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フィソステギア (1)



武藤カズキは津村斗貴子と結婚した。
結婚というのは婚姻届という緑の線と文字がぎっしりの目に優しい紙切れに名前を書きあい
判子を押してガラリと窓を開けて屋外に躍り出て、「ムッヒョラウゲバァ〜!」と
絶叫しつつ野良猫の腹に蹴りをぶち込む儀式だったような気がするが、ネット上で
調べて出てくる婚姻届は悉く白黒印刷だし、野良猫に蹴りをぶち込もうにも奴らは
すぐ逃げすさるし、何より猫らが可哀想なので違うと思われる。
特筆すべきは「ぶちこむ」で「打ち込む」と変換されるコトで、ならば、「ぶつ」は「打つ」なのか?
イエス。打つであった!
ともかく結婚した。結婚して、武藤カズキは専業主夫になるコトを決意した。
主夫は楽だ。無能どもが織り成すやるせない社会の歯車に巻き込まれず済むというのは正にヘブン!
だから主夫になるコトを決意したのだが、戦士を辞めるとなると色々人間関係がアレなので
関係各位に頭を下げて回った。
まずはパピヨンだ。
彼はカズキのライバルで決着に固執するあまりマラが肥大化し、それが腹に刺さってぐんぐんと伸び盛り
ついには三半規管すらも貫いて平衡感覚がグダグダになってしまったありきたりなホムンクルスだ。
「ゴメン」「謝るなよ偽善者」
パピヨンはフラフープによる勝負を挑んできた。そして腰を一回転するあたりで無様に転び、決着がついた。
カズキは歩を進めつつも寂しそうに何度も何度も振り返り、やがて見えなくなった。
むなしく大地に横たわるパピヨンの腕をとり、そっと彼を起こす者がいた。早坂桜花である。
このナイスバディな生徒会長は口汚く罵るパピヨンにやんわりと毒を返しながらも、しばらく献身的に看病し
やがて愛が芽生えた。
「どうして、私を選んだの?」
「蝶は花が好きだからさ。だから吸わせろキミの蜜を!」
「あ〜れ〜!」
お次はキャプテンブラボー。
ブラボーはカズキの師匠筋に当たるから詫びを入れるは仁義の定め。
彼は同僚のチンピラと些細な口論の末に重傷を負わされ、心身ともにすっかりダメになったので入院中だ。
カズキが訪ねた時は、ちょうどベッドの上で星のカービィ夢の泉DXに熱中していた。

「よしゃUFO出た! ほーれ見ろっ見ろ、千歳ぇぁっ! ゆゆゆゆUFOッ UFOだぞぉん!
なんだよこれ一面こっきりかよナイトメアにも撃たせろよビーム! そうか戦士やめるかカズキ
じゃあお別れだ! さーそんなこんなでさよならを言って別れたブラボーお兄さん、次の面に到着し…あっと、あっと
…おっしゃあ! ミックスなったぞUFO出ろUFO…チッ! スターロッドなんぞ出んなクズがああああああっ!」
「どっひぇ〜! ちょっと防人君、それはバグよ!」
「バグかぁ!!」
火傷まみれの右腕を一閃! ブラボーはゲームボーイアドバンスを壁に叩きつけて粉々に破壊した。
それを慣れた手つきで千歳──年甲斐もなくセーラー服を着て喜ぶ恥知らずなおばはん──が掃除する。
だが、千歳の手がツと止まった。そしてやや考え込んだ末に、突如目を見開いて大声を発した。
「任天堂を訴えて花札貰いましょう花札!」
なんという突飛な発想か。任天堂が花札で名を馳せたのは既に過去のコトである。
にもかかわらず花札を欲する姿勢たるやひどく前世紀的で、これから斗貴子とさまざまな未来を創ろうと
するカズキにはどうも耐え難い。それでなくともブラボーの変心振りに胸焼けしてる。
だからカズキは小声で帰る旨を告げるとそそくさと病室を後にした。
千歳の調子は全く変わらない。カズキなどアリのように些細な存在なのだろう。
「花札にイカサマを仕込むのよ。そしてあの、同僚だったけど決して友達じゃなかった火、火わ、火わた、そうよ思い出したわ
ポンペーヌギャとかいう火炎オタクからボるのよ! ボって油田に叩き落しましょう! 石油資源を浪費する死刑よ!」
「うむ。今や千億の欠片に砕けたカービィの弔い合戦だな千歳」
「ノンノンノンちぃっとも違うわよ! 弔うなら砕いたあなたが自害して! けど花札にイカサマを仕込まないと何も始まらないでしょっ!?」
千歳はベソをかきつつ冷蔵庫に保存してあったウサギリンゴを床へばら撒き、ぐしゃぐしゃと踏み砕いた。
どうも一年以上に渡る看護生活の疲れが出たらしい。ブラボーは困った。
そこに一つの影が現れた。
「花札ならここにあるよブラボー! リンゴと交換しようよ」
「床に落ちたリンゴは食べるとお腹痛くなるよな! そしてお前は──!! 」

さて、最後は戦部だ。かつてカズキはこの偽覇王丸と共闘すると宣言したが、しかしその宣言は
夜明け近くの墓場という若者なれば誰でもハイになる場所だったから若気の至り。
カズキは斗貴子によく「なんであんな約束をしたのか」とよく愚痴を漏らすほどやんなっちゃってた。
戦部はいつも養鶏場みたいなアンモニア臭を漂わせている。それが良くない。
んで、主夫になるから共闘はやめるといったら戦部は納得してくれた。
理由としては、一般人を戦闘に巻き込むのは主義ではない、というのが主なものだが実はもう一つある。
戦部は気質的に言わないが、根来という忍者じみた戦士なら、やや時代がかった口調でこう代弁しただろう。
「戦部はある者と、戦部だけにしばらく旅に出る予定であり、旅行中、貴殿との共闘の約束は一時保留するつもりであった。
しかるに貴殿はその連絡前に現れ、戦士を辞するという。遺憾ではあるがそれは本来の姿だろう。
(と、ここで物憂げに目を細める)
極めて貧相かつ凶悪なあの女をなぜ選んだかは甚だ疑問であり、もっとバイン! キュキュ! バイ〜ンッ!
な女性が好みというのが戦部と私に共通する意見であるが、祝福はしておく」
以上のような細々とした事情がある。しかしそれを言わぬが戦部だ。厚ぼったい唇を笑みに歪めながらの祝福に留めた。
ちなみにバスクリンと重曹をいれた風呂に入ったので、体臭はもはやない。
重曹は風呂に入れると垢を落とす効能があるのだ。ウソではない。
これで全てが丸く収まると思いきや、思わぬ伏兵が登場した。ジャーンジャーン。
武藤まひろである。どうも兄の後を尾行していたらしい。病院にも居てリンゴは貰えなかったらしい。
「代わりに私が戦うわ! お兄ちゃんの遺志を継いで!」
ずんぐりした薄眉を吊り上げ、熱気もあらわに拳を握る少女を戦部は手でしっしした。
だがまひろは譲らない。戦部は少しばかり辟易した。
んで苦肉の策。戦部がお昼ご飯にしようとしてたカルカンブレッキーズをあげると、カズキが開け、
まひろはおいしいおいしいありがとーと平らげ、大きく万歳三唱しつつ兄ともども帰って行った。

帰るべき世界へ。   

帰るべき世界へ──…


錬金戦団、最殺部隊三号戦士、戦部厳至(イクサベゲンジ)。
好きな物は勝ち戦と負け戦。嫌いな物は安穏とした生活と、不意打ち騙まし討ち。
特技はホムンクルスを喰うコトで、趣味は戦史研究である。
筋骨隆々たる大男で、長髪を無造作に括り、十文字槍の武装錬金『激戦』を振りかざし戦う様は、さながら戦国絵巻
の一幕を見ているような磊落(らいらく)さに満ちている。

そんな男がである。
横浜郊外にあるニュートンアップル女学院でうろついているのを見たとき、ヴィクトリアは唖然とした。
ヴィクトリア。ロングヘアーを何本もの筒状のアクセサリーに通している所が多少目を引く以外は
ごく普通の女子高生をしているが、その実は人食いの化け物、ホムンクルスをしていたりする。
みんな絶対ウソだと言うが、本当のことなのでこれはしかたのないことなのです。
ともかく、そのヴィクトリアが唖然としたのは、明治時代の教会に端を発する、資産家や旧華族の令嬢御用達のハイスクールを
徘徊する大男の粗野極まりなさにもだが(現に何人かの生徒は悲鳴を上げつつ逃げ惑い、警察を呼ぼうとしている者さえいる)
その大男の着衣にだ。
着込んだ陣羽織の胸元に見える、不等号が潰れて下を指しているような赤線を二つあしらった紺地の服はまちがいなく、
錬金戦団・再殺部隊の制服。
おりしも、ヴィクトリアの父たるヴィクターが非業の死を遂げ一年が経とうという頃である。
ヴィクトリアの唖然は、やがて心中のざわめきに姿を変えた。
ざわめきの大半は、ヴィクトリアが錬金術に向け続けている憎悪である。
錬金術は結果から言えば、彼女の父を異形に変えて葬り去り、彼女の母を脳髄だけの存在に貶め、
更にヴィクトリアすらもホムンクルスという不老長寿の化け物に変えさせ、彼女と母を100年もの間
地下深くでの「ヴィクターを元に戻しうる白い核鉄の研究開発」という戦団や世間からの隠遁に押し込めた。
ヴィクトリアの運命一つ一つを決定する重大な要素は、常に錬金術に染まりきり、そして不幸をもたらしている。
いま女学院をうろついている戦部に殺意が芽生えたとしても無理な話ではないだろう。
と同時にヴィクトリアは、ひやりとしたざわめきに支配されつつもある。
かつてのヴィクター討伐の意義。それは「賢者の石の研究失敗による不祥事隠蔽」である。

されば、その研究面の第一人者だったアレキサンドリアにも抹殺の手が伸びてもおかしくない。
彼女は最大の被害者ではあるが、同時に全ての顛末を知る最大の証言者でもある。
ヴィクトリアは核鉄を握り締めた。
彼女の「アンダーグラウンドサーチライト」という避難壕の武装錬金は、地下に空間を作るだけの
まるで戦闘能力を有しない特性だが、しかしそれでも母を連れてひとまず退避するコトはできる。
と、そこまで冷や汗まじりに頭をめぐらせた時、戦部はヴィクトリアの眼前にいた。
そして次に彼が発した言葉は理解の範疇を超えていて、ヴィクトリアはその冷然とした性質に見合わぬ
非常にマンガ的な、白目を剥いた真っ白な状態になった。
「しばらく食の旅に付き合え。なぁに心配するな。旅費も代金もすべて俺が賄う。母の許可が必要なら取ってやろう」

(本当にどうかしている)
頬杖を付いて窓と向かいあうヴィクトリアの眼前を、青々とした田園とまばらな家屋が流れていく。
電車の中に彼女はいる。
どうも田舎を走っているらしい。戦部は四人掛けの座席の通路側に座っている。
彼は先ほどからヴィクトリアに目的地も告げず、何やらごそごそと食べている。
ヴィクトリアが横目でチラリと見ると、戦部の手中に尾びれのような形が見えた。どうもホムンクルスの一部らしい。
もう一つ、こちらは女学院にいる頃にはなかったが、大きなスーツケースが戦部の横(通路)においてある。
欠片はそこに入っていたのだろう。

あの後、ヴィクトリアが向けた不審のキツい眼差しを戦部は意に介さず、まずはアレキサンドリアの元へ
(クローン増殖した脳が保管されている地下の部屋。ヴィクトリアは制止したが戦部は勘のみで突き止め
地上から穴開けて突入した)行き、一応の許可を得た。
「なんでなのママ。私は外の世界になんか興味ないのよ。だったらここに居た方がいいに決まってるでしょ」
「そういわず行ってきなさい。もう、ここに留まる理由はないのよヴィクトリア」
釣り上がった目を困惑に歪める娘に、母はガラス振動の無機音(脳だけのアレキサンドリアの会話の手段その1)が
ピシャリと刺したきり沈黙した。
そして更に抗弁しようとしたヴィクトリアの目の前が、真っ暗になった。
母の武装錬金「ルリヲヘッド」が覆いかぶさったのだ。

それは装着した者の意識を消し去り、創造者の意のままに操る特性を持っている。
アレキサンドリアの会話の手段その2だ。
気づけばもう電車の中だった。母が操り乗せたのだろう。つまり街中をあの仮面をつけて歩いたと知り、やや赤面した。

そういうコトがあった以上、女学院に戻ったところで母が同じ真似をして戦部に同行させるのは目に見えている。
ゆえに戦部と向かい合い、ただじっとこの旅行が終わるのを待っている。
(本当にどうかしている。私の気も知らないで。私が傍に居なきゃ誰がママを守るっていうの?)
流れる景色を見ていても、そればかりが頭を過ぎり、母が心配でならない。
もっとも、アンダーグラウンドサーチライトは武装錬金の例に漏れず、解除しない限りはそれまで通りに
母を地下深くで守っているし、彼女に仇なすものの侵入を許したとして、ルリヲヘッドがある。
アレキサンドリアがそれを使えば活殺自在、敵対者すら護衛者になりうる。
よって、ヴィクトリアの不安は杞憂といえる。
「喰うか?」
戦部はホムンクルスの欠片を差し出した。
「いらないそんなもの。共食いなんて気持ち悪い」
冷え切った横目でにらむと、戦部はふむぅとアゴに手を当てた。
「ところで、だ。以前から気になっていたんだが、お前は人間を喰った事はあるか?」
これ以上不躾な質問もないだろう。ヴィクトリアが生命維持に人喰いを要するホムンクルスになったのは
戦団のせいであり、戦部はその戦団所属である。
「なかったら100年も地面の下にいられないでしょ?」
正面に向き直って冷笑を浮かべた。それで終わらぬ悪意が胸中にある。
戦部はそれに気づいたのか気づかなかったのか。
「質問を変えよう。これは防人戦士長の請け売りだが、ホムンクルスは大体の場合学校や学生寮を襲う。
そしてお前は全寮制の女学院の地下深くに100年も居た。しかし、完全に行方知れずの関係者はこの100年
一切出ていない。となれば、お前はあの女学院の関係者に一切手をつけていない事になる。何故だ?」

電車が不意に止まった。しわがれたアナウンスが告げるには、信号待ちらしい。
ヴィクトリアの冷笑は、嘲笑に移行した。
「何故だも何も。もし手をつけてたら噂になって、あなたたちが来て」
戦部は手にした欠片を口に放り込み、無遠慮に咀嚼を始めた。
視線こそ向けられてはいるが、まるで自分の話が無視されているような不快感がある。
ヴィクトリアは少し声を荒げた。
「…またあなたたちが、ただ普通に暮らしたいだけの私達を邪魔するでしょ? 100年前と同じように。
だから女学院の関係者に手をつけたりしてないわよ。
時々は、ママのルリヲヘッドで研究の手伝いをさせる為にさらってたけど、用がすんだらちゃんと返してたし」
ごきゅり、と大きな音を立てて戦部は欠片を飲み下した。
「そこだ」
「何よ」
太い首を欠片が通っていくのが見えた。非常に生々しい光景にヴィクトリアはやや気圧された。
「格好のエサ場に手をつけず、お前はどういう風に生き延びたんだ?
俺はお前たち一家に関する資料を読み漁り、この100年どうしていたか見当は大体ついているが
お前が何を喰って生き延びていたかは、どうしても分からん。だが、もしもだ」
「………」
きゅっと息を潜めるヴィクトリアに構わず、戦部は喋る。
「もし、父と同じような生態を持っていて、それによって生き延びているなら──俺と戦え」
「それは──…」
もし、正確に答えれば戦部はどうするだろう。やはり戦士としてヴィクトリアを討伐するのだろうか。
そう。
父と同じように。
「私があなたにいう必要なんてない。大体、さっきいったコトだって嘘かもしれないでしょ」
プイと顔を背けると、ちょうど電車も動き出し、また流れる景色に目を落とした。
どこまでも続きそうな同じ景色は、世界の広さをヴィクトリアに感じさせる。

父ヴィクターは、伝え聞く所では世界を100年前も1年前も、世界各国を放浪していたらしい。
きっとこの電車を流れる景色よりも、ずっと多くのものを見続けて、死んだのだろう。
見やる景色からの飛躍した考えに、ヴィクトリアはなんだかやるせない寂しさに覆われた。
一方戦部は表裏が半透明の青と銀色に彩られた円盤を取り出し、せんべいのように食べた。
傍らには「ディスクアニマル02 ルリオオカミ」と印字された箱が転がっていたりした。

しばらくすると電車が止まり、戦部とヴィクトリアは降りた。そして街へと歩を進めた。

どことなく古きよき昭和の時代を連想させる町並みである。
「この町で何か旨いモノはあるか?」
通りかかった眉毛の太い婦警に戦部が聞くと、ラーメン屋に案内された。
そこはとてもアグレッシブであった。
従業員とおぼしき女性が、長身の男性を打ちのめし、かと思えば、奥より飛び出た女店主が一喝と
一撃の元に従業員を撃沈せしめる。
食物連鎖をかくも手短にまとめた光景に、客どもは歓声をあげ、高いボルテージが店を満たしていく。
ヴィクトリアは、一度は席に座ったものの眉をひそめた。
彼女にとっての食事は、脳だけの母の前で、淡々とパンなどをかじる静かなものだ。
女学院の食事風景も見たコトがあるが、元より令嬢がするものだから、多少のお喋りこそ混じわれど
やはり基本的には粛々とした静かなものだ。
しかし店はひたすらやかましく、やかましい。
「ネギラーメン2丁」
戦部は平然と注文した。
「私はいい」
ヒートアップする店内を尻目にガタリと席を立つヴィクトリア。だが、袖がずいと引かれた。
見ればそうしたのは隣に座る、端正だがやけに辛気臭い顔の女性である。
年は先ほどの従業員よりやや上だろう。しかし着込んだジャージは見すぼらしく
決して明るいとはいえない雰囲気をますます暗く、老いた物にしている。
いいよ先生、選ぶのはお客さんの自由だよ、と女店主が声をかけた所をみると、なんらかの教職についているらしい。
ちょうどその時、店の引き戸が開けられた。

入ってきたのは、ここの従業員と同年齢の、金髪を後ろで大きく括ったメイド姿の女性である。

怨霊!

彼女は『先生』を見るや否や、蒼白で金切り声をあげ、一目散に逃げた。
先生はショックを受けたらしく、いずこから取り出したる縄で首吊りを実行せんとした。
客はみな、引いた。
野菜を搬入しにきた八百屋の青年だけが、叫んだ。
──縄をほどけ!
ほどけなかった。
もう女性は死ぬのか。皆の心は深く沈んだ。
その時である。店の片隅から声が上がった。
──高枝切りバサミならありますよ。
さすらいのマジシャンだった。
──切れ!
皆の声が重なった。
マジシャンはカバンから高枝切りバサミを取り出し、縄に当てた。
果たして縄は切れるのだろうか。
皆、息を呑んだ。
縄は……切れた。
地上へと落下する女性を、八百屋はキャッチした。その衝撃は今も、彼の腰を苛みつづけている……

ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない。
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない。

九死に一生を得た先生は、まずヴィクトリアに声をかけた。
曰く、ここのラーメンは生きる活力を与えるらしい。曰く、だから食べなきゃダメなのよ。
ならばなぜ、ここでラーメンを待っていたハズのあんたは自殺を図ったのか。少しぐらい待てよ活力。
八百屋は涙目で腰をさすりつつ、小声で異議を唱えた。救助に際し腰を痛めた彼にはその権利がある。
先生は意に介さず話を続け、いつしか身上話に移行しつつある。

それによれば、職業は高校教師であり、給料は少なく、新聞を買う代金すらないほど生活に困窮し、街
の自殺名所と三途のデッドラインをうろつきまわる生活を送っているが、しかし、ここでラーメンを食べる
事だけは欠かした事がないらしい。
なぜならばここのラーメンは生きる活力を与えるものであり、また、自信をつけさせる効能もあるからだと
隠隠滅滅としたやりきれない声で力説する。
美貌に属する顔つきであるが、光なき眼には霊的なおぞましさが宿っていて、凝視されるヴィクトリアの背
筋にぞわぞわと鳥肌が立った。戦部はやりとりを面白そうに見ている
やがてヴィクトリアは根負けし、ネギラーメンを頼んだ。ややあってそれが来た。
しかしヴィクトリアはそれに付属する割り箸の使い方が、その割り方からして分からない。生粋の外国人なのだ。
ラーメンを前にじっとしていれば、香ばしい臭いが鼻に付いていかんともし難い。
ヒントはないかと周りをきょろきょろ見渡してみるものの、どうも食べ方が分からない。
備え付けの木は一本なのに、皆は二本で黄色い麺を口に運んでいるのが不思議で、何度も首を傾げた。
戦部はというと不親切なもので、ラーメンをすするばかりでヴィクトリアを省みない。
と。
声があがった。おかみさん、外国から来たお姉さんにフォーク貸してください、と。
主は髪を左右に束ねた小学生の女児。ちなみに彼女の飼い犬は店の前で従業員と戦闘中だ。
「あ、えーと… ありがとう」
とりあえず礼をいうと、女児はヴィクトリアの日本語の巧さにしきりと感心した。
だから箸も使えると思ってたんだよ、気づかなくてすまないねぇ、と女店主は謝りながらフォークを出した。
そんなこんなでヴィクトリアがようやく食べれたラーメンは、確かにおいしかった。
塩と脂と炭水化物を混ぜただけのものなのに、どうしてこんなに旨いのか。
先ほどの先生すら驚くべきコトに、ラーメンをすすりながらも普通の美少女然とした笑顔を振りまいている。
そういえば、騒ぐ客達も非常に楽しそうな顔つきだった。
(そういう所なのか)
ネギをフォークの先でちょいちょいとつつきながら、ヴィクトリアはため息をついた。


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