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第076話 「滅びを招くその刃 其の拾肆」



 鳳凰とはそもそも何か。
 起源はインドとも中国ともいわれている。いずれにせよ中国では長らく霊性高く神鳥中の神
鳥とされ、薬物博物の一大著作たる本草綱目(ほんぞうこうもく)においても、「羽蟲(鳥類。説
によっては羽根の生えた生物とも)360種の長」というきらびやかな記述を見るコトができる。
 麒麟や霊亀、応竜と並ぶ四霊でもあり、一般には「鳥王」とするむきが多い。
 中国神話時代の黄帝(三皇五帝の一人)の息子・少昊(しょうこう)が東方の海外に鳥の王
国を作れば総理を務めた……というのは少し寓話の匂いが強くなくもないが、しかし劉邦以降
の皇帝のシンボルが龍だったのに対し皇后の象徴が鳳凰とされたのを考えると、時代時代の
権力者にとっていかに重んじられていたかが伺える。
 日本における鳳凰の伝説は少ないが、金閣寺の屋根にいる鳳凰などは「貴族や武士、そし
てそれらを支配する仏教をも支配して天へ飛び立たんとする」足利義満その人を現していると
する説もある。
 そんな鳳凰だが、実は姿についてこれといった定形がない。
 例えば法隆寺の金堂の天蓋に飾られている鳳凰はキジの姿にやや似ているが、平等院鳳
凰堂の屋根にある金銅一対の鳳凰像はあたかもニワトリのごとくである。
 中国に到っては「龍に九似あり」を唱えたこの国らしく、実にさまざまな生物の合成を以て鳳
凰を想像しており、書簡によって背中をカメとしたり後半分を麒麟のメスにしたりと実に取りと
めがない。
 またこの鳥はしばしば火性の鳥として見られるが、意外にも本来は風を司る鳥であり、伝説
では水の元素から生まれたとも伝えられている。
 それ故か文献にみられる気性も驚くほど静かである。
 曰く、殺生を嫌い竹の実しか食べず、飲む物はもっともうまい泉(醴泉・れいせん)か寒露で
あり、ひとたび飛べば風はピタリと止んでチリさえ飛ばず、ただただはためく五色の翼が蕭(しょ
う)のごとくにと鳴り響いて鳥の群れが後に続く──…

 廊下に神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる一音のみがきらきらと響いた。
 金の光が斗貴子の傍を静かに通り過ぎ、かっさらった剛太を遥か彼方の桜花へ投げつけた。
 言葉にすればそれだけだが、桜花は斗貴子たちから十数メートルは離れている。剛太の体
重は長身にしては軽いものの実に63キログラムはある。いかに高出力のホムンクルスといえ
どそうは成せない芸当……とは数瞬後に事態を把握した斗貴子の第一感想だ。
 更にもとより絶縁破壊で麻痺して碌に身動き取れぬ桜花である。
 頭も四時へと逆(さかしま)に飛んでくる剛太とあえなく衝突した。同時に光の上部から絢爛
たる赤青緑白金の五色が静かに噴出した。桜花の美しい顔は衝突の苦悶に歪み、柳のよう
な背筋が海老のごとくに丸まった。そんな彼女が薄目を開けて息を呑んだのは、加速を帯び
た圧倒的質量が迫っているのを認めたからである。金色の光。それは桜花と剛太が共倒れを
きすより早く、既に彼らの眼前に迫っていた。
 そして虹の旗をひらめかしたようなスペクトルの帯……これは恐らく肩から噴き出した五色
が飛行機雲よろしく残した軌跡だろう……それを背後に掲げる光の足元から金色の靄がにわ
かに持ち上がり、剛太のみぞおちへ撃鉄のごとく殺到。
 衝突はその背後にいる桜花さえも巻き込み、結果。
 二人は蹴られ、校舎は揺れた。
 彼らはおよそ15度の射出角のもたらすGの束縛でぴたりと吸いついたまま後方の天井に激
突したのである。
 めり込む、というのはこの場合彼らにとって最も軽傷な結果であっただろう。然るに彼らは天
井を突き破った。そして瓦礫の雨の中で一階の天井から二階の床へと貫通し、更に二階の天
井にさえ衝突した。
 速度たるや凄まじい。剛太が蹴りの衝撃に吐いた血反吐さえ一瞬後には眼下の血煙へな
り果てていた。
 止まらない。すぐに止める術もない。
 彼らは斜め上に吹き飛びながら、二階、三階、四階と天井を次々と破り、やがて屋上に出た。
 だがそこの真新しい床さえ吹き飛ばしてもなお止まらず、たまたま行く手にあった鉄柵に桜
花がしこたま背中を打ちつけるコトでようやく止まった。
 それでもそこそこの衝撃はあったらしい。鉄柵は屋上の外側へ歪む程度では済まずあちこち
が折れ、軋み、いわば開放性骨折よろしく一部を短い梯子のように階下へ向かってぶらつかせた。

 半透明した金の波濤にゆらゆら焙られる後ろ姿がいた。
 点々たる瓦礫の先にいた。
 網膜がホワイトアウトしそうなハレーションの中、斗貴子はようやくその像を結んだ。
 肩より高く持ち上がった脚は膝からつま先まで白い装甲に覆われ、細く白く丸いフォルムで
ある。膝には脛の半分ほどのポッド。膝裏には台形のモールドが幾つかと黒いラインが一本。
 腰からは尾羽が二枚、地面に向かって生えている。上部三分の一ほどは丸く隆起しており、
前後にはめ込まれた黒い飾り珠の中心に灯るのは不気味な赤色光。
 両肩は角丸を帯びた立方体に変じ、後半分から生えた翼は勾配緩やかな山を描いていた。
 翼の上部は戦闘機の機首を中央から折り曲げたような形状だ。
 先端の上側にはコクピットを思わせる半透明のハッチ、下側には細い一本の羽根。
 ハッチは薄く光り、羽根は銃剣先のように機首の腹から更なる先端へと突き抜けていた。
 翼自体は横潰れの細長い台形の羽根が密集して作られているようだ。
 一枚一枚の羽根の中央部には、それを5分の1ほどに縮小して逆向きにつけたようなパーツ
があったが、特筆すべきはそれらの色が角度によって変わるというコトである。五色(赤青緑白
金)の輝きが金の光にとろけて麗しいイルミネーションを放つさまはこの世の物ならぬ美しさ。
 鳳凰を模したのはいうまでもない。そして色が変ずる理由を付記すれば、ハチドリやカワセ
ミの羽毛にみられる「薄層構造に基づく干渉色」を挙げるコトができる。ホムンクルスでありな
がら角質層と空気層とメラニン層に似た構造を再現し、立ち上る金の光への反射と干渉の結
果、翼を絢爛たる鳳凰の五色に輝かせているのだ。
 羽毛からできている服装も同じらしく、色こそ変わらないが時おり輝いたり深みのある色に
なったりしている。腕はそのまま。髪は赤から金色へ。無地のバンダナは金色にけぶっている。
「これが鳳凰」
 斗貴子は文字通り目も眩む思いで息を呑んだ。
 幾何学的でどこか航空機やスペースシャトルを思わせる姿である。
 全身から吹きあがる金の光はバンダナや衣服や三つ編みを揺らめかし、どこか神々しい。
「……分断完了」
 鉛を落としたような音で斗貴子の観察は一時中断された。
 脚は廊下にめり込んで、アミダクジができそうな亀裂の羅列を走らせている。
「短剣で……狙うのも考えましたが……分断した方が確実、です。…………お姉さんを初撃
で狙った場合……防がれそうだったので……あの二人から……追放」
(ひとまず私に狙いを定め、倒してから残る二人を潰していこうという魂胆か)
 光が晴れ、鐶が緩やかに振り返った。
(先ほどまで私たちが対抗できていたといっても、それは三人がかりでようやくだ。だからその
連携を力づくで断った……。化け物の分際で頭だけはよく回る)
 斗貴子の視界には、馬とみまごうほど野太い足の甲を起点に反転する鐶が映ったが、これ
はただ目に入っただけで観察の域には至らない。
 しかしそんな軽微な注視によっても正体が分かるほど、足の甲は特徴的である。
「指が二本……なるほど、ダチョウの脚か。それなら確かに先ほどの破壊力は頷ける」
 本来のダチョウの脚力は人を骨折させられるほどである。
 そして足も速い。およそ時速50〜60キロメートルで走るという。換算すると100メートル走破
がおよそ6秒から7.2秒。人間のおよそ倍の速度だ。
「だが」
 歩みを進める斗貴子の足元では、床に刺さったカウンターシェイドの羽根たちが緩やかに消
滅を始めている。怖ろしいコトに彼女が最後の羽根を捌き、鐶が変身してから剛太たちが吹き
飛ぶまでおよそ五秒と経っていない。
「速度はダチョウより早かった。あくまで脚の変形はスピードを生かした攻撃のため。爆発的な
速度を生んだのは、脚ではなく肩の辺りから噴き出した五色の光。そしてそれこそが『鳳凰』と
やらの能力の一端。違うか?」
「正解、です。そしてこれからは……一対一」
 五色の光を撒き散らし肉薄する鐶に斗貴子はあらん限りの咆哮を撒き散らし、ヒビの入った
処刑鎌を轟然と振り上げた。
(あの二人は無事かどうかも分からない。もしかすると今の攻撃でやられているかも知れない。
 顔の傷をなぞるように通り過ぎた短剣を辛くも避けて、床を弾き後方に一回転。着地。
(いずれにせよ確認しに行くコトはできない。初撃がああだからな。合流を許すつもりはないようだ)
 弾丸のような速度で肉薄する鐶の瞳は先ほどまでと一変している。
 鬱にけぶった暗さが消えて、蒼いスターサファイアのような輝きがある。瞳孔もあればハイラ
イトもある。ごくごく普通の瞳だ。毅然な形を引き換えにしたらしく、所在なげで無邪気な半眼と
化しており、ぼーっとした印象こそあまり変わらないが、根幹には追撃を許さぬ執拗さが宿り
機械のような無機質さで斗貴子を追い、打ち、斬りすがる。
 斗貴子の眼前には鉄風と石火が吹き荒れた。激しいそれではあるがもはや防御どころか撤
退の牽制にしか過ぎない。格段に速さを増した短剣がぶんぶんと身体を掠め、鉄槌のごとく
重い爪が処刑鎌をみしみしと揺らし基部たる大腿部を苦痛に重しめる。
(落ちつけ。怯むな。剛太と桜花のコトは後回しだ。私一人で太刀打ちできるかどうかは分か
らないが……やるしかない)
 有利な点はある。
(戦士長のおかげで糸口は見つかったんだ。奴の武装錬金に蓄積された年齢さえ空にすれば、
アイツは回復が不可能になる。元々攻撃自体は当てられる相手だから、回復不能にすれば
バルキリースカートでも勝てる! 短剣に気をつけ章印を狙っていけば、まだ勝ち目は──…)
 振り下ろされた爪をバルキリースカートで防ぎ、残りの鎌で章印を狙った時、それは起こった。
 すぼまった爪がXの形にかみ合う処刑鎌を縫うように斗貴子の腹を突き刺した。
「な……!?」
 防いだ爪はまだ処刑鎌と押し合っている。腹を刺した爪とは別の物だ。しかし鐶の右腕は相
変わらず人間のそれである。
 血を吐きつつも執念で章印を一刺しした斗貴子は即座に飛びのいた。
 そして見た。
 鐶の腹部から爪が伸びているのを。
「鳳凰形態限定の能力、です。今の私は…………混群を統べる鳥の王」
 爪はすぐさま埋没した。だが入れ替わりに──…
 ツバメ、タンチョウ、バハマハチドリ、ハヤブサ、コマドリ、オウサマペンギン、オオルリ。
 それらの顔が胴体に生えた。鈴なりの果実のように。
 いずれも影のように黒く、金の光に焙られどなお暗い。
「腹から爪を胸から顔を……全身くまなくあらゆる鳥のあらゆる場所に変形させられます」
 二の腕から伸びた鞭(アゴヒゲスズドリの喉についている肉のヒダ)が廊下の両側を撃ちす
え、木片やガラスを滅茶苦茶に吹き飛ばしながら斗貴子に殺到した。

「じょっ! 冗談じゃねェ! さっきまでいたの一階だぞ!」
「なのに屋上まで飛ばされるなんて。……相当な攻撃力ね」
 抜けるような青空の下で冷汗と動揺に彩られながら、剛太は何とか立ち上がった。
 もっともすぐに腹部の激痛に屈みこみ、情けない顔で息せく羽目になったが。
(直撃だったら多分死んでたかも。くそ、さっきから俺全然いい所がねェ)
「やいやいやい。オレ様に感謝しろよゴーチン! 何てったって命の恩人だからな!」
 ちょこちょこと地面を歩く御前に、剛太は垂れ目気味の目を疎ましげに垂らしながら「ハイハ
イ」と手を振った。
(よりにもよってコイツに助けられるなんてなあ。あの時──…)
 鐶の蹴りが剛太のみぞおちに向かった瞬間。
 御前が咄嗟に割って入り、蹴りの衝撃をほとんど引き受けた。
(それでも痛ェ。アバラ折れてるかも。さっき血ィ吐いたし)
「見ろよおかげでオレ様はボロボロ!
 御前の胸のハートのパーツは大破して内部機械すら半分以上吹き飛んでいる。のみならず
そこからの亀裂は手足にまで広がり、翼は砕け、首の座りも若干悪くなったらしく、御前は喋
るたびに頭部を左右へグラつかせている。
「分かってんのかゴーチン。オレ様がこんなんなったのはお前のせい! 桜花に何かおごれ!」
「しつけえ! あの後お前の創造主の背中にモーターギアを飛ばしたんだからおあいこだろ!」
「ああ。道理で思ったより衝撃が小さかったのね」
 喧々囂々な御前がウソのような静かさで、桜花はモーターギアを拾い上げた。
「はいどうぞ。本当応用利くわねこの武装錬金。おかげで助かったわ。ありがとう」
 苦痛に引きつりながらにっこりと笑う桜花から武装錬金を受け取ると、剛太は不機嫌そうに
呟いた。
「……マリンダイバーモードじゃスクリューのように推進力を作れるんだ。だからその要領で、
吹き飛ぶ方と逆の推進力をあんたの後ろに作れば、何とか助かるかもと思ったけど」
 屋上に開いた大穴を眺めた剛太は盛大な溜息をついた。
「何の気休めにもなってないときたもんだ」
「あら、そうでもないわよ。剛太クンがモーターギアを展開してくれたおかげで私へのダメージ
は減ったもの。天井への直撃は避けられたし。第一、モーターギアで加速を殺してなかったら」
 桜花は楽しそうに壊れた鉄柵を指さした。
「今ごろ私たちアレ突き破って下にまっさかさま」
「怖いコトを笑顔でいうな!」
 戦慄を浮かべる剛太に桜花は「うふふ」とほほ笑んだ。
「とにかく俺は行く! これ以上あんな奴相手に先輩を一人きりにさせてたまるか!」
 一気に立ち上がった彼は迷うコトなくモーターギアを踵へと走らせた。
「あら。でもその戦輪も御前様といっしょでだいぶ壊れてるみたいだけど。大丈夫?」
 剛太は軽く舌打ちした。落とした視線の先では歪にひしゃげてヒビの入った戦輪がガタガタと
床に擦れている。走ったところで先ほどまでの機動力は見込めないだろう。
「そりゃ天井や鉄柵にアレだけ衝突すりゃこーなるのは当然。んなコトいわれなくても分かって
んだ。ったく。これだから元・信奉者は──…」
 言葉を遮るように剛太の肩に鏑矢が突き刺さった。
「え?」
 パールピンクの眩い光が剛太の周囲に満ち満ちたかと思うと、気だるい傷の感覚がみるみ
る内に消えていく。
(待て。防人戦士長の説明じゃコレって!)
 剛太は慌てて矢を引き抜いた。
「あら。せっかく傷も疲労も全部引き受けようと思ったのに」
 桜花の顔はもはや土気色に近づきつつある。それでもなお涼しい顔をしているのは彼女な
りの誇りや矜持を示すためだろう。そんな彼女に剛太が思わず駆けよってしまったのは、彼
自身どういう理由かよく分からない。
「引き受けるたって限界があるだろ! 元々重傷のあんたが俺のケガを全部引き受けたら死
ぬだろ!」
「そうかも知れないわね。でも」
 黒く湿った瞳が剛太を見上げた。
「こんな状況で自分だけ助かろうとしても仕方ないでしょ。津村さんが負けたら次はあなた。そ
れから私がやられるだけ。だったら少しでも動ける人のダメージを取り除くのが確実じゃなくて?」
 正論ではある。桜花一人ここで潰れたとしても剛太にとって損はない。
(確かにコイツは戦士でもないただの元・信奉者。なら傷なんて全部押し付けて、さっさと先輩
助けにいけば良かったんだ。どうせ連れてったって援護射撃しかできそうにねェし。それは分かっ
てんのに何で途中で止めたんだ俺は! ……だぁもう! さっさといかなきゃならねェって時に)
 先ほど根来や防人に上着を掛けた時とはまた違った感情が剛太の足を止めている。
 繰り返すが桜花は元・信奉者であり、いけ好かない性質の持ち主なのだ。
「でも私を気遣ってくれるならそれでいいわ。さぁ、早く行って」
「行ってって……あんたはココに残るつもりなのか?」
「ええ。だって今の状態でついていっても足手まといになるだけじゃない。そう、残念だけど……」
 へたり込んだままの桜花の手が力なく下がった。弓腹が凄まじい音を立てて地面に衝突した。
「傷を引き受けたのはもうコレ以上戦えないって分かったから。身動き取れない状態で何とか
頑張っては見たけど…………それもさっきの一撃でもうダメね。腕にちっとも力が入らない」
 自嘲と諦観に満ちた笑みを桜花は浮かべた。
 モーターギアで加速を相殺したとはいえ、天井を何枚も突き破って鉄柵に衝突した時の衝撃
は、彼女自身の肉体をひどく蝕んだようだ。
(私はつくづく損な役回りね。こういうコトしかできないみたい)
 チクチクとした胸の痛みは、上記のダメージや御前からのフィードバックだけではないだろう。
 最近の桜花は開けた世界の中で痛みを抱えるばかりである。
 それは声に出せないがこの上なく辛く、悲しく、いつか一人で乗り越えるべきだと思っていても
今は凍えるばかりに寂しい。
 しかし次の言葉は心情とはまったく裏腹である。
「さあ、早く行って。ボヤボヤしてたら津村さんが危ないわよ。私とあの人じゃどっちが大事か
明白でしょ?」
 剛太は思った。
 全くその通りだ。すぐに斗貴子の元へ馳せ参じるべきなのだ。
 にも関わらず彼の迷いは晴れず、ひどい懊悩をもたらした。
(クソ。どうしてこんな簡単な選択で迷うんだ。元・信奉者なんてさっさと見捨てて先輩の元へ
行きゃいいんだ。それが戦略的には最良だし第一先輩のためでもある)
 にも関わらず迷っている。
(だいたいコイツなんて、見舞いに来てしょっちゅうからかってきただけの相手じゃねェか)
 だがその「からかってきただけの相手」は弟(秋水)を語る時ひどく神妙だった。
(確かアイツの妹と仲良くなってたんだっけ)
 生真面目な美形剣士と一度か二度見たぐらいの天然少女を想起した後、やにわに防人か
ら聞いた桜花と秋水の前歴が蘇ってきた。
(姉弟二人きり、か)
 桜花が時おり演技ではない寂しさを垣間見せていたのも、何だか分かるような気がした。
 心の支えにしていた者が自分以外の存在に近づいていく。
 それは支えだった人にとっての一番の幸せだから、介入はしたくてもできない。
 ただただ幸福や笑顔を願って遠くから見ている。それが今の桜花なのだろう。

──「ねえ、剛太クンにとって津村さんは大事な存在でしょ」
──「そうっスけど」
──「できるコトがあれば何でもしたい、そうよね」
──「当然!」
──「じゃあ私と同じね」

(………………)
 思い出す桜花とのやり取りは何かを決定づけているようで、それでも剛太はどうしても認め
たくない部分もある。
(同じにすんなっての。俺は諦めて身を引いて、先輩とアイツがイチャつく姿をただ眺めるつも
りなんかこれっぽっちもねェってんだ。そりゃ笑顔が戻るなら何だってするつもりだけど、元・信
奉者と同じなんかじゃ……)
 剛太は自らの感情に既視感を覚えた。かつて根来との戦いでそれは起こり、今また訪れた。

──「守りたいモノが同じなら、きっと必ず戦友になれる!」

(……嫌な言葉、思いださせやがって)
 剛太は軽く舌打ちを漏らした。
(けど)
 剛太の目つきが急変したのに桜花は気付かなかった。

「大丈夫。核鉄はあなたに渡すか──…きゃっ」
 ただ彼女は目を丸くした。見れば剛太に手を取られ、強引に立たされている。
「元・信奉者なんか信じられっか」
 目を背けて唇を尖らせていた剛太がぐるりと踵を返すと、桜花の全身に前のめりな加速が
走った。見れば彼は桜花を連れて大穴に飛び込む真っ最中だ。
「え?」
 着地の衝撃にぶわりと逆立った黒髪が戻る頃、桜花はようやく事態を把握した。
 剛太が自分を連れて四階の廊下を走っている。
 その後ろから羽根を失くした御前が必死に走って走って何とか追いついて、桜花のスカート
を息せき切ってよじ登ると、肩の辺りからちょこりと顔を出しつつほうとため息をついた。
「……えーと。どういう風の吹き回しなんだゴーチン? 元・信奉者なんて見捨てるんじゃ」
 意外な行動に面くらっているせいか、横柄な口調もひどく遠慮がちだ。戸惑いさえ見え隠れ
している。
「どうせお前らみたいな連中は屋上に残したらサボるに決まってんだ」
「そ!! そんなコトしないわよ! ただケガのせいで……」
「……弟のために何かしたいんだろ?」
 言葉と同時に剛太が大きく飛び、一行は四階の大穴から三階へと派手にダイブした
「だったら勝手に諦めんな! そんな奴から類友呼ばわりされんのは腹が立つし迷惑だ! 
だから俺たちの後ろから矢を撃って撃って撃ちまくって、撹乱役の一つでも務めてから気絶し
ろ! そーいうのが先輩のためだから俺はする! だからお前にもさせる!」
 表情を見せぬ剛太がやけっぱちにまくし立てる間にも廊下は後ろへ流れていく。
 三階の大穴へ到達するまでしばし歪んだ戦輪から掠れた音が鳴り響いた。
 彼はどうやら自分の言葉に苛立っているらしく、それはひどく乱暴で頼りない疾走からも見て
取れた。未熟な運搬に揺られながら桜花はしばし戸惑い気味にささくれた後ろ髪を見つめた。
 やがて二階に彼らは降りた。
 降下の衝撃は軽くないが、桜花はそれも忘れて静かに目を瞑り微笑した。
「あらあら。ずいぶん無茶苦茶な言い分ね。それじゃ要するに津村さんのために私を利用する
ってコトじゃない。何の励ましにもなってないわよ」
「……そーでもしなきゃ勝てないだろ。イチイチ文句つけんな」
 イラっとした様子の剛太に桜花はクスクスと笑って見せた。
「確かにいう通りね。じゃあ秋水クンのためにせいぜい『利用されて』あげるわ」
「ったく。口の減らねェ」
 少しだけ剛太の口調が柔らかさを帯びた。口元もわずかながらに綻んだようだ。
 ちなみに彼は気付かない。桜花の視線が彼女の手を握りしめる手に移ったのを。
(知らないでしょうけど、秋水クン以外でこうして先導してくれたのはあなたが初めてよ)
 透き通るような笑みを桜花は満面に浮かべた。胸を占めていた痛みも和らぎつつある。

──「新しい世界が開けるかもしれないんだ」

(色々あるけど、辛いコトばかりじゃなさそうね。……頑張らなきゃ)
 やがて一階に通じる穴を見つけた瞬間、彼らは粛然と顔を引き締めた。


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