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第008話 「総ての序章 その2」 (1)



1905年10月14日 ポーツマス条約批准

終戦、である。
日露戦争によってともかくも勝者となりえた日本は長年頭を悩ませつづけてきたロシアの脅
威からひとまず開放されたといっていい。
その頃、爆爵は錬金術に熱中している。
例の蔵に終日閉じこもり、家中のたれとも口をきかぬ日もしばしばである。

──狂ったのではないか

使用人たちは陰でささやきあい、親族の中ですらそう信じる者がいた。
そうであろう。
何の前ぶれもなく隠居を発表し、半ば押しやるような形で事業のことごとくを息子へ譲渡した
かと思えば、あとは蔵の中へ地虫のように閉じこもっている。

──いや、そうではない

と爆爵の異変を擁護する者もいた。
かれらの弁によればこの異変こそ、まだ正気が残っている証拠だという。
なぜならば隠居の決断こそやや唐突ではあるが、息子への事業譲渡やそのほかの財産分
与のあざやかさは西洋貿易で巨万の富を築いた往年の手腕そのままであり、死後相続をめ
ぐって起こるであろう不毛な争いをみごとに防いでいる。

「豊臣秀吉をみろ。生前あれだけの権勢を誇っていたかれでも、死後の血族の処遇について
は病床で家康に「たのむ」といったぐらいだ。その家康に大阪城で淀君や秀頼を討たれた事
をかんがえれば、いま蔵に閉じこもっているあの方ははるかに理というものをわきまえている」

もっとも爆爵にしてみれば、そういう人間的なしがらみなどはどうでもいい。
人間だった頃こそ日露戦争において日本が勝利する事を懇願していたし(別にこれは爆爵
に愛国心があった訳ではなく、帝政などという一人の人物の権勢にただ民衆が惑うほかない
「劣」の機構を持つロシアに目ざましい発展を遂げる近代日本が負けるのが気に入らなかった
だけである。もっとも、坂の上にかがやく一朶(いちだ)の白い雲のみをみつめて坂をのぼる
といった向上心をもつこの時代の日本の楽天家たち自体はきらいではなく、そうでない者が
繰り広げた太平洋戦争においては日本などほろべと思っていた)、そのほかの細々とした
「しがらみ」について手立てを講じていたが、ヴィクターと出逢って以来、興味がもてなくなっ
ている。
ゆえにかれは胸中密かに決めた。
(10年だ)
死ぬまでの期間が、である。
もっとも、1世紀後の爆爵が銀成学園において一大会戦を勃発させるのを考えればこの寿
命のそろばん勘定はややおかしい。
(おかしくもないさ)
爆爵はそろばんの珠をぴんと弾いた。錬金術でこみいった計算をする時の道具である。
実はこの頃すでにかれはホムンクルスになっている。
ヴィクターから製法を伝授されるやいなや実験もそこそこに人間を捨て、あとは自らの築き
あげた物をいかに自然現象的に消滅させるか熟慮している。
その中でもっとも難しい物を挙げるとすれば、「蝶野爆爵」という存在そのものであるだろう。
事業や財産ならば隠居という形にまぎれて始末できるが、「蝶野爆爵」という存在はそうも
いかない。下手に消し去ればそれこそ戦士の嗅覚の的である。
ちなみに実はこの頃、爆爵の髭や髪は真っ白になっているが、老化によるものではない。

──武装錬金発動の後遺症だろう。

ヴィクターの弁によればそういう事もあるらしい。
武装錬金は闘争本能を具現化する事でさまざまな武器を形成する。
いわば精神の流出作業なのだ。

──血を傷口から吹き出す、といってもいい。

ヴィクターは妙なたとえを持ちだしたが、なるほど、確かに似ている。
精神などという神秘的なものの実体については本題でないゆえにこの稿でははぶくが、とも
かく生命活動の支えという点では似ている。
精神を血に見立てれば武装錬金は確かに「血を傷口から吹き出す」作業でもあるだろう。
量があまりに多ければ虚をきたして昏倒し、昏倒せぬよう戦士は訓練をつんで血の流出制
御の術をえる。
しかし爆爵は納得と同時に首をひねった。ヴィクターのたとえは的を射すぎている。
ひょっとしたらヴィクターは実際に、「血を傷口から吹き出す」怪物と出会った事があるのかも
知れない。むろん、そういう経歴については爆爵は聞かないし、ヴィクターも語らない。
なお、錬金術における精神は、肉体や霊魂(または魂)とならんで人間を構成する要素であ
り、それらを均一に高めていく事こそが本来の目的である。
(……だが)
と爆爵の脳裏にふとした疑問が浮かんだ。
精神は前述の通り、武装錬金によって高められている。
肉体はどうか。こちらはホムンクルスにより高められている。が。
(霊魂だけがない)
奇妙な話でもある。
純粋に自らの霊的完成を求めるにしろ、欲望のまま黄金変性や不老不死を求めるにしろ
錬金術師にとって賢者の石の精製はさけられない部分である。
そのためには精神・肉体・霊魂を均等に高めていかねばならないというのに、霊魂だけは
核鉄やホムンクルスに該当する産物がない。
(あるいはそれがあれば賢者の石の精製も可能……?)
ヴィクターを救い、なおかつかれが二度と人間如きに負けないようにするには、既存の物を
はるかに超えた産物が必要であるだろう。
爆爵は幸い、不老不死である。
それを以て悠久のときを研究にあて、遥かな力を創り出し「優」たるヴィクターに捧ぐ。
『蝶野』の本懐ではないか。
特有の二元論を満たしながらも自らの高みを目指す、惑いなき芯の通った生き方なのである。
それはともかくとして、爆爵の髪や髭が白くなったのは、例のアリスインワンダーランドの発
動により大量出血をきたした彼の精神の証であるだろう。
ヴィクターを連れかえってすぐおこったこの変調に爆爵は閉口した。

山中でヴィクターを襲撃した者は総て殺している──実は1名だけ生存しており、爆爵の死
後のL・X・Eに重大な影響を及ぼすとは神ならざるかれには知るよしもない──から、すぐ
ここに来る事はないだろうが、その仲間が銀成市に焦点をしぼって調査する場合を考える
と爆爵の不自然な変調は非情にまずい。
戦士の知るところとなれば蔓からイモをたぐるようにヴィクターの存在を嗅ぎつけられる。
つまり爆爵がヴィクターの守護体制を敷くにあたってまず要したのは、黒髪を保つ白髪染め
なのである。
後のL・X・Eの規模から考えればやや馬鹿げているが、創立時の組織などはえてしてそういう
ものなのだろう。
「すまないヴィクター。キミに少しつまらない事を聞くよ」
と爆爵は真剣ながらにどこか処女のような恐れおおさでヴィクターに聞いてみた。
「錬金術で白髪を染める物質を作る方法があれば教えてほしい」
我ながらくだらぬ質問をした、と爆爵はやきもきしたが、しかし周囲の人間に白髪染めの調達
を依頼すれば、不自然に思われるだろう。よって術は自己調達しかない。
なお、このときのヴィクターは上半身のみで巨大なフラスコの中をたゆたっている。
例の再殺部隊の男に切断された下半身はいっこうに平癒の気配を見せず、爆爵は苦肉の
策ながらホムンクルス胎児の培養液を用いている。ゆくゆくはこれをヴィクター専用の修復
フラスコへと改造するつもりではあるが、しかし実現までどれだけかかるか。
例の霊魂のコトも含め、想像もつかぬ課題である。
爆爵の問いにヴィクターはやや面食らったが、しばらくすると答えた。

「ある」

概要を説明していくうちにかれはつい微笑をうかべてしまった。
無理もないだろう。自分の年齢の倍はある男が真剣な羞恥で「白髪染めを錬金術で作れな
いか」と聞いているのだ。
戦団から受けた執拗な追撃や娘(ヴィクトリア)への仕打ちで人間というものに心を鎖しかけ
ていた分、目の前の男性へ限りない親しさと敬愛をおぼえてしまい、それが微笑という形で
出てしまった。
微笑するとこの赤銅色の大男がやけに幼くみえ、「こういう顔もするのか」と爆爵はときめく
思いをした。
余談がすぎた。

要するにそういう滑稽なやり取りでできあがった白髪染めの塗り方すらまだおぼつかない頃
なのである。
恐らく、戦士(ヴィクターからその単語を聞いて爆爵は使っている)らの熱はまだ冷めやらず
銀成市周辺をうろうろしているだろう。
よって爆爵は迂闊な行動をとりたくない。
実のところヴィクターともども今すぐ山野にかき消えて、人間のしがらみのない場所で友を復
活させる研究だけに没頭したいところだが、突如行方不明になれば周囲が騒ぎ立て、いずれ
戦士の耳に入ってしまう。
だから10年、である。
この間に後の活動拠点を秘密裏に作りつつ、自らの手足となるホムンクルスを静かにかき
集め、表立っては「蝶野爆爵」として衰弱の様相をまわりに見せつつ──…

1915年 9月28日 蝶野爆爵 逝去

くしくもこの日、新撰組三番隊組長・斉藤一が胃潰瘍により死去している。
かれの享年は72というから、爆爵より7つ年上という勘定になる。
ただし爆爵は55歳の段階でホムンクルスとなり、白髪白髭を除けばいっさいの老化を催して
いないから肉体年齢としてはこの後ずっと55歳である。

棺に入っているのは人型ホムンクルスの製法を応用して作ったクローンであり、その周りで
むせぶ連中はやや滑稽でもある。
もっともかれらが豪儀にも著名な寺を貸し切って葬儀を行ったおかげで、蝶野邸の蔵からヴ
ィクターを新たな拠点へうつすのはひどくたやすかった。
出立に際して爆爵はふと手を止めた。
錬金術の研究日誌。
それは13歳の少年だった頃からずっと欠かさずつけてきた。
ヴィクターと出逢う前も。そして出逢ってからのこの10年も。
足掛け半世紀にも渡る研究日誌だ。
爆爵としてはかなりの思い入れがあるが、それを持っていくかどうか。
(どうせここまで上手くやったんだ。多少の気まぐれもいいだろう。後続へのヒントとして残して
おいてやる)
爆爵はヴィクターにも見せたことのない笑みを浮かべた。

蝶野の気質ならばあるいはこの錬金術の一部にしかすぎない日誌から、爆爵と同じ高みに
のぼってくるだろう。
「優」の血が代々薄まっていくという信奉の持ち主の爆爵としては、破格の期待といっていい。
この辺り、普通の人間としての感覚がまだ残っていたらしい。
(もし完成する事があるのなら)
いかなる者だろう。未知の蝶をさがすようなほのかな期待を持ちつつ、爆爵は蝶野邸を去った。

2002年。
爆爵の玄孫が病魔に喘ぎながらその蔵を訪れるが、それはまた別の話……

秘密裏に調達した別荘の地下で、ヴィクターはくすりと笑った。
「爆爵、白髪はもう染めないのか?」
「もう必要ないからね」
それに──と爆爵は蝶を模した見事な髭をなでながら思った。
(こういう佇まいの方が、キミを守るのに相応しい。そしてこの場所にも)
真っ白な髪の毛を揺らしながら、爆爵は薄暗い地下を眺めた。
(どれほど過ごす事になるかは分からない。だが必ず──…)
この瞬間から爆爵はDr.バタフライと名乗ることを決意した。

視点は変わる。

永い閉塞の象徴。遠きより魔を招聘せんとす黒の光景。

「それ」は例え何年かかろうとも忘れ去る事あい叶わず、幾度となく幾度なく光を遮るだろう。
望んでも開かず、血の滴る拳を叩きつけてもビクともせず、悲憤に涙する他ない。

この物語はいずれ、「それ」に縛られ続けてきた2人の男の戦いへ収束する。
1人は早坂秋水。
もう1人は──…

……まだ幼かった頃の早坂姉弟の話へ軸を移す。


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