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過去編第001話 「動き始めていた時間の真ん中で (前編)」



 玉城青空(たまき あおぞら)の声帯は生後11か月にしてその機能の大半を奪われた。
 母親のせいである。彼女は新婚生活に夢のみを描いている若い女性にありがちな育児ノイローゼを発症し、いまだ座らぬ
──11か月にして、まだ。発育不良によって将来を悲観させるには十分な──青空の首を発作的に絞めた。
 治るはず、締まるはず、みんなのように座るはず……時に人は攻撃の暴発をもたらしたありとあらゆる悪感情を行為ごと
その中で無自覚に弁護し、整合性を取りたがるらしい。少なくても青空の母親はそうであった。我が子の首にかけた十指
におぞましい力を込めながら「治るはず、締まるはず、みんなのように座るはず」と頑なに信じていた。我が子がむせ、チア
ノーゼをきたし非定型的縊死への道を緩やかに歩んでいるのを見てもなお、たとえば首ヘルニアへ牽引を用いるような加療
意識によって我が子の首を絞めていた。それが正しい行為だと信じていた。
 ストレスの発散にすぎぬ非合理的な行為、自分がやりたいだけの”それ”を行う事で問題が解決するという錯誤は人間
ならば誰しも経験するところであろう。物事の解決が莫大なる忍耐と構築によってようやく得られる物だとしても。
 いうなれば青空の母親は生涯何度めかの錯誤、”それ”に見舞われただけであった。疲れてもいた。初めての育児でクタ
クタになりながらも読み漁っていた育児書は、354冊目に至ってもなお我が子を異常と断じ、元より折り合いが悪く結婚に
際し迷わず別居を選択した姑は電話でうるさく口を出すばかり。青空と同時期に生まれた乳児たちはとっくにハイハイを覚
えている。
 加害者ながら走馬灯のように巡るそれらの光景へ「治るはず、締まるはず、みんなのように座るはず」と小声で呼びかけ
ながら一層力を込めた。それはまさしく治療行為であった。但し娘そのものでなく自身への。もはや青空の首は全ての問
題の根源であった。他の子供から5〜7か月遅れてなお座らぬから、理に合わぬ祈祷や供養をしつこく勧める姑とつまらぬ
諍いを起こし、公園でベビーカーに我が子を乗せて成長ぶりを自慢し合う母親どもに劣等感を覚え、夫ともギクシャクし始め
ている。
 それも絞めれば治る。
 育児の報われぬ疲労さえ雲散霧消し蕩けそうな新婚生活のみを永久に甘受できる。
 昼。夫の出社によってがらんどうになった2LDKの部屋の中で、母親はひたすら首を絞めた。

 世の多くの父親がそうであるように、青空の父親もまた英雄性のない、ごくごくありきたりの男性であった。
 誰にでも愛想よくするがそれだけに特定の人物に心から尽くす事のない──他者から悩みを打ち明けられてもありきた
りの一般論を投げかけて終わらせるだけの、結局真剣に同調したりはしない──どこにでもいる男性であった。
 彼のその態度が妻の育児ノイローゼを加速させたとして誰が責められよう。多かれ少なかれ育児にはかようなすれ違い
があるのだ。
 決して悪性ではない。むしろ社会を規範通り運用していくには彼のような人物こそ必要と誰もが認める人物であった。
 結婚理由は手ごろな時期に手ごろな相手が居たから、である。この点も一般的な社会通念をよく遵守していたといえよう。
 青空の首が絞められたその日。
 彼は最近様子のおかしい妻に胸騒ぎを覚え、早退届を書き、午後5時より5時間早く帰った。そして仰天した。
 無論英雄性を持たない一般の人である。我が子から妻の指を剥がす時は、離婚争議のような乱痴気騒ぎを起こさざるを
得なかった。
 そしてぐったりする我が子を見て、ほんの一瞬だけ思った。
 
 息絶えてくれた方がいろいろ楽かも知れない。不幸な事故。また作れば──…

 と。そしてかぶりを振って社会規範通りに救急車を呼び、社会規範通りに存命を願った。

 ただし障害のない事を意識の奥底で前提にしながら。

 玉城青空。
 命こそ取り留めたが声帯はもはや破壊されたに等しく、後に手術によって失声こそ免れたものの絞首によって異様な湾
曲を遂げたやわやかな頸骨は声帯がどう頑張っても『大声』というものが出ないほど圧迫ないし癒着しており、青空は結局、
生涯を終えるまでの19年間、小声で通すしかなかった。

 或いは。
 11か月で母に殺され、よくある事件として三面記事に取り上げられた方が幸せだったのかも知れない。

 玉城青空に家庭や伴侶を破壊された多くの人々にとって。
 父親と義母と、義理の妹──



                                    玉城光にとって。















 銀成市におけるザ・ブレーメンタウンミュージシャンズと戦士たちの戦いから遡るコト、約11か月前──…

 朝。霧が満ちる山の中腹。崖に面した木馬道を歩く4つの影があった。

『核鉄は……2つか!!」
「一見少なく思われますが規模鑑みまするになかなかの収穫でありましょう」
 よーわからんけどやったじゃん、騒ぐ少女の声を背後で受け流しながら、総角主税は軽く肩をすくめて見せた。とかく見栄え
のいい男であった。翠霞にけぶる瞳は静かな自信を溌剌と湛え、ただでさえ端正な顔立ちをますます力強くしている。
 無造作に結わえそっけなく肩に乗せただけの長髪もなかなか堂に入っており、緻密な純金細工のような輝かしささえ感ぜ
られた。歩き方もいい。地を足で蹴らない。まず重心を前へやり、その移動分だけ足を動かすという態である。いきおい体
の上下動が少なく一歩一歩が自然な美しさを帯びている。剣術をかじった者が見ればそこに至るまでの鍛錬を想像し、ほ
うとため息を付くであろう。
 そんな総角の足元をうろついていたチワワ型ホムンクルス──幾何学的なホムンクルスにしてはいやに有機的で本物そ
っくりな──が同意を求めるように見上げてきた。後ろがうるさい。そういいたいのだろうが肩入れ(朝っぱらからの説教)を
する気にはならないので受け流す。
「なんだ無銘。寝不足か? まあ確かに昨日の夜、この山奥にある共同体を潰してすぐ寝に入ったからな。興奮して寝付け
なかったのか?」
「それに非ず」
「だろうな。お前が事前に調べてくれた構成員についてはキチっと全滅させたから、俺は残党に意趣返しされる心配など欠片
も抱かず熟睡できた。まあ、不寝番に立つまでの話だが熟睡は熟睡」
 大きな三角耳の下で密かな嘆息が漏れた。望みが叶わぬと踏んだのか話題を変えるそのチワワ、名を鳩尾無銘という。
「それですが、奴らどうしてかような山奥にアジトを?」
「この道さ」
 と総角は視線を落した。
「どうやらむかしこの辺りは林業が盛んだったらしいな。んで通行の便がそこそこ整えられている」
 彼らの往く道はなかなかよく踏み固められており非常に歩きやすい。
「成程。流石は師父」
 チワワの声が感嘆に満ちた。堅苦しくもあどけない、少年らしい調子だ。。
 むろん本来の目的に於いては使われなくなって久しいだろうから、「踏み固めた」のは昨晩死骸になって散滅した連中に
違いない。犬の嗅覚が得たその合致は昨晩の戦闘──というにはあまりに一方的で20分ほどで終わった──と結びつき、
無銘に別なる思案をもたらした。
「そういえば奴らのアジトは山小屋……再利用したと」
「実際、信奉者の何人かは元々林業をやってらしい。ここを離れたいが金がない故それも出来ず、たまたま戦団あたりの追
撃を振り切って逃げ込んできたホムンクルスに脅されしぶしぶ協力していた……という所だろう」
「協力すれば金品をやりここを離れる手助けをする。しなければ殺す。フン。見え透きし飴と鞭によくもまあ」
 黒豆のような瞳が憎々しさに満たされた。少年特有の不合理への憎悪、正義感が燃えている。
「ま、人間そんなものさ。後は麓の村に戻って『化け物退治しました』などとおとぎ話めいた報告すれば万事解決。もっとも
村人連中が身内や客人捧げていた場合は別だがな」
 そこまでは面倒見きれんとばかりに総角は微苦笑した。
「それでもあの場にいた信奉者どもを殺さず追い払えたのは収穫だ」
「核鉄のみならずあの新参どもが活躍したのも、師父に取っては収穫……」
「できれば香美にも武装錬金を発動してほしいがな」
 気障ったらしい笑みを浮かべる総角の背後で、また声が上がった。
「さあさ先をば急ぎましょう! 早く離れませねば新たな脅威危険源に出会うコト必定!!」
「なにさ。何がくるのさ?」
『戦団!! 共同体あるところ彼らは絶対来る!!』
「じゃあなんでさっき寝たのさ? 寝るヒマあるならさっさと離れりゃよかったじゃん」
「残存戦力がいるか否かの確認でありますっ!」
 山間にキンキンと響き渡るうら若き女性の声+αは幾重もの山彦を呼び、明け方の静寂の世界を蹂躙しているよう
に思えた。
 もっぱら声の発生源の3分の2は、豊かな肢体をタンクトップとデニムハーフパンツで僅かだけ覆った少女である。
 名を栴檀香美といい、肘まである茶髪にシャギーとメッシュを入れているいかにも活発そうな少女である。
 時おり彼女の後頭部からも男性の声が上がるが、別に二重人格と言う訳ではない。
 故あって香美と一体化した元の飼い主──栴檀貴信の顔がそこにあるだけである。
(フ。まあおあいこってところだ。体温の敵討ちで静寂を奪わねばやってられんのだろう)
 初秋の山は寒い。霧はしっとりと衣服を濡らしそろそろ無視できない重量をもたらしつつある。起きてすぐそれかと呪わし
い気分になったがしかし慣れてもいる。
 とりあえず意識的に鳥肌を起こす。肩が震えたのを合図に全身へ熱が戻り筋肉のほぐれる心地いい感触が広がる。
「不肖たちは故あって旅から旅の旅ガラス! 野宿などする日はそー珍しくないのですっ! 路銀につきましては不肖のマ
ジックと無銘くんの三輪車乗りと、それからそれからもりもりさんのあれやこれや乾坤一擲の大着想でサクサクと儲けてお
りますが、まあなんというか野宿して焚き木する方が雰囲気あって楽しいのでもっぱら野宿派などですっ!」
 ロッドの武装錬金をマイク代わりに誰ともなく実況するのは小札零。極めて小さく起伏に乏しい肢体にタキシードをまとった
お下げ髪の少女である。トレードマークのシルクハットも声とともに景気良く揺れに揺れ、よくもまあ起きぬけにここまで声が
出る物だと一同総てを感心させた。
 閑話休題。
 旅から旅の都合上、朝霧に濡れるのは慣れている。といっても黙っていれば凍える一方。適応はつまるところ物理法則へ
の迎合にすぎず、例えば朝霧の体温奪取を覆す物ではない。
 以上の観点からすれば小札・香美他1名の他愛もないやり取りも体温保持ぐらいには役立つ──…
 という事をチワワ──鳩尾無銘──に漏らすと、犬鼻が笛のような音を奏でた。
 分かっているが納得できない。そう拗ねた時のくせである。
「母上はともかくあの2人、起きて早々よくもあそこまで騒げる。少しは慎むべきなのだ。新参めが」
 湿った暁闇の中、矮小な白牙がチラリと覗くのを総角は見逃さなかった。
「なんだ? お前も混じれなくて寂しいのか?」
「別に」
 土を抉るように一歩、ずいっと踏み出した。
「怒るな怒るな。10歳と10代後半じゃ話も話も合わんさ」
「年齢の問題にあらず。そもそも忍びに、友など……」
 人型になれない犬型ホムンクルスが小声で呟いたが、背後の人型2体の嬌声にかき消された。
 会話がどういう弾みを得たのやら。香美に抱きつかれ前髪をねぶられている小札が艶めかしい金切り声を上げながら体
をくねらせている。ポール・シェルダン顔負けの必死なる脱出劇が進行しているのはもはや明らかだが、そうはさせじと香
美があんな所やこんな所をがっちりつかむ物だから、幼い面頬はますます恐怖と焦りに赤面していく。正にミザリー(悲惨)。
「あんな所や!」
「こんな所も!」
 男2人、軽く頬染めドキドキと見とれかけたが──…
 口火を切りしは憎悪に尖る獣の皓歯。いずこともなく現れた核鉄をガチリと噛み縛っている。
「……古人に云う。親しき仲にも礼儀あり」
 光とともに現れたのは190センチメートルはあろうかという兵馬俑。無銘の武装錬金・無銘。
 敵対特性持ちの自動人形を認めると、明らかに香美の顔色が変わった。貴信が次に起こる出来事を教えたのだろう。前
髪のグルーミングを即座に終え豊胸揺らしつつ直立不動へ移る香美。だがそれももう遅いとばかり無銘は軽佻浮薄のシャ
ギー少女を睨(ね)めつけた。
「出でよ。名も知らぬ彼の武装錬金」
 やや強張った声音で認識票を握りしめる総角の周囲に現れたのは黒い蝶。れっきと知れた黒色火薬ニアデスハピネス
である。数は6つ。総角の両肩両肘両手首からきっちり5cm横を浮遊していた。それらがとある一点目がけ飛翔する。後
翅の尾状突起より噴出される橙の燐光、推進力のもたらす軌跡はやがて霧の白い輝きと加法混色をきたし金の円弧となっ
て滑らかに交錯、全ての蝶はとある一点に吸い込まれた。とある一点を生物学的に訳せば動物界なんたらの、栴檀香美
の後頭部である。(なお、この当時使用(つか)えた理由は後段に譲る)
『あがっ!?』
 爆光と破裂音に一歩遅れて響いたのは栴檀貴信のうめき声。髪に隠れて見えないが、通常彼は人面瘡のごとくそこにいる。
 哀れ艶やかなまだら髪が舞い散って煙がもうもう立ち上る。
「ペットの面倒は飼い主がちゃんと見ろ。感覚を共有しているのなら尚更だ」
 にこりともせず振り返ろうともせず、総角は厳粛極まりなく囁いた。
「けしかけるのは当然論外だが、かこつけるのもやめろ。な? 香美がじゃれついたからドサクサまぎれにハッピー味合うっ
てのは男として恥ずべき行為だと思うが? なあ貴信よ。言って分かるお前だよな? 黒色火薬で調教されずとも俺のいう事
分かってくれるよな?」
『すいません! げほうっ!!!』
 髪の焦げる嫌な臭いを鼻孔いっぱい吸い込んだらしく、しわぶきとともに煙が立ち上る。
「ご主人ーっ!!」
「貴信どのーっ!!」
「ったく。俺でさえムード重視で自重してるというのに。でもたまには肘が偶然胸に当たって気まずくもラッキー! って感じ
になったらいいなあと思っているのに。まったく。まったく」
 色の薄い唇から苛立ち混じりの吐息を洩らす総角、やれやれとかぶりを振った。
「話は戻るが、無銘よ」
「はい」
 とりあえず兵馬俑で貴信のこめかみを掴み上げ、フレイルよろしく振り回しながら無銘。
「いいじゃないか。人型になれずとも。どうせ俺たちはホムンクルスで人間からは外れた存在。俺は『奴』のコピーだし小札
だって18歳にしてああいう体型で下半分がロバになったりするし、貴信香美に至っては2人で1体という難儀な存在。みな
多かれ少なかれお前と同じ欠如を背負っているが人生を楽しむ権利は持てるし、楽しむよう努めるコトもできる」
「しかし」
 また笛のように鼻を鳴らす義理の息子の額を総角は小突いた。

「フ。肩肘を張るな。ミッドナイトの件でいろいろ後悔したろうに」

 ミッドナイトとはなんなのか。不明瞭だがしかし無銘の顔はにわかに曇る。


「………………」
「しかし自分で言っておいてなんだが懐かしいな。ミッドナイト。土星の幹部」
「戦ったのはあの新参どもが入った少し後」
「奴が復活させた6体の頤使者(ゴーレム)。これまた懐かしくも厄介だったが……本題ではない」
 いつの間にか総角はしゃがみこんでいる。ついでに香美は臀部や膝を木々に打ちつけられ「うげ」だの「ぎゃあ」だの鳴き喚いている。
「無銘よ。お前は忍術とか沢山使えるのに、欲しい物は小遣い溜めて買うだろ? 盗まないだろ?」
「無論!」
 無銘は後ろ足で立ち上がり、敢然と胸を張った。ユーモラスだが細っこいチワワがそうするのはやや気持ち悪い。言葉に
こそ出さなかったが、総角は若干引いた。引きつつ視線を密かに外し、ゆっくりと立ちあがった。
「忍術の根本は偸盗(ちゅうとう)術。されど偸盗に身を任せば忍びに非ず。其はもはや風魔小太郎の如き盗賊の類」
 小さくくるんと丸まったしっぽがハタハタと触れた。
「古人に云う。そもそも忍びの根本は正心である。忍びの末端は陰謀・佯計である」
「萬川集海(ばんせんしゅうかい)か」
 三大忍術伝書の一角を挙げると、無銘はサーモンピンクの”べろ”を出してはっはっと息まいた。
「はい。『そうであるから、その心を正しく治めないときは臨機応変の計略を運用することができない』とあります」
「剣術も似たような物だな」
「しかしそれが人型になれない事と如何なる関係が?」
 ようやく四足獣に戻った無銘が不思議そうに見上げてきたので、総角は微笑を──ようやくキモい状態が終わったという
安堵が4%ぐらい混じった──微笑を返した。
「忍びの本質は正心、だろ? なら正心を持たんとするお前は人間よりも人間らしいさ。後はそれを理解してくれる同年代
の友達が出きるかどうかだが……ま、そっちはお前次第ってとこだな」
 抱えられ、頭を軽く撫でられると無銘は憮然とした。ように見えた。
「そんな事より師父。副リーダーの件はどうなっているのですか」
 ふむ、と総角は目を細めた。いよい山全体を照らしつつある曙光が少し痛々しい。
「順当にいけば小札が一番いいのだが、戦闘力に不安が残る。香美はああだし、貴信は声の大きいだけのヘタレ」
「やはり我こそ?」
「いや、お前はフットワークが軽いから別行動する事が多いだろ」
「…………」
「それに忍びだし諜報とか暗殺とかやる方が似合いだと思うが!」
「諜報! 暗殺!!」
 少年無銘(チワワ)の面貌がぱあっと輝いた。
 その拍子に兵馬俑の方で微妙な力加減を誤ったのだろう。掴んでいた物がすっぽ抜けた。
「わーっ」
 香美と貴信の体が飛んだ。崖に向かって彼らは飛んだ。飛ばされた。
「されどただ飛ばされる御二方ではありませぬ! とっさに鎖分銅の武装錬金・ハイテンションワイヤーをば発動! 狙うは
道沿いひしめく無数の木々! 鎖が巻きつけば落下は回避できます故ここは是が非でも当てたいところ! ヌはッ!?!?
行ったーっ! 星型分銅が行ったあ! 霧を突っ切るその姿は正に流星、いや彗星? とにかく伸びる! 夢と鎖の尾を
引いて果てなく伸びます大彗星! などという間にも貴信どのたちは落下中! 一方鎖分銅は遂に不肖の横を行き過ぎた!
狙い定める木々まであとわずか! 届け流星伸びろ彗星、正に願掛け流れ星! 高所恐怖症の香美どのも願っているコ
トで……ああーっ!ク ラ ッ シ ュ で す ー! 星型分銅が幹に当たって大きく跳ね返された! あくまで木々は彼
らを拒むのでしょーか! ああ、ずるずるガラガラのたうつ鉄鎖はさながら貴信どのたちの落胆を示すようっっ! 正に痛恨、
地を這う思い! さあさあカウント2・1・0! 泥に塗れし黒星が崖へ落ち……試合終了オオオオオオオオオオオッ!」
 勢いの赴くまま実況女はロッド先端にかぶりつき、ぎゅっと瞑目、力いっぱい息を吹き込んだ。すると宝玉が甲高い音を
立てた。どうやらこの武装錬金、マイクのみならずホイッスルにもなるらしい。
『実況してないで!!』
「助けてほしーじゃん!!!!!」
「きゅう?」
 小札が首をかしげる間に貴信らは崖下へと落ちていき、やがて見えなくなった。
「諜報暗殺は正に忍びの華! それを我に!?」
「そうだ。諜報や暗殺は地位がないからこそできるぞー! カッコいいぞー!」
 珍しくくだけた調子で総角はいう。さながら駄駄っ子を宥める父親のような口ぶりである。
「師父がそう仰るなら!」
 ぶんぶんと頷く無銘は実に少年らしい純粋さに満ちている。双眸はきらきらと輝き、どこまでも師父を信じている。
 そんな無銘を好ましく思いながら、総角は呟いた。
「普通ナンバー2ってのはトップを補佐する立場なんだが、俺は割合器用で補佐いらずだしなあ。通常の構図とは逆で、

すごく強いけど抜けている

そういう奴がナンバー2の方が案外しっくりくるかも知れん」
「名前は『鐶』(たまき)が宜しいかと。総角付きの鐶。師父に次ぐのならばそれが最も相応しい」
「だな。ナンバー2に見合った人材が転がり込めば、の話だが」
「ぎゃああああ! 貴信どのと香美どのがああああああああああ!!」
 素っ頓狂に叫ぶ小札へぎぎぃっと首をねじ向けた総角と無銘は数秒かかってようやく状況を把握し
「え」
 とだけハモった。
 頬には汗。













 蒼い碧い天蓋を滑らかに突っ切る影一つ。










 鳥が一羽、空を飛ぶ。







 その鳥はまるで航空機のような直線的な意匠に彩られていた。翼も爪も嘴も全て図面から抜け出てきたと見まごうばかり
に角張り、金属的で無機質な光沢を黙々と放っていた。
 翼をモノクロなツートンに塗り分け白いマフラーから赤黒い首をぼんやりとむき出している姿はコンドルにやや似ていたが
前述の通り”そのもの”ではなく、誰かが機械的にしつらえたような雰囲気を無愛想に振りまいていた。
 ただ一つ生物らしさがあるとすれば、胴体にかけている白いポシェットであろうか。強風に煽られるたび、それを見るコン
ドルの瞳に生命らしい機微が宿った。風にさらわれるのを危惧しているのかも知れない。
 そうして大空を滑空していたコンドルのような物体は一度大きく翼をうねらせると、下方に向かって猛然と疾駆した。
 霧の立ち込める山。擬人化すれば間違いなく「つむじ」が禿げ上がっている──ちょうど山頂で木々が途切れ、代わりに
山小屋と狭い庭がある──その山の「つむじ」目がけてコンドルは落下した。
 半ば朽ちはてていた山小屋の屋根は紙よりも軽く粉砕された。
 腐った木片たちはそれが最後の仕事であるように降り注いだ。掘っ立て小屋の地面に歪なブラウンの影が染みついて、
一歩遅れて落ちた天井仲間のなれの果てが衝突した。粉塵が舞い、その中で演奏会が開催された。
 木片同士がカツカツとぶつかるか、或いは地面にボタリと落ちるかといった聴きごたえのない演奏会が。
時間18秒にして幕が上がったのは「グーゼン」または「テンモンガクテキカクリツ」が自分の指揮のひどさに耐えかねて帰っ
たせいであろう。
 そんな酷い(木片がパラパラと振るだけの)演奏会の最中、爆心地にいたコンドルが光に包まれた。のみならずツートン
カラーの翼は白く細い腕へと変わり、鋭い爪はなよなよとした頼りなげな脚へと変わり、漆黒の胴体もまた迷彩のダウンベ
ストとカットフレアーのミニスカートを纏った少女の物へと変貌した。
 希少だが無能な指揮者たちが家で一杯引っかけるべく踵を返した頃、赤茶けた鳥頭は愛らしい少女の顔へと変貌を遂
げた。赤い三つ編みを腰まで垂らした儚げな少女である。彼女は何事もなかったように周囲を見渡し、
「全滅……してます」
 とだけ呟いた。





 錬金戦団。中世のギルドに端を発する秘密結社はいまや世界中に支部を置く有数の組織だ。
 世界中に散逸する核鉄を管理し、さらには錬金術師たちの悲願である賢者の石の精製をも目指しているが、ことホムン
クルスたちにとっては一種ぶっそうな武闘派集団でしかない。
 人々を錬金術の魔手から守る……大義のもと武装錬金を行使するその姿ときたらまったく幕末期における新撰組こそかく
やあらんという調子でまったく容赦がない。ゆくところ血の雨が降り屍が降り積もるというのはまったく比喩にとどまらず……
一種魔人めいた戦士たちがひしめきあっている。
 たとえば毒島華花という儚げな少女は戦場で致死性のガスを振りまくし、戦部厳至という古武士めいた記録保持者は人な
がらに怪物を喰らう。戦士長・火渡赤馬の焼夷弾の温度は五千百度、半径500mにある何もかもを一瞬で蒸発させる。
 他にも少女ながらにおぞましいまでの執念でホムンクルスに食らいつく津村斗貴子や身長57mの自動人形を操る坂口
照星といった強豪もいるが──…

『果たして最も強いのは誰か?』

 そう問われた場合、彼らは多かれ少なかれ自分以外のとある名を脳裏に思い浮かべる。

 毒島華花は何を浴びせかけても倒せないと観念し、戦部厳至は決着なき千日手を期待とともに想起する。
 津村斗貴子でさえ敬服の前に殺意を捨て、坂口照星も蹂躙を選ばない。
 戦団最強の攻撃力を持つ火渡でさえ「自分より強い」と心中密かに認める『最強の戦士』とは誰か?

 意外にも彼の武装錬金じたいはまったく攻撃力を持たない。
 代わりにこの世のあらゆる攻撃力……核兵器の直撃さえ凌ぎ切るほどの堅牢さ、防御力を有している。

 だからこそ戦士たちは彼を認める。自らの刃の強さにひとかたならぬ自信を持つ彼らだからこそ、その攻撃にビクともせ
ず、瞬時に硬化し再生する、錬金戦団最強の防御力に瞠目する。



「ただし、だ。我輩に言わせれば彼の美点はそこじゃない」

「仮面ライダーってあるだろ、仮面ライダー(プリキュアの前にやってる奴だよっ!)」

「アレの決め技がいまだパンチだのキックだの斬撃なのは結局そーいうシンプルな”技”こそ人の心を捉えるからさ」

「もちろんエフェクト……CGのスゴさには目を見張るけどやっぱ基本は単純、肉弾戦じゃないか」

「戦士たちが持つ彼へのあこがれっていうのはつまりライダー……ヒーローへのそれに近い(うんうん)」

「自分を鍛えて鍛えて鍛え抜き……強くなる。男のコなら誰でも一度は夢見るコトだ。女のコはくぅーっとなる」

「特性に頼らない、ただただ修練によってのみ培われたスタイルはただただ美しい。雄大で、まろやかで、冷たくも鋭く……」

「実は我輩も憧れているよ。昔やった泥くさい努力を披瀝しお褒めに預かりたい……そう思わせるお人柄だね彼は」


 その名はキャプテンブラボー。戦士長、である。








 後に銀成市において彼と拳を交える少女は──…



 とにかく虚ろな双眸だった。凛としているがあどけなさも残る大きな瞳には一点の光もなく、ただひたすらに淡々と山小屋
の中を見渡した。山小屋の中は殺人現場のようであった。胸をつく死臭がむわりと立ち込めているのも納得、血潮が飛び
服の破片が散り、壁が捩割れ柱が砕けている。
「落ちた時に……ついたよう…………です」
 頬にべっとりとこびりついた赤黒い液体をボンヤリさすっていると、木屑と一緒に、しかし木屑より遙かに重い物が頭に当
たり足元へ転がった。
 少女はそれを無感動に眺めた。
 どうやら山小屋の主は天井裏におやつを隠していたらしい。頭の右半分をかじられた子供の生首が少女を睨んでいる。
顔は絶叫にこわばり、黒々とした眼窩には白い粒がウニョウニョ……。
「こんにちは……?」
 特にどうという表情も浮かべず、少女はポシェットから携帯電話を取り出した。
「電話……しないと…………いえ……メール……です。……声は……ダメ、です」
 そして何事かを送信し何事かを受信すると、両腕を翼に変えて飛び──…
 立つ事はせず、少年の頭めがけ一歩進む。









 5分後。
 
 狭い庭の一角に朽木製の墓標ができた。

「?」

 近くにある真新しい焚火の跡に少女は少し気を引かれたようだが、追及はせず、今度こそ翼を得て飛び上がった。

 鳥が一羽、空を飛ぶ。








「おとうさんがピストルでうたれた」

 少年の訴えを聞くものはいなかった。
 何故ならば「うたれた」場所は週末の遊園地で、「おとうさん」もピンピンしていたからだ。
 銃声だって現になかった。大きな音といえば離れた孫娘を呼ぶどこかのお爺さんの声ぐらい……。
 だが少年は確かに見た。人混みの隙間からピストル──銃口だった。テレビドラマやアニメで見るより重々しく光り、しか
も不気味に長い銀色──が「喋ってるおとうさん」を狙い、何かを噴くのを。
 
 どうせ売店で売っているおもちゃか何かを誰かがふざけて向けたのだろう。
 
 報告を聞いた「おとうさん」は笑った。そしてこうも続けた。
 そんな事より一家団欒を楽しもう。
 いつものように透通った、家族みんなを安心させてくれる笑顔を浮かべた「おとうさん」は「おかあさん」と「少年」と「いもう
と」にいった。
 そして後ろで見知らぬお爺さんが再び声を張り上げた。
 声に籠る恐ろしい気迫、少年が悪事を働いた時におかあさんが降らせる怒鳴り声から、理性を全て抜いて代わりに憎しみ
と恐怖の綿をたんまり入れたようなおぞましさに思わず少年が振り返った時、お爺さんの足もとには鼻血を吹いて仰向けに
転がる女の子(幼稚園ぐらい)がいた。
 恐らく蹴られたのだろう。ピクリともせず瞬きもせず、ただ黒々とした大きな瞳を空に向けていた。頭の大事な部分を打っ
てしまったのかも知れない。同じくらいの年齢の”いもうと”は直観的恐怖に泣きだした。
 お爺さんが係員に押さえつけられたのに少し遅れて、おかあさんが少年といもうとの前に立ちはだかった。
 後はただ聞くに堪えないお爺さんの喚き声だけが響いた。人混みは俄かに凍り付き、ひそひそとした野暮ったいやりとり
ばかりが残された。
「はぐれたからって何も蹴らなくても……」、おかあさんは眉を顰め、おとうさんも同意を示した。
 しかし少年だけは別の感想を抱いた。何故なら彼は振りかえった瞬間、お爺さんの目を見てしまった。
 まったく焦点の合わない、この世の物とはまったく別の物を見ているような目。
 係員に押さえつけられても視線はあらぬ方ばかり見つめていた。というより自分が押さえつけられているという自覚さえ
持てていないようだった。まるで少年達には見えない『何か』とだけ闘っているような……そんな眼差し。
 
 しかしそれをおとうさんに教えても、「またおかしな事をいう」と笑われそうだった。笑われるだけならいいが、せっかく遊園
地に連れて来てくれたお父さんに何度もおかしな事をいい機嫌を損ねるのは申し訳なかったので──…
 来年中学生になる少年は黙った。

 そしてこれが最後の一家団欒になった。



 キャプテンブラボーといえば戦団において知らぬものはいない有名人だが、その本名はほとんど知られていない。



 剣持真希士という男がいる。家族の仇を討つべくブラボーに師事した男だが、彼でさえ「防人衛」という本名は知らなかっ
た。津村斗貴子も然りである。




「キャプテンブラボーは本名を捨てていた。発端は7年前……二茹極貴信が栴檀の苗字を拝したころさ」


 斗貴子の故郷・赤銅島における任務失敗……小学校を守りきれず、津村家の人々さえ死に追いやった悲劇。



「それまで彼は世界総てを救える人間……それこそヒーローを目指していた。けれど現実は無残でね。結果だけいえば君
の母君しか救えなかった。(それでも十分りっぱだよ! だってお陰で私、斗貴子さんと出逢えたもん!」


 その挫折感をして防人は夢を捨てた。世界総てを救えるヒーローという目標を幻想のものとしどこか遠くへ追いやった。


「与えられた任務の中で最良の策を執るキャプテンたらんとした。ブラボーとは『ブラ坊』……。そう。君の母君がつけた
あだ名だね。元はブラブラ坊主。津村家の使用人たちがつけたいわくつきの呼び名だ。用いたのはやはり……」


                                             「過去を忘れまいとする戒め、だろうねえ」



 だが決意は虚しく空転する。剣持真希士。部下であり弟子である彼は銀成市での任務中、ムーンフェイスと交戦、3日に
も及ぶ抗戦もむなしく落命。防人の心に影を落とした。





「この物語は過去を映す。剣持真希士、大柄で筋肉質な、人懐っこい大型犬のような顔つきの青年が生きていた頃の話で」

「鐶光がまだザ・ブレーメンタウンミュージシャンズに居なかった頃の話さ」



 剣持真希士は鳥が嫌いだ。中学3年のころ、父親の転勤に伴い家族ともども空路で福岡を目指していた彼は錬金術
の洗礼を受けるコトとなる。邪空の凰(キング・オブ・ダークフェニックス)。翼あるホムンクルス9体と首領たる人間型ホムン
クルス1体からなる共同体。彼らは真希士の父母を初めとする乗客をことごとく殺戮。さらに旅客機を岐阜県山中に墜落
させた。

 このとき真希士の兄は彼をかばい死亡。下半身は千切れ飛んでいた。


 庇われなければ間違いなく死んでいた。やがて真希士は強くそう信じるようになる。西洋大剣(ツヴァイハンダー)の武装
錬金・アンシャッターブラザーフッドを成すのは剣と、2つの籠手と、肩甲骨辺りから生えた第3の腕。それは兄の腕だと
頑なに信じ……復讐の炎をたぎらせた。それで邪空の凰を討たなければ彼の魂が安らがない気がしたのだ。



「そして果たした、か」
「ああ。いろいろあったけど全部ブラボーのお陰だぜ。だからオレ様今回の任務についてきた!」



 山の麓に影が2つ。霧の中を揺らめいている。


「まさかオマエと組まされるとはな……まぁいい。ちょうど人手が足りなかったところだ」
「しかし山か! イヤなコト思い出すぜ!! 大人しく林業やってりゃいいのにな!」


 横にいる中肉中背のシルエットより一回り大きいそれが勢いよく平手を殴る。





 その上で。



 鳥が一羽、空を飛ぶ。


 










 青空の母親が拘置所内で舌を噛み切ってから10年後、つまり彼女が11歳の誕生日を迎えた1月、父親が再婚した。
 再婚した理由に青空は薄々感づいてはいたが、結局聞かずに終わった。
 なぜなら彼らと死別するまでの数年間、会話はほとんどなかったからだ。

 一方、11本の蝋燭ゆらぐバースデーケーキの前で再婚の知らせを受けた頃の青空は、つくづく困り果てた。
 ”声質”上社交をほとほと苦手とする彼女の家庭に、形質の快活さを表すような赤茶けた髪の見知らぬ女性が転がり込ん
でくる事は、思春期直前という事を差し引いてもあまり歓迎できる事ではなかった。(いつも通り静謐な誕生日を味わいたかっ
たのに、クラッカーと伊予弁の大声を2ダースほど鳴らされ耳が痛かった)
 にも関わらず『声を大に』父親へ反対を唱える事もまた声質上できず、ただいつものようにニコニコと笑ってなし崩し的に
受け入れるほかなかった。
 それは不幸であった。未来を見渡せるのであれば真っ先に回避すべき不幸であった。
 彼女自身のみならずあたかも存在その物が結婚条件であったかのごとく同年6月に生まれた妹──光──にとってはつ
くづく不幸な出来事であった。

 青空はその声質をして周囲へまるで溶け込めぬ事を除けば、おおむね優秀な子供であった。
 母親を早くに亡くしたのが大きい。父一人子一人という家庭環境だから青空は「しっかりとした良い子」として振舞おうと
心がけた。父親に迷惑をかけまいと心がけた。
 その反動で甘える事は苦手で、幼稚園でもついぞ保育士さんとは本当の意味で打ち解けられなかった。
 声が小さいために同年代の元気な子たちとあまり会話もできず(「聞こえない」と率直すぎる態度でいわれ、幾度となく傷
付いた)、いつしか「手はかからないが口数の少ない、何を考えているか分からない女の子」として、周囲から扱われるよう
になった。

 父親はその問題を放置した。仕事が忙しいというのもあったが、青空の手のかからなさに彼はつい甘えてしまい、「いつか
は普通に話せるだろう」と問題を先送りにしてしまったのである。

 青空は利発でもある。周りが自分をどう思っているか薄々気付いていたので──…

 いつも笑みを浮かべる事にした。余計な苛立ちや不快感を味あわせたくなかったのだ。

 青空が通っていたのはごくごく平凡な小学校であったが、もしそこが有数の進学校よろしく試験結果に順位をつけていれ
ば、家庭の事情でインフルエンザをこじらせた小学6年の3学期末以外はずっと1位を得ていたであろう。
 社交性のなさゆえ運動会ではついぞリレーや徒競争へ選抜される事はなかったが、運動能力も学年では20番以内だっ
たし、6年生の6月には手芸コンクールで県下1位の成績を収めた事もある。

 才能と言うよりは努力の成果。自らの全ては努力の成果。

 青空自身はそう信じていたが、彼女に付帯する要素の中で1つだけ天賦の物があった。
 容姿、である。
 拘置所で舌の肉片を格子の向こうへ吐き捨てた母親だが、容姿だけは飛び抜けていた。飛び抜けていたが故にその全
盛期が育児期ですり潰されるのを厭い、暴挙に出てしまったのであろうか。
 そうして声を奪った母親が償ったかの如く、贈り物をしたかの如く、青空は年と共に美しくなった。
 ふわふわとウェーブのかかった短い髪と常に笑みを湛えている細い眼は、ひどく可憐な印象をあたりに振りまき、クラス
替えのたびに男子がおずおずと話しかけてくるのが恒例であった。
 つむじから右前方に向かって弓なりに伸びる癖っ毛は、奇妙といえば奇妙だったがそれが却って可憐な印象に「愛らしさ」
を付けくわえ、話しかけやすくしてもいた。
 だが不明瞭な小声がもたらす不明瞭な反応を1ダースほど返すと「そういう奴か」という顔で彼らは別の、十人並みの容貌
だがそれなりにとっつきやすい女子たちへ狙いを変えるのも恒例であった。
 その態度は青空をひどく傷つけ、ますます社交への苦手意識を強めさせた。
 同性の友達もまた、いなかった。

「あーやーちゃーん! なんであたしら助けてくれんだのさ!! 実況すきなのいいけどさ、たまにはやめてほしいじゃん!」
 目を半月型にして迫ってくる香美に、小札はひたすら頭を下げた。
「ももももうしわけありませぬ! つい平素の実況癖が出てしまい……」
 崖の下に集った一団から、どこからともなく溜息が洩れた。
「ま、ホムンクルスだから転落死はないだろ。いいじゃないか。小札に罪はない」
 晴れ晴れとした表情で額に手を当てているのは総角である。何が楽しいのか、30メートルはあろうかという絶壁を鼻歌
交じりに見上げている。
『ははっ! それでも痛い物は痛いんだけどなあ!!』
「痛いだけだ。ホムンクルスが転落ごときで骨折など……あろう筈がない」
 降りる際に使用した鉤縄──30メートル下まで伸びるほど異様に長い──を引きながら兵馬俑が吐き捨てた。鉤の掛か
り具合を調べているらしい。やがて得心を得た無銘と総角の間に崖の登り方を巡る2、3の短いやり取りが飛び交い、貴信
への毒舌を以て締めくくられた。
「どうせ変わり身の際、司馬懿よろしく回転する首だ。多少の骨折など……。フン。そもそも自業自得」
「た! 確かにあやちゃんにちょっかい出したあたしらもわるいけど! わるいけどさっ!! つーかさつーかさつーかさ?
あーんなたかいトコから落とすってアリ!? 怖かったじゃん!!! めっちゃ怖かったじゃん! めちゃんこ!」
 いつの間にか生えたしっぽをタワシのように逆立てながら、ネコミミ少女はえぐえぐと泣き出した。声にはばかりというの
はまるでなく、やがて彼女は鼻水さえズビズビと垂らした。ひたすらに大声で泣いた。
「いや、その」
「悪かったという気も無きにしもあらず」
 当初こそ小札への全面弁護を決意していた男2人も流石に罪悪感を覚え始めた。
 が。
「ただし貴信、お前はダメだ」
「飼い猫を以て我と師父を泣き落とす腹積もりだろうが、その手にはかからん」
『は!! ははは!! 何の話かな! ちなみに姑息という言葉は『卑怯』という意味で使われがちだけれど、実は一時しの
ぎって意味で使うのが正しいッ!』
「だからその癖やめろ。ウソつく時にマメ知識を披露するのはな」
 黒死の蝶を再び手の上に。貴信は観念した。



「お姉ちゃんからの伝達事項その一。テスト対象を殲滅した相手を殲滅しろ」



「びぇ?」
 始め異変に気づいたのは香美だった。
 すっかり髪が乱れ目も赤くなった彼女の耳がピコピコと蠢いたのは、野性ゆえの鋭さであろうか。
 鼻水をすすりあげながら香美は立ち上がり、首の痛みも忘れて天空を茫然と見上げた。
「なによなによコレ。ちょっとまつじゃん。なにこの気配……?」
 気だるいアーモンド形の瞳が張り裂けんばかりの緊張に見開き、ある一点を凝視した。

 ある一点。

「私の回答は……了承」
 翼開長2メートルはあろうかという巨大なハヤブサが総角たち目指し仰角45度の急降下を開始していた。

 鳥類最速は急降下時のハヤブサである。
 一説では急降下角度が30度なら時速270km。45度ならば実に時速350km。
 500系新幹線の最高時速が300kmなのを考えるとなかなか恐ろしい。

 総角たちが肉眼で捕捉できないほど上空に居た少女は、しかし鳥類最高の速度によって莫大な距離を一気に消費した。
 次の瞬間。
「きゅう!?」
 ハブの牙のように戛然と開かれた鋭い巨爪が小札を噛み砕かんと迫り──…
 大気が震え衝撃波が炸裂する。崖さえ粟立ち削り散る中、人智を逸した力の奔流が巻き起こる。

 ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズ vs 玉城光

 開始。


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