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第029話 「斜陽の刻 其の壱」



電話を切ると千歳はため息をついた。
現在寄宿舎にいるのは彼女を除けば、桜花(と御前)、防人、そして
斗貴子。
非戦闘員とようやく怪我から復帰した男、まだ入院が必要な戦士。
もし秋水が奇襲にしくじった場合、なだれ込んでくるであろうホムンク
ルスたちに対してあまりに無力である。
それにムーンフェイス。
彼ほど後世、次々と世界に害悪を振りまいた者も少ないであろう。
この時期ではまだ目覚めていないが、彼の手によってホムンクルスに
改造された戦士・剣持真希士は、その顛末によってカズキと斗貴子の
心に深い傷を残す事となる。
更にカズキと斗貴子の子息、武藤ソウヤが今の彼らと同じ年になる頃
には、ムーンフェイスの作り出した真・蝶・成体なる怪物によって地球
は後輩の憂き目に遭う。
いずれも発覚時には「ムーンフェイスならば」と即座に納得させれるだ
けの邪気を彼は平素から冗談めかしながらも漂わせている。
きっと残党の結集を教えたのも何らかのブラフであろう。
例えば残党をオトリにして、ムーンフェイスが直接襲撃をかけてくる
事もありうる。そもそもココにいる防人に敗北したからこそムーンフェイ
スは戦団にて拘束の憂き目にあったのだ。復讐戦を目論んでいても
不思議ではない。
「戦士・斗貴子。キミは病院にいた方がいい」
「自分の状態は分かっているつもりです。戦えるとは思いません。けれ
どアイツに任せて自分は何もしないまま寝ていたくはありません」
気が抜けたようにちゃぶ台の前に座り込んでいる斗貴子は、それだけ
を絞り出すようにいった。
「そうか。では千歳。戦士・根来を連れてきてくれ」
「分かったわ」
防人の提案に首肯せざるを得ない。
あと二日の加療を得なくば完治には至らない、とは医師の見立てであ
るが、状況が状況ゆえそういう者すら駆り出さなくてはならない。
瞬間移動の最中そういう事を一瞬考えた千歳は、ベッドの上で陰鬱な
瞳を向ける根来に「緊急任務の依頼よ」と冷たくもある事務的な声で
告げていた。
根来は少し黙り込むと、こんな事を告げた。
「どうも貴殿は」
例の猛禽類のような微笑だ。
「私に忙しさを持ち込む存在のようだ」
千歳は首をひねった。文句かどうか判じ難い。
合理主義者であるところの根来が、加療に専念すべき状態に舞い込
んだ任務に微笑すら浮かべている。千歳の持つ根来像では眉を潜めて
「忙しい事だ」と吐き捨てているというのに。
「ひょっとすると完治しているの?」
千歳の疑問ももっともだ。だが根来は「いや」と手短に答えた。
「まだ二日ほどの加療を要する。医師は寝ていろというだろう」
といいながらも彼は手早く身支度を整えつつある。

いかな経緯があったとしても人喰いの怪物には違いない。
そういう者を、である。カズキが命がけで守った生徒たちの中に放り込
み、生活させる事の是非はどうか。
カズキに対する侮辱としか見えない。
秋水がヴィクトリアを寄宿舎で生活させる事は元々反対だった。
斗貴子の苛立ちは戦闘待機のピリピリとした空気の中、高まっていく。
先程のヴィクトリアの件が尾を引いている。
前歴を知っているがゆえの憐憫を一瞬覚えはしたが、同時にいかに繕
えど化物は化物だという実感があり、けれども払拭できぬ憐憫をして
彼女を直接罵倒する事ができず、結果、彼女を寄宿舎に引き入れた秋
水への怒りへと転じている。
それでも黙っているだけの節度はある。
戦闘ともなれば酸鼻極まる絵図を繰り広げる彼女ゆえに、粗暴で凶悪
という印象を何かと抱かれはするが、根幹的な部分では冷静で戦局を
観察する眼力があり、日常においては決して弱者を虐めも甘やかしも
しない毅然とした少女である。
けれどカズキを失って以来の様々な鬱屈へ、その後の敗戦に次ぐ敗戦、
親しい後輩である剛太の負傷に体の一部と称してやまない大事な核
鉄の収奪といった数限りない暗い出来事が流れ込み、ひどく度を失って
いる。暴発も殺戮も既に何度かしているが、気分は一向に晴れない。
そこにきてヴィクトリアの件だ。
いわばこれは斗貴子の先走りと思いこみが招いた自爆ではあるが、
そういう滑稽を演じねばならないほど逼迫している。
濡れ衣を着せてしまった罪悪はあるが、相手がホムンクルスゆえに
頭を垂れる事は我慢ならず、けれども根が根だけにそういう自分がひ
どく卑怯で陰鬱な存在に思えてきて、感情をどう処理していいか分か
らない。
でも、一つだけ暗い感情を向けていい場所を知っている。
いや、知ってしまっている。
麻薬中毒の患者が体に悪いと知りながらも、麻薬を摂取せずにはいら
れないように、禁断で決して褒められぬ薄暗い手段。
囁く声がある。
彼は恨んでもいい。
どんな汚い感情を内心でぶつけてもいい。
何故ならば彼はそうされても仕方ないだけの罪を犯している。
ならば──…
「なあ、戦士・斗貴子。確かに気持ちは分かるが、アイツばかりを恨む
のはそろそろ筋違いだぞ」
防人の言葉に肩が戦慄く。
「戦士・秋水を許せとはいわない。けれど今のキミの感情の向け方を
俺は肯定するワケにはいかない。ヴィクトリアの件もそうだ。分かって
くれ」
分かっている。
既に秋水への憎悪は惰性であり言い掛かりにも等しいと自覚している。
けれど。
人間はいかに優れた長所を持っていようとも、黒々とした先の見えない
状態では鬱屈に呑まれてしまう。
普段ならば平気で流せる言葉にすら傷つき、相手を恨む事もある。
もし斗貴子が平生のままであれば、言葉に詰まりはするが、徐々に
自制と自省の中で自らの過ちを直そうと努めただろう。
だが。
少なくてもこのタイミングでは、防人の言葉に絶望しか感じ得なかった。
彼が悪いという訳ではけしてない。ただ心理の暗く落ち込んだ状態で
は正しく受け取れなかったというだけだ。
たった一つの逃げ場を奪われた喪失や憎悪や不安や恐怖や苛立ち
や罪悪が一気に沸騰し、そのエネルギーが不精髭の生えた精悍な顔
を捉えていた。
何も聞こえない。すべてがスローモーションに見えた。
頬が過熱する。眉が吊り瞳が尖り、脳髄が直情にぐつぐつと燃え盛る。
視界の中でぎょっとする御前が見えた。制止せんと言葉を紡ぐ桜花が
見えた。彼女は何故か扉の方を見てひどく狼狽したが、考える前に口
の中から激しい声が噴き出していた。
「じゃあ戦士長は許せるんですか!? ヴィクトリアのような人喰いの
化け物をこっちに引き入れたあいつを!! それに、それに──…」
激しい興奮の中、脳裏に忌まわしい記憶が去来する。
それは忘れられレない。
決して、忘れられない。
かつて──…
斗貴子はカズキと共に、早坂姉弟と敵対した。
その終幕、信奉者である彼らを殺そうとした斗貴子をカズキは制止し、
傷だらけになりながらも秋水たちを守ろうとしていた。
そんな甘さがいつか命取りになる。
ならばカズキの、「戦士」としての命を断とうとした。
元々斗貴子はカズキを戦いの世界に巻き込みたくはなかった。
転機が訪れるたび日常に戻そうとしていた。
戦闘の中では死なせたくなかった。
だから、だから、「人」としては死なない程度の傷で甘さを断とうとした。
だが。
だからこそ許せない。
濁った瞳で取り返しのつかない事をした彼を。
「自分が助かるためにカズキを刺し殺そうとした早坂秋水を!」
管理人室中に響き渡った声は……
ひどく長い間響いているように思われた。
斗貴子は大音声とともに生気をすべて吐き出したような心持になる。
頭に霞みがかかる。眼が霞む。
だが、それだけで済めば良かった。
直後、ヴィクトリアに対するよりも痛々しい罪悪が津波のように襲いか
かってきたからである。
まったく予期しない、無垢なる者への攻撃。
「え」
激しい声の後にそぐわぬほのぼのとした声が上がった。
聞き覚えはある。
あるからこそ驚愕に目が見開くのを感じた。
空耳であって欲しかった。
けれど凄まじい心痛の中で見る扉の前には、ひどく近しい少女の姿……
栗色のウェーブの掛かった少し傷み気味の髪は奇麗と言い難くあるが
それでもこの少女の愛らしさにはむしろ似合っていると思う。
そういう話をカズキとした記憶があって、彼はそうだねと笑ってくれた。
きっと嬉しかったのだろう。
妹をどういう形であれ褒めてもらえた事が。我が事のように。
「ご、ごめんなさい。その、斗貴子さんの様子がヘンだったから気になっ
てきたら、偶然……」
大きな瞳を湿らせながらおろおろと部屋の中を見渡すまひろが居た。
ぷにぷにと血色のいい頬がこの時ばかりは蒼然としている。
それだけでも受けた動揺と衝撃が分かり、心痛が走る。
もしこの状況をカズキが見たら悲しむのだろうか。
自分を窘めて、どうすればいいか一緒に考えてくれるだろうか。
けれどカズキはいない。
だからどういう言葉を投げかけていいか分からない。
罪悪が募るだけで、分からない。
「まひろちゃん……」
丸っこい少女の姿がぼやけて見えた。
もしかすると泣いているかも知れなかった。
誰に対する涙なのか。
分からない。
ただ立ち上がって手を伸ばす頃には、
「ご、ごめんね……! 本当に盗み聞きするつもりは……」
まひろは駆け去っていた。
追いかける気力は、なかった。

根来を連れて戻ってきた千歳は、騒然とする面々を見て首を傾げた。
「大方、今駆け去っていく者と諍いがあったのだろう」
根来の無関心な声は、嫌な熱を持った空間にむしろ心地よくすらある。

単純な構造の寄宿舎だから、まひろは無我夢中ながらも自室に走り
つく事はできた。
扉の前で激しく息をつく。収めるまでに苦労したのはマラソンが苦手な
クセに考えなしの全力疾走をしてしまったのもあるが、心理的な部分も
ある。
入室し、後ろ手で扉を閉める。
同じ場所で先程そうした青年の存在がありありと胸中に蘇り、心臓をき
つく締め付けてくる。
細くなった息をつきながら、豊かな胸に手を当てる。
滑らかな指は頼りなく震えながら制服を掴み、幾筋もの皺を寄せながら
やがて滑り落ちた。
俯く顔の中では眉がハの字に下がって、ひどく快活さが失われている。
(どうして……? おかしいよそんなの…… だって……秋水先輩は)
彼は自分に対して優しかった。
学校の屋上で泣いていたまひろを帰宅途中、不器用ながらに慰め、寄
宿舎の近くで怪物に襲われた時は全力で助けてくれた。
さっきもまた一生懸命言葉を考え、励ましてくれた。
机から落ちたコンパスの針から守ってくれたのは無条件に嬉しかった
し、その後、珍しく照れていたのは可愛かったと思う。
けれどそこに斗貴子が来た。
様子がおかしかった。だから気になり管理人室に向かった顛末は前述
の通りである。
いやいやをするようにかぶりを振る。
信じたくない。元々楽天的でほわほわした性格だから、落胆しながらも
斗貴子たちが「ドッキリ」と描いたカンバンを持って部屋に入ってくる姿
すら期待した。
(そうだよ。きっと冗談だよ! みんなして私を騙して……)
一生懸命笑顔を作ってみようとする。でも口の端で筋肉が直角に強張っ
てしまいうまく笑えない。むしろ笑おうとすればするほど聞きたくなかっ
た言葉が蘇ってきてしまう。

──「自分が助かるためにカズキを刺し殺そうとした早坂秋水を!」

斗貴子が本気で怒る顔を、まひろは初めて見た。
剣幕からすればきっと言葉は真実なのだろう。
(なんで……? あんなに仲良かったのに、なんで秋水先輩が……?)
カズキと秋水といえば剣道で鎬を削り合う友だった。
時々はカズキが逆胴を喰らって死にかけはしたが、稽古中の事故で
お互い笑って済ましていたから、刺し殺す云々とは程遠い。
(それに……びっきーが化け物……?)
更に斗貴子の言葉が去来してきて、ますます頭の中がぐわんぐわんと
混迷の音を鳴らしてくる。耳鳴りと立ちくらみがする。立っている事すら
辛い。気づけばおぼつかない足取りでベッドに向かっていた。
この世にホムンクルスという化け物がいる事は知っている。
何故ならばまひろはすでに二度も襲われているからだ。
最初は足もとから現れた大蛇に丸呑みされた。
当初は夢だと思っていたが、銀成学園でひび割れた歪な三角頭の化
け物(調整体)に襲われた時に現実の存在と認識し、しながらも調整体
を真っ向から見据えつつ友人二人をかばったものだ。
それらとヴィクトリアと結びつかない。
彼女は人形のような外人の少女で千里になついている姿は抱きつき
たいほど可愛かった。
にわかには信じがたい。
頭から倒れ込むようにしてベッドに身を沈める。
スプリングが全体重を吸収して心地よい無重力感を与えてくれたが、
心理はますます暗い方向に傾いていく。
そういえばヴィクトリアは管理人室に居なかった。
どうなったのだろうか。
嫌で最悪な想像が駆けめぐり、心臓が跳ね上がる。
その時、携帯電話がなった。メール着信があったらしい。
たれパンダのように枕に顎を載せた状態で携帯を見ると桜花からで、
虚ろな瞳に「ヴィクトリアは諸事情により寄宿舎を飛び出した」という旨
の文字列が飛び込んできた。
……秋水の事に言及していないのは桜花自身、あの陰鬱な管理人
室で仔細を描く余裕がないからだろうか?
(私、いったいどうすればいいの。……お兄ちゃん)
アースカラーの携帯電話をパチリと閉じて枕元に放り出すと、すがるよ
うにカズキを思った。

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