インデックスへ
第090〜099話へ
前へ 次へ
第090話 「まひろと秋水、悩む」
「秋水先輩、空気ってどう読めばいいのかなあ?」 
「君はいきなり何をいっているんだ?」 
 ゆらっと扉を開けてしょんぼり佇んでいる。 
 秋水の病室へやってきたまひろは正にそんな状態だった。 
 幽鬼のごとく部屋に入るなり、閉じたての扉の前で一歩も動かず秋水を眺めている。 
 グっと太眉の下がった困惑満面はもはや見慣れた感がある。何かといえばこの顔だ。.しかしどうであろうこの眉毛の明瞭 
さは。古来「目は口ほどに物をいう」というが、まひろの場合「眉毛は目ほどに物をいう」のかも知れない。 
(というか、そういう話の切り出し方は困る) 
 病室へ見舞いにくるなり「空気ってどう読めばいいのかなあ?」は如何なものか。質問それ自体がすでに空気を読めてお 
らぬ。ヴィクトリアがこの場にいれば「いきなりそういう質問をしなければいいのよ」と冷笑混じりに茶化すだろう。秋水はた 
だただ物言いたげにまひろを眺めるだけだが、心情としてはヴィクトリアとあまり変わりがない。 
──9月7日。夕方の一幕である。 
 秋水が総角主税を下してから数日。目下まひろは彼を見舞うのが日課となっている。 
 で、今日もやってきたと思ったら開口一番空気の読み方を聞いてきた。 
(マイペースだなこのコは) 
 ベッドサイドテーブルにズラリと置かれたハンバーガー類(いうまでもなくロッテリやの物である。病院食では物足りないだ 
ろうというコトで毎日まひろが買ってきてくれている)を眺めながら、秋水は嘆息した。 
 ベッドの傍でまひろは慌ただしくポテトを食べている。聞けば空気の読み方を考えるのに必死で朝から何も食べていなかっ 
たらしい。勢いたるや凄まじい。瞬く間にLサイズのポテトが空になり、チーズハンバーガーが一口で呑まれ、ロースカツバー 
ガーがさくりと食い破られる。まるで絶食三日目の子犬がドッグフードを見つけたような有様だ。咀嚼のたび「まぐまぐ……がっ 
がっが」と名状しがたい声が漏れるのはまだいい方で、声と共にパンくずや肉片がぽろぽろとこぼれていく様は秋水に軽い 
頭痛を覚えさせた。後で誰が床を掃除するというのか。掃除しきれぬ場合誰が医師や看護士に怒られるというのか。悩む
間にもまひろの口周りはケチャップやソースなどの混合液でベタベタになっていく。しかし毎日ハンバーガーを買ってきて貰っ 
ている立場上、あまり強く礼儀作法を注意できぬ秋水でもある。難しげに眼をつぶると、ごくごくつまらないありきたりの言葉 
を差し向けた。 
「もうちょっと噛んで食べた方が……」 
「ぶぐっ! げほ! げほ!」 
 遅かった。異常な音に目を開くと、涙目で必死に胸を叩くまひろが飛び込んできた。一気呵成にかきこんだ様々な食べ物 
が咽喉に詰まったのは明白すぎるほど明白である。 
「……慌てて食べるからだ」 
 やれやれと秋水はコーラのカップを差し出した。透明な蓋の奥で揺れる黒い水面が魅惑的に映ったのだろう。汚れた唇は 
迷いなくストローを咥え込み勢いよく吸い出した。 
「あ、ありがとー」 
 まだちょっと苦しそうに喘ぐまひろの口を拭きながら、秋水は暗澹たる思いになりかけていた。 
(こういうのは苦手なのだが) 
 本当はまひろ自身に拭いて貰いたくてペーパーナプキンを差し出した。だがまひろの手は一連の食事によってベタベタに 
汚れきっていた。その状態で拭けば却って口周りが汚れかねぬほど汚れていた。「お、お手洗いで洗ってくるから!」という 
提案も飛び出したが、それを飲めばまひろは口周りをソースで汚しきっただらしない姿を様々な人間に見られる羽目になる。 
それを見逃せる秋水ではない。結局拭く羽目になった。 
「……えーと」 
 秋水の手が離れると、まひろは軽く俯いた。異性に口を拭かれるのはやはり照れ臭かったのだろう。 
「ハンバーガーの包み入れてた袋でまず私の手を拭いてから、口拭けば良かったね……」 
「…………そうだな」 
 全身が情けない脱力感に支配されるのをありありと実感しながら、まひろの指さす袋へナプキンを放り込んだ。 
「あ、ゴメン! ちょっとだけ部屋を出るね」 
 まひろは何故か突然立ち上がって大慌てで退室した。と思ったら一分も経たぬうちに戻ってきたからまったくワケが分か 
らない。 
 再び着座したまひろは気恥しそうに秋水の瞳をじーっと覗きこんだ。見られた方は訳が分からない。疑問符を視線に乗せ 
て投げかけると、彼女は観念したように肩を震わせ呟いた。目線はすっかり下を向いている。 
「ほら、コーラって炭酸でしょ? だからその、一気に飲んだりしたら、……炭酸が、ね」 
 柔らかな頬が桜色に染まるのを見て秋水はようやく退室の理由を知った。同時に「だがあの食事の仕方は見られても良 
かったのか?」という疑問も浮かんだが、異性に見られたくない一線の基準は人それぞれ。あまり追及するのも無礼だろう。 
 よって秋水は曖昧な表情を浮かべつつ話題を変えた。 
「で、どうして君は空気の読み方を俺に聞いたんだ?」 
 どんぐり眼が心底不思議そうに瞬いた。 
「空気……? 何のコト?」 
 少し泣きたい気分で秋水は五分ばかりまひろを説得した。苦労の甲斐あって記憶は取り戻された。 
「色々ごめん。でね、空気の読み方を気にしたのは。びっきーを、たこに似ているっていっちゃったせいで……」 
「……たこ?」 
 はて、と秋水は首を捻った。 
 少なくても戦団から聞く限り、ヴィクトリアは人間型ホムンクルスである。肉体的にはたこと共通する部分はない。 
 容貌も目鼻立ちの整った欧州少女という態だ。上部丸く足禍々しい悪魔の魚とは似ても似つかわない。 
「変な話なんだけど、ほら、びっきーの髪って筒で幾つかに分かれてるでしょ?」 
 秋水が自らの眉毛をツルリと撫でたのは、まひろのごとき変化をそこに求めたからである。もっとも表情硬き男であるか 
ら何もない。ないが、そういう動作をついつい行ってしまうほどに感情は揺れていた。 
 声音を静かに震わせながら、秋水は自分の「気付き」を述べた。 
「まさかあれが足なのか。君はあれを足に見立てたのか」 
「うん。そう」 
 消え入りそうな声で呟くと、まひろは頭を抱えて呻いた。 
「悪気はなかったんだよ。でもびっきーを怒らせちゃって」 
 どうも昨夜の他愛もない雑談が原因らしい。 
 まひろたち四人で茶菓子食べつつだべっていたら誰かがヴィクトリアの髪について触れた。そして話題を独占した。 
 当初こそ髪質の綺麗さや色に感嘆を漏らす品評会だったのだが、沙織やまひろのような子供っぽい少女二人が居ては 
たまらない。段々と髪型について下世話な例えが飛び出すようになってしまった。 
 曰くカニカマ。 
 曰く毛筆。 
 当初こそ容貌について褒めたたえられ自尊心を大いに満たされていたヴィクトリアが段々と表情を曇らせていく様を秋水 
は想像し、丹田から大きくため息をついた。 
(彼女は普段こそ繕っているが本性はひどく気難しい) 
 で、まひろがポロっと「たこにも似てるよね」といった辺りで──… 
「空気が凍りついちゃったの」 
(それも当然だろうな) 
「後でちーちんやさーちゃんから『空気読め』って」 
(もっともな話だ。いくらなんでもたこはないだろう) 
 女性の自尊心を傷つける事がいかに恐ろしいか秋水は知っている。小声で「腹が黒いなあ」といっただけでも桜花は冷然 
と問い詰めてくる。(女性にとって吐いた言葉が事実か否かは重要ではない。自尊心を傷つけたか否かなのだ。その失地を 
回復せぬ限り彼女たちはいつまでもいつまでも追い続けてくる) 
 理性的な姉でさえそうなのだ。毒舌少女に同じコトをすればどうなるか──剣気への反応とは異質の鳥肌が背筋に芽吹 
くのを秋水は禁じえない。 
 大方まひろの想像世界の中では、髪に吸盤生やした生首ヴィクトリアが歌って踊っていたのだろう。 
 で、それをまひろ自身は愉快で楽しい光景だと思ったから口に上らせた。だがヴィクトリアにそういう愉快な想像の背景な 
ど伝わるはずもない。浮かぶのはごく一般的なたこの姿だ。よって侮蔑と受け取った。千里や沙織が慌ててまひろを制した 
のも同じ理由である。 
「も! もちろん謝ったよ! びっきーも後で許してくれたけど」 
 ヴィクトリアの自室。ベッドに腰かける部屋の主はすでに何十年もここで暮らしているような貫禄さえあったという。 
 なおこの時そこへ訪れたのはまひろ一人だったため、ヴィクトリアは本来の口調でのびのびと話すコトができた。ある意味 
では気心を許しているといえなくもない。 
 それが証拠か、直立不動で深々と頭を下げるまひろを見る目にはさほどの怒りも籠っていない。 
「別にいいわよ。年下のアナタのいうコトにいちいち怒るのもみっともないから許してあげる。ええ。……それにしても年下の 
癖にいちいちいちいち言ってくれるじゃない本当に」 
「やっぱり怒ってる? ごめんね。本っっっ当にごめんね。でもねでもね! びっきーが可愛くないとかそういうんじゃないん 
だよ! むしろ可愛いよ!」 
「アナタのコトじゃないわよ」 
 半月が欠けるように瞳を細めたヴィクトリアから黒いモヤが漂い始めたが、しかし悲しいかな。ひとたびスイッチが入った 
まひろはそういう「空気」をまるで読めぬ。ただただ指折ってヴィクトリアのいい所を熱弁するのに夢中である。 
「まずスベスベでしょ?」 
「いま私は機嫌が悪いの」 
「それからお人形さんみたいでしょ?」 
「いいから黙って」 
斗貴子さんとお揃いの服なのもポイント高……はっ」 
「…………」 
 やっと気づいた時にはもう遅い。気難しく歪み切った瞳がまひろを上目遣いでじっとりとねめつけている。 
「ゴメン。……ついたこさんの足を想像しちゃって」 
 大慌てて三指開き直して伏し拝むが、物騒な気配はしばらく立ち去りそうにない。 
「本当鬱陶しいコね。それ位分かってるわよ。アナタは空気読めないけど毒を吐けるほど賢くないでしょ? それこそたこの 
ように墨吐いてる方がお似合いよ」 
 ふと見ればまひろは土下座していた。ヴィクトリアは一瞬「別にそこまでしなくても」といかけたが、すぐにニタリと冷笑を 
浮かべた。そして組んでいた白い足を緩やかに解くと、まひろの肩を軽く踏み、ぐりぐりと嬲り始めた。この時ヴィクトリアは 
得体の知れぬ快感と陶酔感が生命開闢以来初めて全身を駆け巡るのを感じた。これが髪を侮辱した相手かと笑いだした 
い気分である。 
「ほらほら。早く土下座をやめた方が身のためよ。いくらアナタでも踏まれるのは屈辱でしょ?」 
 小悪魔の笑みを湛えたまま栗毛を指でかき分け一段と強く押しこむ。まひろの細い肢体が軽く震えるのが伝わり、それは 
果てしのない満足感をもたらした。やがて黒い靴下に包まれたつま先にコリコリとした肩肉が打ち当り、ひどく攻撃的でとろ 
けそうな気分を誘発する。半開きの口から甘い吐息が漏れ、ヴィクトリアは思わず生唾を嚥下した。知らず知らずに身を乗 
り出してもいた。そして足の親指に力が籠り、見た目より硬い肩を指圧する。 
 一方のまひろもまた得体の知れぬ快感と陶酔感が肩から広がるのを感じていた。もっともこちらはヴィクトリアのごとき倒 
錯感とはほど遠く、ただただしなやかなつま先に肩を揉みほぐされる心地よさに浸っていただけである。要するにまひろが 
ヴィクトリアの足に抱く感想は犬猫程度のそれである。犬猫は親しい人間に踏まれど怒らない。痛くなければ怒らない。飼 
い馴らされ哀れなほどに純粋な彼らは、例え踏まれてもスキンシップの一環と捉えて喜ぶのである。 
「あ。そこ。そこ気持ちいい……」 
 やがてまひろはほやーとした声さえ漏らし始めた。 
(…………何なのよこのコ) 
 汚物を見るような目つきをヴィクトリアがしたのも無理はない。まひろの肢体からはみるみると力が抜けていく。本当に言 
葉通りなのだろう。それもやはり精神的倒錯な意味ではなく、整体院でコリをほぐされる的な意味で。 
「ア、アナタの方がたこじゃない。のらりくらりとして捉えられ──…、ああもう。踏むのも馬鹿馬鹿しいわ」 
 足を離しつつ出た言葉は何とも負け惜しみすぎていて、ヴィクトリアは却って敗北感を覚えた。康一君を刺し貫いた吉良 
のような気分だ。 
「え? もうやめちゃうの……? 気持ち良かったのに」 
 身を起こしたまひろの顔はうっとりと歪んでいる。仄かな紅さえ頬に差している。とろとろと潤んだ瞳は再びの足踏みを希う 
がごとく上目遣いにヴィクトリアを見る。スパンキングに親しんだ猫がその中断に喘ぐような表情だ。 
「する訳ないでしょ! さっきのは仕返しなのよ!? なのにアナタをヨロコバしたら意味ないじゃない!!」 
 悲鳴にも似た叫びを上げるとヴィクトリアはぜえぜえと息を吐いた。 
(もう嫌。このコと話してるとペースが狂うわ。誰か助けて……) 
 天下のヴィクトリアをこうまで崩せるのはまひろぐらいであろう。斗貴子でさえ彼女と絡むとグダグダなのだ。 
「そんなあ」 
「そんなあ、じゃないわよ」 
 ヴィクトリアは必死に自分を取り戻す努力をした。その結果、小柄ながらに身を斬りそうな冷気を放てた。そうよそれこそ 
私とばかり冷笑をたたえ、懸命に皮肉な調子を並べ立てる。はた目から見れば滑稽な努力であるが、当人にとっては自分 
を保てるか否かの死活問題なのだ。 
「もう黙って。許してあげるから今日は帰って」 
「あ! ありがとうびっきー!」 
 まひろが感激の赴くまま飛びかかったのは、皮肉を解するほど賢くないためであろう。 
 果たしてヴィクトリアはベッドに押し倒される格好になった。 
 悲鳴こそ耐えたが瞳孔は驚愕に大きく見開いた。やがて事態を把握すると、まひろの体の下でいやいやをするように首 
を振った。 
 もちろん物理的にいえばそうする必要はないのである。ホムンクルスの高出力を以てすれば体重49kgのまひろなど簡 
単に跳ねのけられるであろう。しかしまひろに飛びかかられた瞬間に別の思案がよぎりもした。──反射的に振りはらえば 
怪我をさせかねない、と。ヴィクトリアは理性的なのである。彼女なりに空気を読んだつもりなのである。まひろはやり辛い 
相手だが別に傷つけたいほど憎悪もしておらぬのだ。だが皮肉にもそういう配慮や逡巡のせいで組み敷かれる羽目になっ 
た。ミニスカートから覗く細足の間にまひろの膝が割り入っている。栗色の髪が緑のヘアバンチに垂れてわだかまっている。 
柔らかな肉の膨らみがヴィクトリアの薄いそこを押しつぶしている。ベッドのスプリングが軋みシーツの皺が深くなり、その 
上でヴィクトリアの右掌がまひろの左掌に絡め取られる。そして鼻先さえひっつきそうな距離で屈託なく笑うまひろが居て、 
ヴィクトリアは狼狽を露骨に浮かべながら顔を背けた。まったく自分とは正反対の笑顔。かつては嫌悪しつつどこかで憧憬 
を覚えていた笑顔。直視するのは気恥しい。取り戻した筈の自分などとっくに吹っ飛ばされている。 
「く……空気を読んでちょうだい。じゃないと本当に……頭かじるわよ…………?」 
 頼んでいるのか脅しているのか判然とせぬ口調だ。言葉自体もしどろもどろとしていて泥のよう。恥辱に赤らむ顔をきゅっ 
と歪めながら、それでもヴィクトリアは懸命にまひろを睨みつけた。この場合、睨むコトでしか抵抗の意思を見せられぬように 
思えた。 
 果たしてまひろはがばと身を起してヴィクトリアを解放した。 
「あ……。ゴメンね。また空気が読めなくて」 
 彼女の抵抗を純粋な羞恥として読み取ったのだろう。まひろはペコペコと頭を下げた。 
「…………」 
 そうされたらそうされたで何だか腹立たしいヴィクトリアである。身を起して服装の乱れを直す間もいいようのない苛立ちが 
込み上げてくる。 
 そしてまひろが立ち去った後、ヴィクトリアはむっつりと黙り込み、 
(…………スベスベで人形みたいで可愛い? フン。アナタなんかにいわれても嬉しくないわよ) 
 うんうんと二度三度頷いてから千里の部屋へ行ってトランプをして、それから寝た。 
 とにかくまひろはヴィクトリアとの一件以来、「空気の読み方」というのをずっと考えているという。 
「事情は大体分かったが」 
 秋水は腕を揉みねじりながら難しい顔をした。 
 彼の見るところまひろは、真剣な会話の場であれば常人以上に他者を慮るコトができる。 
 つまり生来まったく自己中心的という訳ではない。むしろ他人思いといえるだろう。 
 ただし平素の生活に限っては突拍子もない言動があまりに多い。それは常人と異なりすぎる思考回路を持っているせい 
だ。性質が底抜けに明るく非常に能動的なため、思いつきをすぐ行動に移してしまうのだ。「空気を読めぬ」といわれる所 
以はその辺りにあるのではないか? 
 とまで見当をつけた秋水だが、そこから的確なアドバイスを引き出せるかといえばはなはだ心許ない。そういった人間的 
な機微において助言できるほど世界に親しんでいるかといえば否なのだ。 
 というコトを伝えると、まひろは「そうかなぁ?」と首を捻った。そのひどくあどけない仕草に秋水はついつい釣り込まれて 
「そうだ」と微苦笑を浮かべてしまった。しかし内心はどうであろう。春風に似た和やかな空気がすうっと吹き抜けていく思い 
である。 
「ほら! 剣道って相手の人の心を読んで色々するんでしょ? なら秋水先輩から何か聞けないかなーって思って」 
(本当に君の感情は眉毛に出るんだな) 
 身を乗り出して息せくように喋るまひろの眉毛は見事な逆ハの字である。ググっといかるそれは正に確信の証。秋水を信 
じ切っている様子が見て取れた。こういう分かりやすさはまひろの得な所である。純粋ゆえにすぐ他人を信頼し、かつそれ 
がダイレクトに表情に出る。ヴィクトリアが何だかんだといいながらまひろと絶交してないのもそういう気質のせいだろう。 
「剣道か」 
 二、三分ほど考え込むと、秋水はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。 
「剣道には”ニオイ”という概念がある。君がいっているのはそれだろうな」 
「ニオイ?」 
 鼻をくんくんとひくつかせる仕草もまた見ていて飽きない物である。もしかするとそういう仕草が見たいがために情報を小 
出しにしたのかも知れない。秋水はちょっとだけそんなコトを思った。 
「じゃあ剣道やってる人ってみんな犬さんみたいに鼻がいいの?」 
「いや、すまない。言葉が足りなかった」 
 秋水は慌てて頬を引き締めた。心底不思議そうなまひろを見ている内、らしくもなく表情が緩みかけているような気がし 
たのだ。 
「普通の”臭い”とは違う。カタカナで”ニオイ”と書く。”気配”の方が字としては正しいかも知れない」 
「気配……」 
「ああ。試合にしろ実戦にしろ、相手の気持ちは場面場面で移り変わっていく。”ニオイを読む”というのはそういう気持ちの 
移り変わりを読む事をいう」 
 話題が剣道にシフトしたせいか、秋水の声音は粛然としながらどこか熱気を帯びている。 
 まひろはそんな口調に引き込まれたらしく、眉毛を興味深そうに吊り上げじっと秋水を注視している。 
「例えば……君が俺と剣道で戦う事になったらどうする? どういう気持ちになる?」 
 突拍子もない話題にまひろは比喩ではなく飛びあがった。パイプ椅子から腰を打ち上げて目を白黒させると、両手をじた 
ばたと振った。 
「どうって……そりゃあもう怖くて怖くて逃げたいと思うよ。だってお兄ちゃんだって敵わなかった訳だし」 
「ならこうしよう。俺は何も反撃をしない。代わりに君は思いっきり打ちこんできていい」 
「え。いいの?」 
「体育の練習だと思えばいい。第一、打たれるのも修練の内だ」 
「あ、練習だったら一生懸命やるよ私!」 
「つまり君の気持ちは、『怯え』から『攻め』に変わった訳だ」 
「うん。秋水先輩に逆胴とかやられる心配がなくなったから、安心してお面とか打てるよね」 
「だがもしその途中で俺が竹刀を振りかざしたら、きっと君は動揺する筈だ」 
「ダ! ダメだよ! 痛いのは嫌だよ! お兄ちゃんだって逆胴喰らった後燃え尽きたんだよ!」 
「というように君の感情は移り変わる。繰り返すが”ニオイ”を読むという事はそういう事だ。『怯え』から『攻め』に転じ、さら 
に『動揺』した君の感情を読んで初めて、”ニオイ”を読んだといえるんだ」 
 鈍いように見えてなかなか察しのいいまひろである。少し勘案したのちすぐさま満面の笑みを浮かべた。 
「そういうコト?」 
「そういうコトだ。要するに人は、攻撃が当てられそうな時は強気になり、逆に攻撃されそうな時は弱気になる。自分の攻撃 
が当たらない時は焦りも生じる。攻撃の手を一旦休めて様子見に回る事もある。とにかく、試合や実戦ではそういった様々 
な心理が目まぐるく動く」 
 長広舌を振るったせいか口中微かに乾いている。秋水は大きく息を吐くと、卓上のウーロン茶を啜った。 
「だからある程度上達した者であれば、相手の”ニオイ”を読み、適切な動きを取っていく事が重要になってくる。もっともた 
だ読むだけでも不十分だ。こちらから”ニオイ”を変えるよう働きかける必要もある」 
「なるほど。剣士さんたちにとって相手の人の心って大事なんだね」 
 うんうんと頷きつつ、いつの間にかメモを取ってるまひろである。 
「あ、でもどうして心の動きが分かるのかなー? 剣道ってお面つけてるでしょ? だったら表情とか見えないんじゃ……?」 
 秋水は顔をちょっと曇らせた。「お面」はないと思ったのである。しかし些事でもあるため黙殺した。 
「強いていうなら相手の雰囲気だ。こればかりは実際にやってみないと分からないが、見れば相手が何を思っているかは 
だいたい見当がつく。それに──…」 
「それに?」 
 栗色の髪を揺らしながら、まひろはひょいと身を乗り出した。瞳にはどういう面白い話を聞かせて貰えるかという期待感が 
満ちている。 
(弱ったな……。説明するには少々血生臭い例を引き合いに出さないといけないのだが) 
 秋水は悩んだが、まひろの期待を裏切るのも申し訳ない気がした。 
「何というか、その、じょ、定石というのが剣道にはある」  
 珍しく声が上ずったのは、考えをまとめながら喋る事にしたせいである。しかしどうもそういう会話の仕方は落ち着かない。 
ゆらい生真面目なため、吟味なき言葉を上らせるのは抵抗があるのだ。 
「大抵の場合、相手はその定石に則って仕掛けてくる。逆にいえば自分を取り巻く状況さえ正しく把握できているなら、次に 
相手がどういう定石で攻めてくるか予測できる」 
「うーんと。良く分からないけどつまり……」 
 童顔めいたOLの顔がしばし悩ましく引きつった後、おずおずと回答をのぼらせた。 
「相手の人の”定石使うぞー!”っていう”ニオイ”をいろいろ考えて見抜いちゃうってコトかなぁ?」 
「そういうコトになる」 
 ほっと秋水は吐胸を撫で下ろした。血生臭い話題を出さずに済んだようだ。 
 かつて総角との剣戟において巻き落としを防ぎきったのはまさに「相手の人の”定石使うぞー!”っていう”ニオイ”をいろ 
いろ考えて見抜いちゃう」好例であっただろう。当時秋水の右手は柔術でしたたかに捻られたため握力を失していた。そこ 
へ巻き落としを用いるのは定石の一つである。結果秋水は総角が定石を用いる”ニオイ”を読み、小札曰くの「立身(たつ 
み)流兵法『向(むこう)』の構え!」にて対処するコトができた。 
 とはいえこれは文字通り真剣勝負の中の出来事であるから、まひろに語るのは良くないだろう。 
 いえば彼女の興味は剣戟に及び、最終的には秋水の負った傷に対して無用の配慮と悲しみが芽生えるであろう。 
 そういった配慮を知ってか知らずか、まひろは感動したように呟いた。 
「じゃあ秋水先輩は空気が読めるんだね」 
「どうだろう。ちょっと違うかも知れない」 
 秋水はしばし黙った。なるほど相手の心情を読むという点で”ニオイ”はいわゆる「空気」と似通ってはいる。が果たして同 
じかどうか。 
 そも”ニオイ”を察知された相手にとってはたまった物ではない。空気を読まぬまひろの騒々しさと竹刀の一撃のどちらが 
いいかと問えば大抵の者は前者を選ぶであろう。それは可憐な少女の騒ぎだからとかではなく物理的理由だ。誰しも竹刀 
でぶたれるのは嫌なのだ。 
 だいたい”ニオイ”を読まれる恐ろしさを知っている秋水だ。先日における総角との剣戟はその具体的一例だ。思い返すに 
剣技の数々が面白いように秋水を刻んだのは、”ニオイ”の強弱に上手く乗じたためのように思われる。現に秋水は巻き落 
としこそ防げたが、それはとっくに読まれており逆に「龍巻閃」なる伝説的剣技で右脇腹を引き裂かれた。 
 いまだ平癒せぬそこに軽く手を当てつつ秋水は嘆息した。 
(試合巧者とはああいう男の事をいう) 
 話がややブレたが、要するに”ニオイを感じる”というのは端的にいえば相手を攻め滅ぼす準備であるから、常々まひろが 
要求されてやまぬ「空気を読む」という平和的かつ調和の権化のような概念とは真逆の位置にあるといえなくもない。 
「だが、例えば」 
 秋水はふと思いつくまま喋りたくなった。 
 曰く。 
 稽古の時において”ニオイを感じ”つつも相手を打たず、心理を言い当て、かつそれを受容可能な文言にて教導し、相手 
の剣技発展に寄与したとすれば、秋水自身も「空気を読めた」といえるのかも知れない。 
 と。 
「俺もあまり大きな事はいえないが、自身の都合だけを相手に強いるのは良くないと思う。相手の都合を斟酌しなければ、 
いつか必ず自分に帰ってくる」 
 現に秋水はカズキを背後から刺したせいで桜花を失いかけたし、様々な苦しみを味わいもした。 
「それでも君は他者を思いやれる。問題は落ち着くかどうかだと俺は思う。空気を読むというのはそういう事だと俺は思う」 
「そうだよね。ちょっと落ち着いて考えた方がいいよね」 
 まひろは難しそうに腕組して呻いた。 
 以上、秋水の入院生活の一幕。日常会話であるため特にオチなどはない。 
前へ 次へ
第090〜099話へ
インデックスへ