インデックスへ
第100〜109話へ
前へ 次へ
第105話 「タングステン0307(中編)
【ある作家たちの対談記事】
(上半分と作家名が塗りつぶされている)
……すから、デッド=クラスターの戦いというのはですな、確かに難解ではあるんですけど、まだロジックは通じる」
×××「確かにあの月の幹部の戦いはおととしまた映画化されましたしね、人気ですよね。パッと見なにやってるか分かり
辛いんですけど、ホームアローンとか、ファイナルデスティネーションとか好きな人ならそのうち分かるっていう」
■■■「ほんとこの点でもわたしは中村剛太にお礼を言いたい(笑)」
×××「また報告書(笑)」
■■■「本当にですな、彼が、チーム天辺星の面々が『棟』のどこでどういう死に方をしたかっていうのをですな、詳しく覚え
てくれていなかったら、デッド=クラスターが、あの約10人相手に演じた大立ち回りな迎撃戦なんてのは逆算しようがない。
……ってコトをおととし◇◇◇監督に言ったら『■■■君まったくその通りだよ、撮れなかったよ』と」
×××「ですよね。あの特性のややこしさときたら……。レティクルどころか全部の武装錬金を見渡してもそうはない」
■■■「最近たまたまやった龍が如くの最新作のミニゲームでちょうどアレを、ムーンライトインセクトをモチーフにした能力
が出てて驚いたんですが、ゲームだとですな、まだ割合わかる。オブジェクトを爆破すると、一定範囲内にある同一規格製品
の直近にワームホールが開き、そこへクラスター爆弾を転送して射出できる。例えばベンチを攻撃すると、周りのベンチに
も……という訳です」
×××「あー。龍司がふなっしーみたいなゆるキャラやるアレですか。確か『周り』……の範囲、対象半径が、オブジェクトの
レア度に比例するんですよね。木のベンチなら自分の周り30mほどしか対象じゃないけど、金のベンチなら500m圏内の
金のベンチ総てが砲台代わりに……みたいな」
■■■「だからね、自分が使うならこれほど分かりやすい能力は実はないけど……やられる方はね、分かりっこないです
よ(笑)。遠くとか、死角とかで、ワームホールぼこぼこ開(ひら)いちゃうんですから(笑)」
×××「しかもスナイパーですからね、デッド(笑)」
■■■「芋砂(笑)。『棟』のような媒介豊富な場所に引き篭もって、遠くの相手が貴金属店の前とおりかかったタイミングで
棟の売り場からかっぱらった手元のダイヤ爆破、みたいなコトされると、そりゃ撃たれますよ誰だって(笑)。分かるか! と(笑)」
×××「相手の所在は特性じゃなく監視カメラの映像で掴むってのがまた始末が悪い(笑)」
■■■「ただそういうのが言える程度にちゃんとした準備(ロジック)を積み重ねているのがデッドな訳で」
×××「難解ではありますが、紐解きようはありますからね。じっさい中村剛太も報告書の中で恐ろしく精密な分析を」
■■■「何よりありがたいのが付録の資料。こちらは事後処理班の仕事ですが、『棟』側の見取り図や、終戦直後の商品
棚を始めとする内部の写真、被害目録といった、『どこで何がどう爆破されていたか』が分かるビジュアル的な証拠をです
な、中村剛太との分析と突き合せると、ああデッド、こうやって攻撃組み立てたんだなって、立体的にわかっちゃいますね」
×××「そういう仕事をしてくれた事後処理班のお蔭で、他の幹部の戦いもだいたい論理付けられるんですがねえ」
■■■「『タングステン0307』。イオイソゴ=キシャクが坂口照星救出作戦序盤で円山円に仕掛けた追撃戦だけはやはり
どうも分からない。なぜああいう経緯が成立しえたのか……。難解というか、不可解ですな」
×××「ですよね。犬飼を初撃で葬らなかった理由だけが謎すぎて謎すぎて。いやわかってはいますよ。当時の彼女は、
高速道の車なみの速度で遠ざかっていく円山を追いかけつつ、根来の奇襲も警戒しなきゃいけなかったってのは」
■■■「足止めで追いすがってくる犬飼にヘタに構って手こずれば、円山が戦団の合流地点まで逃走成功して盟主の
所在が知れ渡る。かといって太く短くで集中した最大出力で以って犬飼を瞬殺しにかかればその隙を根来に突かれる
……という危惧をしていたんだろうなってのは、まあ、分かる。分かるけれども」
×××「岡目八目だとやっぱり犬飼の始末については『ああいう形』ではなく、初撃で、スパ! とやった方がよかったでしょ
と、思っちゃいますよ。そっちのが円山の追撃も根来への警戒もコンパクトにまとめられたし、イオイソゴなら出来たでしょうし」
■■■「出たロリババア愛(笑)」
×××「だって角と飛車と……クイーンですよ。銀成で無傷で足止めできたぐらいに、強いんですよイオイソゴ」
■■■「? あ、津村斗貴子と早坂秋水と、鐶光?」
×××「はい。あの3人の連携を軽くいなせた私の嫁がですよ? 言っちゃ悪いですが、 犬 飼 を、あ編集さん、犬飼
のところは掲載時太い文字でね(一同笑)、犬 飼 を サクっとはやれなかったのはやっぱりどうしても」
■■■「不可解、ですな。だから時々イオイソゴ無能論が持ち上がり×××さんがヒートする(笑)」
×××「そこも含めてですよ、犬飼を初撃で葬れなかったのが痛いっていうのは(泣) 根来とか戦部ならまだよかったのに、
犬 飼 をっていうのが……。そのせいであんな結果になったもんだから……なったもんだから……(泣)(一同笑)」
■■■「乃木少将でいう旅順ですな、犬飼」
(編集部注:大金星に到るまでの犬飼の軌跡については前号の△△△先生の記事を参照)
×××「ただまあ、根来への警戒はじっさい、被害妄想ではなく──人類側からすれば迷惑な話ですけど──恨みの奇襲
されかねないのに、盟主のせいで外出せざるを得なくなった幹部としては、最善手といいますか、本当に正しくはあった。
油断なしロリババア可愛いよ可愛いと支持されるゆえんですよ」
■■■「ですな。それこそ直前根来はアジト付近で網張っていたデッド=クラスターから戦士数人救っていた訳で。行方こそ
くらませてはいたけど、救出作戦の舞台たる新月村にはもう来ていた訳で」
追 撃 戦
×××「『タングステン0307』を”一度は”影から窺っていたのは確かですからね! だからイオイソゴが居もしない根来を
警戒してせいで犬 飼 を初撃では仕留められなかったっていうマヌケなオチだけはないんですよ! ないんですよ!!!
(一同爆笑)」
■■■「……とんでもないタイミングでしたね、根来」
×××「ええ。何しろ仕掛けたのが金(記事はここから破れている)」
イオイソゴが円山追跡に移った直後の話になるが。
彼女は万全なる根来対策を文字通り敷衍(ふえん)していた。
(『忍法内縛陣もどき』! 不可視の鳴子は、既にッ!)
散らされた辺り、でだ。犬飼の攻撃で掌より100の耆著を散らされた辺りで──ほぼ同時期、葉擦れで出現を誤認させ
られた不覚も相まって──、幼きくの一、五感よりも確実な結界を敷設している。
完了したタイミングは耆著を足で投げた辺り。犬飼に散らされた耆著たちを、左の靴中にひそかに同種の指揮棒を両親
の指で揮(ふる)い、磁力操作によって。
な る こ
(地下ならびに樹木内部に磁性流体空間を敷き詰めた!)
半径およそ150メートル圏内の地面ならびに木々総て! 実は既に耆著によって侵食されている!
いずれも外皮およそ1cmをうっすら残し敷き詰められた層だ。磁性流体は、地下なれば40cm厚、木々なれば幹から
の循環で枝葉の端々までとそれぞれ瑞々しく詰まっている。
亜空間を蝕む効能じたいはもちろん無いが、しかし付近で根来が実空間へと現出した場合、刺激は電瞬を以ってイオイ
ソゴへ逓信される。(武装錬金的直感)。『層』より下で出現した場合でも結局は磁性流体の鳴子に根来はひっかかる。
その構造の為イオイソゴが配している耆著! 全装弾数555のうち
実に300!
半分以上を投じるほど彼女は根来を警戒(おそ)れている!
そして鳴子の結界はイオイソゴがどれほど速く動こうとも……常に半径150メートル圏内を守護する! 動くのだ! 磁
力の、微妙絶妙なる誘引の固着によって、創造主と共に、動くのだ!
地面はともかく木々から木々への移動は? ……などという疑問など野暮であろう。根来を、察知するための仕掛けなの
だ。副次的ながらイオイソゴの武装錬金的直感は地の下の構造をも把握する。いわばそれは磁性流体のソナーであるか
ら、『根』の造影から木の座標を算出し、別の木からの磁力射出をして着弾し、鳴子に……という訳である。
※ 精密さを期する場合、イオイソゴはいったん木から地下へと耆著を落とし、根から再び別の木へと登らせる手法を取
るが今回は追撃戦で前進著しいため(彼女的には)やや粗雑な木から木への移動を取った。
(これぞ忍法内縛陣もどき! 根来めが気付けばよし気付かずともよし!)
気付いてなお地面または木、またはそれに準ずる物体からの奇襲を目論む場合、根来はイオイソゴから151メートル
以上離れた場所へ飛び出さざるを得ない。だがそれだけの距離があればイオイソゴは余裕を以って応対できる。
鳴子に気付かぬ場合……というのは根来の性格からするとちょっと考え辛いが、万一千歳の件に対する怒りをしてかか
るというなら仕掛けた老嬢にはしめたもの、これまた悠然とあしらえる。
(問題は……気付いた根来めが虚空よりの来臨を択(えら)んだ場合じゃが……)
剛太戦の彼が円山を囮にしたすぐあと斗貴子に仕掛けたような奇襲。中空の亜空間という、一切の遮蔽物がない、あけ
すけなまでに丸見えな、奇襲の橋頭堡にはとうてい見えぬ座標からの心理的盲点を衝いた不意打ちを憂う少女の頬に汗
が伝う。だが鳴子を仕掛けねば奇襲はより隠密性を増すのだ。察知不能な虚空を選択されたとしてもである、視認できる
だけマシといえよう
(さすがにわしの耆著でも、ひひっ。中空までは磁性流体化できんからのう。ゆめゆめ警戒怠るなかれじゃ)
そういう、応用力とみに高いハッピーアイスクリームでさえ完殺しえぬ優位性をシークレットトレイルが有しているのをいや
というほど認めているからこそ千歳の両目を潰すという挑発を仕掛けたイオイソゴだ。彼が怒りで判断を誤るのを大いに
期しているからこそ……犬飼相手に下手は打てない。
(じゃが)
言い換えれば。仮令(たとえ)かれが中空から仕掛けてきたとしても。
(『亜空間から現出中の根来を』知覚できさえすれば……勝てる! ”これ”ならば、な……!)
黒いスカートのポケットの中で、手が触れる。『柄(つか)』に。スカートのポケットに入るぐらいだ、長さ自体は短剣と変わ
らない。
そう。
長さ、自体は──…。
(ひひ。『この形見』なれば、必ず……!)
ともかく、根来にそれを当てるには、犬飼相手に、下手は、打てない。向こうにとっては功名心を抜きにしても『盟主の所在
ならびに切り札の伝令』といった戦団全体の勝利のため、イオイソゴは絶対斃さねばならぬ相手だが、イオイソゴにとっては
そうではない。本命は鳩尾無銘。おいしいワンちゃんがもうすぐなのに、血統書が辛うじて付いているだけの代物が落命の
きっかけになるなど、程があるではないか。馬鹿馬鹿しいにも。
(……。耆著は残り160弱…………)
160弱? 全555発で先ほど根来に300使ったのなら、260弱ではないのか?
いいや計算は合っている。忍法任意車。本来は男しか使えぬ、交合の精を介した憑依の術だが、イオイソゴは磁性流体化
の肉片を切り分けた半身または他者の肉体へ溶かし込むコトでいま一人の己を地上へ召喚できるのだ。
それをして盟主の下に残してきた三分の魂のイオイソゴに持たせてある耆著こそ
ちょうど100。
(で、あるから、追撃のわしの残弾は160弱)
拳銃であったなら無限にも等しい数値だが、機関銃となると些か心もとない。乱射は、選べぬ。
イオイソゴ=キシャクの耆著『ハッピーアイスクリーム』!
物体を磁性流体化させても消滅はせず何度でもリサイクル可能!
だが、元が耆著であるため瞬間移動的な転送でイオイソゴの手元に戻すのは不可能!
回収の手段は!
(1)直接、取り入れる(主な手段は『拾う』)。
(2)磁力操作で肉体のどこかへ、物理的に引き寄せ取り入れる。
のいずれかのみ! ちなみに1個1個、遠隔操作で武装解除して手元に戻すのは不可! これは磁性流体化後もリサ
イクル可能な利便性ゆえの制約! 個々の、使いまわせるだけの頑丈さを追求した結果、イオイソゴの精神を源泉として
いる筈の555発の武装錬金は、まったく別個の、一種独立王国の景観を呈した武器となり、奇妙な話ではあるが個別個別
への解除命令さえ突っぱねるほどになった。とはいえ悪い話でもない。武装錬金はふつう、創造主のダメージへの動揺を
して存在の解像度を下げるものであり、数の多い物であればあるほど些細な主のうろたえで10や20簡単に消滅する弱み
を抱えるが、ことイオイソゴの耆著に関しては彼女がよほど決定的な打撃を喰らわぬ限りまず消えない。喰らいながらの埒
外からの奇襲といった芸当さえ耆著が出来るところを見ると、個別解除のできなさは、或いは防御より攻撃を取った実利
的思考ゆえか。
ともかく1個1個は遠隔解除で手元に戻せぬハッピーアイスクリームだ。武装解除──武装錬金総てを核鉄に戻す方の
──を選んだ場合、555発の耆著は総て一括してイオイソゴに戻る。が、根来対策として地下ならびに樹中に『鳴子』を配し
ている以上、武装解除は下策でしかない。鳴子までもが手元に還ってしまうのだ。盟主のもとに残した分身だって無手になる。
ちなみに任意車発動中に武装解除した場合、核鉄は魂の多い方に戻る。盟主の方にいるのは三分の魂のイオイソゴ……。
(つまりじゃ。『追撃戦』のさなかに飛ばしまくるのは危険……! 鳴子の結界がわしがどれほど素早く動こうがついてくる
のは、規則正しく配置しておるからじゃ。……すくら、すく…………すくらぷ? えと、すく何とかを組んでおるからして、鳴子
の結界は、磁力の堅牢極まる構成ゆえ影法師のごとくついて来るのじゃが)
円山に乱射する物はその限りではない。普通に外れたり、キラーレイビーズに弾かれたりで、位置も距離もバラバラな
散らばり方をすると回収要件は(1)(2)とも大変満たし辛くなる。
追撃の真っ最中なのだ、イオイソゴは。
ルートから遠く離れた弾丸は拾い辛い。
(ある程度までなら本体(わし)からの磁力誘引で回収できようが……)
しかし砂場中央を高速で縦断する棒磁石がだ、端の方の砂鉄まで回収……できるだろうか。
現実的ではないよとポニテ少女、首を振る。
マッチ棒と、瞬間強力接着剤で考えてもいい。同じ12本でもピチっとした立方体に組み上げて接合したものと、頭の
向きや配置の角度がまったくバラバラなものをそのままくっつけたものでは、耐久性に明確な差が出る。立方体と、雑然、
一端だけを摘んで全力疾走した場合、どちらが先に壊れるか問われたら誰だって後者を指差すだろう。
鳴子の結界は立方体の要領で規則正しく編みこまれた幾何学の立体。乱射の耆著が陥るは混淆極まるマッチ棒。しか
もそれは距離を置いて散乱する。イオイソゴの放射する磁力戦はリフレクターインコムの如く耆著から耆著へと伝わり、
引き寄せるが、しかし離れるほどに、周りの耆著の数が減るほどに、減衰もまたするのだ。しかも主は追撃によって絶えず
前進する。遠ざかっていく……。
(既に根来対策に555発中300発割いている都合上、無為の乱射で空費してはならぬ!)
実は犬飼、イオイソゴを斃さずとも勝てる。弾丸をゼロにするだけで、実はいい。
(そう。奴はたった160発弱の弾丸を使い尽くすだけで任務を果たせる。何しろ耆著は遠ざかっていく円山を最も手軽に撃
てる手段であり、且つ、わし自身の最大加速の……手段)
前者は、舟形という、ほぼ銃弾の形をしている部分から分かるだろう。後者もまた磁力系武装錬金ゆえの特色。
(むろん耆著が払底しても使える忍法はあるにはある)
先ほど犬飼に見せた吸息かまいたちなど好例だろう。ただこちらは最大射程およそ30メートル。ロケットスタートで200
メートルは先行した円山相手では牽制にもならない。
(他の忍法も『いくつかを除き』射程は足らぬ。耆著がなくなったら……少なくてもわし、『無傷では』、円山を殺せん)
これはイオイソゴが戦略的に万全な立場にあればまず成立しえなかった特異な勝利条件だ。盟主の護衛と根来の警戒を
同時にこなしつつ、超加速で逃げすさる円山を追わねばならぬという極めて限定的な戦局に身をやつさざるを得なくなった
からこそ犬飼に、割きに割かれた3分の1以下の耆著を払底させるだけで敵の重鎮を詰めるという予想外の幸甚を恵んで
しまっている。
……だが!
(奴はこの隠された勝利条件を知らぬ!)
厳密には、確定しようがない。
(弾丸を使い尽くさせての勝利ぐらい当然描いておろうが、あと何発かという点については想像しようがない! ひひっ、そ
うじゃろ。何せ想定の基底たる全装弾数からしてまず迷う。仮にわしの名前から五百(いお)五十(いそ)五(ご)と仮定でき
たとしても)
根来対策や盟主側の分身にそれぞれ幾つ配したかという読みでまた迷う。
(更に犬飼は、わしの耆著の回収要件も知らぬ。『乱射で散らばった耆著。個別に解除して戻せるか否か』? ひひっ。
遠隔操作で戻せるとあれば実質弾丸は無制限だと危惧をする……)
頭を使うタイプであれば、更に踏み込んだ警戒もする。
(武装解除。仮に残弾をゼロにしても、武装解除で手元に核鉄が戻るコトを想定した場合……再発動からの全弾発射と
いう罠に釣り込まれ覆滅されるのではないかと……考える!)
イレギュラーに思えるが、武装錬金の持ち主同士の戦いにおいて決して珍しくもない棋譜である。カズキが秋水に仕掛けた
『武装解除後、胸内の核鉄で逆胴を受け止めつつサンライトハートでカウンター』といった戦法などいい例だ。戦士は古今の
そういう例をカリキュラムの中でいやというほど叩き込まれ、警戒せよと仕込まれる……忍びゆえに知っているイオイソゴ
だから、犬飼も例外ではないとそう断じる。
(あるいは、幸いかの。解除再発動一斉射を根来への警戒が為やれないからこそ、危惧してもらえると助かるが……)
だからこそというか、逆にというか。160弱の耆著の打ちつくしイコール己の敗北という事実はなんとしても悟られたくない
イオイソゴだ。犬飼相手に追い込まれているというなかれ。彼女は、実質的には、盟主や根来、円山といった戦略的価値
も座標もバラバラな者たち3人を同時に相手どっているのだ。銀成での足止めですら相手集団はまだ同じ座標に居たし、
何よりそれらに目を奪われていたればこそ、根来の思わぬ奇襲で戦略構想を壊された苦い経験がある。今度は彼を警戒
しつつ、逃げる伝令を追い、一方で分身に首魁の守護をもやらせるという、ともすれば一兎も得ずな多角経営を望まずして
やらされている不遇の立場。弱卒と称される犬飼相手に弱味を掴まれかねぬ瀬戸際にあるのもやむなしというか、戦歴5
00年のイオイソゴだからこそ、決定的な露見も根来の奇襲もどうにか免れられているというべきだ。これがディプレスや
クライマックスといった連中であればとっくに根来の奇策(アシスト)に嵌められ、犬飼たちを逃がしている。
(…………いちおう、耆著が尽きても円山を殺す忍法……ある)
イオイソゴの煌めく瞳に映った像は果たして本当に幻か。正中線を区切りとする真っ二つな彼女と……遥か彼方の円山は。
(じゃがそれは本当に最後の手段……! なにせ『あの忍法』の発動要件は──…)
肉体の、磁性流体化、解除!!
(あらゆる打撃斬撃を無効化できる優位性を敢えて捨て、わしがわしを両断せねば円山は……殺せん!)
イオイソゴの方は人間型ベースのホムンクルス調整体だから、『両断』程度では死なぬ。胸の章印が壊れないからだ。
だが根来ならばその瞬間は逃さない。イオイソゴは円山を殺すところまでは出来る。だが根来には……殺される。磁性流
体化を解除しているのだから、当然だ。金が香車を取って桂馬に取られる……白熱だが、馬鹿馬鹿しい。
(しかもそのとき犬飼めが生存しておったら最悪! 奴の口から盟主さまの所在と特性合一のからくりが戦団に伝えられ
てしまう……!)
はてな。しかしそもそもイオイソゴ、分身を盟主の方に残しているのではなかったか。任意車なる魂を2つに割る忍法の
効力下にあればたとえ火力戦団最強のブレイズオブグローリーが直撃しても残る一方に魂が戻り、事なきを得るのではな
かったか。七分の魂のイオイソゴがここで討たれたとしても盟主の傍でリスポーンできるとすれば死への恐怖など無用な
のではないか。
(確かに分身(ほけん)は盟主さまの傍に残しておる。じゃが、だとしても、こっちのわしが根来に屠られる事いこーる『伝令
阻止失敗』! れてぃくるの危機を防げず終わることに変わりは、変わりは…………!)
忍びにとって使命を遂行できぬのは何より屈辱だ。何より見た目こそ幼いイオイソゴだが、連続生存年数ではレティクル
ナンバーワンの最年長、任を果たす責任感がある。(連続生存年数という曖昧な言い回しをしたのは、一定期間ごとに時間
跳躍しなければならないウィルが居るからだ。彼は総計では2万年近くの時間を繰り返しているが、『誤ってもループすれば
いい』という習慣が身についているため、その精神は老練さとは真逆なゲーム世代のままである)。
(何より恐ろしいのは……!)
ぶるっと身震いするイオイソゴ。老獪だからこそ任意車の致命的な弱点を彼女は強く把握している。分身の、どちらか
一方が斃されてももう一方に魂が回帰する任意車。一見ぜったい死なぬ無敵の忍法だ。『分身の片方が斃されても、残る
片方に、魂が戻る』のだから。
(じゃがもう片方の傍には……)
黒い、剣聖が、居る。
(あの御方(おんかた)は犬飼に対しむしろ協力的で好意的……! あると、まずい……! 『合わせうる手段』ばあると……
まずいまずいぞ、任意車は、まずい……!)
ちょっと考えれば分かる、とても簡単な弱点だ。平素綽々としているイオイソゴの顔がねじくれて汗にまみれる。
根来の奇襲を恐れている理由もそこだ。それが任意車の万一と重なれば任務失敗どころではない。死ぬのだ、純乎とし
て分身2つもろともに。それも皮肉にも……『いま守らんとしている味方のせいで』。
いやじゃいやじゃ、そんなばかな死に方いやじゃ。
内心のイオイソゴは見た目相応のあどけなさで両目を不等号にして首を振る。牧歌的でもすらある大粒の涙が極太マジッ
クで描いたような眦の端からぼたぼたこぼれた。
(うー)
低い鼻を酒酔いのように紅くして半目で涙ぐむ。
(なーんか、犬飼の方が……天運に恵まれとらんか…………?)
かれ個人は大したコトはない。だが、根来や、盟主といった、外圧の導火線と近しい立場にあるのが奇妙だった。いや、
前者については先ほどの攻防をみれば意図的に利用しているのは明らかだ。だがその大前提を作ったのは後者ではな
かったか? 千歳の失明で根来を挑発したイオイソゴの、本拠地に戦士が押し寄せてくるまで篭城を決め込むという最善手
を潰したのは盟主の予想外の単独出撃なのだ。
(……。まさか単独出撃は……わし抹殺も兼ねておる…………?)
まさに閃電の如く脳髄を貫いた不安の黒雷をしかしイオイソゴは縋るように否定する。
(お、お手討ちになさるつもりなら、出奔直前の斬撃をして成されていた筈……!)
論拠、だった。根来という外圧に懊悩している原因は、盟主の、故意の悪意のせいではないとする論拠だった。
照星の生首などで散々と犬飼たちを揺さぶり悪辣に振る舞ってきたイオイソゴが、信奉する盟主に裏切られるのが怖く
て怖くて仕方ないらしいというこの心理的境地。奇妙とはいうなかれ。むしろ極めて人間めいた忠誠心だ。
ぴりぴりと肩が痺れる。ずっと感じている『影からの殺意』の漠然とした気配とは違う、奇妙な感覚だった。磁性流体化し
ている膚(はだえ)の、物理と粒子のなまなましい直感が神経を炙るさまに、イオイソゴは訳もなく浮つく。
(何かが………………おかしい。大気全体より来たれりこの不可思議なる伝導の正体は…………『何』じゃ? 巨大な台
風の直前のような…………空襲警報のうーうーのような……それでいて、555年の我が生涯のなか遭逢したあらゆる感覚
と全く違う根源的な恐怖を孕んだ……この痺れるような感覚……果たしてなんじゃ? なんなのじゃ……?)
死の予感であるかも知れなかった。
だが、犬飼がきっかけで、ドミノ倒しの如く落命の絶望へ落とされるうるのではないかという想定じたいは既にある。
想定したものがやりがちな「ま、ないだろうけど」については、ない。『下手に犬飼へ手を出せば、死ぬ』という、訓戒は、
長塀の街の十字路で、駆けて飛び出せば撥ねられるから、いったん止まってミギヒダリ見ようよ程度の気安さでイオイソ
ゴを縛っている。
が、犬飼じたいは結局、王や桂馬の虎の威で辛うじて取られずいる歩にすぎない。
(貴様のその思わぬ使命感には敬服しておるよ。じゃが貴様はわしの最終目的では、ない。円山の離脱を達成させてや
る義理はないし、ただでこの首くれてやるつもりはもっと無い)
10年。鳩尾無銘を喰いたいと願い続けたこの10年は……長かった。年を重ねるたび1年が短くなるとはよくある話。な
ら高齢者の10年もまた光陰なのだろう。だったら555年生きているイオイソゴにとっての10年など単純換算すれば55歳
の1年程度の期間ではないのか、長いとはとてもいえぬではないか。
いいや違う。相対性とはそうではない。美女と過ごす1分と、指先にライターの火を直接押し当てる1分では感じられる
長さが違うまったく違う。
55歳の1年。
確かに若者の体感時間に比べれば短いだろう。
だが、喰わねば腹が減るものを一切喰うなと命じられた1年であるなら、長い。
イオイソゴの10年もしかりだ。
(愛しさゆえに喰いたくて喰いたくて仕方なかった鳩尾無銘を喰えずに終わったら──…)
犬飼ごときのせいで落命して、阻まれたら。
この10年、一体なんのために生きて来たのだという話になる。
いかに年齢を重ねようと、不自由な時間への絶対的な苦痛は、時間に対する曖昧模糊とした相対的な知覚を剥がし取る
のだ。こらえ性はむしろ年寄りこそ低い。自由を甘受した期間が長いからだ。老いゆえの弱音も駄々の激しさに結びつく。
10年も我慢したごちそうを、犬飼のような、突然人生に飛び出してきただけの者に阻まれるのは我慢ならないから。
イオイソゴは無言で両目を鋭くする。
(乱射はできん。犬飼相手に打ち尽くせば円山を狙えなくなるし……後の根来に殺される率も高まる)
一瞬の思考のあと駆け出す老嬢。
(あの風船は複数層構造! 1発2発程度の着弾では逆に円山をば加速させてしまう)
(大量に当てれば或いはじゃが、乱射はできん)
(となると……バブルケイジを完全破裂させるには、そう、畳につかうような、長い針のようなもので全層貫通するか、または……)
後に『コードネーム:タングステン0307』と呼ばれる犬飼円山の激越なる退き口の半分は、瞬く間に、過ぎる。
……。
…………。
. ………………。
”それ”はモチベーションではない。
祖父の、話である。
確かに戦士長だった犬飼老人は10年前、敗走中のレティクル追撃のさなか『とある幹部』から負わされた傷のせいで非
業の死を遂げているが、しかし原動力ではない。
犬飼倫太郎がバックリと無惨に裂けた頸から鉄くさい猩々緋の襟巻きをたなびかせながらイオイソゴ=キシャクに仕掛け
てきたこれまでの、度を越えた追撃妨害の原動力では、ない。
祖父を殺した組織との戦い。
真当な娯楽作品であれば無理やりにでも因縁とする関係性であり、或いは戦団上層部が犬飼倫太郎を先遣隊の1人に
抜擢したのも復讐心ゆえの爆発力を期待してのコトかも知れぬが、だが彼本人に敵討ちのつもりは全く無い。
(じいちゃんは今でも大好きだけど、死因的にこの木星の幹部が無関係なのは明らか。燃える方がおかしいのさ)
そも中堅以上の戦士のほとんどは混同しているが、犬飼戦士長の退役は、レティクルによって落命した1995年の8月2
0日ではなくその前年たる1994年12年31日。ほぼ定年退職といってよかった。にも関わらずそのあとも戦士を続けて
いたよう眼力鋭き防人衛でさえ錯覚しているのは、犬飼老人が指導員として週4日ほどのペースで戦団に顔を出し、誰か
しらの戦士を教育していたせいだ。
一戦を退いた主たる原因は健康。ガンなどはなかったが、戦団の進取的な医療技術では除去不能である老衰に近似値を
示す『加齢ゆえの慢性疾患』を4つも抱えており、うち1つが法律上難病と喧伝しうるものと判明した瞬間坂口照星は半ば強
引に犬飼戦士長の除隊を推し進めた。
古傷も、多かった。『バーバリアン・ハウンド』なる錬金術の産物を嗅ぎ当てる武装錬金を有する犬飼戦士長は、その探知
能力を脅威とみなした敵に攻撃されるコトがまま多く、その細かな傷の重積はまるで老化を待っていたがごとく一気に開花し
全身のあらゆる箇所を蝕んだ。脊椎損傷のような現代医学でお手上げな傷に限っては、さしもの戦団有数の医療技術を
以ってしても完治状態を保持できるのは過酷な前線で戦い続けるのなら7〜8年、引退し静かに暮らしても2〜30年が限度
──直しきれなかった僅かな瑕疵が、日常的な磨耗によって年々無視できない大きな亀裂へと変じてゆく人間的摂理は避
けられない──であり、老年期に達すると一気に”ゆり返す”のだ。
不遇の多い犬飼倫太郎の生涯に一筋の光を与えたのは皮肉にも、祖父の持病と古傷であった。もしレティクルの蜂起が
1994年の大晦日以前であったなら、周囲を恨みつつも怪物化による復讐だけは良しとしない辛うじて正義側な精神は、
恐らく培われなかったであろう。
一線を退いた祖父は8ヵ月後の死出の夏まで時間のある時は必ず孫と過ごしていた。キラーレイビーズに合わせた追跡
術の伝授はもとより、大きな街へのショッピングや遊園地訪問、虫取りや雑談、ファミリーレストランでの昼食などといった、
普通の家族が普通にやるような他愛のない交流を限りなく重ねた。
大柄でカイゼルひげがトレードマークの、ハンドラーというより海賊の親分めいた偉容の犬飼戦士長は戦団にあっては
厳粛極まる上官として敬われており、犬飼自身、正月ぐらいにしか逢わなかった幼い頃は内心恐々とはしてはいたが、いざ
かれが退職すると評価は一変。自分に対しては妙に優しいというか『ゆるっゆる』な、そこらにいそうなおじいちゃんの顔を
よくする祖父に段々と、家族の誰より懐くようになっていた。
ハンドラーの家系にあって本物の犬が苦手という致命的な欠陥な抱えていた犬飼は、祖父以外の親族からは落ちこぼれ
と常に指をさされ笑われていた。
祖父だけは、しなかった。犬を好きになれとすら言わなかった。いつも連れている、犬というより馬ほどの大きさした黒い
生物を、孫と逢うときだけは他に預けていた。
犬嫌いの克服のきっかけを作った訳ではない。
戦士としての心構えを訓戒たれた訳でもない。
犬飼戦士長はただ1人の祖父として、それが持ちえて当然の愛情を、何気ない交流の端々で孫へ示していたに過ぎない。
平凡な形容になるが、人が、怪物にならず済むために必要な、ぬくもりというべきものを、無条件で、与えたのだ。
祖父がレティクルとの戦いで戦没して棺の中の人物となった時、犬飼は唯一の暖かな家族を喪ってしまった痛嘆の赴くま
ま、取りすがって一生分の涙を流しはしたが、不思議と恨みは込み上げなかった。
『大きな決戦がある。1人の戦力でも必要だ』。祖父が出撃前そう親族の誰かに話しているのを幼い犬飼は偶然聞いていた。
誇りに思いつつも、退役せざるを得なかったほどボロボロな体と突き合わせ、どこかで覚悟はしていた。
「ボク、戦士になるよ」
最後の交流は自宅でだった。雑談の割合が多かったが、思い出ばなしは極力避けていた。してしまうと、本当に祖父が
死んでしまいそうで怖かったから、気弱な犬飼は──『今までありがとう』が言いたくて言いたくて仕方なかったのに──
避けていた。
「ボク、戦士になるよ」
と何かの拍子で兼ねてよりの、しかし口に出せば不相応だとどこからか半畳を入れられそうな夢をポロリと漏らしてしまっ
たのは、有体にいえば『未来』を祖父に見せたかったからだ。未来を示唆しさえすれば、祖父は漫画か何かの主人公のよう
うに、窮地の中で未知なる力に目覚めて虎口を脱し、めでたしめでたしの有り様で自分の下へ帰ってくるのだと、論拠もなく
縋るように少年は思い込み……たかった。
「そうか」
祖父は可も非も述べなかったが……皺くちゃの眦が更に皺まみれになるほど目を細めた。
祖父を殺した幹部については、10年前の決戦の終盤、音楽隊リーダーらしき金髪の剣士によって絶息させられたとする
見方が一般的だ。だがもし仮に生存していたとしても犬飼はさほど殺したいとは思わない。
(ボクは……ボクらしくない考えだけれど、最後の対面の時、言いたいコトはなるべく言ったつもりだからね。何気ないコトに
なるべくお礼を言うようにもしてた。今までの気持ちを込めて……お礼を、ね)
幼いなりに覚悟はしていた。
戦士の家系に育ったから、死は市井の人間より身近で生臭い。ハンドラーの一族に生まれたから、いつか仲良くなりたい
と思っていた大きな生命が時に驚くほど呆気なく消散するのを知っている。
起こりうるコト、だった。
両親や親戚の口からたびたび聞いている勇猛な名前が訃報の主語になるなどザラだった。物心ついた時からしょっちゅう
傷を負い、危篤ゆえに『今度こそは難しいかも』と聞かされ蒼褪めたコトさえ──現役の頃はさほど交流はなかったが、実の
祖父なのだ、少年が逝去を恐れてどこが不思議であるだろう──二度や三度ではなかった。
10年前の決戦直前の戦団は、ぴりぴり、していた。入隊さえまだの10歳な犬飼さえも遠くから感ぜられるほどぴりぴりと。
『今度のは、ありえないほど大きくて厳しい戦い』と訳も無く腹が下るほどの雰囲気が漂う中、祖父が、ただでさえ老いと衰微
でなめし皮のような面の皮に重油を塗ったような”ただならぬ”顔色で孫(じぶん)を訪ねてくれば──…
最悪など想定して当然ではないか。
だから犬飼は幼いなりに永訣を、悔いなきものにできるよう、務めた。せせら笑われてきた落ちこぼれだからこそできうる
対処だった。齢10にして彼は、感情任せにやろうが、打算を組み立てようが、失敗し、後悔を重ねるコトがあまりに多い世界
の辛酸を嘗め尽くしていたから、祖父との最後になるであろう対面においては、いやだ行かないでと爆発させてしかたない
引き攣れた情感も、見栄やおべっかのような格好のつけたさも、やれば絶対後悔すると幼心に分かっていた。だから全部を
湿って絞られる喉奥に叩き込み、いつも通り振る舞った。
ただ1人、自分を人間として愛してくれた祖父が、愛してよかったとずっと安心できるよう、静かに、誠実に。
だから点鬼簿に蓋棺事定を刻まれてしまった冷たい祖父を見ても、悲しみ以外の負の感情は湧き起こらなかった。津村
斗貴子のようなほぼほぼ殺戮者といっていいホムンクルス全体への復讐心を得られなかった代わりに、周囲からの嘲笑へ
の感想を間違った形で爆発させかねぬ不安定さも持ちえず済んだ。犬笛の所持者以外総て噛み殺す狂犬病状態がデフォ
ルトと言いつつ、制御解除自体は、犬飼自身の完全なる任意で行えるキラーレイビーズなど正に証拠ではないか。奇兵奇兵
と言われながらも彼は、おのが武装錬金の狂的なる状態を、完璧といっていい統御の支配下に実は置けているのだ。
犬飼老人の死因は若い戦士を兇刃の軌道から突き転ばした直後襲い掛かってきた追撃だった。
肝臓破裂のショックと出血が引き金らしい。
庇われた若い戦士も4年後、発狂した信奉者の機関銃から幼い男児を守り抜いて世を謝(さ)った。
人を守り、死ぬ。
犬飼の密かな理想の1つではあった。されど無常にも彼はそれを成しうる実力が、なかった。人間のやっかいな屈折が
生じるのは、私利私欲を強く糾弾された時よりもむしろ、憧憬してやまぬ『暖かな正しさ』の体現者に自分がなれぬと思い
込んでしまった時である。
人を守る力が欲しい。最初は純粋だった気持ちが、心ない仲間からの罵倒や、うまくいかない焦りのせいで、功名心め
いた挑戦の意欲になるまでさほど時間はかからなかった。おぞましい、強い敵と戦いさえすれば、自分も強くなり、周囲から
認められるのだと、半ば鼓舞するような感情で彼はずっと、掛け違ってしまった思いを……続けていた。
奥多摩で敗北する、までは。
コ レ ホムンクルス
──『武装錬金は人に害を成す化物を斃すための力で』
──『人を殺すための力じゃない』
──『人を守るための、力だろ?』
(だからボクはアイツに腹が立つ。ヴィクターVに、腹が立つ)
きゅっと歯噛みする犬飼の眼前ではちょうど、レイビーズBの爪が木星の幹部の肩口をバシャリとドス黒くしぶかせていた。
ひひっという笑いが響き、漆黒の、水銀のようにプニプニした大小さまざまな無数の真球が、残影を描いて航空する少女の
毛筆の跡のような長い体にスゥっと吸い込まれ癒合する。ゲル状スライム状の磁性流体化の体に爪撃など効かぬ……分かっ
ていた筈の、しかし様々な理不尽な出来事のせいですっかり忘れていたコトを改めて突きつけられるのはまったく業腹だと
犬飼は、思う。
(ヴィクターVの件なんか正に……!)
武装錬金が人を守るための力であるなど、犬飼はとっくに知っていたのだ。人生の躯幹だった。羅針盤、だった。祖父や、
彼が命がけで救った若い戦士から、無言のうちに学んでいた。学んでいたからこそ、他者を救うために命を使いたいと心中
私(ひそ)かに望んでいたからこそ、犬飼は苦しんでいたのだ。
蔑んでくる周囲をそれ以上の武装錬金で、力で、捻じ伏せるという、一番分かりやすくて、楽な手段にだけはどうしても出
れなくて、だからずっと、伸びない実力という現実との板ばさみで…………苦しみ続けていたのだ。
確かにやらかしてしまえば制裁は受ける。だが……溜飲じたいは、下げられる。イジメっ子に石で逆襲して何が悪いと、そ
ういう論理だ。裁判では通じないが、人を小ばかにするコトでしか何事かを発散できぬような親族など、落ちこぼれに復讐さ
れても仕方ないではないか。
火渡ならやる。
戦部でも、やる。
強者なら選択する。自力救済に対する社会的な制裁さえ堂々と捻じ伏せただ一言。『俺を、舐めるな』。
されど嗚呼。犬飼はできない。想いがブレーキをかけたのだ。
『腹の立つ親族もまた家族なんだ、じいちゃんの、家族なんだ』。
……殴れない。
なのに割り切れぬ幼稚な精神性の持ち主はよく妄想をする。犬飼も、する。
親族らが強大な化物に襲われ絶体絶命という時、居合わせた犬飼にその怪物が『憎いだろ? それで復讐しな』と核鉄
を投げてよこしてくる想像の中の犬飼はいつだって、親族ではなく怪物の方へ武装錬金を差し向ける。親族が好きという訳
ではない。死ねばいいとは思う。だが見殺しは違う。直接殺めるのは、更に。逆に守ってやるコトが最大の復讐なのだ。お
前らは落ちこぼれのお蔭で助かったんだ、ざまあみろと、今際の際の網膜に、安全圏へと逃げていく親族どもを焼き付けて
やって、ようやく溜飲は真の意味で下がるのだ。高邁をぬくぬくと貪る奴らだからこそ不可能な、『じいちゃん』の誇り高き
生き様を、犬飼だけは何の立場も有さぬからこそ……できるのだ。したい、のだ。
ひねくれた自己犠牲の、精神。
見失っていても、見失ってはいない正しい心。
なのにヴィクターVは。
犬飼にとっては、やがては人を、祖父が守り続けてきた世界を、ただ害していくだけの『怪物』に過ぎなかった少年は。
犬飼という、人を救う夢のため、苦境のなか辛うじて人道を守っている青年を。
ただ功名心に駆られた理念なき有象無象の戦士として扱い……高所から説教を、した。
──『人を守るための、力だろ?』
(わかってんだよとっくにそれ位…………!)
心に秘めた、したくてもできない正心(ゆめ)にまるで気付かず落ちこぼれ扱いしたのだヴィクターVは。親族と、同じように。
もちろん犬飼の正心(ゆめ)など、再殺当時の立ち居振る舞いからは到底察しようも無い、埋もれた、分かり辛いものでしか
なく、故に彼がヴィクターVを無理解と詰るのは難癖でしかない。
ただ、戦士が怪物に説教されるのは立腹だし、何より前段の犬飼の機微からすると『ヴィクターVは人を見殺しにしたら
自分も怪物確定で死ぬしかないから、だから説教して助けた、自分が助かるため綺麗事を弄した』という想いはずっとわだ
かまっていた──そもそも犬飼だって、『ヴィクターV』の真情の総て知っている訳ではないのだ。向こうが自分を理解して
いないように、自分も向こうを正しく知悉してはいない……という所にまでは卑屈な考えは及べない──から、
(ボクは、アイツを……憎む)
オマエ
頚動脈を切った理由のうち、『小さな方』の1つである。怪物が無理やりポケットにねじ込んできた命だから捨ててやるとい
う当てつけの気持ちは他に別個として佇んでいた『首を切る、最大の理由』を電撃的に後押しした。
しかし、状況は、悪い。
(に、200メートルはあった距離が……!!)
軽く振り返った円山円は、仮面様に顔面覆う風船の薄膜越しに見える黒ブレザーの少女の、突如として近(おお)きくなっ
ている輪郭に背筋を粟立たせた。
50メートルを、切っている。
(あ、あれだけ犬飼ちゃんが苦労して稼がせてくれた距離が……!)
75%減!
頚動脈切断に端を発する数々の策謀の重合で捻出したロケットスタートによる彼我の距離200メートルの実に75%が!
(15秒で! 削られた……!!)
悪夢のような出来事はまず照星の生首の全力投擲から始まった。先ほど根来の奪還を危ぶむあまり携行していると指摘
された筈の彼女の思わぬ行為に犬飼が刹那のあいだとはいえ攻めあぐねた瞬間、無数の弾丸が生首めがけ嵐のように
放たれた。
(まさか!)
思うころにはもう遅い。円山めがけ170メートルほどスッ飛んだ照星の生首は弾幕の先陣を切る耆著に辺り蕩けた瞬間、
後続する黎(くろ)い水平霖雨を天の河でも飲み干すように受け入れながら、右側頭部をぼこっと波打たせた。ガスの浮いた
干潟のように薄かった泡は瞬く間に角立ち、角は飴細工の倍速再生のように捩れ、分岐し、枝を不可視の力でねじって伸ば
したように整えながら少女の形へと再生した。すなわち、イオイソゴ=キシャクそのものへと。
同時に耆著を放った方の肉体はいつの間にか白い裸形もむき出しになっており、それは次の瞬間、胸から下を溶かして
散らす。木に降りかかったそのしぶきが如雨露で軽くかけた程度の物に留まったのは恐らく、先ほどの無数の弾丸の中に
肉片の殆どがまじっていたせいだろう。
「ひひ。外道風に言おう。一分の魂で動きしイソイオゴ=キシャク、ここに殉教(まるちり)を遂げまする。──」
指を立て得意気に消滅するイオイソゴの傍を通り抜け、
(……知っていたのに、阻止、できなかった…………!)
犬飼が歯噛みするのもむべなるかな。銀成で既に割れた筈のネタにまんまとしてやられたのだ。イオイソゴ版の任意車は
ムーンフェイスとはまた違った分裂の厄介さを孕んでいる。魂を込めた耆著を種の如く他者の肉体に植え付けそこから再生
できるのだ。この手段で銀成におけるイオイソゴが、斗貴子たちを足止めする直前、金星の幹部グレイズィングの肉体に隠
れ潜んでいたればこそ、足止めのイオイソゴが根来の奇襲に端を発するブレイズオブグローリーの直撃を受けたにも関わら
ず、絶息をまぬかれ、再生できた。
ああ、だがまさかその『他者の肉』にまさか照星の生首を使おうとは! 先ほど指摘されたように手放せば根来に取られる
やも知れぬのにまったく大胆不敵、イオイソゴは初手から危険を犯した!
(ひひっ。どうせ乱戦になれば試せぬ仕儀よ。根来に回収されるのは確かにまずくはあるが、わしの”ぺぇす”で呼び出せる
場合に限りそうではない)
肉片ごと融かし授受したらしい。再生したスカートのポケットに手を入れ絶大な期待を滲ませるイオイソゴ。何を隠し持っ
ているかは不明だが、根来が照星に釣られた場合、それで斬るつもりだったのは明らかだ。妙手という他ない。そも一撃で
斃せるはずの犬飼を放置して円山を追うと決めたのは、根来の存在があるからだ。犬飼を、”かまける”と根来に奇襲され
る隙が生まれるから放置しているという構図は、言い換えれば根来さえ初手で排除してしまえば犬飼→円山の順番で悠然
と各個撃破できるというコトに他ならない。
(……ひっひっひ。どうやら根来めの判断力は健在であるらしい。そうだわな、場が煮え滾ってもない時に奇襲をかけても
意味は無い。照星の生首を手にできても、直後すぐさま斬り伏せられたら無意味……じゃからのう)
まったく巧者という他ない。根来が出ればよし、出なくても円山との距離は縮められる任意車の授受であった。
果たして再生の硬直分だけ伝令に前進され距離を開けられたイオイソゴだが、それでも!
差し引き! 結果! たった! 15秒で! 200メートルあった円山との距離を50メートルにまで、短縮!!
犬飼に構わず追跡に専念という基本方針が見事図に当たった形である。
(ひひっ。斯様な距離であれば根来対策の鳴子はとうに円山をも圏内に捉えておる。忍法人くい花に転化し奴ばらを呑む
のも可能じゃが……その隙に、鳴子を解いた瞬間に奇襲されてもつまらん)
イオイソゴはあくまで根来を『引きずり出す』つもりだ。犬飼と円山を悠然と絶体絶命に追い込んで、それを助けに『出ざる
を得ない』状況を作る算段……。
スカートの中にある謎めいた、形見と称す、『短刀ほどの長さの、柄ある武器』を小さな指で撫でる。
(爺御の怨念を武装錬金特性で……昇華すれば、しーくれっととれいる何するものぞ……!)
.
追われる円山は絶望しかない。
彼には僚機がいた。キラーレイビーズA。先のロケットスタートのどさくさに紛れ下半身をパージしたAは、その縮小ゆえ
万一円山がバブルケイジのスーツを喪った場合、騎(の)って逃げられなくなってしまったが、見返りとして中空を飛び回る
──奥多摩における戦いで見せていたあの状態だ──コトが可能となった。
その機動性であれば、乱射の大半は、弾ける。しかも残るBからDは犬飼ともどもイオイソゴの傍……。円山への射線を
抜本的に大きく逸らせる。つまりAの役割は運悪(よ)く届く残弾掃討であるから、1体でも申し分は、ない。
(そう思っていたのに、乱射ならばいなしつつ合流地点へ行けると思っていたのに……!)
15秒で、余剰距離の75%が減殺された事実は震撼するに充分だ。
犬飼の戦慄は円山以上。
(何とか引き離さないと!)
かれの乗るキラーレイビーズBをCが咥え……轟然と投げ放った。森の未舗装な地面を駆ける限り中空飛び回るイオイソ
ゴを決して抜けないのがレイビーズだ。(だから追いつかれ、この戦端が開いた)。
だから軍用犬で軍用犬を投げる。もちろん捕捉前多用できなかったのを見ても分かるように、乗組員への重力の負担とか
多用したいならピッチャーをどう追いつかせるんだとか、諸々の問題と無理を抱えた手法だが、ああしかしイオイソゴと円山
の距離は50メートルを切っている! やらざるを、得なかった!
(ひひっ)
万朶の枝の中、磁力加速で青々とした葉を何枚も回し落としながら円山めがけ滑翔していたイオイソゴが不意に全身ごと
振り返った。すぐ後ろを追撃していた犬飼が(攻撃される……?!)と戦略的な期待を交えつつも本能的恐怖で臓腑を痢の
感触にくつろげた瞬間にはもうイオイソゴ、傾いだ独楽の如く全身を倒しつつ旋転を始めている。前方への全力シュートか
ら後方へのオーバーヘッドなるコンボなどサッカーにはまずないが、そういう、体勢だった。
パっと見は黒タイツな鎖帷子に覆われた榾(ほた)の如きなよなか左足を右に向かって鋭く切り上げ→同方向に胴体もん
どりうって遊泳→余勢の赴くままポニーテール側からリクライニング→体重の旋転を乗せた左足の蹴りを──…
といった滑らかで流麗な動作はおよそ一瞬の間に完了したため犬飼が実際目撃できたのは、結局。
マサカリの如く肥大化したドス黒い左足が滑腔したての砲弾のような唸りを帯びて迫っている、風景。
すぐ、理解した。即死だと。居合いの前の藁束だと。浴びれば最後、胴体が両腕ごと、豆腐でも切り分けられるように真
一文字に断ち割られると理解した犬飼は乗機たるキラーレイビーズBに回避を命令。果たしてそれは叶ったが彼の消えた
地点の背景を占める木々に一条の眩い銀閃がきらめいた瞬間イオイソゴはニンマリと会心の笑みを浮かべる。
「王手、飛車取り。──」
ぞっとするほどの艶笑だった。外観の、7〜8歳のあどけなさに、臘(ろう)長けた人ならざる魔性の笑みを彫り込む少女。
そも七罪と幻三罪を標榜するレティクルエレメンツにあって大食を司るイオイソゴであるがその食人衝動はホムンクルス由来
のものではない。人だった頃から既に人肉を貪ってやまなかったいわば人鬼なのだ。で、あるから、そのおぞましさは、忍び
としての絶大な自信と相まって微笑に凄絶な構造色を与えている。
しかし王手飛車取り? いや、犬飼を狙った以上王手であるのは疑うべくもないが、飛車とは?
おお、見よ。彼女の髪を、見よ。後ろに束ねているため決して長くは見えぬ彼女の髪がうぞうぞと、それ自身生命あるも
のの如く蠢きながら伸びている! すみれ色の髪が、水中に没したかの如く四方八方へたゆたって、いる!
「あっ」
と犬飼が目を剥くころにはもう遅い。少女が瞬き1つの間に4〜5mまで生長した驚倒の毛髪はもう絡め取っている。犬
飼を、ではない。先ほどマサカリ状の足が雷光と共に薙ぎ払った木を、だ。
(マズい!!)
遠ざかっていく円山と自分たちの中間点に、先ほど自分を投げたC含む2頭のキラーレイビーズを急行させる犬飼。速度
的に矛盾があるよう思えるが、裏技だ。
(”こんぼ”かい。武装解除→再発動で付近に召喚しなおし……急行、と。ひひ、どうやら核鉄に戻るのは犬笛らしい)
考えれば当たり前のコトだった。手元にある、コントローラーたる犬笛が核鉄に戻るのは。してみると犬飼が己の直掩たる
CとDをちょうどすっぱり『真希士の核鉄ゆらい』の武装錬金で纏めたのはけして偶然ではないらしい。
ともかく軍用犬2頭を咄嗟に急行せしめた犬飼の配剤はまったく見事という他ない。なぜならば正にその時その場所に毒々
しい紫の蔦が巻きついた巨木が破門の勢いで衝き込まれていたからだ。
忍法念鬼もどき。髪を操る忍法だ。早坂秋水決死の飛刀に比ぶれば意思なき樹木を支配するなど実に容易い。もちろ
ん追撃で移動しつつだから、頑健と根付く木をすぐさま丸ごと引き抜く力はないが、手足をナタのごとくする忍法小豆もどき
で伐採したものであれば話は変わる。
飛車とはつまり木だったのだ。撞木の如く断面の側から2頭の軍用犬へ雪崩れ込む大木。決して中型犬ほど小さくは
ないキラーレイビーズたちの勢いは、勁(つよ)い。急行直前それぞれ地面や木をカモシカのような後ろ足で蹴り上げてい
るためその体当たりは2m級のヒグマであれば即死させうるものであった。
相ぶつかる犬と樹木。クリアな波濤が飛び散った。撞木は確かに一瞬いきおいを、弱めた。が、飛びかかりなど畢竟使
い捨ての弾丸だ、空を舞いつつの防御姿勢である以上軍配は、駆動可の質量大なる方に上がる。むべなるかな、髪の
後援で鬩ぎあいをば突き破る大木。旋転しつつ後方めがけ蹴散らされる犬ども。
香車2枚が剥がれた空間の彼方に見えるは玉。円山。飛車は、ゆく。
「えおりゃあーーッ!」
両目を不等号にしながら明るく、しかい名状しがたくもある奇声をあげ髪で大木を投げつけるイオイソゴ。これは忍法と
いうよりホムンクルス調整体であるが故の膂力だろう。
もはや、ミサイル。後方に引きずる梢が緑の噴炎と見まごうばかりの勢いで円山めがけ水平に飛び始める大木。
(ご、豪快……!)
犬飼は気を呑まれる。老獪なるイオイソゴから想像もできぬやり口もまた、予想外。
(ひひっ。忍びだからとて地味に攻める必要はない! 火遁ば知るのじゃー! 派手で目を引き勝つのも忍びじゃあー!)
力任せでも、勝てばいいと景気よく割り切り、
「さらにさらにーーー!!!」
背後から円弧えがく爪撃を倒立しつつの跳躍で回避するイオイソゴ。しっかと樹木に結わえた髪に引かれニューっと円山
めがけ凄まじく推進し始めたのが偶然でないのは「わっはっはー! 大成功じゃー! わーい!」と逆さながらに”へそ”覗
かせつつバンザイ三唱で笑顔な彼女からいやというほど見てとれた。意外な気のよさに犬飼はちょっと祖父を想像し、あや
うく親近感を催しかけたが慌てて抑える。
(遠投で円山を狙いつつ自身も加速……! 耆著すら、使わずに…………!!)
厳密にいうと忍法念鬼もどきの髪の延伸は頭部に内蔵した耆著もたらす磁性流体化の毛細管現象の結晶であり、犬飼
もその辺りは分かっている。『使わずに』というのは、外部への話だ。犬飼は足止めたる自分に1発でも多く無駄撃ちさせる
コトで円山への狙撃とか、加速追跡の手数を僅かなりと減らそうと思っていた。イオイソゴが根来対策で何がしか鳴子めい
た物を仕掛けると──だいたいだ、葉に石を投げて出現を危惧させたのは、耆著の鳴子で自分たちへの弾丸を削るため
でもあった──鳴子めいた物を仕掛けるのであればなおさら無駄撃ちさせる意義は、大きい。
(ひひ。それが分かってて誰が撃つかよ)
口元は悪辣にゆがむが、ずんぐりとしたどんぐり眼だけは星映す湖面のように、わっくわくと澄んでいる。材木に引っ張られ
て飛ぶ非日常(アトラクション)が子供らしく、楽しいらしい。
イオイソゴ⇔円山間の距離、残り37メートル。少女を結んで飛ぶツリーミサイルの速度は、速い。
(後はゆるりと運ばれるまで……)
「させるかああ!!!」
裂帛の気合と共に三叉する光線が凧糸の如き濃紺の髪に迸った。「ひ?」 一瞬の浮遊感のあとくるりと翻り足裏で別の
木の枝を撓ませ前方へ跳躍したイオイソゴが、黒ブレザーなびく風の中で。
前方の下界で変わらず円山めげか直進する木をうむうむと認めた後。
ちらりと後ろに向けた大きな瞳に、映したのは。
主人を乗せ、2頭の軍用犬(なかま)と共に咆哮しながら追ってくるキラーレイビーズB。それらの爪牙には、髪──…
「ほほう? ま、木と結ぼれるため内部のごく僅かな芯以外、融けてはおらんかった髪じゃ、ひひ、断たるるは当然……」
だが一定の加速は得られている。撞木めいたミサイルに一瞬とはいえ引っ張られたのだから、当然だ。その余勢の赴く
まま髪を伸ばし手足を延ばし、飛び移っていくイオイソゴ。その俊敏さたるや熱帯の猩猩の如く。──
(…………)
速い、追いつけないと思った瞬間もう犬飼の犬笛は犬達を犬死させかねぬ残虐な命を下していた。
キラーレイビーズCが、Dの襟首を咥えて、ブン投げた。イオイソゴが鼻歌交じりで髪を結えようとしていた枝が粉散らしつ
つほぼほぼ爆散のいきおいで砕けたのは、八宝菜の中の小エビのように背筋を丸めた哀れなDが激突したせいである。
(ほ、砲弾……)
檜臭い砕片の雨の中、やや呆気に取られながらも次なる移動に移りかける老練な少女の背後で、残影が、受肉した。
「そっちも同じコトしてるんだ。言わせないよ、文句は」
犬飼は乗騎ごとイオイソゴを貫通した。砲戦を巨大プリンに仕掛けたような水音が響いたが、当然ながら致命傷では、
ない。
(ひひ。まーた自分を投げさせたか、れいびーずに)
丸く抉られた胴体へ逆再生のように黒い飛沫を集結させるイオイソゴ。追い抜かれ……目撃する。円山と自分の間に、
いまだ一颯の血けむりを首すじに雲烟と纏う眼鏡の青年が、着地する軍用犬に跨りながら壮絶なる眼光で射抜いている
のを。
(貫かれたんだし、肉片付着させて何かやっといた方が良かったかの? でもそっちに神経使うと円山逃げるし、根来に
付け入る隙やっちゃうしのう……。んー。でも……。なんじゃ。今とは言わんが──…)
犬飼は、思わぬしつこさ。普通の者なら苛立ち始める頃だが、ちょっと立ち尽くしたイオイソゴはポリポリと、困ったような
微苦笑で頬を掻く。温和な老農夫が意固地な幼児に出くわしたような一種牧歌的でもある表情だ。
(時よどみ……。使わざるを得んかもな)
かつて鳩尾無銘が早坂秋水を死線に追い込んだ恐るべき魔技の炸裂や、如何。──
時はごく僅か逆行するが、円山。
(当たったら、死ぬ!!)
気配に振り返った円山は、ミサイルと見まごう巨木が飛んできているのを見た瞬間、ほとんど泣きそうな表情をした。が、
同時に戦士としての冷静な部分は両膝に風船爆弾を展開! 破裂の空気圧で上方へ逃れる。複数層のお蔭で1発2発の
耆著なら着弾してもむしろ加速できるが、大木の直撃となると話は別だ。上着2枚重ねてるからミサイル当たっても大丈夫
といえる人間などいない。バブルケイジはシルバースキンではないのだ。唸りを上げて飛んでくる木に激突されたら『円山ご
と』破裂して、終わる。
ああ。先ほど確かに長い針であれば攻略できると考えたイオイソゴ、だがこの木(はり)の長さは全く人智を絶している!
果たして紺碧の箒を備えた甚大なる柄は円山の下スレスレをすり抜けた。僚機たるキラーレイビーズAもまたスイっと避
ける。レトロなシューティングゲームのオプションのようだった。
(なんとか、よけ……)
安堵は轟音で掻き消された。それが、イオイソゴの、何がしかの忍法による直接的な作用であったのならば、まだ円山
は一種の僻みを向けられた。多彩な技なるものはいつだって『ご都合主義』『後だしジャンケン』などと、持たざる者に、奇
妙な特権意識を以って蔑視されるものである。が、円山が眼前の現象に対しそれとは対極的な、心魂の銷失を伴う『見事!』
という評価をありありと感じてしまったのは、ごくありきたりの収束が見事なまでに利用されていたせいだ。
梢。落着して地面にナナメに突き刺さった大木の、梢が。
円山の眼前いっぱいに、広がっている。
高速飛翔体に対してこれ以上はない、最悪なる進路妨害だった。(あ、あの幹部、ここまで考えて、木を…………!!)。
真正面から梢に衝突すれば当然ながら、止まる。伝令として、戦団の集合地へ逃げている最中の円山が、止まる。背後に
追っ手(イオイソゴ)が居る、状態で。
(マズい! このままじゃ、激突──…)
「レイビーズ!!!!」
叫号の主人。駆け巡るA。枝という枝を鋭い爪で剪(き)り飛ばし進路を開く。だが咄嗟の出来事でもある。切除し損ねた
枝の幾つかが大木とすれ違う円山の風船(スーツ)にびしゅびしゅと引っ掛かり裂け目を作る。即座に破裂するほどひどい
傷ではないが、それまで後方の一方にのみ集中噴出していた空気の、不規則な箇所からの漏洩は明確なる減速となって
円山を苛む。
(パージ……。いや駄目! 枝がまだある状況で破裂させたらすぐ下のがすぐ駄目になる! バブルケイジはあくまで風船
……! 膨らませる時間が要るから、激戦のような速攻的な再生は……できない!!)
つまり枝に引っ掛かるたびパージすればやがては風船(スーツ)が割れ尽くし……円山がむき出しになる。それは停止と
同義である。上への軌道修正もまたできない。さきほど大木を避けるとき、原住民的な枝どもスレスレに高度を上げている
からだ。倒木の梢を避けて生木の梢に突入……とはいささか本末転倒だろう。円山は、倒木と生木の間に開いた僅かな
隙間をゆくほかない。
(だ、だから、ちょっと減速しても、最外郭が割れ尽くすまでパージはできない!! 枝! は、早く通り過ぎて、早く!!)
なおも懸命に枝剪るレイビーズAの傍、胴体着陸さながらのおぞましい震動を枝と奏でながら飛んでいく円山。ざわざわ
という、薄手のゴミ袋を揺すったような葉の音をBGMに陥っているのは、いっそ自害したくなるほどの悪循環だった。速度
が落ちれば枝地帯からの離脱が遅れる。遅れると枝の作る傷が増える。速度が、落ちる。ばきばきと枝が折れ灰色の虫
食い目立つ黄葉が舞う。
(このままじゃ、止まる!)
思った瞬間、キラーレイビーズAが体当たりを敢行していた。前方へ飛ぶ衝撃にガックンと首を揺らした円山は最初意図
を掴みかねたが不快な枝との軋轢が霧消しているのに気付いた瞬間(強引に、脱出させた……)と気付く。
(い、犬飼ちゃんらしくない有能な判断ね…………)
風船が、弾けた。パージでいくらか加速したが、ロケットスタート直後の勢いは、もうない。時速80キロ台後半というところ
だろう。
振り返る。仁王立つ犬飼の後ろにイオイソゴがいる。距離は微増の41メートルなれど未だ危険領域。
円山。合流地点まで…………352メートル。
だがもう、150メートルもなかった。
犬飼が絶命の窮地にある時、”ある座標”の亜空間から出現した根来忍が、イオイソゴの『秘奥』の1つの直撃を許してし
まった運命的な刻限まで──…
150メートルと、なかった。
……。
そこまでの攻防はいよいよ出血多量で頬を黄土色の土の如く染め上げる犬飼倫太郎の、正に最後の輝きというべき壮
烈なる攻め口に、イオイソゴ=キシャクの幻妖奇怪を極める歪な技の数々が黒炎の如き熱量で衝突し弾け散る無限獄。
円山はもう、言葉さえなかった。スーツの加速が一段落するのも待てないとばかりそわそわと何度も首だけねじ向け後ろ
を見る。
乱舞する犬の爪牙を木立ともども電瞬の速度で潜り抜けながらも、時々犬飼の奇策で後ろへ飛ばされながらも、なおも
執拗に加速する木星の幹部の表情に怒気や殺意はまるでない。白く濡れ光る乳歯を、渋みのある痙笑に釣りあがる唇の
狭間からきらきらと覗かせながら、楽しげに、楽しげに、好物に向かって突進する幼童のような無邪気な意欲を双眸に灯ら
せただひたすら──…
追ってくる。
弾かれようが、叩かれようが、忍法を阻まれようが、
笑いながら、追ってくる。
(犬飼ちゃんの、見たコトもない強烈な攻撃が何十発も決まっているのに……!)
背中に、肩に、頭に。耳を覆いたくなるほどの乾いた音を伴う、大砲の着弾のような轟きを浴びているのに、少女は一瞬
黒くしぶくだけだ。眉1つ、動かさない。すぐ再生して負うという生易しい一拍すら挟まぬ。濁流のようであった。磁性流体化
した肉体のどこが吹き飛ばされようが、イオイソゴ本体は、放擲された玉すだれのような粘塊を保ったままいっこう速度を
緩めずただただ、びっしゃあと円山に向かって迅激する。多少押し戻されても犬飼には目もくれず、狂ったように、追って
くる。
それが円山には恐ろしい。徹底される原則のみが有する、整然を超距したおぞましさに肝を冷やす。
視認のためか。加速のため黒く融けるイオイソゴは時々顔だけを原型に戻す。全身は、もともと人の形が磁性流体化した
ものであるし、何より追撃のための実利的な理由から、140cmほどのタイ米のような流線型であるものの、少女の顔は
その両端から生えるとは限らない。手足を毟られた華奢なプラモデルに、腕や腰、背中や腹部の好きな箇所に頭部を接続
できるギミックがあれば間違いなく気持ち悪がられるだろうが、イオイソゴはそれだった。人智ではありえからぬ首の生え方
であった。ゲル状の宇宙生物に喰われたいたいけな少女の生首があっちこっちからはみ出ていると形容した方が正しいの
かも知れない。太ももパーツを付けるべき腰から45度のさかさになって瞬きしたり、背面飛びのさなか人面瘡のごとき凹凸
が円山の網膜にショックを与えたりと、おぞましさの枚挙に暇はない。
みな、笑っている。
鼻の低さが愛らしい少女だからこそ却って凄絶だ。あどけない目を何か見つけた子猫のようにまんまると見開きながらも、
魔魅の如き怪笑に引き裂いた頬へ胴ぶるいするような色香をねっとりと纏わせている。円山が、忘れていたはずの”男”を
危うく欲情の紅い炎に絡め取られかけた程その美は魔界めいて濃艶だった。それでいて、きらきらと吹き付けるような少女
特有の清純な気風をも漂わせているのが却って狂的、凛呼とした可憐な佇まいは異性をふるいつかせずにはいられない
食虫植物の妖しさだ。
実際彼女は処女であった。銀成での足止めの時こそ経験があるよう言ってはいたが、それらは総て人間だったころから
既に使えた任意車と他人の肉片で練り上げた分身の出来事……。淫靡きわむる幻燈図を恐れるあまり、くの一の最大責務
は総て総て分身に肩代わりさせた。だから数々の経験をトラウマのごとく心に刻みながらも、イオイソゴ本体の純潔だけは
生まれ落ちてからこっち555年ずっと清浄に保持されている。
なのに、ああ、蹂躙された牝の記憶はある! 豊麗な手管を尽くしてきた妖婦の形質もまたある! だのに処女だけが
有する清楚の香りも散っている!
女性的な円山でさえ捨て去った筈の性欲を刺激され、きりきりと歯噛みするのは矛盾を極めるイオイソゴの色香ゆえだ。
もはや見るだけで懊悩の袋小路に追いやられてしまう。津村斗貴子に先日破られた胃の発するぎりぎりとした痛みに風船
(スーツ)の中で蒼褪める円山。知らず知らず半開きになった口は突き出す舌さえからっから。
(ああ、悪意がないっていうのが逆に、逆に…………!)
円山は気付いた。気付いてしまった。木星の幹部の顔つきがせいぜい、『戸棚にまんじゅうを見つけドドドと走る子供』ぐら
いのレベルであるコトに。
だからか、一種”からっ”としているのだ、攻め口は。円山側こそほとんど心神耗弱しかけている恐るべき打ち筋の数々
ではあるけれど、イオイソゴの方は不必要に絶望を煽ったりはしない。性明朗なる天才少女棋士がバッチンバッチンと
景気よく駒を盤面に打ち付けている程度のあっけらかんとした方略だ。ただ、だからこそ、始末は余計に悪くもある。三下
丸出しでニタニタと無用な示威をかましてくる方がまだあるのだ、付け入りようは。
なのに、景気よく、打つ。
それでいて要所要所ではキッチリ心を折りに来るから
(無邪気さと老獪さの同居が、怖すぎる……)
狡猾な幹部だから、見た目相応の明るい態度は仮面なのだろうと円山は思っていたが、否と評伝、改めつつ、ある。
どっちも本当の顔であるらしい。それが陰陽の如く入れ替わり立ち代わり出現する。ある意味、どうしようもなく壊れて
いるのかも知れないし、逆に感情を完璧に統御できているからこそ無邪気な側面を無防備にさらけだせるのかも知れ
ない。分身と本体の、処女性のズレが合一と共に奇妙な競合をもたらしてきた可能性も或いはだ。
ともかく磁性流体と化した黒い颶風が吹き荒れるたび円山との距離は如実に縮まって。
追いつかれるまで……29メートル。
だが希望も、ある。
(この道は、通った道。盟主とコトを構えたあの見張りの場所まで行くとき通った道……)
だから円山は知っている。
(あと『150メートル弱』で……森を抜ける。合流地点に使われている村まで約200メートルってとこなんですもの、自然
に開拓されてて当然よ。ともかく、そこからは平地。森が終わり、木がまばら……だから!)
イオイソゴは、これまでしてきたような枝から枝への加速を封じられる。減速の目があるという訳だ。
だが相手もそれは知っているようだ。温存していた耆著をいよいよ乱射し始めた。黒いつぶては予定通り3頭のレイビーズ
によって弾かれているが……スーツは、2層目まで割られるようになってきた。万全だと自負していた全4層のうち半分が、
呆気なく突破されつつある。加速の恩恵こそあるが、イオイソゴも正念場と速度を上げる。近づけば近づくほど命中精度と
着弾数は……上がる。
(……っ! このままじゃジリ貧! 私も何かしないと……殺される!)
犬飼を役立たずだと思ったからの考えではない。むしろ彼は全力以上の全力を尽くしている。今なら津村斗貴子相手で
も相当の善戦ができるだろうとさえ思っている。
(けど問題なのは……敵が強すぎるというコト! 死力にイオイソゴの戦略的不利を加えてなお埋まらぬほど実力差があり
すぎる! 加勢しないと! 逃げながら……加勢しないと!)
相反する考えだが、しかし立て続けに策を打つ犬飼をずっと見てきたのだ円山は。だいたい円山自身の着想だって、盟
主相手にバブルケイジの使い方を切り替えた瞬間、大きな転換点を迎えている。彼の思考力もまた夜明けの墓場で胃を
裂かれた時とは違う、違うのだ。
(私だって……しなきゃ! 知恵で無理を覆す程度のコトしなきゃ……ダメよね!)
イオイソゴに重ねる幻影のような津村斗貴子を振り払い、円山円もまた動く。
落ちこぼれだった犬飼。だがその熱はいま、人を、世界を、動かしつつ、ある。
(犬飼めが妙に賢(さか)しくなっておるのは恐らく)
中村剛太の影響だとイオイソゴは分析する。今夏犬飼がヴィクターVに負けるに到った遠因は、突き詰めれば剛太の策
謀だ。
(”るぅきぃ”が、10代より戦士をやっておった己を降した衝撃的事実から、奴め無意識ながら学んだな。『策は経験を覆す』。
ひひっ。弱者ゆえの特権に──…)
目覚める機会(チャンス)を与えたのは結局……ヴィクターV武藤カズキ。彼が剛太を止めなければ犬飼は再生の道さ
え許されずその生涯を終えていた。
(……難儀な、恐ろしい男よ武藤かずき)
イオイソゴたちレティクルが、彼の不在を狙い蜂起したのは偶然ではない。意図的だ。居る時に繰り出せば幹部2〜3人
説得で無力化されやがて負けるとは未来を識るウィルの弁。だから月に消えている僅かな期間を決戦の刻とした。
(にも関わらずその残した火の粉が……予想外の形でわしに纏わりついておる)
対象の時間間隔を限界の彼方まで遅延したあげく精神的老衰死を遂げさせる恐るべき忍法・時よどみ。
犬飼への使用を検討しながらもここまで使わずに居るのは警戒ゆえだ。
(武藤めに『太陽』を見る者は……多い。さんらいとはーとの号を与えた津村斗貴子。名を呼ばれたぱぴよん。魔道から掬
い上げられた早坂姉弟。未来の希望と呼んだのは防人衛。関わる者は大なり小なり……『太陽』とそう想い、正しき方へと
歩んでいく。同じ太陽を冠する盟主さまと違うのはその点よ……)
犬飼は認めないだろうが、その、滾るほどの熱もまた太陽がなければ得られなかった物だろう。警戒していた太陽の、
強い残り火を嗅ぎ取るイオイソゴは粛然と身を締める。
(『正心』。忍びが喪えばやがて報いを受けるいわば肝要。ゆえに強い正心(もの)抱く相手に忍びは弱い……!)
絶対の、論理だ。剣豪に勝てても剣聖に勝てぬのが忍び。本家本元の時よどみが破られた事例さえある。
さすがに犬飼は剣聖ではないが、
(こやつから匂い立つ雰囲気は……きわめて正心に近いところが…………ある! 雑魚と見縊り生半な時機で時よどみ
をば仕掛ければ滅ぶのはわしの方……!)
ほぼ一撃必殺の大技であるからこそ、掛け終わるまで硬直を余儀なくされる弱点もある。硬直すれば円山が、逃げる。
犬飼への過分にも思える警戒感を差し引いても、うかと使えぬ戦術的な筋道が、あるのだ。
(そも無銘めが早坂秋水に敗北したきっかけもまたこの忍法……。ひひっ。『無銘めとの関係』を考えると、わしまでもが
時よどみを濫発するのはまずい、まずいのう)
硬直を、根来に衝かれる危険だって忘れていないイオイソゴだ。観客の立場で見ればいささか勿体ぶった、じれったい
感じはいなめないが、絶大な秘奥を有しながら温存できる忍耐力はまったく見事でもある。
.
..
自刎してまで行っている足止めが、全く奏功せず距離を詰められている現実にしかし犬飼は不思議と動揺していない。
(いつもの、コトさ)
自嘲を込め心中笑う。何か大きな役目を与えられるたび、彼はそれが自分を決定的に変えるきっかけだと意気込んで、
自分なりの全力で挑んできた。だが結果はいつだって失敗だ。ドラマや、小説の主人公なら、落ちこぼれであったとしても、
ごくごく序盤で達成して、勇躍の端緒にできる、ゲームでいうなら1面のボス程度の、『難しいこと』を、しかし犬飼はここまで
達成できず終わってきた。
だから、慣れている。ヴィクター級と目される幹部たちの中でもとりわけ重鎮とされるイオイソゴ=キシャクに自分の行動
が何一つ通じていない現状には焦りよりむしろ「またか」という思いの方が強い。
(けど今度は……、今回だけは……掴めてきた)
100の耆著をイオイソゴの掌から弾き飛ばせたとき芽生えた
──(なんだ。ボクだって……やろうと思えば…………やれるじゃないか)
という自信は、彼自身気付いていない中村剛太の観察力(えいきょう)で、イオイソゴ攻略の道筋をつけつつある。
追撃戦が始まる前、犬飼は、した。円山と、会話を。
──「あの幹部、並みの打撃斬撃は通じないって話よ?」
──「わかってる。レイビーズでただ攻撃するだけじゃムリ臭いってのは」
──「何せ戦士中トップクラスの高速斬撃を誇る津村斗貴子のバルキリースカートや」
──「武装錬金ではない、普通の日本刀ですら相手を大小ごと両断できる早坂秋水の振るうソードサムライXでさえ」
──「あの木星の幹部に傷1つ負わせられなかった……からね」
彼ら以上の速度や攻撃力で仕掛ければ或いは、だが、嗅覚による敵追跡こそが本懐のキラーレイビーズが突如として
津村斗貴子以上のスピードと、早坂秋水をも軽く凌ぐパワーを手に入れるなどというコトは原理的にいって有り得ない。
イオイソゴにはエネルギー攻撃が有用だとはいうが、それもまた、軍用犬では……ムリだろう。
それでも『1つだけ』……試したいコトがあると彼は言った。
『試したいコトがある』と。物理攻撃完全無効の幹部だが、牙や爪しかないレイビーズでも理論上は斃せると。
──(かなりの集中が必要だけど、いまある能力の1つを総動員すれば…………可能性は、あるッ!!)
だが追跡能力こそメインのレイビーズでどうやって? イオイソゴが恐れる根来忍に津村斗貴子や防人たちが合流した
6人の集団相手に互角以上の戦いを演じた対拠点殲滅用重戦兵器・鐶光が、津村斗貴子と早坂秋水と他2名と組んで
なお斃せなかったのがイオイソゴではないか。犬飼はその「他2名」にさえ劣ると老嬢に評されているのに、どうやって?
(磁性流体化の弱味を、衝く!)
いったいどういう話か。以下、犬飼の思慮に任せる。
(磁性流体化で打撃斬撃を無力化しているといっても、それは打ち込んだ耆著の特性あらばこその話! 木星の幹部が
溶けてもバラバラにならず動けている以上、打ち込まれた耆著は溶融しているにせよ原型そのままであるにせよ奴の体内
に残留し微細な結合の操作を受け付けている筈! ならば!!)
犬飼に逆転の目はある!
や
(レイビーズで……嗅ぎ分ける! 奴に打ち込まれている耆著の匂いを嗅ぎ分けてその地帯を……攻撃る!!)
いわば経穴の攻撃だ。犬笛(セーフティー)を取り上げられ敗北した犬飼だからこそ辿り着けた着想だ。そう、体を融かして
打撃斬撃を無効化している武装錬金(セーフティー)なら摘出すればそれで済む。戦士の武装錬金に置き換えて考えた場合、
一番このモデルケースを説明しやすいのはシルバースキンだろうか。やや荒唐無稽だが、構成材たるヘキサゴンパネルを
1つ、すうっと抜き取るコトができればそこから攻撃が通る……といった感じだ。
もっと世俗的にいうなら『不定形な相手は、核(コア)を狙え』だ。耆著は鍼であり核であった。打ち込んだ場所を人肉とろ
ける経穴と化す恐るべき鍼であり、核であった。で、あるから犬飼はそこを狙う。
(耆著が溶けているなら破壊は無理に思えるだろう! けど! 弾き飛ばすコトならできる!! 磁性流体化を促している
部位をレイビーズの嗅覚で見極めて弾き飛ばせば……)
周囲は、肉体へと、戻る。
(”それ”を……章印周りで! やる!!)
実行できれば、犬飼でさえ、イオイソゴを……斃せる! さもありなん、磁性流体化さえ解除すれば、武装錬金(レイビーズ)
はホムンクルスの章印を貫いて……殺せる。
だがどうして斯様な王道的な攻略法を、銀成で足止めされた5人は思いつけなかったのか。いや! 厳密には浮かんで
いた! だが津村斗貴子も早坂秋水も鐶光も栴檀貴信も栴檀香美も、耆著を、核を、ピンポイントで見つけ出す手段を
……有さなかった! 当たりさえすれば破壊ないし排除しうる斬撃はあった! 斗貴子と秋水は持っていた! 不定形に
対するもう1つの最適解、丸ごと焼き尽くすを敢行する火力もまたあった! 鐶と栴檀2人が所持していた! だが耆著の
みを捜す手段は……なかった! 唯一嗅覚が期待できるネコ型の香美でさえ、ああ、なんと言う運命の不具合! マンゴー
という柑橘系を調整体の一素材とするがゆえの、イオイソゴの仄かな匂いは、柑橘を嫌うネコ型の香美の嗅覚をかきみだ
すから、たとえあの場の誰かが嗅ぎ分けろと命じたところで確たる成果は望めなかったろう!
しかも磁力で融けた部位を動かせるイオイソゴだ。攻撃に合わせて『核』に該当する耆著の位置をずらすなど朝飯前。
ともかく! 探査こそ本懐のキラーレイビーズであれば嗅覚を以ってイオイソゴの核を嗅ぎ分けるコトはできる!
同時にそれは、イオイソゴを怨敵と睨む犬型の鳩尾無銘もまたこの意外な攻略法を実践できるというコト!!
むろん犬飼は、照星誘拐直後わずかに遭逢しただけの少年(チワワ)に意外なヒントを与えうる立場になっている運命の
おかしさまでには気づけない!
なんにせよ、無駄に思えるレイビーズの攻撃を繰り返し続けたのは総て耆著の所在を見極め……否! 嗅ぎ極める為!
武装錬金とはいえ元はイオイソゴそのものだった耆著である、匂いはさほど違わない。融けた肉から漂うマンゴーの、ねっ
とりとした香りもまた判別を妨げる。きっと彼女が『マンゴー』という、漆よろしくかぶれるだけが取り得の無難な植物を、調
整体の構成材料に選んだ理由はそこなのだろう。核の弱点に繋がりかねぬ耆著の匂いを塗りつぶすためマンゴーを選んだ
のだろう。
(それでも匂いの、微細な違いは分かりつつ、ある! 問題は速度だ! 見極めてすぐ耆著を弾き飛ばさないと…………
移動される恐れがある! これほど老獪な幹部なんだ! 章印周りの磁性流体化には尋常じゃないほど気を配っている
筈! こっちの微妙な仕草から耆著を嗅(きづか)れたと気付いたら速攻で移動させるか反撃してくる……!)
秋水たちが嗅覚を持たなかったように、犬飼は攻撃力を持たない。スピードも。
(どうする……? そこさえクリアできれば斃せるんだ。考えろ。考えるんだ)
奇運とは、あるらしい。正にその時だったのである。円山円が助援を検討し始めた瞬間は。
そして。
最大の駒もまた、奇襲に向けて動き出す。
亜空間の中で、マフラーが泳ぎ出す。網目状のぎらぎらした水光をゆらめかす直上の、膜(ブレーン)へと、イオイソゴと
『あと2人』を下からの一枚絵でくゆらせる水面へと、鍔を鳴らした金色の忍者刀が、持ち主と共に浮上(うか)んでいく……。
決まりさえ、すれば。
円山円の後押しと根来忍の奇襲が最高のタイミングで決まりさえすれば。
犬飼倫太郎はイオイソゴ=キシャクを打倒しうるのだ。
(ひひっ。しかしむしろそれこそがわしの狙い!)
心中、黯(くろ)く嗤うイオイソゴ。おお、戦歴500年がどうして気付かずんばあるや! 嗅覚するどい軍用犬と事を構え
どうして耆著排除の動きに繋がらぬと楽観できるか!
読んでいる! 木星の幹部は、読んでいる!
再殺部隊3名の連携が、己が章印への致命的一撃に繋がるだろうと……読んでいる!
(で、ある以上、防げる訳じゃが……ひひ。万一章印を……もちろん磁性流体化なしでの話しじゃが、章印を貫かれたと
しても…………『問題は、ない』)
不死、という訳ではない。少なくてもこちら側のイオイソゴは絶命する。
(が、絶命するからこそ伝令を阻める!)
魔法のような話だが、魔法と違わぬのが忍法。──
(『山彦』。わしの受けた”だめぇじ”を視界内総ての相手に与えるわざよ)
先ほど彼女が『磁性流体化さえ解除すれば円山を殺せる』といった両断必須の忍法こそこれである!
嗚呼、確かに根来が潜んでいる時に磁性流体化を解除するのは自殺行為。
だが! その『解除』が犬飼の、決死の思慮の策謀の果て訪れた逆転の一撃に因(よ)る物であれば!?
根来の絶妙きわめるタイミングでの奇襲さえ絡めた上での『解除』であれば!?
(引き込める……! 連中に疑わせることなく、忍法山彦の”かうんたー”に……引き込める……!)
つまり! 再殺部隊3名があい協同してイオイソゴの、すぐ背後に心臓が佇む章印を深々と貫いた場合!
(貴様らも同時に、死ぬ……!!)
だから犬飼の、耆著を探るような動きを黙認し、放置したのだ。練習さえさせてやれば、成長著しくなっている犬飼はやが
て章印を狙ってくるだろうと『信じた』から、好きにさせてやったのだ。
まったく恐るべき狡猾さと言わざるを得ない。
とまれ山彦で犬飼以下3名を葬れたとしても、ここのイオイソゴは心臓ごと章印を貫かれる都合上、絶息は免れない。
が、そこは忍法任意車のしもべである。魂魄は盟主の傍に切り分けておいた方の本体(ぶんしん)へと回帰し復活する。
伝令を阻み、根来をも斃した上でゆうゆうと凱旋できる…………。
あとは愛しい鳩尾無銘を喰えるまで、アジトで手薬煉(てぐすね)引いて待つだけだ。
(……。ま、唯一恐ろしいのは、わしが山彦を発動したタイミングで、盟主さま近習のわしが殺されることじゃが)
『根来がこちらに来ているという仮定で話を進めるのであれば』、近習のイオイソゴを一撃で殺しうるのは盟主だろう。
任意車の弱点もまた磁性流体化攻略法と同じぐらい平易である。
『分身するなら、分身全部同時に斃せばいい』。
つまりこっちのイオイソゴが、根来以下3名を道連れにして死ぬ正にその瞬間、近習の方のイオイソゴが盟主などの手に
よって殺害された場合……いかな忍法任意車といえど術者の魂魄を戻すべき肉体を喪い……瓦解する。しかもメルスティー
ンに関しては磁性流体化解除など考慮すべくもない。特性破壊の大刀を有するのだ。犬飼たちからすれば魔人のごときイオ
イソゴでも、盟主は鼻歌混じりに斬り伏せられる。しかも近習のイオイソゴは近習であるが故に、盟主に山彦をかけられない。
当たり前の話だ。かれの所在を戦団につかませぬよう奮戦している守護者がだ、その守るべき対象を殺すなどどうしてでき
よう。もう顔の上半分は、青紫から肌色の帳(グラデ)が降りている。黒い血管を外郭に血走らせた真円の白目でがっくがっく
と戯画的に震える。
(い、いかな盟主さまといえど、こちらの状況に合わせて近習の方を殺す知覚はない筈……!)
生唾を呑みながら、考える。
(そう。カメラか何かで携帯にこの辺りの様子を映しているとか……、或いは『遠見貝』のような遠方を知りうる忍法でも
使っておらぬ限り……、絶対に、絶対に)
優れた忍びほど予想もつかぬ裏切りで殺されるのを知り尽くしているイオイソゴだからこそ、万一を恐れもするが、(いや
いや向こうのわし避けれるもん! 油断せんかったら盟主さまの攻撃でも避けれるもん! 万一殺されてもぐれいじんぐ
同行しとるし! いやほんと頼むぞぐれいじんぐ、蘇生してくれよ!?! おま、お前な、この前かふぇで”けぇき”とか”こお
ひぃ”奢ってやったんじゃからな、頼むぞ本当死んだら無銘喰えなくなるんじゃぞわし!)と胸中の虚像にぶんぶんと、馬の
尾ごと顔を振らせる。
落ち着いた。
余裕ある老嬢の顔つきに、奸悪なる笑みを湛える。
(ひひ。仕掛けてこい犬飼ども。死ぬ為に、な…………)
(章印を狙う。生き延びる手段はそれしかない……!)
(私は犬飼ちゃんをアシストする……!)
最善手の先に待ち受ける罠に気付かず意を高める犬飼と円山。
(イオイソゴ=キシャク……)
亜空間の中、酷薄な瞳を更に冷然と吊り上げる根来忍。
仇敵たる伊賀忍者、『とある2人の』間にある。
様子を窺う白皙なる紀州の忍び、目論見に気付いているのか、いないのか……。
近習のイオイソゴは盟主と、グレイズィングに同行している。
『太陽』の幹部と、『金星』の幹部の間に……ある。
【ある作家たちの対談記事】
(上半分と作家名が塗りつぶされている)
■■■「……とんでもないタイミングでしたね、根来」
×××「ええ。何しろ仕掛けたのが金(記事はここから破れている)」
犬飼と円山の近くのイオイソゴがずっと感じている『影からの殺意』。
それは近習が感じているものか、否か。
だが犬飼には近づいている。
彼と、彼の祖父の運命に意外な関わり方をしていた1人の男は、確実に犬飼へと、近づいている。
……。
10年前、音楽隊のリーダーに征伐されたというレティクルの幹部。
その兇刃から犬飼の祖父に守られた若い青年には弟があり、その家系は……紀州の忍び、であった。
前へ 次へ
第100〜109話へ
インデックスへ