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第058話 「このまま前へ進むのみ その伍」



 無銘はソードサムライXを金の刃で力任せに右にいなし、腕の届く距離まで反身で踏み込み
つつ肩を大きく旋回。手刀で唐竹割りに斬りつけた。
 すかさず秋水は弾かれた勢いでスルスルと後退しつつ右逆袈裟斬りの型で対応……
 しようとした刹那、腹部に異様な質感が巻きついた。
 見れば無銘が横に回り込み、右手を秋水の腹に回し動きを封じている。しかも背後から殺
意が立ち上ってくる。
 左手に持ち直した忍者刀がナナメに心臓を狙っている……
 秋水は見ずしてそう直感し、現にそれは当たっていた。
 今の無銘の態勢は、北辰一刀流の「小太刀之形」にみられる物だ。北辰一刀流といえば坂
本竜馬や新撰組総長・山南敬助が学んだコトで有名な流派だが、その形の一つ「小太刀之形」
は相手の手を押さえつけたり、斬撃を後転や跳躍で避けたりと、現代剣道ではまず見られぬ
変わった、しかし実利優先の動作が多い。
 もっとも本来は脾腹を狙うというから、無銘の殺意推して知るべし。
「死ね」
 右耳のやや下から響く声に秋水は慄然とした。
 しながらも彼はソードサムライXの刀身の半ばをむんずとつかむと、掌の肉が裂けるのも構
わずそのまま茎尻を無銘の首の後ろへ撃ちつけた。
 少年はたまらず一瞬えずく様な音を漏らしながらも果敢に踏みとどまったが、締め付けの緩
んだ右手は秋水が振りほどくにはうってつけ。彼は間合いを取るべく脱兎の如く駈け出した。
(逃がすか!!)
 忍者刀は滑るように秋水の脾腹へ追いすがる。服が裂け、血しぶきが舞った。刀身を握った
彼の手も火傷がすぱりと斬られている。いうまでもなくソードサムライXにも血が垂れて赤黒く
光っている。
 そこから両者ぐるりと向かい合い再び撃ち合う……というのは剣術試合だけの常道だ。
 踵を返しかけた秋水が異様な「滑り」を足元に感じた時はもう遅い。彼は剣舞でもするかの
ごとくその場できりもみつつ成す術もなく転倒した。
(氷?)
 床に打ちつけた背中は痛みより先に冷たさを感じた。目をすばやく左右させると冷気に輝く
水たまり。端には何かの青黒い影を映している。
「我が龕灯の映像性質付与による忍法薄氷だ」
 秋水が背を向けた時に龕灯の光を床に当てていたのだろう。
 と悟る間もなくいつの間にか足で天を蹴らんばかりの直立姿勢で舞い上がった無銘が、忍
者刀を片手一本でまっすぐ伸ばし秋水へ殺到。
 秋水が右に身を転がしたのと忍者刀が氷につき立ったのは同時だ。蜘蛛の巣のようなひび
割れを一瞥すると、無銘は屈みこむように着地した。その足もとから蒸気が迸ったのもまた映
像付与あらばこそ。踵にふっと浮かんで立ち消えたのは赤熱を映すA4用紙大のスクリーン。
むろん忍法赤不動の映像だ。
 無銘はそれで焼き殺すとばかりに刀も軸に横方向へ腕と体を伸ばし、空を切り裂く猛烈な蹴
りを秋水に放った。
 からくも逃れたばかりの秋水に高熱の蹴りが向かい……。
 無銘は見た。秋水が青黒い影を片手でつかみ上げ盾にするのを。
 鍔迫り合いに突入する少し前のコトだ。
 無銘に蹴りを入れられた秋水は、その青黒い衣裳の自動人形に躓きかけていた。すなわち
兵馬俑の武装錬金・無銘はまだ解除されていない。それを幸い、近くにあった上半身を秋水は
盾にした。装束は赤不動の足型に焦げ、炎がちりちり立ち上る。
 その様子を見た無銘は頬を戦慄かせ──…
「それをやると思ったぞ」
 ニっと笑った。
 同時に自動人形・無銘の首がくるりと半転し、口から「ひゅるっ」という異常な音を立てた。
 忍法吸息かまいたち。尖らせた唇から強烈な吸息を放ち、人の頭を血味噌と化す魔技だ。
 上半身だけでもなお巨大な自動人形の影で、何かが爆ぜる音がし、血しぶきが舞った。
「我が自動人形は。四肢が欠けようと胴を両断されようと、敵対特性要因たる魚鱗がごとき破
片を損壊部に集中させ、その傷を埋めるのだ。回復もまた傷への敵対──…」
 無銘がこの数日武装錬金を解除せず千歳に能力解析の猶予を与えてしまったのも、自らに敵
対特性を用いざるを得なかったのも回復に時間を要するためであろう。
「もっとも敢えて解除せずに捨て置いたのは、回復よりもむしろ伏兵として用いるためだが」

 しかし兵馬俑、無銘が人間形態になっても依然健在なのは何故なのか? 
 それは無銘が人間形態の自分を指した言葉をひも解けばわかる。

──「恐らく半分は犬だろうが、貴様と戦うにはこの形態でも十分」

 すなわちその半分の犬の影響がダブル武装錬金の片方に残っていた。もとより動物型であ
りながら武装錬金を使える無銘だ。それですらすでに天外といえるのに、人間形態に至って
は二つの武装錬金を併用できるのはいやはやまったく恐ろしい。二つの核鉄を要するのを差
し引いたとしてもなかなか常軌を逸している。これも生後七週目の胎児ならざる混沌期にホム
ンクルス幼体を投与され、十年ずっと人間形態になれなかったイビツゆえの特異体質か。

 そのイビツな特異体質の少年は、自動人形がずるりと滑り落ちるのを見ると歯噛みした。
 なぜならばその背後から額から血を流す秋水が立ち上がったからだ。
 床に落ち首だけを上に向ける自動人形。その口をちらりと見ると呻かざるを得ない。
 そこは横一文字にばくりと裂けている。
(吸息かまいたちが放たれる瞬間に斬り裂いたか!)
 そう、吸息かまいたちが唇から放たれる技であるなら斬り裂けばいいだけだ。とはいえ流石
に至近距離であったためか、秋水は発生直後の渦だけはもろに浴び、額から一筋二筋の血
を流している。しかし唇を頬ごと切り裂く間合いにいるのならばいっそ頭を両断してしまえば
良さそうだが……
「津村斗貴子の核鉄から発動した自動人形だ。これ以上の破壊はなるべく避けたい」
 ツと自動人形に視線を落とした秋水は一呼吸置くと、なぜか左手でソードサムライXの刀身を
茎尻から切っ先までまんべんなくツルリと撫でた。もっとも無銘にとってあまり不思議な行動
ではなかったが。
(懐紙代りか)
 ソードサムライXは血と脂でベトベトと曇っている。先ほど秋水が刀身を握って無銘の首筋を
茎尻で強打したあおりで汚れたのだろう。刀はこうなると斬れ味が鈍る。だから拭う必要があ
る。事実かつて秋水はカズキに十四連斬を降らせ勝利を確信した後に懐紙で拭っていた。
 だが今は勝敗定かならぬ局面だ。よって懐紙を取り出せず左手で汚れを取ろうとした……
 と無銘は結論付けた。
 もっとも左手も火傷しているため、分泌液などで却って汚くなった感もあるが。
「本体さえ倒せばこれ以上のダメージを与えずに自動人形を解除できる!」
 叫ぶやいなや秋水、右手一本に握った愛刀を振りかざしながら無銘へと斬り込んだ。
 だがしかし敵は水すましのようにツツーっと逃げすがる。成果といえば残影を虚しく斬りなが
ら時々龕灯にかすり傷を降らすだけだ。これらは攻撃力を持たない代わりにひどく堅い。シル
バースキンには到底及ばないが、真っ向から斬っても割れない程の硬度を秋水は感じた。し
かも衝撃を受けても吹き飛ばずノソノソ後退するだけだから、あたかも水面に浮かぶ桶を叩く
ような不愉快な手ごたえを走らせるばかりである。
(自動人形か……まあいい。残しておこう。我の企図が破れた時の保険として)
 冷然と考える無銘とは対照的に、業を煮やした秋水は大きく踏み込み逆胴を繰り出した。
 むろん無銘は飛びのいたが、ここで秋水は強引な手段に出たからたまらない。
 すなわち彼は更に踏み込み逆胴を巻き戻すような真一文字を放ったのだ。
 これは両刃のソードサムライXゆえの利点ともいえよう。流石の無銘も予想はしていなかった
らしく斬撃を胸に吸い込み……
 斬った! そう確信した秋水に空虚な手ごたえをもたらした。
 剣がすり抜けた無銘はやがてかき消え、変わりに微細な傷の浮いた龕灯が後方に現れた。
 手ごたえこそ空虚だったが、ソードサムライXの剣先程度はかすったらしい。
「なかなかの攻撃だったが、それも武装錬金の一部にかすり傷を負わす程度だ……」
 秋水の背後六メートルほどに寂然と佇んでいた無銘が会心の笑みを浮かべたが、これすら
本物かどうか疑わしい。
「いうまでもなく、貴様がずっと追っていたのは龕灯による映像だ」
 さて、と無銘は勝利を確信したように朗々と語り始めた。
「そして貴様に変わり身を負わしたのは不意打ちの機会を伺うためではない。……」
 変わり身になった龕灯が無銘へと漂っていく。
「かつて我は忍び六具の一つを偽っていた」
 秋水が振り仰いだ無銘は、六つの龕灯を周囲に浮遊させている。
 もしかすると本物のかも知れずやはり偽物かも知れず……その真偽は如何?
「忍び六具の内五つはすでに用いた」
 虚実さだかならぬ無銘は肩の前で拳を握り、秋水に見せつけるように指立て勘定を始めた。

 打竹と薬は簡易爆弾として組み合わせ、指かいこと赤不動の連携で爆破。
 三尺手拭は薄氷で凍らせブーメランとして。
 編笠は忍びの水月の虚像が構え無数の矢を。
 鉤縄は物入れから飛び出した時に振るった物だ。

 そうだっただろうかと秋水が勘案するうち、眼は声と共に立ち上がる指に吸いついていく。た
だ指折りの逆をやっているだけというのに無銘の指の動きはひどく緩慢なようであり性急なよ
うであり、ブレたかと思うと急に明瞭な輪郭を帯びてていく。
 拳がやがて平手になる頃は薄暗いこの部屋の中で無銘の指の周囲だけが金や緑が輝く極
彩色の世界になっているようにすら秋水には思われた。
「そして残る一つ、かつて我が『忍犬』と偽った最後の一つは!」
 綽綽とした声の無銘から秋水に向ってびゅーっと飛ぶ物があった。
 それは黒々とした流線型の物体だ。我に帰った秋水が咄嗟に斬りさげたものの時すでに遅
し。剣先から両断されたその物体が秋水の眼へと飛び入った。
「矢立、だ」
 無銘は筆をビッと一振りすると、小さな墨壺に据え付けた。
「矢立てとは墨壺と筆を一組とする筆記の道具。或いはこれに石筆(ロウで固めた筆。炉端の
小石などに伝達事項を書き、仲間に伝える)も加えるが」
 その解説と質感で秋水は目に入った物が墨だと知った。漂うくすんだ匂いは確かに墨のそ
れだ。秋水は見えないが、閉じた目から涙のように垂れる液体の色も確かに墨色であった。
「安心しろ。その墨はただの墨。毒ではない。だが次に目を開いた時、毒以上の代物だと貴様
は知る事になる。開く開かないは勝手だが、うかうかとしていると我の攻めを許すぞ」
 無銘は矢立の墨壺の蓋を閉じ、忍び装束の襟の隠しポケットへと放り込み
(彼のいうとおり選択の余地はない……)
 秋水は目を開いた。
 墨の薄膜一枚が眼窩に広がり、視界をひどく暗くしている。
「見よ!」
 と無銘が一喝したのはまさに秋水が墨に染まる薄暗い視界を開いた瞬間である。
 秋水は見た。無銘に従ったというより戦闘中ゆえの自然な心理作用が出た。瞑目中に生じ
た敵の変化を確認せざるを得ない心理が開眼一番に無銘を探したのだ。
 だからあくまで「見よ!」という声は最後の呼び水に過ぎぬ。
 しかし秋水の意識を下記の映像から離れなくするには十分すぎる一言でもあった。

 六つの龕灯が無銘を中心に浮遊している。線で結べば正六角形ができそうなほど整然と。
 それらの前にある小さなスクリーンの中で、雨雲のような陰鬱な黒がくねっていた。
 まるで墨による視界の暗さがそのまま広がったかのごとくである。
 という繋がりを覚えた秋水はますます眼前の光景に吸い寄せられてしまう。
 墨のような黒い粒子はやがて緩やかに緩やかにごぉごぉと渦を巻き始めた。
 いつしか中心に白い穴が空き、黒い粒子は砂時計よろしく中心に向ってこぼれていく。
 やがて白くうつろになった渦は周縁に残った黒い筋だけをぐるぐると回転させていき、目を見
張るような美しい円へと変貌を遂げた。とみる間に横につぶれた楕円形になり、数学記号の無
限になり、異様に伸び異様に縮み、また渦に戻って円に戻ってひっきりなしに変化する……。
 最初は確かに六枚のスクリーンで同じように映っていた陰鬱な色の粒子たちは徐々にスクリー
ンごとに独自性を帯びて各自ばらばらの変化を遂げ、遂げたかと思うとまるで六分割の絵の
ような符号を帯びて巨大な円や渦などを映すのだ。

「見よ!」
 再び声が響いた時、秋水は六つの絵の中心でギラギラと輝く物を見た。
 やや丸みを帯びた三白眼だ。その金色の双眸は凄まじい光を放ち、目を逸らそうと思っても
無意識がそれを許さない。抗えず吸いつけられ、吸いつけられると感覚の何事かが緩やかに
消失していく──…

 秋水の瞳から光が消え、彼は傀儡のごとく茫然自失と無銘を眺め始めた。
 対する無銘の面持ちはやや疲労の色が濃い。
「我が龕灯によって変わり身を作ったのは、あくまで時間稼ぎだ」
 汗をまぶして長い横髪をべたりと頬に張りつけ、頬も今は心なしかやつれている。
「墨壺をじつと眺め、或いは揺すり或いは回し、筆すら執ってあまたの図画を描くため。龕灯に
映りし映像は、つい今しがた見たそれらの映像なのだ。そう、これぞ……」
 深いため息が漏れた。これだけ消耗を強いるわざとは……
「忍法時よどみ。──」
 金光の魔眼と暗黒の渦を見る秋水は、辺りから音声が消えているのに気づいた。
 のみならず傷の痛みも消えている。手を焼かれ足を凍らされ耳を割られ脇腹を斬られたとい
うのに、痛みがない。体温もない。拍動もない。嗅覚も目に映る刀の手ごたえすら手にはない。
(幻術……)
 足を踏み出そうとした秋水は、自らがそれを伝達せしめる能力すら失っているのを知った。
 夢の世界の中ではしばし体を動かそうにもまるで動かぬというコトがある。それと同じだ。
 足を上げようにも持ち上がらず、さればと金光の魔眼から目を逸らそうにも首が動かず。
(一体、彼は何を……?)

「忍法時よどみ……これは見た者の感覚を停止させ、名前の通り時をよどませるわざだ」
 要するに一種の催眠術である。
「このわざを受けた者は停止した感覚とは裏腹に、自意識の時計針だけを先へ先へと進ませ
ていく。そうして一年、十年、百年、と徐々に激しく乖離する自意識と感覚のうち前者だけが相
対的に時の彼方へと放り出され、……精神はやがて老衰死を迎えるのだ」
 本来は瞳から発する金色の魔力のみで行うわざでもあるが、しかし瞳術は遺伝的素養によ
る所が多く、無銘単体では使えない。よって彼は矢立の墨で秋水の眼を眩ませ、その定かな
らぬ視界の中で龕灯に映る異様な墨のうねりを見せた。そうして自意識を徐々に奪った上で
眼光を叩きつけ、あらゆる感覚を麻痺させたのである。
「貴様には百の小技より一つの大技がいいと思いつき、初めて使ったがうまくいった。さて」
 無銘はシークレットトレイルの鍔を打ち鳴らした。
「放っておいても死ぬだろうが、果たして時よどみが功を奏しているか試したい」
 金の刃が秋水めがけて放たれ
「真・鶉隠れ。これほど成否を試すのに適したわざもない──…」
剣風乱刃が吹き荒れ始めた。

 真・鶉隠れ。シークレットトレイルが敵の周囲を飛び交い斬り刻む根来のわざだ。
 ところでこのわざ、武装錬金である以上、その飛刀の軌道は奇しくもかつて一線を交えた剛
太のモーターギアのごとく生体電流でインプットされているのではないだろうか? でなくば根
来は亜空間内でいちいち刀の没する場所へと走らなくてはならぬ。それは彼らしくない。
 よって生体電流での操作であるというのが筆者の見解であり、総角も秋水もこの要領で放っ
たのである。無銘が使えるのは総角から伝授されたからだろう。

 そしてその飛び交う刃、剣風乱刃は。

 秋水の薄暗い視界の中でひどくゆっくりと飛翔していた。
 金の光が眼前にパっと閃いたと思えばそれきりシークレットトレイルが中空で、ズズ、ズズ、
とナメクジより緩やかに動くのだ。かと思えば新たな金光が視界の横で閃いて、ふと気付けば
半透明にくゆる無数の光の帯が秋水の周囲に漂っている。帯の中にはまた無数の忍者刀……
 足を動かせぬようにまぶたを閉じれぬ秋水だ。網膜は本来過大な光から防護してくれる筈の
シャッターを失い、ただ強烈な光の残像を焼けつけるばかりである。そんな無音のおぞましい
世界の中で彼はひたすら剣を動かそうと努めているが、しかしまぶたすら閉じれぬから動かな
い。ただしそう思う秋水の視界の中ではソードサムライXが水に沈むがごとく緩慢な軌道を描
いているからますます自意識を懊悩させる。動かぬ動かぬと思う体が剣を動かしている! だ
が視界の中でかように緩慢であれば果たしてそれは動いているか確証が持てぬ!!
 彼の自意識が物事に対応しようとしているのに、停止した感覚はほとんどそれを受け付けな
いのだ。精神力で強引に感覚へ訴えかけても零がやっと一の速度になるばかり。
 ……こうしてますます自意識と感覚は乖離し、無銘のいう老衰死の待つ時間の彼方へと秋
水を運びつつある──…

 一方、無銘の通常の感覚で捉える秋水は、当初こそその意識とは裏腹に流麗な手さばきを
見せていたが、徐々に徐々に目に見えて忍者刀を捌き遅れていく……
 それも感覚と自意識の乖離あらばこそ。不調により処理速度が遅くなったパソコンが、文字
を入力されてもそれを表示するまでに十秒二十秒というラグを催すように、秋水は徐々に徐々
に外界への反応を送らせていくのだ。
 ああ、忍法時よどみ、これは正に端倪すべからざる魔人のわざ!
 確信の無銘は象牙細工のように白く濡れた奥歯が見えるほど大口を開け、哄笑をあげた。
「ふはは無駄無駄! 気迫激しい貴様といえど、本能に根ざす時の知覚までは自制できまい!」
 シークレットトレイルは時よどみの成果を示すように秋水の手足をなますに斬り刻み、血しぶ
きを上げていく。果たしてそれが秋水にどう映っているか、想像するだに恐ろしい。
 なお、無銘が心臓を一突きにせぬのは会心の出来栄えと称する時よどみの成否を見たいと
いう、術者ならではの好奇心に起因する。小札を守りたいと欲しつつもこの有利とこの術技の
素晴らしさに陶酔し、即座にトドメを指さぬのはやはり少年らしい未熟さだ。
 とまれ果たしてこの術は無銘が欲するように秋水の自意識を時空の彼方で殺せるか?
 ふむ、と無銘は手元に戻ってきたシークレットトレイルを掴んだ。生体電流で飛んでいる以上、
手元に一度戻して充電せねばいつか失墜するのは目に見えている。
 さあ今一度、真・鶉隠れを放ち忍法時よどみの成否を見極める……
 犬歯も露な凶悪な形相でニンマリと唇の端を吊上げた無銘であるが、何故かザラっとした敵
意を感じた。秋水に異変はない。すでにシークレットトレイルがなくなったとも知らず剣を振るい、
しかもその動きは出血のせいか感覚遅延のせいか、とにかく緩慢になりつつある。
 だが犬の頃に『敵対特性』を発露していた無銘ならではの感覚が、間近からの敵意を感じて
やまない。
 ここは総角の作り出した地下空間。秋水以外に敵意を降らす者はまず来ない。
(おかしい。我は何かを見落としているのではないか?)
 時よどみ自体はほぼ完璧といえる。問題はそれ以前の戦闘だ。ひどく些細な挙措の中から
破滅が発端し、今まさに無銘へ降り注ぎそうな予感が芽生え始めている。
顎に珠のような汗すら滴らせ、無銘はひどい息苦しさにやきもきした。
(この違和感は……何だ? 落ち着け。我は有利。今さら時よどみが破れる筈も──…)
 汗をぬぐった無銘は顎に手の甲を当てたまま、ピタリと硬直した。
 龕灯が、反転している。
 A4サイズ大のスクリーンを投影した龕灯の六つ全てが無銘に向き直って、例の墨が渦まく
映像を見せつけるよう見せているのだ。
(馬鹿な!! 我はかような操作をした覚えはない。なのになぜ!?)
 と思う無銘に、うわごとのような声がかかった。
「見ろ……」
 それは秋水の声である。自意識と感覚を乖離され外界への知覚を恐ろしく緩慢にされた筈
の彼が、まるで龕灯の異変を知ったように声を上げたのだ!
 果たして無銘は秋水を見た。秋水に従ったというより戦闘中ゆえの自然な心理作用が出た。
絶大の自信を持つわざが綻んだのかと確認せざるを得ない心理が秋水を直視させたのだ。
 だからあくまで「見ろ……」という声は最後の呼び水に過ぎぬ。
 しかし無銘の意識を下記の映像から離れなくするには十分すぎる一言でもあった。

 六つの龕灯が秋水を中心に浮遊している。線で結べば正六角形ができそうなほど整然と。
 それらの前にある小さなスクリーンの中で、雨雲のような陰鬱な黒がくねっていた……

 後はもう、無銘は秋水が先ほど見た龕灯の光景を追体験した。そして。

「見ろ」
 再び声が響いた時、無銘は六つの絵の中心でギラギラと輝く物を見た。
 気迫に釣り上がる切れ長の瞳だ。その青白く輝く双眸は凄まじい光を放ち、目を逸らそうと
思っても無意識がそれを許さない。抗えず吸いつけられ、吸いつけられると感覚の何事かが
緩やかに消失していく──…

 疑うまでもなく忍法時よどみだ。それをなぜか返されている!
 無銘はとっさに目を閉じようとした。だがその瞬間、龕灯たちは「ばっ」とその下部から光を
浴びせた! すると無銘の顔、肩、胸、腹、手、足にA4用紙大のスクリーンが現れ、墨の奔
流を渦巻かせつつ彼の体へと吸い込まれた!
(これやよもや敵対特性……? しかしなぜ……いや! まさか、まさかあの時!?)
 秋水は無銘の蹴りを防ぐべく自動人形の首をつかんでいた。自動人形の体表には敵対特性
をもたらす魚鱗状の物体がある。体表というから当然首にもある。
(それをありったけ左手に掴み、刀に塗りつけたのか!)
 その後彼は、左手でツツーっと刀身を撫でていた。無銘はそれを懐紙代りと片づけていたが
違うのだ。
 秋水は自動人形から採取した魚鱗状の物体を塗りつけたのだ。むろん平素ならできぬが、
もとより血や脂が付着し、それを火傷まみれの手で拭われた刀だ。ろくに汚れが取れていない
ため、いわゆる「ぬめり」へ二ミリメートルの細かな物体を無数にまぶす位はできる。
 そしてそんな刀が乱戦の最中で龕灯を斬った。
(つまり奴の狙いはおそらく我ではなく龕灯! 傷はかすった程度だが)
 敵対特性要因を帯びた武器が武装錬金を傷つければどうなるか──… 
 それは無銘自身が一番理解している。
 三分後に武装錬金の敵対特性が創造者に降り注ぐ、と。
 龕灯が傷ついて以来、無銘は忍び六具の使用状況を指立てて秋水にあげつらった。その後
墨を彼に浴びせた。開眼するのを待った。龕灯を展開し、墨の映像を見せつけた。金の瞳で
じっくりと睨み据えた。技の概要をひとりごち、真・鶉隠れを放った。その様を眺め、戻ってきた
シークレットトレイルを手にした。最後に迫りつつある敵意を感じ、それを探った。
 上記の作業は実に三分の間に行われたのだ。
 そしていま、この時!
 龕灯が、無銘の放ったおぞましい墨の映像が、無銘自身に敵対した! 
 意識をおぞましい墨の渦巻きが占めた! 音が消えた! 体温が消えた! 拍動も嗅覚も
目に映る刀の手ごたえすら消えうせた! 
 そしてかろうじて残った視覚の中で秋水が剣を振りかざしつつ緩やかに向かってくる。その
速度は恐ろしく遅かった。遅いが無銘の反射速度はそれ以下に鈍っている!
 気づいた時にはもう遅い。猛然と距離を詰めた秋水の逆胴が、無銘の胸を一文字に斬り裂
いた。その損傷が降り注ぐ頃にはもう無銘の自意識は時空の彼方に乖離していたから、気絶
したのは或いは無銘自身の忍法時よどみのせいかも知れない。

──「奴と戦う場合は貴殿も一切手段を選ぶな」
──「(敵対特性の要因は)あの自動人形の体表から剥がれ落ちていると考えて間違いないわ」
──「ちょっとした着想で君の武装錬金も闘い方を変えるコトができる」

 根来、千歳、防人の言葉を思い出しながら、秋水は刀を振りぬいた。
(戦士長たちの言葉がなければ負けていたのは俺の方。君は紛れもない強敵だった)
 自動人形から敵対特性の要因を採取して刀に塗り、龕灯に潜り込ませるなどという芸当は
千歳が与えた知識と防人の教えた気構え、そして無銘の特異性あらばこそ。
 そもそも無銘自身に敵対特性が及ぶ様を見ていなければ。
 根来があらかじめ「手段を選ぶな」と忠告していなければ。
(俺は性格ゆえに「本体は敵対特性を免れる」と決め付け、この芸当を思いつきすらしなかっ
ただろう)
 武装錬金は本体の闘争本能から現れる物。いわば本体の一部。一部であるから敵対特性
も適用された。
 
 倒れゆく無銘。
 単騎では決して倒せなかったであろう無銘。

 彼の体を支えた秋水は、しばし思案にくれ──…

 無銘が再び意識を取り戻したのは果たして何分後だったか。
 彼は目覚めると気づいた。床へ仰向けに寝かされ、二つの核鉄を胸に乗せられているのに。
 一つはシリアルナンバーXLIV(44)……つまり斗貴子の核鉄だ。自動人形の胴切りの余波
で、中心に一筋の大きなひび割れを催している。
 左下のひびと欠けは左足切断の、左側半ばの微細なひびは左の五指切断の影響だろう。
 一つはシリアルナンバーXIII(13)。無銘の核鉄だ。こちらも中央部に一本ひびが入り、微細
なひびがそこかしこに現われている。自動人形両断と龕灯損傷のフィードバックらしい。
(……立てないか)
 体に力が入らぬのに気づくと、無銘は疎ましげに溜息をついた。
 思えば自動人形を縦横に操った上に、龕灯まで発現し、一時はその二つを併用すらしてい
た。総ては小札を守るという執念一つで成したわざだが、振り返ればそれは無銘自身の精神
力のキャパシティを大きく超えた所業である。考えてみるがいい、形状の全く異なる二種の武
装錬金を一個人が発現できるコト自体すでに異常だ。にも関わらず無銘はそれを持ち前の特
異体質と執念だけで維持していた。精神力がどれほど摩耗したか察するに余りある。しかも、
その状況で無銘は時よどみという術をかけ、且つ、返された。全感覚を奪われ自意識を時空
の彼方に放り出された。これで精神力は致命的なまでに損耗したというのに、更に胸までも
深々と斬られたのだ。
 もはや無銘は傷の様子を確認するのも精いっぱいだ。もたげた首はひどく重く感じられ、今
にも倒れていきそうな感覚すらある。そうして見た胸の傷は核鉄の効果でやっと治癒が始まっ
たという所だ。
「目を覚ましたようだな」
 かかる秋水の声に無銘はハっと驚愕を浮かべたが、すぐさま力を振りしぼり動かぬ腕で気息
奄々、自らの核鉄を掴み、武装錬金──…という掛け声を上げかけたが……
 ふと、気絶したはずの自分が殺されず核鉄も奪われず、しかも秋水がこの部屋に留まってい
るという違和感に黙り込んだ。
 そんな彼の枕頭に秋水は座り込んだ。ソードサムライXをそっと背後に置いたのは、攻撃の
意思がないのを示したのだろう。、
 そんな彼を睨もうとした無銘は、秋水の背後彼方、ソードサムライXより数メートル先にシー
クレットトレイルが突き立っているのも散見した。
「約束する」
 秋水は折り目正しい正座で無銘の目を覗きこんだ。
「小札の命は奪わない。極力傷つけないよう、一太刀だけで倒す。だからここを通して欲しい」
(それがいいたいがために留まっていたのか)
 消耗に眩む頭で、それだけを何とか理解する無銘だ。
 同時に秋水の表情から自分に対する共感と、それを破らねばならない苦悩を見てとった。
(気配から察するに嘘はついていないようだ)
 自動人形を用い様々な欺きを行ってきた者だからこそ分かる機微もある。
(……口惜しいが戦闘を継続できるだけの体力や精神力がない。今から自動人形を発現し、
代わりに闘わせたところで本体の我が即座に倒されるだけだ。第一、自動人形一つで渡り合
えるなら……かような無様を演じる事もない)
 そう、無数の技をふるい忍び六具を用い敵対特性すら縦横に巡らし、兵馬俑と龕灯すら併
用し、忍者刀をも行使してなお秋水は倒せていない。これを敗北といわずして何といおうか。
(仕方ない)
 無銘は渋い顔でしばらく黙ると、返事代りに核鉄を投げてよこした。
「……約束するというならば、核鉄と割符はくれてやる」
 血色と力の失せた半死人のような手が、忍び装束の大腿部のポケットにふらふらと伸びた。
「おそらく師父も貴様の心情を踏まえ、この部屋に捨て置いたのだろう。母上への思慕につい
て師父は我以上……。あまりだらしない態度を取るのは頂けないが、その師父が母上の戦い
を黙認したというなら我は部屋を通すのみ」
 やがて無銘がひゅっと割符を投げた。それを受け取った秋水は軽い安堵と罪悪感を浮かべ
つつ、何かをいいかけ……
「ただし!」
 無銘の声とその手から迸る光に言葉を遮られた!
 シリアルナンバーXLIV(44)の核鉄! それがいつの間にか無銘の手にあり発動したのだ。
 とっさに秋水が背後の愛刀に手を伸ばしたのもむべなるかな。彼は自動人形が向かってくる
のを瞬間的に想像した。無銘にこれ以上の害悪を加えるつもりはないが、しかし攻撃を防がね
ばどうにもならぬ。
「先ほど我が自動人形が与えた敵対特性。それは武装解除とともに失われただろうな」
 陰鬱な声の中、秋水は見た。
「だが最後の力で今一度呼び起こす。戦術的敗北が不可避なら戦略的勝利を目指すまで」
 六つの龕灯が浮遊し、それら総てが彼の背後を照らすのを。
「まさか」
 予感を覚え、血に汚れた髪も乱しながら秋水は振り返った。
 そこではソードサムライXに龕灯の光が浴びせられている。切先から茎尻、果ては下緒や飾
り輪に至るまで万遍なくだ。例のA4サイズ大のスクリーンにはうねうねとうねる魚鱗のような
物体が映されている。
「これは自動人形体表から剥がれる敵対特性の要因。そして龕灯の特性は性質の付与……」
 秋水は刀身に吸い込まれるスクリーンを唖然と見送り、無銘は枯れ声でしかし朗々と述べた。
「そうだ。いま、龕灯により貴様の武装錬金へ敵対特性の性質を付与した!」
 見よ。青い刀身に姿を映しながら緩やかに秋水の周りを漂い始める六つの龕灯を。
 それらは秋水の周りに浮遊して、反時計回りに周回を始めた。恐らくどこまでもまとわりつき、
ひとたびエネルギーを吸おうものなら先ほどのように爆ぜて秋水を苛むのだ。
「重ねていう。部屋自体は通してやる。それが師父の考えであるならば従おう」
 通す、と無銘はいうが次の相手は壊れた物をエネルギーでつなぎ合わせる小札零だ。なら
ばこれほど憎々しくも危険を孕んだ通行許可証もない。
(次の戦い、一筋縄でいかなくなったな……だが)

──勝つ!! 俺はここで負ける訳にはいかない!!

 秋水の胸に去来したのは、カズキを刺した時の記憶である。助けようとしてくれた者を秋水は
刺した。そういう咎を持つ者が、説諭しようとした相手から今のような姑息ともいえる手段を浴
びたとして文句はいえないだろう。
「唯々諾々と貴様の素通りを許したとあっては今の戦いそのものが無意味……! 我はただ
母上が有利に戦えるよう努める。例え我が身が刻まれ芥がごとき欠片になろうとも、役目は生
ある限り全うする!」」
 無銘の叫びに秋水はただ寂然と耳を傾けた。
「……殺したくば殺せ。母上の傷つくさまを黙って見逃すぐらいなら、我は死を──…」
「どんな手段を使おうと大事な存在を守りたいという気持ちは分かる」
 ひどい沈痛を帯びた遮りに、無銘は不覚にも咆哮をやめた。
「君が小札を大事に想うのなら、小札にとっても君は大事な存在である筈だ。……俺は一度、
そういう絆を引き裂きかけた。だからもう二度と同じ過ちは繰り返したくない」
 龕灯を纏った秋水はすくりと立つと踵を返し、出口へと向かって歩いて行く。
「敵対特性は甘んじて受ける。だから自害は選ぶな。選べばその分小札が不利になる」
 勝利したというのにひどく寂寥を帯びた背中だ。無銘は一瞬たじろいだが、力なく首を振ると
吐き捨てるように呟いた。
「……敗北は認めてやる。だが貴様自身を肯定できるとは思うな。敵対特性は断じて解除せん」
「承知の上だ。しかし君は昔の俺に似ているんだ。仕打ちは受け止めて然るべき」
 目先の勝利のために人を背後から刺し、忘恩を働いた秋水なのだ。
 彼は瞑目し、まひろと、そしてここで初めて斗貴子の顔を想起した。
 秋水の武装錬金に敵対特性を付与した龕灯は、斗貴子の核鉄から発動した。それは因果と
いえば因果であろう。まるで彼女自身が秋水を責めているようである。
 歩を進めた秋水は開眼し、ぴたりと歩みを止めた。
 木床につき立つシークレットトレイルがある。彼は迷わず引き抜き……
「俺は贖罪をするために最後まで戦い抜かなくてはならない。だから」
 扉に向って力強く足を踏み出した。
「このまま前へ進むのみ」
「…………」
 苦渋満面の無銘から意識が薄れ始めた。龕灯の発動が引き金になったらしい、
「覚えておけ。次は母上が相手。一太刀の約束などもとより当てにはしてないが」
 彼は土気色の面頬に皺すら浮かべ、秋水を厳然と睨み据えた。
「殺さば、殺す!!」
 その言葉を最後に……。
 かつて人間形態になれなかった犬型ホムンクルスの少年忍者は気絶した。
 龕灯はそれに合わせて一瞬ジジっと輪郭を歪ませたが、すぐに元の形状に留まった。
(意識を失いながらも先ほどのように解除されない…… それほどの想いで発動したのか)
 よほど小札を慕っている無銘を振り返り、秋水は念を押すように呟いた。
「一太刀か、できれば傷つけずに倒す。彼女は姉さんを傷つけたが、同時に回復もした」
 もし桜花がなます斬りにされて倒されるのは耐えがたい。無銘の心情は秋水のそれだ。
(多くて一太刀……必ず守る)
 秋水は粛然と頬を引き締めると、次の部屋に向って走り出した。
 即ち。

 鳩尾無銘。

 敗北。
(残りは三名。ダメージを受けすぎたが……進むしかない)
 まさに満身創痍の剣士が朽ち板まみれの通路を走りだしたその五分後──…

 浅く目を覚ました無銘はその幼さの残る瞳をいっぱいに開き、寂然と天井を眺めていた。
「古人に云う…… 『鶏』は『稽』なり。よく時を稽(かんが)えるなり」
 鶏は夜明けと共に鳴く。だから時間の流れをよく知っている。
 とは十六世紀末に中国で編纂された一大薬学書「本草綱目」にみられる記述だ。(なぜ薬学
書に鶏の記述があるかというと、これは博物学書の意味合いも強いからだ)
 そもそも「稽古」の「稽」とは「考える」という意味があり、総じて「稽古」の原義とは「いにしえ
をかんがえる」である。つまり「温故知新」と同じ考え方とみていい。
 話が逸れた。
 無銘の属するザ・ブレーメンタウンミュージシャンズは日本語に訳せばブレーメンの音楽隊
だ。そしてこの童話に出てくる動物は、ロバ、犬、猫、そして……鶏である。
 ロバは小札で犬は無銘。猫は香美。ならば鶏は誰なのか? 貴信? 総角? いや──…
「……そろそろ出てきたらどうだアホウドリ。『よく時を稽え』そこにいる副長鐶光」
「ニワトリ……です。あくまで基盤(ベース)は……」
 目を閉じて無愛想に呟く無銘に呼応して、梁からふわりと舞い降りた黒い影である。
「無銘……くん。人間形態になれて……おめでとう」
「今の様からすれば皮肉にしか聞こえんな。まあいい。謝辞は渋々ながら受けてやる」
「……嬉しい、です」
「だ、黙れ。勘違いするな。貴様が我より遥かに強いから犬として従わざるを得ないだけだ!
そも、貴様が我に加勢していれば、かの馬鹿げた特異体質とやらで奴を一蹴できただろうに」
「それは……命令違反、です」
「貴様は忍法帖でいう無明綱太郎だな。強いが性格破綻者。組むには最悪の相手」
 フンと鼻を鳴らすと、無銘は非常に不愉快そうに呟いた。
「ゆえに貴様に比べればまだタヌキの置物の方が良いというもの。何故ならばアレは俗にいう
美少女フィギュアであり、ひどく可憐で可愛らしい。貴様などと違ってな!」
 やや異常な認識である。もっとも鐶は気にした様子もなく腰の前から何かを取り出したが。
「ビ、……ビーフジャーキー、食べます? 私は……絶食中なので無理、ですが…………」
「おうとも! ……ハッ!」
 寝ながらしっぽを振りかけた無銘は、顔をさっと赤黒く染めてそっぽを向いた。
「さ、さっさとやれ。無様な姿を貴様に晒すぐらいなら、潔く失せてやる。ビーフジャーキーもい
らんからタヌキの置物はちゃんと師父の元に届けろ。割ったら……殴る!」
「……はい」
 言葉が終わるか終らぬかのうちに、鐶の投げたキドニーダガーが無銘の首にふかぶかと突
き刺さり、やがて彼は粘液に塗れる衣服の上でホムンクルス幼体へと姿を変えた。

「リーダーからの伝達事項その四。敗北者には刃を。私の回答は……了解」

 やがて鐶が部屋の隅から置物を運び出すと、忍者屋敷が闇へとゆらゆら溶け消えた。


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第050〜059話へ
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