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第038話 「天空高き月の遥か遥かその下で(後編)」



「先ほどまで俺は一人で月を見ていた。その時は気負いの方が多かった」
「気負い?」
ああ、と秋水は短く返事をして
「彼女を一人で救わなければならないという気負いだ」
と告げ、更に
「だが、それはどこか無理があったように思う」
と締めくくった。
まひろは平素何かと奇行が目立つが、こういう意見に対しては実直らしい。
「そうだね。無理は駄目だよ。秋水先輩だって私に相談してほしいっていったんだし、他の人
に相談した方がきっといいよ。それに」
まひろは微笑しながら秋水の掌をそっと掴んだ。
あまりに自然すぎる挙措に、秋水は一瞬そうされたのも気づかず、指と指が絡む過程に身を
任せるままだった。
「ブラボーから聞いたよ。秋水先輩だって見捨てたくてびっきーを見捨てたワケじゃないんでし
ょ? だったらもう一度会って、それをちゃんと説明したら分かってくれるよ。怖い人たちから寄
宿舎を守るためだったーって。あ、でも謝らないといけないけど……」
謝る、という単語にまひろはちょっと身を固くして、秋水から軽く視線を外した。
秋水は自身を係留する少女の手が、彼の大腿部の横で熱と鼓動に震えるのを感じた。
感覚は思考の「不自然」というカテゴライズへ変換され、秋水は内心で首を傾げた。
(ヴィクトリアに謝るのは当然の事。彼女が気にする必要はない。だったら何故──…)
秋水は息を呑んだ。呑むと同時にその気配がまひろに伝達するコトを恐れた。
謝る。
という単語ほどここしばらくの秋水を苛み、同時に活動のバネを構成する重要事項はないで
あろう。先ほどまひろに覚えた猜疑がまた首をもたげてきた。
何故ならば秋水はカズキを背後から刺している。
だからカズキに謝らなくてはならないし、その妹であるまひろにも同等の責務がある。
その一時に思い当たればまひろが『何を知っているか』はもはや質疑に掛ける他ない。
秋水ほど今まで生来の生真面目さで言葉を呑んだ男もいないだろう。
その慣例と罪人の恐怖が見えざる重りとなり舌をひどく鈍く運動させた。
「君はもしかすると……」
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
妙に早口なまひろは言葉を遮るように、繋がった手を離さぬままふんわりとした胸の前に持っ
て行き、更にもう片方の手で包み込んだ。
「きっとびっきーだって秋水先輩を待ってる」
小さな、クルミを潰そうとすれば逆に割れて砕け散りそうな小さな手が
「ね?」
ぎゅっと秋水の手を握った。
「あ、ああ」
まるでカズキにそうされているような確かさがあって、様々な感情が走る。
処理が追い付かない。何をまず感じ何をまず話すべきかという出鼻をすっかりくじかれた
ただカズキに握られるよりも生々しい感情が脳髄を炙っているような気がして、それきり二の
句が告げなくなりそうになった。
だが彼は意を決した。
先ほどの疑問をそのままにしておくのはまひろの為にならないと思った。
もし彼女が知っているとすれば(現にそうだが)、謝罪の責務は明確なる質量を帯びてすぐさ
まの履行を迫っている。
決意に至るまでは早かった。いやこの場合、行動が先行し決意を後付に任したというべきか。
「武藤さん」
手をゆっくりと解くと、秋水はまひろを見据えた。
目の前の少女は小動物のような瞳を一瞬震わせて、「な、何?」とおびえながら聞き返した。
「俺は、一つ君にどうしても謝るべき事がある」
二人は気付かなかった。
この時、屋上からかなり離れた昇降口の傍で小さな影が蠢くのを。
ただし数秒後彼らは命運に介入されるコトで初めて”それ”を認識するが。

「で、どうするんだ?」
「しつこいわねアナタ。どこからどこまでが本題なの?」
ツンとした表情で正面切って見据える少女に、総角はやれやれという調子で一息吐いた。
「食糧確保。人喰いの衝動を抱えたまま地下を歩くのは何かと具合が悪いだろう」
ヴィクトリアは一瞬その正論さを認めた。
実際のところ、解決すべき手段はある。歩いているのは無意識にそこへ向かっているからか
も知れない。もっとも意識を占めているのはそこへ向かわず地下で干からびて死ぬ方だが。
「良ければだが、これで女学院の地下まで送ってやるぞ」
総角は手首にある六角形の楯を叩いた。ちらりとその音源を見たヴィクトリアは、それがヘル
メスドライブという瞬間移動可能なレーダーの武装錬金だと知れた。
かつて千歳とちょっとした経緯があり知悉している。
だが総角がそれを使用している経緯や、そもそも彼が女学院地下にある母子の古巣の所在
までも知っているコトに疑問は生じたが、やはり聞く気にはならない。
「今まで食糧を作っていた設備はまだ、あそこへ置いてあるのだろう?」
もはや眼前の男は何を知り使えても不思議ではないような気がしてきたが、それだけだ。
「誰がホムンクルスの手なんか」
「フ」
いうと思った。そういう顔をすると総角は手元から何かを放り投げた。
反射的に受け止めたヴィクトリアは、それが紙製の筒だと知った。
髪を留めているヘアバンチより一回り長く、そして細い。
「地図だ。実はこの近辺にクローンを作れそうな設備がある。おっと。戦団とも共同体とも俺達
とも無縁……そう、『今は』持ち主が不在の”とある場所”にそれは今も置かれている」」
「その所在を入れたという訳」
つまらなそうに地図を広げたヴィクトリアの視界の右下に、赤い丸で囲われた部分がある。
どうやら何かの建物を囲っているらしい。
地図上に散らばる他のそれとは一線を画して大きい。
もしかすると寄宿舎よりも広い面積を占めているのではないかとヴィクトリアは思った。
もっともそれは「感想」であり「許容」ではない。ない以上、口をつく物は決まっている。
「おとなしく行くと思うの?
「フ。借りを作るコトを警戒しているのなら心配は無用。たかだか地図一枚貸し付けて偉ぶって
は部下に示しがつかん。まぁ小札相手なら無理な貸しを押し付け、可愛くうろたえさせるが」
愉悦と照れの混じった声で語る総角をヴィクトリアは蔑視した。
気難しい少女は軽薄極まりない男をどうしても許しがたい。
「ただの親切心さ。フ。困ったコトに俺は望まずして群を抜いた知的生命体に生まれついた」
「はぁ?」
鼻白みが増した。総角は自意識過剰でありながらその過剰さに対して無自覚なのだ。
仮に自覚があったとしても、マイナスの印象をさらに下方修正する材料にしか成り得ない。
「他の知的生命体が困っていたら群の抜きっぷりを削って無償で分け与えたい。そうして困る
原因が消える様のみに喜びを覚えたい。知識や技術は本来そう用いるべきだ。違うか?」
総角は拳を胸の前で固めつつ熱っぽく力説した。締めくくりには恍惚とした表情で前髪をばさ
ぁっとすくってキラキラ光る粉を振りまいたからヴィクトリアはたまらない。
「つまらない御高説ありがとう」と皮肉りつつ、眼前の自信家の足元をすくいたくなった。
「でもそれは所詮あなたの自己満足。私がいちいち付き合う必要はあるのかしら?」
こういう時のヴィクトリアの意地悪い表情は他者に真似はできない。
低身長ながらに冷たい瞳孔で相手を見下し、ありありと勝ち誇った笑みを浮かべるのだ。
「ほう。いいのか?」
さりとて総角は子供をあやすような余裕ある微笑を浮かべたから、またもたじろいだ。
「何がよ」
毒気を余裕で包括されるのは、マムシが血清持ちに挑むような不利がある。
比喩を続けるとその場合のマムシは毒枯れ果ててもなお牙を向けるが、こまっしゃくれた少女
は毒が通じないのを悟ると途端に戸惑ってしまうらしい。それは毒の目的が破壊ではなく優越
感のためなのだ。想像はつく。通じもしない毒をなお送ろうとする様はただ滑稽……
「俺が地図に書き込んだ場所は、お前の父親がしばらく眠っていた場所だぞ」
ヴィクトリアは声帯から漏れた小さな声に、自分自身でも驚いた。
(パパが……?)
また目を丸くした少女に気を良くしたのか、総角の声はますます朗々の意気を帯びた。
「同時に彼を復活させた友人の、かつての住居でもある。その名は……」

「その〜 先ほどお渡しした紙ですが場所につき変更となりましたのでご連絡を!」
世界はままならない。
時に言葉を自壊せしめ、又は逼迫した言葉に殺されるのだ。悲しみの向こうで。
秋水が咎をまひろに語ろうとした瞬間である。
彼らは屋上の片隅にいたが、そのほぼ対角線上ともいえるほど遠い場所で、爆音が巻き起こ
った。
爆音、というのはそれまでの静寂があったからこそ爆音と錯覚したのであって、実際にはせい
ぜい住宅街で犬がわんと吠えるぐらいの音だった。
音の大きさを表す単位にデシベル(db)があるが、これでいうと上記の音はせいぜい九十デシ
ベルほどであり、自動車のクラクションが百十デシベルなのに比べるといかに秋水たちが感じ
た”爆音”がその突発ゆえに大きく聞こえたかお分かりになるだろう。
音の近くで小さな黒い影が蠢いていた。
のちに秋水が回想して気づいたが、どうやら影は地べたから立ち上がっているところだったら
しい。”爆音”と併せて考えると、影は転んでいたようだった。

(あわわ、邪魔してしまった邪魔してしまった邪魔してしまった……くすん)
影──…小札は半泣きでズボンの膝から土ぼこりをたんとんと払い落しながら、必死に内心で
謝り、続いて内心で実況を始めた。
(くぅ。落ち込んでいても仕方ありませぬゆえココは地の文を侵食するコトお許しを!)
誰がさせるか。影から秋水とまひろを出歯亀してたらコケてばれ……ちょやめ離せ何をする。
「実は不肖、水道処理施設でムーンフェイスどのにびっくりして逃げた後、そろーっと戻って秋
水どのをまた尾行していたのであります。されどされど屋上で思い悩む姿を見ますれば、どう
して声など無遠慮に掛けられましょうか。若人の悩みは真理に到達すべき尊い儀式! なれ
ばこそ横槍横車の類を以て妨害するコトは正に真理への冒涜でありましょう。などと悩んでい
るうちに何やらワケありのお嬢さんが、それはもう不肖より年齢低く身長高いお嬢さんが到来
されたからもはや不肖は成り行きを……いえいえ本音を吐露するなれば、元より実況を好む
不肖ゆえ、この世のあらゆる現象を目に収め、それを言葉に翻案せねば収まらぬのでありま
す。よって若い二人のやりとりを好奇に導かれるまま観戦しておりましたがそこはそれ、もは
や対角の彼方に在るお二方ゆえ全ての様子が見られない! しからばと不肖は意を決し、足
を踏み出したればそれが災い、きっとかつて桜花どのがドンパチされた時空いた穴でありまし
ょう、不自然な穴に不肖はつま先を引っかけドデバンと九十デシベルの音量響かせながら転
倒し、秋水どのの重大告白の機会を喪失せしめ、ワケありお嬢さんの期待も打ち砕いた次第。
ああ、敢えて誤用すれば三方一両損! ……このじんじん響く痛みは膝の物だけではないの
です」
「大体の事情は分かった」
小札は仰天して頭のシルクハットをぽーんと浮かせた。
「ぬぬ、不肖の内心が分かるとは! 剣術の究極の型には読心織りなす心眼があるといいま
すか、まさかそれを? 歴史上では明治十一年、京都を火の海にせんと画策した集団に……」
「何の話だ」
「まぁそっちはともかく、声が漏れてたんだよ」
まひろの指摘に「きゅう?」と首を傾げてから小札は前述の文を見て「きゅう!」と唸った。
「何という失策……もはや去るほかありませぬ。よって場所変更の儀をお伝えする次第」
小札は踵をそろえるとロッドを高々と突き上げ、肩の前でおさげを揺らした。
「場所は……」

「蝶野屋敷。今の通称はオバケ屋敷。もしかすると寄宿舎生活で聞いたコトがあるかもな」

総角はその名前を、楽しそうに呟いた。


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