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第106話 「タングステン0307(後編)」




 負け犬と、くの一の、構図。

(嗅覚でイオイソゴの胸周りの耆著を見つけて排除し……章印(きゅうしょ)を貫く!!)
(心臓ごとやるがいい! 忍法山彦で返してやるわ!)

 なお山彦は自ら胸を貫いた場合でも『視界内の敵』総て道連れ可能だが、根来への警戒感がそれを押し留めている。そ
もイオイソゴの想定する彼は、『わしが山彦を使えるのではないかと疑っておる』いわば黄信号の状態にある。そんな敵に、
不自然な自殺の挙措を見せ付けるのは、いよいよ疑念を赤信号へと到らしむだけの悪手でしかない。

(わしが自殺に移りかけた──フリも含む──場合、奴は速攻で山彦の存在を確信する。犬飼か円山、あるいは両方をわ
しの眼力の及ばぬ亜空間に退避させる!)

 どちらか片方が戦士の合流地点へ到達するだけで敗北なイオイソゴだから、片方または両方が山彦を逃れ生存すると
あれば、それはもうまったくの打ち損死に損だ。

 老獪なる少女は最低でも、犬飼と円山両方を山彦の餌食としたい。欲をいえば乱入してくる根来さえも道連れにしたい。

(そのため重要なのは犬飼決死の攻め手が、わしの想定をも上回ったように……『見せかけること』! その上で、『犬飼
の予想以上の奮戦のせいで、急所を狙われる破目に陥り、決死の様相で最後の一撃を押し留めている』という、ごくごく
自然な姿を演出せねば……釣れんよ、根来ほどの男はな!)

 賭けに、出させるのだ。根来が忍者ゆえにその筋で高名きわめる『山彦』を警戒するのは当然だが、他方、自分とはまっ
たく無縁の犬飼の、予想外の大健闘が戦局を、あともう一押しでイオイソゴを打破しうる所にまで運んでおり、しかもイオイ
ソゴが、もう一押しされたら終わりだとばかり全力全開の守勢に回っているのであれば──山彦を持つならまず考えられな
い対応をしているのであれば──、根来が罠を疑いつつも、

(わしの策を逆手に取って押し切るコトも可能と判断し打って出る率は、高い!)

 千歳の件で煮え滾っている『とすれば』、行動パターンが攻撃的になるというイオイソゴの読みは……感情準則の観点で
なれば、正しい。

(そして最後の一押しは忍法でも真・鶉隠れでもなく根来みずからが振るう全力の斬撃!)

 仕留めるならば当然の選択だ。で、あるからこそ、彼は射程内に入ってしまう。術者のダメージを敵に与える忍法山彦の
有効射程距離に、入ってしまう。『イオイソゴが、犬飼からのトドメを防がんと尽力している』土壇場であるから、根来には
再殺部隊の同僚2名を亜空間へ退避させる余裕がない──全力の一撃に総てを傾注せざるを得ない──から、結果3名
が心臓へのダメージを返される……という木星の幹部の期待、決して誇大でもないだろう。

(問題は──…)

 幼い忍びはちろりと円山を見た。風船スーツを纏いいまだ高速で遠ざかっていく円山を。しかしそれから彼の下に視線を
移したのはどういう訳か。

(まだ103めーとる、か)

 森閑たる暗影にチロチロと落ちる黄金の斑(ふ)を見やりながらイオイソゴは嘆息する。さながら暗緑の蝙蝠が如き葉が
頭上にびっしり止まっている。(功罪。忘恩……。暗夜に、鴉)。木漏れ日は、僅か。影は己のものか葉のものか……。

 とにかく根来と犬飼に手間取れば円山が逃げる。盟主の所在を握った伝令が戦士の合流地点へ逃げ延びる。それは
忍びがもっとも忌むべき情報戦の敗北だ。主君への総攻撃だけは何としても避けたいのがイオイソゴ。円山が1ミリメート
ルでも合流地点から遠いうち勝負を仕掛けたくて内心やきもきしている部分もあるが、かといって

(犬飼からわざと致命傷を受けるのもまた、不自然……)

 何故なら相手が犬飼だからだ。この場合でも根来が山彦を確信する、してしまう。

 だから結局イオイソゴが、忍法山彦をきっかけに、犬飼・円山・根来の3人に致命傷を負わせるには

『ギリギリの読み合いを制しトドメに移った犬飼相手に、決死の抵抗をするが、あと一押しで負ける体勢』

 へと陥ってしまっていると、そう見せかけなくてはならない。ただ難しいのは、本当に追い詰められてしまうと、根来に対処
できないという点。『傍目からは本当に切羽詰っているようにしか見えないが、根来に対処する余力だけは温存している』と
いう状態をキープせねばならないのだ。だいたい犬飼に真正面から章印を狙われた場合、心臓に達しきる前に、つまりは
イオイソゴが『人間にとっての致命傷を、人間どもへ返せるようなる前に』、幼き忍びは死んでしまう。さしものレティクルエレ
メンツ重鎮といえど章印を無防備に貫かれれば死ぬのだ、即刻。言い換えれば犬飼、イオイソゴの心臓まで貫いてやる義務
はない。

(で、あるから……後ろから襲わせなければならん…………! 後ろからで”れいびいず”の爪を章印めがけ貫通されれば
『心臓へのだめぇじを奴らに返せるが』、『章印への到達じたいは防げる』。しかも背中から狙わせるのであれば『間近にい
る犬飼に、どうして吸息かまいたちなどの火力高き忍法で対処できない』という不審さを薄められる……! ほとんどの忍
法は──時よどみ含め──眼前の相手にこそ届けやすいもの、じゃからな……)

 もちろん犬飼を背後に置いた場合、正面で逃げ退る円山と共に山彦の視界内に収められない問題点もあるにはあるが、
そこは髪を動かせば解決だ。忍法念鬼もどき。背後からの奇襲を『いかにも咄嗟に』受け止めた風に装う髪で、犬飼を前に
やる。根来については、『イオイソゴが背後の犬飼に気を取られている状況なら』、奇襲はマイナスかけるマイナスがプラスに
なるような道理で、直近正面、虚空からの公算が高い。その奇襲と合わせるべきだろう、犬飼の、移動は。

(それ以外の方面からだったとしても、150めぇとる圏内の木や地面をぬけてきたのなら例の鳴子を人くい花の要領で変形
せしめ捕捉! 同距離の虚空または鳴子圏外であっても、鳴子の転用で、捕縛!!)

 いずれのケースでも磁性流体の触手で根来を犬飼もろとも円山と同一視界に収め山彦発動!

 方策じたいに抜かりはない。だがイオイソゴの心を不安に戦(そよ)がせるのは膚(はだえ)で炸(はじ)ける奇妙な感覚。

(……。やはり違和感が、ある。第六感への感応というより……極めて物理的な感触というか。それが証拠に……)

 ぴりぴりとした痺れは磁性流体化している部位にだけ、来る!

(磁力の乱れ……? いや、なんと言うか、もっと根源的な、電磁気力の反応というか……。強いて言うなら、そう、強力な、

『電波』

の密集地に行った時の感触……?)

 やはり何かがおかしくなりつつあるとイオイソゴは、思う。そもそも犬飼という、再殺部隊の中でも最弱の男を、銀成市で
津村斗貴子たち名だたる5人をほぼ完璧に封殺したイオイソゴが、一撃で葬れて居ないこの構図じたいが言ってしまえば
既におかしい。
 もちろん円山の追撃や根来への警戒といった諸々な要素を抱えている身で、足止めのため生存を放棄しているいわば
死兵の犬飼にうかと手を出せば、思わぬ抵抗にしてやられるかも知れぬと警戒し、無視を決め込む判断力じたいはあな
がちマズくもない。

(……じゃが、どこか、慎重になりすぎてはおらんか…………? 数多くの忍法を有するわしじゃぞ? 片手間で、隙を作ら
ぬ程度の、小さな奴をちまちまと重ねるだけで犬飼を落とせるのかも知れぬのに……なぜ、わしはそれをせぬ……? な
どと考えるのは焦れはじめているからか? それとも…………『何か』に誘導されている心を戻そうとする……作用…………?)

 頭を使って戦う忍びならではの不可思議な懊悩だ。

(一度、ある)

 何が、か? 心をありえからぬ方向へ誘導された経験だ。それも策謀ではなく、武装錬金特性で。

(音楽隊首魁・総角主税の嘗ての朋輩……。扇動者(あじてーたー)。はろあろ……いや、当時は外道うつほと名乗ってい
たか、ともかくも蒼然たる『矮躯』の少女。10年前そやつとわしは戦ったが…………その時の心理誘導が、ちょうど、今の
ような…………)

 ぴりっと、肩口の肌が、痺れた。冬場に静電気が走った程度の刺激だったが、イオイソゴの思慮はそこで止まる。

(…………)

 一瞬、きらびやかなドングリ眼からあらゆる光が消失したコトに犬飼は気付かない。音楽隊の鐶光より虚ろな、電源が
落ちたアンドロイドのような眼差しに、イオイソゴ=キシャクは刹那の百分率の間、確かに、陥った。

 再起動。

(あれこれ考えても仕方ない。ひひ。円山はもう眼前。犬飼を振り切り致命の一撃を繰り出した場合でも根来や来る!!
犬飼を振り切れなかったとしても、”かうんたぁ”を警戒しているであろう奴をば無理やり勝負に打って出させること可能!)

 余計な思慮は命取り……その考えもまた、正しい。決定に、他律の干渉が無いのであれば……だが。

(ま、一番いいのは犬飼を葬り円山に迫りといった、わし絶対有利の状況で根来がやむなく出てくる場合じゃが)

 数多くの戦士が蠢く新月村とその近辺。幻影じみた電波を感知できたのは、イオイソゴのほか──…

(なんにせよ、もうすぐ、森を、抜ける……!!)

 残り101メートル。

 此方彼方の戦速のみを主眼にこの追撃戦を論じるなら、イオイソゴはそれまでに決着すべきであろう。先ほど円山自身
も考えたコトだが、木星の幹部の速度とは、無数の枝を利した立体的、野猿的な加速に負う部分が大きい、それは事実。
しかも追うべき円山は、森を抜け、平地に出ると、機動性と回避率を大幅に上げる。上下左右を塞いでいた木々がなくなる
からだ。故にマニューバの自由度が飛躍的に上がる。耆著の乱射を、避けやすく、なる。

(つまりわしが追いつけなくなると、奴らが期すは当然よ。……ひひひ。ま、否定はせんよ、確かに追いつけなくなりはする。
…………『速度』では、な)

 愛らしいどんぐり眼を、萱(かや)で切った様に細めるイオイソゴの腹臓や、如何に。

.

..

(……結局、ボクは、”ついで”なんだろうな)

 49メートルの間くりひろげてきた攻防の感想だ。犬飼の頬が自嘲と怒りで暗くゆがむ。決して手を出してこないイオイソゴ
からつくづくと分かったのだ。『コイツは勝負の瞬間”ついで”でボクを殺しにかかる』。

 本命の根来を引きずりだした瞬間、”ついで”でサクリと葬れると確信しているから、どれだけ円山追撃を妨害され、神経
を逆撫でされても、不快感の1つさえ向けてこない。慈悲? 違う。最大の、侮辱だ。要するに木星の幹部は犬飼を、後で
かろく始末できるから、最後に帳尻が合わせられるから、今は捨て置いて支障なしと、その程度にしか見られていないのが
ありありと分かった。

(頚動脈を切断して、あれだけ策を、練ったのに……)

 戦略的に恐れているのは盟主の所在を握り集合地点めがけ高速飛翔する円山で、戦術的に恐れているのは銀成市で
因縁を作った奇襲とステルスの申し子たる根来。死力を尽くしている犬飼については円山と根来を始末するための、ていの
いい道具程度にしか見ていない。(厳密にいうと向こうは、自身の命運を賭けた一世一代の大芝居に組み込むほどに、犬飼
の死力を大いに評価し恐怖(おそ)れているが、しかし本質的には『ていのいい道具』だろう)

(章印への一撃だってきっと読んでる……だろうな。ボクが決死の思いで繰り出す一撃すら、こいつにとっては)

 根来を呼び出すための……エサ。

 犬飼の再生の道は、剛太から学んだ策謀だ。なのにそれは振るい始めた今日さっそく挫かれつつある。戦歴500年のブ厚い
壁に、また自分は粋がった傍からヘシ折られるのかと暗澹たる気分に陥り金切り声さえ上げたくなる。

 心底、いけ好かない幹部だ。なのに『老人』という共通項のせいか、時おりふとした瞬間に祖父を重ね合わせてしまうのが
犬飼はたまらなく不愉快だ。円山の形容を借りるなら『孫相手に景気よく打っている』。取った大駒を片手でぽゥんぽゥんと
お手玉しながら、将棋がまだまだだとからかうような、成長を楽しんでいるような、そんな目を老嬢が差し向けてくる瞬間いつ
も犬飼は不覚にも祖父との対局を思い出し、懐かしさに囚われてしまう。……というのが、忍びゆえの情報収集力を基底と
する来歴(じぶん)への攻撃(ゆさぶり)であったなら許しがたいとも青年は、思う。
 だから犬飼倫太郎はイオイソゴ=キシャクを……嫌悪する。

(けど……学ぶ!!)

 奮い立たせる言葉は皮肉にもイオイソゴの言葉。毒島からの又聞きの言葉。『わしの武装錬金は幹部中、最弱』。以前の
犬飼なら『これで最弱かよ』と歯軋りしただろうが……今は違う。剛太から知らず知らずラーニングした弱さゆえの思考力が、
いま1つの考えを呼ぶ。失血状態にある脳髄が、首を絞めた時のような爽やかさに彩られているのも大きかった。

(弱い武装錬金だからこそ、この幹部にだってボクのような時代は……有った筈だ! 慎重さとか老獪さとかは、ボクのよう
な時代にやらかし続けた失敗ゆえだろ。やらかしたから、怖くて、根が臆病で、だから下手に攻めるのを恐れている!)

 そして。弱い武装錬金ゆえにしくじりが多かったのであれば。

(どう扱えば勝てるか……考え抜いた筈!)

 学ぶとは真似ぶ。弱さゆえ思考に縋る犬飼は、弱さゆえ狡猾を極めたイオイソゴに……真似ぶ。

(変えるんだ。仕掛け方そのものを抜本的に! 参照するんだ大戦士長の首なげてボクらの上いったコイツの攻め口を!!
構造的に、根幹的に、前提を崩しボクらの策をダメにした木星の幹部のやり口を取り入れてやり返さなきゃどうにもならない!)

 犬飼は、伝統を持たない。一族代々の犬を使ったハンドラーのカリキュラムを、犬嫌いゆえ受けられなかった犬飼は、人々
が正道と崇める精錬の打ち筋を身に付けるコトなく成人してしまった。戦士の教育課程についてはどうだったかといえば、奇兵
と呼ばれている時点でお察しだ。一度、横道に逸れてしまった者は、天稟を持たぬ限りその我流は我意どまりになってしまう。

 だが! だからこそ! 忌むべき怪物の巣窟の重鎮から『カッ込む』という伝統破りを敢行できる!!
 それより派生する独自的な戦術戦略が、終戦後行われた戦団の戦没者追悼式典において真先に顕彰される犬飼倫太
郎の、『死ぬまでの時間』いかなる化学作用をもたらしていくかは後段に譲るとして。

(諦める訳にいくか! 手の内全部読まれているとしても……諦める訳に、いくか!!)

 祖父と、祖父に助けられた若い戦士が頭を過ぎるのは……遥か先、飛んで逃げている円山を見たからだ。

(お前は逃げろよ。生きろよ)

 やわらかな笑みの傍でまた散った碧血が粘っこくけぶる。

 イオイソゴと、円山の距離……41メートル。一時は29メートルというほぼほぼ扶寸の距離まで追いつかれた犬飼だったが、
死に物狂いの攻勢によってどうにか恐るべき忍びを12メートル後退せしめた。

 それでも気を抜けば総てが瓦解する状況に代わりはない。仮に円山を逃がしきったところで、頚動脈をみずから切断してしまった
犬飼は、イオイソゴを斃せても斃せなくても……死ぬ。

(だとしても……足掻き抜くさ)

 ここからの、二転三転する激闘を思えば、或いは最後の、静かな心機だったのかも知れない。激情(つなみ)の前の静謐でも
またあった。

(アイツですら、バケモノですら……)

 冷たくなる体と、霞む脳髄に浮かんだのは、なぜか最愛の祖父ではなく……嫌いで嫌いでしょうがない少年だった。

(バケモノですら……諦めなかったんだよ! アイツは確かに偽善をボクに押し付けた! 腹の立つ綺麗事もたくさん吐いた!
けどまだ……貫いてはいた、だろうが! 戦士でいるコトを許されなくなって……見下されて脅かされるようになったのに…
………レティクルの盟主や木星の幹部のような諦めた眼差しで害悪を振りまくようなコトだけはしなかった……だろうが!!)

 犬飼はヴィクターVを怨んでいる。肯定する気もさらさらない。だが憎むべき相手でさえ成しえたコトを成せず終わるのは
屈辱だ。

(アイツですら……地球を…………救ったんだ)

 だから。

『怪物にはならず、正々堂々と周囲を見返す』

という理念を貫かない限り犬飼は、救われてしまった命の措(お)きどころを到底この世に持てそうにない。ヴィクターVが英
雄じみた行動を取ってしまった今、彼に負わされた犬飼の汚名はもう、復讐という手段ですら挽回……できぬのだ。

 万一斃せたとしても周囲は決して、認めない。

(円山が……伝令が…………離脱するための、僅かな…………2秒とか、3秒とかの時間でも……稼げる、なら、そいつ
が……戦団全体の勝利に繋がるっていうんなら……きっと、アジトとか掴んだだけの功績よりデカいし…………尻尾巻いて
逃げ帰ってきただなんて陰口だって叩かせずに済むだろう、な……)

 頸動脈からの出血は、現代医学ではほとんど止めようがない。激昂で跳ね上がった心拍数のせいだろう、一颯の血しぶきが
買い立てのケチャップを全力で絞ったような勢いで出て行った。標準的なプリンの容器なら一瞬で満たせる量が、霞がかって
何の木か分からない樹木の根元をびしゃりと穢す。犬飼の暈(ぼ)けた目は他人事のようにそれを見た。

(フン)

 理想どおりの形だ、ヴィクターVめ、お前の助けなんか、まだるっこしい馴れ合いだったんだよ結局は……と毒づく犬飼。

 円山は、遠ざかっていく。

 それだけのため捨て石になるのを厭わぬ犬飼は気付けない。

 命がけで誰かの命を救うという点では、奇兵の誰よりも、そう、『一緒に戦え』と好意の微笑で誘った戦部よりもずっとずっと
……犬飼の方が、ヴィクターVに……武藤カズキに近づいてしまっている事実に……気付けない。

(馬鹿ね。犬飼ちゃん……)

 哀切の滲む自分に円山は少し驚いた。縮めた斗貴子をトリカゴで飼おうとしていた位には人心が佻(うす)い筈に、今は
犬飼の決死の足止めに胸が痛んでいる。妙な話であると自分でも思う。今夏のヴィクターV再殺において犬飼をちゃっかり
利用していたのは誰だという話だ。

 だのに心が揺らぐのは、彼が自分を救うため命を賭けているのもあるけれど、

──分かってるよ。後ろに、安全な場所に下がればいいんだろ。何てったって無事戻れば勲一等なんだ……!」

 盟主と会敵してしまうまえ犬飼が吐いた言葉のせい。

──「ボクを馬鹿にした連中をやっと見返せるって時に誰が下らない無茶なんか……!」

──「ヴィクターVの時の二の舞は避ける、直接戦闘など避けてやるさ……!」


 何事もなければ今度こそ評されたかも知れない青年が突き落とされてしまった死の運命に円山は嗟嘆する他ない。

(……根来。どこに居るのよ。また私を身代わりにしてもいいから……)

 犬飼を助け、イオイソゴを退ける奇襲を…………切なる願いは叶うか否か。

 そして、犬飼は。

「行くぞ!!!」

 イオイソゴの加速の気配よ挫けよとばかり怒号を上げる。

 続くレイビーズ2頭は決して無傷ではない。攻防の余波は確実に筐体へヒビを入れ、削り取り、溶かし、見るも無惨なあ
りさまを張り付けている。レイビーズCは顔の右半分からむき出した機械部分に線香花火のような火花を散らし、レイビー
ズDは左前足を根元から欠損。後ろ右脚も膝から下が辛うじて繋がっているという有り様。

 犬飼の騎(の)るBは各所の装甲の微妙な剥がれさえ覗けば比較的無傷だが、回避の酷使の代償だろう、四肢の各所か
ら黒煙が噴き始めている。精神が具現化した武装錬金としては奇妙な話だが、どこか貴公子然としたかぐわしさの第四石
油類をフレーバーとする『モーターの焼き焦げる臭い』さえ漂っている。オーバーヒートのせいか乗り組む犬飼の衣服は焦
げ臭く、首を直接触っている掌にいたっては先ほどベロンと皮がめくれた。

 イオイソゴの選択した忍法は吸息かまいたち。同時にルーチン・ワークのような閃光が万朶の枝の中を駆け巡り、緑色
の花束を降らす。ひゅるっ、ひゅるっ、ひゅるっ。木星の幹部が唇をすぼめるたびグロス単位の花束は蜃気楼の渦に巻き
込まれ弾け飛ぶ。理由、だった。射程距離50メートルの吸息かまいたちを有するイオイソゴが圏内に収めた円山をいまだ
撃墜できていない理由だった。彼らの通過するところ割れ砕けた枝が散らばり、淋漓(りんり)たる蛞蝓の赤黒い足跡が
壮絶に彩る。

 イオイソゴは狙ったのか、どうか。勢いづいた木片が円山に迫る。自動(オート)。ただならぬ眼光をぎらつかせ迎撃に
移るキラーレイビーズA。爪が、弾いた。

 円山の傍で遊撃を引き受けているAとて既に述べた通り下半身を自らパージしているし、爪にいたっては耆著を弾き
続けたせいで末期的な齲歯(うし)の如き様相を呈している。

 吸息かまいたち阻止後すぐ犬飼が章印狙いに移ったのは、円山との距離が遠いからだ。(相手が相手! 距離がある
うち勝負に出る!!)。肉薄しつつある軍用犬3頭をしかしイオイソゴは薄ら笑いを以って迎え撃つ。

「忍法鵜飼い。──」

 あっと犬飼が息を呑んだのもむべなるかな。激射。無数の漆黒の糸がイオイソゴの全身から円山めがけ一直線に伸び
すさった。糸はどうやら彼女の纏う黒ブレザーから発しているらしく、それが証拠に、糸が延伸するたび彼女の服は毛糸を
ほどかれたセーターのようにみるみると丈を短くしていく。長袖が瞬く間に半袖になり、子犬のようにふっくらと短い二の腕
を剥き出しにした。まだくびれさえない、なめらかな腹部は生八橋のような色合いでモチッとしており、へそときたら小指を
生地にちょっとだけめり込ませた程度の慎ましさだ。半裸……とまでは行かないが、ハの字に周縁されるみぞおちや、洗
濯板のように起伏するあばらは衣服の端々から糸をあたかもダイヤ・グラムの入り組み具合で発する少女の通常ありえ
からぬ構図的座標と相まって、一種艶かしい幻妖の怪奇図だ。

 ともかくも、黒糸。伸びすさったというがいまだ彼我の間には落下中の枝が充満している。なれば糸は阻まれ円山に届か
ないよう思えるがしかし違う、まったく違う! 糸の先端には鈎針があった! 鈎針はあちこちでトトトッと、枝の太さも問わ
ずお構いなしに突き刺さり、それこそまるで魚を釣り上げた時のように糸の撓みも露に跳ね上げる。同じ現象は周囲で次々
と起こりつつある。皮肉にも、吸息かまいたちを防ぐため犬飼が伐採した無数の枝が、イオイソゴの全身から伸びる無数の
黒糸に、メデューサの髪の咥えたバラの如く、轟ッと振り上げられつつある。

(円山に投げる……!? だが糸なら切断できる!!)

 さきの忍法念鬼もどきで得た学習要綱の赴くまま滑翔するCとD! だがその動きは俄かに止まる!

「待っておったよ。それを」
(なっ……!)

 後ろから、だった。2頭の軍用犬は後ろから、首と四肢の付け根に、鈎針を……打ち込まれていた。よほど勢い余ってい
たのだろう。糸がミシミシと張り詰め僅かに揺れている。恐るべき制止……? いいやたったそれだけではない! イオイ
ソゴの十指から伸びる黒色の、衣服ではなく肉体を磁性流体化した十本の忍法鵜飼いは、少女が両掌をひらひらと動か
した瞬間、ス、ス、スと、2つのキラーレイビーズの、右前足、左前足、そして口を双方まったく同時かつ順々に動かした。
 そのあいだ犬飼は犬笛を吹いていない! にも関わらず軍用犬が動くのは!
(操作している……! こいつがボクのレイビーズを……!
(忍法鵜飼い! 追撃しながら使えばむしろ足かせになるが!)
 1回の攻撃で使い捨てるならその隙に犬飼を抜き去り円山を追える! 操った軍用犬が犬飼をかみ殺せばそれでよし、
逆に犬飼がCとDを破壊したとしても、減る! いずれきたる『章印への一撃』の際の犬飼の手数が減る! されば山彦の
成功確率が上がる!

 果たして犬飼倫太郎は襲いくる2頭の軍用犬を前に、犬笛を咥える! 

(ひひっ! ヌシの命令とわしの操作を競合させ動きを鈍らせるつもりだろうが無駄なこと! 鵜飼いは外部から物理的に
強制的に動かすわざ! ”しぃ”と”だー”が命令を受け付けたとしても! それ以上の力で強引に! 叛(そむ)くよ!)

 果たして僅かな軋みと停止のあとギギィっと打ち震え犬飼へ飛び掛るCとD! めいめいの牙と爪を指呼の間に置いた
犬飼はしかし……笑う。

「それ以上の力なら、どうかな?」

 糸を切り、翻りかけていたイオイソゴの快笑が氷結したのは、突如として2頭の軍用犬が爆発したからだ。表層が抉られる
程度の生易しいものではない。真核から轟然と魔天の彼方へ消し飛ぶような閃光を胴体から迸らせたのも一瞬のコト、焦げて
バラバラになった軍用犬の頭や四肢をあちこちにばら撒く大海嘯のような紅蓮の焚焼が、酸素を貪婪に飲み干しながら更に
巨(おお)きく速くなってイオイソゴに殺到した。

(自爆……!? きらぁれいびぃずが……!?)
(ボクも初めて試したコトだが……うまくいった! どうやら踏まずに済んだらしいね! 奥多摩の二の舞は!)

 想定が『犬笛を奪われた時』である以上、一種の感応的な操作だろう。別個に見えて元は犬飼の精神たる軍用犬だから、
その程度の操作は受け付けると見える。

 果たして爆光に飲まれる木星の幹部。
 一方の犬飼は彼女を飛び越えている。爆発の刹那、乗騎たるBを跳躍させたのだ。着地し振り返るとそこには1mを4割
ほど超えた特大の篝火。眼鏡に彩られた面頬が期待と、幻滅への覚悟で複雑に波打ったのは大打撃を期しつつもそうは
ならないだろうという観望ゆえだ。

 炎が、消え始めた。従って燃焼の眩い光の散乱に包まれていた内部の影は見る間に濃さを増しやがてその実体をも
明らかにする。

(これは……)

 犬飼は判断を絶した。イオイソゴの現状にだ。現れたのは炭と焦げたドス黒い塊。人間ならばむろん焼死を確信して
当然の状態だがされど相手が人ならざるホムンクルス調整体であるという事実が青年の魂を凍らせる。ホムンクルスは
死ねば散る。ならば炭焦げたりといえ地上に残存している相手の命は? 

「──。忍法、肉鞘」
(下策じゃない! 飛び掛るのは!!)

 炭の皮をばらばらと崩しながら飛び上がるイオイソゴ。五千百度の炎でもない限り大抵の攻撃を肩代わり可能な特殊な外
皮も蛻の殻に再誕するさまはさながらサナギより飛び立つ蝶の如く。だが円山への軌道は犬飼が塞ぐ。追撃の出鼻を挫く
という一念が初速を削ぎ、そして円山は遠ざかる。周囲で飛び散る枝は先ほどの鵜飼いのどさくさに投擲されたものであっ
たが、総てキラーレイビーズAに邀撃(ようげき)されたようだ。
 
 いずれも予期していたのだろう。イオイソゴはキラーレイビーズBの速射する爪や牙を全身ぐにゃぐにゃと歪ませながら、
時には背筋を後ろにそらしながら避けていく。抜き去る機会をなおも悠然と窺う焦りのない表情はしかし前触れもなく響い
た破裂音と共に歪む。

 もとより小柄なイオイソゴの背丈が突如として縮んだ。はつと回避を忘れ背後に首を捻じ曲げた少女の視界に飛び込む
は鈴なりに充満する風船爆弾。彼方の麗人は、思う。

(私からのサポートよ)
(……逃げながら撒きよったか!)

 考えてみれば当然の攻撃だ。円山は追われているが先行してもいる。ならば風船爆弾、機雷よろしくの敷設が可能! 

 盟主メルスティーン=ブレイドとの戦いを経て即死攻撃の様相を帯びたバブルケイジだ。いま身長150cm足らずのイオイソ
ゴを取り巻くのは20近くのツートンカラー。全弾着弾すれば難儀なる幹部は地上から……消える。

(…………こればかりは、分からん)

 無言のイオイソゴに破裂があたる。

(山彦で……返せるか、否か

 1発。2発……。空砲にも似た乾いた音が立て続けにけたたましく森を抜き去った次の瞬間、そこには木星の幹部の姿
含め何1つ落ちていなかった。

 勝利の安堵に緩みかけた犬飼の瞳が昂然と釣り上がり、彼は犬笛を音立てて吹いた。
 戦局は電瞬の転換を見せる。風船スーツに覆われた円山の頭部が露骨に揺れ動くその傍を、影もとろかし行きすぎた
キラーレイビーズAがそこから10mもない、一見なにもない地点に岩をも砕く剛力の爪撃を振りかざしたまさにその瞬間、
ぱっと現出した黒ブレザーの少女の胴が袈裟懸けに切り離された。

(……ひひっ。さすがに見抜くか)
(バブルケイジは服までは縮めない。当たった奴が服も残さず消えてたってコトは!)
(1cmか2cmか……とにかく捕らえ辛い身長にまで敢えて縮みつつ、服ごと磁性流体化の飛沫と化して私を追ってきたっ
てコト……!)

 だから円山はバブルケイジの特性を解除し……戻した。イオイソゴを、元の、身長に。

「ま、見抜けなかったとしても『生首』の観点から解除したじゃろう。いずれにせよ」

 斜めに立たれたゲル状の体をうじょうじょと接合しつつ、イオイソゴ。

「逆利用は基本と知れ」

 1mもない、枝、だった。それがイオイソゴの足元から俄かに現れ、円山めがけ轟然と飛び始める。

(隠し持っていた! 身長を吹き飛ばした枝を!)
(いつの間に……!)

 特性解除によって元の大きさに回帰した武器を老獪な少女は足で投げたのだ。キラーレイビーズに切り裂かれつつ。

 何度もいうが、複数構造の風船スーツであって、長く、尖った物であれば円山への着弾を許す。

(『いま割られる訳にはいかない』! Aを反転し切り裂く……!)

 のを許すイオイソゴではない。手元から迸った鉛色の残影が軍用犬に突き刺さり、爪も、牙も、全身も、どろりと溶かす。

(だったら!!)

 犬飼の念に呼応し発生した爆散の圧力が枝を横に流し、円山から逸れて落ちた。キラーレイビーズAが自爆したのだ。

(この場のレイビーズは残り1頭! けど!)

 

 円山の行く手が急激に広がった。木々が途絶したのだ。

(森を……抜ける!!)

 飛翔の本領が発揮できる遮蔽物なき空間へ円山はついに差し掛かった。ここから目指すべき合流地点はわずか200
メートル、残り少ない精神力でも惜しみなく注ぎこめば30秒足らずで削りきれる距離だ。そう。『何事もなければ』円山は
この恐るべき追撃の魔境からあと30秒足らずで降りられるのだ。

(あとは加速して、縦横無尽に耆著を避けながら合流地点へ──…)

 大戦士長坂口照星救出作戦序盤の、終局への急湍(きゅうたん)をもたらしたのは円山円全力の加速ではなかった。
彼の直下で鳴り響いた、ぷつりという、ささやかな音の二連撃だった。

 たったそれだけなのに、彼はその場にぴたりと止まる。奇妙な光景だったが、彼は地面から浮いたまま、その場に
止まったのだ。吊り下げられている道化のおもちゃのようだった。

「忍法、百夜(ももよ)ぐるま。──」

 なんたる幻妖の怪奇図! 円山の影を、耆著が、縫いとめている!

 犬飼とその武装錬金との攻防の最中、円山を狙って撃たれたとしか見えぬ耆著が幾つかあった。それらは軍用犬によっ
て弾かれたり、あるいは軌道を逸らされたりしたが、中に混じって影狙いの本命があったとみえそれは見事に円山の動きを
封じたのだ。

「ひひっ。森を抜けるのを待っておったのはヌシらだけではなかったという訳じゃ。我が百夜ぐるまは明確なる影のない空間
では皆目無力のわざ……。暗鬱たる森の中では円山の影は枝のそれと溶けあっておったがゆえ控えざるを得なかったが」

 今は違う、円山の静止を見届けたイオイソゴは呵呵大笑の追加射撃を耆著で行いながら大股でグングンと距離を詰める。
彼女が追撃戦に対し『合流地点に近い方から潰す』なる縛りを自ら課しているとまでは流石に知らぬ犬飼だが、原則を徹底
するが故の恐ろしさはつくづくと感じ肺肝を摧(くだ)かれる思いさえ催した。されどそれも一瞬、原則きわむるは彼も然り。
足止めを全うするとばかり青年キッと表情けわだたせ、再びイオイソゴの前方へ躍り出て耆著を弾く。

「無駄よ無駄無駄! 残り1頭のれいびぃずに何が出来る!!」

 急霰の如き耆著の群れの7〜8割まではどうにか弾いたレイビーズBであるがその爪もまた爆ぜ割れる。「第二射……」
犬飼もろとも円山を仕留めんと、どんぐりを掴み取ったように五指の間に耆著を満ちに満ちさせ投擲姿勢に移りかける
イオイソゴ。

 どうっと、つんのめった。

 黒ブレザーの少女の幽玄に透き通る愛らしい顎が空を薙ぎ、朱の混じった唾液の線を引かれたのは、背面に何かが
激突したからだ。激突の衝撃は左肩甲骨を覆う表層部(みなも)を漆黒の王冠型にびしゃりと跳ねさせただけでは飽き足ら
ず、何かを掘り当てるように連撃する感触が、少女の細い背中でばしゃばしゃと暴れ狂い出した。

 犬が、居た。ヒビだらけで、あちこちで気息奄々の観の強いセレスティアルブルーの稲妻を瞬かせる軍用犬の武装錬金が
イオイソゴを、背後から、章印めがけ、貫いて……いた。

 はてな。キラーレイビーズらしいがしかし出所はどこなのか? Aは先ほど自爆した。CとDもまた先ほど自爆した。残る
のはBだが犬飼の跨るそれはイオイソゴの眼前にある。そして彼の所持する核鉄は2つ。レイビーズは1つの核鉄につき
2頭。計算が合わないように思えるがしかし違う、合うのだ!

(ミキシングビルド! バラバラに吹き飛んだCとDを1体の軍用犬として……発動、しなおした!!)

 そもそも源流をたぐれば1個の核鉄から分化していたのがレイビーズだ。先だっての自爆でほぼ大破状態に陥ったのは
もちろん事実であるが、2体それぞれの残存率が20%前後あったとすれば、それは1頭に再発動(ミキシングビルド)しな
おせば平生のCまたはDの、1頭分の40%ほどの状態で再び使えるというのはあながち荒唐無稽な話でもない。

 ちろりと背後を窺ったイオイソゴは、思う。

(……少し、小さくなっておらんか…………? 大破したのを繋ぎ合わせたせいか?)

  ドーベルマンよりやや大きめだった軍用犬が、ちょっと大きめのラブラドールぐらいにまで縮小している事実を木星の幹
部は疑ってかかる。
 ともかく犬飼はそれを、自爆の勢いで飛び込んだ枝の中で密かに再生しなおし……待機、させていた! イオイソゴがい
よいよ自分にトドメを刺しにくるとき背後から狙い打てる伏兵になるよう、秘密裏に移動させ……忍ばせて、いた!!

 決死の奇策!! だが!

(……ひひっ! ようやく狙ってくれおった!!)

 読んでいた! イオイソゴ=キシャクは読んでいた!! その上で敢えて背中を攻撃させているのはむろん忍法山彦発
動の為! 背後から章印を狙う都合上、犬飼の攻撃はイオイソゴの心臓を貫通(けいゆ)しなければならない! だが心臓
を破壊したその瞬間、イオイソゴは視界内総ての敵にダメージを返す忍法山彦を行使する! 

 そのためには根来が現空間を現空間に渡らせなくてはならない!

(じゃが足りんなあ犬飼よ!! わしの背中から章印に到る一帯を、磁性流体化しておる我が耆著を貴様は軍用犬の爪
牙にて排除し一撃を通すつもりじゃろうし寧ろそれは望むところではあるが……しかし易々とはやらせんよ!!

 何故ならば相手は……犬飼!! 仮にも戦歴500年を誇る『レティクルエレメンツの重鎮』が、現状ただ今こそ決死とは
いえ少し前の再殺騒ぎでは真先にリタイアした青年にである、あっけなく、簡単に、耆著を弾き飛ばされ章印の前菜たる心
臓を貫かれてみよ。不自然ではないか。イオイソゴが最大の仮想敵とする根来に気付かれてしまうではないか。こいつは山
彦のためわざと貫かせている……と。

 だからギリギリの鬩ぎ合いを演じなくてはならない。

 トドメには至らぬ犬飼なれど隙ぐらいは作れたと、いま仕掛ければ斃せるかも知れないと、どこかに必ず潜んでいるであ
ろう根来に思わせて、引きずり出し、レイビーズが心臓だけを貫ける程度に髪の力を緩め……山彦を、かける。円山と犬
飼と根来を一気に覆滅するにはそれしかない。本当は犬飼に心臓を貫かせたくて仕方ないが、それさえも惜しんでいると
いう、そういった工夫(しばい)を、全力で演じなければ……ならないのだ。

(嗅覚による耆著排除を目論まれた場合わしが取るべき最も自然な行動はそれの阻止!! 弾かれそうな耆著を磁力
操作で元の場所へ戻すのが1つ!)

 みるみると長さを増し軍用犬を絡め取った髪が、1つ。四肢や胴体を縛り、それ自身生命あるものの如くキラーレイビー
ズCDをぶるぶると剥がしにかかるのはイオイソゴならではの……『この場合とるべき普通の行動』!

 ああ! 唸りを上げていた軍用犬の進行が俄かに緩む! 章印をのみ貫くべき推進力は今、逆立つ無数の髪との押し
合い圧(へ)し合いの不毛な震えに冗費されゆく! 急速に生育した枝に押し留められたようだった。

(根来ほどの男は斯様なものを演じて初めて釣れる!! じゃから、ひひ! 気張れよ犬飼!! わしの抵抗を上回る、
ぱわーと! すぴぃどと!! とりっくを!!! 気張って気張って……捻出せい!)
(耆著の位置じたいは……嗅覚で掴めている)

 問題はその排除だと犬飼は汗ばむ。ただ痛打するだけで除去できるものでないコトは銀成におけるイオイソゴの戦いから
明らかだ。何しろ戦士中トップクラスの高速機動を誇る斗貴子も、逆胴であれば侍を大小ごと胴どめに両断できる秋水も、
耆著を排除するコトはできなかった。もちろん彼らは排除すべき武装錬金の位置までは知らなかったが、それでも全身を
とろかしている物品が、ちょっとした衝撃で外れるほど脆いものであったなら、4本の処刑鎌による全方位攻撃や、身体の
躯幹内部をなみなみと辷(すべ)る肉厚の日本刀といった『線』の威力の爆発に1つぐらい事故的に、飛ばされていたろう。

 或いは斗貴子以上の速度と秋水以上の攻撃力を兼備した一撃であれば……とは犬飼が戦闘突入前かんがえたコトだが
しかし少なくても探索専門のレイビーズでは原則的に不可能だ。それが証拠に──…

(ミキシングビルド……! CとD、2頭ものレイビーズを融合させた『CD』というべき今のレイビーズは……単純に考えれば
速度も攻撃力も平常時の2倍の筈……!)

 ああなのに! それだけのスペックを以ってしてなお除去できぬ耆著!
 イオイソゴが動かす傍から微細な匂いの違いから即座に位置を把握するという神業を犬飼は演じているのに……悲しい
かな探索型の限度!! パワーとスピードが足りない!!

(とっくにセーフティーを解除して狂犬病モードにしているのに……!)

 倍加して限界を超距したフルバーストの出力を以ってしてなお、イオイソゴの『取るべき、最低の防御反応』さえ突破でき
ていない! 章印を貫くどころか前段階の耆著排除すらこなせていない! どころか軍用犬の爪の先端すらイオイソゴの
表皮から遠ざけられていく始末……。

(やはり差がありすぎる……! ボクなんかでは幹部に、マレフィックに、到底太刀打ちできる道理が……なかった……!)

 幾度となく味わった挫折感がぶり返し、いつものように口の奥から全身を寒々と潤していくのを犬飼は感じた。

(けど──…)

──「見下され続けてきた腹いせに戦団を裏切り人喰いをやるなど……」

──「忌々しいヴィクターV武藤カズキでさえしなかったコトだ……!!」

──「そうだろ!! ボクらがさんざ追い立て殺さんとしたアイツですら恨むどころかこの地球(ほし)守って今は月だ!!」

──「だのに見逃されたボクが……円山のいうような逆恨みでアイツ以下の怪物に成り下がるなど…………」

──「嫌だね絶対! 誰がするか!!」


──「ならばそれが問いの答えだ」

 無表情で目を閉じ酒を飲む戦部の姿が、憧れてやまない強者の佇まいが──…

 萎えそうな全身に力を戻す。

(ボクはッ!! お前だって助けたいんだ!!!)

 軍用犬に何十発目かの攻撃を受けたイオイソゴの背中が明確な変化を遂げたのは決して彼女の罠でもなければ手抜き
でもない。だが……キラーレイビーズそのもののパワーアップかといえばそれも違う。確かに武装錬金が、使い手の意思の
変質によって姿を変える事例はある。だがそれは、例えば黒い核鉄によって肉体が人ならざる存在に変質するとか、その
血統を受け継ぐ黝髪(ゆうはつ)の青年が、忌むべき月の怪人の力をも理念のため使うと大英断するとか、とにかく劇的で
巨大な変革を経て初めて発露する希少きわめる現象だ。

 落ちこぼれで、奇兵の、犬飼が……ここまで卑屈ゆえに努力を怠ってきた日月の方が大きい、見渡せばどこにでも居そう
な青年が、土壇場で、ちょっと歯を食い縛って意気を軒昂させただけで転がり込んでくるほど『力』というものは甘くない、それ
は事実、厳然たる事実。

 されど!!

 扉さえ開けば、意固地さえ捨てれば呆気なく借りられるのもまた『力』!!!

 犬飼倫太郎にとっての戦部厳至は昨日まではあくまでただの同輩だった。たまたま同じチームになっただけの男だった。
だが今は……違う。『ならばそれが問いの答えだ』、強者の気まぐれながら偶然ながら犬飼の琴線に触れる肯定をした男
だ。決して犬飼に優しい言葉をかけた訳ではない。自分勝手ですらある美意識の赴くまま答えただけかも知れない。

(それでもだ)

 心を整理するきっかけを与えたのは事実だ。同輩から侮られるコトの方が多かった犬飼に、『それでもお前が戦士を続けて
いる答えは、お前の言葉の中にある』と、高所からながら普通に答えた。結局犬飼は、ただそれだけのコトが……嬉しかった
のだ。普通の人間なら普通の会話の中で普通に得られる程度の、ささやかな肯定が……染み渡るほど嬉しかったのだ。

(だのに見殺しになんか……出来るか!! ああ分かってるさ! 好きで盟主の下に残ったホムンクルス撃破数1位の戦部を、
落ちこぼれで、ヴィクターVに真先にやられたボクなんかが助けようなんてのが思い上がりってのは、分かってる!!)

 それでも犬飼が足止めを完遂できたなら、円山が盟主の所在を戦団全体に伝えられたら、あの魔人というべきメルスティーン
とただ1人相対するコトを選んだ戦部の生存確率は格段に跳ね上がる。敵が手に余るほど強ければ全力を出しつくしたすえ
嬉々として殺されそうで危なかっしいあの戦闘狂を、すんでのところで救えるかも知れないと、いまだ彼の敗北を知らぬ犬飼は、
思う。

(だから!!)

 戦部(ひと)の命を、救う。

 犬飼はそのためにもう形振り構っていられない。自分が、犬嫌いという、今にして思えば笑ってしまうほど小さなつまずきで、
どんどんどんどんボタンを掛け違ってしまい、真当な努力を放棄する惰気の青春に自ら籠もり自ら可能性の成長を閉ざして
しまったゆえのツケが、この土壇場で、耆著排除という自分にしか果たせぬ名案を画餅にしかできぬ実力不足という形で
突きつけられている事実を彼は、認めた。かつてならしなかった行為だ。本当は別に欲しくもなかった栄誉や、勲章を、周
囲に植えつけられた劣等感を払拭するためだけに求めていた犬飼なら、努力不足のツケが出現したとき、まったくただただ
取り繕うためだけ『ただ独り』、碌に掘りもしなかった井戸から水滴を集めるような焦慮まみれの悪あがきをやり、失敗し、
弁明に弁明を重ねていただろう。

 そういう下地があるから、今はまだ『新たな力への覚醒』はない。

 だが。

 扉さえ開けば、意固地さえ捨てれば呆気なく借りられるのもまた『力』。

 戦部の、そして円山の力を救うため我執を捨てた犬飼の、世界に及ぼし始めた影響は。

 一抹の泡となって顕現し、イオイソゴ=キシャクの肩口で小さく爆ぜる。

(や?)

 レイビーズの攻撃とは明らかに異なる衝撃に木星の幹部が眉を顰めた瞬間!!

 炸裂は全身に回り幾つかの耆著をも……弾き飛ばした!!!

(よもや)

 頬を波打たせる黒ブレザーの少女は我が身のコトをスっと見渡す。あぶく、だった。磁性流体化によってゲル状となり、
一切の打撃斬撃を受け付けぬはずの肢体の各所、内部から炸(はじ)けて飛んでいくさまは丁度、小さなドーム状のガス
を浮き立たせる古沼だった。

「認めるよ……」

 犬飼は我が身への攻撃を警戒しているのだろう。失血によってもはや黄土色と水色を混ぜたような壮絶な色彩の面頬
の中で、眼鏡の奥を爛々と輝かせながらイオイソゴを……見据える。

「ボクのレイビーズに、お前の耆著を排除する力はない……。速度も。だから幾ら攻撃を続けてもお前は……斃せない。
あのままやっていたらいずれ……自ら頚動脈を切断したボクが……先に死に……レイビーズ解除……。足止めから
逃れたお前が円山にトドメを刺し……根来をも迎撃…………だった、だろう」

「それでも」

「1つだけ……ある。お前の防備を突破する手段が1つだけ……ボクには……いや、ボク達には……ある!!!」

 イオイソゴの背中で連続して爆発したあぶくが、振り将棋のように耆著を飛ばす、幾つも。幾つも。同時に衝撃は髪をも
断ち切る。軍用犬が前方へ滑翔し、その爪を遂に『磁性流体化解除済みの、イオイソゴの背中』に突き立ち血を飛ばした
のはひとえに髪の束縛が緩んだせいだ。

 明らかに悪くなった状況。だがイオイソゴの顔に走った緊張は、予想外というより、『想定した勝負の瞬間にいよいよ近づ
いたから心機を引き締めた』というニュアンスが強い。

「なるほど。『委ねる』という訳か」
 そうだ。犬飼は細い息をまとめ、叫ぶ。
「バブルケイジアナザータイプ!! 際限なく増殖する円山の武装錬金なら! お前が幾ら耆著を動かそうがレイビーズを
髪で阻もうが!! それとは無関係に!! 超高速で殖(ふ)え続け、零距離爆破で苛み続ける!!!」

 背後から急襲した時、レイビーズCDの掌中には野球ボールよりやや大きめのバブルケイジがあった。それは背中からの
一撃によってイオイソゴの体内に埋め込まれた。

「能力が裏目に出たな木星の幹部! 普通の肉体の持ち主だったら表層で爆ぜて終わりだった! しかしお前なら別だ!!
全身を不定形な、ゲル状の! 磁性流体と化しているお前なら……レイビーズ程度の一撃でも埋め込める!! バブルケ
イジアナザータイプを……埋め込める!!」
(……発動までに時間差があったのは恐らく『身長の方の特性』からの切り替えを了するにしばしの刻を要したから……
じゃろうな。つまり…………)

 老嬢が涼しい顔でいられるのは……恐ろしい話だが『ここまでは』想定済みだったからだ。いやここまでどころか、この
次の事象さえ彼女は予見していた。

 刀錐を差し込んだようなきりりという激痛が、体内を突き進む。僧坊筋を貫通した虫食いだらけの犬の爪はとうとう深層の
大菱形筋さえ鈍く裂く。肩甲骨の内側縁3cmほど予想より早く割られ、第3〜5肋骨さえも爪と「ジャリッ」と破壊寸前の接触
を奏でたのは、軍用犬の太刀行きが、それまでまったく振り切れなかった筈のイオイソゴの髪の抵抗を、突如として快速で
上回り始めたせいだ。その速度上昇の幅は、バブルケイジアナザータイプ爆裂の余波たる髪の寸断を差し引いて尚ありえ
からぬものであった。

 要するに突如として体内で爪が進み始めている!! だが、おお、見よ! イオイソゴの背後で忍法念鬼もどきなる奇怪
なる髪に絡め取られる軍用犬を! 動いていないのだ! 腕そのものは動いていない!! 貫通の動きは、先の寸断を
埋めるべく伸びてきた新たなる髪の蔦にて鉗制(けんせい)され、関節部ときたらまるで膠で固められたよう寸毫も動いてい
ないのに、しかし体内に埋没した爪だけは章印めがけ……伸びている!! 

(その理由は……いやそれよりも! ……来い、根来……!!)

 予期ゆえに、決然とするオイソゴの観念的な輪郭が二重三重にブレて散らばったのは心臓部に激痛が走ったからだ。

(じゃからこそ、ここから……)

 何事かの『こういうとき、行うべき何らかの行為(しばい)』に移りかけたイオイソゴであったが、

「……お前が、カウンターを狙っているのは…………分かっている」

 思わぬ指摘(こえ)に動きが軽く固まる。

 いよいよ顔面が黄土色になっている犬飼は、急速に早まり始めた息を食い破るよう囁く。

「特性合一、だったか。盟主がカウンターを持っている以上……狡猾なお前がそれに倣わない筈がない……。敵を誘い込
んでそれを討つ、卑劣の見本市のような技なんだ……。お前は真似る。或いは盟主がお前を真似た……」

 爪はいよいよ爆発的に伸びる。イオイソゴの想定を遥かに上回る速度で伸びる。あたかも犬飼が、カウンターの発動より
速く仕留めるとばかり操作しているよう……伸びる。

 イオイソゴは、思う。

(……。先ほど見た軍用犬……混ざって再発動した”すぃーだー”が小さく見えたのは破損ゆえではない!)

 物体を小さく見せるトリックが、ある。小さくする特性が、ある。身長を15cm縮める風船爆弾だ。犬飼は融合したレイビー
ズにバブルケイジを当てていた!! タイミングは、イオイソゴに利用され解除したあと! 数は2発、僅か2発!! 
 だが! イオイソゴの体内に爪を突き刺した状態で特性を解除した場合! 爪は! 元の長さに! 戻る!! さすがに
30cmそのまま伸びる訳ではないが、元の身長と、そこから30引いた数字の比率分程度は……伸びる!! 

 だがイオイソゴが慄くはそのトリックゆえではない! そこまでは、それじたいは

(あなざーたいぷに切り替えると『身長の吹き飛ばし』の方が自動で解除されてしまう”ばぶるけいじ”の欠陥を逆利用して
くるであろうと)

 読んでいた戦歴五百年! 想到のうちにあったケースではあるからバブルケイジの小細工そのものに震撼する必要は無い!!

 彼女が、恐怖したのは!!

(カウンターを読んでなお突っ込んできた犬飼の、精神性の成長というべき勇気こそが……恐ろしい!!)

 だが犬飼本体への攻撃に移りかけたのは決して恐怖ゆえではない。『犬飼が、身の丈に合った最善手を尽くしに尽くし』、
それがゆえ自分が追い込まれる状況はむしろ望むところだし覚悟の上なイオイソゴだ。心臓はいよいよ3分の1ほどが
貫かれている。完全破壊でこそないがそれでも人間が負えばまず絶望的な傷だから、今のタイミングでも山彦発動は、
犬飼と、円山にとって致命の一撃たりうる。が、木星の幹部は根来をも釣り込みたい。照星の生首を接合しうると指摘
された奴ばらの忍法『壊れ甕』が果たして深奥の、心臓の傷をも修復しうるものか否か不明じゃが、とにかくきゃつほどの
男じゃ、山彦で転写すべきは心臓の完全破壊にかぎる……とそう幼い老婆は破壊されつつある胸中わらう。

 だからこそ、根来を呼ぶためには自分が予想外の犬飼の奮闘に追い込まれていると見せかける。
 自動人形型の武装錬金を使う者を斃すには、創造者本体を狙うのが手っ取り早い。軍用犬に心臓ごと章印を狙われて
いる状況下で、無力な、既に頚動脈を自切している犬飼を狙わぬなど不自然すぎるだろう。CDの奇襲や、バブルケイジ
アナザータイプの登場、身長吹き飛ばし解除による爪の延長といった数々の意外事にハっとしてみせてこそ当然に見える
先ほどまでとは違うのだ。

 ようやく我を取り戻して反撃に……といった芝居に移るイオイソゴに、犬飼最後の攻撃が……刺さる。

「ボクが頚動脈を切ったのは、背水の陣で力を引き出すためじゃない」

 策を一挙に叩きつける犬飼のスタイルと、戦略構想を根底から覆すイオイソゴのやり口は、追撃戦最後の最後で最悪の
溶融をして放たれた。

「落とし前だ。救出すべき大戦士長の首が、お前なんかに刎ねられてしまったコトへの落とし前にすぎないんだよ」
(っ!! こやつ……!!!)
 イオイソゴは察した。
 ここまで何度も首を捻った犬飼の、異様な死兵ぶりの原因が他ならぬ自分にあったと。

 異常な話ではある。だが……考えてみればまったく彼の言うとおりではないか。

 犬飼はたとえ無事に逃げのびたとしても、先はない。少なくても組織人としては、戦士とはしてはもう、断絶だ。
 アジトを突き止めた功を評されるというのは、あくまで照星が無事だった場合だ。だが彼はイオイソゴによって斬首された。
しかも犬飼はアジトを突き止めるのに手間取ってもいた。そのモタツキが照星殺害に繋がったのではないかと糾弾されるは
必定だ。大きな失態があったとき、一番わかりやすいポカをしていた者に責任がなすりつけられるのが、組織、なのだ。

 犬飼は、それが分かっていたから……自ら頚動脈を切った。

 つまり順番は逆であった!! 彼が頚動脈を切断した時、イオイソゴはそれが自分に鳩尾無銘の味を思い出させ動き
を止めるための策謀だと思っていたが! ああなんというコトだろう!! 逆だった!!

「ついで……だったんだよ。せっかく落とし前で頚動脈を斬るんだ、なにかの策に役立てなきゃ……損だろ?」

 狂気を帯びた、しかし楽しげな犬飼の笑いにイオイソゴは言葉を失くす。

(こ、このわしへの嘲弄が……ついでじゃと……!!)

 数々の策謀を見抜いてきたイオイソゴですら想像を絶する動機だ! いやそもそも誰が予想できよう! 落とし前という
がこれは落とし前の範疇を越えている! 思うにこれは落ちこぼれとして蔑みを受け続けてきた人間がゆえの暗い爆発力
ではないだろうか。狂犬病の名を冠し、オンオフまでは可能なれどひとたび放たれれば狂的に暴れるほかない彼の武装錬
金の精神具現ぶりとも合致する。そもそもこの夏、奥多摩でヴィクターVに見逃され、死に時を逸し生き恥を晒してしまった
鬱積こそ、そこから、ここまでの動機だから、『追跡にもたついたが故の、救助対象たる坂口照星の死亡』という組織人とし
ては致命的な現象に、彼はあっさりと──ヴィクターVへのあてつけもかねて──頚動脈を、斬った。

 その、あくまでついでに、血を浴びせ、愛しい愛しい鳩尾無銘との因縁を刺激したのであればイオイソゴは憤激する他な
い。柄にもないが、『無銘との絆は、ごく普通の人間のように大事に、思っているから』、冒涜されれば……滾る。

(きゃつ、許してはおけぬ!!)

 戦歴500年ゆえのプライドを揺るがされた怒りは確かにある。あるが同時に(見事!)という感嘆も沸き……木星の幹部
は遂に犬飼本体への攻撃に移る! 掌の上で踊らされていた屈辱を晴らすため殺すという色合いはあれどごく僅か、むしろ
斯様なる精神性で戦ってきた男なればこそ全力の芝居の打ち甲斐があると凄絶に笑い、急霰の耆著を連射する。

 ……。

 普通に考えれば。

 犬飼の取るべき最善手は、『レイビーズBの突撃』だろう。耆著を弾きつつ、イオイソゴに突貫するのだ。バブルケイジ
アナザータイプはいまだボコボコと彼女の体の中で炸裂し、耆著を体内から排莢している。もちろんただそれを許し続け
れば、やがては普通の肉体で体内爆破を浴び続ける破目に陥るイオイソゴだから、微細な磁力操作によって吹き飛んだ
耆著を再び体内に埋没させてはいる。排莢。まったくそれだ。拳銃のそれを再生しては巻き戻すような光景が、イオイソゴ
の周囲でひっきりなしに起こっている。舟形の鉄片が、くるくると遠ざかっては、ある一点でピタリと止まり、遠ざかる時の
動きの逆回しで黒ブレザーの少女へ戻っていく……。異常極まるこの光景はしかし、瞬間的にはどこかしこが磁性流体化
を解除し……つまりはボロボロのキラーレイビーズでもダメージを与えうる状態にまで低下しているという証拠でもあるから、

(うまくいけば正面から章印を貫ける……!! それが無理でもCDのアシストにはなる……!!)

 どうせ何もしなくてもイオイソゴの芝居(こうげき)を浴びる犬飼だ、ならば逆転の可能性に賭け、耆著を弾きつつの突貫
を敢行するのは決して悪手ではない。

(……)

 一瞬、なにかを考えたのは、次の言葉をまとめるためか、否か。

(正面から行く以上、例の鈎針や足刀、吸息かまいたちを浴びる危険もあるけど……)

 ”自分がそれらを引き受ける方が、根来の奇襲が通りやすくなるのではないか”という、まったく自身の生存を度外視した
結論が、Bへの突撃命令を決定的に後押しした。果たして軍用犬は指示通り地を蹴り……イオイソゴへ飛び掛る。

 だが、彼女は。

(ひひっ。悪いが耆著の乱射は”ぶらふ”! 貴様を必倒せしめる罠は既に張ってある!!)

 イオイオゴの手前わずか10cmである。ワイヤートラップが仕掛けられていたのは。もちろんトラップというぐらいだから、
当然犬飼の目には映らない。何故なら細い髪の毛”そのもの”で構成された代物だからだ。ぴぃんと水平に張られたその
毛は、地上からちょうど10cm置きに50本配置されている。つまり高さちょうど5mだから、レイビーズでこれを飛び越え
るのは至難の業、普通に突撃すれば犬飼は軍用犬ごと細切れになるだろう。

(これぞ忍法・風閂(かざかんぬき)! 風摩の刑四めの専売特許と思われがちじゃがしかし伊賀にもこの忍法や、ある!)

『根来七天狗』の1人さえ胴ごめに斬り飛ばしたというから威力は折り紙つきだ。

 それをイオイソゴは、張った。もし犬飼が、バブルケイジアナザータイプにびしゃびしゃと吹き飛ばされているイオイソゴを
よく観察していれば、髪の辺りから飛んだ飛沫が、付近の木に降りかかったまま肉体に戻らぬさまを目撃できていただろう。
 髪は、そこから伸びた。先ほどのさまざまな問答の最中、50本もの髪が、ツツーっと、木から木へと水平に伸びたのだ。

(来い! 突撃せよ犬飼!! されば根来は貴様を助けに現れる! 何しろ根来僧を斬り飛ばした忍法じゃからな!! 
根来めが気付かぬ道理がない!! 来るのじゃ犬飼! 奴の撒き餌になればよし、死んでも……よし!!)

 犬飼はイオイソゴとの距離を詰めていく。6m……4m……。

 ぴしぴしと耆著を迎撃しつつ、時には吸息かまいたちを回避しつつ彼は遂に1mの圏内へ辿り着く。

 犬飼は、決してイオイソゴほど賢くはない。だから風閂の存在は、意識が闇に沈んでなお気付けなかった。
 手練れた戦士であれば、接近中、咄嗟の判断で突撃を中止するというコトは、ままある。敵(イオイソゴ)の表情の僅か
な変化などから、罠を察し、まさに『間一髪』で方針を変えるのは、よくあるコトだ。

 だが犬飼はそれすらない。『突撃』という方針を……変えなかった。変えられなかった。それこそが最大の最善手だと信じ
て疑っていたため……変えられなかった。

 彼の体はもう風閂の手前30cmにある! レイビーズの速度を考えれば急停止したとしても手遅れの距離!!

(だが咄嗟の機転とやらで回避されてもつまらん! 風閂……前進!!)

 ああ! ここで『殺(と)った!』と確信し油断するイオイソゴであったなら犬飼倫太郎はどれほど楽であったか!! 幻妖
も幻妖、ふわふわと前進浮揚する風閂! 木にびちゃりとついた飛沫が耆著に戻りそうしているのだと説明されても千怪
万怪の感はいなめない! 

 だが犬飼の方針は変わらない! 突撃! やんぬるかな! キラーレイビーズBの突撃は変わらない! 果たしてその
筐体に風閂が接触し!!

 戛然!!

 破片が散り血しぶきが舞う中、瞳孔を見開いたのは──…

 イオイソゴ!!!

(なっ……!!!?)

 彼女が言葉を失ったのは根来が来援したから……ではない!!

 必断必斬の風閂! それに接触してなお突撃を試みたキラーレイビーズBが健在なるまま視界の中で、恐るべき戦略
行動に移っていたからだ!!

 Bは!! 突撃していた!!

 上方へと、突撃していた!!!

(か、風閂に気付き……飛び越え……いや違う!! 上! ひたすら上を!! 目指して……いる!!?)

 イオイソゴを無視し、あくまで垂直に飛んでいく軍用犬の不可解さにイオイソゴは激しく動揺する。しながらも背後のCDを
押し留めているのは流石レティクルエレメンツの重鎮というべきか。

(まさか!!!)

 はたと気付いたころにはもう遅い。血まみれの犬飼の拳が──…

 章印めがけ、飛んできている。

 言語に絶する位置の変転だ。軍用犬の上に乗っていたはずの彼がなぜ降りてきているのか。そして10cm前を風閂で
守られている筈のイオイソゴから、わずか5cmという扶寸の距離に犬飼の拳があるのはどうしてか。

 上記の事柄を彼女はまったく忘却した! 思考の一点は万朶の枝を掻き分け昇って行くキラーレイビーズBに集中した!

(ま、まずい!! あれは……まずいぞ!!!)

 何がいかなる戦略的破綻をもたらすか察知できたのは、走馬灯の如く犬飼(てき)の能力を分析できたイオイソゴなれば
こそ。

(先ほどの鵜飼いで分かったことじゃが……きらぁれいびぃずは……自爆機能を有している!)

 ならばそれがイオイソゴから離れていっているのはむしろ幸甚に思えるが事実はまったく逆である。

(そうさ)

 犬飼は笑う。電撃の如き流れ去る時間の中で目論見を、思う。だがベラベラとは喋らない。映画などでよくあるではないか。
起死回生の目論見をまくし立てている間に対応策を練られ、破られるといったような展開が。せっかく背後を取ったのに「○
○の仇だ死ねぇ」と叫んだばかりに避けられた(としか見えない)末路でもいい。どっちみち犬飼は願い下げだ。だからモノ
ローグはあくまで彼の脳髄を流れ去った観念の、あくまで翻訳再構成に過ぎない。

(戦術で制すより、戦略を挫くより……戦局を根本的に逆転させるのが……お前のやり方、だろ…………?)

 だから真似させて貰ったのさ。『健在な方の』左手を、高く高く、レイビーズの昇る天へと指差したい気持ちを、高らかな
気持ちを、だがそれをやれば隙が出来るからと必死に抑え……無言で攻撃を続ける。

 昂揚をもたらすに到った彼の企ては、こうだ。

(合流地点まで200m。空中に突撃し自爆したキラーレイビーズBは……照 明 弾 に な る !)
(っ!! この期に及んでわしの認識を……覆すか!!!)

 イオイソゴの前提は、『伝令の円山が、戦士の合流地点に飛び込むとマズい』だった。そうだろう。彼が、戦士たちに……
盟主の所在という情報を伝播してしまうのだから。

 だが! それは『円山が合流地点に辿り着く』コトで初めて満たされる条件ではない! 辿り着いたとしても戦士がいなけれ
ば無意味だし……逆に言えば。

(戦士たちの方からここに駆けつけさせても……伝えられる!! 『大事なのは円山を、戦士の集団と接触させる』……だろ!)
(ち!! 悔しいがまさにその通りではある!! しかも合流地点から遠く離れた、盟主さまとの交戦点ならいざしらず、残
りわずか200めーとるのここで照明弾が上がれば……すぐに来れる! 戦士どもはすぐに来れる!!!)

 最後の突撃命令を下す直前、犬飼は思ったのだ。

──(どうせボクだから、普通に攻めてもしくじるだろうね)

 と。だから直接攻撃を捨てた。同時に、イオイソゴからラーニングした『戦局の逆転』をどうやれば実行できるか考えた。
彼女の目論むカウンターをどうすれば潰せるか……そこで思いついたのが照明弾だ。

(うまくいけば盟主どころか木星の幹部さえ殺せるからね)

(それだけの足がかりを残して死んでやれば)

 もう誰もボクを笑えないさと犬飼は会心の笑みを浮かべる。

 キラーレイビーズBは、まだ枝の群れから鼻先を出した程度だ。だが数秒後、間違いなく照明弾となってイオイソゴのあらゆる
戦略を覆す。

(自爆を許せばもう根来の始末どころではない!! 仮に当初の予定どおり3人全員始末できたとしても……戦士はどんなに
遅くても3分以内に来る!! そして……知る! ここで死んだのが犬飼、だと……!!)

 木々や枝に付着する無数の血を思い浮かべたイオイソゴは愛らしい顔を、ひたすら冷たい脂汗まみれでねじくれさせた。

(なんたること!! 放置すれば死せるからと放置しておった頚動脈からの出血が……ここに来て首を絞めた!! 戦士が
来るまでの3分で、行く道の端々ちらばった奴の血総て隠滅するのは可能? いや無理じゃ! さすがのわしでも不可能!!)

 なぜ犬飼の血の隠滅に拘るのか? 簡単な話だ。

(”でぃえぬえい”鑑定。戦団にはそれを一瞬で出来る奴らが何人もおる。うぃる坊に拘禁されたがためすぐにはこの決戦
場に来られぬ総角めも副次的じゃがその系統。血から複製した武装錬金をして誰の血か当てられる……)

 そういった連中が、犬飼の血を調べた場合。


 ここで死んだのが犬飼だと戦士が知る
 ↓
 かなり離れた場所でアジトを見張っていたはずの犬飼がなぜここまで移動し、そして死んだのか、不審がる
 ↓
 アジト近辺で敵に捕捉され、逃げてきたのだと結論付ける
 ↓
 ならボディーガードの戦部がいないのはなぜか考える
 ↓
 特性上まっさきに死ぬのは有り得ない。
 ↓
 性格上、撤退戦なら間違いなく足止めを引き受ける
 ↓
 彼がそうしつつも犬飼たちは逃がす幹部(あいて)は何者か
 ↓
 相当の強者
 ↓
 つまりアジト近辺にそいつが出張っていた
 ↓
 なのにここに”そいつ”はいない。追ってくるほど執拗で、しかも戦士よぶ照明弾(まきえ)が上がったのに……。
 ↓
 つまり犬飼を追い、殺したのは別の幹部
 ↓
 ならその『別の幹部』はなぜさほど強くない犬飼をわざわざここまで追ってきてまで殺した
 ↓
 戦部が足止めしている『相当の強者』が、その単独出撃を知られるとマズい立場の者?
 ↓
 つまりレティクルの要たる盟主?
 ↓
 盟主がアジト付近に居るとすれば
 ↓
 高速自動再生の戦部が相手だから、まだ足止めされているかも知れない
 ↓
 つまり、好機
 ↓
 一斉攻撃で盟主を仕留める好機

 ……とそう、戦士が考えるとイオイソゴは、考える。

(……犬飼本人はそこまで考えておらんじゃろう。戦士が来れば円山に伝言を頼めると、その程度の発想で照明弾を
思いついたのじゃろうが…………やられたという他ない! 貴様のその策はたとえわしが根来をも仕留めたとしても……
決定的な緒戦の勝利を戦団にもたらす一大魔術!!!)

 照明弾を見て駆けつけてきた戦士全員を殺してしまえば解決と思うほどイオイソゴは馬鹿ではない。それができる実力
があるならそもそも戦士の合流地点へ殴りこみ彼らを殲滅している。いかな磁性流体化といえど相性によっては破られる
のを熟知しているのだ。何十人もの手練れを同時に相手どれば必ず破られるとも……。

 イオイオゴ=キシャクは木星の幹部である。
 木星は錬金術において『錫』を司る星。そして錫を冶金学的に貪り食う鉱石こそ

 タングステン

 である。厳密にいうと混入によって錫鉱石をスラグ化させ、それ以上の生成を妨げるため「錫を貪り喰うオオカミ」と
ドイツで呼ばれた。(元素記号のWはウォルフのW)。

 後にタングステン0307と呼ばれるこの追撃戦は勿論……

 3月7日生まれの犬飼倫太郎を指した言葉だ。

 力及ばずながら最後の最後まで戦い抜いた誇り高き狼を……讃える言葉だ。

 キラーレイビーズはとうとう枝から50cmほどの距離に飛んだ。合流地点からの見晴らしを考えると、あと2mも飛べば
充分だろう。

(どうする!!? 耆著や吸息かまいたちでは枝に阻まれ当たらん!! 肉体を伸ばす忍法を極限まで行使すれば或いは
じゃがそちらに傾注すると……)

 背後のキラーレイビーズCDを見る。よそごとをして章印を見逃す軍用犬ではないだろう。それもこれも三人一挙の殲滅
を目論んだが故……。

(ひひっ。策士策に溺れるって奴かい)

 やや焦りを帯びた苦味ある痙笑を浮かべるイオイソゴはそれでも泰然として見えるが、

(うわーん!! 策士策に溺れるとはこのことじゃー!!)

 わしのあほー。心の中では両目を不等号にして涙を飛ばしている。

 惑乱は鬩ぎあいの力を緩めた解除と、純然たる倍加推進の奏による爪の延伸に抗していた髪の微妙な脱力が……犬飼
最後の最終突撃命令を帯びた軍用犬の轟然たるチャージを許して……しまった。

(マズい!! この勢いでは章印が心臓もろとも一気に貫かれる!!!)
(これで殺せるとは思わない! だが!)

(……お前の奇襲のアシストにぐらいなるだろ? 根来!!)

 首筋から最後の血の一絞りを吹き飛ばす犬飼は、絶望的な眩みに打ち崩れながらも凄絶に笑う。
 忘れがちだがその拳は、章印を狙っている。どこかで吹き飛んだパーツだろう。レイビーズの爪らしき破片を握ってはいるが
……薬指以下の指はない。指どころか、掌や、手首や、前腕部すら、ない。総て例の風閂で斬り飛ばされたのだ。

(なのに痛みさえ感じないとは! こやつ、精神が肉体を凌駕しておる! 斯様な攻撃相手に照明弾の方へ全神経を振り
分ければ……ありうる! 真正面からの章印狙いにわしが殺されること……ありうる!! っ!! そのうえ!!)

 犬飼にはもうイオイソゴの声さえもう聞こえない。彼女が慌てふためいた様子で背後を見るのは、レイビーズのCDまで
もが自爆シーケンスに突入したからだ。

(どうせ最後の突撃も、屁理屈じみた忍法で回避するんだろ? なら自爆だ。自爆の勢いで直進する爪なら…………ふふ、
もしかしたら……貫けるかもなあ、章印)

(……ま、その場合、ボクも巻き添えになって、無事じゃいられないだろうけど…………。いいさ。望みどおりさ)

 自分の腕が無惨に破壊されているのさえ、霞がちな視界は捉えられなかった。
 ただ、充足のみがあった。かつては『怪物』に阻まれ貫き通せなかった意地を、彼はいま……貫けている。

(ああ。やっぱり……自分の命を…………思い通りに使えるって、いいなあ)

(ざまあ……みろだ、ヴィクターV…………。勝手に……助け……やがって…………)

 満足げな死微笑に意図を見て取ったイオイソゴは「くぅううと」歯軋りしながら人差し指を立て……誦(ず)する!

(根来めに温存したかったが仕方ない!!)

 枝の上2m50cmにとうとう到達したキラーレイビーズBの胴体に閃光が走る。自爆はもう止まらない。

(忍法!! 時よどみ!!!)

 澄み渡るどんぐり眼の白い強膜がドス黒く染まり、瞳孔に到っては腐り果てた血漿のような紅に堕ちる。
 同時に金色の波動が双眸から巻き起こり、それは忍びが垂直かつ無造作に投げた耆著の間をばちばちと乱反射しなが
ら半球状の閃光となって一帯を行き過ぎた。直近の犬飼も、少し遠くの円山をも閃光は洗い……彼らの時を氷結させる。
既に影縫いで止まっていた円山さえも、より絶対的な静止の領域へと叩き込んだのだ。

 果たしてキラーレイビーズCDの動きもまた止まる。推進や自爆だけではない。身長の戻る作用さえも停止した。

 のみならず、ああ!!

 爆ぜかけていたキラーレイビーズBさえも、まさに一時停止の爆発映像の如く固まって…………そして枝からバシャリと
波打って引っ込んだ巨大な黒き念塊に総て総て飲み干されて消え去った。

(忍法虫とり草。──根来対策として枝々に仕掛けておった鳴子を使い内縛陣に穴を開けるのは痛いが…………そうでも
せねば防げぬ恐るべき犬飼の奇策じゃった…………)

 ぜえはあとイオイソゴが大汗かいて息せくのはその緊張ばかりではない。時よどみの消摩もまた決して小さくはない。

(耆著の電磁気力で増幅した時よどみは、錬金術的介在によって他者の武装錬金特性をも止める! ……もっとも、創造者
の双眸に我が眼光を叩き込む必要があるゆえ、亜空間に潜んでおる場合の根来のような視界外の敵や、或いはいまの楯山
千歳のような視力なき戦士には通じないが……)

 或いは、幸運だったのかも知れない。犬飼の話である。
 最後の血を流しきり、あとは倒れて死を待つばかりだった彼が、正にその瞬間、時よどみという、精神感覚を尋常ならざる
遅延状態に追いやる忍法を喰らったのは、少なくても生を望む人間の本能からすれば猶予という慈雨を得たに等しい。

 彼は、考える。

(『これでいい』。今から木星の幹部は動けないボクにトドメを刺しに来るだろう。だが……『これでいい』。次に影縫いで動け
なくなっている円山を殺しにかかりもするだろうが……

『こ れ で い い』

……問題は、ない)

 おかしい。あれほど懸命に円山を助けようとしていた犬飼が思うべきコトではない。だが……違う。そう思う理由がある。

 しかし。彼は……気付く。気付いて、しまう。

(……。待て! 『どうしてバブルケイジ解除の作用まで止まっている……!?』)

 ひひっ。

 低い鼻をこすり、イオイソゴは笑う。

「悪いが『それも読んでおった』」

 円山の影に刺さっていた2つの耆著が周囲の地面を巨大な錐へ造り替え、円山を貫いた。完全なる貫通だった。何層
も爆ぜ割れる地獄のような協演が山間に響き渡った瞬間、静止していたツートンカラーの風船スーツは地上から消滅した。

  ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 血しぶき1つ肉片1つ飛ばすコトなく。

 低い鼻をさすり、カビ臭い引き攣り笑いを浮かべたのはイオイソゴ。

「飛ばぬのも道理よ。何故ならば」

 錐はなおも伸びる。天めがけ伸びて、何箇所か複雑に折れ曲がりながら、空中のある一点めがけ最後の突撃に移行する。

 風船爆弾で攻勢された雲に乗る、半裸なる身長62cmの円山円を突き殺さんと……伸びた!

 そう! 風船スーツの中に彼は居なかった!! 様子と高度からすると脱出は破壊直前より更に前のようだ。

 犬飼の顔面が決定的な敗北感に歪んだところを見ると、彼の指図の内らしい。

(クソ!! これさえも……!!)
(ひひっ。影縫い……百夜ぐるまが廻るところまで読んでおったのは見事。どうやら貴様らは最初から決めておったようじゃ
な。『森を抜けるあたりで円山本体を風船すーつから離脱させる』……と)

 森を抜ければ影ができる。すると忍びが敵である以上、影縫いかそれに準ずる忍法が炸裂すると考えるのは思考の流れ
からして当然だ。だから犬飼たちは森を抜ける直前に円山を離脱させた。タイミングは機雷の如く風船爆弾が敷設された
瞬間だ。バブルケイジの特性で、スーツの中、182cmから2cmに予め縮んでいた円山は、腰の後ろから射出され浮き上
がる風船に捕まり──イオイソゴに視認されぬよう、森の出口の『開けた場所』を避け、やや合流地点から遠回りになるが
枝に遮られ見つからないルートへと浮かび上がり──地上に残したスーツは合流地点へ向かうよう継続して操作。
 その遠隔操作は、空蝉になったのを悟られぬための細かな仕草ともども風船爆弾本来の機能である。もともと爆弾状態
でも微速ながら動かせるのがバブルケイジだから、『風船スーツ状態』でも、動かせる。
 かくしてスーツから抜け出した円山は、かつて奥多摩で斗貴子から逃れた時のように風船爆弾の雲に乗って追撃戦の舞
台からいったん距離を取り、しかるのち再びスーツを着込み全速力で合流地点へ……というのが犬飼のプランだったが!

 果たせるかな、この鬼謀神算と言っていい十重二十重の策さえもイオイソゴが見抜いていたとは!!

(レイビーズCDの攻撃も円山から気を逸らすための攻撃で! 照明弾だって円山とは逆の方向へ打ったのに……!!)
 身長吹き飛ばしの逆利用のあとの『いま割られる訳にはいかない』は、当時すでに空蝉だった風船スーツが、破裂によって
真実を明らかにするのを防ぎたかったが故の思いだ。

 それほどの努力で紡がれた策をイオイソゴが見抜けたのはどうしてか?
(ひひっ。わしは忍び。空蝉を疑わぬほどおろかではない。貴様らほどの連中なら影縫いさえも読み対策を講じると考える
は当然!! あとは照明弾とは逆の方向の気配を探ればよかった!!)

 先ほど周囲を洗った半球の閃光はイオイソゴの時よどみの波動を、遠く空高く浮かぶ円山にまで届けた。突如として地上で
起こった閃光を、犬飼を案ずる円山が見てしまったのは人間として当然の反応、責められる謂れはないだろう。

 かくて彼が遅疑極まる精神状態で錐の串殺を待つほかない状況に、犬飼の頬、歪む。

(……どこまで鋭いんだこの幹部は…………!! フザけるな!! これだけやったのに最後の最後で円山すら離脱させ
られないのかボクは…………!!)

 やはり最後の最後まで自分は何も成せず終わってしまうのかという絶望は、精神の遅疑さえ凌駕し双眸に涙を滲ませる。

(ひひ。むしろ貴様はようやった。連発できぬ時よどみさえ使わせたのじゃからな……!)

 犬飼最大最後のキラーレイビーズB照明弾が封殺された今、戦局の前提もまた照明弾以前に戻る!

 すなわち!!

(あとは根来を迎撃するのみ!!)

 鉄壁だった鳴子に、内縛陣に、照明弾阻止のためとはいえ自ら穴を開けてしまったイオイソゴだからこそ根来への執心
と警戒は……より勁烈なるものとなる。

(奴が出現した時点でわしは自ら背後のれいびぃずの側に進む! 心臓を貫かせ、そのだめぇじを忍法山彦で3名に返す
ためにな!!)

 長く伸びた足刀が森の出口左手に繁る枝を何十本と刈り取ったのは、その先に漂う円山を視界に収めるためだ。どうや
らこちらは時よどみのような増幅はできぬと見える。

(あとは……根来よ)

 奴はどこから来る……? 残る鳴子や、中空に神経を集中していたイオイソゴが圧倒的な威圧感を察知するまでさほど
の時間はかからなかった。円山めがける例の錐が、1ミリメートル程度しか進んでいない頃だった。

(来た! ひひ! 迎撃──…)

 してくれるとスカートのポケットの中の『形見』に手を差し伸べた幼い忍びの顔色は微妙な困惑に彩られる。

「──や?」

 迫り来る威圧感は複数だった。戦歴ゆえ、どこが狙われているか一種の未来視で察知できるイオイソゴが感じた攻撃の
気配は、その全身を取り囲むよう茫洋と漂っていた。

 背後150m超の鳴子射程外で前触れもなく膨れ上がった威圧感は剣気に分類されるものであり。

 数は……9。

「飛天御剣流!! 九頭龍閃!!!!)

 雪崩れ込んできた絶対的な金色の颶風をイオイソゴは回避するのが精一杯だった。山彦の布石のため、敢えて背中を
キラーレイビーズCDに浅く刺していたのが仇となった。
 攻撃の来た方向も悪い。背後、からだった。
 だからイオイソゴは形見での迎撃ができなかった。後ろ殴りの一閃程度では遅きに失し、先の先で発生前に潰すほか無
い九頭龍閃を到底迎撃できぬと瞬間的に判断し、胸を爪で横一文字に裂きながら脱出した。山彦をかけられなかったのは、
例の風閂のカウンターを期待したのもあるが、それ以上に、背後から神速で突進してゆきすぎる技など視界に収めようが
ないからだ。

 そのすぐ傍を、流れるような金髪を持った剣客が通り過ぎる。犬飼をさらい、横目で「フ」と笑ってくる美丈夫に、さしものイ
オイソゴも氷結した。総ての風閂が断たれて舞っている事実にもだが、それ以上に!!

(総角主税!!? 銀成でうぃる坊の時日監獄に封印された筈の貴様がなぜこの決戦場に!!?)
「フ。紆余曲折説明してやってもいいが」

 予想外の事態に本来の大敵を不覚にも忘失した彼女のすぐ! 右で!!

「どうやら無さそうだぞ、そんなヒマ」

 音楽隊首魁の声に合わせるよう稲光と共に出現した流線型の髪型の忍びが!
 マフラーを翻しながら空を裂き……刀と共に直進する!!

 根来忍!! 総角と示し合わせたのかどうなのか! とにかく『金』髪の剣客の作った最大の隙を、常軌を逸したタイミング
で! 彼は! 衝く!

(ちいい!! れいびぃずで山彦ができのうなった”たいみんぐ”で来よるとは……!!)

 右の根来に向き直り、せめて一撃だけでもと形見を抜きかけたイオイソゴ。だが彼女は一瞬の眩暈を感じる。

「忍法、かくれ傘。──」

 詩(うた)うような声の中、眩暈と、それに伴う時よどみの解除をもたらしたのは銀光である。厳密にいえば、傘の内側に
貼られた鏡である。鏡中の根来は薄く笑う。冷淡に、冷淡に、あざけ笑う。

(右ではなく、左か!!)

 がばと向き返る。
 根来忍法など知り尽くしている筈のイオイソゴが、忍法かくれ傘という、鏡張りで、催眠作用のある有名な忍法にまんまと
引っかかったのは、総角の予想外の出現に少なからず動揺していたからだろう。
 だから、鏡に映された、大本の、左の根来のシークレットトレイルの利剣きわまる破壊力は、やすやすとイオイソゴの章印
に迫った。

 それが分かったから──玖の突きの変形で章印を貫かれるのを恐れて九頭龍閃を避けてもいたから──死兵の狂乱
の勢いで形見の一撃に移るイオイソゴ。右に気を取られた出遅れを一瞬で取り戻した体裁きは戦歴500年ならではだろう。

 だが、つんのめる。

「忍法、傀儡廻(くぐつまわ)し。──」

 奇怪や奇怪、根来のほうり捨てたイオイソゴそっくりの土人形が、中空でこれまた根来の投げた竹箆(たけべら)に掠って
ぐるんと時計回りを1つ打った瞬間、イオイソゴ本人もまた同じ動きで体勢を崩した。人形を使った一種の呪術操作である
らしい。

 だがきりきり舞いを演じながらも双眸戛然、ポケットから形見を抜き出したイオイソゴもまたさる者。狙うはむろん根来、す
ぐ前の、根来。

「秘剣! 『牢の御剣』!!」

 その全貌は、抜く手も見せずといった速度だったし何よりこれを見た犬飼自身の視界が失血で霞んでいるからよく分から
ない。とにかく根来めがけ残影けぶりつつ翻った銀閃は短刀ほどの長さであった。(今まで耆著と忍法しか使って来なかった
癖に……)! そう犬飼に歯噛みさせる太刀行きの速さよ、気迫とあいまり周囲には、うっそりした古怪きわまる竜胆色の鬼
火さえくゆって見える! しかも雄渾! 金剛力をも孕んでいる。

(ダメだ当たる! いくら根来でも……!!)

 けくっとノドを鳴らす青年の遥か前で牢の御剣はとうとう胴ごめに斬り飛ばした。

 自爆寸前の、キラーレイビーズCDを。

(ば、ばかな!!)

 さすがのイオイソゴも双眸を剥く奇ッ怪千万!

 入れ替わっている! 先ほど遠ざかった筈の軍用犬が先ほどまで傍に居た根来と、入れ替わっている!!

「フ」

 一度見た武装錬金であればコピーできる金髪の美丈夫は瞑目し、静かに笑う。

 軍用犬の背中に仕掛けられている赤い筒は、正式名称を百雷銃(ひゃくらいづつ)と、言う。セットされた物体は攻撃に応
じて自動(オート)で入れ替わる。一番近くにある同様の、物体と。

(おぼろげながら見た……)

 犬飼は唖然と反芻する。最初は、傘だった。イオイソゴがその幻妖に眩暈を催したまさにその瞬間、総角は鳥形態に変形
せしめた百雷銃を2つ飛ばしていた。犬飼のぼやけた視界は詳しい形まで分からなかったが、予め聞いていたその特性か
らそう彼は類推した。

(片方は木星の幹部に視線を移される前の根来に、もう片方は傘の柄に。後者に、傘を見ていた頃のイオイソゴが気付か
なかったのは……動揺や眩暈もあるけど)

 傘が、広がっていたのも大きい。総角はその死角に百雷銃の航跡を合わせたのだ。

 そして傘にセットするや、同様の処置をキラーレイビーズCDに敢行、間髪居れずこれに無造作な裏拳を敢行。ちょうど
イオイソゴが傀儡廻しによる時計回りを終えた頃の話だから傘⇔軍用犬の入れ替わりは知られるコトなく静かに完了。
 そして軍用犬は根来への牢の御剣着弾をキーに彼と入れ替わり、現在に至る。

 総角主税はイオイソゴに告げる。切れ長の瞳を細め厳かに告げる。

「戦闘の全容はわからんが……俺に分かるのは1つ。フ、1つだけだイオイソゴ」

 牢の御剣で胸腰を異にした衝撃でキラーレイビーズCDは自爆を早める。

「それは未熟なれど懸命に戦い抜いた男の、魂が込められた一撃……! 逃げ得は許さん。最後まで……味わえ!」

 一度は避けられかけていた犬飼の武装錬金決死の大爆発が……イオイソゴを怯ませた。
 先ほど同様の行為に対し行われた忍法肉鞘はコーティング必須のわざゆえどうやら短期間では補充できなかったと見え、
哀れ忍びは金蛾の如き火の粉に彩られるだけでは許されず、体内で増殖途中止まった風船爆弾の、急激な温度上昇に
端を発す内部の膨張破裂の痛覚の濫発に不覚ながら硬直する。

 だが呆気なく追い詰められているというなかれ。通算でいえば彼女は5人を相手どっているのだ。犬飼、円山、根来、
総角……そして盟主。最後の一名の出奔で篭城構想を崩され、耆著を裂く破目になり、犬飼と円山の正に膏血を絞った
知略戦の前に総角の奇襲を許し、根来にすら介入され、今に到る。むしろこれだけの不利の中、自身が選んだ心臓の
傷以外に重傷らしい重傷を負っていないコトそれ自体が既に魔人。

(そもそも”といずふぇすてぃばる”……!! 忍者(わし)を忍具で嵌めるとは……!!)

 イオイソゴ、犬飼に肩を貸す総角を睨む暇もあらばこそ。

「忍法逆流れ。──」

 契機は陰鬱たる根来の声。逆転する彼女の視界の天地が、更なる混乱をもたらした!! 

(たたみ、かけよる…………!!)

 イオイソゴの視覚と感覚は乖離した!! 足の裏が確かに『下』で大地を踏みしめている実感があるのに、目に映る光景
はまるで自分がコウモリの如く天に足をつき大地を覗き込んでいるような代物だ。その不一致が入眠時のような無用の落下
感をもたらす!! 

 しかも根来はもう寸隙なる右から来ている! 一度はイオイソゴが目を離し意識を外した右方から、橋頭堡(トイズフェス
ティバル)の特性に、入れ替わりに、根来の方はまったく怯まず攻撃を続行できているのはかつて本来の持ち主と戦って
いたればこそ。しかも総角はその戦いで間接的にとはいえ根来と敵対していたから、或いは咄嗟即席かも知れぬこの連携
に両者よく識るトイズフェスティバルを選択したコピーキャットの判断もまた叡哲と言わざるを得ない。

 そこが入れ替わりを予期できなかったイオイソゴとの決定的な違い、アドバンテージ!!

 根来はゆく。千歳から光を奪った木星のもとへ
 恐るべき怒りと、殺意に、ただでさえ峻険と釣り上がっている瞳をいよいよ魔王の如く尖らせて──…

 犬飼決死の攻撃で、磁性流体化が解除されている章印へと!

 刃を、進める!!!






 そこまで目撃したあたりで意識を入滅の如く墨に染める犬飼倫太郎!

 波濤の如き連撃に苦慮し、悶え、脂汗まみれのイオイソゴ=キシャク!

 状況が状況ゆえに蚊帳の外であるが、錐が迫り絶体絶命だった円山円!

 三者の運命や、いかに──…


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