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第04話 【備】したじゅんび



かつて再殺部隊が集結した海豚海岸は風光明媚だが、知名度は低い。 
ネット上で「意外な穴場」として語られているぐらいだ。 
けして観光名所として町全体が賑わっている訳ではなく、海岸を一歩離れれば、よくも悪くも 
普通の町並みが展開され、更に歩いて十数分の駅にも目を引くものはまるでない。 
切符売り場からガラス一枚隔てた小さな事務室に年老いた駅員が数名いるだけで、ホームも 
ところどころひび割れ、雑草が顔を覗かしている。二つのみのホームを繋ぐ渡線橋もひどい。 
内部を見渡してみれば、そこかしこで塗料が剥げ落ち、錆が浮いているのが見受けられる。 
ようするにこの駅はとても殺風景で、取り柄といえば、潮の匂いがかすかにするだけなのだ。 
路線も一つだけで、一時間に上りと下りの電車が各1回、思い出したように到着し、横腹で 
まばらな人影を出し入れしている。 
千歳がそんな光景をぼんやりと眺めていたのは、任務開始から一晩明けた頃である。 
瀬戸内海にある戦団日本支部を出て、夜半、普通列車(新幹線でないのは推して知るべし) 
を乗り継ぎ続けて十数時間。 
目指す皆神市までは、残り三駅ほどである。 
道中、銀成市を経過し、千歳は市内で入院している防人の身を案じた。 
重傷ではあるが、元来の鍛えた肉体のおかげで回復も早く、医師の話では秋ごろには退院 
できるという。 
彼の今後の身の振り方は、千歳には分からない。 
ただ、照星にも話したように、過酷な戦いの数々で傷付いた体を休めて欲しいというのが本音である。 
やがて銀成市は見えなくなり、そのまま乗り替えなしで海豚海岸に来た。 
千歳はドアにもっとも近い長イスの端に身を預け、この路線で一番混雑する光景を眺める。 
夏も終わりに近いというのに、海水浴に来たと思しき少年少女がよく目につく。 
車内に射しこむ熱が篭らぬ日差しを人影が流れ、潮の香りがシャープな鼻梁を撫でる。 
きりりとしまった美しい瞳の中で人々の動きが途切れると、扉が閉じ、電車は再び走り始めた。 
ここで降りた人間の方が多かったららしく、車内はがらんとしている。 
ほどよく効いた冷房の一種の埃臭さが潮の匂いをかき消していき、千歳はなんとも惜しい気 
分になった。 

さて、同伴しているハズの根来はどうしているか? 
千歳とは対角線上、電車の連結部に近い長イスの端で、ちまちまと手を動かしている。 
寡黙な千歳と根来にさほどの会話があるワケでもなく、ただ電車に揺られている。 
ちなみに、戦団日本支部を出た時から、彼らは戦団の制服を着ていない。 
千歳は白いワイシャツと黒いベストとスカート。根来は上下ともに灰色のスーツを着ている。 
道中、戦団の制服で目立つのを避けるのと、向かうバンダイの下請け工場では、上だけ 
制服を着ると聞かされているから、それに合わせる形でスーツを着ている。 
ちなみに、根来の首には平素愛用しているマフラーが巻きついている。 
恐らく、工場においてもマフラーを巻くつもりなのが千歳には分かり、遠回しにやめるようい 
ってはみたが、根来は黙りこくるだけで要領を得なかった。 
そんな彼は今、あたかも朝を拒むがごとく、背後のブラインドを下ろしている。 
車内の片隅は夜が残っているように薄暗い。そこで根来の手元がときおり、チカッ チカッと 
光るのを千歳はすっかり熟知している。                  
「下準備だ」 
というのが車内で針を取り出した根来に対する誰何の、答えだ。 
根来は膝の上でカッターシャツを持ち、針をちまちまと往復させている。 
灰色のスーツやズボンなどに同様の行為を施し、そして足元の風呂敷包みに仕舞ったのを 
千歳は何度か目撃している。その数と緑一色の風呂敷包みの膨らみ具合から察するに、カッ 
ターシャツが下準備の最後となりそうだ。 
下準備、というのは単なる繕い物ではない。       
前述のとおり、根来の武装錬金、シークレットトレイルの特性は「切りつけた物に潜り込める」 
だが、しかしただ切り付けた物に潜めるのであれば、潜って下がる、いわゆる妖怪もぐりさ 
がりの二番煎じで、著作権上あまり良くない。 
今回、根来とコンビを組むにあたって千歳が調べた情報では、切り付けた物に潜む通行手 
形的条件は「根来のDNAを有しているコト」らしい。つまり、髪、血、唾液、汗、垢などの根来 
の体の一部が付着していれば、いかなる物でも根来と同じく、物体へ潜れるのだ。 
そして根来が車内で忙しく動かす針に通してあるのは、灰色の長髪だ。 
体組織の中で一番採取しやすく、また匂いなどで潜入を察知されにくいのは、やはり髪だろう。 
それを根来が慣れた手つきでスーツやカッターシャツに縫いこんでいるのは、工場において 
迅速かつ十全にシークレットトレイルを発動させるための行為というのは、明らかだ。 
ゆえに下準備。 
シークレットトレイルの特性を予備知識として知っていた千歳だが、それを機能させる為の 
下準備を見ていると、なんとも感心がこみ上げてくる。 
周到ではあるが至って簡略化された、実用一点張りの方法だ。 
ただしひたすら、地味である。それを黙々と電車の中でこなしている集中力は、やはり忍者 
に通じるものがある。 
千歳は言葉にこそ出さないが感心し、羨望すら覚えもした。 
このような、任務を遂行するコトだけを最優先し、一挙一動全てを確実な一手にしようと影で 
目論む冷徹な態度こそ、7年前の千歳がもっとも欲しかった物なのだ。 
過去を悔やんでも仕方はないが、もし、千歳がミスによって多くの人命を死に至らしめた任 
務に、根来が代わりに関わっていたのなら、惨劇は防がれ、仲間と呼べる親しい者の人生 
を狂わさずに済んだ筈なのだ。 
そういう、過去に対して「もしこうだったら」とありえぬ可能性を描いてしまう詮なき後悔の一種が 
千歳に根来の同伴を求めさせたのだろう。 
根来は奇兵と蔑まされている。任務遂行のためならば、味方を顔色一つ変えず手駒にする 
からだ。 
例えば、同僚の戦部という戦士の体に潜り込み、彼の相手へ奇襲を仕掛けたり、瀕死の重傷 
を負った円山という戦士を、交戦中の敵に隙を作るために投げつけ、結果円山に手傷を負わ 
せたりと、ともかく、人間に通っている暖かな血の気配が、根来の戦法にはない。 
しかしである。 
任務にただ真正面から取り組み、実力不足でミスを犯して、多くの者の人生を狂わせるのと 
任務をただ遂行するためだけに、味方を利して成功し、結果多くの命を守るのを比べた場合 
千歳は後者が絶対的に正しいと思ってしまう。 
もちろん、仲間と普通に協力し、誰一人として傷を負わない解決方法が一番正しいと千歳は 
思っている。だが、彼女の同僚たる火渡の言葉を借りるなら、 

「錬金術という人の手に余る力の世界での戦いで、条理とか合理とかその手のモノは通用 
しない」 

というのが実感としてある。惨劇が防がれるのなら、多少の不条理もやむなしなのだ。 
根来に利用され、傷を負った戦士は憤っているだろう。感情としてはそれも正しいが、しかし 
彼らの傷も憤りも、いずれは平癒する軽い軽いものである。人生そのものに黒く染み付くほ 
ど取り返しのつかないものでは、決してない。 
それを差し引いても、根来が間接的に救った人間の方がはるかに多いのだ。 
それと千歳の前歴を考え合わせれば、彼女が根来を羨んでもおかしくはない。 
窓を眺めると、そこでは針葉樹が流れている。任務の舞台たる工場へ、当然ながら向かっている。 
千歳は息を潜め、務めて冷然と眺めた。 
と、木々が拓け、眩しい光が視界に広がった。 
電車は崖を走っているらしく、朝日に照らされた海が窓の外を走っていく。 
広く穏やかな海の表面で、千々に分かれた金の光がゆらりゆらりと瞬いて、千歳の目を痛い 
ぐらいに刺激する。 
「次はぁー 氷室駅ぃー 氷室駅ぃー」 
車掌特有の粘っこい、実はお前ら客を小ばかにしてるだろうってアナウンスが響く。 
すると根来の手が止まり、彼は不意に立ち上がった。 
目指す工場があるのは、氷室駅ではない。そこからもう二つ先の皆神駅だ。 
疑問を含みちらりと目線を投げた千歳に、ちょうどカッターシャツを脇に挟んだ根来は答えた。 
針はまだ持ったままだ。 
「もうすぐ幼稚園児の団体がそこの扉から乗ってくる。人数は25から30」 
おりしも電車は鉄橋に差し掛かり、赤い欄干が窓の外を高速ですり抜けていく。 
がたんがたん、がたんがたん。 
立体的な和音が静かな車内に反響し、やがて後ろの方へ飛んでいった。鉄橋を過ぎた。 
「……え?」 
一拍遅れて、千歳が細い眉根をひそめたのは、目の前で根来が意外すぎる挙動を取ってい 
たからだ。 
彼は、残る片手で足元の風呂敷包みをひょいと持ち上げ、隣の車両へと歩いていた。 
微かな驚きが、端整な顔に広がった。 

約2分後。 
果たして、幼稚園児の群れは乗り込んできた。人数も根来の謎めいた予言通り。 
みなそれぞれリュックを背負い、何人かは浮き輪を持っている。 
しかし海豚海岸とは逆方向に向かう電車に乗ってきたのを見ると、川遊びかキャンプに行く 
のだろう。 
幼児は座る千歳の横を特有の意味不明な歓喜の叫びと共にすり抜けて、思い思いの席に 
着き始めた。あとは同伴の保育士に席を譲ろうとしたり、隣の者に菓子を与えたり、根来が 
閉めたブラインドを跳ね上げて、海があるのに喜んだりし始めた。 
その近くで深い翳に彩られる美貌などは、彼らの目に入っていなかっただろう。 
千歳は、子供が嫌いかといえばそうではない。見ると暖かい気持ちになれる。 
だがそれは束の間なのだ。 
無邪気に騒ぎ、純粋に父母や兄弟や周りの人間を思いやり、そして未来を心底から信じて 
いる子供たちを見ると、かつて犯した過ちで死なせてしまった者を連想してしまい、辛くなる。 
彼らが生前こうで、生きていればこういう子供たちと幸福な家庭を築けたのではないかと想 
起し、罪の意識に強く激しく苛まれる。 
千歳は静かに立ち上がると、園児に同伴している若い女性の保育士に「どうぞ」と手短に告げた。 
そしていたたまれない気持ちを抱えたまま、根来のいる車両に移った。 
時間が時間だけに、人影はまばらだ。 
根来はどこかと見渡すまでもなく、彼は先ほどと同じような席に座って、同じように日陰を作 
り、同じように下準備をしていた。 
彼との位置関係が先ほどと同じになるよう座席に座ると、千歳は声を掛けた。 
気を紛らわす意味もなくはない。が、疑問の方が多い。 
「どうして…」 
しっとりと沈んだ千歳の声が終わる前に、根来は答えた。 
「園児たちの声が聞こえたからだ」 
事もなげに根来はいうが、走行中の電車から次の駅の様子など普通ならば聞こえない。 
しかし根来の聴覚は凄まじい。5km先の消防車の音を聞き、到着までの時間も割り出せる。 
この電車は駅に向かうために徐々に減速していたから、速度は平均で時速42kmぐらいだろう。 
根来が予言して園児が乗り込むまでは約2分。 
距離は約1.4kmで、幼稚園児は何かと大声を上げて騒ぐ生き物だから、根来の聴覚が捕 
らえられる範囲なのだろう。 
千歳の持つ周知の事実とそれに基づく推測は、以上のものとほぼ同じ形を取っている。 
実は、照星に任務を告げられた後、千歳は根来について幾つか調べてある。 
前述のシークレットトレイルの特性はもとより、戦績、個人情報、そして能力。 
千歳はその全てを少ない時間の中で手早く調べ上げ、頭に叩き込んでいる。 
そういう事前調査は、潜入に並ぶ千歳の得意芸だ。故に根来の聴覚の鋭さは知っている。 
では、千歳は何を疑問に思っているのか。 
彼女が抱えたそれを口に上らせようとした時、根来の動きが止まった。 
そして針を後ろ手に隠すと、油断のない鋭い目つきを連結部のドアに向けた。 
そこが開いた。 
土色の蛇腹も露わな連結部をよたよた歩いて現われたのは、小さな男の子だ。 
服装からして、先ほどの幼稚園児の一人らしい。彼はきょろきょろと車内を見渡し、千歳を見 
つけると、小走りで駆け寄っていった。 
走る電車の中は揺れる。千歳は彼が転びはしないかと心配した。 
「ありがとー」 
男の子は千歳の前につくと、おずおずと緊張の面持ちでチロルチョコを二つ差し出した。 
恐るべきコトに、何といちご味だ。しかも両方ともが。 
不意のコトに、千歳は少し目を見張ったが、しなやかな指先をそっと伸ばして受け取った。 
「ありがとう。でも走ったら駄目よ。戻る時は足元に気をつけて」 
「うん!」 
男の子は嬉しそうに笑って、足元を一生懸命見ながら隣の車両へ戻っていった。 
そんな姿に、千歳は寂しそうに手を振った。 
無表情だったから怖がられていないか、やはり無理にでも笑ってあげた方が良かったか、 
そんなコトばかりが頭をめぐる。 
だが、間接的に人を殺めておいて笑うのはどうしてもできない。できたとしても辛くなるだけだ。 
根来はそんな千歳にさほどの関心も示さず、後ろ手に隠していた針を、体の前に戻した。 
そして黙々と下準備を再開するように思われた。 
が、そうはしなかった。代わりにぽつりと呟いた。 
「不要だ。それは貴殿が受け取った物だ。私が受け取る理由も必要もない」 
先ほど幼稚園児の存在を言い当てただけあって、すぐ近くの千歳がどう動こうとしているか 
容易に察したのだろう。 
いつの間にか立ち上がっていた千歳は、一瞬動きを止めたが歩き出した。 
そして根来の前に立ち、チロルチョコを一つ差し出した。 
「理由ならあるわよ。私と同じ理由が」 
「………」         影抜忍者↓出歯亀 
千歳より先に今の車両に移った根来は、押し黙った。 
「だってあなたは私より先に、子供たちに席を譲ったもの。なぜ譲ったかは私には分からな 
いけれど、少なくても受け取る権利と理由はあるはずよ。それにさっきの男の子が入ってきた 
時、警戒していたのは針のせい。彼が転んで針が刺さる可能性を考えていたんでしょ。だか 
ら針も隠していた。違う?」 
「違うな。子供は騒ぎ、準備を妨げかねない。ゆえに私は車両を移ったのだ。針を隠したのは 
不慮の事故で警察沙汰になり、任務に支障をきたすのを避ける為。それだけだ」 
根来は不快そうな顔をした。図星を指されたという顔ではない。 
ただ千歳とのやりとりの時間分だけ、下準備を遮られたコトに憤っているらしい。 
こういう人間的な会話よりも、任務に連なる挙措が彼にとっては重要なのだろう。 
「あなたらしいわね」 
率直な感想を呟くと、千歳はチロルチョコを引っ込めた。 
皮肉ではなく、どこか筋が通っている根来の性格を褒めたつもりだ。 
根来はそういう千歳の機微にやはり関心がないらしく、また黙々と下準備を始めた。 
結局、彼はチロルチョコ(何と、いちご味だ)を食べないまま、皆神駅に着いた。 
とかく偏屈な男ではある。 
しかしどこか筋が通っている様に思えて、千歳は根来への印象を柔らかくした。 



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