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第088話 「一つの終わりと一つの始まり(後編)」



 早坂秋水。
 武藤まひろ。

 二人は病室で息を潜めてじっと対峙していた。

 なお秋水については例のハズオブラブを既に一度使われていたため総角からの傷は平癒
せず、しばらく入院するコトになった。いまベッドの上で上体を起こしているのはそのせいだ。
 一方のまひろは柔らかな頬を緊張に硬くし、パイプ椅子に腰かけたまま身じろぎもしない。

「君に話しておきたい事がある」

 見舞いの花束を持って入室するなり秋水は間髪入れずに……しかし機先を制したにしては
戸惑いと恐れが色濃い声音で呼びかけた。

「…………時間は大丈夫だろうか?」

 念を押しながらも澄んだ瞳の奥ではまひろが首を横に振るのを期待しているような光がほん
の少しだけ見えた。ずるい……とはまひろは思わない。なぜなら彼女は罪科を人に曝け出す
恐ろしさというものを理解できる。15年という短い人生の中、故意不慮を問わずやらかした失
敗を様々な人から怒られてしまったコトなど何度だってある。まだ幼いまひろだから、怒られる
のが怖くて失敗を隠そうかと悩んだのは少なくない。けれど幼い故に純粋でもあるから、口を
つぐんで罪を忘れ去られるのをただ待つだけの時間は本当に本当に怖くて出口が見えなくて、
自分がひどく悪い人間になっていきそうで、叱られるよりもお説教をされるよりも辛かった。
(でもそういう時のお兄ちゃんは……)
 まひろの変調によく気付き、話を聞いて、一緒になって謝りに行ってくれもした。
(だからかな。怖いのも苦しいのもちょっとだけ楽になったんだよ? 中学に入ってからはだい
ぶそんなコトも減ったし、去年は──…)
 カズキだけが銀成学園の寄宿舎で暮らしていた昨年は実質別居状態だったため、かばわれ
るコトは皆無といって良かった。
 しかし、まひろがカズキを追うように銀成学園へ入学して間もない頃。

──「じゃ、まひろの分も引き受けて、オレが減点2ってコトで!」

 遅刻を肩代わりしてもらった。それからホムンクルスに喰われかけた所も助けてもらった。
(きっとお兄ちゃん、私やみんなのために色々してくれてたんだよね)
 察しはつく。カズキが秋水に刺されたのもその過程だと。
(……秋水先輩はどうなのかな?)
 彼がずっとずっと強くなろうと努力していたのもまた、桜花に向かう何かを肩代わりするため
だったのだろう。カフェか銭湯か、まひろは桜花とこういう会話をした。

──「じゃあ、お兄ちゃんが体鍛えているのは斗貴子さんを守ろうとしているからじゃないんだ」
──「あ、でも秋水先輩は多分そうですよね」
──「そうね。だって私達は二人ぼっちの姉弟ですもの」

 それならばカズキと秋水は親友だとばかりまひろはずっとずっと思っていた。
 だから銀成学園の屋上で月を見上げて泣いていたあの晩、何もいわずに一階まで付き添っ
たり大事な桜花を後回しにしてまで寄宿舎に送ってくれたり、食事に誘ってくれたりその帰り道
で恐ろしい怪物から守ってくれたりしたと思っていた。
 カズキのコトについてちゃんと事情を説明して励ましてくれたのも、辛い時だったからこそ本当
に本当に心から感謝している。

(その先輩がお兄ちゃん刺してまで助かろうとした理由を、私は知りたいから)

 秋水の問いにまひろがゆっくりと頷いたのは、彼のもう一つの気持ちが分かるような気がし
たせいだ。

(ちゃんと聞かないとダメだよね。じゃないとずっとずっと苦しいままだから)

 そう思いながらもまひろは緊張でしっとりと汗をかき、体の内側から震えてしまう。怖いのだ。
まひろはそう思った。次の秋水の言葉が何よりも怖い。理由は分からない。生死のやり取りを
聞かされるのを恐れているのかそれに対して泣き出すのを恐れているのか、懺悔の言葉が途
切れた後の何気ない返答が秋水を奈落の外に突き落とすのを恐れているのか。
 分からない。
 もしまひろがもっと複雑な精神を持っていれば、怖れの一部を下記のごとく草書しただろう。

 今までの言葉や行動の一つ一つがまひろをただ透明化してその奥にいるカズキへ償うため
だけの代物だといわれてしまえば、辛い時代の唯一の救いさえも粉々に砕かれてしまうよう
で恐ろしい。

 と。
 秋水がまひろに対してした行動は、岡倉や六舛、大浜といったカズキの親友たちがまひろを気
遣うように秋水も気遣う物とはまた異質なのだ。
 もし総てが「武藤まひろ」という存在を黙殺する優しいエゴに過ぎなかったとすれば、嬉しさも、
感謝も、関係も、ただカズキを刺したという事実以上の残酷な刃となってまひろを抉りかねない
のだ。……彼女は最初から謝罪や償いという薄暗い感情に基づく関係の構築などは望んで
いない。ただこれまで世界で経験してきたようなごくごく普通の関係を秋水とも結んできたと純
粋に信じてきた。しかし秋水は最初からまひろの想像以上の事情によって関係構築に至って
いた。裏切りと呼ぶには誠実すぎる、しかし誠実と呼ぶには裏切りが根幹にありすぎるやり方
で。まだ幼いまひろが直面するには余りに重いそれは「彼がカズキを刺した」という事実以上
の物となり、無自覚の外周を緩やかに圧しているのだ。

 しかしそれは既に決する段階にある。
 崩壊するのか……もっと良好な何かに転化するのか。

 やがて言葉が放たれた。

「俺は君の兄を刺し、死に追いやりかけた事がある」

 総角に初太刀の逆胴を浴びせた時よりも決断を要した。
 ただ一人の少女にただ一つの言葉をかける。
 動作だけで比べれば前者の方が遥かに難しいというのに、秋水は後者を実行するまで莫大
な精神力と時間を要している。
 剣道部の稽古で汗一つかかなかったのに、まひろを食事に誘う時には汗をかいたという経験
がある。内面はその時から大きく変わっていないのかもしれない。
 冷や水を浴びせられたように身をすくめたまひろは乾いた唇を動かし何かを聞きかけたが、
すぐに口をつぐんだ。手は制服のスカート越しに膝へ乗り、心細げに震えている。
 悔恨と無力感が胸を締め付ける中、堰を切ったように秋水は話した。

 幼少時に誘拐され、その誘拐犯に育てられた事。
 実の父母に不要といわれ、桜花とともに病院を脱走した事。
 その果てでL・X・Eというホムンクルスの共同体に入った事。
 桜花と二人だけで永遠を生きるため、ホムンクルスにならんとした事。
 目的のために学校の生徒たちを生贄にしようとしていた事。
 その過程でカズキたちと敵対した事。
 激戦の末に敗れ、『とある事情』で殺されそうになった事。
 カズキがかばってくれた事。

 そんな彼を背後から刺した事。

 にも関わらずカズキは秋水の手を取り……桜花を助けようとした事。

 斗貴子が桜花と秋水を斃さんとし、カズキさえ戦闘不能にしようとした事だけは伏せたが……
 喋るたび兄のみならず妹にまで傷をつけていくようで何よりも辛い。狂騒の元に一刀を貫く
だけで総てが解決すると思っていた頃の未熟さが今になってひしひしと痛感できる。防人へ
いった「勝ちたいのは自分」という一言さえ遵守できているかどうか定かではない。剣の上で
下した総角にさえまだまだ人格や弁舌で及ばぬというのは昨晩大いに実感した。その及ばぬ
弁舌がいまはまひろを傷付けている。秋水自身は傷を浴びても刀を振り抜ける。だがまひろ
は違う。銀成学園の屋上で月を見上げて泣いている姿を見てしまった。
 だから助力を決意した。桜花を失いかけていたため気持ちが分かり、決意した。
 そうして呟いた言葉が現実になるよう務めるうち、交友めいた関係が芽生えてしまった。
 それがヴィクトリアを寄宿舎に戻すきっかけになった瞬間、秋水自身はどうしてもカズキの事
を謝りたくなった。隠し通すという選択もあるにはあった。しかしこれからヴィクトリアを助けて
いこうとすれば、事情を知るまひろは必ず助力を申し出る。助力を受けていけば交友めいた関
係がますます緊密になる。そうなった時、何かの弾みでカズキを刺した過去がまひろに伝われ
ば関係の深さに比例して激しい痛みを与えてしまう。
 そもそも兄を刺した事実をその妹にひた隠しにしたまま交友を結んでいく事自体贖罪とは無縁……
 秋水の心理はいつしかベッドの上で言葉となり、まひろの耳へ向かい始めた。
 汗が噴き出す。剣戟で震えぬ声音さえ震える。
 本当なら最初にいえば良かった。ベッドから降りながら秋水はそうまひろに告げた。けれど
ずっと言えずひた隠しにしてきたのはまひろを傷つけまいという配慮……自体ではなくそれを
免罪符にした弱さのせいだ。床に膝をつきつつ秋水はそうも述べた。

「言い訳をするつもりはない。あの一瞬に踏みとどまれなかったのも他の誰でもない俺自身の
弱さのせいだ。その弱さのせいで俺は君から大事な兄を奪いかけ、そして今は傷付けている。
……本当にすまない」

 謝罪の言葉とともに、秋水はその額をひんやりとした床へ擦りつけるように身を屈めた。

「簡単に償えるとは思わない。けれどせめて君が武藤と再会できるその日までこの街は必ず
守る。君のためにできる事があるのなら何だってするつもりだ」

 まひろは静かに椅子を降りると、屈みこむ秋水の背中を叩いた。

「そこまでしなくてもいいよ秋水先輩」

 困ったような声に促されて面を上げた秋水は、つつけば甘露が弾けそうな赤い瞳を見た。
 秋水の言葉の一つ一つに動揺しながらもどうすればこの事態を解決できるか懸命に考えて
いる瞳だ。
「でもね」
 まひろは口ごもりながらこう言った。
「………………私には秋水先輩を許すコトはできないんだよ」
 さざなみのような気配が全身を通り過ぎるのを待つと、秋水は次の言葉を紡いだ。
「分かっている。むしろそう言ってくれる方がいい。君をずっとずっと騙し続けるような事をする
のに比べれば、そちらの方がいいと思う」
 静まり返った病室の中でまひろは無言で秋水を眺めた。
 じっと。ただ静かに。
「え?」
 真赤な瞳が白黒しながら秋水を見た。
「どういうコト?」
「その……君が俺を許さないという気持ちが理解できるという事だが…………」
 愕然としたまひろが秋水の言葉を遮るようにまくし立て始めた。
「ちちちち違うよ! あのね秋水先輩!! そうじゃなくてその、秋水先輩を許すコトは私にで
きないけど、絶対に許さないとか大嫌いになったとかそーいうのじゃなくて……」
 えぇとその、とまひろは目をつぶって額に人差し指を押しつけた。ぐにゃりと曲がった指先が
つぶれんばかりに当てられ白く変色している。どうやら自分でも何がいいたいか把握できてい
ないらしい。
「そのね。私に謝りたいって気持ちは分かるし、ちゃんと事情を話してくれたのは嬉しいけど…
…ホラ! 私は確かにお兄ちゃんの妹なんだけど、お兄ちゃんじゃないでしょ?」
 やっと出口を見つけた。そんな顔つきのまひろだが秋水はまだついていけそうにない。事実
はまったくその通りなのだが、そういう当然の事をいま言い出す心境が分かりかねた。
「うまくいえないけど、その、お兄ちゃんがいないから私に謝ろう……っていうのはダメだよ?」
 まひろがようやくそれだけをまくし立てると、理解と疑惑が秋水の内面に巻き起こった。
(確かに俺は……)
 まひろへの謝罪がそのままカズキへの謝罪になると思い込んでいた節がどこかにあった。
 しかしそれは大きな誤りなのだ。
 もし桜花を傷付けた者が彼女ではなく秋水に許しを乞いにきたら彼は眉を潜めるだろう。
(そんな簡単な事さえ……俺は見落としていたのか)
 ただしまひろ自身への申し訳なさは確かにあった。それが元からあるカズキへの罪悪感と
混じってしまったのは長らく鎖された世界にいたが故の対人感覚の未熟さのせいだろう。
 愕然とそれを受け止めながらも秋水は同時にもう一つの事実に気づいた。
 まひろの口調や様子はこの場における緊張感を差し引けば概ね普段通りなのだ。
 しかしそれはおかしい。
 普通、身内を刺されたといわれたら発生する感情が含まれていない。
「君は……怒っていないのか?」
 まひろは腕組みをしてウンウン唸り出した。意を決した質問への反応としてはやや軽い。
「そのコトは確かにショックだしまだ怖いけど……秋水先輩と戦った後でもお兄ちゃんはちゃん
と普段通り生活してたし一緒にお見舞いにだって行けたワケだし、うーん。なんていえばいい
のかなあ。お兄ちゃんがいなくなったってワケじゃなかったから、怒ろうにも怒れないというか……。
ヘンかなこういうの?」
 太くて栗色をした眉毛が心底困ったようにハの字を描いた。
 秋水には何ともいえない。結局まひろがそう思えたのも桜花の命がけの献身があったれば
こそである。秋水の罪を消す要素にはなりえないだろう。
「それに私はお兄ちゃんが戦ってくれてる時にほとんど何もしてあげれなかったから。学校で
声援送ったりしただけだし……」
 一見迂遠に見える喋り方だが、彼女なりに筋道を立てている気配がある。
「お兄ちゃんがそれでいいと思っていたとしてもね、戦ってる時のコトに私が口出ししちゃったら
お兄ちゃんだけじゃなく斗貴子さんたちにもすっごく失礼だと思うんだ。……この前ね、お兄ち
ゃんが月に行ったってブラボーが知らせてくれた時に泣きながら色々いっちゃったんだけど…
…悪いコトしちゃったって今でも思ってるし…………」
 秋水が何となく言葉の裏を理解し出すのと同時に、まひろは胸に手を当ててあたふたと言葉
を継ぎだした。
「も! もちろん手当てとか応援ならしたいよ! したいけど……守ってもらってる私がそれ以
外のコトに口を出すのはやっぱりちょっと違うんじゃないかな……?」
 彼女は自分の立場を自分なりに理解し、全うしようとしているらしい。
 そんな性根が秋水には羨ましい。
 カズキの傷を引き受けた桜花の心情さえ理解できなかった秋水には。
「だからね秋水先輩。秋水先輩がしたコトを私が勝手に許しちゃったりしたら、お兄ちゃんが一
生懸命耐えた痛みとかが全部無意味になっちゃう気がするの。秋水先輩がずっと辛い思いで
抱えてきたコトだってちゃんと解決しないよ。今はよくても後で必ず悪い方へぶり返しちゃう」
 不器用だが真剣な気迫を秘めた眼差しでまひろは秋水の瞳を見据えた。
「そういう意味で私には秋水先輩を許すコトはできないんだよ」
「……分かった」
 しばし眼差しを見返した秋水は、声が沁み入ると同時にじっと瞑目した。
 苦難の果てで聞いたこの安易ではない回答は、ただ何かに勝つよりも価値のある言葉に感
じられたのだ。
(俺には過ぎた物かも知れないな)
 目を開くと、配慮のために視線を外していたまひろがパっと向き直った。
「でね。さっきもいったけど、お兄ちゃんがいないから代わりに私に謝ろうっていうのはダメだよ。
その気持ち以外の気持ちでも私を助けてくれたのとか、隠し事したくないっていう気持ちは嬉し
かったけど、やっぱりそれとこれとは別だから。ちゃんとお兄ちゃんに謝らないとダメだよ?」
「そうだな。その点でも君には悪いコトをした。すまない」
 まひろが朗らかな様子で首を振ったのは、秋水の心情がある程度理解できたせいだろう。
「いつになるかは分からないが、武藤が戻ってきた時には必ず彼へ謝罪する。その為にも先
ほどの言葉は必ず守る」
「うん。今はそれでいいと思うよ」
 それと! とまひろは勢いよく秋水の肩を掴んだ。
 九頭龍閃による肩の傷が少し開いた気がしたが、秋水はおくびにも出さずまひろを見た。
「お兄ちゃんが痛いのガマンしながら秋水先輩たちを助けたコトだけは忘れちゃダメだよ! 
もしそれを忘れて同じコトしたら、今度は私がお兄ちゃんの代わりに怒るから!」
 痛いのガマンしながら秋水はコクコク頷いた。
 カズキはこれ以上に耐えたのだ。耐えずしてどうする。
 ちなみにまひろの顔は近く、唇から言葉とともに立ち上る熱気さえ肌にヒリヒリと感じられた。
「あ。でもね」
 実にマイペースな少女は秋水の困惑から一方的に手を離して下唇に手を当てた。
「お兄ちゃんはそんな怒ってないかも。斗貴子さんにもいったけど、お兄ちゃんはね、自分が
何かされるより他の人を傷つけられる方が嫌いなんだよ。それでも間違って傷つけたりちゃん
と謝ろうってしてくれている人ならちゃんと許してくれるから……うん。大丈夫大丈夫。秋水先
輩ならちゃんと一生懸命謝れば分かってくれるよ」
 実に慈悲溢れる笑顔が(肩の痛みに苦しむ)秋水を見ている。知らぬが仏とはこの事だ。
「そうだ! もしお兄ちゃんが帰ってきた時に秋水先輩がどうしても謝る勇気が持てなかったら、
私が一緒に謝まるよ!」
「いや、君にそこまでさせるのは良くない」
「大丈夫。何を隠そう私は謝罪の達人よ!」
 ギアが入った。秋水の剣客としての勘が察知した。相手の気の流れから攻め手を察知して
いながら諸々の事情で対処できぬ事は剣道の中でままあるが、秋水は正にその時の「分かっ
てるけどどうしようもない」状態に陥った。
「色々な人に謝るのは慣れてるから気にしないで!」
「というかどうして君が兄に謝る必要があるんだ?」
「だってお兄ちゃんはみんなの味方だよ。で、私はみんなの中の一人! それなら戦いで受け
た傷は私のせい! ……って思ったんだけど違うのかな?」
 自身たっぷりの声音はしかし秋水の表情が複雑化するにつれてみるみるしおれ、まひろの
大人びた顔が悩ましげに歪んだ。
 そもそもその質問に秋水がハイといえよう筈もない。彼の狂騒による傷をどうしてまひろの責
任へと転嫁できよう。すでに桜花に物理的な転嫁をさせてしまっている身の上なのだ。
「とにかくね、お兄ちゃんが戦ってくれたのは私たちのためなんだから、ケガさせちゃったコトは
一度ちゃんと謝らなきゃ。じゃないと悪いし、いま秋水先輩の気持ちをちゃんと解決してあげれ
ない以上は一緒に謝るべきだよ!」
 秋水は頬をかいた。
「いや、だから武藤の件は俺が全面的に悪いのだから、君にまで謝罪させるのは筋違い……」
「あのね。お兄ちゃんはずっと私の辛さとか痛みを肩代わりしてくれたんだよ。秋水先輩だって
桜花先輩にそうしてきたでしょ? でもやっぱりたった一人で何もかも引き受けるのって、やっ
ぱり辛かっただろうし」
「……」
「だからね。私思うんだ。秋水先輩に色々助けてもらった恩返しに今度は私が色々手助けす
るべきだって。びっきーのコトもそれ以外のコトも」
 ひまわりのように明るく温かい笑顔がまひろに顔に広がった。
「お兄ちゃんは先輩たちにちゃんと前に進んで欲しいから、痛いのも怖いのも引き受けたんだ
と思うよ。だから刺しちゃったコトばかり気にして何もできなくなったら、お兄ちゃんきっとガッカ
リしちゃいそうだし……だから手助けしたいの」
「ありがとう。本来なら責められて当然の俺にそこまで言ってくれた事に、本当に心から感謝
する」
 まひろは嬉しそうにかしわ手を打った。
「でもね秋水先輩。もう一つだけ約束して。まだ私に『悪いなー』と思ってくれてたら」

──「まだだ!! あきらめるな先輩!!」

「お兄ちゃんがいったコトだけはちゃんと守ってあげてね。それからさっきの言葉も」

──「君が武藤と再会できるその日までこの街は必ず守る」

「そうじゃないとお兄ちゃんに胸を張ってちゃんと謝れないと思うから」
「約束する。必ず守る」
 粛然とした眼差しを覗きこんだ少女は──…
 ただ満足気にうんうんと頷いた。

 まひろは知らない。
 後にこの時のやりとりが、秋水の命運を大きく左右するという事に。

 ただ彼女は、真剣な会話の場が去ると同時にいつもの彼女に戻った。
「でね。お願いがあるんだけど」
 まひろが実に嬉しそうに擦り寄って来たので、思わず秋水は膝立ちで後ずさった。
「そろそろ『まっぴー』って呼んで『まっぴー』って! いつまでも武藤さんじゃ堅苦しいよ!」
「い、いやそれだけは出来ないというか」
 押される一方である。追い詰められる一方である。
「大丈夫だよ! 一回呼べばそのうち慣れるから!」
 刀さえ持てば薬丸自顕流の掛りさえ潰せる秋水なのに、無手のまひろのこういう調子には
まるで手も足も出ない。この辺り世慣れせぬ青年ゆえの弱味か。膝立ちでにじり寄る少女に
何の策も講じられないまま秋水は後退していく。
「どうしても無理なら私を『まっぴー』って生き物だと思えば大丈夫! さあ、呼んでみて!」
 まひろが一歩進めば秋水が一歩退がる。
 やがて無情にも彼の背中は病室の壁に当たった。
 眼前に広がるのは勝利を確信し不敵に笑う武藤まひろ。
 流石に相手が異性ゆえに対斗貴子・対ヴィクトリアじみたスキンシップはせぬと見えるが、
秋水はたまらない。右に逃れようと左に逃れようとまひろがすいすいと正面に立ちはだかって
くる。まったく逃げ場がない。逆にまひろは変なスイッチが入ったらしく実にこの状況を楽しん
でいるようだ。子犬のように悪戯っぽい笑顔がグイっと秋水に接近した。
「さあ観念して秋水先輩ッ! 今日という今日こそはあだ名で呼んでもらうんだから!」
「頼む。想像してくれ。俺が君をそう呼ぶ姿を」
 とうとう秋水が悲鳴じみた声を上げると、まひろはハタと考え込む仕草をした。
 窓から流れ込む光が思慮に暮れる彼女をしばし照らし、やがてまひろはちょっと目を伏せた。
「うーん。合わないかも」
「……そうだろう?」
 秋水が同意を求めると、まひろは「じゃあ『まっぴー』はなしだね」とコクリと頷いた。
 幕切れは意外にあっけない。……しかし開幕もまたあっけない。
「もう! 駄目じゃないまひろ。面会の制限時間もうとっくに過ぎてるわよ!」
「看護婦さんカンカンだよまっぴー。そろそろ帰った方が──…」
 病室のドアが開いた瞬間、その場にいる誰もが息を呑んだ。
 秋水は驚愕の眼差しで、ドアに佇む若宮千里と河井沙織を眺めた。
 背中にじっとりと嫌な汗が滲んでくるのは沙織の姿で鐶を思い出したせいでもないだろう。
(あ!! そういえばちーちんとさーちゃん待たせてた!)
 まひろもまた秋水に詰め寄った状態で首だけを友人二人にねじ向けて「しまった!」という
顔をした。自分がいかなる体勢にあるか理解したのである。
 這いつくばって眉目秀麗成績優秀かつ剣道部のエースの生徒会副会長を壁際へ追い詰め
ているその姿というのは、いささか天然の入ったまひろでさえ顔面を赤らめざるを得ない刺激
的光景である。
 あまり手入れのされてないポサポサとした栗髪が頬の横を滑りぬけて秋水に乗り上げ、ス
カートからわずかに覗く太ももは殺風景な病室で異様な白さを放っている。
 大体にしてまひろは上体をめいっぱい乗り出し秋水に接近している。顔があまりに近すぎる。
これでは誤解されても仕方ない。
 理性を取り戻すと「怪我人を床で追い詰めていた」という申し訳なさも今さらながらに戻って
来るから不思議である。
 つい反射的にまひろは胸元を抑えて気まずそうに秋水を見た。
 視線は何かを訴えている。秋水とて意味は分かるがただ精悍な顔を少し情けなくして首を振
るしかできない。彼は対処を誤った。そうするより前に千里と沙織に何かをいうべきだったのだ。
(積極的なコだとは思っていたけど、まさかココまでするなんて)
(あ、秋水先輩も満更じゃなさそう! 何何ひょっとして夏休み中の急接近!? きゃー!)
 彼女たちはいよいよ尋常ならざる情況を想像したらしく、態度が「からかい」から「男女の痴
態に遭遇した気まずさ」または「喜び」へみるみる変わっていくのが空気を介して分かった。
 慌てて秋水とまひろは相手からぷいと視線を外したが、頬へ仄かな紅が差しているのはこれ
また非常に宜しくない。逆に艶めかしい。
「ええと。交際は自由だけど怪我してる先輩を追い詰めるのはいけないわよ」
 顔が上気しきったせいで曇った眼鏡のレンズを拭こうともせず、千里は病室から立ち去った。
「ゴメンねまっぴー。邪魔しちゃったみたい。でも病院でそんなコトはほどほどにね」
 小学生並の童顔を興味の赤に染めながら、沙織がウィンクし名残惜しげに去っていく。
「ち!! 違うってば二人とも! 私はただあだ名のコトで……!」
 まひろも慌てて立ちあがった。秋水も彼女に倣った。
「ゴメン秋水先輩! ちゃんと誤解は解いとくから! これが最初の手助けだから!」
 顔の前で大きく手を合わせてうなだれるまひろに秋水はゆっくり頷いた。

「了解だ。これから色々あるかも知れないが……宜しく頼む」
「あっ! ええと、こちらこそ!」

 まひろの両手が秋水の右手を力強く握った。
 差し出していない手を握ってくるまひろの積極性に秋水は驚いたが、ひどく柔らかく儚げな感
触が離れるまでの数秒間じっと彼女の動きに身を委ねる事にした。

 そしてまひろは踵を返して入口で手を振り、慌てて病室を去って行った。
 開いた扉の向こうより響くは忙しく友人二人を呼ばわる声と早歩きの足音。
 それもやがて遠ざかり、病室は静かになった。

「…………」

 断罪できる立場にありながらカズキの心情を汲み、怒声を一言も漏らさずに謝罪への返答を
終えたその姿は秋水がかつて銀成学園の屋上で見た姿とかけ離れていた。
(本当は強い娘(こ)なんだな)
 同時にそんな彼女を揺らがせるほどのカズキの存在が本当に大きく見えてきた。
 秋水はどうか。
(俺は死力を尽くしても総角を剣の上でしか上回れなかった)
 自分に勝てたとは言えないほど、手痛い敗北が多すぎた。

 昨晩、防人は秋水のその意見にかぶりを振った。
「敵6体のうち5体までを撃破したんだ。お前は十分に戦ったと思うぞ」
「いいえ。戦士長を始めとした他の人達の指導や分析があったからこそ、俺は辛うじて勝利を
拾えたと思います。現に全容の分からなかった鐶にだけは負け、戦士長達に負担をかけさせ
る結果となりましたし……」
「そう思ってしまうのも無理はないな。だがキミに聞かせて貰った限りでは、決して何の成長も
していないという訳ではない。そこだけは胸を張って誇るべきだ」
「しかし……」
「確かにキミはムーンフェイスに出し抜かれたり鐶に敗北したりもした。それは事実だ。背負う
には重すぎる罪だって抱えている。だが同時にヴィクトリアを説得し、機転や着想で数々の困
難を乗り越えてきた。鐶にしたって、キミが核鉄を奪還していなければそもそも戦えたかどうか
さえ怪しいしな。同じコトは他の戦士たちにもいえる。誰かが負けても他の誰かが勝てるよう
自然に補い合っていた。俺が指示してもしなくても、彼らは彼らの大切なものを守るその使命
のために死力を尽くしたんだ。戦士・斗貴子も剛太も千歳も根来も桜花も御前も、全員が頑張
り抜いた。そんな彼らはキミのように5体もの難敵を倒した訳ではないが……弱いと思うか?」
「いいえ。俺以上に立派だと思います」
「きっとキミもそう思われているさ」
 逞しい掌がぽんと気楽に秋水の肩を叩いた。
「自信を持て。キミはまだ若い。自らに不足を感じるのならば修練によってそれを補えばいい。
他の戦士のお陰で勝てたと思うのなら、今度はお前自身が他の戦士の支えになるよう手助け
してやれ。開いた世界を歩くというのは、そういうコトだと俺は思っている」
 連行直前の総角たちに歩みながら、防人は「そうそう」と振り返った。
「よくやった戦士・秋水! ブラボーだ!!」
 親愛と労いのたっぷり詰まった笑みに秋水は少したじろいだが、すぐに深々と頭を下げた。
 更に根来、千歳、剛太、桜花と御前、そして斗貴子を尋ねて回り、辞儀と共に礼を述べた。

 剣は秋水にとって総てである。しかし世界にとっては総てではない。卓越した剣腕だけでこ
の世の総てに対抗しようというのは不可能に近いだろう。
 その中で自分の弱さに向き合って向上せんとすれば、数多い困難に直面するに違いない。
 他者への助力もできるかどうかはまだ不安が残る。
 それでも……まひろが助力を申し出てくれた事は心強い。
(まずは彼女のために。武藤に直接謝れるように。そしていつか他の人達も心から守れるように……)
 強くなりたい。
 秋水はそう思いながら、柔らかな感触の残る拳を強く握り締めた。


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