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第039話 「暁遥か前、暗幕透ける記憶を祓い」



地下でヴィクトリアは小さな唇から言葉を漏らした。
「蝶野屋敷」
総角はいう。そこでかつて父・ヴィクターが眠っていたと。
そしてヴィクトリアを惑乱してやまぬ忌まわしき食人衝動を解消する術がそこにあると。
だがしかし今さら食人衝動を解消したとしてどうなるのだろう。
ヴィクトリア自身はすでに寄宿舎を去るコトを決意したのだ。
(例え今の衝動を解消できたとしても……)
千里に会えば再び蟲惑的な飢えと餓えが柔らかな腹の内からじんわりと染み出て、喘ぎの中
で見に取り込むコトを自律の遥か外側で祈るだろう。
思い返せば寄宿舎に来た当初の自分は愚かなほどに楽天的だったと臍を噛む。
定期的に母のクローンを食べさえすれば他のホムンクルスのように苦しまないと信じていた。
百年の経験則はそうだった。
(……でももう誇れない。何も考えずに頼った結果が今だから)
所詮は不遇の立場を受容するだけの、楽な場所で外界との軋轢を取り払って楽に楽にと苦
節を避け続けたゆえの『経験則』なのだ。
自宅の冷蔵庫からハムを出して焼くコトが出来ても、社会の中で食物を獲得する術にはつな
がらない。狭い世界の一部だけを見ていたから世界にたゆたう無数の問題へ対処ができない。
ちょっと生活の調子が変ってちょっと母親に似た人間と仲良くしただけで、こうだ。
一つ、明確な自分への言葉が浮かんだ。ただしそれは自分の声の形態をとっていなかった。

「友人とやらに慮って寄宿舎を離れた? 違うな。貴様はただ惨めに逃げているだけだ」

何故かかつてニュートンアップル女学院の地下でみた、奇妙ないでたちの男の声だ。
母親の話では彼は若干二十歳にして優秀な錬金術師だったらしい。
その事実に対し、微かに自らの年齢と比して思うところもあった。
だからだろうか。彼の声をいま想起したのは。
(そういえば)
彼の覆面は『蝶』だった。
総角が告げた『蝶野屋敷』と結びつけるのは早計だろうか。
思案に暮れるヴィクトリアの耳にわざとらしい咳ばらいが突き刺さった。
「何? まだ居たの。用は済んだでしょ。さっさといなくなって」
総角はこめかみをポリポリ掻きながら「ひどいな」と渋い笑いを浮かべた。
「今からする質問で本当に用は終わる。そう邪険にしなくてもいいだろうに」
(こいつより例の蝶々覆面のホムンクルスの方がマシね。比較論でだけど)
露骨に冷たい視線を送ってやると、総角は少し早い口調で語りだした。
「俺の顔に見覚えは? いや……正確には俺より老けた顔に、見覚えは?」
「……あるわよ」
「ほう。いつのコトだ? 最近ならば嬉しいが」
「残念ね。ずっと昔。百年ぐらい前。この前夢に出て思い出したけど」
この前というのは寄宿舎に転入した日の夜のコト。

独りきりの幼いヴィクトリアにクローン技術を教えにきた金髪の男。
年の頃は二十代の半ばをすぎているだろうか。
すらりと通った目鼻立ちは総角とほぼ同じ。
ただし総角がおおよそ十七〜八歳であるから、年齢分の変化が見て取れた。
更に差異を述べるとすれば、夢の中の男は気真面目そうだった。
そんな彼はいった。
「いいかいヴィクトリア。これから教えるコトはいまの君にはとても難しいと思うけど、頑張って
覚えるんだ。この技術を君のママに教えたのは俺だから、頑張れば君だってちゃんとできるよ
うになる。いいかい。君は人間でいたいな? いたい筈だ」
その胸で淡く輝き服を透過する光の形は、章印。ホムンクルスの証だ。
不思議な光に照らされ、認識票が首に掛かっているのが見えた。
語りながらヴィクトリアは、回想の男とまるで同じ認識票を総角が付けているのに気づき、か
すかに仰天した。
ただ違うところは、回想の男の認識票には

「MELSTEEN=BLADE (メルスティーン=ブレイド)」

とあったが、総角が胸にかけている二枚重ねの認識票には何もない。
他に違う点があるとすれば、戦団を語る時の顔か。
ヴィクトリアは夢の中で見た。
総角に似た来訪者が目を狂気に染めるのを。

「どれだけの星霜を経ようとも、奴らだけは必ず滅ぼす。奴らの総ては必ず滅ぼさなくてはな
らない。そうしない限り、たとえ君の父をここに取り戻しても……」

それまではどこか中世的な優しい面持ちだったのに、頬を限りない失意と怒りに引きつかせ、
ドス黒い闇を宿した瞳で彼方を睨んでいた。
であるのに総角が戦団を語る時は、まだ親しくない隣人と良好な関係を気付きたいという穏や
かな意志に満ちている。

一瞬、本当に一瞬、老若の時系列も無視して夢の中の人物と総角が同一人物である可能性
を抱いたヴィクトリアであるが、あまりに性質に違いがありすぎてその考えを瞬時に打ち消した。
(仮に記憶喪失なら自分の顔を知っているかどうか聞くかも知れないけど)
百年前より若くなっている説明にはならない。
夢にいた百年前の人物は二十代半ばを過ぎていた。総角は十七〜八。
ホムンクルスは不老不死だが、加齢とともに若返るコトはない。
それはもうヴィクトリアが正に「身を以て」実感している。十三歳の頃からまったく同じなのだ。
核鉄はどうか。治癒力を活発にするが、それは元ある生命力の強制変換に依るものだから
長期的な視点からすればむしろ老化を促しているだろう。
その他の錬金術の産物にも、若返りの集団はないのだ。
(もしあるのなら)
ヴィクトリアが目を伏せたのもむべなるかな。
彼女の母・アレキサンドリアは脳だけをクローン増殖しながらも老衰で死を遂げたのだから。
……その感傷がヴィクトリアに一つの、錬金術の代表的な産物による若返りの可能性を描か
せなかった。正解かどうかは別ではあるが。

とにもかくにも、様々な思惑を孕みながらヴィクトリアの口頭伝達は終わった。

総角は腕組みしてうんうんと頷いた。
「惜しいな。知りたかったのは今の所在に関する情報だが、それでも奴が戦団を憎悪する理
由が分かったのは収穫だ。感謝する」
ヴィクトリアはその態度に鼻白んだ。
一人で納得されるのが気に入らない。
かといって聞くのも気に入らない。
質問は情報的弱者であると認めるに他ならない。
優位を誇る相手へそうすれば益々の増長を招くのだ。
少なくても一種偏狭なヴィクトリアはそう信じている。
「しかし、なんだなぁ」
総角はヴィクトリアの頭のてっぺんからつま先までをツツーと見て、最後に口元を凝視した。
「………………と兄弟筋なのが少しぞっとする」
朗々とした声と表情が一瞬ウソのように沈んだから、最初の言葉は聞き取れなかった。
ただヴィクトリアがムっとしたのはそのせいではなく、終始自分の情報を得るか語るかしない
総角のペースがそろそろ怒りを臨界に押し上げたからだ。
「何よさっきから。どういう意……」
「まぁ地図は預ける。行くか行かないか、お前が決めればいいさ。おっと俺なら気にするな。
親切心が受け入れられないコトはままあるコト」
総角の動きは素早かった。そのまま左手のヘルメスドライブにペンを当てて地下から消えた。
残されたヴィクトリアはやるせない。
「本当に何よ。いうだけいって……」
手持無沙汰に地図を見る。
赤い丸で囲われた部分へ目が吸い寄せられるのを、ヴィクトリアは禁じえない。
(パパの居た場所……)
ずっと前に生き別れて、今となっては生きて再会できるかすら分らない唯一の家族。
「……少し癪だけど、どうせ行くあてもないからいいわよね…………ママ」
地図を丸めると、ヴィクトリアは額の汗をぬぐい去り、確かな足取りで歩き始めた。

「フ。あのお嬢さんは百年前に見た男より俺が若いコトを疑問に思い、解答を求めただろうな」
蝶野屋敷の屋根の上に空間跳躍した総角は一人ごちた。
「ホムンクルスの不死性、核鉄、その他の錬金術の産物……それ以外の可能性」
果たして思い当たったかなと風に吹かれながら言葉を紡ぐ。
「武装錬金の特性ならば若返りもあるだろう。例えば鐶のクロムクレイドル・トゥグレイヴ」
年齢のやり取りをキドニーダガーと行えば可能であるだろう。
総角も自らの武装錬金の特性で上記は達成できる。
「もっともそれも不正解」
しなやかな黒い影が、月を背後に飛び上った。
かつてここにいた孤独な青年がそうしたように。
一つ違うのは影の手元から細長い影がスルリと出でた所だ。
影は足を天空に突き上げるような形をとりながら、ゆるゆると落下していき──…
地上に激突。
いや、正確には
「されど俺も産物の一つ……フ」
真意不明の総角の呟きと同時に、手先から伸びる六十センチほどの細長い影がいちはやく接
地し、そのまま稲光を迸らせながら影を地下へと呑みこんだ。
「舞台は整い、後は時を待つのみ。ちなみに今飛んだのに意味はない。俺らしくカッコいいから
やっただけだ!」

かくして秋水とヴィクトリアの目的地は──…
蝶野屋敷へと定まる。

ただし彼らはまだ気づいていない。
総角、そして小札が目的地に「蝶野屋敷」を指定したその真意を。
やがて朝日が昇り転機は過ぎ去るだろう。
然るに転機のもたらす結果には二種類ある。
解決か頓挫か。
人類史上、転機が解決に帰結した場合、それは自然の流木がごとき漠然さをはらんでいない。
仮に一見して巨大な幸運が主因としても、要因を分解していくうち必ずそこにいた人間の明確
なる意志や必然的行動、劇的なる決断に突き当たるのだ。
後の秋水はそれを身を持って知るコトとなる。
血潮と苦慮を振り絞り、なお援助を得る。
そういう天然自然の営みの枠から外れた人道の努力と連鎖なくして解決は得られない、と。


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