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過去編第002話 「動き始めていた時間の真ん中で(中編)」



 妹の誕生によって玉城青空が最初に被った被害はインフルエンザだった。
 小学校卒業を控えた冬、生後間もない妹──玉城光──が原因不明の高熱で入院した。義母は泊まり込みで看病し、
多忙な実父は会社から病院に直行し、家で少し寝てからまた出勤という生活をするようになった。
 青空は、結果からいえば放置された。

「もうすぐお姉ちゃんになるんだし自分のコトは自分でやってね」

とは病院へ行く義母が放った伊予弁の翻訳結果だが、青空自身は心から素直に従うコトにした。もし病気が長引いて、
妹のノドがつぶれ自分のようになっては大変だと思ったのだ。もともと自立的で、周りに迷惑を掛けたがらない──言いか
えれば他人に頼れない──性格である。誰も待っていない暗い自宅の鍵を開ける日々を受け入れた。(この頃祖父母は
4人とも死没していた)
 だがある朝起きると、ぞっと寒気に覆われるのを感じた。カゼのようだった。休もうと思ったが、学校へ電話を入れるのは
怖かった。彼女が電話すると大抵の場合、相手から「もっと大きな声で」といわれるのだ。それはとても怖く、嫌だった。普段
代わりに電話してくれる義母は病院にいた。電話はできない。悩んだ末、青空は学校へ行った。声を出し、それを他者に
咎められるコトは恐怖だった。無理をして悪寒や微熱の餌食になるより恐怖だった。小学校最後のテストも近かった。ど
のテストもあと1回100点を取れば6年連続満点だった。それさえ取れば最近妹だけに向きがちな父の関心も取り戻せる。
頑張ったねって褒めて貰える。だから学校行って勉強しなきゃいけない。まだ子供だった青空はそう信じていた。

 だからきっと大丈夫。ただの風邪。すぐ治る。そう信じて登校した。

 なのに授業には身が入らない。無情にも熱は時限ごとに高まり青空を苦しめた。苦しみながらも、脂汗をかきながらも、
青空は顔面に微笑を張り続けた。体調不良に気付かれれば話しかけられる。そうすると応対しなくてはならない。応対すれ
ばまた「もっと大きな声で」といわれる。大きな声。頼みもしないのに父の再婚によって転がり込んできた義母は頼みもしな
いのに青空へ発声練習をさせた。大きな声で。もっと大きな声で。実母が乳幼児期に絞めた首が畸形をきたしていても、
それを知っていても、『大きな声で』。どうやら快活なる赤茶髪の義母は性格面からの刺激で肉体面の不備が万事解決する
と信じているようだった。義理といえ家族であるから欠如を直してあげたいと思っているようだった。そして自身が快活であ
るが故に快活さは総てを解決する万能の代物だと信じているようだった。
 だから青空にいう。「愛の鞭」「あなたを思って敢えて厳しく」……そんな顔で。
 引っ込み思案だから声が出ない。気が弱いから声が出ない。大人しすぎるから声が出ない。そうやって青空を否定し、ひ
と通り傷付けてからこう締めくくるのだ。彼女は。

だからその性格直したらどう?

ファイト!

 青空は陰鬱なる気分であらゆる医療と発声法に関してズブの素人である筈の義母を講師と崇め、或いは崇めさせられ
何度も何度も、それこそ声帯から血を吐く思いで大声を出そうと努力した。或いは、させられた。

 結果は、出なかった。

 というより「これ以上続けても意味がない」そう思った青空が、ある日頑な無言の拒否を見せた。
 現代医学で治らなくても気の持ちようで必ず治る、親切顔で根拠のない楽観論を振りかざしていた義母は青空に幻滅した
ようだった。少なくても発声練習を持ちかけることはなくなった。以来生じた微妙な溝。電話を代わりにかけてもらう時のえも
いわれぬ反応。大きな声で。もっと大きな声で。それが出せたら引っ込み思案にも弱気にも大人しすぎにもならない。逆だっ
た。内面がそうだから大声が出ないのではなく実母に喉首を破滅させられたから内面がそうなった。そうなったからせめて
誰にも迷惑かけないよう様々な努力と我慢──もっとレベルの高い私立の中学校へ行きたかったが妹の誕生が家計にも
たらす影響を鑑み密かに断念した──を重ねているのではないか。憤慨がよぎった。恐らく生涯初めての憤慨が。

 頼みもしない発声練習で静かな内面を散々痛めつけてきたからますます声が出せなくなった。

 と。

 熱はとうに3時限目中盤で39度を超え、帰りの会になっても下がる気配がない。錯乱している。灼熱の世界で青空は思っ
た。授業の内容はすでに頭にない。代わりに義母先生のくそ忌々しい発声のお講義ばかりがずっとずっと巡っていたようだっ
た。背中をびっちりと濡らす嫌な汗に青空は自らの身体が限界状況にある事を悟った。されど帰りの会で手を上げ保健室
行きを宣言するのはとてつもなく恐ろしかった。熱でいっそう掠れた小声を放ち、注視を浴び、「もっと大きな声で」と教師に
反駁されるのはこの上なく恐ろしかった。他の者の帰りを遅くするのも避けたかった。微笑を張り付けたまま誰からも放置
されている方がずっとずっと幸せだった。
 そうして学校が終わるとふらふらの足で待つ者のいない自宅へ帰り、着替えもせず布団に潜り込み、一晩中悪夢の中で
喘いだ。父は帰って来なかった。青空の妹──光が危篤状態になったためである。俄かに勃発した事態に彼は青空の事
など忘れ、一晩中まんじりともせず付き添っていた。もしこの時電話の一つでもしていれば、運命はもっと違う展開を遂げた
とも知らず。
 似たような日は3日ほど続いた。
 そして玉城光が峠を超えたのと入れ替わるように、青空がそこに迷い込んだ。
 青空が罹患していたのは風邪ではなくインフルエンザであり、無理に無理を重ねた結果、肺炎さえ併発し、彼女は2週間
の入院を余儀なくされた。テストは、受けられなかった。3年生の時から密かに描いていた6年連続100点の夢は消え去った。

「どうして連絡してくれなかったの?」

 入院中、義母が放った言葉に青空は自分の感情が嫌な熱を帯びるのを感じた。それは再来だった。欠席すべき学校で
一人ぼっちの微笑と共にさんざ味わった灼熱の再来。
 言葉は幾らでも意識の中に沸いていた。
 元々苦手だった会話を更に苦手にしたのは誰なのか。電話を恐怖させたのは、父を自分から奪い彼を振り向かせる唯
一の機会を奪ったのは誰なのか。理にかなったやりようなど一切考えず自分の良かれのみ押し付け傷つけたのは? 連
絡? 妹にかかり切りで入院中電話の一本もよこさなかったのは誰なのか。


 できるコトなら同じ思いを。


 熱の中みたおぞましき悪夢を貴方にも。


 静かな精神が戦慄(わなな)いた。「そうあるべき」静かな自分とはかけ離れた感情が全身を貫くのを、青空は初めて知覚
した。従えば叫べる……いや、叫びたいが故に発生した新たな感情。鉄のような重さで意識にかかる緘黙(かんもく)の癖(へ
き)の前で青空は足掻いた。だが喋ろうとすればするほど言葉は出ない。大きな声で。もっと大きな声で。意識すればする
ほど声帯は上滑る。喉奥は気流の坩堝と化すだけで何ら大声を発する気配がない。青空は自らの喉を思い暗澹たる瞳色
になった。大きな声で。もっと大きな声で。もしそうやって喋れたのなら、全ての会話において傷付けられる事はなかった。
父の再婚に異を唱え、忌々しい発声練習などする事もなく、学校への電話もちゃんと入れ6年連続の快挙さえ得られたか
も知れなかった。
 努力が認められ、人の輪の中でごくごく普通の少女として暮らせたかも知れなかった。


 その時、義母の腕の中で義理の妹が笑った。ネコのような無邪気な声。とても死にかかっていたとは思えないほど元気で

 大きな声

 で。

 輝くような笑顔だった。人間なら誰でも愛でたくなる愛らしい笑顔を光は浮かべ、だぁだぁと母親に何かを訴えかけていた。
 その瞬間彼女は青空などまるでいないように光をあやし始めた。青空がいいかけた何事かが実はどうでも良かったように
母と子の、血のつながった母と子のコミュニケーションを開始し、光の笑顔をますます広げた。

 その笑顔を無言の笑顔がじつと眺めた。静かに。ただ静かに。









「のわあああああああああ!?」
 砂礫と衝撃波の坩堝の中で小札は目を剥いた。爪。巨大な爪。見るだけで肉が裂かれそうな鋭い三前趾足(さんぜんし
そく)が2対、自分めがけて迫ってくる。実況者特有の観察眼は爪の後ろにいる鳥の影をも捉えていたがすくみ上がるばか
りで動けない。急襲。先ほどまで仲間と歓談していた空間は一瞬にして戦場に変わっていた。手にしたロッド……マシンガ
ンシャッフルを使うのさえ彼女は忘れていた。爪は気流を裂きながら轟々と迫る。

「飛天御剣流──九頭龍閃」

 小札の傍らを金色の奔流が通過した。総角。流石の彼も一手遅れたと見え、利き腕の先で刀が形を成したのは正に激突
の瞬間であった。とうに吹き飛ばされた霧の粒子さえ蒸発させそうな光が瞬いた。ついで何かと何かがぶつかる重い音。光は
武装錬金発動の輝きと9つの剣閃が混じった物で、音は剣気と純粋速度の衝突によって生じた物……羽や爪の破片までも
参加表明した荒れ狂う大気におさげを揺らめかしながら、小札は慌ててロッドを突き出した。何故ならば爪は依然として彼
女に向かってきている。先ほど見た姿からあちこち斬り飛ばされ、ひび割れ、禍々しさを増した爪が──…執拗に。
 爪の向こうの総角が驚嘆に呻く中、しかし小札は冷汗三斗の面持ちで踏み留まった。

 絶縁破壊。

 ロッドの武装錬金マシンガンシャッフル先端の宝石より放たれるセルリアンブルーの妖光は、ある条件付きで触れた物の
神経を破壊する。絶縁破壊。神経を覆う髄鞘というカバーを破壊し無力化する技は、たとえ相手がホムンクルスといえど……
有効。人間でいう『神経』に相当する何事かの器官を破壊するのだ。更に条件も満たしていた。小札が突き出すロッドの特
性は「壊れた物を繋ぎ、繋いだ後は自由自在」。それに向かうは傷だらけの──両翼だけでも羽根の脱落と破損が著
しい──鳥型ホムンクルス。総角の初撃であちこちが「壊れた」ホムンクルス……。

 だが。

 そのまま突撃してくるかに見えた鳥型ホムンクルスが速度を緩め、軽くはばたいた。転瞬それはあっと息を呑む小札の眼
前からかき消えた。揚力。破滅寸前の翼が奏でる不協和音に題名をつけるとすれば正にそれこそ相応しい。地上すれすれ
からぶわりと舞いあがったホムンクルスは円弧を描き……急降下。

 鳶色の瞳が驚嘆に見開かれたのもむべなるかな。

 腕が飛ぶ。タキシードを纏った細腕の肘から先が、宙を舞う。

(……羽根か!!)
(斬り飛ばすさまはギロチンのよう……)

 攻撃すべく距離を詰めていた総角に微妙な隙が生じたのはその時である。着地済みの鳥型ホムンクルスはある物を咥え、
振りむきがてら投げつけた。

 まだロッドを握ったままの細腕を総角めがけ。

 ロッドが絶縁破壊の残り火を噴きあげるころ総角の右肩もまた張り裂けた。傷。壊れ。初撃でそれを負わせていたのは彼
だけではなく──… 血しぶきの中、目の色を変える総角を絶縁破壊の雷光が包んだ。
 鳩尾無銘、栴檀貴信、栴檀香美の3名はこの時になってようやく攻撃意思を見せた。遅いようだが戦闘開始からはまだ
2秒と経っていない。一団の中でもっとも素早い香美が飛びかかったが爪による攻撃は空を切り、逆に首筋に鋭い羽の一撃
を浴びる羽目になった。
(ニャろ!!! あたしでさえ捉えられんとかどーいうコトよ!!)
 倒れそうになる体をすんでの所で押し戻しながら涙目で振り返る。玉城。依然としてハヤブサの形を取る敵は、しかしや
や不思議そうに香美を見た。
(ははっ!! 首を切断しようと思ったのだろうが!!! 威力を殺がせて貰ったぞ!!!)
 空飛ぶ蛇のように全身をくゆらす鎖が小うるさく香美の背後──貴信にとっては眼前──を行き過ぎた。
「ボサっとするな新参ども!!!」
 咆哮とともに兵馬俑が放つ橙色の光があった。銅拍子。シンバルのような形をした投擲具である。もちろん狙われた玉
城は事も投げに回避したが、その分貴信たちとの距離が空いた。続いて冷凍された手拭がブーメランのように玉城を狙う。
これも回避されたが、しかし貴信はサラサラのメッシュヘアの中で頬が裂けんばかりに笑った。敵との距離はだいぶ開き……
現在10メートルにやや足らぬぐらい。
「すきを見せたら! あ・す・はないぜー♪」
 貴信と同調したのか。楽しげに八重歯を剥きだす香美が右手を横に向かってあらんかぎり突き出した。掌にある人型ホ
ムンクルス特有の捕食孔が燦然と光を帯びた。
「いーっぴつそぉじょう! て・ん・かごめん! はくしゅのあーらし♪ しんうちとーじょー!!」
 どうやら奥底からエネルギーが湧き出てきているらしい。とは編笠から際限なく吐き出される矢を回避するに忙しい玉城に
は見えなかった。貴信との距離は離れていく。15メートル……。無銘の燃え盛る指かいこの牽制が功を制した。25メートル。
『いつも思ってるんだが鳩尾!! いい加減その新参ってのはやめてもらおうか!!』
 手ごわしと見た兵馬俑に殺到する玉城の、更に背後めがけて香美は最大速で駆けた。距離が詰まるたび右手の輝きは
増し、ついには外部へ光球さえ作り始めた。太陽の輝きを持つそれは徐々に肥大しているようだった。最初はビー玉、次は
ソフトボール、そしてサッカボール……捕食孔から洩れる煌く粒子を浴びてぐんぐんと肥大化するそれは香美がどれほど駆
けようと決して脱落せしない。
 真横に突き出されたしなやかな腕から若干の距離を置きつつもピタリと吸いついている。
『僕たちが加入したのは……6年前か7年前だああああああああああああ!!!』
 大きく地を蹴る香美の左手から鎖が伸びた。この時玉城は距離にして彼らの8メートルほど前にいた。それを上空から狙
い打つように鎖が伸びた。先端の星型分銅がひび割れの翼を貫通した。それを合図に香美の手首が微妙な返しを見せた。
「んふふっ! これさこれさ、ご主人の”てく”じゃん”てく”!」
 翼に風穴開けてなお止まらぬ鎖がぶぅんとうねりを立てて跳ね上がり、ハヤブサの胴体に絡みついた。それでもなお止ま
らず翼や爪に衝突、そして拘束。ハヤブサはもがくが鎖がほどける気配はない。縦横交互に編み込まれた真鍮色の環状線
材どもは凄まじい力を帯びて玉城のあらゆる部位に食い込んでいる。
『悪いな!! 単純な力だけなら僕はブレミュで1番だと自負している! 加えてハイテンションワイヤーの特性で鎖が衝突
するたびエネルギーを抜かせて貰ってもいる!!! 脱出は不能だ!!』
「そゆこと! きりきりまーいまい! さいーごにばんざーい!! じゃん!」
玉城が重苦しい音とともに地面へ落ちたのは、飛行継続が不可能になったためである。
「フン。我が囮を務めてやったのだ。しくじるなよ」
『……拘束された相手を狙い撃つのは信条に反するが!! 引けぬ理由もまたある!!』


 共有する視覚の中つきささるのは……腕。生々しく血を流す小札の腕。


「あやちゃんイジめたバツ!! めちゃんこ痛い仮ぎゃーするじゃん!!」

 香美はややふらつきつつも伸ばしていた右手を引く。

 もはや直径3メートルほどにまで膨れ上がった光球が彼らの眼前に現れた。

『超新星よ! 閃光に爆ぜろオオオオオオオオオオオオオ!』
「じゃん!」
 轟然と押し出された球体がプロミネンスを巻き上げながら拘束中の敵へと向かう。橙の光輝が迸り、あらゆるの物を熱ぼ
ったく炙り上げる。勝った。確信する兵馬俑の前で、それは起こった。
「それ……カッコいいです」
 光とともに人の形──なよなよとした少女──を取ったホムンクルスはまず、無造作に手を突き出した。
「だから……真似……します」
 三者が三様に目を見開いたのはその変貌自体ではなく、足元に鎖をわだかまらせている彼女の姿にである
(鎖の拘束が!?)
(抜けられてるし!! どーゆーコトよコレ!!)
(ドラ猫めが! ああも小柄なれば体積的に必然!)

(しかし──…)

 鳩尾無銘に戦慄走る。

(少女、だと?)

 兵馬俑からやや離れた場所。岩陰からそっと彼女を覗き見たのはむろん特異な体質ゆえだ。まだ母胎にいるころホム
ンクルス幼体を埋め込まれ、犬とも人ともつかぬ存在に生まれついた鳩尾無銘。およそ11か月後、早坂秋水との戦いに
おいてようやく人間形態を確保するほど境界線上を「たゆたいし」、今はチワワでしかない彼だから、鉄火場とあれば安全
圏にスっ込むのは当然だ。

 その彼が遠巻きに見た玉城光は──…

 瞳が虚ろな以外まったく普通の少女である。


(フザけるな……)


 このとき背後で膨れ上がる怒りに気づいたのは栴檀貴信ただ一人だけであった。


(『また』なのかレティクルエレメンツ!! 貴様たちはまた年端もいかぬ少女を……!!!)

 果たして光球は玉城の右掌に受け止められ、徐々にその質量と体積を失し始めた。吸収されている。鎖分銅から抜き出
したエネルギーを体内に蓄積できる貴信はそう分析したが時はすでに遅し。香美ががくりと膝を笑わした。
(あの光球は僕と香美の全生体エネルギーを変換したもの! 発射直後は思うように動けない!)
 やがて玉城の右掌がすっかり光球を飲みほしたのと入れ替わりに、彼女の左掌から凄まじい荷電粒子の波が放出された。
 いち早く突撃していた兵馬俑が吹き飛ばされた。辛うじて跳躍した香美も両足首を焼かれ、成す術なく地に落ちた。

(だが)
(……その通りだ新参。やるぞ)

 くるりと首を翻した貴信と兵馬俑は素早く目配せし、やがて絞り出すような声とともに玉城へ吶喊した。





「さて。後に鐶光が鳩尾無銘にベタ惚れするのを見ても分かるように(いいよね!! 男のコ大好きになってもじもじする
女のコ!! 私も経験あるから分かるよ!!)……彼女は彼にみごと助けられる。ふふっ。当然といえば当然の流れだ
けど……」

「しかしだソウヤ君。君は疑問に思わないかい? なぜ鳩尾無銘は玉城光を助けたのか……ってね」

「ふむ。なるほどね。彼は擬似的にとはいえ総角や小札といった家族を持っていた。一見、義姉に虐げられ見捨てられてい
る玉城は……たとえば姉を失いかけたがゆえ君の伯母上に優しくした早坂秋水よろしく捨て置けなかった……か」

「半ばは正解だ。しかしだね、半ばは違う」

「鳩尾無銘が総角たちと家族になる『ある事件』」

「ミッドナイト。レティクルエレメンツ土星の幹部が主宰する……死の乱交」

「その終極には犠牲者がいる。救えなかった少女がね」

「彼女と玉城を重ね合わせたがゆえに鳩尾無銘は……立ち上がる」

「もっとも本人は気づいてなかったけどね」

「忍びにも関わらず感傷に邪魔され、何度も何度も勝機を逃し……その分よけいに傷つきながらも……」

「立ち上がり……そして救うのさ」

 青空の肢体がすくすくと伸び第二次性徴を遂げ始めた頃、周囲の男性の目はそれまでの人形を眺めるような憧憬をや
め、より具体的な、若者らしい獣性の光を湛えはじめた。
 原因は青空自身をも悩ます肉体の変質である。乳児期の発育不良の反動だろうか。例えば胸部などは13歳の頃すでに
元モデルの義母と並び、高校時代になってもなお成長をやめなかった。
 にも関わらず胴は悩ましくくびれ、臀部もまた豊かな隆起を描く。
 青空は自分の身体をどうすればいいか深刻に悩んだ。美しさを誇り、男性諸氏に売り込むという選択肢はなかった。
 服飾に関しては声質上ひかえめな性格の青空であるから、年頃になってもセーターにジーパンというそっけない物を好んで
いた。が、身体の発育はむしろ質素をして淫靡たらしめているらしく、周囲の男性の目は否応なしに注がれた。
 更に170センチという長身も相まって、街頭でモデルにスカウトされた事も1度や2度でもなかったが、すでに幾度となく
「自分には社交性がない」と思いこみ、思いこまざるを得なかった人見知りである。ついていくことなく無言で逃げ去るのが
常であった。

 そんな彼女が好きだったのは、Cougarという男性アイドルだった。
 ある日たまたまスーパーマーケットで聴いた彼の歌に魅せられ、不慣れなCDショップで「別に興味はないけど家族のお使
いで来ました」という顔でメモを差し出しようやく買ったCD──4thシングル 「空っぽの星、時代をゼロから始めよう」──
はずっとずっと彼女の宝物だった。
 それをお年玉で買ったCDウォークマンに入れ、『クーガー』というピューマの標準的英語名に見合わぬ優しくやんわりとした
歌声を聞くのが何かと辛い境涯にある青空にとっては唯一の楽しみだった。

 余談ながらCougarは4thシングル発売を機に大ブレイクした。元々関西の出で芸人志望だったがルックスがそこそこ良かっ
たためアイドル的な売られ方をした彼は、「とりあえず関西でそこそこ受けたから全国区」とばかり東京へ進出、しかし出す歌
出す歌オリコン30位前後に行ければよい方という感じで、所属事務所の連中がコネと伝手を総動員してようやくねじ込んだ
若者向けドラマでも主人公の恋敵役を無難にこなす程度。要するに2線級、いつの間にか消えている方が自然という態だった。

 しかし彼は4thシングルでブレイクした。ファンに言わせれば「まるで別人になったように」ブレイクした。口の悪いファンの中
にはそれまでの3枚のシングルを評して「自分の世界に浸っているだけ。つまり黒歴史」とさえいうものもあった。しかし4th
シングル以降の彼は別人のように躍進していた。青空が彼のファンになったのは正にその上り調子の時だったが、しかし
彼女は決してミーハーではなかった。Cougarの歌に感ずるものがあったのだ。歌は自己表現の一手だが、彼がそれをや
時はどうやら精密機械を組み立てるような慎重さの元にやっているようだった。生の自分を無思慮にぶつけるような歌い方
……あるいは作詞や作曲ではなく、まず自分の個性という物を分解し、理解しつくした上でそれが活きるテーマを選び、
そのテーマを人の心に届けるために自分のあらゆる個性を客観的に活用しているようだった。どうすれば聞き手の心が震
えるか、心の底から考えている──…アーティストなら誰しも陥りがちな「独りよがり」を超えた完成された自己表現。

 それがCougarの歌だった。青空は確かな物を感じ、そこに共鳴しているだけだった。

 故に彼が4thシングル以降出す歌は必ずオリコンチャートの1位に上った。何ヶ月も頂点を占め、国民的アイドルや大御所
の連勝記録さえ破る事もあった。だが彼は決して増長せず、常にファンの心に響く歌ばかりを提供し続けた。それはドラマ
やバラエティでも同じだった。身も凍るような悪役のみならず「絶対に実写では演じるコトは不可能」といわれたユニークでエ
キセントリックなキャラを演じ切り社会現象さえ巻き起こした。マスコットグッズが量産され、芸人が物真似をしコントを作り
決めゼリフがその年の流行語大賞を獲得した。その癖バラエティ番組にゲスト出演する彼はどこかフワフワした温和な青
年で、有名司会者や毒舌芸人からの口さがない「イジリ」をやんわりを受け流しつつ時に鋭い返しをしたりもした。その意外
性が青空のCougarへの憧れをますます加速させた。その癖クイズ番組ともなれば全問正解が当たり前。青空はもはや
メロメロだった。420円といういささかしみったれた(お金のない子供でも買えるような)価格設定の自叙伝さえ買った。

 そしてますます好きになった。

 特に学生時代カラーコーディネーターを志すも後天性の色盲を発症し、悩み、苦しんだという経歴には非常に共感する物を
覚えた。そして紆余曲折を経てアイドルになり、様々な人に喜びを分け与えたいと欲するようになった彼の姿、欠如を乗り越
えた強い姿に青空は勇気づけられてもいた。
 だから将来はボランティア活動に従事するコトを決めていた。
 手話を習得し、言葉を話せない人間の助けになりたかった。
 自分のように望まずして欠如を負った人間と辛さや悲しみを分かち合いたかった。

「壊れても何度も立ち上がる強さを、誰か待っている」

 高校に入り立ての頃、そう信じていた。







 ──玉城光によるザ・ブレーメンタウンミュージシャンズ急襲から45秒後。

 濃霧の中に佇む影があった。右に1つ。左に2つ。影絵のように真黒なそれらは明らかに人の形を取っていた。最も小柄
だったのは右の影で、左は巨漢と中肉中背。金物の擦れ合う甲高い音に一拍遅れて中肉中背の辺りから細長い影が伸び
た。びゅーっと一直線に伸びたそれは右の影の胴体に巻きついたようだった。そして巨漢が動こうとした瞬間、無数の細か
い影が小柄な影から舞った。巻きついた物が破壊されたらしい。そのまま影達は数秒の間にらみ合っていたようだが、や
がて誰ともなく対極に向かって駆け出した。

 やがて白い粒子の中で3つの影が交差し火花が散った。鈍い音が彼方まで響く頃、影の位置はそっくり入れ替わっていた。
すなわち、今度は右に2つ、左に1つ。やがて前者らはぐらり……と脳天揺らめかせながら前のめりに倒れ、後者は腰のあ
たりから何かをばらばら取り落しながら振り返る。

「私を…………ホムンクルスにしたお姉ちゃん曰く……」

 火花の散った辺りから張り裂けそうな颶風が吹いた。霧が払われ小柄な影に色彩が生まれる。

「対拠点殲滅用重戦兵器……私の…………設計思想だそうです。とはいえ……」

 左にいた影は赤い三つ編みを腰まで垂らした少女だった。辺りを取り巻く霧から生まれたといってもいいほど虚ろな目をし
た少女は薄い胸を波打たせながらぼんやりと、右手を見る。すでに手首から先はなく、前腕部もまた崩壊の真っ最中だった。
亀裂に沿って微細な金属片が欠け落ちて、それらが地面でキンキンと跳ねていた。左手もまた同じだった。腕だった部分は
いま足元で霧より細かくなっている。

「光球…………さきほどのカッコいい技は…………訓練なしでは無理みたい、です。吸収して……返して……大ダメージを
与えましたが……私も無事では……ないようです。腕がズタズタに……なりました」

 風が更に霧を薙ぎ、倒れ伏した右の影2つの正体を明らかにした。

「でも……ああしなければ…………勝てませんでした」

 片方はレモンのような瞳をした少年で、瞳を血走らせたまま地面に顎乗せ気絶していた。
 もう片方は黒装束をまとった大男で、全身のあちこちを切断されているようだった。右手首や左足首が欠け、腰部は装束
ごとバックリ裂けていた。そのこめかみから脇腹を一直線に斬り裂いた手応えを幻肢痛とともに味わいながら、玉城光はゆっ
くりと彼らめがけて歩きはじめた。
「お姉ちゃんからの伝達事項その一。テスト対象を殲滅した相手を殲滅しろ。私の回答は……了承」
 無骨な地面を踏みしめる少女の裸足が光ととともに鋭い爪へ変じた。
「まずは……2人」
 倒れ伏す貴信と兵馬俑の傍で高々と膝を上げた玉城は、しかし軽い逡巡を浮かべたきり動きを止めた。
 沈黙が続いた。
 静寂が続いた。
 いよいよ濃さを増す霧の中で膝を上げたまま彫像のように玉城は立ちすくんだ。

 何秒経っただろうか。爪と貴信らを悩ましげに見比べていた虚ろな瞳が強く閉じられた。彼女は首を振った。
 そして先ほどと同じ言葉が一層の無機質さを以て紡がれた。
「お姉ちゃんからの伝達事項その一。テスト対象を殲滅した相手を殲滅しろ。私の回答は……了承」
 異形の爪が、叩きつけられた。荒野にも似た地面が幾何学的にひび割れた。
「フ。困るな。手塩にかけて育てた俺の部下3人。易々と殺されては困る」
「…………」
 地面だけを砕いた爪を無感動に眺めた玉城は、声のした方向めがけゆっくりと振り向いた。
「まったく我ながら不覚としかいう他ない。小札に気を取られ、本来できた筈の防御を怠るとはな」
 玉城の背後。疾風に切り裂かれた霧の向こうで、貴信と兵馬俑の首根っこを両手に抱える男がいた。




 幼少期。



 複雑な背景を理解するには幼すぎた玉城光は……およそ11歳年上の姉をひどく好いていた。
 光が幼稚園のころすでに高校生だった青空は、とても美人で何でもできる人に見えた。幼い少女は理想の女性像に心
から憧れる物だが、光にとってそれは青空だった。実母も美人であったが姉を見る時の視線は常に何か名状しがたい、
純粋な光が受け入れ難い『何か』を孕んでいて、理想像には挙げづらかった。その点青空はいつもニコニコとほほ笑んでい
て暖かな感じがした。
 
 憧れていた。
 理想の女性は常に姉だった。

 料理の腕に関しては母親より上だと密かに思っていて、だから彼女が作ってくれるご飯は単純にいえばごちそうだった。
母親の作る料理とは違った豪華さ、憧れの人が作ってくれたという思いが「ほっぺたのとろけそうなぐらいおいしい」と思わ
せていた。一度料理を作ってくれない事に泣いたのは悪いコトをしてしまったと心から後悔していた。

 そして中でもとりわけおいしかったのが……土曜日の午後に作ってくれるドーナツ。

 砂糖がほどよくまぶされお気に入りのキングジョーのソフビ人形よりふわふわしているドーナツ。

 姉があっという間に作るそれはとてもおいしかったので、光はこの食べ物がこの世で一番好きになった。
 でもそれを食べながら他愛のない話をして、穏やかな青空の微笑を見る事はもっと大好きだった。

 だから、光はよく青空の真似をするコトにした。

 無邪気な同一化。憧れの人に少しでも近づきたいという、意思の表れ。
 常に静かで囁くような青空の声はこの世で一番綺麗な音だったから、光は何度も何度も真似をした。
 一生懸命青空の声に耳を傾けて、反芻して、口調も声量も何もかも同じになるよう、一生懸命練習した。
 普段母親譲りの伊予弁で元気よく話している光だが、青空の真似をしている時だけは違う自分になれたようで嬉しかった。
 野暮ったくって子供っぽくてウルトラマンを見ればメカっぽい怪獣を応援して、魔法少女のアニメよりロボットアニメを好む
ような、新聞紙の上で鼻頭に塗料をつけてプラモデルに色を塗っているような男っぽい自分ではなく、まるでお姫様のような
青空になれた気がして嬉しかった。
 青空はその他愛もない物真似をニコニコと笑顔で聞いてくれた。

 だから気に入ってくれているんだと、思っていた。





 青空は。


 およそ11歳年下の義理の妹がやらかす自分の声真似が嫌いで嫌いで仕方なかった。


 大きな声で。もっと大きな声で。自分が畸形をきたした喉奥から辛うじてようやく小声を漏らしているだけの下らない人間
だと改めて突き付けられているようで、心から嫌いだった。それを笑顔で聞いていたのは、咎めたところで父と義母から
「妹の他愛もないマネに対してみっともない」と注意されるのが関の山だと思い込んでいたからだ。どうせ理由など説明した
ところで「大きな声で、もっと大きな声で」。聞き返されるのは分かり切っていた。

 思春期を乗り越えた青空はもはや会話などしたくなかった。
 聡明であるが故に通じない会話を他者に仕掛けるコトの無意味さを心底から悟っていた。

 要するに、諦めていたのだ。妹の声真似のような不愉快な出来事に抗議しても、父母はどうせ味方をしない。小学6年生
3学期末の経験則からすれば放置され、妹のみに肩入れされる……そう理解していた。思い込んでいた。様々な釈明を避
けるため無言で参加した家族団欒の中心は常に妹で、妹の他愛もない大声で父が笑い母が湧く。その繰り返しだった。青
空は無言で笑っていた。空虚な相槌を何万と打ちながら好きなアイドル──Cougar──のコトばかり考えていた。そして
心の決定的な部分が融和していない今の家庭を見て、幾度となく思った。

 自分はしょせん『前の家庭の残りカス』だと。

 半分のみ血のつながった父親と赤の他人と、……”それ”がたまたま生後11か月の時に首を絞めなかった義理の妹の
構成する団欒とやらに自分がいる必要性も必然性もまったく感じられなかった。食べ終わった後の片付けだって率先して
やったし、部屋の掃除もお使いも料理の手伝いもおよそ家事と呼べる物は何でもやった。だが光ほど褒められたコトはな
かった。孤独感を感じる原因はそれだった。
 しかし部屋が光と共用だったのはいうまでもない。住んでいるのはどこにでもあるマンションの4階の狭い1室。だから我
慢する。抗弁したところで義母が伊予弁に溜息をブレンドして宥めてくるのは見えていた。テレビも1台だけの家庭。Coug
arが紅白に初出場した時もその場面はリアルタイムで見れなかった。妹がドラえもんを見たがったせいだ。Cougarの晴れ
舞台は年が明けてからビデオで見るしかなかった。ファンという存在にとってそれがどれだけ辛いコトか叫びたかった。辛う
じて最後の方、日本野鳥の会じみた連中が票数を数える辺り──は一家で見れたが、しかし楽しみにしていた場面では
決してなかった。
 そうして家庭局面の端々で妹がやらかす青空の声真似に父が笑い母が湧く。青空はそこに嘲りを感じた。内向的な者特
有の自意識過剰が侮蔑を求めた。そのたびかつてインフルエンザの高熱の中で覚えた「自分はこうあるべき」感情と正反
対の物がどこかで微かに生じるのを感じた。

 対象は常に義理の妹だった。
 妹は確かに理想像ではあった。

 声が大きく快活で、幼い瞳には常に光が溢れていて、ただ喋るだけで誰からも好かれる雰囲気を持っていた。


 理想だった。


 失われた喉よりも壊されたくない宝のような存在だった。


 だからこそ、この世で一番嫌いだった。


 もちろん妹を好く努力はした。存在が回り回って自分に不都合を与えるだけで、人格そのものが害毒をもたらす物ではな
いとは分かっていた。事実、光が青空に直接損害をもたらしたコトはなかった。父母の愛情が彼女に傾注しているというだ
けだった。光自身は青空の悪口をいったりはしなかった。所有物を壊すコトだってなかった。光の趣味はいささか男性的な
プラモデル作りだったが、有機溶剤で色を塗るのは決まって青空のいない時だった。塗っている時に青空が帰ってくれば
すぐさま窓を開けて換気する配慮を見せていた。だから決して悪い人間だとは思っていなかった。物真似の件だって幼児
らしい無邪気な仕草だと最初のうちは思っていた。

 だが義妹は自分の決して持ち得ない物を振りかざして自分が欲しい物を奪っていく。小学6年の3学期末のテスト以外は
すべて満点をとった青空はそこまでの連勝を褒められたりしなかったが、光はただひらがなの書き取りテストで3回連続満
点を取った程度でパーティが開かれるほどだった。最悪の仇敵が妹になったのはその瞬間だった。義母も嫌いだったがい
つしか自分を見る視線に名状しがたい『何か』を孕む以外はまったく踏み込んでこなくなったので、下らない声真似をやらか
す光よりはマシだった。伊予弁を大声で発する野暮ったくて子供っぽい光よりはマシだった。

 料理を作ってやるのは一度泣き喚かれたから…………いつもそう自分に言い聞かせながら作っていた。

 泣かれたとき……青空は彼女なりに論理立て、筋道立てて空腹を我慢するよう諭そうとした。

 結果はいつも通りだ。『伝わらない』。小声は火のついたような幼児の泣き声にあっけなくかき消された。大波の前の砂上
楼閣のようにあっけなく。

 だから内心いやいやながら腕を振るう。手を抜けば泣かれる。また小声がかき消される。その屈辱を思えば手慣れた料
理をさっさと作り妹の胃袋を満たして静かにする方が楽……嫌いな筈の義妹に手抜きなしの料理を振る舞う矛盾をもっとも
らしい理屈で納得させ料理を作る。

 そして食べてくれる光の笑顔にいつもドキリとしながら物陰で首を振り、言い聞かせる。

 違う。好きなんかじゃない。嫌いで……大嫌いで。ただ首を絞められなかった”だけ”で自分の望むもの総て持ち合わせて
いる無邪気な妹の笑顔になど揺らめきたくない。融かされたくない。

 嫌悪しはげしく恨むものにどうして救われたいと思えるだろうか。

 だのに躍起になればなるほど義妹の笑顔は心の中で大きくなる。膨れ上がる。この世でただ一人だけ心寄せると決めた
アイドルCougerと同じぐらい愛おしく、大事に思えてくる──…


 玉城光だけだった。

 いくら小声で話しても聞き取ってくれるのは。

 喉が潰れ、社交性をなくしたと強く信じている青空へ、ごく普通に話しかけてくれるのは──…


 玉城光だけだった。



 同じ部屋で眠るあどけない顔から視線を下に移し、肩と顎の狭間にある器官を眺めるコトは何度もあった。
 その度青空は後悔した。かつて”そこ”が嗄れ、自分のようになったら大変だと思ったコトを……心の底から。
 しかし『妹に関しては』、自らの手で絞める事はなかった。絞めるつもりなどはなかった。

 将来はボランティア活動に従事して、困っている人の力になりたかった。

 だからこの世で一番嫌いな妹といえど危害を加えたくはなかった。

 首を絞めるどころか叩く事さえしたくなかった。

 青空は聡明だった。負の感情の赴くまま世界に害を成すコトは自分の有り様と違うと思っていた。どうせ11歳も年が離れ
ているのだから、数年の内にお互い別々の人生を歩み出す。不愉快を耐えるのはそれまで……理性ではそう考えていた。
 妹の首を見て溜息をついた後は、窓際に置かれた愛用の白いビーンズテーブルに向い、電気スタンドの小さな光の中で
Cougarにファンレターを書くのが日課だった。そして書き終わって封をした後、自分の住所を書くかどうかいつも悩んだ。
 実をいうと返事は欲しかった。でも住所を書くと多忙なアイドルに返事を要求しているようで申し訳なかった。
 ので、差出人不明の手紙を笑顔で学生鞄に詰め込んで、もしこの手紙であの人が喜んでくれたらいいなあと布団の中で
少女らしくきゃぴきゃぴと頬を綻ばせるのが青空にとっての団欒だった。

 長い金髪は白霧の中でいっそう際立つ。玉城光はその10メートル先からくる強烈な色彩感覚を浴びながら、口を開く。

 淡々と、淡々と。

「無効化……した筈です。あの光は……確かに……切り札」
「ああ。絶縁破壊。小札の奥の手だ。まともに喰らえば確実に行動不能」
「さっきは土壇場……でした。だから……一番強い技を……出すと…………思ってました……。だから…………利用……
しました。爆発でも……拘束……でも……一番強い技なら……あなたにも……効くと……。ハヤブサの急降下さえ……
致命傷にならなかった……あなたにでも…………効くと……」
 ほう、と感嘆した男は緩やかに貴信と兵馬俑を手放した。重力の赴くまま地面にぐなりと伏した彼らを見る瞳は妙に暖かく
玉城は軽く首を傾げた。
「フ。それをあの一瞬で見抜き、この俺にブツけたのは見事としかいいようがない。なにしろ俺さえ封じれば実力で劣る部下
達は楽に殲滅できるからな」
「…………確実に……削ぐつもり……でした……。何人か斃した後……退却して……ゲリラのように……仕掛け直して…
………確実に、確実に……殲滅するつもり……でした…………。見たところ……他の共同体の……人たちより…………
厄介そう……でしたから」
 しかし、と玉城は不思議そうに反問した。
「どうして……動け……ます? 絶縁破壊……恐らく……神経の被覆か……それに準ずる何かを壊す……技。それを喰らっ
て…………どうして……動けるのですか……? 自然回復は……少なく見積もっても数日後……。でも……まだ1分と……
経って……いません」
 簡単な話だ、と男──総角主税──は胸の認識表を左手で握り占めた。一拍遅れて右手に光の粒が集積し、無骨な
日本刀へと変化を遂げた。
「ソードサムライX。特性はエネルギーの吸収ならびに放出。フ。理屈からいえばあの時これを握っていた俺が絶縁破壊を
喰らうなどとはおかしな話だが……恥ずかしい話、小札の腕が切断された瞬間、感情をわずかばかりかき乱されて迂闊に
も防御が遅れた。絶縁破壊の光をわずかだが浴びてしまったのさ。咄嗟に傷口に刃を刺しエネルギーをかき出しもしたが
……一手遅れたのは否めない」
「…………威張って言えるコトじゃ……ないような……?」
 ぼーっとしているがそれだけに辛辣な言葉だ。総角は軽く息を呑み、何かを誤魔化すように前髪を書き上げた。
「フ。可愛い顔して手厳しい。ま、事実その通りだがな。剣を握って幾星霜。未だ恐懼疑惑を払えぬ俺にこそ──…」
 ゆっくりと貴信と兵馬俑を見下ろす総角の眼が……にわかに尖る。険しさを帯びる。
「この事態の責はある」
 脇構えを取る総角の全身から陽炎のような揺らめきが立ち上った。それに気圧されたのか、玉城の頬を一筋の汗が伝
い落ちた。それが乾いた地表に吸いこまれたのを合図に総角は悠然と踏み出した。
(ここは…………一旦……退却……です。しかし……)
(フ。その腕では飛んで逃げる事は難しい)
 じりじりと間合いを詰める総角は見た。肘から先が欠損した玉城の腕を。
(折角の変形能力とて上腕部がなければ無意味さ。人間の腕と鳥の翼は相同……骨格構造はほぼ同じ。人間形態で肘か
ら先がないというなら、鳥形態では)
(……変形しても…………次列風切から先は……ありません。簡単にいえば……翼の……5分の4が……ありません)
 かかる羽目に陥っては空を飛ぶコトなど不可能に近い。先ほど玉城が述べたゲリラ戦法などもはや不可だろう。
 散歩でもする調子でゆっくりと間合いを詰める総角に、玉城が思わず後ずさったのはそういう理由もある。
(どう……すれば)
 俄かに大気が緊張を帯びたせいか、霧はいよいよその濃さを増しているように見えた。どころかまるで玉城を圧迫するよ
うに立体的質感を持ってせり出して来ているにも見えた。
(…………? 色が……変です。まさか)
 虚ろな瞳が大きく見張られたのと剣先の向こうで会心の笑みが浮かんだのは同時だった。
「もう遅い」
 霧が、光を放った。
「チャフの武装錬金、アリス・イン・ワンダーランド。刀はフェイクさ。これを当てるためのな」
(……ダメです。直視すれば悪いことが……起こります……早くこの場を──…)
 鋭い爪が無骨な蹄に化した。ダチョウのそれを駆る少女は崖に向かって跳躍した。遅れて駆け付けてきた小札はまだ
痛む腕をさすりながら愕然と玉城を見上げた。
「ささささ30メートルはあろうかという崖なのに……真ん中まで一瞬で!?」
 ダチョウの蹄が岩肌を粉々に蹴り砕いた。その粉塵が総角に降りかかる頃、いわゆる壁蹴りの要領で15メートルほど
飛びあがった玉城は先ほどブレミュ一向のいた山道へと着地。猛然と木の葉を散らし逃げ込んだのは森の中。

「フ。あれほど強いんだ。朝飯前だろ
「なんという、なんという」
 全力で上を見上げる姿はもはや魚を食うアシカのようであった。振りかえった総角は白い顎と鼻と大口しか見えない小札の顔にちょっと
吹きかけたが、すぐ神妙な面持ちで善後策を伝え始めた。






 動き始めていた時間の真ん中で。






 青空が光の頬をはたいた。
 頬に走る激しい痛みに、姉が心の底から怒っているコトを光は知った。
 どこまでも強い風がウェーブの掛った柔らかい髪をごうごうとなびかせた。






 運命が変わったのはその日だったと、玉城光は走りながら思った。






「霧に乗じてのアリス・イン・ワンダーランド!! いかに強い方といえど精神はその限りではありませぬ故、そちら方面か
ら切り崩すおつもりでしたのに悲しき哉! 目論見は水泡と帰し哀れ不肖たちは未だ狙われる定めの軍集団!」
「フ。鳥の目は高性能だからな。3原色の混合具合でしか色を認識できない人間と違って4原色かそれ以上の基準で色を
見れる。つまり」
 小札のロッドから光が迸り、貴信と兵馬俑の傷を癒し始めた。
「そうなのであります。不肖たち以上に色の違いには敏感! 一見完璧に濃霧に溶け込んでいるアリス・イン・ワンダーランド
とて鳥の目から見れば違和感バリバリなのは必定! つまり精神攻撃の直前に気付いて逃げるだけの余裕はあったのです!」
「やれやれ。あれで終わっては無銘と貴信に合わせる顔がない。せっかく俺の復帰を見越し、わざわざ濃霧の立ち込める
場所にアイツを追い詰めてくれたというのにな」
「回復したし交代! で、……よーわからんけど、それならそれならもりもりさ、さっきからちっともいいトコなしじゃん?」
 よっとあぐらをかいたのは香美である。まだ体に違和感があるらしく、首をねじったり肩を回し始めた。
「フ。いいのさ。初撃でしくじった以上、今日は俺が割りを食うべきだ。最も得意のアリスが囮でも……構わない」
「おとり? あだっ」
 バキリと鳴った辺りをさする表情は難しい。半泣きかつしかめっ面で、更に疑問符という要素まで混入している。
「うぅー。痛いし訳分からんし最悪じゃん。だいたい”おとり”って何よ?」
『ハハハ! 香美! ヒントは鳩尾! 兵馬俑ではないチワワの方だ!!』
「んー? 鳩尾? ……あ」
 周囲を見渡した香美はおやと首を捻った。ある物の不在に気付いたという調子だ。

「アイツどこいったのさ? こーゆーとき一番うるさいじゃんアイツ。でもいないし」
「フ。それはだな──…」

 揺れが酷く乗り心地の悪い”そこ”へへばり付きながら、無銘は赤い三つ編みを睨んでいた。
 大きく四肢を広げ丸い指で迷彩柄のダウンベストを掴む姿は……ムササビのごとく。

 森林をあてどもなく駆け抜ける玉城光の背中。
 鳩尾無銘はそこにいた。

「あの鳥型ホムンクルスのお嬢さんがいかに聡かろうと早かろうと、光の速さは超えられん。とっさに回避を選んだのは見
事だが、しかしアリスの精神攻撃は光とともに浴びた筈。いまは逃げながら精神攻撃に苦しんでるって所だな」
「わからん! もりもりのいうコトはわからん! いちいち難しすぎじゃん!!!」
『つまりだ香美! 無銘はあの鳥型がアリスを避けるのに全神経を集中した瞬間!! 密かに背中に飛びついていた!!
何しろ彼は小さなチワワ! 平時ならいざ知らず、あんな土壇場では取りつかれても気付くのは難しい!!』
「更にあの鳥型どのには申し訳ありませぬが、あの方は今まさに悪夢の真っ最中……」
 貴信の声に一拍遅れ、小札が体を抱えるようにぶるぶるした。
「ゆえに無銘は任務を完遂できるという訳だ。フ。流石は忍び」
「んー? 鳩尾ったってアイツぶそーれんきんナシじゃ弱いじゃん? だいたいさー、そのぶそーれんきんにしたってココに
置き去り! しかもさしかもさこのおっきーの」
 横たわる兵馬俑は体のあちこちが大破。指差す香美はいかにも不愉快で……
「ズタボロ! アイツにゃちっとも勝てんだじゃん!!」
「敵対特性」
 しかし呟く総角に、彼女以外の全員は頷く。貴信は場所上香美の首を仰け反らす感じで、小札は不承不承。
『香美! 鳩尾の武装錬金の特性はホムンクルスにも有効だッ!! 動植物型ベースによって何らかの特殊能力……武
装錬金でいえば『特性』を見に宿している奴なら』
「一発逆転。動きを封じた上で今一度アリス・イン・ワンダーランドで攻撃するコトも可能なのです。卑怯と言えば卑怯極まる
戦法でありますが、戦力で劣る不肖たちが『殺さずして勝つ』方法はそれのみでありましょう!」
「なんとなーく分かったけどさ、じゃあ何でさっきやらんかった訳よ?」
『いや!! 無銘は試みなかった訳じゃない! 実力と機動力の差で叶わなかっただけで……!』
「とまあ回復待ちのおしゃべりはここまでだ」
 ザッと踏み出す総角を追うように小札が進み、香美がゆらゆらと(半ば強制的に、貴信の命令で)立ち上がった。
「追うぞ」
「だー! 追うったってどーすんのよ! あたしらん中で一番鼻のいい鳩尾いないじゃん! あたしは匂い追跡とかできんし!
どーせ途中でタンポポとか岩っころフンフンして立ち止まるのがオチじゃん!!」
 地団太を踏む香美に呆れたらしい。総角が「せっかくキメたんだから従えよ」と情けない表情で振り返った。
「あーなんか疲れた。やっぱ共同体のリーダーって中間管理職……あー、貴信くん? そのドラ猫に説明してやってくれ」
『了解!! つまりだ香美! 無銘は敵対特性の媒介用に兵馬俑の手首か足首を持って行っている!! 何しろ敵対特性
発動はあの自動人形の体表にあるうろこ状の物体を相手の傷口にすり込むコトで起こるからな! 例え手首で傷を負わせ
ても3分後には効果が出る!』
「で、不肖操るマシンガンシャッフルの探索モード・ブラックマスクドライダーにて追撃する所存なのであります! 何しろこちら
の兵馬俑は『壊れて』、手首ないし足首を失くしておりますゆえ!」
 ロッドの宝玉からバチバチと立ち上る黒い光が倒れ伏す兵馬俑を覆った。黒い光は更に動き、崖に沿って緩やかに上り
始めた。欠けた物をつなぎ合わせる小札の武装錬金の特性あらばこその現象だ。
「よくわからんけどみんな協力してるのは分かったじゃん!」
 アーモンド型の瞳が無邪気に輝く一方、総角は岩でも背負ったようにゲンナリした。
「と、とにかくだ。あの黒い光の行く先に無銘と鳥型ホムンクルスがいる。だから──…」
「だーもう! 何ぼさっとしてるじゃんもりもり! そーと決まったら行くじゃん! 追う! ついせき!」
 総角が盛大な溜息をついたのは、崖をだばだば登る香美を見たせいだ。
「さっきからそういってたぞ俺。さっきからそういってたぞ俺。さっきからそういってたぞ俺」
「ああ、何と苦労多きもりもりさん……」
 糸の切れたマリオネットよろしくがっくり肩を落とす金髪剣士を小札は慣れた様子で撫で撫でした。
 無論、身長差ゆえに小さな体は精一杯背伸びしている。香美の後頭部から悲しげな吐息が漏れた。
(いいなあ!! 僕も誰かに撫で撫でして欲しいなあ! はは!! ははははっ!)
「だだっ! だっしゅ! 若さ全開! 5人のなーかに、君がいーるー♪ じゃん!」
 後頭部を濡らす涙もなんのその、栴檀香美は今日も元気に生きている。








 風の強い日だった。



 青空は自宅めがけ全速力で駆けていた。
 きっかけは、光からの電話だった。携帯電話の向こうで騒がしい伊予弁を振りまく彼女はこう言っていた。

 Cougarから手紙が来た、と。

 高校生活ももうすぐ折り返し地点という頃、青空は自身の将来について果てなく悩み、そして恐れていた。
 ボランティア活動には従事したい。だが会話能力に乏しい彼女は授業の一環で訪れた施設で誰にも何もしてやるコトがで
きなかった。問いかけるべきコトはいくらでも頭の中に沸いていた。だがそれを言葉として発するコトはやはり恐怖だった。
大きな声で。もっと大きな声で。そう言われるのを恐れまごついている間に、声が大きい活発な者が仕事を引き受けていく。

「やっぱり向いていないんじゃない?」
「不向きだからストレスが溜まって喋れないんじゃない?」
「成績はいいんだし、先生はもっと別の進路を選んだほうがいいと思うぞ?」

 内実を理解しない、うわべだけ親切な言葉はすでに傷だらけの精神を更に抉っていく。
 恋愛もできない。周囲は年相応に相手を見つけ青春を謳歌しているというのに、青空だけは常に一人。Cougarは好きだっ
たがアイドルを恋愛対象にするほど幼くもない。ごく普通の少女と同じく、等身大の恋愛に憧れていた。だが運悪く心惹かれ
る男性との出会いはない。

 結局ただ青空は、休み時間中ずっと自分と同じ名前の場所を見て過ごすしかなかった。

 卒業が近づくたび、不安が募る。自分は一生このままで、誰からも必要とされず誰の力にもなれず、ただ漠然とした不安と
具体的な会話への恐怖におびえ続けるのではないかと。夜、布団の中で人知れず涙を流すコトさえあった。
 Cougarへのファンレターについ自分の住所を書いてしまったのはそんな時期だった。
 もし彼からの返事が来たら、一歩踏み出せるかも知れない。
 気弱で何かを先送りにしている決意だとは分かっていた。だが「他者が自分に答えてくれた」という事実、人と人との最低限
の繋がりが欲しかった。今のままの自分では居たくなかった。何かをきっかけに生まれ変わりたかった。

 果たして手紙は来た。

 風に向かって息せき切って。
 ひた走る青空は天にも昇る気分だった。





 小学校入学を翌年に控える光の趣味は、プラモデル作り。
 その日も新聞紙の上で鼻頭に塗料を付けて趣味に没頭していた。
 
 …………。

 風の強い日だった。

 Cougarからの手紙が来たのは、留守番中の光がマジンガーZの塗装を終えてご機嫌な時だった。
 アセトンで無理やり有機溶剤を落とした両手はザラザラだったから、洗面所でゴシゴシと洗っていた。いつも輝いている瞳
を更に輝かせながら鼻歌さえ歌っていると、玄関の郵便受けに手紙の山がドバドバ入って来るのが見えた。玄関は洗面所
からすぐの場所にあった。
 ちょうどプラモ目当てで幼児雑誌の懸賞に応募していた時だったから、当選通知を求めて手紙の山を探ってみた。それ
は残念ながらなかったが……小ぶりで真っ白なダイア封筒──マンガなどでよくラブレターを入れてるアレ──の差出人は
安っぽいプラモより”当たり”だった。Cougar。もはや幼い光でさえ知っている国民的アイドル。封のシールも彼のトレードマ
ークたる稲妻だった。丸い黒地のシールへ稲妻型に押された金箔がこれでもかと輝いていた。それでも光は慎重に慎重に
確認した。もしコレが偽物だと姉が落胆する。だからゴミ箱を漁って、先日Cougarのファンクラブの会報を運んできた角0
封筒(入学願書だのでっかい書類だのを入れるアレ)だのを引きずり出した。その切手部分に押された消印とダイア封筒
のそれは同じ局の物だった。ついでに角0封筒に記載されてる電話番号を押して彼の事務所に問い合わせ、ウラを取った。
 就学前の児童にしてはいささか頭が回り過ぎるきらいもあるが、後年銀成市で戦士たちを苦しめる冷静さはすでにこの時
から芽生えていたのだろう。

 とにかく光は、姉に電話をかけた。彼女が最近何だか元気のない事を知っていたので、喜ばせるつもりで報告したのだ。

 そして自分も手紙を見たいという気分を抑えながら、姉の愛用している窓際のビーンズテーブルの上に手紙を置いた。
 有機溶剤の匂いが光の鼻をついたのはその時だった。
 そんな臭いの中で好きなアイドルからの手紙を読ませたら雰囲気が台無し──…
 パっと双眸を煌かせた光は、窓枠に手をかけた。換気。部屋に溜まった有機溶剤の臭いを追い出す作業。
 趣味をやった後に必ずやる作業。姉が返ってくる前に必ずやる作業。
 光はそれを、いつも通りやっただけなのだ。悪意などはまるでなかった。あろうはずがあるだろうか、玉城光はこの世で
一番義姉を尊敬し、心より憧れているのだ。

 窓が開いた。

 風の強い日だった。

 開かれた窓よりなだれ込む強烈な風が、窓際の小机の上に置いてあったCougarの手紙をかっさらった。

 風は室内でぶつかり合い、複雑な流れを作ったようだった。いびつな渦。部屋の奥へ飛ばされるかに見えた手紙は溶剤
の匂いともども外に向かって引きずり出された。
 あっ……と光が手を伸ばした頃、手紙はすでにマンションの4階からこぼれ落ちていた。ベランダの格子をすり抜けてその
向こうの宙空で風に揉まれきりきりと飛んでいった。恐ろしいまでの速度でグングン小さくなる手紙の姿に真っ青になりなが
ら、姉への申し訳なさで涙を流しながら、光は部屋を飛び出し2段飛ばしで階段を駆け降りた。1階に着いてもまったく速度
を下げぬまま先ほど手紙が消えたあたりまで駆け抜けたが、影も形も見当たらない。どこに飛ばされたのだろう。生まれて
始めて感じる冷たい後悔と張り切れそうな罪悪感の中、なお手紙を捜索すべく動き出した瞬間。

 ぜぇぜぇと息吐きつつも輝くような笑顔の姉と遭遇した。

 事情は包み隠さず話した。謝罪もした。

 だが。

 青空が光の頬をはたいた。
 頬に走る激しい痛みに、姉が心の底から怒っているコトを光は知った。
 どこまでも強い風がウェーブの掛った柔らかい髪をごうごうとなびかせた。

 運命はどこまでも最悪だった。ちょうど買い物から帰って来た義母がその場面を目撃し、駆け寄り、数秒前の衝撃を青空
の頬で再現した。
 光はしゃくりあげながらあらゆる事情を話し、青空に非がないコトを説明した。
 事情を理解した義母は本当に心から謝った。

 どこまでも変わらぬ笑顔はひりつく頬を抑えたまま無言で立ちすくんだ。

 翌日。

 光の家庭から玉城青空の姿が消えた。



 忽然と姿を消した義姉が帰って来たのはおよそ1年後──…



 扉が、開いた。

 見慣れた姿が、ゆっくりと部屋に流れ込んできた。







『ただいま』









 夢が衝撃に打ち砕かれた。

 齟齬の形は三角形のよう……玉城光はそう思う。緩やかな勾配が突然途切れる直角三角形。衝撃の中、肺腑から
全ての空気を絞り出しながら玉城はゆっくりと振り向いた。這いつくばった姿勢のまま、首だけを、ようやく。そして見た。直
角三角形の石を。走ってる最中それに足を取られた。だから速度が制御不能の浮遊感になった。直角三角形の勾配を全
力で登ってる最中不意に出てきた直角の断崖をどうする事も出来ずただただ加速の赴くまま身を投げるように。そして頭か
ら地面に突っ込んだ。無防備に叩きつけられ、肺腑は全体重と堅い大地のサンドイッチになって酸素も窒素も一切合切吐
きつくした。真空状態の肺は端と端の内壁が癒着しているようだった。息を吸おうにも肺は縮こまったまま動かない。だが
皮肉にもその窒息の苦しさが何分かぶりの正常意識を取り戻した。

 件のアリス。完全な直撃を避けなければ転んでもなお悪夢に苛まれていたであろう。

 とにかく齟齬は直角三角形のようだった。悪夢から覚めたての思考にはそればかりが鳴り響く。人は疲弊の極みや病熱
の中でガラクタのような論理を組み上げる。齟齬うんぬんもそれだった。脳が参っている。割れそうな頭に手を当てようとし
て肘から先が欠損しているのに気づいた。そもそも動かない。土の苦みをしばらく味わうほかない。
 立ち上がるのに必要な酸素はまだ供給されず、じゃりじゃりした粒を吐くコトもままならない。地面に突っ伏したまま思考の
みが無意味に続く。

 齟齬の集積は果てしなく巨大な直角三角形で、それに立脚し歩き続けるとすれば、あって当然と思っていた道がある日突
然途切れてしまう。積み上げられた齟齬の数だけ高い場所から落とされて、肺腑を絞られる事など比較にならぬ恐ろしい
目を見せられる。本当は齟齬の消し方は簡単で、それと真逆の形をした”何か”を当てればパズルゲームのようにかき消
える。しかし自分も父も母もそれをしなかった。青空の姿が家庭から消えたのはそのせいだと玉城は思った。自分たちの平
穏はずっとずっと青空への齟齬によって保たれていたのだ。

 そこでようやく自発呼吸を再開した玉城は自分の醜態を嘆きながらゆっくりと立ち上がった。ホムンクルスの身でまるで
人間じみた窒息に苛まれるなど醜態以外の何者でもなかった。無防備に転び肺腑を痛打したのは悪夢の中で何も考えず
走りまわっていたせいだろう。
 ひりついた熱と背中をぐっしょり濡らす汗の不快感に気だるさを感じながら、玉城はゆっくりと辺りを見回した。
 そこは先ほどの山小屋の前だった。ようやく戻って来た思考力で現状を認識すると、今度はなぜ自分がここにいるかを
思い返す。
 霧。光。アリス・イン・ワンダーランド。総角の放ったそれを懸命に避け崖を登った辺りから記憶がない。
代わりに青空の手紙を飛ばしてしまった時の悪夢を見ていた。

 偶然ではなく、何かがそれを見せていたような気がした。
 
「今……のは?」
「師父のアリス・イン・ワンダーランド。貴様が見たのは忌まわしき記憶。それぞ彼のチャフが特性」
 耳慣れない声に三つ編みを揺らめかしながら振り返る。
 チワワがちょこんと座っていた。傍らに大きな手首を置いているのが気になったが、玉城はぼんやりとした声で「カワイイ」
とだけ呟いた。
「ビーフジャーキー……食べます?」
「食わぬわ!!」
 しゃがみこんでポシェットをまさぐろうとする玉城に怒声を浴びせると、無銘は苛立たしげに呟いた。
「くそう。敵対特性を見舞ってやろうとしたが、ああも泣かれては気勢が削がれる!! 絶好の機会を逃したわ!!」
「ハイ?」
 ここで玉城は肘から先がなくなっているのを再確認したらしい。「ビーフージャーキー、出せません」と謝った。
「そうではないわ!!! いいか!! 我は先ほどの一団の者! 貴様を倒すべく追撃した!」
「すー、すー」
「寝るなあ!!!」
「しもうた。ようけしゃんしゃんしたけん、つい」
「ようけしゃんしゃ……ええい!! 日本語で言え!!」
「伊予弁……です。でも……今のは忘れて……下さい」
 うっすら頬を染めつつ玉城は首を捻った。
「でも……なんで…………チワワさん? どう見ても……戦闘向きでは……ありません」
 チワワはキッと牙を剥いた。
「黙れ!! 我とて好き好んでこの図体に収まっている訳ではない!!」
「じゃあ……私と…………同じ……です」
 ヒビ割れた肘がホムンクルスらしからぬチワワの頭をそっと撫でた。
「?」
「私は…………色んな鳥に変形……できます。でもその代償で……5倍速で……年を取ります。そうしたのは……お姉ちゃ
ん……です。とはいえ……仕方ないのかも…………知れません。お姉ちゃんが楽しみにしてた手紙を…………飛ばしたのは……
私……です」
「知るか! それより我と戦え!!」
「……少し…………休ませて……下さい……」
 そう言ったきり、玉城は戦闘意欲を失くしたようだった。よろよろと山小屋に入っていくと、それきり静かになった。






 束の間の眠りが再び悪夢を呼び覚ます。




 名前通り光の溢れた瞳を涙でくしゃくしゃにしながら、玉城光は窓際のビーンズテーブルを見た。
 もうそこはすっかり埃を被っている。青空が失踪して1ヶ月。豆の形をした机は誰も触れないまま、そこにある。
 あの日以来、窓は開けていない。また開ければ姉が愛用していた白い机さえ飛ばされそうで、怖かった。
 趣味のプラモもやめた。あの日色を塗ったマジンガーZはとっくに捨てた。
 いつからか光は、朝起きてすぐ小机を見るのが習慣になった。
 自分が寝ている間に姉が戻ってきて、またそこに座っていたら……どんなにぶたれても怒られてもいい。
 謝れといわれたら何度だって謝る。だから戻ってきて欲しい。そう願っていた。



 願わくばもう一度だけ、姉の作ったドーナツを食べたかった。



 青空が家を出て数日後。

 手がかりを求めファンクラブの会報を見ていた光は、「謝恩祭」と称したCougarのシークレットライブがあるコトに気付いた。
気付いた、というが厳密にいえばファンクラブの会報のどこにも開催場所は明記されていなかった。ただその号だけやたら
クロスワードパズルが多いのが気になった。問題はすべてCougarにまつわる問題だったが、青空がそれら全てを埋めてい
たため光は問題を解かなくて済んだ。だが解答の全て埋まったクロスワードパズルは奇妙だった。何の変哲もない場所に
四角の二重枠があったり、色が塗られていたり、稲妻のマークが番号付きで印刷されていた。
 それらを番号順に並べた光はシークレットライブの存在を知った。二重枠は告知のお知らせ。色のある部分は開催場所。
稲妻のマークは開催日時……開催日時は翌日だった。事情を話すと父母はすぐさま事務所に電話した。
 もしこういう風体の女の子が来ていたら保護してほしい、と。

 話はすぐさまトップに伝わった。cougerをスカウトしたという女社長がわざわざ応対してくれた。


「大丈夫。きっとお姉さんに会えるから」



 いかにも大人という女社長の声。光は心から安堵した。



 しかし翌日。、こんなニュースが各局を賑わすコトになる。

「Cougarのシークレットライブ中に謎の襲撃事件が発生。Cougarを含む129名が死亡」
 列島を震撼させたその事件は不気味さと異常さを孕んでいた。彼らを殺したのは鈍器でも刃物でも機関銃でもなければ
糜爛性の毒ガスでもなかった。警察の公式見解では爪や牙というがそれさえも本当かどうか怪しかった。
 観客とCougarは何かの猛獣に襲われたように『食い荒らされ』、骨を覗かせ内臓を剥き出しにして死んでいたという。
 若い女性たちと国民的アイドルが惨たらしい死を遂げたセンセーショナルなこの事件は、その年ずっと報道され続けた。


 光らは第一報を見た時、青空の死を覚悟した。もしかしたらCougarのライブに居たかもしれない彼女の末路を想像した。
 だがDNA鑑定の結果、死体のどれもが青空ではないコトが判明した。
 その場にいなかったのか、それとも謎の襲撃者が破片一つ残さぬほど完食したのか──…

 事件前日、光と電話した女社長もまた事件の被害者だった。不眠不休で遺族たち総てに頭を下げて回った。


「本当に申し訳ありません」


 光は当時の彼女を何回か見ている。ひどり有様だった。頬はやつれ眼の下がドス黒く染まりとても女性とは思えないしわ
れた声で何度も何度も謝るのだ。父母はそれを誠意とみなしたが、光だけは何かとてもおぞましい気がした。うまくはいえ
ないが、何か、別のモノに無理やり動かされているような──…









 青空は依然帰らぬままだった。




















 敵を見逃しては大変と追い掛けた無銘は、血まみれの部屋のなか横たわる玉城を見た。無防備に投げ出された白い
両足に目を奪われかけもしたが、そこは忠犬、すぐさまどうすべきか考え始めた。
(どうする? 今なら兵馬俑の手首を以て敵対特性を発動し、師父たちを有利にするコトもできるが──…)
 しかし、と無銘の思案は続く。
(先ほどまでの様子からもしやと思っていたが、やはり彼奴は望まずしてホムンクルスになったらしい。背中の我に気付か
ず走っていた時もしきりに姉をよばっていた)
 眠る玉城の唇がまた動いた。「お姉ちゃん」。哀切な響きに遅れてまなじりから涙がこぼれ落ちた。








 火の消えたような食卓を見て、青空の父は心から後悔した。
 青空は手のかからない子だった。だから最初は自立心を育てるつもりでなるべく手を貸さなかった。それがただの放任に
なり放置にさえ成り変ったのはいつからだったか。記憶を手繰る内、青空と心の籠った対話をした記憶がないコトに気づき
彼はただと愕然とした。育児ノイローゼの果て獄中死した前妻ともそうだった。それに気づいた瞬間彼ははばかりも泣く泣
いた。つまるところ自分は家族に対する確固たる責任感などないと気付かされた。ただ家庭の明るい部分のみを欲してい
た。放送コードを通すべくマイルドに均された家族ドラマのように、解決可能な出来事ばかり起こるのだと思い込んでいた。
だからその思惑から離れた複雑でややこしげな薄暗い出来事が起こると逃げていた。それは青空の喉の問題だった。職
場でも同じだった。自分に相談を持ちかけてきた同僚や部下達と緊密な付き合いをした覚えはついぞない。彼らと本音をぶ
つけ合い、心から分かりあったという経験はなかった。相談には一般論。それだけだった。他の局面でもただ社会人として
の範疇を超えない無難な会話──飲み屋、或いは出張途中の新幹線や宿泊先で何十何百とした筈なのに内容をまったく
思い出せない──をしたにすぎない。だから彼らは決して心からの信頼を見せぬ。青空の失踪を知るや一丸となって探し
に行く……そんなドラマのような現象が起こらなかったのはいうまでもない。ただ彼らは大変そうですねという視線を送ったき
りそれぞれの生活を守るための仕事へ戻っていく。かつて相談を持ちかけられた自分がいかに親身にならなかったか。青
空の父は部下達の姿に痛感させられた。
 職場ではそれでも良かった。彼の抱える事情がどうあれ職場の掲げる規範を守り社会の規範を外れぬよう計らえば成績
が上がり評された。だが家庭には規範はない。率いる彼が作らなかった。楽で明るくて無難でありさえすれば良かった。自分
の家庭への欲求が満たされればナァナァで過ごして過ごして過ごし続けてきた。そんな彼にとって今の妻は正に理想だった。
活発であるが故に何も貯め込まぬ彼女は前妻のような事件を決して起こさぬ人間。彼女を伴侶にした家庭生活は楽しかった。
青空との微妙な溝は気にしていたが、大人しくて分別のある娘だからいつかは分かってくれるだろう……と勝手に思っていた。
 そして活発でレスポンスのいい光と妻とで楽しい家庭団欒を過ごしていた。彼女らは自分の些細な言葉で大きな反応を返
してくれたから、ついつい多くの言葉を投げかけてしまった。事あるごとに楽しいパーティをやった。青空やその母のように、
仕事で疲れた脳を更に疲れさせなければ的確な言葉を紡ぎだせない相手より──…端的にいえば楽だった。その癖彼女ら
は抜けている部分があって、楽な努力で補佐するコトができた。方向音痴の光を道案内するだけで感謝されたのだ。
 だがそうやって楽を続けた結果、青空はいなくなった。
 いなくなって初めて気付いたコトがある。
 かつて食卓に存在していた静かな笑顔もまた自分にとっての団欒だったと。
 暖かな笑顔。今は亡き妻に似た美しい笑顔。それは自分が維持するコトのできなかった前の家庭の輝かしい一片だったと。
 守るべきだった。 
 あらゆる苦難と煩雑さを味わってでもその笑顔が消えないよう青空を守ってやるべきだった。
 脳髄を疲れさせてでも彼女の煩悶を解き、彼女の欲する物を察してやり、そして光よりもたくさん褒めるべきだった。
 子供というのは初めて遭遇する経験に悩み続けるものではないか。親はそれを緩和してやるべき物ではないか。
 かつて子供だった父はそう悔み、心の底から泣いた。

 その日から彼は同僚や部下と本当の意味での会話をするよう心がけた。
 身を呈して彼らの煩悶を解き、少しでも抱えている物が軽くなるよう努めた。
 成績は下がった。仕事の能率もまた同じく。
 だからといって彼ら全員が青空の捜索に手を貸すコトはなかったが、彼はそれでもよかった。決して多くない休日に地方
の駅でビラを配り青空の手がかりを求めるのは自分にのみ課せられた使命であり贖罪だと信じていた。
 光と過ごす時間は以前よりかなり減った。だが会話の質は以前より上がるよう努力した。
 しばらくすると。
 タダ同然の料金でビラを印刷してくれる会社を部下が紹介してくれた。給料が欲しいからと休日出勤を肩代わりする同僚
も現れた。不自然に増えた有給休暇を上司に問い詰めると「規範通りだ」とだけ答えが来た。


 青空を探すために休日も有給休暇も使い切った。それらしい人を見たという知らせがあれば真冬の東北地方の山奥に
だって駆け付けた。海外に行ったのも二度や三度ではない。
 彼はとにかく青空の笑顔をもう一度見たかった。
 再び会えたのなら二度と彼女が悲しまぬよう、話を聞いてやりたかった。


 我が子がぶたれるのを見た瞬間、生来の活発さが反射的に手を出させた。
 光の母親にとってその軽薄さは悔やんでも悔やみきれないものだった。
 姉妹の関係は傍目から見る分にはひどく良好だった。母が違うとは到底思えないほど彼女らは仲良く見えた。
 土曜日の午後にドーナツを作り時には夕食さえ作る青空は、本当にただ面倒見のいいお姉さんだった。
 彼女は面と向かって光の存在に不平を洩らすコトなどなかった。
 妹が危殆に瀕したせいで自分が肺炎に倒れたという経緯を持っているのに、邪険にするコトはなかった。
 考えるべきだった、と光の母は悔いた。
 あれだけ仲が良かった妹をぶたざるを得なかったのだ。そうするに足る重大な背景があると察して、まずは話を聞いてや
るべきだった。にもかかわらず、ぶった。大好きなアイドルからの手紙。年頃の少女なら命より大事するかも知れない宝物
を不条理に奪われ打ちひしがれる青空の頬を…………有無も言わさずぶったのだ。
 青空を憎んでいた訳ではない。発声練習を断られた件は時間の経過とともに「自分が悪かった」と思うようになった。連れ
子だからといって嫌がらせをしたかった訳ではない。家族になる以上、抱えている欠如が癒されるよう何らかの協力をした
かった。引っ込み思案のまま成長すればいつか社会の壁に当たってどうするコトもできなくなると心配していた。だから人と
話せるよう手助けをしたかった。実母に首を絞められたという辛い経験を忘れ、活発に生きて欲しかった。
 それを断られた瞬間、光の母は青空に対しどう接すればいいか分からなくなった。活発すぎる性格だから活発な相手と
しか付き合った経験がなく、小声でしか話せない大人しめの少女の心の扉をどうすれば開いてやれるかなど、まったく見当
もつかなかった。だから青空と話す時はいつも戸惑っていた。本当にいま考えている言葉を聞かせていいのかと。その言葉
でまた青空を傷つけ活発さから遠ざけてしまったらどうしよう、と。そんな自分の振幅が名状しがたい雰囲気を生み、光や
青空に親として見せるべきでないモノを見せてしまったのはつくづく悔やまれた。
 結婚前。今の夫に子供がいると聞いた瞬間。一歩引いた付き合いを心がけるべきだった。「後でどうとなる」と活発さの
赴くまま関係を進めたのは青空にとって不幸だったと初めて気付いた。もし自分が少女の時、見知らぬ女性が母ですよと
ばかり家庭に転がりこんできたらどういう気持ちがするか、それをまず考えるべきだった。目の前に転がる愛情の熱っぽさ
と甘さばかり追及すべきではなかった。そう思い、青空の感じた苦しさを思い、涙した。
 複雑な事情と複雑な家庭環境を背負いながらも、不良にはならず、健やかに真面目に育ってくれた青空という少女は、
本当は強いコだったのだとも思った。何もいわず家事をこなしてくれる所は母の自分以上に母だった。将来はボランティア
に従事したいと小声で懸命に語った彼女には心の底から敬意を覚えていた。でも、いえなかった。頑張れといえばまた発声
練習の時のような重荷を背負わすようで怖かった。当時はまだ弱い少女として青空を見ていなかった。でも弱い少女として
見ているなら彼女が少しずつでも強くなれるよう協力するべきだった。ただ話を聞くだけでもいい。心に抱えた辛いコトを
何もいわず聞いてやり、そっと抱き抱えてやるだけでも良かった。

「確かに声は小さいけれど、あなたはそれに負けないだけのいい部分も持っているのよ」

 と励ましてあげるべきだった。

 そう思うばかりで後悔は消えない。夫の同僚の伝手で部屋一杯分ぐらいきたビラを3日ばかりの不眠不休で配り終えた
時も、感動の再会を謳い文句にするテレビ番組で涙ながらに「会いたい」と語った時も、後悔はまるで消える気配はなかっ
た。

 青空がいなくなって2ヶ月後。
 誰からともなくこういう提案が出た。
 
 手紙を探そう。

 小ぶりで真っ白なダイア封筒。封をしているのは稲妻輝く黒丸シール。
 それを探そう。

 あれから何度雨が降り、幾陣の風が吹いたか。
 それはみんな分かっていた。
 手紙がどこにあるかは分からない。見つけたとして原形を保っている保証はない。
 けれど青空に与えてしまった欠如をそのままにしておくコトはできなかった。
 地方に行ける父親は青空探しと平行して手紙を探し。
 母親は駅前でビラを配る傍ら手紙を探した。
 登校時、下校時、遊びに行く時ヒマな時……光もまたあらゆる場所を探しまわった。
 両親に内緒で校区外まで自転車を駈ったコトもあった。方向音痴だから迷いに迷って警察に保護されたが、そこでも手紙
を見なかったかお巡りさんに聞いた。
 お年玉を全額はたいてなるたけ遠くの駅まで行って手紙を探したコトもあった。

 更に8ヵ月近くが過ぎた頃、隣の隣のそのまたずっと隣の県まで行った母親が、喜び勇んで帰って来た。

 手には小ぶりで真っ白なダイア封筒。封をしているのは稲妻輝く黒丸シール。
 
 差出人の名はCougar。宛先は玉城青空。

 木に引っかかっているのを偶然見つけたという。
 すり傷と泥と腫れ(ハチの巣があったらしい)に彩られながらも、母親は何か月ぶりかの笑顔を浮かべていた。
 幸い木陰に隠れて雨風は避けられたようだった。
 あちこちがくすんで皺が寄っているが、中身は無事そうだった。
 光はそれが自分の過失で4階から飛んでいった物だと心から信じた。





 それが本物だと、心の底から信じていた。




 真偽が判明したのはしばらく後。

 玉城青空が帰って来た、その夜──…












 そろそろ無銘にも大まかな背景が理解できてきた。

(…………身内との確執、か。慕う者に虐げられるとは、哀れな)

 そう憐みながらも「もし自分が小札や総角に見捨てられ、人型になれぬコトを誹られたらどうするか」を考え、胸をチクリと
痛ませる無銘はいかにも少年臭い。彼は自分の勝手な想像に怯えた。親のように慕う彼らの役に立てるなら不惜身命の
心構えでいかなる痛苦も避けないが、見捨てられるコトだけは恐怖だった。
(だが!)
 つぶらな瞳に怒気を孕んだ光が燃え盛るのを無銘は止めようがなかった。
(こやつの姉はこやつを見捨てたも同然! 5倍速で年を取るだと! フザけるな! 不死のホムンクルスが年老いていく
というのなら先に待ちうけるのは果てしのない地獄! 20年もすれば死ねぬだけの老体を引きずりまわすだけの存在に
成り下がる! なぜよりにもよって身内をそうしたのだ!!)

 無銘は改めて玉城を見る。まだまだランドセルが似合う幼い姿。時折うすくまくれる唇のあいだから白磁がごとき乳歯が
見える。にも関わらず肘はない。いつか見た戦場のフォトグラフ、迫撃砲に巻き込まれた少年兵が玉城に重なり滲むたび
無銘の瞳は蒼き業火に彩られる。



(あれから……7年)





 雷鳴。瞬く女学院。去りゆくルリヲ。くすぶる梢が大雨に洗われる。





(何も変わっていない。何一つだ。何一つ我は……)




 力なく零れる白い腕に手をのばす。掴めない。泥が散り鼻を穢した。腕は暗褐色の土汁に塗れたきり動かない。雷轟が
生白くあぶる世界の中……チワワが一匹、低く屈み腕を嗅ぐ。高く軋んだ鳴き声は哀切で──…



 浮沈特火点とヘスコ防壁の果て、墓標のように突き立つ餝剣(かさだち)の鏡面世界の中、鳩尾無銘は泣きじゃくった。






『生まれた初めて繋がりを見出した』……少女の儚い結末に涙があふれて止まらなかった。




(あれから何が変わった? レティクルを止める事はおろか、人間形態さえ未だ獲得できずにいる…………!!)



 雨が止んだ。いや、周囲ではまだざんざと降り注いでいる。照り返しの細かな霧は見るだけで芯から冷える。それでも
無銘はもう雨に打たれない。世界は移る。黄土に淀む泥水面から天空へ。首をあげた無銘は見る。自分と同じ表情を。

 小札はしゃがみ込んでいた。一瞬とても泣きそうになりながら、ニコリと笑い手を伸ばす。

 その後ろに突っ立つ総角は傘を無銘にかざしている。視線が絡むとプイと顔を背けたが金髪も肩も雨に濡れるがままだ。



 自分たちに傘を翳さない彼らを見た瞬間、無銘の中で何かが溶けて──…




(……感傷に浸ってる場合ではない!! こやつが傷だらけ? 当然ではないか!! 負わせたのは師父たち、師父がそ
うされたのはこやつが襲ってきたせいではないか!!)

 そして事情はめぐりめぐって敵対特性発動を要求している。使命。果たさぬは背信、無銘はただ震えた。師父と慕う男、
母と仰ぐ少女。仮に申しつけを果たさぬとも彼らは笑って許すだろう。そんな不壊の信頼あればこそ報えぬ自分を恐れて
いる。

(フン。何を迷う? 我は忍び。古人に云う。忍びに三病あり。恐怖、敵を軽んず、思案過ごす。彼我の状況など考えずやる
べきコトのみやればいいのだ。なのにどうして迷う。我にとっては師父と母上の命こそ至上……情にほだされそれさえ実行
できねば育てて頂いた意味がない! こやつの事情、優先するにあたわず!)
 このまま兵馬俑の手首を咥え、奴を攻撃し敵対特性を発動させればいい……そう決意して引き返した無銘は朽木の刺さっ
ている妙な土まんじゅうを見つけ「はて?」と立ち止まった。
「妙だな。昨晩戦った時はこのような物はなかった。一体何が……」
 犬の嗅覚は確かに腐臭を捉えた。耳をそばだて玉城の様子を観察すると、まろやかな寝息が聞こえた。ならば大丈夫か
とばかり好奇心の赴くまま土まんじゅうをかき──…
「ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!!!!」
 山頂に少年無銘の絶叫が響いた。
「どげしたん?」
 小屋から寝ぼけ眼で出てきた玉城は、あたかも人間のごとく尻もちをつくチワワを見た。
「ほぇ」
「生首!! 蛆の湧いた生首が我を睨んで! うえええ!? ほれ! やっぱり睨んどる! 祟られる!」
 あたふたした様子で土まんじゅうと玉城を交互に見まわす無銘に淡々とした声が注いだ。
「その人は……ここのホムンクルスたちに……食べられた……よう……です。だから……埋葬しました……」
「……貴様は一体、何なのだ?」
 直立不動して尻をぱんぱんとはたく無銘の表情は硬い。
「我たちに仕掛けて来たかと思えば姉のコトで泣き、かと思えばホムンクルスに喰われた者を弔う。そもそもどうして仕掛け
てきた? 答えろ」
「話せば長くなりますが──…」











 玉城光の7歳の誕生日に、それは来た。










 1人減った食卓にケーキを置いて誕生日を祝っていると。

 扉が、開いた。

 見慣れた姿が、ゆっくりと部屋に流れ込んできた。







『ただいま』









 驚愕に目を開く一家目がけて空気の奔流が炸裂した。ケーキにも着弾したそれはスポンジもクリームも貪欲に食い破り
華やかな祝いの席を恐るべき暴力世界へ変貌させた。

 扉を開けた玉城青空はにこやかに微笑みながら歩みを進めた。
 服装は失踪した当時とまったく同じ。質素なサマーセーターにジーパン姿。しかしそれらは1年の失踪を経たにしてはあま
りに小奇麗すぎた。まったく垢切れていない様子からすると他の衣服を着られる環境に身を置いていたようだった。光はそ
の環境を、この1年で姉が送ってきたであろう人生を想像し、戦慄した。両親も同じだった。

 いつもと変わらぬ笑みを湛え。
 いつもと変わらぬ佇まいで部屋の入口に立っている娘。

 彼女を見る目は恐怖に満ちていた。正しく言えば、娘が右手に握りしめている物体を見る目は──絶望と驚愕と生命危機
に瀕した生物ならではの絶対的恐怖に支配されていた。

 イングラムM11。別名・MAC−11。

 少女が持つにはあまりに巨大すぎるサブマシンガンだった。
 本来は聖書サイズにすぎないそれの銃口は、丸いサプレッサー(減音器)によってどこまでもどこまでも延長されていた。
延長という意味ではグリップから限りなくせり出した延べ棒状のロングマガジンも同じだった。つまり青空はそこに詰まった
弾丸によって銃撃時間を延長したいようだった。一発でも多く、しかし静かに。相反する感情を元に銃弾を撃ち尽くしたがっ
ている……。

 虫食いだらけのチクワみたい……と光が思ったサプレッサーはケーキの延長線上で静止している。狙撃したのは間違い
なく青空であろう。しかし彼女自身の雰囲気はちょっと遅れてパーティ会場に入って来たような感じだった。殺気も怒気もなく、
顔はどこまでも笑顔に彩られ……構えた。失踪するまでと寸分違わぬ笑顔のまま右手のサブマシンガンを──…彼女らし
からぬラフさで。

 半身の構えはインラインスタンスに似ていたが、本来腰の辺りへ添えるべき左手は軽く後ろへ伸ばし、胸を張り相手を威
圧するように顎を引いていた。軽く、あくまでも軽くだが、光たち一家を見下しているようにも見える青空の白い指が引き金
に伸びた瞬間、父親が弾かれるように飛び出した。青空は何を思ったのか銃口を、孔ぼこだらけの減音器ごとスッと下げた。
 声にならない声をあげ、銃口の残影をすり抜ける父親。彼は娘目がけて数歩たたらを踏み──にこやかな笑顔に突き飛
ばされた。光の前で凄い音が鳴り響き、ケーキの残骸から芯の焦げたローソクが1本転げ落ちた。その先で苦悶を浮かべ
る父親は、どうやらテーブルの角で背中を強打したようだった。
 2度目の銃撃が一家を襲った。放熱孔まみれのサプレッサーで減音されたとはいえ一般家庭を脅かすには十分な大音声
が響き渡った。

 畳には無残な穴があき、そこめがけて赤い奔流がとろとろと流れ始めた。父が呻いた。右手の中指と薬指が第一関節の
辺りから吹き飛ばされていた。咄嗟に光たちをかばおうとしたのだろう。彼は妻子の前で膝立ちしたまま脂汗をダラダラと
垂らしている。
 青空はこれが私の専売特許よといわんばかりの笑顔のまま、左手である地点を指差した。

『ただいま』

 畳に開いた弾痕は確かにその文字を描いていた。綺麗な文字である。教科書体を寸分違わずトレースしたような筆跡は
間違いなく青空のものだった。光はおつかいにいく時よく書いて貰った買い物のメモを思い出した。その文字に比べれば
かなり大きく、たとえば新聞の見出しぐらいの大きさはあったが、それでも綺麗で丁寧な文字だった。
 更に銃撃が一家の前を薙いだ。そして『ただいま』の後にこう書いた。

『ハーイ皆さんお元気かしら! 私の心は今日もぴーかん青空模様! ありゃ? もしかして……ドン引き? まー仕方な
いわよねー。失踪してたお姉さんがいきなりサブマシンガン持って帰ってきたんだもの。これはビビリどころ通り越してギャ
グよねギャグ』 

 光たちは息を呑んだ。違う。彼女らの知っている青空とは何かが明らかに違う。常に大人しく無言でニコニコしていた青空
からは到底想像もつかない口調である。メールや手紙の時だけ饒舌になる人間もいるにはいるが……この文面に溢れてい
るのは変化。この1年で青空が遂げてしまった……決定的変化。

『あ、でもだいじょぶだいじょぶ。コレ、実は文字書くための道具なの。だってぇ、喋ったトコロで聞き返されちゃうのがオチ
なのよねー。だから書き用。撃ったりしないわよー。何しろ意外に反動あって乙女の細腕には辛いの。あ、『特性』も使わな
いから安心して頂戴ね』

 ハッと目を見開いた光はケーキを半回転させてそこの様子を見た。果たしてそこにも小さく『ただいま』とある。

『んふっ。流石は光ちゃん。大正解よ! そそ。初撃はただいま用。ま、いつものごとく気付いて貰えなかったけど、そりゃあ
もはや慣れっこってカンジ? 気にしちゃあ負けでしょ。気にせずガンガン行くわよ!』
 また文字が『書かれた』。
 彼女はただ文字を書くためだけに発砲しているようだった。
 しかし奇妙なのは青空と向かい合う光たちが「文字を読める」という事実である。つまり撃った当人は上下逆になった文字を
見ている筈……となれば『書く』時も上下逆に書いている筈だ。弾痕で文字を書けるというだけでもすでに常軌を逸しているが、
それが全て上下逆ともなればもはや神業としかいいようがない。
「一体どういうつもりなんだ青空」
 父親の嗄れた声をつくづくやかましい──これで消音されているというから驚きだ──銃声が遮った。
『ああっ! 分かって欲しいのお父様! か弱い私めが意思表示をするにはこーやってサブちゃんで書くしかないの! あ、
サブちゃんってのはこのコの名前ね。本名は『マシーン』だけど』
 芝居っ気たっぷりに胸の前で腕を組む(銃はそこと胸の間に挟まれていた)娘に父親は気色ばんだようだった。『調子に
乗り過ぎたようね』という文字が付け足された。そして何度目かの銃撃。
『……コホン。お芝居はここまでにして。だって声を出したら聞き返されちゃうでしょ? だったら書いた方が手っ取り早くて
いいじゃない? 聞き返されるコトもないし』

 今が人生最良の時。そんな笑顔で青空はまたトリガーを引いた。

『一年間ずっと考えたけど、やっぱ私、喋りたくないのよねー。だっておかしいもの。声が小さいってだけで全部否定される
のはさあ。それにー、努力しても我慢してもいいコトなんて一つもなかったもの。欲しかった手紙一つさえ手に入らなかった
し、それ失くした光ちゃんへ反射的に手を出しただけで悪者扱い。ふふ。ほんと損ばかりよね。私』
 がばっと立ち上がったのは義母である。
「待って青空ちゃん。手紙なら、あのアイドルさんの手紙なら見つけたの!」
 青空の頭頂部から伸びる特徴的な癖っ毛が「びこーん!」と屹立した。
 首を傾げる彼女だが銃撃をやめる気配はない。変化と言えば文字用キャンパスが穴だらけの畳から壁に変わったぐらいだ。
『めえ? そらまた意外な事実。ときたら私の机の上ね? ちょい待ち。こりゃあ見てくるしかないでしょ!』

 興味深そうに眼を細めた青空は自室に行った。残された者はただ茫然と座り込んだ。

『あ、いま外行かない方がいいわよー。私のお仲間さんたちがちょっとスゴいコトしてて危ないのよね』

 懐かしの自室から身を乗り出す彼女はよほどはしゃいでいるらしい。横に伸ばしきった左腕を満面の笑みでブンブン振っ
ている。頭頂部から延びる特徴的な癖っ毛もちぎれんばかりに振られている。
 と、同時に。
 一家の耳におぞましい音響が届き始めた。それは遠くから何十何百と重なってじわじわと部屋に沁みてきているようだっ
た。いつから? 青空が銃撃を始めた時にはもうすでに? 天井の上から何かが落ちる音がした。重い衝撃が木製の天井
を揺らめかした。いる。上階に、何かが。誰かが走る音。下卑た笑いに対立する咆哮。獣の呻きと女性の絶叫が響き、子供
の「やめて」という懇願が不自然な途絶え方をした頃、ようやく青空は戻ってきた。

『私めも盟主様にやめるよー進言したのデスけど、力及ばずかかる羽目になっちゃって……みんなゴメンね』

 泣き叫ぶ声を洩らす天井を一瞥した青空は、「ううむ」という感じに微笑した。「ううむ」程度の感想しか示さなかった。
 それを追求する者はいなかった。いよいよ迫りくる異変に竦み、ただガタガタと青空を見るしかないようだった。
 銃撃。彼らの体がビクリと震えた。

『で、手紙あったんだけど……どうしてあるのコレ? 飛ばされた筈よね?』
「それは──…」

 義母はつくづく申し訳なさそうにそれを見つけるまでの事情を説明し、それから青空の頬を打ったコトを細々と謝った。
 光もいかに父が心配していたかを語った。父は無事に帰ってきてくれたコトを心から喜んだ。
 それらを聞き終わった青空はにっこりと銃を構え、また壁に字を書いた。

『で? この手紙が偽物じゃないって保証は?』
 
 母がみるみると青ざめていくのを光は見た。

『あー、疑っている訳じゃないわよ。でも今までの境遇が境遇なもんだから、俄かには信じられないってヤツ? ほら、帰って
くるかこないか分からない人には手抜きとかやっちゃいそうでしょ? ああ、少しでいいから思い出して欲しいの。そこに居
たのに手抜き対応で放置され続けた可哀相な女のコの事を。っと。今のはちょっと皮肉すぎたかしらね。とにかく手紙につ
いて手抜きしてたつっても私は怒らないわよ? 魔が差したってコトで……ふふ。義理の子供でも失踪されたら色々辛いも
の。つい耐えかねて手紙を偽装しちゃましたって最初にいってくれるなら、『怒らない』わよ?』

 サブマシンガンを悪戯っぽく背後に隠しながら、てれてれと身を乗り出す青空。
 光は見た。姉の茶目っ気たっぷりの仕草と対照的な母の姿を、汗をかき青ざめていく母の顔を。
 疑念がよぎる。あの日、風にさらわれた手紙。果たしてそれが何カ月も後に見つかるものなのだろうか?
 まして見つけたのはこの家庭の中で一番青空と溝のある母。青空を見る時名状しがたい何かを孕んでいた、母。

「確かに見つけたのは私よ。でも私は偽装なんて……してない」
 事態が事態だけに粛然としているらしい。母の口調はいつもの伊予弁ではなかった。
『本当? 本当にそう答えていいの? 偽物だったら追及するわよ? 予防線張ったつもりかどーか知らないけど、コレ、も
し偽物だったら『私はしてない』程度じゃ誤魔化せない矛盾がどんどん出てきちゃうのよ? Cougar君が私に書いてくれた
手紙を、誰が、何のために偽装したのか……ってね。そしたら第一発見者が犯人ってすぐ分かっちゃって私もブチ切れ。私
ね、本当にキレたら武装錬金の特性さえ使えなくなるのよ。特性もたいがいエゲツなくてみんなも私もビビってるけど、キレ
た私はそれ以上にひどいんだからね。分かる?』

 いつの間にか義母の顎を持って果てしない笑顔を近づける青空。立ち上がるのは形容しがたい威圧感。
『お義母さんを疑う訳じゃないんだけれど、溝は深いのよね。また無下にされちゃったって気分になって関係の険悪さを増
しちゃうのはお互いにとって良くないんじゃないかしら? 魔が差したってんなら今の内に告白しちゃった方が楽よ?』

「本当よ。私はあなたに悪いって思ったから……光のお母さんだから……あちこち探し回ったの。これだけは信じて」

『ふふ。やっと心が通じた会話ができているわよね私達。よかった』

 何が会話か。筆談に対し一方的に答弁させているようなものではないか。
 傍で見ている光はいつの間にか歯の根をガチガチと打ち鳴らしている自分に気がついた。恐ろしい。もし母が嘘をついて
いればこの場の均衡を支えている何事かが決壊する。笑顔の裏に潜んでいる何かが爆発する。そんな気がした。
 
 そして手紙が開けられた。
 義母を解放した笑顔は素早く手紙を確認し、読み終わると再び義母を静かに見据えた。

 銃口から絶え間ない破裂音が響いた。
 撃たれた。身をすくめる光の横で、母の引き攣った声がした。










『ありがとう。筆跡が同じ。確かにこの手紙は本物みたいね。見つけてくれて、ありがとう』



 撃ったのはやはり、文字を書くためだったらしい。
(筆跡が……同じ?)
 光の中に疑問が湧いた。あの手紙は初めてきたものだ。しかし周知のとおり飛ばされたではないか。
 にも関わらず、青空はCougarの筆跡を知っている? ……。
(本とかに直筆文が載っていて、それを元に判断したの? お姉ちゃん?)
 そう思ったが声にはならない。仮に喋っていても次の銃撃によってかき消されたかも知れないが。

『色々迷惑かけてゴメンね。ちょっと変なコトやっちゃってこのマンションの人らもたぶん全滅しちゃったけど……もし良かったら
また一緒に暮らしてくれる?』
 張りつめた空気の中、義母の首が縦に振られた。そしてずっといいたかった言葉を、伝えた。

「もちろん。確かに声は小さいけれど、あなたはそれに負けないだけのいい部分も持っているのよ?」


























「声が、小さい?」




 しとやかでか細い吐息の入り混じった可憐な声を聞いたのは、玉城光のみであった。
 カクテルパーティ効果というものがある。騒々しい環境の中でも「注意を傾けている特定の音声」のみを聞き分けられる
現象をそういう。
 部屋の周囲からは相変わらずおぞましい哄笑と悲鳴が伝わってくる。その中にあって光が「可憐な声」を聞き分けられた
のはまぎれもないカクテルパーティ効果であった。”それ”を聞き逃さなかったのはかつて同一化のため一生懸命真似をし
たからであった。父母は一瞬、聞き逃した。もとより周囲に怨嗟の声が満ちているため、青空がようやく和解の兆しを見せ
たコトに安堵していたため、聞き逃した。

 玉城青空のようやく発した肉声を。


 彼らは聞き逃した。


 そしてそれが、何よりの返事となった。


「聞こえて、ない? 小さい……から?」








 光は見た。姉の表情が明確な変化に……”犯されるのを”。


 犯されるというほかいいようがないほどそれはおぞましい変化。



 青空の目が、開いた。
 笑みに細まっている目がゆっくりと開いた。


 そして覗く。


 黒い白目と。
 赤い瞳孔。

 おぞましい光がらんらんと輝く異形の瞳が。一家を捉えた。

 そして彼女は笑った。
 口を三日月状にどこまでも果てしなく綻ばせ、ひどく楽しそうに一家を見た。


「地雷踏んでくれたわねキレた」


 光が避難を促す悲鳴を上げたのと。
 青空が正気なきケタケタ笑いをしながら飛びかかったのは。

 同時だった。

 次の瞬間、父の頭が畳に叩きつけられた。
 よほど凄まじい勢いだったのか。焦点の合わない眼で震え笑いを漏らす青空の左手には髪がべっとり付着した頭皮が握
られていた。弾痕塗れのい草の上、頭蓋骨を露呈した父親はそれでも辛うじて首だけを動かし娘を見た。
 論理的にいえば彼の悲願は成就した。最期まで彼は娘の笑顔を見た。看取られた。質がどうあれ、網膜を焼いたのは紛れ
もない『笑顔』だった。求めていた筈のそれから彼が目をそむけたのは、買い与えた覚えのない可愛いスニーカーが後頭部に
乗ったためである。彼の顔面は畳に激しく圧着された。動くコトも、見上げるコトさえ叶わない。露出の頭蓋に血が沁みる。

 そうして5分ほど青空は笑い、息継ぎがてら足をどけた。

「正直言って遅すぎそりゃあ永遠に見れないって思ってたこの手紙見れたのは嬉しいけどさでもマイナスの中の努力なのよ
ねこういうのチクチクチクチク長年私めの心を揺さぶって好感度マイナス100ぐらいまでにして失踪させた後にさ慌てて探し
ました無くした物も頑張って見つけましたなんていわれても今一つ嬉しくないのよね」

 抑揚のない呪詛のような声に再び娘を見上げた父は、確かに見た。

「もう喋らなくていいわよ喋っていいことなんて一つもないものどうせ私探すためにいろいろやったんでしょうけどそれはお父
さんの自己満足やらかしてからやられても無意味マイナス100のコトを自分基準のマイナス50だか60だかにした程度の
コトをいわれても意味が感じられなくて困っちゃう」

 うらぶれた瞳で蔑むように見下す我が子の姿を。
 踏みつけるために振りあげられた我が子の足を。

 目を細め、団欒を構成していたとびきりの笑顔を浮かべなおす娘を。

「これが私めの伝え方。効果的でしょ?」

「じゃあね〜」

 そして彼の頭蓋骨は割りばし細工の住宅のようにあっさりと潰された。血が飛び散り、笑顔を汚した。やっとこのような根っ
こを持つ歯が勢いよく何本も飛び散り、枝豆より気軽くまろび出た眼球が畳の弾痕の深淵を覗きこんだ。ネバついて糸引く
スニーカーがひょいと退いた顔面は踏み砕かれたスイカそっくりにぐしゃぐしゃとしていた。それが光と青空の父親だった。

「んふふふふ……ぬははははははは! ははは!! あーっはっはっはっは!!!!!」

 青空はとにかく笑っていた。小声の哄笑を狂ったように上げていた。
 そしてサブマシンガンのトリガーに指をかけ反動も姿勢制御も意に介さずひたすら弾痕を部屋に刻んでいた。鈍い音が
青空の右肘で響き、巨大な銃がガクリと下がった。反動による脱臼。しかし彼女はまったく意に介さず撃ち続けた。結合
を解かれた腕が反動に踊り狂った。捩れ、跳ね、回り、麻薬中毒者のような『ぬるぬるとした』異様な動きをする姉の腕を
光はただただ震えながら見ていた。 脱臼してなおイングラムを撃ち尽くす姉は憧れのお姫様とは真逆の恐ろしい怪物だった。
それでも腕の痛みを想像すると悲しくて仕方がなかった。
 そうして判別不可能なゴミのような文字を文庫本1冊ほど量産した頃、反動が偶然脱臼を癒した。

 文字は若干だが体裁を整えた。

『いいのよいいの!! もう過ぎたコトだもの!! んふっ、もう私達が和解する必要なんてないでしょお? いいの! 気に
しないで! やっぱ人間、過ぎたコトをいつまでも悔やむより、未来だけ考えて前向きに生きるべきなの! だから捨てるの!
切り捨てるの!! 暗い青春時代の分まで幸せになるの!! なりたいの!!』
 獣が描いたような文字だった。不揃いで歪で乱雑を極める文字が部屋の中でどんどん増殖していく。
 トレードマークの笑顔からは到底伺い知れぬ感情起伏の激しさに光はただ茫然とした。

 青空は喋り続ける。か細い吐息の混じった可憐でひたすら抑揚のない声を。絶え間なく。
 そして手紙に手をかけると……真っ二つに千切った。

「手紙なんてもういらないだって新しいのをCougar君から貰ってるもの一言一句同じだもの新しいのきたら古いの捨てるの
お父さんの流儀でしょだからこうするのさっさと始末するの」

 苦労して見つけた手紙の破片が舞う中、義母は声にならない声を漏らして後ずさった。逃げたい。逃げたい逃げたい逃げたい。
 彼女は心からそう願っていた。
 にも関わらず逃走を志半ばでやめたのは、首に異様な圧力がかかったからである。

 手が伸び、首を絞めている。

「ひとつ教えてあげる私めが喋るのはよっぽどキレてる時だけよサブちゃんぶっ放したり特性使ってる時の方がまだ安全って
知っておいた方が身のためねさあ今度は発声のお勉強懐かしいでしょ嬉しいでしょ」
 青空はいつの間にか距離を詰めている。そして満面の笑み──口が裂け真赤な瞳孔が悪夢のように輝く笑み──がマシ
ンガンのように囁いた。
「声が大きいだけで何も考えられない気が強いから考えられない活発すぎるから被害者の私を平気で殴れたくふふふあははは
あの時の一発は本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に痛かったわよ私は自殺さえ考えたのよ
きっと言葉用意してたんでしょうけどさんざやらかされて傷ついた心は言葉一つじゃとても癒されないのよとてもとてもとてもとても
ところでこれで私と同じ状態よね声出る声出る出ないでしょさあ自分の考えたやり方で喋ってみてよ頑張って」
 薄暗い声を吐き切った青空は、白目を剥き口からあぶくを吹く義母に心から微笑した。家事を手伝い妹の面倒を見ていた頃の
穏やかな少女の顔で微笑した。

「……んじゃま、発声練習の締め、やってみましょか」

だからその性格直したらどう?

ファイト!

「ぐべっ」
 首が小気味よく破裂し、涎塗れの生首が畳に転がり落ちた。









「ちょっとスッキリ! くはは! あはははははは!! あーはっはっはっはっはっは!!!」

『ごめんね光ちゃん! ごめんね! これからもっと危なくするから部屋の隅にでも逃げててね! でもココ出たら駄目よ怖
い人たちに食べられるから!! 特にエログロ女医にはご注意よ!』
「あ……あああ…………」
 真新しい弾痕の前で光はただ頭を抱え涙するしかなかった。激しい悪寒が全身をゆすぶる。動けない。胸が詰まる。涎と
鼻水でグシャグシャの顔がヒクリヒクリと痙攣する。注意書きを読む余裕など、とてもなかった。

 一昨年の夏だった。頭と胴体の境目を自転車に轢かれ死にかけているカブトムシを見つけたのは。歩道に転がっている
様子が不憫だったから家に連れて帰って青空に聞いた。助けられないか、と。彼女は首を横に振った。その時、光は昆虫
の命の儚さを知った。
 昆虫は人間と違ってお医者さんが居ないから、ケガをさせたらダメよ。青空はそういった。光は、納得した。

「でも、人間だってケガさせちゃダメだからね? 治らないケガだってあるから」

 なぜか首に手を当てながら説明する青空を不思議に思いながらも光はうんうんと頷いた。

「私逃げろっていったわよねそれとも声が小さいから聴き取れなかったっていうのかしらそれじゃあ分かるまで分からせてあ
げる分かるまで分からせてあげるあはははははははははははははははははははは!!」

 光のみぞおちに重い球体が投げつけられた。呼吸困難の中、長い三つ編みを強引に引きずられながら球体の正体を見
た。生気を失くした母が胸の中にいた。歩道に転がっていたカブトムシのようにもうどうにもできない母がそこにいた。その
口に溜まった唾液を何度も何度も拭いながら、光は低い泣き声を漏らした。

 そして青空は。

「あ〜。スっとしてきた。やっぱ本音を語るというのは気持ちいいわよね」

 満面の笑みで額の汗を一拭いした。つむじから延びる癖っ毛が子犬のようにぴょこぴょこ揺れた。


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