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第040話 「蝶野邸へ(前編)」



 剛太は幼い頃に家族全員をホムンクルスに殺された。
 といっても物心つく前の出来事だからホムンクルスに対する明確な憎悪はない。
 会えば容赦なく殺そうとするのは、自分の立場に対する現実的思考と、尊敬する斗貴子への
同調がそうさせているだけなのだ。
 信奉者、というホムンクルスにつき従って彼らが人を喰いやすいよう裏工作をする人種に対
する悪感情もまた同じく。
 そんな彼が最近、元・信奉者の女性に付きまとわれている。
 客観的にいえば彼女は美人だ。黒い髪を腰まで伸ばした清楚な雰囲気漂う和風美人。肢体
も隅々まで豊麗で、初対面の時は斗貴子一筋の剛太ですら不覚にも目を奪われかけたほどだ
が、しかし元・信奉者というコトに変わりはない。
 何しろ彼女の一面が投影された武装錬金はヒドい造りの毒舌人形。
 その一時だけでもいかに「元・信奉者」に相応しい性質かが分かる。
(なのにどうしてか強く跳ねのけられねェ)
 明け方の病室で剛太は天井を見上げながらふうと息を吐いた。
 今日はいつもより早く眼が醒めた。二度寝しようとしたが療養のために何かと寝てばかりい
る肉体には疲労物質が在庫切れで、過度の睡眠と物々交換できそうにない。
 まさかナースコールを押して睡眠剤を打ってもらうワケにもいかないので、手持無沙汰に上
体を起こして腰までシーツに埋めたまま、取りとめのないコトを考えていたら「元・信奉者」の課
題に突き当たった。ご丁寧にもその突き当たった音は幻聴にすらなり、コンコンコンと三度も耳
に響いた。
 その音のリアルさが真剣に元・信奉者を考えている証に思えて、剛太は世にも情けない顔
つきで首を振った。
(だーもう。先輩以外のコト考えるなんてどうかしてるって! くそ、こうなるぐらいなら売店で本
でも買っときゃ良かった!)
と思うもののマリンスポーツが好きなアウトドア派な剛太が果たして小説という長ったらしい文
字の羅列と数時間同じ姿勢で向き合えるかといえばノーだし、漫画というのも幼稚に思えたの
で却下した。まして下賤下劣な情報を垂れ流すだけの週刊誌の類は最初から視野にない。要
するにビブリオマニア(本好き)とはとんとご縁がないようだ。
 病室のドアが開いて廊下に響く朝の微かな喧噪を病室に入れた。
(第一売店閉まってるしなぁ。……クソ)
 男というのは勝手な生き物らしい。
「あら。返事がないから容態を心配したけど元気そうね」
(こういうヒマな時にはあの元・信奉者来ないのな。は、やっぱ元・信奉者だから役立たねェ!)
 さんざ疎んじていながらも、自らの心に生じた空白を埋めないと分かると、内心で半ば八つ
当たり気味に毒づいた。
同時に病室のドアがばたむと閉じてつかつかとたおやかな女性がベッドの横に座った。
「おはよう、剛太クン」
「ああ、おはようございます。……って、ええええ!?」
 仰天の形相でスペシウム光線の出来そこなったポーズをしながら剛太は数十センチばかり
飛びのいた。もし点滴をしていたら針が抜けてちょっとした騒動になっただろう。
 見れば当たり前のように憎い(?)元・信奉者が座っているではないか。
 彼女は剛太の狼狽を興味深そうに濡れた瞳で眺めて、それからくすりと笑みをこぼした。
「ついさっきよ。いろいろ気遣ってノックしたけど聞こえてなかった?」
 椅子に座ったまま上体を乗り出す桜花の見事な黒髪がシーツの白にわだかまって何ともい
えない雰囲気を醸し出す。
(もしかするとさっきのコンコンコンはノックか? 幻聴じゃなかったのかよ)
 ひたいに手を当てて大仰な溜息をつく。
 不覚。存在に思い煩うあまり存在にしてやられるとは。
「で、何の用ですか?」
 努めて声にトゲを含ます。斗貴子への媚態がウソのようだが、媚態あるが故のトゲである。
 要するに「斗貴子先輩以外の女には興味ありません」だ。
「お見舞い」
桜花はまったくそんな機微を知らない笑顔で受け流した。
「お見舞いって」
 額から手が剥がれ、訝しそうな垂れ目が桜花を見た。
 考えてみれば桜花の来訪はいつもより早い。不意を突かれたのはそのせいでもある。
「こんな朝早くから何してるんスか。一応戦団に従っている以上、他にやるコトあるでしょ?」
 口調はややぎこちない。以前桜花から敬語は使わなくていいといわれているが、どうも抜け
きらない。
「弟が任務で負傷しちゃって…… その手続きとか身の回りの世話とかで」
 朝早く聖サンジェルマン病院に居るというワケなのだろう。
「って。だったらその弟の部屋にいればいいでしょう」
「……ちょっと事情があって、ね」
とまた桜花は沈んだ顔つきをする。或いは剛太が強く桜花に出れないのはその表情のせい
なのかも知れない。
 ただその顔がいきなり真剣に自分を覗きこんでこういったのには度肝を抜かれた。
「ねえ、剛太クンにとって津村さんは大事な存在でしょ」
「そうっスけど」
斗貴子の話題となれば俄然真剣になる剛太だ。気圧されながらも桜花の瞳は確かな眼光で
射ぬいた。
 それで何故か彼女は安心したようだった。
「できるコトがあれば何でもしたい、そうよね」
「当然!」
「じゃあ私と同じね」
 桜花はこんなコトをいった。
 彼女とその弟の事情にひどく関わっているから半分ぐらいは剛太に理解できなかったが

 昨日、諸事情で傷ついたまま秋水が街を彷徨していた。
 そんな彼を桜花はエンゼル御前で探した。屋上にいるのを見つけた。
 けれど。
 桜花はそこへ行かなかった。
 代わりにまひろに連絡して、励ますよう頼んだ。

という所だけはひどく印象に残った。
「だって私がいつまでも助けてたら、秋水クンは自立できないから……」
湿った瞳が別の湿り気をにじますのを剛太は認めたが、桜花が努めて遠くを見る素振りを見
せたので追及はやめにした。変わりに突っ込んだ。
「……っていうかまひろって誰ですか」
「武藤クンの妹さん」
「あ」
 剛太は徐々に桜花の置かれた状況がわかってきた。

 目を覚ました秋水はそこが聖サンジェルマン病院の一室と知って愕然とした。
 彼の記憶では確か銀成学園の屋上に居た筈だ。
 そこでまひろと話し、小札が「ある取引」の場所変更を伝えにきた所までは覚えている。
(そこからの記憶がない……一体何故ココに?)
「これね、実はね、モノマネ練習してたんだよねっ……むにゃむにゃ」
 変な声がした。聞き覚えのある声だ。上体だけ起こしたまま首を回すと視線が病室の一角
に吸いつけられた。
 病院にはベッドから起きられぬ患者のために、ベッドサイドテーブルという器具がどこの部屋
にも備え付けられている。一番長い部分を横から見るとコの字をしたキャスター付きの器具だ。
 それがベッドの斜向かい、秋水の足の方から三メートルばかり離れた場所に鎮座しており、
更に見覚えのある栗色の流れをゴロリと横たわせている。
 注視すればベッドサイドテーブルの向こう側にパイプ椅子を置いて、突っ伏しているのが分
かった。寝息は「くかーくかー」とひどく軽妙で子犬が寝ているような気楽さがある。
(また君か)
 よく分からない状況にこれまたよく分からない少女がいるのは、却って当てはまっているよ
うな気がしていっそ清々しい。
 視線を感じたのかどうかは分からないが、タイミングよく覚醒の時がきた。
 まひろがむくりと上体を起こし、焦点定まらぬ瞳でうろうろと辺りを見回した。
 ややウェーブの掛かった栗色の髪と、大きな瞳。それにずんぐりとした太めの眉毛。
 彼女はそれら総てを呆けたさせたまま、やがて秋水を見た。
 じーっと見た。
 ひたすら見た。
 やがて、寝ぼけ眼が一気に覚醒した!! 
「わ、起きてたァ!!」
 普通、人間の声帯というのは目覚めてから数時間は本調子にならない。秋水も剣道の稽古
でそういう現象を体感している。だが、まひろは起きると同時に平生と変らぬひどい素っ頓狂
な大声を張り上げた。
(まるで居合だ。このコには人体の常識という物が通じないのだろうか)
 秋水は耳をじんじんさせながら、頭の冷えた部分で冷静に分析した。もしまひろがホムンク
ルスでもああそうかと納得できそうな感じがしている。武装錬金(影武者とか)でも然り。
 対するまひろは叫ぶだけ叫んだが、何をいえばいいか分からないらしい。
 うぅう、ううう、あのねあのねと何やら珍妙な呻きをあげるまひろ。
 頬についた真っ赤な跡と、肩のあたりで変なクセがついてる髪が微笑ましいと秋水は思った。
「一つ……質問していいだろうか?」
 呼び水をかけないと埒が開きそうにないので、桜花に似た爽やかな微笑を浮かべた。
「分かる範囲なら何でも!」
「君は起きたばかりなのにどうしてそんなにテンションが高いんだ?」
と秋水は本当に聞きたくなったが、きっとまひろがまひろゆえにまひろっているだけなのでは
ないかと思い、本題を選択した。
「何故、俺はココにいる」
「あ、あのね。秋水先輩あの後倒れちゃって……」
この時まひろが少し頬に紅を差したのを秋水は気付かなかった。
 
 小札が去った後、秋水は銀成学園の屋上で倒れたのだ。
 あろうコトか、まひろを正面切って巻き込んだ。
 だがココに、人体の構造ゆえの問題が発生する。正面切って人が人に倒れ込んだ場合、
果たしてその姿勢はどうなるか。
 すらっとした青年の長身が幼くも柔らかな肢体へともつれ込み、重力の赴くまま地上へとス
タンプした。
「きゃ、きゃっ!」
と絹を裂くような叫び声もその暇あらばこそだ。
 秋水の大腿部はスカートの上からまひろの細い両足を割り開きつつ並列し、秋水の肩は陶
器のように儚いまひろの鎖骨部へ座礁して、しなやかながらに厚い秋水の胸板は柔らかな二
つの膨らみをぐなりと潰し、顔はまひろのそれへと最大接近した。
「え……!」
秋水の頭の横に顔を何とか出しながら、まひろは真赤になった。
「ええええーっ!」
 無論秋水が意志を喪失せしめたコトが分からぬまひろでもない。だからまずは彼の体調へ
の心配が先んじたがしかし露もなく密着する男性のたくましい体の感触にはヘドモドするばか
りでどうにもならぬ。
 もとよりスキンシップを身上とするまひろだ。然るにその対象は基本的に可愛い女子というか
主立っては斗貴子ないしはヴィクトリアといった可憐きわまる少女に限定されている。
 だがいまここにまひろは秋水に組み伏せられた!!(忍法帖風)
 とまぁ秋水につぶされながらもまひろは必死に白い頸(くび)をいやいやするように振りまく
って童顔じみたOLの顔つきを羞恥やふんばりといった様々な表情に歪ませながらなんとか
秋水より脱出し、ケータイにて救助を要請したのである。

 そして今に至る。
 まひろの説明はともかくも秋水に押し倒された事実を伏せに伏せていたから、秋水は不可
抗力による役得いや罪悪に悩まずに済んだ。死ね!
「そうか。迷惑をかけてすまなかった」
「ダ、ダイジョーブ。気にしてないから。不可抗力だし……」
「?」
 顔を俯かせて湯気吹くまひろに秋水は怪訝な顔をしたが、とりあえずベッドを降りた。
 この時秋水は自分の纏う学生服が新調されているのに気づいた。
 おかしいといえばおかしいコトだ。療養のために強制的に着替えをさせられたのなら、着衣
は病院指定の寝間着である筈なのだ。
(にも関わらず何故学生服……? それに核鉄は?)
 上着のポケットに手を突っ込むと、握りなれた感触があった。引き出すと彼愛用のシリアル
ナンバーXXIII(二十三)の核鉄だった。着衣が変わったのに核鉄がある謎も気にはなったが
そこまではまひろに聞いても分からないだろう。それに留まっても居られない。
「……秋水先輩、行くの?」
ドアに向かって歩き出した秋水に心配そうな声が掛った。
「ああ」
 振り返って生真面目な表情で答えると、まひろの顔がみるみると心配に溢れた。
 体調を慮っているのだろう。
「大丈夫だ。ヴィクトリアは必ず連れ戻す。君達だって必ず守る」
「他の人と一緒に?」
「ああ。ヴィクトリアの件については協力を仰ぐ。……仰げればの話だが」
(びっきーの件については?)
 まひろが眼をぱしぱしさせたように、やや含みがあるのは実は秋水自身さまざまな思惑があ
ったからだ。もっともそれは更に後の稿に譲られるであろう。
「それから」
「それから?」
「わざわざ夜を徹しての付き添い、感謝する」
「き、気にしないで。心配だったからついブラボーに無理いっちゃって」
 秋水に向かって真白な掌を胸の前でおたおたと振りながら、まひろは答えた。
「それでも、ありがとう」
 後姿で万感こもる謝辞を述べながら、秋水は病室のドアを開け、廊下に出た。

(これでいいんだよね)
秋水のいなくなった病室で、まひろは透き通った液体を瞳の表面張力ギリギリまで湛えた。
(斗貴子さんの話……先輩がお兄ちゃんを刺したって話、本当かどうか確かめたいけど、今は
びっきーを助けないとダメだからコレでいいよね。今いったら秋水先輩、何もできなくなっちゃう
気がするから)
立ち上がってブラインドを開けて、外を見た。雲ひとつない青空が広がっていて、光の刺激が
今にも耐えがたい堰をぐしゃぐしゃに切りそうな気がした。
(今はびっきーを助ける方が先だよね。きっと寂しがってるし、ちーちんだってさーちゃんだっ
てあんな別れ方じゃ悲しむから……コレでいいんだよね。お兄ちゃん)
 スっと空を見上げたまひろは頬を拭うと、そのまま一気にブラインドを下げた。
(でも……!)
 身を翻し歩くまひろの足取りにあったのは、カズキのような力強さ。

 確かどの資料だったか失念したが、新撰組三番隊組長斉藤一が以下のような注意を述べて
いたように思う。
 夜間、真暗な家屋へ斬り込む際は足から踏み込むべきと。
 もし仮に襲撃者が扉の向こうで待ち構えていたとしても、胴体は足より若干ながらに後方に
あるから白刃を逃れ後の先を取れるのだ。
 以上の記述は夜間に限定しているが、しかし白昼といえど扉の向こうはガラス張りでもない
限りまったく見えぬワケであるから、留意は必要である。
 秋水が聖サンジェルマン病院の廊下で一瞬背中に粟立てまひろを防衛するための戦いを想
起しかけたのも、留意一つあれば防げただろう。
 もっとも扉のすぐ傍にいた辛気臭いのっぺりとした顔付きの男は、留意を感知すればますま
す自らの気配を消してついには自らを構成する分子原子の類すら消却しそうだが。
 根来が忍者刀を横手に引っつかみながら無造作に差し出した。
「使え。貴殿の衣装はすでに対応済みだ」
 面喰った秋水が、しかし何事かを納得すると同時に頷いてシークレットトレイルを拝領した。

「相変わらず素っ気ないわね」
「私の武装錬金の特性についてはヴィクターとの戦闘にて説明済みだ。ああ言えば通じる」
「素っ気ない」という世間一般では文句苦情の類にて通じる表現に対し、二つ三つ飛び越えた
結論を述べるあたり、本当にこの若者には感情の生ぐささがまるで欠落していると千歳は思
った。
 もっともそう思う千歳自身、根来ぐらいの歳には照星から教わった化粧を完全に覚える代わ
りに感情の騒々しさを思考の底に沈めていたから、欠落を責めるつもりはなく、むしろ近しさを
感じながら応答するぐらいだ。
「バスターバロン回復のための足止めね」
とはかの太平洋上におけるバスターバロンの
「(ヴィクターと)十二時間戦って一旦離脱、六十時間休息。後に再戦の繰り返し」
を指す。
 とにもかくにもその時に新人ながらにヴィクターを果敢に食い止めていた剣客がいま、千歳
の瞳の中で窓から漏れる朝日を浴びながら廊下を進んでいく。
「で、もう一人はどうする」
 根来はドアをしゃくった。すると合板一枚すぐ先で露骨な動揺の気配がした。
「この前の任務、どうやって勝ったか覚えてる?」
 千歳はめずらしく微笑を浮かべて、根来を見た。彼は一瞬呆気に取られたが、すぐ例の猛禽
類が獲物を見つけたような笑みを浮かべた。
「再利用、だな」

 時は九月三日。
 後にこの時期における戦いを知る者は回想する。
 この日と、その翌日を以て趨勢が決定した、と。


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