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過去編第003話 「動き始めていた時間の真ん中で(後編)」



 そのマンション襲撃の後始末は他の戦士長の管轄だったから筋からいえば別に防人衛が心痛を覚える必要はなかった
のだけれど、例えば誰かが事後処理の進捗具合──といっても手がかりのなさを再確認するだけの空虚なやりとり──を
囁きあっているのを聞くだけでもう覆面の奥が蒼い哀惜で、だからだから剣持真希士は当惑した。

「燻ってんのさ。奴はずっと」

 橙色の光輝のなか面白くなさそうに呟いたのは火渡赤馬。何かの任務で珍しく同じ班になった彼がこれまた珍しくかつて
の同輩評をさほど親しくもない真希士に漏らしたのは、会話の端緒が、この時まだ新人(ルーキー)に毛が生えた程度の
後輩への文句づけだったからで、それはやがて師匠筋の防人へのダメ出しにスライドした。

「燻ってんのさ。奴はずっと」

 とはつまり日頃抱えているかつての朋輩への他愛もない不満の表れなのだろう。

「アイツは昔、世界の総てを救うヒーローを目指していた。今でこそ与えられた任務のなか最良の結果を出すとか何とか
ぬかしやがってるが本心は違うぜ。あのクソッタレは今でも心のどこかで思ってるんだよ。任務がどうとか条件がどうとか
知ったこっちゃねえ、『総てを救いたい』『努力して何もかも救いたい』……ってな」

 つまり救えなかった命、手の届かない場所で消えてしまった命さえ防人は惜しみ、悲しんでいる。

 火渡の言葉はまるで自らを語っているようで、それゆえ真希士の心に強く残った。

「ヘッ。なのにそれができねーって勝手に決めつけてやがる。奴は一度しくじってんだよ。あ? 違ーよ。テメーが遭った飛行
機事故じゃねェ。島だ。村落がたった一人残して全滅しちまった事件。コツコツ積み上げてきた努力が全く通じなかったってん
で打ちひしがれてんだよ勝手にな。燻ってるっつーのはソコなんだよ。どうにもならねえ不条理に見舞われながらまだ昔の夢、
切り捨てられずにいる癖に、事件前みたく全力で挑むコトもできねえ。なんでかって? 大勢を守り切れず死なせたからだよ。
以前のままいるのが耐えきれねえのさ。贖罪意識だの罪悪感だのでな」


「けど俺にいわせりゃその程度のコトにへこたれて失くすようなー自分(テメエ)で何ができるっつー話だ」

「そうだろーが!」

「世界総てを救うとか吹いときながら島一つで諦めちまったような奴に何ができる!?!」

「いい加減むかしのコトなんざ切り捨てろよ! 下らねえ無力感と一緒によ!!」



 とにかく軽い回想から現生へ帰還した剣持真希士が愕然と硬直したのは、先を歩いていた筈の先輩──鉤爪──の姿が
忽然と消えていたからだ。

(オレ様不覚! 山道ヒマだからってヨソ事考えすぎ!)

 しかしヘコたれない。時は平成、文化繁栄。胸元からスルスル携帯電話を取り出すや速攻で電話。

「すまねえ。あー本当悪い悪い」

 ややイラつき気味な先輩戦士の声にかんらかんらと笑って謝ると方針はすぐさま固まった。

「分かった。集合は予定通り山頂だな。標的──…共同体のアジトがあるっつー。地図? ある! あるから大丈夫だって!」

 そして携帯電話を切り、踵を返した瞬間──…


 筋肉の鎧を纏う巨大な体が何かと衝突した。



「あだーーーーー!!!」



 次いで舞い上がった声はとても柔らかく……可愛らしい。



 吹っ飛んでいくのは少女だった。小柄で、タキシード姿でシルクハット、お下げ髪の。


「あ! 悪ぃ!! ……? ?? てか何で女のコ? 山だし平日だし昼だし……」


 目を白黒させるのは相手も同じで、声にならない弁明を漏らしている。


「とゆーか」

 少女の下半身はロバだった。蹄のある四本の足が地面をばたつき何とか立ち上がるころ、剣持真希士の野犬のような
瞳がいっそう鋭くなった。


「ホムンクルスかお前! ブツかったのは攻撃か!!?」
「ぎぃやあああ! そそそそーではありますが人様に害悪なそうという存在ではありませぬ! ぶつかったのも元をただせば
追跡のため、無銘くん追いし追跡モードに気を取られておりましたがゆえの衝突」



 状況が混迷を極め始めたのは、剣持真希士愛用の第三の腕──西洋大剣の武装錬金・アンシャッター=ブラザーフッド。
肩甲骨の辺りから生えるアームが変則的な太刀筋を描く──が金切り声をあげながら小札零を狙い撃った時だ。

『流星群よ! 百撃を裂けえええええええええええ!!』

 茂みの中から、金粉のような形した無数のエネルギー波動が、大ぶりの剣をズガチロと舐め尽し軌道を変えた。大鉈で
捌かれたような不自然な圧力が真希士の右肩を襲う。筋と蝶番が絶叫を上げるなかしかし彼は第三の腕を以て骨をねじ
込む。はたして剣の軌道は当初の予定どおり小札を狙い撃ったが切り裂いたのは陽炎で、気づけば新手が彼女ともども
走り去ってゆく。ガサリという音は頭上からで、先ほど光波をブッぱなした存在が、樹上で猛然、遠ざかる。


「フ。まさか戦士まで来ているとはな」
「あうあうあーー!! 当然といいますかなんといいますか!!」
「追ってくるじゃんアイツ!! どすんのよご主人! 」
『と!! とりあえず追跡は中止! 鳩尾のところにまで来られないよう』


 山頂とは真逆の方向へ駆けだす音楽隊を、剣持真希士が追い始めたのは、もちろん彼らへの勘違いあらばこそだ。

「標的発見! この山にいるとかいう共同体はアイツらだな! 鉤爪さんとの待ち合わせ場所と逆方向行ってんのは好都合
か不都合か分からねーけどとりあえず追うッ!」

 実際のところ真希士の標的はすでに総角たちが殲滅している。もっとも真希士以外の戦士が”そう”だが、彼らにとってホム
ンクルスは見敵必殺、所属素性がどうであれ出逢ったが最後、殺しにかかるほかありえない。


 アンシャッター=ブラザーフッドの特性は筋力増強。ただでさえ鳥型ホムンクルスに走って追いつけるまで鍛え抜かれた
大腿部がさらに異様な膨張を見せる。大型トレーラーのような馬力が生まれ彼は加速の頂点へ達した。


 振り切るのは不可能。音楽隊がやむを得ず攻勢に転じたのは、追跡開始から126秒後──…








「1年……。行方不明だった間……お姉ちゃんに何が起こったのか……なぜお父さんたちを殺すほど……変わってしまっ
たのか……その辺は……よく……分かりません……」



「確かなのは…………調整体で……ヤギの要素が入ってて……ときどきめえめえいうのと……

「『組織』に……入っていた……ぐらいです」








「そのあたりにしておけ”りばーす”」
「両親殺すつもりはなかったんじゃなくて?」

 笑いが、やんだ。青空は歩くのをやめたらしい。
 三つ編みを解放されたおかげで自由になった首を動かす。聞きなれぬ声。それが放たれた方へと。
 まず光の目に入ったのは黒ブレザーの少女だった。先ほどまでパーティの舞台だった机の上であぐらをかき、銃撃で破
壊されたケーキの破片をもぐもぐと食べていた。

「その人の名前は……」
「イオイソゴ=キシャク」
 乱杭じみた皓歯も露に唸りを上げる小型犬に、玉置は多少面くらったようだった。
 いつしか広場の丸太の上に並んで腰かけている玉城と無銘である。後者に至ってはもう何度かポシェットへ無遠慮に手
を突っ込み、ビーフージャーキーを引きずり出していた。
 そんな和やかな雰囲気を崩すほど”イオイソゴ”なる存在は『無銘にとっても』悪辣なのだろうか。疑問を抱きつつ質問する。
「……知りあい、ですか」
「忘れるものか!! 奴こそ我をこの体に押し込めた張本人の1人!!! 貴様らの組織の幹部にして忌々しき忍び!」


「ぬ?」
 視線に気付いた少女──イオイソゴは咀嚼をやめ、決まりが悪そうに低い鼻を掻いた。
「おおすまん。こりゃヌシの”けえき”じゃったか?」
 震えながらやっとのコトで頷くと、「転がっておった故つい口をつけてしもうた。許せよ」とその少女は立ち上がった。
 背丈は玉城と同じぐらいかそれ以下。だが雰囲気はいかにもカビ臭い。
「そもそも”りばーす”よ。ヌシはこのまんしょん襲撃に最後まで反対して暴れておったではないか」
「…………」
 青空は息を呑んだようだった。義妹だから分かる。「自分の失敗に気付いた」。そういう反応だ。
「鎮めるためわしらまれふぃっく3人──そこらの共同体なら単騎で潰せる幹部級を3人も出張らせておいてじゃな」
『私の家族にだけには手を出さない……そ、そう約束してくれたわよね。それで私も落ち着いたのよね』
 銃撃。もうすっかり穴だらけの部屋に描かれた新たな文字は心持ち震えているようだった。
 それを認めたイオイソゴ、たっぷり意地の悪い笑みを浮かべた。
「ああ。にも関わらずこの有様」
 頭を踏み砕かれた死体、首なし死体、そして生首。それを順に目で追うイソイソゴは「ああひどい」「ああむごい」というわ
ざとらしい嘆息をひっきりなしに漏らしてみせた。からかっている。玉城は背筋の凍る思いだった。あれほど荒れ狂い両親
を事もなげに殺した姉を……弄んでいる。事実青空は嘲られるたび青ざめているようだった。
『違うのよ……。殺すつもりはなかったの。でも声が小さいって地雷踏まれたから、ついカッとなって』
「ほほう? わざわざ盟主様にまで直訴した挙句が? 冥王星の嬢ちゃんの腕へしおった結果が?」
 ついカッとなって何もかも台無しにしたと? もはやへたり込み体育ずわりで俯く青空に容赦のない詰問が降り注ぐ。
 だが責めている訳ではない。玉城は見た。詰問の最中でもいっこう半笑いをやめぬイオイソゴを。また身震いが起こる。容
姿も背丈も7歳の玉城と変わりないのに、イオイソゴという少女は明らかに子供ではない。ただならぬ雰囲気を纏っている。
詰問はただ相手の弱みを抉って、体よく苛めるためだけにしているのだろう。そう思った。
 ぐうの音も出ない。そんな様子で黙り込んだ青空は抱えた膝に顔を密着させているため、詳しい表情は分からなかったが、
本当ひたすら後悔しているようだった。




 ビーフジャーキーを呑みこんだ無銘は腕組みをしてしばし考えると、呆れたように呟く。
「いや、その反応はおかしい。話から察するに貴様の姉は父と義母を恨んでいるのではなかったのか?」




「本音の一つではあるが全てではない……という奴じゃよ」

 桃色の舌が人差し指のクリームをペロリと舐めとった。もがもがと口を動かし甘味を堪能するコト10秒後、彼女はひどく
しけった口調でやれやれと呟いた。
「色々喚いておったようじゃが、実は完全に憎んでいた訳ではなくての。こやつは激発を孕んでおる割には理知的なのじゃ。
恨みこそあれそれに引きずられるのも宜しくないと悟っておったよ」
 次の言葉を聞いた時、玉城は腕の中の物体を悲しみととともに強く抱きしめた。

「きっかけは”てれび”じゃったかの。それに出たこやつの義母が必死に探している姿を見て幾分感情を和らげたようじゃった」

 不快感がチワワの顔に広がった。
「詭弁だな。現に貴様の姉は義母を殺したではないか。そうしておいて実は殺したくなかっただと? 世迷いごとも大概に
しろ」
「…………私も……同じ事を……聞きました。すると……」



「若いのう。人間という奴はじゃな、常に白黒はっきり分かれておるわけではないよ。憎んでいるが愛している。愛しているが
憎んでいる。そういう不合理で未分化な感情を抱えたまま共に暮らしていく……。それが家族ではないのかの? だからこそ
こやつは家族の助命を嘆願した」
 とここでイオイソゴは玉城に歩み寄り、得意気にクリームの芳香漂う人差し指をビシっと突き出した。
「ヌシの姉はいったじゃろ? やり直そう、また一緒に暮らそうというようなコトを?」

『色々迷惑かけてゴメンね。ちょっと変なコトやっちゃってこのマンションの人らもたぶん全滅しちゃったけど……もし良かったら
また一緒に暮らしてくれる?』

 玉城は気付いた。先ほど書かれた文字を茫然と眺めているコトに。




「お姉ちゃんは…………お父さんたちと……もう一度暮らしたかった……ようです」
「だが欠点を抉る言葉を吐かれつい逆上し……怒りゆえに薄汚い方の本音を吐き散らかしながら虐殺に至ったと?」
 頷く玉城に三度目の呻き。無銘には理解しがたい。彼にしてみれば、放置された青空は父と義母を憎むのが当然であり
憎むのならすぐさま殺すべきなのだ。されど話を聞く限りでは確かに青空は一旦同居を提案した。やり直しを提言した。少
年無銘にしてみればそこにこそ罠があるべきなのだが、どうもスッキリとまとまらない。やはり欠如の指摘に「ついカッとなっ
て」やってしまったのだろうか。それにしてはいささか凄惨すぎるが……。


「とはいえじゃな。感情をどうするコトもできず理想を破壊してしまうというのまた人間らしくはあるじゃろう。そういう齟齬じゃよ。
人をより進化させ、うまい料理を作らせるのは。だからわしは人間という奴が大好きじゃ。何より……旨いしの」
 そういって、すみれ色のポニーテールにかんざしを挿す古風な少女はからからと笑った。




「後で聞いた話ですが…………お姉ちゃんはただ……自分の気持ちを伝えたかった……ようです……。でも伝えるために
は喋るより先に…………手を出す方が……気持ち良くて……確実だから…………どうしても……止まれないらしい……
です」
 しばし無銘は呆気に取られた。口を半開きにしたまま虚ろな瞳をじつと眺め続けた。風が吹き、木々が揺れた。その音を
どこか遠い世界のように感じながらようやく自我を取り戻した無銘は、からからに乾いた口からやっとの思いで感想を述べた。
「なんと厄介な女だ」
「…………ぷっ」
 両腕のないどこかの彫像のような少女に初めて人間じみた変化が訪れたのはこの時だ。不必要な言葉は決してこぼす
まいとばかり閉じられていた唇が綻び、慎ましい忍び笑いを漏らし始めた。
「何だ」
 憮然とした様子のチワワに玉城は染み通るような微笑を向けた。
「実は……私もちょっとそう思ってます。だから……おかしくて……」
(わからん。彼奴の感情が……我には分からん)
 両親を殺した相手を語っているのに、どうして笑えるのか。それが無銘には分からない。
「たった1人の…………家族だから……です」
 玉城は、青い空を見上げた。虚ろな瞳にわずかばかりの光が灯ったとき、無銘の心は青く疼いた。
「チワワさんにとって厄介でも……それが私の…………お姉ちゃん……です」
 彼女は青空を懐かしんでいるようだった。切なげで今にも消えていきそうな少女の横顔に、無銘は言い知れぬ感覚を覚
え、慌てて目を逸らした。
「ま、いまどきの若人風にいえば”れあ”なのじゃよ”りばーす”は。大人しいが長年の鬱屈で限りのない感情を宿してしもう
ておる。”ぐれいずぃんぐ”めが色欲でわしが大食とすればな、りばーすは……とごめんなさい息が切れました」
 へぁへぁとか細い息をつく少女の芳しい口の香りを、しかし無銘は大至急で回避した。具体的には不安定な丸太の上で不安
定な姿勢を取って、落下した。後頭部に灼熱が走り、目から星が出る思いだった。
先ほどから慌ててばかりだと不覚を悔いる少年無銘である。
「大丈夫……ですか?」
「憤怒」
「はい?」
「貴様の姉の罪科だ。七つの大罪とやらにイオイソゴどもを当てはめた場合、貴様の姉は恐らく憤怒に該当する。嫉妬も
近いが話を聞く限り妬みよりも怒りの方が遥かに大きい」
「…………そうです」

「よってじゃな。憤怒を宿しておるが故に、ひとたび激発すると止まらんのじゃ」
「ご老人」
「わしら幹部級、そこらの共同体なら単騎で殲滅できる”まれふぃっく”でも窘めるのに苦労する」
「ご老人?」
「最弱の呼び声高き冥王星の嬢ちゃんとて武装錬金の特性と限りない愛をふる活用すれば負けはない」
「ワタクシを無視しないでくださる?」
「平素は大人しく”さぶましんがん”がなければ鈴虫のように可愛らしく囁かざるを得ん”りばーす”とて『武装錬金の特性』を
使えば、手練れた錬金の戦士10人ばかりを相手にしようとヒケは取らん。かの坂口照星は流石に無理としても、火渡赤馬・
防人衛くらすなれば十分に対抗できよう」
「はいはいそうですわね。われらが盟主様から離反したかつての『月』……総角主税とてひとたび”マシーン”の武装錬金特
性を喰らえば勝ち目はありません。わかりましたからワタクシの話を聞いて下さりませんこと?」





「大口を」
 よっと丸太に後ろ足をひっかけながら鳩尾無銘は毒づいた。
「その者たちのコトなら師父から聞き及び知っている。片や火炎同化。片や絶対防御。かような物を打破できる武装錬金の
特性などあろう筈がない。ましてかの師父が敗れるなどと……!」
「はあ」
 拳を固めて気焔をあげるに鐶はついていけないようだった。
「とにかく……です。えーと」

 玉城はきゃぴきゃぴと身を揺すらせながらその時のイオイソゴを再現した。

「だがわしらの盟主様は違うぞ! わしのハッピーアイスクリームで全身磁性流体にされようと”りばーす”の武装錬金の
特性を浴びようと、必ず勝つ! 最弱にして最高! いかな武装錬金の特性といえど、盟主様には決して通じんのじゃ」



 そして若いお姉さんが私とイオイソゴさんの間に割って入って来ました……。玉城はそう説明した。



「ご老人? 長話も結構ですけど、そろそろ本題に入るべきじゃなくて」
 イオイソゴに気を取られるあまり見逃していたが、彼女同様テーブルに腰掛けていたらしい。
 薄汚れた白衣とムチをあしらったヘアバンドが印象的なキツネ目の美女が腰をくゆらせながらやってきた。
「ま、戦団のお馬鹿さんたちと一戦交えたいっていうなら止めはしませんわよ。何しろここ戦団のOBが運営してるトコです
もの。一般人の入居者からカネ巻き上げて戦団の運営費に充てていますから、そろそろ戦士がすっ飛んでくる頃かと
 立ちながらも紅茶をすすり左手のコースターに白磁のカップをかちりと当てたのは──…

「やはりグレイズィング=メディックか」
「また……知りあい、ですか」
「我の出産に立ち会った者だ。単純にいえば色狂いの残虐魔。奴めに我の実母は生きながらに腹を裂かれホムンクルス
幼体を埋め込まれた」

「ワタクシとしては別に駆けつけてくるお馬鹿さんたちブチ殺して中途半端に蘇生して! 身動き封じた上で犯して尊厳傷付
けても構いませんけどね! 性別? え? 愛の行為に性別なんて関係ありませんわよ? それはともかく、ふふ。台所に
あるありふれた器具でも拷問はできますから、倒した戦士たちで実演してみましょうか?」
「分かったから向こうでやってくれんかの。お前がでしゃばってくると痛くて気持ちの悪い話題になって困るんじゃが」
 じっとりとした半眼に抗議されたグレイズィングは、しかし一層双眸を輝かせた。
「ヤッていいんですの!? で、でもお仕事中なのよん今は。駄目よダメダメ。職務と性欲はわけなきゃダメなの」
 やがてぶるぶると震え出したグレイズィングは何故か股間の辺りに手をやったり離しながら部屋の外へ出て行った。
 やがて荒い息とか細い叫びが木霊しはじめたが、玉城には何が起こっているかまったくわからなかった。
「ま、とにかく後はこのまんしょんに火を放ち全焼させるだけじゃな。されば戦団へのカネは断たれる。ふぉふぉ。こういう
地味ーな兵糧攻めみたいな行為であれど、積み重ねれば戦団は疲弊する。よってわしらはここを狙ったのじゃ」
「……のですか?」
「ふぉ?」
「ここの人達に……恨みは……なかったん………ですか?」
 玉城は精いっぱい声を震わす。つい今しがた両親を殺されたばかりで混乱の中にいるが、それでも問いかけには抗議
の気分がとても大きい。

 一緒に食事した人もいる。ちょうど1階上には友達が住んでいる。名前は知らないがいつも同じ時間パンジーに水をやる
おじいさんは見ているだけで大好きだった。誰もかれも玉城家の不幸──青空の失踪──を悼み、助けてくれたわけでは
ないけれど、それでも玉城は自分をとりまく環境が、そこにいる人たちが……好きだった。

 ゆえに凛然と張られた声を浴びるイオイソゴは一瞬軽く目を落としたが──…

 すぐさま黒々とした微笑を顔一面に広げた。幼くも愛らしいがだからこそ玉城は怖気に震う。
「ないよ。食糧にさえせん。ただ間接的にとはいえ戦団の運営費を捻出しているが為、かかる目に遭って貰っただけじゃよ」
 からからとした口調には何ら罪悪が見られない。やるべきだからやった。柔らかな声は明らかにそう告げていた。
「なんにせよ潮時かの。盟主様からも事を荒立てるなといわれておる。引くぞ”りばーす”」
『私絶賛ヘコみ中なの。もうちょっと放っておいて……放っておいて(ぐすん』
 膝の前に『描かれた』文字を見た玉城光は心底感心した。姉は体育ずわりで俯いたまま習字コンクールで金賞が取れそう
なほど綺麗な文字をサブマシンガンの弾痕で生産している。

「と、感心していたら……イオイソゴさんにお腹を殴られて……気絶、しました」

 そうか、とだけ頷いて無銘は別な質問をした。
「さっきから気になっているが、その『リバース』というのは何だ?」
「お姉ちゃんのコードネーム……らしいです。リバース=イングラム。それがお姉ちゃんの……今の名前……です」
「奴らの命名則か。我らが大鎧の部位名を抱くように、奴らは武装錬金の種類を名字に」
「そして目覚めた私は──…」



















 こんがりと焦げ目のついたおいしそうなステーキが端っこの方からゆっくりと切り分けられていく。湯気が立ち、おいしそう
な匂いが玉城の鼻孔をくすぐった。できたてホヤホヤ。食卓にのぼって間もない小判型のステーキ皿の上でじゅわじゅわ
溶けるバター。黄色く透き通ったジャガイモの破片。青々としたパセリ。普段なら食欲を掻き立てるそれらを前に玉城は
ただ欝蒼とした表情を浮かべていた。
「どうしたの光ちゃん?」
 ステーキ──病的なまでの均等さで切り分けたうちの1つ──を笑顔で口に放り込んだ青空はにこやかに聞き返した。
 悪寒が走る。身が竦む。息を呑んだ口がもごもごと不明瞭な言語ばかりを呑みこんでいく。姉の手からこぼれ落ちた銀
の刃が黒皿と打ち合って凄まじい音を立てた。全身がさざめく。恐怖。覚えるのはそれしかなかった。姉がこっちを見てい
る。見つめている。笑顔のままで微動だにせず、じっと見つめている。
 震える唇で言葉を紡ぐ。詰まれば何が起こるか分からない。沈黙もまた何事かを爆発させる起爆剤。姉の笑顔は会話
の空白時間に比例して妖気を高めていくようだった。黙り続ければ何が起こるか分からない。
「私の体……どげしたんぞ」
 震える声で右手を挙げる。人間らしいあらゆる造詣が失われている右手を。直線的な羽根がびっしりと生えた腕を。鳥。
玉城の体の中でそこだけが鳥の物と化している。
 鏡面塗装を施されたような翼の中で青白い顔が歪んだ。ヒビが入り、それもやがて轟音の中で無残に割れ砕けた。
「伊予弁はやめていわれなきゃ分からないのお義母さん思い出して不愉快不愉快やめなさい私がそれでどれだけ嫌な思
いをしたか分かってるの光ちゃん分からないなら分かるまで伝えさせてねえお願い」
 抑揚のないふらふらとした声を聞きながら玉城は歯を喰いしばっていた。羽根を貫通した空気の奔流は腹部や胸部に
突き刺さりそれ相応の痛みをもたらしていた。全身から脂汗が滲む。吐き気に似た呼吸欲求が肺腑の奥から込み上げる。
噛みしばった乳歯たちをほどいて必死に息を吐く。頂点に達した痛みは息を吐くコトでしか紛らわせない。それが錯覚に
過ぎないとしても、いまこの世で自分を救ってくれるのは錯覚のもたらす僅かな鎮痛しかなかった。
「お姉ちゃん……どうして……」
 痛みに歪む頬に手が当てられた。見上げると図上ではいつものようににこやかにほほ笑む姉がいた。手は優しく動く。涙
が伝い涎の飛沫さえ乗った頬からあらゆる不浄をぬぐい去るようにゆっくり、ゆっくりと優しく撫でる。拡がっていく朗らかな
ぬくもりはあらゆる激痛を沈めていくようだった。
『ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ』
 笑顔の姉がサブマシンガンで床に描いた文字。それを眺めた玉城は引き攣ったような声を漏らした。ロボットっぽい体?
姉は何を話している? ……少なくても自分の体はもう人間とかけ離れているのだけは分かった。でもそれは──…
 すがるような思いで姉を見上げ、言葉を紡ぎかけた時、空気の炸裂が再び襲来した。おぞましい揺らぎが視界をどこか
に消し飛ばした。失明。両目を撃たれたのだと気付いたのはそれが癒えた時だった。
「ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ私はただ光ちゃんにいろいろ伝えたいだけなの一緒に仲
良く暮らしたいだけなの殺したりしたくないのだからホムンクルスにしただけなの」
 髪が掴まれる感触。腹部に当たる冷たい手応え。何が起こるかすぐ理解できたのは不幸でしかなかった。悲鳴のような
泣き声を上げて体を捩る。解決にはならない。やや金属質を帯びた髪が何本もちぎれたのを契機に、姉は頭を掴む手に
ますます一層の力を込めたようだった。そうして固定された体に向けて引き金が引かれた。激痛。絶叫。潰れた目から涙
が散った。突き出す桃色の舌の根元から轢死中のネコのような苦鳴が絞り出された。体には無数の風穴が開き、しかも
それらは全て文字列の構成要素らしかった。

『インフルエンザの時、私はお父さんたちに放置されたの』
『でも光ちゃんだって死にかかっていたもの。恨んではないわよ』
『肺炎になったのは私にも責任があるし、家庭に馴染めなかったの壁を作ったせい』」

 崩れ落ち、くの字に曲がった体を指でなぞる。一種の点字が刻まれていると分かったのは、姉に敵意を感じなかったせい
だろう

『一度家庭から離れたのは結果として良かったわね』
『私が不遇だったのは本当にお父さんたちだけのせいかってじっくり考えることができたもの』

 敵意がないのに撃つのは伝えるため。それは両親が死ぬ少し前に『伝わっている』。

『けど結果はアレよアレ。私3日ぐらいヘコんだわ』
『まだ残ってる怒りをつい、ちょっとだけ伝えただけでああだもの。ホムンクルスの私が人間と暮らすのは難しいわね』
『だから……考えたの』

 体をなぞって文字を読む。

『光ちゃんをとびきり強くすれば何伝えても大丈夫だって』
『でもただの人型じゃ弱いでしょ? 動植物型だと光ちゃんの精神が基盤の生物に食べられちゃう』
『私たちの組織は調整体作るの上手よ。複数の生物同居させつつ光ちゃんの自我を残すぐらいはできちゃう』
『でも万が一ってコトもあるでしょ? 24時間365日ずっと肉体を乗っ取りに来る生物相手にしてたら』


『光ちゃんが精神崩壊しちゃう。そういう殺し方はしたくないの。私は光ちゃんを殺したくはないの』

『伊予弁と大声と声真似をやめて欲しいだけなの』

『ただ伝えて、ただ仲良くしたいだけなの』

 震えが沸くのは体の痛みのせいだけではない。

 後に青空はこの辺りを詳しく語った。

 だから考えた。義妹の自我を保ちつつ、無数の生物の能力を付与する方法を。夙夜まんじりともせず考え抜いた。連日
連夜壁に弾丸をブチ込んで思考を書き、考えに考え抜いた。
 そして行きついたのが──…

 無数の鳥への変形能力。

 動植物型ホムンクルスには「人型」と「原型」、2種類の姿がある。それらを切り替える際には幾何学的な変形作用が全身
を覆う。青空はそこに目をつけた。その変形作用を意図的に操作し、任意の姿に組み替えられないかと。
 声質上入った研究班でこの1年めきめきと頭角を現していた青空である。実験はすぐに成功した。繁華街で爆竹を鳴らして
いた若者どもや暴走族、おじいさんをひき逃げして「やっちまったよ」と車内で爆笑しているカップル。青空が笑顔でテイクア
ウトした総勢60名ばかりが実験台になって廃棄されたがそれは彼女にとって試薬の容器を捨てるぐらいどうでもいい出来
事だった。大事な義妹を少しでも死から遠ざける、そんな命題に比べれば社会規範を乱す連中の末路など些細すぎる問題
だった。

と。

 そして青空はもう一度、近くの床に文字を書いたようだった。読め。音はそう物語っている。痛む体を引きずって翼じゃない
方の指をまた這わす。
『ロボット好きだったからロボットぽい体になれたのはいいでしょ』
 限りない笑みの気配が頭上から降り注ぐのが分かった。肯定しなければどうなるかも。
 玉城はその場にへたり込み、ゆっくりと息を吐き、……そして答えた。
「はい……嬉しい……です」
 涙が零れた。呼吸するたび「ひっ、ひっ」という引き攣れが気管支を犯しているようだった。
「それからそこのステーキは人の肉よちゃんと食べてね食べなきゃダメよホムンクルスはそうしないとダメなのよ」
 人の肉? 誰 の ?
「まさかそれは──…」

 顔を上げたのと、
 それが自分に齎す被害を鑑みて首を竦めたのと、
 唇に生暖かい感触が接触したのは
 
 同時だった。
 生暖かい感触は唇をついばみながらホカホカとした肉片を口中に送り込んでいるようだった。
 その生臭さに玉城がむせるのにも構わず、執拗に。
 奇妙なコトに肉が送り込まれるたび姉のくぐもった声が近くで響いてもいる。
「ん。んんん」
 …………玉城は、何をされているか気付いた。
 鼻先で甘い息が漂っている。唇を塞いでいるのは口中の肉よりさらに柔らかく溶けそうな器官のようだった。
 そこから熱く湿った肉の尖りが拙い乳歯を割り開き、肉片を奥へ奥へと押し込める。そしてひと通り作業を終えると生暖か
さごとパっと離れ、息継ぎをするのだ。
「んむっ。はぁ、はぁ……んむ」
 姉の気配が遠ざかり、ステーキ皿の辺りで生々しい咀嚼の音が鳴り響く。それがひと段落した時、姉の息の芳しい匂いが
眼前に充満し、生暖かい感触が唇をついばむ。いつしか玉城の赤い髪は梳るように抱きしめられ、生暖かさは蛭のように
ねっとりと密着し、小さな唇を愛しげにねぶりさえした。
 行為は何度も繰り返された。その数だけ玉城は小さな喉を必死に鳴らし人肉を飲み干す。
 もし『送り返したら』姉は激昂する。位置関係はそうだった。
 視力が回復した。目を開く。
「…………」
 姉はちょうど自分の顔から離れるところだった。
 唇からは唾液と肉汁の混じったまだらの糸が引いていて、それは玉城自身の唇にも引いていた。
『キスは初めて? 私はそうよ』
 姉はほんのり赤い笑顔を軽く傾けると、そのまま照れ臭そうに走り去っていった。


 姉妹2人きりの共同生活が始まった。


「いい光ちゃん仲良くしましょうねたった2人の家族なんだから私はもっと光ちゃんと仲良くなりたいの」

 凄まじい空気の奔流が体を切り裂いた。

「だから伊予弁はやめて大きな声もやめて私の声真似なんてもっての他」

 うっかり方言を漏らすたび、声のボリュームダイヤルを過大にするたび。

「うるさいやめてうるさい耳障り」

 光は青空に何度も撃たれた。頭に投げつけられたステーキ皿のせいで昏倒するのは一度や二度に収まらなかった。

「ふふふあはははは私の言いたいことちゃんと理解してね体に刻んだその文字よく読んで頂戴ねあはははは」

 1週間もすると玉城は伊予弁を喋るコトに本能的な恐怖を覚え始めた。喋ろうとするたび言語中枢は不慣れだが安全な
標準語を選択するようだった。しかし生まれてからほとんどの会話を伊予弁に依存していた玉城である。単純な言葉なら
ともかく意思の複雑なニュアンスを標準語で表すには凄まじい労力を要した。そもそもつまるところ玉城は大いなる否定の
中にいた。それでどうして意思を率直に伝えられよう。どうして不慣れな標準語で伝えられよう。
 安全さだけをいえば小声でただボソリボソリと呟く方が遥かに良かったし姉もそれを歓迎している。
 大好きな姉はそれを歓迎している。
 だから、いい。
 いつしか玉城は自身の変質も、何もかもを受け入れるようになっていた。

「光ちゃん。一緒にお風呂入りましょ」
「…………はい」

 洗いっこ。姉の白い手が体に伸びる。全身に振りかけられたボディーソープは艶めかしい動きの素手に泡だてられる。
 風呂場に横たえられた自分の体の上に姉が乗って来ても、豊かな膨らみが汚れを落としにきても。

「エログロ女医には渡せないのよだってたった一人の可愛い妹なのよ私は守りたいの私の手の中で綺麗なままにしておきたいの」

 荒い息遣いの姉が喉元に噛みついても。

 玉城はただ虚ろな瞳で天井を眺めていた。
 喋るのはよっぽどキレている時だけ……と義母に伝えた青空はしかしこの時初めて、怒りのない精神状態で喋った。

「いいコよ光ちゃん。それから、私の声真似だけは絶対にしちゃダメだよ」
「……はい」
「分かってくれればいいの。私の声真似なんかしたら、本当に大変なんだからね。光ちゃんがヒドい目に遭っちゃうから……」

「だから」

「声真似だけはやめてね?」

「そして貴様の姉はその体の性能を試すべく、共同体潰しを命じたという訳か」
「はい……。チワワさんたちを襲ったのは…………40件目のターゲットを殲滅したから……その代わりに……です。お姉ち
ゃんからの伝達事項その一。テスト対象を殲滅した相手を殲滅しろ……です」
「というがなぜ我らが殲滅したと分かった?」
「状況証拠と……気配…………です。近くを歩いていましたし…………威圧感が……違います」
 何度目かの成程なを呟き肉片を投げる。ビーフジャーキーから毟り取ったそれはしばらく宙を舞い、やがて口中に没した。
舌から脳髄に伝播するとろけそうな旨味をくちゃくちゃと堪能しながら、鳩尾無銘はじろりと玉城を眺めた。
「なに……か」
「我と戦え」
 虚ろな瞳をもつ少女は不思議そうに首を傾げた。
 そのテンションと裏腹に拳(前足)固めて力説するチワワ一匹。
「左様な事情があるというなら我たちと貴様の激突は避けられぬ! かといってこのまま師父の到着を待つ訳にはいかぬ!
使命も果たさず見逃すなどは元より論外! 故に貴様は我と戦え!」
「はァ」
 ビシぃっと指差された玉城はしかし気のない返事を漏らしたきり焦点がどこにあるか分からない瞳でぼーっと無銘を眺め
回した。「こんな小さいチワワさんが私の相手できますか」的なニュアンスが滲んでいる。気づいた無銘は激昂した。
「はァではない! 戦うのだ! 戦わねば我の使命が果たせんし立場という物がないのだ!」
「あの…………使命を果たしたいなら……私と話してる間に…………不意打ちすれば…………よかったのでは?」
「それを云うな! 云わんでくれ!!!!!!」
 無銘は頭を抱えた。玉城の文言は至極もっとも。会話中、例の兵馬俑の手首でこっそり攻撃すれば3分後に敵対特性が
発動して任務は完了したのだ。白状すれば会話中何度も何度もそれは考えた。だが人としてはどうなのか。私利私欲で勝
手にホムンクルスになった外道なればいざ知らず、相手は姉の理不尽な怒りによって両親を奪われホムンクルスにされた
少女。悪夢の中で涙さえ流すいたいけな少女。それを騙し、不意打ちのような手段で任務を完了するのはどうなのか。さり
とて忍びとしては最悪でもあろう。悪夢で忘我しひた走る玉城。敵に身の上話をするのに夢中で隙だらけの玉城。総角の言
いつけ、敵対特性を見舞う機会などいくらでもあった。だがそれを訳の分らぬ感傷で見逃してしまっている。
(我の阿呆!! 我の迂闊!! 敵の涙など黙殺すれば良かったのだ! 身の上も何もかも無きものとしてただ任務一つ
果たせば良かったというのに……何を正面切って戦いを申し込んでいるのか! 忍びの我が正々堂々だと! 笑わせるな!
ビーフジャーキー喰っとる場合か! 場合なのかアアアアアアアア〜〜〜〜〜!!!)
「あの……チワワさん?」
 うずくまって耳の下を丸っこい手でぎゅうぎゅう押し出した無銘をしばらく心配そうに眺めていた玉城は一瞬黙るとゆっくり
息を呑み込んだ。
「分かりました……戦いましょう……」
「おおわかってくれた……ではない! やっとその気になったか!」
 輝く面頬を上げた無銘が「げえ」と絶望的な声を漏らしたのは──…
「はい」
 岩よりも硬そうな蹄が喉首にめり込んでいたせいである。
 転瞬彼は弓なりになった体から吐瀉物と唾液を撒き散らしつつ宙を飛んだ。20メートルほどカッ飛んだだろうか。広場
の中央からうねりを上げて滑空した無銘は山林との境目にある大木に背中をしこたま打ちつけた。
 幹が軋んで木の葉が舞う。無銘はなめくじよろしく木肌をズリズリ滑落した。秋らしくそろそろ色素が薄み始めた緑茶色の
破片をのっそりくぐり抜け、玉城が来る。その姿は巨大な絶望の魔人に見えた。
「全力で……終わらせます」
 まだだ、といったつもりだが掠れた音声が漏れるばかりで話にならない。
(ええい、だが元より戦うつもりの我だ! 手首を以て攻撃し敵対特性を発動すれば済む話!)
 唯一の武器にして切り札。敵対特性を以て玉城を弱体化させる……その目的に必要不可欠な存在。
 兵馬俑の手首。
 それを持つべく手を動かす。
 手を、動かした。
「…………」
 嫌な手応えがした。自分は何も持っていないのだという青春期に思い悩む少年のような手応えがした。前脚を見る。何も
持っていない。背中がぞわりとさざめいた。わずかな期待を込め辺りを見回す。ない。致命的失敗。大事な何かを忘れてい
る。考える。記憶を辿る。
「あ」
 玉城がいよいよ目前に迫ったころ、ようやく無銘は自らの失策に気付いた。
 兵馬俑の手首は。
 玉城の遥か後ろ、広場の片隅に転がっている。
(ぎゃあああああああああああああああああああ!)
 無銘は内心で絶叫した。零れる涙は窒息のせいだけではないだろう。しまった。しまった。せめて戦闘態勢を整えてから
挑むべきだった。後悔が過ぎる。自らの失策を気に病み勝負を急ぐあまり、すっかり忘れていた! 武器を持つのを、切り
札を手にしておくのを……忘れていた! そういえばあれやこれやで置きっぱなしだったのを失念していた!
 だが無銘は必死に動揺を鎮静すべく努めた。敵に知られている事と知られていない事。それをとにかく必死に分析する。
(落ちつけ! 我の武装錬金の特性が敵対特性とはこやつは知らぬ! ましてあの手首がなければ我が無力という事も!
ならばこの体で戦えるフリをしつつ時間を稼ぎ、あの手首を何とか手にするのだ! 生き残る策はそれしか、それしか──…)
「あの手首は……武器ですね? あれがないと……無力、ですね?」
 両腕を欠損している玉城が足の爪でチワワの頭を掴んだ。景色が上昇する中、無銘はただただ青ざめた。
「手首だけを持ってきたというコトは…………あの自動人形の特性は……五体満足じゃなくても…………発動できる筈、です」
 脂汗が全身を伝い落ちる。アポクリン大汗腺が精神性の嫌な汗を垂れ流している。
「そして……その特性は…………恐らく一撃必殺……です。当たりさえすれば……小さなチワワさんでも私に勝てるタイプの
……………一撃必殺……です。放っておけば…………私が……倒され、ます」
(バレてる!!!)
 何こやつヌボーっとしている癖にどうして鋭いのと内心毒づきはしたが、そうすべき時でもなく。
 玉城は片膝を上げた姿勢のままきょろきょろと辺りを見回して、コクリと頷いた。万力のような力で挟まれ今にも破裂しそう
な頭部の中で唯一自由な目を動かして視線を追う。角度の問題、眼球の可動範囲の問題で見えない。代わりに生白い曲線
を描く太ももの付け根とか露もなくまくれ上がるミニスカートのその先へ視線が動きかけたが「いや何をしている我は」的な
自制心で辛うじて耐える。玉城が動いた。角度が変わったので本当に確認すべき物が見えた。そこには。
 尖った岩があった。
 高さは小学校低学年の女児ぐらいある。つまり玉城と同じぐらいだ。高さのわりにずんぐりとした石なのにどういう訳か尖端だ
けが鋭く尖っている。手を置くだけで貫通しそうなそれが天を仰いでいる。
 無銘は思い出した。昨晩ここを通りかかったときそれを見つけ、一瞬「道行く者がここで転んでケガしたら危ない。始末して
おくべきか」と考えたコトを。だが共同体の殲滅が迫っていたし、まさかこんな山奥に来る者もそうはいないだろうから放置して
も大丈夫だと思って、見逃したコトを。
 無銘は泣きたい気分になった。
 どうしてあの時始末しなかった。せめて横倒しにしておくべきだったとすっかり粘液まみれの鼻を鳴らした。
 嫌だ。
 悪夢だ。
 戦わなければ良かった。
 本当もう、そう叫んで降服したくなった。
 玉城は薄暗い茂みの中にあるその岩をいたく気に入ったようだった。(被害妄想) 心なしかのっそりとした足取りに喜び
を嗅ぎつけ(被害妄想)無銘はつくづくこの少女を呪った。(逆恨み)
 そして次の瞬間、うねりを挙げる全身の中で右わき腹だけが灼熱の痛みを帯びた。
 海老反ってもがきながら状況判断。岩の切っ先が貫通している。つまり、叩きつけられた。
「すみません……要するに、手首と合流させなければ…………いい、です。私の勝ち、です」
「待──…」
 抗議の声を無視して玉城は無銘を岩から引き抜いた。さすがに岩が錬金術の産物で、ホムンクルスの無銘に消えない傷を
与えるという馬鹿げた悲劇までは起こらなかったらしく、脇腹は徐々に修復を始めている。だが痛い。すごく痛い。牙を噛み縛
りたいが痛苦特有の激しい息のせいでどうしようもない。そもそも基本的に錬金術の産物以外で傷つけられないホムンクル
スの体を力と速度だけで岩にブッ刺す玉城の恐ろしさ。チワワの頼りなげな体が血しぶきの中でしなる。今度は腰だった。
腰が岩の横肌に叩きつけられた。走るヒビはゆで卵の殻をスプーンで叩いたみたいな奴で、そこに伝わり損ねた衝撃が右
後ろ脚を吹っ飛ばした。
(何という馬鹿力! 何という戦力差!)
 茂みに落ちる自分の脚──直接もがれたのではなく、攻撃の余波で、副次的に──に愕然としながら身を揺する。外れる
気配は今のところない。外れたところで状況を打破できる望みもない。手首に向かって駆けた所で、どうせダチョウの速度で
瞬く間に追いつかれるのが関の山……無銘は暗澹たる思いになった。衝撃で首がもげないのが唯一の救いか。
「がっ!」
 さらに一撃。さらに一撃。横なぐりの衝撃が立て続けに顔面を襲う。さらにそのまま白い足を高々と上げた玉城はかかと
落としの要領で再度無銘を岩の尖りに叩きつけた。それは第3腰椎を粉々に粉砕した。
 絞り出すような絶叫が山あいに響いた。そしてしばらく鈍い音が木霊し──…

 数分が過ぎた。






「終わり……です」
 無銘は地面めがけ放り捨てられた。その損害状況を玉城はただ観察した。
 チワワの尾は根元から千切れている。左後ろ脚もまた紙一重で繋がっている様子だ。両の前脚もあちこちが歪み、その
傍で吐瀉物が点々と水溜まっている。もはや彼は余喘も露わ。うずくまりか細くか細く震えるその姿はもはやあと一撃で絶
息する他ない残酷な事実を雄弁に物語っている。
「でも……しません。…………勝とうと思えば勝てたのに……私を気にして……話を聞いてくれたのは……嬉しかった……
です……だから……とどめは……さしたく……ありません。……さよなら、です」
 後はあの金髪剣士たちを倒すだけ──…真っ白な踵が湿った土の上で方向転換をしようとした時、それは起こった。

 この場を離れるべく身を反転しようとした玉城はまず、奇妙な引っかかりを覚えた。引っかかり。それは流転する戦闘局
面を制する読み合いの中しばしば訪れる猜疑と暴露欲求の端緒をも指すが、この時玉城が覚えたのは更に具体的かつ単
純なものであった。
 長い三つ編みを揺らめかして振り返ろうとした玉城はその運動が奇妙な引っかかりに妨害されるのを感じた。
 ホムンクルスの高出力ならば強引に振り切れる程度の微弱な引っかかり。だが玉城はハタと動きを止めた。

 抱く疑問はただ1つ。

 何に、引っかかった?


 両足を順に動かす。異常はない。腹も胸も頭も髪も、動きを妨げるものはない。左腕。問題なく動く。
 右腕。
 肘から先が欠落したそれを動かした時、微弱だが確かに動きを妨げる『何か』の存在を知悉した。
 凝視する。
 そして、愕然と眼を見開いた。
「これは──…」
 …………前腕部が欠落し、無残にも断面を剥きだしている肘に。
 糸が刺さっている。
 絹糸のように白いそれはどこからか伸びてきたらしい。糸の流れを追うべく振り返った玉城は茫然と立ちつくした。
「何……ですか?」
 木々と茂みは糸に侵食されていた。色褪せた木の葉と茂みの間にかかる白い糸は鳥の鋭い視覚を持つ玉城でさえ見逃
してしまいそうなほど細い。それが何本も何十本も何百本も木の葉と茂みを繋いでいる。木漏れ日のあるところだけ反射の
加減か銀色に輝くそれらは癇癪持ちが張った立ち入り禁止のテープよろしくメチャクチャに張り巡らされている。立ち入り禁
止。まるで玉城がその先へ行くのを防ぐように、乱雑に。
「蜘蛛の巣? いえ…………」
 蜘蛛の作る美しい幾何学模様とはまるで無縁な糸たちはどうやら元は1本らしかった。潰れた団子のようなわだかまりが
尖った草にネットリこびりついているが、糸はそこから2本生えている。生えている、というよりそこで方向転換したという方
が正しいだろう。
 尖った草に付着する不可解な糸。

『それはどこから伸びてきた?』

 玉城の表情に少女らしい動揺が走った。慌てて糸を引き抜き地面に投げる。注射針を抜いたような嫌な痛みが走り一瞬
顔を歪めたが、不可解な糸を体内に放置するおぞましさに比べれば大したコトはなかった。
 糸を眼で追う玉城。その出所に近づくたび面頬に汗が増えていく。
 糸はドクダミの葉に伝播し更にそこからさまざまな雑草を経て──…
 広場に向かって、伸びている。
「広場……? まさか……」
「くくく……ふはははは」
 震える笑いが響いた。振り返る。息も絶え絶えの無銘が三本脚で立ち上がっている。
「手首と合流させなければ勝ち……だと? 馬鹿め! 忍びを舐めるな!!!」
 牙も露に激しく咆哮する小型犬の姿によぎる予感。凄まじい悪寒が玉城の体を駆け巡る。

 震えとともに見届けた。

 糸は……広場に転がる兵馬俑の手首の、更に指先から伸びている!!
「忍法指かいこ!! 我が兵馬俑の指先は糸へと変じる! 限りない粘着性と切断力を誇る長い糸にな!」
 発作にも似た嫌な震動が玉城の体を張り裂いた。
「無論遠隔操作は可能! 五体満足の自動人形を操る事に比ぶれば手首一つ指先一つ操るなど造作もない!」
 玉城は悟った。
 静かに長く伸びた糸が雑草と木の葉を幾度となく往復し……肘へ侵入したのを。
(……これもまた……勝負、です。『チワワさんと手首が離れていれば大丈夫』……そう思いこんで、チワワさんに気を取ら
れていた私が……悪い……です)
 「そして!」
 無銘は印を結ぶ。薬指と小指を曲げた左掌を顎横めがけ……斜めに。
「我が武装錬金の攻撃を浴びたものは3分後必ず!」
 印が翻る。玉城に向けていた手の甲が反転し、ピンクの肉球が露になり。
「敵対特性の餌食となる!!!」
 それは、起こった。
 スズメ。ツバメ。ヒバリ。ペンギン。
 ありとあらゆる鳥の部位に『変形』する玉城のあらゆる部位が彼女に『敵対』した!!
 足の爪は足に食い込んだ! 蹄が逆流し跳ね上がり、膝の骨を砕いた! 胸の羽根がずぶずぶと埋没し突き刺さる! 
嘴が眼球をついばみ、折れた翼はその根元に向かってひん曲って骨を巻き折る!ばきばきという凄まじい音とともに肉が
裂け赤黒い飛沫が地面に注ぐ。不規則に荒れ狂う尾羽は大腿部に直撃し3cmほどめり込んだあと硬い骨にビぃーーんと
弾かれた。そして近場の野太い枝を寸断しながら返す刀で背中へ突き刺さる。腹部から飛び出したそれが腸液にぬめる
臓物を貫通しているのを見たとき、或いは自重によって刃先から零れおちた特盛りの生レバーが地面でぶるんと弾むの
を見届けたとき。
「あ、あああああ」
 玉城光はわなないた。
「思い知ったか。動き始めていた時間の真ん中で我ばかり見ればそう……なる」


 そういった無銘を血しぶきの中の少女は一瞬見つめ何かいいたげに唇を動かしたが──…

 制御を欠いたあらゆる部位の自傷行為にとうとう眼球をグルリと上にやった。

 そうして倒れてゆく玉城を会心の笑みで見届けた無銘もまた

「……とはいえ遠隔操作は精神を使う。………………蹂躙のなか……やるのは…………手間……だな」


 血だまりのぬかるみへくず折れる。


 意識が暗い淵に沈んでいく。











 声が響いた。暗い意識の中で。

『盟主様はこんなコトをいわれたわ』

 それは夢のようだった。

『この世の総ては循環ってね。水が木を潤し木は炎を助けちゃう』
『総ては循環。どんな物だって他の何かを良くするために動くべき。他を良くするため消費されるべきなのよ』
『そうやってね、良くなった物が、高められた物が更に他の物を良くしていったら』
『とても素晴らしいコトじゃないかしら』
『そして進化や発展というのは常にその循環の中から生まれてきた』
『……というのが盟主様のご持論なんだけど』

 笑顔の姉とサブマシンガン。そして壁や床に遠慮斟酌なく刻まれた弾痕たち。

『果たしてリア充どもはどうかしらね?』
『あ、リア充ってのは光ちゃん、リアルが充実している人たちのコトでね』
『つってもまあ私のいうリア充ってのは人間関係限定ね』
『沢山の友達。理解してくれてる恋人。そーいう他人絡みのコトで充実感を味わってる人たちのコトよ』

 映像は脈絡なく連なっていく。揚げたてのドーナツ。それが乗った普通のテーブル。鳥の図鑑に白いバンダナ。

『あいつらさー、ブッちゃけ自分のコトしか考えてないような気がするのよね』
『沢山友達がいて嬉しい! 分かってくれる恋人がいて幸せ! だとか何とか思ってさあ』
『毎日毎日楽しいお喋りとイチャつきに熱中してるんじゃないの』

 切れ端を繋ぎ合わせたようなボロボロの記憶の中で、弾痕の文字だけが何度も何度もフラッシュバックする。

『そして。だから。その時この世界のどこかで苦しんでる人たちのコトなんかちっとも考えてないのよね』
『自分が幸せだからそれでいい。自分の幸せを壊してまでも誰かに貢献したくはない』
『……ふふっ。まあそれも普通の人間の在り方としてはいいでしょう』
『確かに恵まれなかろうと苦しんでいようと、そこから努力して幸福を掴みとる人だって今まで大勢いたわよね』

 姉は変わった。変わってしまった。弾痕がもたらす異常な文言の数々は……恐怖だった。
 一生懸命頷きはしたが、決定的な壁が自分と姉の間にあるような気がして、恐怖だった。

『いたのだけれど……やっぱ私めは引っかかるのよ』
『楽しい楽しい団欒だけに浸って、困っている人を助けない人ってのは』
『どうしようもない欠如に苦しんで苦しんで苦しみ抜いてる人を『変なモノがいる』程度の一瞥であっけなく無視して』
『楽しい楽しいお喋りに戻って楽しい楽しい出来事にしか労力使わないようなリア充どもごときが』
『果たして本当に正しくこの世を循環させれるのかって』
『私めの仮説その1じゃあノンノンよ』

 彼女は何かを激しく憎んでいるようだった。笑顔を浮かべていてもそこには常に妖気が付きまとっていた。
 疑問が浮かぶ。家を出てから1年。彼女はどう過ごしていたのだろう。
 どんな環境で、どう生きていれば……ここまで変わるのだろうと。

『自分たちさえ良ければいいって連中は食べ物だろうと資源だろうと』
『全部全部自分のためだけにしか使わないじゃない?』
『そしたら循環って奴は──他の物を助けてより高めていくためのね──リア充どものとこで止まっちゃうじゃない』
『止まった水は腐るでしょ? 人間社会が腐るのもその道理じゃないかしらね』

 青空は何かに吸い込まれているようだった。光は眩暈の途中で遠い日々の記憶が蘇るのを感じた。

『まあその辺り、暗い所で1人鬱々と考えてても仕方ないし、自分で動いて実際に確かめるのが一番いいかなって思うのよ』

 まだ銃器を手にしていなかった頃の穏やかな姉。
 本当に好きなのは……

『私めだって色々伝えてリア充どもを改心させたいし、循環は伝えるコトから生まれるって盟主様も仰っているし』

 本当に好きなのは。

『この前も座りたそうなお婆さん無視して優先席でいちゃついてるカップル見つけたからとりあえず尾行して家に乱入して私め
の引っかかりを伝えてあげたわ』

 屈託なく姉は微笑む。

『伝えるコツはね、男の人を最後に残すの』
『ラス1が女の人だと許して許して許しての大合唱ばかりであんま伝わったって感じがしないの』
『でも男の人はホラ、恋に真剣でしょ?』
『相手がこの世に1人しかいないって思ってるからその声帯ちぎって足元に叩きつけてあげると本当、面白いカオしてくれるの』
『私の気持ちが伝わったって、実感できるの』


 だが。

『そしたら私の意思を理解してくれた感じがして嬉しいの。……あ、お父さんたちの場合は弾みで順番逆になっただけよ。私
めのセオリーだと義母さんから伝えるべきだったけど』

 本当に好きなのは──…

『まずは強くなりなさい光ちゃん。お父さんたちの仇を討ちたかったら、強くなりなさい』

『強くなって、その力を困ってる人達のために使いなさい』

『私のために頑張ってくれたらもっと大好きになれるから…光ちゃんになら斃されてもいいって思えるから……』

『頑張って共同体を潰してね?』

『そして私の声を真似するのだけは絶対にやめてね。それが光ちゃんのためだから』









「いま気付いたが貴様は戦闘能力の割に……脆いな」
「ふぇ……」
 目の前に広がっていたのは雲ひとつない空だった。
 広場の中心で仰向けに寝ている。そう気付いたのは無愛想な表情のチワワが青空の中へ入ってきた時だ。
「もっとも。だからこそ勝ち目も出たがな。脆くなく、例えばあの新……栴檀どもの超新星で腕が崩壊し翼を断たれていなけれ
ば我が貴様をああ追撃するコトはできなかっただろう」
「チワワさん……?」
「核鉄は当てている。応急処置程度にしかならんが、まあ死なければそれでいい」
 そういって無銘はどっかりとあぐらをかいた。そして洩れる疲弊の吐息。
「かく、がね……?」
 寝そべったまま視線を動かす。傷だらけの顔や首は腹部に置かれた六角形の金属片を眺めるだけで激痛を走らせた。
しばらく動けそうにない。冷静に分析しつつチワワを見る。呆れたような視線が返ってきた。
「知らんのか貴様。核鉄を当てると治癒能力が高まり傷の治りが速くなる。生命力を強制換算しているため多用はできん
がな。……感謝しろ。兵馬俑をわざわざ解除してまで当ててやった我に」
「はあ……」
 いやに恩着せがましい口調のチワワを玉城はしばらくぼうっと眺めた。動けないし戦えない。ただ普通の少女のように寝そ
べっている。だがそんな時間は一体いつ振りなのだろうか。普通の少女のように空を眺め子犬を眺め、敵の咆哮や血しぶき
とは無縁の時間を過ごしている。
 薄い胸を波打たせ、玉城もまた静かに息を吐いた。
「チワワさん」
「なんだ」
「よくわかりませんけど……ありがとう…………ございます」
「何がだ」
 憮然と座るチワワの体は相変わらず半壊状態だ。あぐらをかいていると言っても先ほど吹っ飛んだ脚はまだ元に戻って
ないし、前脚だってグラグラだ。修復を始めた脇腹の傷もまだ生々しい。回復が不必要とは……言い難い。
「チワワさんより先に……私に”かくがね”……? かくがねを使ってくれて……ありがとう」
 心からの笑顔を浮かべたのもまた久しぶりのような気がした。
「だ、黙れ。師父が貴様を殺せと命じてないからそうしただけの事……」
 チワワは一瞬言葉に詰まり、そして無愛想に顔を背けた。
「で、でも任務のためなら……」
「なんだ」
「私が……峠を……超えたら……いいのでは……」
「ぐっ」
「ほら……もう意識は戻りましたし…………代わりばんこ、です。チワワさんも使って……下さい」
「うっさい! 黙れ黙れ黙れ黙れ! それ以上ぬかすと核鉄取り上げるぞ!」
 このチワワは駄駄っ子みたいだと玉城は思った。とにかくこれ以上刺激しない方がいいだろう。好意を受けよう。
 そう思った瞬間、玉城は分からなくなってきた。
「…………」
 何のために自分は闘って来たのだろう。
 何のために恨みも何もない、不器用だが善良なチワワたちを襲撃して、殺そうとしたのだろう。
 ぼんやりと空を眺める。空を眺めるのは好きだった。鳥型だから、だろうか。果てしなく広がるその空間はいつ見ても
懐かしかった。無くしてしまったあらゆる総ての物がそこに漂っているような気がして、見ているだけで心地よかった。
 チワワはそんな玉城を胡乱気に見つめていたが、やがて咳き込むように言葉を紡ぎ出した。
「とにかくだ! 我の使命は貴様を生擒(せいきん。生け捕り)し師父に渡す事! 仰せつかったのはそこまでだ! 師父ら
が合流した後の事は知らん! 貴様の行く末につき責任を持つつもりなど一切ないぞ!!」
 瞳をギラギラと輝かせまくしたてる無銘の口調はひどくトゲトゲしかった。
 無遠慮で、高圧的で。
 でも。
「チワワさんは……」
 苦しげな息に眉を顰めながら、玉城はまた微笑した。
「…………人間らしい……ですね」
 少なくても笑顔で弾痕を刻む姉よりは……と言いたかったのだが、無銘は曲解したらしい。
「皮肉か! 先ほどからいっているだろうに! 我は人間だと! 故あってこのナリに押し込められたと!!」
「そう……でした。すみません」
「ぬううう! 本当に訳の分からぬ女! ええい! 師父はまだか! 師父さえここに来ればかような会話など終わるという
のに!!!! 兵馬俑こそ解除したがあれだけ時間が経てばそれなりに近づいているだろう! 栴檀香美めの嗅覚頼りでも
着けるというのになぜ師父は来ないのだっっ!」
 その時、広場の端で草が擦れる音がした。ついで誰かが歩み出る足音。
「師父!!」
 待望の主が来た! ぱあっと面頬を輝かせ振り向いた無銘の視線の先に、その男は居た。
「それなりの規模の共同体と聞き斃しに来てみれば」
 鉤のついた手甲が準備運動とばかり茂みを散らした。
「……他の仲間はどこにいる? いつからか剣持の姿が見当たらない。立ち小便かと思っていたが」
 丸々としたいがぐり頭の下で酷薄そうな目を細めながら、男は無銘に誰何した。

「お前たちの仕業か?」

(ホムンクルス……? いや! 錬金の戦士! よりにもよってこのタイミングでだと!?)



 鳩尾無銘に戦慄走る。





 必死の思いでヒビだらけの核鉄に手を伸ばす。兵馬俑。発動したところで玉城にやられた傷のせいでまともには戦えない
だろう。だが総角たちが来るまでの時間稼ぎぐらいはできる。

 そう思い伸ばした右前脚の先で核鉄が爆ぜた。

 吸息かまいたちなる忍法を知悉している無銘は理解した。真空の奔流。カマイタチ。それが核鉄の表面に炸裂して、弾
き飛ばしたのを。
 哀れひゅらひゅらと旋回しながら丸太の向こうへ飛ばされる核鉄。小型犬は首を旋回、戦士に向けるは煮えたぎる眼差し。

 相手は右腕を鉤手甲ごと前に突き出している。何らかの衝撃波で核鉄を吹き飛ばした。唯一の武器の発動を、封じた。一拍
遅れて玉城の腹部が大きく避け、錆びた臭い──血とはやや違う匂いに無銘は迸る液体が血液を模した擬態用だと初めて
気付いた──が立ち込める中。
「貴様!」
「大丈夫……大丈夫……です」
 顔を歪めながらも微笑する玉城。複雑な表情をする無銘。
 男は冷然と観察し、
「動物型が核鉄を頼る理由や、すでに傷だらけの理由は気になるが……」
 両手を鉤手甲ごとばっと広げて駆けだした!
「ホムンクルスは狩るのみだ」
(最悪の状況! 我はこの有様! この女もまた動けない!)
 迫りくる鉤手甲に絶望を覚えて何が悪いと無銘はつくづく毒づいた。だが同時に絶望色が感情に紛れ込んだのはそれが
最後でもあった。
(要は我の甘さが招いた状況! ならば身を捨てればいいだけの事! 死を受け入れろ鳩尾無銘! 師父らが到着しさえ
すれば勝ち……任務は達成される!! それまでの時間は──…)
 玉城と戦士の間にケンケンするように一本足で立ち上がる。第3腰椎の悲鳴を代弁するように低い唸りを上げた。
(我の命を以て埋める!)

 太陽はいよいよ沖天に向かって駆け昇り始めている。力強く輝く橙の円環の下、緑の波濤がざわざわとさざめいた。山
肌を颪(おろし)が滑り木の葉が舞う。
 駆けてくる戦士が左手を振りかざした。鉤手甲が無慈悲に煌き、そして撓る。対する無銘との距離はまだ10メートルほど……
 空気がうねりをあげて迫ってくる。
(またカマイタチ!)
 それを認め、体を捩りかけた無銘の顔にドス黒い苦渋が広がった。先ほど核鉄を吹き飛ばした空気の奔流は少し身を
動かすだけで避けられるだろう。だが後ろには玉城がいる。度重なる戦闘でほぼ全壊状態の彼女がこれ以上攻撃を浴び
れば……? 任務上生じた配慮が無銘の体をその場に固定させた。とはいえ彼自身もまた軽傷とは言い難い。「これ以上
攻撃を浴びれば」は彼もまた。そして迫る真空の衝撃。
(人型にさえ……いや!!)
 自身の欠陥に対する憤り。二進も三進もいかぬ泥状況。それらが無銘を賭けに出させた!

 ……彼の操る兵馬俑の武装錬金・無銘はさまざまな忍法を扱う。

 腕より高熱を発する赤不動。
 足元より冷気を発し総てを凍らす薄氷(うすらい)。
 戦闘序盤、奇襲後間もない玉城へ投げた銅型円盤は銅拍子という。

(兵馬俑が忍法を使えるのは)

 今しがた核鉄を飛ばしたのはカマイタチ──戦士の所業がそうと気付いたのは。

(我自信がその正体を理解しているからだ……!!)

 忍法吸息かまいたち。これは激しい吸気によってかまいたちを巻き起こすわざである。当たれば頭蓋が血味噌というか
ら恐ろしい。
(ならばこの身でやれ! 普段やれぬとしても……やるのだ!!)
 チワワの腹部が異常なくぼみを見せた。玉城は嘆息にも似た長大な溜息を聞いた。

 今度は胸部が異常な膨張を見せた。そして響く喘鳴……。

. 戦士のカマイタチが突き進んでいたであろう空間と無銘の中間点で何かが爆ぜた。一瞬半透明にくゆった空間が螺旋状に
裂けた。衝撃が当事者たちを突き抜ける。燃えるような三つ編みが後ろへ流されチワワの頬がビリビリと波打った。戦士の
頬が軽く裂け、胡乱な黒さが目に現れた。

 忍法吸息かまいたち。それは正に成功した。戦士のカマイタチはここに撃墜されたのである。

 再び息を吐いた無銘は脱力したように軽く背を丸め、口を拭った。手には血が滲んでいる。全身には汗が噴き出し、早ま
る呼吸は背後の玉城に「耐えがたい苦痛」を直観させるに十分だった。恐らく急激かつ過大な吸気が小さな気管支のあちこ
ちを裂いたのであろう。或いはカマイタチを吸いこんでしまったのかも知れない。
 という推測を玉城がする間にも戦士は動いた。カマイタチを撃墜され、動揺するかに思えた彼だが、ト、ト、ト、と3歩走る
や否や冷然たる面持ちで立ち止まり、軽く左手を跳ね上げた。

「何だと」

 驚愕したのは無銘である。しっかと地面に付けていた筈の片足が浮き上がっている。いや、片足だけではない。無銘の
体がフワフワと浮かび上がっている。何かに持たれている訳ではない。仕事場にいる宇宙飛行士よろしく『何の支えもなく、
ただ体だけが』浮いていき、やがて彼は地上2メートルほどの場所に固定された。
「つッ」
 左肩の痛みに無銘は思わず顔を歪めた。一見何もない筈のそこが何故か破れ、刺すような痛みをもたらしている。
(刺されて……? まさか!)
 傷口からやや離れた場所を撫でる。そこは一見何もない空間だ。にも関わらず肉球には軽い痛みが走り、切り傷さえ開い
た。無銘ははっとした面持ちでいま触れた場所をしばし眺め──赤い雫を垂らしてみた。……何かに斬られたように霧消した。

 傷口を見る。血が流れるなり散らされているのを見た瞬間……鳩尾無銘は確信する。

(透明な刃があるようだ。だが、流血を弾く以上これは『武器』ではなく『現象』。仮に透明な刃があるなら伝い落ちる筈)
 戦士を見る。『左手を無銘の延長線上』へ伸ばしている戦士を。彼はいま、右手を動かさんとしているところだった。
(分かったぞ。……こいつの武装錬金の特性は斬撃軌道の保持!)
 その姿勢がグラリと揺らめいたのは宙空に浮かぶチワワが咆哮とともに身を揺すった瞬間である。
(カマイタチを飛ばせるほど鋭い衝撃を、その場に固定するコトができるのだろう。……一見すると近距離専用だが恐らく
違う。『カマイタチを飛ばす』……それもまた斬撃だとすれば射程は限りなく延びる)

 戦士が数歩進んだのは斬撃軌道を前進させるためか。

(いうなれば鉤手甲というより栴檀の奴めの武器に近い。先端の分銅がカマイタチで斬撃軌道は鎖だ。しかもその分銅は
粉砕されてなお空間に留まり、戦士の前進とともに我へ刺さった。つまり……射程は限りなく延びる上に移動も可能!)
 奇妙なコトにいまだ8メートルの距離を置く両者は、何事かによって結ばれているらしかった。無銘がその身を激しく揺すり、
暴れるたびに戦士の左手の鉤手甲は異様な軋みを立てる。グラリ、グラリと上下に振れる左腕が戦士の安定を奪っている。
(だが斬撃軌道が戦士の手から延びる以上、やりようもある。我はいま、平たくいえばガラスの刃を刺されているような状態
だ。それゆえに、我が動けば奴の動きを封じられる!)

 燃えるような赤い髪の少女を振り仰ぐ。彼女は何が起こっているか分かっていないらしかった。苦笑が浮かぶ。

(初撃で核鉄を飛ばした斬撃軌道もまた保持されているだろう。今しがた戦士が右手を動かしたのは……貴様にトドメを刺
すためだ。初撃は右手で放っていたからな。よって我を封じるや否や貴様を殺しにかかった。だが……我が粘っている以
上、手出しはさせん! そして!)

 無銘の体が戦士めがけて滑り始めた。

(このまま斬撃軌道を伝い落ちて接近する! 近づきさえすれば牙も届く!)
 戦士の目が光った。右手が動いた。しかし無銘はそれより早く跳躍した。下半身を振り子よろしく振り、勢いをつけて。ザ
リザリと響き渡った凄まじい音は彼の左肩が下に向かって引き裂かれる音である。彼は自らを刺す斬撃軌道から強引に
脱出した。串に刺された肉を左右めがけ引き、ちぎる要領で。
 ……紙一重でぷらつく左上腕部から生暖かい雨が降る。戦士は「あっ」と声を漏らした。血が、両目に入った。いや、投げ
入れたのだろう。無銘は血まみれの右手を振りかざしている。
 獣の口がニンマリと裂けた。皓歯の羅列が刺々しい光を帯びた。

(まずは右肩を噛み砕く!)
 体は落下を始めている。牙が、鈍色の凄まじい残影を引きながら戦士に迫り──…
「小癪な」
 無銘の眼前で四本線の軌跡が閃いた。流石に目つぶしによって正確さを欠いたと見え斬撃そのものは一髪の間合いで
外れた。だが斬撃軌道は残っている。四本線の不可視の刃へ突っ込めばどうなるかは明らかだろう。
「舐めるな!」
 もとより無傷は捨てている無銘だ。えび茶色の体の中で首だけを捩ったのは章印をかばったにすぎぬ。果たして自由落下
中の無銘の右目に不可視の斬線がめり込みそこから右が削ぎ落された。牙が散る。咬合力が減損する。顔面ごと片顎を失し
た獣がどれほど相手を食い破れるというのか……そんな疑問さえ無銘は覚えたが。
(それでも噛まざるを得ん!)
 無我夢中で戦士の右肩に飛びつきそこを食い破る。錆びた味が広がった。服と肉のカケラを素早く吐き捨て飛びのく。筋
をごっそり裂かれ脂肪の向こうに骨さえ覗く傷口が見えた。動脈が裂けたらしく噴水のように血が飛び散る。
(これでカマイタチは封じられた筈)
 安心したのもつかの間……。頭がむんずと掴まれた。視界が上に登って行く。もがく。外れる気配はない。上昇が止まった。

 戦士。

 彼の胸の前で彼を仰ぐ。血で汚れた眼はいまだ糸のように閉じられている。だが無銘は身震いした。死者。亡者。ぼんや
りと瞑目する彼は全身から漆黒の霞を漂わせている。特にどうという表情もない戦士。今しがた噛み破られた右腕で敵を掴
み、淡々たる手つきで左の鉤爪を振りかざす戦士。それは明らかに章印を狙っている──…

(くそ! 核鉄があれば! せめて人間形態にさえ、人の姿にさえなれれば──!)

「……手だしは……させません」
 なっと息を呑んだのは戦士ばかりではない。無銘もまた意外な面持ちでその光景を眺めていた。
 クチバシ、だった。子供ぐらいなら丸呑みにできそうなほど巨大なそれが戦士の左上膊部に噛みついている。そのせい
だろう。鉤爪が無銘の章印スレスレでぴたりと静止したのは。静止した物が揺れた。無銘の視界が90度傾いた。そのフレ
ームの中で戦士が飛んだり跳ねたりを始めたが好きでそうしている訳でもないらしい。
(これは──…)
 どうやらクチバシが左腕ごと戦士を振り回しているらしい。途中で気付いた無銘も無事とは言い難かった。彼は戦士に頭
を掴まれている。激しい揺れに巻き込まれたのは成り行きとして当然……。世界が揺れる。傷だらけの体がガクガクと揺
れる。無銘と戦士だけが局地的大地震に見舞われたようなありさまだった。

 よく絞られた中肉中背の体は、無銘の視界の中、しばらく轟々と振り回される羽目に成った。

 腕がすっぽぬけそうな勢いでフレームを出たかと思うと弾丸のように戻ってきた。ただでさえ無様な顔面が地面に叩きつ
けられ醜く歪む。勢いは止まらない。とうとう戦士の体は肘を起点に360度回転した。すぐ頭上で響いた関節と腱のねじ切
れる音は無銘の背筋を凍らせるには十分だった。視界は更に何度も何度も触れ動く。左上膊部の咬合にもめげず手首を
動かし斬撃軌道を描く戦士だが、嘴は斬られても裂かれてもまるで意に介さず戦士を振り回し続ける。もはや斬撃軌道も
クソもなかった。咬合を免れた右腕は付け根を無銘の牙に深く抉られている。小型犬の自重ならいざ知らず、馬鹿げた揺
すれのフレーム出入りの重圧まで跳ねのけるコトはできないらしい。攻撃不可。せいぜいちぎれないようにするのが精一杯
……彼はただ成すがままだった。

 いつ戦士の手から解放されたかは分からない。気づいたころには無銘は尻もちをつき、戦士がフッ飛ばされるのをただ
茫然と眺めていた。広場を超え、その際にある尖った大岩(無銘のトラウマ)を粉々に粉砕してもなお止まらず、森の中へ
飛び込んでいった。木々のへし折れる音がしばらく無銘の鼓膜を賑わし、それは2分後の彼が振動のもたらす酩酊感と吐
き気とを未消化のビーフジャーキーごと地面にブチ撒けるころようやく止まった。

「ディプレスさん……です。ハシビロコウさんのクチバシ……です」

 三日月が裂けたクリーチャーのような器官が玉城の顔面で砕けた。変形か……そう理解した無銘はしかし俄かに顔を赤
黒く染めて怒鳴った。玉城の唇は眼を背けたくなるほどあちこちが無残に裂け、ささくれ、雪のように白い前歯も何本か欠損
しているようだった。

「ディプレス? ディプレス=シンカヒアか…………!?」
「はい」
「どうして栴檀どもの仇の名を……いやそれよりも貴様! どうして出てきた!」
「……力を合わせなければ……いけません……」
「フザけるな! 貴様は我に守られておればいいのだ!」
「あ、ありがとう……ございます」
 無銘の言葉を曲解したのか、虚ろな瞳の少女は軽く頬を染めた。どこを見ているか分からない瞳がとろとろと蕩け、心持
ちうっとりとしたニュアンスで何かを眺めているようだった。「どこを見ている」。彼女の瞳を覗きこんだ無銘はハッとした。自
分だ。自分を眺めている。そう気付かれたコトに気付いたのだろう。玉城は慌てて俯いた。真赤な髪からチロリと覗く耳た
ぶが少し赤らんだようだった。

 無銘は、とても恥ずかしい気分になった。

 雪が溶け、黄砂が吹き始めたころの艶めかしい気分がモヤモヤと脳髄を苛んでいるようだった。
 母と慕う小札にさえ覚えた覚えのない感情を玉城に催しているようだった。

「ち! 違うわ! そもそもだ! 我が敵対特性を受けた以上、貴様は決して無事ではない! いまクチバシが砕けたのは
斬撃軌道のせいもあるが! それ以上に! 貴様の体が限界だからだ! それでなくても貴様の体は──…」

 肘から先が欠損した両腕は創傷に塗れ、裸足は折れた櫛のようにところどころ指が欠けている。立っているだけで痛い
のだろう。軽く浮かべた右脚は膝から先が心もとなく揺れていた。胴体は血にまみれ、虚ろな瞳の片方は蜘蛛の巣に似た
ひび割れが痛々しく広がっている。

「そんな体であのバカげた攻撃力を振るってみろ! 反動は貴様さえも破壊するぞ!」
「……大丈夫…………です。よくある……コト……です」
「よくある……だと!? フザけるな! 誰がそういう目に遭わせている! 属する『組織』か!? それとも貴様の姉か!」
 突き刺すような叫びに玉城の顔が苦しげに歪んだ。
「よくあろうとなかろうと、貴様のような年齢の女が! それを押して戦うなと言っている!」
「ありがとう…………ございます。優しい……ですね」
「!! やかましい! 会話をしている時間はないのだろう! 見ろ!」
 はつと無銘は振り向いた。戦士が落ちた辺り。そこから凄まじい殺気が漂い始めている。黒とも紫ともつかぬ靄が森の奥
から漂っている……そんな錯覚さえ起こった。そして駆け寄ってくる足音。戦士はまだ、戦える……。
「では、結論からいいます……。次に私が動いたら……チワワさんは核鉄を拾って……逃げて下さい……)
「逃げるだと!? 任務を達するコトは忍びにとり死活問題! 第一ここで貴様を守らねば育ててくれた師父や母上に顔向
けができん!」
 左腕を振った無銘は喉奥から苦鳴を漏らした。凄まじい痛みが左半身に走る。バックリと裂けた左肩のせいだ。手を振る
だけでも激痛が巻き起こるらしい。
「気持ちはわかります……。でも、不可能です。私達は重傷で……助けがくるかどうかもわかりません。なぜなら」
「あの鉤爪が来たのはここに居た共同体を殲滅する為。となればまだ近くに仲間がいる! 単騎で共同体を潰せるのは大
戦士長クラスか火渡赤馬ぐらい……かの防人衛さえ徒党を組むという。よってあの戦士は仲間連れだ! 師父たちがいま
だ着かぬのは恐らくその戦士と鉢合わせているせい……その程度なら我にも分かる!」
「……はい。時間稼ぎをしても……有利になれるとは……限りません。もしそのせいで……他の戦士さんが来たら……最悪、
です」
「何が言いたい」
「断言します。チワワさんが粘っても……無駄、です。それは……分かっている筈、です……」
 無銘は黙り込んだ。
(分かっている。戦士の通常攻撃にすぎないカマイタチでさえ一か八かの吸息かまいたちを使わなければ対処できなかった。
意を決して飛び込んでもせいぜい肩に噛み傷を与える程度。あの時……こやつが助けに入らねば死んでいたのは我の方だ)
「あのかまいたち……何度も……撃てますか?」
 無銘は首を振った。
「…………あの一撃で気管支が裂けたようだ。もはやあれほどの吸引力は生めまい。だが! 核鉄さえ取れば!」
 無銘が指差したのは丸太の山。その向こうに核鉄がある。戦士が飛ばされたのとはちょうど逆方向だが、どれほど遠くに
飛ばされているかは分からない。
 玉城は、かぶりをふった。
「……もしあの自動人形を発動して……攻撃を与えても……3分以内に……あの人たちが来る可能性は……低い……です。
その間に……やられ……ます」
「ああ! 誰やらのせいで我の兵馬俑はボロボロ! というか持ってきてるの片手だけ!」
 顔を背け腕を捩る無銘はヤケクソのようにまくしたて始めた。

「奴相手に3分持ちこたえるコトも貴様と我を連れて逃げるコトも難しいだろうな!! だがだからといって諦める事由には
ならん! 難しいなら難しいなりでやり様を模索するのが忍びだ!! 栴檀どもでさえ力及ばずながら後に繋いだのだ!
ここで我が奮起せずしてどうする!! あんな馬鹿な新参どもでも命がけの結果を無為にしていい道理はない!!」

 とはいうものの明確な打開策はないらしい。無銘は何もない空間を苛立たしげに叩いたきりすっかり黙り込んだ。

(『あんな馬鹿な新参どもでも』……)
 虚ろな瞳の前で瞼がはしはしと上げ下がった。玉城は意外な思いだった。先ほどの戦闘でしきりに叱咤していた『新参ども』
に対しそんな言葉を吐くとは。
(でも……分かるような気が……します…………)
 記憶の闇の中に一条の光がぽつりと灯(とも)った。青空の背中が見えた。愛用のビーンズテーブルに向かってしきりに
鉛筆を動かす姉の姿。
(お姉ちゃんは知らなかったと思うけど…………結構……見てました)
 鉛筆を止めて考え込む青空。「あ」と嬉しそうに呟いてまた鉛筆を動かす青空。鼻歌を歌ったり「喜んでくれるかな」と真剣
に呟いたり、とにかく彼女は一生懸命書きものをしていたようだった。ファンレターを書いている。玉城はいつしか何となく
理解していた。
(でも……それに来た返事は……私が…………)
 飛ばしてしまった。だから父と母と自分とで一生懸命探した。報われて欲しかった。頑張った青空が何の喜びも感じられない
まま終わってしまうのは嫌だった。

「結果を無為にしていい道理はない」

(チワワさんが……そう言うのは……きっと……)
 拳を握るつもりで腕に力を込める。先の欠けた肘に痛みが走る。だが心地よくもあり、玉城はさっぱりとした微笑を浮かべた。
確かにある。無銘が無為にしたくない「馬鹿な新参ども」の努力の成果が。

 そこから感じられる彼らの結びつきが、ただ……眩しかった。

「………………ところで……チワワさん」
「なんだ!」
「…………血のつながりこそないように見えますけど……チワワさんがそこまで……力になりたいなら…………あの人たち
は……きっと……家族……です。だから……誰も欠けずにいて欲しい……です。私の分まで…………普通に暮らして……
普通に笑って……いて……下さい」
「何を突然いいだしている! 戯言を抜かすヒマがあるなら打開策の一つでもいえ! 戦士はもう近くにまで来ている!」
「はい……自動人形を囮にすれば……逃げられます」
 無銘の黒豆のような瞳がみるみると収縮した。何度も視線をやりかけた白い足。誘惑的でさえあるなよなよとした右足が後
ろに向かって跳ね上がり、凄まじい力を溜めている。距離は至近。放たれたが最後、確実にチワワを吹き飛ばすだろう。
「おい待て貴様あ! なに足なんか振りかぶっている! 待て! 待て! やめろ!!」
 両前足をばたつかせる無銘もなんのその。
「私も……囮になります……だから……チワワさんだけ……逃げて下さい……」
「まさか貴様……!?」
 玉城は小型犬の胴体を蹴り飛ばした。
「任務より…………命が大事……です」
 体を丸め飛んでゆく無銘は確かに見た。
 限界を迎え、砕けていく足を。
 唇の端と端をにゅっと綻ばせ、穏やかに笑う玉城を。
 何かを呟く彼女の遥か後ろにやってきた、見覚えのある姿を。

 広場に戻ってきた鉤手甲の戦士はあらゆる事情を知らないのだろう。
 振り抜きたての玉城の足が緩やかに崩壊していくのを彼はただ、無感動に一瞥した。
「仲間を逃がすか」
「仲間じゃ……ありません。……敵、です」

(敵。確かに我と奴は敵同士だ)
 地面に情けなくつっぷした無銘は力なく立ち上がり、よろよろと辺りを見回した。
 開けた場所だが求める物は一瞥の限りでは見当たらない。
 飛んだ拍子に妙な転がり方をしたのだろう。核鉄を見つけるにはしばらくかかった。
(任務でなければかばう道理はない。かかる羽目になったとあればその任務さえこなせるかどうかだ。戦士と遭遇したとあ
れば任務失敗も止むなし……師父はそうお許しになるだろう。だから奴を囮に逃げのびるのは……決して間違った選択で
はない)

 匂いを頼りにやっと見つけた核鉄を、口に咥える。
(だが!)
 スライス済みの断面から六角形が見苦しく飛び出した。
(だが──…)
 最後に聞いた玉城の声が蘇る。

「いい……です。私はチワワさんのおかげで……笑うコトができました……。それで……満足……です」

 蘇ったそれは何度も何度も脳髄に響いているようだった。










 片目が髪に隠れたその少女はひどく無口で。


 動物たちが大好きだった。





 何が楽しいのか、洞窟の奥で無銘の毛を何度も何度も梳り、楽しそうに笑っていた。






(何故だ。なぜいま『あの女の事を』……思い出す……!!)






 羸砲ヌヌ行は語る。


「鳩尾無銘が思い出していた少女のコトかい? そうだねえ。彼にとってはもしかすると『姉』であり『妹』だったのかも知れな
いね。ふふっ。出会ったのは物心ついて1年経たないうちさ。自分の体について悩んでいるころ……。異形であるコトに悩
むがゆえ心通じた怪物のような少女」


「しかし交流はそれほど長く続かなかった。我輩の記憶が確かならば一晩。そう、たった一晩しか彼らは時間を共有できな
かった。少女は死んだよ。蘇った頤使者6体。そして栴檀2人が加わって間もない頃の音楽隊。彼らの熾烈な戦いのすえ
鳩尾無銘は経験した。切ない別れを……経験した」



「しかし彼はやがてそれを超える。乗り越えて……新たな絆を、手に入れる!(ちょっとはしゃぎすぎかな私?)」



 山頂は沈黙に包まれていた。無人、という訳ではない。その中央付近ではイガグリ頭をした30絡みの男と少女がじっと
睨み合っていた。双方とも直立不動だが、それが保てているのが不思議なほど傷は深い。

 少女はなよなよした体を傷と欠損で苦しげに彩り、脛の半ばから先が欠損した右足を無造作に垂らしている。

 30絡みの男もまた右肩のあたりからとめどなく血を流している。
 無銘の食い破った傷が相応の痛みをもたらしているのは間違いなく、現にあばたとイボのある鼻に脂
汗がネットリと浮かんでいた。

(ホムンクルスなら……ともかく…………戦士さんを……殺すわけには……いきません……)

 少女──玉城はそう思っていた。

(ホムンクルスならともかく……人間を殺したコトは……ありません。殺したくは……ありません)
 チワワさんを逃がしたら討たれよう。そう思っていた。
「爪ある限り軌道は連続する。敵を裂き、腕を止め、那由他の限りを置いて再び動かしたとしても……連続する」
 戦士の左手は腰の辺りまで下がっていた。翻った掌はとてつもない負荷を浴びているようにガクガクと戦慄いていた。見
栄えの悪い顔つきが怒張し、真赤に染まり、こめかみに浮かぶ青筋が今にも破裂しそうにひくついている。
 彼は息を吸った。病熱患者がうなされるような不気味な音が響いた。次いで拳が握りしめられ、重機よろしく上方へ跳ね
あがった。果たして頭上に上る鉤手甲。重々しさを克服したような手つき。それをただ玉城はぼうっと見ていた。
「軌道は! 連続する!!」
 ざあっと息を吹き散らかしながら戦士は左手を振りかざした。

 そして大地は大きく揺れた。

「ふは!? とととととと、のわーっ!!」
 つんのめる小札の横で木々がざわめいた。黄ばんだブナの葉が散る世界はもはや鳥どもの悲鳴とはばたきの大合唱
しかなくとかくとにかくやかましい。

 総角の鼻先を黒い旋風が通り過ぎた。円弧状に斬り上げられた肉厚の刃は更に中空で不自然な『持たれ方』を経て袈裟
斬りへ。眼前に気を置きつつ山頂の気配も探る。新たな揺れが来てもそれが命取りにならぬよう、心持ち多目に飛びのき間
合いを取る。剣の主がどこか無邪気な様子で突っ込んできた。乱雑な足運びに剣客として溜息が洩れる。剣を握るなら術
理も齧れ。もっと強くなれるぞ……100メートル走でもするような野暮ったい動きにそんな忠告さえしたくなったのは通暁者
特有の講釈欲求ではない。斬撃1つやるにもいちいちドタドタ駆けてくる泥臭さに好感を抱いたからだ。

 総角が向かい合っているのはそんな敵だった。

 どこからか雷のような音が響き、敵は山頂をはっとした面持ちで見上げた。その視線を微苦笑混じりで追った総角は、大儀
そうにポケットから手を出した。
「やはり無銘は山頂か。そして同じ状況らしい。……やれやれ。好感ゆえなるべく無傷で終わらせたかったのだがな」
 時間がない。目を細め一人ごちつつ踏みこむ。耳元で西洋剣が唸りを上げた。傍で見ている小札がひっと息を呑んだが構
わず剣すれすれに駆け抜ける。相手の懐に飛び込むのにさほどの時間は要さなかった。はちきれんばかりの胸板は武装
錬金特性ゆえか……。品定めを終え面を上げる総角に驚きの声が振りかかる。

 その主はやや強面だった。

 あんぐりと開けた大口から4本の鋭い牙が伸びている。と書くと獰猛な印象だが澄んだ瞳には子供っぽさも宿っており、20
歳は超えていないように思われた。目を白黒しながら避けられた剣と総角を見比べる様子は滑稽と言えば滑稽だが、がっし
りとした体格に見合わぬその反応は「ちょっと間の抜けた気のいい大型犬」という印象である。
「悪いな。逃げるのはやめだ」
「え」
 笑顔で(戦士の)左手首を掴む総角の意図を察し損ねたのか、男は間の抜けた声を上げた。さもあらん、彼はまだ剣さえ
振り抜いていなかった。野暮ったい足で運んだ巨躯はまだ前へ前へと向かっており、突っ込んできた総角を「危ね」と避け
かけてもいた。
 そんな勢いが、何かに吸い込まれた。
「柔(やわら)を使わせて貰う」
 キラキラと輝く金髪の奔流の影で男の体が舞い上がり、そして飛んだ。彼は手近な木にしこまた背中を叩きつた。
「何と! もとより身長体重総てが勝る筋肉絶賛肥大中筋肉モリモリマッチョマンな戦士どのを腕一本で!?」
「ま、交差法だな。突っ込んで来なければ無理だったさ。…………筋肉モリモリマッチョマン?」

 黒い刀が木の根と打ち合い乾いた音を立てる。
 その傍で一瞬呻いたのを最後に力なくうな垂れる真希士。

『はは! どうやら後頭部を打ったらしい!』
「で、仮ぎゃーってわけじゃん……うー。なんか悪いコトしたっつー感じもするけど」
 ぼるりぼるりと側頭部をかく香美は忸怩たる思いらしい。野性味溢るる美貌が台無しになるほど徹底的に顔をしかめている。
「これもまた止むなきコト。よもや無銘くんを追撃している不肖らが戦士どのと出会うとは」
「フ。この山頂にいた共同体はよくよく運がないらしい」
 要するに総角たちと玉城、戦士の3勢力から狙われていた。そして壊滅した後、タッチの差でやってきた連中が意味もな
く争う羽目になっている……そう述べた総角はこう締めくくって駆けだした。
「とにかく、戦士が来ている以上、急がねばならんな。先ほどの揺れも気になる」
『ええ! ええ! しかし──…』

 貴信は眼前──つまり香美にとっての背後を──やれやれと見渡した。

 嵐でもきたようだった。

 大木が何本も何本も何十本も倒れている。総て然るべきルートに流せば車1台分ぐらいの代金にはなるだろう。それ位
多くの木々が無秩序に伐採されている。

 総て、戦士の所業である。貴信は身震いした。

(剣一本でここまでやるとは! まともにやりあえばどうなっていたかは分からない!!)


 不覚にも喪神した剣持真希士は帰還後それを大いに恥じ、ますますの鍛練に励むコトとなる。




 手を振りかざした戦士の足もとで地面が割れた。

 割れた、というより罅(ヒビ)が入った。例えば鋭利なスコップを突き刺したよう……転瞬なり響く轟音の中、衝撃波が玉
城の両隣を通りすぎる。総ては一瞬。注視していた筈の玉城でさえ一瞬なにが起きたか分からない。

 濛々たる土埃の中で振り返る。丸太の山がはじけ飛び質素な山小屋は倒壊中。ほぼ中央が大きくえぐれ木片や石くれが
舞い飛ぶ真っ最中。しかし玉城の心を決定的に砕いたのはその破壊力ではなく
「チワワさん……!?
 無銘を飛ばした辺りがすでに巨大な地割れに見舞われているからだ。

 幅およそ3メートルのそれが幾筋も幾筋も地平へ向かっているのを認めた瞬間、ただでさえ虚ろな玉城はみるみると血色
を失った。長大で凶悪な裂け目が4つ、広場を侵食している。むしろ罅(ひび)割れの中にたまたま切り立った地面が3つ残っ
ているとさえ形容すべき事態だった。丸太の破片や山小屋の残骸が闇へぱらぱら落ちていくのが見えた。落下音は聞こえ
ない。地割れは夜のように暗く、底も見えない。


「チワワ……さん」


 これだけの一撃をあの小さな体で浴びたらどうなるだろう……想像は残酷な結末ばかりもたらし、闘争意欲を奪い、だから
玉城はとうとう力なくくず折れた。

 ……戦士がゆっくりと歩み寄る。鉤爪で無慈悲な星が瞬いた。

「無駄だ。これより放つ攻撃は全ての斬撃軌道を左腕に集約したもの……軌道は連続する。故に俺はこの山に入ってか
らずっと、斬撃を続けてきた。固定されたそれを総てかき集めれば……こうなる。左腕が万全なら、右手が使えさえすれば
今の一撃で終わっていた」

 再びかざした鉤手甲からは黒い罅割れが立ち上っていた。それは塔のようにどこまでもどこまでも高くそびえ、青空さえ
斬り裂いているようだった。

(青空……お姉ちゃん……)



「ごめんね光ちゃん」
「ホムンクルスにしたせいで光ちゃんは普通の人より早く年をとるんだ」
「どれくらい? 5倍よ? 5年もしたらおばさんで15年後にはおばあさん」
「あーあ泣いちゃった。可哀相ね」
「でも大丈夫。お姉ちゃんがちゃんと解決法を見つけてあげるから──…」

「逆らったりしたらダメよ?」

「逆らったら、どうなるか……分かるよね?」




 上げた視界のその先に広がるのは澄み渡った青の空間。
 空を眺めるのは好きだった。奪われた何もかもがそこにあるような気がして、好きだった。



「戦ってね光ちゃん。大丈夫。光ちゃんは強いから」

 初めて化け物の群れを見た玉城の肩を、姉はにこやかに押した。つんのめり、転んだ玉城に化け物が群がった。獲物
だとでも思っているのだろう。腕が裂かれる。足が潰される。悲鳴を上げる。何度も何度も。助けを求めて姉を見る。手を
伸ばす。彼女はただニコニコと微笑んでいる。ファイト。そんな言葉も聞こえた。

 野牛の角に刺し貫かれた。海老ぞりで痙攣しあぶくを吐く。彼女を囲む色とりどりの化けものは容赦なく押し寄せる。


 玉城はただしゃくりあげながら鼻水を垂らし、彼らと向き合った。





 いつの間にか地割れの奥の深い闇に視線を移していた。



 湿った地面。どこからかピチャピチャと水音がする薄暗い空間。床の黒い汚れは泥とカビらしかった。

 鉄格子に四角く開いた出入り口をくぐるよう姉は促した。
「頑張ったわね光ちゃん。たった3日で共同体を10個潰すなんて。残り3日も同じコトしてね。してくれたら普通のお部屋に
入れてあげる。それが規則なの」
 力なく頷く。素直にそこへ入る。羽毛で作った服は泥や血で汚れたのを差し引いてもすっかり艶が失われているようだった。
 差し出されたのは正体不明の薬剤だが奪うように受け取り嚥下する。食事を選ぶ自由はなかった。せがんでも掠め取って
も腹が鳴っても銃弾を撃ち込まれた。大好きなドーナツの山にガソリンを撒かれそして焼かれたコトもある。

『空腹なら人間を食べなきゃダメよ。ここではそれがルールなの』。

 姉は自分を教育してくれている。敢えて厳しい態度をとってくれている。自分を憎んではいない。憎んでは……。

 撃たれた時は身を丸くしてうずくまっているのが一番良かった。痛みがどこか遠くへ去っていくまでじっとしていれば必ず
楽になれた。

 牢獄のなか巻き添えを食らった虫たちがいた。

 ピクリとも動かぬ彼らを眺めると……腹が鳴りそうな気配がした。鳴ればはしたないと撃たれる。恐怖と嫌悪と罪悪感の混じ
った薄暗い表情ですすり泣きながら、死骸に手を伸ばす。空腹の音は恐怖だった。それが鳴ると銃撃が来る。だが腹さえ
満たされていれば大丈夫だった。決して咀嚼できないキチン質や甲殻の無慈悲な感触を口腔粘膜になすりつける方がまだ
良かった。銃撃だけは嫌だった。怖かった。大好きな姉に拒絶されているようで嫌だった。

「無理をしなくてもいいわよ。だってもう光ちゃんは化け物さん。躊躇わなくていいじゃない」

 にこやかな笑顔が鉄格子を占めた。耳障りな軋みが暗い牢屋に響き渡り、姉の足音が遠ざかっていく。

「……です」

 口中に広がる苦味にえずきが漏れた。乳歯の間に多足類の足を挟む人生など想像していなかった。

「ドーナツが……食べたい……です」

 その夜は苔むした床板に顔をこすりつけ、夜が明けるまで泣いていた。




 砕けた節足動物たちがチワワに重なり、そんなコトを思い出した。

 もう何もない。そんな気がした。

 だから俯いて、小さく囁いた。

「……もう…………いいです。殺して……
「……我のおかげで笑えたから満足……だと?」
 緩やかに歩を進めていた戦士の体がグラリと揺らめいた。
 俯いていた玉城である。戦士の体勢の崩れはただ漠然と察知したにすぎない。だが不意の声に首をがばりと跳ねあげ
た彼女は二度三度の右顧左眄を経てようやく状況の総てを理解した。
「フザけるな!! 本当に貴様はそれで満足なのか?」

 声の出元──地割れの淵から伸びる手が

「姉に両親を殺され、5倍速で年老いるホムンクルスへと変えられ、体よく使役されたあげく戦士に討たれて満足なのか!」
 戦士の右足首を掴んでいる。
「死者を悼み敵にさえ情けを催す心を持ちあわせておきながら、それを誰にも聞かれず! 化け物のように駆除されて──…」
 奈落のそこから小さな影が躍りあがった。

「貴様は本当に満足なのか!!?」

 チワワが戦士の左腕に噛みついた。「貴様」。驚嘆する戦士が体を激しく揺する。その足を引いたのは地割れから伸びる
罅だらけの手。

 本当に本当に罅だらけの手。踏みつけるだけで割れてしまいそうなボロボロ手。

 それが。


 戦士の足首を引く。玉城を死から……遠ざける。


 地割れの中にいたのは……

 身長2mを超える大型の…………兵馬俑。

 自動人形? 動物型が何故?
 そんな声を漏らす間にもナメクジの這ったような轍が奈落めがけ伸びていく。

「そうか! 地割れが起きる直前これを発動! すかさず乗り込み……地面の下から!」
「伝ってきた!!」
「味なマネを……! だがホムンクルスが何を言う!」
「黙れ!! 貴様に何が分かる!! 」
 実に賢明な戦士だったと玉城は後々まで感心した。右足首を掴む手。それはすぐにほどけない──強烈な握力のもた
らす痛みからそう判断したのだろう。彼は右腕を動かした。むろん無傷でもなく、動きには脇付近の大量出血と激痛の呻き
が伴った。だが攻撃対象はそうするに値する戦略的価値を十分に秘めていた。
 鉤爪が無銘の顔面を直撃した。自動人形は使い手本人を斃すのが手っ取り早い……そんな不文律を玉城が知ったのは
やや先のコトだが、戦士は歴戦の中で知悉し抜いているようだった。左腕にうるさく纏わりつくチワワさえ斃せば自動人形が
消える、奈落にも引きずり込まれない。傷ついた右腕がどう悲鳴を上げようが奈落に落ちるよりは軽傷だ。だが無銘もその
辺りは承知と見えた。首を動かし章印への一撃だけは避けている。そこにさえ当たらねば勝ち……戦士の体がまた奈落へ
と近づいた。両者ともまさに土俵際の戦い、無銘もまた無傷ではない。愛らしい顔に惨たらしい朱線が何本となく走り、耳が
斬り飛ばされ円らな瞳からは血涙が流れた

「誰彼の区別なく化け物を狩りさえすればいい貴様らに何が分かる!」

 戦士は眼を剥いた。掴まれている部分。そこが燃え始めている。忍法赤不動……。肉の焼ける嫌な臭い、火傷特有のひ
りついた激痛が骨すらも蝕んでいるようだった。炎はもはや衣服を介し脛はおろか膝のあたりまで燃やしている。火の粉が
散り、左足に伝播する。無銘の額を狙う右腕が心持ち震えるのを禁じ得なかった。

「死骸の総てが望んでそうなった連中なのか! 己が欲で身を歪めた連中ばかりだと思っているのか!!」

 戦士がいよいよ汗みずくになったのは燃えさかる足のせいだけではない。
 奈落まであと3歩。右腕は失血と傷の悪化で思うように動かない。無銘の章印を狙えない。

「少なくてもこやつは違う! こやつは──…

 戯言などはどうでもいい。
 奈落まであと2歩、いよいよ危殆に瀕した戦士の唇から掠れた声が漏れた。
 その表情が耐えがたい不快感を表しているのを玉城は見た。なぜ化け物に説教されなければならないのか、そういう苦渋
が思考判断をいささか乱暴な方へ導いているように見えた。

 それは正解のようで……。

「悪夢に泣き姉へ悔い、死者を見つければ埋葬する! たとえ体が化け物に貶められているとしても! 5倍の速度で年老
いてゆくとしても! こやつは間違いなく人間だ!!」
(人……間……? 私が……?)

「黙れ!!」

 戦士は狙いを変えた。左足を、罅割れた自動人形の腕へ叩きつけた。足を引く忌まわしい手を……砕くために。


 しかし。

「そんな者を! こやつを!!」
 自動人形の腕から破片が散った。罅が広がる。
「叫んでいる場合か? 奈落へ導く膂力……心持ち弱まったようだ。そのままそこに居れば……
「逃げろと? できるか!! 奴を、不当に歪められしただの少女を!!」

「見捨てるコトなどできるか!!!!」

 踵が腕を砕く。気炎とは裏腹に迎えつつある自動人形の腕を。

 できる。破壊できる。奈落には引きずり込まれない……

 会心の笑みを浮かべる戦士。その横で無銘はなお声を上げる。

「なぜなら我は──…」

「人間だからだ!!」

 左手首が噛み切られ鮮血が散るのも意に介さず 戦士は再び足を振り下ろした。 
 腕は、砕けた。
 同時に。
「な──…」
 戦士の足が滑った。
 振り下ろし、腕を砕いた左足は勢いの赴くまま奈落に向かって水すましのように滑った。
 彼は見た。
 腕の破片の下でキラキラと輝く地面を。
 それは青空や破片や、驚愕に歪みきる戦士の醜い表情さえ満遍なく映している。
「鏡!? いや、違う!」
 秋口にそぐわぬゾッとした冷気が左の足裏に走る。
 摩擦なき場所で滑る足は込めた力の分だけ安定を失っているようだった。
 つま先が跳ね上がる。膝が飛ぶ。
 股関節が軋むほどめいっぱい繰り出された足は、遂に加速の赴くまま体を宙に浮かせた。

「貴様は考えるべきだった。なぜ自動人形が地割れの縁に居るか、と」

 空転する景色のなか響くのはチワワの声。

「足を刺していたからだ。崖にな。そしてそこから伝導せしは……」

「忍法薄氷(うすらい)──…」

(氷……? まさか腕の下を…………地面の水分を…………!?)
(凍らせていたのか! 俺が腕を砕くのを見越して──)
「古人に云う。忍びに三病あり。恐怖、敵を軽んず、思案過ごす」


 鳩尾無銘の眼光が青く波打ったのは確信ゆえか。



「奈落めがけ引かれる恐怖。足が燃え盛る恐怖。貴様はそれに耐えかね下手を打った……」


「鉤手甲は忍びの武器。なら貴様も忍びだろう」

 噛み破った肉片と血管を吐き捨てながら、チワワが笑う。

(や先にこちらを斃すべきだった。本体さえ片付けておけば)

 後悔とともに繰り出された戦士の右腕の先で小柄な影がぱっと飛びのいた。剽疾とは正にこの事、残影を薙ぎ切った鉤
爪が血まみれの手首をガリリと裂いた。神経を直撃したらしい。蘇る激痛にさしもの戦士も絶叫を漏らした。
「そして、だ」
 無様に両足を投げ出し体をひん曲げる戦士めがけて
「云うまでもないと思うが」
 砕けた右腕の上をすり抜け
「腕は……2本ある」

 一気に伸びた左腕が、燃え盛る戦士の右足を引いた。

 赤々と燃焼する炎。腰のあたりまで侵食したそれが扇型の綺麗な残影を奈落に向かって走らせる頃。

 戦士は自らが作りだした亀裂の最奥めがけ落ちはじめていた。

「フン。2メートル近い兵馬俑だ。貴様の足首を掴んだ瞬間奈落へ落とせば、まあ諸共に叩き落とすコトぐらいできた……。
もっとも他に戦士がいる以上、核鉄を手放す訳にもいかんがな」

 腕もみねじり奈落を見下ろす無銘の姿を見た瞬間、ようやく玉城光の時間は動き出す。

 未来に向かって。

 凍てついていた時間が、暖かな未来に向かって少しずつだが……動き始めた。


「…………この世には己が欲望のため他者を歪める者が確実に存在している」

 見憶えのある姿が奈落を登ってきた。

「奴らが我に与えたのは名前のない傷ついた体一つ」

 兵馬俑。先ほど玉城が斬り捨てた自動人形が無愛想に佇んでいる。手首や胴体が繋がっているのは再発動のせいだろう。

「与えられたのは人型にもなれずチワワにも成りきれぬ哀れな体」

 凍って泥まみれの足の横、肩いからせつつズンズン突き進んでくるチワワに

「我だけではない。栴檀どもも、母上も……師父さえも奴らの勝手な都合によって生涯を歪められ、消えるコトのない欠如
を植え付けられた……。その点では皆、貴様と同じだ」

 何かを呟いている無銘の姿に玉城光はただただ眼を丸くし──…

 そして一言。

「チワワ……さん?」
「なんだ」
「……今のはハメです……汚い……です……」
「うぐっ!?」
「人間のやることでは……ありません……」

 無銘の顔がみるみると赤黒くなった。まさかそういう文言を吐かれるとは予期していなかったのだろう。
(……まずい。あの戦士死んでたらどうする。いやいや、鉤手甲あるし途中でなんとか。途中で何とか……)
 彼は大きく口を開けかけ怒鳴ろうとしたが、気を取り直した様子で大きく深呼吸した。怒れば指摘を認めたコトになる。
不当性ありしや、そう自白するに等しい。

 だから寛容な態度を取り、そして繕おう。無理やり浮かべた引き攣り気味の笑いは見ている玉城がいたたまれなくなるほ
ど本音をダダ漏らしていた。

「フ、フハハ……汚いのもまた忍びのっ、い、いや、人間の、そう、人間のサガ、だ!」
「声が……上ずっています……」
「だだ黙れ! 質問しているのは我だ! 答えろ!」
 指が突き出された。すぐ目の前に来たチワワが丸っこいそこを怒気に振るわせ自分を差している。
 頭からは湯気さえ立っている。
 そう、明らかにこのチワワは怒っているようだった。玉城は虚ろな眼を背けた。
 怒られるのは……苦手だった。


 憤怒ほど彼女に害悪をもたらした感情はないのだから。


 しばらく、沈黙が続いた。

「満足しているか」
 その言葉にどう回答していいか分からないのだろう。
 目を泳がせる玉城を無銘は凄まじい目つきで睨んだ。

 この少女は果てしない怯えを含んでいるようだった。言葉を吐こうとするたび口をつぐみ、俯き、カロテンをたっぷり含んで
いそうな三つ編みごと首を振る。その繰り返しだった。
 やがて玉城は顔を上げ、半開きの口の先で傷だらけの唇を震わせながらぽつぽつと喋り出した。
「私は……お姉ちゃんが好き……です。でも……何もしてあげられませんでした……手紙……飛ばしてしまい……ました」
「…………」
「もし……私のするコトで……お姉ちゃんが……救われていたなら……あんなコトには……なりません……でした……」
「…………」
「だから……お姉ちゃんのために戦い抜いて……死ぬのが……お父さんやお母さんや……お姉ちゃんにできる……伝えら
れる……ごめんなさい……です。それができるなら……満足……です」

「ならば何故! 貴様は虚ろな目で空を仰ぐ!!」

 体が揺れた。よく見ると無銘が胸倉を掴んで引き寄せていた。
「姉に歪められ貶められたであろう瞳で空を見る貴様は、奪われし総ての物を懐かしんでいるようだった! そこに満足な
ど何一つなかった! ただ現実から目を逸らし遠い青空ばかりを求めていた!」
 いや。小さな声を漏らして玉城は首を振った。視界の端で揺れ動く三つ編みは血しぶきのように赤かった。
「言いたくなければいってやる! 貴様のいまの言葉はただの阿(おもね)り! 憤る者を! 我をいなすためだけの物!」
「やめて……下さい」
「聞こえはいい。一理もある! だがそれをいうため何度言葉を消し何度組み立てた! 我を舐めるな!! 貴様は伝える
ためではなく、責められないためだけに言葉を弄したのだろう!」
「それ以上は……言わないでください」
「貴様にかような癖(へき)を与えたのは間違いなく姉だ! 貴様が本音を! 姉にとって耳触りの悪い言葉を吐くたび奴は
貴様を苛んだ!! だから今のように迎合せんとするのだ!」
 やめて……耐えきれず上げた声はもうすっかり嗄れている。渇ききった口の中でゴロゴロ転がる鉄錆の匂いとエメナル質
のカケラが耐えがたい不快感を惹起する。頭を抱え、いやいやをするように首を振る。聞きたくない。
「聞け! 貴様のような年齢の女が! 本音を隠し理を以て相手を説かんとするな!! 頭がいいのは結構だ! だが未だ
子供にすぎぬ貴様が理に縋り自らを守らんとする姿は見ていて腹が立つ! その姿は明らかに歪められている!!」

 見抜かれている。

 聞こえのいいだけの小狡い言葉が、見抜かれている。姉が相手ならもう許してくれた。耳障りのいい言葉さえ差し出して従
えば銃口が視界から消え、それまでの隷属が築いた平穏(仮初でも、仮初だからこそ痛みのない)が代わりに訪れた。
 だが、チワワはそれさえ許さない。

 姉への罪の意識は口実だ。
 本音は別の部分にある。
 本当はただ死んで楽になりたいだけだろう?
 
 彼は厳しい声を上げながら執拗に迫ってくる。

「姉が好きだと!? 笑わせるな! 本当に好きであれば客死によって再会を諦めるような所業などは絶対にせん! 少な
くても我は違う! 師父と母上の元に戻るためならば臓物を引き摺ってでも前に進んでみせる!」
「それは──…」
「いまの貴様はかき消される叫び声の中で立ち尽くし後悔だけ抱えているに過ぎん! 姉へ悔い姉を恐れ、いま以上の傷
を浴びぬよう浴びぬよう隷属しているだけだ!」

 無銘は、咆哮した。

「だが分かっているのか! いまここで貴様が贖罪気分で死のうが、姉は決してその態度を変えないのだぞ!」
 息を呑む。寒気がした。すっかり乾いた筈の背筋がまた潤い出した。
「むしろその態度を世界に認められたとさえ思い! 歪みの赴くまま他者を傷つけ! 貴様がごとき虚ろな瞳の者どもを産
み続ける! 貴様のされた仕打ちが際限なく拡がっていくのだ!」
「私のされたコトが……他の人に……?」
「まして被害者がその怨嗟を晴らすべく加害者になれば最悪だ! 加害者が被害者を生み被害者が加害者を生む悪循環!」
(被害者が……加害者に……?)
 思い出した。青空は実母に首を絞められ声帯を歪められた。
 いまの青空が絞首を好み声帯をちぎるのが好きなのは……被害者が加害者になった好例だろう。
「その忌むべき循環は断たねばならない!」
 どうやって胸倉を掴んでいるよく分からないチワワの指に一層力が加わった。
「いかな痛苦を浴びようと、断って、断って、断ち続けて! その根源を滅ぼさない限り……我や師父たちや貴様のような
境涯の者どもが産まれ続ける!」
「チワワさんも……私と同………あ」
 玉城は思い出した。

──忘れるものか!! 奴こそ我をこの体に押し込めた張本人の1人!!! 貴様らの組織の幹部にして忌々しき忍び!」

 両親が殺害された後、玉城が会った2人の女性。彼女らのせいで「チワワさん」は「チワワ」にならざるを得なかった……
(だから…………私と……同じ。あるべき姿から歪められた所は……同じ。だから……私を……)
 助けたがっている。そう、気付いた。結局このチワワは口こそ悪いが、任務──「玉城に敵対特性を浴びせ拘束する」──
以上の危害を加えるつもりはないらしい。
(私が悪夢を見て……泣いている時……チワワさんは…………何もしません……でした……。私よりすごく……弱いのに……
わざわざ……戦いを申し込んで…………それから……何度も……)
 守ってくれた。
 ずっと目の前でがなり続けているチワワ。彼を見る視線に春風のような暖かさが籠るのを感じた。頬も軽く綻んだ。姿こそ
チワワだが、やはり今の青空より遙かに人間らしいとも思った。
「貴様の姉が如何な背景と思惑を持っているかは知らん! だが父母を殺め妹を歪める所業は絶対に悪だ! どんな欠如
も! 怒りも! 他者に及ぼしていいものではない!」
「どんな欠如も……怒りも……?」
 茫然と言葉を反芻する。

 頭と胴体の境目を自転車に轢かれ死にかけているカブトムシを姉に見せたコトがある。
 彼女は首を振る代わり、こういった。
 昆虫にはお医者さんがいない。だからケガさせてはいけない。
 と。

「でも、人間だってケガさせちゃダメだからね? 治らないケガだってあるから」

 なぜか首に手を当てながら説明する青空を不思議に見ながらただ頷いたのはいつだったか。
 理由が分かったのはしばらく先……青空が行方を晦ましたころだった。

「だから……あの時……お姉ちゃんは……? 他の人に……自分のような思いを……させたくなかった……から?」
 だが今の青空は違う。
──「もう喋らなくていいわよ喋っていいことなんて一つもないものどうせ」

──「あの時の一発は本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に痛かったわよ私は自殺さえ考えたのよ」

──「あ〜。スっとしてきた。やっぱ本音を語るというのは気持ちいいわよね」

 もう、変わってしまっている。
「……あの」
「何だ?」
 三つ編みで頭をぺちぺちやられた(肘を引く代わり)チワワが訝しげに自分を見返している。

 玉城は粛然と表情を引き締めた。

「できました……お姉ちゃんがあほ毛を自由に動かせるから……今の私になら……と思っていましたが」
「いや、それはどうでもいい。マトモな話をしろ」
「えぇと。チワワさんのいうコトは……わかります。でも…………お姉ちゃんはもう……変ってしまっています……。殺したくも
……ありません。お姉ちゃんを殺しても……お父さんや……お母さんは……もう……戻ってきません……だったら……だっ
たら……」
「誰が貴様に姉を殺せと云った!!」
 三つ編みが無愛想に跳ねのけられ、そして掴まれた。
「本当に姉を愛しているのならば止めて見せろ! これ以上の魔道に貶めてやるな!!!」
「止め……る? ……あだ? 痛い……です」
 思わず涙を流したのは、三つ編みがぐぐいっと引っ張られているからである。
「ああ! 根源は貴様の姉の命ではない! 歪みのもたらす憤怒だ!! まずはそれを滅ぼせ! 止めてやれ!  何を
されようと救ってやれ! そして罪を償わせろ! それが、それこそが……」
 鋭い叫びが玉城の胸を貫いた。
「父に! 母に!! そして姉にしてやれる最大の償いではないのかッ!?」 」
(止める……償い……)
 言葉を静かに繰り返す。止める。
(でも……本当に好きなのは……。好き、だったのは──…)

「でも、人間だってケガさせちゃダメだからね? 治らないケガだってあるから」

(首を絞めて声帯をちぎるのが好きなお姉ちゃんじゃなく……自分と同じ思いをさせたくないって……思ってる頃のお姉ちゃ
ん…………そんなお姉ちゃんに戻せたら……あのころに戻れたら……)
 どれほどいいだろう。
 肘から先のない腕を通り抜け、涙が地面に吸い込まれた。震える体の奥から様々な感情が湧き、混じり合っていく。それ
が熱い雫となって虚ろな瞳を濡らしているようだった。
 首を振る。分かっている。止めるのが一番いいやり方だと。
「でも……できません。お姉ちゃんに…………怯えている……私が…………そんな事……」
「貴様になら出来る!」
 無銘の手に力が籠った。
「だから……痛い、です」
 小鳥のような可憐な悲鳴が上がったのはやはり三つ編みを引かれたせいである。
「いいか! 貴様はひとたび戦闘を離れればまったく抜けていて脆くて、精神面がまったく未熟すぎて話にならん!」
「ひどい、です。…………好きでそうなった訳では……ありません。だいたいまだ……7歳……です」
 ぐすぐす泣いて髪の付け根を摩りつつ、恨めしげにチワワを睨む。彼はちょっとたじろいだようだった。それが先ほど完
膚なきまでに叩きのめしたトラウマのせいとしか思えぬ玉城である。
「だ、だが! 能力だけならば貴様は十分強い! 奇襲とはいえ師父たち5人と互角に渡りあった実力は本物……。姉に
抗する術がまるでない訳ではない。それは……分かるな」
「は、はい……」
 蚊の泣くような声で不承不承答えてみたが、果してそれだけの実力があるかどうかは分からない。

 ただ、「チワワさん」が信じてくれているならそうなのかなあとは思った。

「救うなどという大層なことはいわん。仲間になれとも。傷を舐めあうつもりなどは毛頭ない!」
「だから……痛い、です」
 赤い束がまた引かれた。無遠慮に引かれるたび首が軋んだ音を立てる。痛い。痛い。やめて欲しい。そんな視線を送る。
果たしてチワワは口をつぐみ、気まずそうに三つ編みを解放した。そして踵を返し、こう締めくくった。
「だが貴様の抱いている感情ぐらいならば聞いてやる。それで貴様が二度と虚ろな瞳で空を仰がないと誓うなら……聞いてやる」
「………………はい」
 長い沈黙の後、玉城は微笑を浮かべ──…

 顔から血煙をあげた。

「何っ!?」
 炸裂する気配に振りかえった無銘が顔を歪めたのは、胸の辺りを何かが行き過ぎたからだ。果たして海老茶色の小型
犬の体は斜めにずり落ち、転がっていく。奈落が眼前に迫る。冷汗三斗の思いで腕をかき、辛うじて淵の辺りに踏みとど
まる。

 そして見た。
 その先にかかる、鉤爪を。
 それを頼りにのっそりと上ってくる、戦士の姿を。

(何お前しつこ……あ、いや違う! 仕留め損ねていたか! ならば!)
「遅い」
 かざされた戦士の左腕の先で兵馬俑が縦に4等分されるのを無銘は愕然と見た。
「斬撃軌道……それを咄嗟に崖へ刺し、落下を免れたのはいいが……登るのに多少の時間を要した」
 意趣返しとばかり右腕がうねりを挙げる。先ほど肩を食い破った無銘めがけカマイタチが降り注ぐ。いたぶっている。玉城
はぞっとする思いだったが、実は違う。戦士自身すでに満身創意で、「一見いたぶっているような攻撃」ぐらいしかできぬの
である。戦士をよく見れば兵馬俑を裂いた辺りで左腕が力なく垂れたのが分かっただろう。
「……の……れ」
 無銘は無念そうに広げた口から血を吐いた。寂れた地面がびちゃびちゃと汚れる。立たんとした玉城の肩口が裂け、肘ま
でしかない右腕が大根のように奈落へ落ちていった。一拍遅れて朱色の線が大腿部に走り、玉城はその断面をまざまざと
見せつけられた。それでもなお前に進もうとしたせいでほぼ達磨状態の体が地べたを這いつくばった。無銘の口が力なく閉じ、
瞳が光を失っていくのをただ見るしかなかった。辛うじて悲鳴だけを漏らす。やめて。懇願を戦士が嘲笑った。無銘のあらゆ
る部位がばっくりと口を開け、真赤な液体を迸らせた。
(……もう駄目…………? いえ……まだ……です)
 解体された兵馬俑はすでに核鉄に戻っている、使ったコトはない。だが前後の状況を鑑みれば用途は分かる。
(武装錬金……! お姉ちゃんやチワワさんが使っている武器は……"かくがね"から……出る筈……! あれを取れば
……何とか……できる……筈です)
 諦めたくはなかった。必死に体をくねらせる。少しでも早く。核鉄に近づきたかった。
「がはっ」
 更に無銘が血反吐を撒き散らしたのは、残り少ない胸部を踏まれたためである。
「チワワ……さん…………!」
 足元でもがく少女の視線を追った戦士は、すうっと眼を細めた。
「何を唱えようと人喰いの化け物は化け物。狩るのみだ」
 彼は苦悶の表情でぐらつく左腕を上げた。玉城のそれはまだ核鉄から3メートルほどの場所にある。
(誰でも……いいです。私が犠牲になっても……いいです)
 不可視の罅が天空高く立ち上った。
 身を転がし無銘に覆いかぶさる。できるコトはそれだけだった。
(誰かチワワさんを……助けて……)
 無銘の顔に自分のそれを擦り合わせ、恐怖と祈りにぎゅっと瞑目する。

 そして圧倒的な奔流が迫り、静寂が訪れた。

「……え?」
 土まみれの顔を上げた玉城は、しなやかな金の奔流が視界を包んでいるのに気が付いた。
 戦士は「今しがた左腕を弾かれました」という手つきで愕然としている。心持ち離れている気がするのは恐らく弾かれた
際、後ろに向かってたたらを踏んだせいだろう。
「フ。困るな」
 金の奔流からニュっと手が生えた。と見たのは錯覚で、どうやら長い金髪の持ち主が両手を広げ、肩をすくめただけらしい。。
「こいつは俺の大事なチワワだ。堅物で傲慢だが誰よりも人間らしい……自慢の、な」

 声は笑うようにそう告げ、

「戦士の本分は解しよう。しかし殺させる訳にはいかん」

 厳かに締めくくる。気押されたのか。戦士はわずかだが戦いた。
 それがきっかけ……だったのかも知れない。事態はみるみる好転した。。

 玉城はみた。見覚えのある影が2つ地割れをぴょいぴょいと飛び超えてくるのを。

「遅れて申し訳ありませぬ無銘くん! 相手は戦士、殺傷避けるべく逃げ回っておりました故……」
「うわあボロボロ。やっぱきゅーびじゃムリだったじゃん」
『ハハ! お前も聞いただろ香美! このコとのやり取り!! 彼でなければ説得は無理だったろうな!』
 玉城の両側に着地した少女2人。それを見る戦士の目が一段と険しさを増した。
「新手か……!」
「っと。攻撃はすでに終わっている。チェーンソーの武装錬金・ライダーマンズライトハンド」
 玉城たちを守るように立ちはだかっている男が指を鳴らすと……まるでそれを合図にしたかのごとく左右の鉤爪が粉々
に砕けた。屈辱とも驚愕ともつかぬ声を漏らしたきり戦士はその場に立ちつくした。

「そして……出でよ! 衛星兵の武装錬金・ハズオブラブ!」

 新たな影が一瞬よぎった。とだけ思った玉城は自分の体の変調に気付いた。
 切断された筈の両足や右足が再生している。それどころかあちこちが欠損していた四肢は完全に元に戻り、顔面や唇に
生じたひび割れさえ綺麗に塞がっている。思わず広げた両手をきょろきょろと落ちつきなく見まわしながら、玉城はありった
けの愕然を小声に詰め込み……問いかける。
「え……? これはグレイズィングさんの……?」
「顔見知りなら話は早い。俺たちを乗せて……飛べ!」
 玉城はまたも眼を白黒とさせた。言葉の意味が分からない。理解しかねた。
「馬鹿め! 師父は戦士から逃げろと言っている!」
 眼下で無愛想な声が響いた。すっかり傷の治った「チワワさん」が、忌々しげに牙を向いている。
「わ、わかりました……」
 押し切られた形なのは否めない。そう思いつつ彼女はハヤブサの姿に変形した。
「逃──…」
「武器を破壊された以上戦闘継続は不能。悪いが……この場は退いて貰えるかな?」
 チワワを抱きかかえた総角が──残る片手でゆっくりと制しながら──戦士に呼びかけた。
「本来の目的を横取りしたのは謝る。だが手間は省けただろう?」
 香美が飛びかかるようにハヤブサの背中へ乗り込んだ。
「迷惑料だ。収奪した核鉄は差し上げる」
 六角形の金属片。それを受け止めた戦士の顔に陰惨なニュアンスがありありと浮かんだ。

「もっともそいつを発動した上で追跡すれば戦闘継続は可能だが」

 怖々と玉城の背中を見ていた小札が生唾を呑み、意を決した様子でぴょこりと乗った。

「……フ。採算割れをやらかすか?」

 謎めいた問いかけをする総角が無銘ともども乗りこんだのを確認すると、玉城は天空に向かって飛び立った。



「鳥型だと……!」
 鋭い声がかかった。鉤爪は見た。森から広場へ躍り込んでくる影を。ひどくがっちりとした大柄の男だ。彼はぎょろりとし
た三白眼の下で鋭い犬歯も露に吠えている。待て。勝負しろ。ありきたりの制止をひっきりなしに上げている彼はいうまで
もなく先ほど総角に昏倒させられた戦士──… 剣持真希士。

「やはり遭遇していたか。怪我は?」

 巨体に見合わぬ軽捷さで奈落を飛び越えてきた真希士、屈託ない笑みを浮かべた。
「ダイジョーブ! タンコブできたけどオレ様まだまだ戦える!」
 なるほど言葉どおり後頭部にはひどく戯画的な瘤がある。それを彼は『三本目の腕』でさすってもいる。無駄な使い方を…
…鉤爪の口から嘆息が漏れた。
(西洋大剣(ツヴァイハンダー)の武装錬金、アンシャッター・ブラザーフッド。本来その三本目の腕は剣を持ち替え相手の
虚を突くためのものだろうに)
「待ちやがれ鳥型! 待ちやがれー!!」
 背後から立ち上る白けの気配もなんのその、西洋大剣の戦士はガントレットで強固に覆われた両腕を駄駄っ子のように
振りながら遠ざかる玉城に吠えている。右手に握った剣──これは大人の背丈ぐらいあり、両手持ちの剣の中では最大級
のものだった──を振りかざすたび巻き起こる真空の風圧は、しかし玉城に届かない。ただ樹林が巻き添えを喰い未来の肥
料候補たる翠の器官が散るのみだ。
「だああああああああっ! 戻れ! ……畜生。駄目だ無理だ。こうなりゃ走って──…」
「待つのはお前だ。剣持真希士」
「でも! 待たなきゃアイツらが誰かの楽園を!」
 真希士、と呼ばれた戦士はクラウチングスタートの姿勢のまま首をねじ向けた。鉤爪を見る瞳には焦りがアリアリと浮かん
でいる。
「落ちつけ。防人戦士長の言葉を思い出せ」
 一瞬きょとりと大きな瞳を点にした真希士はやがて無念そうに構えを解いて地面を見た。牙噛み縛りつつも露骨に肩を
落している姿は主人に怒られた大型犬のようである。

 やがて世にも情けない声が漏れた。

「緊張と、緩和」
「そうだ。元のターゲットは殲滅されている。核鉄も手に入れた。新手はたった4体で構成員50体の共同体を殲滅したホムンクル
スどもと『1体でそれができる』鳥型」
「ん? 俺が見たのは3体……そうかこっちにも1体。……でも、鳥型が残党じゃないって根拠は?」
「俺がきたときすでにココ(共同体の根城)は蛻の空だった。いたのはイヌと鳥型だけ。他の死骸はなかった。よって殲滅さ
れたのは昨晩から今朝早くとみるべき」
「確かに。あいつら死ぬとすぐ消滅するからな」
「もしあの鳥型が最後の1体だとすると辻褄は合わない。今は昼をやや過ぎたあたり……。最後の仲間が死んだのを『昨晩
から今朝』としよう。そうすると奴は長くて昨日の晩から今まで、短くとも早朝から正午までたった1人であの4体を相手にして
いた計算になる」
「単にそれだけ強かったつーか、共同体のボスだったんじゃ」
「そうだとすればお前が鉢合わせた金髪どもの場所がおかしい」
「…………あ」
「確認するぞ剣持。お前が連中と鉢合わせたのは、俺とはぐれた付近──…つまり、中腹辺りだな?」
「あ、ああ。じゃあ確かにおかしいな。もしあの鳥型が最後の1体なら金髪どもは仲間1人だけ置いて山を下るようなマネは
しねェ。慌てた様子で登ってたけど、吹き飛ばされたって感じじゃなかった。何かこう、追っているような?」
「もちろん鳥型が最後の1体で、運良く難を逃れたあと舞い戻り……奴らの中で一番弱い者を攫ってきた。という可能性も
考えたが──…」
「たが?」
「ディプレス」
「え」
「あの鳥型、嘴をハシビロコウのそれにしたが……見えたんだ。付け根にウロボロスの刺青があるのを」
 真希士は、息を呑んだ。
「待て。ハシビロコウでウロボロスの刺青? そいつって、確か」
「9年前、我々が総力を上げ殲滅した『あの共同体』の幹部」
「ディプレス=シンカヒアだっけ」

 頷く鉤爪に「でも!」という声を上げたのは言うまでもなく真希士である。

「でもそいつ、他の幹部や『あの盟主』ともども死んだって話じゃねえか! なんでそんなんが今さら」
「そこまでは分からん。だがあの鳥型がマレフィックと同じ組織にいたのは疑いようがない。とすれば」
 単騎で共同体を殲滅する程度の実力はある。厳然と断言する鉤爪に真希士は指折って考え始めた。
「えーと。そんな奴が、4体で50体殲滅する連中に合流したってコトは……いま逃げてった奴らは単純計算で共同体2つ分
の相手なのか?」
「だな。当初の目的を達した以上、俺と貴様の2人で挑むのは『採算割れ』。金髪の言うとおり過ぎて気に食わんがな」
 正論だが真希士は納得いかないようすだ。ブンスカブンスカ首を振り言い募る。
「でも! 見たトコ何人か手負いだったじゃねェか! いやまあ確かに俺は逃げられるばかりで仕留められなかったけど!」
大仰な身振り手振りを交えながら真希士は鼻を鳴らした。やるせない。全身からはそんな気配が濃厚に溢れている。
「そいつらぐらい仕留めとかなきゃ誰かの楽園が壊される! 今からでも遅くねェ! 千歳さん呼んでヘルメスドライブで捕
捉ぐらい──…」
「携帯電話は鉤爪とともに壊されている。お前のもそうじゃないのか?」
 え、と息を呑んだ真希士は慌ててポケットをまさぐり、そして呻いた。
「野郎。オレ様が気絶している間になんてコトを」
 引き抜いた掌の上ではプラスチックや基盤の破片が液晶まみれでひしめき合っている
「それだけではない」
 観ろ、と鉤爪の戦士は腕を差し出した。最初怒り満面でそれを眺めていた真希士の表情がみるみると変じた。
「鉤爪さんの手に傷が一つもねェ」
「そうだ。奴は鉤爪と携帯電話を破壊しつつも──… 怪我を直した。衛生兵の武装錬金を出したとき、ついでに。その気に
なれば俺を殺れたのにな」
「衛生兵? 今度はグレイズィングかよ。ディプレスの仲間の。待てよ整理しよう。鳥型と金髪どもは争ってた。で、片っぽ
はディプレスの知り合いらしく、もう片方はなぜかハズオブラブ持ってる。仲間? いやでも争ってたんだよなそいつら?
なのにさっき合流してどっか飛んでった。ああもうややこしい!!」
 でっかい体の前で太い腕をよじ合わせていた真希士だが、しびれが切れたのか咆哮する。
「俺も分からんが……確かなコトは一つある。もし手負いの仲間を仕留めていればこの程度では済まなかっただろう」
「そういやアイツ、逃げるばかりでほとんど攻撃してこなかった。気絶してるオレ様にトドメも刺さなかった……
「意図はともかく、ああいう加減を知る者が一番恐ろしい。まして複数の武装錬金を使えるとあらば。それに……」
「それに?」
 鉤爪は無言で広場の端を指差した。盛り上がった地面を見た真希士は息を呑んだ。
「墓? アレなんで残ってるんだ? 鉤爪さんがわざと避けたのか?」
 まあな、と戦士は頭を掻いた。
「中には恐らく共同体の犠牲者が埋まっている。あの5体の内の誰かがやったのだろう」
 俄かには信じられなかったのだろう。真希士は墓を指差したままたっぷり30秒ほど硬直した。やがて鉤爪めがけねじ向け
る首の動きもぎこちなく、「ぎぎぃ」なる軋みさえ帯びていた。
「ホムンクルスがか?」
 ホムンクルスにとって人間は食料にすぎない。人間がチキンの骨や魚の臓物を三角コーナーに捨てるようなコトを、ホム
ンクルスは野山に実行する。真希士の戦士人生はそういう洗礼──喰いカスを旅客機(いれもの)ごと岐阜の山中に堕と
すような──から始まってもいる。ホムンクルスが埋葬? 真希士の表情に怒りとも驚きともつかぬニュアンスがみるみる
と広がっていくのを鉤爪は険しい表情で眺めた。
「本来なら考えられないコトだがな」

──「不当に歪められし只の少女を囮にしてまで我が身の安全を謀ろうなどとは思わん!」

──「なぜなら我は──…」

──「人間だからだ!!」

(…………)

 すでに治っている手首だが平癒前、実感があった。筋や神経、破れば決定的な後遺症が残る部分が『避けられている』と。

「もしかしたら、今の連中も楽園のために戦って……? いやいやいや! ンなコトはねェ! ホムンクルスは悪だ!
「まったくだな。いかな理由があれホムンクルスは狩るのみだ。戦士はそれ以外を考えるべきではない」
 鉤爪は鼻を鳴らし、踵を返した。
「……だが一旦引くぞ。当初の目的は総て果たされている。奴らを追跡するか否かは大戦士長の裁定次第だ。我々は戦
部や根来どものような奇兵とは違う」
 戦士たちは歩きだす。裾野に向かってゆっくりと。






「ところでお前、本当に大丈夫か? 頭の傷は後からくるぞ」
「タンコブ以外は問題ナシ!! といいたいとこだけど少し痛い。あーでも頭痛っていうか、髪抜かれたような……」

 戦士たちから遠く離れた、森の中。
 「フ。不意の遭遇、少々難儀した。しかしおかげで新しい武装錬金が手に入った。西洋大剣か。……大剣。嫌な記憶が蘇
りもするが、使い勝手やなかなかに良し。……フ」
 シックな意匠の大剣を軽やかに振り回す総角に一通り賛辞の言葉を述べた無銘は、視線を切り替え、盛大な溜息を玉城
へついた。
「……情けない」
「だって……流石に4体は……重い……です。なのに……40kmほど……飛びました」

 過積載のせいですっかりバテバテらしい。玉城は臆面もなく地面に突っ伏していた。

(こうして見ておりますと)
(単騎で僕たち全員と互角にやりあったとは思えない!)
 玉城はグルグル目でへあへあと息をついていた。見ればナルト入りのラーメンが食べたくなる、そんなグルグル目だ。
そんな眼差しで妙な抑揚のついた呻きをひっきりなしに漏らす少女はちょっと攻撃するだけですぐ斃せそうだ。隙だらけ。
緩み切っている。まったく以て頼りない……顔を見合わせた小札と貴信、複雑な溜息をついた。
「また回復してやりたいが、あいにく俺のハズオブラブは同じ相手を1度しか癒せない。その制約さえなければ小札も栴檀
どももすぐ治療できたのだがな」
「我は武装錬金の形状ゆえああまで重傷を負ったコトはない。だが今回の一件でもはや2度と回復できん」
「…………すみません。私の……せいで……あぅ」
 力なく面を上げた玉城の体が揺らめいた。と見るや細い上体がくらあっと後方に向かって沈んでいき、盛大な音を立てた。
(ですから、その)
 小札は思わず頬を掻いた。平素の実況癖で述べるなら「何というギャップでありましょう」というところである。
「痛い……です」
 運悪くそこにあって運悪く強打したのだろう。玉城が大きな石を枕に目を回している。集団幻覚。一同は玉城の頭頂部で
グルグル追いかけっこする三匹のヒヨコを確かに見た。
「ったくもー。何さこいつ。戦ってないとまるでだめじゃん」
 ほら立つじゃん。腰を屈めた香美に抱き起こされる間にも「うぅあぅあああ〜」……ガッスンガッスン首を振りまわすコト4分、
やっと着座した玉城光であった。

 白い膝小僧をちょんと揃えて女の子座りする彼女は──ゾンビよろしく生気のない目で頭をふらつかせているのさえ無視
すれば──なかなか可憐な様子である。文句ありげなチワワも急に口をつぐんでいる。
(フ。一瞬見とれたな無銘)
 笑う総角の先でゾンビの首の揺れが強まり始めた
「あ……でもぉ……どうして総角さんはぁ……グレイズィングさんの武装錬金を……あいた……使える……のですか?」 
「むかし色々あったのさ」
「そうですかァ……あ……なんだか……話したくないようなので……これ以上は……きき……痛……ききませ……」
「それはともかく、だ。お前の事情はだいたい分かった」
「そーじゃんそーじゃん! なんつーヒドいやつじゃんあんたのねーさん!」
「なお注釈! 鳥型どのの経緯と不肖たちの自己紹介は移動中に終わっております! ついでに核鉄と武装錬金に連関性
に於きましてもすでに説明済み! 以下はその前提にてお読みいただきたく思います次第!」
「えーと」
 虚ろな視線が泳ぎ始めた。勢いよく意味不明な言葉を巻き散らかす小札と腕まくりする香美を持て余したのだろう。
「あんたのねーさんさ! あんたのねーさんさ! あんたの体ヘンにするとか考えられん! ひどいじゃん! 可愛そうじゃん!」
 玉城はおそるおそる手を上げた。
「実は……その…………ホムンクルスで……いろいろ変形できるのは……悪く……ないです。むしろ、好きです」
「はい?」
 目を剥いたのは小札である。
「だから……だからその……私は……ロボットとか好きなので……いろいろ変形できるのは……カッコ良くて……好きです」
 無言の微笑を浮かべる総角が「わーお」と肩を竦めた。
「いつか合体も……したい……です」
「合体はやめろ! あまり大きな声で言うな!」
「フ。どうしてそんな必死なんだ無銘?」
 歌うような調子でからかう総角を玉城はつくづく不思議そうに見た。
『あまりつつきたくはないが! 貴方は5倍速の老化についてどう思う!?』
 虚ろな表情が更に暗くなった。
「それは……嫌…………です。私だけが……あっという間に……お婆さんなのは……嫌、です」
『だろうな!!』
 ひどい大声だ。香美の後頭部にいる貴信。簡単な説明は聞いたがまだ構造はよく分からない。
 ただ、青空と貴信が出会ったら、間違いなく姉は逆上する(彼女のもっとも嫌いなタイプ)であろうコトは理解できた。
「しかしいくら伝えるためとはいえ、サブマシンガンを用いる是非につきましては不肖も眉を顰めざるを得ない訳です。年端
も行かぬ女のコにあのような……ううう。期せずして漏れ出でる万斛(ばんこく)の涙、不肖には止めようがありませぬ……」
「あ……いえ……最近は……サブマシンガンでは撃ちません……」
 なんと、と涙ぬぐうハンケチが止まった。その横から躍り出たネコ少女は鋭く叫んだ。
「じゃあなんさ。なに使ってあんたいじめるのさ!」
「いじめる……というか……伝える……です」
「があああ! あんたのしゃべりかたさ! あんたのしゃべりかたさ! なんかノロい! もっとパッパとやるじゃん!」
「ピコピコハンマー……です」
 返事になっとらんじゃん。齟齬にイライラと目を細める香美を見た瞬間……玉城は決めた。
(実演しか……ありません)
 そして無銘を抱え。
「こう……何か伝えたい時は……
 チワワの頭を自分のそこにぶつけて、

 一言。

「ピコッ」
 
「……って……叩きます……」
(もしや天然?)
(天然ですねコレは)
「つーかぴこぴこはんまーってなにじゃん! あたしはそこがわからん!」
「ピコハン……です」
「ふみゃああああ! 略されると余計わからんっ! つーかさつーかさつーかさ! あんたとあたしかみあわん! 絶対!」
「でしょう……か。無銘くんも……そう、思いますか」
 ピコハンの代替物に意見を求める。だが彼は目を白くして本気で唸っていた。
「わぁ」
「……我を使うな。というかこの期に及んでまだ姉をかばい立てするか」
「ごめんなさい……です。でも……本当……です。ドーナツだって……作ってくれますし…………怒ってない時は……割と
……優しいお姉ちゃん……です。ここにくるちょっと前に……こんなのだって……くれました」
 無銘を地面に下ろした玉城は、ポシェットから何かを取り出し、総角に見せた。端正な顔に好奇と驚きが広がった。
「バンダナと……リボン、か」
 それぞれ布製。順に純白と黄色である。
「はい…………女のコだからお洒落した方がいいって……くれました。この服を選ぶ時だって……ファッション雑誌をたくさん
……買ってきてくれました……。ゲームだって結構……買ってくれました……。いっしょにドカポンやって……2人でコンピュー
タの人いじめるのは……楽しかった……です」

対戦もしました。私が勝っても「光ちゃんスゴいねー」って褒めるだけでした。
……などと玉城はいうがこれはまた別のお話である。

 とにかく、話がズレている。
 総角は咳払いした」
「とにかく本題だ。俺たちの仲間にならないか?」
 この世の誰を敵に回しても大丈夫さ、そんな感じの笑みをたっぷり浮かべながら、総角は虚ろな目の少女に呼び掛けた。
「それにだな。様々な鳥になれるというお前の特異体質はまだまだ伸びしろがある。俺の元にくればいま以上に強く、多くの
鳥に変形できるようになるが……フ。女のコへの勧誘文句にしては少々武骨かな?」
「ほう! ほう! ほたらようけの鳥さんになれよん!? ほんなんええなあ!」
 急に叫んだ玉城は勢いの赴くまま総角の肩を掴み(精一杯背伸びをして)、彼を揺すり始めた。
(予想外に喰いつかれておりますーっ!!)
(つーかなんの言葉よアレ)
(ハハ! 伊予弁だな! むしろあれが本来の姿だ!)
「ねーがいよるのは最大とか最速とか大きなあ奴ばっかでどもこもならん! うん! いかないっ! わしはもっとじゃらじゃ
らした鳥さんになりたいんよ。とーからほー思っとんよ。でもねーは大きなあ奴ばっか!」

 玉城の声は一段と跳ね上がる。いつしか彼女は輝くような笑顔を浮かべこう叫んでいた。

「わし、もっとじゃらじゃらした鳥さんになりたいんよー。南米とかアマゾンにおる、キョロちゃんみたいな鳥になりたいんよー!」」

「……伊予弁になっているぞ。せめて意味ぐらいは説明しろ」
「え?」
 無銘の指摘に玉城はようやく止まった。後はまあ俯いてぶるぶる震えて「今のは忘れて下さい」の赤面歎願である。
「…………興奮すると、地が出るのか?」
「出ないよう……気をつけ、ます」
「というかそちらこそが本来の姿だろう! なぜ今さら恥ずかしがる!」
「その…………そうなんですが……お姉ちゃんのせいで……なぜか……恥ずかしい、です」
「だあ! わけ分からん!!」
『もしかすると変形能力を使いこなせているのは変身願望のせいかも知れない!!』
「成程、です。ちなみに……じゃらじゃらというのは……『フザけた』という……意味、です。南米とかアマゾンにいる……
キョロちゃんみたいな鳥に……なりたい、です。とーからほーは『前からそう』、です」
 フ。じゃなく、う。そんな音声が総角から洩れた。呆れているらしい。
「望まずして変形能力与えられた割にはノリノリだなお前」
「……で、仲間になるかどうかの話……ですが、一旦、お姉ちゃんのところへ帰ってから決めたいと……思います……」
「ほう」
「一度……じっくり話をしてみたい……です。その上で……決めます」
「ケジメ、という訳か」
「はい。お姉ちゃんはたった一人の家族だから……何もいわずに別れたく……ないです」
「貴様! 何をいっている!」
 無銘は怒った。
「傷を治してくれた師父への謝意というものはないのか! だいたい戻ったとして姉が頷くとでも思っているのか!」
「いや、その選択もアリだろう」
「師父!?」
「落ちつけ無銘。あれは進歩だ。ただ黙って従ってた時よりは確実にいい方向に向かっている」
「ですが師父! 戻ったとして他の幹部どもが出てきたが最後、奴は確実に!」
「フ。やけに心配しているようだがそれはどうしてだ? 惚れたか?」
「ち!! 違います師父! 奴は我が達した任務の一部! それを今さら死なせては任務にて負った傷が無駄になるから
心配しているだけのコト!!」
「ま、そういうコトにしておくさ」
「では……行ってきます」
「おう行ってこ……ぬええ!? ちょ! 待て! 我の話ぐらい聞けえええええええ!!!!!」
 もう何もかもが遅かった。翼を広げた玉城はぎゅいんと飛び去り遠い空で豆粒になっていた。
「大丈夫だ。アイツは強い。何とか切り抜けて帰ってくるだろう」
「つーか」
 ジト目の香美に総角はギクリとした。
「あたしらがついてってあのコのねーさんに「仲間にしたいけどいい」って一緒にきく方が安全じゃん。なんでそれしなかった
のさ」
「フ。そろそろご飯の時間にしよう。出でよレーションの武装錬金……」
 震える声で缶詰を出した総角に溜息が洩れた。追おうにも玉城の姿は遥か遠く。追跡は不可能だった。
「戻ってくるのを待つしかありませぬ。ところでどれくらいでありましょう?」
「そうだな。往復と戦闘こみで2日ってところかな」

 予想に反して2時間後、玉城は帰ってきた。
「ただいま……です」
 戦闘休止後というコトもあり、ブレミュ一同は車座に座って食事を取っていた。缶入りのレーション。それを食べていた一同
の動きがピタリと止まる。代わりに針のような視線が総角に刺さった。何が2日だ24分の1で片がついてるそれでもリーダー
か……みたいなトゲの成分に耐えかねたのだろう。悠然と、極力焦りと怒りを抑え込んだ様子で悠然と立ち上がった総角は
輝くような笑みを浮かべた。
「フ。さすがはお前。俺の予想を遥かに上回るとは」
「いえ。お姉ちゃんのいるところが……分からない……だけ、です。ここに戻ってこれたのも……奇跡……です。おいしそうな
匂いがしたので……きたら……無銘くんたちが……いました……」
 総角の背中を極北の風が撫でた。
「あ、凍ってるじゃん」
「凍っておりますね。気取っておりますが基本は中間管理職ゆえにや仕方無きことなのです」
「それはともかく、だ」
 もはや氷像か何かの如く静止した総角の足もとでチワワ、厳しい目線を上げる。
「貴様、方向音痴か?
 玉城は、むくれた。
「違います。帰り道が……分からないだけ……です」
「それが方向音痴だというのだ!」
「いいえ。ちょっと遠いから……分からない……だけです」
「あっちは」
 無銘は北を指差した。わかります。玉城は力強く頷いた。
「西……です……!」
「方向音痴ではないか!!」
「違うって……いってます……分からず屋な無銘くんは……嫌い……です」
 とうとうプイと顔を背けた赤髪の少女。少年忍者の怒りは高まる一方だ。
「どっちが分からず屋だ!」
「それは……絶対…………無銘くん……です……!」
「ちなみにいつもはどうしてたんだ?」
 と質問したのはようやく解凍された総角である。
「お姉ちゃんが……付添い……でした。基本何もしてくれず見ているだけでしたが……仕留め損ねた相手を……探してい
たら……物影、で……

「人の妹に傷を付けるなんて考えられないあははうふふ覚悟はいいただやられていればいいだけの雑魚さんたちがあがく
なんて考えられない大人しく光ちゃんに殲滅されてればいいのにねあはははは死んで死んでうふふふふふ」

とか笑いながら……喉を千切っては投げ……喉を千切っては投げ……声帯踏みにじって……いました」
「怖いわ」
「ボルテージが上がると……」

「どーちーらにしようかなキキッ! キキキ! って私はしゃぎすぎね落ち着きましょうそうしましょう」

「あほ毛で太鼓をたたいてドンドドンやって……相手を決めて……ぐしゃぐしゃにして……ました」
「だから怖いわ」
「でも……手当……してくれました。包帯とか……オロナイン塗って……痛いの痛いの飛んでけーって傷をさすってニコニコ
してました……。その顔を見ると……痛みも……和らぎました……。お姉ちゃんは……怖いけど……優しいところも……
あるのです」
「貴様は暴力亭主を持つ妻か! かような優しさなど貴様を隷属させるための方便!」
「フ。どうかな。案外、怒りも優しさも心からの物かも知れないぞ?」
「師父」
 濡れ光る黒瞳の遥か上で窘めるような声が響いた。

「純粋な悪などいないさ。所業が悪に見えたとしても、どこかで人間らしい優しさを他人に振舞いたいとも願っている。感情
と言うのはそういう物。単純な『枠』に嵌めようとするのは……まあやめておいた方がいい」

「例えそれがこいつの姉の仲間の……我々に歪みをもたらした連中だとしても、ですか?」
「まあな。……フ。だからといって戦わぬ理由にはならん。忌むべき循環は断ち、根源もまた滅ぼさなくてはならない」
 師父がそうおっしゃるなら。無銘がしぶしぶ引き下がるのと引き換えに今度は小札が質問を始めた。
「ところで、アジトまでの地図は?」
「機密保持とかで……ありません……」
『なら! 君の姉に電話して迎えに来てもらうか!?』
「馬鹿が。そもそもこいつが携帯電話を持っているかどうかさえ──…」
 玉城はポンと柏手を打った。
「電話なら……あります。山の頂上へ行く時……ナビ……してもらいました……あ……でも……ナビして貰わなくても……
私は絶対……行けました…………お姉ちゃんがどうしても……っていうから……させてあげた……だけ、です」
(ウソつけ)
(フ。なんで微妙に上から目線なんだ)
(現に貴方は帰り道でナビ使わなかったせいで迷っている!)

 ちょっと待って下さい。玉城がポシェットに手を伸ばしかけた瞬間。

 その白い蓋が、震えた。

 誰かが息を呑んだ。風は吹いていない。玉城の腕もまだ10cmほど上にある。にもかかわらず蓋はゆるゆると隆起を始め
ている。蓋は──…内側から開いている。いや、開けられている。盛り上がった蓋の頂点が緩やかに凹み、布を殴りつける
乱暴な音とともに膨れ上がった。蓋はマジックテープかボタンで堅く留められているのだろう。俄かに開く気配はない。だがそ
れが気に障ったとみえ、蓋を叩く音はますます多く、そして大きくなっていく。
 総角に目くばせされた玉城は蒼い顔で首を振った。知らない。何が居て何をしようとしているか──…知らない。紙のよ
うに白い顔がポシェットの紐をくぐり抜けた。恐怖に駆られたのだろう。ポシェットを放り投げ総角たちめがけ駆けだす玉城。

 ばし。

 彼女の後ろで何かの爆ぜる音がした。振りかえる。雲の切れはしを思わせる白い鞄が爆炎を吹いている。衝撃で加速した
のか。7メートルほど先にあるブナの太い幹に衝突し、内容物がバラバラとブチ撒かれた。
『開いた蓋』
 そこにぼっかりと開く深淵、プラモ雑誌の先々月号やらプラモの箱やらが乱雑にはみ出す深淵から黒い煙がもうもうと立
ち登っている。鼻を焼く嫌な臭いがした。「火薬?」 入れた覚えはない。馴染みもない。嗅覚を灼く匂いにおもわず鼻を押さ
える。踵を返す。すでに並んだ総角たちはめいめいの武器を構え油断なく辺りを見渡している。

『開いた蓋』

「そこから何が飛び出した? いったい何が、どこへ……?」

 玉城を守るように立ちはだかった兵馬俑が独り言のようにごち、

「居たじゃん!」

 香美の鋭い叫びに視線が動く。木の枝。距離にして10m。高さにして3m。彼らからそれだけ離れた枝の上に『それ』は
居た。

「これは──…」

 玉城は息を呑んだ。『それ』は一言でいえば人形だった。2〜3歳の子供でさえ胸に抱えて歩けるほど小さな人形。平たく
言えば3頭身で、体のあらゆる部位は「子供受けを極力良くしたい」、そんな意気込みのもと極端にデフォルメされていた。
指を排した手足は無害極まりなく丸く、フリフリしたワンピースは簡明なあまり安っぽくさえもあった。だがそんな服がお気に
入りで幸せなのとでもいいたげにその人形はにっこりほほ笑んでいた。
 誰でも描けるような顔だった。クレヨンを握ったばかりの2歳の子でも寝たきりの98歳のおじいさんでも、「見ればすぐ描
ける」。そんな顔。口は笑みに綻んだ曲線1本だけで表され、目に至っては「点」を打っただけのシンプル極まりない形状。
それ以外は髪以外何もない顔だった。眉毛も鼻も耳もない。フワフワとしたウェーブの掛ったショートヘアーの下で、その
人形はただひたすら標識のような笑顔で総角たちを見降ろしていた。
「あ……」
 10本の視線が人形の右手に集中した。玉城はようやく彼女(?)の目的を理解した。綺麗に畳まれたプラスチック性の筐
体。それが人形の右手にピットリ吸いついている。
『あれはまさか!!』
「はい……私の……携帯電話、です」
 人形の頭頂部で何かが動いた。毛だ。ひたすらに長い触角のような毛がピロピロと触れた。固定的な笑顔。そこから思考
を読み取るのはひどく困難な笑顔。そんな人形が何かを投げた。注視していた総角さえ一瞬何が起こったか把握できなかった。
意識が玉城の携帯電話に移った刹那の隙に”それ”は実行されていたらしい。

 夥しい数の棒が飛んでくる。数は10や20などという生易しい物ではなかった。おろしたての徳用マッチ箱30ダース全部すっ
からかんにするほど遠慮斟酌なくぶっちゃかさねば再現映像は作れないぐらい、徹底的に飛んでいた。

 棒。 棒。 棒。
 棒。 棒。 棒。
 棒。 棒。 棒。

 視界の総てを席捲する全長40cm弱の棒ども。その尖端で黒光りする缶詰を見るや総角は叫ぶ。
「ポテトマッシャーか!!」
 M24型柄付手榴弾の群れが爆発した。1個当たりのTNT火薬使用量は170gというが総計どれほど炸裂したか分からない。
 ドーム状の炎の膜が森の一角を焼きつくした。むせ返るような熱量は夏の風を呼び戻しているようだった。

 人形はその様子を遠くの青空にほわほわ浮かびながらしばらく眺めていたが──…
 やがていずこかへと飛び去っていった。






 数十分後。森の一角は異様な変貌を遂げていた。
 何もかもが、凍りついていた。葉の燃えカスも炭となるまでコンガリ焼かれた木も全て氷に包まれていた。
「忍法薄氷! 炎自体の直撃をもりもりさんと貴信どののW鎖分銅で咄嗟にいなした直後、無銘くんの自動人形で辺り一
面構わず凍らせ消火したのであります! 見まわったところ延焼の心配もございませぬ!」

 説明御苦労。そういいつつ総角は前髪をくしゃりとかきあげた。 

「……フ。どうやらあのポテトマッシャーは『普通』の物。武装錬金ではないらしい」
「ゆえにホムンクルスの不肖たちを斃すコトあたわず。結構な爆圧こそ浴びましたが、致命傷とはなりませぬ。……ですが」
「があぁ! せっかく見つけたのに目くらましされたら追えんじゃん! やっぱあの人形おらんし!」
「恐らくあの人形は武装錬金。我の兵馬俑と同じ自動人形。爆発で我たちの眼を晦まし、その間に飛んで逃げた、か」
『目当ては最初から携帯電話! あれを持ち去るためポシェットに潜んでいたらしいな!』
「確かに…………私のポシェットは……いろいろ……入りますが……」
「問題はあの人形が誰の武装錬金かというコトだ」
 男性にしては綺麗すぎる掌が華麗に翻り、玉城を指名した。予想を述べろ。それはたぶん当たっている。物腰は十分す
ぎるほど雄弁に総てを物語っていた。
「まさか……」
 人形は、似すぎていた。柔らかなウェーブのかかる短髪。そこから延びるアホ毛。更に……笑顔。
 情報は総て回答に直結している。
「まさか、お姉ちゃんの……!? そんな……! サブマンシンガンの筈じゃ……!?」
 武装錬金の知識については先ほど移動中たっぷり仕込まれている。大前提は1人につき1種類の武器だ。多数の武装
錬金を扱える総角でさえそれは『認識票の武装錬金』の特性あっての話だし、他の小札や貴信、無銘に至ってはそれぞれ
ロッド、鎖分銅、兵馬俑といった1種類の武装錬金しか持っていない。では青空のそれは? ……サブマシンガンしかない
だろう。折に触れ彼女はそう仄めかしていた。
「あの人形が……お姉ちゃんの……武装錬金の筈は」
「フ。世の中には自動人形付きの弓矢の武装錬金もある。サブマシンガンがそうでも別段不思議じゃないだろう」
「そーいえばあの方もお姉さんだったような。むむ。お姉さんあるところ自動人形ありなのでしょーか!」
「誰の……コト……です?」
 知り合いのコトさ。総角は肩をすくめ小札も「またいずれ語る機会がありましょう」と締めくくった。
「しかしなんたるコト! 携帯電話が持ち去られるとは! せめて爆砕であれば不肖の武装錬金で繋ぎ合せデータ復元が
望めたかも知れませぬのに!」
「何にせよ、だ。携帯電話を持ち去られた以上、お前が姉に連絡するのは不可能だろう」
「……お姉ちゃんも…………私の位置を……突き止められなく、なりました」
「むむっ! 電話番号ぐらいなれば暗記しているのでは!?」
「いえ……ボタン1つでやってたので……分かりません……」
「で、ここからどうする? 1人で彷徨ってみるか?」
「いえ、仲間になります」
 言葉も終わらぬうちに玉城はきっぱりと断言した。
「決断早っ! 早すぎじゃん!」
「なんか……楽しそうです。だから……入ります」
『ははっ! ここは部活か何かか!』
「チワワさんたちの……事情は……よく分かりません。でも……お姉ちゃんの仲間を追っているよう、です。じゃあ一緒にい
る方が……お姉ちゃんと会える確率が高そう……です」
「じゃあ名前は『鐶』に改めろ。字はこうな」
 刀も筆に凍土へ刻まれたその文字に玉城は首を傾げた。
「『環』では……ないのですか? かねへん?」
「そ。かねへん。確か漢検1級配当文字だ。難しいが我慢してくれ」
「わかり……ました。お姉ちゃんと再会して、5倍速の老化を治すため……仲間に……なります。よろしく……です」
 違和感がある。無銘の顔がやにわに曇った。しどろもどろ、やっと答えたという感じの鐶。そんな彼女が自分の横に座っ
た瞬間、違和感は頂点に達した。遠慮がちに座り込んだ彼女は……無銘を見て、笑った。悪戯っぽい、小悪魔のような笑
みを浮かべて──目だけは相変わらず屍のように薄暗いが──唇の前に人差し指を立てたのだ。
「????」
 意図が分からない。何か隠し立てをしているようだが、なぜそれで笑うのか。本音を隠す傾向なのは先ほど理解した。だ
が姉との関係性に踏み込まれた時のような阿り、相手に迎合して身の安全を図ろうとするような態度はまったく見受けられ
ない。むしろ無銘にだけは本音を伝えたがっているように見えた。

(何を考えている貴様。師父を害する意思はないゆえ怒鳴りはせんが……腹立たしい)

 剣呑な顔つきで一瞥を呉れる。微笑がはにかみに変わった。変じれば如何なる化け物をも処断できるたおやかな手が2つ
無銘の脇に滑り込んだ。

(……秘密の共有…………です)

 耳元でささやく可憐な声に、少年のあらゆる感性は麻痺した。自分が持ち上げられているという実感も、耳元に色素の薄い
唇が接近してボソボソ呟いているという認識も消し飛んだ。「ほぉ〜」。冷やかしとも驚きともつかぬ声が総角たちから上がっ
たが、それも無銘の意識の外。

(……お姉ちゃんを助けたいっていうのは……無銘くんと私だけの秘密に……したい……です。他の人には……軽々しく話
したく……ない、です)

 花でも嗅ぐような仕草だった。鐶は鼻先を無銘の耳先すれすれにつけるような状態でボソボソと喋り出した。声は小さい。
傍観する総角たちには何をいっているか聞こえない。

「きく? あたしなら何いってるかききとれるけど」

 ネコミミを指差す香美に総角と小札は首を横に振って見せた。『そういうコトだ!』 貴信の声とともに香美の手が三角形
の聴覚器官を覆い隠した。飼い主の配慮であろう。

 もはやこの世界で無銘を緊縛しているのは鼓膜の蠢動のみであった。温かな潤いを帯びた声が天幕状の耳に響くたび、
もぞもぞとした名称不明の感覚が全身を駆け巡っているようだった。喋る前に響く湿った音。桃色の味覚器官と口腔粘膜
が擦れ合う「ぷちゃり」という艶めかしい音。すぐ近くで聞こえる少女の確かな息遣いは耳ならず顔の周囲さえ覆っているら
しい。明敏極まりない嗅覚が途轍もない芳しさを脳髄に登らせ、理性を一段と破壊する。

 そんな無銘をぬいぐるみよろしく地上に置いた鐶は。

 ふいっと首を横に曲げ、長くて赤い三つ編みを揺らめかしながらまた笑った。

(それが……無銘くんが……教えてくれた……これからを……大事にする……約束、です)

 照れくさそうで恥ずかし気でちょっと寂しそうな……それでも前に向かって進もうとする明るさを精一杯捻り出したような
とびきりの笑顔。

「だから。無銘くんが、人間の姿になる手伝いを……したい……です。力になりたい……です」
 言葉の意味をやっと理解したばかりの無銘はただ茫然と笑顔を眺めた。

(……どういう顔をしてやればいいのだ。我は)

 顔を落とす。
 何をいえばいい? 考えても考えても分からない。
 後でこっそり「2人で一緒に姉を助けよう」などと言える柄でもない。視線を外し拳を固める。申し出を断る? 否。頭を振
り葛藤を断ち切る。笑顔と好意の申し出を拒絶で返すのは人としてあるまじき事。」

 意外だが実は忍びには「人の心を絶対に傷つけぬ」不文律がある。

 任務上関わる人間の名誉や自尊心を傷つければどうなるか? 彼らは2度と協力をしない。利用しようにも猜疑心を抱か
れ、思うようには扱えない。

 されば目的達成は困難になる。どころか報復などされるようになれば命さえ危うい。

 よってほどよくおだてたり物品で釣るコトに重きを置く。恫喝や裏切りは決していい手段とは言い難いのだ。
 しかも無銘は鐶を利用したいとは思わない。かといって協力を仰げるほど素直でもない。チワワの体で一生懸命やって
きたという沽券みたいなものとコンプレックスが「手伝ってくれたら嬉しい」みたいな謝辞を述べられなくしている。

 などと悩む間にも鐶の表情が曇っていく。虚ろな瞳の中で寂しい風が吹き、小雨さえ降る気配がした。ああ、こいつは姉に
撃たれている時こういう眼をしていたのではないか──? 脳裏を過るそんな想いに無銘は胸が痛むのを感じた。

(我も同じなのだ。師父や母上に拒絶されれば……平静ではおれん。まして他の者に狙われ、命が危機に晒されれば……)

 総角はともかく小札は本当に危ない。だから守りたい。誰かに殺させたくはない。鐶もそれは同じなのだろう。たった1人
残った家族。姉。彼女を助けたいという思いは分かる。

(例え体が化け物でも心は人間。それは我も貴様も同じ。家族を大事にしたいという想いは同じなのだ)

 そんな相手を突き放すような真似はしたくなかった。
「……協力を強制するようなマネはせん。だが話ならばいつでも聞いてやる。それが約束だからな」
 不貞腐れたような顔でそっぽを向く。視界の端で虚ろな笑顔が花咲くのが見えた。
「だからビーフジャーキーを定期的に寄越せ。いいな?」
「はい」
「だが勘違いするなよ! 報酬ある限り何でもやってのけるのが忍びだ! 我はその原則に従っているだけだ! 貴様に
同情している訳でもなければ、慣れ合うつもりもない! その辺りは踏まえておけ!」

 徹底的に無愛想な声音を作って投げつける。それしかできそうになかった。

(柔らかい言葉など吐けるか。我が身の事さえどうにもできず、窮々としている我が)

 そんな自分がひどくややこしくて歪んでいるような気がして、無銘は腰に手を当て鼻を鳴らした。

「はい……!」

 でもそんな態度が鐶は本当に本当に嬉しかったらしい。また輝くような笑みを浮かべ、焦げたポシェットめがけまっしぐら
に駆けていった。
(そもそもどうして貴様、ポシェットにビーフジャーキーを入れているのだ)
 後で知ったコトだが、そのビーフジャーキーは人の肉で出来ていたらしい。おやつに、と青空が鐶に渡したそれを、無銘が
食べた。真実を知った無銘が「人肉をビーフと偽るな! 死者に何たる無礼を!」と本気で怒鳴り散らすのはやや先の話。

(フ。甘酸っぱいにも程があるだろお前ら)
(なんというか青春であります。メモリアル)
 木陰から首出しつつ総角と小札はフクザツな表情を浮かべた。なんかもう無銘と鐶はつくづく不器用なんだが根底では通
じ合ってしまっているような気がした。未熟。だがそれ故に純粋。そのアンバランスさは一言でいえば「くっはぁー」だった。
 まるで一緒に恋愛映画視聴中の夫婦じみた表情の総角と小札──往時を想いペアルックのような照れ臭さを浮かべて
いる──の反対側の木陰からメッシュありありのセミロング少女が「ワケわからん」という表情で顔を出した。
(つーかなんであたしら木の陰にかくれてるのさご主人? あのすっとろいのときゅーびもワケわからん雰囲気だし)
(気を利かせた! あまり冷やかしたら無銘が可哀相だろう! 彼は彼なりに身を張って任務を果たし少女の尊厳を守った
んだ! 新参新参と僕らを見下す少年だが、命がけの結果を無為にしていい道理はない!!」)
(いや、ようするにさ。あいつらどっちも相手が好きな訳じゃん?)
 思わぬ意見に香美以外の3名は息を呑んだ。
(そうか。無銘の奴、鐶が──…)
(おおお。ついこの間まで赤ちゃんだった無銘くんがとうとう……恋を!? ああ、月日の流れは何と早いものでありましょう)
(貴方達は親丸出しの反応だな!)
 当事者たちは木陰の総角たちにまるで気付いていない。こっそり移動したコトさえ知らないのだろう。
 そんな彼らにつきだす指を上下に激しく揺らめかし、香美はまだまだ質問する。
(何で好きなのに甘えたりすりすりしたりせんのさ? そこが分からん。きゅーびは威嚇しまくっとるしすっとろい方は威嚇さ
れてよろこんどるし……だあもうワケ分からん)

 この少女に恋愛は無理だ。絶対。金髪剣士もおさげ少女も飼い主も、悲しい気分で溜息をつくしかなかった。

(元がネコだから……ネコだから、なあ!)

 即物的で機微も何もありゃしない。貴信は密かに泣いた。

(でもいつか体を元に戻してお婿さんを迎えてやるんだ! それが僕の宿願なんだ! あと恋人欲しい!!)






「とにかくだ! 鐶! お前が副リーダーな!」
 ポシェットを拾い上げたばかりの鐶が「え?」と目をはしはしさせた。意味がよく分かってないらしい。
「師父!?」
 正気ですか加入したばかりの者に……叫ぶ無銘に総角は「うむ」と精一杯の威厳を込めて頷いた。
(ちなみに数瞬前まで出歯亀のよーなコトをしていたのはご愛敬!)
 小声でポソっとフォローを入れる小札に後押しされたのか、彼はなんかこう「遅れてやってきた真打」みたいな様子で腕を
広げカツカツと歩き始めた。目的地はむろん鐶である。
「何しろこいつはとてつもなく強い。育てれば俺の次ぐらいにはなる。実力から行けば順当な配置だろう」
「鐶。総角付きの鐶。成程そのつもりで改名を……いやいや! しかし師父!? こやつ、戦闘以外ではまっっったく!」
 ぽやーっとした表情で「いまこそ出てくださいビィィィフジャアキー♪」とか何とかGONGの替え歌を口ずむ物体が指差された。
「う」
 総角は言葉に詰まった。
(困っております困っております)
(確かに……日常生活ではダメな子だな!)
 貴信は汗を垂らした。ポシェットに顔を突っ込んで「ビーフジャーキービーフジャーキー。ビーフ……ジャーキー!」と連呼し
ている鐶が見えた。なんで頭が入るんだろう。ここから72時間ずっと考えたほどの疑問だった。さっき人形が投げた莫大
な数のポテトマッシャーもポシェットに収納されていたのかも知れない。
「フ、フ。いやまあまだ7歳だし? 世間に慣れてない部分は見逃そう。古人に云う、角を矯めて牛を殺すだ。些細な欠点
に拘って本当の良さを殺しても仕方ない。こういうコは実力よりちょっと上の役職を任せて全員でフォローしてやれば、す
ごくいい仕事をしてくれるものだ」
「じゃーさもりもり。まずあんたがフォローするじゃん」
「ん?」
 無表情で指を突き出す香美を一瞥した総角、その指し示す物を不承不承追跡した。
「抜け……ません。プラモの剣が……鼻の穴に刺さって……抜け……ません」
 袋を被せられたネコよろしく、ポシェットに頭を突っ込んだままジタバタ後ずさる鐶を見た瞬間。
 端正な金髪剣士もこの時ばかりは愕然と顎を開き、鼻水さえ垂らした。流れるような金髪もところどころが綻び、雑然と跳
ねた。
「せめてもう少しまともになってから副リーダーをさせるべきでは?」
 足元で囁く無銘などいないように総角は全身を震わせ、そして叫んだ。
「馬鹿っ! ヒラでダラダラやらしたらこいつはもっと悪くなるだろ! 腕力満載の野放図な天然がその自覚もなしに実力だけ
高めていったらどうなる! 考えろ! なあ! これはもはやお前らの生死を左右する重大問題なんだぞ!!」
「!!」
 香美を除くヒラども全員に戦慄が走った。
(そうでした)
(実力だけなら我と栴檀どもと母上を足したぐらいはある)
(もうちょっとその自覚と節度を持たせないとマズいコトになるな!!)

 強すぎるという自覚がないと最悪「ちょっと触れただけで首がすっぽぬけました」みたいなコトになりかねん。
 節度がなければ力に溺れ、頬傷とグラサン着用で「おう小札の。わしゃドーナツ買いたいけえ138円よこせ。ない? ちょ
っとジャンプせえ」と小銭をせびるようになるかも知れない。それはヒラ3人にとって恐怖だった。

「そうだ。さっき俺は「すごく強いけど抜けている奴が副リーダー向き」みたいなコトをいったが、こいつはちょっとボケーっとしすぎ
ている。どうせ副リーダーにするなら加入と同時にそうしてだな、自分の力への自覚という奴をしっかりさせておかねばならん。
ヒラでダラダラやらすとそれが後を引いてえらいコトになるぞ」
「ゆえに職責を負わせ、性格を少し変えると?」
「そうだ。有り余る力を制御するために──…」
「ちょっと待つじゃん!!」
 手を突き出す物があった。香美だ。シャギーの入ったセミロングの髪をゆらめかしながら、彼女はまくし立て始めた。
「話はよーわからんだけど、性格変えるようなマネはしたらいかんじゃん!! 絶対!」
 何を……と声を漏らしかけた総角は、ダンっ! と片足叩きつけ凍土に罅入れる香美の姿に言葉を失った。彼女は、もの
すごく怒っているようだった。ふだん気だるい瞳が拡充し眉毛がひくつき、食いしばった口から八重歯1本と憤懣の声を漏ら
す様はなかなか迫力に満ちていた。
「だってさだってさだってさ! あのコねーさんに元の性格を「ダメっ!」っていわれてああなった訳じゃん! なのにここでも
また「ダメっ!」ってやられたらさ、そんなのかわいそーじゃん! 弱い物イジメのせーでああなっただけじゃん! あいつは
悪くないじゃん! なのにあたしらまで「ダメっ!」っつったら、かわいそーじゃん! めちゃんこ。あたしはそーゆうのやだ!」
「栴檀の片割れが」
「急に正鵠を射たお言葉を……」
 無銘も小札も唖然とした。


「フ。そうだったな香美。お前もあの組織の犠牲者の1人。おぞましくも理不尽なる虐待のすえ闇を恐れるようになった」

 思うところがあるのだろう。総角は少し驚いたようだがすぐさま口を綻ばせ香美に従う。

「だからさー。やったらあかんコトだけ教えるべきじゃん。やられたらあんたらが困るっつーコトだけいっとけば、あのコだって
分かってくれると思うじゃん。だからダメっーのはダメじゃん! そうするじゃんもりもり!」

 自嘲めいた溜息が総角の呼吸器官を通り過ぎ、大気に拡散した。

「まあ、確かに。『伝える』というコトは本来それだな」

 お得意の、瞑目した気障な笑いが顔一面に拡がっていく。

「了解だ香美。まずはあのままで。そして元の性格に戻しつつ、成長させる……そういう方針で行くか」
「らじゃーです香美どの! まずは信じてみましょう!」
「母上がそういうのなら、世話を焼いてやらんでもない」
『補佐という形をとるなら、上役こそ一番! 及ばずながら支えさせてもらう!』
「あのー、ポシェット。取ってください」
 まだじたばたしている鐶に軽やかな声がかかった。
「というコトだ鐶。今日からお前が副リーダーだ」
「は、はい……ありがとう……ございます。まずは……ポシェット……抜いて下さい……」

 動き始めていた時間の真ん中で。

 やれやれ。そんな感じで皆、笑顔を浮かべ──…ポシェット頭に歩み寄った。

 鐶 光

 ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズ 加入。





* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *






 手紙が飛ばされた後。
 真赤な頬に手を当て立ちすくむ妹に対し玉城青空が覚えたのは意外にも『快感』であり、同時に彼女は冷えて行く聡明さ
の中で快感の根源が何であるかも理解していた。
 それは決して、憎むべき理想像に一撃を加えた喜びという平易な物ではなかった。確かに一撃を加えた瞬間は自分の中
で荒れ狂っていた灼熱の濁流が瞬く間に解消され、心地よくもあったが、しかしそれは快感の構成要素の一つにすぎない
──根源ではなく、あくまで一部──と青空は察知していた。
 眼下で頬を抑え、輝く瞳に涙を湛えている妹。

 全身のあらゆる部分から申し訳なさを立ち上らせ、しゃくりあげながらか細く震えている妹。
 
 伝わった。

 妹が自分の心からの怒りを理解してくれているのはまぎれもない快感だった。
 思えば小声のせいでどれほど自分の意思を汲まれなかったコトか。常に聞き返され、伝えても妙な顔をされ、或いは反論
や反駁をされ、結局は相手のいいようにされていた。喋ってでさえそうである。無言の微笑を続けた結果、快活な義母が頼
みもしないのに家庭へやってきて頼みもしない発声練習をさせた。
 
 だが、伝わった。

 青空の快感はつまりそれだった。言いたいコトや思っているコトが相手に伝わったという快感。人間なら誰しも思っている
『分かってほしい』が叶った瞬間だった。『分かってほしい』。友誼も恋愛も交渉も商談も全てはそれであろう。少なくても青
空はそう信じている。なぜなら彼女は家庭や学校においてそれが叶わず苦しんでいた。

 伝わった。

 長年の溜飲が下がった。それと同時に青空の中で葛藤が芽生えた。手を上げてしまったという罪悪感を覚えた。妹とて悪
気があってやったのではない。過失。全ては荒れ狂う嫌な風のせい。手紙を我がことのように喜んでくれていたではないか。
なのに手を上げてしまった──…本来理知的な性格の青空は悔んだ。ついカッとなって頬を痛打した自分を恥じた。
 だが、しかし。
 衝動的な暴力のもたらす快感に魅入られかけている自分にも気付いた。痺れる右手からこれまでの鬱屈が放散していく
ようだった。小声で通らぬ会話をやろうとするより具体的で現実的で、何よりひどく心地よかった。ただの破壊では不十分
とさえ思った。自分の手の動きにつれて相手が『分かってくれる』コトが必要だった。いま眼下で震えている妹のように、自分
の抱えている感情が伝わり、理解を得なければ右手の快美は2度と訪れない。そんな予感がした。
 だがその快美は得てはならない。だから妹に謝り、2度と暴力は振るわないよう努める──…
 義母に頬を痛打されたのは、上記の決意を実行に移そうとした瞬間だった。
 やがて事情を知った彼女は必死に謝っていたようだったが……。

 ただ1度の衝動さえ認められず、それを悔いている自分さえ痛打される。

 そんな現実はひどく痛烈で、惨めだった。頬は本当に痛かった。
 無言の自分は結局世界の誰からも受け入れられないのかと暗澹たる気分になった。

 ならば快美をもたらす方へ──…

 帰宅した青空は幾度となく湧いてくるその考えに首を振った。ダメ。決して許されない。そう思いながら迎えた夜半、泣き
疲れて就寝した妹の首を眺めた瞬間、それは来た。

 疼きにも似た、甘い衝動。

 気付いた時には小さな体を膝立ちで跨いでいた。

 そして上体を屈めた。

 真っ二つにちぎれた指の輪を妹の首の両側にそうっと這わせながら、青空はか細い息を震わせた。生命を奪うつもりは
なかった。ただ絞めたくなった。絞めて、今一度見たかった。自分の怒りと葛藤を理解してくれる妹の顔を、見たかった。
 でもそれは決して許されない行為。加減を誤れば死に追いやる危険な行為。理性の力で辛うじて指を除けた青空は、笑顔
で2つの掌を眺めると決意した。

 家を、出よう。

 変質しつつある自分が家に居ては迷惑だと思った。
 今は良くてもいつか必ず家族に危害を加える。それは許されない行為。例え頬をはたいた義母に耐えがたい怒りを抱いて
いたとしても、なぜ彼女がそうしたかを察し、許すべきなのだ。
 
 行く当てはない。だがそれでも良かった。
 もはや自分の味方をしてくれる者は誰一人居ない気がした。ようやく得られそうだった手紙が飛ばされ、ようやく感情が
伝わっても即座に頬をぶたれたのだ。生きていても仕方ない、そう思った。

 どうせ生後11か月の頃、母に扼殺されかけていた命だから、どうせ父も義母も妹も泣きはしないから、今さら消えても構
わない。
 誰かに危害を加えてまで生きたいとは思わなかった。
 数日後のCougarのシークレットライブに行ったら、この世から消えよう。
 と思っていた。

 この時は。




 着のみ着のまま家を出た青空は、まずありったけの貯金を下ろし、都内のカプセルホテルを転々とした。

 ライブ用に服も用立てた。チェック柄のロングスカートを履き、黒いボウタイブラウスの上にスタンドカラーのブルゾンを身
につけた。そしてチョーカーとブラウンのブーツも装備。

 会計を終えてからさも「買った物をご賞味ください」とばかり入口に備え付けられている鏡の前でクルリと回りガッツポーズ。
「よし!」。どこも変じゃない。きっとオシャレ。

 特にロングスカートについては青空会心のチョイスだった。ダークブラウンとカーキグレーのチェック模様を遮るようにパ
ッチワークされたレース編みニットとトーションレースと花柄のコーデュロイはとても可愛かった。ドレープがなみなみと寄っ
てギザギザとした裾のラインを描いているのも最高にいい。まるで自分に買われるため生まれたような気がして思わず鼻歌
さえ歌った。
 そうなってくると手紙の件や義母にぶたれた事は「自分の人生に良くある不遇の1つ」ぐらいの感じになってきた。家族運
は悪くても人生は楽しい。Cougarが見たら「お、あの子カワイイ」とか思ってくれるかもと淡い期待に豊かな胸をさらに膨ら
ませ、彼の曲をフンフン歌いながら軽やかに歩いた。

 そして飲食店で昼食を取り、カプセルホテルを探し──…ていたら運悪く人気のない路地裏に迷い込んだ。
 後悔。浮かれ過ぎていた。ただでさえ不慣れな都内を浮かれ気分で散策すべきではなかった。

 路地裏はひどくうらぶれていた。家はあるがどこも無人。朽ち果てた扉や窓に蜘蛛の巣が張っている。人2人が並べばも
ういっぱいという小道は整備を放棄されて久しいようで、あちこちひび割れ、レンガを遠慮なく撒き散らす塀もある。

 頭頂部の癖っ毛を「びィーん!」と逆立てたのは、背後から突然、声がしたため。

 振り返る。汚物じみた茶髪の若い男がニヤついている。言葉の内容は覚えていない。ただ黄色く濁った瞳が品定めをす
るように自分の体を眺めまわしているのは分かった。本能的な恐怖が走る。笑顔のまま息を呑み後ずさると背中が何かに
ぶつかった。男。背後にいた男に羽交い絞めされた。恐らくいつからか尾けていて、示し合わせて退路を断ったのだろう。

 着替えと食事を入れた紙袋が薄汚れた路地に落ちた。

 豊かな肢体を必死によじる青空めがけ茶髪が歩み出た。その背後から男が数人現れた。いずれも派手な服装でピアス
や入れ墨をしている。青空の体を揶揄する下卑た歓声と笑いが木霊した。豊かな肢体は飢えた獣たちにとって格好の的だっ
た。いよいよ間近に来た茶髪の口臭に吐き気を催す青空のなだらかな膨らみが服越しに掴まれた。

 拒否の声を小さく漏らす。かーわーいい。健気な抵抗を男たちは一層喜んだようだった。そしてついに乳房が揉まれ、拒
否の声を「小さくて聞こえないよォ」と茶化された瞬間。

 青空の脳髄を「そうあるべき」静かな自分とはかけ離れた感情が貫いた。


 拒否の意思を伝えるために。


 青空はまず踵をはね上げた。背後の男の股ぐらめがけ、必死に。遠慮も何もない。ただ拒否を伝えるためだけ加速を帯び
た踵はウズラ大の物体に重篤な損壊をもたらしたようだった。喘ぐ背後の男が手を緩めた。すわ何事かと目を剥く茶髪を強
引に突き飛ばした青空は、ただ拒否を伝えるために辺りを見回した。武器。武器が欲しい。崩れた塀がレンガを零していた。
掴んだ。投げた。右目をやられた茶髪がのけぞった。血しぶきが舞う。男が仰向けに倒れる。青空は全身を駆け巡る快感
に笑顔を深めた。新しいレンガに手を伸ばす。背後の絶叫めがけ投げつける。鼻を潰された大男がどうと倒れ伏した。それ
が羽交い絞めにしていた男だと知ったのは、股ぐらと左胸にレンガを叩きつけた後だ。血を吐き、ピクリとも動かなくなった
大男からレンガを回収。歩を進める。血まみれの茶髪は目を押さえながらもう片手を青空へ伸ばし何事か騒いでいる。
 
 必死な様子からするとどうやら謝っているようだった。

 すぐそれを理解した青空はしかし下顎に指を当てちょっと考えた後、茶目っ気たっぷりに呟いた。

「小さくて聞こえないよォ」

 くすくす笑いながらレンガを叩きつける。嬉しかった。また自分の意思が伝わったような気がして、嬉しかった。そのまま満
面の笑みで残る男たちを見た。あれほど下卑た歓声を上げていたのに逃げ出そうとしている。

 血が燃えた。
 もっと伝えたい。
 どれほど自分が怖い思いをしたか伝えたい。

 顔面を潰され痙攣する茶髪をひょいとまたいで他を追う。片手持ちのレンガは数時間後に激しい筋肉痛を味わってなお
それが格安に思えるほど抜群な仕事をしてくれた。目指すは狭い路地で押し合いへし合いしている男たち。喫煙と不摂生
で2分も全力疾走できない彼らへあっという間に追いついた運動神経学年15位、少女の右手が大きくしなる。

 壁に掠って火花を散らした赤茶色の長方体が最後尾でやきもきしていた短い金髪を破砕した。振り向いた男たちの奏で
る悲鳴とどよめきと泣き声に青空は確信する。

(良かった。伝わってる)

 純真な笑顔のままスキップの要領で踏みこんだ。剣道の面打ちのように振り下ろしたレンガがすきっ歯の坊主を打倒し
たのを確認、どんどん行く。手近な男の襟首を掴み、引きよせ、刺青のある首めがけ一撃。最後に残ったひょろ長い金縁
メガネは背中を蹴るとあっけなく倒れたので、レンガはとても楽に叩きつけられた。


 それから青空は元きた道を引き返し──…


 やがて地面に突っ伏す男たちは目撃する。たぷたぷとした胸の前で両手を組む青空を。
 舞い戻ってきた青空はそこにたっぷりレンガを抱えていた。まるで豊作のリンゴかミカンをお裾わけにきたようなかわいら
しい笑顔に一瞬誰もが見とれかけたが、胸の中から1つ転げ落ちたのはまぎれもなく堅く色褪せたレンガだった。幻覚でな
い証拠に運悪くそこに倒れていた仲間の頭に直撃し新たな血河を生みだした。忍び寄るその生暖かさにそれこそ声になら
ない悲鳴をあげる男たちの前で、少女はアホ毛を動かした。「どーちらにしようかな」。

 決まったのは首に入れ墨をした男で……。




 そして総てが終わった後、青空は血だまりのない場所で膝を抱えた。


 やってしまった。


 傷害または殺人未遂を……ではない。


 せっかく買ったお気に入りのスカートはところどころが破れ、血しぶきさえ点々と付いている。仮にクリーニングに出した所で
シークレットライブには間に合わない。重要なのはそこだった。妹をぶった時の衝動が再来して、男6人にレンガを叩きつけた
コトへの罪悪感はなかった。

 救急車を呼ぶベきとも一瞬思ったが、そうすると警察からの事情聴取でライブに行けないし家出だってバレる。

 だいたい正当防衛なのにまた責められるのは嫌だった。楽しい気分だったのに襲われて、お気に入りのスカートさえ駄目
にされ、どうにかこうにか身を守ったのに(といっても実際は彼女の圧勝だが)、またも社会は自分を責める? いい加減、
そういうのは嫌だった。

 自分を一度たりと救ってくれなかった社会。
 そして人間ども。

 彼らは常に青空を助けようとせず、しかし彼女が失策を演じた時に限って素早く嗅ぎつけ、責めるのだ。

 考えると腹が立ってきた。人生を救ってくれそうな手紙はすぐ飛ばされ、その怒りを伝えられたと思ったら頬をぶたれ、
そんな嫌なコトをライブの準備で忘れかけていたら馬鹿な男どもが襲ってくる。

 見よ。買いたての、おろしたての可愛いスカートを。ボロボロではないか。

 誰にも迷惑をかけまいと懸命に生きているつもりなのに、いつもいつでも良い事をかき消す下らなさばかりが降りかかる。
 もう本当、青空は激発に身を任せたくなった。

 だが何とか堪える。激発は良くない。欠如は努力で補うべきだ。そうやって生きてきたではないかという誇りにも似た自負
が、どうにか崖の縁ギリギリで青空を押しとどめる。

 それが最後のチャンスだった。人間らしく真っ当に生きられる最後のチャンスだったコトに青空はまだ気付かない。

 とりあえず財布を見る。金額的にはまだ余裕がある。同じ物を買いに行こう。そのためには着替えなくてはならない。しか
し男たちの前で着替えるのは恥ずかしい。その間だけ眼をつぶって貰おう。そう決めて、まだ眼の開いている者を探す。居
た。顔を歪めたそいつは喘ぎ喘ぎ携帯電話をいじっている。

 青空は、キレた。

「女の子に怖い思いさせておいて自分が痛い目見たら助け呼ぼうとかありえないでしょ本当にありえない」

 ブーツの踵が直撃した携帯電話は、それを握る指の骨ごと粉々に粉砕された。男たちの顔面が青くなっていくのは、まったく
以て快感だった。自分の意思を伝えるコトの喜びをひしひしと感じた。つむじから延びる癖っ毛もちぎれんばかりに振られた。

「ぐあッ……ガガガ……」
「ぐあッガガガじゃないわよ謝りなさいよねえ謝ってもう本当サイアクせっかくのスカートが台無し」
 くっと顎を以て上向かせた男の瞳孔がみるみると広がった。「ひイッ」という情けない絶叫さえ漏れた。
 青空は自分がどういう表情をしているかまったく気付いていなかった。
「謝るつもりがないならいいわよもう」
 手近な砂利──ガラス片も少し混じっているようだったがどうでもよかった──をすくい上げると、恐怖に拡充しきった眼
に流し込んだ。強引に瞼を閉じると暴れたが肩をレンガ片で10回ばかり叩くだけで静まった。

 残る男たちは必死に携帯電話を供出した。なぜならばレンガ片を両膝と両足首に叩き落とされ「歩く位なら死んだ方がマ
シ」という激痛を味わったからだ。這いつくばって物言わぬ仲間のポケットから携帯電話を抜き取ったころには腰部が砕かれ
る音がした。笑い声もした。震えながら振り返ると、「はーやーく。はーやーく」と笑いたくる少女が居た。
 そして破砕。地面をバウンドしたレンガが派手な音を立てて携帯電話をガラクタの山に作り替えた。そして微笑む少女。彼
女は頬を染めながら小さな声でこう呟いた。

「ごめんね。着替えたいからちょっとだけ眼をつぶっててくれないかな?」

 男たちが全力で頷いてくれたので、青空はスッキリした気分で着替えができた。そして路地を脱出して先ほどの服屋に何
とかたどり着いたがスカートは売り切れていたので、青空は頬を膨らませ怒りマークをピキピキさせながら(肩を精一杯いから
せて歩いた)路地に戻って再びレンガ片を頭上高く振り上げた。男たちの絶叫が響いた。

 一息ついて上を仰ぐと、自分の名前と同じ場所が果てしなく広がっていた。

 空が青いのは太陽の光が大気中の分子などに当たって散らばるためだ。もっとも散乱しやすい青い光が地上の人間に
届くから、空は青く見える。

 光なくして青空はない。

 手紙と引き換えに「伝えることの嬉しさ」を教えてくれた義妹を初めて好きになれそう──…

 路地を後にしながら青空はそう思った。

「でももう遅いんだよね……」

 レンガを振り下ろした男たちのうち、一体何人が生きているというのだろう。
 一体何人が、元の生活に戻れるというのだろう。
 激しい快美の後に襲い来る後悔と虚脱感と、「やはり自分は生きていない方がいい」という実感を噛みしめながらとぼとぼ
歩く。その場を去る。






 そしてライブ当日。



 ステージの上で両手を広げたまま、青空は茫然と立ちつくしていた。
 200名近くが辛うじて収容されるほど小ぢんまりとした会場は、平坦な言い方をすれば地獄と化していた。

 いやに幾何学的な姿をした獣の群れが人々を蹂躙している。肩を喰い破られた少女が絶叫を迸らせ、足を掴まれた妙齢
の女性がそのままカエルのような化け物の口へ放り込まれた。下半身を噛み破られ椅子に叩きつけられたのは大学生ぐら
いの子だろうか。乾いた音とともにパイプ椅子の配列が崩れた。内臓もあらわに這いつくばる彼女に四方八方から手が伸び
て、生々しい咀嚼の音とすすり泣くような歎願が響いた。

 しかし奇妙な事に、逃げ惑っている筈のファンたちは、出口に着いた途端にうろうろとし始めている。扉が開かないという
訳ではない。そこに手をかけようとした瞬間、或いは押そうとした瞬間、不可思議にもそれをやめて扉の前をうろうろとする
のである。罵声が響く。うろついている者が突き飛ばされる。だが突き飛ばした者もまたウロウロをやる。どこの出口でもそ
れが繰り返されている。おかげで逃げようとする人間の波はつくづくと滞り、まったくどうにもならないようだった。ステージ
の上でCougarが「新作ドラマではこういう役をやります。特撮に出ます」と槍のような武器をピカピカ光らせていた数分前の
穏やかな光景がウソのようだった。

 人形の腕を振り下ろし数少ない男性ファンの下顎を吹き飛ばしている女医風の女がいる。

 どろどろに溶けた同年代の子供をストローで啜る少女がいる。

 子供だけはと哀願する男性と女性──ストローで啜られている子供の親だろう──に光の線が何条も迸った。
 次の瞬間、流石の青空も目を背けた。指がぱらついた。手首も落ちた。彼らのあらゆる部位は結合を解かれたようだった。
気まぐれにバラされたプラモのように、あらゆる部位が崩れ落ち、血だまりの中に堆積した。

 そして彼らの横にいた奇妙な鳥が不機嫌そうな眼でステージを見た。
 顔面の半分ほどあるくちばしが図体の半分ぐらいまで伸びている鳥。眼光が鋭い鳥が。

「やはり青っちも気になる? ハシビロコウっつーんですよあの旦那」

 青白い光が視界に入る。ゆっくりと振り返る。

「いやーそれにしてもお美しい。親御さんから見た目聞いてましたけどね、いやはやまさかこれほどの美人さんだとは! いは
はやお話できて光栄ですぜこりゃ。にぇへへ」

 青空がステージに昇ったのは、会場入りした異形の獣たちからCougarを守るためであった。悲鳴を上げ、我先にと出口
へ向かうファンどもを抜けてステージに昇ったのはこのライブが終わったら人知れず命を断つつもりだからだ。どうせ死ぬの
であれば、辛い時代を救ってくれた人を守って死ぬ方がいい。そう思った。だからステージの上にいるCougarの前に立ちは
だかり、両手を広げた。

 そんなコトを回想しながら振り返った青空は、流石に笑顔を保てなかった。いつも笑みに細めている両目を驚きと意外性と
ほんのちょっとの期待感──ここから自分の人生が大きく変わるという期待感──いっぱいに見開いて彼を見た。

 守るつもりだった国民的アイドルを……見た。

「玉城青空さん。親御さんから事情は聞いてますぜ。へへ。手紙を飛ばされたそーで災難なコトで」

 アイドルとは思えない砕けた口調で人懐っこい笑みを浮かべながら、Cougarはそこにいる。

「そろそろ分かってると思うけど、このヒドいこと企画したのオレよオレ。いやー我ながらひどいコトひどいコト」
 理知に縋ってやまない青空がまず思ったのは「あり得ない」。陳腐。ご都合主義。うつむき加減の額を指でグリグリした
のは込み上げてくる頭痛と馬鹿馬鹿しさを鎮めるためだ。

「へぇへぇ。分からないのも仕方なしかと。しかァし!! オレっちにゃオレっちのやるせない事情がありやしてねえ。あ、青っ
ちだけは別ですぜ。話聞いた時から助けるコトにしてたんで」

 ザクリという音がした。彼は手にしていた物をマイクの横に突き刺したようだった。槍のような武器。惨劇直前にCougar
が振りかざしていたその武器は確かに特撮じみていた。簡単にいえば槍に斧をつけたような武器だった。しかもそれは雷
光を迸らせながら青空とCougarをまばゆく炙っている。
「あ、コレ? こりゃあハルバードってんで。扉から出れなくしたのもこの武装錬金の特性でさ」
「ぶそう……れんきん? とく……せい?」
「しかしお美しいだけでなく勇敢とは! ファンの中でオレっち守ろーとしたのは唯一青っちだけですぜ? 他はみんな自分の
命惜しさで逃げやしたでしょ? ったく。フリでもいいから守って欲しかったんですけどねオレは。そしたらその方だけ助けよう
って思ってたのに……はあ。結局1人だけですかそうですか。国民的アイドル相手っつっても所詮それが限界、人間って奴
の『枠』の限界すか」
 28というが間近で見るといやに子供っぽい人だと青空は思った。ウルフカットの下で忙しく媚を売ったりシャウトしたり
ふわりと笑ったり肩を落としたりする彼は、最後に揉み手をしながら青空を覗きこんだ。
「ところで良かったらメルアド教えてくんない? あ、いやいや無論タダとはいいやせん! こー見えてもオレっち女性に優し
いって評判でしてね、何か頼む以上損はさせやせん。青っちが失くした手紙書きなおすってのどーでゲしょ?」
「ナンパ……ですか? こんな状況で、引き起こしておいて」
 声を震わせながらぎこちなく微笑むと、Cougarは「いんやいんや」と手を振った。
「お話したいだけ。ちょうど会場の方も終わったようだし」
 何が女性に優しい、か。静まった会場の中で生き残っている女性は誰一人としていない。みな必ずどこかが喰い破られ
顔はもはや若さも美貌も黒い絶叫に塗りつぶされている。

 それらを一瞥した青空は、しかし内心に小気味よさが湧いてくるのを感じた。

 Cougarが何を思い、何のためにこれほどの惨劇を実行したのか。
 それは知らない。
 ただ、他者は誰ひとりとして青空の感情を理解しなかった。
 頑張りたいという意思も、遠慮も、配慮も寂しさも辛さも悲しみも、何一つ理解してくれなかった。
 何一つ、してくれなかった。
 首の座りが悪いというだけで首を絞められそこに畸形をきたしてしまった自分を救ってくれるものなど、この世には誰一人
として存在していないようだった。父でさえ素知らぬふりをし活発な妹との楽しい家庭生活を営んでいた。他人は全て『たま
たま運良く』獲得した大きな声を以て楽しい楽しい青春生活を送るのに躍起で、青空を救おうとはしなかった。ただそこに
異質な存在が転がっていると一瞥をくれて歓談に戻るだけだった。

 骸となって転がっている連中はつまるところそういう人種だったのだろう。

 だからCougarを救おうともせず出口に向かい、こうなっている。

 胸がすくような思いがしたのは、自分に何の恩恵ももたらさなかった世界が確実に破壊されつつあると確信を得たからだ。

 もはや黙っているべき時期は過ぎた。

 自らの手であらゆる感情を『伝えて』いき、あらゆる不合理を破壊せねば、自分のような人間がずっとずっと不幸を味わい
続けていく。そう思った。

 死ぬつもりだった自分が助かり、生に固執した連中が死んだ瞬間から自殺願望はかき消えた。むしろなぜ自分が死なな
くてはならないのかという怒りさえ湧いた。自殺したところで父と義母と義妹は何ら変わりない団欒を続けるだろう。人のため
この世のため家族のためと遠慮し命を投げ打ったところで、誰が感謝してくれるというのか。誰もしない。異質な存在がいた
と一瞥するだけ。そして誰をも救おうとせず、楽しい楽しい歓談ばかりを享受する。青空の首に畸形をもたらした母親は正
にそういう種類の人間だった。楽しさばかりを求めているから、耐えられず、やらかした。

 青空はボランティアに身を投じ正しく世界を正そうとしていた。

 その考えも結構だが、人を助けたいのであればまずは「たまたま獲得しただけの大声」で楽しい歓談ばかり追う人間をど
うにかすべきではないのか? そして自分を救い味わった不幸の数だけ幸福になるべきでは?

 長年、噴き出そうな怒りを押しとどめてきた理性はいつのまにか荒波ですっかり歪んでいる。

 青空はそれに気付かない。気付かないまま『理性』の導く答えだからと上記の思考を……肯(がえん)じる。


 動き始めていた時間の真ん中で。

「で、良かったらオレっちらの仲間になんない?」

 青空はコクリと頷いた。

 そして1年後。


 彼女は実父と義母の命を奪い、義妹を歪め始める…………。


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