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第083話 「総ての至強を制するモノ 其の肆」



 血煙はやがて平然たる手に覆われ、指の間より黒衣を濡らす滝と化した。
「フ。章印を突こうと思えば突けただろうに」
 おびただしい血液の水たまりの中で首を押える総角には如何なる動揺もない。
 頸動脈を突き破られ、人間ならばまず即死確定の傷を負ったにもかかわらずだ。
 無論それで死ぬホムンクルスではないが、普通の精神の持ち主であれば激痛を感じ、惑乱
とてともすれば避けられない。
 現に傍観者にすぎない小札ですら「ひっ」と短い声を上げたきりガタガタと震えている。
「君には聞きたい事が山ほどある。だから殺さずに捕えさせてもらう」
 といいつつ秋水は章印へ刀を突き付けはしたが、こちらは脅迫というより残心だろう。
 相手へ打突を加えた直後こそ最大の隙ができる。だからこそ現代剣道では残心なき場合に
一本を取り消すコトがあるし、古流剣術の様々な組太刀も最後は様々な形の残心で締められ
るのである。
「捕える? 何とも気が早い話だな。剣道ならばお前はまだ一本取ったにすぎん。剣術として
もまだまだ行動不能に追い込むには傷不足。続くさ。戦いはまだまだな」
 ばっと総角の首筋で掌が閃いた。凝視していた筈の秋水でさえ、『首筋近くに飛ばした飾り
輪を雷光のような手さばきで首筋に押し付けた』と理解するのに数秒要した。
 やがて真赤な鮮血でぬかるむ首筋にエネルギーが炸裂したのは、溶接か何かの要領で傷
口を塞ぐためだったらしい。そのエネルギーは、先ほど膝に浴びせかけられた物を密かに貯蓄
していた物であろう。
「ところで俺を殺さずに捕えたがるのは……それが戦団の意志だからか?」
 総角の瞳が異様な光を帯びると、秋水から一瞬だけ息を呑む気配がした。
「図星らしい。だが元・信奉者が体良く戦団につき従う是非を考えぬお前でもあるまい」
 果たして手が離れた首筋から鉄臭い赤い煙が離れると、ケロイド状に盛り上がる傷が現れた。
「先ほど言ったな」

──『もう一つの調整体』という得体の知れない代物を君の手に渡せば他日必ず暴走し、人々
──が襲われかねない。それだけは絶対阻止だ

「街の人間を守りたい──… 理想に掲げるだけなら大いに結構」
 まさに章印を狙われているという危機的状況だというのに総角はポケットから懐紙を取り出し
悠然と首筋を拭い、飾り輪の血液も拭き取った。秋水がかすかに気色ばなかったら、刀身さえ
平生の手入れのごとく綺麗にしていただろう。赤い懐紙を仕舞うのは剣士としての嗜みか。
「しかしそれは本当に心底からの望みか? 贖罪や義務のためでないと断言できるのか?」
「当然だ」
 とは決していえぬ秋水である。これまで世界に心を鎖し、一時は自分と姉を慕う生徒さえ生贄
に差し出そうとしていた。人を守ろうとしているのは幾分かの心境の変化が混じっているとは
いえ、大元が贖罪のためというのは否定できない事実である。
 むしろ街の人間を守るという大義名分は秋水よりもカズキにこそ相応しい。
「……君の問いかけに答えられる言葉は持っていない。それでも俺がここまで来られたのは、
剣道部の部員たち、そして戦士たちのおかげだ。彼らの協力がなければ俺は君の部下達は
おろか逆向にさえ勝てなかった」
「だから戦い、彼らを守る義理がある。とお前はいいたい訳だな」
「ああ」
 粛然と頷く秋水を総角は一蹴した。
「弱いな」
「な……」
「気迫の話だ。成程お前の文言は正しい。社会的に見ればまず申し分はないし、その場限り
の偽りでも繕いでもない。本心の一つとして見ていいだろう。だが根幹ではない。根幹から出
ずる言葉ならもっと熱を帯び気迫が充溢しているものだ」
 厳然と刀を差し出していた秋水の面頬にわずかに悩ましい波濤が浮かんだ。
「そしてお前自身もどこか違和感を感じている筈だ」
 剣道における攻めには二つある。
「言葉と自分の在り様との乖離をな」
 一つは有形の攻め。これは体や剣による攻めである。
「まぁ、悪いとはいわないさ。生真面目ゆえに義理と本心の板挟みになるのはよくある事」
 有形の攻めについて秋水はほぼ完璧といえる状態にあった。
 先ほどの突きは試合ならば一本が取れるほどの物。残心も怠りない。
「しかしお前は望んでいる。本心の赴くままに前進する事を」
 そんな秋水に語りかける総角は剣道におけるもう一つの攻めを行っているといえた。
 無形の攻め。
 気を以て相手の精神に働きかける攻めである。
「だが本心が深いところにあるせいで自分でも分からず、ごくごく表層的で一般的な文言にだ
け頼っている。そういう気配(ニオイ)を俺は感じたが……何か反論は?」
「……」
 秋水の心に芽生えたわずかな葛藤が彼の集中を削いだ。
「いっておくがただの義務感で勝てるほど、俺は甘くないぞ!」
 その残心の乱れに乗じてすかさず総角は踏み込んだ。
「勝ちたくばお前自身の心底からの考えに拠れ! そういう相手こそ倒すに相応しい!」
 叫びとともに鋭い斬撃が秋水を襲った。
 頸動脈を切断された男とは思えないほど重苦しい一撃だ。
 受け止めた秋水の端正な顔が苦痛の苦味に染まった。
「……フ。まあ、相手から言葉以上の物を引き出したくば」
 一合、また一合。刀が正面から斬り結んで火花を上げる。
「こちらの内面から曝してやるのが流儀か」
 どちらかもとなく後方へ飛びすさり、一足一刀の間合いで構えを直した。
「俺の振るうのは主に古流の技。部下どもを率い全国津々浦々を流れている目的の一つはこ
ういった技を会得するためでもある」
 秋水は中段。総角は脇構え。
 両者真っ向からひた走り、互いに肉薄。
「俺の武装錬金は他人の物を完全に複製できない」
 秋水は再び逆胴。総角も同じく左切上。初太刀の再現である。
 だが。
 どういう訳か秋水の一撃は最初より遙かに大きく弾かれた。
 不可解なのは弾かれるや否や秋水がまるでそれを予期していたかのように体を右に開いて
逆袈裟を避けた点である。果たして彼は今一度刀を繰り出した。
(しかしその一撃はやや精彩を欠いており、苦し紛れの気配は拭えません! 先ほどまでの
好調が一転、秋水どのは苦しい立場! いったい何が起こったというのでしょう! ただ無形
の攻めによって精神を揺らされたせいには見えません! もっとこう、肉体的物理的な原因
によって苦しい立場にあるように見えます!)
 小札が脳内実況する中、斬り結びが続く。
「創造者との相性や武装錬金への印象値によって再現度は上下する。最も得意なアリス・イ
ンワンダーランドでさえ本家本元の八割程度。それも拡散状態では『電子機器の遮断』と『方
向・距離感覚の麻痺』のどちらか一つしか使えないという有様だ。それでも格下の相手ならば
十分制圧できるが……」
 総角は刀の持ち方を変えた。通常は左手で茎尻を持つべき所を、右手に持ち替えたのだ。
 腰と刀を水平にぎゃんと構えて切っ先を秋水に向ける様子は、脇構え状態の刀を前後逆に
入れ替えたような趣がある。
(京八流の流れを汲む貫心流(かんしんりゅう)剣術に伝わる槍構え! 槍と刀の長さや役割
の違いゆえ、形では中段突きに留まりますが!)
 秋水がくるぶしを跳ね上げるように膝を曲げたのは、下段に突きが来たためである。総角は
まるで剣を槍のごとく振るってりゅうりゅうと突き出したのだ。咄嗟に避けたものの紺袴が膝の
辺りで切り裂かれ、右脛には深さ5ミリメートル程の傷が開いた。白い足袋に赤いまだらの染
みが滲んでいく。足を地面につけがてら後退する秋水を嘲弄するかの如く、総角は槍じみた
突きを繰り出し、そして語る。
「例えば『武装錬金の特性を全く無効にする』ような奴と闘う羽目になってみろ。無数の武装
錬金を持とうと相性も戦法もあったものじゃあない。ジャンケンで何を出そうと『太刀』で手首
ごと斬り飛ばすような、総ての特性を四元素の灰燼に帰するような……そういう相手に対し!」
 釣り込まれるように繰り出された袈裟斬りを秋水の頭上高くで受け止めると、そのまま総角
は左手一本で刀を持ち直し、演武のごとき軽やかさで後方から前方へと腕を回した。
「最大でも八割程度しか再現できない武装錬金で挑むのは無謀だ」
 果たして刀は秋水の胴体を斬り上げに掛ったが、胸の前で横倒された刀に阻まれ失敗。
「創造者のDNAを用いて完全再現した武装錬金でも同じコト」
 されどそこからスっと前進して、下から秋水の喉笛を突きにかかったのは古流好みの総角
らしい所業である。もっとも……
「五分程度の持続時間で倒せるとは限らない。ここからの突き同様にな」
 秋水の剣先がぴくりと動いた瞬間にスっと後退し、事無きに至ったが。
(今のは新撰組とゆかり深き天然理心流の『虎逢剣(とらあいけん)』の応用。しかしあのまま
喉笛を突きにかかれば横一文字の斬撃がもりもりさんの章印を斬り裂き相討ちになっており
ました……。何という戦い。まったく不肖たちは恐ろしいリーダーを持った物です)
 いやはや見ている小札の方こそ冷汗ものの戦いである。
 しかし当事者たる秋水は疲労の色こそ見え気迫はまだまだ失われていない。
「となるとやはり最後に頼れるのは己の技術のみだ。技術は手足。鍛えれば必ず応えてくれる)
 汗一つない総角はまるで剣戟などなかったように平然と言葉を続けている。
「そう、自ら触れ自ら考え自ら修練した物であれば必ず逆境で頼りになる。そう信仰したからこ
そ俺は剣術を学んだ。……ところで一つ大事な事を言い忘れていたが」
 左半身を前に向け、霞上段(額の前で腕を交差させ、刀の切っ先を相手に向ける構え)を取っ
た総角はニヤリと笑みを浮かべた。
「ま、まさか」
 逆に机の下に座り込んだ小札の瞳孔がみるみると見開きただならぬ雰囲気を放ち。
「武装錬金は本人の資質が反映される。そして他者の武装錬金を複製できる俺は──…」
(ばらされるのですか……? あの事実を。今まで不肖たち以外に秘匿されてた事実を……?)
 剣士である以上、敵に接近せねばどうにもならない。
 秋水は逆胴の構えで総角に殺到した。
「俺は、ある男のクローンだ」
「何っ!?」
 言葉に対する反応かそれとも攻撃に対する反応か。
 猛烈な突きを何とか逆胴で払うと秋水は愕然とした様子で立ち止まった。
 対する総角に追撃する様子はない。ただ予想済みの反応を眺めるような得意気で人を喰っ
たような──ホムンクルスにこの形容を使うのはいささかそら恐ろしい物がある──笑みを
浮かべるばかりである。
「そして俺はその男を斃すために技術を信仰し、剣術を学び」
 小札零。
 鳩尾無銘。
 栴檀貴信。
 栴檀香美。
 鐶光。
「部下を集め、武装錬金の扱いを教え、流浪の共同体を組織した」
 ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズ。
「総ての至強を制する……俺の武装錬金と同じ名の共同体を!」



「ここ……です」
 鐶に導かれやってきた戦士たちは、その眼前に果てしなく広がる緑の古沼に息を呑んだ。
 まるで鐶の瞳のように虚ろなそこには月影がほんのりと浮かぶのみ。街から遠いせいか人
工の光などまるでなく、寂々とした虫の声ばかりが背後の森から響いてくる。
「確かここは埋め立て予定地。以前見た時には枯れていたわ」
 とは今回の任務に際し市街のあちこちを偵察して地形を把握してた千歳の弁である。
「人為的に水を満たすには広すぎる。となるとこれが『仕掛け』か」
「確かにこの中にアジトへの道を作れば簡単には通れない。……戦士長が万全か、或いは火
渡戦士長や大戦士長がこの場にいれば容易く水を抜けるだろうが、今の私たちがすぐそれを
するには年齢操作ぐらいしか頼る術がない」
 根来に続いて声を上げた斗貴子は、キっとした目つきで鐶を睨んだ。
(殺すのはアジトに到着した後になりそうだな)
 鐶に短剣を使わせねば水を抜けない。
 アジトへの道中に鐶を殺せば沼から流れ込む水で戦士一同は溺死する。
 かといって普通に水中を探していたのでは総角を取り逃す恐れがある。
 根来に亜空間から探索させたとしても、地上からアジトへの道を切り開くのは難しい。
 第一その話だって池から平行に道が伸びている場合限定であって、池の底から地下に向
かって道が伸びていたりしたらお手上げだ。
「では頼む」
「はい。武装……錬金」
 自らの核鉄──シリアルナンバーXCIV(94。千歳と1つ違い)──を防人から返却された
鐶が蚊の囁くような声で呟くと、先ほど散々に戦士を苦しめたキドニーダガーが出現した。
 同時に鐶を拘束するシルバースキンリバースの周囲を浮遊するヘキサゴンパネルが短剣に
対して微細な動きを見せた。
「分かっていると思うが外部への攻撃がシャットアウトされる。そのため」
 防人の言葉を先どって斗貴子たちは頷いた。
「……私の代わりに短剣を持ち、沼の年齢操作をお願いします……。付けた状態で……何か
を入れるような感じでOK……です。与える年齢は恐らく……18年ぐらい……。リーダーは……
小札さんとらぶらぶなので……ここから吸収した年齢で実況用に復帰させている筈……です。
だからまず……18年分の年齢を手近な……木から吸収し、それから……沼に与えてあげて
……下さい。それで水がなくなり……アジトへの道が開ける筈、です」
「分かった」
 痺れを切らしたような斗貴子が歩み出ると、鐶はおびえたように後ずさった。
「どうした。さっさとその武器を渡せ」
「い、いえ。その……病院の屋上で…………お、桜花お姉さんがいっていた言葉を……思い
出しただけ……です。でも……言ったら失礼そうなので…………」
「早くいえ! 私にあれだけ攻撃しておいて今さら失礼も何もあるか!」
 言い淀んでいた鐶は斗貴子の気迫に押される形でおずおずと語った。
「『津村さんにだけは短剣を渡しちゃダメよ。だって狂人に刃物って言葉があるでしょ?』……と」
 口をつくは桜花の声。おお、鐶は特異体質を失してなお声真似ができるのか。
 閑話休題。斗貴子の面頬が引き攣った。阿修羅か仁王のごとき形相だ。
 鐶はというと怯えたように防人の後ろに退避した。
「よぅく分かった。この戦いが終わったらお前の次に桜花をブチ撒けてやる!」
「と……! とにかく……そのお姉さん以外のどなたか……使ってください……」
 逞しい防人の体から体半分をぴょこりと出した鐶は短剣の刃を自分に向ける形で持ってい
る。幼稚園で習う丁寧なハサミの渡し方みたいな形だ。あくまで恭順するつもりらしいがどうも
この点、戦士六人と渡り合ったホムンクルスとギャップがありすぎ、誰もがため息をついた。
「私がやるわ」
 千歳が短剣を手に取った。不思議と手になじむような気がしたのは何故だろう。

「君が…………クローン?」
「ああ。だからあのホムンクルスのお嬢さんの主食の話にはぞっとしたな」
 ヴィクトリアは百年ずっと母親のクローンを食べて生き延びてきた。
「いわばその食事と俺は兄弟筋。身を喰われるような恐ろしさがある」
 秋水は知らないが、かつて総角がヴィクトリアにぼそりと漏らした呟きは

──「………………と兄弟筋なのが少しぞっとする」
 そういう意味だったのだろう。
「確かに人間型ホムンクルスならばその者の細胞を基盤(ベース)に作られる。いわば分身。
その技術を応用すればクローンも作れるが」
「フ」
 考え込み始めた秋水にかすかな笑い声がかかった。
「生真面目なのはいいが無粋だな」
 総角の刀が秋水の刀の裏を狙って跳ね上がる。叩き落そうとした秋水であるが中空でバツ
の字に刀が絡み合うのを認めるとかすかに切歯し体(たい)を前に送ろうと試みた。
「俺が自身の背景を語ってやったのは、お前から言葉以上の物を引き出すために過ぎん」
 総角はまるで動かない。見れば彼の足は両のつま先を体の外側に向けている。
(足をハの字にするのは司馬遼太郎の『北斗の人』ですっっっっごく不遇だった馬庭念流の特
徴です! 前からの力に強いとか!)
 糊で接着されたように総角はまったく後退しない。月並みな言い方をすれば巨岩か山を押し
ているような思いを秋水はしたのである。
「推測などはまったく無用……。今一度いうぞ」
 バツの字に絡み合った刀が強引に外された。素早く総角は手首を返し、秋水の手首を切断
せんと振り上げた。軌道でいえば剣もつ秋水の右拳と左拳の中間あたりだ。それをからくも
避けた秋水は次の総角の構えに屈辱とも焦燥とも恐怖とも取れる表情を浮かべた。
(俺の武装錬金だけでなく、技まで……!!)
 右腕一本で握った刀を背中に大きく回すその構えが逆胴でなくて何であろう。
「勝ちたくばお前自身の心底からの考えに拠れ! そういう相手こそ倒すに相応しい!」
 蒼い一筋の閃光が秋水の胴を薙いだ。自分の技だからこそ軌道が読める。それは素人考え
であるが一応正鵠は射ていた。ただし剣速も重さも秋水を圧倒的に上回る斬撃だ。電撃のご
とく後方へ足を送った秋水だが、胴着ごと腹部の筋肉が真一文字に裂けて血を噴いた
(深さはおよそ一寸ほど。致命傷ではないが……)
 確実に追い込まれつつある。払拭しようにも払拭できぬ冷たい実感が灼熱に痛む腹部の
傷から浮き上がってくる。
(原因は──… 先ほど総角に投げられた時に痛んだ指と手首)
 腫れぼったく痛むそこを思いながら、秋水は斬撃を繰り出した。

(フ。俺がああいう投げをやったのは後の有利を鑑みての事)
 打ち合うたびに弱まってくる秋水の刀を観察しながら、総角。
(左切上を逆胴で弾き損ねたのを見ても分かるように、剣は確実に弱まっている。だがこういう
追い詰められた状況でなくては爆発的な成長は期待できない)
 総角のみるところ、秋水は心技体ともまだまだ未熟。
(未熟だからこそ伸びしろもある。とりわけ『心』に関してはな。ここで精神的に成長し、さらに
剣腕を伸ばしてくれれば俺としてもありがたい。ゆえに悪いが今しばし利用させてもらう)
 瞳を細め鋭い翠の光を灯しながら、上段の構えを取る。
(総てはあの男を斃すため! 俺はわずかでも強い相手と戦わなければならない!)
 思わぬ攻撃の中断に秋水は息を呑んだが、すぐさま正中線上を斬りおろしてきた。
(……さて、更に追い詰めてやるとするか。次はお前の刀を巻き落とす!)
 左上に向いた刃が秋水のソードサムライXをふんわりと支えるように迎えた。思わぬ柔らかい
手ごたえに秋水の身が硬くなるのが刀を通じて総角に伝播した。
(明治19年に警視庁に採用され、現代剣道にも息づく鞍馬流の『変化』! 硬く刀を受けるの
はなく柔らかく受け止めるコトで虚を作り、鎬と刃で刀を巻き取──えええ!?)
 驚きのあまり小札は立ち上がった。頭突きが金具ごと机の板を貫通したらしく、まるで天秤棒
を担ぐような調子で机が小札の双肩にずっしりと乗った。しかし彼女はそういう無様さえ忘れて
眼前の光景をひたすら見つめた。
「巻き落としでくるのは読めていた。先ほどの投げで右手首や指を痛めた以上、右手の握りが
弱くなっているのは当然の事……」
(げげげ現代剣道では確かに相手の右手の握りが弱ければ巻き落としが成功しやすいとい
いますが、これは、これは──!?)
 秋水の奇妙な構えを見た小札は、臆面もなく大口を開けてわなわなと震えた。
 彼は刀を握る右腕を茎(なかご)ごと左手で掴み、総角の巻き落としを防いでいる。
(意図したのか偶然至ったのか、これは立身(たつみ)流兵法『向(むこう)』の構え! とゆー
コトは次は! 次はぁぁぁっ!!)
 小札がうろたえる中、秋水は総角の刀を見事に受け流して大上段に大きく構えた。
 転瞬、秋水の咆哮が鳴り響く中、薬丸自顕流の掛りよりも凄まじい斬撃が総角の正中線を
襲撃した!
(まずい。まずいですこの展開。ここからは……)
 小札が青ざめる中、秋水もまた背筋に凄まじい数の粟立ちを浮かべた。
(斬ったのは残像──…)
「フ。巻き落としがしくじった時の事など十分考えていたさ。その技自体は確かに見事。しかし」
 渾身の唐竹割りが柔らかな剣さばきにいなされている。
 一撃に全身全霊を賭するあまりそれに気づくのが一瞬遅れた秋水の前で、総角が右足を
軸に回転を始めている。
 小札は戦慄した。口元に握りこぶしをやっておろおろとおさげを揺らしている。肩には机。
(ここからはまさに流血地獄。実況無用の無残無残……)
「いった筈だぞ俺は。お前自身の心底からの考えに拠れ、とな。しょせん技術は手足に過ぎん。
故に俺が語ってやった経緯の分と釣り合わず……より大きな技術にすり潰されるのみ!」
 残心?
 いや、違う。
 彼は回転の力によって刀を捌きつつ、さらに遠心力によって反撃した。
 円弧を描くような光が消滅したその時……。
「痛みと共に知るがいい。悲願に行住坐臥の総てを賭す俺へ表層の言葉と技術を用いる愚を」
 秋水の右脇腹には総角のソードサムライXが深々と斬り込んでいる。
「っ!」
 声にならない声を漏らしながら瞳を右斜め下にやった秋水は急いで飛びのいた。しかし傷は
すぐにでも縫合を要するほど深く、血が次から次へと流れていく。
(『この流派の技』が出た以上、どちらも無事では……ぬお、どうして机が不肖の肩に!)
 あわあわと机を体から剥がそうと身をよじる小札に微苦笑しつつ、総角は左手一本で刀を振
るった。攻撃ではなく血振りである。
「これは伝説的な流派の技だ。どうも一子相伝らしく他の剣術に比べて情報が少なかったが」
 喋る間も総角は手首を返して刀を一回転、茎の中央を右拳でとんと叩いて血振りした。
「全国を巡り長年調べた結果、幾つかの技を習得するのに成功した」
 苦悶に歪む秋水の前で、総角はゆっくりと中段に構えた。
「今の技の名は龍巻閃。流派名は飛天御剣流。そして」
 秋水を襲ったおぞましい既視感と怖気は、しかし瞬く間に通り過ぎた。
 剣道場にまったく何も変わった様子はない。
 秋水の正面で中段に構えていた筈の総角が、秋水の背後で背中を向けている事さえ除けば。
「……ぐっ!」
 しかし秋水が何かをこらえるような嫌な苦鳴を上げた瞬間。
 或いは総角が上記のごとき血振りをした瞬間。
 秋水の体の至るところからおびただしい量の鮮血が噴水のように吹きあがり、剣道場の床
や天井を汚した。遠くでムンクってる小札の横をすり抜け壁にべちゃりと飛散した血さえある。
「飛天御剣流・九頭龍閃。俺が最も得意とする技だ」
 刀を肩に背負って振り返ると、総角は口角を吊り上げ悠然と秋水に笑いかけた。


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