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──接続章── ”2つの声重なるとき最高に強くなれる”





『いつでもマイナスからスタート』

『それをプラスに変える』

『そんな出会いがきっと』

『誰の胸にもある筈…さ』



 改竄者にとって大抵の事象がそうである。武装錬金もまた、例外ではない。
 変わりやすい、というコトである。
 ウィルという少年との攻防でいくつもの歴史が生まれ、消えていった。
 総ての戦いに決着が付き、あるべき終止符(ピリオド)に向かって再び動き出した歴史。
 そこに登場し猛威を振るったキドニーダガー。クロムクレイドルトゥグレイブ。
 使用者は鐶光。例外的な存在──総角──さえ除けば発現できるのは彼女だけ。
 皆はそう信じている。改竄と上書きを知らないがため、純然と。

 別の歴史では楯山千歳その人が行使していたとは……本人さえ知らない。

 羸砲ヌヌ行(るいづつぬぬゆき)。恐ろしく奇抜だが本名である。誕生は2010年代。いわゆるキラキラネームが横行し
始めた時期である。彼女の両親はその点についてまったく筋金入りの連中だった。何をどうやったのか人名配当可能か
どうか疑わしい「羸」(意味は”ヤセる”)を姓に組み入れヌヌ行などという可愛気のない、雌雄の識別さえ困難な──どころ
か有機生命体の愛称として適切かどうかも怪しい──名を娘に与えた。

 スマートガンの武装錬金・アルジェブラ=サンディファー。
 それは発生と消滅を繰り返す歴史のなか偶発的にそして必然的に転がりこんできた。
 名前を変え……形状を変え……特性さえ変え──…

 武装錬金は位相を変える。歴史の変化に引きずられ。
 千歳から鐶へキドニーダガーが渡ったように、または円山の風船爆弾が身長消滅⇔爆裂増殖のように。
 時に創造主を変え特性を変え……あるいは形状を変え。
 さまざまな要点を幾つか異ならせながらしかし同一のものとして、誰かの手に。


 かつて武藤ソウヤという少年を過去へと送り出した武装錬金。

 それもまた姿を変えた。ウィルという少年に、時空改変に抗うべく……。

 ヌヌ行自身はその創造主は以前の自分だと思っている。改変とともに今の姿に……とも。
 真偽は、分からない。もしかするとクロムクレイドルトゥグレイブのようにまったく別人から転がり込んだのかも知れない。


だが前世がどうあれヌヌ行は。自らの人生に誇りを持っている。


 決して楽ではない、辛さの多い人生だったとしても……。
 自らの武装錬金で楽な方へ改変可能だとしても……。

 変えたくないと思っている。



.


 ヌヌ行がいわゆるイジメに苦しみ出したのは小学4年の頃である。
 他人(ひと)に対し本音で語れなくなったのもその頃だ。

 彼女はホラ吹きになった。虚言癖を得た。旅を終えてもそれは治っていない。

 きっかけはよくあるコトだ。

 勇気を振り絞りクラスの男子に告白をした。だが彼は既に他の女生徒と付き合っていた。地元では有力な土建屋の1人
娘として大いに権勢を振るい各種学校行事においてはリーダーシップを取る……美しいが気の強い女子と。

 もしヌヌ行がそれ──逆らってはならない者が唾をつけている──を知っていれば漠然ながらも危機を察知し告白を取
りやめただろう。
 だが相手や世間に気を払うにはまだあまりに幼すぎた。
 彼女はただ初めてやる告白にただ必死だった。雑多な状況にまでは頭が回らなかった。ただどうすれば生まれて初めて
の恋心を伝えられるのか考えるばかりだった。純粋なのは悪ではない。ただ世界というのは時に悪ならぬ者をむしろ爪弾き
傷めつけ、絶望させる。長じた後に「ぬかるみ」と評す理不尽な仕打ちが待ち受けているなどとは知らず……。
 ヌヌ行は可愛らしい便箋に「下手だが気持ちの籠った」文章をいっぱい書いた。
 そして半年がかりで仕上げたマフラーもつけ、告白に赴いた。


 地獄の始まりは告白後30分を過ぎたあたりだ。
 言うまでもなく告白は断られた。それでもヌヌ行自身まだそれには納得していた。メガネに三つ編みという地味ないでたち、
頭こそいいがクラス特有の活況には乗れず場末で静まり返っている方がお似合い……女子としては下の方だと自分でも
思っているヌヌ行──だいたいこの名前からして可愛くない。そろそろ始まりかけている思春期のなかうなだれている──
だからフラれるコトは(もちろん凄くショックだったが)、同時に爽やかな気分でもあった。
 一生懸命手紙を書き、マフラーも渡した。叶うコトはなかったがそこへ費やした全力、そして伝えるコトを実行した勇気。
 そういったものは子供に近ければ近いほどこそ味わえる経験だ。
 ヌヌ行はまだ子供そのものだった。
 幼さゆえ何が人生を豊かにするかなど具体的に述べられぬがしかしこのときの感情は確かに真髄を捉えていた。だから
こその充足感。悲しみと達成感の混じったフクザツな感慨は確実に自分を良くしていくのだと涙を拭き、胸を張っていると……
何人かの女子が自分を取り巻いた。


 連れ込まれたのは女子トイレだった。
 以後続発する地獄絵図のなか何度も何度も「このとき逃げていれば」と後悔する刻の中、しかしヌヌ行は訳も分からずおろ
おろするばかりだった。
 まず平手打ちが飛んだ。やったのは例の土建屋の娘だ。瞳から火を噴き頬を抑えるヌヌ行めがけおぞましい金切り声を
上げ始めた。隣には取り巻きの女子が何人かいてニタニタと笑っていた。出口の方にも何人か。見張りだろう。
 世界というのは本当理不尽な側面を有している。十何年かのちやっとこのときを客観視できたヌヌ行はやれやれと肩を
竦めた。土建屋の娘のブッ放した怒り。どうやらかなり入り組んでいたようだ。
 クラスでもトップだという自負。そんな自分の彼氏にFランクの女子が粉を掛けた。無論それもあったようだが──…
 果せるかな。裕福な家と何誌もの表紙が飾れる美貌。カリスマ。クラスでの絶対権力。
 ほぼ完璧に見える土建屋の娘にも欠点はあった。
 ただ一つの、しかし致命的な欠点が


 成績が、悪い。


 もちろん前述の要素を見ても分かるように頭自体は決して悪くない。むしろ幼いながらに持つ牽引力や長たる度量は義務
教育を駆け抜けたのち成績以上の成果をはじき出すだろう。それは美点だったがそれゆえ様々な人間と『遊びすぎた』。学校
の勉強などやる筈がない。他者との交流に比べればいつ使うかも分からぬ歴史年表や数式などまるで関心がない。
 だからか成績だけはとても悪い。この日の朝も口うるさい母親とその点で口論になったばかりだ。


 ヌヌ行の成績はトップクラスだった。
 不幸にも彼女の頭もまた悪くはなかった。幾分内向的で”クラス仲間の動静”なる生々しい世間にこそ興味はなかったが、
それだけに試験などという「いかにもやらないとマズい」事象には勤勉なる反応を見せた。しかも両親は奇人だったが頭は
よく、実業家としてなかなか成功していた(収入だけなら例の土建屋の12割はあった)。その遺伝だろう。
「あいつらに勝つ気はないの!! あなたがしっかりしなきゃ負けっぱなしよあんな奴らに!!」
 気位だけは高い──ブランド物で身を固めた紫髪の──母親がそう説教するたび土建屋の娘は猛反発を見せた。成績
1つ負けていたところでどうなのか。他では全部勝っている。だいたい稼業で勝つべきは父親ではないか。なぜ彼に言わない。
声を荒げそう反問し、子供特有の寂しさと怒りの混ざった残酷な推論を叩きつける。言えないでしょ、最近愛人作られて関
係が冷え切っているから。『あなたこそ愛人に勝ったらどう?』。猛烈な平手が頬を赤く染めた。学校終わったら撮影なのに
どうしてくれるの。待ち受けているのは肌のコンディションについて特に口うるさい50絡みのカメラマンだ。
 これだから財産目当ては。つくづくと侮蔑しながら家を出たのが9時間前。頬の腫れが引かぬためどうすればいいか現場に
聞いたのが40分前。あっそう。あれほど顔は大事にっていったのに。今日はもういい。ピシャリと言い放たれたとき土建屋娘
の怒りは頂点に達した。彼女は幼いながらに仕事を愛し、誇りさえ持っていた。なのに行けなかった。現場の人間がどれほ
ど迷惑を被るのだろう。それは自分の経歴に傷がついたコト以上に気掛かりで、申し訳なかった。
 そこでヌヌ行の告白騒ぎである。
 本来母親に向けるべき怒りの矛の先端を彼女に合わせたのは成績の件も少なからず影響していたが……。
 結局は『与し易い』からだ。
 あのブランド物の化け物は言えば言うだけ狂乱し莫大な損害をもたらすだろう。訴えても解決にはならないし却って下らぬ
ものが積もるだけ……。
 大人しく、いかにも純朴そうなヌヌ行はまったく格好の獲物だった。
 逆らうコトなど絶対なさそうで、予測は見事的中した。、

 安易なカタルシスほどブレーキは効かない。
 行く手に破滅が待ち受けていたとしてもその圧倒的な快美に見入られる
 自制などあっという間にドロドロだ。

 女子トイレでのやりとりは酸鼻を極めた。
 最初は文句と詰問で終わらせるつもりだったがこういう場合収まる道理はない。事前に決めた理性的な「これまで」など
叫ぶうちあっという間に忘却していた。縮こまるヌヌ行にますます怒りが膨れ上がる。この程度か、この程度の人間が自分
より上の成績持ちでしかも自分の責められる材料になっている。遊び呆けて学業を放棄している自分の怠惰など、もしそれ
を懸命に取り除いたところで「コイツには勝てない」、もともと仄かに抱いていた敬意と憧憬ともどもいずこなりへと追いやって、
ガンガン怒鳴り叫び散らす。取り巻きの女子たちの笑いが一層うすら寒くなったのは狂乱する土建屋の娘の醜態──
とても雑誌の表紙に乗れるレベルではない──が面白かったからだ。自分たちなど足元にも及ばない美貌が実に呆気なく
崩れている。取り乱しを窘めるものなど誰一人いない。なぜなら面白いからだ。
 美しさと知性。自分たちの持ち得ぬもの……それを持っているトップ2人の争いほど面白いものはなかった。勝手に醜く
転落した片方がもう片方を抉り苛み、傷つけている。「あのコたちはスゴいのにどうしてアナタたちは」。母親から勝手に
比較され少女らしい繊細な機微を日々傷つけられている彼女たちにとってもまたこの諍いはカタルシスだった。
 だからヌヌ行を助ける道理はない。仮に助ければ今度は自らが娘に責められる。彼女らが厭悪するのは叱責それ自体
ではない。叱責という醜い表情筋の歪みを引き出す物笑いの種。それこそ厭うべきものだった。それゆえそちらに落ちた
場合助けというのは期待できない。結局何となく連れ立って適当な場所で適当に笑っているだけの間柄なのだ。彼女らは。
 そうやって確かなものを得られぬまま過ごしているからこそ……。
 優れた存在というのは嫉ましい。
 なれぬからこそ疎ましい。


 もっとも、優れた存在というのは得てして地道な努力を厭わぬものだ。ヌヌ行にしろ土建屋の娘にしろその最大の美点(知性・
美貌)に関する努力は並々ならぬ。そういったものを最初から放擲し、何もせず磨かずの恣意放埓の赴くまま雑草のように
伸びさかっていた取り巻きどもを思うたびヌヌ行は微苦笑しながら軽く震える。「世界で一番怖いのはキミたちだ」。まったく
十何年後振り返ってまだ戦慄できる恐ろしい存在だ。

 少女らしい真心を集約したラブレターがついにひったくられた。
 あっと手を伸ばすころにはもう何もかもが破綻していた。
 思い出にと机の引き出しの奥深くに仕舞うつもりだった手紙は猿叫とともに引き裂かれた。ヒステリーに顔を赤く染める土
建屋の娘の手は出来そこなったシュレッダーだ。大きな破片が黒ずんだ灰色のタイル張りの床に撒き散らかった。テープで
止めればまだ。慌ててしゃがみこみ拾い集めるヌヌ行にどっと笑いがあがった。集団による、継続的な憂さ晴らしが決定した
のはこのときだ。傍観者の一人が動いたのは首魁への媚売りのためだ。内心では醜態を笑いながらも「そう動けば」、気に
入られ甘い汁を啜れる……浅ましい嗅覚、そして算段。それの赴くまま特に恨みのないヌヌ行──これまでは普通のクラス
メイトとしてノートの貸し借りをしたりしていた。玉入れで勝てば無邪気に笑いあい抱擁だって交わしたコモある──の手から
手紙の欠片を奪い取り便器に巻き、そして流した。
 マフラーもまた奪われた。後日焼却炉から灰まみれで引きずり出したそれはもはやただの炭のカスだった。悲しさよりも
まず寂しさが全身を貫いた。編み物をするコトに凄まじい抵抗が芽生えた。
 ここからはまあ小学生らしく場所を弁えた手段だ。
 数を頼みに個室へ押し込み浅黒い緑のホースを上にやる。

 数時間後ぬれ鼠のヌヌ行が涙ながらに扉をぶち破るまでそれは続き──…

 学校の備品を壊したー!! 

 無慈悲な爆笑を以て地獄の始まりが締めくくられた。

 以降、クラスの女子の3分の2ほどは敵となった。
 残りはもちろん傍観者だった。「関わらないよう」。総てが決着したとき無関係な第三者ほど安全だ。
 自分の身を守り罪も背負わない。
 そんな第三者どもに対するヌヌ行の復讐は忘却だ。
 彼女らの存在を、ではない。
「何をされたかさえ忘れ」、普通に接してやる。そして彼女らに出来ないコトをやり助けてやる。
 正直奴らのやらかした仕打ちなど”しこり”にしてやる価値もない。

 その後訪れた素晴らしい出会い。自分を救ってくれた人たちに比べれば記憶にとどめる価値など……毛ほどもない。
 何の感情も催さないがそれだけに心から信じている。

 人の善意を信じすがるように眺めた彼女ら。
 事情を話したにも関わらずそっぽを向かれた時! どれほどの絶望が身をすり抜けたか!

 だからヌヌ行は今でも彼女らの顔を覚えていない。同窓会で会い見覚えがなければ「そういうタイプ」だとみなし普通に笑い
普通に歓談する。悩みさえ聞いてやり大体は解決してやる。そして無邪気に笑う彼女らに微笑する。

「気楽なものだな」

 内心で少しだけ荒い声を上げながら……それさえも相談ごと忘れてやる。それが一番の復讐だと信じている。

 屈むほどにひどい期間だった。


.
 子供というものは時に大人をも凌ぐ団結力を見せる。良い方向にしろ悪い方向にしろまだ忘れていない腹式呼吸よろし
く腹臓からの声を出し合い掛け合って奇妙だが純粋なつながりを形成する。
 遊びの時はいわずもがな。
 目的が敵の打倒ならば彼らは一層はげしさを増す。
 不幸にもその2点を同時に持ってしまったのがヌヌ行だ。
 名前こそ奇抜だが温和でおよそ他者を傷つけるというコトと無縁な彼女はただ初めて直面する人の悪意というものに震える
ばかりだった。上履きを隠されてもお気に入りのペンケースを色とりどりのペンごと踏みにじられても然り。
 もっとも参ったのはある日給食の時だ。
 どこから持って来たのか、アマガエルの轢死体がシチューめがけ転落した。
 最初それが何か分からなかったヌヌ行は正体をしるやぞっとした。自然に落ちたのではない。人が落とした。
 教師は教室にいない。
 6人がかりだった。完食までそれだけの人数が彼女を拘束した。
 腹や口から名状しがたいヒモのような器官を飛び出させた緑色の死骸がスプーンに乗って迫ってくる。
 顔を背けようとしても無駄だった。1人が首を固定し1人が口をこじ開ける。
 スプーンを持つ女生徒はもともと良いとはいえない顔の造作を卑しい笑みでなお貶めていた。
 やがて口中に没入したメニュー外の食物は凄まじい味がした。粘膜の生臭さにむせかえるヌヌ行はとっくに涙し鼻水さえ
垂らしていた。にも関わらず強引に顎を動かされた。咀嚼を、させられた。何が砕けたのかばきりという嫌な音がした。舌の
蕾は初めてきたる激越な味にぞっと痺れた。歯の間をころころと這いまわる2つの球体が何かなど成人してなお考えたく
ない。カエルの最後の晩餐はどうやらハチか何かだったらしい。毒針が喉に刺さったためヌヌ行はこのあと3週間ばかり点
滴生活を強いられた。
 そして嵐のような給食が終わり──…
 灼熱に腫れあがる喉首で辛うじて息をしていたヌヌ行は奥歯の間に何かはさがっているのに気付いた。
 舌が、反射的に触れた。
 呑み損ねた内臓組織。糞の匂いのするそれに気付いた瞬間。
 とうとう吐瀉物をブチ撒けた。

 以後状況はますますヒドくなった。
 気はいいがカバラに熱狂するあまりややおかしい──明らかに精神疾患が疑われるほど無邪気で幼い──両親さえや
り玉に上げられた。父は常に涎を垂らし半笑いで母は所かまわずスキップでかっ飛ばすような人物だった。しかも服装とき
たらくつろぎ用でさえ10万は下らないスーツなのにどれもこれも常にそこかしこに粘土が点々とこびりついており──夫婦
2人してゴーレムの製造に熱中していたので──それがますます嘲笑を呼んだ。

 ヌヌ行はそんな連中の娘でしかも教室で吐いた!!

 未熟ゆえに耐えられぬ異物感。子供というのは常に自分ばかりが正しいと信じている。単なる堪え性のなささえ純然と燃
え盛る義憤と弁じそれらしき理屈の剣で斬りまくる。相手もまた自分と同じ人間であり、感情があり、痛みを感じる機能さえ有
していると幼稚園のころ教えて貰っている筈なのに……やってしまう。まして同じ感情の持ち主どもと寄り集まってしまうと
正誤などあっという間に吹き飛ぶ。なぜ吐いたのか? その経緯などどうでもいいらしい。
 とにかく群集心理だ。誰それがやっているからやっていい。やればスカっとするからやっていい。
 耐えている方が実は強く自殺を選んでしまう方が遥かに優しい……などと彼らは気付かないし気付いたとしても嘲笑する。

 ヌヌ行が小学校と聞いてもっとも強烈に思い出すのは人間の恐ろしさだった。
 給食当番のとき無理やり総てのメニューを配膳させられなおかつそれら総てを目の前で床にブチ撒かれ(汚い汚いと囃された)
コトもあった。吐く素振りを見せるものさえ。
 それは彼らにとってただの面白い演目だったのだろうが……。
 ヌヌ行は以後8年ほど料理が作れなくなった。女子大生になってからも飲食店でのバイトには並々ならぬ抵抗がある。


 ただ悲しいコトにヌヌ行の両親は見た目ほど劣っていなかった。むしろ実業家としては6代先までの安泰が誇れるほど成功
しておりその頭脳的優性はヌヌ行にも行き渡っていた。だからこそただの弱者に向ける以上のおぞましさがクラスのそこかしこ
から巻き起こった。苛められても苛められてもトップから転落せぬ頭脳。マスコミに持て囃され校長が集会で折にふれ褒めたたえる
両親(毎年莫大な寄付を行っていた)。嘲弄が嫉妬と化し義憤が邪推になり……とある試験のとき我が消しゴムに書いた覚えの
ない数式がゴマンと刻まれているのを見たときヌヌ行は初めて教師への密告を決意した。
 幸いカンニングの疑いは掛けられなかったし──温和で成績もよく両親が金銭面以外でもよく学校に奉仕していたので──
すぐさま犯人は見つかった。

 そして教師はイジメをやめるよう勧告した。

 クラスの人間は総てハイと頷き反省文を書いた。

 3日後……ヌヌ行の愛犬が行方不明になった。




 両前足を半ばから切り落とされた柴犬が息も絶え絶えに帰ってきたのは更に5日後。
 犯人はいまだ分からない。



 ただ。
 楔を打つような声を上げながら死にゆく愛犬をみた時……ヌヌ行は果てしない罪悪感を覚えた。

 自分のせいだ。
 きっと自分のせいだ。
 告げ口したから報復で……。

 警察も両親も変質者がやったのだと断定していたが──…

 3歳のころから共に過ごしていた友達のような存在を死に追いやったのは自分。

 彼女は悔恨とともにそう思った。(以後、犬が苦手になったのは愛犬を思い出して辛いからだ)


 だから、決意した。

 本当のコトなど話してはいけない。


 自分がいくら第三者に窮状を、同じ世界に厳然と佇む本当のコトを話しても彼らは助けなかった。

 カンニングを仕組まれたのは事実だが、その事実を話したばかりに愛犬を亡くした。
 教師は解決を図ろうとしたが、正しいその行為を呼んだばかりに大事な物を喪った。
 
 そういう状況を作ったのは例の告白のせいだ。
 好き。心から思う本当のコトを話したばかりに地獄のような日々が始まった。

 悪事は働いていない。したコトといえばそれだけだ。

 だからこそ「それだけ」……『真実を話す』行為に嫌気が指した。



 やがて彼女は自殺を決意する。


.




 武藤ソウヤという少年に出会ったのは……その時だ。




 ただしその時の彼はまだ…………………………………………………………………………………………



                                                 人のカタチをしていなかった。



 それでもヌヌ行は信じている。

”そこまでの”過酷な人生も”そこからの”人智を超えた激しい人生も、きっときっと意味があったのだろう……と。


 出会いは力をくれた。

 勇気をも。

 何があっても前へ進もう。

 そう思えるのは”たった3人”、そこに居た人たちのお陰だと……。

 心から信じている。





『いつでもマイナスからスタート』

『それをプラスに変える』

『そんな出会いがきっと』

『誰の胸にもある筈…さ』
















 ヌヌ行5年生。なりたての春。
 4月か5月の出来事だった。


 3日間降り続けた雨もいまはやみ、空はどこまでも青く澄み渡っている。
 まだ湿り気の残る風には青葉の残り香。きっと森を抜けてきたのだろう。

 遠くの橋をあずき色の電車が通り過ぎた。クラクションが鳴り響いたのは自分のせいだろうか。

 濡れそぼる鉄の冷たさを裸のくるぶしで嫌というほど踏みしめながらヌヌ行は思った。

 一線を超えるのは簡単なのだろうか? それとも難しいのだろうか?

 小学生にはやや難しい課題である。

 靴と靴下を脱ぎ橋の欄干を登り、ついにその外側に立ったヌヌ行である。そこまでは簡単だったから前者かも知れない。
 今の体勢になって以降たっぷり10分そのままだから後者かも知れない。

 すぐ足もとでは翠色の激流がごうごうとうねっている。県境にあるその大河川は3日前からの記録的豪雨によって大増水。
晴れ好き泣かせの気圧配置はやまぬ雨と堤防決壊の危機を街にもたらした。
 いまヌヌ行のいる辺りから一望できる土手はほんの28時間前まで戦場だった。
 65名の消防隊員と38名の市役所職員(防災課)、それから臨時派遣の自衛隊隊員9名とあと危機を聞き隣の市から駆
けつけてきたという物好きな若い男性1名、合計114名に不眠不休の土嚢積みを強いたのである。雨はもうやみ向こう一
週間の晴天が確定しているためもはや決壊の危機はないが……一般的な家庭人たちはこぞってこの河川に近付かぬよう
我が子に厳命している。
 それほどの勢いだった。
 ラクダのこぶのように水面に突き出た大岩を白いあぶくがとめどなく洗っている。やや青い顔で眼下の光景をながめた
ヌヌ行はつい数時間前帰りの会で貰ったプリントがいかに明敏なる筆致で警鐘していたか理解した。「川に近付かないよう
に」。足がすくんだ。もし落ちれば小さな女児など、この夏ようやく平泳ぎで12・4m泳げるようになった程度のヌヌ行などあっ
いうまに飲み込まれるだろう。再浮上はガスの蓄積を待たねばならぬらしい。そんなおぞましい情報さえ耳から耳を貫いた。
幻聴。わずかばかりの知識が引きとめている。

 するな。
 自殺などするな。

 ヌヌ行は欄干の一部を掴んだ。彼女を現生に繋ぎとめているのはやや錆の浮いた格子である。水色の塗装のそれがもし
突如崩落したり……あるいはヌヌ行を目の敵にする例の土建屋の娘がきたりすれば命などあっという間に消えるだろう。



 自殺。いじめられっ子の何割かが行き着く結論である。
 ただしこの時点におけるヌヌ行の動機は少し違っていて──…



 ある日。帰宅すると。愛用のシステムデスクの上に奇妙な物が乗っていた。
 女子らしくないブラウン色した机の上で鈍く輝くそれをヌヌ行は最初、”みやげもの”と思っていた。
 彼女の両親ときたら3か月に一度かならず東南アジアの秘境に出向くのだ。そして帰ってくるたび家に名状しがたいオリエ
ンタルな品々──トーテムポールに似た奇妙な木彫りの像、アジャ・カティとかいうグネグネした剣など──が増えていく。
 だからヌヌ行は疑いもなく机上のそれが東南アジア産の”珍しいが普通のもの”だとばかり思っていた。



 しかし……。
 ”それ”は金属製の道具だった。
 多くの戦場で多くの命を奪ってきた……純然たる『武器』であるコトをヌヌ行は知らなかった。

 何気なくとったそれが光を放った。

 異常な音が鼓膜をひっかく中、無数の金属片が爆ぜ──…

 ヌヌ行の部屋を、自宅を、かつてない衝撃で揺らがせた。




 大抵のイジメには耐えるコトができた。

 水泳の授業があるたび下着だけを隠される所業には耐えたし、理科の時間、ヌヌ行の持つフラスコの中で亜鉛が何か酸
性の液体に溶けたとき。ヌっと出てきたチャッカマンがあわや人体炎上未遂をやらかしても──誰がやったかなど前後の記
憶ともどもさだかではない──両手首やへそ周りでシクシクする痛みに耐え登校した。
 学校が好きという訳ではない。
 むしろ卒業までの日数が減れば減るほど嫌いになった。
 毎朝見なれた校舎が見え始めるとそれだけでもう手近な側溝がドロドロになる。かかりつけの小児科医も深刻な顔だ。「こ
の歳のコに胃薬……」。ストレス性の疾患は深刻だ。熱いものも辛いものも食べられない。生ものはもっとダメだ。アマガエ
ルを思い出して──…。
 なのにどうして通っていたのか。別に強い矜持があったわけではない。
 ただ子供らしく「ある日突然みんなが優しくなってこの地獄から解放される」。
 自分は優しいまま再びみんなと仲良くなれる。
 そんな夢を見ていたからだ。

 自室の机上にあった金属の塊が夢の1つを壊した。

 圧倒的な光。跳ね上がる鼓動。何もかもが粉砕された絶望感。
 おぞましい、人の悪意というのをヌヌ行は知った。

 とてもとても巨大な悪意だった。

 間髪入れず電話がかかってきた。例の土建屋の娘だった。
 ちょっと来い。口早にまくし立て、人気のない場所を告げた。
 呼び出したのは先日の恨みだろう。
 いつものごとく3階の渡り廊下から捨てたヌヌ行のカバンの中身。運悪く剥き出しの彫刻刀が入っていて、それがたまたま
下を通りかかった1年生の女の子の頭頂部に刺さった。
 もうあと1cm深く刺さっていれば死ぬまでベッドの上、管まみれの生活だったらしい。
 おかげで土建屋の娘は放課後職員室でたっぷり絞られた。その日は5時から撮影──それも大手の雑誌の表紙──だっ
たが無論そちらに行く許可など出よう筈もなくだ。校長自ら断りの電話を入れ陳謝した。お説教が終わったのは実に午後9
時だが勤務先に悪行が知れ渡ったのに比べればまったく些細な問題だ。
 とにかくその怒りの矛先がヌヌ行に向いている。
 だからカバンに注意書きを貼ってたのに。彼女は頭痛を覚えた。
「今日は高いところから捨てないで下さい。図工で使う彫刻刀(フタはないです。返してくれると嬉しいです)が入っています。
危ないので気をつけて」なる大書をつけておいたのに奴ときたらそれを忘れ……むしろそれで叱責を免れたヌヌ行を逆恨み
し──…

 愚かにもほどがある。




.



 ヌヌ行は本当に暗澹たる思いだった。

 芽生えた巨大な悪意はきっと生涯ついてまわる。
 もう、逃げられない。

 だからべそをかきながら下を見る。

 激流に踊りこめば解放される。甘い誘惑がついに脳髄を痺れさせ──…

「ちょっと待ったーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
「はい?」


 中空に舞い踊ったのと声が弾けたのは同時だった。

 思わず振り返るヌヌ行は……確かに見た。

 自分が靴を置いた地点から更に3mほど離れた欄干の上。

 そこから猛獣のように飛びかかってくる若い男性を。

「え? え? えええ?」

 目を白黒するうちにもう手は掴まれている。絹を裂くような叫び。ちらりと見た橋の上にはもう1人誰かが居て……。

 水音。全身は一拍遅れの硬さに叩きつけられた。次の瞬間にはもう額まで沈んでいた。口に怒涛の勢いが流れ込み
たまらずカハリと泡を吹く。狂犬病患者の操るマリオネットかというぐらい全身がめちゃくちゃな方向めがけ踊り乱れる。
それでもかろうじて流されずに済んだのは男性が手を掴んでいたからだろう。

 やがて意識が薄れる中、彼女は見た。







「武装錬金!」

「エネルギー全・開! サンライトスラッシャー!!!」




 飾り布。どこまでもどこまでも長い螺旋を描いている。それが青年とヌヌ行を取り巻くさまはまさに守護だった。ガボと驚愕
の泡1つ吹き出すヌヌ行の世界は次の瞬間地上の美しさを取り戻した。布から迸る山吹色の激しい光が暗緑色の激流をあっ
という間に消し飛ばしたのだ。次に発生したのは推進力。「しっかり捕まってて」。優しい囁きとは裏腹の激しいGがヌヌ行の
脳天からつま先を突き抜けた。激しい揺れ。落ち行く世界は輪郭さえ溶かしているようだった。舞い散る飛沫や蒸気はなぜか
宝石のようにキラキラ光っていた。ヌヌ行は高所に到達した。先ほど足を乗せていた欄干さえ遥か眼下の世界にあり先ほど
の列車が駅を出ていく姿さえ架線ごと見えた。ホームの屋根からわっと飛んだ無数の薄紫はドバトだろう。混乱。安堵。純
粋な高所への恐怖。混ぜこぜの感情がオーバーフローしいよいよ喪神するというときヌヌ行は──…
 小振りな槍を。
 青年の握る大いなる武器を目撃した。


 浮遊感と落下感。降り立つ時のかすかな重力な抵抗が無意識の中で心地よく響いた。



.



「気がついたか」



 目が覚める。慌てて上体を起こす。そこは土手だった。右手の方、100mほど行ったところでは真新しい土嚢が山のよう
に積まれている。先日の戦場らしい。目を白黒とさせていると視界内で青い影がしゃがみ込んだ。

「介抱するのに都合が良かったからな。こっちに移動させて貰った」

 そういってヌヌ行の靴や靴下を差し出したのは女性だった。落下直前見た橋の上の影は彼女なのだろう。
 年のころは20代の半ばごろだろうか。直線的なショートボブで後ろ髪をわずかに括っている。いでたちは学生というより主
婦のそれだが、どこか狩人の匂いもするのはひどく凛とした眼差しや鼻柱と垂直に走る傷痕のせいだろう。化粧気こそない
がひどく美しい。
 武藤斗貴子と名乗る彼女は見た目そのままの無駄のなさで自己紹介を終え「キミを助けたのは武藤カズキ。私の夫だ」と
だけ告げた。そこで言葉が途切れると流石に簡潔すぎると思ったのか

「この街に来たのはアレのせいだな」

 と土嚢を指差した。先日隣の市から駆けつけてきたという物好き。どうやらカズキのコトらしい。

「で、念のため見回りに来たらキミを見つけたという訳だ」
「はあ」

 といわれてもよく分からない。

「あー。気付いた? 良かったー」


 隣から聞こえてくる声は先ほどの男性のもの。
 見ればどこから借りて来たのか、毛布にくるまりガタガタ震えている。
 こちらは女性より1つか2つ年下の若い男性。
 取り立てて特徴はないが笑顔の似合う男性だ。


「ったく。人のコトを心配している場合か。キミの方こそ死にそうだぞ」
「ハハ。ごめんごめん。助けなきゃって思ったら体が勝手に……ブェックシ!」


 言葉半ばで大きく顔をしかめ洟水さえ飛ばした彼はすぐ元の笑顔を取り戻し、こう聞いた。

「で、何かあったの? オレなんかで良かったら話聞くよ?」




 ヌヌ行が本音で語れない理由の一つに学校側の対応の良さがある。
 真実を告げるたび彼らはまったく迅速に対応してくれた。例えば水泳の授業中下着がなくなったといえばそれを外部犯
の仕業と『意図的に勘違いし』『まったく的外れ』だが、新しく鍵付きのロッカーを導入するぐらいはした。もちろん着替え中
は同性の体育教師が「鍵は私にね私にね」といかにも鍵回収”だけ”やっている風に『皆を見ている』。下着の紛失がなく
なったのはいうまでもない。
 だが逐一的確にヌヌ行を守る教師たちの姿勢はそれだけで益々の反感を買ってもいる。
 イジメは影に日向にますます激しくなる。
 真実を言えば解決代わりに恨みを買い、真実を書いても土建屋娘のような逆恨みが勃発する。

 ただ同時にヌヌ行は「大人特有の真実を語らないやり方」が好きになりつつもあった。
 ロッカーの件などまったく見事ではないか。あまり解決の見込めぬ加害者探しなどさっさと放棄し、ウソに立脚している
にしろそのやり方はまったく実効的。
 しかも加害者は論理的にいってそのウソを暴けない。暴かねばイジメに不適合な体制が解けない。だが暴けば糾弾され
再発すれば真っ先に疑われる。
 何という仕組みだろうか。



 ひょっとするとイジメられながらなお登校するのは時おり学校が見せる奇跡的な対応が見たいからなのかも知れない。

(体育教師の小芝居もまた素晴らしいんだ。ウソとか最高じゃないか! くぅー!!)

 拳を固め全身を激しい感動に震わせるヌヌ行。



 そんな彼女が、である。

 いま初めて遭遇した青年──武藤カズキ──に本音を語れようか?

 答えは、否である。



 彼女はまだ自殺願望を捨てていなかった。

 子供だが圧倒的な武力を手にした人間が何をするかぐらい知っている。
 そしてそういう事実が自分にどれほど跳ね返りどれほど不幸にするかも──…

 助かってからこそ感じる「惜しさ」。
 あらゆる手管を尽くし自殺してなお助かった人間が思う「生きてみよう」、それとは真逆の想い。
 失敗したがゆえの執着はいま確実に自殺めがけ伸びている。

 自分は助かってはいけない人間なのだとヌヌ行は叫びだしたい気持ちだった。
 いまも自宅のデスクの上に転がっているあの金属の塊。
 手を伸ばしたそれがいったいどれほどの破壊力をヌヌ行の人生にもたらしたか!!
 そして例の土建屋の娘の呼び出し。
 幼い直感は告げている。つながっている。あのおぞましい金属の凶器といよいよモデルとしての商品価値が薄れ始めた
女帝。ヌヌ行の人生めがけ各個バラバラに転がり込んできたのではない。連関性がある。運命は明らかにそれらを結び
つけそして要求している。
 か弱い子羊に
 死より恐ろしいコトを。

 ……上記の思惑はやや具体性に欠けている。眼前の青年・武藤カズキに対し真実を述べるコトを躊躇わせたのはそう
いう「明らかにおかしい」自分の思惑のせいでもある。話したところでまずその内実を理解してもらえるかどうか……彼女
は内心で首を横に振った。よくある子供の戯言として処理されるだろう。例えば悪夢を見た子供が結局は「怖かったね
怖かったね」とペットにも通じる適当なあやしをされるように……。
 そういう面倒をしょいこむ時間はもうないのだ。刻限が来たら最後ヌヌ行はどうあがいても土建屋の娘のいる場所へ
引き寄せられる。そういう『運命』なのだ。回避は不可能だった。その一事だけでも恐らく常人には理解してもらえない
だろう。自宅で鈍く光る金属の武器はそういう破壊をもたらすものだ。刻限まではあと2時間……腕時計など持っていない
が分かる。あと2時間もすれば呪われた運命が開始する。
 だから死にたい。
 そのためにはどうすればいいか? 子供とは時として大人以上に相手を見る。なぜなら彼らは大人が望むほど純朴では
ない。何を言えば怒られるかなど3歳にして把握できる。
 優等生として。イジメの被害者として。多くの教員たちから常に厚意を受けてきたヌヌ行ならば尚である。
 大人というやつが何に喜び何に怒るかなど十分すぎるほど分かっている。イジメという悪意が研ぎ澄ました感性は敏感
なのだ、そういうのに。

 だからもっともらしいウソをつけば武藤カズキもその妻も納得して去っていくだろう。

 だからヌヌ行はやがて閻魔に抜かれるであろう味覚の器官を大いに振るい始めたのだが──…


「何だって!! 悪い組織にお父さんが改造されて冷酷無情な殺人マシーンに!?」
「はい……。私の顔ももう分からなくて……。止めたのに……止めたのに……30兆人も殺して」
「30兆人!!? 大変じゃないかそれは!!」
「おい、カズキ」



 予想していたものとやや違うものになりつつあり、少々焦った。こうなったのは両親がこのテのウソを本当に心から信じる
せいだ。理科の実験中、水素爆発でひどい火傷を負った時だって「養殖モノのサラマンダーにやられた!」。その一言で済
ませたし、済んだ。ウソは突飛であればあるほど良かった。現実的な陰惨な話で両親を悲しませるのはイヤだったし、仇打ち
だとばかり一家総出で養殖モノのサラマンダーを探しにいくのは……馬鹿馬鹿しくはあったけど、それでもとても楽しかった。
 ウソを吐く理由はそこにもあるのだと思う。目の前の純朴そうな青年を騙しているという罪悪感に一瞬大きな瞳を潤ませ
はしたけれど、それでも初対面なのだ。だいたい最初こそ「それらしい」重い話で躱すつもりだったけど、それだって引かせ
るのようで嫌だった。もし相手に解決能力がなければ無用に悩ませるコトにもなる。
 だからこんなホラにも等しいウソでもいい。ウソもホラもいい側面があって自分は常にそればかり使っている。
 そう確信するヌヌ行だから「肩を落として声を湿らす」哀切など朝飯前だ。
「犠牲になった方の家族に申し訳なくて、せめて、せめて私の命で償おうと……」
「気持ちは分かるけどダメだよそれじゃあ!!」
「カズキ」
「遺族の人だってそんなコト望んでないしお父さんだって冷酷無情な殺人マシーンのままだ!!」
「話を聞けカズキ」
「どうにかしてお父さんを止めなきゃ!! そうだ!! 戦団に連絡だ!! 大戦士長ならきっと──…」
「ああもういい加減気付け!! 気付いてくれ!!
 とうとう「美人さん」が金切り声を上げた。軽く息を呑むヌヌ行。それも知らずハテナ顔の青年。
「どうしたの斗貴子さん。急に顔を赤くして。ラマーズ法の練習? は! まさか産気づいちゃった!?」
「どっちも違う!! そもそも出産予定日は来年1月……じゃなくて!! キミは本当に気付いてないのか!!」
「何を?」
「……今の世界人口はどれぐらいだ?」
「んー。どれぐらいだったかな。100億は行ってなかったと思うけど」
 カズキは顎に手を当て上を見た。あどけなさたるやまるで高校生だ。
「……このコの父親が殺した人数は?」
「30兆!」
「なにか……気付いたコトは?」
「特に何も。あ。でも30兆っていうとなんか豆腐みたいだよね。豆腐がそれぐらいあったらどう数えるんだろ? 30兆丁?
蝶野が聞いたら喜ぶかも。電話しなきゃ」
 カズキが携帯電話を取り出し斗貴子がひったくった。まるで夫婦漫才のようなテンポで、だからヌヌ行は少し笑った。
「パピヨンなんか喜ばせてやる義理はないしそもそも豆腐なのはキミの頭だ!! 桁数も分からないのか!!」
「ハハ。大胆だなあ斗貴子さん。こんなところでいきなり数学なんて」
「算数だ!! というか何がどう大胆なんだ!!」 
「あ。そういえば兆って億の1000倍ぐらいだよね」
「ああ!! なら合わないだろ計算が! 何をどうやったら30兆の人間を殺せるんだ!!」
「そうだった!!」
「そうだった、じゃない!! 気付けそれぐらい最初に!! 要するにキミはこのコに騙されたんだ!!」
「でも良かったー。ウソで。なら誰も死んでないってコトだよね? てっきりオレお父さんがホムンクルスにでもされたのかと
思って心配で心配で」
 毛布の中で青年が笑うと斗貴子は嘆息した。さりとて表情は柔らかい。
「キミは本当に底抜けのお人よしだな
「まま。仕方ないじゃない。これ位のコたちはとてもフクザツなんだ」
 ね。とカズキはまた微笑んだ。とても毒気がなくだからこそヌヌ行はたじろいだ。
「それにほら、オレってまだこのコと逢ってそんな経ってないじゃない。というか初対面? そんな相手にさ、抱えているコトい
きなり全部言うのって結構勇気いると思うんだ。まひろみたいに速攻で馴染める方が凄いっていうか特別だし」
「まあみんなあのコのようになられても困るが……つまりウソをつかれてもいいという訳か」
「そ。それにいいじゃない。オレ、このコのウソ結構好きだよ。なんかさ、面白いじゃない?」
 好き……。ウソをついているという罪悪感を持つヌヌ行にとってその発言は意外だった。
「ウソというかホラだろ。やれ自分は特異点だの次元のねじれがどうの12番目の官能基よ糸車となりて紡げ代数学の浮き
かすをだの……」



「カッコいいよね!」
「もういい。もう何も言いたくない」



「とにかくさ。キミさえよかったら話してくれない? 別に本当のコトじゃなくてもいいからさ」


「誰かと話すだけでも辛さが和らぐってコト、結構あるよ。俺もそうだったし」


「ね?」




 話していくうち本音を知られたのはヌヌ行自身の幼さのせいでもあるが──…

 カズキの持つ話しやすさ。ウソを吐くと何となく申し訳ない気分になる……奇妙な人徳。
 そして斗貴子の持つ洞察力。わずかな言葉尻から真実を見抜く眼力。

 2人の持つ長所のせいでもあった。





「しかしイジメか……。やっぱり女子のイジメって難しい? 斗貴子さん」
「私もそれほど詳しくはないが、男子ほど単純でもないだろう」
「いきなりオレたちが出てって「やめろ!」とか言っても聞いてもらえないよね?」
「むしろ逆効果だ」

 後にヌヌ行は(遠いにも関わらず)銀成学園に進学する。
 何かとピーキーな斗貴子さえ受け入れた銀成学園は代が変わっても同じだった。
 カズキたちがその肌でイジメを知らぬのも無理はない。
 にも関わらずどうすればいいか考えている彼らの姿はとても好ましかった。

 話し合っていた彼らはやがてゆっくりと向きなおった。
 まず最初に口を開いたのは斗貴子だった。彼女は気まずそうに視線を外しながら

「正直、逢って間もない私たちが今すぐキミの悩みを総て解決できるかどうか自信がない。内心じゃ私たちの言葉に何というか
物足りなさを感じているかも知れないな。すまない。カズキはともかく私は人にとやかくいえるほど他人を救っていない」

 と述べ、

「もしキミを苛んでいるのがただの化け物なら速攻でブチ撒けて解決できるんだが……」

 さらりと血なまぐさいコトをいった。

「ただな。これだけは聞いてくれ」

 歩み寄ってきた彼女はそっとヌヌ行の手を取った。

「戦えとは言わない。だが諦めて死ぬのだけは絶対しないで欲しい。これから先もキミは辛いコトや悲しいコトに直面する
だろう。時には本当に理不尽で残酷な仕打ちを受けるかも知れない」

 真剣な光の灯る青い瞳を直視できず、ヌヌ行は軽く視線を落とした。
 死にたい、という気持ちは変わらない。
 多くの真実は話したがそれでも自宅に突如現れたあの金属の武器のコトは話していない。



 話せていない、というべきだろうか。口をつきそうになった局面はいくつもあった。だがそのとき何かおぞましい予感が
電流のように背後を奔り会話伝達を失わせる。つまりはそれほど重苦しい武器なのだアレは……内心でそう反復し、
だからこそ自殺を選びたくなる。斗貴子はひどく真剣だ。

「それでも生きるコトを諦めたりするな。どんなに辛くても生きてさえいれば、いつか必ず救われる」

 罪悪感が増してくる。耳を傾ければ傾けるほど……拒む自分が強くなる。
 ぎこちなくも真剣に向き合ってくれる人に「無価値だ」。そんな態度を示している。

 ただ怒られるより辛い出来事だった。

「…………駄目だなカズキ。どうも私は口下手だ。キミならもっとうまく伝えられるんだろうが……うひゃあ!?」

 沈みかけていた声音が一気に跳ね上がった。がばりと面を上げたヌヌ行はどうして斗貴子が啼いたのか理解した。

「あのさ。ここに赤ちゃんが居るんだ」

 手が”ここ”にあった。当てられていた。妻の手を持つカズキは戸惑いまじりの抗議をたっぷり頭上から浴びながら

「まだ人間のカタチにもなってないのにさ、でも命は確かにあってさ、不思議だなーって思うんだ」

 ヌヌ行の瞳を覗きこみ、笑いながらこう言った。


「耳、当ててみる?」


 一人っ子のヌヌ行にとって”赤ちゃん”というものはとても神秘的だった。
 どこから来てどこへ行くのか。
 5年生ともなればそろそろ保健体育の授業で学術的な真実に突き当たっていてもおかしくはないが、例えその小テストで
満点をとれたとしても本当のところは分からない。
 どこから来て、どこへ行くのか。
 それを感覚で知らない限り知ったとは言えないのが……命。

 その存在が彼女の中でより具象性を帯び始めたのはこの時──…

 武藤斗貴子の腹部に触れ……芽生えつつある確かな息吹を感じた時だ。

 後に武藤ソウヤと呼ばれる少年の鼓動は確かに存在していた。







 ヌヌ行は自宅に向かって歩きはじめていた。

 死のうという気分はまだ心のどこかに転がっていたが遠巻きに眺める余裕はあった。

「私は幼いころ、両親と死別した。その前後のコトは今でもまだハッキリ思いだせない」

 斗貴子の言葉が反響していた。

「ただ憎悪だけは覚えていた。両親を奪った存在。そいつらへの憎悪だけが。そして私は戦いに身を投じた」

「学校にこそ通っていたが私は常に1人だった。自分からそうなるコトを選んでいた。だからキミほどの苦しみは味わってい
ないが……やはり満たされるコトはなかった」
.



「懐かしいなー。あのころ斗貴子さん何かにつけて死にたがっていたよね」
「茶化すな!! ホムンクルスになりかけていたから仕方ないだろ!!」


 目を三角にし声を荒げる彼女だが、決して怒っていないのは分かった。
 なぜなら叫びが終わるとすぐ笑顔の夫に射すくめられたからだ。もじもじと熱く潤う瞳は照れくさくも幸福そうだ。


「とにかくだ。昔の私はいつ死んでもいいと思っていた。それが戦うものの『覚悟』だと思っていた」

「でも本当は違っていた。死んだり、殺したり、奪ったりするだけじゃ何も解決しない」

「こんな私でさえ過去の希望と呼び支えにしてくれる人もいる。もし私が死ねばその人はまた絶望するのに、あの頃はそんな
コト少しも気づいちゃいなかった。慕ってくれる後輩だっている。それがどんなに幸せなコトかも……」

 家が見えてきた。例の土建屋の娘が設定した刻限まではあと30分。リハーサルには十分すぎた。

「結局、私は私の命が私のものだけだと思っていた。私という存在が実は他の誰かにとって大切な意味がある……などとは全く
思いも寄らなかった。生きていく中で知らず知らずのうちにつながりみたいなのを得ていて、それが消えたとき周囲の人たちが
悲しんだり後悔したりするなんてちっとも実感しちゃいなかった。理性じゃそれを知ってるつもりなのに、いざ自分がその人たち
を苛みかねないと気付けば「まあいい。傷つけるよりは」であっさり捨てようとしていた。私の命も、それが持つつながりさえも」

 大人になったからこそ、今だからこそ出てくる意見。

 きっと彼女は十代のころとはもう違う存在なのだろう。
 若さを失う代わりにトゲトゲしさも時間の彼方に置き去って、何倍も何倍も、あの頃より素敵になって。

 簡単に投げようとしていた命がどれほど貴重なものか……教えてくれた。


「そんな私でも……生きていくうちにまた新しいつながりを得た」

「失いかけて、沢山の人たちを悲しませて、なのにまたその人たちに助けて貰って」


 このコを授かった。お腹をさする斗貴子は一瞬とても優しい笑みを浮かべた。


「正直、私なんかが母親になっていいかどうかまだ迷っている。もし大きな戦いが起これば結局そちらへ向かってしまうのが
私だからな。このコを幸せにできるかどうか分からない」

「それでも」

「それでも今まで気付けなかった分まで大事にしたい」
「つながりを?」
「ああ。もし新たな戦いが起こったとしても私は全力でそれを終わらせる。勝って、生き延びて、このコの元へ……戻る。私が
戦うのはそのためだ」

「生きるために……戦う」

「そうだ。そしていつかキミにもそうすべき時がやってくる」


.



 出会いは力をくれた。

 勇気をも。

 何があっても前へ進もう。

 そう思えるのは”たった3人”、そこに居た人たちのお陰だと……。

 心から信じている。



「どんなに辛くても悲しくても、生き続ければ必ず……このコに逢える」

「このコのような存在に、必ず逢える」

「キミにもそういう権利が……あるんだ」



 玄関の扉を開け雪崩れ込む。目指すのは自室だ。普段は歩く階段をこの時ばかりは駆けあがる。

(命……。つながり……)

 頬をうっすらピンクに染めて息を吐き、最後は3段飛ばしで駆け昇り。

 叫びだしたい気分だった。悲しみではなく、歓喜に。

 自分はいま得難いものを得た!! きっと生涯の宝を!!

 斗貴子の腹部に当てた耳! それはまだ奏でている!! 微弱だがこの世で最高の音楽を!!

(私は、私は……またあのコに逢いたいから!!)

 生きたい!!

 心からの希求が全身を駆け巡る。体の芯まで焼け切れそうだった。


(だから私は!)

 部屋を開ける。

 視線はシステムデスクの上に直行だ。

 さんざ自分を思い煩わせていた金属の武器。それはまだある!


 見た瞬間鼓動が跳ねあがった。心拍数は一気に倍へ上昇。

 予感はあった。もしそれを手にすれば自分の人生は一変するだろう。

 おぞましい悪意をずっと浴び続ける。辛苦の多い人生になる。

 今まで通りを選ぶ方がさっきの言葉分トクだとも気付いていた。

.



 けれど。

 けれど──…

 歩みを、進めた。


「大丈夫! キミもオレも斗貴子さんもそういうつながりの中から生まれて来たんだ! きっとみんな傷ついたり迷ったりも
しただろうけど、でもそれと同じ数だけ笑ったり楽しんだりして、前に進んできたんだと思う。いまは辛いと思うけど、でも
こうしてまた生まれたじゃないか!
「何がだ」
「新しいつながりってヤツが!! キミとオレたちは出逢ったんだ!! だったらオレたちはキミが前に進めるよう手伝うよ!
さっきも言ったけど話すだけでもだいぶ違うからさ。ウソでも本当でもなんでもいい。とにかく話すところから始めてみようよ!」



 カズキにはこう話した。

 また1週間後この場所で逢いたい。

 逢って、少し強くなった自分を見せたい。


 ウソではない、心からの真実を……。

 偽りがないからこそとても勇気のいる言葉を。

 逢ってすぐ大好きになった若夫婦に……捧げた。




 だからヌヌ行は掴む。机上の”それ”を。



 悪意をもたらす武器を。



 他人めがけ悪意を投げつけるかも知れない武器を。



 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 ヌヌ行自身の悪意を増幅しそして土建屋の娘たちのような存在などあっという間に世界から消し去れる大いなる武器を。



 金属の武器は六角形をしていた。

 核鉄と呼ばれる、錬金術の産物だった。

 使い方はなぜだか分かっていた。

 遠い記憶……斗貴子のいう”つながり”のもたらす記憶があらゆる総てを教えていた。
.



 だから手に取り叫ぶ。突き動かされるようにただ一言。『武装錬金!!』

 まずは自分の悪意に打ち克つために。

 羸砲ヌヌ行は戦いを選んだ。


 スマートガンの武装錬金・アルジェブラ=サンディファー。
 それは発生と消滅を繰り返す歴史のなか偶発的にそして必然的に転がりこんできた。
 名前を変え……形状を変え……特性さえ変え──…


 それは間もなく行使される。
 十数分後勃発する戦いでヌヌ行が勝てたのはそのせいだが。
 ただし誰一人傷つけるコトなく、誰一人消し去るコトなく勝利を掴んだ。
 土建屋の娘たちに(直接)マイナスになる傷は負わさず、されどヌヌ行自身はなかなか壮絶な傷を浴びながら──…
 それでもこの時系列でイジめられる小学五年生の自分だけは救ってみせた。

 彼女はまだ知らない。

 他愛もない、微笑ましくさえある小さな勝利が以後続く壮大な物語の……きっかけの一つだとは。


 ヌヌ行のいた時系列でさえ『すでに何度か造り直された』……仮初のものだとは。



 ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズの存在する時系列まであと僅か。

 その世界を作り出す立役者の1人こそ……『塩』。羸砲ヌヌ行である。


 ヌヌ行の武装錬金、アルジェブラ=サンディファー。
 その特性は『歴史記憶』。
 後年ウィルといううら若い歴史改竄者との戦いにおいてその特性は大いに役立った。

 真・蝶・成体の件を見ても分かるように歴史改竄は常に上書き的だ。
 因子が飛び交いぶつかりあうコトで一大センセーションを巻き起こしている時空流においては遡行者の存在は致命的、例
え一粒の因子だけが歪められあらぬ方向へ蹴飛ばされ、或いは消滅させられるだけで後の歴史は大きく変わる。
 キューとナインボールが踊る盤面のように、或いは棋譜のように。
 わずかな改変が生じるだけで元の姿とは大きくかけ離れてしまう。
 変わってしまう前の歴史。それはそこにはない。人々にとって歴史とはただ1つのものであり「その時」現出している光景
だけが真実なのだ。再現性はない。消え去ってしまった歴史があるなど全く誰も気づかない。

 ウィルの武装錬金もまた復旧性を持ちえない。
 あくまで一本の時系列を使いまわすだけだ。
 長大な歴史めがけ試行と上書きを繰り返す。ウィルにとって上書きをされ消失された歴史になど何の意味もない。
 ただ名前の通り未来を目指しているだけだ。







 カズキたちと出会う少しまえ。


 初めて核鉄を発動した瞬間、ヌヌ行はただおぞましい光景を見た。

 武装錬金発動の閃光がまず部屋を溶かし別世界へと造り替えた。
 気付けばヌヌ行はただ1人、濃紺の世界に佇んでいた。メガネの奥で瞳孔を見開き慌てて左右を見るがどちらも塗りつぶ
されたように暗い世界。灯り一つない。下を見たときそろそろ別のヘアスタイルにしようと絶賛検討中の三つ編みがハリネズ
ミのようにビリビリ逆立った。足場はない。左右と同じく濃紺の世界が広がっている。見た瞬間足がすくみせっかちな脳髄は
落下感を即座に前払いだ。眠りに入ったときしばしば全身を苛む偽りの落下感。それをたっぷり20秒連続で味わったヌヌ行
はしかしスカートの裾から手を放し、そして恐る恐る目を開いた。足元に広がっているのはやはり光なき世界。だが落下す
る気配はいまだにない。浮いている……一瞬はそう思ったが正解でないコトにも何故だか気付いた。
 まるで自分の足先にだけ透明のアクリル板を差し込まれたような──…
 奇妙だが、懐かしい感覚。
 恐怖と混乱のなか覚える既視感。追及を妨げたのは地鳴りのような音だった。
 何事か。下唇を噛みしめ瞠目するヌヌ行の遥か向こうでそれまで小刻みに震えていた闇色の幕がついに裂けた。ばくりと
開いたその口越しに澱んだ虹色の空間を認めたのもつかの間ひどく平たい巨大なものが出現しそしてヌヌ行めがけ飛んで
きた。
 ひぃとたまぎるような声を上げ駆けだすころにはもう遅い。あらゆる大蛇よりも長大なその物体はあっという間にヌヌ行の
背後まで到達した。恐怖、周囲が濃紺一色であるための平衡感覚の欠如。たまらず足をもつれさせ激しく転倒するヌヌ行の
横を異様なものが通り過ぎた。
 開闢。真空。海水の出現。原生生物。イクチオステガ。氷河期。ディメノニクス。ジャワ原人。黄河。十字架。掌の穴。円環
の太刀。法隆寺。壇ノ浦。燃え盛る大仏。隆盛を極める江戸の街。海に浮かぶ黒い船。戦火に浮かぶ錦の御旗。焦げた
防災頭巾。アマガエル。蛇の怪物に飲まれる少女。磔刑の蝶々覆面。赤銅の肌。月へ昇る光。紙吹雪。校門へ走る少年少女。
 洞窟。無数の月の顔。三叉鉾を持つ少年。疾駆する彼は巨大な蝶を突き破り──… 
 そんな映像を映す無数の巨大な四角が濃紺の世界を斬り裂き斬り裂きどこか遠くへ駆け抜けた。映像はもっと多く搭載さ
れていたようだが加速の中でどろどろ混ざり合っていたため分からない。上記のものだけかろうじてだが記憶にある。
 とにかく映画館の通過だった。動画の踊る四角は大きさこそまちまちでひどく不揃いだったが一番小さなものでさえヌヌ行
ゆきつけの市民会館でキッズアニメの劇場版をやれるぐらいはあった。
 大きなものは600人ばかりの客を自動車ごと収容できるシアターの、床面積ぐらい。
 1コマと呼ぶには巨大すぎる映像群はフィルムよろしく1本の帯に収まっておりそれもまた映画館じみていた。
 帯の長さや幅はもはや大河川に匹敵するほどだった。以下の光景を目の当たりにしたヌヌ行があやうく143年ぶりの堤
防決壊をやらかしそうだった県境へ出向いたのは帯からの連想ゲーム、一種の催眠的作用であろう。

 帯は、1本のみに収まらない。

 同じような物がそこかしこから飛び出しめいめい勝手な方向へと飛び立った。カッターの替え刃のようにピンと張りつめ一
直線に飛ぶものもあれば龍が如く全身をくゆらせ雄大に舞うものも……。木の葉のように浮遊する帯の欠片は高級な赤絨
毯よろしく丸まりから投入された隣の帯が破砕したものだ。加害者は相変わらず空中でゴロゴロ解けて伸びながらどこかへ
飛んで行った。
 とにかくメチャクチャな光景だった。長さも幅も傾きも速度もまちまちの帯たちがてんで勝手に飛び回っている。帯には前述
の通り無数のスクリーンが付いている。時代も国もバラバラな映像群が帯の動きと連動し次から次へと現れる。
 ヌヌ行の正面も側面も下もそういったものだらけだ。ひっきりなしに通過する。何が何だかわからない。ただ立ちつくすヌヌ行。
顔色はかつて両生類を強引にねじ込まれたときより蒼白だ。メガネはずり落ち瞳孔は文字通りの点。不意に大音響が轟いた。
空を占める映像群が音声を流し始めたのだ。突然ミュートが解けたテレビ。まさにそれだった。しかも大音量だ。ヌヌ行は一瞬
自分の小さな心臓がバクハツしたのではないかと本気で思った。他の帯も解禁とばかり音を鳴らし始めた。ひどいありさまだった。
砲撃。鬨の声。城の広間とおぼしき場所で声を上げあう裃姿の男たち。駆け抜ける騎馬隊の無数の嘶きと蹄の音が何か
の雅楽に吹き消されそれも攻城兵器に撃ち砕かれた。ついに砕けた欧州の城壁をめぐる怒声と歓声が恐竜たちの争いに
華を添え……隕石の騒音、雷鳴の海、未開の部族のカーニバル、雑多極まる音の矯味でメチャクチャになっていく。広いか
狭いかも分からない空間はもはや不協和音の極みだ。しゃがみ込んだヌヌ行は両耳を押えたまま絶叫し──…

 総てが砕けた。無数の帯もそこに映る映像たちも濃紺色の空間も。

 現れたフローリングの床。気付いた彼女はよろよろと立ちあがる。
 見渡した景色は間違いなく自らの部屋。夢? 安堵のため息を漏らした瞬間。それはきた。

 心臓を棒で痛打されたような鈍い痛み。全身が圧縮されていく嫌な感覚。その中で再び帯が現れ通り過ぎた。

 今度は小さなものだった。

 ただし脳の中を通り過ぎていくそれは先ほどみたどの映像よりも強烈だった。
 記憶が一気に蓄積していく。したコトのない経験が当たり前のように追加されていく。神経回路の強制増設は凄まじい痛み
をの作業だった。自分が自分でなくなるような、それでいて本来の姿に戻るような……。



 何秒か後、床で目が覚めた。どうやら倒れていたらしい。

 起きあがったヌヌ行はこのときすでに自身の武装錬金がどういうものか理解していた。

 核鉄が何か。武装錬金が何か。そんな知識がごくごく当たり前に存在していたのはヌヌ行の前世と関係がある。
 かつて『正史』において*****(ここだけは分からなかった)を過去めがけ送り込んだ最初の改変者。
 ヌヌ行がハッキリと知覚するまでしばらくの時間を要したが、彼女の前世はウィルという少年との戦いで大変な痛手を被っ
たらしい。ゆえに彼または彼女は自らの能力で造り替えた。最後の力で歴史を改変し……自らもその武装錬金もより強力に。
 
「それがいま生まれ変わりめがけ……記憶を送った。核鉄とともに」


 何が何やらである。呟いてから思わず噴き出すほど荒唐無稽な文言だった。
 イジメこそ受けているがヌヌ行の精神年齢は年相応だ。野暮ったいなりにもうすぐ始まる思春期に向けてティーン雑誌
の定期購読を母にせがんだのが2日前。イジメの発端となった告白など萌芽ではないか。
 魔法少女の活躍するひらがなだらけの絵本はとっくに卒業している。アニメはそれなりに好きだが現実との区別はついて
いる。活躍する主人公のマネをしたところで小馬鹿にされるのは分かっている──というか一度学校でやらかしたせいで
より激しい攻撃を浴び尊厳をズタズタにされた──。
 だから今の文言というのは何というか夢見がちな子供のやるコトだ。ヌヌ行は子供であるコト自体を恐れている。どうして
あれほどイジメられるのか幼いなりに一生懸命考えやっと出した結論が「大人になればいい」。イジメてくる人間たちより
より洗練された存在になればきっとおぞましい日々は終わりを告げる。
 転生だの生まれ変わりだのという戯言は言ってはならないし思ってもならない。
 ゆらゆらと揺れる心の中で強く厳しく言い聞かせるがしかし本心はすでに別の部分を見ていた。



 確信。呟いた言葉は戯言ではなく唯一無二の真実。きっと自分は何か人々を超越した存在で、同じく超越した分かりやす
い悪っぽいのと争って惜しくも力及ばずいまの姿に転生したのだ。そうだ。そうに違いない。きっといつか自分は失われた力
を総て総て取り戻し悪を討ち滅ぼすのだ。きっとどこか異世界に飛ばされステキな男のコと出会いケンカしたり誤解を重ね
ながら少しずつ距離を縮めてそれを原動力に悪を討ち滅ぼすのだ。シリアスとかコメディをやりながらきっときっと悪を討ち
滅ぼすのだ。


(あ。そういうの……いいなあ)


 一瞬ほわんとしたのは学校生活のヒエルラキーが低いからだ。内向人間特有の現実逃避だ。マンガや小説じみた世界に
行きさえすれば何もかも救われる。壮大な誤解。悪とやらを討ち滅ぼせば万事解決、本来人間が飲み干すべき雑多な人間
感情の処理、やりたくもない付き合いを営々とこなす作業は一切免除という馬鹿げた特約を信じている。


 だが現実は過酷だ。
 ヌヌ行が本当にショックだと思える出来事。
 あっという間に夢想を貫き心を抉る1つの事実。


 スマートガンの武装錬金・アルジェブラ=サンディファーは時空を渡る武装錬金。
 ヌヌ行自身いかなる時系列に飛べるしその先で望み通りの歴史を作るなど朝飯前。

(歴史を……? )


(歴史を)


 下唇をギュっと噛む。

 過去に飛べる。知った瞬間すぐ考えたのが殺戮だった。
 未来へ行ける。知った瞬間すぐ考えたのは逆襲だった。

 力のないものが力を手にした時芽生える過剰な敵意。

 脳裏に生まれたのは男のコとの楽しい冒険ではない。

 せせら笑う無数の少女たちだ。

 10数分前までそれはヌヌ行の劣等感を極限まで増幅し縮み上らせる恐怖の対象だった。
 核鉄を得てからは違う。
 鼻で笑い飛ばせるほど小さな存在に思えた。

 帯の中では巨大な船が氷山を避けゆうゆうと泳いでいる。
 本来はありえなかった光景だ。多くの人間の記憶に残る「巨大な悲劇」。映画にさえなった大事件。
 ヌヌ行はそれを「試し」に選んだ。自らの能力がいかほどのものか試し……結果見事に回避された。

 自らの力。その確かな証拠を見た瞬間、感情が爆発した。
 今まで押さえつけていた感情が報復というベクトルに収束し、持ち前の処理能力が次から次へと献策する。
 イジメをやめさせようなどという生ぬるい情緒はなかった。
 ただ、憎かった。
 生まれる前に消し去ってやる。そんな感情でいっぱいだった。

 大きな双眸から涙を流ししゃくりあげながら腕を振る。

 無数の帯がめいめいの動きで近づき見たい画面を並べ立てた。

.



 お腹の大きな女性が街を歩いている。ダンプカーがその横を通り過ぎた。
 新生児室でしわくちゃの赤ちゃんがすやすや寝ている。
 ひきつけを起こす女児の向こうで父親らしき中年男性が黒電話を掛けている。

 他にもいろいろな画面があったがその登場人物のどれか1人は必ず憎き仇敵と似た顔だった。

転げ落ちろ時の狭間へ!

 ヤケクソのように叫び画面を睨む。少し牙と力を突き立てるだけで簡単にブチ壊せる光景だった。

 意を決し道路へ飛び出せばハンドル操作を誤ったダンプカーが臨月に命中し好ましい結果をもたらすだろう。
 生まれたての赤ん坊にうつ伏せは厳禁だ。
 まだ携帯のない時代、電話線の切断はまったく死活問題であろう。

 他の画面に対しても湯水のごとく復讐法が湧いてきた。
 ……それは、面と向かっては決して抵抗できない人間だけが持つ「弱い」考えだった。
 直接立ち向かえない。だから遠くから狙い撃つ。多くの人間が理想としながら決して達成できない報復の手段。
 どこか幼稚さを孕み実際効くかどうか怪しい考え。

 それに取り憑かれたヌヌ行の狂喜たるや後々顧みて死にたくなるほど惨めなものだった。
 実行できなかったのも含めて、まったく惨めだった。

 街を歩く女性が大きなお腹を撫でた。幸福そうな笑顔だった。
 新生児室に腰の曲がった老婦人がやってきて赤ちゃんを撫でた。歯のない口をニュっと開け喜んでいた。
 部屋に救急隊員が来た。何か囁かれた男性は嬉しそうに頬を緩めた。助かる、というコトだろう。

 笑顔。喜び。安堵。

 暖かな感情を見た瞬間ヌヌ行の全身は凍りついた。
 自分は、自分はいったい何をしようとしているのだろう。何を……しているのだろう。
 膝をつき。掌をつき。足場のない空間で彼女はただただ泣き叫んだ。


 気づけば元の空間に居て。

 そして例の土建屋の娘から呼び出しの電話がかかってきた。

『転げ落ちろ時の狭間へ』


『転げ落ちろ時の狭間へ』


 受話器を置くと再び悪意が囁き始めた。人間らしい機微が何だというのだ。奴らの周りの人間が奴らめがけ暖かな笑
みを投げていたとして何だ? それは自分(ヌヌ行)になど向きはしない……馴れ合ってるだけだ。大事大事と愛い焦がれ
る存在が実は他者の笑顔を奪っている。そんなの誰だって受け入れない。「まさかウチの子に限って」。反省も促さず逆に
かばいだてる。訳の分からぬ情愛準拠の擁護と攻撃をたっぷりやりそしてまたヌヌ行を傷つける…………。

 だから「転げ落ちろ時の狭間へ」。濃紺の空間。画面を見るヌヌ行は揺れていた。

 未来予想図だった。呼び出しに応じればどうなるか。

 結果はいつもそうであるように散々だった。手足のない爬虫類が投入されていた。赤と黄色のストライプが毒々しいそれ
はおぞましいコトに生きていてヌヌ行の鼻先で幾度となく牙をかち合わせた。呼びだされたのは廃ビル群の一角。なぜ行っ
たのが不思議なぐらい迂闊な場所だ。人気はない。救援は期待できない。四方にひしめくビルはどれも高く、ガラスこそ不
揃いに割れているが悲鳴を彼方めがけ突き通すにはあまりにブ厚すぎた。



 何かの拍子にヌヌ行が反撃を試みた。たまたま握っていたコンクリートの塊がヘビの命を頭蓋骨ごと粉砕したとき17人
ばかりからなるギャラリーは一斉に不満の声を上げた。後は筆舌に尽くし難い。土建屋の娘お得意の平手がヌヌ行を地面
へ転がした。ギャラリーの1人がここぞとばかりスカートのポケットに手を突っ込んだ。
 主催者への媚売り。すかさず何かが飛び、受け止められた。
 喜色満面の土建屋娘の手で迸ったのは青白い電流だ。シェーバーをやや尖らせたような形状の器具。それがすっかり
ミミズ腫れだらけの背中に押しあてられ──…近い将来それを味わうヌヌ行はうっと目を背けた。
 結局耐えても解決しない。

 待ち受けているのは男のコとの楽しい冒険じゃない。
 悪との対決はカタルシスも特約もない。ただ負けて痛みを感じるだけだ。

 だから消したい。全員消したい。

 正直生きてても仕方ない連中だ。

 転げ落ちろ時の狭間へ。

『どういう訳か』この呼び出しに関しては改変が通じない。

 消したい。

 本当に消したい。



 それでも彼女たちの周りには彼女たちの存在そのものを喜ぶ人たちがいる。
 例え消滅に気付かなかったとしても共に培ってきた輝かしい記憶、時間が育んできたかけがえない感情の共有を丸ごと
刈り取ってしまう。
 存在を消し去る咎。ブレーキをかければかけるほど咎の巨大さが見えてくる。ただ殺すより残酷な仕打ち。生まれたコト
はもちろん死んだコトさえ気付かれない。仕返しとは何かが、何かが……掛け違っている。頭がわんわんと痛む。人を消し
去るなど良くない。だが消し去らねば苛まれる。被害者の温情などせせら笑うのが加害者なのだ。それでも消し去るのは……。


 悪意と良心のせめぎ合いの果て出したヌヌ行の結論こそ──…


 自殺だった。

 ひとたび甘い汁を吸えばいつか平気で人を殺すようになる。
 自分を苛む連中と同じになる。

 それだけは……嫌だった。







 もう過ぎたコトだ。

 武藤夫妻との対面を果たしたいまヌヌ行は微笑する。

 先ほどまでの絶望はもうどこにもない。

 彼らとの出会いは新しい可能性を示してくれた。

 敵対する人物。彼らもまた命を持っている。いつかあの、斗貴子のお腹にいた鼓動のような存在と出会う権利を誰だって
等しく等しく有している。
.



 それを奪うコトは絶対に間違いだといえたし、ヌヌ行自身守り抜きたいと心から思っていた。

 実行するにはどうすればいいか?

 心身を鍛え実力で対抗できるようになるのが一番だが……あいにく時間はない。
 対決はもう迫っている。
 行くにしろ連行されるにしろ廃ビル群には20人近くの女生徒がいる。
 いまのままでは勝ち目がない。

 だったらどうすればいいのか?

 敵対する人物を発生前に消し去るだけが時間操作じゃない。

 濃紺色の空間──どうもここに居る間、実世界では1秒たりと過ぎていないらしい──で手を躍らせる。

 次元を裂き現れ出でたのは巨大な帯。
 そこにあるスクリーンの1つは……廃ビルの群れを映していた。


 今は何もない。人は一人とていない。

 腕を上げるとさまざまな光景が映った。
 敢えて過去にだけ限定したが、建設中から現在までまるで定点カメラをしつらえたかの如く正確に。
 そのビルを映していた。

 アングルも自由に変えられる。特定の箇所だけ映すコトも。


 確認を終えるとヌヌ行は頷いた。ひどい緊張の面持ちだった。生唾を呑む音さえした。


 スマートガンの武装錬金・アルジェブラ=サンディファーは時空を渡る武装錬金。
 その特性は『歴史記憶』。
 通常改変に伴い上書きされ消えゆく歴史だが、ヌヌ行の武装錬金はそれさえも記録し且つ復活さえも可能。
 (パソコンの復元ポイントまたはスロットが複数あるゲームのデータ。そう考えればいい)
 濃紺の世界に現れた無数の帯は1つ1つが消え去った歴史なのである。
 ヌヌ行(創造主)はそれらを閲覧可能。時には必要に応じ自ら改変していくが。

 彼女は『時空に対しては』改変者たるより傍観者……或いは無知なる一般民たらんとした。
 それは初めて能力を手に入れた時、幼さゆえ道を外しかけた教訓でもあるが……。

 自らを呼びだした土建屋の娘たち。

 彼女たちを傷つけるコトなく切り抜け、イジメをやめさせるきっかけにまで好転させた──…
 ヌヌ行自身の奇跡的な自助努力。それが彼女の基本を傍観者たらしめている。


 そしてその方法とはまったく単純で、馬鹿馬鹿しい、泥臭いやり方だった。


 最善手を考えた場合、過去へ介入するコトこそ至高であろう。
 馬鹿げたイジメのパーティを強制散会させる手段などいくらでもある。
 匿名気取りで教師に電話し現場へ招く。参加者1人1人の行動を把握し来れなく──危害を加えるのではなく、それぞれ
の生活様式に応じたやり方で──する。イジメが始まるより早く廃ビル一帯を火の海にすれば当面の安全は図られる。

 だがヌヌ行は最善手を打たなかった。
 何故なら彼女に言わせればどれも「ズルい」。自らの力で切り抜けたとは言えない。
 カズキや斗貴子なら例えその過程が過酷だったとしても、惨めな思いを味わったとしても……。
 矜持を貫き、克己し。敗北の中でさえ掛け替えのないものを獲得するだろう。
.



 ヌヌ行は彼らのようになりたかった。
 厳密にいえば布越しに聞いた暖かな鼓動と再び巡り合いたかった。
 今でもまだ耳に残るあの鼓動は世界の暗澹に朽ち果てそうだったヌヌ行の心に光を灯してくれた。
 いわば希望だった。鼓動を思うとき心は強く蘇り暖かな色に満たされた。
 イジメが始まるまえ意中の男子に告白した時のような「向かうコト自体に意義を覚えられる」……柔らかな奔流が全身
を駆け巡った。

 卑怯な手段を使えば……顔向けできない。

 決めていた。

 時間跳躍こそするがそれはあくまで対等になるための手段。腕力。数。理不尽な差を埋めるための。
 歴史改変のような不意打ちで勝つつもりは毛頭なかった。
 面と向かって真っ向からイジメに立ち向かい凌いでみせる。

 結果からいえばヌヌ行はそれを実現した。

 果たして……いかなる方法でか?

 まず普通に呼び出しに応じ、イジメを受ける。
 ここまではいつもの光景だが解放されるやすぐさま家へ舞い戻り武装錬金を発動。
 先ほどのイジメを画面越しに見る。見て、敵どもの動きをノートに書く。
 余談だがイジメの現場に核鉄は持っていかない。コトの最中奪われるのを危惧したためだ。
 核鉄が保管されている自宅めがけ歩いているときいつもヌヌ行は笑い泣きだ。
「持ち歩けたら帰り道ケガ治せるのに」。もっとも辛いのはもちろん例の空間で鉛筆を動かしているときだ。さんざんと痛め
つけられた個所がズキズキ痛む中での授業じみた行為。武装錬金発動中だから核鉄治療はお預けだ。土建屋の娘たちの
動きを描くとき思うのは「やめたい」。さっさと鉛筆を投げたい。寝たい。斬り捨てたはずの楽な道、大掛かりな歴史改変の
誘惑と戦いながらどうにか一通り描き終えるのが3時間後。不明な動きがあれば巻き戻し何度も見るのでそれだけかかる。

 ヌヌ行が主軸としたのは回避だった。
 敵の攻撃を総て避けきる。相手全員が過度の運動と興奮でヘトヘトになるまで避けきる。
 勝利は求めているがそれは戦闘自体の勝利ではない。
 イジメが終わるという戦略的勝利。
 局地的な戦いでの勝利。それは意味をなさない。下手に勝てば──ふだん見下している相手に下されたからこそ──お
ぞましい敵意が膨れ上がる。どうにか武力で勝ちを収めようとする。より強大な暴力が襲ってくる。悪循環だ。ましてヌヌ行
自身が武力にすがれば際限はない。総合的に見れば有利なのはヌヌ行で、その気になれば18人の生涯ごと戦いじたい
消滅させられるとしてもだ。
 重要なのは有耶無耶にするコトだ。どちらが勝ちとかいう『真実』はなくていい。担任教師たちが居もしない不審者をわざ
と信じ鍵付きのロッカーを導入したようなどこか虚偽的な手段で何もかもを御破算にしてやるのだ。攻撃を総て避けきり
攻撃するコトなく相手方総てを戦闘不能に追い込めばそこに敵意の生まれようはない。何しろ相手を傷つけていないのだ。
自ら高速で舞い続ける羽毛を殴れ。そう命じられた常人が6時間先12時間先で同じ行為を続けられるか? 難しいだ
ろう。体力のあるうちはまだ悪罵を投げかけられる。だが尽きてくればそれさえもできない。自らの行為の無意味さを問い
ただその状況が終わるコトだけ願い続ける。羽毛が尊厳も生活も財産も何一つ侵さないなら尚そうだ。
 ヌヌ行は羽毛たらんとした。人でありながら羽毛という偽りに満ちた存在となり徹頭徹尾敵の攻撃を避けんとした。

 だがいわゆる未来予知とやらでそれをするつもりはなかった。
 多くの人間が聞けば目を剥くだろうが、時空改変を行えるトップクラスの武装錬金アルジェブラ=サンディファー。
 事もあろうにヌヌ行はそれをビデオ代わりにした。
 イジメの現場を写し、自分がどう苛まれ、敵が如何なる攻撃パターンを有しているか分析するためだけに…………
世界総てを一変できる能力を使役した。
 そのため本来なら一度で済む暴行を数十回も味わう羽目になったがそれは対価だ。
 武力もない。精神力もない。にも関わらず勝ちたいなら犠牲を払う他ない。
 犠牲を払い、敵の有り様を間近で見て、更に別視点から研究して。
 偽りに満ちた、けれどもヌヌ行自身の信じる真実にそぐう勝利を……掴む。

 今回の呼び出しをうまくいなしても”次”がある。
 それも有耶無耶にしその次もその次も有耶無耶にする。
 イジメが起こるたびその総てを物理的に避けきれば──…
 いつかは終わる。

 まどろっこしいがもっとも確実な手段。

 現実世界に戻るとすぐさま核鉄治療のスタートだ。体にテープでぐるぐる巻き。夕食が終わるとすぐさま就寝。
 そして翌日から3日間、学校を休む。
 ただの登校拒否ではない。「体を強くする」期間だ。
 核鉄治療は傷ついた体をより強靭にする。舞い込んだ記憶を頼りに彼女はただじっと傷を癒し……。

 再び時間跳躍。

 座標軸はカズキたちと出会った後。そこから再びイジメの現場へ。

 もちろん核鉄治療を施してすぐ加害者たち総て倒せる訳ではない。
 肉体組織が以前より少しだけ強くなるという程度だ。
 戦いにはもっと技術的な修練が必要だし精神的な慣れもいる。
 それらは両方とも錬金戦団のような組織に属さねば培えない。
 武装錬金を得たりといえどまだ小学生、まだ一般人のヌヌ行にとって核鉄治療は万能薬ではない。

 高圧電流は矛盾しているが人を殺すほど強くなかった。
 加減、されている。流石に小学生といえど殺人はマズいと思っているのだろう。

 そんな土建屋の娘の機微をニタニタ笑いながら去っていく取り巻きどもを眺めながらヌヌ行は立ち上がり再び自宅めがけ
歩き出す。数瞬前までの絶叫と海老反りはまだまだ体の芯にズシリと残っている。
 足取りは重く、されど軽く。

 自宅に戻り武装錬金を発動し、また帯を眺めイジメの現場を観察し、3日ほど核鉄治療──…

 唸る土建屋娘の掌を紙一重で避けたのは6周目……。
 一瞬何が起こったのか理解しかねた彼女は流石に青筋を立て痛烈な前蹴りを叩きこんできた。膝の拉ぐ嫌な音がした。
倒れ込むヌヌ行の全身を貫くのはしかし歓喜だった。

 イジめられるうちどんどん内向的になったヌヌ行。
 彼女の最近好きなものはとある動画サイトだった。
 そこではいろいろなアニメが期間限定とはタダで見れるしいわゆるその派生、映像や音声の一部を使い回した奇妙な
動画だってある。
 中でもヌヌ行がお気に入りだったのはゲーム。
 プレイしたコトのあるゲームが自分など及びもつかぬ手際で攻略される動画。
 いわゆる実況という、投稿者のおしゃべりを織り交ぜた動画。
 バグを駆使し抱腹絶倒の世界へ造り替える動画。

 そして。

 そして──…

 縛りプレイ。

 わざとプレイヤーに不利すぎる条件をつけた上でクリアを目指す動画。

 それがヌヌ行は大好きだった。

 分かりやすくいえばたとえばレベル1で魔王を倒すような、1面につきたった30発しかタマを撃てないシューティングゲー
ムで──たった1発超過するや爆滅するオンボロ戦闘機! ラスボスはちょうど30発で死ぬ──10周攻略を目指すよう
な、そんな動画がヌヌ行は大好きだった。

 多くは敵が相対的に強い──プレイヤー側の弱体化のせいで──だけだが、中にはゲームそのものを改造しその強さ
を絶対的にしているものもあった。魔王の体力が原典の6倍だったりラスボスが変態じみた高速で飛び回ったり……、と
にかく無茶な条件をどうにかしようとあがき続ける。どこか自分と重ねていたのかも知れない。。

 最初はまったく手も足も出ない。連戦連敗。死に続ける主人公。
 だが時にプレイヤーの執念は無情極まるゲームの仕様を凌駕する。
『どうにもならない現実』。プログラムが厳然と弾きだす敵と主人公の圧倒的力量差。
 それが逆転し始める瞬間は……確かにある。

 膝蓋骨から立ち上る強烈な痛みにヌヌ行は叫びだしたい気分だった。
”やった!”

 無慈悲極まる攻撃をかいくぐり一矢報いる主人公。

 しかし次の光景はいつも大体無残なものだ。あらゆる努力と奇跡の籠った攻撃はされど敵にわずかしかダメージを与え
ない。すかさずの反撃。健闘むなしく散華する主人公。

 ヌヌ行の攻撃回避は却ってギャラリーを怒らせた。ブーイングのなか小石が飛ぶ。衝撃。揺らぐ頭。流れる血潮。

 だがそれでいいとヌヌ行は思った。羽交い絞めにされながら思った。
『いつもより』早いタイミングで投入されたスタンガンがいつもよりやや強い出力で危害を及ぼしたが──…


『どうにもならない現実』を一瞬だけ上回る奇跡の瞬間。
 それは端緒なのだ。一瞬が恒久になり奇跡が常態になる前触れなのだ。
 努めさえすれば、対決を投げ出さなければ、人が最奥に隠し持つ黄金の適応力は遂に克服へ結実する。

 ヌヌ行はそう思う。
 時空の中で土建屋の娘たちの動きを観察するたび思いは強くなる。

 対決は続いた。

 イジメへの参加にやや消極的なギャラリーたち。やるよりは見る方が安全(さまざまな意味で)と佇んでいる傍観者たち。
 ヌヌ行が彼女らに挑みかかり返り討ちに遭い始めたのは匹夫の勇ではない。
 いざという時のため。仮に土建屋の娘をいなせるようになっても数を頼みに袋叩きをされれば勝ち目がない。
 どころか、命が危ない。乱戦における一般人の感情の昂ぶりは想像を絶する。みな危うい年代なのだ。些細なきっかけ
であっさりと命を奪ってしまう。
 各人の性格、攻撃のパターン。武器の有無。武器の性状。それらを知るに最適なのが総当たりだ。例え余計に17周した
としても結果からいえば近道なのだ。


 変わらない現実は確かにある。

 だが、超えられない訳ではない。

 その過程がいつだって困難なものでひどい痛みを伴うから人は途中で取り組むコトを諦める。
 では諦めない人間の条件とは何か?

 ヌヌ行はまだそれを語る術を持たない。

 それでも。

 嵐が去った後。
 少しずつだが抗する力が付き始めているのを実感しながら帰路についた。







 縛りプレイ。過度に強大なプログラムへの挑戦。
 人がそれを乗り越えられるのは発展があるからだ。指先の敏捷性。反射。判断力。集中力。
 プログラムとは止まった時の住人だ。発展はない。時の流れに応じ変わるコトはない。


 67周目。

 いよいよその時が来た。


 両肩を素早くもみ揺すると羽交い絞めが解けた。左膝。力を抜く。練習通り体は沈む。成功。かわされるボールペン。
左肩を花柄模様で狙い撃ったのは太り気味の女子。会心のタイミングだっただけに呆然自失立ちすくむ。何周か前不意打
ちで痛い目見たから……軽く顔をしかめ両腕を伸ばす。前へ。キャッチ。飛んできた通学カバンの小気味よい手ごたえ。
教科書が満載のそれは結構な重量。7周目で偶発的に当たったそれが腰骨にヒビを入れたのは忘れ難い記憶だ。踵
を軸に46度ほど右旋回。やや必死の表情。縮んだバネが爆発するよう立ち上がる。カバンを振り抜く。右上から左下へ。
軽く、軽く。それだけで何とかとかいう飛び回し蹴りが見事に裁かれた。地面に落ちたしなやかな影は土建屋の娘の側近だ。
特技はテコンドー。工藤静香を更にシャープにしたような美貌。最強の伏兵。もっとも煮え湯を飲まされた相手だ。勝て
そうと思うときいつも出てきて何もかもブチ壊す。今回もそう、しゅっと息を吹きながら一足で飛び込んできた。何とか
避ける。目撃。穴だらけ血だらけの手足。先ほど落ちたのは尖ったコンクリ片の溜まり場。折れた鉄骨も刺さったのだろ
う。風とともに血しぶきが舞う。神速の足刀。後年小札零を知ったときまず思い出したのがココである。蹴りは華麗にし
て鮮やか。勇壮なる変幻自在千差は予習と把握と寿命の3分の1を費やした核鉄治療の成果を得てしても回避するので精
一杯だ。敵ながら見事、濃紺の世界で何度見ても飽きぬ光景。後の世界一というのも納得だ。だからこそ小札に実況させ
たい風景! 
 もっとも直面中はそれどころではない。小札似(鐶ぽくもあるが)の三つ編みを揺らめかしながらメガネの奥を右往左往、
情けない声を上げつつもとにかく避ける。
 まっさきにカバンを捨てたのは物理的損壊によって恨みを買うのを避けるためだが、一瞬その判断が誤りで誤りゆえにま
た詰むのではないかと青ざめたのもしばしばだ。転瞬脳髄に電撃が走る。美しい少女のものとは思えぬ重苦しい爪先。右
脇腹に深々とめり込んでいる。えずき。呼吸困難。硬直。致命的な隙。追撃されれば一気に総崩れとなる好機にして悪機。
だが倒れたのは側近だった。振り返る。残る16人の取り巻きたちは表現こそさまざまだったが……みな凍り付いていた。
 もっとも青ざめていたのは土建屋の娘。
 数秒前やらかした行為がどれほど致命的な形で跳ね返ってきたか痛感しているらしく、大きな双眸は恐怖と涙でいっぱい
だった。「いや……」「違うの」。小さな体がガクガクと震えている。
 後ろ向きに倒れ行く側近。この場においてもっとも絶大な武力を持つ少女の額から拳大のコンクリ片が落ちた。
 投げたのは……主君。
 ヌヌ行だけが知っていた。土建屋の娘の癖を。彼女は乱戦になると必ず手近なものを投げる。誤爆はない。狙えば必ず
命中する。スタンガンが使用不能ならばなお投擲だ。
 幾度となくやられた不意打ち。避けられたのはまったく本能ゆえと言わざるを得ない。
 そして。
 不意打ちの数など足元にも及ばぬほど理不尽な攻撃を受けた……受ける道を選んだが故の幸運が遂に訪れた。
 側近。白目を剥き切る最中にとうとう背中は硬い地面へ吸い込まれた。幼くもしなやかな体がどうっと弾み沈静するころ
ギャラリーたちはいよいよ場の流れの”マズさ”を悟った。
 視線は冷たい。総ての概要を知るヌヌ行にしてみればあの局面での援護攻撃は主従ゆえにまったく絶妙で最高の策だっ
た。ただ悪いコトにヌヌ行は弱者故の悲しさで何も考えずただ咄嗟に避けてしまった。側近が轟沈したのは本当にまったく
ただの不幸な偶然だ。当てようと思って避けたのではない。がむしゃらに避けたらたまたま当たった。
 だが取り巻きたちはそう思っていないらしい。
「なに下らない手出ししてんだよ」
「空気読めよ」
 腕っ節だけなら場で一番の者がよりにもよって首謀者の手で沈んだ。
 しかも今日のヌヌ行は何だか変だ。 遠巻きでもみなそう思うへど変化は顕著だ
まさか何十回も同じ現場を繰り返し参加者総ての攻撃パターンを知りつくし日夜回避の研究にいそしんでいるなど想像も
つかないが、にしても普段よりやり辛い。ただキレているだけの相手なら小馬鹿にできるが決死の形相で攻撃を避ける
その気迫! 何だか尋常ならざる様子だ。一言でいえば重い。彼女らは日々生じるストレスを手軽な手段で発散させたい
だけなのだ。クラスでもっとも権力のある女子。クラス最強のテコンドー使い。そういった連中が味方にいるからこそノー
リスクだと思い──いよいよ厳しくなってきた学校の目に潮時を感じながらも──参加したのに何たるザマだ。
 それでなくても彫刻刀事件で凋落するのではないかと囁かれている土建屋の娘だ。いまこの場における誤爆は侮りを
呼ぶに十分だ。
 冷たい視線を感じたのだろう。土建屋の娘は歩を進めた。向かう先には無論ヌヌ行。
 普段なら何人かが加勢するのだが今回ばかりはそれもない。
 一つには連帯感もあっただろう。イジメという共同作業を通して芽生えた奇妙な意識。先ほどの誤爆の辱を雪げとばかり
見守る気持ち。
 いま一つは──結局連帯感さえ出発はそこなのだろうが──打算。下手に加勢して後ほど「一人でも勝てたのに余計な
コトを」と言われるのは……イチャモンをつけられるのは実にマズい。ヌヌ行がイジメ辛くなっているいま下手は打てな
い。”次”になるのは誰だって願い下げ。「加勢? やだよ誤爆されんの」。そういう囁きもどこかで上がった。
 敗北への懸念もある。首謀者が破れたら学校生活はどうなる? ただでさえ学校側から全面的に庇護されているヌヌ行
が実力に置いても勝つとくればそれはもう悪夢である。もともと成績もいい。やや野暮ったいが垢抜ければ土建屋の娘以
上に美しくなる素地もある。(そうならないよう責めた)。イジメに勝ったという勲章はクラスのおとなしい、マジメな
連中から支持を──もっとも勲章を得るほかなくなったのは彼らの無責任な傍観のせいでもあるが──得るだろう。
 となれば新たな勢力が発生しかねない。5年生といえば奇数だ。クラス編成が変わるのは奇数。他はともかく母校はそ
う。いまは5月。クラスにおけるポジションが決まるのはこの時期。悪いコトにそれは卒業まで続く。ともすれば中学生
活にも響きかねない。
 いまヌヌ行めがけ歩く少女。みな感じた。「旨味のなくなりつつあるを」。
 むしろヌヌ行への手出しを控え、様子を見、どうにかして負け組への転落を防ぐ処世こそ彼女らにとっては重要だった。

 みみっちい皮算用が渦巻く中。

 土建屋の娘は負けた。
 戦いにおいても……器においても。

 最後の一撃は奇しくも側近と同じ回し蹴りだったが修練不足のうえに疲労が積み重なったそれは実に不様なものであり
呆気なく避けられた。どころか勢いあまり転倒……微かだが数人。確かに噴きだした。
「ビル際まで追いつめておいて」
 小馬鹿にしたような笑い。仰向けに倒れていた土建屋の娘は瞬間そちらをカッと睨んだ。
 その時である。
 ここまで回避一方だったヌヌ行が……。
 土建屋の娘の胸を横合いから思い切り蹴り飛ばした。
「何を……!?」
 地面を転がり美しい肌のあちこちにすり傷をこさえた読者モデルの少女。
 起きあがるや目も三角にヌヌ行を睨み据え…………。

 信じがたい光景を目の当たりにした。

 鈍い音。

 崩れゆくヌヌ行。

 イジメに興じていた人間たちもただ愕然と現実の行く末を見届けた。

 顔を突き合わせた誰もが……首をノーに振った。

 シンデレラよろしく昇りつめた少女。その後頭部に刺さっていたのは──…


 花瓶。


 だった。

 分厚くザラザラした陶器である。
 虎と牡丹が彫られたそれは遠目からでも分かるほど大きい。その重苦しさからするとおそらく5kgはあるだろう。
 ギャラリーの1人が「あっ」と上を指差した。



 ビル。ガラスが割れ中が剥き出しになっているその建物の3Fあたりで何かうごめく影が見えた。
「落した?」
「誰?」
「とにかく……花瓶から」

 かばわれた。

 ありえない状況だ。
 土建屋の娘は目を見開き口をパクつかせた。

 いまヌヌ行のいる場所というのは先ほど自分が倒れていた場所だ。
 罵声に思わずそちらを向き睨み据えていたから気付かなかったが……。

 もしヌヌ行の蹴りがなければあの花瓶は間違いなく──…

「落ちてた……。顔に。……そしたらグシャグシャで…………大変なコトに……」
「……サン」

 愕然たる精神を引き戻したのは側近である。
 いつ気付いたのか。よろよろと歩み寄ると気取られぬよう耳打ちし──…


 10数分後。ヌヌ行は救急車に運ばれた。





 怪我は軽く済んだ。思ったよりは、であるが。核鉄治療のおかげかもしれない。
(全周回で受けた傷のリザルトを吐き出せば、その3割は頭部。おかげですっかり石頭だ)

 いずれにせよ何とか目論見どおりになった。

 退院の日、ヌヌ行がそう思えたのは土建屋の娘が見舞いに来たからだ。

 どうして救急車を呼んだのか。何気なく聞いてみると彼女はひどく申し訳なさそうにこういった。

「かばわれたから……」

「っていうのはちょっとだけウソがあって」

 側近の入れ知恵らしい。
 もしあそこでヌヌ行を見捨てた場合、下落傾向の株はとうとう大暴落。どころか犯罪。
 ならばまがりなりにも人道を貫いたヌヌ行を助けるべきだ……と。
 付記すれば救急車を呼ぼうが呼ぶまいが学校からの呼び出しは免れ得ない。
 となればである。
 あの現場に居た者は総て連座……連帯責任を問われる。
 言うまでもないが花瓶は誰も落としていない。だがあまりに悪行をやりすぎた。信じて貰えるか否かあやしい。
 もし信じてもらえてもイジメた事実は絶対に消えない。道義的責任は確かにある。

「だったら、私だけがあの場に居たってコトにすれば」

 取り巻きたちからの反感は買わずに済む。むしろ弱味を握れるし恩も売れる。


「ウソかぁ〜」


 ヌヌ行はとても嬉しい気分だった。ウソのお陰であの件はだいぶ有耶無耶になっている。



 誰1人にも勝てず、恨みも買わず、むしろ被害者の立場で英雄的側面を手に入れた。
 ケガだけでいえば負けにも等しいのに首謀者はもう攻撃できない。矛盾をはらみながらも合理的な理由が発生している。
 命を救われた人物が、救った人間を攻撃する。
 なかなかできるコトではない。
 これでイジメを継続すれば取り巻きから──連帯責任を免除したという貸しがあるにしろ──3人ないし4人の離反者が
出る。参加者17人の中では小さな数字だが少女とは話し好きなものである。いかに土建屋の娘の人格が酷薄か(自分
のイジメ行為を誤魔化すよう、より過大に)並べ立て次から次へ敵を量産する。というコトを土建屋の娘は述べた。
 まがりなりにもクラスで一大会派を築いているだけにそういう感覚は鋭敏らしい。ヌヌ行は内心舌を巻いた。
 流石に親友にはなれないだろうが、学ぶべきところはある。そういうと彼女も同じコトをいい……2人して笑った。

 後に聞いたが最初担任の教師はこう疑っていたという。
 土建屋の娘が花瓶で殴ったのではないか……?
 医師の診断によりその線は消え、花瓶については事故で処理された。
 結局先日の彫刻刀事件の件を問い詰めているうちああなった。暴行についてはやはり責められるべき要素はあったが
しかし花瓶落下という突然の事故に際しすぐさま救急車を呼んだ姿勢だけは評価され、今回だけは特別に見逃されたとい
う。

 他にも何人か現場に居た。その事実を教師たちは知っているのだろう。医師の報告はけして擁護にだけはならない。ス
タンガンの使用も指摘しテコンドーの鋭い足跡だって炙り出している。所用で街に出向いていたとある教師が事故のあった
時間、あのビルの方からぞろぞろと逃げだしてくる複数の生徒を目撃してもいる。


「ところでなんであの時、花瓶が落ちてくるって気付いたの?」


「……それが私にも分からなくて。なにかあったんだけど。頭を打ったせいかな。記憶がなくて」



 ヌヌ行たちは知らなかったが……。
 この時間、あの現場にいたものたちはみなゾッとしていた。

 ビルの方から逃げてくる少女たちの写真。それが『何者かによって』自宅へ送りつけられていたからだ。

 スタンガンを提供した少女もまたカタログを前に震えていた。郵便受けへ無造作に突っ込まれていたカタログ。とある1
ページにドッグイヤーがついているのに気付いた瞬間、心臓は跳ね上がった。ナイフや警棒といった少女に不似合いな
商品満載のカタログ。該当のページを開く。凍りついた。かつてヌヌ行をさんざん痛めつけた電圧的凶器。まさに同型に
花丸が振られている。色も筆致も学校でよく見るやつだ。


 教師たちは誰一人彼女らを責めたりはしなかった。

 いつも笑顔で。にこやかに。心から将来を心配し、正しく育つコトを望み。

 贔屓などなく分け隔てなく公平に接した。
 ヌヌ行がたとえば間違って金魚鉢を落っことせばちゃんとお説教はするし反省文も書かせた。
 イジメに参加した生徒たちが得意分野でヌヌ行に勝てばとても喜び努力を誉めた。

 それが、恐ろしかった。

 きっと総ては知られている。知られているのに責められない。

 大人だけが持つ本心の見えない笑顔。それを目の当たりにするたび彼女らは恐怖に囚われた。

 実は内心で怒っているのではないのか。イジめた分際でヌヌ行に勝ったコトを腹立たしく思っているのではないのか。
 被害者たるヌヌ行さえ叱るのだから、もしこれ以上なにか悪事を働けばウラにある何もかもが爆発し悲惨で破滅的な事
態が起こるのではないか……。

 猜疑はやがてヌヌ行への罪悪感と混じり合い拭い難いものにしていった。
 そういう気持ちのせいだろう。彼女らは終世2度とイジメをやらなかった。むしろかばうコトさえあった。



 土建屋の娘が読者モデルをやめたのは彼女たちへのケジメだったのだろうか。
 

 後に発展途上国での地雷除去に従事する土建屋の娘。
 その生涯は64回目の春が訪れたとき老眼で見落とした地雷を踏むまで続いた。
 死骸は酸鼻を極めたが……不思議なコトに顔だけは無事だったという。







 そんな運命を知らない彼女は病室を去るときひざまずき、深々と頭を下げた。




 顔を守ってくれてありがとう。




 それから……ゴメンなさい。





 山ほどいろいろ言いたかったヌヌ行だが「ま、いっか」と思った。

 だから笑顔を浮かべ「うん。気にしてないよ。でも誰が相手でも……もうしちゃダメだよ」とだけ言った。


 地獄のような日々が終わりさえすればいい。

 約束も……果たせたのだから。


 武藤夫妻への連絡は(ヌヌ行が3日ほど昏睡していたのも手伝って)、ややバタついたものになった。

 入院してから5日目。

 やっと連絡のついた彼らは慌ててすっ飛んできた。

「へー。じゃあ花瓶が落ちてきたんだ」
「ったく。任務で行ったコトはあるが……まだ窓際にいろいろ置いてるのか」

 呆れるやら安堵するやら。とにかく彼らは最後に笑顔でこういった。

「頑張ったな」
「頑張ったね」

 期限よりやや早く──ヌヌ行の中では結構な歳月が流れているが──約束を果たせたコトはとても嬉しかった。





 退院。自宅へ。自室に入るとすぐ核鉄を発動した。



 もう敵の動きを研究する必要はない。
 ただ、記念にあのとき自分がどういう動きをしていたのか見たかったのだ。

 はたして、見た。

 しかしスクリーン越しではどうも物足らない。

 気付けばあの時間に跳躍していた。

 思わずだ。ポリシーに反する行為ではあるがしかし浮かれてもいた。

「大丈夫。ここはビルの3階。しかも双眼鏡で見るだけだから。大丈夫」

 場所的に最終決戦のあった場所の真上。特等席だ。
 頑張った自分へのご褒美という奴である。望遠レンズで見る自分の雄姿たるや見ていて涙が出るほど感動的だった。

「あ。いけない。もうすぐ土建屋さんとの直接対決なのに」

 涙で前が見えなくなった。慌てて拭おうとしたら双眼鏡が……落ちた。

 このビルにガラスはない。下手をすれば双眼鏡が地上めがけ落ちるだろう。

 そしてヌヌ行が経験したこの歴史では双眼鏡など落ちてこなかった。
 落とせば歴史改変をしてしまう。もし土建屋の娘に当たれば? 違う勝因が生じれば苦労はまったく水の泡。

 必死の思いで手を伸ばす。はたして双眼鏡は受け止められた。×字に重ねた両腕に仕舞いこむ。春の訪れとともに奇妙
な張りが生じ始めた胸。堅く押し付けられる覗き道具。大丈夫。ある。安堵の溜息。

 さあ観察再開だ。身を乗り出した瞬間、爪先に何が重い感触が当たった。
 ゴドリという乾いた音がした。きっと下まで響いたのだろう。


「?」


 いよいよ自分たちは眼下に迫ってくる。その興奮に一瞬気を取られてたいたヌヌ行だ。
 爪先の「ゴドリ」を理解するまで2秒を要したのも無理はない。

 何気なく視線を移す。


 花瓶だった。


 分厚くザラザラした陶器。虎と牡丹が彫られた。5kgほどはあろうかという花瓶。

 それが中空にいる。ゆっくりと落ちていく。手を伸ばしても届かない距離で、落ちていく。


「〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 全身の毛が逆立った。フラッシュバック。超高速で回転する脳髄。記憶喪失は回復した。

(そうだ!! 確かあのとき! 上の方から!!)

 ゴドリという奇妙な音がした。ちょうど相手がギャラリーに気をとられていたので何気なく上を見た。



 すると花瓶が降ってくるではないか。理由は分からなかったがあのままいけば土建屋の娘の顔面に直撃だった。

 だから、かばった。

 ヌヌ行の知る歴史が眼下遥かであっという間に再現され……花瓶は彼女の後頭部に刺さった。

──「ったく。任務で行ったコトはあるが……まだ窓際にいろいろ置いてるのか」

 蘇るのは斗貴子の言葉。確かにあるわあるわ同じような花瓶やら紙の束やらサッカーボール。

 顔面蒼白の彼女は更に見た。ギャラリーのうち何人かがこちらを見ているのを。
 慌てて後ずさる。

 死角に逃げ込むと救急車の音がどこからかした。

 それを聞きながら彼女は時間を跳躍し……。

 濃紺の世界へと戻った。



 そして肩で荒く息をつき、つき、つき──…


 叫んだ。


「なにアレ!!」



「私のっ!!」



「私のせいなの〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」


 シュビシュビとスクリーンを指差しながら大声を立てる。
 もちろんだが、誰も答えたりはしない。




(なにコレ、なにコレ? いいの? いいの?)



 目をぐるぐるとさせる。答えは出そうにない。


 自宅に戻ってからも混乱は収まらない。

 努めて冷静になって考えてみる。


 まず疑問なのは「あの勝利は結局どこから来たのか?」である。

 ヌヌ行が戦略的勝利を手に入れるきっかけとなった花瓶。
 アレを落としたのもまたヌヌ行である。


「で、その私っていうのはだよ? 勝ったから、嬉しいからあそこへ……だよね?」

 恐ろしいパラドックスを孕んでいる。
 花瓶が落ちたから勝った。でも勝ったから花瓶が落ちた。

「………………………………………………か、考えるの、よそう」

 もっと重要なのは、ヌヌ行のポリシーについてである。

「うぅ。もう歴史改変なんてしないって決めてたのに」

 結果からいえば最後の最後で介入してしまった感がある。

 アレは果たしてアリなのだろうか?

 しばらく俯いていたヌヌ行は……突然ガバと面を上げた。


「いいや!! アリだ!! アリなのだよ過去の私ぃ!!!」

「フ、フフ。私、か。あれほどの困難を成し遂げたいま一人称がそれじゃダメだ!!」

「決めたぞ!! わた、ぼく、おれ……拙者? んーーーーーーーーーーーと。余じゃなくて、不肖でもなくて〜〜〜」

「ほ!!」

「そだ! 我輩! 我輩はね!! 今日からね! 超越者を目指すの!! 来るべきウィルとの戦いに備え!!」

「超越するのだよ!! にも関わらずあの程度の事象についてうだうだ悩んでいても仕方ないじゃないか……」

「フフフ。確かに我輩の悩みどころは正しいよ。が、あの土建屋の娘の顔面に当たらなかったのなら問題はない。時間跳躍
を悪用し敵を損壊せしめる……それはしていない。自ら定めた禁忌は破っていない」

「アレは事故であり!! 事故を起こした我輩自身が阻止した!!」

「阻止できたのはあそこまでの修練があったからだ!!」

「ならば我輩、何も間違えていないではないか!!」

「ククク……クククク!!!」

「ハーッハッハッハ!!!」


「歴史改変!! 何と奥深く素晴らしいものなんだろうね!!」

「我輩いつか可愛い男のコと歴史を旅して悪をこの手で討ち滅ぼしたい!!」

「だから確認しよう!!」

「スマートガンの武装錬金、アルジェブラ=サンディファー。その、特性はアアアアアアアアア!!!」
「ヌヌ行〜。御飯よー」
「あ。ごめんおかあさんちょっと待ってて。いまいいところだから」
 不意に開いた部屋の扉。そこから母親を押し出すとヌヌ行は後ろ手で鍵をかけ


(わあああああああああああ!! なんか、なんか見られたーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!)


 真赤な顔で頭をボカスカ叩いた。



「う。ううう。すまーとがんのぶそーれんきん。あるじぇぶら=さんでぃふぁー。そのとくせいは、そのとくせいは……」

 極度にデフォルメされた人形の着色前。そんな表情でぷるぷる震えながらテイク2。まずトテトテとドアにより耳を当
てる。母の気配はない。認めた瞬間ヌヌ行はぐっと拳を固め大きく息を吸った。


「『歴史の記憶』!! タイムスリップならびに時空改変は当然可能!! ただしウィルのようなスロ1で上書き一択な武装
錬金ではなく!! 複数のスロットに歴史そのものをセーブ可能!! 時空改変者が何かやるたびスロット(=歴史のデー
タ)は自動的に増加!)

「つまり!!!」

「どんな歴史でも選び放題!! どんなにウィルが歴史を改変してもロード1発で御破算に、できるッ!!!」

「そして!! わたっ、あ、間違えた!!! 我輩自身は歴史から干渉を受けない!! ウィルの改変の影響で発生した私
……我輩! けど改変前をロードしても以前変わりなく存在する!!」

 まさに無敵の能力。時空改変者を相手取ったとしても負ける要素が見当たらない。
 このときヌヌ行の興奮は最高潮だった。色素の薄い髪を汗で湿らせ両鼻から息を吹き、幸福の絶頂をいやというほど味
わっていた

 歴史を変えられる。しかも変えられるというコトを変えられたりしない。

 改めて認識するが──…

 幼い少女にしてみれば突然魔法が使えるようになったに等しい。



「あとはその時を待つだけだね」

「ウィル。彼はきっと動き出す」

「その時まで我輩……鍛えるとするかな。自分、という奴をね」





 何年か経ち。

 両親の希望もありヌヌ行はとある大学を受験。首席で合格した。

 ある日の放課後。彼女は呼び出しを受けた。場所は使われていない教室だ。行った。ドアを開ける。がらんとした机の群
れ。男子生徒はただ1人。中肉中背。流行を手堅く捉えた服装。そして髪型。顔面の造形も中の中。普段友人とバカな話
(バイト先のオーナーへの愚痴とか友人の失敗談とか)しかしてない気軽な青年。しかしいまの顔面たるや空間を染め上
げる朱色に負けぬほどだ。彼はヌヌ行を認めると深く息を吸いいよいよ堅さを増した。これで用件が分からねば朴念仁。
 ヌヌ行は内心溜息つきつつ踏みだした。


 西陽が毒々しいまでに行きわたった教室。そこを泳ぐしなやかな体はひどく幻想的だった。呼びだし人がいよいよ接近す
るヌヌ行を動揺混じりに眺めたのはその姿態にある。
 身長は170cmほど。すらりと伸びた体に繊細かつ長い手足。いでたちときたら法衣でどこかの教徒かというぐらい肌を
見せぬ。だが……下世話な話をすれば肉付きときたらまったく豊麗を極めていた。ゆったりとした服の上からでもなお学校
一と分かるバスト。ウワサによればむしろコンプレックスで敢えて『小さく見える』矯正下着を着用しているらしいが真偽
の程は分からない。
 ただしこの男子生徒が苦心惨憺のすえ手に入れたアドレスめがけ制作時間5時間23分の呼び出し文──時間をかけた
わりにはひどく簡素な。「明日○○で会えない? 大事な話が」。まったく面白味のない──を発信したおもな理由はバスト
ではない。
 平たく言えば佇まい。怜悧と不敵を束ねた鋭い美貌。一度何かの話し合いのとき、小さな眼鏡をくいと直しつつ発された
余裕たっぷりの反問。身長182cmの懐で行われた上目遣い。痺れたのはそれだ。声は女性にしてはやや低いが舌鋒た
るや熟練した時計技工士が歯車を叩き込むような調子だ。常に一部のズレもない。話すたび滑らかな音階が世界を美しく
しているよう。変人のウワサも高いが──出身高校は銀成学園。変人揃いで有名な学校。これもウワサだが彼女はそこで
おかしな部活を作り部員や『ヒワタリ』なるヤクザ顧問と相当ヤンチャをやらかしたらしい──告白する価値はある。

 もっとも彼は女神の過去を知らない。まさか小学校時代は勇気ある告白さえ一蹴される並以下の見た目だったとは。

 告白に端を発した地獄のようなイジメ。
 それを自力で切り抜けたがゆえの自信と反省はヌヌ行に更なる奮起をもたらした。
 美貌。例の土建屋の娘ほどの執心はないがしかし学校生活なる容赦なき品評会へ並以下の容貌を出し続ける危険性、
まったく身を以て気付いた次第だ。気付いた瞬間彼女なりの垢ぬける努力を始めた。すると元来の勤勉さや例の時間跳
躍で培った観察力と達成力は次から次に奏功をもたらした。幸運にもその時期は第二次性徴期と重なった。生物の神秘、
中学を卒業するころにはヌヌ行もう他の誰よりも──イジめた人間よりも。傍観していた連中よりも──美しく花開いていた。
 古巣たる銀成学園では彼(か)の早坂桜花に次ぐとさえ言われている美貌がいま近づいてくる。

 跳ね上がる鼓動。舞い戻る記憶。告白にまでこぎつけたのは平凡な青年の平凡なりの努力がある。
 サークル。ヌヌ行が所属していたのは刑事を研究するナントカとかいう集まり。そこへ途中参加し不眠不休で資料を集め
どうにかヌヌ行のレベルに追いついたのが8か月目。そこからさらに半年ほど発表やら論文やらで貴重な青春を削りに削り
容貌も性格もA-な女子からの告白さえ涙ながらに断わりつつ飲み会を点々、親密とは断言し辛いが冗談を言い合える仲に
はどうにかなった。でなければメルアドめがけ呼び出しなど送らない。凡庸は凡庸なりに下積みをし準備をしたのだ。
 これで芳しくない結果ならば14か月の涙ぐましい努力は水泡。
 恐怖する間にも金髪がさらさらと近づいてくる。成人式とともに突如変色した……そんな根も葉もない風聞が漂っている髪。
長さはほどよいくびれと安産型の綺麗な丸みの境界線まで。先端から30cmの辺りで枝別れをし大雑把な房を作っている。
夕日の中にいる男子生徒が半ば恍惚とヌヌ行を見たのは房のせいである。如何なる光学的原理があるのか。正面だけで
6つ以上あるその房は実にカラフルだった。胸部の辺りで異様な盛り上がりを見せる2つは水色と黒い青。そこから外側
へ移るにつれ赤、黄、紫、白……まとまりなく変わっている。肩の後ろに落ち行く奔流はカッパーとダークブラウンそして黒。

「青い鳥はいなくてね」
 え。息を呑んだのは眼鏡直しを見たからだ。小さな眼鏡が白い指に、「くい」。いつもの所作。好意が芽生えた最初の挙措。
しかし今ばかりは萌え立てぬ。予兆。告白なる人間的機微が論理のメスに蹂躙される気配。
「厳密に言うとだね? 鳥に青い色素はない。カロテンとかの赤はあるが青はない。カワセミとかが青く見えるのは構造色っ
てやつさ。羽毛の中の空洞やら何やらが光を反射した結果なのだよアレは」
 それが我々人間の知覚のなかで色を帯びているに過ぎない。いつもの調子を淡々と奏でた彼女は最後に「我輩の髪も
まあそれさ。確かケラチンだったかな。髪の材質自体が妙でね。特別な構造を有している」とだけ言った。
 本当か、どうか。目を白黒させる男子生徒は次の瞬間ドキリとした。
「話は変わるけれどもだ。キミはエピクロスを知ってるかい?」
 ヌヌ行の顔が懐にある。そこで悪戯っぽい上目遣いだ。加速する鼓動。締め付けられる痛み。期待と恐怖の同時攻撃。
「ヘレニズム時代の哲人さ。最初こそプラトン派だったが少々快楽主義が過ぎてね。ストア派やダンテに攻撃された」
 白い手が机で踊る。最初ぺとりと密着していたそれは上背の盛り上がりとともに柔らかく伸びやがて机を飛び立った。
 そして横を過ぎるヌヌ行。
 金縛りにあったがごとく立ちすくんだのは受け答えの術を持たないからだ。呼ぶ。告白する。一本調子のプランなどとうの
昔に瓦解ずみ。心にあるのは悔みの言葉。哲学の授業を代返のみで乗り切った昨年への自己弁護そして後悔。
 通り過ぎた残り香。味わう余裕はまるでない。後ろでヌヌ行は手を広げ演説中。まるで芝居の練習。大掛かりな仕草である。
「エピクロスいわく性愛の喜びは何ら利益をもたらさないらしい。むしろ性欲が消滅したら喜ぶべきとさえ言っている。つま
り節度ある快楽主義……理想の一つさ。我輩の、ね」
 歩く音。躍るような明るい声。軽やかなる音の世界。
 それが振り返り……トドメの一言。

「で、用件はなんだい?」

 泡を喰った「なんでもないです」が発動してから数秒後。遠くでドアが閉じた。次いで誰か駆け去る足音。泣き荒びさえ轟く
世界でヌヌ行は溜息1つ。手近な椅子を引いた。

「やれやれ。ベルクソンは言ったよ。時間は遅延そのものだ。ずっと言えず貯め込めば、「久遠」だったのだがねえ」

 机に広げたのはハイネの詩集。そこに目を落とす彼女にはもうあの男子生徒など──1年以上の付き合いはあるが──
存在していないように見えた。
 赤く染まる教室の中、羸砲ヌヌ行はただ黙然と本を読み。
 読み。

 読み──…

 突然コキリと項垂れた。


(うぅ。時々思うんだけど私イタいキャラになってる)


 本を立てる。両足をパタパタさせる。机に顎を乗せる。
 両目の下は忸怩たる赤に染まっていた。


(もうやめようよこの癖! 話してた人がいなくなったあとそれっぽい独り言吐くの!! なんか独特な雰囲気醸し出すの!!)


 やがて首だけニューっと伸ばし(窓際の席だった)窓枠を覗き込む。
 居た。遥か下、目に前腕部を当て駆け去っていくのはまさに例の男子生徒。

(ゴメンよ。ゴメンよ。私には心に決めてる人が……!)

 泣きたい気分だった。



 ほとんどの事象がそうであるが、イジメもまた多かれ少なかれ影響を残す。取り沙汰されるのは人間関係という”分かりや
すい”ジャンルで顕在するからだ。分かりやすい。尊厳云々と絡めて喧伝し易いからこうも関連書籍が出るのではないか。
 小学校卒業まで1年となったある日ヌヌ行が抱いた感想である。
『うやむやな勝利』。タイムパラッドクスを孕んだ戦勝記念日。そこからの学校生活は決して完全なる満足はなかったがマイ
ナスでもなかった。人生に対するおぞましい負債はないが莫大な利益もない……。
 良くも悪くも普通の生活を手に入れた彼女がまず気付いたのは、裡に眠る恐ろしいまでの人間不信だった。
 見た目を磨き始めて間もないころ。ゾッとした予感が全身を貫いた。
 もしこの努力が実を結ばなかったら? もし学校で見咎められたら? お前なんかが努力してもムダ。そう言われミソをつけ
られたら?
 まだ少女のヌヌ行にとって悪口(あっこう)はまだ恐ろしい。無痛では耐えられないのだ。時間跳躍という強大な力を持ち、
正々堂々切り抜けんとする気概さえしっかと秘めているヌヌ行だが一方では惨め極まりない劣等感が充満している。心象
風景はひどい有様だった。脳細胞のあちこちが腐り黒い糜爛の粒粒があちらこちらでヘドロ汁をブチ撒いている。武藤夫
妻を思うときだけそれらは光の中に溶け消え絶望感が消え去るのだがクラスの女子の何気ない一言! 深読みし裏読み
し、敵意の有無を探るとき心は再び黯藹(あんあい)なる癌世界へ引き戻される。「こうきたらこうしよう」。傍目から見れば
まったく無用の対応策さえ十重二十重に用意する。

 一言でいえば、他人が怖い。

 美容に良いだけのクソまずいサプリを毎食後欠かさず5種18錠飲めたのも毎朝14kmのランニングを土砂降りの日さえ
中断せず続けられたのも美白液を買うためランニング前の新聞配達を3年続けられたのも総て総て人間に責められぬため
である。
 劣っていれば責められる。だから劣っていたくない。
 本能的な危機感は次から次に劣等感を打破し始めた。もともと成績だけは良かった彼女である。ひとたび解決策をひり
出せばイジメ克服で培った精神力で必ず達成しまた新たな自信を獲得する。それがさらなる原動力を生み、しかし根本的な
変化のなさを痛感する。つまるところを努力は弱みを隠すための所業なのだと気付いてしまう。弱味を隠す方にのみ進化し
ている。ただそれだけだと分かりながらもさらけ出せないジレンマ。着のみ着のままありのまま。劣等を劣等と気付かぬまま
存在していた子供のころ。弱味を露骨にまでさらけ出していたから責められた。イジメに、あった。
 強くなぞるほど深まる因果。きっと最後に克服すべきなのはそれ……弱味を他人にさらけ出す。ありのままの自分を見せる。
それができたとき自分は本当の意味で武藤夫妻になれると分かりながらもできない矛盾。

 長ずるにつれヌヌ行の口調がやや浮世離れしたものになった理由は以上である。

 常に余裕を。常に冷静を。トゲのない口調で相手を受け流す。超然たれ。ずっとずっと超然たれ……。
 そういう『ウソ』の中にまだ居た。囚われていた。


 夕日が消えた教室の中。暗闇の中でヌヌ行はうろうろしていた。

 細長い影。金髪だけが淡く輝くそれは机に用があるらしい。
 教科書などを入れるスペース。手を突っ込んではうむうむと頷き次へ移る。
 奇妙な行為。10ほどそれを繰り返した辺りでシルエットは煤iシグマ)を飛ばした。

(わああああああ! まただ!! また盗聴器探してるー! だからないんだってばそんなの!! 誰も私陥れようなんて
してない!! コッソリ盗聴器仕掛けて私の素を暴露して! またイジメようとか! する訳ないでしょ!!)

 軽く呻き頭を抱える。豊かすぎる胸をぐにゃりと押しつぶし前のめりになった彼女が突如背筋を伸ばしたのは……

(は!! いま教壇の下の方でヘンな音!! まさかやはりの盗聴……ないないない!! どれほど自意識過剰なのよ!!
いい、盗聴器ってのは高いの!! 高いの買ってまでイジめる価値はないの!! 大学生はもっとこういろいろほかにやり
たいコトあるし就職だって控えてるんだからそんなの使う訳……あああ。理性ではそう分かってるのに「でも実は」とかビク
ついて盗聴器探すこの習性! 侘しい……我ながら侘しすぎだよ)

 おろおろと首を振りながら目的地に向かい始める。

(いやいや。しゃんとしようよ私。失敗してないでしょ。むしろ前向きに捉えよー。凄いよね凄いよね!! 教壇からした小さな
物音さえ見逃さぬ耳の良さ。誇っていいよね。ね。ね!! そうだよ誇ろう私はスゴい結構スゴい!! ふっふっふー! 私
の聴覚を舐めたらあかんよ!! 人気のない所で少女漫画読んでる時だって警戒は怠らない!!誰か近づいてきたらす
ぐさま鞄にあるハイネの詩集と入れ替えるのよ!! イメージは大事だもん! 漫画読んでたらここまで頑張って築いてき
た私のイメージ崩れるもん! でも本当はハイネとかよく分からないし可愛い女のコがカッコいい男の人とドキドキワクワク
な関係築いてく漫画の方が好きなのさー)

 やがて仁王立ちに教壇を覗きこんだヌヌ行、ただ無表情で頷いた。

「みー。みー」

 小さく鳴く生物は三毛猫だった。生後半年ぐらいだろうか。
 人慣れしているようで、ヌヌ行が屈みこむと掌めがけスリスリを始めた。
 保護欲をかきたてる仕草だがヌヌ行の表情は厳しい。仏頂面だ。口角ときたら異様な歪みを帯びている。

「と、とんだチェシャキャットが迷い込んでいるね。この棟には調理室だってある。衛生学上好ましくない。発見者の責務だ。
つまみだすとするかな」

 両手で抱え立ちあがった。口調は硬い。知る者が見ればいつものヌヌ行だと納得するだろう。
 だが彼らは知らない。この女子大生の……意外な側面を。

 ヌヌ行はいま、こう考えていた。

(ネコさんネコさんどこから来たの? 学生さんのお友達なのかにゃー。にゃーにゃーにゃー。私こういうの口に出して言え
ないから内心で言いまくりだにゃー。ほれほれー。耳こちょこちょ攻撃ー!気持ちええやろー。ネコのツボとか結構研究し
てるんだにゃ私!! ほれ見ろノド鳴ったノド鳴った。ごろごろー!!!! ごろごろー!! わーい!! わーい!!)

 本心をさらけ出せず成長してきた少女。その中身は見た目からは想像もつかないほど……幼かった。


 故に彼女は気付かなかった。


 後に見聞する『3人以上』の時空改変者。小札零を含む錚々たる能力者たちの中でもトップクラスに位置するヌヌ行。
 通常ならば確実に気付いていた異変……いま芽生えつつある時空の裂け目を。

 羸砲ヌヌ行は見逃していた。




 ネコを抱えたまま彫像になるコト1分。再動後まずとった行動は咳ばらい


 異変の始まりは月並みだが『音』。独特の高周波が薄暗い教室を揺るがした。睨むように首をねじったのはまったく反射
的な行動だ。もしかすると前世──最初の改変者──は転生してなお即応できるほどその音に苛まれていたのかも知れ
ない。白紙の脳裏に愚もつかぬ絵画を描きつつも状況を静観。手は核鉄に。ポケットの中に。指にかかる力がやや強く
なったのは黒板のせいだ。白くけぶった緑色の大長方形はいよいよ廊下側から3分の1の地点を袈裟掛けに斬られそし
てズレた。三角の積み木同士で正方形を作ったかの如く断片を滑らせているのは虹色の切れ目。下品な工業用油と揶揄
したくなるほどギトギトに輝く空間の傷口から遂に黝堊(ゆうあく)の影が飛びだした。明滅。何らかの時空的干渉か。
それまで消えていた総ての蛍光灯が前から後ろへサーっと灯り午後6時28分の夕闇を消し去った。

「……」

 スタリ。軽やかな身のこなしで着地したのは……少年、だった。
 青い髪。動きやすそうな白い服。オレンジのマフラー。鋭い目。年のころはヌヌ行より5つほど下。前述したもろもろのパー
ツは何故だか傷や煤けに塗れている。よほど過酷な環境からきたのだろう。微かに息を上げながらただ黙然とヌヌ行を見て
いる。敵視こそしてないが友愛もない。機密事項を見た一般人をどう言いくるめるか考え中のエージェント。正にそんな峻厳
きわまる目つきだった。

 ただしヌヌ行の頭をまず掠めたのは

(!!!!!!!!!!! 見られた!? いや待て待て変な表情とかしてないはずだぞ私!! アルジェブラ発動!!
……よし。大丈夫だ。さっきの私におかしな部分はない。ただ微笑してネコ撫でてただけだ。いつも思うけど凄いな私。
内心はっちゃけまくりなのに一切オモテに出ていない。だからクールすぎるってみんな打ち解けてくれないんだけど。
くすん。本当はもっとバカな話したいよぉ)

 なんとも間の抜けた思慮でそれが通り過ぎるといつもの如く眼鏡を直しこう述べた。
 ネコは腕をくぐり抜けどこかへ行った。

「やあ。待っていたよ」

 少年の顔がさざめいた。息が微かにつまり吊りあがり気味の瞳が大きく開いた。その光に好奇のニュアンスを見つけると
更に一言。「流石我輩の前世。ズレはない。刻限通りに送ってくれた」。
 そう実はヌヌ行この時点で相手の正体に気付いていた……という訳ではない。相手が時空の裂け目から来た以上、『前
世』の関係者たる公算が高いと見ただけだ。だからとりあえずウソを吐いた。敵ならば気勢を削げるし味方なら弱味を見せ
ずに済む。もっとも問題なのはまったく無関係な時間旅行者だった場合で……

(待ってた!? 何をどう!? ちょちょちょ! 今のこれ外角高めを狙いすぎでしょ!! もし私目当てじゃなかったらどう
するのよ。何!? またいつものように小難しい話してこじつけていかにも運命的に出会ったみたいな誤魔化しするの!!?
もうやめようよそういうの!! 痛いよ!! 普通がイチバン!! 普通に話すのが一番なのになんでこうなるかなー!!)

 内心のヌヌ行は両目丸ごとバツにしかめ頭をぽかぽか叩いていた。
 混乱が加速したのは少年の顔がやや曇ったからだ。後で分かるがそれはどう事情をまとめようか考えあぐねていただけ
だけである。ただし内心が活発なときほど猜疑心のカタマリなのがヌヌ行──ウソ吐きという自覚があるため何より露見を
恐れる──だ。ただビビまくりまりカオスになった。

(表情が崩れた!? まさか内心がダダ漏れ? でででっでもっ! 口動かさないようにしてたよ私!! サトラレって
コトもないs……ふわああああああああああ!! そだ!! しまった!! 私この人の武装錬金特性しらない!!!!
もしテレパシー的なアレならすっごいマズいよすっごい!! やばいやばいやばい、考えるのをやめようと考えるとすごい
怖いの。止まらなくなるというか「考えてるだろ」「考えてるだろってのを考えてるだろ」みたいな1人ツッコミのループが
始まって思考崩壊心臓バクバクっ!! とここまで表情は変わりなし。大丈夫かも知れないけど確認。やーい変な前髪ー。
それ寝ぐせー? まさかふぁっしょんー? どれだけの整髪剤使って固めてるのー。……。……。……。っしゃ!!!!
怒った様子なーし!! さてはお主読心術の使い手じゃないな!! やろー! ビビらせやがって。にゃろー)

 などという心のさざめきは一切表に出さずヌヌ行は微苦笑した。

「名前」
「……?」
「既知だから一方的に呼びつける。できなくもないがそれじゃキミの尊厳というやつが揺らぐじゃないか」
 一般人の文法でいう「お名前を教えてください」である。何か1つ聞くにも所持こんな調子のヌヌ行だ。些か横柄だと思っ
たらしく少年は軽く瞳を尖らせたがすぐ口を開いた。


「ソウヤだ。武藤ソウヤ」


 ヌヌ行の世界に花火が上がった。

(キタ!!)

 悟られぬよう腰にまわした拳はとても強く固められており感動のほどがうかがえた。

(キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!)

 内心に住まう少女ときたらグニャグニャなバンザイをしながらムーンウォーク。そんなヌヌ行が前から前から次々と湧きフ
レームアウトする様はまったく狂喜乱舞。頭が沸騰しそうなほどうれしかった。

(あのときのあのコ!! 私の希望!! ああもう大きくなって、立派になってえ!! お姉さんは嬉しいぞ!!)


 かつて遭遇した武藤夫妻。交際はまだ続いている。赤ちゃんのソウヤをあやしたコトは数度に収まらない。かなり人見知り
をするコで最初のうちはヌヌ行を見るだけで号泣した。実のところ『この時系列』ではおよそ10以上の年齢差がありいまは
小学校高学年か中学生のソウヤ。年賀状で見る彼ときたら斗貴子譲りの短髪ばかりで男のコというよりちょっと生意気な
女のコという感じだ。赤ちゃんの時の泣き虫ぶりと相まって「イジメられてりしてないだろうか」、折にふれ”らしい”心配を
せざるをえないほど可愛らしい武藤ソウヤ。年齢差から鑑みるに未来またはそれに準拠する時系列からやってきたと
思しき今のソウヤ。まったくヌヌ行の心配がムダに思えるほど男らしく成長している。

(頭わしゃわしゃしたい!! わっしゃわっしゃにしたい!!)

 思春期辺りで変更したのだろう。カズキ譲りの無造作ヘアーに内心垂涎、瞳キラキラのヌヌ行だ。

(ああもう顔はご両親半々なんだからもう。ブスリとしてるけど笑うとめっちゃ可愛くなる顔だにゃー)

 ソウヤに対してはいろいろな思いを抱いているヌヌ行だ。希望を見ているという点では両親以上という自負もある。だがそ
れだけに『小学校5年生のときお母さんのお腹にいた』レベルの年齢差は恋愛感情を意図的に排するに十分だ。例え年賀状
のソウヤがどんなアイドルよりも愛しく思えても首を振り懸命に断ち切ろうとするほどに。
 だがいま目の前に現れた未来のソウヤ!! 年齢差はおよそ5! 問題はない。世間的によくあるレベル。
 そんな思いがフタをどこかへふっ飛ばた。


(見たい〜。このコの笑顔。すごい見たい〜)


 心の中は恍惚で涎をじゅるじゅる垂らしているが表情はまったくの鉄面皮。そこに勿体つけた笑いをトッピングすると

「悠久の時を超えてようこそ。我輩の名は羸砲ヌヌ行。キミの知る時空改変者の異性体だ(異性体って使い方合ってるのかな?)」

 手を差し伸べた。


 やがて握手が終わるとソウヤは自分がなぜココに来たか述べ始めた。
 ヌヌ行のウソは名前だけでなく事情まで労せずして引き出す効果があった。






「分かりやすい説明をありがとう。情報というのは時に切り口を変えるのも必要だ。視点を変えれば見えなかった部分も
見えてくる……」

 話を聞き終えるとピカピカのマグカップをテーブルに置いた。洗いたてのそれに入った『家で一番高い紅茶』を不承不承
すするソウヤの姿に内心キュンキュンするヌヌ行。

 場所は変わり……自宅。異性を招いたのはもちろん初めての経験で、内心は帰宅以降ずっとずっときゃんきゃん鳴いて
いる。

「ふむ。真・蝶・成体を斃した後、ソウヤくんは未来に戻った。そこでご両親と対面し、しばらく普通に暮らしていた。しばらくは、ね」

「だが……ある日気付いてしまった」

「私の『前世』……過去にソウヤくんを送った人物が、消失、しているコトに」

「他の人物は誰もそれに気付いていない」

「私の『前世』たる人物が……存在していたコトさえ」

「忘れていた」

 やがてソウヤは気付く。

 それはただの忘却ではない。もっと悪い現象……『存在そのものがなかったコトにされている』。

「いったい誰の仕業か? 調査するソウヤくんの前に現れたのは」

 1人の少年と……1人の少女。

「ウィルと名乗る少年とその恋人」

 戦いは熾烈を極めた。だが時空改変の前にソウヤは消失の危機を迎え──…

「すんでのところで我輩の前世に助けられた」

 あらゆる時を渡り反撃の機を窺っていた『前世』。彼または彼女はソウヤをその旅に同行させた。

「が」

 相手は2人の時空改変者。遂に力及ばず敗北するときがきた。

「そのとき逃がされたソウヤくんが長い旅のすえ辿りついたのがあの教室で」

 負けた『前世』は最後の力でヌヌ行という転生先を造り上げた。



 

 言葉を吐き終えたヌヌ行はあらゆる総てが符号するのを感じた。




 言うまでもないがソウヤの事情というのは総てが初耳だ。どうもヌヌ行の前世はソウヤ関連の情報を意図的にシャット
アウトしていたフシがある。理由は恐らくヌヌ行自身にモチベーションを与えるためだろう。
 時空改変者の1人であるヌヌ行。しかし思いだしても見て欲しい。

 かつて土建屋の娘に呼び出されたとき、その運命はどう改変を目論もうと変えようがなかった。思い返せば戦いはその時
から始まっている。核鉄を得た。どうにもならぬ呼び出しを受けた。
 追い詰められたヌヌ行は自殺未遂をしそれが武藤夫妻との出会いを呼んだ。

 まだお腹にいるソウヤに希望を見出し支えにし、過酷な運命を過酷な対処で切り抜ける原動力とした。
『前世』は知っていたのだろう。いずれ来るウィルとの戦い。もっとも必要な力は武藤ソウヤ。だから彼とともに戦うモチベー
ションを用意した。カラクリに気付いても打算抜きの助力ができる激しい感情を……ヌヌ行に与えた。
 もし前世と武藤ソウヤの関係を知っていたらどうだろう。武藤夫妻自体には感銘を受けただろうが一方で何か胡散臭い
ものを感じ、今ほどの感動や求心力は持ち得なかった。



「まったく巧妙だよ我輩の『前世』は」
「???」
「武装錬金の限界を知っている。だから人の心に賭けたようだね。漠然とじゃないよ。改変能力というカードをフルに活かし
ソウヤくんと共に闘うに最適なバックボーンを整えた。これから出逢う人たちの真心。味わうであろう純粋な感動。総て総て
読み切った上で計画に組み込んでいる。目的のために利用せんとしている……。まったく。エピクロスに傾倒した豊かな人
生を送りたかったというのにそれさえ許してくれないらしい」
 くつくつと笑う。
「で、あんたはどうするんだ? 同行してくれるのか? それとも──…」
「ストップ。答えたいところだが少々問題が出てきた」

 虹色の裂け目がヌヌ行の部屋を切り裂きそこから異形の影が複数、現れた。

「追っ手か」
「必然だね」



 遂に邂逅した武藤ソウヤと羸砲ヌヌ行。

 彼らの目の前に現れたのは……”鎧”だった。

 ヌヌ行がその姿を把握したのは戦闘終了後しばらく経ってからである。
 戦闘はすぐ終わった。例の帯が支配する世界でじっくり観察しなければ敵がどういう姿かなど永遠に分からなかっただろう。

 無数の裂け目から着地音もバラバラに降り立った彼らは。

 鎧を着た執事。一言で形容すればそうだった。胸にブレス・プレート。両腕にはトーナメント・アーマー。兜はアーメット。
とは淹通(えんつう)なるヌヌ行が戦闘終了後ソウヤに披歴した知識だが……とにかく歪な姿だった。左右は非対称で
右肩からは用途不明のウィングが天めがけ高々と生えていた。手袋や爪先は唇のような赤。黒い葉脈の浮いた鎧のそこ
かしこから覗く地肌らしき部分も赤。コントラスト。強烈な色彩を放っている。顔ときたら雀のくちばしかといいたくなる巨大
な突起がついている。だのにスラリとした細身でそれが却って無気味だった。


「下がってろ」


 母親譲りのぶっきらぼうな声で告げるやソウヤは走った。
 電撃のようだった。オレンジのマフラーがヌヌ行の鼻をくすぐる頃にはもう爆光が瞬いていた。
(え。えーと。走りながら武装錬金を発動。一気に加速。落下中の敵を撃破……?)
 部屋のある一点。虹色の裂け目から黒焦げた破片が滝のように降っている。早っ。ヌヌ行が目を剥いたのはブンと半円
描く意中の少年。床に踵をねじ込むように反転中。しなる三叉鉾(トライデント)が着地途中の敵影を5体ばかり大破させた。
もっとも室内でそれをやればどうなるか。タンスの上半分が切り飛びぬいぐるみが綿を吐く。壁が揺れ床が軋み、とにかく
部屋は大騒ぎだ。もし両親が旅行中でなければとっくに通報されているだろう。
 激しい光に炙られるヌヌ行の表情は醒めている。内心がどうか分からぬほどに。
(あ、ああ!! そ、そこは懸賞で当てたぬいぐるみ、一番の宝物が入ってる場所で……ぎにゃー!! 敵串刺しー!! より
にもよってクリティカルヒットー!! まさにその辺に仕舞ってたーーー!!)
 窓をブチ破って外で大爆発する敵も居る。『通報確定!』 内心真白、白目から落涙中、スーパーデフォルメのヌヌ行。外面
こそキリリとした美貌を保っているが流石にうっすら発汗している。目も心持ち泳いでいる。
(お、女のコの部屋で大暴れ……? じょじょ、状況が状況だけに仕方ないけど!! 仕方ないけれども!!)
 いつか見たカズキの武装錬金。それそっくりの鉾がシアンの光をブチ撒くたび敵は面白いように粉砕されていく。虹色の
裂け目は次から次に現れ着々と増援を運んでいるが……贔屓目を抜きにしても優勢なのはソウヤであろう。
 そんな彼の頭上で無数の光線が交錯した。何事か。見上げる彼の更の上。傷だらけの空間がガラクタを土砂降らせた。
「12番目の官能基よ糸車となりて紡げ代数学の浮きかすを……。アルジェブラ=サンディファー」
 ソウヤは見た。長大な銃を手にする羸砲ヌヌ行を。マンガなどでよくある前方めがけ砲台をせり出させた航空機。それを
大胆に簡略化すればこうなるのではないか? そう思わせる銃だった。
 流れるような長身と金髪を持つヌヌ行を更に1mほど上回るスマートガン。
 いつの間にかドアを開け仁王立ちのヌヌ行。スペースの都合上入口にまで退避した彼女はスマートガン後部に左手を伸
ばす格好だ。戦いのさなか目を凝らすソウヤ。視認。無骨な取っ手。掴み上げる白き五指。右手はグリップに。外側に飛び
出たそれを握っている。横撃ちの格好だ。
「よく持てるなそんな武器」
「我輩の出した武器だよ? 扱えない方が恥さ。(やた。ほめられたー!! 毎日5時間筋トレした甲斐があったよー!!)」
 ヌヌ行はトリガーを引く。褒めたつもりのソウヤが逆に赤面するほど魅惑的に笑いながら。稚(いとけな)い喜びを見せぬまま。
 その銃撃は異様だった。砲身が火を噴いてもその射線上には何の影響も見られない。だが敵だけは次々倒れていく。
 横。背後。斜め上。何もない空間から赤い光線が突如迸り絶息をもたらすのだ。後にソウヤがウソつきの射撃と酷評する
騙しの手口。ヌヌ行に言わせれば砲撃は肉体を狙っているのではない。対象の時間軸に干渉しその連続性を奪っている
のだ。空間ではなく時間からの攻撃をしている……ウソだかホントだか分らぬ説明だがとにかく掃討はなされた。
 だが増援は止まらない。虹色した裂け目が30ばかりできたのを見るとヌヌ行は軽く鼻で息をついた。甘ったるいくぐもりに
何か感じるものがあったのだろう。ソウヤは微かに頬を染めた。そんな様子に疑問符を浮かべたヌヌ行は「まあいいか」と
本題を切り出した。
 「ソウヤくん。仕手は静かにやりたまえよ。それとも何かい? 初めて上がり込んだレディーの部屋を二階級特進者のメッカ
にしたくてしたくてたまらない……酩酊中かい? 若さが時おりもたらす独特のフェティシズムに」
「何を……?」
「近隣住民が通報した。このまま行けば警官はレミングスさ。入れ食い。来たら来ただけ犠牲になる」
「さっきから思ってたけどアンタその口調どうにかならないのか!!」
「(どーにかしたらイジメられるの。くすん)。風に吹くなというのかなソウヤくんは。不快ならなお迎合したまえ。男のコだろ?」
「悪かったな!! だがコレでもこいつら相手には静かな方だ!!」
「はあ」
 人外相手とは初めて戦うヌヌ行である。戦闘慣れはまるでしてない。だからソウヤの言葉を
(ふだんはもっと暴れてるのかなー)
 のほほんと解釈していた。


 だから遅れた。

 総ての切れ目が。

 彼女めがけ火を噴く。


 それに『気付く』のが。




「危ない!!」
「きゃっ」
 白い影が覆いかぶさる。漏れる声のあどけなさときたら成熟した見た目がウソのようだ。成すすべくなくついた尻もちの
横で長大な銃が凄まじい音をあげバウンドする。視界がレッドアウトしたのは事実を正しく認めたからだ。自室を炭クズに
造り変える膨大なエネルギーの奔流・光輝を孕んだ深紅の熱がソウヤの背後を通り過ぎるのを。
 この一瞬をヌヌ行は終世忘れるコトができなかった。座りながらに抱きしめられる記憶。初めての経験。煤と汗でむわり
とした匂い。少年だけがもつかぐわしさ。ぬくもり。自分を占めてゆく……甘き痺れ。そして──…

 振り返って立ち上がり咆哮するソウヤの。

 背中。

 ひどい有様だった。白い服は焼けおち熱量相応の火傷を負っていた。

 部屋の様相は一変した。炎が舞い氷柱が降り注ぐ異常の世界へ。
 鎧たちは攻撃を切り替えたらしい。手から火炎を口から氷をそれぞれ吐き散らかしている。

(そうか)

 緑白と蒼白の中間色をきらきらと輝かせながら舞い狂う少年。反問の意味を理解した。

(……さっき部屋でやりすぎってぐらい暴れてたのは、これを)

 防ぐため。先手に先手を重ねる。炎が来る前に終わらせる。きっとソウヤは戦いの中で学んだのだろう。

(それがベストだって。なのに私は……)

 先ほどの言葉を反芻する。ただ部屋が壊されるのがイヤで、しかもそういう本心を悟らせまいとやや傲慢な口調で釘を刺
した。それがどれほど彼の神経を逆撫でしたのか……考えるだけで申し訳なくなるヌヌ行だ。


「本当は使いたくなかったけど……終わらせるよ」


 軽く手を上げる。


 それだけでソウヤたちを取り巻く世界は大変貌。

 濃紺色が周囲360度総てを染め上げる足場なき世界。

 彼らはみな、そこにいた。



 気づけば艶やかな金髪が目の前にあった。しなやかな背中。相手の表情は見えない。

「そ、そのね。ゴメン。ゴメンねソウヤくん。え、えぇと。私、素人なのに、え、え、えらそうなこといって」
「え?」
 ソウヤが目を白黒させたのはもちろんヌヌ行の口調に対してもだが、それ以上に……。



 敵との距離が一気に何百メートルと空いていた。最初ソウヤはただ敵が消えただけだと思っていた。状況確認も兼ねて
辺りを見回してやっと気付いたのだ。鎧たちが遥か向こうでうろついているのを。ロスト。ソウヤたちにはまだ気づいていない。
 そんな精神的余裕が少しだけソウヤにおしゃべりをさせた。

「……火傷のコトなら気にするな。オレはここに来るまで……その、仲間って奴に何度か助けられた」
 鼻をかくとソウヤは虚空を仰いだ」
「だから、その、アンタも……今から一緒に戦う仲間っていうなら……守るのが当然……そう思っただけで」
 ソウヤがたまげたのはヌヌ行がやにわに振り返ったからだ。
 表情ときたらトロトロだ。理知的な眼差しは熱い涙で甘く霞み、弾力のある唇はかすかに開き象牙のような歯が見えて
いる。切なげに寄せた眉を見た瞬間ズキリと胸痛ませるソウヤである。斗貴子以外の女性に初めて覚える甘い疼き。
 オトナなんだ。当たり前のコトが一種の危機感となって脳髄を占める。耳のあたりでほつれた金髪がぞっとするほど
艶めかしい。
 だがたまげたのは少年らしいどぎまぎではない。
 もっと純然たる意外性を持つ……ヌヌ行の言動。
「くーーーーーーーーーーーー!! なんて健気なソウヤくん! たまらんにゃ!! 結婚したいにゃ!!」
「にゃ?」
 ハッとした顔つきで息を呑むヌヌ行は自らの奇矯な言動を悔いた。……のであればどれほど良かったか。ソウヤは知ら
ないが彼女は一種の絶頂を迎えていた。自分のせいで大火傷を負ったソウヤ。なのに責められるどころか仲間といわれ
た。仲間。もともと友達のいないヌヌ行にとってどれほど嬉しい言葉か。恋愛感情はここに完成した。大好きになったという
感動にあらゆる繕いを忘れ去っていた。要するに、舞い上がっていた。

(ぎゃあああああ! なにいきなり途轍もないコトいってるのーーー!! ソウヤくんにガールフレンドいたら迷惑でしょ!!
ガールフレンドのコが泣いちゃうし泣いたらソウヤくんも悲しいし!!)

(…………いるのかな、ガールフレンド)

(いるよねそりゃ。こんなカッコいいんだから……)


「あ、あの。ソウヤくんってその……ガールフレンドとか……いるのかな?」
「いないが。なんでいまそんなコトを訊く?」


(恋人いない!? おお!! キタ! キター!!)

 内心のヌヌ行は両手を胸の前でわきわきさせた。しかしすぐさま我に返り唇を尖らせた。

(というかみんな見る目なさすぎダヨ!! そりゃ確かにカズキさんの周りの人たちはまったく親!! って年代だから無理
だけどさあ!! ヴィクトリアちゃん!! 見た目13歳でしかもパピヨンさんとそれなりに親しい人なんだからくっついても
いいじゃない!! 見た目的にも似合うだろーしあのコはあのコで辛い人生なんだから恋の1つぐらい)

 ここで我に返り首をブンブン。

(ってそれじゃ私が損する!! にゃにゃにゃ、恋愛とか損得で見るのアレだけどなんかズレてるいまの考え!!)


 ぎこちなく首を動かす。振り返るのをやめ正面を見据える。
「えーと。なんの話だったっけ」
「……仲間だから守るのが普通」
「あは。あはは。そうだったね。あ、ありがとー。これからも……よろしく」
「いや、こちらこそ……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」




((気まずい!!!!!!!!!!))



(ソソソソウヤくんかわいい。めっちゃ可愛い。でも何か照れてるよー。どうするの? どうすればいいの? 私一応年上!
包容力で何事もなかったようにするのがいちば……うあああ!? てかいま素の口調で! シマッタア〜〜〜!!)
(クソ。やっぱり父さんたちのようにはいかないか。てかコイツなんか口調変だったぞ? 指摘したいが……いや待て! そ
れは今のオレも同じじゃないか!! 混ぜっ返されたら恥をかくのはこっち!! だったら言わんぞ!! 絶対!!)



 両者の思いは複雑だ(いろいろな意味で)

(ええいもうヤケよ!! いきなり変えたらおかしいぞってなるからしばらくこの口調!! いいわけは後で考える!!)


「ここは時の最果て。私の武装錬金の先端からちょっと離れた場所」
「……………………………………………………………………は?」
「アルジェブラ=サンディファーの特性は歴史記憶。消えた歴史も記録していてしかもロード可能なんだけど」
 地鳴りのような音がした。そもそもなぜ遠くの敵が視認できるのかソウヤは訝しんだ。光なき世界なのに。
「ロードするとね。私の武装錬金はその時系列にセットされるの。時系列全体を貫いて」

 なぜ、敵が見えるのか。

 ソウヤは理解した。

 彼らの正面……ソウヤたちの斜向い遥か先に。


 巨大な銃口があった。直径は分からないがkm単位なのは確かだった。史上最大級のダンプカーがミニカーに見えるぐ
らい雄大で膨大で遠大だった。 地鳴りは何か最終調整の音だろう。気付いていなかっただけで、ずっとずっといたらしい。

 それが、赤い光を湛えている。先ほどの光線、今度はどうやら素直に狙い撃つらしい。光源は副産物だ。
 敵は100ほどいるだろうか。まだ現われていなかった連中さえここに運ばれたらしい。

「というか歴史をたくさん記録するから……巨大にならざるを得なくて」

「長さは総ての時系列と同じぐらい。この宇宙の開闢から終焉まで……気が遠くなるほどの長さと……同じ」

「待て!! じゃあさっきアンタの持ってた銃は何だ!」
「え? 何だろ? …………端末?」
「なんで疑問形なんだ!! ひょっとしてよく分かってないのか自分の武装錬金!!」
「あ!! あれは端末!! たたた端末! そう端末!! 本当はこれぐらいおっきいスペシャルな武装錬金なのだよ!!」

 また振り返ったヌヌ行は(先ほどの成熟が幻に思えるほど幼い様子で)顔も真赤に涙を飛ばし

「ほほほ本当だからねっ!! ウソじゃないもん!!」

 とだけ叫んだ。ソウヤは顔面総てを引き攣らせ


「ウ」

「ウ」

「ウ」


「ウソをつくなあぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」


 絶叫した。その遥か前方でとうとう吐き出された赤い光が総ての敵を焼き尽くした。
 光線、などという生易しいものではない。天を支える柱が陥落したような有様だった。






「アレが何かだって? 奴らをこの時系列から消失させただけさ。因果律も含めてね」
「ウソだ。絶対ウソだ。因果律が消えたならなんでオレたちアイツら覚えてる。記憶まで消えるのが因果律だろ。アンタ本当
に因果律を理解しているのか?」
(ノッてきたー!!! というかソウヤくんも結構アレだ! しかも天然! 私のような人工ちゃんじゃない!! 因果律て!
気付こうよそういう言葉の罠!! 因果律とか特異点とか真顔で言った後の恥ずかし感ったらもうね! ソースは私、私ね
ソース!! ああでもなんか安心できる。いっちゃ悪いけど私より下がいるのって……あいやいや!! 初対面の人にそ
んな感想失礼だにゃ!! 人を見下すとかダメなのだにゃ! 私むかしそれでさんざん傷つけられたのだにゃ!!)
 内心ヌヌ行がきゃーきゃー言ってる間にもソウヤは鋭い瞳を更にするどくし反問。
「細かいコトはいいじゃないか。見ての通り我輩の部屋は元通り。ソウヤくんの背中の火傷も消えてるだろ?」
「……」
 ぐうの音も出ない。八つ当たり気味に話題を変えた。

「にしても何だあいつら! 見たところ武装錬金は持っていないのにああいう攻撃ができる!!」
 まったく奇妙だ。ソウヤはこれまでの逃避行を事細かに述べた。炎や氷……時には雷や嵐まで。
「攻撃に使う。しかもホムンクルスと違って章印もない。武装錬金? いや、自動人形とも違う」
「頤使者(ゴーレム)」
「?」
「ユダヤの神秘主義カバラが作りたもうた人造人間。ホムンクルスの親戚みたいなものさ」
 ゴーレム。ヘブライ語では主に「作りかけの未定形のもの」「胎児」を指す。後者に関しては旧約聖書に記述があり(詩篇
第139篇16)、神に造られしアダムの3時間目もこれだという。
「ユダヤ教のラビ(教師)には馴染みが深くてね」
「ああ。そういやアンタ法衣だもんな。詳しいのも当然か」
「ふふ。法衣だからとてユダヤかぶれと限らないが……まあ、両親の影響かな?」
 ゴーレムといえば土人形の印象が強いが膠や石、時には金属製のものもある。ヌヌ行の講義に「そうか」とだけ頷くソウ
ヤ。ちょこりと座ったその姿は彼女の琴線にふれて仕方ないが本筋でないゆえ省く。
「化学的アプローチで作られるホムンクルスと違ってだね? ゴーレムは魔術的な力で作られる。言葉の錬金術って奴さ」

 カバラでは言葉……アルファベットや文字、そして数字に神秘的な力があると信じられている。

「つまり……それを操れば神と同じく」
「そ。人間や動物を作れると信じた訳だ。ラビたちは」

 作り方にはいろいろあるがやはりポピュラーなのは「emeth」だろう。
 真理を意味する護符を人形の額ないし胸に貼る。
 元に戻したい時は最初の「e」を消す。残りの文字は「meth」……つまり「死」を意味するのだ。

「ゴーレムについては分かった。だがなんでゴーレムが火や氷を操れるんだ?」
「『言霊』。各自に宿る文字または言葉の魔力……それを引き出しやすく作られたようだ」
「……ホントか?」
「なんだいその目はソウヤくん。(なんだい〜♪↑ その目は〜♪↑↑ ソウヤくぅ〜ん〜〜〜♪↑↑↑)」
「言っちゃ悪いがアンタさっきから胡散臭いぞ」
「だが悪人ではないよ? だいたいいま述べているのは推論だからねえ。害意はないよ。後で違ったとかなってもそれは
我輩の知識不足というコトで1つ勘弁してくれたまえ。だいたいココまでおとなしく聞いてたのはソウヤくん、キミじゃないか」
「それもそうだが……自分で悪人じゃないとかいうな。ますます胡散臭いぞ」
「(けけけ。お断りですよーだ) もともとゴーレムというのはだね。頤使(いし)されるべき存在……召使いのようなものだ。
単純な命令しか聞けず単調な動きしかできない。ホムンクルスほどメジャーじゃないのはそのせいさ。ただの人間ならいざ
知らず──…」
 世界が暗転した。右顧左眄のソウヤ。彼方に広がる帯を認めた彼は金の瞳を見開いた。
「(やっぱ目はご母堂似!><) 武装錬金使い相手だと……こうなる。言霊は強力だよ。ただ使う頭がなければねえ」
 先ほどの戦闘を例の帯とスクリーンで確認したヌヌ行、たっぷり肩を竦めた。

 危機感があった。

 顔こそ微笑しているが内心疼くような危機感が。


(私が危惧してるのはそこだよ。いま来たのは捜索隊。下された命令はきっととても単純。『ソウヤくんを追え』『邪魔するもの
は斃せ』。……単純すぎるけど実はこれがベスト。ソウヤくんがどこへ逃げるか未確定な以上、複雑な命令は逆に危ない。
余計なコトされて見失っちゃったら御主人さま的には「むきーっ!」だもんねえ)

(だが単純な命令であの破壊力だ。追撃戦以外……場所や相手が明らかなら? 核鉄なしであれだけの破壊力。配置次
第だ。戦略眼のある者が然るべき命(めい)を下すなら……ゴーレムもまた脅威となる。さっきは楽勝。でも安心はできない)

 気がかりが2つある。

(私が前世から受け継いだ記憶にゴーレムはいなかった)

 ゴーレムだとわかったのはいずれ来る戦いへの備えのせいだ。
 ホムンクルスや武装錬金のみならず錬金戦団の成り立ち、100年以上前のヴィクターの乱、調整体……とにかくあらゆる
文献を読み漁り知識を増やしたのは女性ゆえの非力を補うためだ。
 ゴーレムはその過程で得た知識だ。
 父母が作ろうとしていたのがただのオカルトじゃないと知った時の感動!
 とにかく決して前世が遭遇したものではない。


(ゴーレムの創造主がウィルの仲間に? それとも彼自身が習得?)

(いずれにせよウィルの方にも変化があるというコトか)

 懸案材料はもう1つ。

(ウィルとともにソウヤくんを追い詰めたという『少女』。こっちも私の前世にはいない)

(記憶が消されたのか? それとも──…)

 はたして何者なのだろうか? もっとも好都合なのは。ヌヌ行は考える。

 ゴーレムの創造主=『少女』。

 敵数的には気楽である。



(ま、考えても仕方ない。捕捉された以上追撃は来るだろうしね)



 ヌヌ行は時空改変者だがその能力を行使したコトは一度しかない。その一度にしても(能力発現時の豪華客船関連)真
偽を確かめるための試用期間だ。改変といえば例の土建屋の娘たちとの決戦における顛末もカテゴライズできなくはな
いがしかしそちらはむしろ真っ当な営業努力を多分に含んでいる。そもそも『ヌヌ行の戦闘敗北』なる結果じたいは変わって
いない。付帯する周囲の反応こそやや変わったが、到達するまでに費やした苦痛と損壊の莫大さよ、時空改変と呼ぶには
あまりに泥臭い。通常何か月か掛けて修正する人間関係上の苦労があの数時間で決着しただけでありしかもヌヌ行の時間
軸において消費された期間ときたらまったく数か月どころではない。
 イジメが終わってからも決して時空改変を行わなかったのは美学にもよるが……。
 本能的な警戒もあった。
 ヌヌ行の前世を追い詰めたウィルなる少年。時空改変には大変敏感だろう。
 少しのきっかけで存在を気取られれば……大変なコトになる。
 改変者にも関わらず権利行使するコトなく地道に鍛え続けてきたのは少しでも力を蓄えるためであり。


(先ほど改変をやったのはまあ、もう見つかった以上加減しても仕方ないってコトさ)


 ソウヤは追われている。ヌヌ行は彼に同行する。自重はもはや意味をなさない。


「あの砲撃は私なりのノロシ!! 来なウィル!! 相手してやるぜ!! 顔知らんけど!!」





(…………)

 聞かなかったコトにしよう。ソウヤはため息をついてさらに一言。

「オレも1つ気付いたコトがある」
「なんだいっ! なんでも聞いて!! くれたまえ!!」
 右手を高々と掲げくるくる回るヌヌ行。声はやや野太い。どうやらテンションが高くなっているらしい。
「(なんだこの人)……あまり詳しくはないが、ゴーレムっていうのは基本土人形だよな?」
「ウムッ!! それが何か!?」
「コイツらの材質は土なんかじゃない」
 スクリーンには先ほど戦闘が投影されている。ちょうどソウヤがゴーレムを大破させる場面だ。
 彼はその画面のある一点を指差した。ズーム。損壊個所より散り舞うは……緑色の、結晶。

「パピヨニウムだ」

 ほあーとあどけなく息を吐きながらヌヌ行は少年を見た。
「確か正史におけるキミの保護者……かのパピヨンが発見した」
「ああ。特殊核鉄の材料だ。製錬すれば様々な能力を上げるコトができる未知の鉱物」
「成程ねえ。闘争本能や移動速度といった精神的・肉体的な要素のみならず言霊……霊魂じみた領域までも増幅可能と
きたか。さすがはパピヨン。ソウヤくんが傾倒するのもうなずける。ふ、ふふふ。なんでかな。なんでこんなに嫉ましいのか
な……!」
(ギリギリと拳固めるのやめろ! なんでそんな怒ってるんだ!)
 ソウヤはヌヌ行が分からなくなってきた。
 クールかと思えば妙に幼い。超然としているようで嫉妬深い。成熟した美貌の持ち主なのに表情は時おりハッとするほど
幼い。
(なんか似てないか? 母さんとかパピヨンとか……シリアスになりきれないところが)
 そう思うと微かな好感と反発が同時に芽生えてくるから少年とは不思議だ。投影をしながらも「こんな奴にそっくりだと!?」
なる苛立ち……葛藤をもたらす相手に好きな人間を重ねたとき特有の認め辛さが湧いてくる。
 ヌヌ行ときたら幼い癖にそことほぼ同年の少年の機微にはまるで無頓着だ。
 眼鏡を直し薄く笑うといつものような上から目線でこう述べた。

「肉体の材質にしたとくればだ。敵は相当の錬金術師……油断厳禁だよソウヤくん?」
「というかアンタ、さっきゴーレムに化学的要素はないとか……」
「……ふふっ。技術とは常に進歩していくものだよ。そもそも大錬金術者たるフラメルがカンシェに薫陶されたのを見ても分か
るように、カバラが錬金術に及ぼした影響は実に大きい。逆も然り。錬金術のケミカル。本懐に対し妥当と認められるならパピ
ヨニウム、むしろ取り入れるが普通と思うが?」
「……確かに」」
 納得のソウヤ。だが内心ヌヌ行は胸を押さえた。
(危なかったーーーー!! 危うく論破されるトコだったよ。うぅ。ソウヤくん鋭いんだから……)


 スマートガンの武装錬金・アルジェブラ=サンディファー。
 それは発生と消滅を繰り返す歴史のなか偶発的にそして必然的に転がりこんできた。
 名前を変え……形状を変え……特性さえ変え──…

 武装錬金は位相を変える。歴史の変化に引きずられ。
 千歳から鐶へキドニーダガーが渡ったように、または円山の風船爆弾が身長消滅⇔爆裂増殖のように。
 時に創造主を変え特性を変え……あるいは形状を変え。
 さまざまな要点を幾つか異ならせながらしかし同一のものとして、誰かの手に。




「とにかくだ。歴史改竄を止めたいのは我輩も同じ。付き合うよ。ソウヤくんの旅に」


 旅立ちは実に呆気のないものだった。生活の心配をするソウヤを「何とかなる」で一蹴して。




「まず向かうべきは改変前の300年前。ウィルが改変を始めた時系列」

「消し去れられた歴史を我輩の武装錬金でロード! これでウィルのやった改変はすべて破棄される!」

「後は改変前のウィルを止めるだけさ。行くよ」






 旅は始まる。




 本当に長い旅が。



(旅!! 旅!! 冒険!! 夢に見た男のコとの……冒険!!!)



 浮かれ気分のヌヌ行はまだ知らない。



.
 新たな世界の誕生。その一翼を担ってしまう運命を。

                                                    『いつでもマイナスからスタート』

 過酷な戦いは長らく続く。
 辿りついた希望が目の前で粉々にされるのさえ見た。

 絶望もあった。

 それでも彼女は自分の人生に誇りを持っている。

                                                        『それをプラスに変える』

 決して楽ではない、辛さの多い人生だったとしても……。
 自らの武装錬金で楽な方へ改変可能だとしても……。

 変えたくないと思っている。

                                                        『そんな出会いがきっと』

 そう思えるのは”たった3人”、そこに居た人たちのお陰だと……。

 心から信じている。

                                                        『誰の胸にもある筈…さ』





                       ──接続章── 「”2つの声重なるとき最高に強くなれる” 〜法衣の女・羸砲ヌヌ行の場合〜」 完


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