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過去編第004話 「探した答えは変わり続けていく」



「さてあれから20kmは駆けた不肖たち一行であります! 鐶どのの背中に乗りますればあっと言う間に移動は可能! さ
れど副リーダー就任直後の任務がそれではしまりませぬ! よって不肖たちは走ってあの場を移動したのであります!」

 ロッド代わりのマシンガンシャッフルを片手に小札は景気よく吠えていた。

「そもどうして移動をしたかといいますれば、先ほど鐶どののポシェットに潜んでいた愛らしき自動人形のせいであります! 
自動人形は創造主と感覚を共有致しまするゆえ、不肖たちの所在は少なくても鐶どののお姉さんには筒抜けなのです! 
もしそれがあの方属する『組織』へ流されますれば大ピンチ! 9年前より不肖たちは追われる立場! 栴檀どのお2人の
ように幹部級より逆恨みを買う片とているのですっ! よって大兵力を差し向けられる恐れアリ!」

 ゆえに退避しました。などと捲し立てるお下げ髪の少女を鐶などは「誰に……喋っている……のですか?」と怪訝に見て
いるが、他のメンツは慣れた物で思い思いの歓談に興じている。

「大兵力以外でも詰みまする! 幹部級、マレフィックの方々! 凶星を意味しまする単語に火星水星木星などなど惑星の
名をひっつけた幹部級の方々が3人同時に来たりしたらまったくどうにもなりませぬ!」
「そう……なんですか……? 総角さんたちは……みんな……あんなに……強いのに……」
 不思議そうに細まる虚ろな瞳をごうと振り仰ぎ、小札は叫んだ。声音はひどく朗々としており活弁士でも食べていけそうだ
と鐶は思った。
「いえいえ! 例え万全の状態で全員揃っていたとしても幹部級3人は無理なのです! それほどの実力差! 2人相手
でさえ片方にもりもりさんを当て、もう片方に残る不肖たち全員を投入したとしても……犠牲は免れませぬ!」
 鐶の背筋に冷たい物が走った。その感想を述べたくなくなったがうまい表現の仕方が分からない。しばらく目を泳がせた後、
ようやく。ようやく適切で分かりやすい言葉が出てきた。

「つまり……私が…………たくさんいるようなもの……ですか?」

 無銘の目つきが険しくなった。つまり自分がそれだけ強いといいたいのか。目は如実にそう語っている。もっとも鐶にして
みれば自負や自慢のためではない。誰しも自分と同じくらいの身長の人の長さを説明するとき、「自分と同じくらいの身長」
という。鐶の感想もつまりそれであった。小札たちの話から幹部が自分と同じくらいの実力を持っている──…そう推測した
にすぎない。もっともそう述べた所で論理的すぎる断定──率直すぎるあまり何の謙遜もない──は無銘の反感を増すば
かりであっただろうが。そういう機微を察したのか、どうか。総角はくつくつと肩を揺すった。
「そうだな。『盟主』の下に幹部が9人。お前が9人いるようなものだ」
「じゃあ何とかなりそうなものじゃん。こんなボーっとした子ばっかなら何とかできるじゃん。きゅーびだってなんだかんだで
切り抜けた訳だし」

 返答は意外な場所からきた。ネコ少女の後頭部から。

『…………忘れたのか香美! 奴らはこのコと違って攻撃的だ!」

(?? 逢ったコトある……のですか?)

 そうとしか思えない口ぶりの貴信、さらに続ける。

「しかもその実力というのは!」
「武装錬金の特性込みなのであります! 単純な攻撃力自体も他のホムンクルスとは段違いでありますが、それ以上に!
武装錬金の特性の使い方が恐ろしいのであります!」
「特性自体が……じゃなく、ですか?」
『中には恐ろしい特性もある! 分解とか!! だが、奴らの真の恐ろしさは特性の使い方にある!!』
「フ。たとえば9年前に死んだ冥王星の武装錬金はレーション。特性は『思うがままの食事を作れる』だが、奴はそれをどう悪用
したと思う?」


 さあ、とだけ鐶は首を振った。

「奴は食堂を経営していたが食材を仕入れたコトは一度もない。常に発ガン性物資のみで構成された食料を生成し、客に
出していた。楽しそうに食事を喰っていた連中が半年後ガンで枯れ死ぬ様は見ていて痛快だったそうだ」
「ひどい……です」
「特性をいかに使えば他の方に悪意を振りまけるか。マレフィックは常にそう考えているのであります。その一例がいまは
亡き冥王星の方のその後でして」
「食堂を畳んだ奴は給食センターに務め始めたがどの小学校でも常に公害病が発生した。もちろん近辺にそれらしい工場
はない。総て奴の仕業だ。架空のメーカーから仕入れた食材……もちろん武装錬金で作りだした奴だ。メチル水銀に汚染
された魚介類。カドミウムを含有した米。そういった物を1日と欠かさず混ぜ続けた。「あそこに行くとガンになる」そういうウ
ワサで客足の遠のいた食堂時代を反省したのだろう。どの学校でも俄かに異変は起こらなかった。生物濃縮。ジワジワと
体を壊していった。不幸だったのは奴の着任と同時に入学した生徒たちで、彼らは卒業するやすぐ公害病に苛まれた。中
学以降の人生を真っ当に送れた者は1人もいない。もちろんすぐ給食センターに疑いの目が向いたが、奴は顔を変え別の
ところへ潜り込んだ。そういうコトをしばらく繰り返すうち、同じく学校に潜伏──喰い尽すために内偵していたイオイソゴと
出会い、幹部へと引き込まれたという。皮肉にも奴は悪の組織に居る間はまっとうな食事のみを作り続けた。人の肉で構成
された真っ当な料理を仲間に振舞い続けた。食糧補給担当だったという訳だ」

「さっき食べていたレーションは……もしかして

「そうだ。奴の武装錬金。人喰いを避けられぬ俺たちだが、人肉を模した食事さえ摂っていれば人を殺さずに済む。世の中
は広いからな。クローンの肉を喰うコトで人喰いを避けているホムンクルスも少なからずいるのさ。俺たちもその部類だ」
『だが、そういう穏便な使い方のできるレーションさえ悪用するのがマレフィックだ!』
「我の聞いた話では、奴は病をもたらす一念のみで公害史が編纂できるほどの知識を経たという」
「ややもするといま現在、新たな冥王星の方が居られるやも知れませぬが、その特性! 或いはその使い方! さぞや恐ろ
しいものでありましょう!」





「私の武装錬金の特性は無限増援! この上なく沢山の自動人形が出てくるのですっ!」
 その頃。青空の目の前には巨大な鉄塊がそびえていた。笑顔の下で溜息が洩れた。目の前にあるのは鉄塊というより装
甲の集合体というべきかも知れない。とにかく青空の手にあるサブマシンガンでは何万発ブチ込もうが破れそうにないのは
確かだった。装甲列車。オリーブドラブで彩られた長大な鉄竜の頭。それが青空の前に止まっていた。
 笑顔のまま首を上げる。さきほど青空を轢き損ねて急停車した先頭車両の上でたじろぐ気配がした。だぼだぼした黒いワ
ンピースを着たやや猫背の女性が恐怖に満ちた表情で見返してくる。ひどく野暮ったい黒ブチ眼鏡をかけた彼女の名前は
……えーと誰だっけ。青空は笑顔で誰何した。
「クライマックス=アーマードです! 青空……リバースちゃんと同じ幹部の……ほら、『黄泉路に惑う天邪鬼』ことマレフィック
プルートの!」
 必死な形相と言うのはいまの彼女から開発された言葉ではなかろうか。わーわー喚きながら自分を指差すクライマックス
に青空はそんな割とどうでもいい諧謔を思いついた。
『ああ、もと小学校の先生だったわね。好きになったモノは何でも滅んじゃって嫌いなモノは何でもうまくいっちゃう不幸体質の』
 27歳。そんな彼女の足元にある鉄塊の正体が……装甲列車だと青空は思い出した。そして後続車両から迷彩柄の自動
人形がひっきりなしに沸いて来ているのにも気付いた。
 ポンと手を打つ。頭頂部から延びる異様に長い癖っ毛もイクスクラメーションマークのように跳ね上がる。
『お。もしかしていま私めは襲われているって訳?』
「当たり前です! このまえ私の腕を折ったじゃないですかぁ〜!」
『ナルホドナルホド。その仕返しなのねー』
 腕を組んで頷く間にもとりあえず発砲。跳びかかる最中だった自動人形が何体か粉々になった。
「そうですよぉ! マンション襲撃に反対するリバースちゃんちょっと嗜めただけで私の腕はこの上なくバッキバキ!」
『まま。グレちゃんに治してもらったからいいじゃない』
「何をいってるんですかあ! 体の傷は治っても心の傷は簡単には癒えないんですよぉ!? 分かってますか! 数か月で
すよ数か月! ここしばらくリバースちゃんの顔見るたびこの上なくトラウマが……トラウマがぁー」
 と世にも情けない声を漏らしながら装甲列車の上で体を抱えるクライマックスを果てしない笑顔が捉えた。

『気持ちは分かるけどさ。アジト壊すのはあんま感心しないのよねー』

 いま2人がいるのは模擬戦用にしつらえられた広い空間である。とはいえまさかその半ばまで装甲列車が突入してくるという
事態は想定していなかったのだろう。チラと青空が目をやった車両の根元、それが顔出す壁は見事なまでに大小様々の破
片を巻き散らかしている。治す労力はいま青空に弾痕を刻まれた床の比ではない。

『盟主様とかーイオちゃんならまあ笑って許してくれるけどさー。『月』の人やマジメモードのウィル君に見つかったら大目玉よ?』

 律儀にも床に描かれた文字を逐一読んでいるらしい。視線を落とし忙しく眼球を反復横飛びさせるたびクライマックスの顔
に汗が増えていく。あ、このコ後先考えてないなーと青空は思った。

 復讐心でテンパるあまりそれが周囲にもたらす影響などまったく考えていないようだった。

 顔はよく見ると意外に整っているが、しかし垢ぬけない。そこからメガネがずり落ち、果てしのない後悔の声が漏れ始める。
「やってしまった」そんなニュアンスが多分に籠ったすすり泣きに青空は同情しやさしく微笑む。天女のような笑みだった。

『おおよしよし。泣かないの泣かないのクラちゃん。手出しやめてくれたら私も片付けるの手伝うし、一緒に謝ってあげるから。
だからもう仲間割れはやめにしない?。身内同士の争いってのは醜いものよ〜。親殺しとか本当なにも残らないし』
「う、うっさいです! もう乗りかかった船なのですっ! だいたいここで手だしやめたらこの上なく中途半端じゃないですかあ!
ある幹部の人に「やっぱアイツはダメだなwwwwwww」みたいに笑われちゃうのですっ! これでもむかしはトップクラスの声
優で、いやいや勉強しながらでも教員免許取れるぐらいは頭いい私なのにっ! どうしてみんな馬鹿にするんですよ〜〜〜〜! 
私はこれでもこの上なく一生懸命生きているんです!」
 真赤な顔の上で拳を振り上げている様はとても3年後三十路になろうという女性の姿態ではない。だから馬鹿にされるん
じゃない? 先ほどからトリガーに指をかけっ放しの青空、まったく引き攣り笑いを禁じ得ぬ。
『はいはい。私もそれなりにこの上なく不幸な人生送ってるから気持ちは分かるわよ。だからもう退いて。ね? ただ襲うだけ
ならまだしも、地雷踏んじゃったらクラちゃんのがヒドい目に遭うんだから』

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔がぶんすかぶんすか横に振られた。

「やります! この上なくやっちゃいます! ささささささあ! 行くのですっ!」
 壁が崩れた。どうやらその向こうに埋もれている装甲列車から出て来たらしい。というより青空はもう包囲されている。
 中肉中背で迷彩柄の自動人形に取り囲まれている。無限増援という謳い文句に偽りなしで、いまや広い空間は全校集会
時の体育館よろしくなかなかの人口密度であった。

 それらを装甲列車の上から見渡す野暮ったい元声優は相当満足しているらしい。一番星を指差すようなポーズを交えた自作
の創作ダンス。それをテンポ良く踊り始めている。

「ずんちゃずんちゃずんちゃかずん☆ へい! 戦いは数デス! 憎む人ほど幸せになっちゃう私の変な体質も! 物量頼
りなら何とかなるのでデス! たくさんの自動人形を差し向けれれば1体ぐらいは嫌いな人を殺してくれる筈です! 脱・不
幸体質! そのために無限増援の特性が発現したのです!」
『あのさあクラちゃん』
「っとと命乞いなら聞きませんよ! リバースちゃんの武装錬金の弱点は分かってますから! サブマシンガンである以上、
いつかは弾切れする筈です! 対する私の武装錬金は無限に自動人形が出てきます! となれば勝負はこの上なく明白
です!」

 目を閉じてチッチッチと指振るクライマックスをむしろ青空は心配そうに眺めた。

『私の言葉読んでくれた方がいいと思うけど……』
「いっときますけど素手で対抗できるほど弱くもありません! いま出してるのはパワーフォーム! マレフィック最強のゴリ
ラの腕力を持つグレイズィングさんと互角にやりあえるぐらいの力はあります! リバースちゃんが激発したところで押し包
まれ死ぬのは明白!」

 さあやっちゃうのですー! 上機嫌に指さされた青空めがけ無数の自動人形が殺到した。そして一通り銃声と何かが砕
かれる嫌な音とが響き渡った後、広い空間は虚無にも似た冷たい静寂に包まれた。

「勝った。勝ちました」
 青空が惨死を遂げているであろう空間をバックにクライマックスは大見栄を切った。閉じた眼尻に浮かぶは歓喜の涙、
背筋をすっと伸ばし胸の前で拳を握る。背後から響く破壊音はレクイエムで……ファンファーレ。
「さらばですリバースちゃん。仲間、それも幹部級を殺せた以上、私にハクがつくのはこの上なく明白ですっ! ぬふふ。明
日からこそは私も馬鹿にされません! 馬鹿にしたら殺しますよーってすごんだらみんなヒィといって私を敬ってくれてお昼
時になったらおべんと箱で余ってるタコさんウインナーくれたりするのですよ。そしたらこう仲良くなれちゃうんですよ。人の
輪というのはそういうちっちゃなコトの積み重ねから……ええと何の話でしたでしょーか。ああそうそう。やる時はやりますよ
私は! ただ変な体質のせいで不幸まみれなだけで……!」

『お話のとこ悪いけどさー。浸るなら私の死体ぐらい確認してからのが良くない?』
 銃声がした。ぬぇ? と声を漏らしてそこを見たクライマックスは愕然唖然という態で口をあんぐり開けた。
 リバースこと青空は……無傷だった。むしろやられているのは自動人形の方で、あちこち砕けた迷彩柄が青空の周囲に
山と積まれている。そんな光景を交互に確認したクライマックスは顎に手を当てた。それは怪奇漫画調の驚愕顔で
「ほわわー!!!」
『いや、ほわわーとか叫ばれても……』
「そんな……! 私のパーぺきな計算では20体ぐらいやった後弾切れして、マガジン入れ替えてる辺りでとうとう自動人形
に襲われあれよあれよとやられちゃう筈だったのにどうしてぇー!!!」
 清楚な笑顔は申し訳なさそうに後頭部を掻いた。
『あのさ。実は私めの武装錬金、弾切れとかないのよね』
「ぬぇ!?」
『空気取り込んで銃弾にしてるの。じゃなきゃこんな何発も何発も壁とか床に文字書かないでしょ?』
「でででででででも! それでも銃一丁で無数の自動人形倒せる訳が!」
『そりゃあ全部完全破壊ってのは無理よ? でも動き封じるだけなら別』
 あ、と目を丸くしクライマックスが見た物は……そこらに転がる自動人形。
「膝だけが撃たれてます……」
『そ。膝壊せば歩けなくなるでしょ? これだと少ない手数で対抗できるって訳。伊達に弾痕で文字書いてる訳じゃなし、精
密動作には自信アリアリよ私』

「あのー。サブマシンガンで精密射撃とか意味がわからないんですがこの上なく」

 いろいろ突っ込みどころがある。ガクリと肩落とす元声優に青空はかるく眉をいからせた。笑顔のままで。

『ホムンクルスの高出力なら反動とかいろいろ抑えられるのよー!! だからやれるのですっ! シャキーン!』

 ブイサインとか床の文字とか忙しく見比べる元女教師、よほど唖然としたようだ。いよいよ精彩を欠いていく。

「だから膝だけ狙って壊すなんて朝飯前……えー。無茶くさくないですかーその理論…………」
『んふふ。こっちのリソース限られてる上に相手が無限ときたら頭使わなきゃ。這いずってるのも居たようだけど、他の自動
人形さんたちに倒れこんで貰えば問題ナシよ。重みで動けなるからね』

 クライマックスはしばらくポカンとしていたが

(何ですかァ〜この人ッ! 憤怒担当のクセになんで私より頭使ってるんですかああああ! 妬ましいです! この上なく
嫉ましいですっ! 憤怒ならもっと怒り狂っててみっともなくて、私より馬鹿にされてればいいのにぃーー!!)

 ギリギリと歯ぎしりし始めた。すると騒がしい視界の中、はるか遠い青空の腕がゆっくり上がるのが見えたので息を呑む。
歯ぎしりをやめたのは、尾てい骨の辺りから絶対零度の竜巻が脳髄めがけ舞いあがってくるような気がしたからだ。

 恐怖。青空ことリバース=イングラムのサブマシンガンの銃口は、確かに自分を捉えている!
 
(は! しまった! 武装錬金こそ装甲列車ですが実質的には私、自動人形の使い手です! そして強い自動人形と戦う
場合、その使い手を斃すのが一番手っ取り早い……)
 笑顔の青空が開いた左手で下を指差した。予め書いていたのだろう。自動人形の背後には『続けるっていうならクラちゃん
撃つわよ。仲間割れはサクっと終わらせなきゃね』とある。
 クライマックスはかっくりと首を垂らした。
「降服です。この上なく降服です。リバースちゃんには勝ち目ありません」
『分かってくれればいいのよ』
「なーんていうのはウッソですー!」
 足元に正方形の光線が走った瞬間、没するクライマックス。向かうは装甲列車……内部。
 その最中、両耳に手を当てありったけ愚かな表情──両目を回転させ舌を上下動させる、初歩的な──を青空に叩きつ
けるのも忘れない。
「ぬぇっぬぇっぬぇーっ!(←笑い声) 要するに装甲列車の中にさえ入れば私は無事です! この上なく無事なのですっ!」
『いまクラちゃん、私をすっごい馬鹿にしたわね?』
 青空は相変わらずの笑顔だが、まなじりと口角は目に見えて引き攣り、戯画的な怒りマークさえ随所に散りばめられている。
 そんな顔をモニター越しに見ながらクライマックスは腰に手を当て「わっはっはー!」と大爆笑した。
「にょろにょろぱっぱー!(この上なくヒットした声優デビュー作の主人公の口癖)、ハローおいでませマイクちゃんっ!」
 指パッチンとともにどこからかマイクが降りてきた。プロのミュージシャンが見たらありがた〜く使いそうな超高級なマイク
である。クライマックスはそれに向かってやけに透明感のある綺麗な罵声を吹き込み始めた。
「いくら弾丸数が無限といえど、たかが空気の炸裂ではこの上なくブ厚い装甲は破れません! あとは自動人形出しまくっ
て出入口完全ガードしていればこのこの上なく私の勝ちですっ! ここに入ればこの上なく安全ですから悪口も言いたい放
題! ばーかばーか! 狂暴なのか軽いノリのおねーさんなのか清楚な無口なのかあまりキャラ固まってないばーかばーか!!」

 悪口はご丁寧にも装甲列車各部にしつらえられたスピーカーを介し、青空の耳を徹底的に叩いた。


 羸砲ヌヌ行は語る。


「さて紹介が遅れたがクライマックス=アーマード。ノリこそこんなんだが一応腐ってもマレフィック、強さは鐶と互角だよ。
まあ、鐶と互角といってもだね……この時の相手はその……」



「玉城青空。……そうだねえ。あの鐶のトラウマだからね。あんなんにした張本人だ。妹より強いお姉ちゃんだ」




「勝てる訳がない。当然だよ」




『くぉんの27歳があああ! 腹立つのは悪口じゃないわ! 私より9つ上なのに光ちゃんより程度が低いところよ!』
 襲い来る自動人形どもを遮二無二に迎撃しつつ彼らの胸に文字さえ刻む(一体一文字で通し番号がついていた。番号順
に読むと上記の文章になる)青空にクライマックスはちょっと戦慄したが、冷汗混じりでなお悪口をいう。
「ふ、ふふ。無駄です。この上なく無駄です。重ねて言いますけどねえ! リバースちゃんの武器じゃこの列車の装甲はこの
上なく貫けません! 出入口から殴り込もうにもそこには屈強な自動人形を集中させているから絶対に突破できません!
自動人形を斃し続けたって無駄ですよぉ! 無限ですから! 無限に出て……ヒッ!」

 クライマックスは思わず両耳に手を当て身を屈めた。

 何故か? 青空を映していたモニター。それに拳が直撃したためである。もちろん割られたのはカメラでモニターは砂嵐
を移すだけだったが、そうなる直前見た映像はつくづく恐ろしかった。

 青空は、笑っていた。

 例の目で。

 鋭い端を地上に向けた黒い三日月の中で紅眼を輝かせている例の目で。

(あああああの笑み。わ、わたしの腕を折った時の…… いえ! 落ち着くのです私! 私はいま有r…… っ!?)

 クライマックスがぎっくりと体を震わせたのはその腕に幻の痛みが蘇ったためである。叫びたくなったが辛うじて堪え、
恐る恐る、左右見渡しつつ、立ち上がる。




                                                                   ……ゴン。

                                        ゴン


              ゴン……


 どこからか鈍い音がした。
 装甲が叩かれているようだった。

 よく耳を澄ますと「よくも言ってくれたわね許さない許さない許さない」的な呪詛が流れているような気さえした。


 カリカリカリ カリカリカリ カリカリカリ カリカリカリ カリカリカリ ガリッ ガリガリ ゴリゴリ ズゾカリガリゴリカリゴギギ……

 殴る音はひっかくような音に変わってもいる。

 思わず後ずさる。するとブォンという音が鳴り。


 眼前いっぱいに青空がきた。



「ひィ!!!?」


 後ずさったとき、誤って、予備のカメラのスイッチを押してしまった。……気付いたのは後だからクライマックスは青空が
巨大化して突入してきたのだと本気で信じた。青空。相変わらずの目でケタケタ笑っている。笑いながら列車の壁に張り
付いてモゴモゴ動いているのはやはり引っ掻いているからだ。

 蟲のような動きだった。なまじ美しい少女だからこそますます地獄のようなおぞましさがある。

 予備ながら高性能のカメラは捉えた。爪の剥がれた指を。

 関節のシワさえない綺麗な掌はいまや血まみれだ。この辺りでやっとまだ青空が外にいるのを確認したクライマックス、つ
いつい余計な好奇心を催し

(やっぱ引っ掻いてる? 何か描いてるんでしょうか? あ! アニメのキャラとかでしょーか! 内向的な人だし!)

 カメラを切り替えそして後悔。なぜなら青空、乱れ狂った字で

「光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃ
ん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん
光ちゃん光ちゃん光ちゃん光ちゃん逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰ってきて帰って
きてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」



 と、描いていたからだ。


「駆逐ぅーーーーーーーーーーー!! この上なく全・力でええええええええええええ! 駆逐ぅーーーーーーーーーーー!! 」

 クライマックスを貫いた衝撃はとてもスゴかった。眼鏡の奥から涙を噴出し絶叫する彼女の精神のどこかで新しい扉が開
く。武装錬金が進化した。増援を繰り出す速度が3倍になりものすごい数の自動人形が青空をつつみどこかへ流れていく。


(いやあああああああああああああああああ!! 怖いいいいいイイイイイイイイイイイイイ!! こわいいいいいいいい!!)


 壁に背を預ける。うっかり寝坊した朝、慌てて2キロ先の駅まで全力疾走したような消耗がクライマックスを襲う。彼女はただ
ただゼエハアゼエハアと息をした。震えが止まらない。怖気も。狭い運転室は一段と息苦しさを増したようだった。

(ななななななにをこの上なく怯えているんですかあ私! というか怯えさせるコトこそあのコの狙い、迂闊に動く方が危な……
だってそうじゃないですかあ! 私は武装錬金の性質と特性を十分に活かしています! リバースちゃんもそれは同じ! も
う武装錬金の性質も特性も出し尽くしている以上、勝負はどう考えても私の勝ち。勝ちに……え? 勝……ち……?)

 顎に汗が溜まっている。運転室の居住性が悪いせいだろう。自分1人の体温が籠るだけで不快指数が外界とは段違いだ。
そういう愚痴にも似た。思考を渦巻かせながら顎に手をやり……そして止まる。何か、見落しているような気がした。

(い、いえ! そんな筈は──…)

 意識の明るい部分はつくづく自分の正当性を主張しているが、本当にそうだろうかという疑問が浮かぶ。

 息を吸い、大きく吐く。

濁った酸素でも横隔膜を刺激して副交感神経に働きかけるぐらいはできるらしい。思考に幾分落着きが戻ってきた。床に
腰掛け思考をなぞり直す。



 A.サブマシンガンじゃ列車の装甲破れない? 

 Q.はい。



 A.出入口突破の可能性は? 

 Q.ゼロ。



 A.自動人形を出し続けた場合、先に参るのはリバース? 

 Q.イエス。



(私は武装錬金の性質も特性も十分に活かしています。その結果、相性的には負ける筈がありません。ただ)


 女教師としての成長。声優として貯め込んだ社会的経験値。

 それらが告げている。様々な正解を紡いできた回路が、決して悪くない頭脳が……警鐘を鳴らす。


 自分は本当に理解しているのか? 

 リバース(青空)の武装錬金特性を……




 本当に本当に、理解しているのか?


 気付いた瞬間、クライマックスは「ぅあ」と立ち上がった。


──(私は武装錬金の性質と特性を十分に活かしています!

──(リバースちゃんもそれは同じ!)

──(もう武装錬金の性質も特性も出し尽くしている以上、勝負はどう考えても私の勝ち)


 息を呑む。襲いくるはおぞましい予感。


(私はこの上なく思い込んでいました!!)


(あの武装錬金の特性が「空気を使った無限弾丸」と!!


(でも、本当は……本当はこの上なく違うんじゃあ!?)





 クライマックスがひとり立ち尽くしているそのとき青空は、


『先に教えてあげる。あなたの敗因……それは』

 何百体めかの自動人形を撃墜し、そして唇を尖らせた。

『……スピーカー越しにベラベラベラベラ悪口いいまくったコトよ』


 いよいよベールを脱ぐサブマシンガンの武装錬金『マシーン』。その銃身はただ冷たく輝く。

 青白い煌きは静かにすすり泣くように……。

(仮にもマレフィックな以上、もっとこう強力な特性だとしても不思議じゃ──…)

 インラインスタンスに似た相手を威嚇する構えの青空。その腕に彼女そっくりの自動人形がぴょこりと乗った。

(モニター! さっき消したモニター! あれでリバースちゃんの様子見なきゃ、この上なくマズいです!)

 ダイアルやレバーやスイッチを乱雑に押しまくった甲斐あって、砂嵐まみれの画面は視界を回復した。
 その中では、ちょうど。
 青空に似た人形が銃口にブラ下がるところだった。
 どうやらその人形の頭頂部から延びる毛は、ストラップよろしく楕円の輪へ変じるらしい。
 それが、銃口に掛った。

(初めて見る形態です! まさか! まさか『特性』はあの形態から──!?」

 サブマシンガン、イングラムM11の先端にあるサプレッサーから空気の奔流が射出された。不可思議だったのはその
瞬間、人形さえもうっすらと輝いたコトである。その残影はまるで透明な弾丸に引かれているようにモニターめがけ向かって
くる。

(ま! まさかこのパターン! 弾丸がモニターを突き破ってここまで来るとかそーいうアレなのでしょーか!!)

 井戸から出てきた怨霊が徐々にテレビの画面に迫って来て遂には出てくるという、「霊じゃなく憧れのアニメキャラならす
ごいいいのに」的なパターンを想定して身構えるクライマックスだったが、はてな。弾丸はモニターのやや上に直撃したきり
いっこう迫ってくる気配がない。

 クライマックスは顎の汗を拭ったきりしばらく震えていたが、何事も起こらないのを認めると背筋をビンとし笑いたくる。

「ふ……ふはは! んな馬鹿なコトはありませんよね! だいたい予備モニターとぉ? 私の位置関係は一直線じゃないで
すもん。まさかモニターに入った弾丸がですよ、配線にきっちり沿ってビヤーとやって来て私をこの上なく正確に狙うなんてコト
あったーっ!!」
 弾丸は意外なところから飛び出て来た。マイク。さきほど罵詈讒謗の限りを吹きこんだそこから透明な空気の奔流が飛び
出している。透明なのになぜ分かったかと言うと、うっすら輝き半透明にもくゆる青空人形の残滓がひっついているからだ。

(は! まさか狙ったのはモニターじゃなくて……スピーカー!? でもどうして銃弾なのに音系統を狙……あ、いや! そ
んなコトより!)

 疑問に固まる体を無理やり動かす。間に合った。銃弾はギリギリ横を通りすぎていった。そのまま千鳥足で両手を前へ前
へと回しながらマイクへとたどり着く。弾丸はスピーカーからマイクを介し出てきた。故に壊す。第2第3の銃撃を防ぐべく……
そう思ったクライマックスの背後で空気の奔流がねじ曲がる嫌な音がした。顔の左、3分の1ほどを覆う野暮ったい長髪が
舞い上がる。嫌な予感。半ば涙目で振り返る彼女は……。目撃。

 人形の残影を引く弾丸が、こっちを見ている。

(待って下さい! 避けたのにどうして!?)

 轟然と放たれた弾丸を避けるべくしゃがみ込む。それでは足らない、レッドアラートを付ける本能に従い右に側転。それは
申し分のない正解だった。なぜなら半透明の弾丸は、つい先ほど彼女のいた場所にめり込んでいる。だが勢いは死んでいな
い。着弾したそれが奇妙なうねりを上げている。傍の人形も笑みを消さぬ……。
 いまにも来る。予感。狭い指令室の中をめいっぱい飛びのく。負けじと元気いっぱいの跳弾が向かってくる。
 わずかだが、距離は取れた。およそ3メートル。ただし背中はいよいよ部屋の端、行き止まりに近づいている。
(落ち付くのですっ! ただの自動追尾なら対処できます! 慌ててはなりません!))
 目を細め、腕を上げる。アラサーと跳弾の間に光が瞬いた。そこに5〜6体の自動人形があるのを認めたクライマックスの
表情がやにわに明るくなった。一同に会している人形どもは、奇妙なコトにすべて、クライマックスと同じ姿、同じ衣装であった。
「どどどどーいう原理か知りませんけど、自動追尾ならそれなりの原理がある筈ですっ! いま出した自動人形はダミーフォー
ム! 体温動き脈拍身長指紋虹彩体重ぜーんぶ私と同じものですっ! 私を標的にした以上、狙うのはこの上なく前の方
にいる自動人形たちで……ゆええええ!?」
 弾丸は一度空中へ跳ね上がり、迷うことなくクライマックスへと降り注いだ。自動人形など一切無視だ。
「いやああああああ! 許して! 許して下さい! 今までの悪口ぜんぶウソですからあ!!」
 手を組み、ちょちょぎれんばかりの涙を流して歎願するが銃弾は止まる気配はない。むしろ後ろに張り付く人形は、残影は、
持ち主同様狂い笑う。
 絶対に着弾してやる。逃げたきゃ逃げな無駄だけど。

 そんな笑みから逃げようにも狭い運転室、後ろへ行けば壁がある。前にはわだかまる自動人形、互いの動きを牽制し合っ
ている。そうと気づかず突っ込んでしまったクライマックス、不覚にも転び足を取られる。ダミーフォーム。創造主をトレースする
という自動人形たち……踊り始める。主の無様を完璧に真似……。
(にゃああああああ! どうせ真似するなら前へ駆けてく私のマネも正確にして下さいよー! 変な場所でわだかまってるか
らもつれ合ってぐちゃぐちゃになって、んで、ぶつかっちゃうんですぅ! 広々とした場所なら一定間隔が置けたのに……置
けたのにぃ)
 結果もんどりうつ彼女は自分の武装錬金の下敷きになり──…
「だああ有り得ません。この上なく有り得……あう」
 迫りくる弾丸を額に浴びた。




『いっとくけど本当の地獄はここからよ』

 ふっとサプレッサーを一吹き。装甲列車ににっこりと微笑む青空。

『喋っていいことなんて一つもないもの。特に私めを相手にした場合は、ね』



「幹部の強さは……分かりました。でも……お姉ちゃんも……それだけ…………強いんですか?」
『幹部というなら間違いなく、だ!』
「はい……お姉ちゃんは……海王星だ……そうです。武装錬金の特性を使えば……リーダーさえ勝てないと……」
 ほう、と目を丸くした総角はすぐさま好奇心たっぷりの笑みを浮かべた。侮辱されという怒りなどまるでない、子供じみた好
奇心丸出しの笑みだ。それは多くの武装錬金を使えるがゆえの探究心。「自分を倒せる」という青空の武装錬金に興味が
あって仕方ないという様子である。
「ちなみにどんな特性か分かるか?」
 赤い三つ編みが左右に振れた。
「お姉ちゃんは……私を撃つとき……特性を使いません……でした。ただ」
「ただ?」
「お姉ちゃん自身……だいぶ怖がっているようでした。……『たいがいエゲツなくてみんなも私もビビってる』……そうです」







『おとうさんがうたれた』





 少年の訴えを聞くものはいなかった。
 何故ならば「うたれた」場所は週末の遊園地で、「おとうさん」もピンピンしていたからだ。
 銃声だって現になかった。大きな音といえば離れた孫娘を呼ぶどこかのお爺さんの声ぐらい……。
 だが少年は確かに見た。人混みの隙間からピストル──銃口だった。テレビドラマやアニメで見るより重々しく光り、しか
も不気味に長い銀色──が「喋ってるおとうさん」を狙い、何かを噴くのを。

 その瞬間、走ってきたおじいさんが銃身とおとうさんの間に割り込んできた。

 ”何か”は彼に当たったようだが……。

『おとうさんがうたれた』

 銃撃より早くそう思った少年は、ただその衝撃だけを伝えた。前後の詳しい状況は抜きにして。


 どうせ売店で売っているおもちゃか何かを誰かがふざけて向けたのだろう。

 報告を聞いた「おとうさん」は笑った。そしてこうも続けた。
 そんな事より一家団欒を楽しもう。
 いつものように透通った、家族みんなを安心させてくれる笑顔を浮かべた「おとうさん」は「おかあさん」と「少年」と「いもう
と」にいった。

 そのとき、後ろで見知らぬお爺さんが再び声を張り上げた。

 声に籠る恐ろしい気迫、少年が悪事を働いた時におかあさんが降らせる怒鳴り声から、理性を全て抜いて代わりに憎しみ
と恐怖の綿をたんまり入れたようなおぞましさに思わず少年が振り返った時、お爺さんの足もとには鼻血を吹いて仰向けに
転がる女の子(幼稚園ぐらい)がいた。
 恐らく蹴られたのだろう。ピクリともせず瞬きもせず、ただ黒々とした大きな瞳を空に向けていた。頭の大事な部分を打っ
てしまったのかも知れない。同じくらいの年齢の”いもうと”は直観的恐怖に泣きだした。
 お爺さんが係員に押さえつけられたのに少し遅れて、おかあさんが少年といもうとの前に立ちはだかった。
 後はただ聞くに堪えないお爺さんの喚き声だけが響いた。人混みは俄かに凍り付き、ひそひそとした野暮ったいやりとり
ばかりが残された。
「はぐれたからって何も蹴らなくても……」、おかあさんは眉を顰め、おとうさんも同意を示した。
 しかし少年だけは別の感想を抱いた。何故なら彼は振りかえった瞬間、お爺さんの目を見てしまった。
 まったく焦点の合わない、この世の物とはまったく別の物を見ているような目。
 係員に押さえつけられても視線はあらぬ方ばかり見つめていた。というより自分が押さえつけられているという自覚さえ
持てていないようだった。まるで少年達には見えない『何か』とだけ闘っているような……そんな眼差し。
 
 しかしそれをおとうさんに教えても、「またおかしな事をいう」と笑われそうだった。笑われるだけならいいが、せっかく遊園
地に連れて来てくれたお父さんに何度もおかしな事をいい機嫌を損ねるのは申し訳なかったので──…
 来年中学生になる少年は黙った。

 そしてこれが最後の一家団欒になった。




 ほの暗い場所に細長い影が突っ伏していた。人の、影だった。もっと正確にいえば黒いワンピースの上で長い黒髪をざっ
くりバラ撒ける女性の細い体がうつ伏せに倒れていた。着衣はお世辞にもお洒落とはいいがたい。量販店の特価品を適当
に洗って使い回しているのだろう。白いダマのついたあちこちの繊維はそれ自体もザラザラと荒れ、長い袖口はほつれ糸を
垂らしている。このまま恋も目標もないだらしない生活サイクルの中で漫然と使い続ければ数年後間違いなく破綻する──
それは服だけでなく、艶のない、パサついた髪にもいえたが──ワンピースが軽く打ち震えた。同時にあくびを思わせる呻
き声が漏れた。影の首だけが動き、それは依然突っ伏したままの全身の中で唯一前だけを見た。直立状態であれば「上を
見た」という方が正しい位置に移動し、取りとめのない声を漏らした。

「あれ? なんともない?」

 額に不可解な弾丸──半透明の人形がおまけのように尾を引く──を浴びたクライマックスは不思議そうに呟いた。撃
たれた箇所をさすってみる。異変はない。もうすぐ三十路になる女性としては破格的に滑らかな肌は無傷である。腫れても
いない。そーいや指が触れても痛くなかったと気付いたのは地面にわだかまる黒髪をやっとの思いで引き上げ立ち上がっ
た瞬間である。だが新たな疑問も浮かんだ。
(なんで立てたのデスか私?)
 首を捻る。先ほど自分の背中に山と積まれていた自動人形たちはどこへ消えたのだろう。アレが夢でないコトは背中一面
に走る鈍痛が嫌というほど証明している。やるせない。そんな気持ちでメガネをくいと掛け直す。
(高出力のホムンクルスだから起きる時に跳ね除けちゃいましたか? それともこの上なく無意識の解除……?)
 ぐづぐづ鼻をすすりながら辺りを見回す。自動人形はない。仮説は後者のが正しいのか? そこまで思いを巡らしたとき、
クライマックスは眼前の光景に息を呑んだ。
「どこ? ココ? この上なくドコですか?」
 景色は一変していた。先ほどまでいた装甲列車の狭苦しい運転席が消滅し、代わりに真っ暗な空間がどこまでも広がっ
ていた。一瞬、あの弾丸の特性が視力奪取で自分はいま盲目なのではないかと疑いもしたが、試しに目の前で振った右手
はまったく鮮明なまでに見えた。つまり盲目ではない。ただ真暗な空間にいる。光なき、静かな世界に。
「…………る」
 そこに、音が響いた。声のようだった。
「………けるける」
 耳を澄まさねば聞き逃しそうな小さな声。不意に響いたそれに背筋を粟立てながらなおクライマックスが発信元を求めた
のは単純にいえば好奇心である。

青空の武装錬金特性を乗せた弾丸、それは確かに直撃した。

 だがその効能はいまだ分からない。痛みは特にない。体調不良も。自分の武装錬金が自動人形込みで消滅しているの
は不可解といえば不可解だが、辺りに広がっているのは暗いだけの空間で、まあ安全じゃないかとクライマックスは思う
のだ。

(だいたいですね! 武装錬金の特性っていうのはこの上なく単純なのですっ! たぶんアレですよ。リバースちゃんの武
装錬金の特性は弾丸操作あたり……。ほら、精密射撃が得意だ得意だっていってたし、それでスピーカーに弾丸潜り込
ませて私を狙ったはずなのです! 私と指紋虹彩その他いろいろまったく同じだったダミー人形無視したのも多分そのせい!
特性は自動追尾じゃない筈だし、辺りが暗いのは私が武装錬金の制御を欠いたせいです! うむうむうむ! きっとそう
ですこの上なくっ!)

 頷きながら気楽な調子で声の出所を追う。きっとリバースこと青空が居て「分かるでしょもうケンカやめましょう」とでも喋っ
ているに違いない。だから停戦協定には応じよう。どう見ても完敗だが「これ以上続けるのは大人げない(まあ続けても勝
てますけどねリバースちゃんの顔を立ててすっこみます」なる勿体ぶった態度を取れば引き分けぐらいには持ち込める。
名誉を保ったまま引き下がれる。などとい汚い笑みを浮かべるクライマックスは……いつしか自らの視界がある一点に留っ
てまっているのに気づいた。
 釘付け、といっていい。
 なぜなら20メートル先のその地点には。
 声の出所には。
 
 妙な物がいた。

「けるけるける」

『それ』はクライマックスに背を向けて、座りこんでいた。笑っているのか泣いているのか名状しがたい声を上げながら、ひっ
きりなしに肩を震わせているのが遠目からでも見えた。いや、遠目から見えるほど、肩に力を込めているらしかった。
 姿は怪物……ではない。
 人間のようだった。
 女性のようだった。
 主婦の、ようだった。
 洒落っ気のない生活臭にあふれたTシャツの上で美容を忘れて久しいパサパサ髪を声とともに震わせながら、『それ』は
何らかの作業に没頭しているようだった。

「けるけるけるけるけるける」

「けるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるける」

「けるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるける」

 時折大きく息を吐くたびその声は途切れ、一瞬の中断の後にますます力を込めていく。
 クライマックスの小さな喉首の中で落ちゆく唾液が空虚な引き攣りを起こした。
(……誰? というか……何なの?)
 気配を感じたのか、笑いが止まった。そして『それ』は首を捻じ曲げ、顔の右半分だけをクライマックスに見せた。
 安堵が起こる。その横顔は普通の女性の物だった。美人、といっていいだろう。だらしなく笑う唇から幾筋もの涎が垂れ
ているところは流石に正気と言い難いが、クライマックスが常日頃見てやまぬ異形のホムンクルスどもに比べればまだま
だ、笑う青空のがはるかに怖い。
(ところで誰かに似ているような気もするのですが……。この上なくどこかで見たことある顔立ちです)
 よく分からないが、人間ならどうとでもできる。人型ホムンクルスかも知れないが、「私は一応幹部です。しかも調整体。
ただの人型には負けませんよ!」的な自信がクライマックスをドンと後押しした。
「あのー。何してたんですかこの上なく? というかココ……どこなんでしょーか」
 柔らかい言葉に呼応したのか。その女性は「ける」と一鳴きするとゆっくり振り向く。体ごと、ゆっくりと。










「いっぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」






 喉がそのまま爆裂しそうな叫び声をあげるやいなやクライマックスは反転。迷うコトなく後方めがけ駆けていた。


「けるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるけるける」

 何がおかしいのか。女性は左こめかみのあたりからけたたましい声を漏らしている。眼窩があるべき場所に目玉はなかっ
た。そこからこめかみまで巨大な楕円に侵食され、穴の周りには桃色の粘膜が隆々とまとわりついている。唇に似た粘膜が
中央に向かってすぼむたび愉悦とも嗚咽ともつかぬ”けるける”が薄暗い空間に響いていく。そのド真ん中の暗い穴の中に
白い歯が無軌道に生えているのを見た瞬間、クライマックスは走っていた。踵を返し、滝の涙を屈折させ。
(なんですかアレなんですかアレなんですかアレなんですかアレええええええええええ!!!)
 顔の右半分は普通の女性だった。だが左は違う。『口』のすぐ横、鼻梁のすぐ左側に単眼畸形のような巨大な瞳が縦につ
いていた。死人のように白い右とは対照的に、左の肌はサーモンピンクに染まり青色の静脈を随所にぴくぴくと波打たせて
いるのはまったく以て正視に堪えぬ、馬鹿げた有様だった。
 だが走り出したその先にも『それ』はいる。唖然としつつ振り返る。やはり居る。良く見ると女性の向こう側には冴えない
後姿で立ちすくむアラサー、つまりクライマックスもいる。
 その向こうには『それ』、アラサー、『それ』……。合わせ鏡の連続だった。
「けるけるけるける」
『それ』が視線を落とした。クライマックスなどどうでもいいのだろう。声がかかったのでちょっと反応した……という位ですぐに
興味を無くしたのだろう。
 女性は座ったままの体をちょっとばかし前傾させ──…
 それまでの作業を、再開した。
(ひっ)
 息を呑むクライマックスのはるか先にいる『それ』の前には……
 赤ちゃんがいた。
 普通の顔つき。愛らしいといっていって過言ではない。クライマックスでさえ母性を刺激され抱っこしたくなるほど──だが
そうした場合、たいてい無残な死を遂げる。『好きな物ほど惨死する』。それがクライマックスの不幸体質──だった。

 とにかく赤ん坊の首を『それ』が絞めていた。

 ひょっとしたら振り返る時さえ手を離していなかったのか。
 けるける。けるけるけるける。まるで赤ん坊をあやしているような他愛もない、どこか舌を巻いているような声を漏らしながら
もありったけの力を込めて絞めていた。
(やめて……)
 ホムンクルスよりもおぞましい怪物が赤ん坊を絞め殺す光景。本能的な耐えがたさがあった。

 ほやほやとした白い肌。
 柔らかな産毛がうっすら生える頭。
 穢れを知らない大きな瞳。

 抱っこすればきっと屈託のない笑みを浮かべるだろう赤ちゃんは、クライマックスにとって、理想の終着だった。

 . 彼女が人を殺したいと欲するのは不幸体質を治したいがためだ。誰でもいいからとっと殺(や)ってババを押し付け、恋を
して結婚をしたい。人類史上あまたの女性がくぐり抜けてきた激痛と莫大な消耗を経た後、産婦人科のベッドの上で布にく
るまれた赤ちゃんを抱っこして、産湯の匂いを吸いこんで……「ありがとう」。涙とともに限りない愛情を伝えたい。未来の旦
那様が頑張ったなと泣いてくれたら最上級の幸せだ。

 だからだろうか。クライマックスは引き攣った制止の声を上げていた。

「やめ──…」
 悲鳴のような声を上げかけた瞬間、事態はますます奇妙な方向へ傾いた。
 赤ん坊の首を絞めていた『それ』の腕が血を吹き、ばらばらと崩れ始めた。腕だけではない。異様な顔つきも胸も腹も足
も、空中で瓦解する。破片を黄色い汚穢(おわい)と化しながら消えていく。チアノーゼをきたしていた赤ん坊の顔が今度は
黄色く染まる。距離を置いているクライマックスでさえ”えづく”ほどの強烈な酸味。次いで化膿した傷口特有の腐敗臭。嗅
覚が全力で嘔吐感を盾にしたがる──まっとうに嗅ぐぐらいなら胃酸でぐっさぐっさに溶けた吐瀉物の生臭さを選ぶぜ、そ
れが全嗅覚受容体の総意らしかった──痛烈な臭いが辺りに立ち込めた。
 何が何だか分からない。しばし呆然と立ちすくんだクライマックスは慌てて首を振った。
 赤ちゃん。首を絞められていた赤ちゃん。放置していいものではない。母性のもたらす一抹の正義感の及ぶまま、クライマッ
クスはどたどたと駆け寄った。近づくたび濃くなる悪臭などとっくに意識の外だった。
「おぎゃああああああ」
 泣き声。良かった生きている……感涙さえ流していた筈のクライマックスが──…
 息を呑み、後ずさったのは。
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 頬の中が見えた。色素がまるで沈着していないおろしたての粘膜がぬらぬらと波を打っていた。口はまったく閉じられる気
配がない。なぜなら下顎から下がぐっさりと潰れていたからだ。正確にいえば全開状態の顎が「もっと開けよ」とばかり下に
やられそれが喉ごと潰されているようだった。余程強い衝撃でなめされたらしい。愛らしい下唇はその裏側も露に胸までビィー
んと伸ばされており──クライマックスはそれに見覚えがあった。ネコ。出勤途中に威嚇ばかりしてきたネコ。大嫌いなそれ
が実は子猫を守っていると知った日からシャーシャー吹かれながらも餌を与え続けた。そしてついに手からエサを食べて貰
った瞬間……思った。『大好き』。ダンプが突っ込んできてネコは3匹の子供ごと2m近い毛皮になめされた。肉の潰れ具合と
損壊っぷりは正にいまの赤ん坊の下唇にそっくりだった──醜く抉れた喉首と癒着をきたしてもいる。そもそも首の方向も
正常とは言い難かった。右に向かって傾いている。左側からせり出した奇怪な瘤が肉や唇を螺旋状に取り込みながら新鮮
な口腔粘膜に伸びている様はクライマックスが母性を捨てるに十分な有様で、しかも瘤は扁桃腺とひっついてるようだった。
 そして顔の中央までばっくりと開いた口の更に上で、赤ん坊は造詣の不出来をネタにする芸人よろしくつくづく醜い瞠目を
やらかしている。
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 そして笑う。壊れた人形より傾く首をぎこちなく動かして。
 糸のような目は確かに自分を捉えており、クライマックスはただ声にならない弁解とともに後ずさる。
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 赤ん坊が眼を開けた。血のように真赤な瞳だった。目を開く作業は彼(彼女?)に相当の消耗をもたらしたと見え、産湯
の匂いのする温かな肌が一瞬にして重篤な皮膚病患者よろしく赤く爛れた。
 それが。
 宙に浮かびあがった。
「ひい!!」
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 絹を裂くような悲鳴に反応したのか。赤ん坊は丸っこい手をばたばたしながら向かってくる。速度はそれほど速くない。全
力で何とかなるレベル! 最近運動してない27歳は逃れた後の呼吸困難さえ考えずただまろぶように反転し、全速力で
駆けだした。
「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 真赤な瞳の赤ん坊が、すぐ前に居た。
「ぎゃああああああああああああああああ!!」
 忘れていた! 先ほど首締めをやってた「けるける」は振り返ってなおそこにいた! 合わせ鏡のように絶え間なく空間の
向こうまでクライマックスとともにそこにいた! 後ろに走っても赤ん坊がいる……その可能性を吟じてから走るべきだった。
「いやあああああああ! 来ないでえええええっ!!!」
 後悔ともに振り払う。目的はいともたやすく達成された。手の甲を浴びた赤ん坊は即座に霧消した。砕けた、という感じで
はない。例えばプロジェクターの前で手を振ると、影の面積分映像が消える。そんな感じだった。実体のないものを追い散
らしたというべきか。とにかく赤ん坊は消えた。
「おぎゃああああおぎゃあああ」
 ほっとしたのもつかの間。声がした。顔面蒼白で周囲を見回したクライマックスだが、しかし視界の及ぶ範囲にはまったく
何者も存在していない。空耳。きっと疲れているのクライマックス。何かの海外ドラマの真似を口の中でしながら微苦笑する。
とにかく帰ろう。そう決めて、歩きだす。
「おぎゃああああおぎゃあああ」
 また声がした。全身を悪寒が貫く。空耳というにはあまりにリアルな声だった。確かに鼓膜を叩かれた覚えがある。恐る恐る
辺りを見回す。何もいない。いくら眼を凝らしても、何もいない。
(…………)
 嫌な予感。口の中をだくだくと湿らす抗菌性の液体を適当に丸めて嚥下する。声。元声優のクライマックスは商売道具でいか
に遠近感を出すか研究したコトがある。だからか。少し冷静になると「おぎゃあ」の出所がひどく正確につかめてきた。

 だがそれは、決して認めたくない事実だった。

「おぎゃああああおぎゃあああ」
 いやいやと首を振りながら、視線だけを自分の腕にやる。
 先ほど赤ん坊を振り払ったその腕へと。
「おぎゃああああおぎゃあああ」
 声は、そこからしていた。
「おぎゃああああおぎゃあああ」
「…………!!?」
 野暮ったい長袖の上からでも分かる。
 腕は波打っている。指先まで行った血液が心臓に戻るべくそうするように、肘を通り肩を目指しているようだった。

 その間にも声は近づく。もうクライマックスは言葉もない。

 歯の根を打ち鳴らす彼女は見た。見てしまった。

「でぇへでぇへでぇへでぇへでぇへ」
 真赤な目の赤ん坊が2体、冴えないアラサーの足を掴んでいるのを。


 しかも赤ん坊はクライマックスの体からボコボコと出てくる。

 手から、腹から、太ももから……。グレムリンが増えるように次から次へと──…


「体内…………近い声は…………中から…………」



 赤ん坊が一体、頬に手を伸ばし──…



 主演作第28話、圧倒的な敵の幹部相手に上げた『声優史上ベストテンに入る絶叫』。

 ブランク久しいクライマックス=アーマードはこの日それを再現した。


 遊園地に行った日からしばらく経つと、「おとうさん」はよく「おかあさんたち」を殴るようになった。
 みんなでテレビを見ている時、食事を食べている時、ペットショップで子犬を物色している時。
 突然声をあげればそれが合図だ。定まらぬ眼で虚空を見つめて暴れ出す。テレビに灰皿を投げ箸をへし折り、保健所か
ら救出された「心優しい人誰か助けて上げてください」の幼い雑種犬を地団太とともに踏み砕く。
 そして喚くのだ。来るな。やめろ。離せ。
 大きな声が轟くたび、制止に入る「おかあさん」の顔に痣が増えていく。
 だが彼は憎悪によって暴れている訳ではない。だからこそ皆不幸だった。彼含め誰もが……不幸だった。
 原因不明の幻覚症。どの病院に行っても同じ診断が下された。事実「おとうさん」が暴れる時、必ず彼は恐怖に拡充しきっ
た瞳を虚空に向けていた。「あかあさん」の鼻に包丁を刺し一生鼻水がそこから漏れ続ける穴を開けた時も、「いもうと」の
膝を蹴り抜いて杖なしの生活を奪った時も、常にどこか別の場所を見ているようだった。少年が顔面に陶器皿を浴びた時も
殴られた3本の肋骨が肺に食い込んでいる時も、「おとうさん」は虚空の『何か』に来るな来るなと悲鳴を上げ、物を投げ、
拳を出して蹴りを繰り出していた。
 そういう時は遠巻きに見ているのが一番安全だった。最初は近づいて止めようとした。助けだって近所から呼んだ。だが
決して止まらない。何を呼びかけても伝えても、彼は暴れ続けた。気立てのよかった近所のおじさん──夏はよく釣りに連
れていってくれた──が左腕を折られ疎遠になった辺りで一家は気付き始めていた。1時間。それだけ暴れると「おとうさん」
は正気に戻る。戻って、家の隅で抱き合って震えている家族を一瞥すると、止まらない鼻水でボロボロの服を汚す妻を見る
と、5本目の杖を折られ逃げようにも逃げられない娘を見ると、彼は涙ぐみながら乱痴気騒ぎの後片付けを始める。

 とにかく1時間。1時間遠ざかっていれば難は逃れられる。

 だがその1時間はいつ来るか、分からなかった。

 彼は職場では一切暴れなかったがそれがますます不幸だった。
「家庭に原因があるんじゃないの?」 近所はそういう冷ややかな目を注いでくる。事実彼は家族と居る時だけ暴れた。

 悪夢の1時間。

 てんかんのように訪れるその1時間を避けるにはどうするか?
 一緒にいなければいい。
 いつしか芽生えた暗黙の諒解は、埋めがたい溝を作り始めた。










「おーおー。非道い事をしたようじゃのう」
『あらイオちゃん』
 まんじりともせず装甲列車を眺めていた青空に変化が生じた。彼女はやおら振り返り、満面の笑みで手を振った。

 装甲列車が突入してきた辺り。壊れた壁やその瓦礫をひょいひょい飛び越えてくる影がいた。

「だんだだだだん! だだんだんだだん! だんだだだだん! だだんだん!」
 影はやがて青空目がけ走ってきた。いやに人懐っこい笑みの少女だ。見た目に限っていえば青空の妹──光──と
ほぼ同じくらいという感じで衣装は黒ブレザーだ。走るたび首に巻いた赤スカーフが元気よく風になびく。それは髪型も同じ
だった。ポニーテール──ほどよく裂いた毛先がまんべんなくカールしているタイプの──がるんらるんらと横に揺れ、彼
女の雄弁に物語っている。その根元にかんざしが刺さっているのはひどく古風だが、不思議と似合っている……そんな少
女が「だだんだん!」。地を蹴り、青空に突撃。
「じーぐぶりーかー! 死ねええええええええええ!!」
「はいはい」
 飛びこむなり腰に抱きついてきた少女を青空は慣れた手つきで撫でた。すると彼女は大きな双眸をきらきらと輝かせなが
ら「いーやーじゃ! もっと撫でるのじゃ! もっと撫でるのじゃ!」と肩揺すって懇願する。
『だめだめ。イオちゃんはお仕事で来たんでしょ? 私めとじゃれあってる時間はない筈よ』
「ちぇ。ケチじゃのう。せっかく辛味噌味の兵粮丸(ひょうろうがん)作ってきてやったのにそういう態度ならやらんぞ」
 書かれた文字──それはクライマックスの自動人形の背中に刻まれた物だが、何があったかはどうでもいいらしい──
を横目でさっと流し読んだ”イオちゃん”、渋い顔して袋ば隠す。
『だってそれ、シナモンとか朝鮮ニンジンとか氷砂糖に混じって人の脳みそ入ってるんでしょ? あまり食指が動かないって
いうか……』
 少し長い文章を書き上げた青空、頬に手を当て溜息をつく。笑顔だがどこか艶めかしい。
「いやいや。わしらホムンクルスにはそれ位がいいのじゃよ。真の意味で空腹感が紛れるからの」
『よくいうわねー。人間だった頃からずっと食べてる癖に』
「いうはほえ」
 逆(さかしま)にした麻袋から雨あられと降り注ぐあずき色の団子。それを”イオちゃん”はあんぐり開けた大口に叩きこんで
いる。
『で? どんな本題で来たのかしらイオちゃん。真面目な話ならイオイソゴさんって呼ぶべき?』
「どっちでも構わんよ。ただ──…」
『ただ?』
 イオイソゴは無言で装甲列車を指差した。その先頭車両、クライマックスがいるであろう場所。そこからスピーカー越しに
悲鳴と絶叫が絶え間なく響いてくる。実は先ほどからずっとそうだったが、両者がそれに関心を向けたのはこの時が初めて
だった。
「ホレ。そろそろ解除してやらんか。阿呆の”くらいまっくす”とてヌシの特性を浴びせっぱなしというのは良くないじゃろう」
 青空は見逃さなかった。イオイソゴの片頬に一瞬とても意地悪な笑みが浮かぶのを。
(喰えない人ねえ。知ってる癖に。クラちゃんがどんな目に遭ってるか……)
 笑いながらサプレッサーへ手を伸ばす。テルテル坊主のようにぶら下がっていた自動人形が回収され……


 そして静かになるスピーカー。されどクライマックスの受難は、まだ──…







『で、続ける?』
「お断りに決まってるじゃないですか! というか、ななななななんなんですかアレはあ! 怖かったです! この上なく怖か
ったですよおっ!」
 装甲列車を解除したクライマックスはまず、そう絶叫した。えぐえぐと泣きながら。
『何っていわれても……。アレが私めの武装錬金の特性だから仕方ないじゃない』
「じゃ、じゃあこの顔とか手は何なんですか!」
「おうおう。相変わらず第一段階からして怖いのう♪」
 楽しげに見上げ、時にはぴょこぴょこ跳ねさえするイオイソゴとは裏腹に。

 冴えなさが造詣の良さを台無しにしている27歳の顔は──…

 あちこちの皮膚が剥落していた。赤い肉を剥きだしにしている部分がほとんどだったが、右頬に至っては全ての肉さえ削
げ落ち、白い珠の羅列が露になっていた。人体標本じみた醜さだ。それを訴えたクライマックス自身、すぐに右手でそこを
覆って必死に隠している。
(痛いです。空気が当たるだけでこの上なく痛いです)
 虫歯は一本もない。だがそれに近い現象に襲われているらしかった。頬が削げた時に歯の表面も一緒に落ちたのだろう。
歯髄が剥き出しになっている歯が何本もあるようだった。
 左目もまた周囲の肉やまゆ毛やまつ毛がこそげ落ち、あたかもゾンビのようである。

『それも特性よ? でも珍しいわねー。顔がそうなるなんて。大抵は手か足よ?』
「おおかた暴れておる時に転び、赤ん坊に顔をぶつけたのじゃろうな」

 彼女らはクライマックスに何が起きたか知っているらしい。
(くぅぅぅぅ。この上なく腹立ちます! 自分たちだけ納得しても仕方ないじゃないですか! 私はカワイソーな被害者なのに
何の説明もないとか! ああああ妬ましいです! あなたたちだけ知っているのがこの上なく嫉ましいです!)

 気配を察したのか、ニンマリと笑うイオイソゴ。

「結論から言ってやるかの。りばーすの武装錬金の特性は『必中必殺』じゃ」

 黒ぶちメガネの奥で泣き腫れた目が今度は三度瞬いた。そして洩れる「漠然すぎます。分からないですよぉ」。
 やれやれ。イオイソゴ、農家のおばさんが如く大儀そうに腰を伸ばし……語り始める。
「まず必中の方じゃが、こいつは『一定範囲内にいる者のうち、発射直前に声を出した者』へ必ず着弾する」
「…………ひょっとして、装甲列車の中にいる私に当たったのって」
「そ。射程距離で喋ったせいじゃな。言っておくがこの特性の前では装甲だの壁だのは無意味。間に何があろうと、絶対に
着弾する。銃弾が音を辿り、0.0001みくろんのわずかな隙間さえくぐり抜け、声を出した者に……必ず」
 道理で、とクライマックスは納得した。先ほど出した指紋虹彩何もかも自分と同じ自動人形を弾丸が避けたのは「声を出し
ていなかった」ためであろう。
「そして、『着弾した物に幻影を見せ』、『幻影と接触した部分が剥落する』……それが必殺の要素じゃ」
「じゃ、じゃああの赤ちゃんとか変な女の人は──…」
「そう。幻影じゃ。銃弾を浴びた者にしか見えぬ幻影。……ま、厳密にいえば幻影でもないがの」
「?」
『波長が合う人にしか見えないって訳。幽霊とか波長の合う人にしか見えないっていうじゃない? それね』
 沈黙を守っていた青空(リバース)が文字を書くと、イオイソゴの頬に老獪な笑みが浮かんだ。
「必中のため弾丸が声を辿るのを見ても分かるように、りばーすの武装錬金”ましーん”の特性は相手の声を元に作られて
おる」
「もしかして、空気を取り込んで銃弾にする要領で、『声』も……?」
「そうじゃ。声を取り込み弾丸にしておる。必中するのもそのせいやも知れぬ。反響……、自らの声が跳ね返り、自らの耳に
届くように、弾丸は必ず届く。そしてじゃ」
『声って人によって違うでしょ? だから波長が合うご本人にしか見えないの』
 こんがらがってきた。分かるような分からないような理屈だ。
「そ、そもそも幻影じゃなかったらあの赤ちゃんとか女の人とかは何なんですか!」
「怨嗟の声」
「え」
 急におごそかになったイオイソゴ。たじろぐ思いのクライマックス。見れば少女のはつらつさはすっかり鳴りを潜めている。
 ひどく気難しいような、恐れているような顔つきになっている……。
「この世に谺(こだま)する怨嗟のえねるぎーというべきじゃ。それをりばーすは対象の声と混ぜ、跳ね返し、銃弾経由で
『伝える』事ができる」
『多分に私の心象風景が混じっているけどね♪』
 相変わらず笑顔の青空を見るクライマックスは寒々とした思いだ。心象風景? 女が乳児の首を絞め、歪んだ首の乳児
どもが他者に纏わりつくような光景が……心象風景?
「まだ入って間もないヌシには分からんじゃろうが、りばーすもいろいろあるのじゃよ」
「いろいろ……?」
「それはさておき特性発動前にじゃな。りばーすそっくりの自動人形がさぶましんがんに合体したじゃろ? あの自動人形
にはこの世の様々な恨み言が詰まっておる。その負の方向へのえねるぎー。「恵まれている者は絶対に許さない」「死ね」
「いつか殺してやる」……そういった怒りのえねるぎー、破壊的な力をたっぷり中にしまっておる」
「そしてそれはサブマシンガンと合体した時、銃弾に乗り、対象を壊す。……そういうコトなのでしょーか?」
 ああ。とだけイオイソゴは頷いた。
「じゃあいま私が罹っていた第一段階というのは?」
「皮膚・筋肉または骨の表層の剥落。それが第一段階じゃよ。りばーすの特性発動後約1時間はそれらがゆるゆると続く。
進行がもっとも遅いのはこの段階で、これはりばーすの警告をも若干含んでおる。特性を一通り見せつけてから解除して
も取り返しがつくようにな。で、解除してから聞くのじゃよ。『続けるか』、と。この辺りはまだ理知的じゃ』
 幼い少女の顔に影がどんどん射していくのに気づいた。怪談を語って孫娘をなるたけ怖がらせてやろう……そういう笑み
だった。27歳の女性にそうするにイオイソゴはひどく幼い姿態だが……実は555歳の老婆であるコトをクライマックスは
思い出した。
「ちなみに剥落する部位の9割は肘から先または膝から先じゃ。幻影に攻撃する部位だからなのはいうまでもない。先に
いっておくが最終段階まで行きついた連中が粉々になって現世から失せさるなどというコトはない。幻影に触れなかった
部分についてはその内部がグズグズに崩壊していようと『見た限りでは』現存する。もっとも大抵は空気のぬけたびにーる
ぷーるのように平べったくなっておるが」
「…………」
『あ、剥落していくのは声を元に相手の固有振動数を分析して、それを怨みの声に乗せてるせいなの。だからこう、ガギーっ
って相手の体が共振してタコマナローズ橋みたいに壊れちゃう訳』
 そんな震動を帯びた声が相手の体に潜り込んでいく……という説明書きもあったが、クライマックスはこの上なく読む気が
しなかった。
「第一段階がすぎれば症状は30分ごとに次の段階へと移行してゆく。第二段階は骨が徐々にだが確実に瀬戸物よろしく
割れていく。臓腑もまた蝕まれるがこの時点ではまだ吐血などの症状はない。死ぬほどの激痛こそあれ剥落しておるのは
あくまで表面のみ……体外に排出しようとも内部の管の循環には乗り様がない。緩慢な内出血または漏れ出でた体液が
腹腔に溜まっていく程度じゃ。吐血ないし下血といった症状がでるのは第三段階で、それはもはや正常な意思があろうと止
めようはない。餓鬼の如く膨れた腹へ溜まりに溜まった血液どもは孔のあいた臓腑へ喜んで潜り込み、それが消化器系で
あれば噴水のごとく体外へと流れ行く。その状態でなお暴れ狂うものもおるが、臀部から血を吹き散らかす姿はまったくこ
の世の物とは思えんよ。血と罵声と排泄物が立ち込める空間で喚き散らす姿は修羅か羅刹じゃ。骨髄やりんぱ節が完膚
無きまでに壊されるのはだいたい腹部が臓腑の欠片を出しつくした頃じゃが、大体の者は失血かしょっくで死んでおる。ま
あそれを免れても免疫低下による感染症は免れぬ。いずれにせよ脳は頭蓋ごとぐずぐず」
「で、でも、グレイズィングさんなら治せますよね? あの人の武装錬金って病気もケガも何でも治せますから」
 ははっと空笑いを打ってみるクライマックスだが……
「…………」
「…………」
 まるで姉妹のような(年功の序列は逆だが)2人は口をつぐんだきり喋る気配がない。イオイソゴなどは唸るような声を漏
らしたきり厳かに瞑目している。
「む、無理なんですか? 治療は」
「根治はの。対症療法なら可能じゃ。もっともそれを施したところで──例えば破損した内臓や骨肉を全て再生してやった
ところで──振り出しに戻るだけじゃよ」
 つまり怨嗟の声のもたらす共振現象そのものは治せない。と理解してくれたのが嬉しいのだろう。にっこりとした清廉な
微笑が地面に文字を描いていく。
『で、幻覚観ながらじっくり2時間かけてまた死ぬの。嫌でしょー? それ』
「蘇生に回数制限なきゆえ命だけは繋ぎ留めれるが……、ま、最早ぐれいずぃんぐめが好む拷問地獄と変わらんよ。死んで
もまた責苦の中……じゃからな」
「第一段階が1時間で、それ以後が30分ずつなら」
 指折るクライマックスはそこがすっかり冷え切っているのに気付いた。恐怖におののく血の気が全身から撤退しているよ
うだった。
「そう。2時間。個人差はあるが特性を浴びたまま放置しておけばおよそ2時間で死ぬ。それは人間であれ”ほむんくるす”
あれわしら”まれふぃっく”であれ免(まぬか)れえぬ運命」
 軋んだ首を青空に向ける。彼女は輝くような笑みを浮かべていた。それが却って恐怖で不気味だった。
『光ちゃんにコレ使わなかったのは、盲管銃創の方がいくらかマシだからよ。いくらブチ込んでも死なないし』
「怖すぎる特性です。無限増援とかで喜んでた私は何なんですか……」
「ひひ。怖いのは寧ろその特性の使い方じゃがなあ……」
 老婆めいた──事実そうなのだが──笑いがポニーテールの愛らしい少女に広がっていく。笑ってはいるが表情はひど
く暗く(純粋に暗いというのではなく暗さを愉しんでいるがゆえの複雑な暗さ)、無数の皺さえクライマックスは幻視した。
「ひどい使い方? 子供とかを内蔵グズグズにして空気の抜けたビニールプールにするとか?」
「いんやいんや」
 ぱたぱたと手を振りながらイオイソゴは眼を細めた。
「こやつな。せっかくの筆誅必殺をほとんど第一段階で止めよる。第三段階までやって殺した相手は数えるほどじゃ。じゃ
が……寧ろ一番軽微な損傷を以て最も悪辣な使い方をしておる所に、りばーす・いんぐらむの恐ろしさがあるのじゃよ」
 この少女然とした老人はひどく勿体つけているようだった。恐らく自分の疑問と「どうしてスパっと話してくれないんですか」
的なもどかしささえ楽しんでいるのだろう。クライマックスはそう思ったが表情を取りつくろっても釈迦の手の内、ますます楽
しませるだけな気がしたので、「どういうコトですか?」 敢えて選んだ普通の反問、返る答えは──…

「家庭を崩壊させておるよ」

「幻覚を見せて皮膚とか剥落させるだけの能力で?」
「ひひっ。頭を使うてみたらどうじゃあ〜? 怨嗟の声はやられた当人にしか見えぬ。そしてあれを浴びた奴は幻がごとき
怨嗟の声を攻撃せずにはおられん。なぜなら…ひひっ、ひひひひ。両目が真赤な奇形乳児に襲われて平気でおれる者は
おらんからの。ましてアレに触れられ、皮膚が剥落すれば抵抗せざるを得んじゃろう〜?」
 半開きにした口の右端だけ吊り上げ、イオイソゴはすすり泣くような笑みを漏らした。狡猾と老獪が入り混じった凄絶な表
情だった。
「まさか」
 殺人希求を抱き続けるクライマックスですら、辿りついた推測はつくづくエゲツなかった。
「狙った家庭にいる誰かに幻影を見せて、暴れさせるコトで……疎遠にさせて、家庭崩壊を?」
「大抵は父親を狙う。なぜならもっとも力が強くもっとも御し辛いからの」
「で! でも! 特性を2時間喰らったら死ぬ筈ですよね!? だったら家庭崩壊より先に、そのお父さんが」
「なーにをいっとるんじゃあ?」
 半眼のイオイソゴが不思議そうに呟いた。
「途中で解除するに決まっておるではないか」
 反問しかけたクライマックスは、途中で気付いた。
青空がどういう方法で家庭を崩壊させているかを。
「あ……第一段階途中で解除するっていうのはつまり、そういう……」
「そ。1時間程度適当に暴れさせるため。そして解除。……じゃが」
「何時間か何日か、とにかく間を置く訳ですか? そしてまた『お父さん』を撃って暴れさせる」
「前触れもなく暴れるような家族がいる家庭……それがうまく行こう筈もない。
 頷くイオイソゴに寒気がした。文言はもっともそうだが、「暴れる父親」の恐怖が家庭に浸透しその繋がりが水中の紙が
ごとく崩壊するまでどれほどの期間が必要だろう。半年? 1年? そもそもどうせ青空が狙うような家庭は円満で幸福で
何ら問題のない場所なのだ。父親が暴れる──…いや「暴れさせられる」のは平和な時間の中のごく一部ではないか。
にも関わらずイオイソゴの口ぶりからすれば青空は現にいくつもの家庭を崩壊に導いているらしい。それをやるためだけ
に見も知らぬ家庭に張り付き、銃撃を繰り返した。「暴れさせられる」父親が平和な家庭から悪の権化と嫌われ見放される
まで特性を使い続けた。実に恐るべき執念。クライマックスは口に手を当て震えた。。
「…………どうしてそんな回りくどいコトを」
『だって、普通に撃つだけじゃ伝わらないでしょ? 普通に射殺したところでリア充どもは勝手でちゃちい怒りを私にぶつけ
てくるだけじゃない。どうして幸せを壊した。許せない……ってね。でも本来悪いのはあっちの方でしょ。自分たちさえ良け
ればいいってカンジで、困ってる人を見捨てて何の手も差し伸べない』
 だから、と青空は弾痕で文字を書いた。
『彼らは一度きっちり身から出た錆で幸福なおしゃべりを忘れるべきなの。それができない人の身に立って、側になって、
そして困っている人を助ける方へ進むべきなの。重要なのは『家庭が何ももたらさなかった』って実感よ。奪われた、じゃ
ダメ。私めが見たいのは、犯人に遠吠えするだけでその実何も取り戻せないちゃちい憤怒じゃないの。親が最低で最悪
だったから自分はそうはなるまいと努力する綺麗な意思なの。誰かを助けたいと願う心なの』
 つくづく清楚で純粋な……笑顔だった。「水を大切にしましょう」「納税はお早めに」。そんなポスターに乗っていてもいい
位、見る者に安心感をもたらす笑顔。しかしその顔が描く文字は、意思は、笑顔とはまったく真逆の歪みを帯びていた。
(なにを言っているんですかあなたは……!!)
 家庭への憧れゆえに殺人希求を持つクライマックスは……この時初めて心底からの怒りを青空、いや、リバース=イング
ラムに覚えた。
「あなた狂ってます! まだ直接的に相手に手を下し、骨髄も内臓も何もかも崩壊させる方がマシです!」
「!」
 青空は息を呑んだようだった。笑顔がたじろぐのをクライマックスは確かに見た。元声優だから人間感情の流れはおおま
かだが分かる。「自分の間違いに薄々気付いている」。そんな気配がした。
(隙アリです! こうなったら責めて責めて溜飲を──…)
『うるさいわね』
 弾痕を眼で追ったのは、頬を強い力で掴まれた時だった。

『あなたに何が分かるっていうの? 私はね、ただ普通に暮らして普通の女の子として生きたかっただけなの。なのにお母
さんに首を絞められて大きな声が出なくなって、そのせいで誰からも気にかけて貰えなくなったの。お父さんさえそうだった
のよ。クラスの人たちだって私が小さい声で応じるたびに「そういう奴か」って眼をして離れていくだけで、私の首のコトなん
て知ろうともしなかった』

 青空はどこまでも笑顔だった。だがその顔面からは血の気が引き、もともと雪のような肌がつくづく白くなっている。
 夢見がちで浮ついた『大人になりきれぬ大人』だけが持つ過剰なイマジネーション。元声優のアラサーが持つそれは津波
が来る前の海岸を、波のすっかり引いた不気味な静寂をたっぷり幻視させた。

 リバースに立ち上るは果てしない悲しみと……その根源に触れられた怒り。

 どうしようもない欠如に苦しんだ挙句の現状を更に否定されたという心理的リアクタンスだ。自信の尊厳を守るための主
張的な怒り──思春期の男女が多かれ少なかれ持っている癇癪玉だ。適切な場所で炸裂させれば成長をもたらすが、妙
な場所で暴発させたり或いは鬱々と抱えたまま成人式をくぐり抜けてしまえば社会の中で如何ともしがたい人間不和を呼
び込む奴だ。クライマックスは明らかに炸裂し損ねた人種なので分かる。『リバース=イングラムは癇癪玉の不良在庫王。
毎日毎日倉庫の中を”叩きつけたくて仕方ない”って顔でニトログリセリンの大瓶持ってほっつき歩いています。在庫一掃
セールで焼け死にたくなければ、くれぐれも刺激しないように。一番いいのは関わらないコトですが』と──が青空の全身
から立ち上っている。冷ややかな蜃気楼。スタイルのいい輪郭を彩っているのはそれだった。

 そして。
 彼女の武装錬金の特性は。

 第一段階は皮膚・筋肉または骨の表層の剥落。そのせいでクライマックスの右頬は歯が剥き出しになっている。骨の表層
の剥落。歯もその範疇なのかも知れない。エナメル質と象牙質が削げ落ちた歯が何本もあり、歯髄が剥き出しだ。

『リア充どもは自分たちが恵まれているから自分たちに何も恵まない人はすぐ無視する。変なのがそこにいるって程度の目
で救おうともせず楽しい楽しい楽しい楽しいおしゃべりにだけ熱中するの』
 平素綺麗な、サブマシンガンで書いているとは思えない字。それが少しずつ乱れ始めているようだった。笑顔の青空は
クライマックスの右手の上で力を込めたようだった。やめて。次に訪れる出来事を察知して首を振る。右手の下には頬。
肉の削げた頬。そこに並んでいるのはエナメル質と象牙質が取っ払われたC3の歯どもだ。空気が当たるだけで、痛い。

 そこが思いきりつねられた。

 10に近い歯髄に痛烈な力が加わり、歯科用ドリルで深く抉られた方がマシだという位動悸がギンギンと膨れ上がる。
 防御に回した右手などカステラのように千切られていてだからクライマックスは実感する。相手もまた怪物なのだと。

「おーヒドいのう」

 縋るように細い横目を送ったイオイソゴは、肩をすくめるだけだ。助けに入る気配はない。それがますますクライマックス
を暗澹たる気分にさせた。

 青空の主張は続く。

『そういう連中がのさばっている限り、私のような性格のコたちはずっと救われないままじゃない。好きでそうなった訳でも
ないのに、だーれも救おうとしないし復活の機会だって与えない。苦しみ続けるまま。たまたま真っ当な環境に生まれて
真っ当な声を出せるだけの人達の無責任な楽しさを見せつけられ、惨めな思いをし続けるまま』

 そこまで読んだ辺りでとうとう痛みが限界許容量を超えた。

 いかにリア充どもが間抜けで自分が正しいか……そんなくそったれた、適応規制じみた長文羅列は歯のみならず胃さえ
蝕むようだった。それを無視し、「やめて」をほどよくブレンドした絶叫を上げてやるのがクライマックスにできるささやかな
意趣返しだった。「狂った意見など誰が読むか」。苛まれながらも内心でほくそ笑む、誰でも持っている小市民的な感情こ
そが唯一の救いだった。

『だから私は治すの。私を救おうとする人が現れなかったから、この世界を正しい方向に治したいの。私のこの意思を伝えて
何もかもを正しい方向に治したいの。分かる。分かる?』

 クライマックスは頷いた。何を訴えられているかは分からないが同意を示しさえすれば歯髄を掌越しに圧迫する痛烈な力
から逃れられるのは確かだった。

(ぬぇぬぇぬぇ!(笑い声) 逃れてからこの上ない間抜けぶりをこの上なくあざ笑ってやりますよ私!)

「適当に頷いて逃げようとしないでよねそもそもケンカふっ掛けてきたのはあなたよね」
 抑揚のない声が青空の口から漏れ始めた。彼女は眼を開いている。黒い白目の中で真赤な球体が爛爛と燃え盛って
いる。冷たい蜃気楼はいつしか火災現場のような強いオレンジの妖気に変わっている。
「お仕置きが必要のようね大丈夫大丈夫死んだりしないわよちょっと伝えるだけうふふあははははーっはっはっは」
 青空の手が動いた。頬にのばそうとする右手を折った……「めきり」という音にやっと気付くクライマックス。

(あああ! また! 腕折られた遺恨を晴らすため挑んだのにまた折られてますーーーーー! 無意味です! この上なく
無意味じゃないですかこの状況おおおおおおおおおおおおおお!!)

 妙な方にねじ曲がった腕を眺める暇もあらばこそ、青空は欠けた歯をつまみ、歯髄に短い爪を滑り込ませた。

 歯の根が軋むほどの力がかかり──…
 人生最大級の無慈悲な激痛がクライマックスの全身を貫いた。

 のたうつべく身を屈めたその体が『歯髄を起点に』持ち直される。増幅される激痛。元声優らしくむかしコレをやれたら
絶叫の第一人者として歴史に名を刻めたんじゃないかとか現実逃避を始める彼女だが、救いは、ない。
「まずは文字を読んで私の意思を知ってその上で意見を述べて適当にやりすごされるのは嫌なの分かるでしょこの気持ち」
「分かったからそろそろ落ちつけりばーすよ」
 沈降感。激痛に喘ぐクライマックスは体がゆっくり沈み出すのを感じた。
 いつしか歯髄にかかる指は粘液の中をずるりと抜け、あちこちがひび割れた手足も床の上で平べったく潰れていく……。
「争うのはまあ勝手じゃが、まずは仕事を優先せい。わしがわざわざココまで来たのは職責を果たすため。後にせい」
 クライマックスは気づく。視界の低下に。目線は、子供たるイオイソゴの膝より下に下がっている。

 アラサーの体は、溶けていた。
 ゲル状といおうかスライム状といおうか、とにかく全身が原生生物のように正体を無くした水溜りだ。
 それを厳然と見下ろすイオイソゴはやや気難しい表情だ。もっとも幹部同士の不仲を嘆くというより「一旦は面白がって
解説や説明に回ったり野次馬を決め込んだりしたが、それが却ってリバースを勢いづかせてしまった」自らの軽挙を反省
しているようだった。それが証拠か彼女は低い鼻をさするとバツが悪そうに笑った。
「悪いの。ヌシがわしの要件を分かっているようだった故、ついつい切り出しそびれた。なに、冥王星の嬢ちゃんなら死に
はせんよ。わしの武装錬金はカタチを変えるだけ。殺傷力はほぼ零じゃ」
『耆著(きしゃく)の武装錬金……ハッピーアイスクリーム。形は舟型の金属片で、撃ちこんだ者を磁性流体にする……。
で、御用は?』
 えへん。わざとらしい空咳を一打ちしたイオイソゴは腰に両手を当て得意気にそっくりかえった。

「ヌシの妹、どこかへ消えたそうじゃな? それに対する弁明を……聞きにきた」

 クライマックスは確かに見た。
 ふわふわとウェーブの掛かる短髪と頬の間に、一滴の汗が流れるのを。

「あれほどの力量を持つほむんくるす。まさか失くしたではすまんよ。済む訳がない」

「来るべき決戦に欠かせぬ貴重な戦力。野垂れ死ぬならいざ知らず、戦団に悪用されてはチトまずい」

 決して怒鳴ったり喚いたりはしない静かな声だ。しかし背丈が一回りも二回りも小さいイオイソゴが喋るたび、青空(リバー
ス)の顔に汗が増え、内包する怒りさえ消えていくようだった。見ているクライマックス自身「もし自分が青空の立場だったら」
と身震いする思いだった。大きな瞳から発される穏やかな視線は、相手が道に外れた文言を吐いたが最後、閻魔より厳正
な目つきと化し徹底的に追及しにかかるだろう。
 いつしか辺りには自称555年の人生の重みを感じさせる厳粛な雰囲気が満ちていた。

「解答次第では粛清もありうる。慎重に答えるがヌシのためじゃ」

 響く声はただ無慈悲、青空は、ただ──…









「あ。ねー」
 雑踏の中、駆け寄ってくる光の顔はぱあっと輝いていた。それまで彼女は、自宅とはまったく反対方向、6kmは離れた隣
の市の繁華街を1人で歩いていた。心細かったのだろう、青空めがけトテトテ駆け寄ってくる。

 空はとっくに暗く、ネオンと街灯が混じったけばけばしい光の中を仕事帰りのサラリーマンたちが賑々しく歩いている。それ
らの影が交差する石畳からは街頭時計も生えている。目下その「6」「7」間で長いのと短いのが間でデッドヒートを繰り広げ
ている。幼稚園児がうろついていい時間ではない……そう思いながら青空は聞く。
「で、今日はどうして迷ったの?
 よっこらせと抱き上げた光はしばらく目を白黒させてから「プラモがおれん」とだけ答えた。
「そう。いつも行っているおもちゃ屋さんに欲しいプラモがなかったのね」
「ほうじゃけん。ほかのお店行ことしたらいなげなトコに……」
「他のお店行こうとしたらこんなとこまで来ちゃったのね」
 確かめるように漏らす声は、いまにも雑踏の喧騒にかき消されそうだった。きっと歩いている人は自分が喋っているコト
さえ気付いていないのだろう……青空は自分の心に「そう在るべき」静かな感情と真逆の物が灯るのを感じた。義妹との
会話が嫌いな理由の一つは、伊予弁をいちいち声に出して翻訳しなければならない──翻訳結果を言い聞かせるコトで
自分に光の意思がちゃんと伝わっているか確認しなければならない──せいだ。一生懸命調べてようやく喋れるようになっ
た言語さえ世界に響かぬようで、その都度いびつな喉を恨んだ。

 これでいちいち聞き返していたらとっくに絶交よ。喋るたびに元気のいい反応を見せる義妹に内心溜息をついた。彼女
はいつも青空を真剣な眼差しで見上げ、言葉の一つも聞き逃すまいとしているようだった。その様子はまるで女王に忠誠
を誓う衛兵のようで、一言たりと聞き返したコトはない。どんな小さな声で呟いてもちゃんと聞いてくれるのだ。

 だから、だろうか。嫌い嫌いと思いつつも、積極的な拒絶に出たコトがないのは。

 とりあえず降ろしてやる。あまり甘え癖をつけるのも教育上よくない。6km。遠足ぐらいたっぷり歩いた妹は疲れている
だろう。でもそれはいつものコトで──この前は10km先のショッピングセンターからバスと電車を乗り継いで連れ帰った。
今までで一番遠かったのは隣の県のプラモショップで、28kmは離れていた。日曜日の半分を賭け歩いて行ったらしい──
方向音痴のせいで大分足腰が鍛えられている。フルマラソンを歩き歩きで完走するぐらいはできるかも知れない。
「でも、なへならあーねーはわしのおおるトコ分かるの?」
「ふふっ」
 どうしてお姉ちゃんは私の居る場所が分かるのですか……一瞬でそう翻訳出来た自分が少し可笑しくもある。光のせい
で青空はすっかり伊予弁が得意になってしまっている。普通に喋ってくれれば楽なのにと思いつつも、どうも生来の努力的
な性格のせいか時々図書館で伊予弁を調べたりしてしまう。ひょっとしたら伊予弁メインの光より詳しくなっているかも知れ
ない。調べるたびに義母を思い出し「なんで調べなきゃいけないのか。親なら標準語も教えて欲しい。会話がし辛い」と仄か
な怒りを覚えたりするのに……。抱えている矛盾の面白さ。頬へ手を当て忍び笑いを漏らしていると、輝く瞳が不思議そうに
見上げてきた。10km先のショッピングセンターにいようと28km先のプラモショップでどう帰ればいいかほとほと困ってい
ても必ずやってきて連れ帰ってくれる、そんな姉がミステリアスで仕方ないという顔つきだった。
「あのね。これは他のみんなには内緒だよ?」
 しゃがみ込んで目の高さを揃えた妹は不思議そうな顔をした。「しっ」と唇に指を当て、いかにも聞かれてはマズいという様
子で辺りを見回すと、子供なりに何事かを理解したのだろう。明るい顔つきがユーモラスな緊張感に染まった。
「単純ね」。噴き出しそうになるのを何とか堪え、青空はすうっと髪の毛を──頭頂部から延びる長い癖っ毛を──撫でた。
「実はコレ、光ちゃんレーダーなの。だからどこにいても分かるんだよ?」
「え!」
 面喰らったのだろう。明るい瞳が笑顔と癖っ毛を交互に見比べた。口をあんぐりと開けているのは「俄かには信じられな
いけど”ねー”がそういうなら本当なのかも知れない」という葛藤のせいか。ここらが押し時とばかり青空はつむじに力を。
込めた。果たして癖っ毛はぴょいぴょい動いて義妹を指差した。「おおっ」。全身をビクっとしならせながらも彼女は青空の
言葉を信じたらしい。怖々と肩をすくめながらも癖っ毛に手を伸ばし、ちょいちょいとつつき出した。
「な、なへならあー動くん……?」
「光ちゃんレーダーだからよ。でもヒミツね。お父さんにもお母さんにも。バレたらお姉ちゃん、黒い服着た怖い人たちに連
れ去られちゃうんだよ。それだけスゴい能力なのよ〜」
 両手をドラゴンのようにもたげて「がーっ」と脅かして見せると、光は全力でコクコクと頷いた。

 もちろんレーダー云々はウソっぱちだ。光の行きそうな場所で道行く人に写真を見せて裏返し「このコ見ませんでした?
どっち行きました?」という文字で尋ね回ったに過ぎない。いまだに運動神経学年20位以内なのはそういう地味な尋問で
使いまくった足がそれなりの筋肉密度を持ってしまったせいだろう。ここだけの話、28km先のプラモショップで半泣き状態
の義妹を見つけた瞬間は──途中で引き返すコトを考えつつも変な生真面目さでやり抜いてしまった青空も悪いのだが──
号泣したくなった。やっと解放された。一体何人に写真見せたか……翻しまくった写真は持つ部分がすっかり皺くちゃで新
調を余儀なくされた。
(だいたい、嫌いなら別に探さなくてもいいのにね)
 手をつないで歩きだす。輝くような笑顔の義妹のセリフを適当に聞き流しながら、青空はまた内心で溜息をついた。
 どうして毎度毎度方向音痴の義妹を探しにいくのか。そう誰かに問われた場合、明確な解答はできそうにないと思った。

 ただ──…

「ねー。コッペパン買うて」
「……あれはメロンパンよ?」
 思考を中断された青空はちょっとだけ不快なニュアンスの籠った笑顔で光を見た。気儘なものだと呆れる思いだ。タイム
サービスか何かだろう。通りすぎかけたパン屋さんの前に長い机と「味見のしすぎじゃない」といいたくなるほどコロコロ肥った
店主が並んでいる。漢字で表現すると「凸」の上の部分が店主で下が机だ。いらっしゃいいらっしゃい。景気のいい声と柏手
(かしわで)の下には小じんまりしたバスケットが沢山で、その中にあるパンどもが焼きたての香ばしくて甘ったるい匂いを
漂わせていた。クロサッサン、あんドーナツ、カレーパン、辛そうな赤いのたっぷりかかったベーコンパン。色とりどりのおい
しそうなパンの中でひときわ光の眼を引いたのは──本来の好物(ドーナツ)さえ無視させるほど魅力的だったのは──
メロンパンらしかった。彼女の指は確かにそれを指していた。
「コッペパン買って……」
 ぐぅとお腹を鳴らしながら見上げてくる義妹を、青空はつくづく持て余した。どう見てもメロンパンではないか。少なくても
青空の認識上において表面がゴワゴワして砂糖がほどよくまぶされているクリーム色のパン類はメロンパンである。
 それを説明して納得させるのは本当に苦労した。何度も何度も「これはメロンパンなのよーっ」って叫び散らしたくなるほど
だった。……どうやら伊予弁で「コッペパン」は「メロンパン」を指すらしい。何でよと青空は軽く額に青筋を立てた。どうも伊
予弁という奴は行使するにつれ視覚神経を犯しパンの区別さえつかなくする……としか思えなかった。そういうピンポイント
な齟齬こそ図書館の辞書に入れてよ。そう口中毒づきながらも「コッペパン」を買い、妹にやる。彼女は喜んだようだが腹の
虫は収まらない。歩行6km分のカロリー補充をして下さいとばかり腹部内臓のブザーも鳴った。

 商品を眺める。

 ほどよくして最も好みに合致する商品を発見。わざわざPOPと毒物劇物取扱者試験の合格証書が添えてある。
 
「悪魔さえ死ぬ激辛! 自家調合辛味噌入り焼きそばパン。※ 料理というより劇物デス。この世で一番辛い!」。
「合格証 ○○年○○月○○日試行の一般毒物劇物取扱者試験に合格したことを称する △△県知事 毒物太郎」

 すみっちょのバスケットの中、焼きたてのパンどもの中で唯一在庫処分丸出し(POPもそのためだろう)で干からびている
連中全部、13個をお買い上げだ。ぞろぞろと机を眺めていたサラリーマンや若者がざわめきがあがる。「死ぬぞ」「やめと
け」「辛い物好きの有名人がそれだけ買ってったが今は集中治療室! ゆえに今日を以て生産中止のそれを何故!!!?」。
問題ない。笑顔を返して首を振る。その可憐な様子に彼らは一瞬見とれたようだが、今度は「こんな可愛いコを見殺しにでき

るか」とばかりますます制止の声が強まっていく。

「水なしで喰うと死にますよ」

 まるでシアン化ナトリウムを売るごとく何度も何度も念押した店主がとうとう震えつつ紙袋を渡す。真赤に変色した紙袋を。

 それを持って家を目指す。歩きだす。

 紙袋はもはや沸騰中の血液を閉じ込めていると嘯いてもまた真実味が出るほど赤い妖気を漂わせている。その蒸気に
当たった蚊はたちどころに蒸発し、真新しい鉄製の柵に振りかかれば内部も露に茶色く錆びる。ああ、この焼きそばパン
おいしい。青空は嬉しげにパクパクと食べた。その白魚のような指の間を垂れ落ちた辛味噌が石畳に黒い穴をあけた。じゅっ、
じゅっ、落ちるたび白い煙が地面に巻き起こる。その黒い痕跡を追跡したのだろう。10分歩いた辺りで先ほどの店主が「や
はり渡すべきだったあー」と決死の形相で2リットル入りの天然水を6本ばかり持ってきた。相当走ったのだろう。コック帽
がずれ、丸っこい体の随所に滝のような汗が流れている。面構えときたらガソリンと灯油を間違えた客を追いかける危険物
取扱者だ。もっともその頃にはもう最後の焼きそばパンが胃に落ちるあたりで青空的には特に問題なかった。
「ほどよい辛さです。ありがとう。おいしかったです。水分は店主さんがどうぞ」
 どうしてこの店主さんはこんな必死なんだろう。青空は心底不思議に思った。辛味噌は大好物で、その気になれば業務用
の「注:ハバネロの6万倍の辛さです。お子様やご老人は耳かき一杯やるだけで死にます」とかなんとかいう大袈裟な注釈
入のでっかいボトル5〜6本ぐらい楽勝だ。
 横で光は指をふーふーしているが──1カケラだけ食べたい。そう言って素手で持ったのが災いしたのか。辛味噌は指に
付着するや水膨れを作った──問題はない。店主は号泣と笑顔を足してドン引きで割ったような表情をしながら帰っていった。
「……指、大丈夫? 光ちゃん」
「ねーは?」
 お姉ちゃんこそ大丈夫なのだろうか。そういう目だった。触れるだけで水膨れを作る劇物を内蔵粘膜に叩きこんで本当に
無事なのかという心配と、驚きのもたらす尊敬の眼差しが混じっていた。
「大丈夫。大きくなったら辛いのも平気になるから。みんなコレ位へっちゃらなんだよ」
「うん!」
 光は笑った。やっぱねーはすごい。何でもかんでもそういう感動に直結する単純で純粋な心根の持ち主のようだった。


 嫌いでも、行方不明になったり事故で死んだり、誘拐犯に殺されて欲しいとは思えなかった。
 青空が義妹への感情を浚う時、少なくてもそこには姉妹の確執にありがちな「お前さえいなければ万事うまくいく」みたいな
思い込みはないようだった。いなくなっても家から光が消えるだけ。きっと親たちは失われた娘を思うだけで、自分を義妹並
みに愛でるようなコトはしないだろう。性格も年齢も違うのだから……それなりに聡明な青空は悟っていた。
(まあ、探すぐらいはいいか)
 あまり論理的ではないし決して心から好きになれそうにはないが、義妹を探すぐらいは……そう割り切っていた。

「ねー……おんぼしてつかーさい……」
「はいはい」

 家まで3kmというところで予想通り寝ぼけ眼を擦り出した義妹を背負い、青空は笑顔のまま家を目指した。











「さて。弁明も出尽くしたようじゃし、まとめてみるかの」
 床や壁に提出された供述書──筆はサブマシンガンでインクは弾痕──を一通り眼で追うと、イオイソゴは意地悪く目を
細めた。視線の先には青空(リバース)。供述書作成のため距離を取った彼女は、相変わらず何が楽しいのかニコニコと
微笑んでいる。手にはサブマシンガンで、よく事情聴取の場で持てるものだと(それを許可したものだと)クライマックスは感
心した。
「まずは状況整理じゃ。性能てすとをすべく適当な共同体殲滅を任じたヌシの妹。じゃが帰投時間をすぎてもいまだ戻ってくる
気配がない。連絡も途絶えた。位置を特定すべくぽしぇっとに仕込んでおいた発信機や携帯電話も無反応」
 かといってあれほどの者が倒される道理はない。イオイソゴは芝居がかった様子でゆっくりと首を振った。
「逃げた、としか思えんのじゃが……それもない。供述書を読もうかの」
 すみれ色の髪をゆっくり揺らめかせつつ弾痕に目を落とすイオイソゴ。
『逃げる可能性はありません。あのコの5倍速の老化を治せるのは私だけ。それを知っている以上、私の元を離れるのは
自殺行為。その辺りはしっかり『伝えて』あります』

「じゃが聞けばヌシの妹は昔から重度の方向音痴だったそうじゃの。……おうおう。そういえば小耳に挟んだ事もあるでよ。
ヌシが妹を鳥型にしたのは方向音痴を治すためじゃと。過去さんざ探し回ったゆえ2度と探したくないと」
 だが疑問なのは、とイオイソゴは青空めがけ歩き始めた。
「そうまで厄介を掛けられた方向音痴が治っているか否か、確かめなかった……? 解せんな。……ヌシはこうも供述したな?」

『もしかしたらあのコ方向音痴だから迷ってるんじゃないかしら』
『ごめんなさいね。鳥型にした段階で治っているとばかり』

 黒タイツ──と一見見えるが実は軽量の鎖帷子──に包まれた細い両足の下を供述書が過ぎていく。

「じゃがヌシほどの者が、下らぬ思い込みで見逃すのか? てすとぐらいする筈じゃ」

『老化治療に没頭していたからつい忘れてて』

 イオイソゴはゆるゆると進んでいく。静かで、驚くほど速い。胸元で赤いスカーフがたなびき、髪さえ戦(そよ)いでいる。
忍びだけが持つ特殊な足捌きであろう。それに運ばれるまま彼女は報告書の長い文章をぐんぐん過ぎていく。
 丈の短いブレザーのスカートがひらひらはためく。

「わしらの仲間になってたった一年余であれほどのほむんくるすを作れるほど優秀なヌシが」

『せめて私めの自動人形を監視にやれば良かったわね』

「ただの忙しさや手ぬかりで、方向音痴を見逃すのか?」

『総ては私めの手ぬかりのせい。光ちゃんは悪くないわよ』

 イオイソゴの足が止まった。
「繰り返すが対象はただのほむんくるすではない」
 すぐ眼前には青空がいて、手を伸ばせば届きそうな位置である。
「ヌシはおろかわしらに取っても得難き大戦力。優秀なヌシならそれを保持するために最善の努力という奴を尽くす筈じゃ。
にも関わらずまるで『方向音痴であったコトを忘れたように』、付添いや自動人形による監視もせず、老化治療のみを盾に
義妹を単身送り出す。……あまりにお粗末。あまりに不可解」
 黒ブレザーのダボついた長袖。それが──中に手甲を仕込んでいるらしい。後日クライマックスはそう聞いた──ゆっく
りと胸の前にかざされた。
 ゲル状のまま事態を静観していたアラサーの鼓動が跳ね上がったのは、幼い指に舟形の鉄片がいくつも握られているの
を認めた瞬間だ。
 固められた拳の表面。指と指の間にはさがっているそれらの名は──…

(耆著(きしゃく)! 本来の用途は方位磁石! この舟形の小鉄片は磁力を帯びてるんです! だから水に浮かべると北を
向くって寸法なのですこの上なく!)

 イオイソゴの持つそれは打ち込んだものを磁性流体にする恐るべき魔性の産物。現にクライマックスはいまそれを浴び、
溶けている……。
 注ぐ視線に見せつけるためか。攻撃的な笑みが幼い顔いっぱいに拡充する。

(闘るつもりです)

 クライマックスはゲル状の生唾を呑んだ。
「1つ言っておく。後生だから抵抗はするなよ? この武装錬金はわしの全身を磁性流体と化し、あらゆる物理攻撃を効か
なくする。打撃も、斬撃も、そして銃撃さえもな。じゃが──…」
 次の一言にクライマックスは戦慄した。
「ヌシの武装錬金特性までは防げん。当たったが最後、例の幻影じみた怨嗟の声に苛まれ、揺らされるぷりんのごとくゲル
状の体が共振現象で崩壊していく。ひひっ。迂闊迂闊。一見わしは詰んでおるなあ」
 必中条件も満たしている。イオイソゴがそういった瞬間、冴えないゲル状生物は寒気に見舞われた。
(そうです。確かにイオイソゴさんはリバースちゃんの傍でさっきからずっと!)
『声を出している』。
 サブマシンガンの武装錬金・マシーン(通称『機械』)の前でそれをやればどうなるか。
 先ほど一席ぶったイオイソゴが知らぬ筈なく。
「知っておるが故に破り方も然り。凶弾を逃れる術は4つほどある。1つ目。一定範囲内で声を出した者に着弾するというな
ら、それ以上の距離を置いて喋れば良かった。近場では沈黙すれば良い。2つ目。自動人形が合体する前に叩く」
 どっちも今からじゃ無理ですよお。溶けたアラサーは泣きたい気分だ。

(すぐ近くで声を出した以上、もうロックオンされてますよこの上なく!! もし凶弾発射後に範囲外へ逃げた場合、凶弾は追
いすがるかどうか分かりませんが、弾丸より早く走るとかイソゴさんでもムリですよ! かといって(自動人形の)合体前を狙
うのは、バクチすぎますよぉこの上なく!)

 片や一撃必殺のサブマシンガン。
 片や緩慢なる溶解の耆著。

(一発二発浴びても大丈夫なリバースちゃんに比べ、イソゴさんは弾丸一発撃ち込まれるだけでこの上なく負け! 

 その辺りを踏まえた場合、青空の勝利はますます揺るがない。

(「肉を斬らせて骨を断つ」。リバースちゃんは何を喰らおうとサブマシンガンとそれを握る腕と自動人形さえ守り抜けばいいん
です! で! 特性発動したら勝ち! この上なく勝ち!!)

「3つ目。今から別の者に声を出させる」
 別の者? 首を傾げたい気持ちになったクライマックスは脳裏に「ひえーっ」という大文字を刻んだ。
(必中条件は確か、『発射直前に声を出した人』……。なら自分が喋った後、他の人に声を出させればいいんじゃ!?)
 まるで爆弾ゲームのようだと彼女は思う。そしてそれは実に適切な例えだった。
(爆発寸前の爆弾、自分が持ちっぱなしじゃ危ないから、他の人に渡しちゃう感じです。喋らせて爆弾持たせるのです。そし
て、そして……このシチュならこの上なく私が盾にされそうな予感ーっ! ああ、なんて不幸な私)
「安心せいくらいまっくす。それはせん。やろうとしたらりばーすはヌシの声の根を断ちに掛る。じゃからせんよ。幹部は総て
我らが盟主様の所有物……。正当な理由なき軽挙で摩耗すべきではない。裏切り者なら別じゃがな
 しかしこの老人の自信はどうであろう。若者の向こう見ずな自信とは違う落着きが全身に満ちている。
「4つ目は……3つ目とやや近いが根本的に違う。じゃが、それだけに手軽で誰でもできる破り方じゃ。」
「…………」
「欠如ゆえ生まれた能力は欠如ゆえ破られる。なるほどヌシの能力は限りなく無敵に近い。じゃがその根本は欠如に立脚し
ておる。ひひっ。欠如欠如。そこを揺すぶられると頗(すこぶ)る脆い」
「…………」
「断言しよう」
 どこに隠していたのか。イオイソゴの手から兵粮丸がびっと跳ねあがり、円弧の頂点から小さな口目がけストリと落ちた。
「わしはただ一言発するだけでヌシに勝てる」
 そう言ったきり彼女は咀嚼に専念し始めた。ぶんぶく膨れた頬の上。その上に備え付けられた大きな瞳は美味にとろとろ
と蕩けながらも青空をじっと凝視している。
(一言発するだけで? いや、イオイソゴさん。あの弾丸って、声を出した人に必ず着弾するんじゃ?)
 まったく謎めいている。絶対に声を出してはならぬ武装錬金の前で、声を出す?
(もしかしたら「言葉」という所にこの上なく意味が? 一定のワードに反応して機能を停止する……とか?)
「ひひっ。”りばーす”とはよくいったものじゃなあ」
 小さな口からくちゃくちゃと一種艶めかしい咀嚼の音とマンゴーの匂いのする食べカス(後にクライマックスが聞いた話に
よればイオイソゴはフェレットとマンゴーの調整体で、そのため唾液や汗などの体液は総て柑橘系の甘い匂いがするらしい)
が散らばり、供述書に降りかかった。
「…………」
 青空は依然沈黙のままだ。
「という訳じゃ。下手な抵抗はするでないぞ わしとてヌシは殺めとうないでの」

 イオイソゴは頬を緩めた。何とも人好きのする笑みだ。

 そして咀嚼物を飲み干した。もし青空が攻勢に転ずるとすればこの一瞬しかなかったろう。
(飲み干す瞬間は声が出せない! つまり絶対勝てるっていう言葉! 一声が出せませんこの上なく!! マシーン封じの
切り札的ワードが出せない瞬間ならリバースちゃんにだって勝ち目が)

 青空(リバース)の体に身震いが起こった。視線を追う。

 震えが、移った。

 イオイソゴの舌の上に、どろどろの兵粮丸が乗っている。

(口に入れたのは1個です。あれも1個分。だから飲み干したのはフェイク……。わざと隙を作って攻めさせようとか、この
上なく性格悪いです)
 べっと吐き散らかされた白い粘塊はあたかも唾棄すべき嘘だらけとばかり供述書をねっとり汚した。
「毀損を承知でいわせてもらおうか。ヌシは義妹を逃がした。もちろん義妹自身その自覚はないよ。ただ迷って、帰れなくなっ
た。そう思っておるだけじゃ。だがヌシは違うな? 方向音痴である事を承知の上で世に放った。不手際に見せかけて放逐
した……当たらずとも遠からずというところじゃろう」
『ただの不手際です。私の』
「じゃあどうしてヌシの自動人形は火薬の匂いがしとるのじゃあ?」
 低い鼻がスンスンと動き始めた瞬間、青空は微かに体を震わせた。いつの間にか豊かな肢体すれすれに幼い高齢者が
まとわりつきしきりに自動人形を嗅いでいる。静観していたクライマックスさえいつ動いたか見えぬ早業だった。
「そういえば川の水の匂いもするのう。え? これらの匂いはどこでついたというのじゃ? 今日のヌシはいつも通り研究室
……阿呆の末席に粉かけられたのを除けば戦闘不参加じゃ。独逸の馬鈴薯つぶしの新鮮な匂いを川のそれで薄めるよ
うな必要性はない。ひひっ。匂い一つとて追及すればどんどんボロが出ようなぁ……」
 身長130cmもないあどけない少女──どの交通機関も無料で乗れそうなほど幼い──が遥かに大きい青空の顎に手を
当て下向かせた。つま先を精一杯伸ばしているのはそれなりに愛らしいが、顔ときたら袋のネズミをいたぶるネコのそれだ。
嗜虐心をたっぷり満たしてやる、半眼は暗い愉悦に満ちていて、ぞっとするような色香さえ漂わせていた。それに見られた
笑顔がぎこちない波を打ち始めた。
(まさか……自動人形をあのコのポシェットに潜ませ、ポテトマッシャーで携帯電話や発信機を破壊したというのですか?
或いはそれに近いコトを──)
 だとすれば大問題ではないか。ただの不手際ではない。意図的な放逐だ。青空にやられた腕と歯の痛みも忘れてクライ
マックスは戦慄した。イオイソゴの言う通り玉城光は妬ましくなるほどの実力者。それをわざと野に放ったとすればこれはも
う属する組織に対する限りない不義だ。
(この上なくヤバいですリバースちゃん。悪の組織でそれはやっちゃダメですよぉ! うーらぎりものめーって感じで粛清さ
れちゃいます。それがお約束なのです。あああ、ど、どうなっちゃうんですかあ)
「…………」
「そもそも貴様は義妹に対し最大の手ぬかりをしておるよな? え?」
 クライマックスは見た。からからとした声が笑いとともに跳ね上がった瞬間、清楚な美貌に少なからぬ動揺が走ったのを。
「告げさえすれば我々に絶対の忠義を誓い、たとえ単身千里の果てへ行こうと必ず戻れる努力をする。振り返り振り返り地図
を描き、石の目印を落としていく……そうさせるほどの事実をヌシは義妹にひた隠しておったではないか」
 青空の指が動きかけた。
「……っと。反論は良いよ」
 しなやかな腕を紅葉のように小さい手がスルリと撫でた。目を細めた少女はそのまま愛しげに青空の腕や銃身に同じ事を
施し、うすぼんやりとした笑みを浮かべた。何もかも破滅しても構わない。そんな笑いだった。
「証言は集めておる。貴様は誰にも彼にも『妹には内緒よ』と釘を刺しておったそうではないか。何なら連れてこようかの? 
ヌシと懇意の天王星に火星水星金星に月……5体揃えばかの破壊男爵ばすたーばろんさえ斃せる錚々たる証言者どもをのう」
 元気よく大きくなっていく声とは裏腹に、その調子は段々と厳寒のどこかへ近づいていくようだった。当事者ならぬクライ
マックスには何の話か理解しがたい。だが笑顔が確実に色を失くしていくのが見えた。それはトリックを暴かれ厳しい追及を
受ける犯人の反応だった。イオイソゴは青空にとって致命的な何かを暴きつつあるようだった。
(でも、一体……リバースちゃんは何を隠していたんですか?)
「簡単で、単純だがひどく意外な事じゃよ」
 息を呑んだクライマックスの「背中だった辺り」から気泡が1つ舞いあがった。心を読まれた。そんな気がした。

「ヌシの義妹、玉城光の両親は生きておる」

「にも関わらず伏せていた。違うか?」

「…………
 青空は無言のままだ。

(そんな)
 風の噂程度だがクライマックスは知っている。
 青空が最後まで反対──止めに入ったアラサーの腕さえ折った──したマンション襲撃。その最中彼女は
(わざわざ盟主様にまで助命を嘆願した実のお父さんと義理のお母さんを)
 惨殺した。
(それがどうして生き──…)
 あっ、とクライマックスは息を呑んだ。あの時惨殺された。だがいまは生きている。
 矛盾しているが、その矛盾を解消する魔法のような能力をクライマックスは知っている。
 知っている、どころの話じゃない。マンション襲撃まえ折られた腕を修復したのもまた、「魔法のような能力」……。

「そう。奴もまたあの場に居た」

(グレイズィングさん! そして衛生兵の武装錬金、ハズオブラブ!(愛のため息))
 キツネ目の美人女医を思い描きながら、クライマックスは叫びたい気持ちだった。

「あれは死後24時間以内の死体なれば蘇生が可能……。例え娘に頭を潰されても、首をば落とされたとしても……治る。
なんの問題もなく、な。よって彼らは今も生きておる。それもほむんくるすではなく、ただの人間として」
 忘れたとはいわせんぞ。イオイソゴはやんわりと青空に呼びかけた。
「彼らを蘇らせるよう懇願したのは他ならぬヌシ。そしてそれは聞き入れられた。当て身を食らい眠る義妹のすぐ傍で」
(そして、お父さんやお母さんが生きているコトを知っていれば、リバースちゃんの妹は絶対に戻ってくる努力をこの上なく
した筈です)
「繰り返しいうぞ。蘇生を告げさえすればヌシの妹は行く道において振り返り振り返り地図を作り、自ら発信機を守り抜くぐら
いのコトは絶対にした。わしならいうよ。『保護しておる』。それだけでいい。それ以上の脅し文句は必要無い。あとは手間味
噌そら恐ろしいの危機感に任せればいい」
 つまりは人質。逃げればどうなるかという脅しの材料だ。
「にも関わらずヌシは奴を御するに格好の情報を伏せておった。管理意識があるなれば真っ先に伝え、叛意を殺ぐべきだった
というのにな。つくづくお粗末。つくづく不可解。あらゆる要素を繋ぎ合わせれば、ヌシが義妹を放逐したがっていたようにしか
見えぬ」
 笑顔の、果てしなく綻ぶ口から長い吐息が漏れた。
『凡ミスの積み重ねなんだけど、そればっか主張しても埒が開きそうにないわねー。何をすれば満足してくれるのかしら?』
「本音をいえ。わしは別に妹を放逐した事自体は責めんよ。盟主様とて「たまには失敗もあるだろう」と笑ってお許しになっ
ておる。第一いかに強かろうとヌシの妹はまだ7歳……。憐憫の情に駆られ逃がしたくなるのも無理からぬ」
『言わなければ?』
「粛清じゃよ」

 転瞬、影も見せずに動いたのは相対する両者の腕である。攻防はまさに刹那の出来事、傍観していたクライマックスにさ
え「2人の腕がやや上がった」としか見えぬやり取り。
 だが確かに攻撃意思は両者の間で膨れ上がり、破裂した。
「…………」
 静止画のごとく立ちすくんでいた青空が片膝をついた。同時にイオイソゴの背後にサブマシンガンと自動人形が落下し、
死に切れぬ勢いの赴くまま床を空しく旋回した。
「ほう」
 背後にチロリと視線を向けたイオイソゴは目をまろくした。想定外。そんな驚きを込めて彼女はゆっくりと青空を見た。
 ひどい有様だ。クライマックスは目を覆いたい思いだった。
 笑顔の少女。その膝から下は磁性流体としてとろかされ、不気味な粘塊として床にへばりついている。両腕もまた溶けた
バターよろしくだ。巨大で、生々しい肌色した粘液の玉がピチャリ、ピチャリと落ちていく。とっくに肘までの腕が縮むさま、
誠に著しい。
(負けた……いえ。というより」
 クライマックスは気付いた。

”なぜ、サブマシンガンと自動人形がイオイソゴの背後に飛んでいる”

 攻撃を浴びた結果そうなった……という様子ではない。かといって変則的な攻撃にも見えない。
(まさか……)
「武器を捨てよるとはな。何のつもりじゃ?」
 幾分柔らかくなった口調はしかしわずかだが驚きも含んでいる。それに呼応するように、青空は口を開いた。
「あのコだけだもの」
 謎めいた言葉。だがクライマックスはそれよりもむしろ、初めて聞く玲瓏たる声の方に戦慄した。元声優の彼女でさえ商売
仲間が発すれば妬まざるをえないほど透明感のある声だった。清楚で、可憐で、どことなく哀愁に満ちた声。泣きゲーのヒロ
インをやらせれば絶対ムーブメントを起こせるとさえ思った。
「あのっ! リバースちゃん? 私いま同人エロゲ作ってるんですがっ!」
「な、なに? エロ……?」
 声を張り上げたクライマックスを、青空は笑顔のままキョドキョドと見返した。今の彼女はどこか気弱な印象だ。それに気を
良くしたクライマックスは「押し切れる!」とばかり捲し立て始めた。
「そうです。エロゲですっ! 可愛い男のコの喘ぎ声を入れてくれませんか! こうですね、見た目女のコな、なよなよ〜とした
この上なく小動物系男のコ! そのコが逞しい俺様系のイケメンさんにがっつんがっつんこの上なく責められて泣きじゃくっ
たりするのですっ! そのコの役を、是非! 私では出せない味! リバースちゃんならこの上なく出せます!」
「え、その……いや。遠慮します……」
 蚊の囁くような声だ。それを聞いてクライマックスはますます「くーっ!」と唸りを上げた。
「これはいい! これはいいです! サブマシンガン持って字ぃ刻んでる時のこまっしゃくれった態度なんてクソですよ!
もっとこう基本はおどおどびくびく! 一歩退いて震えてるような儚さがいいんじゃないですかあ! DVDの特典とかドラマCD
の後の座談会! あれで清楚な役やってる筈の声優さんが意外にギャルっぽかったり「なーんも考えてない」感じのただの
若い女の人だったりすると幻滅しますよね! 私はそうですかなりそうですこの上なくっ!」
「な、なんの話をしてるのクライマックスさん?」
 引き攣った笑みを浮かべ、青空はズルリと(片足が粘液状態なので)後ずさった。
「やっぱ清楚な役には清楚な人を! そりゃあ学び励んだ演技の文法で清楚な役を演出するコトはできますよ! でもそ
れは本当にモノにしたとはいえません! 元の性格が合致してる、天然自然の清楚がそれをマイクに吹きこんでこそ、こ
うテレビ見てる人達の心に突き刺さってキャラソンCDとかバンスカバンスカこの上なく売れるんじゃあないですか! 或い
は清楚じゃなかった人が役にのめり込むあまり清楚と化す! それもありです! 要は心からの一致ですっっっ!」
「あのー?」
 青空は見た。ゲル状のクライマックスの背中から、彼女の幻影が立ち上るのを。それは陶酔しきった表情で胸に手を
当て、時々くるくると回ったり大仰な身振り手振りをしているようだった。
「上っ面なぞっただけの演技なんてのはこの上なく人の心に残りません! 生き馬の目を抜く声優業界では到底生き残れ
ません! 心からしてキャラに合い心からキャラを愛して愛するあまりその物と化す! 総ての熱気や感動はそこからこの
上なく生まれるのです! 文法に従って声出すんじゃありません! 声を出して文法を作りだすんです! だ・か・ら!」
 幻影がぱあっと微笑みながら青空に手を伸ばした。
「一緒にBLやりましょう! この上なく一緒に腐って業界へ殴り込みましょうよお!」
「ちょっと黙れくらいまっくす」
「ぐおはおおおおおおおおおおおお!」
 ゲル状のクライマックスがねじれてどこかへ飛んでいった。後で青空は知ったが、磁力を使って適当な場所へ飛ばした
らしい。

「いま、”あのコだけ”といったが……何の話じゃ?」
 しゃがみ込むイオイソゴを青空はしばらく見つめ──…唇をきゅっと吸いこんでからようやくポツリポツリと喋り出した。
「だって、ずっと私に話しかけてくれたのは……あのコだけなんだよ?」
「ほう? だから逃がしたとヌシはいいたいのか?」
「うん……。ずっと考えて……やっと気付いたの。あのコだけは……ずっと私に話しかけてきてくれたって。どんなに無視し
ても頬を叩いても、弾丸を撃ち込んでも……私に話しかけてきてくれたの……。でも、私があのコにしたコトは……」

 目の前で両親を殺し。

 ホムンクルスにし。

 5倍速で老いる体にした。

「何も……いい事をしてあげられなかったから。何の選択肢も与えないで……私だけに縛りつけていたから……可哀相で……
だから、だから…………お義母さんたちの事は黙って……」
「逃げやすくし、選択肢を与えた、か。その言葉、自白と受け止めていいか?」
「……」
 こくこくとあどけなく頷いてから、青空は縋るような上目遣いでイオイソゴを見つめた。笑顔はとっくにやめている。義妹の
今後を憂えるあまり、笑っている余裕がない……そう見てとったイオイソゴは「やれやれ」と横髪をかき上げた。
「結局わしの推測どおりかよ。なればゴチャゴチャ抜かさずとっとと白状すれば良かったものを」
「だ、だって……喋っていいことなんて本来一つもないんだよ? わたしは……ずっと、ずっと、喋るたび聞き返されて……
『なんだコイツ』みたいな目で見られて……お父さんたちにも構って貰えなかったから……本音、なんて……」
「いえようワケがない、と。矛盾しとるな。今は本音を吐露しとる癖に」
 青空は俯いた。どう喋っていいか分からないらしい。瞳は限りなく潤み、か細い息を懸命につきながら「あの、その」と頼り
なく震えている。これがあの憤怒の化身かとイオイソゴは──実は何度か見ているがそれでもやはり──目を見張る思い
だ。
「本音をいったのは……あのコを逃がしたコトで、イオイソゴさんたちに損害を与えてしまったから……だよ」
「損害……? ああ、あれほどの力量の者を独断でどこかへやってしまったコトか。まあ確かに会社でいうなら高価な備品
を行方不明にしてしまったようなモノじゃからの」
「信じて貰えないかも知れないけど……盟主様のために働きたいのは私も同じ……だよ?
「じゃろうな。或いは最も感銘を受けておるのがヌシかも知れん」
「そして私は他の人たちに迷惑をかけるのは嫌い。でも光ちゃんはどうしても逃がしたかったの。まだ小さいから……もっと
自由な生活をさせて、世界を見て、その上で私に協力するかどうか……決めて欲しかったの」
「じゃがその結果、わしらに損害を及ぼす羽目になった。ゆえにサブマシンガンを捨て、敢えてわしの耆著を浴びたと。いわば
アレはヌシなりの落とし前か。本音を語るのは、あれ以上の言い繕いが道義に反するゆえ……」
「ごめん……なさい」

 しとやかに呟く青空にイオイソゴは軽く思う。

「他の人に迷惑をかけるのは嫌い」? 

(ひひっ。さんざ家庭崩壊やらかしておいてよくもまあ……)

 青空にとって彼らは人以下の「誰も助けないから離散させる方が世のため」という報復対象にすぎぬのか。

 何にせよ、組織人としての帰属意識だけはあるらしい。帰属する組織の質はともかく、そこで共に過ごす仲間に対しては
それなりに遠慮がちで真摯らしい。……もっともその真摯さが一般社会にどれだけ迷惑を掛けるか。
(穏やかで可憐なようでいて、根はすっかり狂っておるようじゃの。義妹への情愛も含めて)
 何発弾丸をブチ込みどれほど精神を歪めたか。しかもそれが青空にとっての普通な『伝え方』と来ているから始末が悪い。
 光を始めてぶった時気付いた「伝えるコトの素晴らしさ」。その快美に見入られるまま彼女は衝動を発散し続けた。或いは
始めて本音を打ち明けれた義妹は特別な存在で、それ故に大事で、愛すべき対象だからこそ他の人より多く──大事な
家族にほど多くの言葉を話すように──弾丸をブチ込んだのかも知れない。

(ま、反省もしておるようじゃがの。最近では義妹との会話にさぶましんがんは使わんらしい。ぴこぴこはんまーとやらで
軽く叩いたり宥めたりしておるという。りばーすにとって重要なのは『伝える事』であって『痛めつける事』ではない。後者
だけが目的と言うなら、義妹はとっくに反乱を起こし、姉妹相討った挙句どちらかが死んでおるよ)

 奇妙な姉妹だとイオイソゴは思う。傍目から見れば姉が妹を痛めつけているだけなのに、彼女らの間には決して切れぬ
絆があるらしい。玉城光は姉を、その美しい長所も妖気漂う異常な短所も何もかもひっくるめて愛しているようだった。
 だからこそ青空も、身の危険と引き換えに選択肢を与えたのだろう。

(……家族というのはいいのう。半ば孤児(みなしご)じゃったわしには羨ましいよ)

 低い鼻をくしゅりと鳴らし、イオイソゴは青空に向かい合った。
「ヌシの気持ちはよく分かった。あまり褒められたやり口ではないが、それも若さゆえの過ちとして処理しておこう」
 ふわふわとしたウェーブの下で限りない喜色と、「それに浸っていいのだろうか」という葛藤が浮かんだ。
「とはいえ2度目はないぞ? 生半(なまなか)な情愛で完成品を逃がす癖(へき)を付けられてはたまらん。盟主様はそれ
もまた循環の内とお認めになるじゃろうが、わしの考えは違う。組織は厳然と律されて然るべき。一度や二度の例外的な感
情を認める事はあっても、それを慢性化させ、恒常的なるナァナァで箍(たが)を緩めていっては話にならぬ」

「”自滅する組織”とはつまりそれじゃ。故にわしはこの件において釘を刺す。それが盟主様にお仕えする忍びの……務め」
「…………」
「妹を放逐した事自体は否定せん。じゃがどうしてもそうしたいのならわしらに相談すべきじゃった。肉親を戦わせたくない
というなら相応の真っ当な処置ぐらいやってやるわい。安全な場所へ退避させ、戦闘とは無縁の生活を送らせて……。あ
れだけの戦力が除却されるのは正直痛いが、功績あるヌシに対し融通の一つもせんというのは組織としてマズかろう」
「…………」
「そもそも”方向音痴で行方不明になりました!では抜本的な解決にならんよ。そうじゃろう? 捜索隊が結成され、差し向
けられればどうなる? せっかくの決意と覚悟で逃がした妹が舞い戻ってしまうではないか。そうなってはヌシと引き離され
よう。監督不行き届きの姉に誰が貴重な戦力を任したいと思うものかよ……じゃ。ウソを吐いたばかりにますます悪い状況
になる」
「…………」
「家族を想うヌシの感情自体は分かるよ。わしは父御(ててご)の名しか知らぬゆえ、家族にはずっとずっと憧れておる。
なればこそ妹を戦わせたくない気持ちは理解できる。だがそれは素直に吐露し、打ち明けるべき物じゃった。隠し立て、
独断で逃がすような真似は正直ヌシのためにならん。これは他の件でも同じ。「喋っていいことなんて本来一つもない」な
どと心を鎖すでない。わしや天王星、盟主様ならば必ず耳を傾けよう。じゃから二律背反に悩んだとき、独断にだけは
走るな。それがヌシ自身のためじゃ。な?」
「はい……」
 あやすような言葉にいくぶん心を動かされたのだろう。青空は真珠のような涙を眦に浮かべながら、微笑した。

「分かればいい。後はわしが始末をつける。ヌシは研究室に戻って今まで通り過ごすがよい」





 ややあって。







 イオイソゴは瓦礫残る広場に1人佇んでいた。顔つきは厳しい。腕を揉みねじり溜息さえ時々つく。

 その部屋に──装甲列車が景気よく開けた穴を抜け──入ってきたのは美人だがどこか冴えない女性で、

「あれ? リバースちゃんは?」

 と呟いた。澄んでいるが間の抜けた感じもいなめぬ声はもちろんクライマックス。きょろきょろきょろきょろ落ち着きなく
辺りを見回す元声優の体は、さきほど耆著でゲル状になった筈だが、しかしいますっかり元通りで、
「その様子じゃとぐれいずぃんぐめに治療して貰ったようじゃの」
「飛んでった先が診療室でした! いまはこの上なく快調ですっ!」
 問いかけに明るく、とても明るくブイサインを繰り出した。

 そんな27歳にはあと嘆息の555歳。

「気楽でええのう。ヌシは。わしは奴めを説き伏せるのに難儀したというのに」
「あ。リバースちゃん無事なんですね! 良かった! これで女性向けエロゲが作れます!」
「のう。ちょっと愚痴こぼしてええかの?
 どこかズレた喜び──自分も殺そうとしていたのに。結局リバースそのものより、”リバースの声”という素材を心配して
いるのだ。作品という、自分の都合に関わるものにしか興味がないようだった──に高く綺麗な歓声をあげるクライマックス
と対なのがイオイソゴで、微笑すれば花開くほど愛らしい顔(※ただし鼻は低い)はいま黒くやつれている。
 疲れているんだ。元教師らしく即座に理解したクライマックスは、それなりに豊かだがあまり色気の感じられない胸を大きく
張り……叫ぶ。元気に。力強く。

「なんなりとです! これでも私は元先生です! あ、出会った時そうでしたからご存じですよねー」


 
 それからしばらく洒落っ気のない黒いワンピースに黒ブレザーがもたれかかって愚痴をこぼした。
 誰に対する……? いうまでもなく、リバースへの──…


「公私混同しすぎ」「妹への愛情が異常」「こみゅ力ないから扱いづらい」


 赤裸々な愚痴を。



 

 やがて総てを聞き終えたクライマックス、イオイソゴをひしと抱く。さすが元教師というだけあり子供の扱いはお手のもの、
慣れた手つきで背中をたたく。赤ん坊を寝付かせる母親のようにポン……ポン……ポン。優しく規則正しいリズムにイオイ
ソゴはやや落ち着いたようだ。胸の中でふと顔あげた彼女の瞳……子犬のように濡れそぼるそれから悲しみが抜けている
のを確かめたクライマックスは──なんだかイオイソゴが甘えたがっているように見えたのだけれど、教育者として敢えて
そちらは無視し──そっと体を剥がす。名残惜しそうなイオイソゴの顔にキュンときたクライマックスは大学進学のときどう
して保母さんの道を選ばなかったんだと軽く後悔。

「大変ですねーイオイソゴさんも。この上なく最年長ですから私達マレフィックの調整役をやらないといけないなんて」
「それが務めとはいえ、気苦労ばかり耐えんよ。どいつもこいつも灰汁(あく)が強いからの」
 そういいつつも愚痴を吐いて楽になったらしい。やれやれと肩をすくめるイオイソゴは幾分明るさを取り戻したようだった。
「たとえばあやつ、蘇生した両親とは対面済みなのじゃが、その時、どうしたと思う?」
「さあ」
「所業が所業じゃからの。両親……ま、厳密には実父と義母じゃが、奴らりばーすめを見た瞬間

「ひいっ!」

と声を上げおった」
 よほど面白かったのだろう。小さな体がめいっぱい背伸びしてしゃっくりのような引き攣れを漏らした。
「あー……。ビビっちゃった訳ですね」
 殺された者が殺した相手を見ればそうもなろう。クライマックスの頬に汗1すじ。同情。青空の両親に。
「もっとも傑作だったのはその後のりばーすの反応でな、奴め膝を抱えて盛大に落魄(らくはく)しおった」


『ひいっはないでしょ……。そりゃ私めもやり過ぎたけどさ……やり過ぎたけどさ……』


 黒ブチ眼鏡がずるりとズレた。
「傷ついてたんですか? 自分で殺しておいて」
「もっともその反応に両親めらは感ずるところあったようじゃ。わしとの生活の端々で、りばーすを気遣っておったよ」
「いやでも、ついカッとなってとはいえ、殺しておいて落ち込むってのはこの上なくヘンです」
「そこが奴めの面白いところじゃよ。憤怒を宿しておきながら、いざそれを発散すると途轍もない罪悪感に見舞われ落ち込
まずには居られんという」
「……あのコ家庭崩壊とかさせてますよね? その時もですか?」

「やりたくないがやらねばならん。そういう表情(かお)じゃよ。要するに自分の所業が悪だと認識しつつも悪的行為でしか
鬱屈を晴らせん状態に陥っておる」

「何故ならば奴はかつて、人間として正しく真っ当に生きたいと心から願い、それを成すべく懸命に生きていた。じゃがその
正しい生き方に於いてあやつは一度たりと世界から救いを齎(もたら)されなかった」

「ならば悪として振る舞い、衝動の赴くまま生きたい……されば救われると奴は間口においてそう信じていた。じゃが所詮、
悪行は悪行。真の意味で己が身を救う事などありえん。衝動を発露し、無辜の家族をいくつも離散解体に追いやり、その
瞬間だけ昏い喜びに打ち震えようとそれは後悔や葛藤にすぐさま塗りつぶされ心苦しさに変わっていく」

 年寄りらしく実にながい、勿体ぶった話にクライマックスはただこう呟く他ない。

「それじゃまるで依存症」
「に、近いの。そこがただの憤怒の化身でないりばーすの難しさよ。内包する怒りは発散したい。発散し快美を得ねば癒さ
れない。じゃが発散すればより多くの心苦しさがのしかかり、怒りと苦しみは益々益々増えていく。そしてまた発散したくなる
悪循環。しだいに”はーどる”は上がっていくよ。やり方が旧態依然、ずっと不変であれば得られる快美は減っていく。じゃか
らよりえげつない方策に走らねばならぬ。だが良心の呵責という奴はえげつなさの分だけ強くなる」
「そして怒りがますます強く……」
「憤怒ゆえに理性が伸び理性ゆえに憤怒が高まる。なまじ自制心があるばかりに奴は苦しんでおる。単なる怒りの獣の方が
まだ人生というやつを”えんじょい”できるじゃろう」
 厄介な女だ。クライマックスは恐怖というより呆れる思いだ。
「しかもあやつ、実は心の底では『壊した家庭が元通りになるのを』見たがっておるようじゃ」
「はぁ!?」
 意味が分からない。ここでやっと眼鏡がずり落ちているのに気づいたクライマックス、慌てて直す。つるを横っちょから
抑える掌は全体的な冴えなさからすると奇跡的に白く綺麗でシミがない。30回ローンで買った48万9800円の自動食器
洗い機は、彼女にしては珍しく、買った目的を達しているのだ。それで処理しきれない小物たちを洗うとき着装されるドイツ
製の業務用ゴム手袋もまた2万9800円分の仕事をしている。にも関わらずあまり人には褒められない繊細な手が次に行っ
たのはアワアワした指差しで、だから向けられた方は思うのだ。(ああこやつ金の使い方間違っとる)。声も手も綺麗なのに
中身が何もかも台無しにしている……以下はそんなクライマックスの反問。
「壊しまくりたいだけじゃないんですかっ!? 元通りになるの見たいとか、そんな気配、微塵も──…」
「ややこしいじゃろ? だが内心では『自分こそが間違っておる』という事実を叩きつけられたくてしょうがないらしい」

 何というか実に難しい話題だ。
 そういう心理に陥っているリバースもリバースだが、それを読み取れるイオイソゴもまた想像の範疇を遥かに超えている。

 先ほどのリバースの様子だけでは到底家庭の復興を望んでいるようには見えない。そもそも彼女は平常時だろうと激昂時
だろうと『常に笑顔』だ。表情から真意を読み取るのは至難の業だしそもそも声を出さないから声音で感情を知るのも不可能。
或いは幼いあの老婆、影からずっとリバースを観察し続けやっと上記の結論にたどり着いたのではないのか? そういえば
武装錬金特性にも詳しかった。やはり密かに観察していたのか?

 クライマックスはとうとう黙り腕組みする。唸りさえあげ始めた。

「ひひっ。ヌシにはちと難しい話題かの?」
「ええまあ、ただ」
「ただ?」
「難しいからこそファイトが湧いてきますこの上なく!!」
「ほう」
「元声優ですからね!! 『理解この上なくブッちぎった』概念は苦労しますが……大好きです!! そりゃあ簡単には理解
できませんけどー、ソコ理解したうえで自分のものにする!! 腹臓からの声にしてマイクに叩きつける! そーいうプロセス
辿ったのは100や200じゃないですこの上なく!」
「お、おう」
 イオイソゴは目をまろくした。この老女が気圧されるのは盲亀浮木より珍しいのだが、クライマックスは気づかない。なぜな
ら思考に没入しているからだ。親指をくわえブツブツ言う姿から漂うのは……鬼気。先ほどリバース(青空)を戦わずして屈
伏させたイオイソゴでさえ近寄りがたい、独特の鬼気。


 2分ほどそうしたあと、パッと双眸に光を宿したクライマックスは一転童女のように愛らしい。


「つまり、あれですか? 自分がどんなに無理やりお父さん暴れさせても、それに揺らがず、幸せじゃない環境でひたすら
皆一生懸命協力して、お父さんをこの上なく愛して、労わって。ずっとずっと一緒にいるような家族を見られれば──…あ
のコは自分の過ちに気付ける……あ、いや、そういうのを見て、気付きたいと?」
「概ねその通りじゃ。総括するとじゃなあ。何ら努力せず上っ面だけの幸福を貪っているような連中は許せん。追い散らし
たい。だが一方で奴はこうも思っている。『努力によって築かれた確かな家庭幸福もある』『それを壊すのは誤り』……と。
何故なら奴自身、不遇の中で常に努力を重ね生きてきた。それを否定される痛みは存分に分かっておる」
「でも、分かっていても幸福そうな家庭は許せない。街角で笑いあってる人たちは努力してる風には見えません。この上なく。
だから、それが腹立たしい。壊したい。なのに『努力した結果を壊す』のは辛い。でも努力してない結果ならとことんとことん
この上なくブッ壊したい。……なんかもうややっこしい人すぎます」
 じゃろ? 桜色の唇から全身へ忍び笑いが伝播した。
「壊れても何度も立ち上がる強さを。あやつはそれを見て、間違いをハッキリ突きつけられたいのじゃ。奴のいた家庭のよ
うに、幸福になるためではなく、心から相手を愛し、思いやれるからこそ『家族』でいられる連中。相手が病苦によって災い
を齎(もたら)してきても、どんなにどんなに虐げられようと、相手を救わんと献身を諦めぬ者たち。そんな”ほむんくるす”で
もなければ武装錬金も使えぬ市井の者どもが心からの絆のみで、あの最悪の幻覚現象を乗り越える──…いまだかつて
一度もない大奇跡じゃが、それを見ぬ限りりばーすめは憤怒と鬱屈の悪循環からは抜け出せん」

 クライマックスはしばし黙った。その長い、足首まであるとても長い黒髪が前に向かってやおらたなびいたのは、装甲列車
の壊した隙間から冷たい風がびゅうびゅう流れ込んできたからだ。

「あのコもまた誰かから何かを、『伝えて』欲しいんですね……。ただの否定の言葉じゃなくて、純粋な正しい態度を示して
貰って、『やっぱりどう見てもあなたは間違っているよ。でも頑張ればこの光景に来れるよ』って」


 叱責されながらも、救いの手を差し伸べて欲しい。
 
 壊れても何度も立ち上がる強さを。


「誰かにもたらして欲しい! そう思っているんですねリバースちゃん!」
「……感奮したのは分かったから静かにせい」
「は、はい……。難儀だけど……難儀だけど…………可哀想なコなのですねこの上なく」


 やや芝居がかった調子で(というか芝居そのものの『入り込んでいる』表情で)、クライマックスは両手を組む。胸の前、神
に祈るよう、2つの掌を合致させ。瞳は涙に濡れていた。

「ちなみにあやつの表稼業を知っておるか?」
「なんです? スナイパーとか?」
 いや。イオイソゴは肩を揺する。くっくと笑う。
「孤児院経営じゃよ。恵まれぬ環境にある者たちを養い、面倒を見ておる」
 口をあんぐり開けるコトでしか驚きを示せそうにない。クライマックスはそう思った。
「え? 孤児院? まさか自分で壊した家庭の子供さんとか預かってるとか?」
 いやいや、と老女は首を振った。
「交通事故の遺児とか捨て子とか、まあそういう感じの連中じゃよ。ちなみにホムンクルスにも信奉者にもしておらん。あく
まで普通に育て、普通に暮らしておる」
「ですよねー。流石に自分の壊した家庭の子供とか預かってったら、この上なくマッチポンプじゃないですか」
「ま、まっち……?」
 後ろ髪にかんざしある古風な少女が首をひねった。目をぱしぱしさせながら「まっち? まっち……?」と舌ッ足らずに連呼
しているところを見ると、どうも言葉の意味がよく分かっていないらしい。
「イオイソゴさん、もしかしてマッチポンプの意味が分からないんですか?」
 元教師らしい静かな質問に、少女の肩がびくりと震えた。


(あ、図星です。そういえばイソゴさん、横文字がてんで駄目でしたね)

 外来語を喋る時はいつも舌が回っていない。コードネームたる”リバース”とか”グレイズィング”も常にたどたどしい。
「おっ、おおお?? いや、知っておるよわしは。うん。まっちぽんぷじゃろ? とと当年とって555歳、知らぬ事などありは
せんよ」
「そ、そうですかァ〜」
「う、うむ。あのでっかくてギザギザしとる奴じゃろ。な? な?」
 困った。どう反応すればいい。クライマックスは引き攣り笑みを浮かべた。同じ幹部とはいえ相手は遥かに古参。迂闊に
馬鹿にすれば文字通り首が飛ぶ。(あの青空でさえ戦わずして威圧した相手だ)。困っていると、その動揺が伝播したの
だろう。黒ブレザーの上から必死な声が漏れ始めた。子猫が必死に威嚇しているような、柔らかい声が。
「知っとる! 知っとるよ! ただちぃっとばかし物覚えが悪いゆえスッと出て来んかっただけで……! ええと! ええと!!」
 良く見ると大きな瞳がその淵に涙さえ湛えている。「長生きしているのにこんなコトも分からないんですか?」と馬鹿にされる
のが嫌なのだろう。意地を張っているのだろう。でもどうしても分からないから困り果てているらしい。気づけば彼女、クライ
マックスの安物の服をつまんで「ままままっちぽんというのはじゃなあっ」としゃくり上げ始めている。
(ああ、これも中身がお婆さんだからこの上なく仕方ない事なのです。蛍光灯の紐に洗ってないストッキングぶら下げて不精
しますし、部屋に遊びに行くと「もうちょっとおってくれ、もうちょっとおってくれ」とお小遣いくれたりしますから……)

 とりあえず5分ほど揉めて、説明完了。

「で、どう決着したんですか? リバースちゃんの件」
「う、うっさい。毛唐どもの作った文字分からんからって馬鹿にするでないわ。そんな奴には教えん。教えんわ…………。奴が
子供ら養うために働きづめで、研究班の仕事もあるせーで1日2時間しか寝とらんとか絶対にいわんからな」
「言ってるじゃないですか」
「もう言わん。言わんもん」
 泣きはらした目が「ぐずっ」という音とともに揺らめく。ああ拗ねてる。余談だがイオイソゴはフェレットとマンゴーの調整体で
だから体液は常に芳しく匂い立つ。柑橘農家にいるような甘ったるい匂いの中、しかしクライマックスは困り果てた。

(拗ねないでくださいよぉ! この上なくリアクションに困ります!)

「どうしてもっていうならわしの頭撫でい」
 ぷいと顔を背けたイオイソゴだが、横向きの済んだ瞳は何かを期待するようにちらちら見てきてもいる。目が合うたびフン
と鼻を鳴らして顔を背けて、5秒も経てばまた恐る恐るという感じで目をやってくる。
「い、今ならたーくさん撫でさせてやらん事も……ない、ぞ? ど、どうじゃ?」
(どうじゃと言われましてもーーーーーーーーー!!)

 なんで自分の年齢の20倍生きてる年上の老婆を撫でねばならんのか。腐ってはいるがロリコンではない──厳密にい
えば可愛ければ何でも良しで、たまにそーいう系統の薄い本だって買う。けれど元女教師という肩書はときにそういう行動、
義務教育中の青い果実を求める心をひどく悔やませる。だから意図的に『催さないよう』、心がけている──クライマックス
はほとほと困り果てた。さっき背中を叩きはしたがアレは教師としての慰め、使命感みたいなもの……現にいまのような
”甘え”を認めるやすぐ引いたクライマックスなのだ。
「くううううぅぅう! この優柔不断! あほうっ! かいしょなしのトンチキ!」
(トンチキ!? きょうびトンチキってあなた!?)
 とうとうイオイソゴの方が折れた。彼女はクライマックスの胸に飛び込むなりポニーテールを左右にフリフリと動かした。
「撫でるのじゃっ! わしは撫でて欲しいのじゃ! 撫で撫でしろじゃ!」
(老獪で狡猾なクセに甘えん坊……!? この上なくアクが強いのはあなたも同じじゃないですかあっ!)
 遂にぴょんぴょん跳ね出した老婆には辟易する思いだ。

 さらに1分後。
 そこにはキリっとした表情のイオイソゴが。

「奴の妹については「わしが追跡調査したがどうも死亡したらしい」という辺りで手を打つよ。離反したかつての月に遭遇し
て斃された……そんな匂いを報告書に紛れ込ませておけばどうとでもなろう。仮にウソがばれたとて汚名を被るのはわし
自身。それなら何とかなろう」
「それはもう調整役としてこの上なくいろんな人に恩を売ってますからっ! 大丈夫デス! 私も弁護しますよ!」
「あーはいはいありがたやありがたや」
 気の抜けた声で適当に相槌を打つイオイソゴに対し……「あれ?」。クライマックス、顎に手を当てる。
「離反したかつての月って誰なのでしょーか? 今の月はデッドさん。目がこわーい人ですよね? よね?」
「総角主税……『今は』そう名乗っておる男じゃよ。9年前出奔して以来、わしらに何かと仇を成しておる。奴なら玉城光も
斃せよう。またそう喧伝しても違和感はなかろう。特に邂逅した事のある『火星』『月』『金星』辺りは確実に信じる」
 そうですかァー。軽い調子ではうはうと目を輝かすクライマックスはすっかり野次馬根性丸出しである。それも仕方ない。
入ってまだ1年と経たぬから、見聞きするコト総てが新鮮なのだろう。イオイソゴはそう思った。
「ちなみにデスね。さっきは落とし前つける形で武器捨ててましたけど……」
「?? なんの話じゃ?」
「もしリバースちゃんが本気で掛かってきていたら勝てましたかっ!?」
 ああ、アレか。イオイソゴは目を細めた。と同時にその手めがけ何かが飛んできた。
「見い」
 言われるがまま覗きこんだクライマックスは首をひねった。手にあるのは耆著。イオイソゴの武装錬金だ。それ自体が掌
にあるのは別段不思議なコトではないが……ただ、どこから飛んできたかは不可解だった。
「りばーすの肩」
「ふぇ?」
「最初ココに来た時な。わしは奴に抱きついた」

──「じーぐぶりーかー! 死ねええええええええええ!!」
──「はいはい」
── 飛びこむなり腰に抱きついてきた少女を青空は慣れた手つきで撫でた。すると彼女は大きな双眸をきらきらと輝かせなが
──ら「いーやーじゃ! もっと撫でるのじゃ! もっと撫でるのじゃ!」と肩を揺すって懇願してきた。

「その時、腰にこいつを打ち込んでおいた。そしてさりげなく、奴が気付かぬほどさりげなく周囲の肉を溶かし、緩やかに蠕
動させながら肩へと。すぐにでも首を狙える辺りに移動させておいた」
「……まさか。わざわざ話して時間を稼いでいたのも」
 この老婆と話している時は驚きばかりが飛び出てくる。クライマックスはつくづくそう思った。
「そのまさかじゃよ」
 イオイソゴはにゅっと笑みを浮かべた。零れる歯はとても白い。
「もし奴が本気の殺意を見せたのなら、即刻この耆著を頸椎に捻じ込みあらゆる神経伝達を遮断。引き金を引けなくして
やるつもりじゃった。……如何に強力な武装錬金といえど、操作ができねば無力じゃからな」
「あー。凶弾を発射するには引き金引かないと無理ですよね……。でも……」
「でも?」
 冴えないアラサーは詰め寄る。憤懣やる瀬ないという様子で手を広げ。
「さっきいちいち上げた4つの破り方は何なんですよお! アレ以外にも破り方あったじゃないですか!」
「実力伯仲の相手に手の内総てを晒すわけないじゃろ? あれらは全て事実じゃが、事実ゆえに囮じゃよ。何も相手の土俵
に乗ってまで勝つ必要はない」
(つまりもう最初から勝っていたようなものだと。この人……汚いです。この上なく)
 ひひっと引き攣り笑いを浮かべるイオイソゴにはそれ以外の形容が見当たらなかった。
「ま、でも殺しはせんよ。奴は義妹に対する格好の”かーど”たりうるからの。あれほど強い玉城光とて、まだ10年と生きて
おらぬただの少女。もし戦団や総角主税どもに悪用されたとて、肉親の情で攻められれば必ず揺らぐ。ゆえに何があろう
とりばーすは殺さんよ」
「逆らってきた場合、(青空の)お父さんとお義母さんはどうしました?」
「じゅらり」
 イオイソゴの口から途方もない量の唾液が噴き出した。それは生理反応だったらしく、彼女は慌てて袖口で口を拭いたく
り始めた。
「う、うむ。まあ、何もせんよ。本当。仲間の家族を食べるとかは……良くない。道義に反する」
(食べるつもりでしたか……うぅ。この上なく腹ぺこお婆さんです)
「いや、食べんよ? 蘇生以降10年もの歳月を投じ、わしの部下兼疑似家族として鍛え上げたのじゃ。それを喰うなどと
いうのは費用対効果の面から考えて好ましくない」
 もったいつけた様子の口から唾液はまだまだ溢れてくる。涎がはしたなく唇を伝うのをため息交じりにクライマックスは
見た。
「10年? あれからまだ数か月しか経ってないような……あ。そういうコト?」
「そう。うぃる坊の武装錬金じゃよ。確かに『こっちでは』、数か月しか経っておらんが、わしらは10年の歳月を共にした」
「さすが時空関連ではこの上なく並ぶものなしな武装錬金です」


「そもそも」


「300年後から来たんですよねー。ウィルさん」


「後はまあ、こっちでわしの趣味に1年ばかり付き合って貰う予定じゃ。それが済んだら娘たちの元に返す。それが約束じゃ」
「え? ホムンクルスにはしないんですか? 食べたりとかは」
「せんよ。りばーす的には彼らを義妹の元に返したい筈じゃ。ならそれを手助けするのが仲間というものじゃろう」
(悪の組織の人に仲間とかいわれても説得力ないような……)
 心を読んだのか。いやいや、と首振るイオイソゴ。
「目的が悪行であろうと組織運営それ自体まで悪であってはならんよ。わしらの成すべき悪はあくまで錬金術の本意に沿った
ものであり、それがゆえ達成させねば意味がない。盟主様はすでに100年待っておるしの」
「だから……仲間は大事にする、と?」
「おうよ。とりあえず青空の両親めには軽く整形してもらっておる。娘探しでテレビに出た以上、顔は広く知られておるからの。
後はわしの疑似家族を演じてくれればよい」
「どこで暮らすんですか?」
「場所はいまから決める。まあ一か所につき3か月ぐらいの滞在かの。あまり長くおれば戦士に気付かれる恐れがある」
「あ。じゃあ1年で4か所行くんですね」
「で、じゃな。4か所目の隣には若くてカッコいい男子高校生がおるんじゃぞ! 男子高校生! 男子高校生! こらもうヌシ
の単語でいえば萌えじゃよ!」
 よっぽどそこへ行くのが楽しみらしい。両目を対抗する不等号の形に細めながらイオイソゴは「きゃー!」という歓声さえ
上げた。赤い両頬に手を当てているところなど正に乙女の一言で、クライマックスは「うーん……」と汗を流した。
「苗字はヒミツ! 盗られたら嫌じゃもん! ……む。はしゃぎすぎかのわし。落ち着こう。行くのはまあ最後じゃ。おいしい
物は最後に喰うべきじゃ。あ、いや、喰いはせんが、最後にとっとくのが一番楽しいじゃろ。な? な?」
「いや、イオイソゴさんが「喰う」とかいうと洒落になりませんってば。で、他にはどんな目的が?」
 暗い微笑が広がった。
「チワワ探しじゃよ。9年前に喰い損ねたチワワを……」


「鳩尾無銘を」


「わしはずっと探しておる。逃した魚ほど旨く見えるからの……


 その後、イオイソゴがどこで何をしていたか……クライマックスは「しばらく」知らなかった。



「リバースに狙い撃たれ、崩壊した家庭。その後どうなったかは色々や。一家心中したトコもあるし娘が寝とる父親襲てハン
マーで殴り殺したっちゅうのもある。いっちばんヒドかったのはスーパーで見ず知らずの4歳児殺した奴やな。隠し持っとった
出刃包丁ですれ違いざまに首バッサリ。だいたいああいう場所の天井って3mぐらい上にあるやん? 男児の心臓っちゅうの
は元気なんやろな。水圧カッターみたく噴き上がった血しぶきが今でもベットリや。板変えろ? ムリムリ、そこな、事件のせー
で潰れたよって。いま廃墟。でやな。犯人……よーするにリバースに家庭ブッ壊された奴の言い分はこうや。『子供と幸せそう
に話している父親が許せなかった。自分は不幸なのになんでコイツだけ』……てな。ま、何のひねりもないアレや。裁判なら
『自己中心的、かつ悪質で』とかいうお馴染の枕詞確定、ベッタベタな動機や。ちなみにソイツの母親はな、『マシーンの特性』
で暴れ狂う夫に鼻ブッ刺されて一生鼻水垂れ流す体らしい。妹なんかは膝蹴りぬかれて一生松葉づえ。ま、ウチにいわせ
ればまだ幸せなほーやけど、当人達はドン底や。最初は父親だけおかしかった……ソレもリバースが無理くりに暴れさせとっ
た”だけ”の家庭は、人間的な不可抗力でどんどん悪くなっていった。離婚が起こっても親権が母親に移っても…………。
断わっとくけどな、そのころリバース、手出しやめとったで。だからしょちゅう子供らに炸裂した母親のヒステリーっちゅうのは、
本人が、勝手に起こしたものや。一番不憫やったのは妹で、理不尽に怒鳴られながらもなおイイ子であろうと頑張り続けた。
働きに出た母親に代わって家事全部引き受けた。買い物もな。ある日ブレーキ音とともに白いビニール袋がドロのついたジャ
ガイモや曲がった特価品のキュウリと一緒なって空舞い飛んだのは松葉づえヒョコヒョコつきながら横断歩道わたっとったせー
や。重厚な衝突音のあと総てが血だまりんなか落ちた。轢き逃げや。死亡事故や。犯人はいまだ見つかっとらん。足さえ
フツーなら、離婚さえなければ。兄は、少年は嘆いたんや。家庭が健全でありさえすれば避けられた悲劇。それに対する悲
しみはやがて怒りに転じた。『健全というだけで悲劇を免れている家庭』、幸せそーにヌクヌクしとる連中への……怒りに。
だから奪ったんやな。幸せそーな『父親』から子供を。犯人にとって『父親』っちゅーのは自分から幸福と妹を奪った憎い存
在や。それと同列の存在が幸せそうにしとるから……奪う。結局奪われたら奪うしかあらへんのや。リバースも、犯人も……
ウチも」

「もちろん筋からいえば犯人はリバースこそ恨むべきなんや。見ず知らずの子供殺したところでキブン晴れへん。けど結局、
犯人は、なぜ自分たちの家庭が崩壊したかさえ分からへん。憎んでいる父親、加害者の最たるものが実は被害者で……
みたいな本質はわからへん。そやから黒幕(リバース)の存在も知らん」

「この世にはびこる『憤怒』っちゅーのはつまりそーいうもんちゃうか? 的外れ、真に怒りをブツけるべきものとは別なモン
に怒りをブツける。なぜ不幸や無念をもたらされたのか、何が苦痛を与えているのか。それがまったく分からへんまま、ただ
手近なモンに怒りをブツける…………。人混みん中で石ぶつけられた奴がまったく無関係な通行人にそれをブツける繰り返
し。頭のええ奴ほどスッと身を隠すっちゅうのに、煽るだけ煽って人混みから抜けてくっちゅうのに、怒り心頭の輩は人混み
ん中にまだ犯人がおると信じ石を投げ続ける」


「それに文句やせせら笑いが上がり始めると収拾つかへん。怒りはますます深まる。無理解、救おうとしない連中ほど腹立
たしいものはあらへん。不特定多数から受けた怒りは結局不特定多数へ向ってく。だからキリがない。救われない。リバース
が陥っとる無限獄はそれや。誰か一人、スッと人混みから歩み出て一声かければ、それに救われたっちゅう実感を持てば
何か変わるかも知れへんのに……みたいな意思をかつてあのネコと飼い主はウチにぶつけてきたけど正しいかどーかわからへん」



「防人衛がなろうとしていたのはその『誰か一人』やろうな。平坦にいえばヒーロー。それに……憧れた」


「ヒーローっちゅうのが実際おって、たとえばウチがとことん絶望する前にやってきたら……『不特定多数への怒り』最たる
連中、貧困国の誘拐犯どもを見事蹴散らしたなら、きっとウチはお屋敷で普通に暮らせとったとは思う」

「努力すればヒーローになれる。世界の総てを救える……そう信じていた防人は、けど、赤銅島の件で挫折を味わい諦めた。
ま、一生あのままやろうな。ザマア見ろや」



「ウチの名前? ウチはデッド=クラスター、ディプレスの相方ってトコか」




 羸砲ヌヌ行の述懐。

「防人戦士長をデッドは貶すが、しかし正答は述べてるよねえ。

『誰か一人、スッと人混みから歩み出て一声かければ』

『それに救われたっちゅう実感を持てば』

「何かが変わる。変わるんだ」




「実際、レティクルとの戦いで彼は……変わった。まさに人混みの中から歩み出たたった一人の言葉に奮起し…………
失ったものを、かつて捨てたものを。取り返す」


「防人戦士長だけじゃない。火渡赤馬も楯山千歳も……赤銅島を乗り越える」



「一方、剣持真希士たちの報告を受けた上層部は」




「ディプレス。ディプレス=シンカヒアか」
「奴が生きているだと?」
「馬鹿な。ありえんよ。現に死体はあったのだ」
「検死は石榴由貴……だったな」
「クローンなれば見抜ける。だからこそ任せたのだ」
「奴はいった。本物だとな」
「しかし6年前の事件では……」
「糸罔(いとあみ)部隊の全滅、か」
「軍靴はいった」

「ディプレス=シンカヒアは生きている」

「馬鹿馬鹿しい。大方模倣犯だろう」
「9年前の決戦は激烈だった。マレフィックマーズ……憧れる輩もいよう」
「では、剣持と鉤爪の逢った──…」
「ハシビロコウを真似るホムンクルス、だけではな」
「物証にはならん」
「流れの共同体に関しては?」
「犬飼にでも追わせておけ」
「いま重要なのはヴィクターだ」
「忌まわしき100年前の汚点。雪ぐは総てに優先する」

 ディプレス=シンカヒア。かつて戦団と激しく敵対した組織の幹部。

 彼は死んだ。それが戦団の公式見解なのだ。


 石榴由貴。


 かつて居たお抱えの検死官は誰もが信頼する腕前で、だからこそ彼女の下した判断は、


『真実』


だと、誰もが誰もが信じている。


 羸砲ヌヌ行は述べる。



「もっとも……事実は違うけどねえ」


「石榴由貴は薄々だが気づいていた。1995年の決戦後みつかったマレフィック達の死体。それが幹部の誰かの武装錬金で
作られた『まがいもの』……ではないかって」

「しかし真実に辿りつくコトはできなかった。しかも彼女は悲劇にも見舞われた」

「そしてその悲劇に関わったもののうち」

「1人は音楽隊へ。もう1人はレティクルへ」

「それぞれ行くコトになる。ま、語られるのはもう少し先の話だが」





「そのうち1人の言葉が、リバース=イングラム、玉城青空を大きく揺さぶった」






「本当に姉を愛しているのならば止めて見せろ! これ以上の魔道に貶めてやるな!!!」
「止め……る? ……あだ? 痛い……です」
「ああ! 根源は貴様の姉の命ではない! 歪みのもたらす憤怒だ!! まずはそれを滅ぼせ! 止めてやれ!  何を
されようと救ってやれ! そして罪を償わせろ! それが、それこそが……」
「父に! 母に!! そして姉にしてやれる最大の償いではないのかッ!?」 」



 自動人形からその声を聞くのは何度目だろうか。その日の夜、青空は自室で深い溜息をついていた。
(ポシェットの中に潜ませていたもの。何があったか大体分かっているわよ)
 どういう声の者たちに挑み、何度泣きながら「お姉ちゃん」といい、そしてどういう説得を受けたか。
 感想としては、いい人たちにあったなあという感じである。
 特に熱っぽい──チワワさんと呼ばれた──男の子は本当にカッコ良かった。妹を任せていいと思えるぐらいに。

 イオイソゴに黙っているコトが一つある。

 彼女が探している「チワワ」。彼はいま、光と同行している。

 鳩尾無銘という名のチワワはイオイソゴを指していった。「奴こそ我をこの体に押し込めた張本人の1人」。
 そして彼女は9年前からずっとずっと無銘を探している。
 捕まえて、喰うために。
 もし同行しているのが無銘と知られれば、イオイソゴは確実に義妹の元へ行く。

 だから、黙っている。

 それが顔も知らない「チワワさん」にできるせめてもの恩返しだし──…

 義妹から「好きな男のコ」まで奪いたくはなかった。
 できれば普通の恋をして、普通の幸福を味わって欲しかった。

「本当に姉を愛しているのならば止めて見せろ! これ以上の魔道に貶めてやるな!!!」
「止め……る? ……あだ? 痛い……です」
「ああ! 根源は貴様の姉の命ではない! 歪みのもたらす憤怒だ!! まずはそれを滅ぼせ! 止めてやれ!  何を
されようと救ってやれ! そして罪を償わせろ! それが、それこそが……」
「父に! 母に!! そして姉にしてやれる最大の償いではないのかッ!?」 」


(やっぱり私……歪んでるよね)
『チワワさん』の叫びが豊かな胸の中で何度も何度も木霊する。
 彼は事情を知ってなお、青空を「救う」コトにした。そういう者に出会ったのは──…
(2人目、かな。とにかく光ちゃん、お幸せにね)
 もし自分が救われたら、光も、彼女が好きになった(気配からして一目ぼれしたのは明白だった)「チワワさん」も救われる。
(そう、なれたら……)
 膝を抱えながら瞳を湿らす。自分は本来そちらの未来に行きたかった。でも自分の本質に潜む憤怒、「伝えたい」という
欲求に魅入られ、現在(いま)がある。
 ただ楽しいおしゃべりに興じている家族たちは許せそうになかった。チワワさんもまた欠如ゆえに人を救うコトを覚えた者
なのだ。恵まれていない人は救いたい。恵まれている人には苦しみを伝えたい。その思いは如何ともしがたかった。
(二律背反。イオイソゴさんは打ち明けろっていうけど……)
 もし憤怒を失くして「救われて」普通の女のコになってしまったら、この世で楽しく喋る家族たちを許容できるようになってしまっ
たら……組織はそんな幹部を不必要とするだろう。
(みんな、欠如とそれに対するやるせなさがあるから、仲間でいられるの。今の私の悩みは「ホムンクルスをやめたい」って
いうような物だよ)
 世間から見れば決して褒められた人格ではないが、イオイソゴたちは確かに仲間だった。限りない欠如を抱えているが、
それだけに各人は個性の中核を成す『ある一点』に関して非常な優しさを持っている。それに青空は何度となく救われても
いる。傷のなめ合いといわれればそれまでだが、裏切りたいとは決して思えない。
(誰かにどんな風に言われても……みんなみんな、私の大事な仲間なの)
 そう思っても「チワワさん」の言葉が耳から消えないので──…

 玉城青空は『直接』家庭を崩壊させるコトをしばらくやめた。

 それは凄まじい鬱屈をもたらす行為だった。

 代償行為が必要だった。

 だから。

 代わりに老化治療と、間接的に家庭崩壊のできるホムンクルス研究に専念し──…



「ほう! ほう! ほたらようけの鳥さんになれよん!? ほんなんええなあ!」
「ねーがいよるのは最大とか最速とか大きなあ奴ばっかでどもこもならん! うん! いかないっ! わしはもっとじゃらじゃ
らした鳥さんになりたいんよ。とーからほー思っとんよ。でもねーは大きなあ奴ばっか!」

(大まかな奴ばっかでどうにもこうにもならない……うぅ。ひどいよ光ちゃん。私だって一生懸命鳥の図鑑見てカッコいいの
探したつもりなのに。のに……)

 時には義妹のセリフに膝を抱えて泣いたりしながら──…

「はい。お姉ちゃんはたった一人の家族だから……何もいわずに別れたく……ないです」

(ありがとう光ちゃん。こんな私をまだ家族だと思ってくれて)

 時にはアホ毛をちぎれんばかりに振って小躍りしながら──…



(でもみんなに刃向うなら、まず私が出るからね。それが……責任っていうものだよ)

 組織に属する者として。両親を奪った者として。




 決意を高めていくうち。






 およそ1年が、過ぎた。






「インディアンを効率良ーく殺す方法をご存じかしら?」

「まさかあれだけの巨体をいとも簡単に無力化するとは……。大戦士長ともあろう者がとんだ
不覚を取りました」

 扉の向こうから声が聞こえてくる。

 リバース=イングラムはその片方に聞き覚えがあった。

「グレイズィング=メディック。……思い出しました。確かキミの名はグレイズィング」

 片方は1年ほど前に実父と義母を蘇生した衛生兵の使い手だ。そして残りは──…

「坂口照星。先日うぃるとぐれいずぃんぐとくらいまっくすが誘拐した錬金戦団のお偉方じゃよ」
「そう」
 聞かされてもあまり気乗りはしなかった。いまから彼を拷問にかけ長年の恨みを晴らすという。
 周囲にいる仲間たちはそれなりに気運を高めているが、青空はどちらかといえば不参加を決め込みたかった。
 チワワさんのセリフを聞いて以来。
 家庭を壊すのをやめて以来。
 憤怒はその向け所をすっかり失っているようだった。
 ましていまの相手は戦団──ホムンクルスを斃す正義的な集団──で、筋からいえば青空が『伝えたい』コトは特にない。
 適当に撃って切り上げよう。そう思っている時である。
 神妙な面持ちのイオイソゴが袖を引いて来たのは。
「どうしました?」
 ただならぬ様子に息を呑み反問。……実父と義母を預けていた彼女に。身を案ずる情愛はまだあった。
「死んだよ。彼らは」
 沈痛な声だった。手からサブマシンガンが転げ落ちた。
「わしが潜伏しとった場所に戦士が来ての。鉤手甲じゃよ。鉤手甲でバラバラにされた。ぐれいずぃんぐめが近場におれば
良かったのじゃが、あいにく任務で遠方におった。24時間以内には──…」
「たどり着けなかったんですか?」
 からからに乾いた口の中からやっとの思いで言葉を引きずり出すと、イオイソゴは深く首を垂れた。
「仮初とはいえ、いい父母じゃったよ。ヌシには感謝しておる……」
「死んだ……? 人間なのに? お父さんとお義母さんが……戦士に刻まれ……て?」
 しゃがみ込み、サブマシンガンを拾う。戦慄く全身から久々の感情が噴き出してくるようだった。
「私でさえ間違って殺してしまったのに……光ちゃんにもう一度逢わせてあげたかったのに……」
 どうして確認しなかった。
 戦士ならまず人間か否かを確認すべきではなかったのか。
 ホムンクルスが殺されるのは仕方ない。それだけのコトをしている。
 だが。
 ただ光に再会するためにイオイソゴに付き従っていた実父と義母は?
 殺されていいはずがない。同じ人間なら尋問をし、酌量し、保護すべきではなかったのか?
 なのに戦士は有無を言わさず彼らを殺したという。
 青空自身、実父と義母を憎む気持ちはあった。でも家族でもあった。いつかやり直せたら……未練がましくもそう思っていた。
 それが、断たれた。
(光ちゃん。ごめんなさい……もう一度会わせてあげたかったのに。もう一度、会わせてあげたかったのに)
 涙が、出た。
 何のために自分はあの晩、泣きじゃくってまで蘇生を頼んだのだろう。
 いつしか自分がしゃくりあげているのに青空は気付いた。
 涙を必死に止める。
 その代わり、失意と空しさが湧いてくる。
「そう在るべき」静かな感情とは真逆の灼熱が、脳髄を焼くようだった。
「落ちつけりばーす。その戦士はわしが殺しておいた。仇はすでに取っておる」
 じゃから、とイオイソゴはゆっくり喋った。
「扉の向こうにおる戦士の元締めに、ヌシの感情を『伝えて』やるなよ? そんなコトをしてもヌシの両親は戻って来ん。他の
戦士にその感情を『伝えて』も全く以て意味がない」

 踵を返したイオイソゴの頬が笑みにニンガリ引き攣っているコトに青空は気づかない。

 ただしばらく俯き黙りこみ──…

「ええ」

 黒い白目の中で真赤な瞳を輝かせながら……笑った。



「そう。治して差し上げますわよ。ちょうどマレフィックの方々が御到着されましたし」



 扉が、開いた。


「ダブル武装錬金二重の苦しみを味わって味わうのよ」

 支給されていたもう1つの核鉄が、サブマシンガンになる。
 すすり泣くような声はきっと相手に届いていないだろう。
 だがそれでも構わない。
 声が届かないのはいつものコト。

 だから。



                                 伝える。



 手にしたサブマシンガンで……伝える。

「戦士相手に私の悲しさをたっぷり伝えるのよ許さない許さないふふふははははあーっはっはっはっはっは」

 すれ違うグレイズィングが軽く舌を出した。「あーあキレてる小声で聞こえないけど」。そんな顔をちょっとすると。

……どこからか、刀が床を突き刺すような音がした。

 それを合図にグレイズィングがパンプスの踵を軸にくるりと振り返り、ウィンクしつつノブに手を当てた。

「それではしばし、ごきげんよう」

 ドアがゆっくりと閉じられ──… 
 呼吸困難に苦しむ坂口照星目がけリバース=イングラムはゆっくりと歩き出した。


















 彼女は知らない。



「よくやるわねご老人も」

 サブマシンガンであらゆる感情を伝えている間、扉の向こうで。

 白いシーツがほぼ床まで垂れる丸いテーブルの周りで。

 こんなやり取りがあったのを。


「なぁに。ちょっとした仕返しじゃよ。奴は義妹放逐の件でわしを騙そうとしたからの」

 優雅に紅茶を啜るグレイズィングの前で、小休止中のイオイソゴはせんべいを一齧りした。

「確かにウソはいってませんわね。あのコの実父と義母がバラされた晩、確かにワタクシは遠くにいましたもの」

「死んだのも事実じゃ」

 ふふっ。紅茶をコースターに置くとグレイズィングは品のない笑みを浮かべた。

「でも遠くにいるワタクシはクライマックスの装甲列車で24時間以内に現場へ到着し、彼らを蘇生しましたものね!!」

「間に合わなかった、とは一言もいっておらんよ。勘違いしたのはリバースのみ」

「そして彼女に腕の件と……えーとなんでしたっけ、そうそう。同人ゲームのアフレコ拒否で怨みを持っているクライマックスは」

「両親生存の事実をいわんじゃろう。黙ってニヤニヤ見てる方が爽快らしい」

「とにかくコレで」

「おうとも。来るべき決戦において奴は戦士と戦うもちべーしょんを得た」

「最近のあのコ、なんだか憤怒を失くしているようでしたものね。だから、焚きつけた、と」

「これで戦士相手には申し分ない仕上がり」

「ところでどうしてあの2人を蘇生させたのですかご老人?」

 しばし黙ってから、イオイソゴは答えた。

「仮初とはいえ、いい父母じゃった。わしを実の娘のように遇してくれた」

「だから、生き返らせたと?」

 答える代りに低い鼻をこすり、イオイソゴ=キシャクは照れ臭そうに笑った。



 サブマシンガンであらゆる感情を伝えている間、扉の向こうでそんなやり取りがあった事を。


 伝えるコトを誰より望む彼女に真実が『伝わっていない』皮肉を。



 リバース=イングラムは知らない。


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