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第008話 「総ての序章 その2」 (2)



彼らの世界は、彼らと、その母・早坂真由美の3人が総てだった。
「早坂家」は3人と1DKのアパートが総てだった。
父親は──…
いない。
知らない。
分からない。

当時の遊びで秋水が一番よく覚えているのは、ケッコン式ごっこ。

──健やかなる時も 病める時も
──喜びの時も 悲しみの時も
──富める時も 貧しき時も
──これを愛し これを敬い
──これを慰め これを助け

──死が二人を別つまで

──共に生きることを誓いますか?

これに溌剌と答える桜花の横で秋水が恥ずかしげに答え、2人を満面の笑みの真由美が
両脇に抱きかかえるのが慣習だった。

「外は危ないから、出ちゃダメよ?」

秋水たちはいいつけを守り、終日ずっと、ずーっと家の中で暮らしながら、健やかに育っていた。
秋水は後に述懐する。

──誓いの言葉の意味なんてよく分からなかった。
──ただ姉さんと母さんが楽しそうだったから俺も楽しかった。
──”死”とか”生きる”とか本当によくわからなかった。
──だからその朝、母さんに何が起きたのか、俺は何も分からなかった。

そう。
彼は何も分からなかった。

桜花と秋水が3歳を少し過ぎた、梅雨のある日。
彼らの世界に決定的な異変が起こった。
朝起きると、いつも出勤するはずの早坂真由美が布団の中から動かない。
前々からその兆候はあった。
朝早くに出勤して夜遅くに帰宅し、秋水たちの成長と反比例して細くなっていた早坂真由美。
彼女は時折、眠くて体が動かない」とこぼしていた。
幼い秋水たちがそれを額面どおりの意味でしか理解できないのは当然だろう。
母をただのお寝坊さんとしか思わず、目覚めるのを待ち続けた。
目覚めるのを、待ち続けた。
雨音を聞きながら。
どこからか入ってきた2匹のハエの羽音を聞きながら。
どれ位経っただろう。
桜花が空腹を訴え出した。だが秋水にそれを満たす術はない。
仕方なく、彼らはケッコン式ごっこで時間を潰そうとした。
ハエが1匹、早坂真由美の顔の周りを飛び回り、やがて着地した。
彼女はあんぐりと口を開けたまま天井へ虚ろな視線を投げている。
瞳は、汚水のように光をなくしている。
見るべきものが見ればいかなる状態か分かるだろう。
ハエがもう1匹、止まった。更にもう1匹。もう1匹……
一体その部屋のどこからハエたちは入ってきたのだろう。
絶望的なまでに密閉されていたというのに、ハエたちはどこから入ってきたのだろう。
置かれた状況を把握した後、秋水は生死の境をさまよいながらかすかに思った。

羽音は止まない。
雨の滴る艶やかな音をかき消して、秋水たちの周りを飛び続ける。
その中で目覚めぬ母の肌がみるみると血色を失っていく。
色だけではない。
形も、使い古されて湯にふやけた石鹸のようにだらしなく歪んでとろけていく。
黒い粒が部屋の中に充満し、耳障りな羽音が幾重にも鳴り響き始めた頃。

ついに早坂真由美は完全に張力を失い、崩れた。髪の束が抜け落ち、枕元にたまった。
異変。秋水は咄嗟に桜花の手を取ると、ハエの群れをつっきり家から出ようと試みた。
「それ」が阻んでいるとも知らず。

「外は危ないから、出ちゃダメよ?」

扉。
「それ」は十数本の鎖と十数個の錠前でがんじ絡めにされていた。開かない。
「それ」を秋水たちは必死に叩いて、助けを求めた。
「それ」の向こうの住民たちに声は届いたが、彼らは耳を貸さない。助けない。

彼らはせせこましい経験則から知っている。
子供を泣き叫ばす親の劣悪なる正体を。
おおよそ社会責務を負うには不適合でありながら、一時の快楽を餓鬼のように求め、その挙
句に、無目的に、子を作る連中は。
いたずらに分不相応なる面目に拘泥し、ひとたびそれが潰されれば滑稽な、しかしそれだけ
に手に負えない屈折した怒りで生活を破壊しに掛かってくる。
そういうリスクをおってまで、子供を助ける理由が何処にある?
日々の生活に追われる者などに道徳はないのだ。
ただその生活を保つ事だけが目的となり、きらびやかな活躍など望むべくもない。

カップラーメン。
菓子パン。
缶詰。
スナック菓子。
惣菜。
缶ジュース。
ペットボトル入りの水。
みかん。
生の大根。
生のにんじん。
生のじゃがいも。

以上は桜花と秋水が命をつなぐために飲食していたモノである。
警察がようやく扉をこじ開ける頃には、彼らは衰弱しきっており、1ヶ月の入院を余儀なくされた。

ここで断っておきたい。
けして警察は桜花と秋水を助けるために現われたのではないという事を。
未成年者略取。
警察が早坂家に急行した理由であり、早坂真由美の罪状でもある。
彼女は、まだ乳児だった浮気相手の子供をさらい、自分の子として育てていた。
それが桜花と秋水。
彼らがなりゆき上助けられた後、マスコミのインタビューを受けたアパートの住民はこう答えた。

「いつも静かだったんで、子供がいるとは露とも」

実母は、秋水たちを激しく拒んだ。

「あんな女が三年も育てた子なんて もう私の子供じゃないわよ!!」
「よさないか 子供の前だぞ!」
「なによ 元はと言えばあなたのくだらない浮気が原因じゃない!」
「その話はもう済んだだろうが!」

まだ衰弱癒えぬ彼らの前で怒鳴り散らす「新しいお母さん」を見て。
まだ衰弱癒えぬ彼らを顧みようともしない「男の人」を見て。
助けに答えてくれなかったアパートの住民たちのコトを思い出して。

桜花と秋水は、世界に自分たちの居場所がないのを知った。
深い失意と不信に涙を浮かべる桜花の手を取り、秋水は病院からそっと抜け出した。
満月の下で、行くあてさえ分からず街を歩いた。
彼らの過ごした家(うち)は既になく、外は恐怖のみで助力は願えない。
夜の公園で落ちていたビニールシートを分け合うように羽織りつつ、秋水は桜花に聞いた。

「どこへいこうか?」
「どこでもいいよ。でも」


桜花は顔一面に熱をひりつかせ、生命の逼迫を告げる激しい吐息を辛うじて声にした。

「秋クンはいっしょにいてね」

極度の栄養失調は、幼い女児から最低限の抵抗力すら奪っていた。

「姉さん?」

冷えた夜気を浴びただけで高熱を発するほどに。

早坂真由美が「手本」を見せて、かつての飢餓状態で幾度となく覚えた死別の予感。
再来する激しい動揺の中で秋水は手近なガラス片を手にし、たまたま通りかかった1人の老
人を脅した。
果たしてその行為が運命に対し、幸か不幸、いずれの効能で作用したのかは今となっては
分からない。
見事な白スーツをまとい、奇抜な蝶々型のヒゲを蓄えたその彼こそ、かつての蝶野爆爵……
Dr.バタフライだったのだ。
「おかねと! たべものと! おくすりを出せ!!」
「これはこれは。随分と可愛い強盗だね」
おどけた声とともに秋水の背後へ手が伸び、3歳の小さな体をあっけなく持ち上げた。
もがく秋水。
三日月のイラストに目鼻と口と燕尾服の長身を引っ付けたようないでたちの中年男性にそう
される秋水は、奇妙な小動物のようで傍目から見れば滑稽でもある。
桜花の危機に何もできない自身の無力さに息を荒げる秋水。
彼を見たバタフライは薄暗い笑みを浮かべた。
「いい瞳(め)だ。程良く濁り始めている」
彼が見たのは、ドブ川が腐ったような、マグマとヘドロをごっちゃ煮にしたような負の感情。
「ほうら言った通りだろ。月夜の散歩は必ずいいコトがあるんだ」
ムーンフェイス。本名をルナール=ニコラエフというロシア人の台詞にバタフライは頷いた。
「ついて来い小僧。どうせその姿(ナリ)では行くあてもないのだろう」
「いやだ! 姉さんと一緒じゃなきゃ、どこへだって行くもんか!!」

「構わんよ。なら一緒に連れて来い」
タフライは事もなげに告げると、こう釘を刺した。

「ただしその姉にその瞳(め)が出来なくば、生き延びるのは難しいぞ」

桜花と秋水が、L・X・E(超常選民同盟)と呼ばれるホムンクルスの共同体に所属し、銀成学
園の生徒を食料にしようと画策したのは、その月夜がきっかけだった。

そして秋水は修復フラスコの中で眠るヴィクターを幾度となく見る。
心を鎖していたせいで、何ら関心を払わなかったかれの存在。だが。

その認識はのちに覆り、かれの娘のために秋水は奔走する事となる。
いずれ見(まみ)えるもう1人の男も1世紀前にそうしていたとは知るよしもなく。

回り続ける。
轍で結ばれし輪は断たるる事なく、永劫に。


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