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第087話 「一つの終わりと一つの始まり(前編)」



 9月4日二度目の朝。

 津村斗貴子は銀成学園の屋上の給水塔の上で蒼空を眺めると、静かに立ち去った。
 やがて寄宿舎に戻った彼女の表情には如何なる揺らぎもなく……。
 その瞳に強い決意の光が宿っているのに気づいたのは、彼女と……いや、彼女の想い人と
親交の深い三名の男子のみであった。
 岡倉英之、六舛孝二、大浜真史。
 リーゼントを決めた不良風の少年と眼鏡の奥で瞳を醒ましている短髪の少年と、気弱そうで
体格のいいスクール水着好きの少年たちはここしばらくの異変や斗貴子の入院から何かを察
したような雰囲気を漂わせているが、何があったかまでは聞かずごくごく日常的な会話を二、
三交わしただけである。
 斗貴子もそれでいいと思っている。
(カズキがいない今、私と必要以上に接点を持っても得にはならない。少なくてももうキミたち
はL・X・Eの残党や流れの共同体の脅威に晒されるコトはない。それでいいんだ)
 もう心は負の方向へ落ち込むコトはないだろう。
 ただし正の方向へ一気に向かわせる物も失しているコトに変わりはない。
 中庸から心がブレたとしても極端な範囲に向かわぬ確信があるという点では安定している。
 人間的な感情の動きさえ除けば、精神の根本は安定しているのだ。
 それはまるでカズキに出会う前のように、冷たく静かに……激発を孕みながら。
(私もあとどれ位この街に居られるかは分からない。けれど留まっている以上は何が来ようと
守り抜く。絶対に──… 絶対に)

 中村剛太は病院のベッドで目覚めると、全身の隅々にまで神経を配り、それから盛大なため
息をついた。
(マジで治ってやがる。なんだあの武装錬金)
 鐶との戦いで浴びた傷がすっかり治っている。それよりだいぶ前に貴信から受けた傷はまだ
鈍い痛みを体内に残しているが、もはや通院治療で十分治せると医師に太鼓判を押されている。
 そのせいで剛太は本日退院する運びとなった。
 元よりアウトドアな彼にとって娯楽のない病院からおさらばできるのは嬉しいコトだが、今から
しなくてはならない退院の準備を思うとどうにも面倒臭い。

(つくづくあの共同体のリーダーはフザけてやがる)

 昨夜、総角が防人たちに伴われる形でやってきた。

「戦士・剛太。その、俺自身も先ほど聞かされたばかりで半信半疑なんだが」
 らしくもなく口ごもる防人の横で何か黒い影が動いた。
 と見る間に剛太の傷が魔法のごとく治癒した。
 防人たちと同伴している斗貴子の傷もまた同じく治っている。ただ無銘から浴びた傷だけは
残っていたが。

「フ。『俺の使う』ハズオブラブには制限が多い。治療できるのは一日以内に負った傷のみ。そ
して一人に使えるのは一生で一度きり。部下どもには既に使ったため今はもう回復不可だ」

 総角がシルバースキンリバースで拘束されていながら武装錬金を出せたのは、「攻撃」では
なく「回復」のための行為だったからだろう。
 余談ながらこの時は香美も同伴していた。
「うぉー、おなか痛い…… 月のオバケに蹴られたおなかが痛いじゃん…… アイツ……また
あったら峰ぎゃーしてやらにゃ気がすまん……」
 と滝のような涙を流してうるさかった。
 運命の悪戯。実は剛太は鐶の蹴りにより腹部に激痛をきたしていたため薬を処方されてい
た。錠剤やらカプセルやら粉やらのそれらは紙袋に入った状態で枕頭にあった。
「どうせ俺の傷は治ったからもういらないよな。じゃあこれやるからとっとと帰れ!」
 紙袋をキャッチした香美は「うにゅ?」と紙袋を覗きこんだり高く掲げて見上げたりした。
「なにこれ。よーわからん。つかあんたサンマのきれっぱ食べなきゃダメ! 死ぬ!!」
『それは薬だ香美! むかし動物病院でよく貰ってきただろう! 僕がお前の口に入れて鼻を
ふーってやって飲ませた奴! フィラリア防止の奴とかいろいろ!! なあ新人戦士!!?』
「知るか! とっとと薬を飲め! そして帰れ」
「わーったじゃん!」
 香美は大口開けて薬を全部飲んだ。
 いうまでもなく総て未開封である。
 紙袋から銀色したシートや包み紙が次から次へとじゃらじゃら滑り落ちて香美の口に流れ込
んで行く様は圧巻であった。
(貴様! 我の分も残してくれると思ったのに! 我とて泣きたいほど痛いのに!!)
 無銘さえも止められない。やがて最後のシートが消えると白い喉がごくりと動いた。
「んぎゅぎゅ……うぅ〜! 苦いし骨ばっかだし」
「……いいから帰れよもう」
「うお!」
 香美の顔にニュータイプ的な震動がひらめいた。アーモンド型のけだるい瞳は未来を見つけ
たようにキラキラと輝いている。
「おなか痛いのなおった!! よーわからんけどなおった!! 垂れ目スゴい! スゴい!」
「そりゃアレだけ飲めば治るに決まってんだろ! 馬鹿かお前!!」
(そうだ貴様は馬鹿だ! 我に薬をよこさんから馬鹿だ! ばーかばーか!!)
 小声で悪口をいう無銘を鐶は哀れそうに眺めた。
「というか…………忍び六具の……薬を使えば…………いいのでは」
「!!」
 激しい驚愕が芽生える中、香美はぱぁっと八重歯を覗かして嬉しそうに剛太の手を握った。
「ありがと。あんたトモダチじゃん、トモダチ!」
『いや本当こんな調子で申し訳ない!! 悪いコではないんだが!!』
 馬鹿力でぶんぶかぶんぶか強制握手をする顔にはいささかの邪気もない。

 ……捕えられたホムンクルスがどうなるか知っているので何ともフクザツな剛太である。

(とにかくケガ治したアレって自動人形だよな? そんなのどこかで聞いたような)

 適当な着替えを適当な袋にブチ込むだけの作業を荷造りというなら、剛太はまさに荷造りを
始めていた。

(確か戦団の講習だったか? ん? ちょっと待て。じゃあなんでアイツがそれ使えるんだ?)

 早坂桜花が剛太の病室を訪れた時、剛太はトランクスを片手にじっと考え込んでいた。
「あらあら。女の子が来る時にそういうコトしてたらダメじゃない」
 笑いかけると剛太は不機嫌そうに下着を袋に放り込んだ。
 といっても半透明の袋なのであまり解決にもなっていない。
 それもまあ、斗貴子以外に無関心な剛太らしいといえば剛太らしいが。
「捨てちゃうのそれ?」
「ゴミじゃねェっての! 荷造り!」
「冗談よ」
 くすくすと桜花が笑うと、剛太はますますムスっとした。
「せっかく昨日手伝いに行くっていったのに全部片付けちゃってるから、つい」

 桜花の傷も総角によって昨晩回復された。
 幸い小札と戦った当日だったため、鐶からの傷のみならず絶縁破壊も修復された。
 その直後。
「フハハハ!! やはり我にかかれば腹痛など物の数ではないわ!!」
「…………そうですね」
 ふんぞり返って哄笑する無銘の横で儚げに佇む鐶を見つけたので、手招きして呼び寄せた。
「その。何だか気難しそうな子だけど、男のコって根は結構単純だから、一生懸命アプローチ
すればちゃんとお付き合いできるわよ」
 こそっと囁くと鐶は期待したような戸惑うような顔で桜花を見た。
「そう……でしょうか。そ、それに無銘くん……チワワの時とちょっと変わって……ます」
「じゃあ嫌いになった?」
 太い三つ編みが全力で否定の方向に振られた。
「間違いない。今ので確信した。今の我なら早坂秋水にも勝てるとな!」
「ほう。ではこの俺にも勝てるという事か?」
「いや、師父、その……」
 無銘をちらりと眺めた蒼い瞳は仄かに熱を帯びていた。
「前途は多難だろうけど、たまには素直に思ったコトを伝えてみたらどうかしら? 言葉が途
切れ途切れでも、ちゃんと想いを込めれば伝わって、確かな言葉が返ってくるものよ」
「本当に……?」
 戸惑う鐶に桜花は優しく微笑みかけた。

「ええ。私もそんな感じで本心を話せる人ができたから。お友達になれるかどうかは……まだ
分からないけどね」

「やりたきゃ日用品とか本がまだ残ってるから勝手にしろってんだ」
 剛太が指差した先には確かに色々残っていた。
「はいはい」
 いつもの笑顔で桜花は荷造りに取りかかった。

 エンゼル御前は煎餅をかじりながら呆れたように呟いた。
「あのヤロー、勝とうが負けようが結局俺達を回復するつもりだったんじゃね?」
 剛太の「俺の病室でくつろぐな!」という申し出が却下されてから数えて二十枚目の煎餅が
御前の喉を通り過ぎた。
「悔しいけど俺達ずっとアイツの手の内で踊らされてたんだな」
「そーそー。秋水から聞いた感じじゃ部下の特訓も兼ねてたらしいし」
 色々と諦めたような剛太が熱いお茶を飲み干すと、御前もしきりに頷いた。
「それに総角クン、ダブル武装錬金のうち片方はずっとアンダーグラウンドサーチライトに割り
当ていたそうよ。
「つまり瞬間瞬間では一つの武装錬金で戦ってたってコト? 秋水に合わせるように」
「そうそう。けど、もし……」
「同時に別々の武装錬金で攻撃していたら……か」

「まぁそれもできたが、秋水相手にやってもつまらんだろう。剣戟の方が遥かに強いしな」

 防人衛はそう答えた総角を思い出すと、ふうと息をついた。
(できれば火渡から受けた傷も治して貰いたかったが、都合よくはいかないか)
「受けて一日以内の傷」しか治せぬとしても高性能なのは否めない。現に鐶から受けたダメー
ジだけは全快している。良くも悪くも防人は以前の重傷状態なのだ。
(何にせよ、銀成市での戦いは片が付いた。もしかするとムーンフェイスはまだ生きているかも
知れないが、秋水を除く戦士たちが重傷から回復した今なら対抗できる)
 ブレミュ一同の護送はすでに完了した。
 ヘルメスドライブで瞬間移動できる質量は最大で100キログラム。
 しかし鐶のクロムクレイドルトゥグレイヴを使えばその壁も容易く突破できるのは既に証明済
みである。
(後はこれから下る処断に従うだけだが)
 戦団の上層部ひしめく部屋で防人は遠くを見るような目つきをした。
(まだまだ戦いは続いていく。大戦士長の行方さえまだ分からないからな)
 右にはシルバースキンで拘束された総角。その更に右に根来。防人の左には千歳。

 楯山千歳はいつものごとく事務的に報告を終えると、防人より先に部屋を辞去した。あくま
で表情を崩さず安堵さえも浮かべずに。

 根来忍もまた彼女に随伴していたが、特に言葉を交わすまでもなく自然に別れた。

 彼らはあくまで任務によってコンビを組んでいたに過ぎない。
 よって任務が終われば解散し……新たな任務があれば再び結成されるかも知れない。

「ケッ。どいつもこいつもホムンクルスごときの提案を呑まされやがって情けねェ! 情報が欲
しけりゃ拷問でもなんでもかましてさっさと白状させちまえ! それをしねェから西山やムーン
フェイスのような脱走者が出るんだろーが!!」
 火渡赤馬は煙草を噛み潰さんばかりの表情で呻いた。
 毒島華花はただ涙目で彼を制止するばかりである。

 円山円。
 戦部厳至。
 そして犬飼倫太郎。

 彼らによる坂口照星捜索はまだ続く。

 根来を除く元・再殺部隊の面々に戦いの時が訪れるまでもう少し。

 総角を除くザ・ブレーメンタウンミュージシャンズは収監中。

 戦団にはホムンクルスを収監する施設がある。
 例えばかつて防人・千歳・火渡の所属する照星部隊に唯一の任務失敗を与えた西山という
ホムンクルスも収監されていた。……もっともその後脱走し、斗貴子の顔に消えるコトのない
傷を付けたりもしたが。
 その当時に比べればむろん警備は厳重になっている。独房の扉はホムンクルスでさえ破ら
れぬほど分厚く、いかにも屈強な戦士たちがその前の廊下を何人も往復している。

 収監されるホムンクルスは必ず手枷を掛けられる。
 六角形をした、囚人番号付きの手枷を。

「だーもう! せめてあたしの前足のコレとってちょーだいよあんたら! 爪とぎしたくてもでき
んじゃん! ねえ! ねえー! あとサンマのきれっぱとか欲しいじゃんサンマのきれっぱ!」
 看守たちの殺意を帯びた凄まじい視線が扉ごしに振りかかった。
『ハ!! ハハハハ!! すいませんねェウチの香美が! すぐ静かにさせますので!!!』
「ぎゃー!! 痛い痛いご主人! 頬つねったら痛いじゃん!!」
『看守さんたちに迷惑を掛けたらダメだぞ!!』
「うあ! 垂れ目に貰ったくすりの紙ぶくろ落としちゃダメでしょーがぁぁぁぁ!!」
『痛!! 爪はやめろ! 爪はああああ!!』
 栴檀香美と栴檀貴信は独房の中でわいわいと騒いでいた。

 監獄はせいぜい二人を収容できる程度。
 壁についたベッドが鎖で支えられ、片隅にトイレがあるだけの殺風景な光景。

 鳩尾無銘は静かにベッドに座している。
「ドラ猫どもは騒いでいるようだが、今は師父の交渉が功を奏すのを待つのみ」
 鐶光も頷いた。どうやらスペースの都合で二人だけは相部屋らしい。
(やった…………! 無銘くんと同じ部屋……です。え、ええと、何か話さないと)
 虚ろな瞳がきょときょとと落ち着きなく動いた。目が合うと鐶は慌てて顔を背けた。
 勢いあまって首が180度ばかり回転し、嫌な音を立てて折れた。
「……特異体質…………まだ……復活してない……ようです」
 ぎぎぃっと油切れた機械の如く向き直る鐶の瞳にはじんわりと涙が浮かんでいる。
「泣くな鬱陶しい」
 手錠をかけられたままの手が、虚ろを濡らす光の粒を拭い去った。
「ふぇ……!?」
「……薬の所在を教えた礼だ。涙程度は拭ってやる」
 鐶は飛びあがらんばかりに驚いた。真赤な顔の中で口がただぱくぱくと酸素不足の金魚の
ように波打ち、やがてそれが収まると耳たぶや首筋を髪より色濃い朱に染めて黙り込んだ。
「あ、あの……無銘くん」
 鐶がようやく声を発したのはそれから半日経ってからである。
「昨日の夜…………六対一のコトを認めてくれて…………嬉しかった……です」
「フン。我ならできないからいっただけだ。貴様の狡知と戦闘力は本物。そこだけは母上でさ
え及ばんし、我が疑う余地もない」
 かつて時をよどませた魔眼がギラギラと鐶を見据えた。
「いちいちビクつくな。前もいったが貴様は無明綱太郎。自信を持って実力向上に励め。特異
体質で老いたとしても、武装錬金で戻せるのなら我は別に構わない」
「その言葉だけで……報われます。ありがとう」
 ぎこちなく微笑む少女から落ち着きなく目を逸らした無銘は、さりげなく距離を取った。
 距離を取らねば胸に起こった正体不明のもやもやがどうにもならないような気がしたのだ。

「お礼に……ビーフジャーキー……食べます?」
「……おうとも」

「不肖の手練手管というか密かに貯めてました十万円をポンと看守どのの袖の下に滑り込ま
したが故にこの部屋割り! 結果一人だけなのはさびしい限りですがこれで良いのです!」
 小札零は困ったように腕を組んで独房を眺めまわした。
「鐶副長を応援しつつここは自重の一択! 命運決するその時までにじつと身を屈め待つ次第!」
 元気よく叫んでみてもどうも張り合いがない。誰も反応しない。
「……えーと。ちなみに不肖たちがもりもりさんをもりもりさんとお呼びするのは昔のお名前を
適当な翻訳サイトにかけると『もりもり』となるからなのですが……」
 一人ぼっちの部屋はとても静かである。
(むー。やはりヒマです。とにかく今はもりもりさんの弁舌が通じるのを祈るばかりです。陰な
がら不肖、成功をお祈りしております)

「では大戦士長を誘拐した者たちについて語ってもらおうか」
「フ。それは──…」
 総角主税は一笑すると、実に堂々とした調子で話し出した。

「私を探しているって聞いて出向いてみれば、こんな不衛生な場所に籠って読書中? 呆れた。
まるで怠け者ね」
 L・X・Eのアジトで書物を読むパピヨンの耳に届いたのは、毒気をたっぷり含んだ甘い声。
「地下で100年ばかりのーみそと引き籠っていた貴様にだけは言われたくないね」
 書物からまるで目を離さないまま応対すると、ヘアバンチで筒状に結わえた金髪がさらさらと
近づいてきた。漂う埃さえ香水の飛沫に思えるほど芳しい匂いが立ち上る。
「睨んだ通り戦士たちに保護されていたようだな。去り際にああいえば連中経由で俺の帰還
を嗅ぎつけやってくると思っていたが……引き籠りにしては随分行動が早かったじゃないか」
「保護?」と心外そうな声が漏れた。
「ふーん。いっておくけどパパやママのコトを盾に戦団へ身を寄せたと思ってるならとんだ見当
違いよ。この街に来たのは物好きな信奉者のお誘いが面白そうだから乗っただけ。おかげ様
で晴れて引き籠りから脱却済みだから、別にアナタに保護してもらわなくても結構よ」
「今さら脱却したところで何の自慢にもならないね。何故ならこの俺なんかはたったの5年で
引き籠りから卒業した身の上! 貴様などはまったく足元にも及ばない!」
「どっちもどっちね。それはともかく……わざわざ来てあげたのはママの為」
 ぞっとするほど冷たく挑発的な笑みを浮かべたヴィクトリアがパピヨンの頬へ手を伸ばした。
「お久しぶりの挨拶はここまで。悪いけどしばらく私のやりたい事に付き合ってもらうわよ」
 
 パピヨンの口に浮かぶはただただ黒く、凄絶な笑み──…


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