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第14話 【休】いんたーばる (1)



月光が木々の隙間をくぐりぬけ、真っ暗な広場にぽつりぽつりと薄白い幕を落としている。 
それを避けるように影が広場を蠢いて、やがて千歳の前に直立した。 
「一段落といった所か」 
根来である。「忍者」という色あせてほの暗い言葉でしか形容できぬ彼は、光とつくものは日 
光はおろか、夜に木漏れるささやかな月光すら浴びたくないらしい。 
その手から角ばった金属がひゅっと放られたが、手裏剣ではない。千歳の核鉄である。 
「ええ。助かったわ」 
千歳はやや力の抜けた腕でどうにかキャッチすると、礼を述べ、胸中で密かに呟いた。 
(本当に。もしあなたが来なければ、私はまた何もできない所だった) 
その顔が少し曇りながら本題を切り出したのは、疑問だけでなく自責も混じっていたせいだろう。 
「でも、どうしてあなたがここに」 
「愚問だな」 
根来はマフラーを肩口に跳ね上げた。 
気取っている訳ではない。 
彼の足元はこの時、さきほど男が流した血ですっかりぬかるんでいたのだ。 
何かの拍子でマフラーにつくのを嫌って、跳ね上げたのだろう。 
千歳は目ざとくそういう機微を読み取りながら、思った。 

(例えついたとしても、シークレットトレイルの特性なら亜空間に入った瞬間、落ちる筈では? 
現にさっきは、刀身についた男の血が消滅してたのに…… ひょっとして単なるきれい好き?) 

と。 
が、それは本題ではないし、本題において的確な返答をせんと務めているのが千歳でもある。 
「……ホムンクルスがこの山に?」 
「正確にはそうでない可能性もあるが。ともかく途中で見失った」 
根来の言によると、影に潜んで尾行している内、さっきの男の叫びが聞こえたという。 
すると尾行対象は、逡巡した後、にわかに上に跳びすさった。 
以降まったく気配が補足できず、やむを得ず、しかし関連性も疑いつつ声のする方にいくと、 
件の騒動に出くわしたと。 
千歳は首を傾げた。根来が相手を見失うというのも不可思議な話である。 

彼女が抱く一種のひいき目を差し引いたとしても、尾行をしくじるような男ではないし、第一、 
電車の中で見せた尋常ならざる聴覚を持っている。 
にも関わらず、根来の追跡は失敗した。。 
千歳にも、尾行対象がホムンクルスか信奉者か判じがたいが、ただ得体の知れない不気味 
さだけは感じられた。 
人であれ人外であれ、飛行能力を有している可能性すら疑った。 
でなくば、根来の耳の届かぬ所へ一瞬で離脱した説明がつかない。 
それに根来も思ったように、男との関係があるかどうかも気にかかる。 
どうも前途は色々、多難そうである。 
むわりと立ち込める不快な暑気の中で、木に背中を預けている千歳は軽くため息をついた。 
それをきっかけにしたのか、鼻腔を満たす空気に臭いが蘇った。 
広場に点在するミイラの臭いや、ゴミ特有のくすみ、血の粘っこさ。 
もっと凄惨な臭いを知っている千歳だが、そろそろ開放されたい頃合だ。 
全身を湿らせている汗から、体臭が周囲に拡散するのも好ましくない。 
敵に察知される可能性うんぬんとかではなく、一人の人間のエチケットとしてだ。 
ちなみに千歳と根来は潜入捜査が終わるまで、ホテルに宿泊するコトになっている。 
部屋はいうまでもなく、各自別々。 
色々苦しい戦団にも配慮はあるのだ。 
そして千歳はこの日の事後処理を終えたら、恐らくホテルにて湯けむりへ身を晒すだろう。 
平素外に向けて跳ねている後ろ髪も、その時ばかりは濡れそぼり、うなじにびったりと張りつ 
くだろう。 
艶やかな桜色に上気した白い肩から、透明なる湯の粒が間断なく滴り落ちるだろう。 
まるで一流の彫刻師があつらえたような背骨や肩甲骨のくぼみは、降り注ぐ温水の中でか 
えって肉感を引き立てるだろう。 
しなやかな足は幻夢の如く湯気の中で立ち回り、シャワーノズルは鎖骨の下で息づく二つの 
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
  
正に美観。湯上りにバルログが来れば布陣はますます万全の様相を呈するだろう。 
だがバルログなんてものは所詮偶像である。よって本題に戻ろう。 
「ところで、尾行の続きは」 
「撒かれた以上、闇雲に動いても仕方あるまい。元々、どういう訳か社会に溶け込んでいる 
奴が、今さら暴挙を企てる公算はそもそも少ない。この山に何らかの用があると分かっただ 
けでも収穫だ。よってしばらくはこの場に留まる」 
前髪を軽く触りつつ、根来は答えた。 
そういえば先ほどの戦闘で、男に髪の毛を切られていたのを千歳は思い出した。 
ひとまず怪我の有無を尋ねると、根来は「ない」とだけ手短に答えた。 
意外に尾行の失敗は気にしていないらしい。 
しかしよく考えると、言葉の最後がやや不明瞭である。なぜ、次の行動に移らないのか。 
その時、広場の中央で縛られた男がうめき声を上げた。 
「……そうだ。思い出したわ。収穫ならたぶんもう一つ」 
千歳はよろよろと立ち上がると、歩を進めた。その最中でも思惑は次から次に沸いてくる。 
(運が良かっただけね。私が生きてこれを手にできるのも) 
失点が多すぎた。 
核鉄を弾き飛ばされたコトからしてそうだし、地の利を活かして優位に立ちながら男にトドメ 
を刺さなかったのも、拘束すらしなかったのも、後方に飛びのく際に鞭を捨てなかったも、自 
らの甘さのせいだと千歳は思う。 
照星や防人がこの場にいれば、善戦を称え励ますだろう。 
気の荒い火渡でも、ぶっきらぼうな口調で不条理を説くに留まるだろう。 
「千歳は充分すぎるほどよくやっている。だから些細なミスに囚われるな」 
という思惑を彼らが持っているのを千歳は十分理解している。 
だが、理解と感情は別物だ。 
かつて起こした惨劇で傷つけてしまった彼らから温かい言葉を享受するのは、自身の咎から 
から逃れようとしているようで、絶対にしたくないコトなのだ。 
そう思い、ただ無力感にかられて、ノド奥に湿った綿がへばりついているような感触を覚えつ 
つ、千歳は立ち止まった。 
ポケットからハンカチを取り出し、汚れていないのを確認する。 
そして落ちている物を拾い上げた。 
「何だ。それは」              影抜忍者出歯亀ネゴロ 前髪が少し寂しいお年頃

根来は怪訝な顔つきをしつつも、千歳に近づいてきた。             
「もしかすると、これが麻生部長を殺した凶器かも知れないわ」 
先ほどの戦闘で男が投げ、根来が弾き飛ばした果物ナイフを、千歳は指差した。 
血がまだら模様のように柄へと染みついている。 
あくまで「ついている」というレベルで「塗れている」というものではない。 
千歳がさきほど、赤黒いと認識したのは、距離ゆえか非常事態ゆえか。 
実際は黒ずみかけている感じで、付着した時期がそう遠くないコトを物語っている。 
男の流した新鮮な血もわずかに付着しているが、鑑定に影響はないだろう。 
根来はふむと頷きながら、刃の部分に目をやった。 
そこは柄とはうって変わって、まったく血がついていない。 
ただ、なにか半透明の液が塗りたくられ、蒸発したような曇りが一面に付いている。 
「妙な匂いがするな」 
根来はいうが、千歳にはよく分からない。恐らく彼の嗅覚も人並み外れているのだろう。 
「肉食動物の唾液の匂いに似ているが、少し違うようだ」 
「唾液?」 
今度は千歳の顔が怪訝を浮かべた。犯人が刃についた血を舐めたとでもいうのだろうか。 
もっともそれは推測の域を出ないし、そもそもナイフの血が麻生の物と確定した訳でもない。 
最良なのはナイフを一旦警察に預け、鑑定を依頼するコトだろう。 
と千歳は提案し、更に思い出したように根来へいった。 
「もちろんあなたがいった物も依頼してあるけど、急いでも明日の午後までは……」 
「そうか。ところで」 
愛想のない声は千歳の報告をあっさり遮った。 
「真・鶉隠れの時、貴殿はどうして動かなかった。まさか腰が砕けた訳でもあるまい」 
意味を図りかねたのか、千歳は少し瞬きをした。 
が、すぐ答えた。くすんだ気分を払拭したいのか、やや口数は多かった。 
「確かに、動こうと思えば動けたけれど、あなたが私を避けるよう刀を投げているなら、迂闊に 
動く方が危険だと思ったから」 
「もし、そうでなければ?」 
「じっとしてても同じ。いつかは当たるから。違う?」 
「相違ない」 
口元を綻ばせ、根来は頷いた。 
さっき男を倒したときに笑わなかった彼が、どうしてここで笑うのか。 

同僚が怪我しかねない状況を作り出しておいて笑みを浮かべられるあたり、彼の精神構造 
は、他の戦士とは良くも悪くも一線を画しているようだ。 
だが千歳は彼を批判しようとは思わない。 
任務が遂行され、多くの人間が助かるのならばそれで構わない。 
もし彼女が根来のせいで傷を負ったとしても、なんら恨みを抱くコトはないだろう。 
そういう前提が、千歳に多くを語らせた。 
語調にはどこか、つつけば崩れそうな脆さがあった。 
「シークレットトレイルが私の背後から射出されたら、刀身はともかく鍔の部分が私の体につ 
かえてしまって、真・鶉隠れは不発に終わってしまう。そう、鍔みたいな平べったい部分が私の 
体を貫く威力があるなら、最初のあなたの攻撃は、男の腕を吹き飛ばしてそのまま真・鶉隠 
れに移行していた筈よ。でも実際は違う。あなたが男の肘からシークレットトレイルを回収し 
たのがその証拠。そう見たから私はじっとしていたの」 
根来は少し目を丸め、ほうと嘆息した。 
嘆息には、「嘆く」と「感心する」の二つの意味があるが、この場合は後者だろう。 
「そしてあなたの性格なら、私の推測以上に技を把握しているだろうから、私を狙って攻撃を 
しくじるような真似もしない筈。だから私は動かなかった。動くのは危険だったから。もしシー 
クレットトレイルが当たれば、速度も狙いも狂って、私のせいでしくじりかねないから。 
それにこれも推測だけど、真・鶉隠れの目的は飛刀で相手を仕留めるコトではなくて、それに 
気を取られた相手に潜り込み、背中から狙い撃つコトではないかしら」 
「……よく考えているな」 
淡々とした感想を根来は口走った。 
しかし合っているかどうかまでは言及しないし、千歳を褒めもしない。 
おおよそ人間らしい感情が伴っていない。 
千歳はふと、朝方からの疑問の答えをみたような気がした。 
(電車で子供から針を隠したのは、心底から任務を優先したせいかも知れない) 
彼が自らに要しているのは、錬金戦団という一組織の、更に一つの歯車として明瞭に回転 
できる最低限の機能のみ──…と千歳は見たが、あながち外れでもないだろう。 



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