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第070〜079話へ
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第070話 「滅びを招くその刃 其の捌」
太陽がいよいよ中天に上り詰める頃、銀成学園からはぼつぼつと人影が吐き出されつつ
あった。
「急に日曜日になったからいつものように部活へきたけど」
「なんか調子が狂う」
「練習にならない」
口々にぼやくジャージ姿の生徒達は、どうやら運動部の練習にやってきたらしい。
ここ銀成市は、鐶の年齢操作にて突如土曜日から日曜日へと日付が進んでいる。
運動部の生徒達はこの異常な変化に戸惑いながらも一応いつもの予定通り登校し、『日曜
日の』部活動にいそしんでいたワケだが、下校途中の彼らがいうようにどうも勝手が違う。
そもそも時間の流れが正常ならば既に土曜日の夕食をたいらげている頃なのだ。
どうも人々の体は鐶の年齢操作とは無縁で、上記の機微のもと営々と生命活動をこなして
いる。だから「日付が変わった」という理性的な認識とは無関係にそろそろ日中活動の疲れが
出てきているのだ
にもかかわらず学校にわざわざきたのは、「時間が進んでいる」という奇異を肌で以て味わっ
てみたい、経験して市外の人間に自慢したい、という一種の興奮が疲労を忘れさせていたせ
いだが、しかし慣れてくると存外つまらない。いかに先取りできようと所詮はただの日曜日。ジャ
ンプが祝日の関係で土曜日に発売されて「ラッキー」と喜んでも、次の月曜日までの十日間を
想像してやがてげんなりするように、朝三暮四じみた感覚……日曜先取りも一種心躍る土曜
日の夜を犠牲にしているのではないかという推測が疲労を突きつけている。
うら若い生徒でさえそうなのだから、夕食時にビールと枝豆で一杯やってた運動部顧問の歴々
の落胆は輪をかけてひどい。
柄の間の休息もないのか、そうは思うが仕事は仕事。
仕方ないと重い足を引きずって銀成学園へやってくる心持ち、さながら雪の日の出勤の如く
だ。子供なら雪は喜ぶ。物珍しげに踏みしめて、意気揚揚と登校するだろう。だが二十代の半
ばを過ぎてしまうと雪などは通勤の邪魔でしかない。
……現在銀成市に巻き起こっている時間の奇妙な進行も然り。
平穏無事に仕事が済んで月一回の給料日まで安心して暮らしたいと願っている者にとり、お
かしな変化など願い下げ。
「変化」そのものの珍しさに一瞬目を輝かせたとしても、社会人として培った思考力は「変化」
が自分にもたらすマイナス要素をいくつもいくつもあげつらう。
で、生徒の飽きと教師の嫌気の利害が合致した結果、銀成学園からは教師を含む人影が
ぼつぼつと吐き出されつつある。とまあ、そういうワケだ。
「だいたい今日は日曜日かどうか怪しいし」
日付時代は厳然として変わっているのだが、まあそういう学術的な事実よりも楽な方向へ
逃げるのが人間であり、彼らを責められる者も特にいない。だいたい部活動だから授業カリキュ
ラムに影響もない。弱小ならやる気もない。雨が降ったらお休みで風が吹いたら遅刻して。
といってもまだ残っている生徒も運動場にはちらほらと散見できたが。
一人でサッカーボールをドリブルする者、手慣れた様子で投球練習をするバッテリー、トンボ
を持って地ならすマネージャー。きっと彼らは部活に青春を賭けているのだろう。
体育館の方では剣道部の面々が、昨日からさっぱり姿の見えぬ秋水に首を傾げながらも「ま
あたまには休息も必要か」と勝手に納得し、或いは生真面目な副会長が、そういう機微にさえ
目を向けたのが少し嬉しくなったりもした。もっとも性格をいうなら連絡もなしに二日も部活を休
むも奇妙さこそ考えるべきだが、いやいやしかしまあまあしかし、青年ならたまにはそういう野
暮ったい機微を忘れて遊ぶのもまた良しと、剣道部一面は秋水不在を責めたりしない。
その横ではバスケのドリブルの音がだむだむ響き、バトミントンのシャトルもネットの上をきび
きびと往復したりと、ごくごくいつもの情景だ。
そして運動部に比べると流石に比率は低いが、文化部の生徒も校舎のあちこちにいた。
中でも一番活力があるのはまひろ属する演劇部である。
まだ日付が「土曜日」の頃、まひろが「明日練習がある」といった通り、日曜日たるいまは練
習の対象なのだ。
借りた教室にはまひろとヴィクトリア、千里に沙織を始めとする何人かの生徒。
彼女らがサボらずやってきた理由の一つには、千里のマジメな牽引力あったらばこそだろう。
だが。
ヴィクトリアは悩んでいた。
(アイツ、いつになったら帰ってくるのよ)
探しに行きたいが秋水から「寄宿舎に帰れ」といわれてもいる。そんないいつけなど別に破っ
てもいいのだが、後でいちいち生真面目な謝罪とか説教とかをされるのも癪に障る。だいたい、
秋水相手にそこまで必死な態度を見せるのも苛立たしい。かといって放置するのも胸がもや
もやして気分が悪い。
(というか何であの後すぐにママの細胞を培養しなかったのよ私。馬鹿みたい……)
もともと細いが更にへこんだ腹部をさすると、やるせないため息を吐いて机に顎を乗せた。
沙織の件が一段落した後、密かに蝶野邸宅へ行って散乱した器具を整えて、アレキサンド
リアのクローンを培養し始めたのだが、まだできるまでには時間がかかる。
お腹すいたお腹すいたお腹すいたお腹すいたお腹すいたお腹すいたお腹すいたお腹すいた
無数の言葉が脳髄の歯車を回していろいろ連動した結果、膝から下がばたばたと動いた。
振り子が巻き上げる風を感じつつヴィクトリアは自分の不手際を呪った。
沙織捜索に駆り出したまひろの空気の読めなさはもっともっと呪った。
その呪われた少女は教壇の上で何やら異常者のように感情を爆発させたが、別に発狂した
のではなく台本に沿って声を上げたにすぎない。
ヴィクトリアはそれが残念でならない。
どうせ常に発狂しているようなもんだからもう一度発狂すれば却ってまともになるんじゃないの。
と毒舌交じりに卵のように丸っこい頭を眺めると、ますます空腹感が募ってくる。
いっそ本当に死なない程度にだがかじってやりたくなる。
(柔らかさだけならたぶんマトモな筈……)
口の中に唾液が満ちる。柔らかい肉を咀嚼する感覚を想像するとたまらない。
ただ、その後のまひろのやかましさを想像するとどうにも面倒くさそうだ。
「だ、大丈夫びっきー? ちゃんとお腹いっぱいになった? もし足りなかったらもっと食べて
いいよ! そうだ! お尻のお肉とかなら余ってるから大丈夫!」
(そういうに決まってるじゃない)
はあ、と瞳を細め机に額を乗せると、広げてた台本の文字列が瞳いっぱいに広がった。
(ああ本当に鬱陶しい。化物とか責められる方がまだマシよ)
きっとまひろはアンパンマンになったつもりで自分の肉を差し出すに違いない。トモダチを助
けるのは当然とかなんとかで。
そういうのがバカバカしいので、ヴィクトリアは目下のところ空腹を騙しだまし耐えている。
かつてアレだけ苦しんだ感覚に耐えられるのは精神の余裕のせいだろう。
といってもあまり放置すればどうなるか、保証の限りではないが。
まひろもまた悩んでいた。
(秋水先輩、大丈夫かなあ……)
とは敗戦を知らぬ彼女ゆえの思考だ。ヴィクトリアも防人もこの件については口を閉ざしてい
るで分からない。
(ううん。きっと大丈夫。秋水先輩は強いからきっと大丈夫! 帰ってくるって約束したもん!
だから今は演劇に集中ッ!)
ぶんぶんとかぶりを振ると、珍しく暗記したセリフを朗々と大きく述べた。
すると右手に握った台本が必要以上に握りつぶされ、千里がたしなめてきた。
内容は耳に入らない。視線も意識も机にだるそうに突っ伏すヴィクトリアに吸い寄せられた。
(ガス欠!?)
困った。頭ぐらいならやってもいいが、千里や沙織の目があるから出来ない。まひろはいつ
かちゃんと空気を読める人間になりたいので、人目を忍びたいのだ。
沙織も悩んでいた。
(夏休みの宿題はなぜかちゃんと片付いてたけど)
まひろがただならぬ要素で眺める少女の正体がよく分からない。
(誰なのあのコ? なんで外人さんがうちの学校に?)
鐶になり変わられ、しばらく地下で眠っていたせいで、ヴィクトリアをよく知らない沙織だ。
幼い顔を引き攣った笑みにくしゃくしゃにして、ただまひろ⇔ヴィクトリア間を眺めるばかりで
ある。
「……なんだか私だけ蚊帳の外のような」
困惑の千里はため息まじりに少女たちを見るほかない。
彼女は知らない。
そんな銀成学園から二キロメートルと離れていない路上で、いつ終わるとも分からぬ戦いが
繰り広げられているのを。
鐶がツバメに身を変え桜花に突撃すれば電柱から出た根来の腕が翼をばさりと切断し、た
んと地を蹴り鐶が短剣を振りかざせば紅い弧円を斗貴子は跳躍で回避。
そして後ろに控えていた剛太が短剣の主へと飛び蹴り。
「体重が軽すぎるんだよ」
踵で唸る戦輪に顔を斜めに斬られた鐶は、衝撃で軽く後退。その腹に間髪入れず四本の処
刑鎌が直撃。しかし斗貴子の表情は芳しくない。
(攻撃そのものは当たっている。ダメージだって与えている。なのに!)
臓物をブチ撒けた処刑鎌を引くより早く鐶の傷はふさがった。
「また回復! 一体何度目だ!!」
「まぁまぁ。ダメージを与えていればいつかは倒せるわよ」
歯ぎしりする斗貴子の横を桜花の矢が通り過ぎ、鐶に着弾。そこへ防人が打撃を加えて人
気のないオバケ工場へと誘導。それが目下の作戦概要だ。
いつしか舞台はビルが立ち並ぶ市街地から閑静な住宅街へと移り、今はさほど広くない道
路で肩をぶつけるように戦士がひしめき合っている。
(あれ? オバケ工場への誘導なら私があのホムンクルスを掴んじゃえばいいんじゃ?)
千歳はふと気付いた。だいたい彼女はあまり活躍していない。ならばココでヘルメスドライブ
の特性──瞬間移動──で鐶をオバケ工場に誘導しちゃえば大手柄。みんな褒めてくれるに
違いない。根来さえ目を輝かせて「さすがは戦士・千歳!」と喜ぶに違いない。
(オバケ工場ならさっき調査に行ったし。よし)
意気揚揚とタッチペンを持つとレーダーに映る鐶を鼻歌交じりにクリックした。
(私だって頑張ればできるんだから!)
スッと姿を消した千歳は鐶の背後へ回り込み──…
「何か……用、でしょうか」
頭の上を通り過ぎる針金のような三本爪に頭頂部の髪をうっすら斬られた。
(ひええええ〜! 気付かれてる!)
しかも相手は虚ろな瞳で短剣を振りかざしてくる。次に当たればそれこそ千歳は赤ちゃんだ。
彼女は慌ててもう一度瞬間移動して難を逃れた。
「やれるのか?」
「やれない。怖い。絶対ムリ!」
言葉少なげに鐶を指さす根来に、千歳は全力で首を振った。勢い余って三つ編みが肩と水
平に飛んだ。
鐶は異様に鋭い爪を振り回し、周囲の塀をサイコロ状に切り刻みながら防人、斗貴子、剛太
を一人で相手にしている。周囲を飛ぶカラスもその気迫に気押され、つかず離れずの場所を飛
ぶのが精いっぱい。それでも時々羽毛の先端が薄く斬り飛ばされるらしく、驚きのしわがれが
怨嗟のように木霊する。
光景たるやあたかも修羅の地獄だ。
千歳は悟った。自分などが介在できる次元ではないと。
瞬間移動で接近するのはできるが、オバケ工場までの跳躍まで無事でいられる相手ではな
い。さっき桜花を助けた時でも瞬間移動の前後に攻撃が(桜花に)当たったのだ。どうも鐶は
そういう感知能力があるらしい。それを抜きにしても全くの子供と異常な戦闘力のホムンクルス
だ。防人が鐶の誘導にヘルメスドライブの直接的な移動を組み込まなかった理由も自ずと分かる。
「なんか、私だけ役に立ってなくてゴメン」
しゅんと頭を下げる千歳に根来は元来険しい目つきをいよいよ鋭くした。
「消沈などは任務に於いて最も無意味な感情の一つ。戦う意思を失くしたというのならば我ら
に今すぐ核鉄を渡し、離脱すれば済む事」
「だ、だよね。ゴメン……」
「然るに貴殿は未だに戦闘放棄を選んでいない」
「迷惑ってコト?」
震える声を漏らして千歳は根来を見た。しかし彼は答えない。たぶん、くの字に曲がった手
裏剣を鐶へ投げるのに忙しいせいだ。解答までの一分近くの時間を、千歳はそう解釈した。
「貴殿には年齢を吸収される以前の記憶はあるか。私にはある」
「あるよ。えーとね、お化け工場の地下で沙織ちゃん見つけたりとか、寮母さんやったりとか……」
「ならばそれを追体験すれば済む話」
「?」
「貴殿が如何なる理由で性質を変えるに到ったか。私にとってはどうでもいい事。だが既に貴
殿は一度変質を遂げているのだ。ならば年齢が戻らずとも、記憶を辿れば元の性質を取り戻
すのは存外容易いだろう」
根来は亜空間に手を突っ込むと、布に包まれた何かを取り出した。布には根来の髪でも組
み込まれているのだろう。それを彼ははらりと除けた。
「貴殿はそれまでこれを持ち、機会に備えておけ。貴殿の能力にはまだ利用価値がある」
無造作に放り投げられた物をキャッチすると、千歳は目を丸くした。
「ふぇ? 夏みかん? なんで? どこで取ってきたの?」
オレンジ色につやつやとした塊を渡す意図がどうにも分からない。
眺めてみる。普通だ。作り物ではなさそうだ。
嗅いでみる。普通だ。新鮮な甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
触ってみる。普通だ。分厚い皮の向こうで角ばった感触がした。
(ん?)
千歳は何か違和感を感じた。上手くはいえないが、普通で片付けてはならない要素がある。
考えた。そして、気付いた。
(……! ちょっと待って。コレって。まさか……)
根来が頷いたような気がした。
(え、でもなんで? どう考えても『アレ』の感触だけど、今、私に渡す必要なんて)
──年齢が戻らずとも、記憶を辿れば元の性質を取り戻すのは存外容易い
すっかり幼くなった千歳の喉首を、息の塊がゆっくりと降下した。
(もしかして、この前の任務みたいなコトを……また?)
かぐわしい夏みかん。それを眼前に千歳の表情は動揺と混乱に彩られたが、やがて決然と
頷き、夏みかんをバッグにしまった。
余談だが彼女はあまりに年齢が退行しすぎたため服のサイズが合わなくなり、仕方ないので
最寄りの店で服と大きめのバッグ(再殺部隊の制服を入れるため)を買ったのだ。だいたい、
入店から購入まで一分ぐらいで。
「くしっ」
やや熱を帯びたくしゃみの音は、戦いの喧騒にかき消された。
お化け工場まで残り約1.5km。
「チクショー! 何回やっても何回やっても回復する! まるで不死鳥じゃねーかあのヤロウ!」
御前はM字に縛った口に手を当て、ちょっと考える仕草をした。
「……ん? 不死鳥? なあ桜花。アイツまさか」
「『不死鳥の能力を使っている』。そういいたいのでしょうけど答えはノーよ」
一方首を振る桜花であるが、御前と意識を共有しているのを考えると一種の自問自答といえ
なくもない。
「聞いた話じゃ鳥の能力はあくまで『細胞を組み替えて』、使っているにすぎないのよ。でも、何
されても不死鳥みたいに蘇る鳥はいないでしょ」
「いない」
迸る矢の残影がやつれた美しい顔を行き過ぎた。
「なら、彼女を回復させているのは」
(恐らく武装錬金!)
鐶に処刑鎌の嵐のような連撃が加わり、一歩一歩確実にオバケ工場に追い詰めていく。
(これまでの戦いで分かったコトがいくつかある)
斗貴子は鐶の右腕を切断するつもりで薙いだ。しかしわずかに刃先がめり込むばかりで損傷
らしい損傷は与えるコトができない。
(やはりな。先ほどの空中戦と同じ。武装錬金を握る手だけが非常に堅くなっている。他の部
分は剛太でさえダメージを与えられるというのに)
攻撃力最弱のモータギアでさえ、例えば顔に切り傷をつけられるほど鐶はやわらかい。然る
に斗貴子の見るところ右腕だけは堅牢である。肩も一の腕も二の腕も手首も非常な硬度を誇
り、何度斬りかかってもダメージが与えられない。
(武装錬金を手放すと不都合が生じるのは明らか。でなくば右腕の防御を固める理由がない!)
(そして)
薄暗い亜空間の中、根来の手から金色の閃光が迸った。
(奴の回復は戦部の激戦に似ているがやや違う)
激戦とは十文字槍の武装錬金である。
特性は「高速自動修復」。槍本体並びに創造主へのダメージを即座に回復する。
(だがその激戦と違い、コイツの体は傷を受けるたびに修復しない。一定のダメージを負って
初めて回復する。そしてその判定を行うのは武装錬金)
先ほど鐶は自身のケガが「命に関わる」か否かを戦士に問いかけた。もし自身の意思で回
復できるのであれば問いかけるより先に回復をしているだろう。
斗貴子が「その判定を行うのは武装錬金」と断ずる論拠は上記にある。
「激戦が高速自動修復なら、クロムクレイドルトゥグレイヴはさしずめ『瀕死時限定の自動修復』!
ならば付け入る隙もある!」
前述の戦部とて、「自動」で回復するがゆえの不都合……『何があろうとすぐにその場に回
復する』を逆手に取られて敗北したのだ。
(年齢操作と回復がどう関係しているかは気になるところだが)
鐶の足元から真・鶉隠れの剣風乱刃が勃興するより早く斗貴子は跳躍。
(相手は予想以上に手練れた化物。長引けば押し切られるのは私たちの方)
舞いを踊るような鮮やかさで防人の隣へ移動。
(ここは作戦を変更し、一気に勝負をつけますか?)
鋭い上目づかいの問いかけに、銀の覆面はゆっくりと首肯した。
(できれば人気のない場所に誘導したかった……)
防人は防護服に視線を滑らせ青いグローブを握りしめた。
(だが、お前たちのおかげでようやく隙が見えた)
壮烈なる爪を浴びた剣が舞い飛び、衝撃の風が銀の肌をびりびりと舐めた。
呼び起こされる疼痛と灼熱に顔を歪める間もなく、鐶が防人の懐に飛び込んできた。
その姿は傘に似ていた。前のめりに倒した上体を頭ごと両翼ですっぽりと覆い、ナイフのよ
うに鋭い羽根は地面に切っ先を向け、あたかもカーテンのようだ。
うすら寒い鼓動を奏でながら拳を乱打する防人は、攻撃対象が「クロサギ」という鳥の習性
を借りているコトまでは知らない。クロサギは水面で傘のように翼を広げ、影に入ってきた魚
を取るのだ。然るに鐶は次にクロサギにありえぬ動きを取った。あろうコトか全身を駒のように
スピンさせたのだ。無数の拳を削り取らんばかりの勢いだ。いまや一個の円錐と化した少女の
翼に流されそうになりながらも防人は何とか思考をまとめた。
(このホムンクルスは回復に転ずる瞬間、わずかだが硬直する。その瞬間を狙う!)
シルバースキンリバース!
シルバースキンは通常、「外部から」の攻撃を全てシャットアウトする防護服である。
だがひとたび裏返し対象に装着すれば「外部への」攻撃を全てシャットアウトする無敵の拘
束服へと特性が裏返る。
ダブル武装錬金による二重拘束(ダブルストレイト)であればその拘束力は地上最強といっ
て差し支えない。
周囲から生命エネルギーを無尽蔵に吸収し、ホムンクルスをも遥かに凌ぐ高出力を得たヴィ
クターIII(武藤カズキ)でさえ、一度は二重拘束の前に成す術なく敗れ去った。
(これならば奴を殺さず捕らえ、アジトの場所を吐かせるコトができる。……総角主税と戦士・
秋水の居場所が分からない今、俺達にはそうする他に選択肢がない)
数で勝る戦士たちが章印を狙えずにいる理由でもある。
(問題は回復のわずかな瞬間に当てられるどうか。今の俺の状態では攻撃から間髪入れずに
リバースを射出するのは難しい──…)
ばつと両翼を広げ人間形態に戻った鐶は、機関銃のように重苦しい拳雨を浴びながら短剣
を繰り出した。これにより彼女の右頬骨と前頭骨は中破。左側頭部は蝶形骨や眼窩上孔と共
に吹き飛び左目へ視力検査のランドルト環のような風穴が空いた。虚ろながら愛らしい顔立ち
やしなやかな四肢を蹂躙に食い破られながらも鐶は短剣を冷然と防人の眼へ差し伸べる。
まったく執拗という他ない。絶対防御に開いた唯一の穴から彼女は年齢吸収を目論んでい
る。猛然とクローズアップされる鋭利な切っ先に、防人は本能的な嫌悪と忌避を覚えながら身を
捩り回避。頬の辺りを金斬り音が通り過ぎ、一拍遅れて熱ぼったい火の粒が視界を染めた。
だが同時に防人の拳は、短剣を繰り出しガラ空きになった鐶のみぞおちに直撃してもいる。
ホムンクルスでありながら少女然とした柔らかさだ。手首の辺りまで易々と没した青いグロー
ブに思わず罪悪感さえ覚えるほど、柔らかい。
そうして鐶を吹き飛ばすと、心痛とは別ベクトルの苦い痛みと痺れが防人を突き抜けた。
(間違いない。攻撃を繰り出すたび、反動に耐えられなくなってきている)
元より火渡の五千百度の炎に身を晒し、「以前のように戦えるかどうか」と判断された防人
である。立って歩けるだけでも僥倖とすべしだが状況はそれを許さず戦いを強いた。結果、損
壊した体は徐々に悲鳴を上げつつある。
(俺はリバース射出に専念するしかなさそうだ。何故なら……)
(シルバースキンリバースには弱点がある。当たりさえすれば脱出できねェけど)
吹き飛ぶ鐶へ追撃とばかりに剛太は飛び込み、戦輪付きのアッパーカットを見舞った。
もっともそれは反撃とばかりに繰り出されたペンギンの鋭いフリッパー(羽根。ボートのオー
ルのような形で硬い)に受け止められ、鐶の胸の前でギガギガと火花を散らすに留まった。
その背後から躍りかかった斗貴子と根来の斬撃……四本の処刑鎌と一本の忍者刀へ、鐶
はくるりと首を反転させて短剣一本で影も見せずに捌ききるから恐ろしい。
しかも体にブレが一切ないのだ。腰にかけたポシェットがまったく揺れないのも剛太は見た。
(普通にやってちゃこんな相手にはまず当たらねェ)
シルバースキンリバースは、射出してから標的へ届くまで若干のタイムラグがある。
事実剛太は、カズキに射出されたシルバースキンへモーターギアの機動力で割り入って封じ
たコトがある。
(回復する時にコイツが硬直するったって、それは本当に一瞬なんだ。そこで外したら次からは
警戒され、二度と当てられなくなる。相手は鳥。スピードは文句なしにモーターギアより上!)
気合一閃。剛太は奥歯を噛みしめフリッパーを切断した。抵抗の消滅は心地よい浮遊感を
経て雷光のような勢いで鐶の胸に吸い込まれた。
果たして彼女は光を帯び、あらゆる損壊を回復した。
(もうそろそろ回復のタイミングが見えてきたでしょ戦士長)
体をどけてその様子を見せると、防人は無言で頷いた。
(ええと、私は赤銅島での失敗を反省して、それから、それから……)
指折って十八歳からの向こう七年の出来事を反復するのは「二十六歳」の精神を取り戻す
ための努力であろう。千歳は根来の言葉に従い、いちおう努力しているのだ。
しかしそんな彼女は戦士たちに満ち始めた名状しがたい緊張感にはうはうと目を見開いた。
(何? どうしたのみんな?)
斗貴子は防人を見た。彼は頷き、千歳以外の戦士も粛然と表情を引き締めた。
(あ、ひょっとしてみんな)
千歳の瞳には往年の知性の光がやや戻りつつある。
目的は一つ!
シルバースキンリバース必中!
(その為には戦士長には射出だけに専念してもらう)
斗貴子は青白い光を放ちながら一歩踏み出した。
(だからなるべく俺たちだけでアイツを押さえつけなきゃならねェ)
剛太の指先で戦輪が回転し
(だて攻撃の後にすぐ射出するのは難しそうだから)
桜花は巨大な弓を震える手でしっかと構えた。
(すまない。だが必ずリバースは当ててみせる!)
防人は全身の疼痛を誤魔化すように、帽子のつばを直した。
(なんでだろう。まだあのホムンクルスが切り札を持っているような気がする)
千歳は一人、張り詰める緊張感の中で思った。
繰り返すがヴィクター化したカズキでさえ成す術なく拘束されたリバースだ。
いかに特異体質を有していようと鐶はただのホムンクルス。
リバースにはそれこそ網にかかった鳥の如く捕らえられるだろう。
なのに微かな引っかかりが千歳の胸にある。これまで鐶が使った戦法の中で、リバースを破
る最適な手段があったような気がしてならない。精神が二十六歳当時ならすぐに気づけたよう
な、ごくごく簡単な見落としがあるような気がしてならない。
(この不安は一体……)
九月初旬の生ぬるい風が亜麻色の三つ編みを揺らめかし、幼い千歳に影を落とした。
怖気が湧き、気だるい熱が耳を染める。口内もひび割れんばかりにからからに乾いている。
「不安ならば打開策を練れ。既に余地は与えている。貴殿の素養ならば不可能でもなかろう」
いつの間にか千歳の横に来た根来が、それだけを言い捨てると一歩踏み出した。
「このまま同じ攻め手を繰り返した所で戦局の好転は見込めない。方針を変えるぞ」
剛太は呆気に取られ、戦輪を危うく落としかけた。
なぜならかつて「一人で十分戦える」と述べた根来がこういったのだ。
「最も無傷に近く最も能力を失っていない私が奴を撹乱する。貴殿らは後に続け」
忍者刀の鍔を打ち鳴らすと、彼は猛然と鐶に斬りかかった。
練習が一段落すると衣裳の話になった。
銀成学園演劇部のコトである。
話題に上るのはやはり学園祭用のドレスである。どうも歴史をひも解くと何かと不思議な話
が多い。これを着るのを目当てに入部した女子も十指に余るほど魅力的なのだ。
しかしまひろはそんな服よりももっと身近なコトに興味があるらしく。
「ねーねー、びっきーってずっとその制服なの?」
「え、えーと。しばらくはこうじゃないかな」
あははと空笑いを浮かべながら内心ではじっとりとまひろをねめつけるヴィクトリアである。
(別にいいじゃないこの制服でも)
斗貴子も来ているニュートンアップル女学院の制服は、今となってはやや古風なセーラー服
である。銀成学園の制服が良くいえば前衛的、悪くいえばフザけすぎたゴシック系なのを考え
ると、その群塊に放り込まれたセーラー服は浮いて見える。だからかまひろの関心を引いたの
だろう。
「でもさでもさ、銀成学園の制服もきっと似合うよびっきー。一度着てみない?」
曰くお人形さんみたいに可愛いから、らしい。
「っていわれても」
いいよどむヴィクトリアが思わぬ災難に見舞われたのはその数秒後である。
鐶光というホムンクルスが瀕死時限定の超回復を持っているのは既に明白。
戦士が狙うはそのわずかな硬直。
瀕死から平常へと回復する一瞬の隙にシルバースキンリバースを射出し、拘束。
数で勝りながら年齢・体力の消耗ならびに力量差によって苦戦を強いられている戦士たちが
逆転する手段はこれしかないだろう。
根来はそれをより確実にするため一考をひねり出していた。
鐶の硬直時間はわずか一瞬。普通に撃てば仕損ずる。だが、彼女の体勢を崩せば? 例え
ば極端な話、潰れたカエルのように地面へうつ伏せ叩きつけてから例の自動回復をさせれば、
回復の硬直 + 普通に立ち上がるまでの時間
と、ごくわずかだが隙を稼ぎ、リバースの命中率を向上させられる。
回復は「瀕死」をキーに自動発動する。
自動といえば聞こえはいいが、自分の意志や判断の介在を一切許さぬ不利もあるのだ。不
慮の事態が起こったとき、自らの意思で回復を止められない欠陥を秘めている。現に戦部は
それで敗北した。
だから回復は敢えて許す。ただしそのタイミングと体勢については戦士が決める。そも、彼ら
の攻撃の蓄積によって回復が発動するのだ。乱暴にいえば鐶の回復の議決権は戦士に握ら
れている。使わぬ手はない。攻撃側というものは本来、ありとあらゆる雑駁(ざっぱく)とした事
情さえ除けばその攻撃の強弱やタイミング、手段を自由に選択できるものなのだ。
話を一旦まとめよう。
作戦の骨子はシルバースキンリバース必中。
そのためには
『鐶の体勢を崩した上で』
『瀕死に追いやる』
のが理想といえる。どちらかだけでは不十分。崩れても瀕死でなければ意味がなく、瀕死でも
直立不動ならば作戦成功の確率は低くなる。
では、上記の二条項を満たすにはどうすればいいか?
根来は無数の可能性の中からもっとも分かりやすく達成可能な案を選択した。
『瀕死寸前の状態で反撃不能の一斉攻撃を叩き込む』
そのために戦力を温存し、「ここぞ!」というところで攻勢に転じるべきだろう。
一斉攻撃といえど、先ほどのように漠然とぶつけるだけでは埒が明かないのは証明済み。
考えてもみよ。相手は変形能力に加え状況次第では一撃必殺の短剣を持っている。
攻撃手段に乏しく、傷を負った戦士はそれだけで不利だ。そしてそれらを避けたとしても、勝
負をかけるべき瞬間に諸々の事態・状況によって足並みが揃わぬコトもままありうる──…
ならば『反撃不能の一斉攻撃を叩き込む』その瞬間のみ戦力を一極集中させるべきではな
いか? つまり勝負をかける瞬間まで、敢えて根来以外の戦士を戦闘から除外し……
『瀕死にやや近いダメージを負わせたところ』で投入する。
「最も無傷に近く最も能力を失っていない私が奴を撹乱する。貴殿らは後に続け」
戦士たちは「あ」と息を呑んだ。
根来は撹乱といった。この状況で行う撹乱といえばリバース必中のための物しかない。
しかし彼はともに「撹乱」を行えとはいっていない。後に続け……? 後とは?
方向性こそ違えど確たる思考力を秘めた戦士たちは瞬時に根来の方針を悟った。
リバース必中のための隙は斗貴子・剛太・桜花・千歳が作る。その準備は根来が整える。
「んー、だいたいはわかったケド」
御前の頭にあるハート型アンテナがピピッと受信したのは桜花からの精神伝達(テレパシー)
である。彼女はあまりの内容に肉まん顔のあらゆるパーツを深刻に歪めた。
「アイツ、亜空間に潜めるだけだぞ。それだけであの化物と渡り合うのって、正直すごく辛くね?」
「大方、力量差は忍法とやらで埋めるのだろう」
斗貴子の口から盛大な溜息と「というか子供の頃から忍法習得してるのか? なら何で戦団
なんかに入ったんだ」という露骨な愚痴が漏れたので、御前は「苦労してんだなあツムリン」と
哀愁帯びる細い背中を優しく叩いた。
一方、残る千歳は大きなくしゃみをして鼻をすすった。
(なんでさっきからくしゃみが出るんだろう。口の中もちょっとしびれているし……)
彼女の視界の中では根来が鐶に斬りかかり、ひらりひらりと攻撃をかわしている。
それと比べると自分がどうも役立たずに思え、千歳は鼻をびぃびぃかみつつ少し泣いた。
(だめだめ。ちゃんと戦えるように考えないと。……あれ? そういえば今の私の症状、昔、テ
レビで見たような……)
ティッシュを丸めてポケットに仕舞いながら千歳はぼーっと考え、やがて軽く目を剥いた。
(えと、見たのは何かの鳥の番組だったような。『くしゃみを出させて口をしびれさせる』、そん
な鳥がいたような──…)
幼さゆえに千歳のその思考は以下の景色に吹き飛ばされた。
根来の鼻先すれすれに短剣が掠った。彼は表情一つ変えず即座に踏み込んだ。
その姿がカッコ良くて、さすが根来くんだと感心し「がんばれー!」と応援したくもなった。
(じゃない! えと、確かにいたんだって。『くしゃみを出させて口をしびれさせる』鳥。なんだっ
け。どんな能力だったっけ。思い出さなきゃ。思い出さなきゃ。だってひょっとしたら私……)
千歳は鼻のむずつく幼い顔を恐怖に強張らせた。
(何か怖い攻撃を受けてるかも知れない! でも違うかも!? ああ、どうすれば!)
頭を抱えて目をナルトの渦のように旋回させる千歳はさておき。
更に根来は数合撃ち合うと軽やかに宙を回転しながら着地して、塀に左手を当てながら水
すましのようにツツーっと鐶に向って疾走した。
根来の左手が這った跡にはまるで刷毛でぬまりと撫でつけたような銀の塗膜が染みついて
あたかも鏡のごとく光っている。しかも彼は攻撃の片手間に電柱や道路にも同じ行為を施して
いき──……、やがて側溝の蓋やマンホールにさえ大小さまざまの銀の水たまりができた。
道路へニュッと突き出す木の枝などはスプレーを噴霧したかのごとく辺りを映している。
「忍法忍びの水月。……」
これはかつて無銘が用いた物だがどうやら根来も使えるらしい。(海鳴り忍法帖で根来法師
が使っていたので習得対象になったのだろう)
果たしていかなる修行苦行の果てにかような魔技を体得できるかは不明だが、とにかく彼は
忍びの水月により迫真の立体像を帯び、辺りを乱舞しはじめた。
これには無銘を知る鐶さえも困惑したらしい。しかしとにかく襲いかかる根来を攻撃すれば
良いとばかりに爪や翼、短剣を振りかざすがことごとく手応えなき幻を切る。ならばと幻影を無
視して戦士たちに迎えば、それもまた鏡に映った虚像だから始末に負えない。
辺り一帯に満ちた鏡はどうやら風景を出鱈目に反射して、戦士の所在を隠しているらしい。
鐶はしばし勘案すると翼を広げ空へ飛んだ。中空ならば鏡はない、だいいち鳥たる彼女にとっ
てはそちらこそが有利なのだ。一気に他の戦士を狙い撃つコトもできる──…
「と思ったのだろうが」
虚ろな瞳がぼんやりとそこにいる男の姿を捉えた。
「空中に逃れるというその行動が既に、我が根来忍法の術中に嵌っているのだ」
傘。唐傘。真赤な丹塗りで成人男性ほどの長さはあろうかという傘が広がり空を飛んでいる。
しかも刀を下向けた根来が今や遅しと傘の上で待ち構えている。
「忍法かくれ傘。……」
それが轟然たる鐶の特攻を受け竹や和紙の破片もばらばらに吹き飛んだのと、根来の一撃
が鐶の背を割り斬ったのはまったく同時の出来事である。
ああしかしそこは人間の限界、根来は相対的に身長と同じ長さになったマフラーをなびかせ
地上へと落ちていく。
見逃す鐶ではない。例の血に似た液体を背中から旗のようになびかせながら身をひらりと
翻し、再び巨大なハヤブサに変形した。
鳥類最速は急降下時のハヤブサである。
一説では急降下角度が30度なら時速270km。45度ならば実に時速350km……
先ほどその衝突を受けた防人がほぼ無事であったのは絶対防御を誇るシルバースキンあら
ばこそ。では、生身の根来がその、500系新幹線の最高時速さえ超える体当たりを浴びれば
果たしてどうなるか。カラスほどの大きさのハヤブサでさえ、後趾でアオバトの片翼を悠然と吹
き飛ばすのだ。人間は新幹線に当たるとスイカのように粉砕するのだ。結果は想像に難くない。
はたして鐶は翼をすぼめると、根来へ向って猛然と急降下した。
「まずい!」
「やられる!」
「瞬間移動で助け──…」
「……!!?」
戦士が口ぐちに叫ぶ中、息を呑んだのは鐶の方である。命中すると思われたその瞬間、根
来がうっすらと残影を見せながらかき消えたのだ。
「忍法枯葉がえし。……」
落下途中の彼はあろうコトか「跳躍」した。頭を地上に差し向けたまま、足場も何もない空中
から更なる天空……先ほどの足場たる傘のあった場所に向って「跳躍」し、鐶の爪を逃れた。
「無茶苦茶だアイツ」
御前が呆れるのも無理はない。まるで紐の見えぬバンジージャンプを平然と根来は行った。
実際に紐などなく、ましてそれを括りつけるべき場所もない。鐶がこの回避をまるで予想だに
しなかったのも、全く以て物理の法則を無視した跳躍であるからこそ。
「言った筈だ。既に貴様は我が根来忍法の術中に嵌っていると」
しかし根来はまだ空にいる。制空権なら私にも……と加速を殺し身を返し、根来へ向かって
羽ばたく鐶だが、突如として左半身から揚力が消えうせ、しかも左へ傾き落下を始めているの
に気づいた。
(……上へ飛ぶついでに…………攻撃したよう……です)
左翼の半ばがおよそ三分の二ほど──鳥でいうならば次列風切(じれつかざきり)から中雨
覆(ちゅうあまおおい)まで──がざっくりと斬られている。
根来は回避と同時に忍者刀を跳ね上げたようだ。
(斬られた部分のほとんどは鳥でいう「羽毛」の部分……損傷は軽微)
内部部品の断面も露に火花を散らす翼が、無造作にパージされた。
もはや残骸と化した体の一部だ。
それがくゆりながら地上に落ちるのには目もくれず、腕の傷をじつと眺める鐶である。
(人間でいうなら二の腕を軽く斬られたぐらい……けどしばらく飛行不可能…………斬ら
れた羽根の再生は即座に……できません)
不時着を余儀なくされた鐶を地上では虚像の根来たちが車座にぐるりと取り囲んでいる。
いちはやく落ち地面に突き立つ羽根にさえ、鏡ができているから恐ろしい。
「忍法百夜(ももよ)ぐるま。……」
「シークレットトレイル必勝の型。真・鶉隠れ」
彼らが異口異音に呟くやいなや、鐶のしなやかな肢体は弓なりにびーんと仰け反った。
金色の刃そのものは背中より一メートルほど後ろを過ぎるに留まった。三つに編まれた後ろ
髪の毛の一筋さえ斬り飛ばさない。それほど離れた距離を行き過ぎただけなのだ。
にも関わらず鐶が背中を海老反らせたのは、背中から腹部までを刺し貫かれたような痛覚
を覚えたからだ。果たして腹部を見る鐶だが、しかし意外なコトにそこにはなんら傷がない。確
かに肋骨の下を冷たい刃が駆け抜けて、みぞおちが爆ぜる感覚がしたにもかかわらず。
忍法百夜ぐるま。これは影を斬り実体にその感覚を与える魔技である。
いま、剣風乱刃は燦然たる金の帯を引きながら鐶の周囲をうねり始めた。
そのほとんどは鐶の背後に伸びる影から現れ或いは没し、亜空間の出入りとともに激しくも
あやふやな痛みを鐶に与えていく。と同時に確かに鐶に当たる刃もある。肩に掠る物、脇腹を
薙ぐ物……手足を削る刀傷のところどころからは、思いだしたように偽血がとろとろと流れドス
黒いアスファルトへ滴り落ちていく。
痛みは虚実さまざまであり、鐶は自らの正確なダメージが把握できなくなってきた。
(……二つ、分かりました)
根来の用いる忍法は、ホムンクルスに対して直接的な攻撃力がない。それもそのはず、元来
ホムンクルスは錬金術の力でしか破壊できないのだ。いかに人智を超越した根来忍法といえ
ど、あくまで補助的な役割にすぎない。それが証拠に空中戦やいまこの時に鐶へダメージを与
えたのは武装錬金たるシークレットトレイルのみだ。
(つまり…………忍法は……武装錬金を当てるための囮。うかつに怖がって下手に動けば……
あの人の思うツボ。私は……ちょっと抜けている部分が……あるので……しっかり考えないと)
そして根来の「思うツボ」、というのは……。
(ある程度まで私を傷めつけ……回復する直前、他の戦士さんたちとともに…………一斉攻
撃を仕掛け……態勢を崩し……回復時間と体勢なおしのタイムラグを利用して……何らかの
切り札をブツける……つもり、でしょうか……? 他の戦士さんたちを敢えて後ろに下げて……
私を辿りつけなくしているのはたぶんそのため……。でも、切り札って……なんでしょうか)
嵐のような剣のうねりと虚実入り混じる激痛と、目の前をゆらゆらと乱舞する無数の根来を
青く虚ろな瞳でぼうっと眺めながら鐶は思考を進めた。
(切り札は……なんでしょうか。私の回復を止めるのか……それとも回復しても戦闘不能にで
きる圧倒的な攻撃……? 私の回復の秘密……『補充』の仕組みが見抜かれた気配はいま
のところないので……仕掛けてくるとしたら、力押しで、強引で、理不尽な攻撃の筈)
思考に没入する鐶は気付かない。体の傷がますます増えているのを。いやむしろ、回復が
あるからこそ多少の傷など気にせず思考に没入しているのかも知れない。
(もし、この忍者さんが……大火力で私を殲滅するなら……他の戦士さんたちを退避させた意
味も分かりますが…………それならわざわざ私を忍法で牽制する必要はありません……。あ
の刀で亜空間に隠れ潜み…………不意打ちで大技を仕掛ければいい、だけですから……。
そして亜空間に潜めるだけの刀に…………私の回復を妨げるようなものはない、です。となる
とこの忍者さんはあくまで牽制役……。他に私の回復を無効化できそうな戦士さんは…………)
斗貴子・剛太・桜花は除外される。
戦った感触ではそれほどの攻撃力はないし、第一彼らと交戦した無銘・貴信・香美・小札か
ら伝え聞く限りでも、回復を妨げるような「隠し手」は見当たらない。
千歳の瞬間移動そのものは脅威だ。もっとも彼女自身は既に年齢退行しているため、敵で
はない。現にすでに何度か瞬間移動の瞬間を狙って攻撃を仕掛けている。それを目の当たり
にしてなお戦士が千歳を切り札にする道理はない。
(消去法でいくと…………切り札を持っているのは…………)
防人。
これまで、他の戦士と違いブレミュとの交戦がないため、全容はまだ明らかになっていない。
(実際……私と撃ち合えるのはあの人ぐらい……です。もしさっき、ハヤブサ形態の私の攻撃
を正面から迎え撃った技(一撃必殺・ブラボー正拳)は結構強かったので……あれより強い必
殺技があるなら……回復の隙にクロムクレイドルトゥグレイブを破壊し……『補充』を阻止する
コトができるでしょう…………もっとも、私の武装錬金は硬い、です。破壊されたコトはありま
せん。……リーダーの切り札を浴びても……壊れません。だから……武器破壊に狙いを定め
てくれると……嬉しい、です。あ……。というか)
薄ぼんやりと鶉隠れの中でズタズタにされていた鐶は気付いた。
(あの忍者さんを倒してしまえば…………戦士さんたちの目論見は達成できないのでは?)
根来を倒す、ごく当たり前の発想だが、いま鐶の目の前には無数の鏡に映る無数の根来が
所狭しと動き回っている。一体何体いるのか分からない。むかし戦ったムーンフェイスは同時
に二十九体(残り一体は下水道処理施設にいた)しか出てこなかったが、心もちそれを五倍し
たぐらいの根来がいるように思われた。
「日本野鳥の会」
鐶は短剣を持ち替え、ゴングに似た柄頭をカウンターに見立てて親指で叩き始めた。
「お姉ちゃんと昔……紅白で見て以来……日本野鳥の会は好き、です」
ちなみに日本の野鳥の会といえば紅白で観客がどっちに投票したか数える姿が印象的だが
実際に彼らがそうしたのは1981〜1985年と1992年の6回であり、1993〜2002年の10
回は麻布大学野鳥研究部が数えたという。(ウィキペディア「日本野鳥の会」の項より)
「かちかち。かちかちかちかち……えーと、百十二人、です」
ざっとそれだけいるのですか、と鐶は呟いた。同時に左肩が刀にごっそり削り取られて破片
が目に当たったが、彼女は瞬き一つせずただただぼーっと無数の根来を見た。
「簡単には……忍者さんを見つけられませんね……。亜空間にいる可能性も……ありますか
ら…………。あ、でも、忍びの水月は確か無銘くんが……」
鐶は見ていた。秋水と無銘の戦いを。もちろん、その戦闘の途中で秋水が忍びの水月を破っ
たのも見ている。
(えーと、確か……『鏡に映った虚像は、本体と左右が逆』なので……殺気を頼りに大まかな
位置を絞り込んで……他と左右逆な物を攻撃すればいい……でしたね。でも左右逆な部分は
……と、なると。そうなると……」
鐶は根来を見た。そういえば先ほど彼が千歳をかばった時に肩を刺した記憶があるが、は
て、右だったか左だったか。人混みに紛れて斬りつけもしたが、移動集団に紛れる悲しさ、流
石にどこを斬りつけたかまでは定かではない。ただ。
(前髪)
根来の顔半分を暗く覆い尽くす直角三角形の前髪。
鏡に映る根来らはことごとくそれで『顔の左半分』を覆っている。
(というコトは……本物は、…………『顔の右半分』に前髪が?)
鐶は金の刃をくぐり抜け、ゆっくりと歩き出した。
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