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第006話 「今は分からないコトばかりだけど」 (2)



「が、奴らとコトは構えない。昨晩の戦闘にしたって、アレは最後の1つが懸かっていたからだ。
まぁ結局、侘び代わりとかじゃなく、当面の目的を果たす時間稼ぎのためにくれてやったが」
小札はにぱぁっと笑った。総角の物言いが面白いらしい。
「当面の目的は『もう1つの調整体』が眠っている場所だ。突き止めしだい、最後の割符を奪
還し起動。入手して逃げる」
呟きながら認識票を一撫で。
ヘルメスドライブを発現し、その六角の筺体を頼もしげにぽんぽん叩く。
小札はそんな挙措を楽しそうに眺め続けている。
昨日総角が、「入手したはいいが盗撮はいかん!」と悩んでいたのを知っているからだ。
まぁ、結局彼は3秒ルールを突発的に提唱し、相手をちょっと見て戦闘ないしはそれに準ず
る(ミーティングを除く。プライベートの話が出てきたら困るらしい)行為の途中なら監視しても
いいというコトになった。
策士のくせに変な所で律儀な男である。
そも、先々日の千歳たちに対する不意打ちのしくじりも、「別にだな、せっかく笑った人を斃すの
に気が引けた訳じゃなく、単に好奇心で好機を逃した、一種のうかつさ故だ」らしい。

「ともかく。ヘルメスドライブで突き止めた秋水くんたちの所在を不肖どもが拝聴すれば回避
は確実…… ですが、懸念される難点はそこですねっ。あまりに接触がなさ過ぎれば」
マシンガンシャッフルをマイク代わりに小札は喋る。

”おかしい。奴らはなぜ割符を探しに来ない!? こは何事、こはっ何事ぉー! はっもしや
あいつら既に全部探し終わっていて俺たちの持ってる割符が最後なのでは。ぬぬぬ許せん!
よくも謀ったな、てめぇらはシャアか? シャアなんだな! かくなる上は皆殺しじゃー!”

「と戦士の方々は奮起されるコトでしょう。主にセーラー服美少女戦士のおねーさんが。セー
ラー服も美少女も戦士も合ってますのに、現物から離れすぎておりますおねーさんが」
「つまりだ、しばらく適度に戦士と接触し、こちらも割符を探しているフリをしなければならん。
総ては目的を果たすまでの穏便なる時間稼ぎの為に」
総角は神社の扉を開けた。
「というコトで、ヒットアンドアウェーを得意とするお前の出番だ」
境内と社を繋ぐ5段ほどの階段の前に、少女が横向きに寝そべっていた。
「うぉぅぉおおー うぉぅぉおおー たったらららったぁ」
……なにやら口ずさみつつ。
中肉中背でやや細め、肘まである髪の先にはシャギーが入り、雑草のようにツンツン尖っている。
草色のタンクトップは豊かな丘陵にせり上げられ、余すところなく胸元をさらけ出している。
クリーム色のハーフパンツからはすらりと伸びる血色のよい足。
更に、ハーフパンツには茶色のベルトを通し、ベルトからは銀色のチェーンアクセサリーをぶら
下げているので、いかにもラフな雰囲気だ。
「うぉぅぉおおー うぉぅぉおおー たったらららったぁ おまえとー♪」
……なにやら口ずさみつつ。
彼女は総角や小札には目もくれず、舐めていた。
うぐいす色のメッシュが幾筋も入った茶髪を、赤い舌でチロチロと。
セミの声に混じってなんとも粘膜質な水音があたりに響く。
「栴檀(ばいせん)二人」
「むー?」
栴檀と呼ばれた少女は、階段の下で細い髪束を口にくわえたまま総角たちを見てまばたきした。
透き通ったぶどう色の眼球の中で、黒い瞳孔がまるまると開いている。
目つきはアーモンド形でなかなか挑戦的な印象だが、宿る光はやや気だるい。
「おぉ。栴檀さん方を使われますか。栴檀を本来の読み”せんだん”で名乗ると語呂が悪いの
で”ばいせん”にされている栴檀さん方を。どちらかといえば調整体っぽい栴檀さん方を」
わーわー解説する小柄な18歳を背後に、総角は階段を5段抜かしで飛び下りた。
「とりあえず栴檀。いまからお前は撹乱役だ。行き先──錬金の戦士が行く場所だが、そっち
は都度知らせる。ただし、跳ねつきショートヘアーの妙齢の美人には気をつけろ。接触すれば
最後、常に居場所を把握され、戦士の餌食となる。見かけたらすぐ逃げていい」
「うむうむ」
桜色の唇から立ち上る音は返答なのか。はたまた髪を噛んでる音なのか。
どちらにせよやる気がまるで感じられない。
「ふむぅ。これは眠っておりますね」
小札は階段の最上段から分析した。
階段を降りないのは、きっと小柄ゆえに高い所からの景色を手放したくないのだろう。
「なら香美(こうみ)の方でいい。分かったか? やれるな? 撹乱というのは、敵の前に出て
行って、暴れててきとーに調子を乱してから逃げるコトだぞ」
「やだ」
口元から髪が解放されだらりと落ちた。
「だって眠いしー、あたしは武装錬金つかえないしー! おひさまに当てた髪なめてビタミン
補給してる方がいいしー!」
まだ唾液に湿っているそれは、てらてらと光を反射する。
「すごく嫌そうだなお前」
「だってだってだってー!」
両手をバタバタしながら栴檀が訴えるには。
「さっきご主人、学校で流星群ぶっぱなしてガラス破ったから! 空っぽのじょーたいでぶっ
ぱなしたから! ぐったりなの!」
「あのな。貴信(きしん)が鐶(たまき)を逃すために桜花襲ったのはさっきじゃなくて昨夜だぞ」
「しゃぁーっ!」
栴檀は瞳孔を細くし、髪を逆立てて威嚇した。
「いいじゃんさっきで! きょーりゅー滅んだのも地球生まれたのもさっきじゃん! ほんとに
もう、あたしに時間なんてむずかしい話フってイジメるとひっかいちゃうわよ!」
「ともかく、貴信どのは睡眠中」
「そーよ! だから他の人がやればいいじゃん他の人が。ひかり副長とか。ちっこいクセに
やたら強いからぴったしカンカンでしょーが。どこにいるか知んないけどさ」
「おや? 貴信どのからは

『集合場所は銀成学園屋上から変更! 詳細は鳩尾(きゅうび)から借りた五色米を参照されたし! 
で、鐶光副長は無事送り届けました!』」

などとメールにて言伝を受けましたが……はてさて」
栴檀はちょっと考えた後、思いっきり首を縦に振りまくった。
「あ、そーいやそだ。うん確かにそうよさっき送った。でもなんであんなトコに? 住むんだった
ら別にここでいいじゃん。あんなおっきな場所で変なカッコする必要ないじゃんっ」
「布石だ。理由はおいおい話す」
「ふーん。あ、鳩尾どこよ鳩尾。アイツ、ぶそーれんきんナシじゃあたしぐらい弱いけど、ちょ
っかい出して逃げるのはお手のモノだと思うけどさ、どうよ!」
「ね。ね」と、人懐っこく八重歯を表しながら階段を四本足でドタドタ上って立つと、
「あやちゃんもそー思わない」
正面から小札の肩に手を当ててゆすりはじめた。
「うああうぅ〜」
小札はされるがまま。ヘンな声をあげながら首をがっくんがっくん揺らす。
「鳩尾無銘なら、これまで通り『奴ら』の捜索だ。もう一つの調整体を入手しだい、奴らと決着
をつけねばならんからな」
総角はいやに粛然とした真剣な眼差しで、彼方を見た。
「え! あいつらと!?」
総角を振り仰いだ栴檀の顔からみるみるうちに血の気が引いた。
「マジ?」
「マジ」
事もなげに頷く欧州美形に、栴檀の尖った髪の毛がタワシのように膨らんだ。
「やたら怖そーなあいつらとやんの……!? やだやだ! あやちゃんもそうでしょ! ねっ」
パニックを起こした彼女は、つかんでいた小札の肩をむちゃくちゃくに揺すりまくる。
「ならば最後の切札たる剣椀を高めるべく秋水くんとも戦っておかれ……うああうぅぅ目が〜」
目をナルト渦にしてぐらつく小札を見る紺碧の瞳は、笑みに細められた。
「長い目で見ればそれも必要なコトだろう。アイツの型にはまった面白みのない剣さばきを受
けるのは想像するだけで愉しくもある」
だが、と彼は続ける。
「小札よ、それは私情だ。今は『もう1つの調整体』の回収を優先すべき時。お前たちが散々
駈けずり回って割符を集め、いよいよ大詰めという時に俺が私情に浸るのは良くない」
「へぇー。もりもりも考えてるんだ。ばかだけどえらいっ」
栴檀はぴょこりと踵を返して、総角に手を差し出した。
「ね! 褒めたから10円ちょうだい。うまい棒買いぐいしてご主人に栄養補給するの!」
怯えたかと思えばもうコレ、非常に移り気な少女である。
総角はこめかみを押さえ、半眼でうめいた。(オーフェン風)
「山田君、例の物を」
「かしこまりましたぁ〜」
小札は目をぐるぐるさせつつ、おぼつかなげにロッドを一振り。
長さ3cm、直径5mmに満たない白い円筒状の物体を出現させると、総角に投げた。
彼は左手で受け取り、階段の2段目に立つ。それでも3段上に立ってる小札より頭が上にあ
るのは、彼女にとってとても悲しい出来事だ。
そして総角、何も持ってない右手を差し出すと、クンクン クンクン。栴檀はそれを嗅いだ。
何も持ってないのに手をさし出されただけで、つい、だまされて臭いを嗅ぎに来るというとこ
ろはまるで『アレ』だ。
「そこに不意打ちでタバコをかがせてみるッ!」
「ギニヤ!」
凄まじい声を上げて栴檀は仰け反り、後ろに大きくコケて派手な音を立てた。
あいにく、後ろの小札は回避を優先した(別に揺すられた意趣返しを果たした訳ではなく、
反射的に)ので、栴檀は階段に背中を打ちつつ滑り落ちる。
自然、タンクトップは下から上へと蛇腹の様に縮んで、お腹をまるまる露出させる。
みぞおちの近くで小麦色の膨らみがちらりと覗いた所をみると、どうやら下着の類はつけて
いないらしい。
「な、なにすんのよ、バカもりもり!! あたしがコレに弱いって知っていながらなぜすんの!?」
栴檀は仰向けのままめっちゃ敵意のこもった目つきをして、抗議する。
「目覚めたか?」
タバコを小札に返しながら、総角はスカっとした笑顔を浮かべた。
「え」
身を起こした栴檀は2、3度目をパチクリして、「あ…」と声を漏らした。
言葉の意味を理解した合図だろう。
するとなぜか彼女は後頭部に右手をやった。
正確には、後ろ髪に指を突っ込み、頭皮に触れているようだ。
「みたい……」
嬉しそうな唖然としたような栴檀は、なぜか左手で頬をつねった。
『感心しないぞ香美!』
声がした。
それは栴檀にひどく近い場所からだが、けして彼女の口からは漏れていない。
「あたたっ! ご主人やめて。ごめんなさいごめんなさい。ちゃんと動くからつねんないで」
『分かればいい。僕が怒るのは筋が通らない時だけだ!』
同時に会話らしきコトをやっているのがその証拠。
「相変わらず、二重人格っぽいな」
「内実は異なりますが、コレはコレで楽しゅう」
総角たちの前で、栴檀は無理矢理ひきあげられるマリオネットのような不自然な立ち方をした。
『状況はだいたい把握した。行くぞ香美!! 明日のために戦うのならば、今がその時だ!!』
下界へ続く石段めがけて走り出す栴檀。
「待て貴信。忘れ物だ」
総角はそんな彼らの背中へ割符を投げつけた。。
通常なれば声に振り向いてからキャッチするのが当然の反応だろう。
だが栴檀は!
栴檀の手からは!
細長い鉄色の光が割符目がけてギィンと伸びすさる!
光は栴檀の手首の返しに連れて割符をくるくる巻き取って、小気味よい金属の擦過音と共に
たわむ。
上空から見ればさながら「ひ」の字。
それは一気に直線と化して、割符ごと栴檀の手元へ巻き取られた。
「出たな。万物の真髄を捕える武装錬金、ハイテンションワイヤー」
「特性を使わずとも炸裂する神業的ご手腕! 不肖は感服の至り」
細長い光は核鉄となり、割符と共に手中に呑まれた。
収まった、のではない。
人型ホムンクルスは人間を丸ごと掌から吸収できる。正確には、掌に開いた穴から。
掌をかざされた捕食対象は、ジェットエンジンに吸い込まれる小鳥のような吸着断裂入り混
じる怪音をあげて、この世から消え去る。
それとほぼ同様の過程を経て、核鉄と割符は栴檀の手中に呑まれた。
にしても、つい先ほど「あたしはぶそーれんきん使えないしー!」と宣言していた彼女がどうして核
鉄を発動しているのか……? 
『む!? 割符は貴方がひとまとめに持っていた方が安全では!?』
会話の間にも栴檀は走っていく。
「いや、一極集中は却ってまずい。俺が斃されでもしたら一気に覆る。だから1人1個だ」
「おや? 5つと6人ですので余るのでは?」
「何をいう小札。5つと5体だからぴったりじゃないか。それに。向こうが欲しがる以上、色々使い
途(みち)もあるだろう。既に鳩尾や鐶には渡してあるしな」
『了解っ! 急ぐぞ香美! 急げ猛き勇者よ時の迷路を走り抜けろ!!』
「うぅ。何であたしがこんなコト…… でもご主人と二人っきりで任務だ。やった」
その間に栴檀は走りながらぼやいている。
「って何コレいつの間に! ああもう。時間とかコレとか、今は分からないコトばかりじゃん」
手にした割符にビビり倒す栴檀は石段を降りていき、小札と総角はふぅとためいきをついた。
「性格はああだが、撹乱を果たすだけの実力はある。小札以上、鐶並みの使い手でなくば、
『あいつら』は斃せないだろう。武装錬金の特性もだが、それ以上に厄介なのは」
「特異体質。不肖ともりもりさん以外の御三方が有せし特異体質は、さぞや仰天を巻き起こ
すでしょう」
「そしてどうだこの適材適所な人材配置。さすがは俺だ」
満足そうに頷く総角の向こうで。

「うぎぃゃあああああー! 核鉄に気を取られたせいで足滑らせたぁぁああああっ!」
『ふはははは! 落ちるぞ落ちるぞどこまでも! どこまでもどこまでもお前とぉ!」

栴檀の絶叫と凄まじい物音。大地は比喩抜きに激震した。
彼らは池田屋事件での北添佶摩も真っ青な転落劇を演じたに違いない。

「フ。何だろうなこの果てない脱力感とすげー悲しみ。戦えなかった新撰組つーか」
夏にしてはうす寒い風が総角を吹き抜け、小札は「おいたわしや」と涙を流した。


銀成学園高校に視点を戻そう。
体育館から少し離れた昇降口には冷水機が設置されているのだが、その近くに。
物思いに耽る秋水がいた。

稽古をつける理由は、彼自身もはっきりと言い表わせない。分からない。
世界というものに少しでも融和するためにできるコトをしているようでもあるし、千差万別の
相手の戦いを観察して眼力を養いたいのかも知れないし、自分の戦い方を見直したいだけ
なのかも知れない。
総角と再会した昨晩以来、3つ目の考えはますます強い。
何しろ総角は複数の武装錬金を扱える上に、剣においても破格の強さを持つ。
かつて、全国大会で秋水を下した実績を持っているのだ。
もし、と秋水は危惧している。
総角が割符を奪いに来た場合、退けるコトは非常に困難だと。
これは秋水のみならず、いま銀成市にいる他の戦士にもいえる。
まず防人はこの夏の任務で重傷を負い、ようやく松葉杖片手で歩けるという態。
桜花の戦闘能力は低い。接近戦に持ち込まれれば即座に倒される。
斗貴子に至っては昨晩の戦いで実質敗北済みだ。
千歳に割符を持たせて瞬間移動させたとしても、総角が同じ能力を有する以上意味はない。
彼女の倒される場所が移転先になるだけだ。
あるいは根来ならば虚をついて勝てそうだが、聖サンジェルマン病院に入院中だから即座の
復帰は望めない。
結局、現状において総角を退けられる可能性を持つものは秋水しかいない。
想像を絶する武装の数々を剣1本で凌ぎ、一段劣る剣腕で勝利するという厳しい条件付だが、
秋水にしかそれはできない。
と分析しつつ、彼自身のモチベーションはいまいち定まらない。
『もう一つの調整体』なる危険な存在が街のどこかに眠っており、それを安全に起動するに
は6つの割符が必要で、街を守るにはそれら全てを敵の手から守りきるべきである。
されど実は秋水、心底から街を守りたいとは思えない。
融和自体は望んでいる。だが、散々世界に心を鎖していた秋水だから、いきなり全てを守ろ
うとするのは難しく、かつ嘘臭く思えてしまう。
あっけなく180度違う考えに転向するのは性格上許せないし、第一、真剣な思いで街を守ろ
うとしていたカズキへの侮辱にも思えるのだ。
その思いは、L・X・Eの残党狩りを請け負った時から密かに抱いている。
分類すれば秋水もカズキと同じく「守る」ために戦う男であるのだが、対象は異なる。
秋水は「個」、カズキは「全」。
桜花だけを守らんと剣を振るってきた秋水を見れば自ずと分かろう。
ただ今回の件においては、守るべき「個」というのが不明瞭で、それが為にモチベーションを
欠いている。

桜花は確かに守りたい。
けれどもそこだけに主眼を置くのは、今までと同じコトを繰り返しているようでしたくない。
思慕は変わらぬが、自らの戦いや行く末を鑑みた場合、姉だけに固執するのは不可なのだ。
とはいえ、どうすればいいかは分からない。
ひとまず屋根のない場所に歩いて、空に輝く太陽を見上げてみる。
コバルトブルーに映えるサンライトイエローの眩しい光は、色を介してかつての戦いを想起させる。
そこでは死に行く姉の手を握るしかできない無力な自分がいて、激しい悔恨に囚われてしまう。
悪夢のように忌まわしい記憶だから、今はまだ、どうすれば払拭できるかは分からない。
ただ、秋水は精神的な成長を欲し、叶えるために問うている。
刺した男の手を握り締め、大事な存在(モノ)を救おうと奮起したあの精神力は果たしてどこ
から出たものか。どうすれば持てるのか。
それも今は分からない。
羅針盤も海図もなしに黄金の大陸を目指す無茶な冒険者。
世界との融和を望んでいるが、目的への確かな道筋は見えていない秋水への比喩だ。
彼は建設的ではあるが、新しい概念を瞬時に理解するようには出来ていない。
本質をすぐさま見抜く直観の鋭さや、自らに包み込む感情の大らかさが未成熟なのだ。
これらは他者との融和に欠かせぬ要素でもあるから、持たざる秋水が他者との交流を苦手
とするのも無理はない。
既に述べたが、彼は世界に対して心を鎖しすぎていた。
けして頭は悪くないのだが、桜花と2人ぼっちの人生では新しい概念とほとんど巡り逢えず、
感情をほぐし直観を磨く機会がなかった。
反面、1つの物事を突き詰めるコトにかけては常人を遥かに凌駕している。
桜花への思慕。剣客としての力量。
いずれも鎖された世界の中で培った強い物である。
特に剣においては、型にはまった1ツ作業を飽くるコトなく修練できる生真面目さと、妥協な
き努力が功を奏した一例だ。
強い物、優れた物には必ず力を発揮させる原則がある。
秋水においては、それに連なる効率的な動作を修練の中、感覚で掴んで思考で咀嚼し、コン
スタントに振るえるよう務めていたのだろう。
世界への融和も、結局はその方法で行うしかない。と秋水は思う。

だが世界にはまだ見いだせない。彼本来の姿勢(スタンス)に合致するような事柄を──…

「こんにちは秋水先輩!」
沈鬱な声を一気に太陽の零距離射程へ引き上げる明るい声が、昇降口に響いた。
見れば冷水機の近くで、ほがらかに手を振る少女の姿。口元には雫が数滴。
彼女──武藤まひろは水を飲んでから秋水に気づいたらしい。


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