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第016話 「忍法無銘伝(前編)」



いま、根来と千歳がいる場所は、聖サンジェルマン病院の地下である。
表立っては地上五階、地下二階からなるこの病院は、もとより名が示すとおりの病院ではあ
るが、地下には常人の人智及ばぬ錬金術の研究施設を有している。
錬金戦団がかような機関を銀成市に設置したのは、百年ほど前、この街でヴィクターの消息
が露と消えうせてしまったゆえの捜索の橋頭保としてなのか? いやいや、そうではない。
銀成市にヴィクターがいまだ残存していると判明し、討伐の手がさしむけられたのはつい四
か月ほど前であるから、戦団はヴィクターの存在を知らずして、偶然に設置したのではある
まいか。──
さて、この病院だが、/z(小説版)の話によれば、地下五十階まであるという。
地下五十階が地下百五十メートル地点にあるというから、単純に除すと一階あたりの高さ、
いわゆる階高は三メートルとなる。もっとも部屋には天井というものがあり、天井の上には床
があり、さらにその間には、上下階を区切る鉄筋コンクリートのスラブ厚も含まれるし、人が
活動する以上は床もしくは天井に電線や通信回線、水道管、それから換気用の経路といっ
たライフラインの設置空間も設けなくてはならない。それらを勘案すると、実質的に使える部屋
の高さ、すなわち天井高は二・五メートルを下回るのではないか?
一般に成人男性の平均身長が百七十一・一センチメートルであり、成人女性の平均身長が
百五十八・四センチメートルである事をふまえると、はたして如何。
さらに、いま、根来と千歳がいる場所を含めた地下二階までは、一般に開放しても支障なき
よう天井高を高くとっているというから、その分のしわ寄せを残る四十八階がくらい、試算に
よって導き出された二・五メートル以下の天井高より、より低く狭くなっている事は想像にか
たくない。
一般に成人男性の平均身長が百七十一・一センチメートルであり、成人女性の平均身長が
百五十八・四センチメートルである事をふまえると、はたして如何。──

さて、筆者はいま、いわゆる山田風太郎の文体模写に挑んでいる。しかしこれは容易ならざ
る怪異の文章であり、うかと手を出すべからざる代物ではなかろうか?
ともかく。
つい先ほど、思いがけぬ根来の救援により、からくも偽防人から逃れた千歳だ。
真・鶉隠れ。──壁や床の中から、まるで飛び魚のごとく敵を狙いうつ恐るべき刀技がなけれ
ば、はたしてどうなっていた事か。
薄小豆色の髪はみだれにみだれ、鼻孔から上唇にかけては糸のような赤いすじがすうっとひ
かれ、月のように白いほほにはかすかな痣がついている。もし一糸まとわぬ裸体をさらせば、
雪のような肌のそこかしこに無残なる傷痕が刻まれているのが見えるかも知れない。
むろん、偽防人にさんざんとなぶられたせいだ。もっとも、壁を薄ガラスのようにいともたやすく
粉砕する拳を受けて、なお立っていられるのはさすが千歳といったところである。
だが彼女の顔に欝蒼とした感情が浮きでているのもむべなるかな。──偽防人より受けた
傷が、けして軽微でもないという事もあるが、それ以上に彼女は、自らの武装錬金の変調に
気づき、そして懊悩していた!
レーダーの武装錬金・ヘルメスドライブ!
対角線にして四十センチほどをした六角形の筐体に、はめこまれているのは、筐体と同形
にして一回り小さな画面だ。
それが三度あやしく明滅し、じじッというアブラゼミの断末魔のような音がひびいたとみるや、
妖気をはらんだ細長い黒い影がびゅーっと廊下をつっきり、千歳たちから五メートルほど手
前に着地した!
影の正体は、おそろしい巨躯に黒装束をまとった、編笠の男だ。目深にかぶった頭巾から
のぞく二顆の眼球は、冷やかな青白い光をはなっている。
鳩尾無銘! 先ほど、
「如何な些細な綻びですら、我らが決定的な綻びと化す。よってそれへの対処をいまから行う」
と千歳にいいはなち、現に一撃をみまい、ここへ飛ばした男がふたたびあらわれたのだ!
もちろん本人ではない。先ほどヘルメスドライブよりあらわれた、久世夜襲、防人衛といった
偽者連中と同じく、体の周りで、半透明なもやのような黒い光をたゆたわせている。
しかしなぜこうもヘルメスドライブより黒い影が現れ、千歳に手向かうのか。──
もとより冷静な千歳であるから、その理由をおもえば懊悩はかき消え、もしや? と内心で首
をひねり始めていた。
「きゃつか」
「え?」
「火渡戦士長らと一戦交えたという忍びの男。なるほど確かに風体は一致しているが」
「え、ええ。あなたも聞いてたのね。そうよ。忍六具の武装錬金の使い手だから間違いなく」
思考より引き戻された千歳は、わずかに舌ッ足らずな声をあげた。平素の凛然とした彼女の
雰囲気からはかけ離れているが、消耗と、不意なる根来の声への動揺がそうさせたのだろう。
「忍六具。編笠、鉤縄、三尺手拭、忍犬、打竹、薬。……だったな」
「火渡君からはそう聞いているけど」
「なるほど」
低く呟いたきり、根来は押しだまった。忍六具について勘案しているようだが、真意はわからない。
だいたいにして、忍者然としている癖に、この話題に即答できぬというのも妙な話だ。
「ともかく現れた以上は斃すのみ。貴殿の傷や能力では無理だろう。しばし預ける。……」
何を思ったのか、根来、しゅるしゅると首回りのマフラーをぬきとると、千歳にわたした。
(鼻血を拭け、という事かしら)
それとも別の意図があるのか。よくわからないまま、千歳は、眼前の光景を見た。
舞扇をかさねたような七層の天守閣を背景に、二人の男は、じっと相対していた。
いや、違う。まったくもって違う! これは甲賀忍法帖の冒頭ではなかったか!!
ああ、当初こそ文体模写を試みた筆者ではあるが、あまりに難解、あまりに困難な作業の
前にとうとう致命的な精神疲弊をひきおこし、陽炎をみた薬師寺天膳が情欲をきたすように、
原文引用という失策を演じてしまったのだ! 
なんと恐るべき原作の魔力! なんとおそるべき筆者の怠惰か! この「忍」のなさ、忍びの
卍の虫籠右陣、筏織右衛門、そして百々銭十郎に匹敵するかも知れぬ!
閑話休題。
根来と無銘の視線が交錯するやいなや、彼らは硬質の床を蹴りあげ、両者に向かって駆け
た!
ぱっ、と両者の間に火花が散ったと見るや、彼らは数歩うしろに着地し、根来は忍者刀の武
装錬金シークレットトレイルを順手に持ちなおし、無銘は編笠の、被る方を根来に向けた!
墨をぬりこめたような病院の廊下に爆音が響き、果たして編笠のどこに隠れていたのか、
長さ六十センチあろうかという矢が数十本、根来に対し射出された。
不可解なようではあるが、しかしこれはただの編笠ではない。忍六具の編笠といえば、内側
に矢が仕込まれているのが常なのだ。
とはいえ、はたしてこれは常軌を逸している! いかに現代科学を超越した武装錬金といえ
ど、編笠から轟々と射出されているのは、もはや矢というよりは火矢、火矢というより小型ミ
サイルというべきではないのか!
矢の尾からは、緋牡丹のような火花が噴出し、びゅうびゅうと流星群のように飛んでいるのだ!
千歳はとっさに壁際に身を寄せた。と同時に、彼女のいた場所を赤い残光がとおりすぎ、廊
下の向こうで壁が爆砕される音がひびいた。
しかし、どうしたことか矢の雨の真ん中をゆく根来には当たらない。
たとえば、磁石のN極にN極を近づければ反発するように、根来の細いからだは矢を避けて
いく。
「忍法暗剣殺。──」
筆者は高校時代、教師が丸めた教科書で、自習時間に漫画をよんでいた生徒を執拗にし
ばくのを見たことがある。その直前、不可思議な現象が筆者の身におこった。
教師が漫画読みの生徒を発見した瞬間、えもいわれぬおぞましい気配を察知し、背筋をあわ
だたせたのだ。……むろんその時の筆者は今からでは想像がつかないほど勤勉であり、漢
字練習などをしていたのだから、教師におびえる理由はなかったのだが、しかし、今にして思
えばこの時は、教師の漫画読みの生徒に対する殺気を、瞬間的に察知していたのではなか
ろうか?
現在ですら科学的に証明されてはいないが、人間には第六感なる超自然の感覚が備わって
いるという。筆者が教師の殺気を感知したのも、おそらく第六感であり、それをさらに研ぎ澄
ませた超反射的な回避能力を、根来は備えているのだ。
「殺気を感じれば、たとえ相手に背後を向けていても、ツツーと水すましのように逃げさり、
敵陣に忍び入るときも、危険な個所はことごとくさけるのだ。殺気をはらんでさえいれば、
矢の雨ですら避けることたやすい。これぞ忍法暗剣殺。──」
三角形の前髪の横で、陰鬱な瞳が細められた。笑っているような、殺意をはらんでいるな
捉えどころのない表情のまま、瞳に古沼がごときうす暗い翠のひかりをけぶらせ、悠然と
無銘めがけて闊歩していく。──
順手ににぎったシークレットトレイルで矢をうちはらおうともしないところが、彼の忍法暗剣殺
への絶大な信頼を物語っている。
しかし、なぜ彼はこの夏の中村剛太との戦いにおいて、この不可思議きわまる忍法を使わな
かったのか。もし使っていれば、亜空間内に侵入した戦輪(チャクラム)ごときに切り裂かれ
る事はなかったろうに。
やがて矢は尽き、無銘は軽く舌打ちした。根来と彼の距離は、当初の相対した時よりやや狭
まり四メートルといったところか。根来はその距離を一気に跳躍し、無銘の脳天から一直線
に切りかかった。
が、刃はむなしく空を切った。無銘が身を引いたのだ。よもや彼も暗剣殺の使い手か? いや
いや、彼はとっさの反射の結果として身を引いたにすぎない。……
もっとも、以前従事した任務において手傷をおい、実をいえばまだ入院中の根来なのだ。そ
の剣先はいまいち精彩を欠いている。万全であるなら、無銘の回避よりも早く、見事両断し
ていただろうに。
そう千歳が観察していると、根来の身にありえからぬ異変が起こった。着地と同時に上体を
斜め前につんのめらせ、同時に右膝より先を後ろにむかってはねあげた。
まるで何かに足をとられたような格好だ。手傷を差し引いても、戦士にして忍者マニアたる根
来がただの着地をしくじるとは、あまりに無様。……が、それが根来のしくじりでない事を、
千歳は見た。
いったいいつの間にできたのか。根来の足もとにあったのは、キラキラとくかがやく鏡のよう
な楕円形。そこより漂うのは、おおよそ夏の暑気に似つかわしくない冷気。……
「忍法薄氷(うすらい)。──」
氷! おお、その名どおりの薄氷に根来は足をとられ、バランスをくずしたのだ!
しかし氷はどこから発生したのか。それは無銘の足から薄氷に延びる銀の軌跡を目で追えば
自明の理であろう。そう、彼は足の裏から冷気を発し、床を凍らせたのである。
そも、人間の体温を調整するのは、吻側延髄腹外側野に存在する交感神経プレモーターニ
ューロンである。これは自律神経であり、常人ならばむろん体温の調節は無意識的に行うほ
かないが、無銘はみずからそれに働きかけ、体温を調節できるのだ!
体温は三十五以下で眠気と疲労を招き、三十度以下では意識や血圧低下、不整脈、二十
五度から二十九度で救助不能温度になるという。……だがたとえば、ドライアイスに一瞬ふ
れたぐらいでは、人は凍死しない。指先だけの軽い凍傷で済むだろう。なぜならば冷やされ
る部位はしょせん末端の一部であり、冷やされた血液も静脈を通って心臓へ循環すればた
ちどころに温められ、それが動脈を通って冷やされた部位を温めるのだ。
人間にしてこうなのだから、ホムンクルスたる無銘が、自らの足を数秒だけ零下まで冷やし
たとして、生体活動に影響がでようはずもない。
そしていかな忍法暗剣殺といえど、なんら殺気をもたぬ一自然現象たる「凍結」ばかりは察知
できなかったとみえる。
根来が不覚にも足を滑らせた瞬間、無銘は右手を、掌を正面に向けたまま、天蓋にむかっ
て大きく垂直にかかげた。
すると驚くべきことに、彼の五指のことごとくから、びらびらびら……と青白い糸が伸びさかり、
手の甲に向かってまるで噴水のように折れ曲がるやいなや、無銘の腕の後ろをすべりおち、
踝のあたりに先端をだらりと垂らした。
「忍法指かいこ。──」
おお! しかしこれはなんたる事か! 筆者は蒼然たる面持ちで外道忍法帖をばらばらとめ
くった。引用だ。もう引用しかない! こればかりはいくら調べてもとんとそれらしい知識が出
てこないゆえ、外道忍法帖より引用するほかないのだ。しかしなんたる医学知識のなさ! 
胸をかきむしり切歯する思いで筆者はキーボードを叩いた!!
──これは体内の血漿中の繊維素が、汗腺より滲出するものといわれる
のだ。のだよ。すげぇェ〜 やっぱプロシュ……風太郎先生はすげェぜ! 
庭にパン屑でバカという文字をえがき、そこに鳥たちが群がってバカという文字をえがくのを、
双眼鏡で観察されているような方だが、やはり偉大なのだ! ごめんね。文体模写じゃなくて
ごめんね。
さて、無銘の指さきから伸びた「テグスにも似た強靭な糸」は、もとより蚕のように青白くはあ
るが、しかし指先の根元から踝の先端へと徐々に赤い光を伝播し、なにかが焦げるような灼
熱の匂いをまき散らしはじめた。
「忍法赤不動。──」
無銘が、吻側延髄腹外側野に存在する交感神経プレモーターニューロンに働きかけて、体温
を自在にあやつるというのは、前述のとおりではある。ならば薄氷のように物を冷やすだけ
ではなく、逆に炎熱させる事もできるのではないか? はたしてその通りだ。のみならず、彼は
指かいこに高温を伝達する事もできるのだ。むろん、そこはホムンクルスたる無銘の事、た
とえ体に高温を通したとしても、生命にはかかわらない。指かいこが燃え尽きないのもむべな
るかな、金属質なホムンクルスの一部だから、まるで電熱線のごとく赤熱するのみである。
そう、いまや無銘の指先からは、電熱線にも似たおぞましい器官が五本も生え、それはまる
で斬鋼線のように振りかざされた。
……文章にすれば長いが、以上の現象は一瞬の事であり、つんのめったままの根来に真赤
な五線がひゅうっと唸りをあげて襲いかかる!!


オマケ(武装錬金NAVIでの煽り文)
秋水が主役のSS「永遠の扉」を連載中。第16話を追加。根来がメインで山
田風太郎っぽい文章です。吻側延髄腹外側野に存在する交感神経プレモータ
ーニューロンを操る敵に、果たして根来はどう立ち向かうのか。

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