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第071話 「滅びを招くその刃 其の玖」



 御前は次から次から出来(しゅったい)する異様な光景に呆れかえっていた。
「無茶苦茶だアイツ。何でもアリじゃねーか」
「……なんで俺との戦いで忍法使わなかったんだ?」
 それはともかく、と桜花は瞳を薄桃の光にさらっと輝かせた。
「これで勝負の瞬間までこちらが攻撃されるコトはなさそうね」
「で、でも、どうするの?」
 千歳は半泣きで路上を指さした。
 見れば辺りに満ちた鏡のせいで、鐶の姿が十も二十も蠢いている。
「これじゃどこに向かえばいいか分からないよ!」
「いや、お前のヘルメスドライブならば本体のところへ俺達を運べるだろう」
「あ」
「後は彼が瀕死直前に追い込むのを待つだけだ」
 斗貴子の期待を読んだかの如く、根来はいま一つの核鉄を突き出した。
 それはシリアルナンバーLXXXIII(83)。元は貴信の物である。

「ダブル武装錬金。……」
(飛刀を増やし……私を追い込むつもりでしょうか)
 短剣をびっと一振りし警戒する鐶をよそに核鉄は旧態依然、まるで変化を見せぬ。しかし根
来のするコトだ。作動不可に乗じて飛び込んだ所に無音無動作の抜き打ちのような刃を浴び
せるコトも十分にありうる……。
 そんな逡巡も一瞬だけ鐶をよぎったが、彼女は構わず駆けた。単純で放胆すぎる行為といえ
るが根来に流れを作らせないという点では合理的であろう。
(攻めてみれば……分かるコト)
 対する無数の虚像のいずこからくぐもった舌打ちが響いた。
「使用不可のようだ」
 そのまま彼はぱっと核鉄から手を放しポケットに滑り込ませた。
(ダメージを受けているから……恐らくそのせい)
 貴信戦でハイテンションワイヤーが負った傷は現在でも完治していないとみえ、貴信の核鉄
はまだまだヒビが残っている。使用不可もむべなるかな。そういえば、と鐶は思い返した。根
来の突き出した核鉄は、心持ち色艶や輝きさえくすんでいた。それこそ核鉄が使えぬという
根来にとっては重大な、鐶にとっては幸運な、何よりの証拠ではないか?
 転瞬、鐶は胸を細い息にすうっと膨らませた。
(刀が一本だけなら真・鶉隠れを突っ切るコトが……可能。だから今から忍者さんの所在を突
き止めます。……狙うは『顔の右半分に前髪がある』忍者さん)
 ビデオの一時停止を解除したかのごとく再び乱舞し始めた無数の根来と無数の金の忍者刀
を鐶は縫っていく。虚像をすり抜け刃を物ともせず駆ける少女は、足取りこそしなしなと軽やか
であるが一種の魔人めいたおぞましささえ漂っている。
 やがて鐶は首を一回転させ、虚ろな瞳にわずかな光を灯した。。
 果たして目指す根来は右斜め後方六メートルの電柱の影にいた。
 『顔の右半分に前髪がある』根来。それが忍びの水月を生み出したただ一つの本体。
 鐶は返す踵を地にねじこむようにしながら怪鳥のように飛びあがり、根来を唐竹割りに斬り
下げた。
「……恐らく、ここまではあの人も予想済みの……展開」
 柔らかな物を斬った感触がふわりと鐶の手首を行き過ぎると、両断された根来が白い布地も
一瞬露に、あろうコトか二体に分裂した。
 忍法陽炎乱し。ヴェールのように薄く剥がした衣服の一部が術者の姿となり、相手を幻惑す
る恐るべきわざである。
 遠巻きの戦士たちにまでその術功は届かぬと見え、彼らはただただ地に足つけてそよぐ根
来のマフラーと、それに斬りかかった鐶に首を傾げるばかりである。
 そして「……恐らく、ここまではあの人も予想済みの……展開」と鐶が呟くころにはすでに本
物の根来が背後から稲光とともに現われ、高々とシークレットトレイルを掲げていた。
(忍びの水月が破られるのも予想済み。かつて病院の地下で私にこの術を見せた鳩尾無銘
が早坂秋水に敗れた以上、貴様たちも破り方を心得ているだろう。かの変幻自在の地下壕に
潜みながら観戦しない道理はない)
「だから、『顔の右半分に前髪がある』分身を……配置して…………誘い込んだ。……ですね」
 中空で根来の顔がやにわに歪みそのままびったりと静止したのは、振り返った鐶が根来の
喉首を当然という顔で掴んでいたためである。
「考え抜いた不意打ち……お見事です。けれど、あなたが忍びの水月を破られるのを……予測
していたのは予測済み…………。きっと囮を使い…………亜空間から不意打ちを仕掛けてくる
と……思っていました……」
 口調の静かさとは裏腹に、鉤に曲がった五指はめりめりと万力のような力で根来の喉首に
喰い込んでいく。
 憎悪によってそうしているのではなく、たとえば猛禽類が暴れる獲物にトドメを刺すような必
要最低限の事務作業であるコトが限りない無表情から見てとれた。
 ただでさえ根来の生白い顔がさらに血色を失い、失った分の血色を現すように口からあぶく
まみれの血が滲み出る。金に輝く忍者刀も手から転がり落ちた。
「クジャクの足には……地震などを感知するヘルブスト体という器官があります。……それを
あなたたちに見えぬよう…………皮膚の下に生やし…………大気や地面の微妙な振動を察
知すれば……亜空間から飛び出すあなたを感じるのは……難しいコトでは……ありません」
 やがてぐなりと力の抜けた根来に向って短剣が向かい──…
「それも予想済みだ」
 会心の笑みに歪む根来の口から咳とともに吐き出される物があった。
 それは赤い塊であった。赤くはあるが血ではない。紙を何枚も貼り合わせて丸めたような小
さな塊である。
 根来はやや下方を見ていたにも関わらず、塊だけは顔と水平に飛びだし鐶のすぐ頭上でふ
わりと静止した。
 そして同じ塊──今度は一回り小さな──が、根来の視線を追うように斜め下へ。
 ああしかし、既にクロムクレイドルトゥグレイヴは根来の腹に深々と突き刺さり、彼の体をみ
るみると縮小させている!
 刺さったのはただの短剣ではない。
『斬りつけた深さに比例し年齢を吸収する』おぞましき魔剣。
 かくて根来は少年の姿から幼児を経て……すり抜けた再殺部隊の制服の上に落ちる頃に
はまごうコトなき胎児と化していた。
 年齢とはそもそも出産日より起算する。母体から産声上げて生まれた日から一年経てば一
歳、二年経てば二歳と増加する。
 そんな年齢を奪うのが、他ならぬクロムクレイドルトゥグレイヴなのである。
 人間から全ての年齢を奪った場合、「零歳」、つまり母体からの出産直後の姿たる胎児にす
るらしい。厳密にいえば胎児ではなく乳児かも知れない。
 根来はこの点、判別できぬほど異様な姿になっている。
 産声は立てていないのに微かに自発の呼吸は行っている。ヘソの尾は切られているのに全
身粘液に濡れそぼって青白く、丸々と太った赤子特有の腹をしわくちゃにしながら外気に震わ
せている。ぐずりもせず動きもせず、あたかも産室だけを除かれた胎児のように存在する根来
なのに、そのくせ髪だけはうっすら伸び、逆立ち、顔半分だけは三角形の直垂に覆われている
からおぞましい。これは胎児なのか乳児なのか。錬金術、いや年齢吸収を生業とする天外の
短剣などまったく考慮できぬまま発達した医療の定義に於いていやはや何とも判断し辛い。
筆者などは便宜上、その短剣に年齢を吸いつくされた形態を「胎児」と呼ぶが、むろん読者の
皆様に置かれてはお好きなように呼んで頂いて構わない。
 その胎児の彼方上空で、赤い塊が確かに花開いた。
「忍法紙杖環。(しじょうかん)……」
 誰がいったか分からないが、鐶も戦士一同も低くつぶれた声を確かに聞いた。
 根来の口から離れた粘塊は鐶に至るまでにバラバラと分解し、伸び広がり、大小様々の環
(わ)になった。しかも意志あるがごとくそれらは飛び、あたかも鐶が輪投げの景品であるよう
細い肢体へ被さり、落ち、つま先から太ももの半ばまでをぎりぎりと締め付けた。かくて少女の
弾力に満ちた瑞々しい筋肉は、環(わ)の喰い込む傍で艶めかしく隆起し血色を失った。その
青白さはこの世の物ならざる幽玄な美しさだ。そしてびっちりと柔肉を擦り合わせ強引に閉じた
両足を環(わ)は互いに向って緩やかに動く。すると盛り上がった生白い絹のような肉がむろ
むろと真赤な環(わ)の周囲で悩ましく転がり、水を打ったような無表情にわずかな赤みと薄く
甘味かかった呻きをもたらした。そうしてやがて環(わ)は寝袋のようにびっしりと密着し足の
肌を覆いつくした。
 根来を捉え、そして短剣を差し向けた手にも環(わ)は絡みついた。
 彼の年齢退行に伴う体積減少によって手と短剣を逃れずり落ちたその瞬間に、赤い環(わ)
がいくつも不自然な軌道で跳ね上がった。しかもそれらは元の直径の五倍とも十倍とも見える
大きさにまで一瞬拡大し、内側に鐶の両手をくぐらすやいなや、びちぃっ、と濡れた鞭を打ちつ
けるような速度を響かせながら一気に縮んだ。
 ……かくて少女の弾力に満ちた瑞々しい筋肉は──…
 で、筆者が先ほど「鐶」と区別をつけるべくしつこくしつこく「環(わ)」と表記している忍法紙杖
環はただ重なっているだけではない。振りほどこうとした鐶は気付いた。環(わ)同士がびった
りと癒合し、なかなか容易に斬れそうにないのだ。しかも先ほどの忍法月水面同様、皮膚に
粘っこく吸いついているから脱出をいよいよ困難な物にしている。
 それに戸惑う間に脇腹を掠めた金色の刃があり、さしもの鐶もやや慄然とした。
 真・鶉隠れ。
 脇腹を斬られた! そう思う頃には忍者刀が最後のあがきとばかりに周囲を荒れ狂い無数
の傷を鐶に与えているから、いやはや根来の執念恐るべしといえよう。

 剛太は茫呼として根来を見た。
(俺に負けた時と逆の戦法をとりやがった)
 彼と戦った根来は勝利を確信したところに思わぬ反撃を受け敗退した。
 今度は逆だ。勝利を確信した鐶に、根来が思わぬ反撃を浴びせたのだ。
 だがそれによる個人的勝利がないのは、胎児と化した根来を見れば明白。
 むしろ彼は後に控える戦士の勝利のために敗退を選んだ。それが剛太にはやはり不可解……。
 金の刃はまったく紙杖環を妨げぬよう荒れ狂い、環(わ)なき腹部や胸部、二の腕やスカート
間際の太ももなどとを切り刻む。カットフレアーのスカートを模した青い羽毛もティンダル現象
の中に影をさらさらと落としながら辺りに散った。それを追うように忍者刀も核鉄になり地面に
転がり落ちた。さしもの根来も胎児と化しては武装錬金を継続できぬと見える。
(本当の狙いは私の……拘束…………? あ、でも傷は十分負っているから……)
 鐶の両脇腹を二枚の戦輪が轟然と薙いだ。
 刀傷も真新しい腹部と胸部に無数の矢が針山地獄のように突き立った。
 うっすらと霞みだした視界の中、鐶は見た。
 核鉄を突き出し、何かに備える防人を。
 投擲を終えた姿勢で厳然と彼女をねめつける剛太を。
 その後ろで最後の力を使い果たしたとばかりに息せく桜花を。
 同時にヘルブスト体は中空に充満する巨大な殺気を感知し、鐶の視界を空へと吊り上げた。

「本体はこの真下。根来くんの分までお願いね!」
 上空に瞬間移動した千歳が、切り札を投下した。

 鐶の背中で一瞬何かが煌いたかと思うと、四本の羽根が対空迎撃とばかりに飛んだ。
「貴様は何も知らない人たちに調整体をけしかけ、あまつさえ人混みの中で将棋倒しにした」
 身じろぎもせずそれらが四肢の遥か外をすり抜けるのを認めると、斗貴子は静かに言葉を
継いだ。
「まかり間違えば死人が出ていたかも知れない真似を、貴様は自分たちの都合だけで」
 よく観察すると鐶の三つ編みが微かに揺れている。羽根は髪から変化して飛んだのだろう。
「……拘束され、苦し紛れの反撃しかできない相手を斬り刻むのはいささか趣味に合わないが」
 山吹色の光を鈍く反射する四本の処刑鎌がいったん後ろに引き、バネで弾かれたように轟
然と振り下ろされた瞬間、鐶は足の拘束も忘れよろりと体を捩らせ……
 そんな鐶が耳を覆いたくなるほどの感情が、斗貴子の口から迸った。
「いま斃せない以上、相応の報いは受けてもらうぞ!」
 バンダナごと鐶の頭部が×字に刺し貫かれた。
 首の根元は鉈で水平に殴られたように右から三分の二ほど叩き割られ、下顎から後頭部ま
で斜めに飛びだすバルキリースカートもある。
 着地と同時に素早くそれらを引き抜いた斗貴子は、鐶を防人たちめがけて弾いた。

 しばらく飛んだ鐶は肩から墜落し、アスファルトを痛々しく削りながら防人たちに向う。
 その距離はおよそ五メートルばかりか。緊縛にもめげず立ち上がろうとした鐶だがその上体
はもはや力尽きたようにがくりと地面に落ちた。それでも彼女はなお逃れようと地面を這う。ま
るでイモ虫のように。または翼を猟銃で貫かれ地面に堕ちたオオワシのように。
 やがて防人たちに足を向けたまま、鐶は動かなくなった。
「さあ、今です戦士長!」
 絹を裂くような斗貴子の叫びに応答して、防人はシリアルナンバーXIII(13)の核鉄を展開。
 シルバースキン・アナザータイプ。
 大航海時代の海軍の制服を模した防護服が無数の細かなヘキサゴンパネルに分解し、鐶
へと向かっていく。
(すまないな戦士・根来。だがお前のおかげで勝機が見えた)
 瀕死状態の鐶が回復に転ずるその隙にリバースを当てる。
 回復自体は一瞬だから、それを終えてもすぐに攻勢ないしは回避に転ずるコトができぬよう、
鐶の姿勢を崩した上で「瀕死」に追い詰める。
 その条項がすでに満たされているのは、防人ならずともすでに明白。
(必ず奴を捕らえて──…)
 誰が見ても鐶は「瀕死」だ。根来が「瀕死の一歩手前」まで追い詰め、そこに斗貴子が攻撃
を加えたのだから、「瀕死」に決まっている。
 第一、攻撃した斗貴子自身が「今です戦士長」といっている。
 だから自分の判断は正しい。正しい筈。
 そう思いながら、防人は違和感を払拭できない。
 しかし既に賽は投げられている。リバースは鐶に向っている。
 違和感があろうとなかろうと、当たりさえすれば全てが決まるのだ。
(……?)
 いつの間にか鐶が防人に頭を向け、地面に寝そべったまま静かにリバースを見ている。
 瞳はひたすら虚ろだ。名前に「光」を頂いているのに何ら感情が見えない。
 一瞬それを見逃しかけた防人だが、決定的なおかしさに気づいた。
(いつの間にこちらを向いた!?)
 必然性がない。先ほどは足を向けていた。今は目を向けている。何のため? いやそもそも
地を這うだけで精いっぱいだけだった鐶がどうして体を百八十度反転できる? 例の回復をも
たらす瀕死直前の鐶が、なぜ? そもそも……彼女は回復の気配がない。「瀕死」の筈なのに。
 そんな鐶は左手から何かを引き抜いた。右手はひらりとひらめいた。
 短剣は赤い光で弧を描くように迸る。
 根来に拘束されていた筈の両手が動いている! 
 防人の違和感は答えを紡ぐと同時に唇をつんざいた。
「まさか」
「違う!! 今のは私の声じゃない!! 奴の……奴の声です!」
 甲高い斗貴子の叫びとともに、鐶とリバースの間で巨大な影が膨れ上がった。
 宙を飛んでいたヘキサゴンパネルは、その影が爪を振り下ろすと同時に一気に纏わりつき、
ひどく歪で大きな形にみるみると膨れあがっていく。
「喰わせろォ〜」
 着崩れたシルバースキンアナザータイプが、まるで知性のない声とともに揺らめくのを見るや
戦士一同の満面に切迫がありありと浮かんだ。
「な…………!?」
 ヒビ割れた三角頭の大男。形容するなら正にそれが覿面(てきめん)の怪物が、防護服を纏
いながらもがいている。
「また調整体!?」
 斗貴子が目を見開く遥か対角線上で桜花と御前が口々に叫んだ。
「それを強引に割り込ませたっていうの……!?」
「確かにこの前ゴーチンが割りこんで破ったけど!」
 シルバースキンリバースは細かい遠隔操作までは不可能である。例えば、射出時に割り込
む者がいればそちらを優先的に拘束する。つまり、「防人の決めた相手を必ず拘束」するので
はなく、「射出した先にいる物体を必ず拘束」するだけなのである。
「っていうか、調整体なんかどこからどうやって!? さっきまで気配は微塵も──…」
「とにかく拘束は失敗だ! 今は動け!」
 唖然とする戦士の中、斗貴子だけが弾かれたように鐶へ走った。
 それに誘発されるように防人も拘束を解くべく逞しい右腕を突き出した。
「……なるほど」
 いつしか片膝をついた鐶の背中を鋭い五本の爪がどうっと薙いだ。
「回復……完了」
 虚ろな表情を保ったまま少女の肢体が前のめりに倒れた。
 桜花は見た。鐶の背後に突然現れた調整体が勝ち誇ったような咆哮を上げるのを。
 そして倒れた体が回復の光を帯び、彼女が飛びあがるのを。
「待──…」
 待て、そういい放たとうとした斗貴子の背後で何かが落ちる音がした。
 振り返るとそこには目を見開いたまま気絶する千歳がいた。
 一目でそうと分かるほど呼吸は荒い。頬に熱が昇り、ぴくぴくと痙攣する肢体はあまりに常
軌を逸している。しかも手につけたヘルメスドライブはスパークを上げながら核鉄に戻った。
「根来に続いて……あなたまで?」
 いったい何が彼女の身に起こったのか。首を傾げる斗貴子の背後から二体の調整体(拘束
を解かれたのと鐶を攻撃したのとで計二体)が躍りかかったが、その程度の相手にやられる
斗貴子であろう筈もなく。振り返りもしない彼女の背後で無造作に斬り刻まれた。
 そして、風が吹いた。面頬を向ければ息がつまりそうな圧倒的な強風が。
 周囲の民家のガラスががたがたと打ち震え、電線が縄跳びのように揺らめき、いつしか解除
された忍びの水月の乾いた粘液を電柱や塀や樹木の枝葉からびゅらびゅらとさらっていく。
 風は斗貴子をも吹き飛ばした。
 気絶した千歳と胎児の根来をも枯草のように転がした。
 剛太と桜花と御前は防人にうながされるまま彼にしがみついた。
 ただ一人岩のように吹き飛ばぬ防人は斗貴子を掴み、千歳と根来を拾い上げながら風の出
所に鐶を求めた。なぜなら風は恐らく鐶の羽ばたき……。
「擬傷……。子を持つ鳥が巣に近づいた外敵を遠ざけるため、傷ついたフリをして……誘導す
る行為をいいます。行動学によれば……これは愛情ではなく……子を守ろうとする理性と、外
敵から逃げたいという……本能との葛藤がもたらす行為……です。主にヒバリやチドリが……
コレをします。ヒバリやチドリができるなら、当然、私も……。これで『瀕死』が近いのを偽り、
あなたたちが切り札を出すタイミングを、私の回復より……早く……しました」
 淡々とした声に続いて何か金属的な物が斬られる音がした。
「声は、いうまでもなくオウムの能力。真似てみました。……切り札は銀の人ですから……促
せば反射的に…………切り札を出すと思ったので……。そう、擬傷によって『瀕死の手前』に
見せかけた私を目の前にすれば……声真似にかかりやすいかもと……賭けました」
 八つの視線と二つのライトが同時に同じ一点を見た。
「調整体は……ポシェットから出した幼体に年齢を与え、元の形にしました。……身代わりに
する為に。あなたたちの切り札を…………私の代わりに受けさせるために。ちなみに忍者さん
の拘束は自力で強引に……破りました。皮膚も羽毛もたくさん剥がれ……痛かったです」
 鐶は電柱の上に寂然と佇んでいる。
 ただ佇んでいるのではない。左手には切断した電線を握り、青白い火花のもたらす衝撃に
軽く打ちふるえている。
「もう……切り札は把握しました。だから次は私の攻撃……」
 呟く鐶はそれまでの姿から一回り小さくなっていた。いや、幼く、というべきか。
 およそ四歳ほどの姿になった彼女は口を開けた。
「皆さんの力を使い、勝ちます。すでに無銘くんのように囮を使いました。だから次は貴信さん
たちの特異体質を真似し、小札さんのように……強烈な攻撃をして……勝ちます」
 鐶の口は、まさに開いたのだ。
 まるで裂けたように、後頭部にちょうつがいがついていると思えるほどに、あんぐりと。
 彼女の上顎は常人の及ぶ可動範囲の二倍ほどに傾斜し、扁桃腺も赤く炎のようにうねる舌
も白日に晒された。
 そんな彼女の口の中に、人間とは異なる器官が覗いていた。
 いつの間にか歯が消失した代わりに四つの青い珠が鮮やかな粘膜の中で光っている。
 それが上唇の両端に二つ。同じく下唇の両端にも二つ。
 ……南太平洋諸島に生息するセイコウチョウのヒナの口に同様の物が存在する。
 一説には親鳥の給餌衝動をかき立てる器官らしい。
 同様の物はセイタカシギやワシなどのヒナにも見受けられ、こちらは口中に蛇の目のような
不思議な模様が浮き出ている。(そして成長とともに消える)
 俗に未熟な物を評して「嘴が黄色い」というが、ヒナの嘴の黄色さも鳥にとっては給餌を促す
特殊な要素があるという。しかし……
(私は……別の用途にコレを使います)
 貴信のように穴が開いた左手──本来、動物型ホムンクルスの鐶の人間型のような掌の穴
があるのはおかしいが、これは特使体質によって貴信と香美のエネルギー操作能力もろとも
真似たらしい──から体に流れ込む電流が青い珠に収束。
 本来は給餌に必要な器官もホムンクルスなら兵器の一部と化すらしい。
「時は満ちた。熱いデュエルのゴングが響く……運命のカードが光る……」
 青い四つの珠が電子音を奏でながら光の粒子を吸いこんで、密集する防人たちめがけて青
白い光線を当たり前のように吐き出した。
 最初は四本だった光線はすぐに交わり一つの直線的な光芒──ただし威容はかつて小札
が秋水に用いた「ライドオンザバック・シルバードラゴン」をも遥かに凌ぐ──に化した。
 すなわち、直径八メートルはあろうかという大口径の疑似荷電粒子砲が戦士一同を薙ぎ払
ったのである。
 熱で飴のようにとろけた電柱が中ほどから折れ、ブロック塀が舞い飛び家宅は光熱に焙られた。
道路のアスファルトはおよそ三メートルほどの深さまで抉られ下の地面はおろか埋め込み式
の電線や電話線を切断し、チーズのようにとろけた銅をただ地下に向って垂れ流した。円周の
四分の一ほどが欠けた下水道の配管からは臭気の強い蒸気がもうもうと立ち上り、不幸にも
切断されたガス管は倒れ込む電柱との、いや、それから伸びる火花付きの電線との接触で大
爆発を起こした。
「リーダーからの伝達事項その五。残る戦士六名をただちに無力化し、最後の割符を奪還せよ」
 どこかで再び爆発がした。その爆風にあぶられ赤く長い三つ編みが揺れた。
「私の回答は……了承」
 あちこちを燃やす灼熱の炎に頬を赤く焙らつつ、あくまで表情を崩さぬ鐶が防人たちめがけ疾駆
した。


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