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第12話 【対】ばーさすわしお ちゅうへんA



千歳が広場と森の境目に到達すると、彼女は背後から異様な気配が肉迫するのを感じた。 
応戦すべく振り向いた瞬間。 
既に鷲のような顔が、千歳の鼻先近くにあった。 
とっさに後方へ飛びのいた千歳だが、その姿勢は大きく崩れるコトになる。 
それは皮肉にも男の武力割くべく取り上げた、鞭のせい。 
長さゆえ男に掴まれ、荒々しく引き寄せられた。 
もとより、凹凸に富んだ森の地面である。千歳はなす術もなくつんのめった。 
そして男は容赦なく殺到し、みぞおちに痛烈な一打を叩き込む。 
文章に起こせば長いが、男が鞭を掴んでから離すまで、瞬き一つの時間である。 
膂力も敏捷性も先ほどの比ではない。 
バールを取り落とし、強烈な呼吸困難に硬直した千歳を、男は容赦なく突き飛ばす。 
声をあげる暇もあらばこそ。細い肢体が地面で弾む。 
苦悶の千歳に男はのっしと近づくと、楓のごときたおやかな手のひらを割り開き、握ら 
れていた鞭を奪い取った。次いで、地面に落ちたバールも回収した。 
先ほどの戦闘で、千歳に使われたコトを警戒しているらしい。 
バールは捨てず、腰の後ろにかかるスーツを巻くし上げると、ズボンとベルトの間に無理や 
り突っ込んだ。そこに再びスーツが掛けられ、バールは外見からは分からなくなった。 
そして、鞭を頭上で大きく振り上げると、目を嗜虐の光にぎらつかせた。 

2分後。 
木に何かが衝突する大きな音が、広場に響いた。 
「クエ……」 
青々とした葉が舞い落ちる中、男が満足げに笑みを浮かべた。 
目の前には、木に背中を打ち付けて、苦悶に引きつる千歳。 
厚手のツナギが所々破られていて、鞭による痛打の凄まじさを物語っている。 
肩、二の腕、脇腹、大腿部……ナメクジ型に裂けた布地から覗く白い肌は、いずれも 
紅く傷付いている。 
それが暗い森の中、木漏れる月光にちろりちろりと照らされ、幻想的とも幻惑的ともいえる 
異様な艶かしさを醸し出している。 
密やかでいて激しい喘ぎが、夏の夜特有の粘っこい暑気にとろとろ溶けて入り混じり、男 
の潰されたワシ鼻を香しく刺激する。 

嗅ぎ慣れた木や落ち葉の匂いに比べ、鼻傷に染みる吐息のなんと甘美なるコトか。 
月下で光も虚ろげに瞬き、苦痛が体に走るたびにびくりと閉じる瞳の、なんと美しいコトか。 
男が一瞬、それまでの怒りとは全く質の違う情念を催したのもむべなるかな。 
だが首を振り、「巣」の中心にあるビルのような直方体のゴミの山めがけて踵を返した。 

それを目で追いながらも、千歳は立つコトままならず、背中に走る疼痛に顔を歪ませるのみ。 
ややあって、その前に立った男の手にはナイフが握られていた。 
ゴミの山から取り出したらしい。千歳が何かを感じたあのゴミ山から。 
だらりと下げられた男の手に握られたナイフは、ちょうど、千歳の視線と垂直の位置にあった。 
いつもの癖で、そのナイフを見える範囲で観察した千歳は。 
珍しく気色ばんだ。 
ナイフは、標準的な果物ナイフ。 
千歳めがけて突きつけられているから、刃の部分はどうか分からないが、柄の部分に、赤黒 
い染みが付着していた。 
瞬間、千歳の心はそれまでにない動きを見せた。 
客観的に見れば突飛な発想をしたといえるだろう。千歳自身も自分の心の動きに戸惑った。 
男の手にあるナイフについている血と。 
麻生部長が消失した現場に流れていたという血を。 
とっさに頭の中で結びつけていたからだ。 
これは突飛という他ない。 
そうであろう。 
ホムンクルスが犯人であるというなら、現場に流れていた血は、爪や牙、その他攻撃に特化 
した器官による可能性だってある。 
しかし千歳は、そのナイフを断じて調べるべきだという執念にも似た思惑を胸に描いて、必 
死に体を動かそうとしていた。 
その衝動は、死から逃れるようとする本能を押しのけるほど強烈だった。 
だが、体は動かない。 
鞭で打たれた箇所は、鉛をつめたように重く、息をするたび腹部に鈍痛が走り、背中はぎり 
ぎりと軋んでいる。 
頭上で凶悪な光を放つナイフを、千歳はただ見つめた。 
動けるなら、その瞬間を回避に費やすために。 
避けて、男を倒して、証拠になりそうなナイフを調べるために。 

だが、体は動かない。 
男は憎悪と恍惚入り混じる顔で、ナイフを千歳めがけて逆(さかしま)に振り下ろし。 
刃物が肉を侵食する独特の気配が、男の腕に走った。 
美貌に生暖かい鮮血が飛び散り、凄惨な死の気配に彩られたのは次の事。 
(……え?) 
その状況にまず驚いたのは、千歳だった。 
ナイフは……彼女の体のどこにも当たっていない。 
高々と突き上げられた男の手に握られて、先ほどのまま、月明かりを反射していた。 
では千歳の顔に飛び散った血はどこから。そして誰のものか。 
千歳がナイフから視線を降ろそうとした瞬間。 
安易な比喩ではあるが、一時停止を解かれたビデオテープのごとく、光景に音と動きが蘇る。 
男は絶叫した。 
千歳が考えている間に男は首を回して腕を見て、そこに起こった異変を理解したらしい。 
目を腕に釘付けたまま、声涸れしそうな喚きをひっきりなしに上げ続け、錯乱したのか腕 
をやたらめったらに振り回している。 
大玉の脂汗と鮮血が大地に降り注ぐ。 
このような事が、あるのか。 
男のナイフを持った方の手。正確には肘に。 
ある筈のない物が貫通しているのを千歳は認識し、硬直した。 
それは忍者刀だった。 
ただし、実在の物とは異なる点が2つあった。 
まず、ひどく幾何学的な形状をしているコトと、──その色。 
鍔は金。刀身や柄も深緑。青サビにでも覆われたと見まごうばかりの深緑。 
男が腕を振り回しているせいで千歳が窺い知れた、これらの形状および色彩は。 
武装錬金の特色だ。 
そして武装錬金は使い手固有の形状を成し、一人として同じモノを持たない。 
すなわち。 
今、男の肘を貫いている物は。 
(シークレットトレイル!?) 
千歳は話に聞く、一振り限りの忍者刀の出現に目を見張った。 
その耳へくぐもった声が届いた。 
具体的に例示するなら、映画館で扉越しに聞く音声を引き合いに出すのが適当か。 

響いているが、何か決定的な遮蔽物のせいであまり大きく聞こえぬ特殊な声。 
『……思わぬ騒ぎに出くわしたか』 
だが間違いなく根来の声だ。 
しかし彼がどうしてこの山中にいるのか。 
単純に考えれば、尾行対象のホムンクルスがこの山に来ていたとなるが……
千歳が考えかけた時、シークレットトレイルが刺さった腕の下で、一条の稲妻がばちりと爆ぜ 
た。 
広場は雷鳴を浴びたごとく緑の光に満ち満ちて、三つの影を地面に走らせた。 
一つは千歳の。一つは男の。そして最後の一つは、怪奇極まるありえぬ物の。 
その正体は、腕。 
地面より、男に刺さったシークレットトレイルめがけて、猛然と伸び──
『私は奴を追わねばならない。手短にすませるぞ』 
音もなく抜き取った。 
異物を除かれた男の腕から一気に血があふれ出て、薄汚れた白いスーツが朱に染まる。 
腕はシークレットトレイルもろとも森の土くれに没し、稲光と共に血の霧をけぶらせる。 
そしてその現象に、千歳は物理学者のような冷静な回答を見出していた。 
シークレットトレイルの特性は 

”物体に斬りつけるコトで、亜空間への入り口を開きそこへ潜む”
”現空間で接触している物体同士の間は、亜空間において行き来自在”

だが、制約もある。 

”潜めるのは、シークレットトレイルの創造主たる根来本人か、もしくはそのDNAを含んだ物のみ”

この日の朝、根来が自らの着衣に髪の毛を縫いこんでいたのも、それによる。 
そして血の霧がけぶったのは、刀身に付着した男の血が、亜空間侵入の際に弾かれたから。 

千歳が分析している間にも、状況は動いていく。 

「ク……ッ クゥエエエエ!!」 

自らの血でぐしゃぐしゃになった泥を踏みしめ、男が叫ぶ。 
千歳に対する溜飲が収まりかけた所への不意打ちは、許しがたいコトこの上なし! 
甘美なる充足へ昇華し損ねた情念が! たちこめる湿った鉄サビの匂いが! 
ある意味で澱みなき純粋可燃物の心を焚きつけ、黒のかがり火へ変じて燃え盛る! 
もはや血と呼ぶのもおぞましいダークレッドの灼熱液が、全身くまなく、駆け巡る! 



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