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第036話 「歩いた先に」



どこまでも続く闇の回廊をただ一人で歩いた。
歩いて、歩いて、歩き続けた。
熱で頭が眩み、無音の通路に風吹く幻聴すら運んでくる。
ツと足を留め、ヴィクトリアは振り返った。
煉瓦が闇を囲いどこまでも伸びていく虚ろな通路に、変哲はまるで見
当たらない。
そう、自分以外の者が生息する気配はない。
人が追ってくる気配は、ない。
(そんなものよ)
再び前を向き、歩みを進め始める。
百年以上生きているから、かすかに芽生えた期待を分析し、文章体裁
のある感情論へ昇華するなど容易い。

『秋水がこの地下をひた走り、もう一度止めに来るのを望んでいた』

と。
けれど彼は来ない。
再び前を向いて歩きだしたとき、その事実に深い失意が生じた。
……いうまでもないがこの時、秋水はL・X・Eの残党を殲滅する必要
があり、苦渋の思いでヴィクトリア追跡を断念していた。
もっとも神ならざるヴィクトリアにその辺りの事実はわからない。
ただ、秋水が来ないという事実だけが頭を占める。
振り払うように熱い体を歩ませる。食人衝動に支配された体からみる
みると活力が抜け、ひどい空腹感が襲ってくる。いや、疲労と嫌気の
方が大きいか。
それら総てを肯定しつつ、だが解決はせずに歩く。
疲労や空腹が昂じて死ねるのなら、それでいいとすら思った。
やがて二時間が過ぎた。ヴィクトリアの体感時間ではもっと長い時間が。
しかし失意は拭えよう訳もない。
(そんなものよ)
砕けた期待が瞳の光を曇らせる。
彼の存在も寄宿舎の生活も、鬱屈した長い歳月に振りまけられたわず
かな金粉にすぎなかった。そう思わざるを得ない。
粉が少しずつ集まって輝く欠片になり、失った物の穴埋めを仄かに期
待していた。だが性質ゆえに欠片をいつか砕いてしまう。その音を聞く
のがたまらなく嫌だから、砕くより先にみずから払いのけて闇に散らした。
それを秋水の手にもした。
けれど時間が経つにつれ、自分ですら肯定できぬ割り切れなさが芽
生えてくる。

考えようとすれば解決策など幾つも発見できたのだ。
秋水は戦士の中でただ一人それを提示してくれた。
にもかかわらずつまらない意地と恐怖が思考を奪い、逃げるしかなかった。
(それだけの事よ。そう。たったのそれだけ──…)
百年生きた者としての理性をヴィクトリアは恨んだ。
ただ相手をこきおろして満足する少女として生涯を終えていれば、付与
された忌まわしい性質と無暗に肥大した理性のせめぎ合いで苦しむコト
はなかった。
人は不老不死を求める。だがその生涯は解放される瞬間がなければ
生き過ぎた者の苦しみだけを与えてくる。
(まるで今見たいね。地下の殺風景な闇の道を一人で歩くような……)
自分の武装錬金を冷たい目で一瞥して、また歩みを進める。
そのまま誰にも知られず歩き続けていればいつかは死ねる。
淡い期待を抱いて歩みを進めるしか、自分に残されていないように思
われた。

……人の出会いと別れはまるで予測できないものである。
世界に渦巻く必然と偶然。
その配合率を知り、操れる者は誰一人としていない。
ただ流れるまま人は人と巡り合い、消えゆく絆を刹那の中で愛でている。
この時。
長く伸びる避難壕の向こうで、一つの必然がヴィクトリアを待ち受けていた。
そして”それ”と出逢った時、彼女は新たな行動指針を手にする。
傷心に動く足がたどり着くまであと僅か──…

ヴィクトリアが暗い地下をさまよっている頃。
聖サンジェルマン病院の病室の一角で、桜花は目を丸くしていた。
そこは秋水が入院している部屋……の筈だった。
だが彼の姿はない。
一時間ほど前はそこにいた。だが今はいない。
無人の部屋を無言で見詰める桜花の眼は鎮痛に彩られ、彼女は首を
横に振った。
繊手がスカートのポケットにすべり込み、パールピンクの携帯電話を
引きずり出した。

防人がその報せを知った時、ひどく鋭い疑問符が彼に突き刺さった。
小さな手がちゃぶ台に乗って、湯飲みでで振舞われたお茶の鮮やかな
水面をゆらゆらと揺らす。
そして桜花から受けた連絡をそのまま説明した時、一陣の風が寄宿舎
管理人室に吹き、小さな影が廊下へと排出された。
「…………捕捉はできているけど」
「合流するまで秋水じゃない方を見ていてくれ。夜道は危ない」
「すぐ合流できるの? ヘルメスドライブでもない限りすぐには」
「彼女なら分かる筈だ。分からなくても、桜花がきっと連絡する」
防人の呟きに千歳は首を傾げた。

銀成学園の屋上で、秋水は疲労色濃い吐息をついた。
L・X・Eの残党殲滅後に病院へ収監されたのも束の間。
わずかな気絶の時間を経て彼は病院を抜け出し、町中を彷徨っていた。
そしてヴィクトリアの姿を求めていた。
千歳に頼みヘルメスドライブを使えばいいと頭の中で正しい声が何度も
何度も告げていたが、どうしても自分で探し当てねば先ほど追えなかっ
た贖罪ができないような気がして、そのまま歩いていた。
だが、当然見つけるコトはできない。
まず彼女が消えた下水道処理施設近くを歩いた。
当然ながらすでにいない。
そこから道なりに歩くと繁華街に出た。
歩いた。
ボロボロの学生服で傷だらけのまま歩く秋水を、すれ違う者たちは一
体何事かと秋水を振り返った。
歩いた。
道中何度も血を吐いた。逆向の放ったブライシュティフトが肺腑を抉っ
た時の後遺症らしい。そう秋水は、排水溝へ流れていく赤い液体を見
ながら分析した。
思えば病院を抜け出して彷徨っている状況は、かつて桜花と共にL・X・E
へ拾われた時と似ている。
違うのはそのL・X・Eが地上からすでに消滅しているコト。
彼はそれの残滓と向いあい、全滅の引き金を引いたのだ。
雲が晴れたらしい。金の光がさぁっと秋水を照らし、溝に垂れた血液に
ドス黒い影を伸ばした。
(月、か)
忌まわしい印象がまずよぎった。

「戦士になったとしても君は私と初めて出会った夜のようにずっとずっ
と無力のまま。無駄な努力はやめて、さっさと諦めたらどうだい?」

ムーンフェイスの言葉がよぎり、拭えない。
(それでも俺は)
月に抱くもう一つの印象を支えに。
歩いた。
やがて明かりのついた店が一つまた一つと秋水の両脇から消えてい
き、閑静な住宅街を通り抜け──…
気づいたその時、銀成学園の前にいた。
彼は自分の取った行動に疲労困憊ながらに驚いた。
L・X・E時代に桜花と二人して何度も特殊な手段を使って学園内に忍
び込んだコトはあるが、それをこの時再び実行したのである。
幽鬼のように青ざめた顔で彼は階段を求めそれを上りつめ──…
屋上に出た。
首を上向け視線を送る夜空には、月がまばゆいばかりに輝いていた。

一連の行動の是非を問われればまったく感情任せの無駄な行動と秋
水は答弁せざるを得ない。
第一、再び逢えたとしてヴィクトリアを救える保証もない。
秋水は自分という物を知っている。
剣技とそれに熟達せんとする意思のみでこれまでを生きてきた。
持っているのはそれだけだ。
カズキのようなひたむきさもなければ、桜花のような弁舌も持ちえて
いない。
月を眺める。
そこにいる彼の存在を前提に、秋水は戦士になった。
(だが……やはり君のようにはいかない)
自らに勝ちたい。
それが贖罪になると信じて開いた世界に身を晒したが、今は様々な
コトに揺らいでいる。
掌がひどく寒い。
大事だった確かな感触すら忘れてしまいそうに寒い。
屋上の入口からゆっくりと秋水は歩みを進めた。
足下に延びる長い影は、給水塔の者らしい。
その暗さから逃れるように歩いた。
(直面して初めて分かる)
人一人を救うというコトが、どれだけ難しいか。
カズキはそれをごく自然に成していた。
才覚や技術があるからではない。姿勢の問題だ。
ずっと他者のために戦い続けてきたからこそ、その信念を貫くための
行動が身に沁みついていた。
剣道でいうならば、体さばきや打ち込みといった技術をおろそかにせ
ず、何千何万と繰り返していたようなものだ。
だから土壇場で人を助ける行動を反射的に出せた。
桜花や秋水に手を差し伸べ、救うコトができた。
(俺はどうだろうか)
他者を思う期間があまりに短すぎる。
カズキに救われ、世界の中で戦うコトを決意してまだ半年も経ってい
ない。
まひろを寄宿舎に送ったり、ヴィクトリアを銀成学園に勧誘したり、剣
道部の面々に稽古をつけたり。
(数えられるほどしか、俺は他者のために動いていない)
剣道ならばようやく踏み込みの仕方が分かりはじめた状態。初心者も
いいところだ。
救おうとするヴィクトリアは心を強く鎖している。
しかも行き掛かり上仕方なかったとはいえ見捨ててしまった。
(俺は……追いかけられなかった)
カズキなら残党の殲滅とヴィクトリアの救済を同時に成せたと秋水は
思う。
その手段はいくら考えても分からない。
ただヴィクトリアの秋水に対する心象は恐らく最悪の状態だとは思った。
そんな彼女を救おうとするのは、剣の初心者が有段者を下そうとする
ほど難しい。
鍛錬なくして強さを求められなかった秋水だからこそ分かる。
技術もなく経験もなく、ただ一念のみで結果を出そうとするコトの困難
さを。
ただ敵を倒せばいいという問題ではない。
相手の心情を斟酌し、納得できる答えを導いてやらなければ、ヴィクト
リアは未来永劫救われない。
もし秋水の説得を聞き入れず、他のホムンクルスと共に戦士への復讐
を選択してしまえば取り返しはつかなくなる。
大げさで勝手な言い方をすれば、秋水はヴィクトリアの命運を握ってい
るのだ。
その責任が心に重い。
月を見る。
最後まで戦い抜き、傷だらけでも笑えたお人よしの恩人がいる場所を。
彼がもし地上にいて、激励をかけてくれればどれほど心強いか。
けれど空虚な掌は、彼が地上にいないのを告げている。
いるのは見上げる月なのだ。
そこできっと、皆を守る為の闘いを繰り広げているからだ。
その苛酷さは秋水の苦しみよりはるかに大きい。
だから頼れるはずがない。
(……)
いつの間にか屋上の端に秋水は居た。
屋上の手すりに手を伸ばすとひんやりとした感触が走った。
消耗した体にはその刺激すら悪いらしく、おぞましい寒気が何もかも
奪っていきそうな気がした。
(やるんだ。一人でも)
踏みとどまる様に手すりを握りしめ、いい聞かす。
(彼に出逢うまで俺はずっと一人で姉さんを守ってきた。それに今は)
最終的に世界を一人で歩けるようになるため、いまは鍛錬を積んでいる。
(そうだ。だから一人でも──…)
踵を返した瞬間。
まるで狙い済ましたようにざわざわと風が吹いた。
天蓋なき屋上に、木々のざわめきが嫌というほど聞こえてくる。
秋水はそれに溶け込みそうなぐらい、静かに息を呑んだ。
心臓が一瞬はねあがり、後はひりついた緊張の熱が全身を緩やかに
侵食してくる。
何故かかぐわしい花の匂いが風に混じっているような気がした。
月光にうっすらと照らされた床板の向こう。
キラキラと金に瞬く真新しい給水塔の下。
昇降口のドアの前。
一体いつからそこにいたのだろうか。
まったく分からない。
もしかしたら、出逢ってしまったあの夜。
彼女もいまの自分と同じ心情だったのかも知れない。
そんなどうでもいいコトを考えてしまうほど、狼狽していた。
風はまだやまない。
どこからか飛んできた蒼い木の葉が空間の中で何枚も躍っている。
だから彼女は、ウェーブのかかった緩やかな栗毛を耳の前で抑えなが
ら、呟いた。
「……こんばんは」
武藤まひろは、いつものような明るい笑顔に戸惑いと緊張を織り交ぜ
てそこに居た。


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