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第089話 「それではしばし、ごきげんよう」



「インディアンを効率良ーく殺す方法をご存じかしら?」

 時系列不明。
 坂口照星に振りかかった一つの出来事をここに記す。

 まず目覚めた彼の眼前に一人の女性が居たという所からそれは始まった。
 年の頃は20前後だろうか。肢体は細く優雅に椅子へ腰かけている。
 彼女は照星の覚醒を認めると白磁のティーカップから口を離し、静かな笑顔で今一度問い
かけた。傍らのテーブルにはソーサーがあり、そこにカップがカチリと小気味よく乗った。

「インディアンを効率良ーく殺す方法をご存じかしら?」

 その問いかけを照星が半ば無視したのは彼自身の置かれている状況にある。
 彼はシーツの匂いもまだ瑞々しいベッドに寝かされていたようだ。
 ただ不思議なコトに掛け布団は二枚あった。上にあるのはシーツを掛けられた薄手の羽毛
布団。だが下にあるのは……つまり照星に密着するよう敷かれているのは古びた毛布である。
 ひどく気だるい。熱が出ているようだ。毛布が熱く思えるのはせいか。
 熱に浮かされながらも彼の思考は少しずつまとまっていく。
(やはり……誘拐されたようです。一体どれだけの時間が経っているコトやら)
 ムーンフェイスを事情聴取するべく出向いた先で何者かの襲撃を受けた所までは覚えてい
る。いうまでもないが護衛の戦士が次々と倒されるのをただ見ていた照星ではない。
 錬金戦団最強の呼び名が高い身長57メートル、体重550トンの全身甲冑(フルプレートア
ーマー)の武装錬金を発動しようとした。
(しかしその瞬間──…)
 周囲の空間が歪んだ。
 切り取られた、というべきであろうか。光の直線が全身甲冑を取り囲むように何本も何本も
走り、やがて巨大な直方体を形成するや照星もバスターバロンも漆黒の空間に呑まれたので
ある。

「まさかあれだけの巨体をいとも簡単に無力化するとは……。大戦士長ともあろう者がとんだ
不覚を取りました」
 照星は上体を起こすと悠然とサングラスのノーズパッドに手を当てた。
 頭痛がする。腰痛もする。外傷によらざる体調不良特有のズキズキとした痛みが全身へと
広がっているような感じがする。
「バスターバロンのコトでしたらできて当然ですわよ。ウィルのインフィニティホープは一都市
まるっと覆えちゃいますもん。まあ、引き込まれた後に30分ほど抵抗できただけでも大した物。
ウィルがあそこまで手を焼いているのを見たのは彼の初体験以来久々よん」
「そして私を連れ去った……という訳ですね」
 サングラスのレンズが割れているのに気づいた照星はやれやれと微苦笑を浮かべた。
「どうやら傷は治っているようですが、道中大分キミのお仲間にいたぶられたコトは覚えてい
ます。まさかこの年齢(トシ)になって躾けられる立場になるとは思ってもみませんでした」
 まずは現状把握を優先した照星は、ひび割れた眼鏡越しに周囲を見渡した。
 洋風の木造建築。まるでログハウスの内部のような造りだ。暖炉があり白いテーブルクロス
を掛けられた一本足の机があり、その横に謎めいた女性が座る椅子がある。
 ドアの横の衣服掛けには愛用のコートと帽子が掛けられているがどちらも破れてほつれ、と
ころどころに黒く変色した血がまだらを描いている。
(まったく、今の私を火渡が見たら喜ぶでしょうね)
 平素聞き分けのない部下達を鉄拳制裁している照星が、かかる目に遭うのも皮肉だろう。
 体に傷はないが、消耗によって高熱が出ているらしい。少なくても照星自身はそう解釈した。
「あなた相当のサドみたいですわね。フツーの殿方なら『ここはどこ? お前たちは誰だ?』
なぁーんて涙声で問うところですケド」
 質問を無視された女だが、しかしさほど気分を害した様子でもなく、むしろ照星を気に入ったようだ。
 粘っこく媚びた視線を送り始めた。
「サドかどうかは分かりませんが、まがりなりにも戦団では戦闘部門の最高責任者ですからね。
ホムンクルスに拉致された程度で動じていては部下達に示しが付きません。大体、聞いたと
ころで部下達を殺した挙句に私をさらうような者たちが素直に答えるとは……とてもとても」
「おやん? ワタクシたちがホムンクルスだってどうしてご存じなのかしら? ひょっとしたらた
だの身代金目的の人間のテロリストかも知れませんわよ?」
「いいえ。それはありません。私は見ました。キミが片手に持った『何か』で私の部下達を軽々
と殴り殺していくのを。……流石の私でも火渡にああはできません。物理的にも精神的にも」
「ナルホド。物理的に強く精神的にエグいから断定しましたのね。ま、正解ですケド、呆気なさ
すぎてつまんないですわね。もっと焦らして焦らされるヨロコビを教えて差し上げたかったのに」
「それともう一つ。キミはただのホムンクルスではありませんね? 恐らくは調整体。それもDr.
バタフライが作ったような精度の低い物ではなく、複数の動植物の精神を制御できるタイプ。
100年前ならいざ知らず、今となっては文献でしかお目に掛かれない高度な調整体とみまし
たが……当たらずとも遠からずといったところでしょう」
 照星は初めて眼前の女性をじっと眺めた。
 うら若い外国の美女というところだろうか。
 肩の辺りで縦ロールにしたジンジャーの赤茶髪が印象的である。
 前髪はオールバック気味に跳ね上げ、白いヘアバンドで抑えている。良く見るとヘアバンドの
中央には赤い十字が、左端は黒い鞭のような飾りがそれぞれ付いている。
 それを除けば取り立てて奇矯な格好でもないところに照星は驚かされた。
 胸元が少し開いた黒いワイシャツの上に少々汚れの目立つ白衣を羽織り、灰色のタイトス
カートから覗くしなやかな足をストッキングで包んでいる所など、戦団の研究室を探せば一人
や二人はすぐにでも見つかりそうなファッションだ。靴も踵が太く低い黒革のプレーンパンプス
と実に飾り気がない。その癖彼女がきらめくような美貌を誇っているのは、生来の端正な顔つ
きにも拠るが、メイクの上手さがそれをより引き立たせているのだろう。化粧についてそこそこ
の造詣を持つ照星だからこそ不覚にも見とれかけた。そんな機微を察したのか女性は口紅で
赤くなった唇から象牙のように白い歯をくすくすと覗かせている。
 やがて吊りあがり気味で魅惑的なキツネ目がすぅっと笑みに細まった。
「そう。ワタクシは調整体。人間を基盤(ベース)にゴリラとカモシカの能力を移植されたタイプ
ですのよ。何しろワタクシの武装錬金ときたらまるで戦闘に不向きですから、腕引き千切って
ひたすら力を込めてブン殴るぐらいしかできませんの。素手で殴るとお肌荒れちゃいますし」
「だから直接的な攻撃力を高めるために、ゴリラの腕力とカモシカの脚力を用いている……そ
ういう訳ですね?」
「ええ。ところでワタクシの名前ですけど」
 女性は足を組み替え、照星は沈黙を経て言葉を紡いだ。
「グレイズィング=メディック。……思い出しました。確かキミの名はグレイズィング」
「まあ。覚えていて下さったのね! 光栄だわ!」
 女性──いや、グレイズィングはわざとらしく胸の前で手を組むと、透き通るような笑みを浮」
かべた。
「キミの武装錬金は随分特殊でしたからね。戦団でも自動人形の講習の際には必ず引き合
いに出させて頂いてます。あれだけ嬲られた私がいまこうして無傷なのも例の特性のせい……。
しかし確かキミは10年前死んだ筈では?」
「ええ。『人間型ホムンクルス』としてはね。まあその辺りの事情は後でイオイソゴかサブマシン
ガンオタクの無口ちゃんから聞いて下さいまし。とにかくワタクシ、階級は以前変わらずマレフィッ
クビーナスで毎日権限をカサに殺りたい放題犯りたい放題ですの♪ 充実したリョナライフで
お肌つやつや頭蓋ぐにゃぐにゃ。んふふ」
「……マレフィック、ですか。『凶星』を意味する肩書が未だ健在であり、イオイソゴも生き延びて
いるとなれば、私を誘拐させた黒幕は『彼』とみていい訳ですね?」
「そのとーりですわよ。おかげ様で10年前に天王星と海王星と冥王星、それから月の担当が
いなくなっちゃいましたけど、大部分は残ってますの。ちょぉっとばかり面子は変わっちゃいま
したけど、一人でそこらの共同体ぐらい楽勝でブッ潰せる粒揃いなのも相変わらず」
「そしてそのマレフィック達に私をどうさせるつもりですか?」
 サングラスの奥で端正な瞳が細まるのを認めたグレイズィングはおどけた。
「うふふ。安心して結構ですわよ? 何があろうとワタクシだけはあなたを治して差し上げます
から。だってぇ、これでも人間だった頃はちょっぴりHだけど優しく腕のいい女医さんでしたもん」
 グレイズィングは微笑しながら十数枚の写真をベッドの上にバラまいた。
「ま、戦団のお馬鹿さんたちがつまらないちょっかい出してくるまで限定でしたけど」
 照星の片眉が跳ね上がったのもむべなるかな。写真は酸鼻を極めている。
 顔面が陥没し目玉をどろりと流す戦士の死体。
 獣の爪で腹を抉られ、辛うじて皮一枚で上半身と下半身が繋がっている戦士の死体。
 腰を万力のような物でぐちゃぐちゃに潰れされた死体。
 明らかに毒物を注射されたとみえる疱瘡まみれの紫死体。
 その他ひどい物が5〜6体。
 いずれも照星を護衛していた戦士たちの成れの果てである。
「悪趣味ですね。復讐のつもりですか?」
「ノンノン♪ 単なる適応機制でしてよ」
 ぽっと桃色に染まった頬に両手を当てながら、グレイズィングは身をくねらせ始めた。
「ワタクシったら人を治してると壊したくなっちゃうんですもの! ああでもダメ! ワタクシはお
医者さん……! いけないのいけないの壊したりしちゃいけないの! なのに銅の腕を握り
締めた腕は動いちゃう。や、ダメ! そんなところ殴っちゃお脳が豆腐みたいにこぼれちゃう!
ダメ、ダメぇぇぇっ! とか葛藤して喘ぎ喘ぎ戦士さんブチ殺すのって実にふしだら。ワタクシっ
ていけない女医さん。ああ、いけない女医さんって響きもまた甘美でス・テ・キ。ん……ああっ」
 絹を裂くような甘い声が部屋に響き渡る中、照星は何も感じていないような表情で写真を一
か所にまとめ握りつぶした。
「で、でもワタクシ、マグロじゃありませんわよ! 感度の良さには定評ありますし拙くてもイケ
ますの! 演技とかしたコトありませんもん! どんな愛撫だって高まってあげるのが殿方へ
の礼儀だって信じてますもの! でしょ? でしょ? 真実の愛ってそういうモノでしょ!?」
「キミがそう信じたければ信じなさい。ただし私は決してキミが人を愛するコトは認めません」
「でででもワタクシ病気とか持ってませんわよ? そこはちゃんと毎週チェックして治してますの」
 戸惑ったような申し訳なさそうな顔で弁解するグレイズィングである。
「…………」
 照星は黙り込んだ。もし火渡がこの場に居れば火炎同化でも何でもして即刻この場を立ち
去るかも知れない。普段優しげな表情は粛然と引き締まり恐ろしげな気配を漂わせている。
 気配を察した赤茶髪の元女医はぺろりと舌を出した。
「やーん。いいすぎちゃった。睦言もほどほどにしないと冷静気取りのウィルに怒られちゃう。
ちなみにウィルが上手いのは部屋のセッティングだけ☆ 生身のプレイは前→後→前の天丼
ばっかでつまんなーい♪ 親子丼やろうにもウィルは親ブチ殺してるから無理ですし。んふふ」
 ぱしっと小気味よい音を左拳に立てながら、グレイズィングは艶然と照星を見返した。
 彼の拳はグレイズィングの手中にある。つまり殴りかかったが呆気なく受け止められている
という訳である。流石の照星も浅くため息をつき、サングラスに手をやった。
「核鉄だけは没収しているようですね」
「有ったとしても果たして勝てるかしらん? ワタクシはともかく……『水星』や『太陽』に」
 断わっておくが照星の拳が弱いという訳ではない。むしろ火渡赤馬や武藤カズキといった戦
士でさえ反撃不能になるまで叩き伏せられる程度には強い。だがグレイズィングは平然とそれ
を受け止めたままゆっくりと身を乗り出した。照星の拳はぴくりとも動かない。それを握る拳は
ホムンクルスの高出力を超えた高出力を発揮しているようだった。みるみると細腕が肥大し、
うらぶれた白衣越しでさえ野太い血管や筋肉の隆起が見えた。にも拘わらず着衣は破れず、
拳を握っていない右腕は柳のごときしなやかさで照星の髪を優しげに撫でている。
「強い殿方は……好きですわよ」
 うっとりとした調子で囁きながらグレイズィングは照星の唇に自らのそれを当てた。
 そしてすぐに口紅より真赤な液体を口からぼとぼととこぼしながら、くすぐったそうに顔を離し
て照れくさそうに笑った。
「やぁん。舌挿れたら咬み切られちゃったあ」
 唾棄とは正に照星の行動をいうのだろう。彼は血まみれの肉塊とも金属部品ともつかぬ物
体を丸めた写真めがけてべっと吐き出した。血がその表面を伝い、真新しい純白のシーツが
赤く汚れていく。下の毛布さえ汚れていくような気がした。
「その程度の傷、私の部下達に比べれば些細な物でしょう。それでも気に入らなければあな
たの武装錬金でさっさと治してみせたらどうです? 別に私は止めません」
 汚物にするような手つきで唇を拭った照星に、グレイズィングはニンマリ笑った。
 瞳には怒りも屈辱もない。ただただ更なる汚辱を期待する光が蕩け波打ち、甘い吐息を早
めているだけである。肥大した腕がしぼみ、指が愛おしげに口の中をかき回す。
「衛生兵の武装錬金・ハズオブラブですわね。んふふ。通称は『愛のため息』! メルス……
おっと失言かしらん。ど・な・た・様・かの! クローンな金髪コピー剣士さんにパクられちゃい
ましたけど、ワタクシのは本家本元だけに高・性・能!」
 言葉とともにまるで人間のような武装錬金が彼女の傍らに現れいでた。
 一言でいうなら丈の短いスカートを履いた気弱そうなナースである。その腕がグレイズィング
の口に伸びるとたちまちに舌が再生した。と照星が認めれたのは彼女が口をあんぐりと開けて
見せつけていたせいである。
「どなたでも何度でも怪我を治療できますし、病気だって治せちゃう! ワクチンだって作れま
すし点滴その他各種薬剤も調合可能! 5年前に欠けた歯も10年前に失くした膝の軟骨も
再生できる治せちゃう! そ・の・う・え! 死後24時間以内なら蘇生だってできますの! 災
害現場で黒いトリアージを見てしょんぼりするコトなどワタクシには皆無!」
 ハズオブラブの腕は照星にも伸びた。
「だって助けられない方々いたら楽しく顔面叩き潰して回りますもん。苦痛を終わらして差し上
げるのもワタクシの社会的責任ですし♪」
 照星は身じろぎもせず身体の異変を受け入れた。
(歯を治したようですね)
 ホムンクルスの舌を噛み切るという暴挙によって損壊したエメナル質や象牙質がすっかり治
癒しているのは屈辱以外の何物でもない。
 同時に照星は全身を貫く悪寒に思わず身を丸めた。
(……どういうコトです?)
 疑問が浮かぶ。
(どうして彼女はこの体調不良だけ残しているのです? ただの嫌がらせ? それとも──…)
「こんな感じで今からあなたを治して差し上げますわよ。来たのはその御挨拶」
 グレイズィングの背後でドアが開いた。
「そう。治して差し上げますわよ。ちょうどマレフィックの方々が御到着されましたし」
 照星は見た。ぞろぞろと入室する様々な男女の影を。
 ますます高くなる熱のせいで視界が眩みはっきりとは見えなかったが、小柄な影が居れば両
手にサブマシンガンを握る少女らしきシルエットも居た。中肉中背も居れば背の高い者もいる。
かと思えば人間とは思えぬ異形の造詣もそこに佇み──…月のような顔を抱く男も居た。
(おやおや。何ともひどいコトになりそうだね)
 ムーンフェイスがため息をつくほどに男女の影は隠しようもない殺気と妖気を漂わせ、じっと
照星を睨んでいる。しかもムーンフェイスの見るところ、ドアの外にはまだそういう者がいるらし
い。闇に紛れて数は分からない。同質の負の感情が混ざって溶けあい数人かはたまた数百人
かと思えるほどに異様な気配が充満している。
 腐臭と血膿と錆の香りがたっぷり乗った魔風さえドアから流れ込む中、グレイズィングは歌
うように笑いだした。

「そう。腕が切断されようと」

「顔面が溶かされ失明しても」

「煮えたぎる鉄を飲まされよーと」

「肋骨がぜーんぶ折れて肺挫傷をきたそうと」

「背中が蜂の巣になって骨ごと脊髄が食い破られても」

「ちゃんと治して差し上げますから頑張って下さいね! ワタクシも頑張って必ず快方に向か
わせて差し上げますからね! どんな拷問されてもちゃんと助かりますから、諦めないで!!
あはは。あははは!! あはははははは!!!」
 端正な美貌は言葉を発するたびにだらしなく歪んでいき、笑い声はやがて快美に噎び泣くよ
うな喘ぎを交え出す。
 やがてグレイズィングは涎をまき散らしながら目を剥いた。
 照星が顔を背けずにはいられないほどの見苦しい言葉が更に幾つも飛び出し、聞くに堪え
ぬ淫らな声が響き渡る。影達からも侮蔑の視線が仄かに漂う。
 やがて沈静したグレイズィング、銅の髪の螺旋の果てをくっと噛みしめ肩震わせつつ息も絶
え絶えに囁いた。
「あぁん……。気持ちイイ……。そ、そうそう。舌を噛み切って自害しても無駄……ですから。
さっきもいいましたけど、死後24時間以内なら、蘇生、させれますのよ……ワタクシ」
 豊かな肢体はビクビクと痙攣をし、今にも何事かが再燃しそうな勢いがある。
「だってえ、10年前の恨みもそれ以前の恨みも、今さらあなたの自害なんかで晴れそうにな
いですもん。やっぱり死んだ人より生きた人にこそリビドーをブッかけるべきですもの。エロい
事もグロい事も相手の歪んだ顔とかうめき声とかケイレンありき……! 反応あってこそ歓び
を味わえるのですわよ! プレゼントした時のくすぐったそうな顔とかいいでしょ? ワタクシに
とって苦痛がそれっていうだけだからちっともおかしくありませんわよね! ええ、ワタクシは正
常! 精神も健康状態も体位も正常が大好きな女医さん! あははははははっ!!!」
 椅子から立ち上がったグレイズィングの足がもつれた。自ら想像する快美によって脱力した
らしい。彼女はそのまま傍らのテーブルを巻きこみつつ転んだ。机上のカップやソーサーが派
手な音を立てて割れ砕ける中、彼女自身もまた床に顔面を打ちつけた。
 無様としかいいようがない。
 にも関わらずグレイズィングは床に伏したまま顔だけを前に向けると、鼻腔から垂れる血液
を拭おうともせず笑い始めた。いったい何がおかしいのかケタケタと哄笑を上げた。
 自動人形は創造者の一面を映すという。ならば彼女を抱き起しにかかった衛生兵はわずか
に残る理性の証だろうか? 軽い戦慄とともに照星が推測する中、ハズオブラブは鼻の粘膜
を治療した。
「……クス。死体相手はナンセンス。お相手の葛藤とかタブーとか尊厳をブチ壊してこそ楽しい
んですもの。命はそれの源だから、簡単に切り捨てちゃ勿体ないから……癒しますのよ。命あ
る限り癒して癒して癒し続けますの。たまに死んじゃったり精神ブッ壊れて死体以下のクズに
なる方もいますけど、あなたは楽しませてくれそうだから久々にドキドキしてますわ」
 ハズオブラブに肩を貸されたグレイズィングがドアに向かう。
 手の甲で鼻血を拭った彼女は恍惚とそれを眺め……
「あ、そうそう。さっきいったインディアンを効率良ーく殺す方法ですけど」
 息を荒げながらむしゃぶり付くように舐めはじめた。
 しばし部屋には耳をふさぎたくなる水音が響き──…
「1763年のポンティアック戦争ですわよ。インディアンに包囲されたイギリス軍士官が素敵な
素敵なプレゼントを送って包囲網を突破しようとしましたの」
 照星の頬に1cmほどの隆起が生まれた。
 白い豆を張り付けたような膨らみだ。照星が思わず手を伸ばしてそれを触る頃には、周囲の
真皮が次から次へと肥厚してボツボツとした豆状の丘疹(きゅうしん)を形成し、頬一面から顔
面、そして首筋から全身へと広がっていく。

「そう。天然痘ウイルスのたっぷり染み込んだ毛布をね」

 人類が初めて撲滅した感染症。それが照星の全身をいま蝕み始めている。
「お喋りしたのはコレを待つための時間稼ぎですの。ワタクシ拷問が趣味の一つですから、ちょっ
と天然痘ウイルスをイジくってみましたのよ。良かったですわね。人類最後の感染者になれる
かも知れませんわよ?」
 照星は理解した。二枚目の掛け布団が毛布だった意味も自分を蝕んでいた高熱や頭痛の意
味もグレイズィングがそれらを治さなかった意味も。
「まあ、実際はせいぜい数百人殺した程度ってお話ですし、それ以前からも天然痘は流行し
ていたようですけれど……素敵じゃないかしら? 自分たちが侵略しておいて反撃されたら
天然痘で都合よく一方的に相手を殺そうってその態度。まるで貴方たち錬金戦団みたいじゃ
なくて? 弱いくせに利益を貪ろうと他の方へ手を出して、反撃喰らって壊滅しそうになったら
卑劣な手段で揺さぶりにかかる。だからコレから色々と素敵な目にあっちゃう。インディアンを
殺した白人がしばらく梅毒に苦しんだように……楽しい楽しい時間がもうすぐ始まりますの」
 ハズオブラブを消したグレイズィングが、多くの影をすり抜けドアの外に出た。

 ……どこからか、刀が床を突き刺すような音がした。
 
 何故照星が『刀』をその音に関連付けたかは分からない。
 ただそれを合図にグレイズィングがパンプスの踵を軸にくるりと振り返り、ウィンクしつつノブ
に手を当てた。

「それではしばし、ごきげんよう」

 ドアがゆっくりと閉じられ──… 
 呼吸困難に苦しむ坂口照星目がけ影達がゆっくりと歩き出した。

                                                   第一章 完


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