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第092話 「斗貴子が防人に報告。そして影、遂に過去より来(きた)る!」



【報告書】

 9月10日午後6時頃、銀成市北東山林部にてホムンクルス30体を確認。これを撃破。
 人質となっていた開盟学園生徒(男性・17)は無事保護。

 そう締めくくられた事務的文章満載のA4用紙から目を上げると、防人衛は深い溜息をついた。
「何か不備でもありましたか」
 すかさず卓袱台の向こうで鋭い瞳が輝いた。津村斗貴子。後頭部から肩めがけ急降下するショートボブは切り揃えたと
いうより「長いと邪魔なので自ら背後から斬り捨てた」という方が適切だ。そういう物騒な形容が似合う一直線の髪が揺ら
めいたのは姿勢を正し、卓袱台の縁から防人を直視するためである。続く釈明。曰く、人質に怪我はない。曰く、錬金術に
ついての一切合切については口止め済み。湯呑をごとりと置いてからこっち、凛々しい唇は歌のように報告を口ずさむ。
「人質となった少年やその友人たちの住所も把握済みです。あとはいつも通り戦団に事後処理を──…」
「いや」
 歯切れの悪い言葉を漏らすと、その裏に潜む言葉を彼女なりに想像したのだろう。凛々しくも美しい顔がフと微妙な不安
に曇った。同時に細く白い指──編み物でもやっている方がお似合いで、可憐な。とてもそれが常在戦場で目つぶし眼球
摘出なんでもござれの屈強赤手とは想像しがたい──が報告書に伸びた。貸して欲しい。そんな手つきだった。
「記入に不備があれば言って下さい。すぐに直します」
「いや。ブラボーだ。いつもどおり完璧なんだが」
 防人は視線を彷徨わせながら「とりあえず」という手つきで報告書を卓袱台に置いた。
 何といっていいか分からない。そんな任務の結果は本日2度目である。
(あの事件は仮面の戦士たち……ディケイドとディエンドだったか。別の世界の者たちの協力で解決したというが──…)
 2時間ほど前に中村剛太から受けた「LXE残党+αによるメイドカフェ襲撃事件」も大概だったが、いま斗貴子から報告
を受けている事件もなかなか負けず劣らずの奇抜さを秘めている。率直にいえばそれが感想だった

 言葉を探しながら時計を見る。寄宿舎はそろそろ老朽化の時期にあるのだろう。黒ずみと蜘蛛の巣が目立つ鴨居の上で
丸い時計が午後10時を指している。
 9月10日。戦士に「ちょっとした騒ぎ」がよく降りかかった日だ。それもそろそろ終わりに近づいている。

 とにかく、防人は言葉を探していた。生真面目な空手部主将がそのまま年を食ったような顔の彼は御世辞にも美形とは
言い難い。「いい男」との評もあるがそれは刻苦修練に耐えてきた男ゆえの精悍さゆえであろう。
 無造作に切り詰めたギザギザ髪、太い眉毛。顎にはゴマのような無精ひげが生えている。
 そんな顔が先ほどから小難しげに歪んだまま卓袱台を睨んでいるのは、やはり言葉を探しているせいだ。
 戦士長なる役職にある以上感想以上の──厳然とした物。部下に聞かせても役職相応の権威が失墜しない、威厳の
ある言葉を吐き続けねば組織は持続しない。役職ある者が軽んじられるようになればいずれ役職とそれが帰属する組織
自体までもが軽く見られ、緩やかな瓦解へ向かう──感想以上の言葉を吐かねばならぬ。
 決意と共に防人の眉根の肉が盛り上がる。引き締まった顔立ちが更に粛然と引き締まる。
「俺が聞きたいのはキミに協力したという者たちの事だ。その、だな」
 とても20代とは思えぬ深みのある渋い声を若干震わせながら報告書の中腹を指で2度叩く。ツルツルと編み込まれた
繊維たちが小気味のよい音を立て、斗貴子もそれに誘われるように身を乗り出した。
「はい。殺し屋ですね」
 指差された箇所を事務的に──どこか千歳に似ていると思った。女性はみな戦闘またはそれに準ずる任務をこなすうち
事務的感情ばかりを発達させるのだろうか──反復すると、斗貴子は不思議そうな表情を浮かべた。
「殺し屋たちについては私と協力してホムンクルスを斃した後、どこかへ去って行きました。しかし職業が職業です。私達
のコトを口外する心配はありません。……例え口外してもあんなフザけた連中のいうコトなんか誰が信じるか」
 やや荒ぶった最後の言葉は斗貴子なりの心情吐露なのだろう。ふっと視線をやって斗貴子はお得意の不機嫌そうな半眼
で腰に手を当てていたが、防人に気付くと慌てて居住まいを正した。報告時にその態度は頂けないと思うがまだ若い戦士で
付き合いも長いので追及はしない。むしろ聴きたいのは……。
「えーとだな。戦士・斗貴子。話を整理しよう」
「はい」
「キミは今日、LXEの残党を探しているうち、銀成市に遊びに来た別の学校の生徒と知り合いになった」
「はい。先日『あの共同体』の副長が引き起こした時間促進事件。彼らはあれがもう一度起こらないか好奇心に駆られて
この街にきたようです」
「ウム。そこまでは報告書に書いてある通りだ」
「彼らは道が分からないとの事でした。そこで先日の舞台の1つとなった大交差点へ道案内した所」
「運がいいのか悪いのか。度重なる残党狩りに怯えた残党たちが最後の食事とばかり大交差点に繰り出してきていた」
「もちろん全部ブチ撒けてやりました。一般人の被害はゼロです。しかし」
「キミを恐れた残党がたまたま近くにいた他校の生徒を人質に取り、逃げた。アジトの場所を教えてな」
「はい。助けたくばこの街にいる戦士の持つ核鉄総てを持ってこい。それが要求でした。だが私の答えは一つ。『聞けるか。
貴様たちに核鉄を渡せばより多くの人たちが犠牲になる! ここは人質を何とか助けた上で全員ブチ撒ける!』です」
「アジトの場所をばらすのは幾らなんでもマズかったな。お前が相手なら尚更だ」
 流れるような展開である。もっともその程度の事は戦士をやっていると珍しくもない。ただし。
「だがなぜ、そこで殺し屋が出てくるんだ?」
「さらわれた生徒の友人の友人が、殺し屋のサイトのオーナーだったからです」
 事も投げにいう斗貴子に防人は言葉を失くした。いやに現実離れしている。いやそれをいうなら防人が平素使役する武装
錬金や戦う相手たるホムンクルスもとっくに現実離れしているが、いちおう「錬金術」というケミカルな術理の集合体としての
説明はつけられる。一方、「殺し屋」。戦闘に身を置く防人でさえ全くお目にかかった事のない代物だ。金品その他の対価
を受け取り人命を奪う職業。戦団の奇兵はおろかホムンクルスにさえいるかどうか。
「さらわれた生徒の名前は藤崎佑助。所属は私立開盟学園。学園生活支援部部長です」
「それは報告を受けている。あだ名はボッスン……だったな。そしてその友人が鬼塚一愛(ひめ)と」
「笛吹和義。所属は藤崎佑助と同じであだ名はスイッチ。重度のネットマニアです。弟の仇を殺す相手を求めネットサーフィ
ンをしている内、殺し屋のサイトを見つけたとか」
「ええと」
 防人は頬にうっすらと汗をかいた。インターネットには詳しくないが、現代社会の病理を垣間見た気がした。
「そのサイトの名は『職業・殺し屋』。殺人依頼が集まる場所です。その依頼を殺し屋たちは逆オークションでどれだけ安く
請け負えるか……競うようです」
「そ、そこのオーナーと生徒・笛吹は知り合いだったのか」
 つまらない反問だと防人は思った。だが口の中が心持ち渇いている。喋らなければ口腔粘膜が罅われそうな気がした。
「オーナーの名前は宮内啓だそうです。本名かどうかは知りませんし彼と知り合った笛吹和義が目的を遂げたかどうかも
知りません。重要なのはホムンクルスに攫われた人がいて、その人を助けるには手勢が必要だったという事です」
「戦士・剛太や桜花、秋水はその頃メイドカフェで別件を調査していたしな」
「ええまったく。人手がいるっていう時にたかが2体に手をかけ過ぎです」
「……すまん。俺の采配ミスだ」
「大丈夫です。戦士長の采配が悪いのは昔からです。私は大交差点で10体ばかり斃しましたから。一人で」
 斗貴子は相当怒っているらしい。冷えた目でプイと顔を背けた。
「だからこの街をいつまでも苛み続けるホムンクルス。そして信奉者。奴らを全員ブチ撒けられるなら殺し屋の手を借りて
も構わない! というか剛太はあのクソ忙しい時に何やってたんだ! メイドカフェぇ!? 桜花に骨を抜かれ過ぎだ! 新
人ならもっとシャキっとしろ! シャキっと!!」
 卓袱台が揺れた。斗貴子が立ち上がりがてら両手で叩いたのはいうまでもない。
 ボルテージが上がりかけている。ここで油を注ぐと火渡以上の炎が燃えあがって手に負えなくなるのは重々承知の防人
だ。話題を変える事にした。
「逆オークション、という事はやってきた殺し屋は1人か2人なのか?」
「10人ぐらいです。オーナーの友人の友人を助けるため特別に招集されたとか」
「はあ」
 斗貴子の目が冷えて行くのを防人は見逃さなかった。

「色々いました。紆余曲折を経てたどり着いた奴らのアジトでは30体ばかりの襲撃を受けました。しかしまず人質を取っ
ていたホムンクルスが攻撃を受けました。やったのは左目の周囲に蜘蛛の刺青をした男です。鞭のようにしなる剣がホム
ンクルスの目を打ちました。もちろん錬金術の産物じゃありませんからダメージはありません。しかし怯ますには十分でし
た。すかさず飛び込んできた青年……後で聴きましたが鎌倉時代から続く武術の継承者だそうですね。彼が人質を素早く
安全な場所へと運びました。ホムンクルスたちの運命はここで決定した……?。ええそうです。後はもう殺し屋たちのやりた
い放題でした。白状しますが私でもあれだけの殺戮はできません。私は信奉者以外の人間は殺しませんし、信奉者でさえ
殺すためだけに殺します。ですが彼らは違う。愉悦の為だけに相手の命を奪う。それは例え相手が人間をやめた存在でも、
錬金術以外の攻撃では決して斃せないとしても、です。『どうすれば殺せるか』。まずそれを考え、戦いの中で実行します。ひ
どい戦いでした。私が斬り飛ばしたホムンクルスの牙、爪、そして装甲。何か分かりますか? はい。彼らが争って奪い合った
物です。彼らは一瞬にして同じ結論に達しました。

”錬金術以外の攻撃で斃せないなら錬金術製の化け物の体を使えばいい”

戦士でもない人間に何ができる。当初こそ下卑た笑いを浮かべていた残党たちが悲鳴を上げ、逃げ始めるのにさほどの
時間は要しませんでした。それほど手口は鮮やかでした。殺したホムンクルスの体が消滅する事に気付いた者は敢えて
『武器』の持ち主を放置しました。生殺しです。口の中と両手足のド真ん中に自分の長い針を突き刺され、地面に張りつけ
られたハリセンボン型は結局仲間によって殺されましたね。お前のせいで相手が強くなっている、と。『ああ、自分が助かる
ために仲間を殺すとか、なんて卑しいんだ』……卑しい笑いを浮かべ踊ったのは銀髪の蜘蛛です。鎌に死骸の粉をまぶし
狂笑を浮かべる女の横でホムンクルスが次々と解体され、それは別の女の用意した鍋の中で煮込まれ異臭を上げました。
拳闘と古武術の使い手がホムンクルスの下顎……私が斬り飛ばした人間型の物です。それをメリケンサック代わりにし
てホムンクルスの頭蓋を割り、章印を貫く姿に人質の男子生徒は震えあがりました。信奉者も何人かいました。さっき戦
士長も死体写真で確認したと思いますが、いずれも報酬目当ての手引きの名手たちです。複数の共同体を渡り歩いて
は勤務先……学校や寮の構造などの情報を横流しし莫大な報酬を手にし続けてきた、それでいてホムンクルスへの格上
げは一切望まない奇妙な連中です。しかし彼らも殺し屋の手にかかり無残な死を遂げました。木の上から大きな石を投げ
落とされ頭を潰された奴もいれば何らかの手段で首を絞められた者もいました。やったのは2人だそうですが、気弱なサラ
リーマン風の男以外には誰も見当たりませんでした。顔を見られたくない、そんな殺し屋だそうです。戦闘も中盤に差し掛
かるとホムンクルスの体で作った即興のアーチェリーが私の周囲を飛び交い、それはしばしばバルキリースカートを傷つけ
ました。跳ね上がった矢は三重人格の殺し屋の手に渡り、それは決まって性別が明らかに男であるホムンクルスの……
その、臀部に突き立てられました。私でもやらない拷問です。私ならせいぜい爪の間にバルキリースカートを刺し、1時間
かけてゆっくり剥がすだけですから。3枚剥がす頃には必要な情報はほぼ総て手に入っています。それから鉄パイプで残
る信奉者を殴り続けている教師風の女もいました。あ、はい。数少ない生き残りの安藤と古畑です。様子はどうですか。
そうですか。脳に深刻な障害が。手足の麻痺は取れない……。そうですか。感情の方もおかしくなり、時おり希望の船がど
うとかカイジさんがどうとか叫んでいる……と。そうですか。人間を殺してホムンクルスになろうとした報いですね」

 責められる方が可哀相だ。防人はつくづくそう思った。

 斗貴子にとって残党などというものはつまり、上記のような10人分の観察をしながらでも殲滅できる程度の、大したもの
ではないらしい。実際、彼女は傷一つない。11対30(プラス信奉者数人)。そんな乱戦をくぐり抜けてなお無傷なのである。
「殺し方は様々でしたが、みな楽しそうに笑っていました」
「なあ、そのサイトはどこなんだ。一刻も早く警察に連絡した方がいいような……」
「無駄です。彼らは警視庁警備局公安課の課長とつながりがあります」
「…………」
「とにかく、です。ホムンクルスは全滅し、人質も無事解放されました。信奉者が何人か死んだのはカズキの言葉を考えると
簡単に切り捨てていいものではなかったとも思いますが、しかし彼らに償わせたところで殺された学生たちが戻ってくる訳
でもなし、自業自得です」
「それは……キミの本音なのか?」
「…………」
 斗貴子は俯いた。ややトーンダウンした声が漏れた。
「彼らが殺すのはほとんど悪人だそうです。何故ならそうじゃないと漫画的に盛り上がらないからです」
「うーむ。確かに善人を殺すだけの漫画にブラボーな読後感はないだろうし、そもそも売れないだろうが……」
「そしてホムンクルスに進んで関わるのは悪人か狂人のどちらかだけ……。むしろそういう人間たちこそ信奉者やホムンクル
スになる前にいなくなる方がこの世界の為です」
 防人は軽く呻き、両腕をねじり合わせた。正論ではあるが人間的ではない。
「もちろん、今回の一件で殺し屋たちがホムンクルスに憧れ、格上げを望むようになれば斃します」
 継ぎ足すように漏れた声音は凛としつつも防人の表情を曲解したふうである。
(やはり戦士・カズキの不在のせいで心が渇いているようだ)
 いやに斗貴子らしからぬ淡々とした報告の様子もおかしい。防人相手の敬語。報告用の事務的態度。2つ差し引いたと
してもまるで何かを無理に抑えているような調子に見える。


「どうしたものか」


 報告はこれでよろしい。斗貴子を退室させた防人は顎に手を当てフムと考え込む仕草をした。


(今日のメイドカフェの騒ぎで鈴木震洋の保護観察処分は戦団での拘束に切り替わった。先日下水道処理場で秋水に斃さ
れなかったLXE残党もほぼ総てが殺し屋たちと戦士・斗貴子によって始末されたとみていい。となると彼女の心のケアをす
る余裕ぐらいは出てきたかも知れない)

 どうしたものか。

(信奉者といえど同じ人間ではある。それが殺し屋に蹂躙されている姿を見て何の感情をも示さない……というのはなあ)

 そこまで考えた防人の顔が何かに気付いた。やがて精悍な顔つきはこれまで全ての修練を台無しにするようなだらしの
ない笑みを頬一面にニンマリと広げた。ツナギのポケットに伸ばした手はやがて携帯電話を引き抜いた。

「あぁ、もしもし。俺だが。一つ、頼みがある」
















「というコトで斗貴子さんは今日から演劇部員になったのでしたー!」
 翌日。突如自室に来たまひろと彼女が撒く紙吹雪を交互に見比べながら斗貴子はとりあえず声を上げた。
「ちょっと待て!? 演劇部ぅ!? なんで私が入らなきゃいけないんだ! そりゃ確かにこの前、演劇部のドレス破いて核鉄
取りだしはしたが幾らなんでも唐突だ!」
「えー、いいじゃない。部活はいいよ。楽しいよ? おぉおぉ……熱く燃えたぎる情熱の炎! みんなで目指す栄光の頂点!
青春だよっ! 部活と言うのはつまり青春なんだよ斗貴子さん!」
 豊かな胸の前で拳を固めて力説するまひろはいちいち妙な抑揚をつけたり可愛らしく叫んだりしている。つくづく天真爛漫
な少女だと斗貴子は思った。
「いい! 私はそういうのは苦手だ! だいたいこの学校にいるのはホムンクルスを斃すためだ! 部活なんかやって時間
が潰されるのは好ましくない! 結構だ!」
「んっふっふっふ」
 叫びもつかの間、突如目を細めて笑いだしたまひろに斗貴子は唖然とした。
「何をいってももう逃げられないよ斗貴子さん! ネタはとっくに上がってるんだから!」
 じゃーん! 片手持ちで突き出された一枚の藁ばんし。その内実を理解するのに1秒と掛からなかった。
「入部届ぇ!? ちょっと待て! 書いた覚えなんかないぞ!」
「でも実印付きだよ! ほらっ! ほら! 筆跡もぴったり!」
「うへへへ!?」
 世にも情けない叫びとともに眺める入部届けには……確かに「書いた覚えのない」自分のサインがあった。サインというより
「何か報告書の氏名欄に書いた奴をスキャナか何かでパソコンに取り込んで印刷した」という感じだ。
(ふふふ。そういえば昨日戦士長に報告書を出した覚えがある。成程。犯人はだいぶ絞られてきた)
 実印にも見憶えがある。斗貴子の記憶が確かなら、同じ物を防人が戦団の諸行動に必要だとかで預かっていた筈だ。
「ふ、ふふふ。誰が押してくれたかは知らないがよくもまあこんな仕打ちを……!!」
 前髪の奥で片目が怪しい光を放つのを禁じ得なかった。
「ちなみに桜花先輩の許可も貰っているよ! 帰宅部所属もサボりも不可! っていってたよ!」
(あの生徒会長いつかブチ撒けてやる)
 怒りに戦慄く拳を必死に抑える。
「でもだなまひろちゃん。私は本当、団体行動とかは苦手なんだ。だから──…」
「ほう。ヒマ潰しがてらからかいに来てやってみれば。貴様もあの演劇部に入るとはな」
 嫌な声がした。例えるならヘドロとマグマをごった煮にしている声。決して晴れない何事かを抱えている者だけが発する嫌な
声だ。振り返る。窓の外に異様な物が浮遊していた。物と言うかそれは蝶々で、胸が大きく肌蹴たエレガントなスーツの背中
からドス黒い翅を2つ生やして浮いていた。顔にはおなじみ蝶々覆面。とくれば誰か言うまでもない。
「パピ──…」
「監督!」
 斗貴子がずっこけたのは咄嗟にまひろを守ろうとしたからである。守ろうとしたのはパピヨンがホムンクルスだからで一方
まひろはそのエサたる人間だ。だから守ろうとしたのだが、しかしはてさて「監督」? どうやらまひろの広い交友範囲には
パピヨンも含まれているらしかった。
 ドブ川が腐ったような目。かつてそう形容した瞳が蝶々覆面の奥でぎょろりとまひろを捉えた。
「フン。武藤の妹も一緒か。まあいい。貴様はあのボンクラ揃いの演劇部の中でまだ比較的筋がいい。多少のサボリは特別
に大目に見てやろう」
「ありがとう監督!」
「だが忘れるな! 日々の腹筋と発声練習! その2つの基本を怠る者に決して栄光のスポットライトは当たらない!」
「はい監督!」
「そして演ずる時は優雅に! そして華麗に! 誰もが目を見はらずにいられない蝶のように! 舞台と言う名の空を羽撃け!」
「はいっ! 監督!」
「じゃなくて、なんでキミたちが知り合いになってるんだ!」
「あー。それはだね。昨日突然監督が演劇部に来て、なんやかんやで監督になったんだよ」
(いまいちよく分からない)
「フン。最近研究室に引きこもりが1人、頼みもしないのに飛び込んできてね。俺の体調について口うるさくがなって来る。
もちろんあの研究室は俺の所有物だ。よって出ていくよう脅した。だが奴ときたらちっとも言う事を聴かん。ついに腹が立っ
た俺はあんな引きこもりの相手などやめ俺らしく空へ羽撃いた!」
「……相手が誰かは分からないが、要するに説教に不貞腐れてうろついてただけじゃないか」
「そして俺は格好のストレス解消の場所を見つけたという訳だ。あの演劇部……揃いも揃ってボンクラ揃いだがそれだけに
このパ・ピ・ヨ・ンの色に染めがいがある!」
「!! 貴様! まさか!?」
「そう、そのまさかだ! 俺はあの演劇部を支配する! ゆくゆくは全員に俺と同じ格好をさせてやろう! あの口うるさい
引きこもりが大事にしている演劇部を滅茶苦茶にしてやる!」
「え! 同じ格好! それはちょっと恥ずかしいかも……」
 大きく胸が開いたパピヨンスーツを見るまひろに斗貴子は鋭く叫んだ。
「というか人間として最も恥ずべき行為だ!」
「ででででも頑張るよ。監督がやるべきだーっていうなら恥ずかしいのもガマンして一生懸命頑張るよ!」
「そう言う問題じゃない! そもそもだな……」
「フン。入部を辞退せんとする腰砕けの貴様には関係のない話だろう」
「何!?」
 パピヨンときたらいつの間にか部屋に入り込み、机の上で足さえ組んでいる。嫌な男だ、斗貴子はそう思った。人が慌て
ふためく様子を楽しんでいる。だから余裕があるのだろう。
「部外者の貴様はせいぜい指を咥え外から演劇部が麗しきパピヨン祭りを催すのを観ているがいい!」
 牙も露に嘲笑するパピヨンに向きなおった斗貴子は、やがて──…

「入部するって怒鳴っちゃった訳ですか」
「ああ。まひろちゃんはカズキの妹だ。パピヨンの格好なんかさせてたまるか」
 ロッテリやのテーブルの向こう側で乾いた笑いが巻き起こる。剛太。後輩は「どうかなー」って思っているらしい。
「とにかくパピヨンの目論見は絶対に阻止だ! 逆らっていればその内飽きてどっか行くだろう」
「ま、戦いにならないのは平和な証ですね」
「まあな」
 ガラス越しに外を見る。笑み。焦り。怒り。楽しさ。行き交う人達は思い思いの表情を浮かべ歩いている。
 ビラを配っている女性看護師もいる。献血の誘いかと思ったが、どうやら新しくできた病院の宣伝らしい。運良くガラスの
傍を通る人がそのチラシを持っていたので内容が分かった。
「昨日の2つの騒動で残党は全滅したとみていい」
「キャプテンブラボーもそういってましたよ。後は何か変わったコトがあり次第、対応していけばいいって」
「……フン。私が演劇部に入るコトになったのが一番変わってるがな。どうもタイミングが良すぎる。パピヨンの監督就任を
見計らったように私が勧誘……どう考えてもおかしいだろ」
「まあ、キャプテンブラボーには何か考えがあるんでしょ。他はどうです。学校の付近に不審者が出たりとかは」
「そういったコトは特にない。強いて変わったコトを上げるなら──…」
「なら?」
「銀成学園の理事長が、最近交代した」
 剛太は目を丸くした。
「それのどこが変わったコトなんですか先輩?」





「ねー秋水先輩」
「なんだ」
 工作室で板を切りながら秋水は無愛想に答えた。入院中という事もあり激しい運動を禁じられている彼だが、根は剣客
である。動かぬと却って調子が悪い。だからヌっと病院を抜け出してはまひろ属する演劇部の大道具を作る手伝いをする
のが目下のところの日課である。
「新しい理事長さんって可愛いよねー。ちっちゃくて、でも何だかおばあちゃんみたいで」




「前の理事長の孫らしい」
「孫が理事長やってるんですか?」
 ああ、と斗貴子は頷いた。
「後継者としていろいろ勉強させたいというコトらしいが、まだ子供の理事長なんて生徒にとっては迷惑だ。これだから権力者
の考えるコトは分からない」
 斗貴子は(でたくもなかった)全校集会を思い出していた。



 壇上に上がった少女は臆するコトなく生徒たちを見渡し、机の前でマイク片手にこう呟いた。
「おうおう。ヌシらとかく活きが良さそうで結構結構。わしがしばらく理事長を務めるコトと相成った木錫(きしゃく)というもの
じゃ。名字はじさまのと同じじゃよ。しばらく宜しく頼むぞえ」
 いかにも特別にしつらえたという感じの女子制服を小さな体の周りでぶかつかせる彼女の姿に、斗貴子はなぜかちょっと
した嫌悪を覚えた。特別職にある者の勝手な人事に対する憤りだろうか? 分からない。
 とはいえ目下のところこの髪を後ろで括ってフェレットのついたかんざしを差している新理事長の受けはいい。
 男子生徒も女子生徒もこぞって世話を焼く始末だ。




「とにかく」




「パピヨンの事さえ除けばこの街はもう大丈夫だ」


 斗貴子の呟きに剛太も頷いた。






 とある市民は見た。


「ほーら。もう大丈夫でしてよ。歯の痛いの直ったでしょ?」
 銅色の横髪をくるくると巻いた女医さんに頭をなでられた娘が嬉しそうに微笑んでいる。
 不思議な病院だ。来訪者達がみな一様に首を傾げていたのが今ならよく分かる。
 電池が破裂したとかで顔面を黄色い粘膜まみれの包帯で覆っていた小学生ぐらいの少年。
 会計を済ます頃にはすべすべとした浅黒い肌を「信じられない」という顔つきで撫でていた。
 40度代の熱に苦しむ40歳代の女性はマラソンが出来るほど元気な様子で帰って行ったし、耳だれを垂らしていた白髪の
おじいさんは「来るときより耳がよくなった」と小躍りしながら去って行った。
 来たのは患者ばかりではない。救急隊員。近くの交差点で起こった交通事故。罹災者は3人。若い男性の操る白いlifeに
轢かれた信号無視の女子高生。焦って逆にアクセルを踏みこんだ若い男性。彼は対向する軽ワゴンと正面衝突。内臓破裂
をきたした。更に対向車を運転していた58歳自営業の男性が頭を強く打ち意識不明の重体。女子高生も右足総てと左肘
から先の損壊が激しく切断はまず免れない。……というのが救急隊員たちの説明で、ひとまず応急処置だけでもして欲し
いとの要請だった。
 待合室にざわめきが起こった。病院の前の3つの担架。その上で布をかけられている者どもは明らかに異常だった。
土気色の顔から血を吐く若い男性。意識だけははっきりしているのだろう。嫌! 切らないで! 手も足も取らないで!
叫ぶ女子高生の横で救急隊員が何人か強張った叫びを上げ合っているのは、足元で赤黒い液体をたらし続けている
還暦間近の男性のせいだろう。強く打った部分が『色々と』垂れ流しているらしく、それは救急車の設備程度ではまったく
どうにもならないらしい。とある市民は務めた。大きな四角の窓ガラス越しに見える景色をなるべく娘に見せまいと。
「あらん? そーいうのって法的っていいのかしらん。まずは救急センターに運び込むのがスジだと思うけど」
 まあよろしくてよ。運び込まれた気息奄々の患者達を処置室に運び込むと、女医は「かーなーりグロいコトになりますから
覗かないでん」とだけ言い残し、ものいいたげな救急隊員を締め出した。
 彼らがほぼ無傷で生還したのはその5分後だ。とある市民は愕然たる面持ちで見た。担架の上で酸鼻を極めていた事
故被害者たち。彼らが「自分たちにも訳が分からない」そんな様子で、しかし2本の足で確かに立っているのを。右足切断は
免れないといわれていた女子高生の白い足は「まるで事故などなかったかのごとく」、健在だった。
 馬鹿な。救急隊員たちの驚きをよそに女医は事も無げにつぶやいた。
「ふふん。ちょっと大げさに見積もりすぎじゃなくてん? 念入りなのはいいけど」
 応急処置だけは終えましたから後はそれなりの病院で──…そう女医が不承不承の救急隊員を追い払った後、娘の
番が来た。

 放置に放置を重ねたせいで悪化した虫歯。素人目でも抜くしかないほどボロボロだった歯。
 それが、再生している。
「でも痛いのには懲りたでしょん? 病気は予防が大事ですの。だから歯磨きなさい。分かりました? そう。お分かり」
 じゃあコレ上げる。娘にハシビロコウのぬいぐるみを与え、輝くような笑みを浮かべた女医。
 
 目も眩む思いだった。

「んふ。ウチは老若男女問わずでしてよ。泌尿器科でも肛門科でもアリアリ……何か困った事がおありでしたら夜でもどうぞ」

 キツネ目の中で好色な炎が灯るのを見た時、とある市民は決意した。

 また、来よう。

 振り返る。開院祝い、だろうか。無機質なオフィス街に色取りどりのスタンド花が咲き誇り、ひどくねっとりとした匂いを広め
ている。美蜜。胸を満たす蠱惑の匂い。火のような女医の唇……。「どうしたのお父さん?」 娘が隣で見上げてくる。愛娘。
小さなハシビロコウのぬいぐるみを胸に抱え、透き通った大きな瞳が不思議そうに瞬く。曖昧な返事とともに差し出す手は
暖かな、守るべき小さな感触に包みこまれる。それはまぎれもない幸福だし、それを守るために身を粉にして働くのが父と
しての責務だとも思っている。
 例えばわずかしかな有給休暇。
 その大半を娘の虫歯治療に費やすのは当然だし、4歳児らしい「削らずに治してくれるお医者さんが良い」という駄々にや
きもきしながら理想の歯医者を探すのは父としての責務の筈だ。
 自分が子供のころから行きつけの歯医者に断りを入れてから4軒ほどの歯医者に電話を入れた。
 診なければ分らない。
 どこもそんな返答だった。どこへもわざわざマイカーで東奔西走して出向いた。
 だがどの歯医者も娘の要望に首を振る。そうこうしている内虫歯の痛みと腫れはますますひどくなり、娘はいよいよ激し
くぐずり始めた。せっかくの有給になぜ俺が……ママさんバレーの大会がどうとかで娘を押し付けてきた妻に毒づきながら
も──探しているうち新しいこの病院についた。
 父としての責務。駄目になったわずかな休み。
 休みが妻の都合(いかに小規模な大会でも主婦日常には得がたい”ハレ”なのだろう)と娘の虫歯で完膚無きまでに潰さ
れても父の責務は守らなくてはならない。それはわかっている。みな、そうしている。
 仕事には満足している。昨年大手スーパーのしがない支店長から本店に栄転できたのはとても幸福なコトだし、サービ
ス残業だらけの忙しい会社生活だって顧客の満足(仕入れ値1kg2000円の松坂肉を徹底したコストカットで1280円
まで抑えた時の感動! おかげで3割増しの売上高を見た時のつくづくこの職業に向いているのだという充実感!)を引き
出せるのであれば悪くはない。
 だが男としてのもう1つの感動は最近とみに少ない。恋愛。今の妻と甘く熱い言葉を投げ合い激しく求め合ったのは
何年前か。セックスが不妊治療の効果確認の意味を帯び始めて以来、燃えたぎるような衝動と絶頂、「やり抜いたのだ
という興奮」は体を重ねるごとに薄れていき娘の誕生とともに冷えた。それはあたかも松坂肉のコストカットのようだと
思う。重要で、こまめなチェックを怠ればそれまでの努力が水泡に帰す。そう分かっていてもすでに達成可能な出来事だか
らどこか全力を尽くせない。打ち込めない。もはや不妊ではない。そう思った瞬間から確認作業の必要が著しく薄れた。
 恋愛も仕事も知悉しぬかぬ部分にこそ心は躍り、打ち震える。
 夫婦愛が冷めた訳では決してないが、しかし付き合っている時ほどの衝動や欲情を妻に覚えぬのは事実だし、それは彼
女も同じに見えた。でなければ2カ月ぶりの休日を迎えた夫に娘を押し付け、自分は”ハレ”たるママさんバレーの大会に行
かぬだろう。(帰ってきたらいつものごとく競技中の武勇伝、自分がいかに活躍し練習中小うるさいの先輩がどれほど足を
引っ張ったか、ほら見た事か、結局ふだんうるさく説教されてる自分の方が役に立つ……そんな大いなる正当化を食卓で
披瀝するのだろう。興味はない、そういう冷えた自分の表情にまるで気付かず、気が済むまでずっと)

「んふ。ウチは老若男女問わずでしてよ。泌尿器科でも肛門科でもアリアリ……何か困った事がおありでしたら夜でもどうぞ」

 脳裡によぎる女医はまるで自分だけを誘っているように見えた。ひどく日本人離れした冷たい美貌の中で細い目だけが
甘く湿った輝きを放っていた。それはベッドの中で組み伏せられた女だけが見せる媚であり、あるいは今の妻が未来の夫
に跨った時の──初めて? じゃあ頂くわ──妖しげな挑発さえ併呑していた。
 疼くような衝動が一点に集中するのを覚えたままドアを閉める。「帰りは後ろに乗りなさい。そのぬいぐるみと遊びたいだ
ろ」。うん。マイカーの中に穢れのない声が響き、やがてハシビロコウと遊び始めた。もっともらしい事を。自分の文言ながら
苦笑が浮かぶ。久方ぶりの激しい意欲、露骨な言い方をすれば「今すぐトイレに駆け込み鎮静したい」中学生のような、は
したない疼きが全身を駆け巡っている。
 また、来よう。アクセルを踏み、
 駐車場を抜けた所で見送りの女医が手を振っている。
 小柄で薄汚れた白衣を纏っている女医。彼女が意外に起伏に富んだ肢体なのを認めた瞬間、彼はそれだけで達した。

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「さーて。さっきの親子連れで患者さんは最後。出てきて結構ですわよ」

 女医が後ろ手で病院入口を締め、鍵をかけた。一転。施錠をきっかけに病院は徐々に異常さを帯び始めた。
 真新しいガラスをはめ込まれた透明でピカピカのドア。その前にブラインドが一人で降りた。ドアだけではない。先ほど交
通事故被害者を映していた大窓もすっぽりと覆い隠された。自然の光源が断たれ照明のもたらす夜の人工的明るさに染
まった待合室を一望した女医はただ「やれやれ」と言いたげに腰をかがめ、入口付近から……ある物を拾い上げた。
「あァんもう。おニューのブラインドのヒモが『分解』されててよ。すぐに話聴きたいのは分かりますけどちょっと急かしすぎじゃ
なくて?」
 2等分、いや3等分だろうか。ズタズタに引き裂かれたヒモと待合室を見比べる女医の眼は冷たい。
「だいたい早漏はだめよねん! ワタクシこの前「水夏」ってエロアニメ見たんですけどね、ほらあの名無し! お嬢っていう
ロリっ娘が近年まれに見るクリティカルヒットだったのですけど、いざ濡れ場って時に主人公が早漏すぎて使い物になりません
でしたもの。ちょォっと前戯して突っ込んで30秒持たずで終わりィ!? あ・り・え・ま・せ・ん、わよ!」
 女医は悩ましげに眼を閉じ、全身を両腕で抱えた。甘ったるい金切り声が無人の待合室に響いた。
「ワタクシせっかくパンティーぐしゃぐしゃにして20枚近くのティッシュでゴシゴシやってたのに30秒ぽっち! だめだめだめ!
ああいう可愛い、可憐で穢れをしらないロリっ娘が突っ込まれ正常位後背位騎乗位駅弁立ちバック! 徹底的に7分ばか
し突かれまくって可愛らしいヨガリ声ガンガン響かせてイキまくるのがエロアニメの心意気ってもんじゃなくて!」
「あのー」
「イケなかった私の期待感どうしてくれますの! そりゃあお話それなりに作り込まれてるようでしたけどンなモン誰が後でリ
ピートするかっていうお話ですわ! 見返されない部分に尺つぎ込むぐらいなら正常位(以下略)7分ばかりやる方が売上
上るしみんなニッコニコでオナれるもんじゃなくて! あと重要なのは局部描写より表情ですわよね! ねえ! ねえ!」
「……いや、そんな話をされても」
 どこからか響く声。女医は軽く咳払いをし、いずまいをただした。
「ととっとにかく、ペナルティよん。ブラインドのヒモ駄目にした悪い子には♪」
 しなやかな指が全電燈のスイッチをオフにした瞬間……真っ暗な待合室の片隅で影が震えた。患者を吐きつくされた待合室にどこから
何かがやってきたらしい。
「『禁止』」
 最初の影の横に
「『幻覚アリアリ遅行性致死毒』」
 2番目の影の席2つ分ほど右に
『大軍によるリンチ』」
 3つ目までの影とは全く離れた、どちらかといえば女医の近くの席に
「そのうちどれか決定♪ まあそれはともかくお話開始よ」
 影は現れ、艶然と微笑む女医に促されるまま思い思いに喋り出した。

「ぬぬ。そうですそうです、そのようです! しかし簡単に欠如が治るとかこの上なく妬ましいです!」

 1人は長い髪を持つ女性のようだった。最後に現れた影は影からさえ冴えない感じがにじみ出ているようだった。

「……行き違いだね。時間促進事件の最中撮られた写真を手掛かりにきたけど……光ちゃんは戦団に護送されてるみたい」

 2人目に喋った影の声はひどく小さかった。闇で白く輝く髪は短く、ウェーブがかかっているようだtった。

「鐶光。妹の心配をするとか青っちは相変わらず優しいっ! イヨ! 惚れがいがあるってもんでさあ!」

 いやに太鼓持ちの気配がある3人目の左で、いかにも人間離れした──最初に現れた影。先ほど女医が患者に与えた
ぬいぐるみそっくり のフォルムだった──4人目が「憂鬱だあ憂鬱だあ」と身震いした。

「オイラはさっさと戦いを終えたいのにどうしてまだ本格的に戦わないんだあ。栴檀貴信どものような奴らはもうこりゴリだあ」

 影たちを見回した女医は満足げにうなずいた。

「なかなか豪華な顔ぶれねん。盟主様の守護に当たっている『月』と『水星』『土星』、それから好き勝手動いてるご老人の『木
星』が居ればワタクシたち幹部が勢揃い……さーて『ディプレス』。いまの質問の答えだけどん、何事も前戯って奴が必要よん」
「し、下準備っていうべきなのよそこは! 卑猥なのは嫌だよ私」
「ふふん。処女丸出しの反応ならびにサブマシンガンで文字書くの自重してくれてありがと『リバース』。おかげで新しい病院
に弾痕できずに済むわん。『だんこん』。ふふっ……いい響きでしてよ」
「要するに来るべき決戦の時のための下準備とか下調べが必要って訳で? いやー流石は『グレイズィング』女史。なかなか
マネできる考えじゃあありやせんね。へへ」
「あらん恐縮。でもワタクシは盟主様のご意思を伝えてるだけよ『ブレイク』。褒めるなら盟主様におし」
「ととととにかくっ! 私はこの上なく銀成市が周囲何kmか調べなくてはいかませんよね! よねっ?」
「そ。デカさだけが取り柄のあなたの武装錬金ならアレが可能よ。『クライマックス』
 女医は……いや、グレイズィングは白い歯を見せてニンガリと頬をひきつらせた。

「さーて。いずれこの街を滅茶苦茶にしてやるための下準備。頑張って下さいね!!」

 4つの影が掻き消え、待合室に狂笑と荒い息遣いが響いた。

「んふっ。いずれ壊す人たちを直してあげるのって最高。無意味で無駄で『あの時』思いだして……最っ高!」



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