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過去編第006話 「時間も分からない暗闇の中で」





 当事者 4

 バラけていく。崩れていく。脚部に力が入らない。張り詰めていた神聖な集中力が虚空の彼方へ散っていく。脇を見る。男
3人が割れた人混みへ吸い込まれる。彼らは山のように連なっていた。揺れていた。両端の屈強な水色の間で貧相な緑が
揺れる。その緑の嵐が飛びかかってきたのは何秒前? もう何分も? 追いつかない。縮められない。
 バラけていく。崩れていく。

──積み上げてきたからこそ分かるものがある。

 規約にある数値。観測で明文化される数値。それらは決して感情的な挙措で覆せるものではない。規約に従い観測に
照らさなくてはならない。栄冠を目指すという事はつまりそれだ。タバコを控え酒を控え節制に励み好物の脂身さえ口にせず
友人どもが恋人とベッドの中で甘く囁いている明け方にはもう20kmほど走っている、そんな生活を年単位で送り、足から
少しでも多くブヨついた肉をそぎ落とし肺機能をわずかでも向上させる。スクラムを組んだ規約と観測に理想の数値を吐か
すには地道な努力を重ねるしかない。積み上げるのだ。1日に少しでも多く。本番に向かって。多くて1秒でも少なくできれば
成功だ。1日の少し、本番での少し。それらが年単位で積み重なって栄光に繋がる事を信じ、苦痛に耐え……。
 そうやって培った物だけが規約と観測の前で望みの数値を弾き出してくれる。

 と、信じていたのに。

 山の両側は警備員だ。彼らが時おり切羽詰った叫びを上げ体を揺するのは……中央の緑色が身を捩った数瞬後だ。

「申し訳ありません」

 バラけていく。崩れていく。あらゆる総てが『分解』される。

「彼は以前にもこのような真似を」

 長い距離を好成績で走り抜くには? 綿密なペース配分が必要だ。『機械のような』。集中力を高める。スタート直前に
深く息を吸い、吐く。そして総てをブツける。培った総てを、最後まで。

「沿道の群衆に紛れて、走行中の選手に飛びかかり、競技の妨害を」

 這いつくばっている自分の横を選手たちが流れていく。立たなくては。力を込めた足から鈍い痛みが昇る。右のつま先が
尻に付いている。断裂、そして反転。端緒は緑色のパーカーが胸にぶつかった瞬間だ。室内で独りよがりの遊戯に耽って
きた男特有の生白い顔と虚ろな目、それが自分を後方へとつんのめらせ、そして押し倒した。鈍い断裂の音が今さらのよ
うに耳奥で木霊する。痛みは激しい。ただ座って地面に付けているだけなのに脂汗が全身に浮かぶ。立てばどうなるか、
全く想像したくない。だが立たねば状況は好転しない。

 彼は走っていた。大事なもののため、走っていた。

 深く息を吸う。散ってしまった神聖な集中力。それを少しでも多く体内に引き戻さなければ何も始まらない。何も……。『機
械のような』集中力。それさえあれば後ろ向きの足首がもたらす激痛な
ど物ともせず、精密なペースで走り抜ける。走りぬける筈だ。

 なぜ、自分がこういう目に遭っている? 何をした? ただ走り抜くため真っ当な努力を積み重ねただけなのに。

 白いヘルメットの救護班がやってくる。何をいっているかは分かる。だがいやだ。走れ。走るのだ。息が乱れる。この足で?
妨害後に? マトモな状況でマトモな体を走らせても好成績は難しいのに? 自分を抜いたのはもう何人? 無理だ。積み
上げてきたからこそ分かる。でも、走れ、走るのだ。千々に乱れた理性と恣意がせめぎ合う。


「離せ! 離しやがれ!!」

「今日しかないんだよ!! いまが最後の……最後のチャンスなんだよ!」


 拳を叩きつけた瞬間よみがえったのはかつての叫び。今は叫ばない。叫ぶ気力は……ない。

 喪服なのだ。いまは。

「落ちついて。お気持ちはわかります。苦難に耐え続けた結果が妨害によって台無しにされる……その辛さ」

 ヒビの入ったガラステーブルの向こうで白髪交じりの中年男性が嘆息した。慣れている。こんなトラブルは彼にとって「よく
ある事」なのだろう。積み重ねてきたから分かる。次はこちらの無念を取り除く作業に移る。「不幸な事故」。だから今回は
諦めるよう促すのだろう。釈然としないがそれでも自分は積み重ねる側にいたかった。沿道から選手の何もかもブチ壊し
にかかる貧相な緑パーカーのような──さっさと微生物にでも分解されて死ね! 何度もそう呪った──低い次元の男には
なりたくなかった。釈然としない。だが今まで過ごしてきた世界は耐える以外の選択肢を齎していない。それがどんなに絶望的
な事でも、世界にとって「普通」で「当然」の事なのだ。

 失われたものがもう二度と帰ってこないとしても。
 報いる事ができなかったとしても。

「御事情は聞いています。たいへん辛い事です。妨害を阻止できなかったこと……本当に無念です」

 深く息を吸う。分かっている。怒ってもどうにもならない事は。42.195km。その沿道にひしめく群衆の中から妨害経験
のある前科者だけを見つけ出し事前に排除する? 無理だ。規約と観測が要求する数字を恣意一つで叶えられないように……。

「ご安心ください。お足の怪我は治るものです」

 それでも。

「あなたの成績は拝見しました。大丈夫です。今度こそ、報いて下さい。願っています」

 バラけていく。崩れていく。

 どんなに頑張っても理不尽な妨害によって台無しにされるのではないか?
 そして世界は台無しにされた分をちっとも補填してくれないのではないか?

 憂鬱な感情が、拡がっていく。



 当事者 3

 この世の総てを欲するのはつまるところ寂しいからだ。

 明日が賞味期限(=売れなければ捨てられる!)のジャムパン、流行ってない自転車屋の片隅で埃かぶってるT字型の
空気入れ、昭和の匂いがする扇風機。
 いかにも売れていない様子の商品達は自分を見ているようで辛い。だから買い占める。店頭にあるのに誰からも見向き
されず静かに朽ち、捨てられる。その様子を想像すると途轍もなく寂しい。

 だから自分が買う。買って「必要とされている」、そう言い聞かせてあげる。せっかく生まれてきたのに不必要と断ぜられ
処分されるのは可哀相だ。だから買う、買い続ける。

 それでも目に見えない場所で寂しい思いをしている物、あるだろうから。

 この世の総てが欲しい。

 強欲といわれても、構わない。













 当事者 2




「くらくてせまくてたかくて、んでギャーン! ってなったらこうなってたワケじゃん? ね、ご主人」
























 当事者 1




『ははっ! その説明で全部分かる人は少ないと思うぞ香美!』

















「分からない……です」
 鐶光は卓袱台の前で可愛らしく首を捻った。
 よく分からない。
 疑問は氷解しそうにない。
 それが率直な感想だ。
 こういう時直属の上司──総角主税という名の金髪美丈夫──がいれば、とも思う。だがあいにく彼が戻る気配はない。


「フ。部屋の事で少々用事ができた。小札と無銘ともどもしばらくは戻れない」


 そう言い残して部屋を後にしたのが1時間前。まだまだ帰宅に至らぬようで。


(くらくてせまくてたかくて……? 難しい……です)


 視線を居間へと引き戻す。
 ここはアパートの一室だった。4LDK。閑静な住宅街にあるにしては家賃が安い……昨日得意気に説明していた金髪の
美丈夫はいまごろ不動産屋で書類不備の後始末をしているのだろう。よくあるコトだ。契約をしたあと不動産屋が何か不審
な点を書類に見つけ世帯主を呼びだすのは。なぜなら住む者総て「戸籍は有って無い様なモノ」。一旦契約が成立した方が
不思議なくらいだ。
(私のはまだ残っているかも知れません。でも、あったとしても、年齢が…………合いません)
 肩を落として虚ろな瞳で床を見る。
 加入してから数か月。当時こそ7歳だったがそろそろ肉体年齢10歳のチワワ──鳩尾無銘──を追い抜きそうな勢いだ。
 それがどれほど辛いか。
「妹分ができた」。そう喜ぶ無銘がグングンと成長する鐶を見る眼差し。不老不死のホムンクルスが年齢差を短期間で覆される
失意の表情。いやというほど実感できる。自分は人外からさえ外れた存在で、10年も経てば1人だけ老婆と化し、変わらぬ仲間
を羨むしかないのだと。辛さの向こうでようやく会えた、救ってくれた少年。大好きな彼の前で1人だけ年を取り、失意の表情を
73日ごとに見せつけられ、やがて失意さえ失われ何の関心も示されなくなる。
 想像するだに恐ろしき未来予想図に何度泣いたか分からない。

 戸籍の話に戻る。

 総角、小札、無銘といった3名は分からない。
 だが目の前にいる少女は絶対に戸籍を持っていない。鐶はそんな確証を持っていた。
(なぜなら香美さんはもともと……)

 ネコ。

 なのである。

(ある訳……ないです)

 などとぼんやり思いつつボロックナイフを振る。天井から落ちてきたムカデが胴切りにされ吹っ飛んでいく。転瞬鐶の可憐
な唇から桃色の影がムチのように踊りあがった。舌。桃色でひどく長大な。キツツキのそれへ変じた鐶の舌はびゅらびゅら
と踊り狂いながらムカデの痙攣する胴体2つを順々に巻きこみ、口内めがけ引きこんだ。
 目の前の少女が感嘆の声を上げた。「もう使いこなしているじゃん」というのは体質と武装錬金両方に対する賛辞だろう。

「はい……。ズグロモリモズの毒を……蓄えます……。お姉ちゃんに監禁された時に……虫を食べて……空腹を……凌ぎ
……ましたし…………割りと……へっちゃらです」

『はっ、はは! その年でその境地は色々凄いなあ!! 女のコにいうのもアレだが、逞しい!』

 それは少女の後頭部からあがる大声で、まぎれもない、少年のものだった。

(分からない……です)

 なぜ、こうなっているのだろう。

 咀嚼しながら考える。

 考えれば考えるほど分からない、少女の後頭部の秘密。

 馴染むまではかなり戸惑った。

 窓が揺れた。反応する。首ごと旋回した視線の先。ガラスに赤黒い落ち葉がへばりつく。
 後ろには灰色の空。
 空。そうだ、姉はいまどうしているだろう。取り止めのない思考世界へ焼き芋屋の錆びたアナウンスが木霊する。
 
 季節はもう冬だ。

 鐶光。本名は玉城光。7歳の誕生日まで彼女は人間だった。しかし義理の姉はそれを許さなかった。紆余曲折を経て鐶は
ホムンクルスへと変えられ、五倍速で年老うさだめを負った。そうして義姉の命じるまま各地の共同体を殲滅していくうち、「ザ・
ブレーメンタウンミュージシャンズ」という流れの共同体と出会い、戦い、仲間になった。

 それがこの年の秋口だから、すでに数か月が経過している。

 とはいえ実のところ、鐶はこの「ブレーメンの音楽隊」をもじった一団の全容を把握していない。

 そも共同体というのは一地域に根差すものだ。通常、ホムンクルスは人喰いの衝動を抑えるコトができない。といって野放図
に人間を襲っていれば「錬金の戦士」という化け物退治の専門家どもにいずれ捕捉され、殺される。故にホムンクルスは徒党を
組む。人目のつかぬところに潜み、静かに密かに人間を攫っては「食事」をする。共同体に移動があるとすればそれは錬金の
戦士にいよいよ捕捉された時だというのが姉の弁。移動は逃走手段に他ならないとは鐶に戦闘を教えたホムンクルスの弁。

 だが、常にザ・ブレーメンタウンミュージシャンズは全国を放浪している。
 常に戦士に捕捉されている……という訳でもない。むしろ放浪そのものが目的のようだ。
 鐶が耳にしたところによれば既に9年…………さまよっている。
 最初、鐶はただ単に彼らが定住先を探しているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
 共同体のいる場所へ出向き、敵を殲滅。ただそれの繰り返し。
 良さそうな土地を見つけるたび永住の予定を聞きもしたが、リーダーはフッと一笑するだけで答えない。
 たまに彼が剣術家や剣術道場を訪れ修業に励むコトもあるが、決して弟子入りや住み込みなどはせず、1週間後にはま
たブラリと別の場所へ旅立つ。
 そういう生活が既に9年。続いているらしい。

 リーダーの総角主税という金髪の美丈夫はなぜ彼らを率いて旅をしているのか?

 小札零という実況好きの少女にしたってロバ型ホムンクルスになった経緯はまだ分からない。

 鐶にとって忘れ難い鳩尾無銘という少年は心こそ人間だが姿はチワワ。
 他のホムンクルスにように人間形態にはなれないのだ。
 だからよっぽど(彼にとって)異常で迷惑な生まれ方をしたのだろうが……彼は決してそれを語らない。

 そして。

 いま鐶光の向い側にいるのは栴檀香美(ばいせんこうみ)という名の少女である。
 栴檀はふつう「せんだん」と読むが、”彼女ら”は「響きがいいから」と「ばいせん」にしている……という話を鐶は無銘から
──堅物の彼はこの表外読みをとても苦々しく思っているらしく、峻厳極まる顔だった──聞いている。

(香味焙煎と掛けている……のでしょうか?)

 鐶があまり面白くない感想を時おり抱く少女の容貌は。
 一言でいえば「遊んでいそうなギャル」だ。

 セミロングの茶髪にうぐいす色のメッシュを幾筋も入れ、シャギーも入れ、それを肩口の辺りでやたら元気よく跳ねさせて
いる。
 にもかかわらずアーモンド型の瞳はどこか気だるそうで「動くよりは寝ている方が好きじゃん」とも言いたげだ。
 というより彼女は先ほどからこっちヒーターの前でだらしなく「伸びている」。
 冬にそぐわぬ白いタンクトップはすっかり着崩れ白い腹部がはだけている。ハーフのデニムジーンズから伸びるしなやかで肉
づきのいい小麦色の足も床へ無造作に投げ出されている。
 総合すると、ひどくだらしない。ほぼ同年代の女性でもここまで違うのかと鐶は目を丸くした。姉ならばこういうだらしない
格好はしない。長いジーンズの裾がちょっと捲れるだけで慌てる。脛のわずかな露出さえ彼女は羞じるのだ。そういう奥ゆ
かしさが、「お姫様みたい」で鐶は姉──青空──に憧れたものだが……
(香美さんは昔の私みたく……活発……です
 いつしかタンクトップは腹部すれすれまで捲れ上がり、なかなか際どいところまで見えている。下着は未着用。形が保持
されているのは野性味と若さゆえか。
(円弧から計算するに……お姉ちゃんの方が……だいぶ大きい……です。やった……です)
 意味不明な優越感を覚える──まだ自分が及びもしないから、か?──鐶はともかくとして。
 栴檀香美。
 瞥見の限りではどこにでもいる行儀の悪い少女。しかし彼女には地球上の他の誰もが持っていないであろう凄まじい秘密が
ある。

 それを鐶は加入以来ずっと不思議に思っていた。
 もちろんリーダーに聞けば詳しい経緯などすぐ分かるだろうが、しかし秘密をコソコソ嗅ぎ回っているようで気が咎め、ついつい
聞けぬまま数か月が過ぎてしまっている。
 とはいえどうしても知りたいと思うのは……。

『僕”たち”を今の姿にした者と貴方は面識がある!』

 部屋には鐶と香美。少女が2人。されど少年の大きな声がどこからともなく響いている。

 謎はそれだった。

 大声は続く。

『秋口、光副長が無銘ともども戦士に追い詰められた時!』



──「……手だしは……させません」
── なっと息を呑んだのは戦士ばかりではない。無銘もまた意外な面持ちでその光景を眺めていた。
── クチバシ、だった。子供ぐらいなら丸呑みにできそうなほど巨大なそれが戦士の左上膊部に噛みついている。そのせい
──だろう。鉤爪が無銘の章印スレスレでぴたりと静止したのは。静止した物が揺れた。無銘の視界が90度傾いた。そのフレー
──ムの中で戦士が飛んだり跳ねたりを始めたが好きでそうしている訳でもないらしい。
──(これは──…)
── どうやらクチバシが左腕ごと戦士を振り回しているらしい。途中で気付いた無銘も無事とは言い難かった。彼は戦士に頭
──を掴まれている。激しい揺れに巻き込まれたのは成り行きとして当然……。世界が揺れる。傷だらけの体がガクガクと揺
──れる。無銘と戦士だけが局地的大地震に見舞われたようなありさまだった。



『クチバシだけだが確かに変形した! ”ハシビロコウ”に!!』
「はい……。ディプレス=シンカヒアさん。ディプレス=シンカヒアさんに……戦闘の手ほどきを……受けました」
『いわば師匠筋! まんざら知らぬ間柄でもないが故に!』

 なぜ彼が僕たちをこういう体にしたか知りたいのだろう! ……大声はそう叫んだ。

 鐶は頷いた。

 知り合いが、知り合いを害した。

 双方の人格を知っている以上、両者の敵対した経緯はひどく関心を引く。

 そういう意味では鳩尾無銘誕生の秘密も同じではあるが、こと無銘と話す時は非常な気恥しさが全身を駆け巡りしどろもどろで
上手く話せない鐶なのだ。でもそういう自分を少しでも変えたい鐶だし、香美”たち”だって仲間として大事に思っている。過去を知
りたいという気持ちの強さは相手が無銘でも香美たちでも変わらない。

「それに……人格が………共存しているのも……不思議です」

 大体のホムンクルスは動植物の細胞から作った「幼体」を人間に投与して誕生する。
 だからそういう意味では香美も普通の「ネコ型ホムンクルス」なのだが、その範疇に収まらない秘密がある。

 香美の後頭部にはもう一つの「顔」がある。

 それが飼い主──栴檀貴信──の物と知った時、鐶はいささか驚いた。
 つまり彼と彼女は──…

 2人で1つの体を共有している!!

 だがこれはホムンクルスの原理的にありえない状態。

 鐶をホムンクルスに改造した姉──玉城青空。別名リバース=イングラム──は言った。

「いい? 光ちゃん。ホムンクルスを作るには幼体を人間へ投与すればいい訳なんだけど……ふふっ。そうするとね。幼体
の基盤になった動植物が人間の精神を喰い殺しちゃうの」

 にも関わらず、貴信と香美は見事に共生している。
 それはとても特異で異常なコトだった。

 姉の調整と尽力で「ホムンクルスになりながら元の人格を保持している」鐶にしたって、基盤となったニワトリの精神は
脳裏のどこにも残っていない。香美のように声を上げ、鐶と掛け合いをする。そんなコトは一度たりとてなかった。

「つかきゅーびまで行く必要ないじゃん。あいつイヌじゃん。チワワじゃん」
 卓袱台の向こう側で「まるで一人問答」をやってる活発な少女に鐶は内心うんうんと頷いた。
「無銘くんは居て欲しい……です。耳を……はむはむしたい……です」
『さっきから副長はいちいちズレてると思うが!』
「あ、ムカデ食べた口じゃ……危ない……です。歯磨きしないと……」
『…………ええと。……なんだっけ? ああそうだ副長!? 僕たちの体の秘密が知りたいと!?』
「え、ええ」
 香美の後頭部から響く大声にやや気押されながら──この場にお姉ちゃんがいなくて良かった。いたらきっとキレて暴れ
ていたに違いない。『大声で喋れる』 そんな者が大嫌いだから──と思いながら、鐶光はコクコクと頷いた。
「あまり……触れちゃいけない…………話題でしょうか……? 私の五倍速の……老化の……ように」
 問いを投げかける鐶自身、広言憚る体質と経歴の持ち主である。彼女は義理の姉の暴走によって

『数多くの鳥や人間に変形できる代わり、五倍速で年老う体』

になった。現在こそすっかり虚ろな瞳で途切れ途切れにしか話せぬが、人間だった頃は双眸に光溢れる活発な伊予弁少女
として父母の愛を一身に受けていた。
 変わる、というのはそういう事である。現在が傍目から見てどんなに異常であっても、そうなる前はかけ離れた、真っ当な姿
だった筈なのである。それを歪めるような災厄が降りかかったから貴信と香美は1つの体になってしまったのではないか?
 鐶は熟知している。災厄は語るに恐ろしい。
 赤い黒目と黒い白目で哄笑を上げる姉ほど恐ろしい存在はいなかった。
「だから…………言いたくない……事でしたら……いい、です。聞きません……」
「んー、でもさでもさ、光ふくちょーはいった訳じゃん? じゃああたしらだけ隠すのってよくないじゃん。ね? ご主人」
 湿っぽい鐶とは対照的に香美の口調は意外にカラっとしている。性分もあるだろうが実は「よく覚えていない」からあっけら
かんとしていられる……鐶がそう知ったのは彼らの経緯を聞かされた後である。
 後頭部からしばし逡巡の唸りが上がり、やがて決断の叫びへ変化した。



『聞きっぱなしというのも道義に悖る! 話そう! 当事者は4人! 内2人は僕と香美だ!』





 当事者 1

 二茹極(にじょきょく)貴信は回想する。
 もしあの日雨が降っていなければ、自分はもっと違う運命を辿っていただろう。

……と。

 中学2年のころ母親と死別した二茹極貴信は内に熱さを秘めた気弱な青年へと成長した。父の影響かも知れない。父と
きたら40の半ばを過ぎてなおヒラだった。フィリピンの企業相手に液晶の売り上げをグングン伸ばす部長、とっくに役職2
つ分は上に行った同期、入社して間もないが「使いやすい」先輩を嗅ぎわけるに長けた女子社員。彼らに頤使(いし)され
ても文句一ついえず「はい、はいっ」と甲高い声で応じあくせくと走りまわる。それが貴信の父だった。

 そんな彼にも誇れる物が2つあった。

 1つは名字である。
 二茹極。
 このひどく変わった名字は生来のものではない。妻の物である。「山田じゃ本当冴えないでしょ? あたしの名字あげるっ!」
という(仕事にきりきり舞いする度助けてくれた元後輩からの)プロポーズを機に獲得した。
 もう1つはこの平凡な男らしく「家庭」である。
 妻1人子1人というまったく平凡な家庭あらばこそ、彼はヒラの頤使に耐えられたといえよう。
 そして彼が勤務していたのは液晶メーカーだが、生産の遅延や手直しといった緊急事態で人手が必要にならば真っ先に
現場応援を志願し、不眠不休で──熟練工よりは劣るが、「同じ会社の人が困っている時に止まっていられるか!」、事務
畑の人間にしては恐るべき熱意で──状況打開に臨む程度の気概はあった。

 困難から逃げるな。
 常に男らしくあれ。

 父の教えを貴信は心に深く刻んだ。

 そんな父も二茹極貴信が高校2年になる頃死んだ。膵臓ガンだった。「ははは今年もヒラで終わったのねー。はいはい泣
かない泣かないっ!」。大晦日の夜に笑って肩をバンバン叩いてくれる妻が死んで以来、彼は目に見えて老けこんだ。さす
がに心配する貴信が精密検査を薦めたのが高校1年の夏休み。だが父は「だだだ大丈夫だっ! そんな事より勉強する
んだ! 最初が大事だ! 再来年は受験だろう!」と甲高い声を震わせた。その時の黄ばんだ顔を思い返すたび貴信は
思う。病状を悟っていた、と。
 父は8ヶ月後入院。「例え1年前に来ていても今頃死んでいた」。医者がそう唸るほど手の施しようがなく……半月も経た
ず息を引き取った。

 残された貴信。悩んだ末、一人暮らしを決意した。
 身寄りはほぼいないに等しかったが(父方の祖父母は死去。母方の祖母と曾祖母は九州で元気よく暮らしていた)、授業
料や生活費の心配もなかった。父の遺産。仮に卒業後の大学生活でバイトもせず遊び呆けて2年留年したとしてなお何とか
なるだけの莫大な貯金。それを見るたび──病苦に耐え、社内で低い扱いを受けながらも必死に貯めたであろう父の姿を
描くたび──貴信は父譲りの目(レモン型)に涙を浮かべ、学業専念への思いを強めた。

 とはいえ高校生活。馴染み辛い部分も多々あった。


【父譲りの気弱さは人見知りへ転化する!】


 話しかけれらてもどう踏み込めばいいか分からない。あまりズカズカ踏み込んでいくのは失礼だろうし、思わぬ逆鱗にふ
れ怒られるのは恐ろしい。かといって黙りこくるのは無礼だ。答えたい。だが何をいえばいい? 
.(豆知識! 豆知識はどうだ! 結局トモダチ一人もできなかった中学時代の昼休み、足しげく通った図書室で得た豆知識!
あれを披露すれば話のタネになるかも知れないぞ! というか僕はそのために豆知識を得たんだ! だ、だだだがそういえ
ば中学3年の時それやって「ふ、ふぅ〜ん」と会話が途切れたのは何度だっけなあ! マズいっ、ヤバい! 豆知識披露云々
で構築できるほど人間関係は甘くないのか! でもこの人の言ってること、アイドル? Cougar? その人のことはよく分か
らないから上手く返せない! それを伝えて「ふぅ〜ん」で会話が途切れたら気まずい! どうすれば!)

迷いが募り、気が焦る。

 遺伝のカテゴライズを肉体精神の2つとすれば、それらはどうも片方への配慮ありきで成立しないようだ。いうなれば各個
ばらばらアトランダム、あちらがああだからこうしよう。そういう調整感情がない。精神は精神の理由のみで遺伝し肉体状態
を鑑みない。肉体の方もまた然り。
 女だてらに鎖分銅を嗜みサバゲを趣味とする(夢中になりすぎて崖から落ちて死んだ)母。
 彼女からの遺伝ほど、次の言葉ほど、貴信をますます追い詰めたものはない。


「いい貴信? 考える事はいいけど、それだけじゃ駄目。テンションを上げて行動するのも大事よッッッ!!」


「大声……ですか。それがお母さん譲りの……私でいう……伊予弁、みたいな」
『そうだ!! 僕は人と話す時はテンションを上げる!! 上げなければどうにもならないからなッ!!』
「はぁ……」
 部屋に響く激しい息使いをぼんやりと聞き流す。貴信の大声などとっくに聞きなれた鐶だ。元々活発な性格でもある。さ
ほど気にはならないが──…

(お姉ちゃんのような……性格の人……にとっては……)

 気弱な癖に声だけは大きい。精神と肉体の遺伝乖離。

 そんな彼を面白がる者こそいれ、親密な交際対象に設定する者はいなかった。

「一緒にいると疲れる」

 それが周囲の貴信に対する率直な評価だった。
 つまり彼は変な人で、やり辛い。特に会話が面白い訳でもない。
 顔も異相だ。レモン目に鉤鼻。良く見ると髪型だけは流行のものだがそれで誤魔化せないほど10代にしては老けた顔。
 善良だが心身ともある種強烈。時に的外れな豆知識を披露するだけ。
 そんな男が、である。果たして交友範囲の中核を成せるだろうか?

 貴信も最初の頃は自分なりに自分を変えてみようと努力した。
 ジョークをいい、自分を晒し、進級を期にいわゆる「明るい人」にならんと気を張ってみた。

 だが、気を張れば張るほど声がでかくなり、周囲をますますうるさがらせた。
 その反応が実は繊細な貴信の心を傷つけ、段々段々と「自分を変える」努力が嫌になっていく。
 そうなるともう悪循環。
 気のいい若者たちが何かのイベントに貴信を誘うとする。
 本当は行きたくて仕方ない貴信だが、何をやっても上手くいかない状態。
 彼は暗澹たる気分で未来予想図を描いた。
 自分は「浮いている」。だから行かない。合コンだろうと歓迎会だろうと季節外れのキャンプだろうと焼き肉屋での会合だ
ろうと。人混みから外れた場所でぽつりと佇み、全体的な笑いが巻き起これば声量控え目の追従笑いを密かに交える。
 それ位しかできそうにないし、後で怯える事だって予期していた。

「なんでアイツ居たんだ?」。

 陰口を囁かれるのではないか、と。
 むろん人間というのは言うほど悪辣ではない。異分子とて極度の害悪をもたらさなければ「そういう人」だという認識の下
少なくても迫害じみた接触はしない。それが薄皮一枚の向こうにある「打ち解けてない」感触を孕んでいるにしろ、悪感情や
譴咎(けんきゅう)の証明にはならない。
 冷静な見方をすれば誘いに乗り、若者らしいイベントを楽しみ、少しずつでも心を開いていけば孤独は解消されるもので
あろう。
(でも…………性格は……余程の事をしないと……例えば毎日毎日サブマシンガンで……全身に穴を開けたり……ステー
キのお皿を頭に投げつけたり……しないと……変わりません。…………そして戻すのにすごく苦労して……傷ついて……
明るい人を見るたび……私は……ダメなんだ……ってしゅんとします……。お姉ちゃんの…………あほ)

 一辺倒なやり方、教本通りの矯正で性格が治るのなら苦労はしない。
 誰にも話しかけず、踏みこまぬ方が楽といえば楽なのだ。勇気を振り絞った結果が改善に結びつかぬは絶望……。

 とにかく話しかけてくる者は減る一方。
 
(が、学業に専念するんだ。泣くな貴信。トモダチが皆無なのは昔からじゃないか……!!)

 でも恋人は欲しいし寂しい事にも変わりはない。

 心持ち薄暗く見える学生食堂の片隅でぽつねんと食事を取りながら窓を見る。

 小雨が降っていた。緑の弾丸型のコノテガシワにぐるりと囲まれた運動場は重苦しく湿気を孕み、ところどころに銀と輝く薄
い水溜りさえできている。バラバラ。豆をこぼしたような音。それが貴信の耳を垂直にブッ叩く。どよめき。雨具を持っていな
いという悲嘆、午後のマラソン中止が確定した歓喜。ささやかな滝がガラスの表面で何万粒もの水滴に粉砕される。目撃。
貴信は煮魚をゆっくりと呑みこんだ。雨が強まっている。やむ気配はない。雨具の持ちあわせも、ない。折り畳み傘なら一本
持っていたがクライメイト(もう名前も忘れた。最近来ていない)に貸したきり。友情の始まりを仄かに期待したのに……。名
称孤食の水っぽくも塩辛いソース付きサワラの切り身が食道内部を滑り落ちる。拡がる水溜りはもう黄土色。
 ガラスの向こうに広がる空は陰鬱なまでに蒼黒い。

 季節は、梅雨だった。




 当事者 2

「貴信さんと会ったのは……どんな時……ですか?」

 なんかさなんかさ。さっきさ。最初はあったかかった訳よ。もさもさしたいい匂いがデンとそこにあってさ、んで周りでみゅー
みゅー変な声あがってててさ、それとおしあいへしあいしながらいい匂いにしゃぶりついてたじゃん。あたし! よーわからん
けどコリコリするいい匂いにしゃぶりつくとおいしいもんでてきてお腹いっぱいになってとろーんとした気分になって、んでぐー
すか寝れる訳よ。時々あったかいのがあたしの体じとじとと這いまわってさ、よくわからんけど気持ち良かった訳よ。

(あ……。赤ちゃんの頃の話……です。兄弟たちとお母さんのおっぱい吸ったり……舐めて貰ったり……) 

 でもなんか急にせまくて暗い場所にとじこめられたじゃんあたしら? あ、あたしらっつーのはさ、回りでみゅーみゅーやって
る奴らでさ! んー。そうじゃん、アレあたしのきょうだいじゃん! でもデカくてあったかくていー匂いのアレ! アレなんつーん
だっけ。なんだっけ。えーと。えーと。ちょい待ち。思い出すじゃん。んむ゛む゛む゛む゛む゛む゛…………? があ! よー分からん!
よーわからんけどさ、そっちはおらんくなったじゃん! 

(お母さんと引き離されて……兄弟たちと段ボールに入れられて……捨てられた……よう、です)

 でさ、でさ、寒いわけよ。鳴けばデカくてあったかいの来るかと思ったけど全然そんな気配ないしさ、周りはだんだん静かに
なってくし、静かになると寒いわけよ! ヘンな臭いだってしたし! そのうち上から冷たいのがくるし下だってびしゃびしゃだし
とにかく寒いわけよ。お腹もへってたけどさ、寒いのは本当ダメじゃん。そしたらもうあたししか鳴いてないわけじゃん。どー
したろーかと思いながらまあ鳴くしかできない訳でさ? デカいのきたら寒くないって鳴いてたワケよ。

(段ボールごと道路……? とにかくどこかに捨てられた……ようです。そして……兄弟さん達が……死んで……雨が降って
きて……大ピンチ……だったようです)

 あたしがご主人とあったのはさっきじゃん。あぁと……そう、そうじゃん! 寒くてびしゃびしゃで鳴いてる時!




 当事者 1

 学校前のコンビニで肩を落とす。購買でも痛感したが、やはり誰しも考える事は同じ。傘はもう総て売り切れだ。自動ドアを
モーゼのごとく分割し外に出る。雨は絶賛継続中。今年の最高雨量に迫る勢いだ。ため息交じりに黒くて薄い鞄を頭上に
掲げたのは走るためだが、しかしすぐやめた。走ったとしても自宅までは20分ほどかかるだろう。自転車通学の弊害をひ
しひしと感じる。おお馬力なき安価なる2輪車、それで土砂降りの中へ躍り込むのは自ら課す死刑執行に等しい。今日は
休みだ自転車。置き場で待ってろ自転車。考えをめぐらす。バスは? そもそも自宅近くにまで通っていれば自転車通学を
選択しない。タクシー。持ちあわせは2千円弱。本来これで週末まで過ごす予定だった。使いたくはない。コンビニにあるA
TMからポンと資金を引き出せば乗れるだろうが、父の苦労を考えるとできない。

「ここでタクシーを呼ぶのは簡単だ! だが安易な手段でもある! 安易な手段にばかり頼るようになれば男としてはお仕舞い
だし何より浪費癖が染みつく! いいやいいやの積み重ねでお父さんの遺産を食いつぶすんだ! 考えろ! 僕という奴
には無限のエネルギーがあるっ! それを使えばタクシーなど頼らず雨を凌げる!」

 揃えた人差し指と中指で空をナナメに切る。たまたま店にやってきた一塊のクラスメイトが訝しげに貴信を見た。やって
しまった。絶対ヘンな人だと思われている。叫ぶ前に来てくれたら傘借りれたかも知れないのに……。

(僕は、アホだ!!)

 まずは自力でどうにかしよう……半泣きで頭抱える貴信の視界の右端、数百メートルほど先に白い建造物が目に入った。
 コンビニの右隣は空き地が続いているため──かつてそこには巨大な学生寮があった。だが去年の秋ごろ何者かによっ
て解体された。一晩明けたらそこは瓦礫の山で入居者全員はいまだ行方不明。家族に配慮し再発を危惧し、事件解決ま
で寮再建の目途は立っていない、という話を貴信は思い出した──視界が開けている。緩やかなカーブを描く道の遥か先
にある”白い建造物”が見えたのは謎の寮解体のおかげだろう。
 特殊な形だ。”それ”は雨粒にけぶりつつ歩道から数メートル上空に浮かんでいる。手前から奥に向かって真っ白な柱が
等間隔に並び、どうやらそれで支えられているようだ。
 アーケード。さらに目を凝らすと「○○商店街」という看板もついている。赤と青の文字が交互に踊っているのはいかにも昭和
から平成初期にできたというレトロな雰囲気だ。貴信はあまりそこへ行った事がない。家とは反対方向だからだ。
 ただしアーケードは非常に魅力的だった。雨は激しい。濃紺の駐車場は全面絶え間なき白い破裂に見舞われ、その飛沫
が制服のズボンをずっくりと濡らしていく。コンビニのすぐ前、ゴミ箱の横にいても水気ときたらお構いなしにやってくる。
 そんな状況における「雨のない場所」は魅力的だ。
 商店街というのもいい。傘の1本カッパの1つぐらい売ってる店もあるだろう。
(いずれも安価な耐久消費財だ。手持ちで買える。長く使うのを前提にすれば父の遺産を浪費した事にはならない)

 二茹極(にじょきょく)貴信は回想する。
 もしあの日雨が降っていなければ、自分はもっと違う運命を辿っていただろう。

……と。



 そして彼は。

 アーケードに入った。



『冷たい北風 2人を近付ける季節』

 季節外れの歌が、流れている。

『絶好調 真冬の恋 スピードに乗って』

 歩く。5分。10分。傘のある店はまだ見つからない。

『勇気と愛が世界を救う 絶対いつか出会えるはずなの』

(ははっ! 誰だっけかなこの歌手さん! いずれにしろ季節外れだ! 選曲担当の趣味なのか!!)

 本屋、CDショップ……店を覗きこむたび落胆を繰り返す。


 更に歩くこと10分。


「ありがとうございますー」

 人懐っこい老婆の声を浴びながら雑貨屋を出る。ようやく手に入れた傘。それを見ながら吐息をつく。

(結局商店街の端まできたな……!)

 厳密にいえば端から2軒目という感じだ。雑貨屋の隣にはこじんまりとしたコインランドリーがある。貴信に恩恵と季節外れ
の歌をたっぷり与えたアーケードはちょうどコインランドリーの前辺りで途切れ、商店街の終焉を示している。

「さ、帰ろ──…」


「みゅー、みゅー」


 小さな声だった。いまだ降り続く雨の激しい音にかき消されそうな音。
 むしろ耳に届いたのが不思議に思えるほどの小さな声。

 何故貴信がその声を聴き取れたかは分からない。ただ声を聞いた瞬間思った。

 ネコが居て、助けを求めている。

(事情は分からないが!!)

 父譲りのレモン型の瞳で辺りを数度ギョロリと睨めつける。

(助けなくては男じゃないぞ!!)

音の出所はすぐ分かった。

(雑貨屋とコインランドリーの間!)

 人一人がやっと通れそうな通路。声はその奥から響いていた。




「で、進んで行ったら段ボールがあって開けたら香美が居た! という訳だ!!」




「……他の兄弟たちは駄目か! だが君だけは助けてみせるぞ! 声を聞いたのは何かの縁だ!!」

 段ボールに手を突っ込む。両手で掬いあげた子猫はまだ生後間もない。目も開かず耳も立たず、まるでネズミか何かのようだ。
 恐るべき冷たさが掌に拡がり、貴信は顔をしかめた。息が浅い。抵抗する気配さえない。
 もたもたしていれば命を失う。誰の目から見ても明らかだった。

(獣医さんに運ぶのが最良か! ……ははっ! 結局タクシー呼ぶ羽目になったな!! まあいい!! こういう支出なら)

 父も許してくれるだろう。

 雑貨屋に駆け込む。事情を話しタクシーを呼ぶために。店の老婆──年齢のせいですぐ隣からの鳴き声を聞き逃していた
のだろう──が出してくれたタオルで全身を丹念にぬぐう。カイロを買い、布越しに当ててやる。
「お客さん、このネコちゃん飼うんですか?」

165 名前: ◆C.B5VSJlKU [sage] 投稿日:2012/12/25(火) 21:08:23.84 ID:8e7C6IYl0 [6/7]
 老婆が間延びした声で聴く。しまった。貴信は思う。そこまでは考えていなかった。だからといって獣医で健康になったから
と放逐するのはあまりにあまりだろう。
 そもそも。
 貴信はそろそろ一人暮らしと一人ぼっちが辛くなってきていた。
 家族も、友人も、恋人も。
 親密な者はだれ一人としていなかった。


「だから……香美さんと……暮らそうと……」


 貴信は頷いた。
 


「そうだ! 名前をつけてやろう!」





 当事者 2

(よーわからんけどうるさい……でも…………)



 当事者 1

「このアーケードから流れる季節外れの歌!! その歌い手さんにちなんで!!」


「『香美』、というのはどうだア!!」




 当事者 2

(よーわからんけど……あったかい)

 ごつごつした掌にくるまれながら、そう思った。





 当事者 4

 様々なコトから逃げ続け。
 泥まみれの姿でたどり着いたのは。

 手狭な診察室だった。

 2つの椅子の横にがっしりとした灰色の机があった。机上にはカルテやレントゲン写真を貼る器具があった。
 名前を知りたい気もしたが憂鬱な気分なのでどうでもいい。

 今自分は人生最悪最低の憂鬱を味わっている。今は亡き上司や同僚にすがりたい気分だった。

「へえー。やっぱり死にたいっていいますの?」
 向かいに座った女医が聞き返す。ひどく冷たいキツネ目はからかいと興味深さを湛え自分を見ている。見ているだけだ。
自殺やめるといえば「ああそうですの」と突き放すだろう。幇助を頼めばあっけなく叶えるだろう。それがよく分かった。
 まったく、医者にあるまじき姿態だ。
 なのにそれを倫理的局地から責める気概が、自分にはまるでなかった。
 結局この診療室にいるんは似たり寄ったり、落伍者ばかりらしく、だから思う心から。

(ああ、憂鬱だ)

「ま、死にたいっていうなら構いませんわよ?」
 膝がさすられる。銅に似た見事な巻髪が腰のすぐ傍で揺れている。いつしか胸元に滑り込んだ女医はひどく好色な笑みを
浮かべている。
「生き死にの権利は表裏一体。寝るか起きてるか決めるぐらい自然な選択肢ですもの。何があっても生きろなんてのはナン
センス。眠たい人に寝るなというようなもの……」
 そして「生きろ」と熱噴く者に限ってその手助けはしたりしない。言いっぱなし。医者がごとき体系だった知識提供もしなけ
れば無知なりの誠心誠意の手助けもしない──…世の中そんな人ばかりですのよ。女医の言葉に頷きたい思いだった。
「一応カウンセリングはしましたけど確認しましょうか?」
 膝で蠢くしなやかな手。それが一旦止まる。確認と挑発を込めた笑みが眼下で汚らしく花開く。
「あなたはマラソンを一生懸命練習したのに沿道からの闖入者(ちんにゅうしゃ)に妨害され、やる気をなくした」
 手が大腿部へ移る。さすり方も徐々に露骨になってくる。目指す場所は明白だった。
「そして考えるようになった。何をやっても真っ当に積み上げても理不尽な横槍で崩されて……無駄になるんじゃあないかって」
 甘い息が鼻に降りかかる。上気した顔はすでに涎を幾筋も垂らしている。自分の太ももの付け根を彼女が物欲しそうに見る。
妖しげに輝く白い手がもどかしげにのたうっている。
「強引に握って結構ですわよ……? 握って、導いて、しごかせて下さらない……? チャック開けろっていうなら口で咥えて
でも開けて差し上げますわよ……?」
 甘ったるい声が震えている。ねだるような淫らな声が狭い診察室に木霊する。女医の目線がときおり薄汚いベッドに行くの
が分かった。
「ねェ、セックスしちゃいましょう」
「はい?」
「大丈夫。憂鬱なんてのは腰振って生暖かい襞かき回せば吹っ飛びますわよ。だって出す時何もかも脳内で弾けちゃいま
すもん。特にワタクシの襞は鮮烈よん。出なくなってなお突きまくりたい位……ふふっ」
 白衣が床に脱ぎ捨てられた。同時に自分の手が知覚したのは柔らかく大きな膨らみだ。紫のシャツ越しとはいえ、女医が
手を取り胸を触らせている。もう準備は万端という訳だ。タイトスカートから覗くとても肉感的な大腿がもどかしげに擦り合わ
されている。甘く淫らな匂いさえ立ち上ってきそうで。
 ああ、憂鬱だ。
 それから逃れられるなら何をしても構わなかった。
 深く息を吸い、そして──…

 

 あらゆる物が、弾けた。



 グレイズィング=メディックは床の上で激しく息をついた。
 仲間内では好色と名高い彼女だが、その長きに亘る闇医者歴(それはいよいよ大っぴらに色欲を貪り出した期間とも一致
する)でもなかなか 味わった事のない感覚だった。

 横たえる肢体の中で甘く激しい、それでいて予想外の疼痛が渦を巻くので──…
 頬を抑える。
 灼熱の痛みを帯びるそこを。

 突如ぶたれた右頬を。

「わあああああん! 嫌だあああああ〜、セックスはイーヤーだあああ〜」
 視線を移す。自分を殴った男がイスの前にしゃがみ込み、わんわん泣いている。年の頃はとっくに30を超えている。いわ
ゆる大の男だ。170cmもある背丈の上に据え付けられた顔に至っては「いかにも精悍」、やや酒食に焼けたるんではいる
が元マラソンランナーらしい克己に引き締まっている。
 それが、である。涙と鼻水でグシャグシャになっている。しかも視線に気付いた彼ときたらお化けを見た童子よろしく悲鳴を
上げるから分からない。やがて彼の顔は体育ずわりの膝に没し、子供特有の遠慮斟酌なき巨大な嗚咽を奏で始めた。両手
はすでに頭を守るよう添えられている。
「オイラ、オイラ、分かってるもん。セックスしたら後でお金とかいっぱい要求するに決まってるし、仮にそうじゃなくても子供
ができたらすんごい莫大な養育費とか必要だし。あ! あと病気! 病気もあった!」
「あの、もし?」
「きっとそうだ、きっとそうだよ……! あの女医さんは頭おかしいからきっとすごい病気持ってる。だからセックスしたら……
わーっ!! きっとオイラは未知の病気にかかって高熱出して黄色い粘膜吐きまくった挙句全身穴だらけになって血を噴き
ながら死んでゆくんだあ〜!」
「落ち着いて。まずはワタクシの話を……」
「で地表に沁み込んだオイラの体液がミミズを怪物さんにして街の人たちが喰い殺されてその人たちがゾンビになるんだ!
ど、どうしよう女医さん! セックスしたら大変な結果になるよぉ!!」
「なる訳なくてよこのアホ!!」
 取りあえずプレーンパンパスで頭を踏みつけてやる。思いっきりだ。どうせケガをしても治せる。そういう思いがグレイズィン
グの右足に破砕粗大ゴミ処理用プレス機顔負けの力を与えた。床にヒビが入り、嫌な音がした。患者の頭はスイカの如く爆
裂した。血しぶきが部屋のあちこちに飛び散る。手術室でやればよかったという後悔がチョットだけ過った。

「だーれが病気持ちですって! 失敬な!! こちとらアフターサービスに定評のあるグレイズィングさんでしてよ!」
「ご、ごめんなさい」
 とりあえず頭部を修復してやった男は部屋の隅でガタガタ震えている。
「だ、だよね。うん。女医さんなんだから病気持ちの人とセックスする訳──…」
「いーえ! 病気持ちともしますわよワタクシ!」
 グレイズィングは胸に手を当て鼻を鳴らす。美しい顔は気品ある誇りに満ちまるで慈母のような優しささえ帯びていた。
「病気だから出来ない、もしくは非っ社交的で二次元しか愛でる事が出来ないまたはインポテンツ! そーいう殿方だからっ
てお断りするのはワタクシのポリシーに反しましてよ! ワタクシに劣情を催して下さるのならオーケー! だから病気持ち
ともしますの!」
「やっぱり病気持ちじゃあ」
「ダイジョーブ。今のあなたの頭同様、ハズオブラブで治しますもん。病気持ちと一晩やりたくった後は必ず血液検査とか虫
の有無とかなんかこうカビっぽい奴探したり織物チェックしますの。舌にコケ生えてないかとかも。で、必要に応じて治したり
治さなかったり。でも別の殿方とヤる時はちゃんと治しますからご心配なく♪ 仮に病気になっても大丈夫。エイズの末期状
態から健康体へ復帰させた事だってありますわよ」
「…………」
 あっけにとられる男の顔に優越感が増す思いだった。
「んふっ。性病の苦しみもまた慣れればまた格別ですもの……。ああ、きったない織物の匂い、快美を伴うお口の熱い痒み。
どこの口? うふ、分かってる癖に。そういえば子宮口にできた5cmばかりの赤黒い瘤を素手で引き抜いた時は最高でし
たわ。電球突っ込んで思いっきり蹴りブチ込んで頂いた時をも凌ぐ激痛アーンド快美に眉根しかめて甘え泣きましたもの……。
あ、赤黒い瘤見ます? 絶頂のワタクシの顔写真付きでホルマリン漬けしてありますけど」

 ああ、憂鬱だ。おかしな女医に引っかかった。
「ところでどうしてワタクシのあまーい誘いを拒みましたの?」
 殴ったのは衝動的だったが、むしろ彼女はそれでますます自分への興味を高めたらしい。
「ゆ、憂鬱なんだ。オイラ」
「といいますと?」
「何をやっても上手くいく訳がない、誰かがいい話持って来てもウラがあって結局利用されるだけで全部駄目になるんじゃ
ないかって……オイラは憂鬱なんだ…………」
「ふ、ふふふ。流石ですわね。憂鬱極まるあまり碌に仕事へ全力投球できず転職とクビを繰り返した社会不適合さんは」
「……」
「まあいいでしょう。じゃあカウンセリングの続き。反復して差し上げますわ。妨害がトラウマになってマラソンができなくなっ
たアナタは……えーと確か、練習してても沿道から妨害くるんじゃないかってビクついて! 息と集中を保てなくなったもん
だから逃げ込むように一般社会行った訳ですわね?」
「うん」
「でも何やったって妨害されるんじゃないかって恐怖のせいで仕事に全力を出せず、いつも最後はおよび腰。ここぞという
所で勝利を逃し続けた。そして失敗を恐れ、自分にできるコトだけをより好み、他の仕事を拒み続けた」
「…………そうだよ」
「だけれどそんな精神状態ですから? 自分にできると思ったコトさえうまくいかない」
 グレイズィングはクスリと笑い真赤な舌を突き出した。
「そして周囲から責められるたび思った訳ですね。『貴様たちに何が分かる。この俺の憂鬱の原因も取り除かず否定ばかり繰
り返して』。そしてますます苛立ちと被害妄想を高めた。この社会全部、実は自分の敵なんじゃあないかって」
 それが爆発したのが2週間前……と女医はケタケタ笑い始めた。
「……」
「カワイソーに。アナタ思うところの”口うるさいだけで何も提供しない上司と同僚”合計2名。帰り道で撥ねて、家に連れ込んで」
 女医の指が何かを弾いた。新聞紙の切り抜きだ。空間を切り揉む灰色はやがて膝の上へ上り、こんな文字を躍らせた。

「○○公園で切断された頭部を発見」

「今度は右腕を発見。△日発見の頭部とは別人か」

「△日発見のバラバラ死体の身元判明」

「なぜこんな事に……。被害者の妻が涙で語る心境」
──殺害された□□さんはこの春係長に昇格したばかりだった。来月には三女が生まれる予定で……

「同一犯か? ◇日発見の右腕は□□さんの上司」

 引き攣るような笑いが女医の顔に広がった。

「勝手ですわね。人殺しておいて自分も死にたい? どこで聴いたか存じませんけど、ワタクシが闇医者で楽に殺してくれる
からここに来た? ふふっ。殺された方たちの遺族はヘド吐きつつ思いますわよ。『死ぬなら一人で死ね。いちいち人を巻
き込むな』って」
「いわないでちょーだい……オイラは怖いんだ。あれは衝動的で正当防衛だったんだ。部長は毎日毎日お説教ばかり。なの
にあの同僚だけはトントン拍子に出世していく。結婚だってしたし貯金も沢山ある。誰にだって好かれている彼を見るたびオイ
ラは駄目な奴だって劣等感が増した。怖かった。いつか部長が「お前は本当にダメな奴だ」ってクビにしてくるのが。それが
怖くて自分から退職申し込んだのに『逃げるな』って凄まれた。怖かった。だからやった」
「バラバラにしたのは蘇ってくるのが怖かっただけ……んっふっふ。よくある、臆病で、つまらない理由ですわね」
「でもこんなオイラだから始末まではできなかった! 今度は警察が来る! 捕まったら女医さんの言う通り遺族の人達が
責めてくる! 憂鬱だあ! もう本当に社会全体がオイラの敵になるのが見えてるんだよオオオオオオオ!」
「だから死にたい? まあ解りますけど。でも」
「でも?
「本当に上司と同僚殺っちゃったのは正当防衛かしらん? 本当はアナタ、自分の無念だの恨み辛みを晴らしたかっただ
けじゃなくてん? そう──…」
 女医の目が煌いた。好色の抜けた目だった。ガン患者に余命を告げる医者が見せる「測定結果をただ伝える」そういう
目だった。
「真っ当に積み重ねても理不尽な横槍で総てフイにされる。解体され崩れ落ちる。そういう厳然たる無情の事実。それをう
るさいばかりでアナタの抱えた問題、欠如、トラウマの一切合財何ら解決する気のない連中に……思い知らせてやりたかっ
たんじゃなくてん?」
「…………」
「図星のようねん。でも一般論だけいうなら自分の欠如ぐらい自分で治して立ち直るのが男ってもんじゃなくて? アナタの
はただの甘えで八つ当たり……っと睨まないで下さる? ワタクシ否定はしてませんわよ。一般論述べてるだけ」
「…………」
「別に死にたいっていうなら止めはしませんわよ? でも一般論が横行してる世間はアナタをどう見るかしらん? 頑張って
たのに理不尽な欠如を与えられ、真っ当な生き方ができなくなったアナタ。そして真っ当なだけで具体的解決案にも欠如の
穴埋めにもならない馬鹿げた感情まみれの一般論ばかりぶつけられ疲弊したアナタ。世間はただ落伍者と見るでしょうねん」
「…………」
「一般論の産み手なんてそんなものですわよ。薄皮一枚の下で進行してる病気は見逃す癖に、いざそれが取り返しのつか
ない事を起こしたら熱噴いてふためいて、病気そのもの”だけ”悪とみなす。んふ。発症と進行を見逃した自分の不手際は
反省しませんの。軽い段階でさっと気付いて身を削って対処すれば大事にならないっていうのに、生活がどうの事情がどう
のと楽で楽しいコトばかり傾注し、結果見逃しますの。んで治せない医者に怒鳴りますの。時には医者が不眠不休で築き
上げた努力の結果さえブチ壊す」
 女医は透き通るような、それでいてわずかばかり悲しみの籠った笑みを浮かべた。
「ふふ。アナタの気持ち、実はよく分かりましてよ?」
「…………」
「だから自殺も止めませんわ。積み重ねた物がお馬鹿さんたちのせいで理不尽に奪われる。それはとても辛い事ですもの。
いっそ死を選んで『お馬鹿さんたちの犠牲者』として被害者側の死を選ぶのは……現状このままの世界を心から愛している
なら十分アリの選択肢」
 青酸カリよ、女医は事も無げに小瓶を投げてきた。受取り、見る。中身を飲み干せば確実に死ねるだろう。
「でも真実が明るみに出た後、アナタの同僚は反省するかしらん? 身を削ってでもアナタの欠如を突き止めて治せば良か
った……とか。まあアナタの事情なんてのはお構いなし。まるで殺人者が生まれた瞬間から殺人者たるべく成長してきたよ
うに見据えて、その裏にある悲しみとか憤り、やるせなさなんてのは考えない。単純に悪とレッテル貼るだけ。うまくいけば自
分がそれを癒せて、殺人を防げたかもとかは反省しない。ただ落伍者として。殺人者として」

 アナタを決め付け、いつか忘れ去るだけですわよ?

 女医の言葉に、激しい欲求が生まれる。
 セックスよりも酒よりもバクチよりも、激しい、根源的な欲求だ。
 スタートラインの昂揚。
 かつて自分がまだ、真っ当に「積み上げていた」頃、規約と観測に自分を晒しどこまでやれるか試そうと張り切っていた時の。
 懐かしい心情が胸を貫いた。

 ああ、憂鬱だ。

 自分の価値は確固たる論理凝集の規約と観測によってのみ弾きだせば良かったのだ。
 にも関わらずどうしてあやふやで感情的で場当たり的な「一般人」どもの評価において葬られねばならぬのだ?
 そんな物に縋っていた今までが、急に馬鹿げて見えてきた。
 そうだ。
 たとえ100万の一般人とやらが自分を貶したとしても、厳然とした観測の元、稲妻より早く駆け抜ければ輝かしい栄誉は
得られるのだ。それを忘れ、同僚どもの下すあやふやな評価に右往左往し自らの価値を自ら見下してきた今までは……
まったく馬鹿げていた。

 自分はマラソンがしたい。今一度確固たる規約と観測に相対し、今度こそ結果を出さねばならない。

「ひどい憂鬱、インディアン専用天然痘ウィルス付き毛布よろしくもっと効率よーくバラ撒きたくなくてん? ワタクシの仕える盟
主様は正にアナタのような人材求めてますのよ」

 だからこの、憂鬱が晴れそうな申し出にノるべきだと思った。



 贖罪などはどうでもいい。

 まずは心に溜まった憂鬱を。

 晴らして
 晴らして

 晴らし続けて。

 さっぱりとしたまっすぐさを取り戻したい。

 そして厳粛たる規約と観測に厳粛と挑み、堂々と結果を出したい。



 当事者 3

 両腕と両足が治るよ。母がそう言ってから1週間後、状況が大きく変転した。

「ここだ! くまなく探せ! 逃亡中の※※※※※※※※※※が潜伏している恐れがある!!」

 銀色の閃光が家庭教師の胸を貫いた。なぜか血は出ない。倒れた彼──両腕と両足が治ったら社会見学行きましょうか?
と笑って提案してくれた大学出たての──が塵と化していく横で使用人たちの首が巨大な斧に薙ぎ払われた。
 3歳の時からずっと過ごしていた寝室が炎に包まれ赤く染まる。熱が迫る。響く激しい足音と怒号はもはや屋敷全体を苛
んでいるようだ。

「奴らよほど戦力に飢えていたのか。信奉者どもをすぐ格上げするとはな」

 何をいっているか分からない。ただ……殺されているのは自分によくしてくれた人達だった。
 両腕と両足が治らないせいで学校に行けない自分に付きっ切りで様々な事を教えてくれた家庭教師。
 使えぬ両腕の代わりにご飯を食べさせてくれた使用人たち。
 悲鳴が上がる。目を見張る。部屋に飛び込んできたメイドたちに影が覆いかぶさる。犬だった。ひどく機械的で虎ほどある
大きさの。それがメイドの喉笛を次々に喰い破る。みな、日替わりで車椅子を押し綺麗な庭を見せてくれた人たちだ。
 紅蓮の炎の中で彼女らが塵と化し、メイド服が燃えていく。使用人だけか。母親はどこにいる? 部屋に入り込んだ10人
ばかりの男たちと巨大な機械犬がゆっくりと歩き出す。赤く炙られる彼らをただ、ベッドの上で見るしかなかった。

 逃げる手段はなかった。

 3歳の時から。

 あの時から。

 奪われた時から。

 ずっと無かった。

「また……奪わんといて……」

 傷の付いた眼球から涙が溢れる。塩気が疵に沁みる。
 死んでしまった者たちは本当に心からの善意の人たちだった。
 屋敷に仕え、主の子供を家族のように遇してくれた人々。
 時には笑い、時には母親以上に厳しく叱ってくれた。身分の上下など関係なく、ただ自分の両腕と両足が平癒する事だけを
考え、その日が来るまで手足代わりになる事を誓ってくれた。だから人間の絆を信じる事が出来た。両腕と両足に消える事
なき欠如を植え付けた人間を恨まずに済んだのは、屋敷の人達と母のおかげだった。

 みな、ただ自分の両腕と両足が治る事だけを祈っていた。
 治らない憤りを以て世間に害悪を成したりしない、善良な人達だった。

 彼らを殺した男達がゆっくりとにじり寄ってくる。手も振り上げられず足も伸ばせず、仰向けの体の中から首だけ震えと共
に擡(もた)げ──…

「奪わんといて……返して……」

 しゃくりあげる他、なかった。



 どこか遠くで大きな音がした。


 壁が突き破られたような、大きな音。

 大きな音がした辺りで怒号と足音がひときわ大きく膨らみ、そして一気にかき消えた。
 迫りくる男たちが歩みを止め、慌てた様子でそちらを見る。彼らにとっても予想外の事態らしかった。

 虎ほどある大型犬が身を屈め、低い唸りを上げる。

 耳鳴りがした。

 飛行場の近くにいる時のような、耳鳴りが。

 そして。


 陰鬱な黒い影が部屋に吹きこんだ時。


 炎は……チリヂリと四散した。





「ああwwww憂鬱wwww 追撃すんのはいいが的外れだよお前らwwww ばーかwwww ハズレの場所で犬死とかマジ憂鬱w」
 奇妙な生物がいた。見覚えもある。記憶を探るとそれは家庭教師が勉強の息抜きで見せてくれた世界イロモノ大図鑑の中
盤あたりに載っていた生物だ。半ば2頭身のやたらクチバシの大きな鳥。
「ハシビロコウ……?」
 とは肺魚を主食とするいやに鋭い三白眼の持ち主だが、その鳥はブツブツと呟くばかりで自分をちっとも一顧だにしない。
 ただ、確かなのは。
「しwかwしwwwwwwwww 俺らも実はピンチwwwwwwwwwww 天王星も海王星も冥王星もこの前の決戦で死んだしw 月やっ
てたフル=フォースも総角主税とか改名して離反したしwwww 正直詰みだろ俺らw こっから逆転できたらマジ神だわwwww」
 ハシビロコウは味方であるらしかった。
 それが証拠に。
 使用人を殺した男たち。
 彼らは床の上で『バラバラになって』うず高く積まれていた。もっとも、巨大な犬だけは残骸めいた物が見当たらなかったが。
もしかしたら逃げたのかも知れない。
 一体、何が起こったのか。ハシビロコウが超高速で入室し、それと同時に乱入者が葬られたのは確かなようだが……。

「とりあえず資金面どうにかしろってイソゴばーさんがいったからwwww さっきからパトロンの子供探してる訳だがwwww 
どこだよwwww ああ憂鬱www 工場勤務時代から部品とかの探し物はマジ苦手wwwwwww つか邪魔wwwwww」
 ハシビロウコウはニタニタ笑いながら死体を蹴った。何度も何度も。細めた眼で酷薄に見下して。尊厳を踏みにじるのが
楽しくて楽しくて仕方ないという顔つきだった。
「あの」
「ああ憂鬱w 両目に傷があって両腕両足に一目で分かる欠如のあるパトロンの子供が見つからないもんだから、戦士ども
に八ちゅ当たりしたけど……ああ、見つからないw 見つからないよおw 保護して仲間にしなきゃいけないのにww憂鬱だあw」

「ウチならここにおるけど」

「wwwwwwwwww」

 ハシビロコウがこっちを向いて、嘴をパクパクさせた。

「あ、事情聞いてたwwww 実はいたの知ってたwwww じゃあ一緒に来てくれるwwwww 嫌ならいいけどwwwwwwwww」

 では、八つ当たりで男たちを殺したというのは……。

「ウソに決まってるだろwwww あいつら殺さなくてもお前助けるコトは可能だったけどもwwwwwwwwwだったけれども」

 解体作業は楽しいし、遺族や仲間が泣きじゃくり、怒りに震える顔を想像するととても胸がスカっとするので、殺した。

 とだけ彼はいう。

 わけが分からない。

 すがるような思いで使用人たちの死体を見る。目を剥き、息を呑む。

 彼らの肉体が塵と化していく。最初に殺された家庭教師はすでに首から下を失っている。見ている間にも顎が、頬が、凄
まじい速度で散っていく。
 グレイズィング呼んでも助からないな、死亡はともかく消滅されたら打つ手なしだ。
 視線を追ったハシビロコウがそう呟く。

 感情をどう発露していいか分からない。

 泣き叫びたい気持ちと。

 泣いてもどうにもならないという自制心と。

 異様な光景に驚き、あれこれ質問した好奇心と。

 使用人たちを殺した輩どもが山盛りの死体になっているコトへの「やった! ザマみろ!」という叫びが。

 ごっちゃになって、どういうカオをしていいか分からない。

 頭が痛い。人間の死体を見たのは初めてかも知れない。
 風邪をひいたときのように胸がムカムカした。体がひん曲る。
 嫌な匂いのするペーストが食道から噴出。ベッドの縁で荒ぶる炎に降りかかる。じゅっという音とともに焼けた異臭が立ち
込める。

「ひどいよなああwwww つつしまやかに生きてた使用人とお前とその母どもが”結果として他の連中に害を成すから”始末
決定wwww 優しい奴ならしないよなあwww まずはお前の欠如治してから『悪の組織に協力するな』って説くのが筋だよな
あwwww でもしないwwwww 悪に協力したからと事情などお構いナッシングwwwwwwwww ああ、憂鬱wwwwwwwwwwww」

 一瞬息を呑んだがすぐそうだと思った。
 今しがた自分から大事な存在(もの)を奪った連中は。
 自分が欠如に苦しんでいる時には影さえ見せず、欠如がようやく購われるという土壇場で突然出てきた。

 何かを与えられない連中は常にそうだ。自分の能力を超えた厄介な問題はスルーするくせに、一枚噛んで得できると分
るやいなやしゃしゃり出てきて何もかもメチャクチャにする。相手はどうやら何かの組織らしいが、組織は専門外の商売は
決してしない物だとよく母が語っていた。化粧品会社がチョコレート製造に乗り出すコトはないし、コンピュータソフト専門の
会社が孤児院経営で利益を追求する訳もない。使用人たちを奪った連中はその類なのだろう。上層部は目的外のコトに
大々的な時間と労力と財貨を費やすなと決議するし、下層部の者たちはそもそも目的外のコトなどできない。自分にとって
家族同然だった使用人たち。きっと男たちは何も考えず何の意味も見出さず、始末したのだろう。

「そして総てをブチ壊しwwwwwww ひでえよなあwwwwwwww 可哀相だよなあwww 一生懸命積み重ねてきたモノが馬鹿
どもの横やりでダメになるのはよおおおおおおおおwwww」

 ベッドの前で巨大な顔をのたくらせるハシビロコウには少し戸惑った。

 彼はどうやら、笑いながらもジンワリ泣いているらしかった。

 むしろ笑っているのは涙を誤魔化すためらしかった。


「ジロジロ見るんじゃねえよwwww この冷酷無情の解体マシーンがホムごときの死で泣くわきゃねえよwwwwwwwwwwww
とにかく、どうするよ?w 俺らについてきたら高確率で犬死www ついてこなけりゃ病院とかで細々と生きられるがwwww」


 彼はそう嘯くが、しかし……。


 家族同然の者たちを一方的に奪った連中と。
 家族同然の者たちの死を笑いながらも悲しんでいる者。


 どっちについていくかは、明白だ。


「マテwwwww もしこの涙が演技ならお前wwww まんまと釣られる羽目になって人生設計台無しだぜwwww」


 構わない。人生設計は3歳の頃から無茶苦茶だ。でも命はある。ハシビロコウの後ろでバラバラになって転がっている
連中を使用人たちが足止めしてくれたから、自分はまだ生きている。家族同然の者たちの死は決して無駄じゃないのだ。
 もちろん悲しみはある。母親もこの分では死んでいるだろう。だがそういうコトを泣いて悲しんだとしても、何にもならない。
 ベッドもそう言っている。腕組みをしながら4歳の誕生日パーティの光景──覚えている。手足の欠如を回復する物が欲し
いと駄々をこねみんなを困らせたのだ──を引き合いに出し、そういうのはまったく無意味だと説いた。枕も同調した。学校
へ行きたいと泣きじゃくった6歳の夜は本当に睡眠不足だったと苦笑いした。懐かしい思い出だ。笑いながらあの時はゴメン
なさいと頭を下げる。傍でハシビロコウが異様な表情をした。ああゴメン。つい他の人と……。ウチ一応ついてくから。

 仇達は死んだが、その背後には巨大な組織がある。
 奴らは自分にとって奪う側の連中だ。

 母と家族同然の者たちを奪われたから、奪ってやる。

 自分は人に害を成したいと思ったコトはない。
 社会の片隅でただ手足の欠如の回復を待ち望んで過ごしていただけだ。
 だが奴らはその回復さえ許さなかった。もしこの欠如を与えた連中に対する怒りの一欠片でも見せていたなら話しは違っ
たが、奴らの眼はただ「片隅に吹きだまる厄介事」ぐらいにしか自分を見ていなかった。

 それが悔しい。

 理不尽で巨大すぎる欠如を与えた連中に憤りがなかった訳ではない。嫌悪していた。憎んでいた。不便を感ずるたび涙
を流し、どうしてこういう運命に追い込まれたかと歯ぎしりしながら泣きじゃくった。何度も、何度も何度も何度も、何度も!
 それでも世界全体を恨まずに育てたのは、母や使用人たちが親身になって接してくれたからだ。同情はせず、悪いコト
は悪いとちゃんと叱り、どうすれば欠如を抱えたまま生きていけるか共に考えてくれた。だから、黒い感情に染まるコトな
く今まで生きてこれた。
 そうやって自分をまっすぐにしてくれた人たちが、どうやら人間でなくなっていたのは様子から分かる。だが彼らが決して
人を害するためああなった訳ではないというのも分かる。欠如。自分の手足を直すための取引として、人間をやめたに
違いなかった。

「拾った命はおかーちゃんたちの仇打ちのために使う」
「へー(^_^)」
「みんなが死んだのはウチの手足を治したがったせいや! ならウチだけ普通の幸福味わう訳にはいかんやろ?」
「いやいやいやwww そこは『復讐なんてみんな望んでへん。ウチだけはまっとうに生きて幸せになる。みんなの分まで』とか
気付いてまっすぐに生きるべきだと思うwwwwwwww」
「知らん! 1度奪われて大人しくしとったらこの結果や! よう分かったわ。奪う側の連中は大人しくしてても何も与えん!
欲しいのなら自分で頑張って獲得する! んで奪う側の連中とは戦う! 大事な物を失くさんためにはそれが必要や!!
おかーちゃんたちの死は教訓にせなあかん!」
「うわwww こいつヘンなスイッチ入っちまったwww やべえwww でも面白えwww 盟主様に引き会わせてーwwwwww
「ハシビロコウさんよ」
「はいなwwww」
「ウチはそこに転がってる連中の「組織」と戦うけどな。これはただの復讐やない!! ウチと! おかーちゃんと! 使用
人さんたちの無念を晴らすための、意地の見せっこや!! 好き放題やっとるようやけど、それに屈しない奴がおるという
コトを知らせたんねん。で!! いつか勝つ! 勝った後、悲しい事情で人間やめた連中引き連れて、あいつらにいうたんねん。

『お前ら正義面して話も聞かず色んな奴殺してきたけどな、中にはこういう人たちだっておったんや』

『お前らの行動は本当にこの世界良くしてきたんか? 悲しい事情持ちを臭い物にフタで葬ったコトもあるやろ?』

『そうやって殺されてきた人らは悲しかったやろなー。フツーの世間に見捨てられた挙句、自称正義の味方にさえ殺される!』

『お前ら要するに考えなしのボケや! その人らの分まで苦しみ抜いて死ね!!』

……ってな」
「限りなく復讐目的くせえwwwwww でもまあ気持ちは分かるわwwwww」
「いうなれば尊厳を守るための戦いっちゅー訳やで。な、な!」



 奪う側にいる連中は死んでいい。絶対に。絶対に。


 当事者 1

 香美、と名付けたネコはひどく体が弱かった。普通、子ネコというものは母ネコの初乳から免疫力を獲得(移行抗体)し、
1〜2か月ほど様々な感染症から守られるものだ。
 が、香美は生後数か月の間、何度も何度も感染症にかかり生死の境を彷徨った。ひょっとするとだが、母ネコ自体が
免疫力を持っていなかった(または免疫力の薄れた状態だった)のかも知れない。

『僕が拾った時もそうだった! 担ぎこんだ病院で一晩に何度も死にかけた!』
「そう……ですか」



(でも生命力自体は強いという話だ!)
 いよいよ駄目だという時、貴信はケージの隙間からそっと前足を握ってやった。


* * * * * * * * * * * * * * * * *

「先生! 僕は泊まり込んででもこの子の面倒を見てあげたい!」
 突拍子もない申し出に、獣医は面喰らったようだった。5年とか10年とか連れ添った相手ならばまだしも初対面の子猫
相手に……? ありありと浮かぶ機微に対し、貴信は全力の叫びをあげた。
「確かに僕とこの子の縁など偶然出会った程度の物でしかない! しかし! この子は訳も分からず捨てられていた! 何
も悪い事をしていないにも関わらずだ!! なのに獣医さんだけに看取られて死んでいくのは……あまりにも寂しすぎる!
だいいち僕自身、責任を丸投げしたようで気が引ける!」
 いかにも異相の青年である。レモン型の瞳が血走り、芥子粒のような小さな瞳が爛爛と光りを帯びている。それが喋るたび
ずずいと接近してくるから獣医は悲鳴を上げたくなった。貴信の歩幅に合わせ、後ずさる。
 なおかかる声は時おり耳障りな甲高さを帯び、驚いた入院室の患畜がひっきりなしに遠吠えし、絶叫し、そしてはばたく。。
 静謐であるべき診察室は貴信一人の乱入によってかつてない騒ぎに見舞われていた。
 獣医はとうとう部屋の隅に追い詰められ、そこにあった大型書類棚に背中をぶつけた。ガラス戸の内側で蒼いバインダーが
何冊か蝶のように羽ばたき落ちた。
「しかし」
 落ち着いて。遠慮がちに突き出した掌はしかしボディランゲージの効果がなかった。
 貴信は泣いた。異形の瞳を濡らしに濡らし、憚りもなく泣き始めた。言葉の節々で俯いては熱い水滴を拭い、叫びを継いだ。
「人が生きるのは繋がりを求めるからだ!! 鎖のような、強固で確かな! それはきっと動物だって例外じゃない! 親から
も飼い主からも見捨てられたこの子! もし助からないにしても、まったく無縁の僕が何らかの繋がりを与えてやらなければ……
この子の人生には孤独しか残らない! 孤独は何より辛い!! だから、ついていたい!」
(この子ぜってえトモダチいねえ! だから子ネコにさえ自己投影する自己満足な自己紹介に自己陶酔してやがる!)
 社交性のない人間が追い詰められた時の(常人には理解しがたき)爆発力。
(んで子ネコ救えば自分も救われるとか思ってる訳だ! やっべ! こーいう奴が一番やべえ!)
 獣医は負けた。
 付き添いを、許可した。

「ただし大声だすなよいやマジで。患畜が発作起こしたらカワイソーだし」


* * * * * * * * * * * * * * * * *


 右前足を握られた子猫は、ネズミのような声で苦しそうに鳴いた。小型毛布に包まれた小さな体は果てしのない熱を帯び、
そこからはみ出た小さな顔が時おり、はあ、はあと大きな息さえ吐く。猫は基本的に鼻呼吸である。口呼吸はよほど危殆に
瀕さねばやらない。香美の様子からそんな豆知識を思い出すたび、貴信の胸は耐えがたい陰鬱な気持ちに痛んだ。
(辛い物だな……。痛みを肩代わりしてやれないのは)
 しょっぱい匂いが鼻先を付き、熱ぼったい液体がとめどなく頬を濡らす。喉が詰まる思いは父の葬儀以来久々だ。
(え、ええい。僕が泣いてどうする! 僕がキチっと見てあげるんだ!)
 慌てて肩で洟を拭う。握った前足──厳密にいえば人差し指と親指で肉球を摘む程度だった。ケージ越しにはそれが限
界だった──ゆっくりと撫ですさってやる。
 香美の息が少しだけ、和らいだ気がした。

(大丈夫! 大丈夫! きっと君は助かる!)

(あの後獣医さんが言っていた!)


「きっとこの子は病弱に育つでしょうが」

「兄弟たちがみんな死んでたのに、君が来るまで鳴き続けていた」

「だから」

「生命力だけは強いですよ。しぶとい、っていうんですかね」

「はは。失礼。要するに根性がある。女の子なのにね。どんなひどいコトになっても)


(「最後の一線の前では絶対に踏みとどまれる」!! 自分を信じて頑張るんだ! 香美!)


 当事者 2


















                                    暗い場所でやかましい声が聞こえた。

                                    ような、気がした。



 当事者 1

 2ヶ月後。

「さ! ココが今日から君の家だぞ!!」
 おっかなびっくりという様子でケージから出てきた香美は、いかにも恐る恐るという様子でその部屋を見渡した。
 ベッドが右にあり、正面奥には勉強机。左にはガラスの扉。どれも初めてみる物だから、怯えているだろう。
「ははっ! 2ヶ月も病院に居たからな! 外の世界には馴染みがないのだろう!」
 ふわふわとした長毛種の子猫が面喰らったように貴信を見上げた。
 体格は小さく、しかし毛は長い。座っているとふわふわとした毛質のせいでとてもとても丸く見える。
 それだけで貴信は(くうーっ!)と顔をしかめて壁をゴツゴツ殴った。
(可愛い! 飼い主がいうのもあれだが可愛い!!)
 正直いって妖精のようなネコだった。
 オーバーを着込んだようにむっくりとした体だ。太っているのではなく、柔らかく長い毛が全身を覆い、あたかもぬいぐるみ
のように可愛らしい。
 貴信自身「まさかこんな美人だとは」と驚くほどの子ネコだった。
 ぱっちりとした大きな瞳。形のいい鼻。桃色の血管が透けて見える三角の耳。
 顎や腹は雪が積もったように白く、それは足先も同じだった。しかも長毛のせいでどこまでも丸っこい。

 可愛らしさの極めつけはしっぽで、羽箒のようにもわもわとしている。
 獣医曰く『ノルウェージャン・フォレスト・キャット』の血が入っているのではないか? とのコトだった。

「『ノルウェージャン・フォレスト・キャット』?」
「そ。一説にはバイキング大暴れの11世紀ごろ、ピザンティン帝国からノルウェーに交易品としてやってきたネコちゃんだ
ね。ノルウェーの厳しい環境に適応して毛をムクムク伸び繁らせたせーで、いつしか「森の妖精」とまで呼ばれるようになっ
たネコちゃん。買えば高いし売れば高い」
「……売らないぞ!! この子はもう、僕の家族だ! いや、この子がそれを拒むなら話は別だけど!」
(そこで泣くなよ。3日徹夜で面倒見てくれた相手を拒むわきゃねーだろ。これだからトモダチの少ない奴は悲観的で嫌になる)
「何か?」
「(いや言ったらまた傷つくだろお前)。大丈夫。見たトコ雑種だねこのコ」
「雑種」
「うん。多分75%まではノルウェージャンだけど後の25%は別なネコ」
「だから捨てられたのか!! 可愛そうな香美! おぉ、よしよし!」
(よー分からんけどご主人がぎゅっとしてくれてる! 嬉しい、嬉しいじゃん!)
「香美いいいいいいいいいいいいい!!」
「(話聞けよ)。だいたいのノルウェージャンはブラウンクラシックタビーの毛色……あ、アメショーみたいな模様ね。あれが
多いけどこの子はなんか違う」
「というと?」
「お腹まっしろ。顎まっしろ。んで顎から鼻の頭の周りも白。そこはノルウェージャンだけど」
「けど?」
「毛色がヘン! 茶色はともかく!」

「うぐいす色の模様が入ってるなんてな!
 香美の毛色はネコにしては特殊だった。目の周りや耳裏、背中といった部分に縞模様が入っているが、どういう訳かうぐ
いす色と茶色という些か”エグい”色合いだった。ネコの毛色を決定づけるのは毛管内に沈着したユーメラニン色素だが
──この色素が球形ならブラック、卵形や楕円形ならばブラウン、シナモン──それがうぐいす色になるのは聞いたコトが
ない。獣医はそう何度もいい、しきりに首をひねった。(仮に突然変異だとしても、全身が真っ白になるかシナモンの毛が
生えるのが普通。それが獣医学的見地だった)

「もしかしたら君や兄弟たちは突然変異すぎたせいで捨てられたのかも知れないな!」
「うみゃあ?」
 良く分からない。そんな調子で一鳴きした香美はのんびりと毛づくろいを始めた。

 ひょっとしたらブリーダーの家で生まれ、毛色が奇妙すぎるが故に「売り物にならない」と捨てられた……貴信はそんな仮説
を立てたが、どうか。

「謎が……解けました」
『もしかしてだが鐶副長、香美の謎がわかったのか!?』
 はい、と鐶はゆっくりと頷いた。
「香美さんが語尾に”じゃん”をつけるのは……ノルウェージャン・フォレスト・キャットだから、です!」
 無表情ながらに力強く眉をいからす少女に、『そ、そうかもな! は、ははは!』と貴信は空笑いをした。
「ノルウェージャンだからじゃん……です。大発見、です。無銘くんに話したら……きっと、話が……弾みます。……うん」
 うつろな瞳の少女は俯き、気恥しげにはにかんだ。無銘の反応を期待しているらしい。
(こういう所はまだ子供だなあ!)

 とにかくどうにか退院し、貴信の自宅で暮らすようになった香美は……ちょっとしたきっかけでよく体を壊した。
 貴信は幼い彼女をなるべく外に出すまいと努力はした。が、出入りの際、家へ流れ込んでくる空気や外出中の貴信の衣
服に含まれるわずかばかりのウィルスに香美はやられ、何度も何度も感染症に見舞われた。(貴信は半ば本気で玄関へ
エアー室を設ける事を考えた)
 そういったコトがなくなって、跳んだり跳ねたり走り回ったりできるほど元気になっても。
 病弱は治らなかった。
 一晩徹夜でゴムボールを追いかけただけで発熱。睡眠不足と疲労が原因だろうと貴信は分析した。
 半日前に入れた水道水を飲んだだけで2日ほど水様性の便を垂れ流し続けたコトもあるし、ちょっとエサ皿を洗い忘れた
だけで食あたりし数時間吐き続けたコトも……。

「覚悟はしてたがこの子弱っ! 月曜退院した週の水曜に入院する患畜、初めてすぎるわ!」
「なのに回復は早い! 点滴打っただけでケージの中走り回ってる……!」
(なんか楽になったじゃん! 出すじゃん出すじゃん! あたしはご主人と遊びたい訳よ!)

 病院に行っては回復し、回復しては体調を崩し……。

 貴信が一番困惑したのは、やや蒸し暑い初夏、エアコンを軽くかけただけで一気に風邪をひきそのまま肺炎コースへ突入
された時だ。季節の変わり目にカゼを引くコトは誰しもよくあるが、香美の場合のそれはあまりにも極端過ぎた。
 かといって元気のない、物静かなネコではなかった。むしろ香美はメスであるのが信じられないほど活発なネコへと成長
した。ヒマさえあれば室内をドタドタと走りまわり、高いところに登っては貴信の頭や背中へ飛びかかり、彼に巨大な悲鳴を
上げさせた。そして着地しては部屋の隅っこで身を屈め、いかにも高級そうなしっぽごと腰をふりふりしながら貴信を凝視
する。
「遊ぶじゃん遊ぶじゃんご主人! ご主人ご主人大好きじゃん!」。
 まんまるくなった瞳孔は挑発的な光を振りまき、より刺激的な反応を求めているようだった。
 そこで制止の声を上げ、捕まえんと向かっていくと余計ひどい結果になる。貴信が香美を捉えんと身を屈め腕を伸ばす
頃にはもうすばしっこい子ネコは股ぐらの間をくぐり抜け、急ターンをし、足の裏側を樹木のごとくズルズル登っている。ま
だまだチャチいがそれなりに尖っている爪がズボンの繊維をプチプチ裂く感触! そして皮膚に走る痛覚! 貴信が恐怖
とともに呻くころ、登頂成功した香美が肩の上でグルグル喉を鳴らしている。
(ご主人! ご主人!)
 香美はよっぽど貴信が好きなようだった。彼は重病の飼いネコを幾度となく徹夜で看病していたが、もしかすると香美は
それを無意識のうちに理解しているのかも知れなかった。無邪気に喉を鳴らしては貴信の首筋や頬を舐める。ザラザラと
した感触で一生懸命愛情を表現しているのは明白だ。
 そうなると貴信はもうお手上げで、そっと香美を肩から剥がし、抱き抱え、座り、そっと膝の上に乗せてやるしかなかった。
 すると香美はますます嬉しそうに喉を鳴らし、「にゃー、にゃー!」と何度も貴信を見上げて鳴く。喉を撫でられたりすると
本当に心地良さそうに目を細め、いつしかカブト虫の幼虫のように丸くなって眠り込む。

 そんな姿を見るのが、貴信は何よりも嬉しかった。まっとうな人間関係が結べず、もしかすると自分はこの世の誰からも
必要とされないまま生涯を終えるのかとよく不安に打ち震える彼にとって、膝の上で屈託なく眠る香美の姿は本当に本当
に救いだった。

 だから、守りたい。他の何よりも、大事にしたい。

 心からそう思っていたし、香美がその生涯の中で幸せになってくれるコトを強く強く、願っていた。

 当事者 2

 か細い息をつくネズミが目の前に横たわっていた。全身のあちこちが裂け、血がフローリングを汚している。
 香美はちょこんと座ったまま「どうしていいか分からない」そういう顔で貴信を見た。
 彼はピンセットに挟んだ脱脂綿を慣れた手つきでネズミの傷口に当てている。香美の鼻を刺激臭が貫いた。それは体調
が悪くなるたび嗅ぐ匂いだ。人間的に説明すれば病院に漂っている薬の匂いだ。
「本能だからな。追いかけてしまうのは仕方ない。まだ子猫だから、怒ってもしょうがない」
 貴信はぽつりと呟き、チーズの破片をネズミの口の傍に置いた。幸いまだ息はあるらしい。すすけた色の原始哺乳類が
チぃチぃ鳴きながら食事をする。その様子に香美はなぜだかホッとした。
「いいか香美。ネズミを追いかけ回したい気持ちはわかる」
「うにゃ?」
 いつもと違う静かで厳粛な貴信の声に香美は首を傾げた。
「でも傷つけるのは駄目だ。痛いし苦しい。お前だって何度もそういう思いをしただろう?」
 言葉の意味はよく分からない。ただ、先ほどまで興奮して追っかけまわしていた「楽しい物体」が、自分の付けた爪痕から
ひどい臭いを放ち、グッタリしている様はとてもとても嫌な感じがした。
 それは。
 暗く湿った箱の中に居る時に。
 ひどく疲れた時に、生臭く痛んだ食物や水を摂った後に、暑いのと寒いのを同時に経験した後に。
 必ず襲ってくる「ゾッ」とする感覚に似ていた。
 激しく動いて衝動をかきたてる「楽しい物体」が自分を見上げる目。
 それは恐怖に満ち、助けを求めているようだった。
(あたしはただ……遊びたかっただけじゃん。でもさ、でもさ。何か、ちがう)
 貴信に飛びかかった後のような楽しさはそこにない。その理由は考えても分からないが、「楽しい物体」に過ぎなかった
物が苦しそうな声を上げ、必死に自分の視線から逃れようとしている様は……楽しいものではなかった。
 もこもこした毛の奥で胸がチクリと痛む。
 いつしか香美はネズミの傷口を舐めはじめていた。
(ごめん。ごめん。あたし、あんたにわるい事した。ごめん)
「そうだ香美。彼らは彼らなりに懸命に生きている」
「うみゃー」
「君が遊びのつもりでも向こうは死ぬ思いをしている」
「にゃ」
「死に瀕するのは辛い。君ならそれが……分かる筈だ。いいな」
「ふみゃ」
「弱い者いじめは、良くないぞ」

 3日後。
 ネズミは冷たくなって、動かなくなった。

(…………)

 裏庭で貴信が穴を掘り、「楽しい物体」を埋めるのを香美はケージの中からじっと眺めていた。
 貴信がスコップを振るうたび、「楽しい物体」に土がかかっていく。
 かつて自分が経験した、暗くて狭く、冷たい場所に行く。何となく、それが分かった。
 寂しい気持ちだった。
 ネズミは籠の外から何度か傷口を舐めるうち、食べかけのチーズをくれるようになった。だから香美も自分の煮干しをあ
げようと思った。そして咥えて持っていき。(籠の)隙間からねじ込んだ。「さ、あんたも食べるじゃん。おいしいじゃんそれ!」
だが、何の反応もなかった。チーズをくれた者はどこか満足したような表情で目を瞑ったまま、動かない。おかしい。鳴いて
貴信を呼ぶと、彼は少し驚いた顔で「楽しい物体」を撫でまわし、残念そうに首を振った。

(いー匂いのするあれ、あげたかったのにさ…………あたしのせーでああなったのに、いい匂いのもんくれたのにさ……)

 豊かなしっぽをパタパタと振りながら、どうすれば良かったかずっと考えていた。爪を立てなければ良かった。噛みついたり、
押さえつけたりしなければ良かった。そんな想いが頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 初めて見た小さな物体は、貴信が差し出すおもちゃとは違う刺激的な動きをしていた。面白そうだった。だから飛びかかった。
貴信や彼の持つおもちゃと同じようにしても大丈夫。根拠もなくそう信じ込んで、いつものように力いっぱい遊んでいた。ただ、
それだけだった。それだけなのに、辛い気持ちになり、悪寒が走り、気付けば体調不良の時御用達のヘンな臭いのする場
所(動物病院)で寝込んでいた。
 耳が熱ぼったく鼻が詰まって息苦しい。そういう時は決まってまどろむようにしている。
 寝れば何とかなる。辛い気持も、収まる。香美の意識が遠のいた。

 夢の中でネズミが怒ったり泣いたり、「気にするな」とチーズの破片を押し付けてきている気がした。そして今度こそ煮干しを
食べさせようとするとネズミはどこかへ消える。そして香美は貴信さえいない暗闇の中で煮干しを取り落としたまま鳴き喚く。
 誰も来ない。
 寒い。狭い。
 出れない。
 そんな怖い夢を、何度も見た。
 すると前足に懐かしい暖かさがやってきて、目を覚ますと貴信が心配そうにそこにいる。
 悪い夢を食べてくれるのは、いつも決まって貴信だった。

(ご主人、あたし、あたし……)
 芥子粒のような瞳の中で、子ネコがポロポロと涙を流した。


 退院してからも。

 外に出られるようになってからも。

 本当に悪いコトをした。「楽しい物体」が埋まっている場所を見るたび、香美は胸が痛んだ。


 当事者 1

 香美が外に行くようになってから。

「?」

 貴信は自宅の裏庭に行くたび首を傾げた。

 ネズミを埋めた場所にいつも決まって煮干しが落ちている。

(香美が供えたとか……!? いやでもネコって墓参りする生物だったか! 象の墓場だって密漁ハンターが捏造したアレだしなあ!)

 結局それは、家を出るまでも出てからも、謎のままだった。


 当事者 2

 話は前後する。
 生後4か月でようやく人並み(ネコ並)の免疫力を獲得した香美は、外へ遊びに行くようになった。
 きっかけはよくあるコトだ。貴信が帰ってきた時スルリとドアを抜け、脱走。3日ばかり行方不明になった。

(ご主人はいつもどこいっとるじゃん。それが知りたいじゃん)

 貴信はまったくメシが喉を通らなかった。3ケタほど刷った尋ねネコポスターをあちこちに貼ったり不眠不休で捜索したりした。
 幸いネコの常で3日もするとひょっこり帰ってきたが、以来彼女ときたら毎日毎日「外へ出すじゃん出すじゃん」と鳴き喚き
ドアをガリガリ引っ掻く始末。
 健康状態を慮る貴信だから生涯室内飼いを予定していたのはいうまでもない。
 他方外の世界の刺激がすっかり病みつきになった香美は外へ出たがる。要求開始からたった3日で円形脱毛をきたす
ほど「閉じ込められている」室内飼いはストレスフル……貴信は外へ出すべきか、悩んだ

「喧嘩してネコエイズに感染するのが心配? 大丈夫ですよ。メスだしあまりケンカはしないでしょう」

 獣医はそう太鼓判を押した。貴信はしぶしぶながら外飼いを決意した。
 だが。
 香美はよくケンカをした。

「あの! 香美はよく喧嘩するんですが!」
「おかしいなあ。基本的に温和で人懐っこいコなのに」
「そんなコトいって香美がネコエイズになったらどうするんだ!!」
「まあまあ。落ち着いて。実はネコエイズの新薬の研究が進んでいる」
「それなら……」
「まあアメリカの死刑囚に呑ましたら全身グリーンピースみたいな腫瘍だらけになって溶けて死んだけどな!」
「免疫不全より悪い結果の出る薬をッ! 人の家族に呑ませようとするなアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
「大丈夫だよ貴信君! 私は患畜は殺さない主義だ! もっとも人間のだクソ犯罪者どもは積極的に様々かつ危険極まる
臨床実験に使って駆逐すべきだという主義は曲げない! 人間とかなに醜っ! 全身の皮膚に柔らかーい毛が生えてねえ
段階ですでにもう論外! 仔人間の段階でもうダメ! うるせえわうぜえわ一番可愛い筈の時期さえクソだぜ!」
「仔人間とかいうな! 動物扱いするな!」
「おおおっと失礼! 動物様を人間ごときと同列に語っては失礼だねっ! 何しろ人間とかは可愛くねー時期が長すぎる! 
許せて受精直後の受精卵ぐらいだな! あれはふつーに丸くて可愛らしいが細胞分裂した辺りで一気にグロく、なりやがる!」
終始動物以下だぜ人間って奴ぁ! 死ねよフフヒャハアハハハーッ!」
「今までお世話になった! 病院を変えるので紹介状とカルテを出せ! 今すぐ!」
「まずぁ犯罪者どもから動物様のよりよい治療の実験の犠牲んなってクソみてえな図体滅ぼしなッ! おじさんは今日も人
間どもの屍エサにネコエイズの薬作るぜー!」
「あんたのお手製か! というか僕の話聞いてないし!」

(よーわからんけどさー。あたし、弱いモノイジメしてる奴みると許せんわけよ)
 子ネコが老ネコが、妊婦ネコが病気ネコが怪我ネコが、いじめられているのを見るとついカッとなってやってしまう。
 相手が百戦錬磨のコワモテネコだろうとボスネコだろうと体重80kg超のセントバーナードであろうと立ち向かい、頭を肉球
で一撃! 大抵の相手はそれで昏倒した。金持ちの家から脱走したドーベルマン6頭を同時に昏倒させたコトもある。

「まあ全部子犬だったんだが!」
「ですよねー」

 昏倒しない場合は「弱い物いじめはだーめでしょうがあああああ!」と連撃に次ぐ連撃。なまじ殺意や悪意のない、どこか
空回りしている連撃だからやられた方は怒るよりもつい唖然として──気迫に呑まれ──受け入れてしまう。そして連撃が
終わった後ようやく、相手が小さな子ネコだと気付く。
「いかん。だるい。疲れた。でも弱い物いじめはさせん。やるっつーならあたしが戦うし、どよ!」
(どうと言われても……)
 すっかりヘバって地面に突っ伏してる子ネコを倒してもなあ。総ての相手はこの妙な相手に毒気を抜かれ、ついつい弱いもの
いじめをやめてしまう。(ケンカというよりおまぬけで一人よがりな暴走か)

「この子はあれだね。ケンカを全力でやってるけど本気は出してないみたい」
「先生! 全力と本気はイコールなのでは!」
「いやいや。全部の力を出してはいるけど、ケンカそのものには本気になっていない」
「?」
「一回この子がケンカしているのを見た。何というか、弱い物イジメやめさせるのに必死だけど、相手を倒したり叩きのめしたりし
たいとかは考えていないようだ。そういう意味じゃ、本気でケンカはやっていない」
「なるほど! つまり持てる力の全部が仲裁に行ってるから、相手も香美も傷付かない訳だ!」
「そ。もし持てる力の全て相手を叩きのめすコトに費やしたら、相当強いと思うよこの子。だって仲裁する時ですら相手は結構
ダメージ追うからね」
「香美は優しいから、ケンカのためだけのケンカはしないと思う!」
「先生もそう思うよー。ご主人の教育の賜物だね。……もし、この子が本当に逆上して、ケンカのためだけのケンカ、本気で相手
を叩きのめすようなコトがあるとしたら。それは──…」
「それは!?」


「──────────────────」
「……え? いや、その、先生? 香美は犬じゃないから、そんなコトはない! ないと、思う!」


 この時は笑って流した言葉。
 それが現実となり香美を激しく突き動かすコトになるとは……。
 貴信はまったく想像もしていなかった。


 一方、香美。
 彼女は病気やケガで動けないネコを見つけると決まって自宅に連れ込んだ。子ネコが大人ネコの首を噛み、自宅まで引きずる
光景は近所の評判となった。

(ご主人! ご主人! あたしがだるい時にいくとこ連れてくじゃん! よくわからんけどあそこは治る! すごい!)
「いや香美、父さんの遺産だって無限じゃない! 本来無料で済む野良猫治療にいちいちお金を払う僕も僕だが! こうも
しょっちゅう野良猫をだな、全部見せる経済的余裕は……」
(なにいっとるかわからん。でも治る。治る。ご主人にこいつら見せたらきっと治る。ご主人はすごい!)
「ぐ………」
(はよ、はよ)
 キラキラと目を輝かせる香美を見るたび、貴信は半泣きで病院に電話をかけた。
「はいそうです。また。うう! また今月の食費削らないといけないのか!!」

「つかよ、電車に轢かれて両前足吹っ飛んだネコを3千円で五体満足に戻したりしてるんだぜ俺。十分良心的じゃね?」
 モアイのような顔の獣医は電話口でやれやれと肩を竦めた。

 そんなコトが何十回も続くうち、とうとう香美は自宅周辺を統べるボスネコになってしまった。
(姉御姉御!)
(姐さんだ姐さんだ)
(強い。綺麗。頼れる)
 なんだかんだで助けたネコども(あとインコやモグラやシロテテナガザルもいた)が勝手に祭り上げたという感じだが、そう
やって弱者どもが作り上げた権勢という奴は強者の腕力一つでは到底覆せない。
(ちっちゃい癖に生意気だぜクルァ!)
 いかにもいかつい傷だらけのブチネコが香美にケンカを売れば弱者どもがどっからか湧いてきて総攻撃を仕掛ける。
(ボスに手を出すな!)
(いつぞやの恩、姐さん逃げてくだせえ!)
 首に、背中に、しっぽに。たくさんのネコが1匹のネコに噛みつく様はスズメバチを蒸し殺すミツバチの群れに似ていた。
 本来連帯感に乏しいネコどもがまるでイヌ社会かサル社会のような仁義を見せるのはまったく特異だが、しかし香美もまた
特異な感性を持っていた。
(がああああ! いっぱいがちょっとにとびかかるのもアレじゃんアレ! やーめーるじゃん!!)
 味方である筈の弱者どもの頭を殴り、昏倒させ、悉くを蹴散らし。
 本来敵である筈のいかついネコを守るように立ちはだかる。
(しゃあーーーーーーーっ! なにやってるじゃんあんた!)
(何って俺ぁテメーにケンカ売りに)
(ここにいたらいっぱいがよってたかってあんたいじめるしさあ、さっさと逃げたらどよ。ねえ!)
(ダメだコイツ。本物の馬鹿だ!)
 香美この時4か月。要するに弱い物イジメを見ると後先考えられなくなる、アホであった。
 しかしアホほど祭り上げられ好意を浴びるのが社会である。それはネコ社会も同じらしく。
(さすが姐さん! 姐さん!)
(フクロはだめ、だめ)
(わかったあ)
 殴られ昏倒させられ蹴散らされた弱者どもはますます香美を尊敬した。
 ついには。
(頼むぜ若ぇの。ここらのシマはおめえに任せた)
 テレビで何度か取り上げられたほど伝説のボスネコ(30年は生きているらしい。子ネコのころ自分の右目を潰したカラス
を逆に喰い殺したそうな)がその席をついに譲った。

(よーわからん。なんでみんな集まるたびあたしをムリやりたかいとこのせるのさ?)

 ネコ集会の時はひまそーに突っ伏し自慢のしっぽを鞭のようにしならせる。
 そこへ下っ端や取り巻きどもが自助努力によって獲得したネコ草だのゴムマリだのを献上しにくる。
 それを面倒くさそうに一瞥しては目を逸らすのはいよいよ以て大物の風格であった。(当人はただひたすら面倒くさかった
だけだが)

「ボスになってる……。ははっ。はははは!」
 一度買い物帰りにその光景を見た貴信は思わず買い物袋を取り落とした。
「黙ってれば美人さんなのになあ! なんでボスになるんだろうなあ!」
 かくりと肩を落とし、盛大な溜息をつく。
(まだ早いけど、お婿さんがきたらもうちょっとおしとやかになると思うんだけどなあ! どうだろう)

 そんな香美は、歌が妙に好きでもあった。

 ある時貴信がヒマ潰しにこんな歌を聞いていた。

「きーみのこころに! しるしはあるかー♪」
「にゃーにゃー」
「たたかうためにえらばれーた」
「にゃあにゃあっ! にゃーにゃー! にゃあみゃみゃあー!」
 良く分からないが魂が反応して、香美は思わず鳴いた。
 すると貴信。
「ははは! なんだ香美は戦隊モノの歌が好きか! 僕はゲッターがそうだが!」
 ベストセクションのCD。それを買ってきて、香美と一緒に聞くようになった。

「きーみはぼくの、みらいだからー」
「にゃーにゃにゃ、にゃにゃみゃ、みゃにゃみにゃにゃなー」

 強きをくじき弱きを助ける。そんな勇ましいメロディーを何度も聞くうち、香美はすっかり覚えてしまった。

「なるほど……戦隊モノの歌をよく歌っているのは……そのせい、ですね」
『そうだ!』
「ちなみに私は……レオパルドンが……好き……です」
『戦隊物と微妙に違う上に渋っ!』


 当事者 4

 夜。都心にある廃工場でハシビロコウはため息をついた。ハシビロコウとはペリカンに似た大型鳥類の名称だ。全身はネ
ズミ色。トレードマークは、異様に大きいクチバシ&何を考えているか分からない三白眼。

 ああ。憂鬱だ。

 すぐ横の錆びた鉄柱が火を吹いた。何か刃物のような物が掠ったようだ。というか簡単にいえば「投げつけられた」。銀色
の円弧が鉄骨に似た柱を一削り。そして反転。遡行。遠ざかっていく。元来た軌道をブーメランのように、持ち主へ。入れ替
わるように響く怒号、飛びこむ殺意。人影が来る。辺りに散らばる塗料の缶──昔ここで生産された物らしい──をガタガタ
ガタガタ吹き飛ばし。

 ああ。憂鬱だ。

 ディプスレス=シンカヒアという名のハシビロコウは何度目かの溜息をついた。
 工場は暗い。天井に空いた大穴から月明かりが射しこんでいる以外、何ら光なき空間だ。鳥目にとって些か難儀な状況
設定。それがまず憂鬱だ。突っ込んでくる人影の遥か後ろでいくつかの影が散開したのも憂鬱だ。
 ゆっくりと首を動かす。見まわす。
 包囲。
 柱の傍から。
 直立する1mほどの赤い筒の裏から。
 朽ち果てたベルトコンベアーの後ろから。
 堆積するパレットとガラクタ山の背後から。
 暗くて見えないが、静かな殺意が拡がっていくのが分かった。内に不快感をあらん限り蓄えているが、目的達成のためグッ
っと堪えている。自分を取り巻く気配はそんな感じだ。
 ディプレスは知る。
 前の人影は囮だ。自分を包囲するまでの、時間稼ぎの。
 見えざる闇から無数の視線が刺さる。全身の肌にねっとりとした感情がまとわりつく。彼らは隙あらばディプレスに飛びか
かるだろう。……息の根を止めるべく。
 いよいよ迫る人影についての感想は特にない。強いて言うなら彼が吹き飛ばしている塗料の缶。幾つかのそれが細い
足にガンガンと直撃して地味に痛い。ああ痛い。

 チャチな恫喝にチャチな痛み。

 ああ。憂鬱だ。

 天を仰いで溜息をつく。天井の大穴はいまや鈍色のネットで封鎖されている。当たり前だが敵どもは、ここで自分を仕留
めるつもりらしい。人影はついに2歩先までに肉薄している。彼との攻防如何では周囲の殺意が爆発し、嵐のような総攻撃
が降りかかるだろう。

 ああ。憂鬱だ。



「お前らの馬鹿さ加減がマジ憂鬱wwwwwwwwww オイラ逃がす方が生w存w確w率w高wいwのwにwなあwwwwwwwwwwww」



 ディプレス=シンカヒアという名前のハシビロコウは……薄く笑った。そして視線を水平に戻し、ニタニタと目の前の情景
を眺めた。相対する影が持つは銀色のチンクエディア。刀身に溝が彫られた大振りの短剣は遂にいよいよ鼻先に迫っている。


 そもそも動物園かウガンダ共和国のビクトリア湖周辺にしかいないハシビロコウがなぜ都心の廃工場にいるのか。
 まず彼は本物のハシビロコウではない。本物の細胞をもとに作られたホムンクルスで、元は人間。かつては勤勉なマラ
ソンランナーだったが本番中思わぬ妨害を受けて以来すっかり転落の一途を辿り、人外をやっているという訳だ。

 努力の総てをフイにされた。また頑張っても同じコトが起こる。
 拭いきれぬ挫折感を抱えたまま飛び込んだ社会は彼をまったく歓迎せず、傷口ばかりを広げた。そうして馘首(かくしゅ。
クビの事)と再就職を繰り返すうちとうとう憂鬱が爆発し、上司と同僚を殺害。逃げ込むように転がり込んだ闇医者の紹介
で化け物をやっている。人間が嫌いだから鳥の姿で、積極的に動くのが嫌いだからエサのハイギョ取りで数時間身じろぎも
せぬハシビロコウを選んだ。



 そんな彼に向かって走る人影は怒りを抑えきれずにいた。



 いつもと同じ夜だった。この廃工場を根城にしているホムンクルスどもを掃討する。ただ、それだけの任務だった。
 敵のレベルは平均よりやや上という所だ。頭数も30に満たない。事前調査がしっかりしていたから予想外の事態に戸惑う
コトというもなかった。おかげで新人込み8人のパーティは不慣れなヒヨッコどもにレクチャーしながらなお全員無傷……だった。
「ちょろいぜ。人数半分でも制圧できた」
 誰かがおどけたが、正にその通りだった。


 どこからともなく、ハシビロコウがやってくるまでは。





 元のターゲットの仲間でもないらしい。「誰だお前」。ここの共同体を統べるライオン型ホムンクルスが最後に残した言葉
だ。(直後ウィンチェスター銃の武装錬金で額を章印ごとブチ抜かれ、絶命した)
 そしてハシビロコウは無言のまま、ゆらりと戦士たちに近づいた。


 接近を許したのは迂闊だった。


 ハシビロコウにはあまりに殺意がなさ過ぎた。誰もが最初、ただの普通の鳥だと思うほど。
 戦勝ムードで気を緩めていたのも、災いした。というより敵はわざとそこを「狙った」のかも知れない。

 最初に犠牲になったのは最も入口に近い戦士だった。20を過ぎたばかりにしてはひどく度胸が据わっていると評判の男で
任務が終わると決まって行きつけの小料理屋に仲間たちを呼び込み、大盛りの飯と、ビールと、刺身の盛り合わせを一式
振るまう習慣の持ち主だ。刺身のレベルは殲滅対象のレベルと比例するから今晩はそこそこの刺身が食える。戦士たちは
それを楽しみしていた。
 
 彼が絶えず入口近くをマークしていたのは、初めての任務で同僚が退路確保をしくじったせいだ。おかげで右頬に3本線
の爪痕が刻み込まれ、すっかりトレードマークだ。
「傷は残す。常に退路を確保する決意の証として。誰も俺のように傷つけたくはない」。それが信条で、命取りになった。
 入口に最も近い場所にいた彼は、入口から来たハシビロコウに呼びかけた。

「お、なんだ鳥ちゃんどこから来た?」

 ネズミ色の鳥は頬傷の戦士を軽く一瞥したきり、緩やかに歩を進めた。
 ト、ト、ト。やたらクチバシの大きな鳥が歩く様はひどく不格好で、それが頬傷の戦士の気さくさをくすぐったのだろう。


 もし彼が7年前の決戦にいたなら、もっと運命は違っただろう。むしろ闖入者の姿に怖れ戦き、抵抗を選び、或いは逃げ
延びれたかも知れない。


「な、な。刺身食べるか?」

 気軽に肩を叩いた戦士の手から。
 鮮やかな肉の塊がズルリと剥け落ちたのはその時だ。
 腕橈骨筋がズタ裂け隣接する長掌筋や橈側手根屈筋もろとも骨から乖離したのである。それが目視できたのはすでに皮
膚が粒子レベルにまで分解されていたためである。錬金戦団支給の制服はとっくに消滅していた。
 知覚。
 痛みと共にようやく鳥ちゃんが敵だと認識する頃にはもう何もかもが、手遅れだった。落ちる途中の尺骨と橈骨が粉々に
なって舞い散り、手首が落ち、それも、肘から先にいる若い戦士の全身も、滴る血さえも塵埃となって虚空に消えていった。


 チンクエディアを持つ茶髪と色眼鏡の戦士は堅い奥歯をギリリと噛みしめた。

(更に2人だ! 逃げようとした奴飛びかかった奴2人! バラバラになりやがった! 何を目当てに来たかはしらねーが、
許せねえ!!)

 彼もまた若かった。7年前を実感していなかった。『7年前』。錬金戦団ととある共同体の間に起こった決戦を、あくまで伝聞
……新人のころ行われた退屈な講義の中でしか知らなかった。だから迂闊にも──…

 地面を蹴り、大きく飛んだ。無数の缶を飛び越え、向かう。向かってしまった。
 天井を見上げうすら笑いを浮かべるハシビロコウへと……正体も知らず。

(この武装錬金の特性は麻痺ならびに硬直! 切りつけさえすりゃあテメーは動けなくなる! 腕解体(バラ)されよーと絶対
に当ててやる!)

 敵に動く様子はない。斬撃はついに正中線を捉えた。当たる。
 茶髪は会心の笑みを浮かべ、それは次の瞬間、驚きと戸惑いの色をも含んだ。


 火花が、散った。


 最初見えたのはそれだった。次いで不快な手応え。堅い装甲──例えば、訓練をつけてくれた防人衛のシルバースキン
──を力任せに斬った時のような跳ねッ返りと骨に沁み入る痺れ。それがチンクエディアを通して広がった。
 迷わず飛びのく。動揺はない。相手が予想外に頑丈で斬りつけられない? 任務によくある出来事だ。
 茶髪と入れ替わるように敵の右斜め後方から銃声がした。反対側からは旋回するトマホーク。網が投げられる音もした。
それは龍のように蛇行しながらハシビロコウを取り巻いた。さらに白い棘が闇の地面をひた走る。寒々しい音と感触は正に
氷結のそれだった。身じろぎもしない怪鳥の足が凍りつき、散らばる塗装缶ともども地面に癒着した。

 茶髪は、中指を立てた。

「何やったか知らねーがこっちは複数いるんだぜ? 果たして全部避け切れるかテメー!」


 ああ、憂鬱だ。


 首をクイっクイっと曲げて殺意の出所を確かめたディプレスは、深く息を吸った。


 詐欺だと思った。銃声はひどく旧式銃の気配を帯びているのに、やってくるのはプラズマを帯びた超高熱の奔流だ。
 トマホークの方もひどい。古めかしい野球漫画のように分裂している。迫りくるそれは今や100近い。幻影かと思ったが
質感はあまりにリアル。ナタの質量とカミソリの切れ味を帯びている。張り巡る網は飛んで避けるという選択肢を確実に
阻むだろう。触れれば粘着するか切り裂くか、とにかく行動を阻害する特性なのは間違いない。だいたい足元が既に
凍りついているのが宜しくない。氷は強い。ホムンクルスの高出力でもすぐには剥ぎとれないほど強烈な氷結。


 普通に考えると、「詰んでいる」。まったくその通りだと思う。


 ああ、憂鬱だ。


「この程度の特性4つでオイラ殺せると思ってるお前らの程度の低さがwwwwwww憂鬱だっぜwwwwwwwwwwwwwwww」

 まず100本近いトマホークがハシビロコウの周囲で爆ぜた。橙色の火花と破片が舞い散る中、白く輝く極太の光線が
奇妙な鳥を飲み干し、100m先の壁をブチ抜いた。轟音が響き工場全体が揺れた。しかし光の行き過ぎた場所に佇む
ハシビロコウにみな……息を呑む。

「ブヒヒwwwwwww はい効きませーん! 効きまッすぇっええええーん! オイラの能力ってばマジ無敵ーーーーーーーー! 」

 彼はまったくの無傷で、

「ま、足の氷は溶けたがね」

 足を震いしぶきを飛ばし、それから翼を腰に当て、ゆっくりと舐めまわすように茶髪を見た。



 茶髪は見た。
 いよいよ攻撃が当たるという瞬間。
 無数の細長い影が、ディプレスの周囲に現れるのを。シャープペンシルほどしかない影は工場の闇の中でも一際異彩を
放つほど色濃く、彼が知る何物よりも黒かった。
 最初ふわふわと浮遊していたそれらが攻撃を開始するまでさほどの間は要さなかった。影は、一斉に飛んだ。100本ある
トマホークを総て事もなげに撃ち貫き、火花とともに分解した。先ほどチンクエディアを阻んだのもその特性だろう。茶髪が持
つ愛刀は柄から先が、なかった。

(武装錬金を壊した……ってぇところまでは分かるけど、)

「熱戦に呑まれて無事なのは不可解……って顔してる? ねえ、そんな顔してる? ねえ!」

 声が、意識を現実世界に引き戻す。下卑た声だった。言葉の端々に不快な響きが籠っている。わざと、だろう。このハシ
ビロコウは他人を煽り立て蔑(なみ)するためだけに言葉を選んでいるようだった。

「ヒントwwww 後の壁wwww 見てみwwwwwwwww」

 茶髪は振り返り、工場の壁を見た。先ほど光線が貫いたそこは奇妙な破壊痕を残していた。
 よくアメリカのカートゥーンでウサギだのネコだの叩きつけられた壁が彼らの形に「抜かれる」描写がある。
 工場の壁は、それと反対の現象を起こしていた。破壊され、円形に「抜かれた」壁の中で、ハシビロコウの形だけが残っ
ていた。そこだけ切り取ればハシビロコウの看板が出来るほど、綺麗に。
 身震いが起こる。眼前の敵の異常さがいよいよ分かってきた。その武装錬金の攻撃力はチンクエディアを破壊された
時から薄々気付いていたが、しかし熱線に呑まれながらもそれを耐えしのぐというのは理解の範疇を超えている。

「まwwwwww普通のチンケな悪党ならここで『冥土の土産に教えてやろう』とかいって能力ばらすんだけど」

 悲鳴が届いた。否。悲鳴のような叫び声が、茶髪の耳を劈(つんざ)いた。もし彼があと数秒命を永らえていたとすれば
叫びの正体を理解しただろう。何を言われているか、理解できただろう。

「避けろ」

 と。

 ひゅらりと舞い上がったハシビロコウが彼を通り過ぎ、静寂が訪れた。
 背中合わせの彼らは3mほど離れていた。
 着地し、大きな翼を畳んだディプレス=シンカヒアの背後で茶髪の首が螺旋状にきりもみながら宙を舞い、工場の端々から
どよめきが巻き起こる。

「冥土の土産は死亡フラグwwwwww 敵の前で茫然自失する級のなwwwwwwwww だから、教えてやんねー」

 ああ、死んだ。
 ああ、憂鬱だ。

 思考とは裏腹に、ディプレス=シンカヒアは歓喜に身を震わせた。

 戦士という奴は。
 人間という奴は。
 信念という奴は。

 なんと脆く、破壊しやすいものなのだろう。
 そんな脆い物が充満し、そんな脆い物に支えられている世界はひどく憂鬱だった。

 血の雨が、降った。

 神経と筋の雑多な束も剥き出しに、茶髪の首が地面に落ちた。


 それを分解した黒い影を胸に仕舞い込むと、ディプレスはゆっくりと歩みを進めた。

 直立する赤く大きい筒の裏から。
 朽ち果てたベルトコンベアーの後ろから。
 堆積するパレットとガラクタ山の背後から。

 戦士達が歩いてくる。中央の禿頭の男はリーダー格なのだろう。その右で銃を弄びながらやってくる男はスレた様子を差
し引いても10代後半らしい幼さがある。額にバンダナを巻き、いかにも傭兵風で、くちゃりくちゃりとガムを噛んでいる。は
ちきれそうな筋肉で上半身を覆った男は30後半か。「いかにもインディアン」という服を纏い、岩のような顔面を微かに波打
たせている。

 年齢も立場も、恐らく国籍さえもばらばらかもしれない彼らだが、一つだけ共通点があった。
 能面のような表情をしながらも、全身から激しい怒りを迸らせている。

「お? お? オイラ斃そうって訳かwwww ビビってないのね?」
「…………」
「…………」
「…………」
「むしろオイラを殺せば仇は打てる、引くわけにはいかない。ここで逃せば犠牲者が増える。だから、タチムカウ」
「…………」
「信念だよなあwwwww 誇り高いよなああああああああwwwwwwwwwww 正直尊敬に値するし感動的だわマジwwwwwwwww
この勝負精神的なバクゼンとした要素で判断すんならお前らの方が勝ち、勝ち。オイ良かったな勝ちだぜお前ら!」
 でもな、と大きな嘴が品なく綻んだ。

「お前らが必死こいて守ろうとしてる人間。あいつらの中にはだねえ」

「大企業の社長とか、アイドルとか、大物政治家とか、上手くやってる奴が躓く様を見て」

「喜ぶ奴らが確かにいる。つまりオイラの様な性根の腐った輩どもをwwww必死こいて守っている訳だwwwwwww」

 戦士たちの顔にわずかだが変化が訪れた。

「連中はクズだじょお?  お前らが傷つき、幾つもの挫折を涙と共に乗り越えている時に奴らは部屋で寝そべって尻を掻き、
無気力な目でテレビを見ている。使命の為に何かを犠牲にしたとして、民衆はそれを決して贖(あがな)わない」
「……」
「ふへへ、キタキタ鬱ってきた! 憂鬱な言い方しちゃうとだねえ『駿馬とて悪路を走らば駄馬と化す』。うんコレ、これだよ?」
 誰からともなく舌打ちが漏れ、露骨に視線が逸らされた。
 にも関わらずハシビロコウはそれを面白がっているらしい。右の翼を高々と上げ、ペラペラと喋りはじめた。
「はいココで白状ターイム! あ、こっからオフレコなwwwwwwwwww 実はお前ら、守ってやってる連中に不服の1つでもあ
るだろ? お、目ぇ背けたな端っこのお前wwwww 図星か? お? おお? いいからいえよ? な? 化け物と戦う毎日で
恋人もできず仲間が死ぬばっかりの辛い非日常を必w死wこwいwてw生きてるのに、守ってやってる連中ときたら何も供出
してくれないよなああああああああ? 奴らが一度でも失くしたモノ以上のモノ、与えてくれたかあああ? あるならいえよ
信じてやるからwwwwwwww ほら、ほらっ、俺が間違っているっていうなら証拠出せよwwww」
「それでも耐え忍ぶのが、戦士だ……」
 禿頭の戦士は正に唾棄するように言葉を絞った。
 ハシビロコウは爆笑した。柏手さえ打った。
「はーい出た定型句! キタコレ! キタコレ! あんた残り4人の中で一番偉いだろwwwwww 迂闊なコトぁ吐けないもん
なああwwww 敵の、ホムンクルス、落伍者の! 文言肯定したら士気ガッタガタだもんなあああwwwwww だから無難な
定型句吐いたんだろ? 社会でちゃんと積み重ねてそれなりの地位つかんだ奴ってのはみんなそうだもんなあ? 地位相応
の責任を守らなきゃいけないから、定型句ばかり上手くなるんだろ? な、な? ちょちょちょwwww オイラの目ぇ見てwwww
話したくもないってカオされるとwwwwマジでwwww傷つくwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwああヤベまた鬱ってきたwwww」
 言葉通りの感情を味わっているのか。彼は一度大きく俯いた。
「飢え餓(かつ)え、わずかな報いと救いを頼りにするもそれはなく、墓標に餞(はなむけ)向けるは身内のみ……。想像する
だに憂鬱な生き方。考えるだけで嫌になる。ああ。憂鬱だ」
「……?」
 ひどく暗い声だ。打って変った態度に戦士たちは顔を曇らせた。
「なーんつっていまのウソウソ。でもおまえら、じーぶんらしく、生きてますか? 気持ちイイこと、そーこーにありますかあ?」


 何かが決裂する音をきっかけに。
 戦士たちが、跳んだ。


「ブヒヒwwww オイラはいつでも嫌われもんだよなあ。たった一度の挫折のせいで、ああ辛い」

 ハシビロコウは、嘲るように笑った。


 44口径から放たれたとは思えぬ光の万倍の奔流が、彼を飲み干した。




 そして、
 廃工場に、
 とびきり不釣り合いな歌が、

 流れた。




「♪何でも自分で出来るーって、強がるだけ強がってもね」


 灼熱地獄の中で、無数の影が、ネズミ色の体から湧きだした。


「♪君が居なきゃなんもでーきないし」


 先ほどトマホークを分割した細い影。無数のそれが『光を引き裂きながら』、ディプレスの左翼へ流れた。


「♪こんなちっぽけな部屋が今じゃ、ちょっとだけ広く見えるよ」


 翼の上で影たちは整列し、一つの形を描いた。


「♪冷蔵庫開けりゃ、なんもありゃしないや」


 小魚の群れが大きな魚を描くように、ただ一つの姿を、描いた。

 ”それ”は翼を広げた鳥だった。
 ”それ”は鳥と航空機の相の子のようなフォルムだった

 ”それ”は神火飛鴉(しんかひあ)という古代中国の攻城兵器だった。

 本来は腹部に装着した4本の火箭で攻撃を行うが──…


「さぁ!」


 翼を広げた武装錬金を、ディプレス今度は自らの翼に装着、深く深く息を吸う。


「吸い込んでくれぃー♪」


 パイルバンカーよろしく突き出した神火飛鴉の尖端で、激しい熱が分解されていく。


「僕の寂しさ、孤独を全部君がー」


 次から次に襲い来る大口径の熱線は流石に分解しきれない。自分とその周囲数cm分殺すのがようやくという有様だ。


「さぁ!」


 ディプレスは、地を蹴った。やったコトはただの、体当たり。至極簡単で、単純な──…


「噛み砕いてくれぃー♪」


『熱線を分解しながら、その大元へ突撃する』、捻りも何もない、体当たり。


「くだらん事悩みすぎるー」


 彼の左翼の先で傭兵風の男の体が跳ねた。貫かれたのは左胸。手から銃が落ち、嫌な音。


「僕の悪いクセを!」


 ディプレス=シンカヒアはとても嬉しそうな叫びをあげ、左翼を振った。


「さぁ!」


 瑞々しいハート型の臓器がずるずると引きずりだされ、塵と化した。


「笑ってくれぃー♪」


 残り2人が獣のような咆哮を上げ、駆けだし、トマホークが投げられ、網が擲(なげう)たれ


「無邪気な顔で、また僕を茶化すよぉに♪」


 無数のそれを無数の影が寸断した。


「さぁ!」


 幾つかの影は綺麗な円弧を描いた。唖然とする戦士2人の背後へ、回りこみ


「受け取ってくれぃー♪」


 2つの額を撃ち貫いた。戦士たちの頭部はまるでハエが飛び去るように分解され、消滅した。


「この辛さを、さぁ分けあいましょうぅぅぅ〜」


 生物だったモノが両膝を付き、前のめりに倒れた。


「さぁ!!」


 そしてディプレスは、視線を下ろす。
 まだ少し氷が残り、まだ冷たい足を見て……


──「この程度の特性4つでオイラ殺せると思ってるお前らの程度の低さがwwwwwww憂鬱だっぜwwwwwwwwwwwwwwww」
──「はーい出た定型句! キタコレ! キタコレ! あんた残り4人の中で一番偉いだろwwwwww」

「撃墜率75パー。いや8分の7か? とにかくああ、憂鬱だ」


 とだけ笑った。


 当事者 3




 冗談じゃない。


『最後に残った戦士』は叫びたい気持ちで走っていた。

 廃工場の敷地はすでに出た。いまは全力疾走仲。視界の横をギュンギュン過ぎるは高い塀。世界と工場、区切る塀。

 来るときはここを8人で通り過ぎた。
 まず頬傷の戦士がやられた。次に2名。次に茶髪。向かっていった3人も恐らくは、もう。
(7人が瞬く間にやられた。俺が最後の1人)

「お前は逃げろ。やられた連中の核鉄を回収し、戦団に連絡しろ」

 走るたび、ポケットの中で3つの核鉄が小うるさく打ち合う。戦闘初期に死んだ奴らの所有物。よく戦闘のドサクサにまぎ
れ回収できたものだと思う。

「ハシビロコウの足を凍らせた時に」

 落ちている核鉄にも氷を伸ばし、引きよせた。もしそれを見咎められていたらタダでは済まなかっただろう。
 世界に100しかない核鉄は、戦士にとってもホムンクルスにとっても重要な物。
 もし相手の戦士殺戮が目的ではなく手段──核鉄を奪うための──に過ぎなかったら、回収を見逃す道理はない。

 角を曲がる。素早く滑りこみ、背を預け、首を伸ばし、元来た道を伺う。ハシビロコウが追ってくる気配はない。空も然り。
(だが、あの分解能力にかかれば障害物は障害物足り得ない。捕捉されれば最短距離で突っ込まれる……。急ごう)
 急ぎの時ほど携帯電話は通じない。
 火急の時だ。とっくに戦団へ連絡を入れている。駆けながら掛けている。だが圏外。工場の中でも、前でも。
 角を過ぎたあたりでやっとアンテナが1本立ったが、そこで悠長に突っ立って長電話という訳にもいかない。

 どこかで何かが爆発する音がした。

 例えれば中学生が遊びで使う爆竹のような。ぱーんと弾けるだけの、聞くからに弱々しい爆発音。

(?)

 違和感が過ったが、追及する猶予はない。

 駆ける。
 駆ける。
 駆ける。

 ハシビロコウのいる工場から、少しでも遠くへ向かって。


 自分はよく言われる。20の半ばをすぎたにしては「冷えている」。
 短く切った髪の下でいつもうっすら閉じている目はドライでクールな人間の証だとさえ言われた。
 だから「闇を凍らせ操れる」、軍靴の武装錬金を発動できるのだ。
 仲間を見捨てて逃げるいまの状況を許せるのだ。
 彼らへの哀惜と復仇の念は胸の中で渦巻いているが、全滅だけは避けなければならない。
(全滅を避け、敵の情報を伝え、新たな犠牲者が出ぬよう対策を練り、ひとつでも多くの核鉄を戦団に戻す)
 それが敗北への対処なのだ。直近の犠牲者3人はそのために戦った。『足止め』をした。

 また、爆発音が響いた。しかしそれは些か遠かった。工場を挟んだ更に反対方向からしているようだった。

 ともすればあのハシビロコウは自分を見失っているのかもしれない。

 息をひそめ、足音を殺して走る。
 先ほど同様「闇が降りている」地面を凍らせて滑っても良かったが、その痕跡を辿られては元も子もない。機動力は鳥の
方が上なのだ。
 正しい方向性を与えてしまうと、勝ち目はない。
 一時の速さと優位に目が眩むあまり重要な証拠を渡してはならない。

 ここは昭和の残滓だった。高度経済成長期を支えた工場が、時代に取り残された廃工場が密集し、フクザツな地形を
形作っていた。
 幸い地理については作戦前しっかり叩きこんでいる。
 袋小路に迷い込み、敵に追いつかれる心配は絶対にない。
 繁華街へ最短距離で駆ける。携帯電話が通じずとも繁華街なら連絡手段は幾らでもある。
 駆けるうち行く手を阻む高い塀が見えた。袋小路だ。事務棟だろう、高いビルが塀に密着している。
 常人ならまず絶望の地理条件だが、

 予測の範疇だ。

 迷い込んだのではない。着いたのだ。

 塀の少し前を蹴る。果たしてつま先にコツリとした感触が当たった。
 ロッククライマーは山肌にあるわずかな隙間に指を引っ掛け登攀(とうはん)するというが、自分もそれだった。闇を蹴れ
ばその形に「凍る」。つま先の形にヘコんだ氷はこの上ない足がかりだ。それをバウンドさせる。浮遊。6mの塀が既に眼下だ。
(造作もないコトだ。震脚の衝撃で長距離を凍らせる事に比べれば)
 闇を凍らせ足場を作り──まるで階梯を登るように、時々は跳ね──事務棟屋上へ向って跳んでいく。障害物が意味を
なさないのは自分も同じだった。だからこそ、仲間は逃げ役を任せたのだろう。空間を凍らせる場合、痕跡は地面ほど露骨
でもない。辿られはしない。

 また爆発音が響いた。それはやや自分に近づいているようだったが、1kmほど離れているようだった。

 疑問が浮かぶ。相手の能力は「分解」。無論その対象によっては爆発も起こるだろうが、

(3度連続で……? 妙だな)

 思案に暮れつつ飛び移ったビルの屋上から見えたのは、ネオン犇(ひしめ)く街通り。
 時計を見る。駆けた甲斐があった。
 予定より5分早く繁華街に到達している。目的は半ば達せられたといっていい。





 不自由な両手と両足の代わりにと、母は様々な物を買ってくれた。
 何より嬉しいのはシリーズ物のぬいぐるみがまるっと1揃えでやってきた時だ。
 1揃えというのはつまり欠損のない物であり、家族全員がキチンと揃っているような物だ。
 その完璧ぶり、寂しさのなさは眺めていて本当に感動的だった。
 逆に1つでも欠けているシリーズ物を見ると途轍もなく寂しい。
 もし手違いで残りの1つがお店に残っていたとしたら。そう考えると奇妙な罪悪感に見舞われた。
「みんなで楽しくやっていたのに、自分のせいで他のみんなが取り上げられ、1人ぼっちでショーケースにいるとしたら」
 それはとても申し訳のないコトだった。考えるだけでベッドの中で泣くほど、寂しかった。
 それを母に伝えるとどんなに忙しくても残り1つを買ってきてれる。
 良かった。ショーケースの中で1人ぼっちじゃない。みんながいる。安堵する思いだった。

 屋敷の使用人たちも家庭教師も、自分にとっては大事な家族だった。
 ショーケースに取り残され不自由な思いをしている自分に救いをくれる、大事な大事な人たちだった。

 物事を問わず、『奪う』という行為は良くない。それが自分の信条だった。
 ちゃんと揃っている物から一部分だけを奪い、不完全な状態で放置するのは良くない。
 隣に、或いは近くにあるべき物がないのは寂しく、辛い事だと思うのだ。

 武装錬金は人の精神、闘争本能から発現する。
『強欲』を満たすのにピッタリな特性は、きっと幼少時代の思いが育んだのだろう。






 コンビニを見つけ、公衆電話を見つけ、いよいよラストスパートに入ろうとした戦士に。




 違和感再び。




 7人の仲間を殺したハシビロコウに似た、嫌な感じが全身を貫いた。

 周囲を見回す。人通りは多い。コンビニに入る者出てくる者、前の歩道を行き交う者。
 みな、殺意はない。携帯電話をいじったり横の連れあいと軽口を叩きあったり、或いは無言で足早に歩いたり。
 嫌な感じの出所は彼らではなかった。
 にも関わらず、恐るべき感触はいまだ全身を包んでいる。
 理由は不明。だからこその戦闘準備。
 ダブル武装錬金。
 軍靴にはやや不向きだが、やらないよりはマシだった。
 幸い、ポケットには核鉄がある。
 それも、3つだ。

 3つも、ある。



【物事を問わず、『奪う』という行為は良くない。それが自分の信条だった】

【ちゃんと揃っている物から一部分だけを奪い、不完全な状態で放置するのは良くない】

【隣に、或いは近くにあるべき物がないのは寂しく、辛い事だと思うのだ】



 戦士は、見た。



 核鉄を入れているポケットの前に、「目」が浮かんでいるのを。
 彼は慄然とした。公衆電話に駆け寄るという使命を、一瞬だけだが忘却した。
 ひどく大きな目だった。掌大の核鉄とほぼ同じぐらいだ。
 しかも黒眼の両側に稲妻のような瑕が刻み込まれているのは、つくづく異様で──…

 3つも、ある。

 更によく見るとそれは、何かの渦の中から自分を凝視しているようだった。
 なぜなら。
 確かに見た。
 3つの眼が、息を呑み後ずさった自分を、

 『目で追った』のを。





【世界に100個しかない核鉄も、例外ではない】




 戦士は踵を返し、全速力で駆けだした。
 決して平静ではない。5枚ばかりの100円玉を抜き取った財布が地面に落ち小銭と紙幣をばら撒いた。
 落とした携帯電話さえ踏み砕き、彼は公衆電話目がけてありったけの速度で駆けた。

(あの目はなんだ? 分解とは違う。何の能力? 楯山千歳と同じレーダー系列? それとも……?)

 怜悧ゆえの錯綜を意思の力で振り払い、走る。
 まずは戦団に連絡だ、連絡をしなくてはならない。硬貨を電話に叩きこみ乱暴な手つきで戦団へコールする。
 ダブル武装錬金を使うという選択肢は、とっくに忘れ去っていた。

「早く出ろ! こちら糸罔(いとあみ)部隊! ほぼ全滅、生き残りは俺1人! 増援を! 核鉄回収を!!」




【幼少期に揃えたシリーズもののぬいぐるみのように、揃えなくてはならない】





 視界が急速に戦士へ近づいていく。映画とかでよく見る光景だ。何か、ひた走る怪物が獲物に迫る時の急速なズーム
アップ。相手が画面を見て怯え叫んでいれば完璧だが、あいにく電話口で喚くばかりだ。期待に沿わない。
 とにかく、急速なズームアップは止まらない。
 ただしいま私が見ている光景……カメラの作った物じゃない。




 目を宿した奇妙な渦。それが通話中の、半狂乱の戦士めがけ轟然と疾駆する。

「敵は2人ッ! うち1人は『火星』! ハシビロコウ! 応答しろ、ディプレスは生きている! クソッタレ! 早く出ろ!」

 悪態さえ付き、公衆電話を叩く彼のポケットの前で、渦は止まった。

「俺は見られている! 長くは持たんぞ! ディプレスは生きている! 頼むから出ろ、出てくれ! 伝えさせてくれ!」

 視線が合う。
 一瞬恐怖に硬直した彼の顔がみるみると紅潮した。次に罵声──まったく聞くに堪えない、非・理性的な──が飛び出し、
軍靴が渦めがけ振り上げられた。

 彼にとって不幸だったのは、ここが繁華街だというコトだ。コンビニの蛍光灯やネオン、街灯の光が交錯するこの場所に
凍らせるべき闇は一片たりとなかった。もし闇夜の中であれば、勝敗はともかく、戦う余地ぐらい生まれただろう。

 渦の中で目が消え、代わりに。

 赤い円筒が3つ、跳び出した。
 渦1つにつき1つの円筒が。

 500mlのコーラ缶に似たそれは、
 戦士の顔面に容赦なく直撃し、
 2つの眼球を潰し
 鼻骨を陥没させ
 喰い込んで
 大爆発し
 殺した。




 一拍遅れ、乾いた小さな破裂音が繁華街に響いた。



 顔面が弾けた戦士は慣性の赴くまま足を高く、高く高く高く頭上まで振り抜きどうと倒れ伏した。
 柔道の受け身のようだった。騒ぎを聞きつけコンビニから出てきた店員は後にそう証言した。


「連絡受理しました。糸罔(いとあみ)部隊、応答せよ。定時連絡がなかった。何かあったのか?」

「応答せよ」
「応答せよ」
「応答せよ」

 糸で垂れる蜘蛛の如くぶら下がる緑の受話器の下で、戦士のポケットが内側から爆ぜた。
 3つの核鉄が飛び、3つの渦に吸い込まれ、そして消えた。
 入れ替わるように再び目と渦が現れた。今度は死体の足元に。剥きだしの素足の上で目が核鉄を捉えた。武装解除され
た軍靴のなれの果てを、捉えた。そして渦が怪しくさざめき、再び核鉄を吸いこんだ。

「いまの音は何だ?」
「応答せよ」
「応答せよ」
「応答せよ」

 戦士の死骸は……永久に応えるコトはなかった。
 代わりに蜘蛛の子のように繁華街のあちこちからやってきた群衆に取り囲まれ、悲鳴と好奇と写メール撮影の餌食となった。






「楽しーんだよなあww信念って奴を理w不w尽wにw砕いてやるのはwwwww」

「一生懸命積み重ねても、横合いからカンタンに崩されますよって知らせてやんのは!」

「ブヒヒwww 見ろよwww さっきの戦士のグロ画像、もうネットに上げられてやがるwwwwww」

 自分を守ってくれる側の人間とも知らず、好奇心という名の侮辱を死体に振る舞っている。ディプレスは大爆笑だ。

「とにかくぜぇーいーん、解体(バラし)かんりょー! 理由? なにやられようと立ち上がって頑張るから。そーいう奴らいると
オイラどものような挫折人間が相対的にクwズwっwちwまwうwwww 世間はいいます立ち直れる人間は確かにいる、それが
できないのは勇気がなくて臆病で、とかくとにかくお前が悪い! と!!!」

「ハッ! 訳のわからんアホのせーで真っ当な努力フイにされた悲しみも失意も燃え尽きも何ら一切補償しねえのに、世の
中って奴ぁ落伍者ばかり悪とする、本当、憂鬱だっぜ!」

 暗い空間で相方の独白を聞きながら、核鉄を眺める。今日はいい日だった。100ある核鉄のうち8つが手に入った。
 触れる事はできないけれど、属する組織に核鉄が貯まっていく。それだけで最高だ。
 離れ離れだった100の核鉄が集まるのを想像すると暖かい気分になれた。
 欠如は、埋められるべきだ。

「しかし『デッド』、相変わらずお前の能力はマジ便利wwwwww 逃げる奴なんざ楽勝で追跡できるwww

 ディプレスはそういうが、あまり便利といえる特性ではなかった。逃げた戦士がたまたま条件を満たしていた。それだけだ。
 しかも条件が満たされてようやく、人間がやるような地道なローラー作戦をしなくてはならない。
 正直言って自覚がある。逃げる相手を追跡するにはまったく不向きだ。

 もっともそれは単体ならば……だ。もし仲間の武装錬金がサポートしてくれるなら、『条件』を満たしてくれるなら……。
 或いは追跡向きになるかも知れない。私の『ムーンライトインセクト』は。

 とにかくだ。もし彼が、戦士達が無欲であれば自分の武装錬金が猛威を震うコトはなかっただろう。
 戦団が100ある核鉄を『奪わず』、最初から私の属する組織に納めていれば、あの戦士とて死なずに済んだに違いない。
 よって戦団は悪だ。『奪う側』だ。
 だから。
 あの戦士の顔面を爆破した時は、すこぶる気持ちが良かった。

 奪う側にいる人間は、殺してもいい。




「ん? ん? ほーう。なるほど手違いで奪われたのかwwwww じゃあ思い知らせてやらねえとなあwwwwww」

 自分のいま抱えている問題を相方に話すと、彼は上機嫌で乗った。

 本当にゲスで。
 クズで。
 自虐的で。
 無慈悲で。
 
 およそ褒められた部分のない相方だが、研究や戦闘がらみだと俄然頼りになる。そこだけは、認めている。

 彼の武装錬金「スピリットレス」(いくじなし)は攻防に秀でた武装錬金だ。
 基本形状は神火飛鴉(しんかひあ)を模した鳥と航空機の中間のようなフォルムで、ちょっとした大型ラジコン飛行機ほど
の大きさだ。
 特性は分解。
 生物や金属、人口建造物はいわずもがな、ホムンクルスや武装錬金も例外ではない。さらにエネルギーを絡めた攻撃や
炎、毒ガスといった類の「実体のない攻撃」でさえ分解できる。
 研究班の調べでは、ディプレスの憂鬱な精神が武装錬金生成時に未知の暗黒物質へと変換され、それがプネウマとか
いう「物体を繋ぐ」物質を破壊しているらしい。

 ウワサによればその能力、かつて人工衛星からの強烈な極太レーザーを真正面から受け切り、難なく分解しきったともいう。

 それが事実かどうかはさておき、研究と戦闘において頼りになるのは事実。
 さっきの戦闘にしても、私は(核鉄目当てで)伏兵として工場の隅っちょに転がっていたが、まったく出番がなかった。ちな
みに武装錬金を発動した状態で共同体殲滅の辺りから「居た」が、誰もまったく気にしてくれへんかったけど……。ぐすん。
 やったコトとといえばラスイチの追跡のみだ。あとは全部ディプレスが片付けた。
 月並みな感想だが、あんな恐ろしい能力を躊躇なく得手勝手に使える性根の腐り加減。相方の私でさえ恐ろしい。
 正直、私事に彼を借り出すのは恐ろしくもあるが……。
 諸事情で「手足」になる仲間が必要だから、仕方ない。

 申し出から2時間とかからず、ディプレスは最初の原因を取り除いた。


「ああ、憂鬱だ。入れ替わりに入ったバイト店員にちゃんと引き継ぎしないからwwwwwwwwwww」
あとは、「奪われた物を奪い返す」だけだ。

「なぜ……なぜ……娘は先月、やっと立てるようになったばかりだったのに……」」

 ブザマな嗚咽と悲痛な叫びが装甲一枚向こうから響く。ある店でバイトしている彼はしゃくりあげているらしかった。
 確かに、私の顔の傍にある半透明の「フタ」には赤黒い液体がべっとりと付いている。ディプレスの分解作業の成果だろ
う。乳児と、その母親の出し尽くした体液が洒脱なカーペットをすっかり汚している。
 困った。
 迷惑料代わりに売ろうと思っていたのだが、様々な清掃コストが発生してしまった。
 まったく。入室した時から目を付けていたのに。バイトで妻子養っている割には高価そうだったのに。
 ああうるさい。泣くな。
 泣くヒマがあるならカーペットから血糊を抜いて、私に少しでも多くの迷惑料を払えるよう務めるべきだ。
 しょせんバイトだ。商売に対する気構えというものがまるでない。
 こいつが最初にした失敗から分かっていたコトだが、やはり奪う側の人間はどこまでいってもダメだ。
 はぁ。血だけ分解しろってディプレスにいっても、絶対カーペットまでやるやろうしなぁ。奴はそーいうやっちゃ。


 とりあえず私は、ディプレスにある物を出すよう提示した。

 すると30過ぎのバイトは、息を呑んだ。


「あ、あるならどうして俺の家族を……」


 まあ確かにそうだろう。現物は、ある。ただし奪われたものその物ではない。


「ばーかwwww あいつと商売しといてミスったお前がわーるーいwwwwwwwww それに、大量生産品でも分子的にはまっ
たく違うもんなんだよwww あいつはその辺こだわるからなあwwwww」

 下卑た囃しを聞くたび嫌になる。相方をやっているのは足として便利だからだ。相方以上の付き合いは決してしたくない。
例えばグレイズィングとかイオイソゴとかいった幹部連中も相当性根が腐っているが、ディプレスに比べればまだ「理知」
という奴は持っている。彼女らの前歴には同情すべき点もあるし、イソゴちゃんは妹みたいでキュートだ。メ、メールアドレ
スの交換ぐらいならしたってもええよ? 仲良くしたいとかそういうのじゃなくて同じ幹部だから緊急連絡先ぐらいはホラ知っとい
た方がえーやろ。で、たまーにしょーもない話してちょっとずつ絆深めたりとか、ええやん? いまは空席の海王星とか冥王
星も女のコがやったらええねん。嬉しいわあ、そうなったら。幹部連中の男の人はみんな話あわへんもん。ウィル君はイケ
メンやけどめんどくさがりやからあまり仲良くできひんし、ディプ公はアホやし、天王星死んだし、土星はただのバケモンやし。
 盟主様だけやわ。男の人でメールきたら嬉しいの。

……。

……。

……。

 え、ええと。

 それはともかく。
 モノにはそれぞれの人生がある。例えば別々の店からシリーズ物を1本1本取り寄せて全部揃えるコトに意義は見出せ
ない。同じ店に入荷された以上、それらはきっと家族なのだ。家族のうち1つだけが買われ後がずっと棚ざらしというのは
良くない。まったく良くない。同じ店にある物は、全部一緒に買うべきなのだ。

 別の店でたまたま1種類だけ残っていたモノ。

 それを、地面に置く。
 念ずる。
 装甲の向こう側で「開く」音がした。次いで爆音。
 私の武装錬金の特性……繰り返すが、単体ならば、逃げる相手はとても追跡しづらい。
 条件を満たしていても、だ。

 逆に、1か所に留まっている相手ならば容易に捕捉できる。
 諸々の情報から一気に場所を絞り込み、特性の餌食に出来る。
 宝探しは得意だ。装甲の暗い内側にパネルが表示された。

 ……うわ。結構ある。人気やからなー。

 っといけない。首を振り気を引き締めよう。欠如が埋められるか否かの瀬戸際だ。しっかりしなくては。

「ん? 売った奴の風体と情報? おしっ、オイラが聞いてやるwwww」

 いろいろとヒドい音がした。自業自得や。ウチは取り置き頼んだんやで。約束破るとかなあ、ヒドいわ! めっちゃ泣いた
んやで……。

 う、うん。駄目だ。思考はもっと冷静でないと。

「あいつ吐いたぞ。売った奴の住所と名前w もともと会員で、変わった名字だから覚えていたらしいw」

 悲鳴が妙な途切れ方をしたのは気にしないでおこう。多分一家全滅。ああまたカーペット汚れとる。もう売れへんなあ……。

 モニター越しにメモが見えた。見なれた相方の文字はひどく達筆だ。確か書道5段とか。ウィルの奴もいってたけど、あの
性格で字が綺麗というのは腹立たしい。ま、ウィルの場合、『むかしの恋人』が字ぃ上手かったからからな。ディプレスが同じ
特技持ってるのは感情的に許せないんだろう。

 もっとも字が汚いならそれはそれで嫌だ。そもそも、達筆を見せつけられるコト自体が腹立たしい。

「……あんた、初対面の時からウチが字ぃ書けへんの知っとるやろ」
「えw マwジw じゃあ練習しなきゃ! ねえ、ねえっ!」

 煽りは無視。目的に向かってのみ進む事とする。

「名前は……二茹極貴信か」

 別のモニターにここら一帯の地図を映す。次にここを中心にした円を重ねる。円の半径はそのまま射程範囲だ。その中で
赤く点滅する点は「さっき爆破した物」と同じ物を示している。いま一度、地図を見る。二茹極貴信とかいう奴の住所は円の
かなり外だ。とりあえず、そこから一番近い点を爆破する。範囲が広がった。古いマルと新しいマルが雪だるまのように重なっ
た。だが惜しい。二茹極貴信の住所は新しい円からちょっとだけ離れている。爆破はもう1回必要だ。二茹極貴信の住所に
一番近いところを。大丈夫。周囲に人がいないかどうかは確認済みだ。さっきの戦士のように殺したりはしない。ちょっと爆
竹鳴らす程度の爆発だ……。

 円が、二茹極貴信の住所を覆った。




  当事者 1&2

 貴信と香美がいつものようにCDを聞いていると、プレーヤーの上に目が現れた。
 目は渦の中でネコと飼い主を見比べると、そのまま退き……。
 代わりに強烈な吸引力を以て、2人を引きずりこんだ。








「…………貴信さん達がホムンクルスになったのは」
『そう! その後だ!!』










 羸砲ヌヌ行は語る。武藤ソウヤに滔々と。




「彼らが体を共有するに到ったのは、君のご母堂の故郷が『ああなった』頃だ。ピッタリ同時ではないけれどほとんど同じ
頃なんだ。ウィルが改変した時系列において火渡赤馬と毒島華花が出逢ったのもまた……この頃。正史がどうかは知ら
ないよ。改変後の、イレギュラーな歴史において出逢ったのはこの頃……例の西山絡みさ」

「西山といえば彼の武装錬金……ギガントマーチだったかな。総角主税が、もう1つの調整体をめぐる戦いの端々でアレを
使えたのは、だいたいこの頃のお陰なんだ。……そ。出逢った。出逢っていた。これもまたウィルの歴史改変による歪みの
1つさ」 


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