書かれている。終わりよ……!)

 絶望すると頭のぐわんぐわんが益々ひどくなった。ひどくなったが、それ故に少女は気付いた。

(いや……。待ちなさいよ。動揺しただけでこんな風になるのっておかしいんじゃ……)

 膝から力が抜け、いよいよ直立が崩れていく中、ヴィクトリアはやっと己の体の異変に気付いた。耳たぶが妙に熱い。
赤面した時のような心地いい熱さではなく、ただひたすら何かへ殺意を向ける煮えたぎる業火のような熱さだった。

(あれ?)

   (これって…………)

            (まさか…………?)

 パピヨンに受け止められた少女は彼の胸の中で両目を×印にして、のびた。

 青年は、嘆息した。

「昨日から倦怠感が目に見えて明らかだった。看護疲れかと思い今日まで様子を見るコトにしてみたが」

 ヴィクトリアの細い首を人差し指で事務的になぞり、呼吸を数える。額に当てた手は体温計を使うまでもない明らかな高温
を伝えていた。


「貴様もどうやら感染したようだ」

「俺の体内で錬金術的変性を遂げたインフルエンザウィルスに、な」





 同刻。ヴィクトリアからのチョコレートパイを受け取ったカズキは斗貴子の顔色が許諾の色なのを確認したので口をつけ
た。

(まずヴィクターに白い核鉄を使った恩返し、か)

 そんなコトを思っていた斗貴子はふと先日カズキと躱わしたヴィクトリアにまつわる会話を思い出す。

 途中で中断していた、インフルエンザの話を。


「私も小耳に挟んだ程度だが、確かA型インフルエンザウイルスは突然変異しやすい代物らしい。連続変異……だったか。
DNAウィルスと違って修復機構を持たないRNAウイルスだから、些細な異常すら時としてウィルスそのものを変革してしま
うコトがあるとか」
「じゃあ蝶野に感染したウィルスも……なの?」
「かもな。中途半端な免疫機構で死なない程度に攻撃されるんだ。アイツの体内でどういう変化を起こすか分かったもん
じゃないぞ……」
「でもインフルエンザウィルスすら進化させるとかちょっと蝶野らしいよね」
 のん気に笑うカズキに斗貴子はグッタリした気分になった。
(まさか私もキミのインフルエンザうつされたりしてないだろうな……?)
 黒い核鉄と白い核鉄の影響で変質したウィルスが感染したら…………。斗貴子は精密検査を決意した。





 聖サンジェルマン病院はパピヨンを媒介に出来た新型インフルエンザウィルスを巡ってしばらく上に下への大騒ぎを演じた。
鳥や豚のそれと同じくホムンクルスにしか感染しないそのウィルスは、重篤化すれば当然ホムンクルスを殺しうる凄まじい代
物だった。

 一種の未知の奇病である。ヴィクトリア=パワードは厳重に隔離された。

「私が何したっていうのよ……。ただ看病しただけなのよ…………」

 高熱の中であれやこれやと実験材料にされたヴィクトリアは運命を呪った。


 41度の熱で苦しむコト4日。
 やっと38度台後半になったのは更に2日後。
 ヴィクトリアはいまだ集中治療室の中にいる。面会者はいかにもな防護服かこの件に対して防人衛が特別に発動を許可
されたシルバースキンの着用を義務付けられる有様だ。

「そもそもパピヨンには効いてたタミフルが私の時には効かないとか……!」
「耐性菌になったらしいな。そしてお前に感染した」

 父は嘆息したが、ヴィクトリアにも落ち度はあるのだ。

 まさか自分には感染しないだろうとマスクをしなかった無防備体制も悪かったし、看護疲れで体力が落ちていたのも災い
だ。パピヨンとトランプをしたせいで睡眠時間が削られたのもある。泊り込みを避けたばかりに夜道の寒さを味わったの
も免疫力低下の一因だろう。

 不幸中の幸いだったのは、発症しつつあった13日時点で月に戻らなかったコトだ。

「もし戻っていたらそれこそバンデミックだったぞ」
「花房だけは死ねばいいのよ。アイツさえいなければ私は地球に来たりしなかったのに」

 父は頭をかいた。彼女を利してヴィクトリアの帰省を促したばかりに娘は未知の奇病で苦しむ破目だ。

(あの少年の妹に感謝だな)

 まひろがヴィクトリアに帰還を迷わせる抑止力にならなければ月は大変なコトになっていた。

 14日を思い出す。呼び出した手近な喫茶店で友チョコ2つを渡した栗色髪の少女と共に。

「エート。2つだからね。3つじゃないよ。3つだとあの……えーと。なんてお名前だったっけ。金髪で、斗貴子さんと同じ制服
のあのコに悪いから2つなのデス!」
「ヴィクトリアだ。……? 3つ? キミはまさか、アジt……いや、あの家にもう1人居るのを知ってたのか?」
 睫の長い大きな瞳が「ふえ?」と瞬いた。
「あそこパピヨンのおうちでしょ? あそこに帰ってく姿みんな結構見てるよ?」
(……。バタフライ。キミが残したアジトはすっかり衆人に知られているぞ)
 呆れるヴィクターをよそにまひろは能天気な笑いを浮かべた。
「きっとあのコはパピヨンのコトが大好きなんだよ。なのに私がチョコ渡したら「おのれー」みたいな気持ちになっちゃうよ。一生
懸命付きっ切りで看病している時にお邪魔するのは悪いから、だから私はあのコとおじさんにだけ友チョコをあげるよ!
応援の意味も込めて!!」


(訳が分からない癖にその何もかもに勝ってる感じはなんなの! 本当だめ、受け入れられない……)

 恋敵になりそうにないのは安心したが、絶対相容れないと思った。

「ところでヴィクトリア。オレはしばらく戦団の任務に従事しようと思っている」
「何でまた……。行き掛かりが行き掛かりなのに……」
 ヴィクトリアの件で離別し、あれほどの叛乱を起こした男の復帰は不可解でしかない。少女の細い眉がぴくりと跳ねた。
「お前が感染したインフルエンザウィルスを狙って幾つかの組織が動き出した」
「なんでよ……? ホムンクルスにしか効かないんでしょソレ。人喰い目当ての共同体には無用の長物じゃない。パパと
相打ちになったホムンクルスの王みたく、他の連中を斃して頂点に登り詰めたところで地球に残存しているホムンクルス
はごく僅かだから意味ないじゃない。お山の大将よ」
「そうなんだが、月を狙った細菌テロに転用したら戦団は意のままにされかねない。月の連中の命と引き換えに、核鉄の
流出を要求されたらやっと静かになったこの地球(ほし)がまた……いや、騒がせていた当人たるオレがいうべきコトでは
ないな。しかし今回の病気の発端はオレにある。お前を地球にやったせいで生まれた病気だ、落とし前はつける」
「パパじゃなくて……花房が、悪いの……」
 薄い胸を上下させながら言う。もはやうわ言だった。
「とにかく留守は別の者に任せる」
「別の者……」
 べつのものと力なく繰り返したヴィクトリアはガバっと跳ね起きた。
「ちょっと待ってよパパ。別の者ってまさかアイツじゃ……!?」
「そう。そのまさかだ」
 暗い、バイオリンの弦を極限までゆっくり引いているような声音が響いた。
 ヌっと現れた彼はシルバースキンを身に纏っていた。集中治療室のガラスの向こうに防人衛が見えた。
「貴様には随分と世話になったからな。お返しはたっぷりとさせて貰おう」
 恩返しというより意趣返しとしか聞こえない口調で彼はネットリと告げる。
「アナタ……やっぱり看病が保護だって受け止めて…………怒ってるんじゃ……?」
 心細げに掛け布団を胸の前まで持ち上げるヴィクトリア。
「フム。怒りか。なくはないが嘗ての貴様の父親ほどじゃあない。だがまあ、ちょっぴり不快かな」
 ヴィクトリアにとって見慣れた小包の箱が置かれる。パピヨンは気焔と共に少女を指差す。
「この俺への貢ぎは常に最高級の蝶・サイコーな代物であるべきだ。然るに貴様はその不文律を無視した!」
「これ……宅配で頼んだチョコレートパイの…………」
 思わず手にとると軽かった。(まさか……!) 彼の文言から導き出される結論は”捨てられたんじゃないか”という不安に
なって脳を染める。やはり作ってから数日の代物など蝶人は受け付けなかったのだろうか。

「快癒したらすぐさま作り直せ。それ以上の代物を献上しろ。宅配業者の不手際で粉々になり不確かにされた原型をこの
俺の目の前で寸分違わず再現しろ。いいな。次は楽に品評できるよう計らえ。病み上がりの俺に二度と無駄手間を取らせ
るな」

 怒涛の如く流れさった言霊の残像を反復した少女は「あ」と舌足らずな声を上げた。そして俯くと、か細い小さな声で一言
だけ告げた。

「ひょっとして……食べて…………くれたの?」
「腹が減ってたんでね。碌に体調管理も出来ない看護婦きどりの遅刻のせいさ」
(平熱だった癖に……)
 外食など行こうと思えばいけたのだパピヨンは。なのにヴィクトリアの体調を諮問するためアジトに居た。

(やれやれ)

 ヴィクターの記憶は娘が倒れた直後に戻る。パピヨンからの連絡で聖サンジェルマン病院に来た彼は、首を傾げた。

──「なぜ病院なんだ? アジトでも面倒は見れただろうに」

 パピヨンは答えた。いつものように勝手な、自由気ままで酔狂な、それでいて誰よりも美学を重んずる態度で、悠然と。

──「ま、未知の病気だとしても俺の手元に置いて研究する方が何かと面白そうではある」

──「だが」

──「痛くもない腹を探られるのは不愉快なんでね。ここに預ければ貴様もアイツも騒がないだろ?」

 男女の関係の危惧などつまらぬとばかり切って捨てる態度にヴィクターは却って信頼を寄せる。

(やはりキミの子孫だな。彼は)

 亡き友に心の中で呼びかける。


「さ。どうしても寂しいって言うならトランプ遊びの相手ぐらいしてやるぞ?」

 ヴィクトリアに顔を近づけ顔を近づけいつぞやの言葉を返すパピヨン。


(ばかね。ほんと、ばか)

 宅配の不備でぐっずぐずになったパイを拾い集めて食べるパピヨンの姿を想像しながら横たわる。掛け布団を鼻の下
辺りまで両手で引き上げる。殺菌用の熱とは違った色合いが頬を染める。布団の生地の下で子供のような笑みが浮かんだ。

 次は生クリームもかけてみようかしら。パイ作りが好きな少女らしい思惑を抱きながら、心地いい眠気の中でうとうとする。



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