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第11話 【対】ばーさすわしお ちゅうへん@



鞭は千歳の鼻先を微かにかすめ、そのまま地面に吸い込まれた。 
先端は勢いの任せるまま土を削り取り、うねり上がって標的を狙う。 
男が狙ったのかといえば否である。力任せに振るった中での偶発的現象だ。 
時に偶然は、戦闘において最後のジョーカー的要素ともなりうるが、惜しいかな。 
その時すでに千歳は数歩下がって完全に、鞭の射程を逃れていた。 
ただ何もする訳でもなく、じっと見据える冷たい瞳に、男の顔が見る見る怒張した。 
「クゥエエエエ!」 
あらん限り叫んだ男の口から、三角に尖った真っ赤な舌がぬらりと覗く。 
そして男は横に跳ぶと、木を蹴り上げ大きく飛翔した! 
何という脚力か、彼は地上より10メートルほどまでぐんぐんと跳びすさり、もはや正気を失く 
した怪鳥の瞳で千歳をギラリと睨む。 
再試行するは先ほど千歳の虚をついた、頭上からの攻撃! 
ようやく効き始めた落下重力の見えざる糸の中、彼は大きく鞭を振り上げた。 
ばきり! 
少し上で小枝が叩きおられて、はらはらと青葉が舞う。木屑が落ちる。枝がかすめる。 
これまた期せずして得た奇襲効果に紛れつつ、猛烈に接近しつつある地上の標的めがけ 
男は鞭をなぎ払う。 
だが千歳、二度も同じ手を喰う女性ではない。 
くっと身を縮めると、すばやく横に転がり鞭を避けていく。 
男の鞭の速度も尋常ではない。 
草。土。根。小石。 
あらゆる地上物を空中にいながらに何度も何度も叩きのめして、転がる千歳の間近で派手 
な音を立てていく。 
この攻防は時間にすればわずかだ。男が跳躍し、地面に脚をつけるまで十秒もない。 
さて落着した男の目の前では、千歳が身を屈めていた。 
何の前でそうしているかを認めた男は、身を徐々に震わせ、やがて叫んだ。 
「クエェ! クエッ クェッ クゥエエエエエエ!!」 
喉奥から綺麗なビブラードを搾り出しながら、男が駆ける。 

彼にとっての非常食たるミイラに何かしようとしている千歳へと。 

【V】ばーさすわしお ちゅうへんまるに 

標的は非常食からバっと素早く離れた。 
男はこの山で暮らし始めて以来、最高ありったけの速度で鞭を振り下ろし、横へ薙ぎ、斜め 
から切り上げた。 
しかし鞭はことごとく地面を打ち、いたずらに男の手首を痺れさせるのみに終わった。 
再びミイラの前で屈めた千歳に鞭を向け、それも外れると屈辱的な出来事が男に降りかかった。 
疲労に息をつきかけた刹那、鞭を持つ手に小石が当たった。 
むろん、標的が投げたものである。身を屈めた時にでも拾ったのだろう。 
男のむき出しの額にみるみる青筋が浮き上がる。 
「クエエエエエエ!!」 
雄たけびが森に木霊する。 
するとどういうコトか。 
標的は狭い木の間をあくせくとくぐり抜け、森の中に逃げた。 
そこは男がいる所と違い、木々が乱立し、一直線に走り抜けるには困難な場所だ。 
つまり、先ほど標的が見せた軽やかな避け方はもうできない場所でもある。 
しかしそういう場所にあえて逃げ込むのはどうしてか。 
標的は肩に掛けた鞄をゆすりつつ、逃げにくそうに逃げている。 
その姿を見て、男は嘲笑った。 
不利な場所に逃げ込んだのは、自身の怒りの声に怯えたせいだと勝手に結論付けたのだ。 
倣岸不遜のこの態度。 
知人が見れば、まだ理性を持っていた頃となんら変わりがないと嘆息するだろう。 
だが、客観的に見てもこの状況は男にとって有利な点が多い。 
相手が背中を見せて、逃げ辛い場所をのろのろと逃げている。 
森の生活が長い男が木々を抜け、背中に痛烈なる一撃を与えるのは容易であろう。 
喉奥でころころと機嫌よく鳴くと、男は標的を追った。 
右手から体と平行に垂らした黒鞭が、うねる山肌を蛇のように奔っていく。 
距離はぐんぐん狭まり、すぐさま射程距離に入った。 
歩数ならば五歩。一足に跳べば真正面に立てるぐらいの距離。 
そこで、なぜか標的はぐるりと振り向いた。 
いぶかる理由はない、ただ打ち据えるのみ。と、男はただ反射的に鞭を振るった! 
「クエーッ!」 
瞬間、握り締めた右手に何かがぶつかる感触が走り、男はクェクェ笑った。 

命中を確信した。 
だが目の前の標的は──無傷。 
鞭がまるで当たった気配がない。それどころか振るったはずの鞭すらない。 
ならば、あの手ごたえは? そして振り上げた鞭の行方は? 
男は硬直した。標的の右手から、猛回転する鈍いきらめきが解き放たれたのにも気づかずに。 

次に起こったコトをありのまま記そう。 
男の顔が違和感の原因に気づいて歪む前に、バールのようなモノがワシ鼻に深々とめり込 
み、物理的に歪めていた。 

標的──千歳は男が後ろに倒れ伏すのを見ながら、淡々と呟いた。 
「気づかなかった? あなたがいつも動物を殺している所と違って、ここは木が密集している 
から、考えなしに鞭を振り回すとそうなるの」 
男の上で、手放された鞭が所在なげに揺れていた。 
その先はと見れば、枝に絡め取られている。 
威力から見れば枝を断ち切るコトたやすいはずの男の鞭である。 
現に、ぶら下がっている所から心持ち広場の方にかけて、何本かの枝が落ちている。 
しかし場所が悪かった。 
鞭が枝を落としていく度、威力が削がれてしまった。 
そして最終的に、枝に巻きついてしまったのだ。 
広場での前哨戦で、男の手首に疲労が溜まっていたのもこの失敗の一因だろう。 

千歳の顔は、蒸し暑い夏の森を走ったせいでぽうっと上気し、珠のような汗が浮かんでいる 
がやはり無表情だ。 
敵を倒した昂揚もなければ、倒された敵への同情も見受けられない。 
「あなたが鞭を持っているのを見て、確信したの。死体が森にあったのはすべてあなたの仕 
業だって。死体にあった痕やそばの木の傷と、その鞭の幅はほとんど同じだから」 
ふぅっと一息つくと、たおやかなる胸の膨らみが上下した。 
「それから考えると、あなたは鞭を振り回すしかできない筈。念のためにあなたの攻撃を見 
たけど、想像通りだった。だからここへ逃げたの。鞭を使うには不向きなここへ」 
千歳は、バールのようなモノを男の鼻からむしり取り、血をひゅっと振り飛ばした。 

(もっとも、私のように投げるんだったら、動く妨げにはならないでしょうけど) 

バールはもちろん、ミイラの所にあったのを拝借している。 
なんであったかは分からないが、あるんなら使ってしまえばいい。 
大地の神だってするさ。環境利用闘法だ。 
千歳はついでに慣れた手つきで、鞭を木からほどいた。 
そして鼻に血をにじませひくひくと痙攣する男を、冷たく凝視しながら話しかける。 
「…鼻の傷が回復しないというコトは、ホムンクルスじゃないようね。大人しくしていてくれれば 
これ以上あなたに危害を加える気はないわ。私はただ──」 
ざっざと歩を進めながら、千歳は目的地を言い表す言葉を一瞬考えた。 
ゴミの山というには、ちょっと整然としすぎている。だから印象をそのまま呟いた。 
「──あの鳥の巣のような場所を調べたいだけ」 
この一言が、そしてこれまでの健闘が、彼女に危機をもたらすコトになる。 

………………

巣…

───『巣』? 

男は、断片的ながらに様々な光景を思い出していた。 
もう脳のどこかが壊れてしまったらしく、思い出せるのは輪郭がぐしゃぐしゃで、色とりどりの絵 
の具のチューブを上で踏んでしまったような粘着質で不規則な色彩風景たち。 
黒板らしき光景に書かれた自分の名前。その下で友より二票少ない「正」の文字。 
覆面。鉄パイプ。くずおれる友の姿。 

彼は昔から我慢ができなかった。自分がいる「巣」の中で、自分以外の奴が中心にいる事が。 

彼は長じるといわゆる「闇金融」に務めたがそこでは既に、巣の中心に居座っている男がいた。 
だから殺した。 

双眼鏡で覗いた上司の姿。電話で促すと彼は上を見た。天井につけた予約の印。 
飛び上がり、紐を引いた。そして上司の首は転がり落ちた。 

一番になりたいんじゃない。ただ、巣の中心にいたいだけだった。しかし──…

しばらくすると事務所に二人の人間が来た。 
一人はその筋のプロダクションで売れっ子女優になれそうな、女子高生。 
もう一人はこれまた容姿端麗で、女子高生を先生と仰ぐ慇懃無礼な自称助手。 
やがて咎は暴かれ、助手は変貌した。 
迷彩服を着て角を生やした身長20メートルほどの写実的な鳥の化物になって、肉や鱗がご 
ちゃごちゃついたライフルを構えると、ヤツメウナギみたいな銃口から巨大な卵を撃った。 
卵は鼻に激突した。 
あまりに想像を超えた衝撃に男はただ心底から畏怖し、気付けばもう逃げていた。 
そして理解した。想像を超えた圧倒的な化物に、全てを砕かれたと。 
と同時に意識は暗澹たる霞に埋もれた。 
それは自衛だったのだろうか。 
矜持も中心にいるべき巣も奪われたという、耐えがたき現実を直視するコトからの。 
とすれば、倣岸な性質に見合わぬせせこましい、哀れな適応機制だ。 
とにかくも男は、巣を失った雛鳥のごとく、ただ地べたを逃げ回りつづけてこの森に来た。 
暮らしていくうちに。 
いつしか自然に。 
ゴミの数々を拾い上げ、ビルや巣のような物を作り始めていた。 
そこにいる時だけは、男の薄暗い意識に光が射し、安らかなる気持ちになれる。 
いまの男に理由は分からない。 
動物が、糧を胃の腑にいっぱい詰め込むとどうして満足できるかを理解できないように、男 
は分からず、ただ衝動のままに巣にいるコトを求めている。 
だが、タガの外れている衝動は、時に恐ろしげな爆発を生む。 

──そして今。 
予期せぬ乱入者が『巣』に向かっている。 

男は、一番になりたいんじゃない。ただ、巣の中心にいたいだけだった。 

巣の中心にいられるのならば、例えこのまま死ぬまで地を這い続ける雛鳥であっても構わない。 
だが! 
『巣』に害を成そうというのならば! 『巣』の中心を奪おうというのならば! 

もとより根底を流れていた情念に、火を点ける別の要素がこの時あった。 
痛む鼻から、全てを崩された時の鈍い痛みが蘇り、ふつふつと怒りが沸き起こる。 
共通する痛みが男のぐちゃぐちゃの脳内で、千歳と、巣を奪った助手たちを混同していく。 
やがて男は千歳への復讐を思い立った。 
どこまでも捻くれた男の心は、元凶を恐怖しつつも復仇を望み、まるで筋の違う方向で果た 
そうとし始めている。 
煮沸される汚泥のような情念。黒々とした熱が篭った負の欲求。 
しかしそれが、それこそが、男が少年の頃より望みを果たし続けてきた原動力なのだ。 
男が幸福を目指せる唯一にして絶対なる翼にして、火を噴く推進力でもある。 

千歳は期せずして、それを蘇らせてしまった。 

痙攣していた男の足に、手に、体に、確固たる力が篭った。 
そして上体を起こした男の目には。 
濁った金色の光が爛々と燃え盛っていた。 
そして男は無言で立ち上がり、悪意に満ちた凄惨な形相でゆっくり振り返り。 
すっかり遠ざかった標的をぎらりと睨みつけた。 



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