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第098話 「終わりの始まり」(2)



「クソッタレ!!」
 爛れたクチバシでディプレスは叫んだ。その前方をガスマスク姿の少女が横切った。
「まさか島っちが足止めに来るとは……」
「鐶たちと同行しなかったのは気体操作ゆえ……巻き添え上等ですからねん。はい治療終わり」
 リバースの肩を叩くグレイズィングの傍に『降って来た』毒島がチューブから何かの気体を逆噴射し離れる。同時に燃え盛る
矢が一団に飛び込み……爆発。
 からくも赤黒い炎を避けて飛び出した火星の幹部は苛立たしげに叫ぶ。
「水素か何かの可燃性ガス!! 毒と爆発!! 厄介な攻撃ばかりしやがる!!」
『捕まえようにも小回り効くわ素早いわで無理だし、難儀ね』
 リバースの空気弾は目下まったく通じていない。彼女の指がトリガーを引いた瞬間つねに毒島は前方の空気配合を操作
する。それは酸素を二酸化炭素にするといった些細すぎる操作だが、圧搾された弾丸は、外部との分子のやり取りで形
を保てなくなり消滅する。
「そもそもこうなるの分かったからこそ養護施設爆破したんですよこの上なく。人のいる火災現場とリバースさん、戦士なら
どっち優先すべきかこの上なく明白ですから」
「というか毒ガス撒いたり可燃性ガス撒いたり……何なの!? 人質(わたし)居るのよ!?」
 ヴィクトリアは叫んだ。
「wwww あれだww ホムだからすぐ死なないって踏んでんだww」
「人質ですからワタクシが見捨てないのも織り込み済み。もっというと回復の手番稼いでいましてよ彼女。治すべき方が1人
増える。そのぶん他の幹部の回復が遅れる。すると迎撃体勢に不備が出始め……奪還のチャンスが増える。クス。無茶苦茶
だけど合理的。さすが奇兵というところねん」
 紅茶を啜りながら裏拳を繰り出すグレイズィング。それは下方から回り込んできた毒島のガスマスクに直撃し……すり抜けた。
「ディプレス。10mほど降下してん。上から来るわ」
 ハシビロコウが応じた瞬間、もといた位置に黄緑色の液体が充満した。
「下から来たのは蜃気楼。どうやら気体操作は光の屈折率をも変えるようねん」
「となると、俺っちの禁止能力も通し辛いと。錯視も然り。光そのものの進行が変わるとなると通常通り『見える』かどうか」
「え、光! 光ちゃんいるの!? どこどこ、今度いっしょにスープパスタ食べに行こうねー!!! 光ちゃんのために毎日5
回お店に通って3万円分ぐらいのポイント貯めたから食べ放題なんだよ!!」
「怖えええwwww ヤンデレの執念怖えええwww」
「お日様みたいに照らす笑い顔なのがまた……」
「光ちゃんの大切なその瞳曇らせない!」
「いや曇らせてますよね!? 監禁してゾンビみたいな目にしましたよね!? この上なく!」
「www とにかく毒島やべえwwww 戦部とか根来とかの同僚なだけあるわwwww」

 と讃えられる彼女だが、内心では焦っていた。

(私ではせいぜい速度を削ぐのが精一杯。並の毒や爆発は通じません。グレイズィングが居るんです。ちょっとやそっとの傷
はすぐ回復)
 もちろん「毒島」という位だから、並の相手なら一撃で死ぬ毒ぐらい持っている。幾つも幾つも持っている。だが今眼前に
居るのは幹部(マレフィック)、必殺か否か分からない。しかもヴィクトリアが人質だ。さんざ毒を浴びせておいて今さらだが、
それでも毒島なりに加減はしている。彼女さえ囚われていなければとっくに最強の毒を試している。ただのホムンクルスなら
浴びた瞬間ドロリと溶けて、しゃれこうべから眼球がプラリと垂れるような毒、グレイズィングでも蘇生不可能だと思われる毒を。
だがヴィクトリアにそういう死に方はさせたくないのだ。過去が過去なのだ。悲運の中でようやく最近幸福を掴みつつある彼女を
殺めるのはしたくない。ヴィクターと戦団の関係もある、もし彼が月から戻ってきたとき「ヴィクトリア溶け死にました」と言ってみよ、
今度こそ戦団、滅ぼされるではないか。

(桜花さんの矢が届いたのを見ても分かるように、地上部隊は追いつきつつあります。私が撹乱を続ければ、やがてその距
離はゼロとなり──…)
 剛太たちがディプレスを撃墜。地上戦に持ち込むコトも可能だ。
(問題はそこからです。幹部達を4人で全滅するのは不可能。形の上では半数が既に負けているんです、望みは薄い。しかも
私の能力は連携に不向き。皮肉ですが1人である現状こそ真骨頂。火渡様以外の方と組めば半分の実力も発揮できないの
がエアリアルオペレーター、地上部隊と合流した瞬間4の戦力が3.5にも2.5にもなるのです)
 決定打に欠けている。仮に幹部打破を諦め、ヴィクトリア救出のみに専念したとしよう。それでも逃げ切れるかどうか。
(私が幹部5人相手に生き延びているのは、彼らが撤退を優先しているからです。空中で、振り切ろうとしているからこそ付
け入る隙が生まれている。ヴィクトリアさんを奪還すればその図式が崩れる。舞台は地上。彼らは追撃)
 毒島がしんがりを引き受けても、地に足をつけた幹部5人の一斉攻撃で瞬く間に倒される。そして逃げていく桜花たちを
背中から襲撃、ヴィクトリアを取り戻す。
(戦士・千歳を呼びヴィクトリアを瞬間移動させても結果はほぼ同じ。敵は体重53kg以下の戦士から順に刈っていく。そし
て瞬間移動不可の者を最後に残し、悠然と倒す)
 つまり追いつく方がマズい。最善手だけ言えば『ヴィクトリアは敢えて見捨てる』のが正しいだろう。冷徹な言い方をすれば、
『彼女はどうせレティクルのアジトにいくのだ。そこにもうすぐ照星救出部隊が行く、ならついでに助ければいいではないか』。
 毒島は首を振る。
(彼女はもう日常の一部なんです。銀成学園の日常の一部。転校して間もない私ですがそれは分かる)
 監督代行として、力不足を痛感しながらも、演劇を少しでもよくしようと足掻いてた彼女の姿が瞼を過ぎる。
(戦士たる私が日常の壊れる様を見過ごす訳にはいきません)

(せめてあと1人。あと1人こちらに居れば──…)



「フ! フザけるな!!!」
 無銘は怒鳴っていた。斗貴子に対し怒鳴っていた。
「母上たちと合流しろと!? 主たる仇を前にこの場を離れろと!?」
「そうだ」。セーラー服は瞳を鋭くし冷然と頷く。
「いま追撃に当たっている戦力のうち、剛太と桜花は既に幹部に負けている。毒島は連携に不向き。例え戦士・千歳の盤外
からの協力を仰いでもヴィクトリアを取り戻すコトはおろか全員無事でいられる保証はない」
「ならば貴様か鐶が行けばいいだろう! 大方『逆転が見込める敵対特性を有するから我に行け』と言っているのだろうが、
それはイオイソゴに対しても同じなの……ふぁ!?」
 妙な声を漏らしたのは、頬がぐにゃりと伸びたからだ。
「……怒っちゃヤーです、よ。忍者は沈着冷静であるべき……です……」
「ふぁふぁひ(鐶)!?」
 頬肉をふにふにと弄ぶ彼女は病後のような笑みを浮かべた。
「私だって……お姉ちゃんを……追いたい……ですよ? でも……感情が……揺らいで…………隙みせる……かも……
です。…………運命との決着……焦る……あまり……他の人に……迷惑かけるの……ダメだと……思うの……です」
 秋水も言葉を接ぐ。
「……理解してくれ無銘。君の正心はいま千々に乱れている。犬の体に押し込めた張本人を前に怒る気持ちは分かる。だ
が貴信も言っていただろう。感情を制御できなければ……待つのは破滅だ。だから俺も過ちを犯した」
「……」
 少しだけ琴線に触れたようだ。無銘は黙った。
「…………向こうにも仇……グレイズィングさん……居ます……。けど……共犯者で…………だから……感情…………
ちょっとだけ制御しやすい……です」
「だが……!!」
『ああもううっさい!! きゅーびあんたうっさい!!!』
 ごぶ。少年忍者が吐血したのは背中を思いっきりハタかれたからだ。
「細かいコトはどーでもいーじゃん!! あんたさ! きゅーびあんた!! ほんとーに分かってる!?」
「な、何をだ!!」
「向こうに! あやちゃん! 居るでしょーがあああああああああああああ!!!!」
「!!」
 それで無銘は理解したようだ。戦力不足の追撃部隊に母と慕う者が属する危険を……。
「あんたあやちゃん大好きなんでしょーが!! だったら行く! 守る! もりもりおらん今、あんたしかあやちゃん守れん
じゃん!! ムカつく奴とっちめってもさ!! あやちゃんおっかない奴らにぎゃーされたら意味ないじゃん!! キリない!
またムカつく奴ふやしてギャーギャーいうのヘン!! おかしい!!」
 目先の仇討ちに目を奪われるあまり、大事な存在を失えば堂々巡り……香美にしては、いや、香美だからこそだろうか、
一種真理をついた言葉に無銘はひどく面食らった。
「き、貴様とて7年前、月の幹部相手に暴走したではないか!!! 飼い主から聞いてるぞ!!」
「よーわからんけど、あばれた! でもスッとせんだじゃん!! 色々ぎゃーしてもご主人がおらんだらスッとせんじゃん!!
きゅーびあんたそれでいい!? まんぞく!? あやちゃんおらんくなって、あばれて、スッとせんで、へーき!?」
「だだ黙れ新参が!! いま気付いたが交代しとるな! そこまでして言うべきコトか!!」
「いうべきコト!! あやちゃんトモダチ!! あんたにも大事! 守る!! 行く!! ドキドキ経由の列車に乗って!!」
 上体を曲げて額を当てて指差しつつググっと詰め寄ってくるネコにイヌは「ぬぐ……」言葉に詰まる。
(大事……。小札さん……のコト)
 鐶は一瞬鎮痛な顔をしたが……ちょっと決意を固めたような表情で囁く。
「そう……ですよ……。小札さんは……きっと……無銘くんの中で……一番大事な……女の人…………。守ってあげなきゃ
……だめ……ですよ」

 想いがあった。

 特異体質でさまざまな姿になれる自分。

(けど小札さんだけには…………なれないん…………でしょうか)
 小札そのものではない。無銘の中で、小札と同じぐらい大事な存在になるコトは……無理なのだろうか。
(……分かっています。贅沢だって。普通にお話して……おでかけできるだけ……とっくに幸せだって)
 揺れる少女の心境も知らぬまま。無銘は。
 やや沈黙の後……しぶしぶながら頷いた。戦力分散の件へ。
「わかった。向こうへ合流する」
「ひひっ。話は終わったかの?」
 幼いような老いているような複雑な声音が一座にかかる。
 話しかけたのは小柄な少女だ。背丈たるや小札に劣るほどだ。黒豆のような瞳に低い鼻。すみれ色の髪をポニーテール
にし根元にはマンゴーとフェレットのマスコットのぶら下がる簪(かんざし)。袖がダブダブと余る黒ブレザーにごく薄い青灰色
のミニスカート、黒タイツ。総ての要素が庇護欲をかきたてる少女だった。
 しかし彼女はレティクルエレメンツ、木星の幹部。女性でありながら、胚児に幼体を投与するという残虐性を有している。結
果いびつな姿で生きざるを得なかった無銘が恨むのもやむなしだ。
「見てくれにそぐわぬ老体での。直立不動はちィっとばかし腰に来るのじゃよ。話終わったかの? そろそろ始めたいんじゃが」
「随分余裕だな。話の隙をつかないとは」
 斗貴子の問いに、銀成学園の偽理事長は「いんや」と首振り手を広げる。
「合従する戦士と音楽隊の中でも頭抜けた連中5体……舐めてかかれば我が身が危うい。ひひっ。そうじゃな。もしわしが
迂闊に飛び込んでおれば、まず津村めが九頭龍閃で突撃。仮にわしが上もしくは左右に避けたとしても秋水めが殺到。
必殺の逆胴で致命傷ないしはそれに準ずる大打撃を受けておったじゃろう。貴様らは強い。その程度の警戒、あって然る
と思うがの?」
(見抜いたか)
(……すでに堂々と私たちの前に現れていたコトといいこの幹部……毛色が違う)
(ディプレスたちのように凶気を撒き散らしていない。だからこそ……)
(ぞわぞわするじゃん。おっかなくないのに、おっかない)
(フードを纏っていないのは、ヘルメスドライブに捕捉されても生き延びる自信の表れ、か。討つべき女だ。絶対に)

 振り返りたそうにビルから飛び立つ無銘。道路を避け屋上から屋上へと飛ぶ彼を尻目にイオイソゴ。

「ひひっ。正しいよ。小札を、選ぶ。過去に照らせばそれは虚実の『実』。ひひひ。真相を知ろうとなお『虚』足りえぬ……」
「……?」
 不明瞭な呟き。秋水の片眉が跳ね上がった。
「引き止めないのか?」
 無銘とイオイソゴの直線上へ静かに割り込む斗貴子。木星の幹部は軽く腕組みした。
「と、言われてもの。わしが盟主様より仰せつかったのはあくまで『足止め』。ヌシらと追撃部隊の合流が遅れるなら何であ
れ結構じゃ。付記すれば鳩尾無銘がこの場を離れようと差し支えない。留めるよう言われたのは3〜4名。2名までなら離
脱されようと主命には背かん。ひひ。最悪栴檀どもと誰か1名釘付けるだけでも理屈の上では問題なしじゃ」
 低い鼻を弾くようになぞりながら笑う。少女でありながらいちいち表情が老婆めいている……秋水は思う。学園で見かけた、
理事長としての彼女は、見た目相応、6〜7歳の明るい少女らしい、裏表なき純真な笑いを浮かべていた。
 その落差に脳細胞がついていかないまま、秋水はごく率直な疑問をぶつける。
「……先ほど無銘を待ちわびたといっていたな。あれはウソか?」
「嘘ではないよ。ヌシらも知っておるじゃろうが。向こうにはぐれいずぃんぐが居る。万一鳩尾無銘が斃されるようなコトが
あったとしても、蘇生し保管する手筈よ。そもわしは彼奴と戦いたいのではない、喰いたいのじゃ」
 喰えれば誰に斃されようと関係ない。そういって、あどけない、愛らしい顔付きを黒く歪ませるイオイソゴ。黒い大きな瞳孔
は濡れ光っているが笑っていない。「ホムンクルスの身でホムンクルスたる無銘を喰う」、歪んだ妄執に戦士たちは軽く身
震いした。似たコトなら朋輩たる戦部もやってはいるが、あちらはあくまで闘争本能を高めるためだ。しかも対象はあくまで
”ホムンクルス”という別種だ。力を誇示するため獣を裂く……戦いに身を置く秋水たちならギリギリのところで納得できる
行為だろう。
 イオイソゴは違う。もっと根源的なおぞましさがある。端的にいえばカニバリズム、人間が人間を喰うような、理解しがたい
欲求が感じられて仕方ない。人肉の味を覚えた者が格上げされたばかりに目線が水平移動したような……『同族を喰う』と
いう禁忌そのものに酔っているような不気味さがある。第一本人が言ったではないか「無銘と戦うコトが主題ではない、喰え
ればそれで構わない」……この一点だけでも戦部とは明確な差がある。弁当になる程度の雑魚ならともかく、無銘ほどの存
在なら戦部は放置しない。「死体にする位なら俺にやらせろ」。のっそりと粛清を買って出る。


「ま、喋々(ちょうちょう。おしゃべり)で覆る戦況でもあるまい。追撃を邪魔した埋め合わせじゃ。先手は譲ろう。ひひっ。無銘
めを追うもよし、かかってくるもよし。遠慮なく動くがいい。主命に賭けて応対するよ、程々に」
 ゆっくりと両腕を広げ瞑目する木星の幹部。
(……コイツを置き去りにするのが一番いい。鐶に乗って剛太たちと合流すれば向こうも生きる目が出る)
 身も蓋もないコトを斗貴子は考えるが、道路の様子を思い出し首を振る。
(アレに引き寄せられたから今がある。3人乗せて飛び立つのは不可能だろう)

 戦士たちは、黙り。

「磁力。君の能力は磁力だな」
「ほう?」
 稚い老婆の目をまろくさせた。
「鐶の不自然な降下。コールタールのような地面。そしてビルに飛び移る時の異様な引力。総ては磁力の成せる技だ」
「成程のう。びくたーのような重力でない論拠は恐らく……でぃぷれすか。落ちゆく奴ばらめが反転上昇した。行く手の
ぐれいずぃんぐに、わしが何か撃っていた。とくれば磁力を帯びた何らかの武装錬金の授受があったと見なすは当然」
 正解じゃっ。イオイソゴは両目を景気のいい不等号に細めた。
(なにその反応!?)。貴信が驚いた。鐶は「まあこんな部分も……あります。私がお父さん達殺された後……とか」。
「流石いけめんさんじゃ!! カッコいいわ頭いいわできゃーじゃ!! そうじゃのう磁力持ちへ不用意に飛び込むのは危
険じゃ危険じゃ大変じゃ! なんて偉いんじゃ感心じゃ! 今日び向こう見ずな若人が多い中よくも踏みとどまったの。偉い
ぞ偉いぞ。偉いのじゃ!」
 やや戯画的な表情でこれまた戯画的な丸い拳をブンスカブンスカ上下に振るイオイソゴに戦士たちは言葉を失くした。
(何だコレ……)
「ハッ!! はしゃぎすぎてしもうた……」。恥ずかしそうに彼女は目を逸らし「自重自重」と呟いた。
(なんか……)
(他の幹部とあまり変わらないような気がしてきたぞ)
 唖然とする一同の前でイオイソゴはクルリ、踵を返した。そして波々とドレープの乗ったミニスカートの後ろで手を組んで
右の爪先をコケティッシュに立てると、馬の尻尾を揺らしつつ顔半分で振り返った。
「ひひっ。しかしまあ、踏み込まなければ安全という訳ではないぞ?」
 少女の右腕が一閃。剣道で鍛えた動体視力の持ち主さえ、いつ腰の後ろから解いたのか分からないほどの速度だった。
 攻撃を警戒し防御の構えを取る一同。だが……何も来ない。
(空振り……?)
(ありえない。数100m先の落下途中の仲間に当てたんだぞ! この近距離で外す訳が……!)
 こいつの目的は足止め、ならば結界でも張ったのか……? 周囲を見回す戦士たち。だが何も見当たらない。広がるのは
街並みだ。中層ビルが所狭しと立ち並ぶビル街だ。とりたてて変化はない。

 幾つかのビルが頭を浮かせているコトを除けば。

「なっ!?」 
 やっと叫びが出たのは、ビルの最上階が7〜8個石くれを落としながら飛んで来た時だ。
(まさかアイツ……操れるのか!? 『鉄筋コンクリート』を、磁力で!?)
「先手が様子見とあらば仕掛けるのも吝かではあるまい。ひひっ。人払いはしておる。建物には誰もおらんよ」
 平均全高6mの巨大な質量が、正に四方八方から特急列車並みの速度で秋水達のいる屋上に突っ込み……破壊した。


 その轟音を麓で聞きながら斗貴子は咳き込むように息を荒げる。
「咄嗟に避けたが……フザけるな! バルキリースカートでどうにかできるのかアレ!」
「……バスターバロン級でないと無理だな」
 どこが程々の対応だ、刀一本じゃどうにもならない……溜息をつく秋水。後ろを見る。鐶が左手を上げていた。
「やられ……ました…………」
 掌に黒い金属片がめり込んでいる。地面への磁力ゆえ上げるのも一苦労らしく右手で支えている。
(ビルは囮だったようだ。回避の隙をつき、当てるための)
(鐶の腕は翼と相同。磁力を発する武装錬金を打ち込まれては飛行困難)
 ますます逃走が難しくなった。三者に安全たる雰囲気が立ち込めた。香美もいやな汗。イオイソゴは饅頭を食べていた。

「!!!!?」

 ぎょっとして視線を収束させる戦士たち。彼女は武器を向けられてなお悠然と饅頭を放り投げ、口に入れた。
「うむ。あんこがおいしいのじゃ!! でも食べるのに夢中でこしあんか粒あんか分からんかった……。後でもう1個買おう
かのう……。でもあまり食べると虫歯が怖いしのう……」
「知るか!!」
 振りかざされた鎌をイオイソゴは無造作に撫でた。するとデスサイズの進行と共にどんどんと上に向かって傾斜していき、
遂には完全倒立を成し遂げた。片腕でそれをやったまま硬直するイオイソゴに誰もが目を見張る。
(倒立自体は磁力の応用なのだろうが……。恐ろしいのは精神だ。攻めが……静かすぎる)
 秋水は気付く。殺気のなさに。普通仕掛けるときは何らかの感情の動きが見られるものだ。イオイソゴにはそれがない。
「よっと」
 伸ばしきった両腕の先で掌を直角に折り曲げながら秋水たちの背後3m地点へ着地したイオイソゴ。緩やかに口を開く。

「さて、そろそろ我らの命名則に気付いたじゃろう。りばーすは、いんぐらむという銃。でぃぷれすは神火飛鴉。とくれば……
根来めや無銘と交友深きヌシらも気付こう。わしの姓名たる”きしゃく”。それは即ち──…」

 耆著(きしゃく)。

 忍者刀や百雷銃、忍び六具、龕灯と同じ『忍具』である。
 形状は舟形。鉄製。全長およそ30mmほど。重さは3グラムにも満たない。

 忍具というが武器ではない。端的に言えば「方位磁針」である。
 磁力を帯びているため、水に浮かべると北を指す。


(成程。それであの能力)
 振り返り、納得する秋水の前でイオイソゴが動いた。「来る!」。緊張する彼の前で
「ふあああああ。急にさかさになったから頭に血が上ってもうたあ〜〜〜〜」
 500年以上生きている少女がグルグルと目を回した。
(うん。やり辛い!)
 秋水は駆けた。斗貴子は不用意を咎めかけたが、周囲を見ると苛立たしげに呟きつつ後に続く。
(なんで突っ込むのさ? さっきソレ危ないっていってたじゃん)
(場所だ!! ようく周りを見るんだ香美!!)
(ここ、ビルの……谷間…………です……。さっきの攻撃の、ビルの根っこ持ち上げる版やられたら……全滅……です……)
 やられたという顔を鐶はした。イオイソゴの向こうに路地が見えた。反対側は、秋水達の背後は行き止まり。つまり木星の
幹部は……行く手を塞いだ。先ほどまで路地に向けられていた秋水達の背後を取り退路を断ったのだ。偶然でないコトは、
駆け寄ってくる秋水達を眺める酷薄な美食家のような目つきから明らかだ。
(……できれば迂闊に仕掛けたくない。ビルの壁を蹴り、奴の頭上を越えるのが最善だ。私も鐶も香美もそれはできる)
 だが。秋水にはそれができない。ビルの隙間は人2人が並んで走れるほどには広い。それでも翼なき鐶はまだ自前の
身体能力で壁蹴り三角飛びはできる。だが剣客たる秋水がするには広すぎた。
(中央突破を選ばねば彼だけ餌食! ビルに呑まれるにせよ直接殺られるにせよ……敵の思惑通り! 最善ではないが)
 佇む幹部めがけ走る。手持ちカメラで撮るような激しいブレ。リスクも反撃も覚悟して──…
(仕掛ける他ない!!)
 加速。地を蹴り処刑鎌を叩き込む斗貴子。次に秋水が腰を沈め袈裟懸けに薙いだ。貴信の鎖が少女の腹部を貫き、
鐶の短剣が首を深く削り取る。
 攻撃の余勢の赴くまま一同はつんのめりそうになりつつ路地に出た。そこは先ほど見たとおり溶融中。コールタールの
海から発する磁力が秋水たちを轟然と引き寄せていく。
(確か人体に含まれる鉄分は釘にしてわずか数本)
(たったそれだけをこうも強力に引っ張れるものなのか……!?)
 たん。2人の肩が蹴られた。秋水を香美が、斗貴子を鐶が、それぞれ蹴って高く跳ぶ
 それを合図に振り返った秋水達に迫るのはイオイソゴ。倒れかねない引力が背後から降り注ぐ。
(抗えないなら……)
(りようじゃん!)
 鐶は左手を突き出した。耆著がめり込んでいるそこを基点に爆発的な加速が生まれる。彼女の左脇に抱えられた香美の
右の掌から鎖が生え……地面を叩いた。その勢いで反時計回りに90度回転した2人は、道路と腹這い平行になった少女
2人は、コールタールの海面スレスレで……圧倒的な光を解き放つ。

「「超新星よ!! 閃光に爆ぜろオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」」

 小指の側面で密着した鐶の左掌と香美の右掌の捕食孔から爆発的に膨れ上がつつ混ざり合い1つになった光球は、道
路を蝕む漆黒の死海に半分埋まりながらなおも飛び──、ガンメタルの河を、飲む、呑む、喫む。底たるコンクリ舗装をガ
リガリと捲くり飛ばしながひたすらに直進し駆け抜ける。後に残るは旋条の轍。星は地平線の彼方へ奔り去った。

(生体エネルギーを変換する貴信の切り札!)
(鐶もかつて似たような技を使っていた! しかも発射したのは耆著が刺さる左掌! 攻撃しつつ敵の攻撃も無効化した!)

 果たして着地した鐶のそこで黒い欠片が散った。道路の磁場も撤去完了……飛行能力復活。
 だがイオイソゴを見る秋水の顔は晴れない。

「津村」
「ああ。先ほどのすれ違いざまの斬撃──…」

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「手応えがなかった」

 黒ブレザーの鼻の低い少女は無傷だった。

 秋水と斗貴子の間を鎖分銅が猛然と駆け抜け、敵の章印を穿った。

「斬撃が効かぬと分かるや防御覚悟のここ狙い、か。ひひ。やるではないか栴檀貴信」
 とぷりという音と共に分銅が胸から跳ね上がり持ち主の下へ巻き戻った。
 ホムンクルスの急所を貫かれてなお生きている! 戦慄しつつも秋水たちは破壊痕生々しい道路へ飛び退る。迂闊に
切り込めばビルの谷間に逆戻り……死を意味する。

(正直先ほどから撤退を念頭に置いている自分が不愉快だが……)
 鳥の姿になった鐶の背中に斗貴子たちは乗り込んだ。詳細は不明だが敵は不死のようだ。迂闊に手を出せば泥沼に
陥る。敵は足止めを目論んでいるが、現状戦士側が木星の幹部を斃す必要性はない。桜花たちとの合流こそ戦略目標、
鐶を引き止めていた磁力の罠総て解除した今、留まる理由がどこにあろう。

「と考えておるじゃろ?」

 鐶の眼前にイオイソゴが現れた。顔はやや獣の意匠。

 ビルの4階ほどまで上昇した鐶をカビ臭い童女が取り巻いていた。イオイソゴは……伸びていた。フェレットとヘビを掛け合わ
せたマスコットキャラのような灰色の姿で、相手のクチバシから尾羽の先までグルグルと螺旋を描いて包囲していた。

「なっ……」
 秋水は見た。いまだ地上にイオイソゴの体があるのを。首から下は正に人型、だが首から上だけがフェレットでありヘビ
だった。

(斬るか? いや……迂闊な手出しは控えるべき。ビルの谷間とは事情が違う)
(囲まれましたが磁力はなし……です! 加速すれば充分突っ切れ──…)
「鐶よ。ヌシの両親は生きておる」
 虚ろな目の少女は息を呑む。傷ある少女は金切り声。
「耳を貸すな! 速度を上げ「遅いよ」
 軽く首を曲げるイオイソゴの螺旋が収縮し、戦士たちを捉える。
(しまった……)
 鐶の機動力を駆使すれば逃れられる攻撃だった。にも関わらず動揺し、付け込まれた。悔いても喰いきれない過失だった。
「よいしょ」
 鐶たちと地上を結ぶ長い首がしなった。螺旋の包囲は地面からおよそ1m28cmの地点で糸を引くようスルスル解け。
 戦士たちを地面へ放り出す。

「くっ」……そういう意味を異口同音に叫びながら着地した秋水たち。
 首を元に戻し、ゆっくりと歩いてくるイオイソゴは笑いながら……語りだす。
「ひひっ。そう……鐶よ。ヌシの両親は生きている」
(両親……義姉(リバース)に惨殺された人たちか)
「正確にいえば奴に殺された後、ぐれいずぃんぐが蘇生しまた戦士に殺された。りばーすに伝えてあるのはそこまでじゃが
実は蘇生済み。生きておる。じゃがなあ、りばーすめはそれを知らん。知らんがゆえに戦士を憎み、戦団と敵対しておる」
 距離が縮まる。鐶の顔色が褪せていく。震える彼女、斗貴子に耳を貸すなと言われても従えない。

 かつてリバースは……まだ「玉城光」だった鐶をレティクルから逃がした。贖罪の意味を込めて。
 だが鐶はその強さを見ても分かるように、戦力として期待されていた。存在自体が機密事項の塊でもあった。
 よって情に駆られそれを在野に放ったリバースは、当然処刑されて然るべきだった。
 ……イオイソゴは、言った。

──「でも殺しはせんよ。奴は義妹に対する格好の”かーど”たりうるからの。あれほど強い玉城光とて、まだ10年と生きて
──おらぬただの少女。もし戦団や総角主税どもに悪用されたとて、肉親の情で攻められれば必ず揺らぐ。ゆえに何があ
──ろうと、りばーすは殺さんよ」

 戦士たちはそんな事情などもちろん知らない。だからこそ、埃が積もるほど長く場に合った伏せ札の効力は……高い。
 なにしろ味方(リバース)さえ欺き、破滅への道を歩かせているのだ。「何故伝えない」……親愛ゆえの憤りは蜘蛛の糸。

「哀れじゃなあ。妹のヌシが伝え誤解を解いてやらねば……ひひっ。奴はいずれ戦団との戦いで命を落とす。わしなぞとっ
とと振り切って、一刻も早く真実を伝えなければ、助けたいと希(こいねが)う義姉、無謀なる怒りで自ら身を滅ぼすぞ」
「……っ」
「いや……ひょっとするともう手遅れ、かものう。追撃に向かった連中に始末、されておるかものう」
 ひひっ。笑う老女の章印が短剣に刺し貫かれた。圧倒的な加速だった。秋水も斗貴子も捉えられない速度で肉薄した鐶。
鍔元までめり込む刃。年齢吸収。切りつけた深さに比例し年齢を吸い取る特性。かつて根来でさえ成す術なく胎児と化した
一種必殺の特性がイオイソゴに炸裂した。うなだれる彼女を虚ろな瞳が見下した。
「さっき通り過ぎた時とは違う……本気の刺突……。この深さなら……220年分…………です」
 人間はおろかヴィクトリアでさえ幼体と化すであろう年齢吸収。
 だが次の瞬間瞳孔を見開いたのは……鐶。勝ちを得たはずの彼女が一転、蒼然たる顔付きで地を蹴り飛びのいた。その
元いた場所を耆著が貫き虚空へ消えた。「ひひっ」。イオイソゴはだらりと面を上げた。何より……立っていた。割り箸のよう
に細い足を2本、確かに大地につけている。
(220年分吸収されたのに……)
(変化なし。胎児にならないだと?)
「っと。避けられたか。流石は鐶……判断も反射も規格外じゃのう。ひひっ!」
(いや貴方いま章印! 章印貫かれましたよね!!? 何でピンピンしてるんだ! 鎖分銅当たった時もそうだけど!!)

 震える貴信たちの元へ舞い戻った鐶。白いバンダナの下で「そういえば」と声を漏らす。

「クロムクレイドルトゥグレイヴ……ビルの谷間ですれ違った時も、年齢……50年近く吸い取っています……」
 その言葉の意味するところを理解した秋水たちは、ひたすらに凍えた。
 イオイソゴ。彼女の顔は『そのまま』だった。現れた時のまま、登場時の年齢のまま……立っている。

「今のと合わせて300年近く吸われたのに…………若返るコトさえしないのか…………?」
「落ち着け! 下限が不明なら与えればいいだけのコト! 数百年も与えれば何歳だろうと老いる!!」
「ところで」。木星の幹部は世間話をするように囁いた。
「わしは、ほむんくるすになる前から既に…………555年生きていた。ひひ。嘘か誠かの判断はヌシらに委ねるが、
……555年生きてこの姿じゃ。老いさせるのはちぃっと骨が折れるのう」
(ホムンクルスになる前からだと? つまり『人間の身で』555年生きたというのか?」
(俄かには信じたいが、事実だとすれば)
(何年与えれば老いるんだ!? 500年!? それとも……1000年!?)
(よ、よー分からんけど光ふくちょー言うとったじゃん! 『200年分集めるのも一苦労』って!)
 鐶は思い出す。かつて戦士と戦っていた頃を。瀕死時の自動回復やその他諸々の操作のために数多くの調整体を狩って
チマチマと年齢を集めていた。それでも足らず、貴信、香美、無銘、小札といった惜しくも秋水に破れた仲間たちの年齢を
吸収してやっと200年前後。1000年という数字は、6対1の最中に乱入した銀成学園で生徒約40人を切りつけた時でさ
え到達できなかった数字だ。相性は最悪。丸い頬を一筋の汗が伝い落ちた。
(この辺りの建物は……平均で…………20歳という……ところ……。50棟以上斬れば……或いは、ですが)
「させぬよ?」
 イオイソゴは指を弾く。耆著が飛ぶ。めいめいそれぞれの文法で回避する。
 しかし外れた耆著が電柱にビルの側壁に街路樹に廃車のドアに。
 突き刺さって。
 ドロリと溶かした。
 黒面が捩りあい錐と化して戦士らを背後から襲う。かすり傷程度だが全員に一瞬隙ができた。
 戛と地を蹴り地上6mに達す少女の老婆。手に無数の耆著があるコトを認めた秋水たちは……決める。
(どうやら逃がすつもりはないらしい)
(走ろうと鐶に乗ろうと奴はどこまでも追いすがる)
(リスクはある! けど!!)
(何もしなかったらそれこそジリ貧じゃん!!)
 秋水と斗貴子が跳んだ。
「逆胴!!」
「臓物をブチ撒けろ!!」
 左右から繰り出された斬撃をイオイソゴは楽しげに眺め
「まぐねっとぱわー! ごー! ごー!」
 ひとひらの耆著を頭上高く突き上げた。そこから磁力線が迸ったとき、秋水は異変に気付く。
(ソードサムライXが……重くなった? ブレイクの禁止能力……いや違う!)
 反発していた。イオイソゴを包む磁力線の軌道内で今にも押し返されんばかりに軋んでいた。斗貴子も同じらしくあらぬ方
向へスッ飛びそうなデスサイズたちが高速機動と鬩ぎあっている。可動肢は意思と斥力の板挟み、負荷の嘆きに激震中。
 愛刀に何が……刃を見た剣客は肌色のぬめりを目撃する。
(まさか……!)
(さっきのビル! 脱出するとき斬ったアイツの肉片が!!)
(付着し! 磁力をもたらしている!!)
 …………。2人は気付く。イオイソゴがどれだけ周到か。
(ビルの最上階を飛ばしたのは(鐶の翼を封じるためでもあるが)この布石!! 迂闊に飛び込むまいと警戒する私たちに)
(『飛び込まなければ何が起きるか』前以てリスクを見せ付けた!)
 そして回避後、ビルの谷間で、唯一の退路を堂々と遮り、『仕掛けざるを得なくした』。
(彼女は俺らが避けるコトを見越していた。もっといえば、『袋小路に飛び降りる他ない』ビルを選んだ)
(いや……『私たちが選ばされた』というべきだろうな。あそこに降り立ったのは決して偶然じゃない。奴がそうなるよう仕組ん
だんだ。鐶が磁力に引かれ、落ち始めた時から既に攻撃は始まっていたんだ)
 イオイソゴは……地形を吟味したのだ。そして攻めるのに最適な場所へ戦士たちが来るよう磁力にて誘導した。無銘が匂
いを察知したところを見ると、風向きさえ計算に入れていたのだろう。
 そして……あれほど未知の敵に対して慎重だった斗貴子たちが……ビルによる圧殺という、最大かつ目を奪われやすいリ
スクを避けるため攻撃せざるを得なくなり……。
 ソードサムライXとバルキリースカートに磁力を帯びた肉片が付着、反発の餌食となった。同じく斬りつけた筈の鐶の短剣
が先ほど章印を貫いたのは、戦士全員に「斬ったリスクは何もない」と無意識に思わせる為のブラフ。そして……年齢操作
がいかに無力かつくづくと実感させるためのデモンストレーション。
(恐るべき幹部だ。俺達は釈迦の掌という訳か)
(だが!!)
 両名武装解除。光と消えた刃の残影軌道上からの肉片追放を確認すると……再発動!!

「「武装錬金!!!」」

 黄金色の稜線が迸る。早坂秋水と津村斗貴子が膝立ちで着地した時、後方の空には10の破片と刻まれたイオイソゴが
浮いていた。

「磁力がなくなれば俺達の武器はただの金属」
「引き寄せられる分、太刀行きは……速い!!」
 反発をもたらす肉片。ソードサムライXに残存するエネルギーを使えば焼けたかも知れない。
 しかしそれでは秋水単騎……各個撃破の憂き目に合う。
 故に彼は斗貴子との同時攻撃による瞬間的な火力上昇を選んだのだ。

「聿皇峻烈(いっこうしゅんれつ)聿皇峻烈。しかし無駄じゃよ。無駄無駄。斬られようと元に──…」
 磁力で結びついて行くイオイソゴ”たち”の背後の空間が僅かに歪んだ。
(ズグロモリモズの毒……!! 打撃や年齢操作が無理でも、コレなら……!!)
 透明化によって回り込んだ鐶(バンダナは黒とオレンジの可愛い鳥)の手から暗黒色の羽根が30本飛び……敵の破片
総てに分け隔てなく突き刺さる。
 木星の幹部は呻き、硬直し、うつ伏せで力なく落ちていく。磁力結合、再生もまた中断。
 追撃は止まらない。香美の脚力で、鐶より遥か上空に跳んでいた貴信の手から放たれた大口径の光球が──…
 イオイソゴへ……殺到!
(毒で身動きできない相手を狙い撃つ……! したくなかったがこうでもしないと斃せない!!)
「ひひ」
「!!」
 落下中のイオイソゴが地上4m地点で俄かに動いた。戦慄の戦士。彼女は……伸びた。ブレザーごと伸びた。
 いよいよ間近に迫った直径3mの超新星に背中を向けたまま『見もせずに』外郭円弧に沿うよう全身を曲げた。果たして
光球は秋水の背後およそ2mの地点で、コンクリに呑まれブラジルを目指し始めた。……『焼けた何かを』弾き飛ばして。
 すたり。元の体で着地した木星は秋水と斗貴子に背を向けたまま緩やかに語る。
「ヌシらが鐶の囮と見せかけつつ、栴檀どもを切り札に使う……。ひひっ。即興にしては上々の十重二十重の罠の群れ。
演劇での経験が生きたかの。唯一難点を上げるとすれば、じゃ」
 振り返った彼女は苦み走った狡猾な笑いをニッタリと浮かべた。
「忍びに毒が効くとでも?」
 色を失くした鐶が降り立つ。次いで貴信も。
「ずぐろもりもずの毒とは『鴆毒(ちんどく)』よ。李斯が韓非子を殺すほど”ぽぷらー”な毒よ。なれば拳拳服膺するが如く文
字通りの肝に銘じて忘れえぬようするのは当然ではないか」
「あ、あああ……」
 震える鐶。気付けなかったコトに動揺したらしい。
「落ち着くんだ!! 俺達だって見抜けなかった!! 君1人の責任では──…」
「しかし無様じゃのう」。よく透る声が秋水を遮る。
「せっかく連合合従して、この程度か? 断っておくが武装錬金性能に限って言えばわしはまれふぃっく最弱……」
(最弱? コレで?)
 鐶を引きずり落とし、ビルを飛ばし、詳細は不明だが斬撃を無効化している能力を、イオイソゴは最弱という。
「これでは本気の我ら相手にどれほどもつか。おお。そういえば5人ものまれふぃっくを追跡中の集団もいたのう。
(姉さんたちのコトか)
「ひひひ。ここにいる連中にくらぶれば小札零どもは遥かに弱い。果たして連中、無 事 で 済 む か の ?」
 沈黙が訪れる。
(嫌な物言いをする。逼迫しているからこそ無銘を向かわせたんだ)
(それを見ておきながら言うんだ)
(焦らせるのが目的……だろうな!!)
(つかあやちゃん強いし。めっちゃ強いし)
 秋水たちは……流す。まがりなりにもそれぞれの挫折と向き合ってきたのだ。簡単には揺らがない。
 だが。
 鐶だけは、揺れていた。
(私たちの攻撃……ほとんど封殺されたに……等しい……です。こうなったら……)
「じゃの。後はもう鳳凰になる他ない」
 見透かされたコトにドキリとしながらポシェットを見る。
(斗貴子さんに負けてから……私の切り札……鳳凰形態…………見直し……ました……)
 それは『鳥の王になった』という自己暗示によって特異体質を全開、体のあらゆる部位を鳥のあらゆる部位にする能力だ。
(見直した結果…………持続時間は……5分から……9分に……。一度解除してからも……もう一度なれますし……数日
間の絶食も不要に……なりました。絶食したという自己暗示1つでおk……)
 相変わらず硫黄の詰まったオオサンショウウオの腸を食べる必要があるが、総てにおいて斗貴子と戦ったときより向上
している。
(…………)
 鐶は一刻も早くリバースに追いつかなくてはならない。追いついて両親の生存を伝えなければならない。さもなくば、復仇の
ため戦団と敵対している義姉が止まれない。いつかほかの戦士に殺されてしまう。
(……なんていうか…………頭おかしいお姉ちゃんで…………鬱陶しくて…………恐ろしいですけど…………無銘くんと
……約束したん……です……。助けるって……。昔の優しい、まともで、Cougarさんオリコン上位にするんだって…………
同じCD何十枚も買い込む……哀れな……お姉ちゃんに……ドーナツの匂いがするお姉ちゃんに……)
 戻って欲しい。少女は切にそう願っている。
(なら……鳳凰になって……打開するしか……)
「落ち着け」
 ガゴン。殴られた鐶は反射的にバンダナを抑えた。暗黒世界の常闇に6世紀ずっと鎮座しているラズライトのような瞳に
涙をうっすら浮かべながら振り返る。猩々緋の三つ編みが円弧を描いた。
「斗貴子さん……痛い……です……」
 いつの間に移動したのか。拳から煙を噴くセーラー服美少女戦士が仁王立ちしていた。
「挑発に乗った罰だ。一切無視しろ。奴が自分で言ってるだろう。忍びなんだ。どうせ何もかも調べているし見抜いている」
 だが鳳凰でなければ打開できない……雑多な要素を総合して伸べる鐶に斗貴子は呆れたように目を吊り上げ腕組みした。
「忘れたのか。一度鳳凰になれば解除後24時間……特異体質使用不可。むかし私にそう言ったのはどこのどいつだ」
「あ……」
 それともそこまで改善しているのか? 問う斗貴子に首を振る。
「……せいぜい…………簡単な変形が……できる程度……です」
「そうだろう」
 肩を落とすと、反省を認めたようだ。わずかだが斗貴子の顔が和らいだ。「非を認めた中村を励ますような表情だな」、秋水
は思った。よき女先輩の顔だった。厳しさと優しさを兼ね備えた副部長だった。鐶はホムンクルスだが、連携と共闘を繰り返
すうち、知らず知らず、無意識にではあるが、後輩として見なすようになったらしい。
「敵は、鳳凰形態のリスクを承知で挑発している。24時間弱体化する……お前をその体にした義姉から聞いたのか、銀成
その他を嗅ぎまわったのかは不明だが、とにかく奴は知っているんだ、リスクを」
 今アレを使わせれば他の仲間が楽になる、救出作戦の戦力が削げる……斗貴子ならではの実利的な思考、半分は鐶を
敵と見なしているが為の容赦のない批評。鐶はやっとイオイオゴの目論見に気付いた。
「つまり私が発動しても……斃せない……と……。イソゴさんが……直撃を…………避け続け……のらりくらり……だから」
 そうだ。確信に頷く斗貴子に貴信は気付く。
(イオイソゴを振り切るために使ったとしても、ディプレスたちに追いつく頃にはまず間違いなく解除。リバースを説得しよう
にも向こうが武力を用いてきたら成す術なく負ける。素直に聞いて貰えても恐らく他の幹部が連れ帰るか粛清するか……
いずれにせよ鐶副長が割って入る必要がある。しかし相手は追撃部隊の殆どを降しているマレフィック、鳳凰なしでは)
 難しい。
(けど……さっき思ったじゃないですか……私……。運命との決着焦るあまり……他の人に迷惑かけるの……ダメって)

 イオイソゴは肩を竦め、嘆息した。

「やれやれ。白状すればあの形態はわしらにとっても脅威。ここで浪費させれば後後楽だと思ったのじゃがなあ」

 秋水たちは敵の本質を……理解する。

(今更ながら分かった。この幹部の強さの根源は武装錬金ではない。異常なまでの老獪さだ)

(武装錬金の性能だけなら確かに最弱かも知れない。だがこいつ自身は違う)

(戦略の数々……ただ打撃を無効にし磁力を操るだけの相手なら、4人がかりで梃子摺らない!!)

(よーするにコイツ、弱いぶそーれんきんをどうつかえばあたしらと渡り合えるか考えてるかんじじゃん!)

(私を抑え込める……怖いお姉ちゃんでも……この人はきっと…………抑え込め……ます)


「ところでしつもんっ!」
 香美が勢いよく手を挙げた。貴信とは交代済みだ。

「あんたさっき、毒がどーこーいってるとき、”ぽぷらー”とかいってたじゃん」

──「ずぐろもりもずの毒とは『鴆毒(ちんどく)』よ。李斯が韓非子を殺すほど”ぽぷらー”な毒よ」

「え、あ、おぉ」
 見た目相応にキョトリとするイオイソゴに香美は「それちがう!」といった。
「ぽぷらーは、木か草!! ゆーめーって言いたいなら”ぽぴゅらー”じゃん、ぽぴゅらー!!」
 戦士たちは呆れた。
(どうでもいいと思うんだが……)
(幹部相手に怖いもの知らずだな)
(す、すまない秋水氏! こら香美、黙るんだ!)
(香美さん……らしい…………です)
 腰に手を当て「えへん」と胸を逸らす香美。
 知性で最も劣る彼女に揚げ足を取られたのが屈辱なのか。
 木星の幹部の頬が波打ち──…

「……げたもん」
「はい?」
「うっさいうっさいうっさーーーい! わしさっきちゃんと、ぽ、ぽきゅはーって言ったもん!! ちゃんと告げたもん!!」
(言ってないし言えてない!!!)
(しかもますます違っている……)
 イソゴさんは横文字苦手らしいです、ソースはお姉ちゃん、ジト目の鐶の情報に全員納得。
 木星の幹部は真赤になった。泣きじゃくりながらビシビシと戦士たちを指差しキャンキャン吠える。
「なんじゃその目! その目ぇ!! ここは日の本ぞ!! 毛唐どもの言葉なぞ覚えんでも支障ないわ!! し、神州が
穢れるし!! わし開国反対じゃったし!!」
(言い草が古い)
(さすが555歳)
 涙目の老婆幼女は膨れっ面でツンとそっぽを向いた。
「だだだ大体わし漢字いっぱい知っとるし!! 1万7000種類知っとるし!!」
「確か漢検1級が約6000種類……約3倍か」
 秋水が感嘆を込めて頷くと、少女の顔がぱあっと輝いた。
「じゃろうじゃろう。わしはすごいのじゃっ! 物知りさんなのじゃ!!」
 香美を真似たかの如く腰に手を当て胸を張る。質量差は塵と太陽ほどの違いだった。鼻も低い。鼻高々ではない。

(……やっぱり他の幹部と変わらないような!!)
(というか、偉そうで賢いのにどっか抜けてるトコが無銘くんそっくり……です。忍びって……みんなこう……なんでしょうか)

 とにかく戦いは続く。


 戦士たちとイオイソゴが戦っているのは郊外。市街地から9kmほど南西に行った再開発地域である。斗貴子と小札が初
めて出逢ったL・X・Eの隠しアジトもココにある。

 ビルにビルがぶつかり、道路が光球に抉られるという前代未聞が続発しているにも関わらず野次馬が来ないのは、ここ
が銀成市屈指のゴーストタウンだからだ。町並みを見渡すとかなりの頻度で宿泊施設の看板が目に入る。2003年度の
銀成市市議会に提出された資料によれば、再開発地域の建物のおよそ63%がホテル・旅館およびその他の宿泊施設で
あるという。
 なぜそこまで多いのか? 19年前撤退した家電メーカーのせいである。地元経済活性化のためと市が16億円近く払っ
て誘致したその企業は、ようやく銀成ブランドが浸透し始めてきた7年目に突如撤退、人件費の安い中国へと逃れた。この
裏切りともいえる行為に、残された宿泊施設の所有者たちはこぞって悲鳴を上げた。何しろ、某家電メーカーとその関連企
業へ出張してくるサラリーマン目当てに、わざわざ郊外の沼沢地帯を開発してまで、ホテルや旅館、アパートなどをバカスカ
建てたというのに……撤退された。サツマイモと変人ぐらいしか名産品のなくなった銀成の宿泊施設など誰も利用しないの
は確定的に明らか、バブル崩壊と不況の煽りで1件、また1件と潰れていった。

 寂れてしまったこの土地は、バタフライが隠しアジトを作ったのを見ても分かるように、「温床」である。ホームレスの不法
侵入、性犯罪者の悪用……問題こそ起こせど一切の収益をもたらさない銀成市の恥部である。

 ゆえに建物総ての撤去が決定したのがこの年の春。来月から順次解体作業に移る予定。



 イオイソゴ=キシャクにとって人類とは恨むべき対象ではない。
 大事な、糧秣だ。
 鳥や豚、牛の絶滅を祈る者はいないだろう。それと同じだ。

 人間を喰らう。おぞましい行為だが人の身で既にしていた。


 ある時、伊賀の里に生まれた検体番号、耆著五百五十五(きしゃく・いおいそご)という忍びこそイオイソゴだ。
 父の名は薬師寺天膳。母の名は分からない。折れた刀を持つ、市女笠の少女とだけ。

 7歳を過ぎたころ、成長が止まった。不死の父、その「身の内に巣くうもの」の一部が精虫と共に卵子へ入り込み、娘へと受
け継がれたのだ。
 伊賀鍔隠れは数百年にも及ぶ「深刻濃厚きわまる血族結婚」を繰り返し不可思議の忍者を生み続けた。目的はただ1つ
……甲賀に勝つ。イオイソゴもまたそのためだけに産み落とされた。

 不老不死と引き換えに彼女は業を背負った。人間を喰わずには居られない絶対の性を。肉では足らない。いかなる生物的
作用があるかは不明だが……「脳」。それを喰わねば飢(かつ)える体。初めて喰らったのは御世話係の下女。姉のように慕っ
ていた彼女を石で殴り殺し、頭を破り、桜色の唇を窄め……啜り尽くした。総てが終わったあと、イオイソゴは泣いた。

 愛する者ほど喰いたくなる…………そう気付いたのは8人目だ。初めて恋心を抱いた少年忍者の頭蓋骨の裏を、限りない
充足と嗚咽の中、愕然と、見下ろしている時、イオイソゴは自らの本性に気付き、震えた。


 何人も喰い殺すうち、彼女は罪悪感から逃げるよう思い始めた。

『なぜ人間を喰うのが禁忌なのだ?』

 と。

 人は生きるため他の生命を殺し……喰らう。
 鶏の首を切り落とすのは食料調達の一過程として当然認められている。
 だが人の首を落とすという行為は禁忌だ。

(喰うためにやったとしてもそれは変わらん。もしわしが如く、生存のため人喰いを欠かせぬ生物がいるとしよう。彼らが生
きるため、人の頭をば刎ねざるを得ないとしよう)

 人々はその行為をどうとるか。残虐と罵り、敵意を燃やすだろう。

 生物なのだ、己の生存を脅かす者を恐れ、憤るのは当然だろう。

 にも関わらず人は、己がされたくないであろう最悪の行為を…………他の生物には平然と強いる。

 腹を切り裂き、内臓を取り出す行為。豚にやる者が社会に裁かれるコトはまずない。だが人にやれば重罪だ。
 何故?
 魚を生きたまま食べる……嗜好として確立されている。人にやれば異端として捌かれる。
 何故?

(他の生命とて痛みや恐怖を感じるのじゃ。しかし人間はそれを無視する。喰うため、生きるためという免罪符がある。そこで
思考は止まっておる。自らがやられれば絶望する行為を、他の生命には平然と強いるのじゃ)

 刀で斬り、斧で断ち、矢で穿って銃で撃つ。

 血を流し、苦鳴を漏らし、激痛の中それでも生きようと足掻く獲物を前に収穫を喜び合う。逃がさない。助命は、しない。

 他の生物に同じコトをされれば、人類は、自由や尊厳を唱え、犠牲者たちを悼み、立ち上がる。反攻こそが絶対の正義
なのだ。
 しかし猟で捕らえた獲物が、死力を尽くして束縛を解き、自由と尊厳、仲間の仇のため狩人を傷つければ……鼻白む。
『生きるため喰うのになぜ邪魔をする?』と。
 しかし自らを喰らう生物に対し同じ論法を以て謙虚となり皿上(べいじょう)座するコトはありえない。

(欺瞞ではないか。喰う為なればあらゆる卑劣と残虐をも辞さぬ……それは結構。じゃが…………摂理という言葉がある。
喰う以上は喰われるのも摂理よ)

 人喰いと蔑まれ石を投げられるたび、人類の驕慢を痛感した。この天地に捕食者をなくして久しい人類ゆえの驕慢を。

 喰う以上は喰われるべきなのだ。血を流さず、痛みも分かち合わず、ただ一方的に獲物を殺し安全に喰らう。そうやって
気取る食物連鎖の頂点という幻想。知るべきだと思った。本来人類は脆弱なのだ。文明がなければ、獲物と呼ぶ数多の獣
たちに充分捕食されうるのだ。同族が食料にされるコトを異常と感じるコトこそ異常なのだ。人は、喰われる。
 摂理からいえばそちらこそ普通なのだ。

 という、捕食者ゆえの信念はしかし弱さから出た考えでもある。
 好きになった人間ほど喰い殺さずには居られない……絶望的な性分だった。男女愛。家族愛。師弟愛。他者と絆を深める
たび、殺して、食べた。脳を水に溶き干して作った丸薬の、定期的な投与である程度までは抑えられるようになったが、それ
でも数年に1人は必ず胃の腑に収めざるを得ない。

 おいしい物を1人ぼっちで食べる。涙しながら……食べる。
 血の海の孤食だった。繰り返すたび寂寞が高まった。
 その、喰わざるを得ない宿業に、正当性を見出さなければとても心痛に耐えられなかった。狂いそうだった。

 だが理屈をつけても。
 人間を喰らうおぞましい存在は、この地上で自分だけなのではないか……。
 満足はなかった。どれほど食べても満たされるコトはなかった。
 人間以外のものをも、大量に食べるようになった。一種の過食症であり、不死代謝の補填だった。

 そして……ウィルと出逢う。
 彼は言った。
 ホムンクルスという存在は君と同じだ。世界の主導権を握れば好きなだけ喰える、と。

 孤独も寂寥も払拭された。しかしその時はまだ”ならなかった”。規格こそ大きく外れているが、ぎりぎりのところで「人間」
として生きてきたのだ。人間として人間を喰らってきたのだ。「して当然」のホムンクルスになるのは逃げのように思えたの
だ。怪物ではなく、人間として。死ぬまで「喰う」という罪業を背負い続けるのが、喰い殺してしまった数多くの大事な存在への
償いのように思えたのだ。

 ……その信念を捨ててまでホムンクルスにならざるを得なかったのは1995年。原因は小札の兄・アオフシュテーエン。


 ウィルという少年は、何故かイオイソゴのコトをよく知っていた。来歴はおろか、如何なる人物を殺したのかさえ熟知していた。

──「なんで知っておるんじゃ?」

──「キミから聞いたのさ」

──「??」

 彼は何度もイオイソゴと逢っていたという。歴史を繰り返し、何度も戦国時代に飛んで、そのたびイオイソゴと出逢い、死
別して、時間を戻り、また出逢う。気の遠くなるような繰り返し。その中での会話で「キミから聞いた」という。

 そして現在。

(わしを救いうるのは『れてぃくるえれめんつ』のみよ。『暴食』の罪科なき世界を作れるのは盟主様ただ1人よ)
 好きなだけ喰らえば孤独は味合わなくて済むだろう。愛する者をクローンで増殖するコトが当然の世界を作れば、喰い殺
して別れるコトもなくなる。

 イオイソゴ=キシャクにとって人類とは恨むべき対象ではない。
 大事な、糧秣だ。
 鳥や豚、牛の絶滅を祈る者はいないだろう。それと同じだ。

 生産体制を整えるコトが何故悪い……イオイソゴはそう思う。

「ひひっ。ほむんくるすが人喰いの惨禍をば撒いておるのは人間どもが自らの命を供出せんからじゃよ。摂理を受け入れ、
要らざる、生きていても仕方ない、犯罪者のような連中を差し出せば、無辜の民がそのぶん助かるではないか」
「…………例えそうしたとしても第二第三のディプレスやデッドは必ず生まれる!! 力に溺れ、貴方の言う無辜の民……
力なき人たちを蹂躙するもの、悪意を以て被害者を加害者にせんと目論む者たちは必ず!! ……貴方の論法、認める
訳にはいかない!! 僕や香美のような被害者をこれ以上出さないためにも!!」
 貴信の手から放たれた金色絢爛たる無数の星つぶてに合わせて、イオイソゴ=キシャクは異様な変化を遂げた。右側頭
部頭蓋が眼球ごと大きく陥没した。更に雑巾を絞るように右回りによじられて、左顎関節を基点に大きく傾いた。上半身は
黒ブレザーごと大胸筋や前鋸筋や大菱形筋がずる剥けてドバドバ落ちた。べりべりっと凄まじい音立てて剥がれたのは頚
腸肋筋から腰腸肋筋にいたる背中前面の筋肉だ。腹直筋や外腹斜筋が内臓ごと流れ落ちてむき出しになった肋骨の遥か
下で左右の大腿骨の蝶番が外れた。果たして肉の海で飛沫あげて倒れる両足……。にも関わらずイオイソゴは倒れない。
いかなる魔人の技か、両足を失くしたにも関わらず彼女の腰から上は平然と従前の位置にいる。獲物が獲物ゆえ恐らく
磁力で浮いているのだろうがいやはや恐るべき現象だ。両腕はミュルリと縮み肩へ吸収。
 果たして流星群はイオイソゴの全身をすり抜けた。ある星は凹み捻れた人とは思えぬ面相スレスレを通り過ぎ、ある星
は肋骨の隙間を疾駆した。いまや足なき場所を無数の輝きの残影が燦然と縺れ合い去っていく様はさながら川のようだ。
その川べりに浮いた、既にほとんどが白骨化した少女の脊柱が、かたかたと鳴りながら左右や前後にくねり星々を躱して
いく様は筆舌に尽くしがたいものがある。
「飢えのみがホムンクルスの惨禍を生んでいるんじゃない!!」
 大口開けて餓狼のように牙をむき出しにしながら斗貴子が詰め寄る。後ろからは秋水。
「社会を見ろ! 飢えずとも犯罪は起きる! 起こす輩達ほどホムンクルスになるんだ!! どれほど喰わしてやろうが満
たしてやろうが奴らの心根は変わらない!! そういう連中を主格とする貴様らの理想! 貴様らの支配!! 力弱くても
懸命に生きる人々の日常が蹂躙される世界など…………私は絶対に認めないし来させない!!」
「忍法、小豆蝋もどき。──」
 高速巻き戻しのように元に戻ったイオイソゴが黒く濡れ光る大きな瞳を甜睡と細めあどけなく笑ったのも束の間のコト、その
右腕が大きくしなった。石火。5本ある処刑鎌の1つの尖端を4cmばかり斬り飛ばされた斗貴子は歯噛みした。しかしどういう
コトであろう。戦士走れどといえど両者の距離はいまだ7mはある。身長120cm前後の錫の少女の手足が到底届く距離では
ない。だが奇怪!! イオイソゴの腕は現に届いている!! ……。腕は伸びていた。少女どころか人の長さですらなかった。
獣のごとくひた走り、今は敵から4mの鼻先で斗貴子がブン回す処刑鎌へ、距離と同程度かそれ以上した長さの腕がヘビのご
とくのたうちながら向かっていく様はそれだけで充分に恐ろしい怪異だが、そもそも紅葉のように愛らしい少女の掌が、殺意を
孕んだ鎌の嵐を浴びてなお傷1つ浴びず蠢くのはますます以て異様だった。それどころかバルキリースカートは、細い指を
無造作に伸ばしただけの掌に掠るたび火花を散らし軌道を歪める。のみならず掠った場所は数cm程度とはいえ確実に斬
り飛ばされ破片を落とす。いつしか斗貴子の突進が早歩きになり遅歩きになりとうとう緩やかな後退に転じたところを見ると、
一撃一撃が尋常ならざる重さのようだ。火花が増える。嚠喨(りゅうりょう)たる音立て地面に落ちる欠片が目に見えて増え
ていく。
 助勢を買って出た秋水もまたもう1本の小豆蝋もどきの戦乱に巻き込まれ停滞する。
 得たりとばかり片えくぼを刻むくの一イオイソゴ。黝黝(ゆうゆう)を極めた黒い笑みには己の忍法に対する絶対の自信が
滲み出ていた。語るは先ほどの続き。人類はホムンクルスに膝折り供物を捧ぐべきという独自の論調。
「どうせ60億もいるんじゃ、何もかも大事大事で抱え込めば……滅ぶよ。増えすぎる、からの。そうなった生物の末路など
常に同じよ。喰う物がなくなり絶滅する。なれば摂理の名の下に、ほむんくるすに喰われればいいではないか」
「飢えの苦しさは知っている……」
 ソードサムライXが少女の両腕を斬り飛ばした。青年の清冽な美貌は残影を描きつつ踏み込んだ。しなる足。剃刀の切れ
味と革鞭の遠心力を併せ持つ足刀に頬を薄く斬られ血煙をたなびかせながら早坂秋水はなおも行く。
「俺と姉さんが扉の前で味わった苦しみ……他者に強いていいとは思わない。だが君の論法に従う道理もまたない」
「ひひっ。戦士としての使命かの? しかし倫理を恃み、命がけで他者の尊厳を守り続けた結果が自滅では格好もつくまい?」
 磁界を展開しつつクルリクルリと旋回し手や足を繰り出すイオイソゴ。何度も彼女を斬ったソードサムライXは、肉片を
振り飛ばしたり焼き尽くしたにもかかわらず、いまやすっかり磁性を帯びている。どうやら肉を除いても磁性自体は蓄積する
──… 恐るべき事実に気付いた頃にはすでに手遅れ、磁力刀と化した武装錬金は、ひとたびイオイソゴが耆著を指で揉む
や磁界に吸われ或いは弾かれる。絶対不利。だが秋水は刀を振るう。
「君たちのやりようは厨(くりや。料理場)に多くの人を閉じ込める。彼らが扉を叩き、助命を願っても、我が身の安全しか考
えられない外の人々は……無視する。君たちが、無視させる。それがどれほど扉の内側で絶望を生むか俺は知っている。
見過ごせない。見過ごせる道理はない」
「ひひっ。糧秣を失くし、同じ種族同士争いあった挙句滅びるよりはまだいいと思うがの? 捕食者は餌を滅ぼさん。だが喰
われぬと驕る人類どもは、利権などという曖昧な物のため幾らでも同族を滅ぼす。ヌシの理想論通り動いてやったところで、
無駄じゃよ無駄。耳塞がなくなった輩どもが、ただ直接手を下すようになるだけ……」
 斗貴子が秋水と合流。両腕を断たれてなお飛んでくる足蹴に手間取ったようだ。後衛の貴信も充填完了。

「肌、国、信仰……わずかでも違えば殺していい。「生きるためなら殺していい、だが相手方を生かすため死んでやる義理は
ない」整った人間独自の食事観……それに涵養(かんよう)、育てられ、助長された手前勝手な思考で種族同士殺し合い、
喰わぬがゆえに疲弊して、徐々に徐々にと滅ぶぐらいなら、まだ上位概念の餌として命繋ぐ方が摂理よ」

「なに。人類の捕食者たるほむんくるすが増えすぎる心配はないよ。まれふぃっくあーす。唯一無二の存在が器を以て復活
すれば、ほむんくるすもまた適度に間引かれるようになる。ひひっ。頂点たる捕食者は単騎に限る。ぞらぞらと増える人間
どもめが天辺たるから色々歪む……」

 嘯く老婆が当然の如く上着総て天空に放り投げ半裸になったのは、背後で蠢く半透明の影あらばこそだ。
「忍法、朱絹もどき。──…」
 踵を返したイオイソゴのまさに童女というべき清純きわまる肩や胸からドス黒い液体が噴き出した。その行く手で上がった
微かな呻き声は何と言うコトであろう、まごうコトなき鐶光の声! 姿を消し、乱戦のさなか不意打ちをせんと目論んだ彼女。
だが見よ。その全身に浴びせかけられた淋漓(りんり)たる暗黒の体液を! 彼女の一部はまだ透明だ。しかし朱絹もどき
たる忍法を浴びせられた部分は頑としてそこにあり見えている! 鳥の異能、羽毛の層への反射を利して姿をくらます光学
の極致もこうなっては形無しだ。如何に周囲と同色になり溶け込もうとその上から着色されれば見えてしまうのも道理。
(かつて根来さんも……忍法で……私にカラスが寄ってくるようにして……透明化を……破りました…………)
 ゆえに警戒はしていた。匂いや体液といった物を飛ばされようとすぐ反応し避けられるように。
(ですが……イソゴさんは…………それより速く……反応しました……)
 秋水と斗貴子。鐶でさえ一目置く相手と干戈を交えながら、透明の鐶の不意打ちに超常的な反応を示したのだ。(警戒して
いたのに動けなかった)。愕然たるニワトリ少女に木星の幹部は言う。
「服部半阿弥から伊賀大馬に至るまでおよそ570年……。ひひっ。伊賀甲賀の争忍は数知れずよ。透けられど対処やある。
今のわざはまさしく霞刑部陥落の一翼……殺したのは父御じゃがな」
 ドス黒い体液にまみれたまま凄艶に笑うイオイソゴ。どうやら朱絹もどきのため磁界は解除しているとみえ、秋水や斗貴
子の斬撃が会話中にも関わらず容赦なく体を通る。
 だが血の一滴も出ない。斬撃が通るたび苦患の形相になるのはむしろ秋水と斗貴子たちだ。
「効かんよ。忍法、肉蝋燭もどき……甲賀の蝋涙鬼にも劣らぬと自負する伊賀のわざ。斬り殺したくば……破幻の瞳でも持っ
て来い!!」
 半裸の背中で産毛が逆立ち秋水たちを貫いた。産毛というがそれは一瞬でヤマアラシの針の如く肥大していた。黒い無数の
トゲが剣客たちの肩や脇腹、大腿部を刺し貫き真赤な血を滴らせる。
「忍法、念鬼もどき。──そして」
 辛うじて針を抜き飛び退った秋水たちの間隙を縫い、超新星が飛来する。背を向けていてもやはり直感は働くらしく、先ほ
どと同じく体を曲げて軌道から逸れるイオイソゴ。だが。
(正直……イソゴさんの夢は……どうでもいい……です。お姉ちゃん騙してるし…………お父さんたち殺される前に……
止めてくれなかった……ですし…………。重要なのは…………)
 木星の幹部の胴体が、アルファベットのCのごとく曲がったせいで出来た空隙に鐶は。
 左手を突っ込み……超新星を受け止めた。肉がバチリと避け痛烈な痺れが立ち上る。
(無銘くんのため…………少しでも攻略の糸口……掴む……。それだけ、です……!
 電磁の揺れと雷轟のスパークの中、収縮するエネルギーは鐶の右腕で蘇り!!
「終結の型・破断塵還剣!!」
 握る短剣から伸びる黄金色の長大な刃。咄嗟だったのだろう。磁界が斬撃を阻まんと現れる。だが轟然たる太刀行きは、
既にクロムクレイドルトゥグレイブも磁力をたっぷり帯びているというのに、一切止まらず敵を襲う。
 身を引いたイオイソゴだが肌を薄く斬られる。
(……やった)
(磁界を裂いた! エネルギー攻撃なら突破できるようだ!!)
 傷をちょっと眺めたイオイソゴはニタリと笑った。同時に背中の針や胸の汁が白い肌に吸い込まれた
「ひひっ。演劇を締めくくった秋水めらの技か。確か原案はヌシ……やるのう。しかし」
 ばっと羽毛が舞い散った。蒼いのもあれば翠色のものもある。色素ではなく構造色によって色づく羽根たちは光の加減で
あたかも万華鏡の如く無数の色へと変貌し薄暗いゴーストタウンを輝かせた。
「忍法、鵞毛落としもどき。──」
 あっと秋水は目を剥いた。斗貴子もまた愕然とした。巻き上がる羽根。鐶の羽根。平生は服として感触やわらかく纏わり
ついているそれらがびょうびょうと螺旋を巻きながら吹き荒れて、三者の鼻と口に吸い付いた。……。どうやら先ほど鐶に
浴びせられた墨汁の液体はそれ自体が磁力を帯びているらしい。ベスト、シャツ、スカート……汚穢(おわい)に塗れた部分
がスルスルとほどけていき羽毛になり舞って行く。鐶が身悶えたのは窒息にばかりではない。スカートの右側面がほぼ千切れ
んばかりに破損して白鳥のように白い太ももが付け根まで露出している。上着はみぞおちの辺りまでボロ切れとなり衣服の
用を成していない。ばっと血相変えて三つ編みを肩に跳ね上げたのは右胸を覆う総ての羽毛がばさばさと飛び立ったからだ。
外気に触れた慎ましい膨らみに不死鳥よりも赤くなった鐶は左腕を胸全体に当てる。
 ……という反射的な対応が斗貴子への救援を遅らせた。鐶が三つ編みを跳ね上げた頃、イオイソゴは再び振り返った。
からりんと落ちたのは小瓶。なにやら赤い液体がうっすらとごっている透明の小瓶だ。
 斗貴子は、見た。唇の端から錆びた匂いのする液体を垂らすイオイソゴを。
(何か吹きかけてくる!)
 身を屈めたのは無銘の吸息かまいたちが頭を過ぎったからだ。もしそれがくれば並みの防御では凌げない。だから唇の
射線上から急所を外しつつ後退……判断は誤りではなかった。秋水の襟さえ引いて共に平蜘蛛のように身を屈めた反射
は斗貴子ならではだ。そして地面を弾く。超低空で後方へ疾駆するまで0.1秒とかからぬ早業だ。
 だが……。
(…………!?)
 気付く。イオイソゴに起きた劇的な変化に。彼女の肉体の一部の明らかな異常に。
 胸が膨張していた。厳密にいえば右の乳房だけが拳大に膨れ上がり、乳首もまたスモモのようにうっとりと色づいていた。
平坦で色も薄い左とは明らかに違う。ここに来て斗貴子は理解した。転がった小瓶。その内容物の真の利用法に。
(コイツ、胸から何k「忍法、乳房相伝もどき。──」
 少女は、うっすら赤い顔で乳房を絞った。
 真紅の乳が斗貴子の顔面めがけビューっと射出された。いや、真紅だったのは最初だけだ。もどきというだけあり本元
より些か劣る点があるらしく、じょうじょうと放たれる乳は黄赤色から薄橙の甘ったるげな色彩へ変じた。立ち込めるはマン
ゴーの香り。乳とも汁ともつかぬ液体が流れるたび右の乳房がみるみると萎んでいく──。
 しかしまさか乳首から面妖な汁が迸るとは。伊賀の忍者恐るべし。イオイソゴ恐るべし。さしもの斗貴子も虚を突かれたが
そこは戦士、自分にも秋水にも当たらぬよう姿勢を逸らし直撃を避けた(彼はこの技に面白いほど愕然としていた)。
 されどけぶる乳房相伝もどきよ。妖しげな霧と化したそれを斗貴子は吸ってしまった。不覚と責めるなかれ、彼女は先ほど
鵞毛おとしもどきで口と鼻を塞がれ窒息の憂き目に遭っていた。それをどうにか逃れたところで乳房相伝の兆候に気付き、
秋水もろとも反射的に回避を選び、その上であまりに予想外すぎる技の全貌に驚嘆しつつも直撃だけは避けた。酸素供給量
が圧倒的に不足している中で最善手を打ち続けたのだ。動作の終了と共に息を吸うのは当然であり必然だ。むしろイオイソゴ
はその息をつく絶妙なタイミングすら逆算して一連の技を仕掛けたのではないのか? ──
 ともかくも斗貴子は乳房相伝の霧を吸った。吸いながらも秋水を横に突き飛ばし対象外にした辺りまったく戦士の鑑である。
(一体なんなんだあの技は? 毒? それともまったく別の何か?)
(…………。洗脳や……催眠だと……厄介です)
 身を屈めていた斗貴子がゆらりと立ち上がった。敵に操られた彼女との敵対すら覚悟する秋水と鐶の前で彼女は
「うわーん! 気付いたらもう6月もこの上なく終わりじゃないですかあ! 河合荘も一フレもなしで来期どうやって生きろって
いうんですよぉ! ぐすん」
 泣いた。俯いてペソペソ涙を流しながら両目を擦った。しかし秋水に気付くと、女神のような微笑を浮かべた。
「秋水さん。これからは……仲良くしてくださいねっ!」
 秋水と鐶の時間が凍った。そして訪れる破滅のとき。
「ひひっ。忍法、梁針もどき。──」
 秋水の体から無数の銀の針が射出され、貴信を射抜いた。針は肉ごとどろりと溶けて貴信を地面に磔る。
「貴信さん!!」
 駆け寄ろうとした鐶がやおら崩れる。耆著が、白い膝小僧を2つとも穿っていたのだ。
 前のめりに倒れる音楽隊の副長。
 豹変した斗貴子はお淑やかに微笑しながら小首を傾げた。その足首にも耆著が打ち込まれた。彼女はその場にくず
おれた。
「くっ!!」
 秋水は仲間達を見渡す。全員謎の黒い液体によって地面に拘束されている。
(イオイソゴを斃す……? いや! 耆著はエネルギーで破壊できる! 1人1人解放するのが先──…)
 そうはできない。確信したのは、死霊のように真黒な瞳がむき出しの白い歯と共に眼前に迫った瞬間だ。
 敵は一足で間を詰めている! しかも60cmほど上背のある秋水と顔面突き合わせている! 磁力の反発作用か、彼女
はぷかりと浮いていた。
「ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」
 精神に異常をきたしたとしか思えない不気味な笑いを立てながら迫るイオイソゴ。後ずさっても白い裸身をびっとりと密着
させ耆著を放つ。それを秋水が避けつつ隙を見て斗貴子や貴信たちへ刀や飾り輪を宛がっても……邪魔をする。エネルギー
を流さんとするのに、横合いから手を伸ばし妨害するのだ。
 秋水は。
 刀を無造作に垂らしながら、僅かの間考え込む顔付きをしたが……温存しておいたエネルギーの『大部分』を刀身に纏
わせた。
「ひひっ。やる気かの? しかしヌシまで動けなくなったら……全滅じゃぞ?」
 解放を邪魔している分際でよく言う。そう思いながらも絶対不利の戦いに乗り出すほかないのが実情だ。
(だが逆転の目もある! 奴が流星群や超新星を避けるのは……効く、からだ!)
 加えてイオイソゴの忍法肉蝋燭もどき、斬撃を無効化する忍法のカラクリも読めてきた。
(磁性流体! 磁石と液体、両方の性質を併せ持つそれ。それが彼女の特性だ!)
 スピーカーやロケット、宇宙服などに使われる磁性流体。耆著を打ち込まれた物体はそれになる……というのはココまで
見てきた数々の現象(道路、街のオブジェ、仲間の手足)などから明らかだ。
 イオイソゴは自分自身をもその対象にしている。斬られても平然としているのは、一種の単細胞生物よろしく斬られても
磁力によって再生しているからだ。
(つまり!! エネルギーを絡めた斬撃で彼女に埋め込まれている耆著を破壊すれば……ダメージは通る!!)
 乾坤一擲。気合と速度を乗せたエネルギー付加の逆胴がイオイソゴのみぞおちの辺りを、やや深く切り裂いた。かすかな
手応えと共に黒い破片が舞い散り血が流れる。普通の斬撃でそうならなかったのは、斬りつけた際に帯びた磁性が、耆著
と反発し、当たらなかったせいだろう。
(いける!! 身体能力なら俺の方がやや上! どうにか牽制しつつ仲間を解放! それしか──…)
「忍法、おぼろ月もどき。──…」
 何やら念を込めて誦(ず)したイオイソゴ。変化はない。秋水は何度目かの逆胴を振りかぶり。
 わずかだが、硬直した。
 まひろ。
 一子纏わぬまひろの姿をイオイソゴの後ろに幻視したのだ。
 細くも丸い肩。鎖骨の陰影。純真さがウソのようにむっちりと盛り上がった白い膨らみ。豊かな臀部からは想像もつかない
ほどくびれた腹部。細い両足。熱に浮かされたように赤い頬。潤んだ瞳。切なげに顰められた太い眉。
(幻影だ。これは幻影だ)
 相手は乳首から変な汁をぶっ放す変態なのだ。裸の幻影ぐらい見せるだろう。朴念仁といわれるほど”堅い”秋水だから
男子なら本来覚えるべき妄念も好奇も刹那で振りほどきただひたすらに逆胴を叩き込むべく邁進した。
「忍法、弓張月もどき。──」
 なおも何やら誦(ず)する木星の幹部。だが秋水の方が一瞬速い。相手が「弓張月もどき」の「月」を言い終わる頃にはもう
電撃のような一直線を見舞っている。小さな雷が弾け破片が舞う。地面にびしゃりと血液を撒き散らしたイオイソゴ、流石に
それなりの傷を負ったらしく膝を突く。
(この隙に追撃……)
 振り返った瞬間、異様な感触が丹田の辺りから立ち上った。電撃にも似た、もっとおぞましい、脳髄の根幹を直撃する
感覚だった。
 その辺りを見た秋水。我が身に起きた大異変に愕然とした。
 しかし斗貴子や鐶がどうしてそれに気付けよう。倒れてからこっち戦いの行く末を息呑んで見守っていた彼女達だが、ああ
されど彼女達には到底理解できぬ異変なのだそれは!!
 貴信のみが気付き……目を逸らした。「うふっ」と声にならぬ声を漏らし体勢を崩す秋水。貴信は知っている。秋水の身体
機能になんら一切の異常がないコトを。むしろ世間の何割かの男性から見れば健康きわまる状態だ。それは極端な疲労、
或いは睡眠不足のとき起こる現象で、若年層は朝方ほぼ必ず体感する特有の現象だ。
 総ての始まりと言っていい。人類の起源、生命の神秘。ヒトが生まれる意味。永遠。螺旋の宿業。手の好きな殺人鬼です
らモナリザを見れば起こす……奇跡。
 忍法弓張月もどきとはつまり男性機能を活性化させる恐るべき忍法だった。
 健全な青少年たる秋水は絡め取られた。実直で誠実で女性関係に対し清廉すぎるからこそ……囚われた。
(武藤さんで……だと……?)
 不覚。何たる不覚か。その動揺もまた一瞬であったが、イオイソゴはおろか場にいる仲間総てを忘却するほど深く悩ましい
懊悩だった。大事だと思っているからこそ……彼女との関係が世間一般でいう恋愛感情からひどくかけ離れたものだからこそ
青年秋水は僅かの刹那、何もかも忘れ懺悔した。
「ひひ」
 隙を見逃すイオイソゴではない。秋水の足の甲を打ち貫き……仰向けに倒した。
 手から滑り落ちるソードサムライX。そのカン高い音に我を取り戻した頃にはもう遅い。
 両の掌すら打ち貫かれ秋水は。
 地面に磔られていた。そして手の届かぬ場所へ滑っていく……愛刀

「しゅ、秋水さん!! ごごごめんさない、私が、私が非力なばかりに……!!」
 くすん。一昔前の少女マンガのヒロインかというぐらい円らな瞳で涙ぐむ斗貴子。
「あ、鐶さんと貴信さん……! おケガはありませんか? 貴方達に死なれたら、私、生きていけない!」
「イオイソゴ!! 貴様ッ!! 津村に、津村に何をしたアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「何をしたアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! ……です」
 秋水と鐶の絶叫。イオイソゴは一瞬気圧された。
「な、何をといわれても、えと、その」
「フザけるな!! 津村が!! 津村が淑やかだと!!! 何をすればこんなコトになるんだ!!」
「そう……です! こんなキレイなの斗貴子さん……じゃ、ない、です!! 戻す、ため、なら!! 断固として、戦う、です!!」
「不気味だと僕も思う!!」
『返すじゃん! おっかないの返す!! 早く!!』
 恐ろしいまでの気迫でがなる一同に幼い老女はとことん辟易したようだ。両手を広げるとアワアワ唾を飛ばした。
「ちょ、ま!! ちいっとばかし仲間の、くらいまっくすの、異常な気質をば、相伝しただけであってな!!」
「……成程。あの下らない喋り方は幹部の、か。次にあったら殺す。絶対に殺す…………!!」
 元に戻った斗貴子は、唇を口の中に引き込み血が出るほど噛んでいた。両目は血走り、ヤクザみたいな笑いに頬とコメ
カミを引き攣らせていた。
 秋水たちは一瞬静まり返り──…
「戻ってきた」「ええ……こうでない、と」「うん。やっぱコレだな」『おっかない! 怖い! でも嬉しいじゃん!!』
 祝福した。
「……釈然としないんだが」
「そうだ。その調子なんだ。津村。君は今のままがいい」
 うんうんうん。全力で頷く鐶・貴信・香美であった。

 イオイソゴは服を着ると……顔に両手を当ててしゃがみ込んだ。
「!? どういうコトだ!? トドメをさせる絶好のチャンスだというのに動かない」
「……。気をつけろ。罠。或いは次の大技のための準備かもしれない」
「いや……単に……脱いだのが恥ずかしい……のでは」
「馬鹿な! 忍者だぞ彼女は! くの一なんだ! 500年以上生きているならそちら方面にも通暁していて然るべき!!)
 
 イオイソゴは両掌の隙間から一同をくるりくるりと見ていたが、やがて耳まで真赤にして……頷く。
「ハァ!? 恥ずかしいのか!? くの一の癖して色仕掛けが恥ずかしいのか!!?」
「中村から聞いたが、金星の幹部はもっとエゲつないコトをしていたそうだが……」
 それに引き換えればイオイソゴなど少し脱いで乳首から妙な汁を飛ばしただけではないか。
「…………もん」
「え?」
「おぼろ月と弓張月も使ってしもーたもん!! じじじ実は毎夜、盗撮した武藤まひろめの裸形を、眠る秋水めに口伝にて
叩き込み、わしがおぼろ月と誦するや否やそれが浮かぶように仕込みはしたが……にょ、女性(にょしょう)の裸を細かく
説明するのどれほど恥ずかしいか分かっておるのか貴様らぁ!!」
「純情か!!」。斗貴子はツッコんだ。
「ゆ、弓張月にいたっては…………」
 秋水をチラリと見たイオイソゴ。目が合うやいなや真赤になり半泣きかつ全力で顔を背けた。どころか背中を向けて黙りこ
くった。
「……そんな恥ずかしがりで……よく…………500年以上…………くの一……できました……ね」
「じゃ、じゃって、初めてが痛くて気持ち悪かったもん……。回数なんて片手に足るかどうかじゃし……」
 口中もにょもにょと呟きつつ小石を蹴るイオイソゴ。さらっと飛び出た爆弾発現は全員聴かなかったコトにする。
「だいたい……体質ゆえに……再生するし……2度目3度目もやっぱり……痛かったし……」
(いい加減黙れ!!)
「一度などは…………その……している最中に……相手喰ったし……」
(カマキリか!!)
「じゃから……恋愛なんて…………あまりしたコトないし……。父御が手ぇ速いと聞いてたから……身持ち堅くしたし」
 聞きもしないのに余計なコトをいう。強いが残念なくの一だった。
「う、うぅ。胸見られてしもうた……。お嫁にいけん……。いけんぞこれは……」
(落胆している……)
(夢なんだ! お嫁さんになるの!)
「でででもでも! ぐれいじんぐが言うんじゃよ!! 『くの一なら淫らな事しなきゃ駄目』と!! じゃ、じゃったら、恥ずかしく
ても、ぬ、脱ぐほか……ない……じゃろ?」
 当惑しきった様子でじっと一座を見るイオイソゴはただの童女の目つきだった。
 されど武装錬金には一切の弛緩がない。秋水たちを地面に縫いとめたままだ。

 貴信は、思う。
(元々、木星は質量が足らなかったため太陽になり損ねた星!!)
 木星の大気成分のうち主な物は太陽同様……水素とヘリウム。現在の80倍の質量があれば、中核部の温度が3〜400
万℃に達し、軽水素による核融合が発生、恒星化すると言われている。
(レティクルにおける『太陽』は盟主!! イオイソゴは彼に次ぐ実力者と見るべき!!)
 太陽になり損ねたといっても太陽系中最大の惑星なのだ。質量だけでも地球のおよそ317倍。体積に至っては約1321倍。
占星術では「拡大と発展の星」とされ、別名「グレーター・ベネフィック(大吉星)」「天のサンタクロース」。陰陽道では、化身
たる大歳神が居る「その年の干支と同じ」方角は吉方位とされている(但し、木気……草木を断つと凶方位になる)。錬金術
では「錫」の星とされ、銀や水銀に次いで金に近い。ギリシャではゼウスと同一視。

 これまでの戦いを振り返り、改めて思う。

(強い……!! そのうえ僕たちの能力を調べ抜いている……!!)
 忍びらしい慎重さというか。一座の中で一枚劣る貴信と香美の能力さえ、彼女は調べつくしていた。
(手の内を知られている以上、どんな連携をしても……見抜かれてしまう!!)
 しかも忍法を使う。技の冴えは無銘にも劣らない。そのうえくの一ならではの色香をも操る。本人は羞恥に染まっているが、
技量自体は非常に高い水準だ。もっとも端的に言えば、秋水にまひろの裸体を吹き込む暇があるならば、いっそ枕頭首を刎
ねればよかったのではないか。──。貴信にはわからぬ忍びゆえの拘りがあるのだろう。

「忍法たくさん使ったからお腹へった」

 見た目相応のあどけない様子で両手をだらりと前に垂らし呟くイオイソゴ。
 服を着なおした時、新たに巻いたのか。首には真赤なスカーフがある。側頭部にも細い髪の束。ヘアゴムか何かでくくった
らしく、幼い、コケティッシュな風貌に合っていた。さらに手甲。彼女はすっかりくの一然だ。

(まだだ)
(まだ手はある筈……!)
 酸化鉄やマグネタイトなどの磁性超微粒子(粒子径およそ10ナノメートル)、水・炭化水素系油と言ったベース液、それから
界面活性剤の3つからなる磁性コロイド溶液、それこそが磁性流体だ。
 通常ならば磁石を近づけない限り磁化しないこの溶液が秋水たちの手足をドロリと溶かし地面にへばりつけているのは、
他ならぬ耆著そのものが帯びた磁力あらばこその現象だろう。付記すれば残磁性を持たぬ磁性流体と化したイオイソゴが
斬られてなおソードサムライXに磁力を残しているのは妙といえば妙な話だ。ヒステリシス(履歴効果)。極限まで強められ
飽和した磁化は、弱めようとしてもなかなか弱まらないものなのだ。ただ磁性流体にそういう現象はない。ないにも関わらず
発効しているのはやはり錬金術なる超常の産物、武装錬金ゆえの例外か。
 ともかく秋水たちは動けない。四肢はもはや溶接されたごとく地面にびとりと張り付き動かない。
 いやしかしそもそも耆著はエネルギー攻撃で破砕しうるものではなかったか。鐶は既に左掌に刺さったものを破壊し、見事
元の状態を取り戻しているではないか。貴信とて鐶ともども道路にひしめく磁場と耆著を超新星にて壊したではないか。
 だが鐶は首を振る。
(ガス欠……です。もともと私の超新星は……貴信さんたちの体の構造……特異体質で真似た……だけ……です)
 本家本元に比べれば変換効率はすこぶる悪い。もとより莫大な膂力と引き換えに、五倍速の老化で細胞が常に消摩し
続けている鐶だ。そのうえ代謝を物理的な破壊エネルギーに換算するとなれば消耗は更に激しくなる。加えて鐶は強く、
無数の鳥の能力をも習得している。彼女に及ばぬからこそ、超新星などの星の技ひとつに絞って長年特化し続けてきた貴
信たちだ。しかもどちらか表に出ていない方が、体内を流れるエネルギーを調整している。道路を焼き焦がすほどの星の
技を体内に流して無事なのは、外に出す瞬間変電しているからだ。鐶にはそういう芸はできない。ただ放つだけだ。それで
も1年ほど前あったころよりは改善しているが(貴信との初対面時、不用意に真似て両腕がほぼ全損した)。

 貴信もまた消耗しきっていた。
(もともと僕の星の技は、物体から取り出したエネルギーを『貴信ぶくろ』に蓄積してから行うものなんだ!)
 されどイオイソゴは一切の吸収を許さなかった。自分からも……秋水たちからも。兆候あらば悉く阻んだ。
 ゆえに貴信はやむなく自前の生体エネルギーを使っている。絶好調時でも3発が限度だ。
 だが。
(やられた……!! 鐶副長を飛び立たせるために僕と鐶副長は道路を撃った! 耆著を打ち込まれ、磁場と化した道路を
超新星で焼き尽くした! だがそれはイオイソゴの思惑通りだったんだ!!)
 逃げるためには磁場を吹き飛ばされなければならなかった。だが結果をいえばやっと飛びたてるという瞬間、妨害に遭い
押し留められた。つまり無駄撃ちさせられたのだ。それから2発、超新星を撃った。弾切れだ。
(なんのために……!? もちろん今のような場面のためにだ!! 手足に耆著を打ち込まれ動けなくなった状態から、
星の技を発動!! 敵の武装錬金を壊し逃げるといった最善手をできなくするため──…)
 イオイソゴは道路を磁場にし、貴信に撃たせ、生命力を燃料にするほかない彼に更なる減衰をもたらしたのだ。

(…………)
 エネルギー。それを蓄積できる筈の秋水は動かない。尽きたのか、それとも。

(もしあたしが……ぶそーれんきん、使えたら…………!!)
 香美は歯噛みしていた。貴信が囚われているのに何もできない状況が悔しかった。斗貴子や秋水という「なんか面白い」
連中も苦悶の形相で地面をのたくっている。鐶という大事な仲間はとっくに全力を尽くしている。
(あたしだけが……なーんもできとらんじゃん)
 武装錬金なんて興味がなかった。核鉄を発動するという、理解しがたい行為を強要されるのは嫌だった。根はネコなのだ。
気乗りしないコトはしたくない。貴信や小札の説得で何度かやってはみたが、何も起こらなかった。
 そもそも動物型の香美が本当に武装錬金を発動できるのか?
(論拠ならある)
 貴信は剛太から聞いている。
 香美がやる夫社長の能力により「アダーガ(剣槍盾)」に変形したコトを。他の被害者達が自らの武装錬金になったのを考
えると……アダーガ、なのだろう。香美の武装錬金は。
(7年前、香美は一度だけそれを使ったようだ! 形までは分からなかったけど、デッドの奇襲を……防いだんだ!)

── 足元から吐き散らかされた100の筒はもう、致命的な間合いにいた。むしろ爆発より早くそれを見れたコト自体、奇跡の
──ような出来事だった。

── 煙が晴れた瞬間香美が現れた。

── 彼女は、無傷だった。
── 手の甲を口の前に出す独特の構えのまま、激しく息をついてはいるが、その姿に爆発痕を認めるコトはできなかった。
── 服は煤けているが分解された跡はない。

── (まさか)

── (動物型が……武装錬金を…………?)

 ハイテンションワイヤーはまだ握られている。手首こそ磔刑の憂き目だが、掌じたいはまだ動く。
 首を回し貴信と換わる。
(かくがね! ご主人のぶそーれんきん解除してあたしがリキ込めたら、ひょっとしたら……)
(ひひっ。使うがいい)
 いまだ貴信が鎖分銅を手にできているのは、木星の老婆の失策ではない。
(ヌシらの中でもっとも不確定なのは栴檀香美……でっどやでぃぷれすが執心してやまぬ貴様よ)
 奴は香美の能力をも暴き、対処を練るつもりだ。斗貴子たちは即座に理解したが止めるコトはできなかった。
 賭ける他ない、そんな状況を作り出したイオイソゴ、まったく老獪という他ない。


「でぃだーん! ちぇすちぇすちぇす!」
「!?」
 急に拳を突き上げて目を不等号に細めるイオイソゴに貴信は瞠目した。
 視線を感じた彼女は、ご飯食べるときの儀式じゃと元気よく答えた。
 表情は大変に明るい。先ほどまでの獰悪な幹部の表情は微塵もない。
(そういえばさっきお饅頭を食べていたな!! また何か携帯食を食べるのだろう!!)
 イオイソゴは短い手足を、ピクニックへいく学童のように溌剌と振って歩いていく。
「がおらお! がおらお!!」
 何を食べるか分からないが、よほど楽しみらしい。童女特有の高く柔らかい声で可愛らしくさえずりながら歩いていく。
「つかそれあたしのパクリじゃん!! がおらお!! がおらお!!」
 対抗するように吼える──ちなみに原曲はショーに来た子供を泣かしたコトで有名だ──香美を無視して、イオイソゴは。

 仰向けに横たわる秋水の前に立って一言。

「ごはん!!」

「「「「!!!!!!!!!?」」」」

 秋水を除く全員が驚愕した。ごはん。そう朗らかに言い放った彼女は明らかに秋水を指差している。

「わしは見め麗しい男子が大好きなのじゃ! 銀成の学び舎で一目見た時から喰いたいと思っておって、そろそろ我慢、
我慢できないのじゃ……」

 照れ照れと笑いながら涎をたらすイオイソゴ。幼い面頬は一種恍惚としている。変調。老獪な幹部とも、無邪気な童女と
も違う顔付きにいまだ動けぬ斗貴子たちは言葉も忘れただ見入った。
(あの顔……。発情期の雌犬の淫猥さと好物のハンバーグの焼きあがる様を今か今かと眺める小学2年生の期待感が
入り混じったようなあの顔……!!)
 へあへあと息を荒くしながら身を屈め秋水に跨って行く幼い老婆。瞳は限りない悦楽を期待しつつも、これから犯す罪業
と羞悪を予期したのか緊張に震えている。低い鼻がじっとりと汗に濡れ、熱い息を吐いていく。
「んんっ……!?」
 腰を落としたイオイソゴは目を丸くして軽く痙攣した。黒いタイツ(に見える鎖帷子)越しの太ももに、弓張月の効能、いま
だ雄然と聳立(しょうりつ)する小秋水が触れたと見え、少女は顔どころか首筋まで真赤にした。真赤になりつつも足はその
場に固定したまま上体をたくましい胸板めがけ降ろしていく。自らの引き起こした現象とはいえ、「色事は恥ずかしい」と先
ほど暴露した奇妙なくの一、蛍石のように鮮やかな髪を時おりさらさらと跳ね上げては後ろを振り返り振り返り太ももの位置
を返るが、そのたび何か激越たる変化を秋水がもたらすらしい。身を震わせ、鼻にかかった甘い声を漏らしては動きを止め、
現状維持に甘んじている。
 いっそ跨るのをやめればいいではないか。立ち、歩き、首の近くに横座りしても喰えるではないか。果たして跨るコトに異議
はあるのか。両手足を磁性流体にされ、ソードサムライXさえイオイソゴの背後遥か彼方に飛ばされた無手の秋水相手なのだ、
イニシアチブを取る体勢など他に幾らでもあるのではないのか。
「あるのじゃ……。あるのじゃ……。胸を裂いて腹を割いて好きなところへ……んっ……、こ、こら、莫迦……動くでないぞ……。
手当たり次第に手を伸ばして食べるのが……やっ……逞し………んはぁ……、手当たり次第に……掴みとって喰らうは……
かかる姿勢を於いて他には……あああ!? ま、ますます大……かかる姿勢以外、ないのじゃ……」
 熱に浮かされるように両目を真赤にし、時おり絹を裂くような悲鳴をあげつつ、秋水の上体で妖しくくねる黒ブレザーの少女。
喰うに最適の姿勢であるコトは何となく分かったが、しかしどうにも不合理だ。弓張月の効能はもはや彼女に害しかもたらして
いないのだ。なれば喰う前に解除すればいいではないか。解除できぬ何らかの自由があるにしても、もはや身動きできぬ秋水、
心臓に耆著でも打ち込み血液循環を終焉に導けば、大生命の濫觴(らんしょう。始まり)たる小秋水も鎮まるのではないか。
(なんだこの状況……)
(あ、あれほど頭が回るイオイソゴが)
(なんか、あほになっとるじゃん!)
(性よ……いえ、食欲の虜で…………判断力を……失っている……の……では)
 一体どうなってしまうのか。頬をうっすら染めてガン見する鐶の視線の先で、イオイソゴがまた艶かしい声をあげた。
(健全……です。これは食事なの……です。イソゴさん500歳以上だから…………犯罪じゃ……ない……です。ダイケンゼン
……来るな……です)
「き、きさま……いい加減、んっ、いい加減収まらぬか…………」
(いやだから解除すべきなんじゃ!! 弓張月とかいう忍法!!)
「あっ…………」
 白い顎をかくりと跳ね上げた彼女の手から耆著がころころと転がり落ちた。秋水は相変わらずの鉄面皮だが、矯声を上
げさせるほど質量と硬度を保っている訳だから、見ようによっては滑稽だ。忍法の対象でなければ社会的倫理が彼を抹殺
しにかかるだろう。
 とうとうイオイソゴは刺激に耐えかねたのか上体を跳ね上げ、スルスルと秋水大腿部を伝って後退した。
 そして山脈を俯瞰すると、両目を見開きたまりかねたように顔を逸らした。だが恐る恐ると視線を戻し、生唾を飲み
「わ、我が忍法とはいえこしゃくな……い、致し方ない」
 決然と呟き、袴の裾に白く小さな手を伸ばす。表情たるや血の池地獄から上がってきたように赤く、凄まじい恐怖と羞恥
をも湛えている。
「こ、こうなったら……」
(こうなったら!!?)
 一同が戦慄し、秋水さえわずかに表情を強張らせた瞬間、それは来た。


 ディプレスたちの後方30m。

「追いついた!!」
 しゃっと地面を滑りながら合流した無銘を剛太は意外そうな目で見た。
「遅ぇっつーか鐶と一緒じゃねーってのはつまり先輩たちやっぱり」
 拘束されている。状況を手短に説明した無銘。その鼻先を神火飛鴉や空気弾が掠めた。桜花は平然と囁く。
「こっちはあと一息ってところよ」
 前方では相変わらず毒島が撹乱を行っている。その回あって後発の追跡組たちがここまで距離を詰めたという。
「あとは早坂秋水たちが追いつくかどうかだ」
 やきもきしながらチラチラと振り返る無銘。その横で剛太は淡々と呟いた。

「アイツなら、まあ、うまくやるんじゃないの?」
「?」
「俺はアイツから剣術について色々教わった。けどそれだけじゃねェってコトだ」



 喘ぎながら秋水の袴を下げんとするイオイソゴの背後で。

 それまで横たわっていたソードサムライXが光を帯びた。


 数日前。寄宿舎管理人室の地下で。

「モーターギアの操作方法を教えて欲しい?」
 秋水の妙な申し出に剛太は眉を顰めていた。
「お前なに言ってんだよ。いや別に剣術教えられっぱなしなのも癪だし、どうしてもっていうなら教えてやらなくもねェけど、
けどお前の武装錬金……刀だろ。エネルギー吸って溜めて放つだけの武器じゃねェか」
 なのにモーターギアの操作──速度、角度、回転数を生体電流にて事前にインプットするアレだ──を教えろ、秋水は
そう言い出したのである。
「シークレットトレイル」
「はい?」
「君なら既に知っていると思うが、真・鶉隠れ。あれもどうやら操作を予め入力する武装錬金のようだ」
 そういえば。剛太は思い出す。音楽隊との戦いで秋水もそれを使っていたコトを。
「飛刀。突飛だが利点はある。そもそも総角の使う飛天御剣流にも鞘から刀を飛ばす抜刀術があるという。無銘によれば
御庭番衆の御頭も小太刀でそれをしたらしい」
「あー。つまりアレか? お前は敵(レティクル)に対抗するため新しい技が欲しい。そこで古流にもあり、根来だって使って
る飛刀に目をつけた」
 ところがソードサムライXではどうもうまく行かない。だから武装錬金の操作に長けた俺に話を……そういうと美剣士は頷
いた。
「君が入力に使う生体電流もまたエネルギーの一種だ。時間差での発動……事前入力……その糸口を掴むには、君の
話を聞くのが一番いいと判断した」
「まあ、そうなるだろうな。先輩のは速攻だし、小札とかのは毛色違いすぎるし」
「協力してもらえるか?」
 生真面目で面白味のない様子に剛太は露骨に顔をしかめ豊かな髪をこね回した。やっぱ性格合わない……思いながら、
答えた、
「しつけェな。言っただろ。教えられっぱなしはカッコ悪ぃ。大して難しいコトでもなし、教えてやるよモーターギアの操作」
「感謝する」
「別に。てめェのためじゃねえよ。先輩に自慢するため。……それだけ」

 鋭いくせに要領が悪い。若者なら誰でも知っている概念を知らない。そのくせ妙に教養があり大人びている。
 まったく正反対で、齟齬だらけの秋水に、剛太は。
 覚えが悪いときはがなり、指導以上の成果を出せば感服し、武装錬金の素人らしい無茶な発案に大笑いし、失敗あらば
自身の技術向上のため先輩のためと言い聞かせつつ親身になって応対し──…


 秋水は、言った。

「自由自在でなくてもいい」

「ただ」

「弾き飛ばされ、敵の慮外に行った頃に」
「時間差でエネルギーを放出し」

 ソードサムライXの飾り輪から放出されたそれが刀を浮かせた。

「空を飛び、敵を後ろから貫く」

 無音で浮いた刀はイオイソゴめがけ飛んでいく。


 同刻。剛太。

「細かい方向の調整まではまだ無理だ。狭い場所とか、とにかく敵への軌道が限定された場所じゃなきゃあ早坂の新技、
まず届かねえだろうな」
(軌道が……限定? まさか!!)
 無銘は息を呑んだ。先ほどチラリと見た地面。鐶さえ引き落とした不可解な力。


 刀は飛ぶ。ただ推力を得ただけの尾翼なき刀が明確に、確実にイオイソゴめがけ……飛ぶ。


(……磁力!!)
(刀は磁性を帯びている! イオイソゴも同様だ!!)
(幸運にも切先が引き合う”極”! 大まかな方向さえ合えば吸いつけられるのは当然!!)
 それは起死回生の一手だった! 戦士側に残された最後の希望だった。イオイソゴは食欲に囚われている。隙を穿つ
盤外からの一手を叩き込むにはこれ以上ない格好の機会だった!(エネルギーは超新星から。毒羽との連携直後吸収)


(……当たってくれ。これが外れれば手段はなくなる)


 相変わらずの鉄面皮の秋水。その足にまたがるイオイソゴは袴を前に逡巡している。
 刀はそのうなじギリギリに達し──…


 血しぶきが散った。




「ぐ……あ……」
 呻きが漏れた。刀が刺さった声の主は、信じられないとばかり顔を歪め天を睨んだ。
 血が、染みていく。

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 白い胴着に染みていく

「やる……の」
 恐慌しきった様子で息を吐きながらイオイソゴ。髪は乱れに乱れている。顔にべっとりと貼り付けているのは緊張性の発汗
ばかりではない。血だ。血が頬を濡らしている。頬ばかりだけでなく首も朱に染まっている。いや、傷は首だけだ。そこから溢
れた血が顔を汚したらしい。
「そーどさむらいX……手にせねば「えねるぎー」を放出できんと見たが誤りよ……。触れれば放出できる……。なれば時間
差をおくよう命ずるのも可能の筈……。ひひっ……。長短の差こそあれ原理は同じ……けして荒唐無稽ではない……」
「ぐっ」
 豊かな髪を振り乱し俯く凄艶なるイオイソゴ。彼女の両手は指の間に耆著を満載したきり氷結している。にも関わらず……
刀は沈む! 秋水の肩口でずブり、ずブりと不気味な音を立てながら沈んでいく! その茎(なかご)を見よ。血と汗に湿る
艶めかしい髪が絡みつき蠕動しているではないか。
「忍法、念鬼もどき。体毛のみならず髪をも操る忍法よ。ひひっ。全身これ磁性流体……磁力を以て髪をば操るのも可能。
思わぬ磁力の到来……背後から来る刀の気配を髪で察知し掴んだが……予想外の速度……よもや首を斬られるとは、の」
 激しくせき込む木星。その口から血の泡があふれ白い歯を汚した。
(秋水最後の切り札が……)
(破られた…………!!
(いまので、隙だらけだったあいつがまたなんか、油断ならん感じになったじゃん……!)
 ひひっ。あどけない老中的魔女は笑った。刀はなおも雷を纏い秋水を焼く……。
「やれやれ。このイオイソ=キシャク、戦歴にかけて油断侮り仕損じはないと自負しておるが、食欲絡まば貪婪紊乱(どんらん
びんらん)むさぼり乱れる獣と化すが難点よ。足止めの任は果たした。そろそろ潮時、かの」
 ヌッと身を上げかけたイオイソゴ。秋水の肩が激しく震え斬り裂かれたのはその時だ。
 血しぶきが飛んだ。その一珠が、今は度を取り戻し峻厳たる顔つきの若き老女の口に入った。
「…………」
 イオイソゴの黒豆のように大きな瞳が一瞬あまく蕩けた。視線がチラリと秋水を捉え、未練に染まった。
「殺していかないのか?」
「えっ、た、食べていいって事……いや違う!! ええい惑うなよわし!!」
 はっ。戦士一同からの疑惑の眼差しを浴びたイオイソゴは大慌てで首を振った。
「こ! 心得え違いをするでないぞ!! そもそもが秋水を食べたいという先ほどのあれは演技、そう、演技なのじゃ!! 
あの淫らな感じとて、秋水めの隠し玉を誘引するがための芝居であって、じゃから、じゃからべべべ別に、血が口に入って
おいしくて、じゃからお肉どんな味って気になったとかじゃ……ないんじゃっ!!」
 白目になって四方八方の秋水たちめがけ首振り扇風機で弁明するイオイソゴ。有能だが食欲の前ではぽんこつらしい。
「……どうやらリバースたちもだが、俺たちを殺さないよう仰せつかっているようだな」
 肩口からの出血がないかのごとく平然と語る秋水に、イオイソゴは頷く。先ほど潮時だといった彼女が留まっているのは、
傷から覗く彼の肉に目を奪われているからだ。やはり食べたいという欲求、すぐには収まらないらしい。
 しばらく彼女は彼方を眺め、更に秋水に視線を戻し、また彼方を……と落ち着きなくキョロキョロしていたが、さながら告白
に臨む清純な少女のごとく頬を赤らめ生唾を呑んだ。

「お肉……食べたい……」

(あいつまだ秋水を!!)
「ぶ、ぶそーれんきん!!」
 野性ゆえ敵の食欲が本物だと察したのか。香美は核鉄を手に叫んだ。だが何も出ない。香美は……失意と、自らの怒り
に顔をゆがめながら同じ言葉を叫ぶ。
「出るじゃん!! このままじゃ、白ネコ、ぎゃーするじゃん!!」
(香美……)
 貴信はみた。彼女の心象風景を。
 赤い筒に甚振られる恐怖。漆黒の中、訳も分からず爆破を浴び続けた記憶。暖かくて、明るくて、楽しいコトばかりだと
思っていた世界から、突如として押しつけられた悪意。ひたすらに寂しく、ひたすらに悲しく……痛く苦しい、絶望。ふさふさ
の尾を吹き飛ばされた時の苦患。絶叫。恐れていたからこそ、忌み嫌っていたからこそ閉じていた香美の記憶の蓋が、
秋水の危殆を前に吹き飛び貴信の脳髄へ流れ込む。
(あんなの……あんなの…………や!! 誰にも味あわせたくない! ご主人にもあやちゃんにももりもりにも、きゅーびにも、
光ふくちょーにも、おっかないのにも銀ピカにも……白ネコと、他いろいろと……垂れ目にも……!!!)
 震えが止まらない香美。本能のまま核鉄を握る。発動した記憶はない。だが本能は告げる、可能性を。貴信を守った時
のような精神ならば…………絶対に出せると。
「ぶそーれんきん」。叫ぶ。何もでない。再び唱える。反応はない。三度。……動かない。
「なんで……なんで出ないのさ……!! 出てよ!! 出る!!」
 フラッシュバックも相まって、涙でぐしゃぐしゃになり鼻水さえ垂らす香美。答える者はいない……。

 香美が半ば狂乱する中、イオイソゴは厳然と告げる。
「早坂秋水。これよりヌシを始末する」
 ひひっ。低い鼻をこするとそこから黒々とした笑みが広がった。
「主命は足止め……じゃが、手筈違い行き違いなど戦場(いくさば)に付きもの……誤って殺したとあらば盟主様も笑って許
そう。これも忠誠心あらばこその叛意よ。そもそもヌシ(秋水)は盟主様にとって不吉すぎる存在よ」
 むろん半分ほどは食べたいがための方便だろう。一種究極の美形たる秋水に垂涎し、一度は断とうとした未練が、血の
味によって一層激しく燃え上がり、いよいよ制御不能になった失態を、彼女は忠誠心うんぬんのそれらしい大儀にすり替え、
私欲を満たさんとしたのだ。言い訳までいちいち老獪である。
 だが残り半分は恐らく心からの言葉……忠臣であるが故の懊悩、主君を案じたにも関わらず突っぱねられた進言を、今
ここで実行せんという雰囲気、「咎められようと後顧の憂いを断つ」という覚悟から……。
 秋水はそういう『ニオイ』を感じた。故に……喋喋を、要す。
「……。俺が盟主にとって不吉すぎる、か。それはどういう意味だ?」
 もはや相手は俎上の鯉、語る位はいいだろう、喰えそうで喰えない微妙な間合いを楽しむのもまた乙……そういう顔でイ
オイソゴは舌舐めずりをした。鮮やかな紅色の下が桜色の唇にねっとりと唾液をまぶす。その匂いはマンゴー。足を跨ぎ
やや淫猥な構図で見下しつつ汗ばむ少女の肢体からも同じ甘ったるい匂いがして、秋水は、忍法弓張月が身体に惹起し
た甘美なる異変とも相まって、少しばかり頭がくらくらとした。
「知らんのか? ヌシの持つ23番の核鉄。これの前の持ち主こそ……我らが盟主」
「何っ!?」
 いまだ身を貫き生体エネルギーの黄金雷を爆ぜさせるソードサムライX!
 よもやその元たる核鉄が敵の首魁の所有物だったとは!!!
「馬鹿な! 俺の核鉄はL・X・E所有の……!」
 取ったのじゃよ、蝶野爆爵めが盟主様から……うっとりと眼を細め囁くイオイソゴ。

──「惑 え !」

──山に叫びが木霊する。
──プラチナホワイトの光がぶわりと密集し、金髪の男を襲う。
──彼は爆爵を認めると、一瞬、信じられないという顔をしたがすぐさま煌く光の虜囚となり、意味
──不明の絶叫を数度発すると頭を抱えて昏倒した。


──数分後。
──激しい虚脱に息をつきつつ、爆爵は辺りに散らばる核鉄を拾い集めた。
──数は2つ。中央に刻まれているシリアルナンバーは、LXI(61)とXXII(22)。
──加えて、爆爵が発動したLXX(70)と金髪の男が握りしめていたXXIII(23)。

──奇しくも100年後の銀成市において爆爵の玄孫や早坂姉弟が駆使する核鉄である。


──特に、XXIII(23)の核鉄を持つ秋水は、後年、因果の凄まじさを知るが──…


──爆爵は知る由もなく、ただ無造作に懐へ仕舞い、金髪の男の息が無いのを確認した。
──途中、視線が止まる。男の胸元には認識票があった。

──「MELSTEEN=BLADE (メルスティーン=ブレイド)」

「かくて、めるすてぃーん様の核鉄は爆爵めの物となり、遂には早坂秋水、ヌシの手に渡った」
「…………」
「その核鉄を以てかの総角主税を斃したヌシ。わしが不吉を感ずるはそこよ。嫌な因果じゃ。まったく盟主様にとって不吉極
まる。何故なら総角主税は、盟主様の──…」
「クローン、だからか」
 返答は来ない。代わりに凄惨な捕食者の顔が目に入った。
「ひひっ。おしゃべりが過ぎたわ。そろそろ貴様を……食べる!」
 やや声を弾ませて、先ほど同様身を倒していくイオイソゴ。
 森閑たるビル街。白昼のそこは少女が青年を喰い殺さんとする魔界と化した。
「……?」
 異変に気付いたのは、イオイソゴ。彼女は秋水の胸板に向かっていた顔を止め、フと左右を見渡した。
 辺りは、静まり返っていた。
 だからこそ木星の幹部は……気付く。

 香美の声がしない。

 先ほどまで惑乱し、武装錬金の掛け声を上げ続けていた彼女の声が……消えている!!

「どうした? 俺を喰わないのか?」
 眼下で粛然と呟く秋水。その双眸に宿る、玉鋼を鍛え上げたような清冽たる輝きを見た瞬間、戦歴500年のイオイソゴ
の直感が、思考や欲求とは無関係に振顫(しんせん)した。
(声がない!? 香美めが諦めたのか!? いや! 彼奴はでっどを揺らがせ、でぃぷれすさえも情に絡め取ったではな
いか!! 野性ゆえ徳の持ち主!! 仲間の危機を前に諦める筈がない!!)
 イオイソゴは周囲を確認し終わると愕然とした。

 斗貴子がいない。鐶もいない。むろん渦中の人物たる香美もいない。貴信の亡失は二心同体を考えれば必然だ。

(よもやあやつ! )

(武 装 錬 金 を 発 動 し 仲 間 を 助 け た ?)

 いや。内心の、戦歴のみが形成した、脊髄のように乾いて思慮を要さぬもう1人のイオイソゴが厳然と呟く。
 ……。戦いにおいて正答を言い当てるコトはほぼ不可能だ。だからイオイソゴは常にマージンを取って戦っている。秋水
たちに「手数を読み切った」と評されたのはそのせいだ。
 調べ、予測し、少しばかりの予想外があっても対応できるよう、一種茫洋、形状さだかならぬ正しく磁性流体がごとき基本
指針を以て難事に当たってきた。ブレイクの言葉を借りれば、対敵の”枠”が十分整っているのだ。点や線どころか、その
遥か行く面積的な解釈を以て敵を包囲する。
 だから読まれていると秋水たちが感じたのは一種の錯覚だ。イオイソゴ、何もかも予想している訳ではなかった。ただ彼
らの肯綮(こうけい。要点)が発揮できぬ土壌を作り引き込んだだけだ。
 そういう戦いをしてきただけに、彼女は知っている。
「逆転を許す戦い」が、どれほど残酷かを。事前の予想を、丹精込めて整えた土壌をいつだって平気で覆すのだ。
 そして……逆転された後、誰しもが言うのだ。
「前以て予見できたコトだ。なのに何故できなかった」。
 誰しもが昔に対しては神なのだ。神になって、覆水の前で頭を抱えた経験などイオイソゴには幾らでもある。
 逆転とはつまり、予想を覆す癖に、振り返れば兆候だらけという矛盾が呼び込むものなのだ。

 ゆえにイオイソゴ=キシャクは頭上を見て、叫ぶ。

「ここは廃びるの街! ごーすとたうん!!」

 叫びとともに秋水が薄い水色のスパークに呑まれて消えた。ソードサムライXもエネルギーを迸らせ主人に続く。
 消えた敵。消えた刀。だがイオイソゴには構うヒマもない。

 全身をとろかせながらマンホールめがけ飛ぶ!

 同時に……声がした。
 何もかも終幕に導く、狂騒を孕んだ声が。


「喰らえ!! 五千百度の炎!! ブレイブオブグローリー!!!」

 イオイソゴの頭上から……焼夷弾がゆっくりとだが落ちてきた。
 熱風を迸らせながら、取り壊し予定のビルのガラスを割っていくナパームが、上に乗っている火渡赤馬とともに炎と化し、
イオイソゴに纏わりつくまでさほど時間はかからなかった。

(熱っ!! くっ!! 火渡!! そういえば奴は劇終了後こちらに向かう手筈!! マズい! 熱いぞ! 磁性流体といえ
ど五千百度に直撃されれば蒸発する!!)
 骨すら炭になりそうな獄炎の中、万が一の逃走経路にと耆著を撃ちこんでおいたマンホールが宙を飛んだ。その中に逃げ
込んだイオイソゴ、果てなく地下に伸びる円柱の内側に耆著を撃ちまくって加速する。
(磁力操作!! あとは地下深く逃れれば生存は確実──…)

「星間塵よ!! 戮力を阻め!!!」

 叫びと共に、地上を漂っていたソードサムライXのエネルギーが、無数の光の粒と化し、イオイソゴのいる下水道めがけ雪
崩れ込んだ。

「ひひ。貴信か! 奇襲もまた予測済みよ。多少の攻撃など突っ切るのみ!!」

 うにょうみょとイソギンチャクのように枝分かれした木星は星間塵の隙間悉くすり抜けて飛んでいく。轟然と飛んだ彼女は
まさに粒が光の瞬きと化すほど遠くにの地下へ遂に降り立ち──… 
 一気に、引き戻された。

「何っ!?」

 粒たちすら轟然と通り過ぎ、鉄さえ赤い液体と化す地上の地獄へ放り出されたイオイソゴは気付く。

(磁力にも勝る力!!? 自然原則的に言ってそれは1つ! ただ1つではないか!!)


 亜空間の中で、貴信は、思う。隣には……根来。斗貴子と秋水、鐶も居る。
(もりもりさんは言った。エネルギーを扱い僕の可能性を。ハイテンションワイヤーで抜き出したエネルギー。運動や熱、原初
的な”正にそのもの”……様々なエネルギーを体内で自在に作り変えてきた僕の……可能性を)

 あるエネルギーは散弾となり、あるエネルギーは情報となり読み込まれる。道路を抉り焼き焦がす超新星の原料とまったく
同じものが、人を癒す星の光にも成り得る。それは鎖分銅の特性ではない。貴信の武装錬金はあくまでエネルギーを調達す
る手段に過ぎない。

 では何故貴信はエネルギーを変換できるのか? 爆破エネルギーが散弾にも超新星にもなる。人を殺すために放たれた
ビーム、殺意を孕んだ斬撃の運動エネルギー……それらを渾然一体と練成し人を癒す力にするコトもできる。1つのエネル
ギーが無数に分岐し、無数のエネルギーがただ1つへ収束する「一は全なり、全は一なり」。その源泉は……何なのか?

(磁力……電磁気力を超えるぱわー! 『強い力』!!)

(……もりもりさんは、小札氏のお兄さんのコト暴露したあの日の夜、少しだけ昔の話をした。7年前僕たちが遭遇した『ミッ
ドナイトの屍部下』……彼らの素性を)

(ぬかった! 『強い力』! 総角めは知っているではないか!! その有数の使い手を!)

(『獅子王びすとばい=いんこむ』!! 彼奴と総角は10年前、同輩じゃった!!)


(僕は面識などない! だがもりもりさんは彼を語り! 可能性を……示唆した! 『強い力』! 獅子王にこそ遠く及ばない
が、僕にもそれを扱える可能性があると!!)

 イオイソゴは充分警戒していた。貴信という、本人でさえ秋水・斗貴子・鐶・無銘に劣ると是認している戦力でさえ決して見縊っ
たりはしなかった。むしろ唯一自分を打破しうるエネルギー攻撃の基点として、或いはジョーカー的な香美を目覚めさせる更なる
切り札として……最大限警戒してきた。超新星を無駄撃ちさせたのもその現れだ。

(じゃがまさか……びすとばいの力に!! 我らが復活させんと画策する『まれふぃっくあーす』! その僕(しもべ)が1人の
領域に覚醒しようとは!!! まずい!! 炎が!! なる! なってしまう! 昼寝睾丸斎に……なってしまう!!!)



 高層ビル3棟。中層ビル45棟。低層ビル38棟。その他家屋等29棟。


 半径500mに犇めいていた栄光の残滓たちを灰燼と化しドス黒いクレーターを作り上げた五千百度の炎の中に。

 イオイソゴ=キシャクというくの一が呑まれ──…

 やがて影すら見えなくなった。


 養護施設。

 職員達を襲撃した金髪にピアスという怪物……通称キンパくんは大の字になって気絶していた。
「さすがねごっ……いえ、戦士・根来……」
 千歳は感服していた。途中相手が異形ながらも人間と気付いた後は手加減せざるを得なかったが──敵はどうやらそこ
まで見越して差し向けたらしい──それでも危なげなく勝った。
(そしてねごっちーは火渡と合流。戦士・斗貴子たちの元へ向かった)
 ヘリにて他1名の戦士ともども現地に。入れ替わりでヘリから鈴木震洋が降り立ちいまは救助者達の対応に当たっている。

 千歳はずっとヘルメスドライブを凝視している。
 映し出されるのはディプレスたちへの追跡行。囚われているのはヴィクトリアだからいつでも傍に翔べるがしかし敵は予測
済みだろう。魔人にも匹敵する幹部5名は千歳が来れば得たりとばかり迎撃する。そのさいヘルメスドライブないしは本人が
回復不能な打撃を受ければ救出の可能性は限りなくゼロに近づく。
(戦士・毒島たちが隙を作ってくれるまで待機ね)
 千歳はただ、時を待つ。


 ゴーストタウン。

 黒い地平で稲光が瞬くや空間が裂けた。現れたのは秋水たち足止組と根来忍。その付近にてかねてより煙草を吸い佇んで
いた火渡は苛立たしげに舌打ちをした。
「クソッタレ。まさかホムンクルスの助けを借りるとはな。気にいらねえ」
 相変わらずギラついた男だ。面識のある斗貴子と秋水は嘆息した。前者は敵として、後者はヴィクター討伐隊として接したコト
があるが、まったくツリ目に太眉、肉食獣のような牙と顎という凶悪な面相にそぐわぬ粗暴極まる男というのがその時の印象だ。
(確か……ねごっちー氏や毒島氏といった再殺部隊を束ねる長!)
(……難儀な…………人たち……奇兵を…………力づくで押さえ込むというのも……納得です…………)
(なんか声いい! 好きじゃん! 豪快にチェンジしそうじゃん!!)
 でも何かあの月のオバケに似とるじゃん声、香美が漏らすと秋水たちは「そうか?」と首を捻った。まったく別モノではないか。
「あたし! あいつになんかしんぱしーじゃん! ぶらきおさうるす位しんぱしーじゃん!」
「なんでブラキオサウルス……」
 斗貴子が呆れていると、火渡はますます不機嫌に顔を歪め総髪を掻き毟った。
「オイ根来!! ホムンクルスの力借りる羽目になったのはテメエのせいだぞ!! テメエが津村ども、わざわざ亜空間に
引っ張り込むの待ったせいで下らねえ事になりやがった!! 今後こいつらがまた足引っ張ったら連帯責任だ、テメエも
殺す!!」
 凶悪な顔で根来の胸倉掴み迫る彼。斗貴子たちは嘆息した。
(いつも思うが戦士というよりホムンクルスの形相だな)
(これで戦士長なんだからな……。臨時で大戦士長代行も務めている)
 根来は相変わらずの白っ面にのっぺりとした無表情を浮かべながら淡々と返す。
「まだ今後の戦力として期待できるゆえ助けただけのコト……」
「あ? あの新米相手に円山囮に使って殺しかけた奴が何をいいやがる」
 まったくだ。現場に居合わせた斗貴子も頷いた。根来といえば冷徹非情、勝利のためなら手段を選ばぬ男ではなかったか。
(……千歳さんとコンビを組んだ頃から、少し心情が変わったようだな)
 或いはそれより前。「戦友はいるか?」という問い掛けた剛太への敗亡をして、持たざるゆえの弱みに気付いたか。……
不鮮明だがとにかく事実は根来が足止組を全員助けた、その一時だ。
(もしねごっちーが亜空間に俺たちを引きずり込まなければ)
(私たちは火渡戦士長の武装錬金で全滅していた)
 ぞっとする最期だ。敵ならいざ知らず味方に焼き殺される。あり得ぬコトだが斗貴子は実際一回五千百度を体感している。
防人が身を挺して助けなければ今ごろカズキや剛太ともども泉下の人だったろう。
 根来も危険性は認識しているらしく、冷然と目を細めた。
「敵ごと焼き殺すのは戦団全体の勝利を遠ざける……」
 こうなるともう何も通じないのは交流ゆえに理解してるらしく、火渡は乱雑に胸倉を振りほどき盛大な舌打ちをした。
「津村どもはともかく音楽隊の方はどうせ老頭児助けた後始末するんだ。ここらで2〜3匹チョチョイと片付けたって問題ねェ
だろうが」
 ふて腐れた表情で彼方を見る火渡。そもそも銀成駐留の戦士たちに音楽隊の監視を丸投げしたのは彼である。
(7年前、彼もまたホムンクルスのせいで赤銅島壊滅の憂き目に遭っている。だから音楽隊との共闘はとても許容できない
のだろう)
 防人や千歳がある程度割り切っている方がそもそも奇跡なのだ。感情論だけいえば火渡の方が正しい。
(私も概ね同意だ)。斗貴子も思う。ここまで銀成側でただ1人、共闘に異を唱え、端々で警戒し続けてきたのは、やはり
7年前の件、首謀者に真一文字の傷を付けられた記憶あらばこそだ。……もっとも鐶に対し先ほどやや軟化した態度を
見せたように、或いは総角に九頭龍閃の教授を乞うたように、憎悪との折り合い、戦士としての在り様を見つめなおした頃
から少しずつではあるが殺意一辺倒から脱しつつもある。だがやはり今はまだ、指摘されれば本人は頑なに否定するだろ
う。本質的にはやはり音楽隊は敵なのだ。

 とにかく秋水は根来の出現に気付いていた。イオイソゴが食欲について弁明している頃、実は彼が忍者刀をわずかだが
亜空間から出した。秋水はそれに気付いた。
 根来が来ている。……。かつて秋水が鐶に破れた後、彼女らを奇襲した根来だ。そのとき彼は総角の反撃に遭い、核鉄
を持ち帰るのがやっとだった。ゆえに救出されず地下空間に置いていかれた秋水だからこそ、イオイソゴ相手に無策で全員
救助する困難さを直感した。根来もその辺りの機微は理解していたのだろう、だから彼に忍者刀を見せた。

(ゆえに俺は)

──秋水の肩が激しく震え斬り裂かれたのはその時だ。
──血しぶきが飛んだ。その一珠が、今は度を取り戻し峻厳たる顔つきの若き老女の口に入った。

 貫かれている肩を敢えて動かし、血を味あわせ、消えかけた食欲の炎を再燃させた。
 再燃させ、秋水しか見えなくしたのだ。忍びが朴訥たる秋水に欺かれるというのはなかなか皮肉だが、騙される者ほど
往々にしてつまらぬコトで騙し返されるのもまた真理。
 信頼と機転。のちに斗貴子でさえ瞠目する阿吽の呼吸だが秋水自身に過信はない。

(根来はああいう土壇場の機微だけ当てにする男ではない。来た時点で幹部打倒の方策……既に練り終えていたと見るべき)
 方策は何か? 火渡だ。もうとっくに答えは出ているが、では何故秋水が火渡と根来の合流を察知できたのか?
 論拠は以下のとおりだ。

 追跡と足止にかかる戦力を差っ引けば、銀成で根来以外に期待できる純粋戦闘力は防人だけだ。だが裏返しを、リバー
スには危うく破られかけ、ディプレスには分解された彼に必勝を期さないのが根来だ。一種の信頼や敬意こそ置いているよ
うだが──演劇途中の千歳たちとの語らいで秋水はつくづくと痛感した──だからこそ過剰な期待は寄せない。過剰な、
感情的な期待は時として寄せられた方をも滅ぼすのだ。根来はしない。
 なら彼が幹部を打倒しうるとみなすのは?
 火渡しかいない。
 ……秋水に確証をもたらしたのは『時間』だ。演劇が終わり次第合流する……そう言い放った火渡との合流時間はとうに
過ぎていた。ならば来る。どこで秋水たちが足止めされているかなど桜花たちがとっくに連絡済みだろう。火力こそあるが
速度はない火渡が、追跡組と足止組、どちらに乱入しドヤしつけるか明白だ。
 従って、足止めという任務の特性上、1つ所に留まざるを得ないイオイソゴは容易く捕捉された。
 そして根来が来た。来たという事実そのものが既に攻撃の予告なのだ。
 火渡の武装錬金は、周囲500mを最大瞬間温度五千百度で焼き尽くす戦団最強の焼夷弾だ。投下されればイオイソゴ
ごと秋水たちは蒸発するだろう。
 だから根来が来た。炎の及ばぬ亜空間へ物体を引き込める根来が。逆説的にいえば全員回収は……攻撃予告。

──「早坂秋水。これよりヌシを始末する」

──「主命は足止め……じゃが、手筈違い行き違いなど戦場(いくさば)に付きもの……誤って殺したとあらば盟主様も笑って許
──そう。これも忠誠心あらばこその叛意よ。そもそもヌシ(秋水)は盟主様にとって不吉すぎる存在よ」

 食欲に駆られたイオイソゴが、忠誠を誓う盟主への自己弁護じみた言い訳を滔滔と並べ立てた少し後。

 斗貴子が亜空間に埋没した。引き込んだのは灰色の網だ。どうやら根来の髪で編みこまれているらしいそれは、彼女だ
けを引き込んだ。即ち、拘束する磁性流体、耆著という異物はものの見事に排莢し、追放した。

(むろん亜空間埋没には音が伴う。だが幸運にもその頃、栴檀香美が叫び続けていた)
(……だから……かき消され……ました……)
 とはいえ食欲さえ目が眩まなければあらゆる手数を読み切るイオイソゴだ。何もしなければ恐らく気付かれただろう。
 だからこそ、秋水は。敵の注意を一層自分に引き付けるべく。

──「……。俺が盟主にとって不吉すぎる、か。それはどういう意味だ?」

 語りかけた。それはただ漠然と話を促した訳ではない。裏づけは……あった。
 イオイソゴの機微、戦歴500年ゆえの完成度……忍びの忍びたる所以に賭けたのだ。
(ソードサムライXの飛刀さえ破られた以上、俺にはもうそれしか残されていなかった)

──忠臣であるが故の懊悩、主君を案じたにも関わらず突っぱねられた進言を、今ここで実行せんという雰囲気、「咎めら
──れようと後顧の憂いを断つ」という覚悟から……。
── 秋水はそういう『ニオイ』を感じた。故に……喋喋を、要す。

 果たして彼女はまんまと嵌った! 食欲に対する揺らぎ、盟主への忠誠心、絶対有利という確信、それらが渾然一体と
なった陶酔感に浸るイオイソゴは、迂闊にも戦歴で遥か劣る秋水の口車に乗ってしまった! ああ戦歴500年ゆえの人間
的油断!! ただなる剣客、調べによれば総角や鐶、ムーンフェイスといった連中に欺かれ続けれた秋水が、よりにもよっ
て自分を謀ろうとは思ってもみなかった! 俎上の鯉、それがよもや破滅に導く毒を吐いていようとは!!
 果たして斗貴子は埋没した! 音を香美の叫びにかき消された上、注意を秋水に向けているとなればさしものイオイソゴ
でも気付けない!! 
 敵に逃げられ、最大攻撃のカウントが1つ減ったにも関わらず、彼女は滑稽にも長広舌へ及んでしまった! 不覚不覚、
まさに一世一代の大不覚!!

──「知らんのか? ヌシの持つ23番の核鉄。これの前の持ち主こそ……我らが盟主」
──「何っ!?」

 秋水の驚嘆の4割ほどは本心からだ。だが残り6割は、相手の慢心を加速させるための演技である。忘れてはならない、
幹部達と戦う直前、かれが何に全力を注いでいたか。演技など、お手の物だ。万事うまく行っていると思っている相手に、
望みどおりの動きを見せれば喰らいつくのは剣道で体感済み。
 即ち、得意満面で驚愕の事実とやらを持ち出したイオイソゴに驚いてみせるコトこそあの状況における秋水の最善手であ
り、且つ、何よりの攻めだった。結果、意識はかれのみに集中。……根来は気取られるコトなく鐶を回収した。

──「馬鹿な! 俺の核鉄はL・X・E所有の……!」

 渾身の演技に「取ったのじゃよ、蝶野爆爵めが盟主様から……」などとイオイソゴがうっとりと眼を細める頃、香美が回収。

 さすが無声となれば前述のとおりイオイソゴが気付いたが、その頃には既にもう網が秋水に絡み付いていた。

(イオイソゴ……。奴は根来が来た瞬間、まるで示し合わせたように撤退を決めていた)

──「食欲絡まば貪婪紊乱(どんらんびんらん)むさぼり乱れる獣と化すが難点よ。足止めの任は果たした。そろそろ潮時、かの」

 それは恐るべき直感だった。戦歴500年ゆえの何か神がかり的な警告が頭蓋の奥で響いたに違いない。
 正解だった。火渡はもうすぐ近くに迫っていた。カウントを進める根来さえ付近にいた。
 血しぶきを飛ばした瞬間の秋水でさえ、「実は根来の存在……気付かれているのではないか」と肝を冷やした。

 しかるに撤退宣言はただ神がかっているだけの偶然だった。以後の一連の流れを見れば到底気付いていたとは思えない。
でなければ幾らイオイソゴといえど食欲優先で留まらなかっただろう。

(言い換えれば、あのタイミングで彼女が撤退していれば、炎に焼かれるコトはまずなかった)

 老獪さ故の直感を信じ、秋水の小ざかしい誘引と演技を無視していれば、戦団最強攻撃力に巻き込まれるコトなく逃走
できたのだ。そして火渡と合流した秋水たちを奇襲! 再び己の得意とする領分に誘い込めたのだろう。

 秋水はそういう予想ができた。できたからこそ、決着をつけるべく策動した。
 戦う動機はつまりイオイソゴと同じだった。『後顧の憂いを断つ』。結果、食欲に惑わされていない分わずかに純度が高い
秋水の動機が……勝った。

 げに恐るべきは食欲である。忍びとは人の欲に付け込み操る生き物。
 イオイソゴが逆にそれをやられ、結果炎に呑まれたのは皮肉という他ない。

(……秋水もまた成長しているようだ)
 騙され続けたからこそ、騙す要諦を身に刻んだのだろう。
 それが剣道の機微、武術者としての新境地の開拓と相まって指数関数的な伸びを見せている。
 演劇もいい影響を与えた。しかも秋水は桜花の弟。
(存外、腹黒いコトをもやってのけるかも知れないな。いいたかないが元信奉者だし)
 斗貴子は感嘆の吐息をついた。演劇終了からこっち幹部相手に見せている鋭さや揺らぎの無さに頼もしさを覚えた。


(……結局…………ぶそーれんきん……出せんかったじゃん)
 香美は肩を落としていた。武装錬金など興味はなかった。意味も分からぬ自分に発動を強要する総角や防人には内心
イライラしてもいた。本質はネコなのだ。気の向かない芸は絶対しない。貴信が窘めるから仕方なく付き合っていたが、や
はり身が入らないゆえの上達のなさ、いつまで経っても変化が起こらない故の悪循環に陥りひどい厭倦に囚われていた。
 結果が、今だ。
 頭はあまり良くなく、でも元気いっぱいだから、先ほどまで火渡の声に騒いでいたが、純粋ゆえに武装錬金を思い出すと
急激なる青菜に塩だ。
 もし根来が来なければ、自分のせいで、秋水たちに、かつて自らが味わった恐ろしい思いをさせてしまっていたのではな
いか……。寒気に細い体をかき抱き震える。それは根源的な危機感だ。7年前の加虐によって刻み込まれた高所と暗所と
狭所への恐怖をも上回る……原初の恐怖。死屍累々。雨音。凍えのなか鳴き続けた創世の記憶。当時は分からなかったそ
の意味が、今の香美には分かるのだ。武装錬金を使えないというコトはつまりその記憶なのだ。ネコゆえうまくは説明できない
が、自分が、武装錬金を発動できず終わるコトは、他者を雨と凍えの闇に永遠に置き去る行為なのは理解できた。
(……寒い。寒いのは……嫌じゃん。怖い)
 震えは…………いつかと同じように。
 同じ声に、暖かさに解きほぐされる。
(焦らなくていい)
 貴信の声。ああ。香美は安堵した。凍えて、何も分からなくなった時……彼はずっと傍に居てくれた気がする。
 そっと手が動き、香美のそれを握った。思い出す。『あの時も前足を、ずっと』。それだけで香美は前向きになれた。
(必要性を感じたのなら! お前なら絶対できる!! 自信を持っていい!!)
(……うん)
 はにかみながら頷く。貴信が、ご主人が言ってくれるなら……いつか絶対できる気がした。
 その感情を察したのか、貴信は心の中で呼びかける。
(実はお前の武装錬金の名前、7年前から既に決めている!!)
(なになに。どんな名前なのさご主人?)
(僕と同系統で、子ネコ時代のお前の種類にも引っ掛けてある。その名も──…)


「いやー、しかし焼けた焼けた。あはははは」
 クレーターの前でパンパンと手を叩き笑う戦士が居た。野生的だが香美的な獣感より野戦に特化したショートカットの持ち
主で、真赤なベレー帽をちょこりと被っている。年のころは二十歳前後。袖のない黒いインナーにダボダボの迷彩ズボンと
いう服装は、軍人というよりヒマな大学生が軍隊コスプレをしているような感じだった。
「誰……ですか…………?」
 鐶が首を傾げると、斗貴子ががくりとうなだれた。
「ええ。ええ〜〜〜〜〜?」
 首だけを謎の女性に向け、心底嫌そうな顔を向けるセーラー服美少女戦士(配信もうすぐですね)に「おや」と秋水は瞬き。
「知り合いなのか?」
「訓練生だった頃からの……先輩だが……。なんでいるんですか……。前線行くんじゃなかったんですか……?」
 女性はケタケタ笑いながらパタパタ手招き、「それがね奥さん、もっと実戦向きの人たちが回されちゃったのダヨ」と言った。


「殺陣師盥(たてし・たらい)?」
 変わった名前だと秋水は思った。本人は火渡の傍で手を垂直にグルグル回している。未だくすぶる噴煙の──半径500
mの僅かな外、焼け溶け損ねたビル群から漂っているらしい──熱風が秋水たちに迫ってくる。どうやらヘリが降下中のよう
だ。
「いろいろ世話になっているし、一度は訓練中、ヤケを起こしたせいで暴走したバルキリースカートから身を挺して守って貰って
もいる。人当たりはいいし、頼れる人だ」
 と評する癖に斗貴子の歯切れは妙に悪い。なぜだろう。訝る秋水の肩が後ろからグイと引かれた。
「のっほっほー。チミが噂の「伝説の美剣士・愛ゆえに戦う男」かなっ!!」
 声を聞いた瞬間だいたい分かった。小札の訳の分からなさに鐶のマイペースをブチ込んで香美の意味不明の勢いを着火
すれば大体こんな感じだった。要するにまひろ級の闇鍋で、つまり秋水の最も苦手なタイプだった。(なお、弓張月などの忍法
および磁力効果は、イオイソゴが炎に消えると同時に解除された。秋水はホッとしている。先ほどの策謀は見事だが、当時
の身体的状況、弓張月による勃興現象を鑑みるとどうにも格好つかないものがある)
「早坂秋水です」
「ムッ。さてはお前抜刀斎じゃないな! 大陸帰りのシスコンだなっ!! おのれおのれ顔面に神経浮かべて二段ジャンプ
しようとはふてえ輩だな反省しろ!!!」
「意味が分かりません……」
 汗をまぶしながら答える。斗貴子の落胆が言葉ではなく心で理解できた。
 くいくいと袖が引かれた。美人だが親しみやすい顔付きの女性が唇を尖らせている。
「ねーねー。斗貴子の介、九頭龍閃はおろか天翔龍閃習得したヨ? 秋水の介は覚えないの狂経脈。前世そんなカンジだ
よカンジだよ、ラスボス相手に狂経脈逆胴叩き込む日はいつか殺陣師サンにレポート5枚書いて提出したまえ!!」
「…………」
 何から何まで理解不能だった。ぐにゃぐにゃ歪みながら秋水に擦り寄る殺陣師。
「虎伏絶刀勢でも可! てか倭刀術つ〜か〜お〜う〜YO〜」
「オイ殺陣師!! ヘリちゃんと誘導しやがれ!!」
 あーい。ぐなぐなと手を振るった殺陣師の傍を小さな光の粒が通り過ぎた。
 先ほどの貴信の星間塵の残りだろう。ショートヘアーの尖った部分を揺らしながら振り返った殺陣師、急に静かになった。
そして粒が消えるまでただじっと眺めていた。
「どうかしましたか?」
「……ちょっと懐かしくて」
「?」
 何が? 秋水が聴こうとした瞬間、火渡の怒声が後ろから炸裂した。謝りながら駆け寄っていく殺陣師。機が削がれた。

 よく分からない女性だな。それがやがて戦火の中で別れる彼女に対する第一印象だった。

 数分後。

 UH−1H/J。多用途ヘリコプターの中で戦士一同は座っていた。

 遠ざかっていくゴーストタウン。空に登ってなお視認できる巨大な火渡のクレーターには全員が身震いする思いだ。
「しかし……イオイソゴ。奴は本当に死んだのか?」
 あ。不機嫌そうに目を細める火渡。出し抜けに実力を疑われれば誰だって怒るだろう。
「いえ、火渡戦士長の火力を疑っている訳ではありませんが、敵も重々承知している筈」
 避ける術ぐらい用意しているのではないか……というのが斗貴子の具申。
「貴信。たしか特訓中に聞いたが、君の星間塵、あの効果は」
「強い力……。簡単に言えば強力な引力と斥力を操る。戮力……分子結合の力を奪い、地下のイオイソゴを吸い寄せ、更
に地上の火渡戦士長の業火めがけ弾き飛ばしたんだ!!」
 更に地下へ行けぬ様、斥力を張り続けたとも貴信は言う。
「完璧に決まっていれば……絶対……斃せている筈…………ですが」
 はて。鐶は少し腑に落ちないものを感じた。何かは分からないが
『うーーん。なんか、なんか忘れてる気がするじゃん』
 香美も同感らしく難しい声。
「まーまー、今は合流が先だヨ。剛太の介たちとの合流」



 追跡組。

「ちぃ!!!」
 ディプレスは舌打ちしていた。毒島、桜花、剛太。彼らの連携攻撃を避けたまでは良かった。だが避けきった瞬間、翼が
無数の鳥の雛に内側から食い破られた。
「敵対特性。本来は3分で自動発動だが……改善した! 3分経過もしくは対象へ充分に行き渡った後ならば、任意での
発動が可能!!」
 ただし50m圏内に近づく必要があるが……呟きながらローラースケートのような忍具(根来から演劇の最中貰った)を
駆り迫ってくる無銘をディプレスは血走った目で睨んだ。
(しくったぜ!! さっき津村に章印切り裂かれた後! 俺は兵馬俑に殴られた!!)

──「光ちゃん光ちゃん、バンダナもいいけどたまには他の帽子もどう? というかこれからショッピング行かない? ね? ね? ね?」
──「人が死に掛けてる時のん気に義妹誘ってんじゃねええええええええええええええええええええええ!!!」
── 決定打を与えたのは兵馬俑だった。頭上で組んだ拳で以て殴打した。
──「7年前の借り。返させて貰ったぞ」

(あのとき敵対特性の鱗! 既に俺の中に入っていたのかよ!!)
 グレイズィングを恨む。
(クソ! 治癒可能にも関わらず何で気付かなかったんだよ! とんだ医療ミスじゃねえかああ憂鬱!!)

 そして、切札は、動く。

 小札のロッドが金色に輝き始めた。
(おお。コレが噂の)
(『7色目・禁断の技』!!)
 御前と桜花が目を見張る中、ロバ少女は金色の炎に炙られていく。おさげが輝かしい燐粉と共に舞い上がり、たなびき始
めた。瞑目する小札に「綺麗だ。神秘的なのだ」と見惚れたのは誰あろう鳩尾無銘。

(後事を託して下さいましたもりもりさんの為に──…)

(過去を越えんと懸命に生きるヴィクトリアどのの為に──…)

 小札零は戛然と目を見開き……叫ぶ!!

「今、この声が君の心に届いてるなら!!」

 杖が舞い飛び天蓋の彼方、太陽の中で弾け飛ぶ。銀、赤、青、緑、白、黒……絢爛たる6色に変ずる無限のプリズムが
世界めがけ放射状に拡散した。空は飲まれ雲は散った。全天全周を驀進する遊色の波濤があらゆる彩度を反転させ──
やがて──、総ては──、虚空へ──、変ずる!

(天変地異かよ!!)

 俄かに暗くなった世界を剛太はただ呆然と眺め回した。

 そして。

 空間が。

 砕ける。

 余剰次元方向からきたる緑色の紐無限本が、現実世界のあらゆる映像を鏡面叩き割るかのように湧出し張り巡った。
幾何学の世界。三次元のあらゆる要素を網羅するグリッド線が那由他の正方形をもたらした。

 いつしか一同とディプレスたちの間からは建物という建物が消えうせた。黒と緑のみが支配する電脳的な空間の中、ディプ
レスは意地を賭け旋回し……小札めがけ神火飛鴉を放つ。リバースも空気弾を乱射し、クライマックスは40体近くの飛行
人形を遣わす。

(全力攻撃!!)
(今まで彼らは手加減していたんだわ!!)
(マズい!! ロバに当たったら──…)

 小札零は迫り来る脅威をただ静かに一瞥。やがて手を前へかざし……厳かに唱える。

「次元矯枉(きょうおう)モード……ゴールドマイン」

 燃え盛る翡翠と化した少女の五指から放たれた金の柱が神火飛鴉を砕き、無料大数の弾丸総て水平に斬り裂いた。
 人形達の饗宴は真空偏極の天の川と化し…………幹部達を包囲する。

 剛太はただ乾いた笑いを浮かべるしかない。包囲網が何らかの攻撃をするならまだ納得もできた。だが……しないのだ。
ただ明度を地上最大に跳ね上げたマリーゴールド色の天の川がくるくると幹部達の周りを周回しているだけなのだ。
 にも関わらず彼ら総ての解像度がジジリと爆ぜて、虚ろな、あやふやな、幽霊よりも幽玄な異質へ置き換わっていく!

(なんなんだよこの技。なんなんだ……)

 禁断の技とは聞いている。だがせいぜい火渡のような破壊力甚大の攻撃だとばかり思っていた。だがいざ目の当たりに
するとどうだろう。破壊という概念すら超越している。にも関わらず幹部達は苦悶の声をあげ震えるのだ。中央に囚われた
ヴィクトリアは首を傾げつつも平然としているのに、ブレイクもリバースもディプレスもクライマックスもグレイズィングも、大
苦患の絶叫を口から迸らせるのだ。よく分からないが理解を超えた絶対的な法則が作用しているのは明らかだった。


 小札の背後にもう1つの影があるのを桜花は確かに見た。実況好きのマジシャン少女に似た、しかし雰囲気はまったく
正反対の……『ベールの少女』を。


 そして逆算され戻る世界。


「!!!」

 ヴィクトリアが目を剥いたのは、千歳の顔が間近にあったからだ。天地逆さに吊り下がった彼女は手を差し伸べていた。
周囲取り巻く幹部たちから助けるには上方向しかなかった。彼らは虚脱している。ヴィクトリアを掴んでいたグレイズィング
の手も緩んでいる。人質の少女はそれを振りほどき、千歳の掌を握り──…


 ヘルメスドライブ起動。2人の影が掻き消える。



 我に返ったディプレスを見舞ったのは危難であった。ビル! それが眼前に迫っている!! 背中の幹部達は虚脱状態、
直進すれば激突の衝撃で放り出されるだろう。
(落下程度じゃ死なねえが! 戦士どもが狙っている! 空中で身動きできねえグレイズィングに一斉攻撃ぐらいするだろ!
ビル! 分解して突っ切……なっ!? 神火飛鴉が出ない!? 小札の技の後遺症か!!? )
 旋回しようにも体もまた動かない。迫るビル。視界の片隅に映る戦士と音楽隊は各々の武器を構えている。幹部が1人でも
投げ出されれば集中砲火が向くだろう。
(舐めやがって!! 俺が取りこぼすと見くびりやがって!!!) 
 ディプレス=シンカヒアは小者である。弱者を甚振るコトはできても、強者にはまるで歯が立たない。卑劣で、自堕落で、
無気力で、他者の足を引くコトしか念頭にない、見本のような小者である。
 だが。
(仲間ァ見殺しにしてみろ!! ますます蔑まれ小馬鹿にされるだろうが!!!)
 小者にも小者なりの意地がある。残る力を振り絞り水平軸を轟然と回転。舞い上がる仲間達を胸に抱え翼で覆った。同時
に凄まじい衝撃が走る。ビルに激突したのだ。錬金術製でないため致命傷にはならないが、それでも小型飛行機並みの激突
だ、肺腑が圧搾され耐えがたい窒息に見舞われた。更に戦士たちは矢や戦輪、銅拍子といった飛び道具をここぞとばかり
投擲する。
 敵対特性に見舞われていた翼から力が抜ける。クライマックスの顔が露出した。放って置けば攻撃は彼女にも及ぶだろう。
そして冥王星の幹部は……正直大した戦力ではない。無気力が告げる。痛い思いをして守ってやっても何にもならない、
翼が痛いんだろ、大人しく下げろ、そういう生き方だっただろう……と。
(ザケんな……!!)
 血走った目で第二波を見ながら、思う。
「こちとら秋水のせいでヘタれて鬱抱えまくってんだよ!!! 情けねえ!! ああ情けねえともさ!! だがそんな情けねえ
俺にだって矜持ぐらい……あんだよ!! 弱者は甚振るし出し抜くし弄ぶ!!! そこだきゃあぜってえ……諦めねえ!! 
敵の力量が俺より劣る限りはぜってえぜってえ諦めねえ!!! 嘲け笑うぜ! 諦めねえ!!」
 翼を強引に持ち直す。ググっという無理のある行動はしかし、迫る矢から黒縁メガネのアラサーの顔をしっかりと守った。
 毒島が飛翔し可燃性ガスを浴びせかける。それは猛毒をも含んでおり、火矢で炎上するディプレスの全身をおぞましい紫
色に蝕んだ。
「ハッ!! どうした毒島ァ!! それが最強か!! 俺ぁまだ生きてるし他の幹部にゃ達してもいねえ!! 撃てよ!! 
桜花に剛太に無銘!! ほかの幹部の喰い残しどもが!! ここぞとばかり好きなだけ撃ってみな!! 他の幹部にゃ
ぜってえ通させねえ!! 出し抜かれるなんざまっぴら御免だ!! 耐えてやる!! 我慢ならねえ!!」
 百本の矢が刺さろうが戦輪が苛烈に掠ろうが銅拍子で足を切断しようが、小者は大きなクチバシを開けて、笑う、笑う、
笑う。決して仲間への親愛のためそうしているのではない。ただの……虚勢だ。見下されたくないばかりに身の丈に合わぬ
行動を選択し、勝手に滅びの道を辿っている。
 やがて意識を手放した彼が、それでも幹部達を抱えたまま落ち始めた時……。

「ひひっ。ようやったでぃぷれす! 貴様のお陰で我が悲願ついに成る!!」

 円を重ねた特殊な磁場がビルの麓から巻き上がり、ハシビロコウの落下速度が緩和した。

「!! この声!! イオイソゴか!!?」
 憤然たる無銘の声に答えるように、羽根の間から黒い塊がベっと吐き出され人の形になった。
「おうともよ。正真正銘のわし……。もっとも肉は朋輩から大分失敬したがの。ひひっ」
 ありえない。そういう声が毒島から上がった。遥か後方で秋水たちを足止めしているはずの彼女が何故ココに?
「まさか……秋水クンたち…………全滅…………?」
 キョトリと瞬きした稚い老婆は口の端をいかにも狡猾そうに歪めた。無銘との距離、およそ8m。
「いんや。黒白でいうならわしこそ黒よ。ひひっ。ぶれいずおぶぐろーりー、貴信めの思わぬ覚醒にて正に死ぬほど浴びせら
れたわ」
「だったら何故生きてるんだよ!! 戦団最強の攻撃力を受けて! なんで俺達に追いつけるんだよ!」
「そこじゃよ」。彼女は楽しげに指差した。
「まず若人よ。ヌシゃ問題の根本をそもそも履き違えておる。わしは『追いついた』のではない。『秋水たちめを足止めし始め
た時から既にぐれいじんぐ達と同行していた』……じゃよ」
 不可解な物言いだ。そもそもイオイソゴは、グレイズィングたちの逃げる暇を稼ぐべく踏みとどまったのではないのか? それ
が「足止めし始めた頃、逃がすべき対象たちと同行していた」などとはまったく異次元的な物言いだ。
「任意車」
「え」
 剛太の問いに無銘は答える。
「魂を乗り移らせる忍法だ。他にも色々あるが、分裂可能なものとくれば咄嗟にそれしか思い浮かばない」
「ひひっ。ご名答。ま、本家本元とは色々異なるゆえ”もどき”をつけるが、ともかくも任意車によって我が魂は六分(ろくぶ)
だけグレイズィングに乗り移っていた訳じゃよ」
(だが……いつの間に仕掛けた? 本来は交合が必要な忍法……。奴なりの改良があるにせよ、何がしかの肉体もしくは
体液の授与がなければ発動しないはず……)
 まさか。無銘は思い出す。ディプレスを兵馬俑で殴り地上へ叩き落した時のコトを。
(あのとき我が敵対特性を仕掛けたように……あやつも──────!?)

── 粒子を散らしながら街区へ落ちていくハシビロコウに一瞥だけ送り、貴信はヴィクトリアめがけ……鎖を伸ばした。

──「ひひっ。そうはさせんよ」

 つぶてが幾つか、斗貴子たちの周囲を掠めた。

──「ぐれいずぃんぐよ。助勢してやる。手筈どおりにやれい」


── 呼ばわれた女医の手もまた溶けた。肌色の蝋のごとく溶けた。にもかかわらず彼女はニマリと笑った。


── ねずみ色の粘塊と化したディプレスが、地上めがけ垂直に落ちていた筈の火星の幹部が、宙に向かって轟然と跳ね上がった。
── 鐶でさえ追いつけない速度だった。一瞬の出来事だった。ディプレスだった不定形なスライムが、グレイズィングにばしゃりとブ
──ツかり飛沫を散らし──…
── 衛生兵と接触した。


(あの耆著だ! あの耆著はディプレス救命だけではない!! 溶けたイオイソゴが肉体の一部をグレイズィングへ移譲し、
魂を保全する措置でもあった!!)
 何と言う策謀であろう。彼女は戦いが始まったとき既に我が身の安全を図っていたのだ。一体誰がそれに気付けよう。
仲間を助けるという行為は普通それだけで完結しているものなのだ。それ以上の意味など無銘の師父たる総角でさえ見
抜けぬであろう。……。かくしてただなる救命の活動にまぎれイオイソゴはまんまと負けを消した。
 なにしろ乗り移った者は……グレイズィング。恐らくかの空前絶後の蘇生能力は、肉片1つあれば復元が可能なのだろう。
いやそもそもイオイソゴは先ほど「肉は朋輩から大分失敬したがの」と言った。つまり磁性流体と化した仲間の肉体と融合し、
拝借すれば、衛生兵なしの自力復活さえ可能というコトだ。
(原点から考えるに有り得ぬコトだが、奴は恐らくグレイズィングに潜り込んだ肉片を『本体』としたに違いない。そして本体
でない方の魂は……死ねば本体と合流する)
 つまりブレイズオブグローリーで焼かれたイオイソゴの魂が、いま無銘の眼前にいるイオイソゴの元に参集する。
 現に足止組の記憶を有しているではないか。「ぶれいずおぶぐろーりーに焼かれた」。そう言っている。
 にも関わらず、生きているのだ。彼女は。
(足止めされた者たちは結局最初から勝ち目などなかったのだ……)
 どれほど死力を尽くしてもイオイソゴは……死なない。何を出そうが損なのだ、手の内を見られるだけなのだ。
「ま、逆転された時の慄きが演技などという無粋は言わんよ。四分(よんぶ)とはいえ我が魂……殺されるのは恐ろしい。
ついでに言えば肉体の大部分はあちらにあった故、身体能力はおよそ9割……ひひっ。四分……これは九分九厘という
意味合いでの四分……即ち4割程度の実力とも言わん。総合的にいえば足止めしておったのは8〜9割の実力…………
ほぼ平常状態のわしじゃよ」
 そして。
 呟きと共に無銘の傍の空間が歪み、千歳とヴィクトリアが現れた。
 能力的に言って遠くへ跳躍すべき彼女らが何故来たのか……千歳の顔を見た無銘は戦慄と共に納得する。
 彼女の目は閉じられていた。

 わずかに、ごく僅かにだが、黒い液体が眦から滲んでいる──…

「イオイソゴ!! 貴様!!」
「ひひっ。おうよ。それが悲願よ」

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・      ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・    ・ ・ ・ ・
「根来の朋輩の!! 千歳さんの両目を! 潰したな!!」


「なっ」。剛太は呻き……桜花は気付く。
(ヘルメスドライブ封じ!! 幹部達が顔を見られ不意打ちされるのを……防いだんだわ!)
(跳躍も探索も、相手の顔を知らねばできないコト! つまり! 目が見えないというコトは!)
(幹部達の顔を新たに登録できないというコト!)
 ヴィクトリアも蒼然とした。戦士は嫌いだ。確かに嫌いだ。だが千歳には今しがた……助けてもらった。助けたがゆえに
彼女は光を失くした。これでなお嘲るのならそれこそヴィクトリアは、100年前の戦団と同じになる。
「安心せい。耆著を撃ち込んだだけじゃよ。わしを殺すか……解除させれば元に戻る」
 言葉を信じるなら、あくまで磁性流体化しただけのようだ。
「これぞ忍法、七夜盲もどき。──。ひひっ」
 悠然と語るイオイソゴ。しかし打ち込んだ刹那顔を見られているのであればたちどころに捕捉されるのではないか?

「……いえ。彼女は腕だけ出して撃ち込んできたわ。顔は見えなかった」
「念のため聞くが、足止めされた者たちの戦いは……」
 見ていない。千歳は首を振った。
 当時彼女は職員達の護衛やヴィクトリアのモニタリングにリソースを裂いていたという。そのため……見ていない。イオイ
ソゴはその辺りも踏まえ素顔を晒したのだろう。

「ひひっ。どうする無銘。根来めと組んでわしを討つか? ん?」
(奴め。根来に何かされたな)
 先ほどイオイソゴは「ブレイズオブグローリーに焼かれた」と言った。攻撃力と範囲は無銘も知っている。味方殺し必須の
おぞましい能力だ。なれば秋水達も巻き込まれそうな物だが……。根来は有能なのだ。養護施設の護衛などとっくに片付
け、時間的に来るであろう火渡の補佐と抑えに回り、きたる救出作戦に向けて戦力を温存するのは、演劇で語らった無銘
だからこそ直感で分かる。
 だから根来とイオイソゴの間に、間接的な、忍同士の争いがあったのは明らかだ。詳細は不明だが、火渡の武装錬金を
喰らうに至った理由の1つは根来と見ていい。
(つまりだ。奴は報復を考えている! 根来の朋輩たる千歳さんを失明させ、且つ、己を斃さぬ限り解除が無い状況を作り
だし、わずかだが平常心と冷静さを欠いた根来につけこみ……ブレイズオブグローリーを喰らわされた屈辱を…………
晴らそうとしている!!)
 黒々とした笑みを浮かべる稚い老女。忍びとして、絶対的な差を無銘は感じた。
 やるコトなすコト総てが罠。戦いの場に来た時点で既に勝負をつけているという恐ろしい狡猾さ、一体如何にすれば打破
できるのか。
 無銘は持てる忍法の総てを検証し勝ち目を探る、何をやっても敗亡の道しか浮かばない。根来と組んだ場合でもそれは
同じだ。頼りになる先達は恐らく千歳の件で……怒るだろう。復讐に滾る無銘との怒りに燃える根来。格好のエサではない
か。
(……だが負ける訳にはいかん! 復讐は果たす! でなければ何のために辛い修行に耐えてきたのだ! 読み合いの
ため新人戦士と剣術も稽古した! 演劇とて、特効とて我はこやつを打破するためにと──…)

 思考が、止まる。

(そういえば根来との演出勝負のとき、我は思った)

──(変則的な忍法勝負だが戦闘と異なるのがいい。我の仇の1人イオイソゴは戦歴無限の魔人と聞くが着想はそれだけだ。
──戦闘とは視点を異にする柔軟性を得なければ奴を突き崩すコト叶わずだ!)
── 人を殺めるのではなく楽しませる。劇の骨子はそこだ。自らを削ってでも他者を利さんとする「正心」こそ糸口だと無銘は
──思っている。

(………………)
 牙城を突き崩す手段が、1つだけ浮かんだ。
 だがそれは……ようやく得たものを失うコトに他ならなかった。
 自らを削ってでも他者を利さんとする「正心」こそ糸口……そう理性では分かっていても、感情が納得しなかった。
(1ヶ月足らずなのだぞ。やっと手に入れて、これからという時で、今が一番楽しい時なのに…………)
 震えが走る。細胞という細胞が絶叫する。してはならない。他にも手段がある筈だ。やってなお負けたらどうするのだ。
 弱い心の呻きがそう囁く。
 無銘はまだ……10歳なのだ。同年代の人間のほとんどは、恐怖も喪失も知らず暖かな世界に生きている。
「無理は禁物でありましょう。無銘くん」
 暖かな感触が肩にかかった。振り返れば小札が両腕を回している。おさげが首筋にあたるのがムズ痒かった。
「母上……」
「無銘くんなれば、きっと焦らずともいい案が浮かぶと不肖は思うのです。焦るあまり辛いコト選ばぬよう」
 7色目の反動だろうか。やや血色の褪せた彼女は、それでもニコリと笑いかけた。

 その笑顔と、無銘のどぎまぎする表情を見たイオイソゴが、なぜか寂寥に彩られたのを見たものは……誰もいない。


 ビルの壁面に扉が生まれた。

『だあもう。アホが。また無茶しよって! 必要ないやろがいボケ!!』
『ったく面倒臭いなあ。総角のせいで送迎1つとっても難儀だよ…………』

 建物を書き割りの如く開いた扉の虚無の向こうにディプレスたちが吸い込まれた。

 イオイソゴは振り返ると、ニタリと笑った。

「今度こそ本当に撤退じゃの」

 踵を返しゆっくりと扉へ歩いていくイオイソゴ。
 最善手を打てる時間は残り少ない。
 そのひりついた時間の中で無銘は。
(…………)
 蘇る心痛に胸を押さえていた。

 生まれて初めて繋がりを感じた少女の体に総角の一刀が吸い込まれるのをただ黙ってみていた。

 異形の体で、本当の親も知らず、養父母たる総角と小札に「人の姿になりたい」と泣いてワガママをいい、困らせて、彼
らとの繋がりさえも薄れかけた時に出逢った少女……ミッドナイト。
 無銘は、ゆかりある彼女を助けられなかった。ケジメさえ総角に放り投げた。……自分でつけられなかった。

 鐶を助け、肩入れするのは、1つにはそういう後悔があるからだ。

(……悲劇はもう沢山だ。我を犬の体にした、イオイソゴたちのような存在が居る限り、母上や、ミッドナイトや、鐶のような
被害者達が生まれ続ける)

 問題の根本はそこなのだ。自分に問う。己だけが幸福を味わい、同じ惨禍に見舞われる者たちを見捨てる…………
果たしてそれでいいのかと。

(いや!)
 隠し持っていた忍者刀を抜き放つ。立ち向かうのか? 生唾を飲む剛太たち。
 振り返るイオイソゴの顔は喜悦に歪む。

 次の瞬間迸った剣閃は!!

 鳩尾無銘の左腕を、肩の付け根ごと斬り飛ばしていた!!

「────────────────────────────!!!」
 声にならない叫びを上げる戦士達。イオイソゴの攻撃でないコトは、彼女さえも口をぽかりと開けているコトからも明らかだ。
「ぐっ」
 無銘は呻きながら、血滴る刀を地に落とし、代わりに宙舞う己が左腕を掴み取る。
「むっむーが……」
「自分の腕を……斬り落とした…………?」
 口に手を当て震えるほか無い桜花。肩口から滝のように血が溢れる様子にさしもの剛太も血相を変えた。
「ば、馬鹿っ! 何やってんだニンジャ小僧! 気でも狂ったのかよ!!」
「と、とにかくマシンガンシャッフルで繋げますゆえそのまま──…」
 杖を──さっき散った筈だがどうやら7色目終了と同時に復元したらしい──を差し出す小札を無銘は目で制した。

 そして……吼える。

「我を喰いたいと吐かしたなイオイソゴ=キシャク!!!」

「望みどおり!! 喰らうがいいーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」

 轟然たる勢いで投げられた少年忍者の左腕は、揃った指先からイオイソゴの口の中へ埋没した。目を白黒とさせていた
彼女だが、10年来の念願、喰いたいと話した無銘の一部が口に入るや食いちぎり、ゴリゴリと咀嚼を始めた。地獄のよう
な風景に剛太も桜花も思わず目を背けた。怪物然とした存在がそれをやるならまだ白眼視もできようが、見た目だけなら
愛らしいイオイソゴが肉を齧り骨を噛み砕く様は、美醜揃っているからこそ却って酸鼻、惨たらしいものがある。

 やがて喰い終わったイオイソゴ、一種放心した表情で無銘を眺めた。艶然としているような、獲物を狙うヘビのような筆舌
に尽くしがたい不気味な顔付きだ。

「次があるなら我を狙え。必ず狙え。今しがたの味、10年来焦がれた味……他の幹部に渡すは惜しいだろう」

 血を失い青ざめた顔で問い掛ける。
 聞こえたようだ。イオイソゴ=キシャクは、涎だけを溢れさせると、死びとのような足取りでディプレスたちを追った。

 そして扉が閉じ、元の空間が戻ってきた瞬間、追跡組の戦士たちに僅かだが安堵が過ぎる。

「撤退……したようね」
 桜花は構えたまま呟く。それでも毒島や剛太、無銘といった用心深い連中は、秋水たちが合流するまでの7分間、その場に
留まり周囲を警戒し続けていた。

◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ 

 聖サンジェルマン病院

「養護施設ですが、職員さんたちは最寄の病院に搬送。重傷者・行方不明者・死亡者、総てゼロです。建物の方は鐶さんの
武装錬金で1年前の姿に復元済み。数日は消防警察の検証で使えませんが、それを過ぎれば皆さん元の生活に戻れます」
「…………」
 ロビーで火渡はブスリとしていた。毒島は慣れているらしく、手短に報告を終えていく。
「ゴーストタウンの方はビル半壊や路面損傷、火渡様のブレイズオブグローリーの直撃と物的被害多数ですが、死傷者はなし。
事後処理班が修理について市に打診しましたが、近日中に大々的な取り壊しがあるため現状のままで構わないとのコトです」
「…………」
「最後にディプレスが衝突したビルは小札さんの武装錬金で治せる程度の損傷です。こちらも人的被害はありません」
 街で起きた小規模な爆発も爆竹が炸裂した程度。ケガ人もなく修理費も些少。……とにかく幹部6人と交戦したのが嘘な
ほど街は無事だ。にも関わらず火渡は不機嫌そうだ。
「やはり心配ですか。戦士・千歳のコト」
 舌打ちしながら火渡は呟く。
「両目を潰されたようだが知ったこっちゃねえよ。あいつの不手際だろうが」
 だが皺の寄った苦痛の表情に毒島は気付く。

(もっと早く追跡組に合流できていれば……戦士・千歳を守れたのに……。そういう顔ですね)



 病室。

 両目を包帯で覆った千歳はベッドの上で根来に答える。
「後方への物資ならびに人員の運搬は可能よ。操作できる。私の武装錬金ですもの」
「そうか」
「戦闘は……少し訓練が必要ね。瞬間移動での撹乱ぐらいなら…………できるようにするわ」
「そうか」

 見舞いを終えた根来は病室を出て扉を閉じる。
「お。やっぱり来たか」。俺も見舞いだが様子はどうだ……そう聞きかけた剛太はギョっとした。



(イオイソゴ=キシャク──────────────)



 歩いて去っていく彼を見送りながら剛太は胸に手を当てた。呼吸は激しい。戦慄も収まらない。


(ア、アイツ、あんな顔もするのかよ)

(あんな、あんなブチ切れた表情……初めて見た)

(ブラボーと同じぐらい……怒ってるな)


 救出作戦直前、根来忍は…………消息を絶つ。
 その意図を理解したのは鳩尾無銘ただ1人。


 診察室前の長椅子。

「そんな…………」
 鐶もまた愕然としていた。隻腕の無銘。見ただけで泣きそうになった。
「泣くな。うっとうしい。我が自ら選んだコトだ」
「け! けど! 無銘くん、自分の腕でいろいろやるの楽しいって……言ってた…………じゃないですか……。それを……
自分で…………捨てるなんて…………捨てるなんて……」
 涙声になっているのに気付いて慌てて黙る。泣くなと言われたのに泣いている自分が恥ずかしかった。
(小札さんなら……尊重して…………励ませるのに…………私は……泣くだけ……で……無銘くんに何も……何も……
してあげられない…………です)
「んっ」
 ちょっと怒ったような声で無銘は蘇芳染めの手拭い──忍び六具の1つだ──を差し出した。浅黒い肌がツンとそっぽを
向いている辺り心証は悪いらしい。でもなんだかそれが無言の答えのような気がして、鐶はちょっとはにかんだ。
「あの…………私なんかで……良かったら…………使っていい……ですよ……?」
 そっと両手で彼の右手を包む。不自由だったら頼って欲しい、精一杯の真心に、小札にその役まで取られたらどうしよう
という不安を織り交ぜつつじっと見ると、無銘は少しだけ赤くなった。
「…………勝手にしろ」
 手で色々やるのが好きなのだ。だから鐶の「助ける」という提言は的外れといえば的外れだ。にも関わらず反論しないとこ
ろを見ると、無銘は無銘なりに整理がついているらしい。
「いいか。我が左腕を犠牲にしたのは、隙の無いイオイソゴに隙を作るためだ」
「はい…………。戦って分かりましたが…………あの人は…………とんでもなく……厄介…………です。頭を使った戦い
なら……多分……レティクルの中でも……1、2を争う……問題児……です」
 そうだ。右腕で膝を叩く無銘。左肩には包帯。再生はしていない。術がない。
「だが……我の味を知れば、奴は必ず……食欲を催す」
「……秋水さん相手でも…………食欲出して…………しくじっていました……から…………」
「そうだ。相手の欲求につけこむのは忍びの基本中の基本。どうにか我が左腕をエサに…………奴の判断を狂わせる他
……道はない」

 無銘も根来も恩讐に目が曇っているのだ。イオイソゴにも同じ条件を課さねば……勝てない。

(隻腕なればタイ捨流の修練……半分ほどは無駄になるやも知れん。だがそうしてでもやる価値はある……。奴は必ず……
惑う。これぞ我が忍法……。演劇によって編み出した……”自らを削ってでも他者を利さんとする「正心」”よ)



「ビーフジャーキー……食べます?」
「……おうよ」

 とりあえず無銘は好物を貰った。鐶とのそういうやり取りは、忍びの苦界における数少ない安らぎだった。


 地下50階。
「あ……違和感の正体…………分かりました……。核鉄…………です……。イソゴさん焼かれたのに……核鉄残ってなかっ
たのが……不思議……でした」
「焼いても溶けんらしいし、ないのヘンじゃん」
「姉さんや無銘たちの前に現れたイオイソゴの本体。そちらが持っていたようだな」
 秋水は納得した。

 ところで戦士一同は帰参の際、根来の武装錬金にて除染を行っている。それはヴィクトリアも同じだ。
 どうもマレフィックアースの器たらぬ気配が濃厚だが、一度は攫われたかけた身、念のためまひろたちと同じ場所に移さ
れた。

「で、結局……パピヨンはどうなったの?」
 分からない。秋水は首を振るしかない。

「敵と何らかの交戦があったのは確かだ。銀成市に残る戦士達で調べてみようと思う。アジトはどこだ?」

 ヴィクトリアは嘆息しつつ、所在を教えた。
 研究内容はバレるし、パピヨンの不興も買うだろう。

 だが──…

(アイツ……体弱いもん。怒るでしょうけど、助けを向けなきゃ…………死んじゃうかも……知れないし)

 背に腹は変えられない。断蝶の思いで探索を依頼した。




 そして時間は巻き戻る。



 即興劇が繰り広げられていた頃、果たしてパピヨンの身に何が起こっていたのか?



【9月16日・劇開始1時間前】

「ここがパピヨンの研究室(ラボ)であるか」

 リヴォルハイン=ピエムエスシーズが歩を進めると、何かの薬品だろうか、白煙が裂かれパイプが覗いた。木の根のよ
うに張り巡らされたそれは大小さまざまのフラスコに続いている。
 その中で、最も真新しい物へつま先を向けた彼の前に、影が5つ現れた。闇の中から沸いたと見まごうばかりに静かに
現れたのは男女だ。エリート風の中年男性、顔付きも体格も暴力的な若い男、濃密な花粉の匂いを漂わす美女、ニタニタ
と笑うマッシュルームヘアーの青年、そして峻厳な雰囲気の男。
 服装も年齢のバラバラの彼らは、しかし敵意だけは一致させリヴォルハインを睨みすえた。
「創造主の留守を狙う……。迷い人じゃないな?」
「どこから来やがった。何が狙いだ?」
「殺しはしないわ。けど」
「ボコってポイ! ぐらい……しちゃうよオオオオオ〜〜?」
「命により……侵入者は排除する」

 一座を見渡したリヴォルハインが得意気に微笑したのを皮切りに──…

 巳田、猿渡、花房、蛙井、鷲尾。

 動物型ホムンクルスへと姿を変えたパピヨン麾下が一斉に飛びかかる!





「お腹鳴った! ちょっと待っててねオニギリあげるから」
 壊すつもりだった演劇部への感情が変わったのは、まひろの笑顔を見た瞬間だった。

(…………重ねるな。コイツは違う。あの男の代わりになれる者など存在しない)

 パピヨンは内心忌々しげに舌打ちした。


 カズキが月に消えてからこっち、彼はどうしようもなく苛ついていた。ヘドロとマグマを煮詰めたような黒く熱い激情が、今
にも黒色火薬という形で世界に降り注いでいきそうな気持ちをずっと抱えていた。夜、天空から街区を見下ろす。何も知ら
ない連中が、せせら笑いにしか聞こえない声を上げながらまったく代わり映えしない退屈な日常を満喫していた。それがパ
ピヨンには腹立たしかった。
(あの男が、武藤カズキが守ろうとしたのはこの程度の物なのか)
 民衆が自己犠牲に答え何か供出するコトは求めていない。そんな感情は、病魔に襲われてからこっち捨て去っている。
他者はどうせ何も返さない。無数の絶望の中でそう悟り……自分以外を有象無象と見下すようになった。だから、何も知ら
ない眼下の人間たちには期待しない。身を削り、カズキにその犠牲の一厘でも返済する道徳的な感動話などは一切期待
していない。
 不服だったのは……カズキが、自分との決着よりも「世界」なる有象無象の巣窟の守護を選んだコトだ。
 決着を条件に、パピヨンは彼の再人間化を約束した。にも関わらず……去られた。ヴィクターと共に、月へと。

 唯一名前を呼んだ男に裏切られた。失意と無念、特別視していたが故の激しい怒りに駆られたまま、パピヨンはしばらく
世界をさまよう。

 雨上がりの夜だった。飲み会を終えたらしい若者達が街の一角で騒いでいた。ニアデスハピネスで飛んでいたパピヨンは
じっとそれを見下ろしていた。ネオンと電飾とビルの照明に彩られた鮮やかな夜景の中でじっと街を眺めていた。若者たちが
去った。時間が流れ人通りが途絶えた。欠けた月を映す水溜りに波紋が走った。風。空しい響きを奏でる風の中で、
「つまらん」
 吐き捨てるように言った。
「ここには何も無い。武藤カズキのいないこの世界など……」
 世界に溢れているのは、到底彼に比肩しうる物ではなかった。
 守られた人々は、死の危機も、存在を透明にされる黙殺も、能力で遥か劣る連中からの悪罵も、その哀惜と孤独に付け
込んだ甘い騙詐の裏切りも、絶望を覆す凄絶なエゴも、名前を呼ばれた喜びも、先達を見事降したカタルシスも……何も
持ってはいないのだ。カズキは月へ消えた。彼に何か返せとは言わない。犠牲にそぐうだけの進歩を遂げろとも言わない。
守られるべき人間たちなど……どうでもいいのだパピヨンは。死の恐怖に怯える自分へずっと何ももたらさなかった連中に、
救いなど何一つ与えなかった連中に、今さら何か期待するつもりは一切ない。民衆がどれほど辛辣な言葉をカズキに投げた
としても……嘲るだけだ。連中の本質を見抜けぬまま守ろうとしたカズキの愚かさも、自分では何もできない癖に大口を叩
く連中も、揃ってまとめて嘲け笑ってやるだけだ。
 重要なのは結局、羽撃(はばた)く機会を永遠に奪われた、その一点だけだ。彼はカズキと決着をつけて……脱皮したい。
醜いイモ虫から華麗なる蝶々(パピヨン)に。されど認める男は月へと消えた。進化と向上と変態の儀式、カズキとの甘く
激しい戦いを消してまで世界が選び取ったものはなんだ? つまらない街。つまらない人間。つまらない日常……。それだ
けだ。たったそれだけだ。空虚な世界を見るパピヨンが濁った歪曲の感情図をドス黒く沸騰させるのは、やっと訪れた華麗
なる転生の機会を奪われ絶望する自分の前で、臨死すら知らぬ平々凡々たる連中が、従前の通り何の発展もない生活を
楽しげに謳歌しているからだ。なに1つ己の手で勝ち取るコトができない連中が、守られて、ぬくぬくと。

 カズキを最も理解し、執着していると自負する己が彼から最高最後のプレゼントを贈られず。

 カズキなどまったく知らず、知ったとしても乏しい知性でしたり顔で「他の手段あったんじゃないの? 月に行くとか無駄
じゃね?」とせせら笑いそうな愚物どもが……平穏という、彼らにとってのみ最高の代物を保証されている。

 その構図が……どうしても許せなかった。

「こんな世界など……!!」

 激発を湛えた口調で戦慄き……右拳を見る。念ずれば黒死の蝶など幾らでも出るだろう。カズキとの決着があったれば
こそ抑えられていた破壊衝動が蘇る。「名前1つ呼ばない凍えた世界。蝶特大の篝火を焚こう」。そう叫んだのはいつだった
か。
(今ならばできる。どうせもう止める男もいない。俺を止められる者など…………)
 だが……気付く。眼下に広がる街を炎の海にし、有象無象どもを殺し尽くしたとして…………、一体何が残るというのか。
 世界はずっとパピヨンに何ももたらさなかった。ならば……思うさま破壊の限りを尽くしたとしても、望む物は結局…………
1つたりと与えないのではないか? 自分とカズキ以外は所詮つまらぬ雑事なのだ。雑事が燃焼ひとつするだけで価値ある
物に変ずるのか? しないだろう。炎1つで、殺戮1つで改悛しパピヨンの益になるなら苦労はしない。「次郎」「次郎」「次郎
サン」。殺される黒服の愚かな認識は死ぬまで蝶野攻爵に向かなかった。殺す程度では駄目なのだ。生かして、上回って、
華麗に羽撃かぬ限り、視線を注がせない限り…………安らぎはしないだろう。
 病魔を得てより5年間ずっと苦しみ続けてきた心も、疲れきった魂も……安らがない。

 つまるところ、欲しい物は自ら奪い取らなければならないのだ。
 世界にひしめく有象無象は、パピヨンから見れば無能すぎる。殺されてなお与えないのだ。
 ならば殺す以上の手段を捻出し、奪い取る。

 奪い取るにはどうすればいいか? 結論は出ている。上回り、華麗に羽撃く。
 考えられるうる限り、美しく……変態して!

「武藤……カズキ」

 真の意味で救いうる男の、自分を最高に変態させうる男を呼び、月を見る。街を見下すのをやめ……月を、見上げる。
 ただ……上を。

 これまでも、そしてこれからも。
 少し羽撃いた彼は、それからしばらく決着のため全国を巡る。白い核鉄。カズキを元に戻す手段を求めて。
 時はちょうど戦士と音楽隊が争っている頃。


 ニュートンアップル女学院地下にいるであろうヴィクトリアを頼れば、製法など即座に分かっただろう。

 だが自負に溢れる男というのは、往々にしてまず独力でどうにかしようとする物だ。
 ゆえにまず、 あちこちで浮名を上げている共同体を毎日のように襲撃し、研究成果を奪い取った。
(のーみそにすら作れたんだ。この蝶・天才たる俺にできない筈がない!)
 だが殲滅する共同体のもたらす知識は……驚くほど拙い。白い核鉄はおろか植物型ホムンクルスの培養すら不完全とい
う有様だ。
(話にならん!)
 くわっと両目を濁らせて、煙立つ弱小共同体のアジトを後にするとパピヨンは。

 不本意ながら女学院へ。

(どうせ武藤カズキを月から戻す算段も整えなければならない。既に確立された手段なら奪う方が手っ取り早い!!)

 自意識の塊ゆえの不能率をやらかしたのが裏目に出た。

「髪を筒に通した女のコ? さあ。最近見ないけど」

 妖精さんと慕ってくる理事長の令嬢は笑顔で答えた。探しても探してもヴィクトリアはいない。(俺が探している時に何故
いない!)、くわっと両目を濁らせながら不機嫌全開であちこち聞きまわっているうちに……千歳や秋水の影に気付く。

(……銀成か!!)

 灯台何とやら。またもくわっと(略)怒っていると女学院ロビーのテレビが見慣れた光景を映した。


「というように、ココ銀成市だけが朝になっているというこの状況、各所の懸命な究明活動にもかかわらずいまだその原因
は判明しておりません」
 押倉、という名のリポーターが駅前から中継をしていた。
「なお、この不可思議な現象により銀成市経由のバス・鉄道は大幅にダイヤが乱れています」
 取り立てて特徴はないが一部の奥様たちには「カワイイ」とそこそこ好評な押倉さんは駅前から市街に歩を進めると、日
曜休業の本屋さんがシャッターを閉めたり、逆に夕方店じまいの床屋さんが慌ただしく開業準備に追われたりする様子を
つまびらかにリポートした。
「と、市民の方々が混乱する中、ダイヤの乱れにも関わらず、市街はこの不可思議な時間変動を一目見ようと駆けつけて
きた人々で溢れています」


「何があった?」
 テレビに食い入るよう見入っていた女生徒の群れに話しかけると「あ、妖精さん!」歓声と共に返事が飛んできた。
「なんかー、時間が進んでるようですよー」
「今日9月3日なのに、あっちは9月4日なんですって」
「フム」
 顎に手を当て思案顔をする。すっかり銀成からパピヨンに関心の移った女生徒たちは目をハートマークにしながら食事
の誘いをしてきたが……やんわりと断る。
「お誘いは嬉しいが、生憎急用ができてね。またの機会というコトで」
「ハイ!」
 声を聞きながら窓を開け、飛び立つ。「やはりここの生徒は蝶・見る目がある」。しばらく悦に浸ったが、頬をさっと引き締め
て加速、天空に刺さる錐と化した。
(どうやら何か起こっているらしいな。となると戦士どもも駆けつけて然るべき)
 ヴィクトリアが彼らの庇護もしくは監視下に置かれているのは容易に想像できた。秋水が……ごく僅かの間とはいえL・X・E
の同僚だった元信奉者が一枚噛んでいるとなると、戦団の日本支部に護送というコトはないだろう。
 雲の上を飛ぶ。辺りは夕方の茜色に染まっているが、成程たしかに銀成方面が異様な朝の明るさを帯びていた。
(ヴィクターの娘……戦士どもに探している旨伝えれば、勝手に向こうから来るだろう。探すのはもう飽きたしな)
 時間的にいえば探したのは半日程度なのだが、移り気で、無関心な事柄にはひたすら横着なパピヨンだ。飽きたと感じ
ればさっさと放棄する魅惑的な悪癖がある。
 そして。

「生憎この会場(まち)は蝶・特大のかがり火に彩られる超人生誕祭が予約済みでね」

「まずは最も無礼な主催者様から御退場願おうか!」

 戦士と音楽隊、ムーンフェイスの三つ巴に乱入。月を撃滅し、ついでに「もう1つの調整体」を入手し──…

「まず探すべきは──…」

「この街に来たというヴィクターの娘だ!」

 戦士経由でまんまとヴィクトリアを呼び寄せた。

「お久しぶりの挨拶はここまで。悪いけどしばらく私のやりたい事に付き合ってもらうわよ」
「事情が事情だ。貴様は父親を人間に戻したい訳だ。戻しさえすれば少なくても再殺対象からは外れるからな」

 白い核鉄の精製が始まった。
 基盤(ベース)は三つ巴への乱入で手に入れた「もう1つの調整体」。バタフライの遺産。

 研究は順調だった。だが……時折どうしようもない不安に駆られた。

『例え白い核鉄が完成しても、カズキは帰って来ないのではないか』という不安が。

 信じてはいる。だが信じても裏切るのが世界だ。これまで健康も存在意義も奪い去った世界が、果たしてカズキを無事返
してくれるのだろうか。どれほど懸命に帰還のための手段を講じても、死という結果をもたらすのではないか……頭が良く、
形質が暗いからこそ悲観的な予想を描いてしまう。帰ってこなければパピヨンは永遠に羽撃けない。
 つまりカズキが月にいる限り、パピヨンはイモ虫なのだ。永遠に華麗なる変身を遂げられない。
 それでもまだ決着をつけたいという一念だけなら許容できた。死なれたら生き返らせればいい……己の死を克服し、白い
核鉄さえ作り上げるであろう自分なのだ、今さら人間の死という月並みすぎる課題など問題ではない。「死なれたら生き返
せる、どこへ行かれようと取り戻して人間にして決着をつける」。ただそれだけの解答を出せばいいだけだ。
 なのに……月を思い出すたび心はかき乱される。

 天才を自称できる頭脳があるからこそ…………なぜ乱れてしまうか薄々感づいてしまった。



 唯一名前を呼んでくれる男が、いなくなった。

 それが堪らなく……寂しいのだ。



 決着と向上。ただそれだけを追っている筈の自分が、少女のように月を見上げて寂しがっている。
 耐え難いコトだった。ただでさえカズキの喪失で苦しんでいるのに、その苦しみの源泉が、上昇志向ではなく、乙女のよ
うな情けない感傷に根ざしているという事実が、ますますパピヨンを不機嫌にする。男なのだ。骨ばった意識で喪失を克服
していくべきなのに、気付けば月を見て寂しげに黄昏ている。恥ずべきコトだ。気付くたび赤くなり首を振る。

 ヴィクトリアの首を絞めてしまったのはそういう時だ。
 喪失で揺らぎ、感傷を持て余し、ひたすら鬱屈している時に、作業をしくじり知ったような口を聞いた。
 そのうえ戦団が月に行きカズキ再殺を完遂するより先に身柄を取り戻し白い核鉄を埋め込むという時間的制約もあった。
 もたつきはあらゆる意味で許容できない。だから……激昂し、首を絞めた。
 ただの少女たるヴィクトリアにそういう狼藉を働くほど、パピヨンの中で何かが狂っているらしかった。

「時間がないんだ。貴様の下らん感傷で俺の手を止めるんじゃあない」

 抵抗されると思った。相手は100年引き篭もった輩なのだ。似たような経歴の蛙井同様、悪罵を吐き、自己弁護に終始し、
やがては離れていくのだろうと思った。
 だが……少女の翳んだ瞳が哀切に細くなった。悲しみとわずかな感銘を覚えたようだった。あろうコトか、パピヨンの手に
かけた両手さえ下げていた。
 そして一瞬だが、パピヨンの瞳を見つめた。
 何かを理解したようだった。総て……とまでは行かないが、パピヨンの根幹を成す様々を理解したようだった。

 カズキ以外の相手にそうされたのは初めてだった。
 深い部分に触れられた……。驚くのも無理はないだろう。パピヨンは、存在さえ認識されずに生きてきたのだ。心の奥を
見られ、理解されるという経験などカズキを除けば皆無だ。

 首から手を離した瞬間、動揺が発作を引き起こした。
 大量に血を吐いたパピヨンを、首を絞めたパピヨンを、ヴィクトリアは嘲る訳でもなく……聞いた。

「……? アナタ、ホムンクルスになったのに病気はそのまま……なの?」
 どこか心配そうな響き。無性に腹が立った。
「うるさい!!!」
 叫んで研究室を飛び出した。

 ……留まりたく、なかったのだ。親身な処置を施されると古傷に触る。花房という蝶野家の資産目当ての家庭教師に、
パピヨンは一度誑かされている。豹変する前の彼女は、血を拭いたし薬だって代わりに取りに行った。それが愛情ではなく
財産のためと知ったのは、彼女がバラ型のホムンクルスになる少し前だ。
 同じコトをされれば、カズキ関連の鬱屈が、ヴィクトリア個人への猜疑心、同じ轍を踏まないという過剰なまでの防衛本能
と交じり合い、白い核鉄の共同研究に差し障るのは目に見えた。些細な感情論で大儀を見失うのは矜持にかけて出来ない。

 なのに。


「病気なのにまた力むから血を吐くのよ。まったく。アナタって本当よく怒るわね」
 吐血するたび、軽く文句を言いながら掃除するようになった。


「シーツぐらい干さないと健康に悪いでしょ」
 太陽の匂いのするシーツを敷き述べるようになった。


「何って……見ての通りただの掃除じゃない。埃ってコマメに取り除かないと喉を刺激するし……」
 三角巾を被り、ハタキ片手にキョトリとした。


「夕ご飯買いに行くけど、欲しい物あるなら言いなさいよ。つつっ、ついでに買ってきてあげるから」
 やや顔を赤くしながら買い物を具申した。


「え? ハンバーガーだけ……? あ、いえ。文句があるとかじゃなくて……でも、栄養が偏るでしょ? いつもアナタ血を吐
いてるからホウレンソウたっぷりのシチューがいいって……あ、ち、違うわよ。アナタに作ってあげたいとかそういうのじゃなくて、
単に私用に作るけど材料少なめに買うと却って高くつくし、でも沢山買ったら今度は余るから、その、その、捨てる位ならア
ナタにあげた方が経済的って…………。あ……。食べかけを押し付けるとかそういうのじゃなくて! あなたに分けてから
食べるし、滋養とか鉄分があるから、悪くないって、悪くないってちょっと思っただけで…………いやなら、別にいいわよ……」
 買い物のメニューにケチを付けてきた。


「なんだかんだで食べてるじゃない。ひょっとして……おいしかったり、する? 味見はしたつもりだけど……」
 シチューを5皿お代わりしただけでやや嬉しそうな上目遣いをした。




「ええい鬱陶しい!! 貴様は一体何様のつもりだ!」

「人間のころ余命幾許もないと宣言された俺にさえ看護師や医者どもはああまでしつこく関わらなかったぞ!! フザけるな!
100年来地下に籠ったヒキコモリ風情が俺を保護しようなど、思いあがりにも程があ──…」

 と怒鳴っても吐血しないほど、食事に掃除にと工夫を重ね……健康状態を改善した。
 それがパピヨンにはたまらなく不愉快なのだ。
 花房のように騙そうとしている……などと疑うほど愚かではない。だがヴィクトリアの誠意を感じるたび、それを突っぱねて
いない自分が訳も分からず腹立たしいのだ。

 理由はよく分からない。嫌悪を催すというのではなく、内心の何か、かつては求めていたが今はまあどうでもいいと割り切っ
ている何事かが疼くのだ。傲慢な彼だから割り切ろうともしていた。下っ端のやっている事なのだからその成果の総ては
搾取してもいい、自分にはその権利がある。言い聞かせながらヴィクトリアの差し出す味も量も質もひどく良い料理を「搾取」
その一言で腹に収めるのだが、見守るように侍るヴィクトリアの表情! ひどく安心したような、物質的にはまったく損をして
いる筈なのに限りなく満たされている柔らかな微笑を見ると無性に腹が立つのだ。

 そういったヴィクトリアの存在を認めてしまえば今まで自分の縋ってきたモノが無に帰すような。
 ズルズルと生ぬるい方向へ引きずられ、ついには「カズキを救う」という大志を失ってしまうような。
 自分を支え続けてきた矜持が根底から崩壊してしまうような。

 やるせないもどかしさにパピヨンはずっとずっと苛立っていた。

「研究も軌道に乗ってきたし、私、少し働こうと思うの。研究資材はともかく、食費はけっこうかかるでしょ? それ位捻出
したいし──…」

(俺は、ヒモか……!!)

 腹が立った。資産など幾らでもあるのだ。一大テーマパークを作れる、火山や湿地帯コミの広大な土地でさえ資産のごく
ごく一部なのだ。なのに頼みもしないのに食費を稼ぎ、汗水たらしてまで、おいしい、パピヨンの健康によい料理を作ろうと
いうのだヴィクトリアは。

 彼はとうとう、決意した。

 ヴィクトリアとの対決を、決意した。

 彼女が世間話で「それなりに楽しい」と評していた演劇部を、めちゃくちゃに破壊したくなったのだ。
 壊してどういうメリットがあるかは不明だが、とにかくヴィクトリアにやられっ放しなのは気に入らないのである。

 彼女のやる色々を、素直に受け入れるのが、とにかく無性に気に入らなかったのだ。
 ならば白い核鉄の提携を解消し、追い出せばいいようなものなのに、出てけと怒鳴っても「はいはい」で流される。怒ろうが
不機嫌になろうが、困った弟を見るような目で軽く嘆息して、パピヨンの理性が最善と思う選択をするのだ。
 いつの間にやら妙なコトになった……。パピヨンは正直、姉さん女房のようなヴィクトリアをどう扱っていいか分からなくなった。
 初めてなのだ。打算も侮蔑もなく懐に入ってくる女性は。
 人間だった頃は、向上よりも躍進よりも生存よりも求めてやまなかった物がある……満たされない期間が長すぎて、不幸こそ
当然だったパピヨンにとって、生活に点る小さな暖かな火は、むしろ恐怖だった。

 実力行使で出入り禁止にすれば名状しがたい恐怖も消えるだろうが、いざそれを考えると、月を眺めカズキを思い出して
いる時の心痛が胸を穿ち切なくなる。花房の一件以来、パピヨンは女性不信だ。ヴィクトリアのような棘のある小生意気な
女など泣こうが怒ろうが知ったこっちゃないと思っている……筈、なのに、いざ自分の行動がそういう顔を導くと考えると、心
がひどく重くなった。

 カズキ以外では初めての理解者を自ら捨てようとしている……。

 そんなブレーキが提携解消にも追放にも及び、廃案に追い込む。
 という機微もまた気に入らないから、パピヨンはヴィクトリアの所属する演劇部に照準を定めた。

 要するに、八つ当たりである。

 そうして演劇部に赴いたのが9月10日。メイドカフェでは剛太とやる夫社長の珍騒動が起こっていた頃だ。
 さぁ潰すぞと意気込んでいたら、メイドカフェへ行く前のまひろとバッタリ逢った。初めての邂逅ではない。まだ人間だった
頃、自分を探しに来たカズキの傍でチョロチョロ動き回っていたのを思い出した。
(武藤の妹、か)
 失ったものを思い出してやや寂寥に沈んでいると、腹が鳴った。

「お腹鳴った! ちょっと待っててねオニギリあげるから」
 壊すつもりだった演劇部への感情が変わったのは、まひろの笑顔を見た瞬間だった。

(…………重ねるな。コイツは違う。あの男の代わりになれる者など存在しない)

 パピヨンは内心忌々しげに舌打ちした。

 そういう経緯で潜り込んだ演劇部で、まひろがメイドカフェに向かった後、半日もしないうちに監督へ祭り上げられた。

 悪い気はしなかった。部員全員が自分を見ている。斗貴子でさえ敵意交じりだが視線を這わす。
 承認欲求が満たされる場所。己が美的感覚を最大限発揮できる場所。

 不安も鬱屈も、どう扱っていいか分からない少女に対する葛藤も、休憩がてらの部活をやるたび薄れていった。

 そしてヴィクトリアは……露骨に避けて飛んでいくパピヨンを…………ただならぬ哀切の表情で何時間も追いかけ回した。
 時々振り返っては目に入る彼女、パピヨン自身は「撒いたかどうか確認しているだけだ」と自らに言い聞かせる行為の
視界の下で当然のごとく全速力で追跡してくる彼女にチクリとした物を感じた。パピヨンも全速なのに……撒けない。愚かしい
心配に顔を歪めて涙を湛えて、(どうせシチューの味でも心配しているのだろう。的外れな)とパピヨンが見下すほどありふれた
少女の表情で追いすがってくるヴィクトリアに葛藤が大きくなる。

 結局は撒いたその日から、彼女の対応は少しだけ変わった。誰の入れ知恵かは分からないが、作業の途中、「やりやすいが
こういう配置にしたか?」というコトが極端に増えた。ヴィクトリアは無言で、積極的に関わってこないが、諦観も断絶もそこには
なかった。一歩引いたところで見守り、助けようとする態度が感じられた。
 けれどそこをハッキリと意識すると、本当にパピヨンは、ずっと大事にし続けてきたたった1つの椅子の登記をカズキから
ヴィクトリアへ移さざるを得なくなる。だから…………気付かない振りをした。

 監督代行を任せたのは、彼女の日常を壊そうとしたコトへの代価だ。
 優しさなどと認識したくはない。ただ……借りを作りたくないだけだ。

 そんなヴィクトリアが雑事をこなした……楽しい演劇部。

 その発表をパピヨンは、もちろん見に行くつもりだった。
 見なければ文句すらつけられないのだ。白い核鉄の研究は難事だからこそ節度ある息抜きも必要だ。


 観劇前に訪れた研究室を、パピヨンは無言で睨んでいた。

 死屍累々というべきだった。

 巳田、猿渡、花房、蛙井。最近ようやく復活させた手駒たちが、無残な姿で横たわっている。
 あちこちが溶け、腐り、惨たらしい断末魔の叫びに硬直したまま転がっている。

「創造主……私が引き受けます。お逃げを」

 息せきながらも中心を発する鷲尾もまた無数の疱瘡に蝕まれ……息絶えた。

「…………」

 一度は死んだ連中だ。ヴィクトリア経由で得たクローンの知識を動員すれば、幾らでもまた作れる。
 分かってはいる。
 分かってはいるのに……。


 巳田は作業のタイムスケジュールを組ませればなかなか見事なものだった。怠け者なだけに能率向上には敏感だ。
 猿渡は見た目どおり、力作業に長けている。200kgの配管を2つ3つ同時に運ぶ彼がどれほど手番を短縮したか。
 花房はパイプなどの細かい配置を引き受けたし、小娘と競い合って作る茶菓子の味は悪くなかった。
 蛙井はシステム制御に長けていた。それ以外はまったく役立たずだが、パソコンを使わせれば見事なものだった。
 鷲尾は取り立てて研究向きではないが、パピヨンの指示とあらばどんな雑事でも誠実かつ確実にこなした。

「なんだか……」

 急ににぎやかになってきたわね。忙しそうに彼らの食事を運ぶヴィクトリアはそう言って……笑った。
 毒のある笑いではない。心から安堵した笑いを。
 無くしたものが、孤独が、埋められているようだった。

 パピヨンは決して声高には認めたくないが──…

 雑多な喧騒を起こす手駒たちを、微笑むヴィクトリアと眺めているのはそれほど悪い気分でもなかった。
 彼女と根っこの部分では同じ想いを共有していて、だから鷲尾たちの人間時代を忘れて…………少しだけ。
 笑ったのだ。
 にぎやかになってきた空間で。1人ぼっちでなくなった研究室で。


 手駒は全滅した。
 侵入者の手によって、無残に、呆気なく。

 耐え難い不快感が燃え上がり全身を焼く。病熱が脳を蝕み目を濁らせる。


「何者かは知らないが、これだけのコトをやったんだ。生きて帰れると思うな……!!」
「『坤宅に捧ぐ済世輪菌(マレフィックサターン)』……リヴォルハイン=ピエムエスシーズ」

 2mを超える貴族服の男はゆっくりと振り返った。


「我が妻の意思と真なる救済のため……もう1つの調整体、貰い受ける!!」
「あの男を戻しうる唯一の手段! ハイそうですかと呉れてやる道理はない!!!」

 厖大な量の黒死の蝶がリヴォルハインに直撃し、研究室は震撼した。


 パピヨンvsリヴォルハイン……開始。

 時はまだ……即興劇が始まる前。相手劇団の台本模倣に部員一同が絶句していた頃…………。

 戦いは数時間に及んだ。

「往け! 黒死の蝶!!」
 火柱が2m近い男を飲み干し……焼き尽くした。
「ガハッ!」
 過剰な運動の反動か、血を吐くパピヨンだが仮面の下の眼光は鋭いままだ。
(これまで通りだとすると、恐らく……!)
 研究室のある一角にプラズマが集中し、荘厳なる貴族服の男が現れた。
(やはり!! 殺しても殺しても湧いてくる)
 ムーフェイスと戦部を足して2で割ったような相手だった。リヴォルハインという男は、必ず1体しか現れないが、その代わり
どれほどニアデスハピネスの炎の螺鈿で彩ろうと新たな彼が登場し、攻撃する。
「養護施設にいる及公はヒラの及公である。ここの及公との併存……可能なのである」
 飛びかかってくる貴族服をひらりと避けフラスコの裏に隠れる。
(節約しつつ戦ってきたが、マズいな。黒色火薬……残り4割というところか)
 敵の攻撃は徒手空拳。攻撃力は一般的なホムンクルスにやや劣るという所だ。戦部の十文字槍や爆爵のチャフに比べ
ればさほど恐ろしくない。ましてカズキの突撃槍とは比べるまでも、だ。
(だが奴には鷲尾たちを斃した技がある。毒? 酸? それとも別の何か……?)
 念のため風上──先日ヴィクトリアが取り付けた換気装置により空気の流れがある──を取りつつ、リヴォルハインの
通った場所をニアデスハピネスで焼いているが、長引けば蝕まれる恐れがある。持久力もまたない。
(どうする? もう1つの調整体。あれを持って逃げるか……?)
 冷静な部分はそう告げるが、鷲尾たちの残渣、もはや溶けてシミになった彼らを見ると感情が収まらない。
 目的を果たせないならただの役立たずだ、
 嘗てそう評したはずの彼らの実りなき死去に胸が燃えて仕方ない。
(逃げる? 俺を、俺の作品を虚仮にした男を前に一矢も報いずに?)
 弱かった頃は、人間だった頃は、寄宿舎から蝶野邸へと逃げ延びた。
 だが生まれ変わってからはあらゆる敵に立ち向かい、打破してきた。
(絶対無敵の能力など有り得ん! 何か、何か必ず糸口がある筈だ!!)
「ところで演劇は少し前に終わった」
 リヴォルハインはゆっくりと歩み寄りながら呟いた。
「パピヨンは発表身損ねたが、概ね大丈夫である」
 意外な話題に一瞬思考が止まる。
「部員達は、パピヨン不在でも……存分に戦っていたのである。心配無用!」

 それは──…

 ディプレスやイオイソゴがしたような挑発ではなかった。

 ただの世間話だった。劇の裏で暗躍していたリヴォルハインの、単なる劇の感想だった。


 だが……結果としてそれが。

 戦闘を終局に導く起爆剤と化した。

 劇。部活などしたコトのないパピヨンにとって、演劇部は、青年らしい普通の喜びを味わえる場所だった。
 高校に5年通ってようやく手に入れた、学校生活らしい学校生活。

 その初めての発表を見る邪魔をした男が。

 パピヨン不在でも問題ないと……言った。

 存在を、透明視した。

「俺抜きで回る……? それがどうした……。あんなものはただの戯れ。ただの戯れだ…………!!」

 瞳が濁る。表情が陰鬱に彩られる。未練を力づくで引き剥がす生々しい痛みが心に走った。

「結局俺を救いうるのは戯れじゃあない! 俺の名を呼んだ男ただ1人だ!!」

 残量の計算などリヴォルハインごと吹き飛んでいた。ただ激越の赴くまま紅蓮の波濤で焦がしつくした。

 だが……敵は再び出現する。叫びの反動にむせて血を吐きつつ愚痴る」

「クソ! 一体どういうカラクリだ。戦部ともムーンフェイスとも違う……」
「高速自動修復? 分身? 違うのである!!」

 新たなリヴォルハインは、攻撃もせず溌剌と語る。

「パピヨンは会社を知っているのであるか。及公が機構はまさにそれであらせられるのだ!!」
「な……に……」
 急速に世界が冷えていく。感情的な問題ではない。体内で深刻な事態が進行しているような……。

「及公は社長!! 社長が職務遂行上死んだとしてもすぐさま次代が就任する! 会社という組織が滅びない限り……何度
でも蘇る……ありふれた駆除不可能! 『傲慢』!!」

「そして我が武装錬金、リルカズフューネラルはこの地球上に存在するあらゆる菌に巣食い……会社組織を構成している!!
端的にいえばここら一帯の細菌ウィルス総て滅したとしても……及公は菌の中から再び蘇る!! 2代目3代目の社長が
次々と生まれ職務承継! ここに来る!!」

「及公を斃す手段はたった2つ! この地球上に存在する総ての菌を根絶するか……量子化し半ば次元の狭間にあるネッ
トワーク……我が民間軍事会社を倒産させるか! いずれか、である!!」
「ぬかせ!!」
 なおも黒色火薬を撃たんとしたパピヨン。その身の色彩が暗転し巨大な鼓動に打ち震えた。
「がっ!!!」
 口から夥しい血を吐き身を丸める彼を、リヴォルハインは涼しげに眺めた。
「忘れてはならんのである。及公は細菌型……傍にいるだけで少しずつだが吸引しているというコトに」
「貴様! 何を……!!」。問い掛けるパピヨンに彼はゆっくり歩み寄る。
「安心するのである。特異かつ悪辣なる病原菌は一切用いられていない。及公はここに来られる際、あらゆる痛烈な菌を
肉体構成から省かれた」
 しかし。呟きながらリヴォルハインはパピヨンの頭を撫で、緩やかに語る。
「病気。パピヨンの抱えた病気は、免疫力を極限まで奪っているようだな」
「……」
「日和見菌でさえない、人類と共存可能な菌たち。ただ及公が感染し、ただ少しだけ脳髄のリソースを借りる程度の、些細
な活動を行う菌たちにさえ…………パピヨンの体は蝕まれてしまうようだ」
 パピヨンの身が湿った音を立てた。血溜まりに倒れた……そう気付いたのは赤い雫が何珠も舞っているのを見た瞬間だ。
 目が、眩む。意識が遠のく。
 リヴォルハインが、白い核鉄のデバイスに歩み寄り、基盤(ベース)たる「もう1つの調整体」へ手を伸ばすのを目の当た
りにしておきながら……体は、動かない。

「これがもう1つの調整体。マレフィックアース召還の1ピースにして及公が望みを叶える『霊魂』の産物」


「フフフ……ハハハハ!!! これでまた一歩、真なる救済に……近づいた!!!」


 かつて戦士と音楽隊が奪い合った黄色い核鉄。それはレティクルエレメンツ土星の幹部の手に渡った。

「貴様の秘蔵、貰い受けるがトドメは刺さない。よもやそこまで及公に耐性がないとは思いもしなかった。にも関わらず勝つ
のは不意打ちのようで……つまらん。強者との戦いは互い備えた上でやるのが原則、それぞ敬意なのである!!」

 爆裂音。青白い渦の前で土星の幹部は薄い光沢のあるネープルスイエローの六角形を弄びながら、ゆっくりと振り返り、
得意気に笑った。

「取り戻したくば及公を追え。及公も貴様も救いを求めている。その純度は真向堂々の勝負によってのみ向上する!」

 待て。掠れた声で手を伸ばす。届かない。巨躯の男はそのまま渦に呑まれそれごと消滅した。




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