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第017話 「忍法無銘伝(後編)」



「忍法火消し独楽。(ひけしごま)──」
くの字に体を折り曲げた根来の襟首から、するすると出てきて、首のうしろで回りだした物が
ある。
独楽だ。幅も高さも二寸ほどのそれは、びゅうびゅうと速度を上げて風をまきおこし、迫りく
る真赤な五本の稜線をことごとくあらぬ方向に吹き飛ばした。互いを打ち合いながらもつれ
あい、とりとめなく垂れた指かいこは、すでに炎を失っている。……
「いかに繕おうと所詮は炎と糸。防ぐ事などあい容易い。そして」
ふたたび腕を振り下ろさんとした無銘ではあるが、根来の水死人のように生白い唇から何や
らびゅびゅっと吹きかけられると、名状しがたい苦鳴をもらしながら墨染めの裾をひるがえし、
眼を抑えたきりぴたりと動きをとめた
「忍法逆流れ(さかながれ)。──」
傍観する千歳にはわからなかったが、この時、無銘の視点は天地が逆転していたのである。
目はどうして見えるのか。それは物体に反射する光が、角膜、眼房水、水晶体、硝子体の中
で順に屈折し、最後に網膜で像をむすぶからだ。むろんそれは光学上倒立しており、事実、
乳幼児期においては、天地倒立した映像を見るという。……
むろん人間は、成長の過程で、倒立した映像を脳によって直立させることを学習するが、しか
るに根来の唾液は、人の目に入れば角膜に浸透し、その内側の眼房水を逆三角形のプリズ
ムのように凝結させ、いわゆる逆さメガネの特殊な光の屈折をもたらし、視界を逆転させるの
だ!
かかる忍法により無銘は、眼前で床が天にのぼり天井が地上におち、まるで倒立して頭をた
れたみたいに脳髄へ血流が逆行するような錯覚すらおぼえ、混迷をきわめた。
根来は金色に光るシークレットトレイルを床につきたてると、それを支点にばっと天井におど
りあがった。
そのまま天井へ蝙蝠みたいにはりつくと、顔右半分にひた垂れた三角の前髪も元のまま、
冷然とした面持ちで無銘をみおろした。
もとより今いる無銘は、ヘルメスドライブからあらわれいでた影にすぎない。ならばある程度
忍法をつかわせた方が得策なのだ。……いかなる物であろうと、ひとたびその正体を白日
にさらせば、ベールがみるみるはぎとられ敵意をもろに受けてしまう。というのは、最近のあ
る省庁に対する国民感情をみれば明らかであろう。
と同時に、根来の心中にふつふつと耐えがたい欲求が生まれた。
もとより任務第一の根来であるが、幻妖のわざをふるう無銘を前に、思わぬ欲が出た。
どうせゆるゆると闘って、手の内をひきだした方が得なのだ。もとより先ほどの偽防人の最
期を見てもわかるように、ヘルメスドライブよりあらわれいでた影どもは、一撃で屠られるよ
うできている。だがあえて斃さず根来自身の忍法を囮に、かかる相手が持つわざをことごと
く暴きたて、仲間が無銘の本体と有利に戦えるよう、対策を練るべきではないのか? いや
いやしかし、当面の任務達成は病院地下に侵入した敵の撃退あらばこそ。付記するに自分
が入院中なのを思わば、短期決戦こそ望ましい。……
以上のような軽い懊悩を覚えた根来は、実に手早い行動に出た。
唇を尖らせるなり、ひゅーっと息を吸ったのだ。
刹那、無銘も文字どおりの異口同音を発し、床と天井、ナナメに相対する彼らの中間点で見
えざる空気の奔流がばしりと爆ぜた。あとは甲高い音が千歳の耳に残響するのみ。……
忍法吸息かまいたち。──息を吸う事で真空の渦を作りだし、相手の顔を血味噌と化す驚く
べき魔技だ。根来はこれによって無銘が斃れればよし、よしんば斃れずとも何らかのわざを
引きだす事を期待してはいたが、まさかまったく同じ技を使われようとは! そして忍法逆流
れに幻惑しながらも、正確に迎撃しようとは!
臍の緒切って初めて直面した意外な事態に、根来は無愛想な三白眼をすうっと細めて愉悦
の色をうかべ、腕組みしながら唇の端を猛禽類のようにニンマリ引きつらせた。
──できる!
平素冷然としている彼ではあるが、脳髄のほとんどを占めているのは、たとえば芸術家や音
楽家がみずからの才覚をもって何らかの芸術品を生みだそうとする、はなはだ社会不適合な
いびつで苛烈な気魄なのだ。根来も武装錬金や忍術を縦横に駆使して、任務を合理的に達
成する事こそ喜べど、倫理はひどく薄いから奇兵として戦団から扱われ、再殺部隊という場
末に追いやられている。ただし、
──やれば際限がない。
──やらねば際限なく悪くなる。
と、無尽蔵に生まれるホムンクルスに対して、最大97人の錬金戦士しか擁せない戦団の
圧倒的不利、物理的不合理を千歳に語りながらも、戦団自体にはしたがっている奇妙な点
もあるが、しかしこの場においては、生来の自制のなさ、忍法勝負への甘美な誘惑が、春の
夜のように脳髄をしびれさせつつある。ああ、まだ二十歳とうら若い根来にとっては、術技を
ふるう事こそ法悦。……
「忍法紙杖環。(しじょうかん)──」
懐から誓いのように真赤な一塊をほうり投げつけると、それは中空で幾重にも分裂し、蓮の
実みたいにばらばらと拡散しつつ、無銘に襲いかかった。
一口にいえば環だ。大樽に使えそうな大きなものもあれば、子供の頭がようやく納まるぐらい
の中ぐらいのやつもある。指一本かろうじてくぐり抜けそうな小さな輪もあり、大小さまざまな
それらは、黒子のような無銘の頭や胴体、山鳥竹斎みたいにとびあがった足にからまりつい
て、皮膚にべとりとつくやいなや、環同士びったりと膠着した。
……これは根来自身の血にひたした観世縒(かんぜより)なのである。縒はこよりを指し、観
世縒というのは仏像奉納用の縒だ。寺社建立の金品を集めた者が、その名を記し納めると
いう。
さらには忍法紙杖環、錫杖の頭部にかかっている数個の環になぞらえられているというが、
頭からつま先まで真赤な環におおわれ、芋虫みたいに身動きことごとく封じられている無銘
には、知るべくもない。
「拘束完了」
根来の薄黒い血がふつふつと湧き立った。当夜の忍法争い、いよいよ極致に達さんとしてい
る! はたしていかなる怪奇のわざが現れいずるのか!
「さあ、貴様の忍法」
とくと見せてもらおう、そういいかけた根来は、たまぎる思いでみずからの肩口を見た!
そこには円錐形の物体が、深々と突きささっていた!
その正体は何か! 目で緩やかに観察した根来は、細い瞳をみるみると驚愕に見開いた!
天井! 彼が足をつき、逆さに垂れている天井が、奇怪な円錐状に変化して、肩口をつらぬ
いている!
天井は、まるで絵を紙ごと引っ張ったような不自然な形に尖っている。すなわち、建築材の
硬度などまるで無視し、飴細工を加工するがごとく、なめらかに尖っている!
ダークブルーの再殺部隊の制服がじんわりと湿り、床に赤い珠をふらせていく。
すばやく円錐を抜きさった根来だが、と同時に見慣れた稲光がバチバチと根来の足元から立
ち上り、再度天井が隆起した!
とっさにシークレットトレイルの特性を以て、亜空間に退避した彼ではあるが、今度は真暗な
空間が、ぎりぎりと錐みたいに尖って彼を襲う。しかも天井とは違い、四方八方から際限なく
極太の円錐針がせまってくるのだ! ああ、こうなってしまっては、かえってこの万能の退避空
間のほうが、現世よりも危険きわまりない。
以上の判断で、亜空間をとびだした根来ではあるが、天井に足をつけば天井が尖り、壁に
随身すればまた尖る。床もしかり。あたかも地獄の針山がここに現出したかのごとく。……
どうやら、まずは根来の作った亜空間が錐と化し、現実空間をも巻きこんでいるらしい。
「古人に云う」
くぐもった声を皮切りに、無銘を覆いつくしていた環がめらめらと燃え盛り、火の粉がちった。
忍法赤不動。体温を上昇させ、炎を巻きおこす驚くべきわざ!
「忍とは、いかなる修行にも、いかなる秘命にも、刻苦隠忍、ひたすら耐え忍ぶこと」
根来が不愉快そうに片眉をはねあげたのは、この異常事態や傷の痛みによるものではなく、
「忍」を名にもつ彼への痛烈なるつらあてに聞こえたのだ。
ああ、忍法争いに心うばわれ、かかる窮地に陥った迂闊さ!
一撃で倒していればこうはならなかった!!
「我が初撃、何故に忍者刀に火花を散らしたか」
無銘のいうのは、根来と彼がばっと交差した後のことだ。編笠から矢がミサイルランチャー
みたいに轟々と射出されたのより少し前のこと。……
「無銘が弐たる鉤縄が掠ったゆえにや、特性はいま見事発動せり。忍法争いなど所詮はそ
の時間稼ぎ。……」
根来はシークレットトレイルで、襲い来る極太の円錐針に応戦する。
されどもとより入院中の根来だ。万全でないゆえに、襲いくる針山を思うように迎撃できず、
しかし針山地獄は稲光とともに彼を襲い、収まる気配など到底見えぬ。
しかしかかる騒ぎに、はたして千歳はどうなっているのか。
彼女を振りあおごうとした根来の左掌に、壁からの針山が刺さり、ざくりと裂けた。
シークレットレイルを握っていた右手の指にも、床の針山が刺さり、ざくりと裂けた。──
根来は、陰鬱な瞳を苦鳴にけぶらせながら、すううっと身を浮きあがらせた。
そう、彼の身はまさに地面と水平にうきあがり、天井すれすれの位置を滑空した!
なんという怪異! 端倪すべからざる魔人のわざ!
そうやって彼は、肩口や両手から血をぼたぼたと床におとしながら無銘の頭上をとおりすぎ、
少し離れて着地するやいなや、両腕に約六十センチばかりの間隔をとって前へ突き出した。
左手は北へ二十五センチ、それから東へ五十センチ、さらに北へ二十五センチ。
右手は西へ二十五センチ、それから北へ五十センチ、さらに西へ二十五センチ。
やがて巨大な卍の真赤な文字が、床にえがきだされたのは、上記の根五来の腕の動きにつれ
て、赤いしずくがぽたぽたとしたたり落ちたからである。──

■■■  ■       注:■□はいずれも一辺につき五センチとする。
   ■  ■
■■■■■
■  ■
□  ■■□←右手初期位置。

左手初期位置      みんなも北を向いて実際にやってみよう!

もとより整然としたよく透る声を、しかしこの時ばかりはやや消沈させつつ、根来は叫んだ。
「忍法火まんじ。──」
すると卍の中心から、蒼然とした炎がメラメラと燃えあがり、やがてそれは先ほど根来がおと
した血痕を、導火線をつたう炎みたいに疾駆しながら、無銘に迫る!
もはやかかる羽目におちいった以上、無銘の影を断つほかない!
「乾坤一擲、されど余技にすら至らず」
無銘はくいっと編笠をなおすと、キラキラ光る薄氷をゆるやかにまたいで、そのまま壁の前
に立った。そこには根来の血痕があるから、いずれ炎に呑まれるのは必定だ。
しかし無銘は迫る炎など意に介さず、掌を壁にあてるとツルリとひとなでした。
するとどうであろう。まるで水滴にくぐもる鏡をなでたように、無銘の手の軌跡だけが、まばゆ
い銀を露出し、暗い廊下にキラキラと光を反射した。
「忍びの水月。──」
つぶやく無銘の掌にはいかな作用が起こっているのか、銀の塗膜にうっすら湿り、幻惑的な
光をはなっている。そして彼は右手のみならず左手の指からもビラビラと指かいこを伸ばすや
いなや、腕全体を指揮者のように振りまわしはじめた。
名が示すとおり、指から伸びる指かいこだ。だから掌と同じく銀の塗膜にうっすら湿っている。
それが稲妻のようなはやさで、床をほうきのように這いずりまわる、天井になすりつけられる、
壁へぐにゃぐにゃと押しあたる、手すりをこすり蛍光灯をもなでる。
あらゆる病院施設がそうされるものだから、あたった場所は先ほど掌でなでた壁のように燦
然と銀光まぶしい鏡と化してゆく。──
やがて無銘の手の動きがとまると、千歳も根来も息をのむ思いでその光景を見た。
床、天井、壁、手すり、蛍光灯。
鏡の破片をむぞうさに打ちすてられたように、無銘を映し出している。
もはやこの一帯は万華鏡のるつぼだ。鏡が無銘を映し出し、鏡は鏡を映し出し、無限とも思
える反射のループが大小さまざまの無銘を無数に映し出している。 
そしてこれは幻覚などではない。なぜなら、疾駆する忍法火まんじの蒼いかがやきすら乱反
射し、千歳や根来の頬に水面のようなさざなみを浮かべたからだ。
やがて火まんじは、ぱっと無銘を呑みこんだが、しかしそれは鏡に映った無銘の虚像であり、
鏡をむなしく割ったにすぎない。
「我が師父・総角主税の厭いし物、それは鏡。よって彼の前では禁じているこの術……攻め
込むコトは困難。我はすでに鏡中に在り。姿はあれど実体は見せず」
声こそするがはたして無銘はどこに消えたのか。いや、彼の姿じたいは無数に見えてはいる
が、一つをのぞけばすべて虚像であるから、根来は彼の姿を見失っているといえよう。
「そう、厳密なる意味においては、亜空間からの姿一つ見せない攻撃、こちら側に攻め入る
コトができない以上、防ぐコトしかお前に手立てはない」
これまた根来にとってはつらあてだ。この台詞はかつて彼が、横浜外人墓地で剛太に投げ
たものではなかったか?
そうこうしている間にも、床がぎりぎりとねじり尖って根来を襲う。無銘のいわくの「攻撃」だ。
疲弊し、無銘のつらあてに気をとられていた根来だから、これはさすがに避けきれない。胸
にせまる円錐を、半ば諦観の眼差しでぼうっと眺め。──
「真・鶉隠れよ」
目の前に立ちはだかった人影の、まろやかな匂いに、しばし心をうばわれた。
千歳だ。ヘルメスドライブでがっきと円錐を受けとめている所から察するに、先ほどの騒ぎも
これでしのいでいたと見える。
そして先ほど根来からわたされたマフラーを首にまいているのは、余人には理解できぬコス
プレ癖によるものだ。彼女は蝋燭の炎に誘引される羽虫のように、奇抜な服装に心うばわ
れてしまうのだ。そして羽虫が炎熱を知覚できずやがて破滅に身を焦がすように、千歳も自
らの年齢と衣裳の釣りあいを考慮する機能をまったく喪失している。そも、まともなファッショ
ンを考えたところで、アニメ版の設定画のように黒タイツを履いてガニ股をする千歳だ。
ならばあれこれ口出しして機嫌を損ねるよりは、好きにやらせておけばよい。婦人とうまく
やるコツは結局それなのだ。──
「私の仮説が正しければ、この状況はそれで収まるわ」
「承知。──」
一瞬根来は、彼らしからぬ表情を少しうかべたが、すぐさまシークレットレイルを床に突きたて
稲妻とともに埋没させた。この時、何かが焼き切られるような音がしたが、それも気にする暇
があらばこそ。──この状況では気にしようもない。
やがてシークレットトレイルは、やや離れた場所より戛然と飛びだし、金の残像をびゅうびゅう
と引きながら、鏡を次々に割り砕き始めた。
ふしぎな事に、それとほぼ時を同じくして円錐の攻撃は止み、同時に千歳がマフラーをしゅる
しゅると解いて、ヘルメスドライブを手から外して、マフラーで布ぐるみにしたのもふしぎな話
だ。
彼女はちょっと考えてから、根来をふり返り、それからがしゃがしゃ割られる鏡の中の無銘を
見て、ぽつりと呟いた。
「忍法無銘。──という所ね。あなたたち風にいうと」
千歳は思わぬ行動にでた! 根来のマフラーで布ぐるみにしたヘルメスドライブを、亜空間に
投げいれたのだ!
投げいれた? いや、もとより、根来のDNAを含んだもの以外は排除するシークレットトレ
イルの亜空間だ。対するヘルメスドライブは、しょせん千歳の精神の具現物にすぎない。な
らばその両者がぶつかればどうなるか? かつて剛太が外人墓地でされたように、ヘルメス
ドライブは、亜空間の入り口で稲光にはじかれるのみで終わったであろう。
しかるに、ああ、はたせるかな! この一見不可侵に見える亜空間も、根来のDNAをふくむ
ものでさえあれば、いかなる凶器をもとおしてしまう!
かつて剛太も、自分の武器に根来の血液を付着させ、亜空間にひそむ根来をねらいうった。
そして根来は亜空間でも脱げぬよう、着衣にくまなく毛髪を縫いこんでいる。マフラーとて例
外ではない。
そして千歳は、自らの武装錬金が亜空間に沈み込んだのを見はからい、手首を微妙にくい
くいと返すと、マフラーのみを引きぬいた! 結果、ヘルメスドライブは稲光とともに亜空間
より排除され、からからと床にころがった。
はたしてこの行動が何を意味するのか。余人にはとうてい伺い知ることはできない。
だがどうであろう。あれほど一帯を占めていた鏡は、すべて忽然と消えうせた!
残ったのは、廊下の中央にぽつねんとたたずむ無銘だけだが、彼自身もさらさらと風化を始
めている。
不可思議きわまりない。いったいいかなる現象が巻き起こり、こうなったのか?
「……見抜いたようだな」
「ええ。ヘルメスドライブからの敵の出現。シークレットトレイルの亜空間の錐への変化。この
二つはあなたの武装錬金の特性によるものね? つまり元を断たない限り、同じ事が繰り
返される。だからこうしたわ」
「明察。……」
うなる無銘を前に、千歳は傍らの根来をそっと促した。
「助けてもらった事だし、とどめはあなたに譲るわ」
「捨て置け。放っておいてももはや消え去る影なのだ。大体にして元を正せば貴殿の手柄だ」
「でも」
「譲る事で礼とする」
根来はしばしの仇敵がチリと消えゆくさまを、寂然と眺めた。
(お礼? 何の?)と千歳は小首を傾げた。
それはともかく、根来・千歳、勝利。──


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