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第046話 「絶縁破壊 其の伍」



「帰って」
 冷然たる眼差しを浴びたまひろは、「ふぇ?」と目をしぱぱたかせた。
「ココに来たってコトは大体の事情は知ってるでしょ。でもあなたにどうこう……」
「あ、大丈夫だよびっきー!」
 ヴィクトリアは肩に異様な外圧が加わるのを感じた。見ればまひろがいつの間にやら正面に
回り込み、細い肩を砕けんばかりの力で握っている。ヴィクトリアがホムンクルスでなければ
痣の一つか二つは平気でつくのではないかと面喰ったのも無理はない。傍にいた秋水でさえ
「もうちょっと加減するんだ、骨が少し軋んでいる」
と制止に入ったほど、まひろは加減がなかった。
「あ、ゴメン」
 ひとまず手を肩から剥がされたヴィクトリア、
「痛いわね。いきなり何するのよ」
  と、目を吊り上げて抗議すると、まひろはちょっと頭に疑問符を浮かべた。どうやら寄宿舎
生活におけるヴィクトリアとのギャップを感じたらしい。
「いちいち鬱陶しいわね。こっちが本性。分かる? あなたとトモダチごっこしてる時はネコ被っ
てただけ。分ったら帰って」
 百六十一センチのまひろに負けじと百五十センチのヴィクトリアは手厳しい上目を這わせ、
厳然たる冷気を放った。
「えーと、ホムンクルスだから?」
 しかしまひろは平然と、しかしヴィクトリアを最も苛んでる言葉を返してきた。
 一瞬、冷気が途絶え深い闇に帰結した。
「そうよ。ホムンクルスだから……」
 地下で百年も暮らし、日常の中で陰惨な衝動を覚え、その解決につながるであろう説得に応
じられずにいる。認識するとやり場の怒りが吐胸をつき何も言えなくなる。
「でも、大丈夫だよ」
 まひろはヴィクトリアの右手をするりと取り上げると、太陽にも似た暖かい笑みを浮かべた。
「確かに私もね、こう、くわせろぉ〜くわせろぉ〜っていう」
 まひろが右手でひっかく真似をしかけた瞬間、秋水はげんなりと呟いた。
「それはもういい。頼むからやめてくれ」
「え、ダメ?」
「駄目だ」
 まひろはキョトンとしながら横を向き、秋水は一筋の汗を垂らして応対した。
「じゃあやめるけどね、昔ね、爪の尖った三角頭のホムンクルスに襲われたコトあるんだよ私」
「だから何? 『びっきーはホムンクルスっていうけど怖くないよ』とでもいうつもり?」
 ひどく不機嫌な応対に、しかしまひろは瞳を輝かせた。
「その通り! さすがびっきー!!」
 そして猿叫にも似た声を上げて猛然と抱きかかってきた! ヴィクトリアは避けた。頬を引き
つらせ瞳を半円にしながら辛うじて避けた。哀れまひろは笑ったまま煉瓦の壁へとミサイルが
ごとく着弾し、盛大な音を地下道の彼方にまで響かせた。
(この子は……まるで学習していない)
 いつかと似たような光景を憐み、秋水はこめかみを押さえた。
 やがて土埃が晴れると、散乱する煉瓦の中で尻餅をつくまひろが現れた。勢いでフードをか
ぶったらしく、猫耳をピンと立てたまま黒い瞳をくしゃくしゃにして抗議した。
「うぅ……ひどいよびっきー。何で避けるの……?」
 ヴィクトリアは鼻を鳴らした。まひろの被害など一顧だにしていないのだろう。
「悪いのはアナタの方。だいたい何? ホムンクルスって知りながら飛びかかってくるなんて正
気の沙汰じゃないわ。だから自業自得……」
 ヴィクトリアの瞳に「うぅ、ただ抱きつきたかっただけなのに」と涙を流すまひろが映り、つい
つい冷笑が浮かんだ。
「いい気味ね」
 元々まひろが好きではないのでひどい目に合っているのを見るととても気分がいい。
 同時に、一つ着想が浮かんだ。
 幸いココはヴィクトリアの領域だ。アンダーグラウンドサーチライトは作り出した空間を操れる。
 例えばいわゆるロボットアームのような、手先がランドルト環(視力検査につかうC見たいな奴)
をした物体を一本、まひろのお尻の傍からニョキニョキ生やして頬をつねるのも可能なのだ。
(いいわねそれ。実行)
「え、え? ふぇえええ……いはい、いはい〜! やへへー!!」
 モチモチしたほっぺが無機質な器具につままれて、まひろは露もない顔を右斜め上をぐにょー
んと引っ張られた。
「アナタ……私を説得しに来たっていうけど」
 薄笑いを浮かべながらその拷問(?)現場へヴィクトリアは歩を進め、ひどく得意気に見下した。
「この程度の、オモチャみたいな仕掛けにも何もできないのに、何ができるっていうの? 断っ
ておくけど私はあなたが前からキライなの。少し苦しんで貰おうかしら」
 声と同時にロボットアームがより強く可動した。
「ふー! やーひっははふぁいへー。やーへーへー」
 まひろの頬は更にもっちりと柔らかそうに引き延ばされた。彼女はロボットアームを必死に開こ
うと試みたが、万力のような力でがっちりと閉じていて叶わない。
「ほら。いってみなさいよ」
「ひーふははー、ははひへー!」
 目じりの端に涙の粒を浮かべながらまひろは両掌を戯画的な球の形にして大手でバタバタと
振るうが、対するヴィクトリアは
「何? 聞こえない」
 とひどく威圧的で攻撃を止める気配がないため、見かねた秋水がたたらを踏むような足取りで
騒ぎへ近づき、嘴を挟んだ。
「落ち着くんだヴィクトリア。少しやりすぎ……」
「アナタは黙ってて」
「……」
 首だけを捻じ向け、横顔で睨むヴィクトリアに秋水は硬直し、その場でぴたりと足を止めた。
 感じたのだ。桜花にも漂う女性特有の恐ろしさを。女の争いに生じる修羅の情念を。
 要するに気圧されて何もいえなくなった。一つには真面目な説得にまひろが乱入してきて
壁に激突するやらヘンな仕置きを受けるやらで軽い混乱状態をきたしているせいでもある。
「まぁ、別にいいわ。口を歪めてもがくしかできない人間なんていたぶっても何の解決になら
ないし」
 ロボットアームが小気味いい駆動音を立てながらまひろを解放して床へ没した。
「あ、ありがとー」
 解放された少女は頬を真赤に腫らしながら笑ってみせた。
 ──そんな反応は求めていないわよ。
 と、いいたげにヴィクトリアの眉が苛立たしげに跳ね上がった。
「で、どこまで話したっけ?」
「私が怖くないとかどうとかまでよ……ってまだ続けるつもり?」
 うんざりとした様子で呟かれたまひろは、眉をいからせ力強くうなずいた。
「もちろん!!」
 その瞬間、ヴィクトリアは視界が著しい幻惑に見舞われるのを感じた。幻惑、そう、幻惑で
ある。睨むコトによりピタリと視線を吸いつけていた筈のまひろの姿が俄かに描き消えたの
だ。幻惑といわずして何といおう。忽然と、座ったままのまひろの姿がなくなった。
「後ろだ! ヴィクトリア!」
 突然響いた秋水の半ば悲痛な叫びの意味すらヴィクトリアは解しかねた。
 ……肩から柔らかい手が垂らされ、大嫌いな声が耳元で響くまで。
「なんとかつかまえたー!! コレでちゃんとお話できるねびっきー」
(目で追うのがやっとだった……!)
 秋水の全身から冷たい汗が吹き出し、形のよい顎から麗しい滴がぽたりと垂れた。
 まひろは。
 ヴィクトリアの背後にいた。座りながらも直視から瞬間的に免れ、しかも動体視力にすぐれた
剣士ですらただ茫然と見るしかないほどの速度で。
「ちょ、離して」
 背後から抱きつかれたヴィクトリアは困惑と怒りに少し顔を赤くしながら身をよじった。
「やだ。離さない。ちゃんとお話しないと駄目だよ」
 一瞬、まひろの声が沈んだような気がしたが、真意はヴィクトリアに分からない。
 それにしてもまひろの膂力ときたらどうだろう。高出力(ハイパワー)を誇る筈のホムンクルス
が捉えられている。
(力も速度もホムンクルス以上というのか彼女は──!)
 秋水は顎に溜まった汗を拭いながら驚愕に目を見開いたが別にそんなコトはない。
 要するに一瞬一瞬の爆発力がまひろゆえに色々超越していて、それに驚いた周りの者が
勝手にペースに巻き込まれているだけなのだ。

「つまりさ、びっきーは人間を食べたくなるから寄宿舎を抜け出しちゃったワケだよね」
 まひろはヴィクトリアにおぶさるような姿勢をとりつつ、右の人差し指を口に当てて思案顔で
上を見た。
「……知ってるなら今さらいう必要ないじゃない」
「優しいねびっきーは」
 少女の薄い胸の前に再びしなやかな腕が垂れ、ほわほわした陽気が体重を預けてきた。
「は?」
「私の知ってるホムンクルスはね、すぐ問答無用で食べようとしてきたんだよ。もっとも、すぐ
お兄ちゃんが助けてくれたんだけど、でももしお兄ちゃんがいてもきっとびっきーと戦わないと
思う。うん。優しいもん。さっきだって武装錬金で私にケガさせたりしなかったし」
「何で武装錬金まで知ってるのよ」
「え、だって私、講座とかしてたから!」
「講座……?」
「それはともかく!」
 手は肩のあたりで曲がり、ヘアバンチに止められた艶やかな金髪の束を鎖骨もろともくしゃ
りとかき抱いた。
「びっきー、私たちに迷惑かけるのを気にして寄宿舎を出たんでしょ? なら、こわーいホムンク
ルスとは違うよ。ただの可愛い女のコだと思うよ。うん」
(…………ホムンクルスとは、違う……)
 ヴィクトリアの心に少し決定的な揺らぎが生じた。
 思えばまひろより遥かに多くのホムンクルスを見てきた。みな凶暴醜悪で人に害成すしかな
い存在だった。だから嫌悪していた。同時に同じ立場である自分自身も。人喰いの衝動を千里
に催した時から一段とそれは強まり、悔恨や諦観とともに絶望的な気分を醸し出していた。
(……でも、違う…………?)
「びっきーって……体ちっちゃいよね」
 少し湿った声が背後から掛かり、ヴィクトリアは息を呑んだ。
「でも……戦ってたんだよね。こんなにちっちゃいのに」
 肩に回った手にぎゅっと力が籠った。
「こんなちっちゃいのに、皆を食べないように食べないように……って。偉いよね。私にはでき
ないよ。うん……絶対…………ね」
(このコ……泣いてるの……?)
 とすればそれほど反応に困る出来事はない。
 嫌っていた人間が、いつもヘラヘラ笑っていた人間が、ヴィクトリアを「偉い」と褒めて、しかも
泣いてすらいる。それが演技でないコトは、ヴィクトリア自身、裏表のある人間だからよく分かる。
 困惑は、背後から「ぐすっ」と鼻をすする音がした時、最高潮に達した。
「でも、でもね。だったら一緒に仲良く暮らすコトだってできるよ。絶対! だから一緒に帰ろ?」
 まひろの拘束が解かれ、代わりにヴィクトリアの体が百八十度回転させられた。
「ね?」
 泣き腫らした赤い瞳で、なお透き通るような笑みを浮かべるまひろにヴィクトリアは何もいえ
なくなった。
「彼女の言う通りだ」
 それでもまだ躊躇っているのを見通したように、秋水の声がかかった。
「覚えているか。俺はかつて君に、予期しない形で衝動が出るという話をした筈だ」
 まひろがそーっとヴィクトリアの肩を持って、秋水の方へ向けた。
「俺は昔……俺と姉さんを助けようとしてくれた者を背後から刺した事がある」
 微かに震える声は一人だけに向いていないように思えた。
「瞳をただ濁らせて、自分が苦痛から助かるためだけに」
 まひろが少し震えたような気配がしたが、背後にいるため表情までは分からない。
「俺が彼を殺せば、彼の大事な者達が俺と同じ苦しみを味わうとも知らずに……」
 秋水は拳を固く握りしめながら、ヴィクトリアの前へと歩み寄る。彼女は逃げようと足を動か
しかけたが、背後から力がかかり押さえられた。まひろが止めているのだろう。
「でも君はまだ俺のような危害を振り撒いてはいない!」
 沈痛な気配を振り払うように、秋水は決然と目を見開いた。
「それを阻止する手段だってあるんだ! だったらまだ誰に憚る事もなく日常の世界に戻る事
ができる! できるんだ!」
 長身が屈み込むようにしながらヴィクトリアの目を見据え、心底から叫んでいる。
 怒りでも罵倒でもない、ただただあるべき状態へ戻そうとする人間的な言葉を。
「……でも、今さら……できるワケないじゃない」
「今さら、と君はいうが、しかし今までの百年間、地下に閉じこもっていて本当に満足だったの
か? 違う筈だ! 大事な家族と共に普通の生活を送るコトを望んでいた筈だ!」
 瞳がみるみると拡大するのをヴィクトリアは禁じ得なかった。だが視線を外して意志とは無関
係の逃げるための言葉を吐くしかできなかった。
「望んでなんか……」
「だったらどうして君は母を見捨てなかった? 錬金術を嫌悪しながらも武装錬金を絶えず張
り続け、白い核鉄の製造を手伝ったのは何のためだ?」
「…………っ!」
 秋水の言葉は確実にヴィクトリアの弱い部分を突いてくる。矛盾も逃避もすべて見通しながら
しかし決して非は責めない。
「君の母はもう戻らない。けれど父は、ヴィクターは、いつか武藤が連れ戻す! 彼が君の存
在を知っているなら必ずだ! その時君が閉じた世界に残ったままでは君の父も、母もきっと
救われない!」
 ただただ眼前で懸命に呼び掛ける青年は、闇に沈んでいたヴィクトリアの大事な物だけを
蘇らせようとしている。
「だから……だから君は日常に戻るんだ。辛い選択だろうが俺は必ず支えてみせる! その
為になら戦団を裏切る事になっても構わない!」
 皮肉や毒舌を好むヴィクトリアでさえ、「そうだろう」と思わせる気迫が際限なく前面から叩き
つけられる。
「君の身がホムンクルスだったとしても、罪を犯していない限りはまだ普通にやり直せる!
君の瞳は冷えてはいるが、決して濁ってはいないんだ! 昔の俺のように濁ってはいないんだ!」
 秋水はヴィクトリアの手を掴んだ。彼はどうしても伝えたい言葉を持っているようだった。
 でもそれを聞いてしまえば本当に寄宿舎に戻るしかなくなるようで、ヴィクトリアは恐怖した。
「放して!」
 いつかと同じく払いのけた手は……しかしすぐさま秋水に握られた。
「諦めるな!」
 済んだ瞳が限りない熱情を湛えてヴィクトリアを射すくめた。
「ココで諦めればいつしか本当に君は人を喰うしかなくなる! だから日常に戻るんだ!」
 口調には鬱屈とした黒い氷塊を溶かす気焔が満ち満ちていて、ヴィクトリアはただただ驚愕
のままに言葉を反芻する他なかった。
(諦めるな……)
 つくづく自分の生涯とは正反対の言葉だ。身に降りかかった何もかもを嫌悪しながらも解決
しようとはせず、ひたすらに流されていた。
 流れた先に出会った暖かい光景も、汚れた衝動のせいで諦めていた。
(簡単にいってくれるわね。諦めるな、なんて)
 それができれば苦労はしなかった。そう思いはしたが、自分を顧みて果たしてどれだけの苦
労を求めるモノのためにしてきただろう。答えは「ほとんどない」、だ。何故ならば諦めて地下
世界で百年来ずっと苦痛を避け続けてきたからだ。
 秋水はたぶん、その辺りの事情を責めるつもりで言葉を放ったワケではないだろう。
 きっとヴィクトリアの行く末を憂いて、あれほどの言葉を烈火の如く叫んだに違いない。
(……本当に、騙そうと思えばいくらでも騙せる生真面目君。でも)
 決して明るくない前歴を持ちながら、なお誰かのために生きようとしている姿は……悪くは
映らない。

「わ、私には難しいコト分からないけど、ちーちんと話してる時のびっきーは心から嬉しそうだっ
たよ」
 背中からまひろが離れると同時に、柔らかい声がかかった。
「それにね」
 ネコみたいな手つきが両肩に添えられたかと思うと、真赤にじんじんと腫れた頬がヴィクトリ
アの横目に入った。
 まひろの首が伸びて、顔がヴィクトリアのそれと並んだようだ。
「びっきーのお父さんやお母さんだって、独りぼっちで寂しそうにしているびっきーよりね。きっ
と友達と仲良く一緒に笑ってるびっきーを見たがっている筈だよ。絶対」
(パパやママが?)
 逃げるための材料や口実に使っていた両親ですら、願いは娘の幸福だと考えるとまったく
どうしていいか分からない。
「あ、お兄ちゃんもね……私が泣くと困ってたけど、笑うとすごく喜んでくれたから。うん。だから
なるべく辛いコトに負けないようにね、笑っていられたらなーって私思うんだ」
 またしても少し湿った声音が耳を叩いたその時、嫌悪の大きな原因が、誤解だったとヴィクト
リアは知った。
(このコ……)
 まひろは兄を月に消えて決して平気ではなかった。秋水の話した通りだった。ヴィクトリアと
同質の悲しみを抱きながら、意志の力で笑顔を浮かべていたのだろう。
「うん。誰かを恨んだり怒ったり……それから悲しんでる姿なんかは見てて辛いだろうから……
お兄ちゃんはそんな姿、誰でも見たくないと思うだろうから……びっきーのお父さんやお母さん
だって同じと思うから、きっと許してくれると思うよ。……お兄ちゃんだって」
 心なしかまひろは秋水を見ていたようだった。秋水は秋水でその視線に別なニュアンスを感
じているようだ。」
 やや蚊帳の外になったヴィクトリアだが、それ故にまひろへの心情を整理できた。
(…………強いわね)
 少し瞑目して自分の感情を内心で恥じた。
(本当はずっと分かっていたわよ……私があなたを嫌っていたのは、ただの嫉妬だって)
 認めるには本当に勇気が必要だった。けれど胸に湧くかすかな新しい気持ちがそれを支えて
くれるような気がした。
(陽気だからそばにいると自分が惨めに思えて……嫌っていただけ。このコに非は……非は……)
 騒がしいあれやこれやが浮かんできてヴィクトリアはちょっとげんなりした。
(まぁ、だいぶあるけど……嫉妬だったみたいね)

 ヴィクトリアが目を開くと同時に、天空で何か音がし、うっすらとした明かりが地下世界に差
し込んだ。
 秋水は頭上に六角形の穴が開き、地上まで続いているのを見た。
 まひろはその穴の中に梯子があるのを見た。
 ヴィクトリアは……自分の目ににじみ出た液体が、急な光の刺激のせいだと思った。
(そうよ。ずっと暗い所にいたから、勝手ににじみ出ただけ)
 思うようにした。そして頭上を見る二人に見つからないよう速やかに拭いて、いつものような
小生意気な口調で告げた。
「……いい。一度しかいわないわよ。聞き逃して聞き返したら二人とも地下に落とすから」
 二人の視線が吸いつく中、 ヴィクトリアは地下世界に溜まりだした微かな光を見て思った。
 百年間。
 百年間、深淵の中に追いやられたコトを恨んでいたが。
(……得ようと思えば、こうやっていつでも得られたのね。それなのにつまらない意地のせいで)
 すぅっと息を吸い、少し早くなった鼓動を気どられないよう静めると、ヴィクトリアは告げた。

「戻ってあげるわよ。寄宿舎に」

 秋水とまひろ、先ほどまであれほどうるさかった二人に静かな静かな安堵の気配が広がった。
「でもちゃんと責任とりなさいよ。じゃなきゃ今度こそ捕まらないよう逃げるから」
「うん! うん! それでいいと思うよ!」
「ああ。できる事は必ずする」
 詰め寄ってくる二人を、鬱陶しそうなはにかんだような複雑な表情で見ながら、ヴィクトリアは
唇を小さく小さく動かした。
.
「……ありがとう」

 ひどく小さい、しかし確かな声が、微かに明るい地下世界に響いた。


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