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第026話 「変調(後編)」



一部を除けば意外に片付いた部屋だ。
人の部屋をあれこれ詮索する癖のない秋水でも、素直に感じた。
ここにはひどく清浄な空気が漂っているようにも思われた。
部屋の右手には寄宿舎備え付けの木製ベッドが壁と平行に横づけさ
れており、淡い無地のピンクで統一された寝具一式が、柔らかそうな
感触を放っている。秋水はそれに見覚えがある。寄宿舎転入後ほど
なくして千歳がつきつけてきたブ厚いカタログだ。
新鮮なインクの匂いもすがすがしいカタログには、色とりどりの寝具が
幅やら長さやら価格やらの羅列とともに載っていた。
聞けば布団や枕などの安い備品については各自好きなモノを選べる
らしい。
きっとその時、寝具のついでに選んだのだろう。
少なくても秋水の殺風景な自室にはない、余裕ある物体がベッドボー
ドの間に挟まれている。
三段の引き出しから成る白いカラーボックスだ。
何が入っているかは詮索すべきではないが、一番上にカタツムリの
プリントされたコップやアースカラーで彩られたアナログ式の目覚まし
時計が置かれている。
そこから細長い板を組み合わせた古めかしい床に視線を落とし、更に
左に這わせていくと、チリ一つゴミ一つ見当たらず、最後に壁際の学習
机へと到達する。
これは元々部屋に備え付けのモノで、秋水の部屋にあるものとそう変
わりはない。ただ、机の上で何冊ものノートや筆記用具、果てはなぜか
コンパスまでもが開いたままで放置されているのはあまり感心できない。
桜花ならばすでにてきぱきと課題をこなして、通学鞄に放り込んでいる
時間だ。秋水も同じく。
けれどまひろのノートは、少し凝視すればネコが出来損なった生物が
何匹も飛びまわっており、秋水はさすがに軽く溜息をついた。ふだん接
している態度どおり、あまり勉強には向かない少女であるらしく、わざ
わざ扉の前からまひろのノートを覗き見るのもいい趣味とはいいがた
い。目の良さは時として命取りになるのだ。震える山にいるパイナップ
ルならそういうだろう。正確には市街地でドンパチやらかしており、名前
も海産物じみているが、これまた本題ではない。

やるべきコトは、他にあるのだ。

薄い扉が濡れたように光る黄金の稜線を走り抜け、軽い衝突音を奏でる。
扉が閉じたようだ。
秋水に背を向けているまひろでもそれだけは分かった。
呼応するようにカーテンを閉めて、言葉を探し始めた。

後ろ手で部屋を外界と隔絶した動作に、何の意味があったか問われ
ればきっと秋水は回答できなかっただろう。
新しい動きが連ならなければ一切活性せぬ無造作で反射的な動作。
口を開いたきり二の句を探しているような状態ともいえる。
寡黙な青年は懸命に言葉を紡がざるを得なかった。

窓と扉。部屋の両端に佇む二人の間で空気が張り詰めるコトしばし。
咳ばらい、ラジオ、CDケースの山がばらばらと床に落ちる音。
他の部屋からの生活音が二人を避けるように駆け抜け、ベッドや机す
ら通り抜けていく。
無音という概念はあれど、実在するか定かではない。
沈黙にすら生活音が割り込み、それが止んだとていつ果てるとも分か
らぬ耳鳴りが世界に響く。
フラットライナーじみた金切音とともに見る後ろ姿は、ただなる可憐の
少女の物であるのに、正体不明の重圧に揺らいで見える。
自分だけ足もとが崩れて奈落に落ちていきそうな錯覚すらある。
緊張、なのだろう。
他者の根幹に関わる言葉を吐く事の重大さを認識すればするほどそ
の「重大さ」が精神的質量を帯びて足にへばりつき、動きを阻害し、ま
たは前述の通り足もとを崩していきそうな錯覚を生産している。
それでも。
いかなる重圧をも跳ねのけ動かねばならない時がある。
カズキならば葛藤を葛藤のまま放置せず、必ず最後には取るべき行動
を取っていた。
秋水は違う。桜花の危機には何もできなかった。
だからカズキが眩しく見えるし、一つの実感へと帰結してもいる。
(終生及ぶ事はできないだろうな。それでも──…)
開いた拳を愁いの瞳で見る。
かつて彼の握ったそこは、今でも確かな感触を覚えている。
無力と咎の果てに与えられた、たった一つの確かな物。
拳を握る。彼に及ばぬとしても精いっぱい力強く。
秋水は微かに相好を崩し、それから瞳と頬を引き締めた。

「俺も姉さんを失いかけた事がある」
カーテンの前で振りむいたまひろの顔には、軽い驚きが上っていた。
「その時俺は姉さんに何もしてやれなかった。ただそばで弱っていく姉
さんを眺めているだけで、悲嘆に暮れていた。だから──…」
往時を思う青年に向く瞳は、ドロップのように丸く、はたと見張られ、ま
るで雨に打たれた子犬が病人を心配するような色さえ浮かんでいた。
「だから、今の君の気持ちを少しは、理解……できると思う」
まだ言葉を告げるには不慣れで、背中に汗がにじむ。声が震える。
視線を合わせながら言葉を告げているだけの行為が、戦闘とはまるで
違う激しい緊張感をもたらしてくる。
「もしどうしても耐えられなくなったら、俺に話してくれないか。できるコト
は少ないが、せめて聞き役ぐらいは務めてみせる」
やっとの思いで告げ終わっても、まだ終わりではない。
秋水は直立不動の姿勢を崩さぬよう努めながら、まひろの反応を見た。
剣同様、言葉にも相手がいる。ただ投げかけるだけでは不十分だとい
うコトを、最近の秋水は知りつつある。
自分の行動に対する種々の反応に対し、原則から逸脱しない範囲で
更なる反応を返し、更に更に返されて、幾合もの応酬の末に相手が
納得できる結果をもたらさなくては意味がない。
力任せに竹刀を振って相手をいたぶり、時には真剣で背後から刺
し貫くような好き勝手は、本来世界の中では許されないのだ。
しばし、恐れた。
まひろの言葉を待つ間、秋水の心の中にある弱い部分が恐れていた。
傷つけていないかどうかをまず怖れ、次に頼られないコトを恐れていた。

時をほぼ同じくして、秋水の部屋の扉を叩く者がいた。
その者は数多くのノックの末、殴るような手つきで扉を一打し無遠慮に
引き開けると、誰もいない部屋の暗さに舌打ちした。
そして端正な顔に悪鬼のようなひきつりを浮かべて踵を返し、せわしな
く歩きだした。
後ろにはひどく沈みこんだ同伴者が一名。
機械のような足取りで前の人間についていく──…

「実をいうと、ね」
窓際から一歩も動かないまま、まひろは秋水から軽く目線を外した。
「劇の練習をしてるのは、斗貴子さんのためなんだ」
回答はやや予想した方向よりズレてはいるが、まずは聞くコトにした。
だんだん秋水は、この少女のズレというモノを許容する癖が身について
きたような気がする。
「……ほら、斗貴子さん、いま一番傷ついてるから、せめて何か面白い
コトをやって励ましてあげたくて……えーと。変、かな。こういうの」
困ったように眉をハの字にするまひろに秋水はかぶりを振った。
「正しいと思う」
本音だ。
少々意外だったが、まひろの劇に対する真剣さだけは身近で見て知っ
ている。ただ、それで斗貴子が納得するかどうかは別の話であるが。
「うん。そういって貰えると……嬉しい。喜んでくれたら、いいけど」
嬉しそうな微笑も、どこか弱々しい。
きっとまひろ自身も、劇一つやるだけで全てが好転するとは確信してい
ないなのだろう。
「でね。昔……、夏になるとお兄ちゃんとよく一緒にかき氷を食べてたん
だ」
回答としてはやや要領をえないが、口ぶりに籠った真剣さからすると
彼女なりに一生懸命筋道を立てているのだろう。
秋水は先を促すワケでもなく、ただ一頷きして沈黙を守った。
「お兄ちゃんは男のコだからメロンでね、私は女のコだからいちごだっ
たんだ。……でもね、昔の私ってわがままで……」
お正月かクリスマスにも門松かツリーのコトでカズキを困らせてしまっ
た記憶がある、と申し訳なさそうにまひろはいって、更に続けた。
「かき氷の時もそうで……私、女のコなのにメロンが食べたいっていっ
たんだ。そしたらお兄ちゃん、食べさせてくれたんだけどワンピースにこ
ぼれちゃって、私、すごく泣いたんだ。でね……お兄ちゃんがなだめて
くれて何とか泣きやんだんだけど、その頃にはもうメロンもいちごも」
「溶けてたのか」
「……うん。だからもし、私があの時泣かなかったら、お兄ちゃん、ちゃ
んと残りのメロンを食べれたと思うんだ」
脇道に逸れてもいるし、傍目から聞けば些細な何というコトのない話だ。
けれど秋水自身、幼いころの負い目は簡単には消えないと知悉して
いる人物の一人である。何故ならば桜花を助けられなかったからこそ
彼女を守れるだけの力を求めて剣術修行にいそしんでいたからだ。
よってまひろの心理が少しずつ分かってきたし、その確証もまひろ自
身の吐露から得るコトができた。
「だからあの日以来ね、お兄ちゃんの前では泣かないコトにしたの。泣
いてワガママいったら、お兄ちゃんのしたいコトが、かき氷みたいに溶
けてなくなっちゃうような気がしたから…… 夏祭りの日だって”長いお
別れ”になるかも知れないっていわれたけど、お兄ちゃん、きっとみん
なの味方だから、止めたらたくさんの人に迷惑がかかる気がして……
でも、でもね」
まひろは肩を落として、スカートの生地を握りしめた。
「そのせいで、斗貴子さんが今一番傷ついちゃってるんだ……」
同時に瞳の表面が俄かに湿った光を帯びるのを秋水は忸怩たる思い
で見た。
「どうしてあの時、”斗貴子さんとだけは別れちゃダメだよ”っていえな
かったのかなって。最近、そればかり思っちゃうんだ」
ああ、と秋水は眩しいものを見るような目つきをした。
最近のまひろの寂寥は、ただ単にカズキを失っただけではなく、斗貴
子の傷心を作り出してしまったという負い目も混じっていたのだろう。
そういう部分はカズキと限りなく似ている。
やはり兄妹なのだ。
それを実感すると、カズキへの敬意がこの少女への好ましさに転化する
反面、ひどく心痛を覚えてしまう。
秋水自身にそれを説明するコトはできない。
同情か共感なのか、もっとありきたりな、若々しい青年が純朴な少女に
対して覚えるべき感情なのかは、判別がつかないし、つけられたとしても
それを推し進める資格はないと秋水が断ずるにあまりある過去の負債を
彼は未だもって抱えている。
「斗貴子さん、ああ見えて傷つきやすい所があるから、お兄ちゃんに置
き去りにされて平気なワケないよ。でも私は……お兄ちゃんにそういう
コトをいえなくて……」
黒い瞳に滲出した涙が球状になって落ちている。
その光景に秋水はいてもたってもいられず、反射的にまひろへ歩み
寄っていた。
「君のせいじゃない」
学生服のポケットをさぐると洗いたてのハンカチがあった。実はそれは
事前に桜花が渡していた物だから、彼女はこういう事態を予測していた
のかも知れない。
「一言でいえば不可抗力だ。あの時、武藤と津村は一緒にいれば津村
だけが死んでいた。だから彼は、置いていかざるを得なかったと思う」
カズキが月に消えた時の状況は、いろいろな要素が絡みあい過ぎて
いた。
まず敵の存在。ヴィクトリアの父・ヴィクターはその数奇な運命の果て
に得た能力と、果てしない憤怒によりひたすら強大であり、攻撃力だけ
ならば戦団で一・二を誇る

【焼夷弾(ナパーム)の武装錬金・ブレイブオブグローリー】
【全身鎧(フルプレートアーマー)の武装錬金・バスターバロン】

の猛攻を軽くしのいでいた。
前者が瞬間的にだが周囲五百メートルもの範囲を五千百度の炎で燃
やし尽すコトができ、後者が身長五十メートルの巨大ロボットであるコ
トを鑑みれば、いかに戦団が無力であったか分かるだろう。
その上厄介なコトにヴィクターは、周囲にある総ての生命からエネル
ギーを吸収する生態を備えており、人海戦術で攻めたとしても打撃を与
える傍から回復されるという難点もあった。
よって次に対抗手段の欠乏があり、加えてヴィクターを人間に戻すため
の切り札たる「白い核鉄」すら完全な効力を発揮しなかった。
そこでカズキは咄嗟にヴィクターを命無き月の世界へと放逐するコトを
思い立ったが、同伴の斗貴子を巻き込めば地球圏を離脱する時の重
力か宇宙の真空の中で彼女は息絶えていただろう。
カズキは違う。彼は「不可抗力」によってヴィクター同様の怪物の体質
を持っていた。
正直、上記の点は戦士とは無縁のまひろに説明するのにはあまりに
複雑な内容ではあるが……
秋水は説明した。
額から汗が噴き出るほどに詳細に。
最後に至ってはネコまがいのクリーチャーが乱舞するノートを拝借すら
して、カズキの置かれた状況をできうる限り精密に描きこんだ。
それを部屋中央の床に置き、二人して覗きこむ。
「……そうだったんだ」
「ああ、こういう状況でもなければ、武藤は一つの選択肢だけを選ぶ
ようなコトはしなかった。だから君のせいじゃない」
まひろに続いて秋水が汗でぬめるボールペンを握ったまま視線を左
右させると、まひろはポケットからティッシュを取り出し拭ってくれた。
「感謝する」
「ううん。こっちこそ」
礼をいいあう二人が俄かにハっと顔を赤らめたのは、意外なほどに顔
が接近していたからだ。
ともに座ったまま肩が触れ合い、顔といえば互いの前髪が交差してその
匂いを味わえるほど近くにいる。
栗色でややぱさついた髪の質感が鼻にふれたような気がして、秋水は
彼らしくもなくどぎまぎした。
秋水は説明の後の虚脱状態で、まひろはそれによって汗ばんだ彼の
手を拭くのに気を取られていて、必要以上に距離を縮めすぎていたようだ。
少し涙で赤くなったまひろの瞳が秋水を映していた。
汗で前髪が濡れ光る秋水の瞳にまひろが捉われていた。
身を固くしながら秋水が横に移動する頃、盛大な音が上がった。
見れば勉強机の下の方、椅子がおかしな方に飛び出ていて、その中に
まひろがおかしな体制で刺さっていた。
勢いよく飛び退くあまり、ミサイルのように勉強机に吶喊していたようだ。
「だ、大丈夫か」
「だ、大丈夫! 私ってけっこう頑丈だから」
というやり取りをしながら脱出を試みたまひろは、机の引出しにまず頭を
思いっきりぶつけた。
「痛い! 大変、もっと早く脱出しないと!」
「ちょっと待て落ち着くんだ。あまり暴れると──…」
「ダメだよこういう時こそ早く避難しな……きゃっ!?」
大きなコブのついた頭を振りまわし身もだえしながら机の下でじたばた
するとどうなるか。
乱雑に散らかった机上から降るわ降るわ。
ノートは子ネコをいじめるカラスのようばらばらはばたきながら栗色で
丸っこい頭を叩きまくり、筆記用具も極小の丸太のようにふくよかな体
をぺしぺし打ちまくった。
さすがにコンパスが鋭い針を光らせながらまひろに向かった瞬間は
秋水は色を成した。
で、思わず手を伸ばして払いのけようとしたら、手の甲に刺さった。
幸い深さはそれほどでもない。
が、彼はコンパスを引き抜きながら困った。
痛みには慣れているが、傷を見られればどういう展開がくるか位は
予想できている。
ここは分からぬよう秘匿して、後で核鉄でも当てようと考えたが、それ
も手遅れと知った。
机から脱出したまひろが、申し訳なさそうに秋水の手の甲とコンパス
を見比べていた。

秋水は知らない。
ほぼ同時に、別の場所で、ひどく苛烈な人物に所在がつきとめられ、
その所在に対して恐ろしい情念を覚えられたとは。

「すまない」
それは核鉄を当てれば治る程度のケガに、手当をさせてしまったコトに
対してか。もっと別な意味を本来なら込めて、さらになぜ別な意味を込め
るか詳細な説明をするべきなのだが、当面は四文字しか伝えられずに
いる。
「大丈夫大丈夫。かばってもらったし、私は手当するの得意だから」
包帯を巻き終わったまひろは屈託なく笑った。
そこに先ほども影がないのに秋水は安堵したが、まひろの頭の上に
載っているナースキャップには首を傾げざるを得ない。
(そういえば再殺部隊の楯山さんも潜入捜査の際にセーラー服を着たと
いう噂だし、衣装というものはそういうものかも知れない)
要するに女性というのは自らの内実を超えたモノを演じる時、衣装や
化粧といったものに力を借りるのだろう。
桜花などは化粧の他に、「体裁」というのをひどく重んじてその腹黒い
狡猾な気質を見事に「いい生徒会長」のイメージでコーティングしてい
る。それと同じで、一女子高生たるまひろはナースキャップで医療従事
者と化し、二十代も後半に差しかかった千歳はセーラー服を着用する
コトで八年というあまりにも大きな力の壁で世界な闇な年齢差の限界
越えて女子高生になっているのだろう。
「え? 違うよ。趣味だよ! うん」
思惑を告げるとまひろはゆったりとした胸の前で腕組みをしつつ頷いた。
「趣味なのか」
その回答によれば二十代後半のとある女性がひどく奇矯で哀れな存在
に思えてくるが、本題ではない。
「またありがとうね。秋水先輩」
「また?」
「うん。また。学校から送ってくれた時と一緒だよ」
ああ、と秋水は思い当たった。そういえばあの時、寄宿舎の下駄箱で
秋水をガクガクとゆすりながら「嬉しかった」とまひろはいっていたが、
それか。思い起こせばあの時、桜花の出現で答えが聞けなかったが……
まひろは包帯の残りを救急箱に詰めると立ち上がり、それをカラーボッ
クスの一番下にしまった。
「あの時ね、

──「彼は必ず戻ってくる。君の元へ戻るコトを諦めたりはしない」

っていってくれて、本当に嬉しかったんだよ」
ごく自然に秋水の隣に座ると、ひどくほぐれた笑みをまひろは浮かべた。
「……斗貴子さんのコトはまだ辛いけど、それでもお兄ちゃんが帰って
くるって信じているから。そこだけは大丈夫だよ。本当」
「そうか。それなら、津村のコトは俺が──…」
といってみるものの、秋水はどうもまひろの顔が眩く、そして輝かしく思
えて目が合わせられない。
自分の言葉が何をもたらしたかいざ知ると、表情をいかにすべきか
見当がつかない。どういう感情がいま自分に渦巻いているかすら、
よく分からない。
「あ、もしかして秋水先輩、照れてる?」
ウェーブのかかった豊かな髪を揺らしながら、まひろはすり寄ってきた。
好奇心がそうさせるのだろうが、秋水としてはまたまひろが距離の近さ
に驚いて机に突っ込んだりしてはたまったものではない。
「君がそういうのなら照れているんだろう」
わざとぶっきらぼうな声をだしながら後ずさる。
「じゃあそうだね。でも秋水先輩のそういう顔って珍しい〜」
まひろはまひろで美麗極まる副生徒会長の変化が面白いらしく、膝立
ちで歩を進め──…

背後で扉が開く音がした。
秋水はその一瞬、莫大な殺気が爆ぜるのを感じた。
もし声がかけられなかったら、敵襲と錯覚しまひろをかばいながらソー
ドサムライXを発動していただろう。
もっとも、その必要はなかった。
「探したぞ早坂秋水」
声の主は、当面の味方だ。
当面、というのは以前は敵対関係であり、今もなお相手の心情的には
秋水を敵とみなしているからである。
「……いい身分だな。こんな場所で」
彼女は腰に手を当てながら鋭い眼光で部屋を見回し、最後に秋水を
激しい敵意のこもった下目で睨みつけた。
まひろだけは敢えてその人が自分から目線を放したような気がした。
正確にいうと、申し訳なさと親愛に基づくなんらかの決意の光を本当
に一瞬だけまひろに這わせてから、殺気を爆発させ部屋を見回し秋水
を睨んだような気がした。
「話がある。彼女とともに管理人室まで来てもらおうか」
津村斗貴子は厳然たる面持ちと声でそう告げた。
背後にはヴィクトリア。彼女は彼女でひどく落胆と憔悴した表情である。

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