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第025話 「変調(前編)」



後ろ手でぴしゃりと扉を閉めると、ヴィクトリアはひどく荒い息をついた。
部屋の中から千里の声がした。心配しているのだろう。
それを何とか押し込めて部屋から出てこないコトを祈りつつ、ヴィクトリ
アは自室に向かって駆け出した。
変調。
にこやかに話すだけだった平穏でちょっと蒸し暑いだけの夜が、一気に
激しい魔性を帯びて洗いたての肌にまとわりついてきた。

自室を目指してどうするのか。
早く武装錬金を展開して地下に潜れ。
最良の解決策はそれだけだ。

脳内で冷たい老婆の声がリフレインするが、彼女は何をどうすればい
いかまったくわからない、取り乱しきった表情でただ自室に向かっ
て走り続けた。
そう。老婆よりも若々しくも冷酷な声が背後からかかるその瞬間まで。

ただ茫然とアスファルトの上に立ち尽くす他ない。
心に芽生えた寂寥誤魔化し、夜空の星々見上げても、あぁ溢れる涙が
輝くスクランブルエッグを網膜に投影してくるだけである。
「えぇー。秋の日はつるべ落としと昔から申しますがまだまだ九月も初
頭の折り、無銘くんでいうなればくんすかくんすかすぴすぴと常に息づ
くお鼻のように全くまだまだ先頭であるでしょう。しかるに思考に暮れて
おりますれば夕日もまたいつやら暮れてすっかり空も濃紺色。あぁ、
やはり不肖は夜道を行くべきではなかったのです」
人気のない道路に佇む影は本当にどうしようもなく小さい。
タキシードを着てシルクハットを被っている、そんな風体は何かのサー
カスで余興にマジックをやる子供よろしくいかにも「ペットに服を着せる
感覚で大人が子供に押しつけました」という雰囲気が漂っているが当
人自体は純然たる趣味で納得してその服を着ている小札はくすんと涙を拭っ
て、わが身に振りかかった出来事を回想した。

「ダメじゃないか子供がこんな時間に歩いてちゃ」
「こらーっ! 小学生が夜遊びなんかするな!」
「家はどこだ。五時をすぎたら子供は家に帰るんだ」

「うぅ、警官の方々。職務に忠実なのはいいですが」
早く大きくなってほしいと願ってやまない手の甲でまなじりを拭ってから
「十八歳なのです不肖は」
小札は青菜に塩といった態をヤケクソ気味に誤魔化して考え始めた。
「さぁ気を取り直して議題に再挑戦! さてどうすれば早坂秋水どのを
捕まえられるのでありましょう! もりもりさんからのこの依頼、正面きっ
ての正攻法ではとてもとても無理不可能危険無限の大・難・題っ! 
不肖のマシンガンシャッフルがエネルギーを放つ以上、かのソードサム
ライXなる日本刀に吸収されるは火を見るより明らか、そうしてバリアー
を破られますれば不肖は逆胴を喰らい上下に景気よく真っ二つ……」
脳裏に去来するおぞましい光景に、小さな体の輪郭ががぴきぴきーっと
波を立てて震えた。
「まったく戦慄を禁じえませぬゆえに、策を練るのは正に必須! 香美
どのと貴信どのは先日の戦いにより療養中、無銘くんは武装錬金の特
性が割れた以上出撃しない方が得策、もりもりさんはきっと別な策を練
っているに違いありませぬ」
なお小札のいる場所から五分も歩けば寄宿舎に着くが、流石に単騎
殴り込んで秋水をかっさらうほど胆力は強くない。そんな胆力があれば
先ほどの警官に実年齢を強く主張して押しのけただろう。
「実力行使でそれが可能なのは鐶どのぐらい。ちなみに現実には”ウ
ソをつくな”の一言で帰宅を命ぜられた不肖のトラウマいかにすべき
なのでしょうか…… あぁ、ロバなのにトラウマ。不肖はちょっとしたキ
メラ状態」
とても悲しい。キメラな自分よりも身長が伸びずいつまで立っても公共
交通機関を大人料金の半分で乗れる自分の方が悲しい。
「むむ。さてどうしたものか。お一人で外出してくれれば手の打ちようも
あるのですが……ともかくも不肖は断言するのです、頑張らなくては!
と。ウルトラマン超闘士激伝に出てきたマザロンみたく頑張らなくっちゃ
ーと思うのですえいえいおー!」
後半の声はもうほとんど叫びで、「えいえいおー!」に至っては片手の
マシンガンシャッフルが月に向かって大きく突き上がった。

まひろが月を見上げてしまったのは、カーテンが開けっ放しだったからだ。
自室に戻って電気をつけると窓だけ真黒だった。
閉めようとした。そしたら視線が吸い寄せられるように空を上っていき、
とうとう月を捉えてしまった。
ひどい心痛が走った。胸を押さえながら顔を俯かせ、痛みが過ぎていく
のをひたすら待った。
一過性だ。文字通りの。
いまある痛みの激しさも、「痛みが過ぎていく」という感覚も、等しく一過
性の物で、月にいる大事な存在を取り戻さない限り完全に治らないのは
分かりきっている。
まひろは力なく首を横に振ってから、飛びあがらんばかりに驚いた。
「体調が悪いのか」
秋水の声だ。なんでいるのかとまひろは一瞬で五億回ぐらい反芻して
五億一回目で原因に気付いた。
(あ、そうだ。劇の練習についてきてもらったんだ)
すっかり忘れていた。恐らくまひろの短期記憶についてはキャパシテ
ィが極端に小さいか、それとも星のカービィSDXよろしく非常に飛びや
すいかのどちらかだ。
だからかまひろは、自分の一連の動作を秋水に見られていたと気づく
までさらに数秒を要し、それから固まった。
(……どうしよう。この前みたいにまた気を使わせちゃったら)
躊躇が逆に致命的だった。固まっている間にもカーテンは開けっ放し
で、黒々とした外の気配が流れ込んでいる。
それは表情よりも明確にまひろの心情を秋水に伝達した。
剣において相手の微細な動きから次なる一手を洞察する秋水だ。
後姿といえまひろの首が夜空の上を見たのを目撃した後に、こういう寂しい
気配を見せられて大体の察しがつかない筈がない。
そも、何だかんだと縁を持っているのもまひろの思う「この前」、つまり

「月を見上げて泣いているまひろと遭遇」

したのがきっかけであるから、当然といえば当然か。
秋水もまた躊躇した。話題を避けるべきか否か。
ただし避けたとして解決にはなりえず痛みを後々まで引きずらすであろう
コトは想像に難くない。
彼には桜花という大切な姉がいるが、二十年足らずの短い人生の中
で桜花を失いかけて絶望に暮れたコトが三度ある。
餓死、病死、失血死。いずれも思い出すだけで恐慌が走る記憶だ。
その痛みが秋水から取り除かれたのは、決して放置のおかげではない。
経験則からいえば具体的施策なくして心痛の除去は叶わない。
上記の考えを記憶と共にたぐるうち、もう一つ新鮮な映像が去来した。

「そういえば、キミにはまだ話していなかったな」
例のフザけた劇練習の後、今後の特訓の予定を聞きに防人を訪ねた
秋水は意外な話を聞かされた。
「武藤まひろは俺が戦士だというコトを知ってるぞ」
だから秋水と防人の特訓を見て、特に疑問を抱かなかったのだろう。
しかしどういうきっかけでなのか。カズキと斗貴子については例の銀成
学園での一大決戦時にまひろたちに戦士であるコトが知れ渡ったと聞
き及んでいるが……
「戦士・カズキが月に消えた後だ」
その事実を防人はまひろと千里、沙織、そしてカズキの友人たちに伝
えた。
雨の日だったらしい。
夏に似つかわしくない寒々とした雨と同じように、まひろは普段の温厚
も明るさも忘れ去り、防人にすがって泣きじゃくったという。
「……正直、俺も辛くてなあ」
まひろは泣きながらなぜ防人がそういうコトを知っているのか、嘘では
ないのかと必死に質問を繰り返してきて、その顔がむかし抹殺を告げた
時のカズキの顔と似ていてますます辛く、それでついつい自分の身分
を明かしてしまったと防人は語り、こう締めくくった。

「それでも、お前と仲良くなってからは幾分表情が明るくなってきている」

一体何をしてやれるのか。何をしてやれているのか。
見当はつかないし、全てを解決してやる術もない。
誇れるのはせいぜい剣技のみ。
それとてかつての主目的を達成させるに至らなかった。
けれど何かに突き動かされるように思っている。
どこか自分と似た境涯の少女に何かをしてやりたいと。
だから身一つで動くしかない。
実感の籠った言葉でせめて共感だけは伝えたい。

秋水は静かに言葉を紡ぎ出した。


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