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第10話 「韓信の最期」



そして           背景 →  (紅葉が散り)
八年の           背景 →  (雪が降って)
月日が           背景 →  (桜が咲いて)
流れた。          背景 →  (青葉が茂っている)

紀元前196年。長安城中・未央宮内。
執戟郎(しつげきろう)、という役職がある。
今でいう警護兵であり、郎中とも呼ばれているそれが皆一様に戟を向けてくる様を、韓信は
所在なげに見つめていた。
「分かってるマメね? 韓信」
「ええまぁ。要約すれば八年前の戦いの後、垓下の戦いで項羽率いる楚軍を倒した私なんで
すが、戦後の処遇に不満を持って謀反を起こしたという事ですよね。覚えてます」
執戟郎たちは神妙な視線で韓信を見ている。彼らを率いる柴武が合図を下し次第、韓信を殺
す手筈になっている。
今、その注視の的になっている韓信も、実は執戟郎から身を起して流れ流れて国士無双と評
されるほどの男になった。
皮肉といえば皮肉であろう。
栄達を味わいつくした男がその原点の立場により終焉を迎えようとしているのだ。
「上出来マメ」
柴武が手を挙げると、戟を持った兵が韓信に殺到した。

誰かがいった。
歴史とは語り部がいて初めて成立するものだと。
その言葉の意味を理解しているかと聞かれたら、行者はこう答えようと思っている。
「完全にはまだかな。納得できない部分もあるし」
歴史は人がその実情を知らなくても足元に堆積しているのだ。
周囲を取り巻いているといってもいいだろう。
空気の味にしろ鳴り響くやかましい音にしろ、町を闊歩する人間たちにしろ、総て総て歴史の
累積の中から現れいでた物なのだ。
そういう意味では現存する総ての物が常に歴史の成立を物語っているではないか。
と行者は思っている。
彼は時間を遡る術を持っているが所詮歴史に対する思惑はその程度なのだ。
何故ならば彼は歴史家ではない。
例えばハワイやグァムに飛行機で乗り付けるのと同じ感覚で時間を遡っているに過ぎない。
観光地の総てを熟知している観光客などはいないのだ。
ただ誰かが作った紹介記事や写真に引きつけられてそこへ行き、何かがあればパンフレット
や地図を見たりガイドに頼る。
行者の時間旅行は結局それだけの物なのだ。さまざな道具こそ使っているが。
「ただ」
と行者はもう一つの意見も持っている。
誰かがいった。
歴史とは語り部がいて初めて成立するものだと。
もしその成立というものが、価値を帯びる事、「人々の心を捉える」事だとしたらどうだろう。
人は有史遥か以前に文字を得た。
その文字を以てあまたの出来事を記録した。
けれど脚光を帯びる出来事はそのうちほんの一握りに過ぎない。
浄瑠璃坂の仇討よりも赤穂浪士の討ち入り。
征台論より征韓論。
そして楚漢戦争より三国志。
歴史は繰り返すといい、現に見渡してみれば似た出来事は沢山ある。
けれど片方は脚光を浴びず、もう片方は押しも押されぬ人気を得るという現象は数多い。
もしかするとその差は語り部の差なのかもしれない。
いい語り部に恵まれた出来事は、事実以上に面白みを帯びて歴史の中でますます輝きを帯
びていき、恵まれなかった出来事は埋もれていく。
実際のところ歴史などは人の扱うものなのだ。
だから人の機微の介在する物がつくづく多いと行者は思っている。
隆盛など所詮語り部に左右される。
幕末の土佐で無愛想な郷士が生まれた。
彼は京都を駆け巡って、敵対しあう二つの巨大な勢力を見事協力させた。
誰かがいった。
歴史とは語り部がいて初めて成立する。
そういった者自身、無愛想な郷士の存在とその歴史を語り部に扮する事で多くの人間に知ら
しめたのだ。
歴史は時代が進めばこのような変化を遂げるコトもままあるのだ。
行者は一冊の歴史書を広げてぱらりと開いた。

紀元前196年。長安城中・未央宮内にて韓信が処刑される。

劉邦が反乱平定に行っている隙に、彼はクーデターを目論み呂后を人質に取らんとした。
だがその動きを事前に察知した蕭何により反乱は未然に防がれ、韓信は処刑された。

本はその「史実」の後に嘆いていた。
あれほど英雄視された韓信ですら最後は罪人として死なざるを得なかったと。
行者は本を閉じると、フっと笑いを浮かべてみた。
「語り部だって人間だから」
呼びにきた大事な大事な生涯の伴侶に手を振り、続けた。
「間違えたり、時々ウソをつくものさ」
時の行者はようやく見つけた恋人・リサと共に時間の旅に再び出発した。
彼の「今」という時間をよりよくするための果てない旅に。

「エマニエル、エマニエル、エマニエル、エマニエル」
蕭何、この男も老いた。
かつて呂后と凄烈なる戦いを繰り広げた蕭何であるが、今や髪は灰色でボサボサで、前髪が
伸びるままになって片目を隠している。ヒゲも伸びた。顎からたっぷりと垂れ下がり、どういう
ワケか途中から上に向ってトロンボーンのように跳ねている。ついでに白衣だ。
「聞いてくれているのか、エマニエル、エマニエル」
幾筋もの鈍い銀色の光が韓信の脇で残影を描き、止まった。
執戟郎の武器がすべて外されたのを、韓信はさしたる感慨もなく見た。
「我が息子よありがとう、この私の姿を見ている時には、もうおそらく何の心配もなくなった頃
だと思う」
「はい」

八年前。あの後。

信じられぬ異常な指の破壊力を見せた蕭何!
呂后にとどめをささんとせまって来る張良!
その危険を感じた劉邦の妻・呂后はひくいうなり声をあげながら、身構えたのだった。」
だが。
「もう終わりだよ、リサ」
その顔に何やら白い粉が降りかかった瞬間、彼女はやにわに動きを止めた。
白い粉は行者がふりかけたのだと劉邦は知り、同時に青ざめた。
「この匂い……ヨヒンペではないか!」」
とは、催淫剤の名前である。
例えば小柄でうだつのあがらない忍者が番茶に混ぜて若い人妻にでも飲ませばウッハウッ
ハだ。隻眼の竜だ。
「貴様、何をしようというのじゃ! また盛らせたらわしが、わしがぁ!」
「大丈夫です。コレは改良版」
喋る行者の首に細い腕がくるりと巻きついた。
「ジュンくーん。もうこんな時代いいから早く未来に戻って……いいコト、しようよぉ」
甘ったるい息と声を漏らしながら、呂后が行者にすり寄っている様を劉邦は驚愕の表情で見た。
「要するに振りかけた男の虜にするのじゃな」
「そしてこの”最強のユビ”を君に向ってはじくと……(ビッ!)」
「きゃああああああっ!!」
蕭何の放った衝撃はで呂后のエセ和服ならびに網タイツがビリビリに裂け、一糸まとわぬ豊か
な肢体が外気にさらされた。ヒィッツモチーフとお銀ちゃんモチーフゆえのネタだ。
「ともかく行者どのに懐いたのなら未来に返せるワケですね」
『これも我らの猛攻で弱っているが故』
「そういうコトです」
韓信と張良に答えた行者は、一瞬神妙な顔をしてから”ある話”をした。

そして紀元前196年。長安城中・未央宮内。

「あの時──…行者どのは我々の運命を告げて帰りました。蕭何どのと張良どのは天命を
全うして死ねますが、私は謀反を起こして粛清され、漢王はかの英布の反乱を鎮圧に向かい
そこで受けた矢傷が元で没すると。私は別に謀反とか興味ないんですけどね」
「く、やはり韓信元帥は八年前と変わらぬ素晴らしい大元帥だった、なのに私は疑うことしか
出来なかった。並行世界の話ですが」
目頭を押さえて泣きじゃくる蕭何の肩に手を当て、韓信は念を押した。
「けれど行者どのの知っている歴史では、呂后が没するのは私や漢王の没後遥か後。なのに
本物は八年前の時点で殺されていた。じゃあ歴史は変わってるワケで」
「これもただの小芝居マメねー 思いの他キャラが立った柴武はうなずくマメ
うなずきながら韓信は槍ぶすまをそろそろと避けて歩きだした。
蕭何へではなく、未央宮内の出口へと。
『どこへ行くつもりだ』
正面にブンと黒い霧がけぶって文字を描いた。
「おお、張良どの」
『お前も私同様隠棲する気か? だが』
「ええまあ。分っていますよ。私は軍事の才覚はありますが、処世はまるでダメ。野に下った
ところで無事には生涯を終えられないでしょうね。不平を持つ人たちが私をかついで漢王朝
を転覆させようと目論んだら、きっと流れは止められないかと」
「ならっ!」
韓信の頬桁にドロップキックが叩き込まれて、彼は無様に吹き飛んだ。
「わしの部下になっておればいいじゃろうがっ!!」
「漢王…… 反乱平定から戻ってきていたのですか」
頬を真赤に腫らしながら韓信は息つく劉邦を見た。
「つい今しがたじゃ! ええい貴様という奴は! わざわざ歴史書通りに動かんでもいいじゃ
ろうが! じっと領土に引きこもって歴史書に”反乱起こした失敗した”と書いておけばいいの
じゃ!」
「まぁまぁ。嘘つくにもある程度のリアリティは必要ですから」
「相変わらず冷静な。つぅか本当なのか!」
「ああ、隠棲の件ですね。そうです。昔みたいに着のみ着のままうろついて、股くぐったり時々
おばあさんにご飯を恵んでもらったりします」
「なら勝手にしろ! ただし反乱は起こすなよ! わしの死因を作るな!」
「ええ」
「それから……」
「それから?」
「……体、大事にせい。わしが天下を取れたのはお前のお陰でもあるのじゃ」
「お言葉いたみいります。それでは」

その日韓信は、錆の浮いた長剣を腰で躍らせながら長安城を出た。

中国一、軍略に長けた男として折り紙をつけられながら、その後の韓信の消息はさだかでない。

項羽と劉邦・完


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