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第028話 「動き出す闇(後編)」



地下を貫く正六角の通路が真暗な闇の彼方まで煉瓦造りを伸ばし、
けたたましいほどの足音を残響させている。
寄宿舎管理人室から姿を消したヴィクトリアだが、瞬間移動を用いた
ワケではなく、ただ足元にこの空間を発生させ没入したに過ぎない。
そして喘ぐように息吐きながら駆けている。

母の肉片を喰らって生きてきた者が、母に似た少女に食人衝動を覚え
ている。人間じみた情愛を人に抱いたせいで自らの怪物性をより深く
認識する羽目になっている。
今のように地下にいれば良かった。
光のない場所ならいかなる闇も常態として過ごす事ができた。
けれど暖かな景色を知ってしまったから、こうなっている。
いまはただ、一人になりたい。
それを叶えるためには、華奢な足を内角百二十度に窪んだ不格好な床
の上で運動させるほかなく、そのせいか足は時折もつれヘアバンチで
留めた艶やかな金髪も胸の前で乱れに乱れている。
不思議なコトに彼女の背後では避難壕の空間がすうっとかき消え、あ
とは湿った土くれとなっている。
解除しているのだ。アンダーグラウンドサーチライトによって形成され
る亜空間は、根来がシークレットトレイルにて斬り開く亜空間とはまた
異なり、存在さえ知悉すれば誰であろうと侵入は可能である。
現に斗貴子や千歳は特性を知らぬ状態で探し当てた。
だからこそヴィクトリアは逃走に際して自らの通りすぎた道を閉鎖し、
取りつかれたように疾走を続け……

一体どれだけ駆けたか。

「……もう、十分な筈」
立ち止まると肩で息を荒くつき、酸素を何度も何度も取り入れた。
ひどく体が重く、熱い。走ったせいか、食人衝動の飢餓感と熱ぼったさ
が腹部から全身に広がっている。汗がひどい。止まらない。背中はすで
にぞくりとするほどの脂汗と冷汗に塗れて、肌着が不快に密着している。
六角形の一辺たる壁にもたれる。一瞬冷たく心地いい感触が走ったが
吹き出る汗のせいですぐさま不快な熱へと転じた。
地下は換気が悪い。淀んだ空気に熱が漂うばかりで埒が開かない。
嗅覚を集中するとなぜか仄かに草木の生々しい匂いもしたが、あまり
気休めにはならないだろう。
と判断したヴィクトリアの脇で紺碧の閃光が走った。
正確には壁からせりだしたというべきか。横幅二十センチほどの光が
無機質な煉瓦から現出したと見るや、その二十センチばかり上で同様
の光が発生し、以降厳正なる二十センチの間隔で光の線が上へ上へ
と増殖していく。それは何かのメーターが増大する光景にも似ていた。
ライトグリーンの光が仄かに地下を照らし、ヴィクトリアの影を床に伸ば
したのも束の間。
線の光は壁から生えた真鍮色の金具と化し、ヴィクトリアはそれに手を
掛け、上へ上へと昇り出す。いうまでもなく、アンダーグラウンドサーチ
ライトの特性によって梯子を作り出したのだ。
やがて天井に六角形の亀裂が生じ、ヴィクトリアの身体は地上に出た。

見回すとタイル張りの歩道が足もとに広がっていた。
歩道は曲がりくねっており、その左手には雑草が申し訳程度に生えた
地面が広がっている。
右手では地面が盛り上がって草木をまぶし、視認できる限り全ての部
分で歩道に沿ってなだらかな丘を描いていた。地下で感じた青臭さは
ここに群生する草木の根の匂いだったのかも知れない。
左の地面と歩道の境目には、白地に黒で「銀成市 菖蒲園(予定地)」
と描かれた看板が無造作に設置されている。予定地にも関わらず街
灯が何本か道を照らしているのは、歩道がどこかとどこかを繋いでい
るからだろうか。目を凝らすと歩道の果てに赤茶けた煉瓦造りの建物
がうっすら見えた。
(下水道処理施設……)
知ったのは数日前だというのに、ひどく懐かしい。
記憶に残っているのは、自分の武装錬金と形が似ているからだろう。
教えてくれたのは千里だ。彼女は街の地理に不慣れなヴィクトリアに
市民だよりか何かのパンフレットを元に教えてくれた。
眼が潤む。戻れる物ならその当時に戻りたいとも思い……

そこで、息を呑んだ。
理屈さえ知っていれば簡単に分かるコトだった。
だから平生であれば冷笑を持ってあしらえただろう。
「ご苦労な事ね」と。
しかしこの時は冷えた瞳孔を引き締めるのが精一杯であった。
影を数える単位とは何であろうか。
枚? 個? 体?
思うに単位というのは管理のためにある。多数ある物の実数を踏まえ
販売や経理、生産に役立てるべく単位が発生するのである。
だが影をそうする者は……いないだろう。
影は影でありなんら実体を持たぬ。持たぬ物を社会規律の中で管理
せんとするのは、幽霊の見世物小屋を作ろうとするほど愚かしい。
よってヴィクトリアが十メートル先、街灯の光のふもとにある景色を下
記のように形容したのは、ある意味で間違いでありある意味では正し
かった。
影が一体、佇んでいる、と。
もちろんそれは影ではなく着衣が黒いせいである。
着衣の黒は見慣れた黒でもあった。
学生服。
それを着た早坂秋水がいた。
彼も彼で走ってきたらしい。
近づいてくる彼は携帯電話片手に眉目秀麗な顔に汗を浮かべ、激し
い息を意思の力で鎮静させつつあった。

千歳は浮かない顔で自分の武装錬金を見た。
ヘルメスドライブ。
特性は索敵と瞬間移動。見知った者なら画面内で追尾もできる。
ヘルメスドライブで亜空間の中へ千歳が移動する事もできたが、それ
で説得できるかと言えばはなはだ難しい。
秋水に追跡を任せてみようと思ったのは、かつて彼が遠路はるばる
ニュートンアップル女学院を訪ねてヴィクトリアを説得している場面を
目撃したのもあるが、実はもう一つの事情がある。
寄宿舎管理人室には激しい緊張が満ちていた。
電話を切った防人の口から指示が下る。千歳はそれを受けてヘルメス
ドライブ付属のペンを画面に押し当て、寄宿舎管理人室からかき消えた。

ヴィクトリアは驚愕が去ると、追跡の光景がありありと浮かんできた。
この眼前にいる男はおそらく千歳と連絡を密に取り合い、ヴィクトリアが
その背後で空間閉鎖するのをやめるのを見計らって亜空間に突入して
くるつもりだったのだろう。
ただその為にヴィクトリアと同じように地上を疾駆し、あるいは地下の
ように一本道でない地上で必死に狭雑物を避けてヴィクトリア以上の
速度で走っていたに違いない。
戦士がどうしてそこまでするのか。
とるべき態度としては斗貴子の方がまだ正しい。
それが自分に対する罵倒であったしても納得はできる。。
「ホムンクルス」なる錬金術の産物を嫌悪しているという共通項ゆえに。
戦士がホムンクルスを餌場たる寄宿舎に引きとめるコトの是非など、
本来は論ずるまでもない。放逐大いに結構。内通の疑念も正論だ。
なのに秋水はヴィクトリアを追ってきた。
それもきっと斃しにきたのではなく、連れ戻しに。
「……アナタ、いってもわからないの?」
蔑視を送る。送るほかない。この元・信奉者に対する不可解な感情を
不可解なままで留め置く事は、ただ百年来の嫌悪と侮蔑を冷えた眼差
しに乗せる事でしか達せられぬように思えた。
「まだ君が寄宿舎を去る必要は生じていない」
対する学生服の男は毅然とした声である。
苛立たずにはいられないヴィクトリアだ。
右足で左のふくらはぎをかくような仕草をとりながら、つま先を歩道に
軽く押しつけた。タイルがひび割れた。卵の殻にスプーンを当てるよう
に小気味よく。それでも足らず、鼻を鳴らした。
「生じているわよ。少なくても私にとってはそう」
若宮千里。母親にどこか似ているその少女は、薄暗い感情を抱えた
ヴィクトリアに親切で、いろいろ教えたり髪を梳いたりしてくれた。
だがそのせいで。
ヴィクトリアは千里がひどく愛しく思えてきている。
今から寄宿舎に帰って千里の部屋に入り、まひろがするような自然さで
千里に抱きつきたいと思っている。
そしてヴィクトリアの口はワニのように裂けサメじみた乱喰歯を生やし
て、千里の柔らかな体に突き立てたい。
捕食していた母と似ているからこそ、そうしたくてたまらない。
「だがそれは既に予見できていた事だ。俺が以前伝えた通り、戦団側
でも備えはできている。だから……」
「だから寄宿舎に留まれ、そういいたいのかしら?」
唇を噛みしめて軽く俯いたのは、求めてやまぬ明るい笑顔のせいだ。
知識として、人型ホムンクルスが手の穴から人間を捕食するとは知っ
ている。だがアレキサンドリアのクローンを経口にて百年ずっと摂取し
てきたヴィクトリアは離乳食しか知らぬ子猫のようであり、食物は手先
でなく口で捕食するという未成熟な感覚しか持ち合わせていない。
口で思う存分白くて柔らかい体を堪能したい。
肉を噛み切りはぎ取り尽してミートパイに調理したい。
「俺は君が鎖された世界に戻るのは見逃したくない」
手を伸ばせば届くぐらいの距離にいる秋水を一瞥する。
「断っておくけど、いまさら戦団の力なんて借りたくないの」
因縁を無視し戦団の作る糧秣を食えなどいわれて、頷けはしない。
「だが……」
少し歯切れが悪くなった秋水を押しのけ、少しヒステリックな声を上げた。
「うるさいわね。もういいでしょ。放っておいて」
これ以上話していると自らの暗い部分を話さざるを得なくなる。
それは屈辱だ。
一世紀以上ぐらい年下で。
元・信奉者で。
今は戦士で。
人間の。
秋水へ心情を吐露するのがひどく憂鬱で恥ずべき行為に思えた。
その間にも嫌な熱が腹の底から湧いてきて、全身が火照る。
耳たぶがかつかつと赤熱する。柔肉を想い、唾液が分泌される。
どこか甘美な感情で母に似た少女を思う。求めてやまない。
ワケも分からぬという態で自らの血しぶきを浴びる千里が見たい。
掠れた声でヴィクトリアを呼ぶだろう。一縷の信頼にすがって。
しかしそれすら罪悪感の要素にはならず、むしろ香ばしいスパイスの
匂いにすら思え、倒錯的な食欲が芽生えてくる。
きっと四肢を欠損して血の海の中で虚ろな瞳を天井に向ける母親似の
少女を見ても、腹部を裂いて消化物の悪臭漂う臓物をすするコトしか
浮かばぬだろう。
人間ならもっと他にいる。
でもよりにもよって一番親愛を覚えて、自分の欠落した部分を緩やか
に癒してくれる人に対して、そんな薄暗い欲求を覚えている。
制止もできない。飢餓が進行すれば血走った眼で千里に飛びかかる。
自分はやはり人喰いの怪物なのだと絶望的な気分になる。
……気づいた時。
秋水が差しのべた手を、跳ねのけていた。
眼が合う。
相手の瞳は怒った様子もなく、ただ何か真摯な言葉を考えているようだった。
わずかだがヴィクトリアは罪悪を覚えた。
認めたくはないが、原始的な感情に哀切じみた罪悪感が確かにあった。
自分をひどく情けなく思ったのは、次の行動である。
三歩よろよろと後退すると、丈の短い青色のミニスカートをはためかせ
ながら踵を返し、無言のまま闇に向かって走っていた。
武装錬金を発動せずそうした理由は分からない。
もしかするとホムンクルスではない、一人の少女としてのヴィクトリアが
逃げていたのかも知れない。
秋水はそんな彼女を追おうと踏み出し──…

空間におぞましい空気が満ち、そして爆ぜた。

重い音を立てて、何かが崩れ落ちた。
金色の光が地面に溢れ、零れる砂金のように雲散霧消していく。
ヴィクトリアはすでに遠ざかっている。視認はしていないが、背後から
の足音がそう伝えている。
掌には、何かを斬り捨てた手応えと握り慣れた愛刀の柄の質感。
キラリと『足もとからの月光』を反射するソードサムライXの姿を視認し
た時、ようやく秋水は自分が何をしたかを把握した。
無意識化での攻撃。
背後に現れた敵意目がけて身を翻しつつ無音無動作で武装錬金を発
動し、袈裟掛けに斬り捨てていたようだ。
黒い影が前のめりに倒れた。膝をつき、胴体を地に叩きつける。
それはひどく見慣れた衣装だった。
……眼下でさらさらと闇に溶けゆく衣装は洒脱な燕尾服。
汗が噴き出る。
ただなる驚愕と警戒ならばそこまでは出なかった。
(予測できていた事態だ。だが、よりにもよって今、この時……!)
ヴィクトリアの足音がますます遠ざかって行く。
斬り捨てた男は背中しか秋水に向けてはいないが、前面にあしらって
いるボタンの形さえ、顔と合わせて克明に浮かんだ。

「やぁ。久しぶりだね双子の弟」

その男の口調はひどく調子が外れている。
鉤状に裂けた口からは高い不協和音しか奏でられないような気がした。
「いやはや、逆向君から聞いてビックリしちゃったよ。まさか君が錬金
の戦士になっているとはね。あの突撃槍(ランス)の少年への義理かな?」
歩道の向こう、ヴィクトリアが逃走した方角とは正反対から遠くにある赤
煉瓦の建物を背景に影が人さし指を立てつつ緩やかに歩いてきた。
実に百八十八センチメートルもの長身だがどちらかといえばやせ型で
ひょろひょろとした頼りなさすら漂っている。
だがひとたび戦えばどれほど悪辣な消耗を強いる相手か。
「あ、そうそう。彼にはパピヨン君もずいぶんとご執心だったけど」
街灯の下にひどく戯画的な怪人が佇んでいた。
簡単にいえば、三日月の絵に目鼻をあしらったような男。
「あの程度の戦士の、いったいどこがいいんだろうね?」
「ムーンフェイス」
早坂秋水は静かに呟くと、ソードサムライXを正眼に構えた。
「リラックスリラックス。戦いに来たんじゃないよ。せっかくの再会だから
ね、君にとって耳寄りな情報を持ってきてあげたんだ」
ムーンフェイスはいかにも心外という様子で指を弾いた。
既にその頃…… ヴィクトリアの足音はもう聞こえなくなっていた。

激しい焦燥が全身を駆け巡るのを秋水は感じた。
ヴィクトリアを追わなくてはならない。が、ムーンフェイスも見過ごせない。
放っておけば一般人が喰われる。秋水も背を向ければ命の保証はない。
葛藤で微動だにできない美青年を、白濁した瞳が面白そうに眺めている。
「銀成学園の生徒たちが寝泊まりしている所ってなんていったっけ?」
「寄宿舎」
粘っこく緩やかな口調に対して、秋水の返答はひどく気ぜわしい。
「それそれ。実はだね、もうすぐ──…」
ムーンフェイスはひどく現実味の薄い事を歌うように述べた。
「もうすぐ逆向君率いるL・X・E残党が総攻撃しにいくよ」
「な……!?」
当たり前のようにまひろの顔が浮かんだ。
先程まで平和に語らっていた少女が、ホムンクルスに喰いちぎられる
様を想像し、口の中が渇く思いがした。
「むーん。襲撃開始は午後零時だから……」
秋水はさきほど見た携帯電話の時刻表示を必死に手繰った。
確か十一時二十五分。それから五分は経過している。よって。
「残りはたったの三十分。早く戻るなり迎撃しに行った方がいいんじゃ
ないかな? あ、そうそう。ちなみにこの件は君の上司たちにも連絡済
みだよ。レーダーの武装錬金を持つ戦士なら、私の話が嘘じゃないとい
うコトは証明できるだろうね。……ほら、噂をすれば何とやら、だね」
秋水の学生服のポケットの中で鈍い震動が走った。
携帯電話に着信がきたらしい。出るべきか。だが目の前には敵がいる。
「おやおや、何もしないよ。安心して出たらどうだい?」
意を決して出ると、千歳の声が耳に響いた。
「戦士・秋水ね。実は……」
「ムーンフェイスなら目の前にいます。大体のあらましも既に」
それで事情を察してくれたようだ。千歳は素早く言葉を継いだ。
「残念ながらムーンフェイスのいう事は真実よ。L・X・Eの残党たちはい
ま、銀成市北西部にある下水道処理施設の地下に待機中。ヘルメス
ドライブでワープして確認したわ。かなりの規模ね。数は百体以上」
「下水道処理施設……?」
秋水はムーンフェイスの後ろに佇む煉瓦造りの建物を見た。
社会に疎い秋水でも、銀成市の施設についてはL・X・E時代に一通り
教えられている。だから気づいた。
「ええ。今あなたのいる場所からなら、五分以内に奇襲がかけれるわ」
それが何を意味しているか、秋水には分かった。

根来と剛太は入院中。
千歳と桜花は直接戦闘に不向き。
防人と斗貴子はまだケガの癒えない体。

(俺が行くしかない。行くしか──…)
それが例え、ヴィクトリアを見捨てる事になろうとも。
葛藤に包まれる秋水をムーンフェイスはひどく面白がったようだ。
「さ、どうする?。もしこのまま判断を誤ったら、大事な大事な君の母校
の生徒たちが、ホムンクルスのディナーになってしまうよ。それは戦士
としてはちとマズくないかい? あ、でもそういえば」
次の言葉を聞いた瞬間、冷たい炎が、喉から丹田に突き抜ける気がした。
「君も姉といっしょに手引をしていたから、あまり関係ないのかな?」
「黙れ!」
気づけば激情のまま飛びこみ、逆胴を打ち放ち、怪人を上下に両断し
ていた。滑る秋水の体が歩道脇の丘に乗り上げ、木が眼前に見えた。
「むーん。冗談冗談。ひどく緊張しているようだから、ほぐしてあげようと
思っただけだよ。まぁせいぜい頑張るコトだね。集合場所へ奇襲をか
ければ、まだ寄宿舎に被害は少ないだろうから」
新たに現出したムーンフェイスがそれだけ告げて木立の中に消えた。
行くべき道は二つ。
寄宿舎を守るために奇襲をかけるか、ヴィクトリアを追うか。
「……戦士・秋水。分かっていると思うけど」
携帯電話から響く涼やかな声には「はい」としか応えるしかない。
心底からカズキがうらやましい。彼ならばこの二択も叶えただろう。
けれど秋水には寄宿舎を守るという選択肢しか取れない。
無力感に頬が引き攣る。ばらけた前髪から覗く片目に苛立ちの光が灯る。
携帯電話を切ると、手の甲を木の幹に叩きつけた。
蒼い落ち葉が降りしきり、皮膚が破れ、熱い痛みがじんわりと広がった。
(……すまない。本当にすまない)
ヴィクトリアに幾度となく詫び、彼女の消えた方向を数度振り返ってか
ら秋水は下水道処理施設へと駆け始めた。

「はっ! 何というしくじりでありましょう!」
その時、木の上で息をのむ者がいた。
「捕縛には絶好の機会でありながらついついやり取りに気を取られ……」
小さな影がしゅっと地面に降りたって、秋水の後ろ姿にハンカチを振った。
「心情を歌いますれば”さようならー さようならー 元気でいーてーねー”」
で、小札は腕組みをして考え込んだ。
「はてさていかが致しましょう。もしかするとここで力添えをしますれば
早坂秋水どのも我らブレミュに助力をする可能性も……いやはやしか
しどうしたものでありましょう。しかし一つ確かなのは!」
ガタガタと身を震わせながら、小札は思った。
「夜道でみるムーンフェイスどのはひたすら恐ろしいというコト……」

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