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【一番】武装錬金総合萌えスレ55【守りたい人がいる】より

秋の蒼穹

(実は永遠の扉用のネタでして。けれど描けるかどうか分からなかったのでここで放出。
一種のパイロットフィルムというんでしょうかこういうの。
司馬遼太郎作品でいうなら、「花神」に対する「鬼謀の人」、「峠」に対する「英雄の人」みたいな。
そして永遠の扉を描き始めた頃、ここで描いたのを激しく悔やんだという。
どうなっていくのかちょっとドキドキ)



まひろは夏祭りの日以来、元気を失くした。
カズキがヴィクターともども宇宙に行ったと聞いてから。
あるいはヘリが飛び去ったときからそうだったのかも知れない。
表面的には明るく振舞っている。
が、時折、空を眺めて陰のある表情をするコトが多くなった。
反対に、食べる量が日に日に減っていった。
茶碗に山盛りのご飯が茶碗一杯になり、八割になり、半分以下になった。
そして夏バテになり、寝込んだ。

千里と沙織は、まひろを看病するコトにした。
本当は一人にしてやった方がいいのかも知れない。
でも、誰も居ない部屋で泣いているまひろを想像すると居ても立ってもいられない。
それで付き添う二人にまひろは、やつれた顔で「ありがとう」と良く言うようになった。
すっかり弱気だ。ボケるコトもない。
千里と沙織は困り果てた。何かいい方法がないかと二人は夜を徹して話し合った。結果。

「お願いできないでしょうか?
「私たちじゃ、これしか思いつかないんです
早坂秋水の前で、二人はペコペコと頭を下げていた。
まひろが昔熱を上げていた秋水が見舞いにくれば、ひょっとしたら。
そういう結論の元に訪ねられた秋水は、事情を大体飲み込んだ。
しかし、まひろの友人に出せない元気が、縁の薄い自分に出せるかどうか。
秋水は返事を一旦保留した。玄関からリビングに戻ると、桜花が事情を尋ねてきたので話した。
「行くべきよ絶対。私も行っていいなら行くわ」
第一に、まひろは二人を救ったカズキの妹だ。
第二に、まひろはかつて桜花と秋水を見舞おうとしていた。
それらに加え、桜花は秋水の居なかった入院生活を説明し、こう締めた。
「…私だって寂しかったのよ。秋水クンもそうだったでしょ」
しっとりと潤む瞳に戸惑いつつも、秋水は深く深く頷いた。

早坂姉弟が連れ立って見舞いに来たとき、まひろはかなり仰天した。
芸能人じみたこの二人の来訪は、全くの予想外だ。
パジャマ姿のままあたふたし、ベッドを降りて部屋を片づけしようとすらした。
「いいからいいから。まひろちゃんはゆっくり寝ててね」
秋水は、千里たち用と思しき二つのパイプ椅子をベッドの前に置きつつ、まひろの顔を見た。
「ハ、ハイ」
確かに話通りだ。頷く顔はとても疲れて見えた。少し胸が痛むのはなぜだろう。
「片付けは、秋水クンに任せて」
「え!」
まひろは慌てて、また片付けようとした。
「冗談よ冗談。ねぇ秋水ク…あらあら。そんな怖い顔しなくても」
「…俺が私物を片付けるのは、かえって迷惑になる」
「ちちちち違うよ秋水先輩。その、あのね、せっかくお見舞いに来てくれたのに片付けなんて悪いし
恥ずかしいし……別に変なモノはないケド、とにかく悪いし恥ずかしい」
もごもごと弁解するまひろの声を聞きながら、秋水はおや?という顔をした。
足元、つまりベッドの下から黒い物体がちらりと見えた。気になったので身を屈めて拾ってみた。
「なんだこれは?」
秋水がつまみあげたそれを見ると、まひろは真っ赤になり、ボソボソと弁明した。
「………バナナの皮。ゴミ箱がいっぱいだったからそこに置いて、でも忘れてた」
「あらあら」
桜花は噴出した。秋水はそんな姉の様子に憮然とした。見舞いに来てそういう態度は良くないと思った。
そんな様子に気づいた桜花は、もっとおどけた。
「大丈夫よまひろちゃん。バナナの皮は非常食になるから取っといて正解よ。実は私も秋水クンも食べたコトあるし」
「そうなんですか桜花先輩。…と秋水先輩も」
透き通った瞳が、秋水を見た。それは”カッコいいのに変なモノも食べるんだ”という奇妙な感動に満ちている。
しかし食べたのは例の密室で飢え死にしかけた時の話だから、参考にしてはいけない。
「確かに嘘ではないが控えてくれ。食べる物がある時は」
まひろは本気で食べかねないから、重ね重ね注意した。
「バナナの皮はとても苦い。そして消化も悪い。だから君の口には合わないと思う」
桜花は説明する秋水をくすくす笑った。まったく予想通りの反応だからだ。

まひろもだんだんおかしくなってきた。容姿端麗な男がバナナの皮について必死に説明しているのだ。
二人の反応に気づいた秋水は、露骨に眉をひそめ、黙った。
「だから冗談よ、冗談。あぁそうだまひろちゃん、お茶しましょうか? 紅茶を持ってきたの。良かったら」
差し出された水筒に喜色が一瞬浮かぶ。しかしそれは千里たちに対するように、すぐ沈んだ。
「その、前みたいに…
「大丈夫。苦くないわよ。秋水クンがお砂糖を入れてくれたから。秋水クンが。そうそう秋水クンがね」
「姉さん」
何やらあるらしい。
秋水は制止しようとしたが、逆に桜花は調子に乗った。
「『彼女は苦い物があまり得意そうじゃない。紅茶持っていくなら砂糖を入れた方がいい』なんて言って
お砂糖を入れてくれたのよ。私は苦い方がいいかなーっと思ったんだけど、秋水クンに負けちゃった」
負けたというのに桜花はてへてへ笑い、いかにも屈託がない。
勝った当人は、とてもそういう気分ではない。
桜花の言ったコトは事実であるが、バラされると気まずい。まるで恩を着せているようで、嫌なのだ。
まひろは思わぬ配慮に感激したのか、ぱぁっと笑った。千里らが見ればいつもの笑顔と喜んだろう。
「ありがとう秋水先輩」
「礼には及ばない。思ったコトをしただけだし、第一、君の口に合うかどうかも分からない」
やや目線を外しながら秋水が呟くと
「というコトでどうぞ」
桜花がコップ(水筒のフタ部分)を差し出し、まひろはやや緊張の面持ちでぐいっと飲み干した。
「……おいしい。口に合うよ」
それだけで感謝が足りないと思ったのか、まひろはしばらく考えこみ、こう付け足した。
「うん、そうだ。バナナの皮より口に合うよ!」
「バナナの皮はもういい」
秋水はため息をついた。
「でしょう? あら秋水クン。そろそろバナナの皮を捨てる時じゃないかしら。それともまた食べるの?」
秋水は右手を見て、非常に疲れた顔をした。
確かに桜花のいうとおり、後生大事にバナナの皮を持っている。
(だが姉さん、俺がため息をついた傍からそれを言わなくてもいいじゃないか)
部屋をぐるりと一望しゴミ箱を見つけると、捨てた。
干からびたバナナの黒ずみが、そのまま桜花の腹の中に見えた。

それからしばらく雑談をして、桜花と秋水は帰った。

翌日、千里と沙織が菓子詰めを持って礼をいいに来た。
秋水にとってはいわば小さな恩返しなので、菓子詰めは断った。
「ところであれから彼女は」
「ちょっと元気になってみたいです」
「うん。バナナの皮を食べようとしたり。いつものまっぴーに戻ったかも」
「……食べたのか?」
「いえ、食べてないですよ。食べれる訳ないじゃないですかバナナの皮なんて。農薬だらけで危ないですし」
「だよね。食べれる人はちょっと…… まっぴーもちょっとかじって、うぇーって涙目で吐いてました」
二人が帰ると秋水は落ち込んだ。それから戦部に電話をかけた。彼なら分かってくれると信じつつ。
「バナナの皮だと? 秋水よ、それは生ゴミだ。生ゴミ。喰う奴は悪食極まりないし、よほど頭がおかしいのだろう」
これはもう、ある種のスペシャリストの、目くそ鼻くそを笑う的な酷たらしい意見。
秋水は深く深く落ち込んだ。
暗い部屋で渋茶を思うさま飲んだ。飲んで飲んで飲まれて飲んで。しかしいくら飲もうと酔えない。だって渋茶だし。
(違う。俺と姉さんは、俺と姉さんはやむなく食べたんだ)
ヘコみつつ、とりあえずまたまひろの見舞いに行った。バナナの皮を食べないよう注意すべく。
桜花を同伴しないのは、彼女がいるとまた厄介なコトになりそうだからだ。

というコトで、秋水は見舞いのついでに説教をした。
まひろはパジャマのまま、ベッドの上で一生懸命、輝く黒目を秋水に向けて聞いている。
「いいか、バナナの皮は絶対に食べてはいけない。農薬だらけで体に障る」
「でも、ほら、フグさんは毒があるけどおいしいよ」
ズレたコトをいわれて、秋水のこめかみはひくついた。
「フグは免許を持った人間が調理するから違う。それにバナナの皮は皮だから食べれない」
「え、リンゴとかのは食べれるよ」
「俺は食べない」
憮然とする秋水だが、その心境をまひろはまったく理解できてない。

どころか「好き嫌いはダメだよ。だからいつかバナナの皮も食べてみる!」といった。
秋水の中で、何かが切れた。緊張の糸のようであり、堪忍袋の尾のようであり、よそよそしさのようでもある。
「だから駄目! 食べたら、ただ一生懸命に生きたかっただけなのに品性を疑われるんだ!!」
この叫び、あるいは戦部に向けたものかも知れないが、まひろはただビックリした。
「は、はい! 食べません!」
ワーと返事しつつ、ワーと敬礼すらした。
秋水は我に返った。
駄目!って物言いは彼らしくないし、意見になってなかったとも気づく。驚かせたのも悪かった。
「いきなりすまない。それだけだ」
踵を返して部屋を出ようとする秋水に、まひろの声がかかった。
「その、秋水先輩。何か辛いコトがあったの?」
「別にない。あったのはただの意見の相違だ。しかし君はどうしてそういうコトを聞く」
「うーん…… 秋水先輩が剣道以外で叫ぶのなんて初めて見たから、何かあったのかなーって」
秋水はまたハっとした。
何か を説明すれば、まひろが原因で秋水が落ち込んだと告げる羽目になる。それはしない。
ただ病床で人の心配をする所は、実にカズキの妹らしい。
そのカズキはここにも、日本にも、地球にすらもいない。
まひろが会おうと望んでも会えないのだ。だからまひろは病床にいる。
「………」
まひろは深刻な顔を見、そして勘違いした。
「あ、体調の方なら大丈夫。大丈夫だから。でも何かあったら、私で良かったら相談にのるよ。
お見舞いに来てくれたお礼だよ」
「いや、礼なら俺と姉さんがすべきだ。君さえ良ければ見舞いに来る。宿題があるなら手伝う」
申し出に、また明るい笑顔が頷いた。
「ありがとう。宿題はちーちんのおかげでもう終わっちゃったけど……来てくれるなら嬉しい」
しかしやっぱり表情には影もあって、秋水はどういっていいか分からず、「では明日」とだけ行って部屋を出た。

桜花と秋水がまひろを見舞っていくうちに新学期になった。
まひろの夏バテは直り、出席こそしているが、部屋にこもりがちになった。空のある所には全く行かない。

”元気になってもらいたい”

秋水のそんな気持ちが、まひろを見舞うたび強くなっていく。
理由は彼自身にもよく分からない。
とにかく千里と沙織に相談すると、二人は口を揃えて応えた。
「それはよーく分かります」
明るいまひろが沈んでいるのを見るのは、友人として辛いらしい。
では秋水はまひろの友人なのだろうか。
考えるとどうも難しい。既に見舞った回数は十を越え、会話も沢山してはいる。
それで友人になるものだろうか。分からない。
他者とあまり関わらず生きてきた秋水には、人間関係を定義づけるコトが難しい。
悩みを聞いた桜花は、からかうように笑いつつ、囁いた。
「ひょっとしたら私を置いて修行に行った負い目じゃないかしら」
かも知れない。姉を病床に置き去りにしたのは心苦しいコトだった。
その代償行為として見舞っているとすればやや納得はいく。
秋水自身の心境は整理がついた。が、桜花は少し疑念の目を向け始めた。
(ひょっとしたら秋水クン、まひろちゃんのコトを……)
閉じた世界にいた弟がそうなったとすれば、嬉しい反面、自分から離れていくようでひどく寂しい。

何かまひろが楽しめるコトはないか。
新学期に入ってから秋水はずっと考えている。
しかし彼自身、何かを心底から楽しめる気質ではない。
だから他人を楽しませるのはひどく難しい事のように思えて、苦慮している。
すると妙にそわそわしている桜花が「落語なんてどうかしら。まひろちゃん、きっと喜ぶわよ」といった。
桜花の態度が多少気にかかりはしたが、関心はアイディアを実行する方へ大きく向いた。
2〜3件、CDショップを巡り、落語のCDを買った。
買ってまひろと一緒に聞いた。
なかなかの好感触。
一生懸命、楽しそうに聞いている。
ただ彼女は、一方的に話を聞くのに不向きらしく、5分も経つとぐーぐー居眠りしてしまう。

その点、秋水は困った。起きたまひろは心底申し訳なさそうに謝ってくるからだ。
楽しませようとした相手に謝られては、気分が沈む。
短い落語はないかと探したが、どれも5分以上する代物ばかり。
業を煮やした秋水は、なんと落語のネタを自分で作り、更に3日ほど徹夜で練習して、お披露目した。

「えぇー、最近ではリバイバルブームなんて申しまして、懐かしいものたちが次々と復刻されていますな。
例えば扇風機。今じゃプラスチックの三枚羽が主流ですが、それじゃ味気ない、昔のデザインがいいってんで、
四枚羽のレトロチックなデザインが売れたりしております。漫画なんかも本屋さんを見渡してみると、
昔懐かしのタイトルに、「2」とかなんとか色々ついているのが非常に多い。
そこに目をつけたのが犬飼という、まぁ、影が薄くとにかく出番の少ないケチなかませ犬であります」

『火渡とうちゃん、火渡とうちゃん。ぼくいいコト思いついたよ』
『なんだ負け犬。とうちゃんは毒島かあちゃんと温泉に行かなきゃなんねぇんだ。静かにしろい』
『あのさあのさ、とうちゃんの上司に坂口大戦士長って人がいるでしょ。あの人もさ、リバイバルしたら売れるかな』
『また何おかしなコトいってんだいこのコは。古けりゃいいってもんじゃないよ。照星サンはありゃお前、老頭児だよ。
リバイバルよりリサイクルでもした方がぴったりだよ』

『こちらへ』

てな調子の演目を、秋水はとうとうとこなしてみた。
落語といえば和服だが、あいにく剣道着しかなかったのでそれを着て、床にひいた座布団の上に行儀よく正座して。
まひろは最初その姿を見て呆気に取られていた。
が、演目が進むにつれクスクス笑い出し、最後には腹を抱えて大笑いした。
部屋をこっそり覗いていた千里と沙織も、必死に笑いをこらえた。
(しゅ、秋水先輩って天然なのかなちーちん。剣道着で落語する人なんて初めて見た! 
勝負服なのかな、勝負服なのかな)
(二回も言われたって知らないわよ! こら笑っちゃ駄目だってば沙織、先輩は先輩なりに一生懸命なんだから)
二人が密やかに話している間にも、あまりベッドの上で突っ伏して震えている。
笑いすぎるあまり、痙攣を起こしているようだ。
「いや何もそこまで」
「だって、だってカッコいいのに」
息も絶え絶えに顔をあげたまひろを、端正な顔が困ったような、照れくさそうな顔で見つめていた。
まひろは笑った顔のまま硬直し、ややあって…とても大きく噴出した。
「ぶふぅー!」
(ぶふぅ!?)
それきり真っ赤な顔を伏せて笑い続ける少女の姿に、秋水はますます困った。
顔に何かついてるのかと頬を撫でた。もちろん、何もない。
それから2分ほどまひろは、そのままでいた。
ふるふる揺れる薄い茶色がかった髪の毛が、秋水には妙に印象的だった。

「ゴメン。ゴメンね。妙に似合いすぎてたから面白くて。…あっ! もちろんお話もだよ。お腹痛いけど楽しい」
「それなら光栄だ」
「ううん。こっちこそありがとう。こんな笑ったのは久しぶりだよ。うん」
笑い涙か、目じりにうかんだ輝く粒を、まひろは指でくいっと拭って、笑った。
「だから、ありがとう」
表情には影が薄い。完全には消えていないが、それでも秋水は安堵した。

ただ、まひろが大笑いしたのはそれきりで、後は変わらず影の濃い表情で過ごしている。
学校のある日以外は、部屋に篭りっきりだ。

赤とんぼがまばらに飛び始めた頃。

「あまり部屋にこもりっきりでも体に障る。たまには外を散策してはどうだろう」
もう当たり前のようにまひろの部屋にいる秋水は、ゆっくりと言葉を選びながら提案した。
まひろはすごく影のある表情を一瞬したが、こくりと頷いた。
「うん。そうだね。外に行かないとダメだよね…」

そして二人は広い広い野原で、ピクニックを始めた。
シートの上で桜花の作った弁当を広げ、野原を見たり喋りながら。
秋水がふと空を見上げると、秋らしくどこまでも青く澄んでいる。

まひろはその仕草に、ひどく怯えた表情をした。
気配を察した秋水は、内心しまったと思い、空を見上げるのをやめた。
空の向こうにはカズキがいる。その話題を振る前兆だと誤解させてしまった。
視線をまひろにではなく、野原にじっと注いだまま話をしたい気まずさがある。
されど話はするべきだ。
まひろにとって、いや、ひょっとすると秋水自身にとってとてもとても大切で、真剣にすべき物なのだ。
秋水がまひろの友人かどうかは、分からない。だがそれでも、力になれるのならなりたい。
「別に君を責めたりしない」
秋水はシートの上で居ずまいを正し、まひろに向き合った。
「外に出たくない時だってある。俺だって、実を言えばそういう時があった。
だから君を責める権利はないし、責めたくもない」
「ホントに…?」
黒目がちの瞳が、おどおどと潤んだ。
安心したような、安心した自分を情けないと思っているような目で、まひろにはひどく不釣合いだ。
言動一つで、その目は良くも悪くもなる。無くすことも、あるいは出来るかもしれない。
どうなるのか。果たして何ができるのか。
秋水は、息を呑みつつ、また慎重に言葉を紡ぐ。
「本当だ」
「その時は、桜花先輩が」
「姉さんが?」
「……どこかに行っちゃったから?」
「違う。どこにも行って欲しくなかったんだ。だから姉さんと二人きりの場所に居たかった」
「でもきっと秋水先輩なら、桜花先輩がいなくなったら探しに行くと思うよ。──けど、私は違うんだ」
目を伏せながら、まひろがぽつぽつと語る。秋水はじっと聞く。
「お兄ちゃんはいつだって、戻ってくるって約束してくれたし、それに、それにね。
お兄ちゃんはみんなの味方だから、私が引き止めたら、きっとお兄ちゃんが助けたい人が助からなくなっちゃう。
だから引き止めちゃいけないし、ついていってもダメだって…そう思っててもね。仕方ないって分かっててもね」
恐る恐る顔を上げ、まひろは空を見た。
「でもねやっぱり、あの時、お兄ちゃんを引き止めてたらって、つい思っちゃうんだ。
…斗貴子さんね、帰ってきた時、すごく泣いてたんだ。ずーっと。
もしお兄ちゃんが、『長いお別れになる』って言った時にね」
空を見る目はぼんやりと潤んでいて、言葉はどこか独り言のように、秋水には聞こえた。
「私が止めてたら、斗貴子さんも泣かなくて済んだのかなぁ…って、空を見ると考えちゃうんだ。
変だよね。本当はお兄ちゃんを怒ろうと思ってたのに……待つしかできなくて、待ってるだけで、
……… もう、辛いよ──…」
ぐすっと鼻を鳴らすと、まひろは顔を下げ、袖で涙を拭い始めた。
秋水はその姿を見るのがやはり辛くて、でも咄嗟には、そっとハンカチを差し出す位しか出来なくて
ひどく自分がもどかしい。
人と十全に関わってきたのなら、こういう時にすんなりと慰めの言葉を掛けられただろうか。
それとも、生来の性格が災いして、無理なままだろうか。
まひろはハンカチで目頭を押さえて、肩を辛そうに震わせながら泣いている。
すすり泣き、幼児のようにしゃくり上げている。
カズキが羨ましい。彼ならきっと、不器用ながらに力強い言葉をすぐに掛け、たちどころに涙を止められるだろう。
少なくても、彼の信念にはそういう説得力があった。
だから秋水は、カズキの言葉を借りるコトにした。
「昔、武藤が」
ここでカズキの話題を持ち出すのは、傷に塩を塗るようなコトで、もっとまひろを泣かすかも知れない。
けれどまひろに対しては、関わって日の薄い自分の言葉よりは、ずっと共にいたカズキの言葉の方が
必要で、信頼できる物に思えたので、言葉を借りる。
「俺に『諦めるな』といった事がある。そして彼は諦めずに、俺と姉さんを救った」
「………」
「今の君に同じ事を言うのは、酷かも知れない。だがしかし、武藤は別離を恐れていた。
恐れていたからこそ、彼は諦めずに戦い抜いて、俺と姉さんを救って、君たちを守り通した。
だから、彼は必ず帰ってくる。だから君も諦めるな。君が待つのをやめたら、帰るために
頑張り抜いた武藤の意思が、水泡に帰する。それから。俺も武藤に正面から謝罪するべき事がある。
彼を待つべき義務があるんだ。君が一人で待つのが辛ければ、俺も共に待つ。だから、諦めるな」

まひろは秋水を見た。
そこにあるのは、一点の淀みもない澄み切った瞳。
じっと見据えれば、奥底にわずかばかりの蔭の跡もあるが、しかし澄み切っているその瞳から
まひろはちょっとだけ勇気を貰った
「うん」
強く頷いた。
「いつになるか分からないけど、でも…待ってる」
涙の残った頬を一陣の涼風が撫でていく。
それからね、秋水先輩」
「何だ?」
「ありがとう。できたら斗貴子さんも励ましてあげて。私も一緒に行くから。ね?」
完全に影の消えた微笑を見ながら、秋水は頬を掻いた。
元気を取り戻したまひろの顔は、見たかった物の筈なのに、直視するのはこそばゆい。
「俺で良ければ」
とだけいつもの調子でいうのが精一杯だ。
「あ、それと……」
まひろは遠慮がちに手を伸ばし、だがすぐに下げた。
謝罪するべき事とは何か聞きたかったが、やめた。
一緒に待ち続ければ、いつかカズキが帰ってきた日に分かるから。
そう思って、質問を変えた。
「”すいほーにきする”ってどういう意味なの?」
「…無駄になるという意味だ」
秋水には葛藤がある。斗貴子を励ませるかどうかは分からないし、カズキのように人を救えるかどうかも定かでない。
開いた世界の中で、努力がそれこそ水泡に帰するコトもありうる。
「ナルホド」
しかし無邪気に笑うまひろを見ると、色々な事を諦めたくないと思う。
(だから、早く帰って来い)
真っ青な空を見上げて、秋水は願うように思った。



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