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第18話 【霧】きり



昼休みが終わった。 
すでに事務所の自席に戻った根来、午前と変わらぬ調子でデータ入力をやっている。 
姿勢よく左手で伝票をめくり、右手でテンキーをカタカタカタ。 
あたかもその作業のために生まれた機械のごとく精密且つ迅速に、同じ作業を繰り返す。 
入力が終われば次はめくった伝票を元に戻し、今度は赤ペンを手にした。 
確認である。 
根来は伝票と先ほどEXCELに入力した数字を交互に見やり、淡々とチェックマークをつけ 
ていく。 
間違いはなかったが、吊りあがった無愛想な目にはさほどの感嘆も浮かばない。 
左手薬指と人差し指が、CtrlキーとSキーを同時に押した。上書き保存のショートカットである。 
EXCELを閉じ、今度はメールの下書きファイルを起動。 
ともすれば多くなりがちな『宛先』はともかくとして、件名や本文の、日付に関わる部分以外は 
あらかじめ入力し、使いまわせるようにしてある。 
不精というなかれ。省ける手間を省くのは企業の命題なのである。 
もっとも根来の場合は、企業の命題うんぬんよりは生来の合理性がさせているのだろうが。 
今度は左手薬指と人差し指、AltキーとSキーを同時に押した。 
こちらはメール送信のショートカットである。 
昼休み終了から10分も経たないうちに一連の作業を終わらせれたのは、入力のスピードも 
あるが、無駄なき工夫が大いに関係しているのだろう。 
さて、根来の周りが若干やかましくなったのは、彼が使用済みの伝票を、今は不在の千歳の 
机に置いた頃である。 

「黒澤工場長、あかん、やっぱりネジがないわ。でもニビイロヘビのシールはあったわ」 
「天倉くん、ほんまか!? だってわし昨日一日中探し取ったけど見つからんかったぞ」 
「カニさんの部材の段ボールが二階の机の近くにあったやろ。その後ろに隠れとった。 
分からんはずや。俺もゴキブリをブチ殺そうとしてぐうぜん見つけたからな」 
工場を見回ってきた副部長が汗を拭き拭き報告した。 
「そうか。お疲れやったな。しかしネジがあらへんと困るな」 
工場長は冷たい麦茶を注ぎ、副部長に差し出した。 
「え、ネジだったら朝納入されてましたよ。伝票もここに」 

女性事務員が伝票を取り出し、一生懸命見せた。 
「雛咲くん、そりゃNJ-AX2091YZいうて小さいヤツや。ルリオオカミくんの腰を止めとるヤツ。 
無いのはな、アカネタカちゃんの羽とかリョクオオザルくんの関節とか止めとる大きなヤツや」 
「ああ、NJ-CX2083VPとかいう」 
副部長は麦茶から口を離し、大きく頷いた。 
「それや。その2083があらへん。貸し倉庫も見てきたけどやっぱなかった」 
「マズイの。そや、街にドンキあったやろドンキ。そこでネジ買うてくるか?」 
「いやいや工場長、それはあかへん。むかしそれやったらバンダイさんにえらい怒られた。 
純正品じゃないネジつこたせいで割れて子どもがケガしたら責任取ってくれるんかァァッ! 
って電話かかってきてあとは平謝りやわ」 
「しゃあない。バンダイさんは楽しい時を作る企業やからな。血が流れたら元も子もあらへん。 
第一、今日の生産計画だと……ざっと1万本以上いる。お店やさんで買うのは無理や」 
「そやな」 
「副部長!」 
「おお、ヤスくん」 
「久世屋です。久世屋 秀」 
やや幼い顔立ちを除けば、これといって特徴のない顔立ちの青年だ。 
彼を先日の部長殺害の容疑者としてみなしている根来だが、なんら一瞥もくれず淡々と仕事 
を続ける。 
「ゴメンな。でもヤスくんのが呼びよい。で、いつものように吉報があるんか」 
「ええ。ネジ納入されました! エレベーターに乗せといたので、もうすぐラインに乗ります」 
「おお、いつもありがとな。やっぱあんたは気が利くコや。よし、じゃあみんなに頑張って作っ 
てもらうか!」 
まさか目の前にいる部下がホムンクルスなどとは知るべくもなく、副部長はのん気な調子だ。 
「でも段ボールがありませんよ。段ボール乗せるパレットもちょっと少ないですし」 
久世屋も物腰は柔らかく、凶暴無比なるホムンクルスには思えないが……
「うーん。回らんなぁ… しゃあない。とりあえず作っとこう。その間にわしが段ボールやパレットを 
どうにかしとく。副部長はあれや、仕損じ(壊れて使えなくなった部品の事)の処理しといてくれ。 
書類に金額をまとめてくれたら、すぐ捨てるように現場へいっとくわ。もうすぐ棚卸やからな 
仕損じがあると数えるのが面倒や。もうポーイと捨てようや」 

工場長の提案に、副部長も大いに頷く。 
「ポーイと。しかしパソコンは便利やな。部品の名前入れるだけで部品の名前とか単価とか 
一気にでよる。前までは単価表見ながらでえらく疲れたけど、楽になったわ」 
「どういう仕組みなんでしょうねぇ。…怖くて聞けないけど」 
雛咲という事務員が、そろぉっと根来を見た。彼は黙々と入力作業に没頭している。 
副部長のいうフォーマットは、実は根来の作なのだ。 
彼は午前中、伝票を1時間で片付けた後に「部品の単価表」を雛咲に要求し、それを受領 
した20分後にはもうできていたというから、彼のEXCELに対する精通ぶりが伺える。 
ただし技術はあれど愛想がないのが根来だ。 
誰に対しても、刺すような目線を投げかけて、話し声も陰々滅々。 
雛咲が根来を恐れるのもむべなるかな。 
うら若き女性から見れば、根来は手馴れた強盗か殺人者のように見えるのだろう。 
そんな人間は得てして企業の中で大成しないのが定めだ。 
一応新入社員なので、いずれ歓迎会を企画されるのだろうが、 
「わざわざ金を払ってまで拘束されるいわれはない」 
と真っ向きって言い放ち、他の社員を敵に回すのだろう。 

ちなみに、根来作のフォーマットに用いられている関数(数式みたいなもの)は以下の通り。 

=IF(ISERROR(VLOOKUP(B3, 価格表!$B$6:$C$10, 2, FALSE)),"",VLOOKUP(B3, 価格表!$B 
$6:$C$10, 2, FALSE)) 

ちなみに  

=IF(B3="","",VLOOKUP(B3, 価格表!$B$6:$C$10, 2, FALSE)) 

てした方が多分、ファイルの容量は軽くなる。もっというなら、 

=SUMIF(価格表!$B$6:$B$10,B3, 価格表!$C$6:$C$10) 

でもよし。なお、Ctrl+;で今日の日付が出るし、Ctrl+Dなら上のセルをコピーできるし、Alt+S 
hift+= ならSUMが出て、イルカを消したきゃ、236+Pの波動拳で殺れる。EXCELは便利だ。 

駅前では霧が立ち込めていた。 
さながら大瀑布のふもとで轟々とけぶる水滴のごとく、空気を薄暗く冷やしていた。 
ほんの1時間前まで太陽が照り付けていたのが嘘のよう。 
そして、奇妙な現象が起こっている。 
駅舎備え付けの大きなデジタル時計は故障中。赤い文字がアトランダムに明滅している。 
駅前ロータリーの向こうにある大通りも渋滞している。信号がおかしいらしい。 
タクシー乗り場でも、運転手達が首をかしげている。備え付けのカーナビがことごとく映らない。 
携帯電話すらつながらない。どころか、駅前から街へ行けないと訴える人までいる。 

『え〜 毎度ご乗車いただきありがとうございます。ただ今、列車ぁ〜信号の故障の為、し 
ばらく発進を見合わせております。お急ぎのところ誠に申し訳ございませんが、今しばらく、 
お待ちください〜』 
電車の中にいた千歳が「仕方ない」という顔で視線を落としたのは、警察より入手した麻生 
部長殺害の番における久世屋の行動記録。彼のアリバイを雄弁に物語っている。 
されど千歳たちの調査では、彼はホムンクルスでほぼ確定。犯人にもっとも近い男だ。 
とすれば、久世屋のアリバイ工作には電車が使われた公算が大きい。 
考える千歳の横を、車掌が通り過ぎた。せわしない足取りには焦りが見える。 
それは信号機の故障のせいだろうと分析しつつ、横目で見やった濃紺の制服に千歳は別な 
感想を抱いた。 
「アレを着てみたい」、と。 
密やかなる情動は、けして趣味ではなく、あくまで使命感に基づいたものだ。 
今は電車を使ったアリバイの調査中。 
電車といえば駅ではないか。駅員の制服をまとい鉄道事業に従事すれば、電車のおもわぬ 
活用法が分かり、アリバイ崩しの手がかりになるやも知れんし、可愛い帽子もかぶれる。 
千歳は断じて、コスプレなどはしないのだ。 
ただ、潜入する以上は──根来曰くの始計術よろしく──周りの環境に服装を合わせるべ 
きだとは思っている。 
遊園地に潜入するなら、うさぎのぬいぐるみに入って風船配る。 
モスバーガーに潜入するのなら、青と白の縞模様の上着と、膝くらいまである薄茶色のズボン 
を履き、黄色いサロン(注・エプロン。空を飛ばないものだけを指す)を着用してからバンダナ 
をして、厨房の奥でサラダを作る。そんな決意を胸(85)に秘めている。 
それがちょいと漏れ出しているだけなのだ。 
ちなみにモスでの帽子は、店長もしくはそれ並みの責任者ぐらいしかかぶれないので、千歳 
が潜入する場合はかぶせて貰えないだろう。 
嘘だと思うのなら一度、モスにいけばよろしい。さりげなく厨房を覗けば、帽子の奴は 
「へぇ。責任が取れるのなら小指だって詰めますぜゲヘゲヘ」 
と世慣れた顔をしてて、小指もないのがお分かりになるはずだ。 
分かったら何か買って食べなさい。 
玄米フレークシェイク・グァバアロエとか食べなさい。アロエがぶよぶよしてておいしいよっ! 
さてここより、「野菜の原産地を農民の笑顔の写真付きで明記しておきながら、切羽詰るとス 
ーパーで野菜を調達する詐欺まがいのモス商法」もしくは「グランダー武蔵で立木文彦演ず 
るドクターカネリのイカレたテンションの素晴らしさ」について言及したくもあるが、千歳の話に 
戻ろう。 
実は根来より身長が1cm高い千歳の話に、戻ろう。 
ニュートンアップル女学院に潜入する時だって、苦渋の思いで女教師ルックを諦めて、セー 
ラー服を着用したのだ。スカーフのひらひら具合が決め手となったというから、純然たる使命 
感がひしひしと伺えよう。 

駅前に視点は戻る。騒ぎを、バス亭備え付けのベンチで楽しそうに見る男が一人。 
胸から下げた2枚の認識票をジャラジャラと弄んでいるその男は、形容するなら、欧州的な美形──
肩まで垂らした金色の髪や、切れ長の目と女性のように白い肌。年のころは17〜8。 
身に着けた水色のジャケットとGパンは、いかにも大量生産品という趣だが、不思議と安っ 
ぽく見えないのは、すらりとした長身のせいだろう。 
彼はくつくつと笑いながら、パールグレーの認識票を力強く握り締めた。 
霧が濃くなり、駅前の異変は更にひどくなった。まるで男の動きに呼応するかのごとく。 
デジタル時計の文字はつぶれ、黒い画面が真っ赤に滲む。 
完全に停止した携帯にパニクる人間が多数。 
霧の向こうからはクラクションの音がこだまする。 
男は満足そうに認識票から手を離し、代わりに懐から何かを取り出して弄び始めた。 

その形は六角形。手に収まるほどの金属片である。 



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