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第22話 【縁】ふち



時は移ろい午後7時。工場の近くにある山。 

濃緑の波がなだらかな勾配を経て、平地でしばしうねっている。 
おりしも当夜は無風。一帯は淀んだ熱気の中にある。 
灰色のイワシ雲も、中天に立ち込めたままほとんど動かない。 
雲間の縁から金の月光が降り注ぐのも、本当にわずかな時間。 

山の頂上よりやや上空。 
うっすらと光芒を帯びて、蝶の羽が浮いていた。 
アゲハ模様の羽が二枚、並んで浮いていた。一枚につき人間とほぼ同じの羽が。 
標本から胴体をむしりとって、そのまま宙に浮かべたような格好で浮いていた。 
点描を打ったように取り止めがなく、ザラっとした質感のその羽は、月が雲に覆われた途端、 
闇に没した。 
そして羽のあった辺り。正確には、羽と羽の間。蝶の胴体がある部分で。 
「月、か」 
金髪の男が一人ごちた。 
「バタフライ殿ならば追うだろうか。それとも、高みゆえ相応しいと捨て置くか」 
彼は空を熱心に見ていたが、一転。視線を下に移した。 
「山中もしくは河原、廃屋。騒ぎを嫌う戦団の連中がよく選ぶ決戦場所だ。だから張り込ん 
でいたが……予想よりも早い上に」 
認識票を握り締め、しばし瞑目。 
「あの女子社員の話より多いな。1つは広い場所に佇んでいる。そこへ向かってもう1つ。同 
族だな。贈り物を無事に受領したようで一安心だ」 
ブツブツと呟く。 
「残る1つ。これは発動中で、同族の後ろをつかず離れず動いている」 
傍から聞けば意味不明な呟きだ。 
「戦士は2人、か。どうやら数の上では対等だな」 
我が意を得たりと笑う男から枝葉一層を挟んだ下の部分。山の頂上で、何かの気配が動く。 
闇の中で、グルグル光る2つの眼差しが空を見た。出番を伺うように。 
円の縁から滲む光は、ゆらりゆらゆら、闇に尾を引く。 

俺はホムンクルスだ。 
いうなれば昨日からガケっ縁というところの。 
まず、昨日仕事が終わりかけた頃、ディスクアニマルの組み立てを命じられた。 
月末だからね。生産計画の帳尻を合わすのに誰も必死なんだ。 
根来さんも駆り出され、結果、徹夜だ。 
確かにディスクアニマルは組み立てるのは楽しい。 
電動ドライバーの磁石部分にネジを引っ付けて、グィーンと回して止まる時の感覚はいい。 
そーいや、あの電動ドライバーは備品なのか? 十万円以上しそうには見えないけど。 
とにかく、作るより遊ぶほうのが楽しいわけで。 
徹夜して作って、また仕事。ああ眠い。 
でも、魂は込めて作ったさ。愛されないで生を受けたら、ディスクアニマルが可哀想だ。 
そんな俺に突然の知らせ。 
いやはや。 
まさか根来さんと千歳さんが、ええとなんだったか。そうそう。 
錬金の戦士だったとは。 
気づいた後に呼び出しの手紙を受けて、また驚いた。 
よりにもよって、あの広場とはねぇ。 
数日前、俺は迷うことなくアイツにナイフをやった。 
鼻の大きな浮浪者に。少し前から、森を徘徊してるのは知ってたし。 
広場の真ん中にナイフを埋めてくれた時は、本当に嬉しかった。 
もし見つけられても、アイツに罪をなすりつけられそうだったから。 
で、一昨日だったかな。様子を見にきたら、すごい物音がしてた。 
ひょっとしたら警察がアイツを連行しに来たのかと思って、俺は上空40mまで逃げた。 
もし警察と遭遇したら言い訳が大変だから。 
思い返せばあの時に、千歳さんか根来さんの手にナイフが渡ったかも知れないね。 
フフ。 
あの時といえば、今と同じように尾行されていたのかな。 
いわれて初めて気づいたけど、集中すると気配がすごく読める。 
どんな原理でやってるんだろ。俺にも似たようなコト、できるかな。 
…………ん? ちょっと進行方向を変えたような? 気のせいか? 

亜空間と現空間の縁は、水面下のように景色が曲がりくねっている。 
根来はそのすぐ下を静かに進んでいたが、突然立ち止まり、少しだけ思案にくれた。 
やがて、──現空間における物体配置を元にした話になるが──木の根へと向かった。 
潜り込んで、幹の中をスルスルと登っていった。 

千歳がいるのは、山道から少し離れた森の広場。 
かつて鷲尾と邂逅し、不意の戦闘が巻き起こった所といえば分かりやすいだろう。 
場所が場所だけに掃除する者はいるワケもなく、以前同様、動物の死体やゴミなどが所構 
わず散乱している。 
それらのすえた臭いが夏の暑気にあぶられ、吐胸をつかんばかりなのだが……
千歳は核鉄の縁をつるりと撫でると、深く息を吸い込んだ。 
戦闘に備え精神を落ち着かせる動作だ。 
はてさて。 
臭気に満ちた場所でそれをやる胆力を褒めるべきか。それとも有効性を疑うべきか。 
小さな背が木肌に預けられる。 
沈鬱ともいえるほど静かな顔だ。 
いつもと変わらないように思えるが、千歳には一つだけ変化が生じている。 
着衣だ。 
スーツでも再殺部隊の制服でもなく、白いツナギを着ている。 
一見野暮ったく見えるが、千歳のシャープなラインを忠実に表現しているので、製作者に謝 
意を示すべきだろう。 
はだけた胸元から覗く黒いTシャツ。 
わずかに幅員を広げるポケット周り。 
白樺のような両足をカーテンのように覆い隠すズボン。 
厚手の布地に覆われているというのに、なおも細く伸びやかなウェスト。 
これらを描写しているのは、10巻12ページ2コマ目の 

口をヘの字気味にしている千歳」 

に和んだからではなく、単に風体の有りようを描く必要性に迫られたからである。 
さてこれら、以前の戦闘時に来ていたモノに見えるが、若干違う。 
汗にしどけた後ろ髪の付近から、フードが垂れているのだ。 

なぜこのような変化を施す必要があったのか。 
千歳は昼頃、戦闘に備えてという名目で1時間の猶予を求めたが、それと関係しているのか。 
(彼は少し前に一度負けている) 
さりげなく胸元のボタンを留めて、千歳は視線を遠くに移した。 
(でもこの方法なら、以前と同じ負け方はしない筈──…) 

やがて広場に一つの影が来訪した。 

彼はスーツを着ている。ごく一般的なベージュ色のスーツを。 
「さて。火曜サスペンス劇場なら丁々発止、俺が犯人か否かやりあう所でしょうが」 
丁寧な調子で喋るは久世屋 秀。やや童顔の青年だ。 
「けれども俺はホムンクルスだ。犯人であろうとなかろうと、殺されるのには違いありません。 
ならお互い、つまらない腹の探り合いはやめませんか? 俺はホムンクルスだ。そして、部長 
を殺した犯人でもある。それを立証できるようになったから、呼び出したんでしょ?」 
「ええ」 
低声で呟くと、千歳はヘルメスドライブを発動した。 
右手首に着装されるは、巨大な六角形。レーダーと瞬間移動能力を搭載した硬質の楯だ。 
それを無邪気に眺めながら、久世屋は話を切り出した。 
「で、いつ頃ですか。あなた方が俺を犯人だと疑い始めたのは?」 
千歳は一拍置いた。何かに気づきつつも、それを隠した風情がある。 
「赴任初日よ」 
「ほう。さすが鋭い。理由は?」 
「あなたは、私に仕事を教えた後、こう言った」 

『あ、いや、死んだ麻生部長の受け売りですよ』 

「よく分かりませんね。本当のコトじゃないですか?」 
「朝礼を聞いていなかったようね」 
「え」 
「工場長からは、麻生部長が行方不明だと伝えられていた筈よ」 
「あ……なるほど。だから死んでると決めてかかった俺が、犯人だと」 
「正確には、ホムンクルスか信奉者。そこで警察に調査を依頼したわ。すると」 

捜査用に提出された社員の髪の毛のうち、久世屋のモノだけが消失しており、彼がホムンク 
ルスであるコトが確定した。 
「ほほうなるほど。でも俺の正体までは流石に分からないでしょう?」 
「いいえ。ついさっきだけど、回収したナイフの鑑定結果を聞いたから」 
「お。また鑑定ですか。探偵なのに警察に頼りっぱなしってのは斬新ですね」 
皮肉とも感心ともつかん言葉を、千歳は流した。 
「チスイコウモリ。それがあなたの正体ね?」 
コウモリといえば吸血というイメージがあるが、実際に吸血を嗜むのは約1000種類中、わ 
ずか3種類。 
チスイコウモリというのはそれらの総称だが、中でも人間や家畜の血を吸うのはナミチスイコ 
ウモリ1種類だけだ。 
「あなたは部長を刺した後、ナイフから血液を舐めとった」 
「ハイ。まったくその通り。元の習性だから、部長を殺した後の楽しみでもありました」 
チスイコウモリの吸血方法は、『舐める』コトにウェイトが置かれている。 
ドラキュラのように牙を突き立てたりはしないのだ。 
まず、寝ている家畜に忍び寄り、牙で皮膚に傷をつける。 
次に傷口から流れる血をピチャピチャ舐める。 
「何かで読んだんですけどねぇ、チスイコウモリの唾液には、血液の凝固を妨げる酵素が含ま 
れているようなんですよ。血をずっと舐めていられるのはそのおかげ。ま、家畜の寝返りで 
圧死するコトもしばしばですが」 
久世屋の調子、実に軽い。 
「で、酵素がナイフについてて正体がバレたんですね。しかし、どーして残っているのか。俺 
は念入りに洗ったんですよ。2週間ぐらい練習重ねた上で」 
久世屋はやれやれといった風に肩をすくめて見せた。 
「髪の毛は消滅するのに、どうして洗い落としたはずの酵素がナイフに残っているんでしょう」 
謎だ。まったくの謎だ。 
「ホムンクルスにはまだまだ解明されていない神秘がたくさんなので、仕方ないですけど」 
千歳も頷いた。 
ホムンクルスにはまだまだ解明されていない神秘がたくさんなので、仕方ない。 

「いやはや。俺はどうも、周りの状況に合わせるのが苦手でして。というか他人の惰性まみ 
れの行動に呼吸を合わせるのが嫌でしてね。ちゃあんと作り込まれたモノを使うのは得意と 
自負してますが。普段から周りに無関心で、かつ、自分の欲求しか追ってないと、ナイフやら 
迂闊な一言やらで、ボロを出してしまうんですね。その点、改めるべきでしょうか」 
素直に自白するその態度、尋問側の千歳より落ち着き払っている。 
「ところでアリバイですが、どの様に崩されましたか?」 
事件当夜は銀成市にいて、距離的には犯行時刻に工場にはいられないというアリバイのコトだ。 
「それは──…」 
千歳はつまびらかに説明した。                   影抜忍者出歯亀ネゴロ 
久世屋はしばし真剣に聞き入り、                     ↓ 現在地 
「名推理。でも」                                枝の中。千歳の頭上の。 
話が終わるとニタリと笑った。 
「電車が事故で止まったりしたらどうしますか。計画は一気にダダ狂いじゃないですか」 
余裕綽綽だ。 
「だいたい、殺人なんて人生の一大事ですよ。ばれたらその後、何十年も拘束される。なら 
ば!! 就職試験並みの気迫と練習をもって挑むべき!! 運否天賦に任せちゃあダメ!」 
気迫も充分だ。 
「俺は思うんですよ。完全犯罪を企む人の心情を。完全なんていいながら、どうしてろくに練 
習もしてないコトとか、偶然頼りのコトをやるのかってね。だから失敗するんです。人生が掛 
かっている正念場で、下手に自分の優秀さを誇示しようとして、結果、間抜けばかりを晒して 
る!! けれども俺は違う!! 俺は違うんですよ!!」 
自分が彼らより優秀と言いたいのか? 
「全然違いますね。むしろ逆ッ! 自分の領分はよーく分かってる! 事務処理に長けてても 
小難しいコトを考えるのは苦手だって分かってる!」 
胸の前で拳をガっと握り締め、熱弁をスタートさせた。 
「だから俺は練習した! そして見事やり遂げた! コウモリに変身した状態で、この街から 
銀成市ってところまで 

電車並みの速度で飛んでアリバイを作った!!」 

「え?」 
千歳は耳を疑った。 

よもやそれがアリバイ工作か。 
だとすれば何を言い出すのかこのホムンクルスは。 
更にアリバイの内容を、久世屋はつまびらかに説明した。終わった。 
「時刻表を眺めたりとかで、トリック練っている間にも、時間は刻一刻と流れていくんです。そ 
の間に、自分の命運が尽きちゃ元も子もありません。だったらちまちま考えるより、すぐでき 
るコトを確実にこなしていくべきじゃないですか! 第一、俺はホムンクルスですよ? 持って 
生まれた身体能力をちゃんと使わない手はないでしょう!」 
がっと詰め寄られて、千歳は少し困惑した。 
ギャンブルが嫌いだから同意できる部分も多々あるが、にしても荒唐無稽というか、駈けずり 
回った時間が無駄に思えて、やるせない。 
あぁだこうだ考えず、さっと呼び出してサクっと倒せば良かったのではないか。 
久世屋も同意らしい。 
「どうしてホムンクルスたる俺の近くにいながら、手をこまねいていたんですか? 
さっさと戦えば良かったのに。もし俺が他の人に危害を加えたら、面目丸つぶれですよ」 
千歳はマジメに説明した。戦団の性格上、証拠を集めないと駄目だったと。 
「なるほど。どこもかしこも惰性まみれですね。厄介なコトは早めに片付ければ傷も小さくて 
済むというのに、手続きだの体裁だの心情への配慮だの、下らないコトに拘って、物事をか 
み合わなくする。挙句、誰かに後始末を押し付ける。苦労のほど、お察ししますよ」 
盗人ふてぶてしいとはこういう状態をいうのだろう。 
千歳と根来の潜入捜査は、久世屋が原因だというのに。 
「千歳さんたちも仕事だから、俺はさっさと自白していきますよ。つまらない意地に付き合わ 
されて、仕事の時間が増えていくってのは、本当ムダで腹立たしいコトですから。なので、 
次は動機について。俺は耳がいいから分かってます」 
にこやかに指摘する。 
「千歳さんがお尻のポケットに入れているテープレコーダーに、俺の動機も録音しましょう。 
自白と揃えば充分な証拠になって、あなたたちも戦えるんでしょう?」 
千歳は務めて無表情だ。 
「大丈夫。壊したりはしません。正体がバレている以上、部長殺しの証拠を消したりしても意 
味はありません。それよりさっさと戦った方がお互いにとっていいでしょう?」 



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