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第055話 「このまま前へ進むのみ その弐」



 産科医療の定義では。
 人間は妊娠第八週目から「胎児」と呼ばれる。
 そう。人間は個人差こそあれ大体その頃になれば「胎児」という「人間らしい」形態になる。
 ではそれ以前……妊娠第七週目まではどうか?
 受精後二十四時間以内に受精卵は二つに分裂し、二日目には四つ、三日目には八つと分
裂しつつ卵管を移動しやがて子宮に着床する。
 そして妊娠第三週目に入る頃に、心臓と主要な血管ならびに脳や脊髄の元たる「神経管」が
発達を始めるが、この頃はまだ「タツノオトシゴ」のような形状であり、つまりはおよそ妊娠第八
週目までは(徐々に人間に近づくとはいえ)、「人間とはやや異なる形状」である。

 鳩尾無銘が人間の形態になれないのは、上記の「人間とはやや異なる形状」の頃にホムン
クルス幼体を埋め込まれたからである。
 よって彼はチワワをやらざるを得ないのだ。
 しかしである。
 普通、動物型ホムンクルスがその原型を表すとひどく幾何学的な形状になるというのに、無
銘がごくごく普通のチワワであるのは何故なのか?
 原因は、発生の仕方がややイレギュラーなせいかも知れない。
 というのも妊娠第四〜七週は前述の通りまだまだ人体が形成されゆくべき時期なのだ。
「絶対過敏期」とすらいわれ催奇形がもっとも警戒される頃であり、薬の服用ですら十分慎重
たれと産科は警鐘を鳴らしている。
 或いはそういった時節にホムンクルス幼体を投与されたせいで、不安定な人体はあれよあ
れよと犬の遺伝情報に引きずられ、本来人間の体を作るべき血肉を犬のそれにし、動物型ホ
ムンクルスでありながらひどく生物的なフォルムを獲得するに至ったのではないか?
 とまれ生物の可能性は無限にあるゆえ断言はできないが、現にチワワたる無銘の武装錬金
が「兵馬俑」という人間型の自動人形なのは闇に隠れて生きるチワワゆえの早く人間になりた
いという願望が発現したと見て違いない。

 果たして無銘は人間形態になれるのか?

 その議題からはやや逸れるが、無銘にとり総角は父であり小札は母である。
 むろん、血縁はない。ただし彼らは十年前、諸事情により一団を形成した。
 以来、理性的生物が寄り集まった時の自然な希求として家族じみた絆が生じ、かつ無銘は
最年少であるから自然と総角を父とし小札を母とする慣習が生まれたのである。

 その慣習が一度、小札に無銘の宿命的議題を論じさせた。

 いつだったか彼女は無銘を膝に乗せて向かい合うと、少し考え、ふわりと笑った。
「不肖に難しいコトは分かりませぬが」
 その時、濡れそぼる黒豆のような犬鼻にペタリと押し付く物があった。小札の鼻先だ。
「冬来らば春遠からじ。いつしか無銘くんも人間の姿になれましょう! 不肖はそう信じる次第!」
 そう彼女は景気のいい声を飛ばしつつ、無銘の頭をもふもふと撫でた。

 小札のいうとおり、果たして無銘は人間形態になれるのか?

 なれるなれないは別として……

 秋水と対峙する自動人形・無銘の全身に殺意が充満した。

(総ては母上を守護するための戦い! 全力を尽くす!!)

 身長百九十センチメートルを超える巨大な自動人形が轟然と床を蹴ると、炎の坩堝と化した
極太の右腕が秋水へと殺到した。
 転瞬、むせかえるような熱気と橙色した無数の鱗粉が舞い踊り、巨大な五本のマニピュレー
ターが紅蓮の炎を剥がしつつ端正な顔を握らんとする……!
 忍法赤不動。兵馬俑の武装錬金・無銘は肘から掌にかけて一瞬で熱を発するコトができる
のだ!! 温度は数百度から数千度……炎上しているのは油を塗っているからであろうか。
 夜目を慣らしていた秋水の網膜はその圧倒的光量に文字通り眩む思いをしたが、しかし咄
嗟に右へ右へと足を送り回避を試みた。
 果たして赤不動に燃え盛る巨腕は秋水の斬影を空しく行き過ぎるに留まった。が。
「栴檀貴信。正々堂々に拘る奴は逆向凱の与えた傷を回復し、その分の傷ぐらいは与えると
宣言したのだろうが」
 声とともに秋水の全身に異様な力が加わったのは、赤不動の残り一方、燃える左腕がむん
ずとソードサムライXの切っ先を掴んでいたからだ。
 平素青い刀身は、しかし掴まれた剣先から茎(なかご)へ向かって色濃い紅鮭のような色に
染まっていく……
 果たせるかな、赤不動が高熱を発する以上、金属にその熱を伝播できぬ訳はない。例えば
熱した錫杖を相手の刀にぴたりと当て、熱伝導によって刀の持ち手を皮がめくれるほどに焼
き焦がすコトも可能なのだ。まして柄なきソードサムライX……わずかに肉の焦げる嫌な臭い
が立ち込めた。
「馬鹿め。核鉄を与えれば辛うじて与えたわずかばかりのダメージすら回復されるコトなど自
明の理。それを見通せないからいつまでも小物だというのだ!!」
 無銘は厳然と秋水の顎の傷──貴信がつけたものの彼の核鉄で回復した──を見下しな
がら、吐き捨てるように呟いた。
 その感にも剣先は束縛を解こうと打ち震えるが解ける気配はない。
「我は甘くないぞ!」
 手を焼き苦悶の表情を浮かべる秋水の右膝下がぐわんと蹴りあげられた。もっとも手にした
剣が握られている以上、秋水は後ろに吹き飛ぶ自由さえないが。
 そして不思議なコトに無銘の足は秋水を蹴ったままピタリと止まっている。
「栴檀二人など先鋒に立たさずとも、我が出張ればこの通り」
 青黒い忍者頭巾の奥で光る眼球は二個の氷塊のようであった。意志の奥から冷然と白い
冷気を垂れ流し、見る物総てを凍らせるようにさえ思われた。
 いや、今やカタカナの「ト」を上下反転させたように接触する秋水と無銘の足を見よ。
 秋水の右膝下に貼りついた無銘の足裏からは身も縮こまるような冷気がキーンと漂い、そ
の上から下から新雪を思わせる粒子が次々に舞い落ちたかと思うと、カキカキとぶきみな音
立てつつ秋水の腿や足首までもを凍らせていくのだ。
 西洋には見た物を石化させるメデューサがいるというが、あたかも無銘はそれの氷版だ。
 これが忍法薄氷(うすらい)という触れたものを瞬時に氷結させるわざだと根来より聞き及ん
でいる秋水ではあるが、掌を焼かれ足を凍らされるという異常な事態に直面しては身震いする
思いだ。
「古人に云う……善く戦うものは、その勢は険にして、その節は短なり」
「短期決着狙いか! 確かに長引けば本体を探し出される……!」
 この自動人形の殺意はどうであろう。動かずにいれば焼死か凍死は免れない。
 もっとも本体を探せば勝ち目はあるが、ああしかし、そうしたくとも秋水は動けない──…
(焦るな。いかなる態勢やわざであっても破る術はある!)
 無銘はそんな彼を見下ろしつつ
「終わりだ」
 とよほど発したかったであろう。
 「甘くない」と公言する彼だ。上記のセリフは下記の忍法命中後に呟きたかったに相違ない。
 忍法吸息かまいたち。
 強烈な吸息により、かまいたちを作るわざだ。人間の頭に当たれば石榴のように爆ぜて死ぬ。
 秋水の動きを止めてその直撃を確かな物にしたまでは良かった。
 だが、無銘が口をすぼめ放とうとした瞬間……
 いや正確にはその二刹那か三刹那前……
 秋水は真赤に焼ける茎(なかご)から左拳をぱっと放した。ぱっとというが半ばは「べろり」だ。
焼けただれた皮が茎(なかご)の形にべろりと剥がれたりしたが、とにかく秋水は「ぱっ」といえ
る速度で放した左拳を腰の後ろに回し……
 逆手で抜き取ったシークレットトレイルの刃を上に向けつつ赤熱する愛刀の刀身を削るよう
にりりーっと擦りあげ、剣先を握る無銘の親指以外の指を第ニ関節のあたりから切断した。

 もとより日本刀に長さで劣る忍者刀だ。一見すると右手の日本刀の剣先を握る無銘の指な
ど切断できないように見える。しかし結論からいえばできる。できるのだ。

 もし手近な場所に棒があれば以下の方法を試していただきたい。
 まず棒の端を左手で握り、その上からやや離れた場所を右手で握る。
 次にそれをタンスなどに振り下ろし、当てる。
 当たったら握り手をそのままに二歩か三歩下がり、今度は「腕をいっぱいに伸ばした状態で振っ
ても目標物にギリギリ当たらない」距離を見つけて欲しい。
 見つけたら今度は棒から左手を離す。(この際、右手の位置は変えない)
 そうして片手持ちになったらもう一度腕をめいっぱい伸ばして、対象物に振っていただくと、
当たる筈である。(説明が間違っていなければですが。ちなみに模造刀では検証済みです)

 刀剣を両手で扱う場合、右手を鍔近くに添え、左手を柄頭いっぱいの位置で握らなくてはな
らない。つまり、左右の拳は必ず一定の距離を保つべしという制約がある。
 その為、右手はいかに伸ばそうとも左手の伸びる限界に引きずられ、十分に伸ばすコトがで
きないのだ。前述の両手持ちの棒が対象物に当たらないのはこのせいだ。
 しかしひとたび片手で持てば、もう一方の手の限度に縛られる事なく本来の腕の長さまでゆ
るゆると伸ばすコトができる。
 これを俗に「片手撃ちは五寸の得あり」といい、短刀が長刀に挑む時の方策でもある。
 更に「五寸の得」に加えて、秋水は左手でシークレットトレイルの柄頭を握り、右手でソード
サムライXの茎と上身(かみ。刀身を二分した場合、茎と上身に分けられる)の境目を握って
いた。いうまでもなくその境目は普通の刀なら鍔があるべき部分のやや下だ。
 だがソードサムライXのそこを握るという事は、刀を「短く」持つというコトである。何故ならば
下にある茎の長さを無視しているためだ。
 ましてこちらは無銘にむんずとつかまれ微動を許さなかったから、片手持ちといえど十分伸
ばすコトはできず、位置は両手持ちの時とほぼ変わらない。
 反面、シークレットトレイルは柄頭を握っている。つまり柄の長さが刀身に加味されるので、
刀を「長く」持っている……
 純然と比べれば日本刀に長さで劣る忍者刀だ。然るにこの局面では以上の片手持ちの利点
と握り方によって本来の長さの差は逆転とまではいかなくてもほぼ拮抗し、ソードサムライXの
剣先を握る無銘の指をシークレットトレイルで切断できたのだ。
 なお、刀は別段両手で握らずとも斬るコトはできる。いや、むしろ片手で持つ方が刃筋がぶれ
ず素人剣法でもよく斬れるという話すらある。

 とにもかくにも理由を描けば長いこの行動を秋水が瞬時に取れたのは、日々剣道に勤しみ、
片手撃ちたる逆胴を得意としているからだろう。持ち手による刀の長短や片手撃ちの利点は
工夫や修練の中でおのずと覚えていてもおかしくない。

 果たして無銘の指はばらばらと地面へ零れおち、炎渦巻く赤不動の腕を剣先から解放した。
 ここからの両者の動きは目まぐるしい。
 秋水は同時に三つの行動を取った。
 一つ。まず下緒を跳ねあげ右膝周辺でエネルギーを放出し、(貴信の超新星から吸収した物のため
高温を宿している)、氷を一気に解凍。
 二つ。刀で紅い円月を描いて正眼から一気に下段へ回し、薄氷もたらす無銘の足を膝から切断。
 三つ。無事な左足に力を込め、右へと跳躍。
 無銘の口から忍法吸息かまいたちが放たれたのはそれに一瞬遅れてであるから、秋水は剣
客特有の鋭敏な感覚で予見していたのだろう。
 よっておぞましい空気のかまいたちはむなしく空を切る……
 とはこの忍法の本質を知らぬゆえの楽観だ。
 確かに秋水の頭こそ外れはしたが、当たれば人間の頭部など内部から弾いて肉石榴の血
味噌和えをブチ撒ける小旋風だ。距離が多少離れたとしても、その外殻の渦がまったく破壊力
を持たぬ訳がない。
 よって辛うじて逃れたかに見えた秋水の左耳は、その中心を剣で薙がれたようにバクリと割
れた。
 だがその血が溢れるより早く。
 秋水は後方へ跳躍。
 無銘は金色の円盤を秋水の首めがけ投擲。
 円盤はどうやらあらかじめ背中に掛けていたらしく、数は二枚。動いて音がしなかったのは
忍者らしい工夫があるのだろう。
 さて、金色の円盤。
 これは忍法銅拍子(どびょうし。”どうびょうし”ではない)と呼ばれている。
 いわば日本版のシンバルで直径は一尺(およそ三十センチ)。西洋のシンバルと違うのは、
ちょうど灰皿をくるりとひっくりかえしたように中心部が盛り上がっており、そこに革紐が括りつ
けられているところだ。これを手に絡めてお坊さんが打ち鳴らす。
 更にこの忍法銅拍子は周縁がひどく研ぎ澄まされており、人間の首などは容易く切断できる。
 が、次に響いたのは肉刻むぶきみな音ではなく……
 絢爛豪華に割れんばかりの金属音だ。
 一瞬激しい光が闇を照らしたかと思うと、一枚の銅拍子が表裏を木の葉のようにひらひらさ
せつつ無銘側に弾き飛び、長細い影がくるくると縦に回転しながら秋水目がけて宙をきり揉
み飛んでいく……
 影の正体が秋水の左手から投げ放たれたシークレットトレイルだとは、さしもの無銘も地面に
無愛想な忍者刀が突き立つまで分からなかった。。
 かくして銅拍子の片割れは飛刀に撃墜された。では、もう一枚は?
 秋水はよく反応した。
 横向きに引ッ掴んだ刀で銅拍子を思うさま打ち据え、無銘目がけて撃ち返したのだ。
 あたかもバットでボールを打つようだ。いや、打撃の瞬間に「じゃあん!」という景気のいい
音が辺りに鳴り響いたから、大道芸の一種かも知れない。
 が、それと入れ替わるように竹筒が何本も飛んできた時、流石の秋水もカッと目を見開き動
揺した。
 竹筒には笛のような穴が幾つも開いており、いかにも異形の武器じみている。
(間違いない)
 真の問題は、竹筒ではなくその向こうで佇むカカシのような一本足──…
(この自動人形は無茶苦茶だ!)
 一体この相手のしつこさと、わざの無尽蔵具合はどうであろう。
 一言でいえば「キリがない」。泥仕合の様相すら呈し始めている。
 無銘の指から果てしなく伸びる五本線が真赤な炭より赤熱しながら、秋水を横薙ごうとして
いた。
 彼らの距離はおおよそ五〜六メートルはあっただろう。しかしその距離を物ともせず、稜線が
迫っていたのだ。これを驚愕といわずしてなんといおう。
 忍法指かいこ。平たくいえば指から伸びる長い糸だ。
 人間が扱う場合は手指から滲出する繊維素だが、テグスよりも強靭である。ならば武装錬
金たる無銘の放つそれの硬度はいかほどか。
 ちなみに緋の稜線と化し輝いているのは、体熱を数百度から数千度までに高める忍法赤
不動の熱伝播あらばこそだ。
 赤不動や薄氷を持ちながら飛びこまないのは左足を切断されたゆえの警戒か。
 吸息かまいたちを放たないのは左足ないがゆえの不安定さに気を揉んだからか。
 銅拍子は彼らの中間点にまだ飛んでいる。が、周縁が鋭利といえど金属は金属。ヒートす
る五本弦の巻き添えを受けるとドロリと溶け落ち、赤い飛沫を地面に垂らす……
 むろんそれは過程に過ぎず、高温の弦は空切りつつ秋水とその前方の竹筒を薙いだ!

 結論からいえば、竹筒には火薬がたっぷり詰まっていた。

 竹筒は正式には「打竹」といい、忍び六具の一つだ。書簡によってはこれに胴火という器具
も加えて「火種」と定義するコトもある。
 一方の火薬もまた忍六具の一つだ。書簡によって違いはあるが「薬」ないしはそれを入れる
「印籠」が忍び六具として数えられる。
 そのいわば簡易爆弾ともいえる組み合わせが赤不動と指かいこに薙がれて爆発し、黒と赤
のおぞましい光景を闇に描いた。
 もっとも秋水はそれを右後方に背負うようにひた走り、すでに無銘の眼前まで距離を詰めて
いたが。
 そうして火傷に痛む手を握り締め、凍傷負った右足を心なし引きずりつつ。
 秋水は無銘めがけて逆胴を打ち放ち──…
 手首を行きすぎるガリガリという嫌な感触に顔をゆがめた。
 秋水の眼前には秋水と同じ顔がいた。
 秋水の眼前には秋水と同じ構えの男がいた。
(鏡──…)
 そう、鏡である。銀色に光る歪な図形が秋水の眼前にそびえ、痛ましい傷跡の終着点で刀
を三分の一ほど飲んでいる。
 恐らく先ほど見た無銘の姿は鏡に映った幻影だったのだろう。
 よく目を凝らせば、そこは柱になっている。
 秋水とちょうど向かい合う部分へ銀色の塗料が歪な形に塗りたくられ、鏡になっているのだ。
 しかしである。先ほど見た部屋は広々とした空間だった。
(……一体いつの間に?)

「忍法忍びの水月。──」
「あらかじめ銀幕は張っておいた」
「ついでに今よりこの部屋は我が忍者屋敷だ」
「忍者屋敷は途中で変形してこそ」

 どこからともなく響く声に向かって振り返ると、青黒い忍び装束の自動人形が大小様々に佇
み、全員が得意気に腕組みして秋水を眺めていた。
 いったいいつの間にそうなったのか。
 刀を柱から引き抜いた秋水は悄然と眼前の光景を見据えた。
 やはり部屋は変化している。無銘が総角と示し合わせたのだろう。
 先ほど見た時はくすんだ木張りの床の他何もなかった部屋なのに、今は柱によってある程
度の区切りを帯びている。
 広さや形状で分類すれば、廊下、八畳、六畳、四畳半──…
 部屋と呼べる区画の柱の近くには木箱や酒樽が無造作に置かれ、所によっては畳や書院
造すらあり、行灯が仄かな光を放ってもいた。
 更に無数の無銘の眼前に垂れさがってきた物がある。紐だ。彼がそれをぐいと引っ張ると、
壁という壁のことごとくがどんでん返しを遂げた。
 わざわざ接着されていたのだろうか。新たに出てきた壁には巻物の乗った棚や槍棚、タヌキ
の置物がまばらに並べられている。壁がくぼみ、掛け軸や壺とセットの床の間すらあった。
 刀掛も地蔵も机も椅子もよく分からない仏像もある、ある、ある──…
 そして部屋にある物は必ずといっていいほど、どこかがきらきらと銀色に輝いている。
 すなわち、鏡として。
 忍法忍びの水月。これは術者の掌から分泌される銀液を物体に塗りたくって鏡とする忍法
である。鏡は大小問わず術者の姿を映し出し、「迫真の立体像」を帯びる。
 部屋にいる無数の無銘は、この忍法の効能によって鏡に映った物なのだ。
(勝てるのか? 本当にこんな相手に?)
 
 ……秋水の左耳から溢れた血が、ようやく地面へと滴り落ちた。


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