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第093話 「パピヨンvsヴィクトリア&音楽隊の帰還」(前編)



【9月6日】

 闇の中に無数の根が這っていた。太いのもあれば細いのもある。それらは雑然と曲がりくねり、或いは絡まり合いながら
闇に向かって這っている。根は多いが辺り一面埋めつくしているというほどでもなく、1つ1つの隙間から白い地面が見えた。
厳密にいえば地面は何かの鉱物を切磋したものらしい。床。どこからか差し込む紫の光を淡く跳ね返しながら闇と根の間
をくぐり抜け、果てしなく広がっている。
 根が生えているのは人口建造物の内部のようだった。
 不思議なことに”根”の密集地帯の近くには必ずといっていいほど『機械』があった。巨大なラジエーター型の機械もあれ
ば机付きのパソコンもある。一番多いのはガラス張りの円筒とシリンダーとパイプを雑然と組み合わせた名称不明の機械
で、それは薄暗い部屋の中で時おり蒸気を吹いてもいる。丸太ほどある丸いガラスケースの中では色のついた液体──
赤、青、緑。いずれも強烈な色彩だ。闇の中でさえ際立つほどの──が静かに泡を立てている。
 煮えたぎっているのか、或いは何かの気体を流し込まれているのか。とにかく機械によって色の違う液体たちは闇の中で
静かに”あぶく”を立てている。泡立つ響きは加熱音ともポンプ音とも取れる駆動音と混じり合い、暗い空間に嫋々(じょうじょう)
たる余韻を与えてもいる。地面を這う太い根をよく見ると透明で、中では色のついた液体がさらさらと流れている。どうやら各
種様々の機械にそれを提供しているらしい。
 つまり”根”は、パイプだった。
 そしてその中の一本──闇の中でひたすら曲がりくねるそれ──を追っていくと、もしくは床を淡く照らす光を追っていくと
ひときわ巨大なフラスコに行きあたった。
 部屋の隅にあるそれは大人7人が横に全開した手と手を取ってようやく包囲できるほど巨大だった。蕪や大蒜(にんにく)の
ように上が尖り下が太い。さらに到る所から”根”に似たパイプが生え(いや、むしろパイプたちが望んで接続しているのか
も知れなかった。茎が最終的に果実を育むように)、てっぺんには電球のソケットに似た重厚な接続端子さえついていた。更
に底からは紫ばんだ光が立ち上っている。どうやらライトアップ用らしい。闇に包まれた部屋の中でフラスコの周りだけが妖し
げなモーブの光にくっきりと炙り出されていた。。
 しかし特筆すべきはその巨大なフラスコではない。中にいる人影である。
 フラスコの外装は多分にもれずガラス系統の透明材質だが、そこから透けて見える人影は奇妙な状況に置かれていた。
 椅子に腰掛け、足を組み、腰のあたりで本を広げている。それ自体は「フラスコの中で」という特殊性を差し引けば概ね
普通だ。
 しかし。
 フラスコ内部は、液体に満たされていた。人影はゆらゆらとたゆたい、泡沫と共にいた。
 滾々(こんこん)と循環する──パイプがひっきりなしに送り込み、または排水しているらしい──液体の中で人影は悠然
と本を読んでいた。
 にも関わらず人影にさほど苦しむ様子はない。死んでいるのか? ホルマリン漬けのごとく……。
 いや、人影は確かに生きていた。恐ろしく濁った瞳。本に落ちるそれはゆっくりとだが確かに上下に動いている。
 機械人形でない証拠に瞳の奥には確かな理性の光が灯り、時折ふと考え込むような仕草さえ取り、やがて得心がいった
という風に頷いては爪の長い指でページをめくっていく。
 服も奇妙。中世のおとぎ話に出てくる貴族か王子が舞踏会に着ていくようなスーツ。
 傍らには本を山積みにした小机さえ置いてあり、彼にとってこの異様な光景がいかに日常的一幕に過ぎないかを雄弁に
物語っていた。
 人影は男らしかった。らしい、というのは素顔が見えないせいである。人影の顔には毒々しくも美しい蝶々の覆面が止まり、
その素顔をまったく永遠の謎の物としていた。ただし彼の細く引き締まった長身はまぎれもなく男性の物であった。少なくても
女性らしい丸みというのは健康的な筋肉もろともどこかへ削ぎ落ちてしまっているようだった。羸馬(るいば)がごとき窶れ
枯れ果てた病的な体を黒い情熱一つでようやく現世に留めている、そんな男だった。

 彼の通称を、パピヨンという。
 本名は蝶野攻爵。不治の病に冒され死から逃れるため錬金術──不老不死の法──に手を出した男である。
 やがて彼は様々な経緯の末、人間をやめ、武藤カズキという少年に格段の経緯を払うようになった。
 この点、元信奉者として剣を交え、その果てで敬意と罪悪を覚えるようになった秋水と似ていなくもない。
 もっとも、良くも悪くも生真面目で実直な秋水とは真逆の道を行ってもいるが。

【9月6日】

 発端は9月6日の夜というから、戦士一同のあれやこれやよりかなり前の話になる。
 秋水が病室でまひろと空気の読み方を模索した(9月7日)よりも、剛太が桜花に呼ばれたメイドカフェで仮面の戦士たち
と共闘したり斗貴子が殺し屋一同と残党を殲滅した日(9月10日)よりも、前。

 その日彼──パピヨンはいつものごとく塒(ねぐら)たる研究室で本を読んでいた。
 読書は人間だった頃からの慣習である。かつて不治の病に冒され、自ら命を救うべく錬金術に手を出した頃から──自宅
の蔵で曾祖父の残した研究資料を見つけた時から──ヒマさえあれば本を読んでいる。
 ちなみにパピヨンが入っているフラスコは「修復フラスコ」といい、ホムンクルス以上の存在を修復する何とも都合のいい
液体が満ちている。中にいるにも関わらず呼吸ができるのもまたこのテの液体の常であろう。
 それはさておき、研究室の空気はひどく淀んでいた。
 カビ臭く、埃が立ち込め、機械達が無遠慮にぶっ放す正体不明の蒸気が混じり込み、薬品の刺激臭さえ満ちている。
 ラジエーターに似た機械もまた黒こげた微細な粒子を絶え間なく巻き上げており、目下研究室の空気は汚染の一途を辿っ
ているとしかいいようがない。とても深刻な状況だ。このままいけばフラスコ周りで埃に立つ無数の紫の帯がスモッグに転
嫁する日もそう遠くない。
 これでパピヨンの読む本が「大気汚染改善法」ならばまだ救いもあるが、現実とは常に救いのない方へと傾くものだ。
「核鉄〜その起源と用法について〜」。邦訳すればそんなタイトルの本からパピヨンはまったく目を離さない。
 そして研究室ではカビが増殖を続け埃が舞い、時折機械どもがぶっ放す有害そうな蒸気が苦い匂いの黒粒子と混じって
いく……。空気はそろそろ活火山付近並の有毒性を帯び始めていた。
 そもそも部屋に換気装置というものはなかった。
 ファンはおろか窓の一つさえ、この部屋には存在していない。もしかすると研究室は地下にあるのかも知れない。
 とにかく。
 パピヨンの周囲360度あらゆる先に窓はない。壁という壁が本棚に覆い隠され、その本棚ときたら隅々までぶ厚い古書
に埋め尽くされている。金箔で押された洒脱な題名がすっかり黒ずんでる奴もあれば緑の装丁にすっかりシミのういた奴
もある。ほぼほとんどの物にバーコードはなく、20〜21世紀の流通形態で仕入れた物でない事は明白だった。まるでそれ
を示すかのように羊皮紙を板で挟んだだけの物が本棚の所々を彩っていた。ひょっとしたら昭和どころか大正明治、或い
は幕末以前に海外から買い付けたのかも知れない。本の題名のほとんどは英語かドイツ語で、日本語で記された物は極
端に少なかった。これら3つ以外にも雑多さまざまの言語がひしめきあい、本棚は正に古今東西万国共通、載籍浩瀚(さい
せきこうかん)の様相を呈していた。
 パピヨンが読んでいたぶ厚い本──表紙と裏表紙に銀箔付きの茨のレリーフが施された、なかなか豪華な──もその一
冊である。図書館顔負けの神経質で高さ厚さ巻数順中に揃えられた古書たちの中の一冊。それを「それなりに面白いじゃ
あないか。特別に覚えておいてやる」とでも言いたげな、集中力と好奇心充足と些かの上から目線が入り混じった満足度5
8/100位の表情で読むパピヨンは──…やがてぽつりと呟いた。
「御苦労」
 フラスコ越しにくぐもった声が薄暗い部屋に木霊した。
 誰にいっているか分からないが、例え誰が相手でも心底ねぎらうつもりはないらしい。「御苦労」。事務的で高慢な声を
一発漏らしたらきり彼は活字世界へ再没入した。
「あなた結局最後まで手伝わなかったわね」
 ぼんやりとした人影がパピヨンの遥か向こうで肩を竦めた。もしかしたら部屋の空気のあまりの汚さに呆れているのかも
知れない。
「当然。肉体労働は昔からキライなんでね」
「ああそう」
 これもまた事務的で高慢な声だ。いや、無愛想と棘棘しい怒りを孕んでいる分パピヨンよりひどい。耳をそばだてよく
聴けば少女らしい甘さと可憐さを秘めた愛らしい声なのだが、その良さは感情の引き攣りでだいぶ減免されている。
 パピヨンのはるか向こうで扉が閉じる音がした。続いてやや乱暴な足音が近づいてくる。黒い靴下に覆われた細い脚は
時おり床に広がるパイプに躓きかけ、その度いよいよ苛立ちを高めているようだった。「片付けなさいよ」。聴かせるため
に吐いている独り言──女性がよくやるアレだ。応じれば「何?」といよいよ喧嘩腰の応対が飛び出し、無視しつづければ
これまた「聴かせるため」の苛立たしい溜息が飛び出す──が足音とともに近付いてくるが、しかしパピヨンは取り立てて
気にする様子もない。ただひたすら本を読み続けている。心底どうでもいい。そんな様子だった。
 ご多分に漏れず、溜息が洩れた。聴かせるための。「私の文句を無視する訳ね。アナタそれでも男なの?」そういう糾弾
の混じった溜息。しかし糾弾を以て男性諸氏の情けなさを抉りだす溜息。どこかに勝利宣言を帯びた(ただし物事の根本
的解決は何ら進んでいない、感情的なだけの)溜息である。

 やがてフラスコの前についた影──座っているパピヨンとそう変わらない、小柄な──が棘のある声を漏らした。
「私は横浜からここまで必要な機材を運んで来たのよ」
「貴様の所有物だろ。貴様が持ってくるのは当然さ」
「1つだけじゃなかったのよ。どれだけあったと思うの?」
「フン。途中から”例の避難壕の応用で大分楽に運べるようになった”と楽しそうに報告していたのはどこの誰だ?」
「なっ……」
「確か床を一旦傾け、地下に滑らせた上で内装を上へとせり上げる……だったな。大発見じゃないか。貴様自身、らしくも
なく目を輝かせていたじゃないか」
「輝かせちゃ悪い」
 人影の額に青筋が浮かんだ。怒りのオーラも巻き起こる。
「別に。だからやらせてやったのさ。そもそも100年来の引きこもりにはドロ臭い肉体労働がお似合いだ」
「…………」
 戯画的な怒りのマークが1つ、人影の右即頭部に追加された。
「そもそもあの作業を楽しんでおきながらこの俺にまで手伝わさんとするのは傲慢も甚だしい」
 大気が凍る音がした。同時に十字路に似た憤怒の烙印が人影の頭や顔のそこかしこに押されていく。音も烙印もパピヨ
ンが喋るたび増えていく。人影が彼の言葉に耐えがたい不快感を覚えているのは明らかだった。
「だいたい、貴様の母の手持ちの機材をこちらへと合流させ『例の研究』を進めたいと持ちかけたのは貴様の方だろ」
 超特大の烙印が人影の背後いっぱいに押された。人影の両眉がビキリと跳ねあがり、右頬は激しい怒りのもたらす痙攣
に打ち震えているいるようだった。
「ならば貴様がこの俺のための身を砕くのは当然のコト。これからもせいぜい従え。俺の為だけに動け」
 それきりパピヨンは会話を一方的に打ち切り、あらゆるリソースを本にのみ向け始めた。
(イヤな奴。道理でママが妙に冷たくあしらっていた訳ね)
 修復フラスコの前で声の主──ヴィクトリア=パワード──はただでさえ冷たい瞳を更に冷たく細めた。
 輝くような金髪の少女である。長い髪を緑のヘアバンチ(筒状のヘアアクセサリ)で幾房に分けているところはいかにも
人形のような愛らしさを振りまいているが、表情や仕草にいちいち刺々しさがあるのが珠に瑕である。日の光など知らない
ような白い肌。欧米人らしくすらりと通った鼻梁。113年以上の生涯をまるで伺わせぬ少女らしい細やかな肢体。どれ1つ
とっても銀成学園生徒の歓心を買うに十分である。(特に武藤まひろなどは積極的にスキンシップを図る)
 そんなヴィクトリアの唇はやや血色が褪せてはいるが瑞々しく、今は柔らかげにきゅっと結ばれている。
 不機嫌の兆候だ。
 心にゆとりのある大人──たとえば寄宿舎管理人かつ戦士長の防人衛や、ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズのリーダ
ーたる総角主税──が見れば「ああ、ぐずってるぐずってる」と苦笑混じりに見逃せるほど他愛もない怒りだが、本人(ヴィク
トリア)は子供が全力で駄々をこね始める1分前のように我慢ができないでいる。
 ゆらいヴィクトリアは気難しく、短気で、そして狭量の気配がある。もっとも秋水やまひろの説得で寄宿舎へ戻った時から
頑なな心は少しずつ開放へと傾いているが、しかし100年の地下生活の鬱屈とそれが齎した屈折はそう簡単に治る物で
はない。
 やっぱり、ホムンクルス(錬金術の産物)はキラい。
 そんな思いがまず去来し、「ホムンクルスだからこの男は嫌な奴だ」というすり替えが頭の中にやってきた。
 次に秋水やまひろといった連中の顔が浮かび、彼らとそれなりの関係を築けているのは彼らが人間(錬金術の産物では
ない)だからという考えも浮かんだ。
 もっとも突き詰めればそれは自己弁護でもある。
 考えてもみよ。そもそも秋水にしろまひろにしろ、ヴィクトリアの抱く第一印象は全くもって良くなかった。それが今日(こん
にち)、やや良好な協力関係を締結できているのは彼らと交流を持ち、ヴィクトリアが彼らを受け入れる決意をしたからであ
ろう。
 理論的にいえば、である。「秋水たちにした”それ”」をやればパピヨンとも良好な関係を築けるかも知れない。にも関わら
ずそれを放棄しているのはパピヨンに対する腹立たしさを年上らしく、寛容に──ヴィクトリアはパピヨンより約1世紀長く
生きている──流せていないせいだ。
 単に流したくないだけともいえる。
 そして「パピヨンとは仲良くしたくない」という子供じみた怒りを「彼がホムンクルスだから仲良くする必要はない」という訳の
わからぬ感情論にすげ替え、秋水・まひろとの成功例を「彼らが人間だから上手くいった」という二重基準で棚上げ(本当は
誰が相手でも同じコトができるにも関わらず、”腹が立つからやりたくない”で放棄)している。
 という自分の微細な感情の流れには薄々気付いてもいるヴィクトリアだが、ああしかしパピヨンという傲慢の塊と直接
交渉する事の腹立たしさ。初対面という訳ではない。かつてニュートンアップルという女学院の礼拝堂や地下で接触したコ
トもあるがその時は「押しかけてきた大勢の中の1人」として軽く応対したにすぎない。(話が佳境に入る前にヴィクトリアが
退室したというのもある)。
 だがその時はまさかここまで腹の立つ男だとは思いも寄らなかった。
 少なくても横浜から埼玉まで何往復もさせたくさんの重い機材を運ばせるような男だとは……。
(ちょっとオシャレだからって偉そうに)
 無言で本を読むパピヨンの全身をねめつける。毒々しい色の蝶々覆面も袖にヒラヒラがついて胸がはだけた黒スーツも
まったくヴィクトリアにとっては可憐で麗しい格好だった。
 その他大勢の一人と応対しながらも、初めて見た時思った。天使、だと。
 それは母もまったく同じで、かつての女学院地下での質疑応答の後、母子二人して「オシャレだったわね」と頷き合って軽
く笑ったコトもある。(母は脳みそだけの存在だからよく分からないが雰囲気は笑っていた)。だが嫉妬憤怒の炎は相手に
圧倒的な美点があればあるほどそれを地上へ叩き落とさんと激しく燃えあがる物である。
「もういいわ。今日は疲れたの。もう帰る」
 踵を返すが背後から声はかからない。それがまた、腹立たしい。
 振り返りがてらまだ幼さの残る横眼できっと睨みつける。
(止めなさいよ)
 自分は共同研究者なのだ。持ってきた機材の使い方だって自分の説明がなければ決して分からない。第一横浜から苦
労して運んできた機材たちはまだ部屋の外に置かれている。設置さえまだしていない。レイアウトの相談や地面をのたくる
鬱陶しいパイプどもとの兼ね合い(または接続の)打ち合わせもした覚えがない。
(やるべきコトはまだ山積みじゃない)
 にも関わらずパピヨンときたら本に没頭し、大事なコトを何一つ話そうとしない。彼のやる気さえヴィクトリアは疑った。
 だいたい引きとめられないのは屈辱だ。

 ”機材の使い方を知っている”
 ”母のもとでずっと研究に携わっていた”
 ”その研究はパピヨンの目的達成に不可欠”

 ときたらつまりそれなりの価値が自分にはある……と思うのが普通だろう。にも関わらず「帰る」と告げて引きとめの一つさ
えない。密かに抱えた矜持みたいな物が崩されるようでパピヨンの無視は腹立たしい。もしかしたら説明なしで全ての機材
を使いこなし、レイアウトやパイプ接続をこなす自信が彼にはあるのだろうか。
「どうした。帰らないのか」
 ここでようやくパピヨンは顔を上げた。その顔はくつくつと意地の悪い笑みを浮かべていた。「貴様の考えなどお見通しだ」
そう言いたげだった。
 一方ヴィクトリアは「しまった」という顔で慌てて眼を逸らした。俯き、紫の光を帯びる床を始末が悪そうに眺める。
 振り返ったのは露骨すぎた。何かを求めているようで……。失態を演じたという思いが白い顔をうっすら上気させている
のを痛感した。以前の自分ならまずそういう反応は出なかっただろうが、あいにく秋水・まひろと関わるうちおかしな影響を
受けてしまっているらしい。
 以前の私の鉄面皮の方が良かった。絶対。そう後悔すると羞恥はますます加速するようだ。
 とりあえず顔を上げる。大丈夫。紫の証明のせいで顔の赤さは分からない。そう言い聞かせる。
「明日は来るわよ。来なければ研究進まないでしょ」
 繕いになっているのかどうか。仄かに赤い頬の上の瞳を務めて冷淡に細め、ヴィクトリアはパピヨンの横を指差した。
「私はパパを、アナタは武藤カズキを。それぞれ人間に戻したい。だから手を組んだんじゃない」
「フム」
 パピヨンもヴィクトリアの指を横眼で追った。本が山積みになった小机の上には──…
 黄色い核鉄も乗っていた。
 もう1つの調整体。
 かつてそれを求め、戦士たちとザ・ブレーメンタウンミュージシャンズという共同体が激突したのは記憶に新しい。
「そしてアナタが戦いの最後の最後で乱入し手に入れた。もう話したけどそれを使えば」
「白い核鉄の精製が可能、か。確かにご先祖様の研究資料とあののーみその研究資料を突き合わせればそうなるようだが」
「その”のーみそ”っていうのやめなさいよ。ママに失礼でしょ」
「粋がるなよ。所詮のーみそはのーみそに過ぎん。しかし──…」
 ヴィクトリアがたじろいだのは明らかな蔑みを感じたからだ。蝶々覆面から覗くドス黒い瞳は確かにヴィクトリアを見下して
いた。顔が赤いの気付かれてたらどうしよう……ひどく少女らしい怯えに息を呑む。発見だった。らしくもない瑞々しさが蘇り
つつあるという発見だった。
「何よ」
「疲れたから帰る? フン、成功すれば貴様の父が人間に戻ると知りながら、たかだか横浜埼玉間を往復した疲れ程度で
貴様は研究を諦めるという訳だ。つまり貴様にとって父の再人間化などその程度の物!」
「何よ。1日ぐらい──…」
「怠け者は常々そういう」
 パピヨンは立ち上がり、いささか芝居じみた仕草でヴィクトリアを指差した。本はすでに両手で畳まれ小机の上に放り出さ
れている。早業。ずっとパピヨンを凝視していたヴィクトリアでさえ気付けなかった。
 ……そして彼が嘲笑混じりに放った次の言葉が彼女に居残りを決意させた。

「そうやって1日ぐらい1日ぐらいと先延ばしを続けてきた結果、貴様は100年も地下で引き籠っていたんだろ?」

 まったく、腹が立つ。
 作業を終え、寄宿舎に戻ったヴィクトリアは寝てからなお夢の中で毒舌三千連発をパピヨンに浴びせるほど憤っていた。
 友人たちとの何気ない談話の中でも怒りはどこかに覚えていて、まったく落ち着かない気分だった。
 しかも。そういう時に限って。

「びっきーの髪ってたこに似てるよね」

 などとまひろが言い放つからたまらない。
(たこ……)
 頬が引き攣り一瞬叫びだしたくなった。内心不快に煮えたぎっている時に「たこ」はない。ヴィクトリアは本当もうこの天然
少女を頭からバックリやってやろうかと(食べはしないが。歯型の一つでもつけてやり「私はホムンクルスよ。アナタは格下」
とばかり、どちらが生物的に優位かはっきり思い知らせてやるべき)思った。……もっとも踏んでも踏んでもまひろは懲 りず、
結局ヴィクトリアの惨敗に終わったのは091話のごとくである。

【9月11日】

「けーれども彼はこ・こ・でさよなら♪」

「「「「「「「「残念だったねェ!!」」」」」」」」

 教室に響く合唱を津村斗貴子は「なんだコレ」とばかり聞き流した。平素凛々しく尖る瞳もいまや呆れの半眼だ。頬にも汗
が一しずく。銀成市民と絡むたびよくやる表情だ。記憶こそないが故郷の赤銅島で和服を着ている時は絶対しなかっただろう。
 ちなみに教室は前と後ろでガラリと様子が変わっていた。教卓のある方は20人以上の部員が思い思いの動作(演技・観
劇・打ち合わせなどなど)ができるほど広々としているが、その煽りで教室の後半分は机や椅子がギッシリと押し込められ
雑然としている。
 斗貴子は教室の中ほど、窓際で先ほどから教室の様子を眺めていた。
(しかし、演目の意味不明さはともかく、日曜日なのによくやるなこのコたち)
 演劇論を戦わせる女子たち。
 セリフの確認をし合う男女たち。
 仲間と連れ立ってストレッチをする男子たち。
 教室の後ろに追いやられた机を見れば熱心に台本を読み込む若人たちがぽつぽつと。
 広々とした教室の前半分はいかにも活気ある文科系部活の姿である。
 顔見知りもいくらかいる。
「たか! とら! ばった! た・と・ば! たとばたっとば!」
 楽しそうに「これはどうかな!」と部長らしき上級生にお伺いを立てているのはまひろで、ジャージ姿で座りこみ、柔軟体操
をしているのは沙織。「ぎゃあ、痛い痛い」と体の硬さに泣き笑い中だ。
 机の群れの中には台本を熱心に読む千里。
 鉛筆を忙しく動かしてはすぐ思案顔……という様子を見るにつけ、ひょっとしたら台本担当なのかも知れない。メガネをか
けたおかっぱ少女はいかにも文芸少女という感じで好ましい。
(しかし教卓前のアレは何だ? えーとだ。アレは、パピヨン……じゃないな)
 額に手を当て俯く。
 まず教卓の前に男が一人。金のカツラを被り、黒いスーツに銀色の仮面。紫色のマントも付けている。
 彼から2mほど前には男女が計8人。横に整列する彼らはいかにも「中世北欧の村人」という質素な衣装だ。
 そして彼らは教卓前の男がシャキっと振り向き叫ぶや同調する。


「けーれども彼はこ・こ・でさよなら♪」

「「「「「「「「残念だったねェ!!」」」」」」」」

(いったい何をやっているんだキミたちは)
 新入部員たる斗貴子にはひどく理解しがたいが、彼らは彼らなりの決まりごとのために叫んでいるらしかった。
 そして斗貴子の仇敵は先ほどから黙然と腕組みしたまま黒板の前に突っ立っていた。
 毒々しい蝶々覆面は当たり前のようにそこにいて、しかも丸めた台本さえ握っている。よほど演劇に執心しているらしく、
「さよなら」「残念だったねェ」のコンボをひどく熱心な眼差しで眺めている。
(パピヨン!)
 いつの間にかやってきて監督を務めているというパピヨンは、全く以て平和な演劇部に不要な存在だ。少なくても斗貴子
自身はそう思った。邪魔者。かどわかし。いやむしろガン。悪性新生物。死ね。いや死なす。ブチ撒ける。
(奴が人気のない場所に行った時がチャンスだ。まず助けを呼べないよう口を切り裂いてやる。そうだ。死ね。苦痛の中で
後悔すればいいんだ。なまじ章印がないばかりに楽には死ねない! フフフそうだ思い知れ思い知るがいいんだクク〜クククッ!)
 精神が汚染されている。そんな実感もむべなるかな。
 そもパピヨンのせいで入りたくもない演劇部に入る羽目になった斗貴子だ。

 早朝……

「戦士長。よくも私を演劇部に入れてくれましたね。アリガトウゴザイマス」
「ああ! キミも青春をたっぷり楽しんで来い!」

 正午……

「桜花! よくも私を演劇部に入れてくれたな!」
「ええ。津村さんも青春を謳歌してみたらどうかしら」

 さっき……

「いいかまひろちゃん! 私はあのパピヨンを追い出したらすぐ辞めるからな!」
「ダメだよ斗貴子さん! 一度しかない青春なんだし卒業まで演劇やらなきゃもったいないよ!」

(くそう。どいつもこいつも勝手なコトを! パピヨンの道楽に付き合わされるこっちの身になれ!)
 楽しみ謳歌すべき一度しかない青春は、無責任な連中のせいで確実に浪費されている。
 唯一味方になりえそうな剛太も体験入学とか何とかで一応来てくれたが、斗貴子を見るや爽やかな笑顔で退室した。
「やっぱり、先輩は演劇部にいるべきです。影ながら応援してます。それじゃあ!」」
 その時斗貴子は(まひろに無理やり)メイド服を着せられていたが、斗貴子自身はなぜ剛太が親指さえ立て満面の笑顔で
逃げて行ったかは分からない。
(よくも私を見捨ててくれたな剛太。後でたっぷりブチ撒けてやる!)
 歯がみしている内、演目が終わったらしい。
「どうでしょうか監督!」
 銀色仮面がひどく嬉しそうにパピヨンに呼びかけた。
「話にならんな」
 ひどく堅い声を漏らしたきり、パピヨンは無言で銀色仮面に歩み寄った。そして2歩ほどの距離で止まり、丸めた台本を
銀色の仮面に突きつけた。即興品なのだろう。セロテープで接合された仮面の一部がハラリと取れ、だらしなくブラ下がる。
 斗貴子は見た。蝶々の翅の奥にある瞳が歪み、濁った怒りを放つのを。
「今の演技のどこに貴様自身がある? 貴様はただ元の演者の動きを頭の中でなぞっているにすぎん」
 暗いがひどく熱の籠った声音だ。銀色仮面は「その声音を浴びるぐらいなら怒声の方がマシ!」という風に息を呑み、ガ
タガタと震え始めた。他の演劇部員も同じだった。凍りついたように体を止め、視線だけをパピヨンたちに釘付けた。
「猿真似としても全く練習不足! 話にならん! まずは本家本元の動きを完璧に模写(トレース)しろ!」
「はい監督!」
「模写(トレース)した上で忘れろ! 全てをだ!」
「はい監督! ちなみに監督がこれをやればどうなりますか!?」
「フム。なかなかいい質問をするじゃあないか。ならば特別にこのパピヨンの演技を見せてやる」
 やがてパピヨンはいやに爽やかな笑顔を浮かべ、クルクルとワルツを踊ったり片足を高々と持ち上げたりしながら最後に
極上の笑顔で手を広げ「残念だったな!」と叫び……あと、血を吐いた。
(うわあ……)
 斗貴子は思わず目を背けた。これほどひどい演技は見たコトがない。
 果たして演劇部一同からもざわめきが上がり始めた。
(いい気味だ。メッキが剥がれたなパピヨン。貴様の演技など受け入れられるはずも──…)
「すげえ! まさかこんな解釈があったなんて!」
「え?」
 ガッツポーズする銀色仮面を斗貴子はまさしく「眼を点に」見た。
「ええ。ここでの華麗で流麗な動きは後に生きるわ!」
「この後に訪れる絶望がッ! 引き立つのよーっ!」
「僕は動き自体を評価したいね。新体操とダンスを組み合わせたまったく一分の無駄もない斬新な動き。これはまったく
演劇界に革新と旋風を巻き起こすよ。もちろん、演技力も特筆すべきだけどね」
(あの、ミナサン?)
 口々に賞賛を送りだす演劇部員に斗貴子は愕然とした。分からない。何がそんなにいいのか分からない。
「最後に血を吐くのがまたスゲーぜ! 見る人に新たな解釈を与えるし何より吐血それ自体がインモラルでエロい!」
「実をいえば吐血自体はハプニングさ。失敗失敗。力むあまり血を吐いてしまった」
 袖で口を拭うパピヨンに、得意気に笑うパピヨンに、部員達はますます興奮した。
「本物は違う!」
「力むだけで血が!」
「まさに迫真の演技!」
「もうダメだこの演劇部。私は帰る」
 盛大な溜息をついて斗貴子はよろよろと歩き出した。ストレス性の頭痛と発熱と悪寒が全身を蝕んでいる。
(くそ。やっと例の音楽隊との決着がついたのに、いつまで私は銀成市に……ん?)
 喧噪の中で足が止まる。
 思考があらぬ方向へ飛んだのは、現実逃避のためかも知れない。パピヨンへの賞賛は未だ鳴りやまない。
(そういえばもう1週間か。この学校で『あの』虚ろな目をした鳥型ホムンクルスと戦ってから)
 そして秋水が頭目を倒し、決着がついてから1週間。
(ブレミュ、だったな。大戦士長の誘拐事件について協力するという話だったが)
 いまのところ防人から進展についての説明はない。
 正直、演劇部入部に策謀を巡らせるぐらいならブレミュ勢の顛末や誘拐事件の進捗状況ぐらい話しても良さそうなもの
である。
 そう思いかけた斗貴子は「仕方無い」という表情で首を振った。
(大戦士長の誘拐は戦団全体に関わる問題だ。となれば処理に当たるのは当然、本部やそこにいる火渡戦士長というコ
トになる。戦士長(防人。ブラボー)の手はすでに離れているだろう。もし、もう一線を退いている彼に連絡が来て、私達に
も伝えられるとするような状況があるのなら、それは──…)
「どうしたの斗貴子さん? 浮かない顔して……。ひょっとして部活、楽しくない……?」
 思考を遮るようにまひろの声がかかった。はっと現実世界に目を向けると、つぶらな瞳の少女が眼前いっぱいに広がっ
ている。どうやら彼女なりに気遣っているらしい。太い眉毛が心配そうに潜まっているのがよく見えた。
「い、いや」
 こういう雰囲気に慣れていないだけだ。嫌という訳ではない。半ば本音で半ば配慮に対する社交辞令をぎこちなく漏らすと
まひろも一応理解してくれたようだ。「それなら」と明るい表情を浮かべた。
「というかキミ、なんでそんな服なんだ?」
「俺に質問をするな……」
 真赤なメッシュジャケットとメッシュパンツに身を包んだまひろは、ふふんと瞑目し腕組みをした。どうやらハードボイルドを
気取っているらしいが何かもう全体的に上滑っている感じだった。
「どう、似合う? 刑事さん! やる夫社長さんから聞いたけどね、別世界にはこんな刑事さんがいるんだって! で、青い
強化装甲身にまとっては連敗するのでした! あ、素早くなるんだったかな……。どっちだっけ斗貴子さん」
「私に聞かれても」
 忙しい少女だ、斗貴子はそう思った。花開くように笑ったかと思えば両目をキラキラと輝かせ旧知を語り、小さな顎に指を
当てフと考え込む仕草をし、最後はまるで幼女のようなあどけない直視を送ってくる。
(やれやれ)
 ただまひろが前に来て喋った。それだけなのに毒気がいささか抜けているのに気づき、斗貴子は微苦笑した。本当にもう
気楽で能天気で手に余る少女だが、そこにいるだけで周囲を和ますという点では他の誰よりも長けているらしかった。
 そういえば黙りこんでいる斗貴子にわざわざ歩み寄って声を掛けたのは現状ではまひろ1人だけだ。
 ……とはいえ、他の何人かは斗貴子の様子に気付いていたらしい。まひろにつられる形で1人、また1人とぽつぽつ歩み
よってきた。
(い!?)
 どうやら「気付いていたが初対面なので声を掛け辛かった」らしい。それがまひろの遠慮斟酌なき呼びかけで打破された
という訳だ。いうなれば斗貴子という城塞の門が攻城兵器まひろで破られたのを幸い、演劇部兵士諸君がわっとなだれ込
んできた格好になる。……1人、3人、5人すっとばして20人。いつしか斗貴子を取り囲むように演劇部員達は思い思いの
呼びかけを始めた。
「大丈夫ですか?」
「緊張しますよねやっぱり突然演劇なんて!」
「いや、違う! 私の抱えている問題はそういうのじゃなくて!」
 面喰らったという顔で壁に背をつき両手を広げる。ざらっとした白い粉が掌を這う感触にぞっとする。デジャヴ。確か転校
初日もまひろのせいでクラスメイトからの質問攻めに遭った。
「じゃあ台本書くのはどうです斗貴子さん! お話を書くのは面白いですよ!
「いや、正直私は話作りの才能なんて……違う! というか若宮千里! なんでキミまで乗ってきている!」
 どっからどう見ても制止役のおかっぱ少女までもが台本片手に勧誘を始めているのを見た時(心持ち、彼女の顔は桜色
に染まり、小さな鼻から興奮性の吐息をふんすかふんすか漏らしていた)、斗貴子はまったく思った。
(やっぱりこの学校はヘンだ!)

 質問攻めが終了するまで10分を要した。

「チッ」
 ファンを取られた。パピヨンだけは嫉妬の視線で斗貴子を眺め……
 どこかへと消えていった。

 車座に──厳密にいえば窓際の斗貴子を取り巻いていたので車座の半分だが──連なっていた演劇部員達が水を引く
ように去って行き、後はまひろだけが残された。
「ところでキミたちがやってる演目はなんなんだ?」
「何って、何が」
 まひろは大きな瞳をハシハシと瞬かせてた。質問の意図がよく分かっていないらしい。演目に馴染みすぎているせいで
「みんな知ってて当然」とばかり思い込んでいるらしい。何かを修練/追及している者にありがちな齟齬。何も知らぬビギナー
への説明意識がカラッカラらしかった。
「その、さっきからずっと”さよなら”だの”残念だったね”だのばかりやってるような気がするんだが」
「あ、それ? それはねー」
「ガウンの貰い損」
 聞き覚えのある冷淡な声に斗貴子は振り返る。
 声は、教室の後ろの一角、不規則に並ぶ机の上から響いていた。
 その声の主は、きゅうきゅうと詰まる机の隙間をものともせず、座っていた。
「ガウンの貰い損とはサウンドクリエイターれヴぉを中心とする日本の音楽ユニット。自らを「幻想楽団」と称し、物語性の高
い歌詞と組曲的な音楽形式による「物語音楽」を主な作風とする。ファンからの愛称はガンモラ」
 まるでwikipediaか何かから拾った文章をそのまま読んでいるような影に斗貴子は見覚えがあった。
「六舛孝二……どうしてキミがここに」
「もうすぐ馬鹿が来るから先回りして止めに来た。あの様子じゃ大浜でも止められないだろうし」
「?」
 それより、と六舛は眼鏡をくいと押し上げた。
 髪の短い、ひどく希薄な印象の少年だ。顔立ちには特に特徴らしい特徴がない。もっとも特徴がないというのは際立った
欠点もないというコトになるから、どちらかといえば端正な顔立ちの少年だ。
 斗貴子は首を傾げたが、この少年は常に何を考えているか測りがたい。もし武藤カズキの親友の1人でなけれ ば生涯会話
らしい会話をせずに終わっただろう。それほど斗貴子とは共通点が少ない。
「いまやってた演目はガンモラの中で一番有名な奴」
「あ、ああ。説明してくれたんだな。今の演目が何か」
「そ。簡単にいえば”さよなら”とか”残念だったね”は決めゼリフ。だからファンはみんなやる訳」
 まったく抑揚も感情もない声だ。冷静そのもの。カズキたち4人の中で一番成績がいいというのも頷ける……斗貴子は
改めてそう思った。
「さすが六舛先輩! じゃあさじゃあさ、これは知ってる!」
 斗貴子が振り向くとまひろは妙ないでたちをしていた。先ほどまではあまり刑事らしからぬ真紅の衣装だったのが、今度
は打って変わって騎士風の鎧と剣を持っている。そして右手の片手剣をまひろは悠然と突き上げた。
「彼方へ! 私の道を……切り開く!」
「ジェシカの彷徨と恍惚・傷だらけの乙女は何故西へ行ったのか・漂流編」
「正解!」
 目を > <  こんな形にしてきゃいきゃい騒ぐまひろと机の群れで淡々としている少年を斗貴子はげっそりとした眼差し
で見比べた。しなやかな体がこころなし猫背になっている。
(いや、何の話をしているんだ。分からない。今の若いコたちはこういうものが好きなのか?)
「ちなみにジェシカは7時間以上かかってなお未完の作品。ガンモラ最低の駄作の呼び声も高いが、その長さと未完結作品
ゆえにディープなファンたちの人気は高い。情報量をどれだけ短くまとめられるか競ったり、或いは欠落した部分を他の作品
からの引用で補完したりする。ちなみにこれが生まれたのは”フウト”ってところで別世界のこの街には仮面ライダーが居る。
091話最後で出てきた猫と老人はきっとその別世界から来た筈だ。あとテラードラゴンは分離すべきじゃなかったよね。あれ
頭に載せた状態のが強かったよね」
「何の話だ……」
 もう嫌だ。かつて根来に忍法うんぬんを披露された時のようなゲンナリ感。目が眩む思いだ。
「私たちが今度発表する演目もジェシカだよ! みんなで知恵を出し合って一生懸命作ってるの!」
 はしゃぐまひろだが斗貴子のテンションは上がらない。思わず肩を落とした。
「……よく分からないが人の作品を勝手にいじくっていいのか?」
「斗貴子氏は知らないだろうけど『二次創作』っていう立派なジャンル。結構あるけど? マンガとか小説とかのも。例えば
連載2年で打ち切られ単行本10巻しか出てない作品の二次創作を5年近くやってる物好きだっているし」
「本家本元より長く? 考えられない。何がそうさせているんだ……」
「愛だよ。愛! 愛だよ斗貴子さん!」
 単行本全10巻DVD全9巻小説2冊ドラマCD4つサントラ1つゲーム1つ。いずれも絶賛発売中である。
「だいたいガンモラは二次創作に寛大だし。れヴぉっていう一番偉い人はお酒さえ飲めれば自分のキャラがどう使われよう
といいって宣言している。だからファンたちはいわゆる自分設定を作って楽しんで、それをインターネットで仲間たちに発信
して楽しんだり、同人誌とかも出してる。同人の中では最大手でグッズとかいっぱい出てる」
 ディープな世界だ。そもそも斗貴子は同人が何か分からない。
「てゆーか六舛くん、その話、色々混じってない?」
 おずおずとした声に斗貴子ははっとした。
 高校生にしてはやたら恰幅のいい青年が、机をガゴガゴと広げながら近づいてきている。はちきれそうな学生服の上で
気弱な顔がひどい苦難に歪み、大息さえついている。それはやはり体型ゆえか。彼はやがて六舛の傍に寄り……
「やっぱり止められなかったか。仕方ない。気にするな。暴れる馬鹿が悪い」
「ごめん。体当たりして先回りする時間稼ぐのが精いっぱい……」
 とだけ謎めいたやりとりをした。
(六舛孝二に大浜真史……。カズキの友人が2人揃ったというコトは!)
 ここで斗貴子もだいたいのあらましが想像できてきた。そしてそれは、当たっていた。
「ゴメン斗貴子氏。ちょっと説明中断するけどいい?」
「構わないが」
 頷きながら六舛は立ち上がり、演劇部員をかき分けながら教室をナナメに縦断し始めた。どうやら教室の前のドアを目指
していた。斗貴子がそう知ったのは総てが決着した後である。
 そして。
「聞いたぜ! 桜花先輩が演劇部に入るってな! だったらお相手役はこの俺しかいねぇだr」
「黙れ岡倉。お前に演劇の才能はない」
 勢いよく開いたドアの向こうに彼は(淡々とした声で)手を差し込んだ。窓際に佇んでいた斗貴子だが、その角度上ことの
あらましは大体見れた。骨法。鮮やかな手つきで友人の首を一回転させ、滑らかに気絶させる六舛を。彼は武術にさえ通
じているのかも知れなかった。
 一拍遅れて、骨の外れる小気味のよい音が響いた。演劇部員達はすわ何事かとドアを見たが──…
「なんだエロスか」
「本当だエロス先輩だ」
「エロスさんなら別にいいや」
 みなチラ見しただけでそれまでの行動に戻った。
「チクショオオオオー! 俺ならいいってのかよォ!」
 果たして一拍遅れの恨めしい叫びが教室を貫くころ、斗貴子はようやくだいたいの事情を察した。
 だが、しかし、それは。
 腰に手を当て厳しい目つきをする。実に馬鹿馬鹿しいという思いでいっぱいになる。
(あのやたらはしゃいでいた声。間違いない。岡倉英之。あのエロスか)

 やがて見覚えのあるリーゼントが大浜の肩に乗り、六舛の「馬鹿が迷惑かけてすまない」という謝罪と共に退室するまで
斗貴子はしばし黙りこみ──…刮目。絹を裂くような叫びをあげた。

「というか桜花が入部ぅ!? なに考えてるんだあの生徒会長は!」
「秋水先輩もケガが治るまで仮入部するらしいよ!」
「んで監督がパピヨンか! なんでこうLXEの連中が急に多くなってきたんだこの部活!」

「えるえっくすいーというのは何じゃ?」
 振り返った斗貴子がしばし虚空を眺め戸惑ったのは、相手の身長のせいである。
「下じゃ下じゃ。のう、のう。えるえっくすいーというのは何なんじゃ?」
 促されるまま首の角度を急降下させると、ようやくながらに相手の顔が見えた。
(ちっさ!)
 まず率直な感想が浮かんだ。斗貴子もかなり小柄な方だが、この相手はもっと背が低かった。
 制服こそ銀成学園高校のそれだが、どう贔屓目に見ても小学校低学年でランドセルを背負っている方がお似合いだった。
(例の音楽隊(ブレミュ)の小札零ぐらいか……? いや、もっと小さいか)
 いま相手にしているのは130cmあるかどうかという少女だった。後ろで括ったすみれ色の髪の根元にかんざしを挿して
いる。かんざしといっても古風なそれではなく、今風のアレンジが大いに加わっている。フェレットとマンゴー。可愛らしいデ
フォルメの聞いた人形がかんざしの上からプラプラと垂れ下がり、揺れている。
(確か……銀成学園の新しい理事長だったな。元理事長の孫の。年齢は……まだ7歳ぐらいか)
 じっと凝視すると、好奇心たっぷりの笑みがすり寄ってきた。
「えるえっくすいーっというのは何なんじゃ? うまいのかの?」
 いかにも楽しそうな声を弾ませながら、理事長はぴょこぴょこ跳ねる。
 お姉さんお兄さんはみーんないい人で誰とでも仲よくできる。そう信じ切っている無邪気な瞳だ。春の湖面のように澄み渡
った大きな眼には物怖じした様子などカケラもなく、ただただ斗貴子の返事への期待感に満ちている。
 低い鼻のてっぺんに桃色が差しているのは妙といえば妙だったが、その妙な部分が却って少女らしい愛らしさを引き立
てているようだった。
(しまった。どう説明すればいい? あんな共同体のコトな……なんだこの匂い?)
 説明に難儀する斗貴子は目を瞬かせた。いい匂い。芳香剤とは違う。料理の匂い。誰か弁当でも食べているのか……
一瞬そう思った斗貴子が周囲を見渡すと、演劇部員たちの怪訝そうな眼差しが目に入った。彼らは、斗貴子を見ていた。
と思ったのは錯覚で、厳密にいえば彼らは斗貴子の方、彼女の前に佇む理事長を見ていた。
 彼らの視線を追う。スっと視線を落とす。マンゴーたちが踊るかんざしの後ろに、妙な物があった。
 幅だけでも教室の後ろにわだかまる机6つ(縦2つ横3つ)ぐらいはある。
 成人男性1名程度なら苦もなく飲み干せる、そういう姿だった。
 白かった。途轍もなく、大きかった。白磁の淡い輝きを滑らかな曲線に乗せ、その場所に鎮座していた。
 形状だけ言えばそれはどこの家庭にでもあるものだった。
 丼。
 だった。
(なんだただの丼か……。丼!?)
 とてつもなく巨大な牛丼だった。
 高さは斗貴子の身長と同じくらいである。見逃してしまっていたのが不思議なくらいの大きさだ。
 ステーキ並にブ厚い牛肉の破片が盛り上がる白米を埋め尽くしている。肉だけで眼前の少女の体重分ぐらいはあるので
はないか。斗貴子は戦慄する思いで観察を続けた。
 申し訳程度にまぶされた薄茶色の玉葱でさえ段ボール半分程度を消費したのは明白なのだから。
 一瞬斗貴子は「演劇部全員の昼食を持ってきた」と推測したが、生憎それは外れていた。眼前の少女は斗貴子が答えぬ
のを見るとさっさと諦めたようで、丼にとっとと駆け寄っていった。そしてめいっぱい手を伸ばし、更に背伸びをして、牛丼の
化け物に挑み始めた。
 素手である。手づかみである。演劇部員の間にどよめきが走った。しかし理事長が意に介す様子はない。
「うまいのううまいのう」
 くっちゃくっちゃと品のない音を漏らしながら二度、三度とその少女は牛丼に手を伸ばす。窘めるものはいなかった。みな
この異様の光景に心を奪われているらしかった。斗貴子もそれは同じで、口周りに飯粒を付けながらニコニコと機嫌良く
食事する少女をただただ見守るしかなかった。
「喰うかいの!」
 視線を曲解したのだろう。新理事長は手づかみの牛丼を斗貴子に差し出してきた。
「い、いや、そういうつもりでは。というかパピヨンがいない! どこへ……! 悪いが失礼する!」
 半ば強引に会話を打ち切る。奇妙な──どうせヒマ潰しにでも演劇部へ来たのだろう。斗貴子はそう思った──理事長
との会話をしていても仕方ない。そういう思いが彼女を教室の外へと走らせた。
(とにかく! パピヨンの件はさっさと片付けて大戦士長誘拐について戦士長に聞かないと!)
 そうだ、と斗貴子は顔を引き締めた。心の中で青い炎が燃え上がり、しなやかな四肢の隅々に活力を漲らせる。新たな
戦い。新たな脅威。それと戦い、取り除くコトこそ使命だ。斗貴子は常に、信じている。

(すでに一線を退いている戦士長に連絡が来るとすれば大戦士長が救出された後か、或いは!)

(大戦士長を誘拐した連中が、本部にいる火渡戦士長たちだけで手に負えないほど強大か!)

(そのどちらかの筈! 残党狩りが終わった今、私達が備えるべきは後者!)



「ひひっ。もったいないのう。空腹という奴は積極的に駆逐せねばいずれ魂さえ殺すというのに……」




 去りゆく斗貴子を見ながら理事長は薄く笑い、大儀そうに肩を竦めた。


【9月11日】


「ぎんせーい。ぎんせーい。ご乗車ぁ、ありがとうございましたー。お忘れもののないようお降りください。次はぁー……」


 電車から吐き出された人混みがせわしなく動く。
 ここは銀成駅だった。



「はい。ありがとうございます。ありがとうございます」

 切符切太郎氏(38)はまったく名前からして鉄道関係者になるべく生まれてきたような男だ。
 この日も彼は自動改札口の横に立ち、乗降客のめまぐるしい動きを監視していた。
 日曜日ともあり利用状況はまずまずだ。友人と連れ立つ学生たち、家族連れ、または熟年女性の団体さん。さまざまな
人種が改札口に切符を食わしていく。消化不良もなければ食えぬ切符を使う者もない。いつも通りの、平和な駅だ。
 跨線端の向こうで巨大な鉄箱が重苦しく走りだした。ホームから電車が消えた。電車が消えると乗り降りするお客も消える。
 切符切太郎氏は伸びをしてから腕時計を見、脳内のダイヤと突き合せた。次に電車が来るまでまだ30分はある。
 しばらくはヒマなので最近コリが激しい肩をぐるりと回す。
 生あくび混じりに「休憩室で芋羊羹と玄米茶でも啜るかな」……と思った時。

 やかましい足音と喧騒がホームの方からやってきた。


「つきましたよ皆さん。切符を改札口にお忘れなく」
(えーと)
 切符切太郎氏は反応に困った。軽く腕を上げたまま、生あくびで口を半開きにしたまま、自動改札口を見た。
「失礼します」
 まず通過したのはこども料金でも文句なしの小柄な人物だ。
 それだけなら商売柄よく観るし反応に困る必要もないが……顔が良くない。なんと『ガスマスク』を被っていた。
「不審人物ですまない。フ。車掌が注意するたび俺も諌めたのだが聞かなくてな」
 次に切符を入れたのは目も覚めるような『金髪の美青年』。胸には銀色の認識票。
「なんでも素顔をお見せするのが恥ずかしいとか! それはさておき車窓実況、楽しゅうございました!」
『シルクハット』を被った少女の後ろを『忍び装束』の少年が無愛想に進んだ。
「……我の周囲に浮いているのは風船だ。龕灯(がんどう)ではない。」
「はい……風船……です」
 少年とともにふわふわ浮かぶ奇妙な形の風船(?)の後ろで『虚ろな眼の少女』がぽつりと呟き
「だあもう! またコレじゃん! なんでこんなほそっこい紙いちいち入れなあかんのじゃん!」
『それが規則だ! 頑張れ! 他の場所ではできただろう!』
 どこか『ネコ』を思わせるしなやかな少女が出所不明の『大声』を浴びながら。

 怒濤のごとくバタバタと通り過ぎた。



「なんだあのお客さんたち……?」



 切符切太郎氏は首を傾げた。


 同刻。銀成市南端。



 砂埃の舞う広い道路を歩く2つの影があった。


「だからですねー、ディプレスさん? シズちゃんと臨也(いざや)なら断然前者が攻め攻めであるべきです! この上なくっ!」
「うっせえwwwwwww 道歩きながら腐女子談義すんなwwwwwww だからオタが嫌われるんだよwwwwwwwww」

 蝶野屋敷やオバケ工場といった戦士に縁深い施設が決まって山あいや丘陵地にあるのを見ても分かるように、銀成市は
ひどく山や丘が多い。例えばかつて武藤カズキがパピヨン打倒後、津村斗貴子の膝枕を受けたのも「山が見える小高い丘」
である。

 その銀成市で山が比較的少ないのが……市の南端である。
 ただし人類の発達発展というのは決まって平野に何かを作るところから始まる。言いかえれば、「山少なく平野多ければ
まず開発」である。銀成市も例に漏れず、市の南端に広がる平野部はことごとくサツマイモ畑だ。これは近辺の川越市が
さつまいも料理や芋菓子に力を入れているせいである。つまり銀成の農民たちはサツマイモを作って川越に売るのである。
利益率は中々で、南部に会社や工場を持つ者は不景気がくるたび「最悪建物潰してサツマイモ作りゃ何とかなる!」と──
実際、会社や工場の跡地にすぐ畑を作れるかどうかは疑問だが──のんびり構えている。
 文献によればサツマイモの生産はすでに寛政年間から始まっており、近年の研究によれば将軍徳川家治に献上された
川越芋のうち端っちょから3番目の泥のついた奴が銀成産のものだったという。
 現代においても川越芋の種芋のうち12〜3%は銀成で生産され、冬の終わりごろ川越市の農家に送られるのである。

 という訳で銀成市の南はひどくサツマイモ畑が多いのだが、それだけでは甚だ交通の便が悪い。畑潰して隣の市への
でっかい道路を、広い道路を! という声が持ち上がったのは昭和の交通戦争の頃で、その要求はすんなり通った。

 そうしてできた広い──大型トレーラーが3台併走しても大丈夫なほどの──道路を。
 両側にサツマイモ畑の広がる牧歌的な光景を。

 不審な人影が歩いていた。

 具体的かつ簡潔にいえば、彼らの全身は暗い緑のフードに覆われていた。
 顔は当然見えない。三角に尖る布を目深にかぶる彼らの顔面は漆黒の闇に覆われ、その表情を伺い知るコトはできなかった。
 ただ、右にいるフード姿はどことなく丸みを帯びた体型で、時おり少女のような甘え声をあげている。
「えー、でもいいじゃないですかあ。物静かだけど凶暴でー、意外と繊細なシズちゃんが、にっくき臨也をとうとう料理できる
んですよ! でも そ ー い う コ ト に は 慣 れ て い な い もんだから、色々失敗する。ヘタレ攻めですよっ」
「ちょwwwww30近い女が路上でディープな話題大声ですんなwww 同行してる俺マジ恥ずかしいwwwwwwwwwああ憂鬱ww」
「もおー。野球の話とかスキーの話なら大丈夫なのになんでアニメとか漫画だとダメなんですかあ?」
「さあwwww」
 左の方は右より頭一つ分ほど背が高い。体型にはこれといった特徴がない。ごくごく普通の『人間の姿』。
「しかし久々の『人間形態』はやり辛いwww でもハシビロコウだと目立つからなあwwwwwwwwwwwww」
 常に笑ってはいるが陽気な声とは言い難かった。口調の端々には嘲りと見下しと独りよがりな優越感の入り混じった暗い
感情が余すところ覗いている。常人なら決して会話相手に選ばぬタイプだろう。
「あwwwどうもおばちゃんwww埼玉県名物のサツマイモの生産乙っすwwwあざっすwwwwwwwww」
「ありがとうです。ただ欲を言えばですね、ここが池袋だったら聖地巡礼って感じでこの上なく良かったですッ!」
 彼らは農家の人々とすれ違うたび気さくに声をかけ手を振っているが、あまり芳しい返答は得られていない。
 農家の人たちは目を逸らし、手短に返事をしそそくさと行きすぎる。そんな調子である。

「ああしかし全身フード! この上なく素敵です! オタクのロマンですっ!!」
 右にいる全身フード──ひどく透明感のある柔らかい声だ──祈るように手を組んだ。
「この正体不明感とか未知の敵とかいう感じがこの上なくいいですよねディプレスさん!
 フードごと手をグッと突き上げ力説するクライマックスとは裏腹に、左のフードはやれやれと肩をすくめた。
「まあ大抵の全身フードは殺されるけどなwwwwww あと後で出てくる連中ほど扱いが微妙なのなwwwwwwwww」
「そうそう。フードこそ被っていませんでしたけど、ラスト6人辺りが相手の負け犬軍団さんともどもポッと出の強キャラにまと
めて瞬殺されたりとかー、10人いる幹部の1人が大した実力も人気もない子供キャラの竹刀攻撃一発で気絶したりとかー、
めっちゃ強い4番よりもっと格上な筈の1〜3番目があまり強そうに見えなかったりとかー。無印の後の真(リアル)もアレでー」
 指折り数えたクライマックスは「うん」ともう一回頷いた。
「12宮的にはラスイチなのに魚座ってば微妙でしたよね!」
「あいつと蟹座だけはガチで裏切ってただろwwwww あれが演技ならアカデミー賞ものだわwwwwwww」
「で、総じて振り返ってみると最初に出てきた人が一番強く見えたりしちゃうのです。何しろ一番手はインパクトありますから!」
「くそうwww 乗ったオイラが馬鹿だったwww こいつマジ止まらねえwww パねえwww 火のついたオタ、マジパねェwwwww」
「オタといえばなんでオタ話は良くないんですかあ!」
 クライマックスは情けない叫びを上げた。ディプレスの話によれば最早30に近いらしいがとてもそういう落ち付きのある声
ではなかった。
「アニメやマンガ、特撮が子供のものだったのはもはや過去っ! いまは大人も楽しめる時代なのです!」
「鏡見なwwww 楽しんでる大人とやらの顔や性格がどんなのか痛感できるぜwwwwwwwwうわひでえってなwww」
「むきー!! そりゃあ二次元に逃げ込んで心癒してるフシもありますけど、何も残らないかも知れませんけどね、でも心の
ある生物だから常に何かを愛さないとダメなんですッ! 少なくても私は諸事情でどうしても人を愛せないから常に代替物
を求めているのです! 何もかもが壊れそうな不安抱いて明日に怯え明後日ばっか見てたって答えはでませんけど!!
仕方ないじゃないですか!」
「いやいやwww 長えしそういう感傷と公共の場でのTPOはまた別だからwwww」
「ぬ!?」
「萌えとか801とか人を選ぶ話題を公共の場で無遠慮にすんなってオイラは言いたいwwww タバコと一緒wwwwwww ニコ
チン取りこまねーと苦しいからって禁煙席で吸っていいわけねーよwwwww」
「つまり……一般人さんが嫌がる話題を大声でするなと!」
「別にしたきゃやりゃいいwwww でも見知らぬオタから何度も何度も何度も不快な思いさせられた一般人はいつか報復に
出るぜwwwwwwww 禁煙席が増えまくったように、不特定多数へなああwww 法律作って罰則作って、オタ話は厳禁って風
潮作って、囲い込みにくるぜ? 不快な思いさせ続けたらなwwwwww だからクライマックス、お前も自重しろよw」
「さっきからこの上なくヒドい物言いですねディプレスさん! あまり傷つけてくると私の『スーパーエクスプレス』で数の暴
力をお見舞いしますよ!!?」
「ハッwwwwwwwww オイラの『スピリットレス』舐めんなwwwww お前に完勝したリバースさえ瀕死だぜ?ww」
 フード姿の男女はまったく同時に核鉄を握った。そして相手を牽制するよう突き出したきり黙然と睨みあった。

 頭巾の下にぼっかりと空いた漆黒から稲妻が散り、両者の間でスパークした。

 そして。

 静寂。

 静寂。

 静寂。

 ふぁんふぁんふぁんふぁんふぁんふぁん……

「ぬぬっ? 最後のは甲高いサイレンの音! この上なく一体何がっ!?」
「wwwwwwwwww」
 近づきつつある音に2人はゆっくりと振り返った。
「そこの2人! じっとしていなさい! ほら早くフードを脱いで手を上げなさい!」
 白と黒に塗り分けられた威圧的な車両が猛スピードで接近してきている。
「パトカーですね。この上なく」
「だなwwww」
「農家の人たちが通報したんでしょうかね?」
「まあ漫画のような格好で歩いていたらこうなるわなwww だからお前もいい加減オタ趣味をやめなwwwwww」
「じゃあ次はシズちゃんの格好でもしますか!! バーテンですよバーテン! アレならこの上なく大丈夫です!」
「うわwwww 一見現実に迎合してるように見えてどこまでも迎合してねえ意見wwwwwwww オタ怖えwwwww」
 喋る間にもパトカーは近づいてくる。しかもパトカーの後ろからもう1台同じ物が躍り出た。よほど勢いがついているのか
凄まじい急ブレーキ音がした。更に同じ現象が起こりもう1台パトカー追加。そしてさらにもう1台。さらに、さらに……。
「あwれw」
 いつしか道は──大型トレーラーが3台併走できるほど広い道は──パトカーに埋め尽くされていた。
「重なってたのが展開して、ええと。ひいふぅ、みぃ」」
「15台の列がwwwwwwwwww 3つwwwwwwwwwwwwwwww」
「でん! ぱー、ぱー、ぱー! でん! ぱー、ぱー、ぱー! でけでけーでぇっれれっれ!!」
「西部警察かってのwwwwww西部警察かってのwwwwww たかが全身フード2人に必死すぎだろwwwwww
「で、どうしますディプレスさん? たかが45台のパトさんなら私一人でもぶっちめてやれますが!!」
「馬鹿www俺たちは調査中だろwww」
「あ、そうでしたね」
「そうwwwww」


「銀成市と隣の市の境目! そこがどうなっているかを調べなくてはなりません!!」


「ブヒヒwwww 一見ワケがわからない調査だが、これが後で活きてくるんだよなア〜 だからここで警察相手に戦う意味ぁ
まったくねえよwwwwwwwwww 騒ぎ起こして戦団の連中にこちらの動き気取られたら終わりだっぜwwwwwww」
「じゃあ逃げますか! どうせなら池袋まで退きませんか? いいお寿司屋さん知ってるんですよぉ」
「うっせ誘うなwwwww 『お前に好かれたら終わり』なんだよwwww とにかくズラかるぞwwwwwwwwww」


 警察官たちは恐ろしい光景を見た。

 時速100kmで飛ばすパトカーより

『更に速く』

 逃げ去っていくフード姿達を。
 全速力で運転しているにも関わらず、彼らは恐ろしい速度でぐんぐんと遠ざかっていく。
 見失うまで30秒とかからなかった。


 ふぁんふぁんふぁんふぁんふぁんふぁん……


「? パトカーの音がやけに多いな。何かあったのか?」
「それより斗貴子氏、いまの話、受けるの?」
 机の向こう側で淡白なメガネ少年が返事を促した。斗貴子は渋々という顔で視線を右にズラした。
「考えてくれないだろうか」
 早坂秋水がひどく真剣な面持ちでそこに存在している。ちなみに教室にいるのは斗貴子とメガネ少年──六舛孝二──
と秋水だけだ。しかも彼らは窓際一番後ろの席に集結している。この様子、密談以外の何であろう。
「どう、といっても」
 斗貴子は顔をしかめた。艶やかな髪をわしゃわしゃと梳るが明確な返答は出そうにない。
「そのだな。もう一度言ってくれないか? 正直、予想外なんだが」
 秋水は居住まいを正し、ひどく真剣に言葉を紡いだ。


「キミがパピヨンを演劇部から放逐したがっていると聞いた。俺もぜひ、協力したい」


 あれからパピヨンは見つからなかった。仕方なく、一旦寄宿舎に戻り防人にでも色々聞こうか……と斗貴子が思っていると
六舛が どこからかやってきてこの教室に案内した。
 その時にはもう秋水がいまの場所に座っていて、面喰らったのを覚えている。

 そして一言一句違わず、上記のセリフを吐いた。

 ちょっと待て、と斗貴子は思った。もちろんパピヨン放逐に関し仲間は欲しいところである。だが、その協力者が秋水とい
うのは幾らなんでも予想外だ。
「そもそも剣道部だろキミは。いや、怪我が完治するまで演劇部に仮入部するという話は聞いているが」
 秋水は頷いた。銀色の刃のように澄み渡った表情は「だから俺にも協力する権利がある」そう言いたげだった。
「いいんじゃない斗貴子氏? だいたい斗貴子氏だって入部1日目だし」
「それをいうならキミは演劇部員ですらないだろう」
「今でも一応部員だけど? 去年は部長だったし。だから部外者に変えられるのは見たくないというか」
「ええええええええええええ?」
 斗貴子は思わずどよめいた。凛々しい顔がポンチ絵のごとく崩れているのが分かった。
「成程。だから俺と津村の間を……」
「そ。取り持ってる訳」
「じゃあひょっとしてキミの特技の声帯模写。あれは演劇の成果なのか?」
「いや逆。声帯模写ができるから演劇を」
「そんな動機で……って。いや、一度しかない高校生活なんだから、もっとこう部活選びは真剣にしなさい」
「流石は斗貴子氏。含蓄がある」
 同意したようなしてないような反応だ。瞳は白く曇ったメガネに隠れ、真意を伺い知るコトはできない。
「というか津村、彼はこの学校の部活全てに入っている。剣道は二段だ」
「絞れ! 一つに! 部活はもっと真剣に選べ!!」
 叫び、机に拳を叩きつける斗貴子だが六舛はさほど怯えた様子もない。冷めた瞳で彼女を一瞥すると「それはともかく」と
話題を変えた。
「秋水先輩と手を結んだらどう斗貴子氏? いまのままじゃ勝ち目薄いし」
「う……」
 口を噤んだまま斗貴子は回想する。いまの演劇部員のほとんどはパピヨンシンパだ。このまま手をこまねいていればい
ずれ部員の総ては蝶々覆面をかぶり全身タイツを着こなし、変態丸出しの馬鹿騒ぎを銀成学園に振りまくだろう。そもそも
銀成市民はアホばかりなのだ。
「確かに私だけでは孤立無援。味方は一人でも欲しいところだが」
 ちらりと秋水を見る。戦闘絡みなら卓越した剣客たる彼は非常に重宝するだろうが、ことこう言う日常(?)の問題解決に
は甚だ不向きな男に見えた。
(むしろこういうのは桜花の方が向いてるんだが)
 とにかく。
 唯一の味方が秋水というのがまったく以て宜しくない。

 そもそも斗貴子と秋水の仲は決して良好とは言い難いのだ。
 かつて斗貴子が武藤カズキともども早坂姉弟と戦った時、秋水はカズキを背後から刺した。もし桜花が武装錬金の特性で
カズキの傷を引き受けなければ、彼は間違いなく死んでいただろう。
 もちろんその件に関する謝罪は、ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズとの決着後に聞き及んでいる斗貴子だし、一時期
秋水に辛く当たっていたのは様々な辛さ苦しみの捌け口という意味もあった。そもそもカズキが刺されたのは斗貴子から早
坂姉弟を守ろうとしたためでもある。その過程で斗貴子自身、「まだ人間の先輩たちを守りたい」と真っ当な正義を主張する
カズキを──戦いの世界から遠ざけるためとはいえ──さんざん傷めつけた。
 具体的には失明させようとしたり、四肢のどれか一本を機能不全に追い込もうと、した。
(あの時はやりすぎた……)
 とにかくそういう経緯があるからカズキの件で秋水を恨むのはやめよう。そう思っている斗貴子だが、彼と仲良くしたいと
いう気持ちは目下のところ皆無である。

(だあもう考えていても仕方ない。こうしている間にも演劇部はパピヨンにどんどんどんどん侵食されてるぞ)
 華奢な体を抱えるように斗貴子は身震いした。パピヨンという変態性の権化が少しずつ少しずつ銀成学園を侵食している
恐ろしさよ。もたもたしていると本当に取り返しがつかなくなる。
(だいたい、カズキが月に消えたのになんであんなに平気そうなんだ。貴様にとってカズキはその程度の相手なのか)
 秋水と協議する気になった理由の一つは、上記のごとき憤りかも知れない。カズキがいなくなってこっち、斗貴子は幾度と
なく辛い思いをした。それを晴らそうと秋水の過去をあげつらえばまひろに聞かれ、傷つけ、ますますどん底へと呑まれた
のだ。
 にも関わらずパピヨンは平気な顔で演劇部に出入りしている。「本名を呼ばれて以来」、あれほどカズキに執心していた
というのにだ。
 そういう怒り半分、顔見知りたる生徒たちを守りたいという使命感半分。
 斗貴子はゆっくりと秋水の目を直視した。

「ひとつ聴きたい」
「なんだ?」
「どうしてキミはパピヨンを演劇部から放逐したいんだ? 過去をどうこう言う訳ではないが、キミの性格なら部活動のいざこ
ざに首を突っ込まない方が自然だ。それが何故、今回に限って口を出すんだ?」

 謹直な表情が、ぽつりと言葉を吐いた。
「衣装の問題だ」
 衣装? 斗貴子は首を傾げた。彼は何の話をしているのだろう。
「このままいけば、武藤の妹がパピヨンと同じ服を着る事になる。それは防ぎたい」


「あの服は……胸元が開き過ぎている」



 寂然と窓の外を眺め始めた剣客に、斗貴子はほんの少しだけだが頬を緩めた。


「わかった。協力をお願いする」



「なるほど。斗貴子氏もまひろちゃんにあの服を着せたくないから先輩と協力する気になったと」
「違いないがあまりそういうのは口に出さないでくれ。何というか、困る」
 少し困った目つきで釘を刺すが、やはり六舛にこれといった表情の変化はない。
「ていうか意外。秋水先輩がそういうコトいうなんて」
「だが、若い女性が素肌を気楽にさらけ出すのは良くない」
 訥々とした呟きに斗貴子と六舛の口からため息が漏れた。枯れている、というより秋水自身が妙な気恥しさを抱えている
フシもある。もちろん一番大きいのは「恩人の妹におかしな格好をさせたくない」という節義であろうが。
「その辺りはともかく、お2人が協力してもパピヨンを放逐するのは難しいんじゃないか?」
 くいっとメガネを掛け直す少年に低い──女性にしてはなかなか静かな迫力のある──反問が刺さった。
「何が言いたい」
「演技力の問題。いまパピヨンが演劇部で支持を受けているのは演技力のせいだし」
 ふむ、と秋水は顎に手を当てた。
「確かに……。俺も一度見たが、彼の演技は良くも悪くも強烈だった」
「あんな奴の一挙一動を真剣に考えるな。ただの頭のおかしいド変態がいやらしく振る舞っているだけだ」
 目も三角で吐き捨てるように斗貴子は呟いた。あんな物をあがめる銀成市民はDNAレベルでアホだとも言いたげだ。
「とにかくパピヨンに対抗しようと思ったら、演技で立ち向かわなきゃ意味がない。斗貴子氏たちもそれは分かってるよね?」
「まあ確かにな。私達が説教したところで部員は耳を貸さないだろう。彼以上のまっとうな演技を見せつけなければ」
「演劇部員の眼は覚めない、という訳か」
 だが、と斗貴子は眉をひそめた。
「どうやってまっとうな演技を見せつける? いっておくが私も早坂秋水も演技についてはズブの素人だぞ? 今から練習
したところで手遅れだ。基礎が身に着く頃にはもう」
「演劇部はパピヨンに侵食されきっている」
 そうだな、と六舛は頷いた。
「だからお2人には1日でパピヨンレベルの演技力を身に付けてもらう。具体的には修行。いい?」





「「はい?」」





 斗貴子と秋水の疑問符が被った。



「ががが、ががが、がおがおがー! ががが、がががが、がおがおがー!!」

 ポニーテールにかんざしを差した小さな少女──銀成学園理事長──が1匹、廊下を走り抜けた。
 彼女はひどく楽しそうにキラキラと笑い、両腕を横へめいっぱい伸ばし、走っていた。

 ただそれだけです。別に本筋とは関係ありません。



「ねえ斗貴子さん。最近のジャンプって敵が出てくるたび修行するよね。ドラゴンボールもそうだったけど今のジャンプって
ラディッツ出てきたら修行、サイバイマン出てきたら修行って感じだよね。あと修行の内容がほとんど新技習得っていうのは
分かりやすくていいんだけど、でもホラさ、やっぱり新技っていうのは死闘の最後のギリギリな時、本当負けそうになりなが
ら今までの積み重ねから自力で思いついて最後の決め手に……って感じが熱いしありがたみが出てくると思うんだ」(声色)
「知るか! カズキの声真似はよせ! というかココはどこだ! えらくこだわっているがキミは意外に漫画好きなのか!」
「一度に質問されてもね……とりあえず」
 六舛は無表情で喉を叩いた。
「こだわってなんかないわよ! べ、別にジャンプなんてどうでもいいんだからねっ!」(声色)
「何でヴィクトリアの声……。ま、まあいい。話を本筋に戻そう。私達の演技力向上の件は──…」
「問題ない。お2人はこれからここで修行」
 斗貴子は辺りを見回した。山にほどよく近いそこは一面森に覆われひどく欝蒼としている。
 銀成市でも恐らく秘境の部類に属するだろう。
(途中までの道のりや進行方向から察するに、LXEの本部から北西に2〜3kmという所か。山を越えれば隣の市だ。しかし、な
ぜ彼はこんな所に……?)

 道中はひどく難儀した。
 途中までは砂利散らばる林道を歩けていたが、ラスト2時間はピラニアの泳ぐ川をイカダで下り崖を上り蒼く輝く氷の洞窟
さえ抜けた。林に張り巡らされたロープを滑車で下っている時、斗貴子はもう本当何もかもうっちゃって帰ろうかと思った。
 下にはあぶく立つ紫色の沼があり、野牛のような頭蓋骨がそこかしこに浮かんでいた。硫黄のような匂いが立ち込めていた。
 正に人外魔境の、ここは本当に日本の埼玉県かと疑いたくなるような光景の連続だった。

 そして辿りついたのは何の変哲もないログハウスである。彼らは目下、その前で佇んでいるという有様だ。
「しかし……到着しても信じられないな。本当にいるのか? こんな所に。キミがいう、演技の神様? っていうのが」
「間違いない。いる。俺の師匠もこんな感じの場所に住んでいた」
「そ。お約束。達人っていうのは未開の土地にいる」
 師匠? あ、ああ、秋水に剣を教えたという師匠のコトか。とりあえず手近な疑問から片付けた斗貴子はしかし、ゲンナリ
と肩を落とした。
 秋水ときたら拳を固め、ここまでの道中の異常さと達人の連関性を生真面目に説き始めている。ふだん寡黙な彼にして
はいやに多弁だ。思わぬ大冒険と次に控える修行にちょっと興奮しているのかも知れない。
「近頃思っているが、キミ、ちょっとノリがおかしくないか? 大丈夫か最近。まひろちゃんからおかしな影響を受けているような……」
「大丈夫だ。心配はない。それよりも今の問題は演技の神様についてだ」
「だからいるのか」
「間違いな(ry」
「そ。お約(ry」
「それはさっき聞いた! 私が聞きたいのはどういう師匠かだ!」
 斗貴子がバンと手近な木を叩く。怒声が山に木霊した。激昂。斗貴子あとはもうログハウスを指差し指差し怒鳴る一方である。
「いっておくがこんな場所に住んでいるような奴は決まって碌でもない輩だ!! どうせやたら気難しい老人がこの中に居て
私達に無理難題を押し付けるんだろ! この街にきて以来ヘンな連中に散々な目に遭わされ続けた私だから分かる! 
見え見えだ、いい加減にしろ!」
「待て津村」
「なんだ」
「一見ただの無理難題でも実は最も効率的な特訓手段だ。現に俺の場合はそうだった」
「そ。先輩の言う通り。後で演技している途中で「こういう意味だったのか」って気付くさ。だから無駄じゃない」
「仮に無駄じゃないとしてもそういうのは最初にいえ! どんな目的で特訓するか説明しなきゃ教わる方は身が入らないし
真剣に取り組んでくれないんだぞ! イヤイヤ練習したせいでおかしなやり方編み出したり変な癖をつけたりしたらどうな
る! 教える側が身に付けて欲しかったフォームをまるで習得してくれなかったら修行の意味がないぞ!」
「斗貴子氏。それはいくらなんでも現実的すぎる。もっとロマンとか夢を持とうよ」
「現実的で結構! 私達が常に直面しているのは何だ! 現実だ! 夢やロマンじゃない!」
 肩をいからせ叫ぶのは、ログハウスの中にいるであろう人間への恫喝か。
「というかこれだけ騒いでるのに出てこないとはな! まったく! なんであのテの気難しい老人連中はいやに勿体つけるんだ!」
「ひょっとして津村、君はいま帰りたいと思っているのか?」
「ああ。パピヨンの件さえなければとっととな」
「だがどの道、今からでは不可能だ」
「どういう意味だ?」
「沼の上のロープは俺が切断した。あそこを歩いて帰るのは不可能だ。君は5秒ともたず溶けるだろう」
「ああ何だそうかロープが……って待てェ! なんで切断した! キミはいまさらっとスゴいコトをいったな!! えええ?」
「1日で演技を極めパピヨンに勝つにはそれだけの覚悟が必要だ。いわば……背水の陣!」
「馬鹿か! あのロープがなかったら私達は帰れないんだぞ! 奴に勝つ勝たない以前に挑むコトさえできない!!」
「…………」
「しまったという顔で汗をかくなァ!! あああもうやっぱりキミはまひろちゃんの影響を受け過ぎだ! なんだあのコなんだ
あのコ! キミのような性格の者まで作り変えて! おかげでコレからどうすればいいか分からない!!!」」
「大丈夫。小屋の裏の坂を5分下ればバス停がある。銀成学園まではバスで7分、意外に近い」
「………………達人が未開の土地にいるといったのはどこの誰だ? もう嫌だこの街。いつか絶対出てやる」
 衝撃的な六舛の告白に、激怒さえ勢いを失ったようだ。斗貴子はうなだれ軽く涙を流した。
「で、演技の神様というのは?」
「ズバリ。ガウンの貰い損の影の創始者」
「ガウンの……ああ、いま演劇部が手本にしてるグループのか。しかし何でまたキミはそんな人と知り合いなんだ?」
「内緒」
 つくづく謎めいた少年である。六舛はぽつぽつ呟きながらドアに手を当てた。
「年に数回のバカンスしに銀成市へ来ているってメールがさっき来た。だからちょうどいいかなって」
「そもそも達人だの神様がメールを使うな。ありがたみがなさすぎる……」


 華奢な少年が肩にくっと力を入れるだけで扉が開いた。どうやら鍵は掛っていないらしい。

「取りあえず入ってみる?」

 斗貴子と秋水は一瞬顔を見合わせた。

(どうする津村?)
(玄関に上がれば気配を聞きつけてくるだろう。それも演技の神様とやらが中にいればの話だが。どの道このままじゃ埒があ
かない。いったん中に入ろう)

 彼らは六舛に向き直り、渋々と頷いた。



「がおがおがー!!」
「がおがおがー!!」

 銀成学園の廊下で少女が2匹、じゃれあっていた。

 まひろがちょいちょいと右腕を出して牽制すると、かんざしを差した古風な少女が両手をあげて威嚇する。
 それの繰り返しだ。

「がお」
「がお」
「「がー!!」」

 両者は弱P連打で小突きあって時々交互に伸びあがり、威嚇をしあっている。

 さきほどから千里と沙織が制止しているが、一向に効果はない。

(馬鹿丸出しねこの2人)

 ヴィクトリアはため息をついた。


(というかどこにいったのよパピヨン。まったく)


 リビングの中で立ち竦む斗貴子と秋水をよそに、六舛はキッチンの方へ歩いて行く。


「木場空牙(くうが)。居る? 六舛だけど」


(木場空牙?)
(それが演技の神様の名前? なんか非常に偽名臭くないか?)

 意外に広いログハウスだった。玄関から一直線に伸びる廊下はかなり長く、その壁面には斗貴子がぱっと見ただけでも
5つの扉がついていた。
 そのうち玄関から数えて2つ目へ六舛が速攻入っていったのがログハウス侵入3秒後だ。
 むろん不法侵入だ。斗貴子は慌てて彼を追い、秋水も後に続いた。

 そして今に至る。彼らは、リビングに居た。

(隣の部屋はキッチンか)
 斗貴子はぼんやりと六舛を眺めた。彼はとうとう冷蔵庫や三角コーナーさえ物色し始めている。
(まるでドロボウだな。いいのか?)
 疑問が浮かぶもあまりに堂々とした六舛の態度に何もいえない斗貴子だ。ただ秋水と2人して立ちつくし、リビングを観察
がてら眺めている。
 綺麗な部屋だった。年に数回使うだけにしては恐ろしく埃が少ない。もっとも調度品と言えば部屋の中央におかれた木製
の丸テーブルぐらいだから散らかり様とか汚れ様がないのだろう。必要な物はそれこそバス経由で坂の下から運んでくる
に違いなかった。
(にしてはCDが多いな……)
 丸テーブルの上には正方形のCDケースが雑然と散っている。ヒットソングにはあまり興味のない斗貴子だが、漠然とそ
れらを眺めているうちいつしかテーブルの前へ座り込んでいるのに気付いた。
「どうした?」
「あ、いや……」
 粛然と不思議がる秋水に半ば上の空という様子で答える。細い指はケースを持ち上げては戻し持ち上げては戻しの繰り
返しだ。やがて卓上のCD総てにそうした斗貴子は「やはり」とだけ呟いた。
「全部同じアーティストのCDだ。いや、それだけなら別段不思議でもないんだが、この名前に少し心当たりが」
「つまり……錬金術絡みの話か?」
「ああ」
 秋水がキッチンに目をやったのは一般人(六舛)の存在を鑑みたからか。幸い彼は「別の部屋も見てくる」とだけ言い
残しどこかへ消えている。恐らくキッチンにも扉があって別の部屋へ行ったのだろう。
 それで斗貴子も安心したのか。声のボリュームを微増させた。
「確か2年ぐらい前だな。キミは知らないかも知れないが、あるアイドルがシークレットライブ中、ホムンクルスの襲撃
を受けた。相当大規模な事件だったから覚えている。犠牲者はそのアイドルと彼のファンの合計129名」
「つまりここにあるCDは」
 いつしか綺麗な正座の秋水に、斗貴子は頷いてみせた。

「そう。そのアイドルの物だ」

「…………」
 ジャケットに必ず「Cougar」と銘打たれたCDを秋水は黙然と眺めた。何を考えているか斗貴子は直感し、次いで軽い驚き
に見舞われた。
 彼の心情はおおむね自分と一致しているようだった。

 戦士を長くやっていると必ず持ち得る感覚。

 例えばすでに持ち主がいなくなった部屋でもいい。作りかけのプラモ。血が付いた銀色の腕時計。「8時には帰りまーす♪」
と親に送られた最後のメール。
 或いは、戦団の書類の中で事務的に踊る犠牲者の名前。

 それらを。
 
 ホムンクルスが理不尽に命を奪った人間の痕跡を。

 何かの拍子で目にした時に感じる激しい怒りと胸を突く悲しみ。やるせなさ。

 それを秋水はひしひしと感じているようだった。

 愁いに揺れる端正な瞳が、やがて静かに閉じられた。

 死してなおファンに愛され、ログハウスの中にCDを並べられる。
 そんなアイドルを──写真の中で凛々しい顔をしている彼を──秋水は悼んでいるようだった。



 やれやれ、と斗貴子は嘆息した。
(元信奉者がよくもまあ……と毒づきたくもあるが)


(この変化は、キミが早坂秋水を守った結果かも知れないな。カズキ)


 テーブルの前で静かに手を合わすと、秋水もそれに倣った。


(冥福を祈る。かつてのキミのように)




 かつてカズキも同じコトをしていた。犠牲者の骨を埋葬し、手を合わせていた。
 記憶は疼痛をもたらす針となり、心臓を狙っているようだった。
 犠牲者の家族が味わっている痛み。
「深い深い痛み」。
 それを斗貴子はひしひしと感じていた。
 繕っていても、平然としているようでも、拭いがたい痛みが常に意識の中にある。
 それは日常の馬鹿騒ぎに声を荒げた瞬間にだけ知覚を逃れるが、すぐに舞い戻ってくる。
 何かが彼の代わりになって欠如を埋めるというようなコトは絶対にないのだと斗貴子は思う。

(やはり私はパピヨンのように割り切るコトはできない。どうしてアイツは平気な顔で演劇部に来れるんだ……)

「一通り見てみたけど、いないみたい。木場空牙」
「うへ!?」
 頭上からの声に斗貴子は仰天した。感傷に浸るあまり背後の影に気付けなかった。
「……もしかして、俺、悪いコトした?」
 見上げたカズキの友人は、若干ながら戸惑っているようだった。斗貴子も戸惑った。平素淡白な六舛だから、戸惑う顔は
予想外だった。もしかすると斗貴子のカズキに対する感傷が分かったのかも知れない。彼もまた、友人への感傷を抱えている
筈なのだ。
「あ、いや。その…………」
 立ち上がりながら斗貴子は頬をかいた。気まずい。下手に言い繕えば日々堪えている何かが決壊し、ますます六舛を
気まずくしてしまいそうだった。それが嫌だった。
「ところで確認したいが、木場空牙という者が演技の神様なのか?」
 秋水が憮然と呟いた。六舛と斗貴子はぎこちなくだが彼を見て、咳払いを一つ漏らした。
「まあね。話戻そうか斗貴子氏」
「そ、そうだな。今重要なのはそっちだからな」
 両者の表情や声は硬いが……。
 一見空気の読めぬ質問に救われた形だ。むしろ秋水は敢えて空気を読まなかったのかも知れない。
「木場空牙っていうのはHN。本名は誰もしらない」
「HN……ああ。字(あざな)とか号みたいなものか」
「そういえばキミはさっき言ったな」


──「ズバリ。ガウンの貰い損の影の創始者」


「影の創始者というのは、どういう──…」
「主催者のれヴぉ氏を見出して育てたから。あ、これはフィクションだから。モデルになった人とは無関係だから」
(誰にいっている)
「いわば木場空牙はプロデューサー。自分で演技をするより、才能を発掘して育てる方が好きだとか」
「ズブの素人である私達を育てるにはまさにうってつけの人材か。だが……肝心の彼がいないとなると」
「へへ。俺っちならすでにここにいやすよー」
「わわわ!?」
”それ”は何の前触れもなく斗貴子の肩に乗った。顔である。いつの間にか男が背後に居て、セーラー服越しに顔を乗せて
いる。不意の出来事。彼女の背筋は粟立った。
(だが同時に目つぶしと胸部への貫手を敢行したのは正に津村ならではの反応だ!)
(出たぜ津村氏のデスコンボォー!! こいつでカズキ数回、病院送りにしたのは有名な話だぜー!!(脳内声色モデル雑魚キャラ))
 秋水と六舛はただ淡々と斗貴子の反応を眺めた。咄嗟に助けなかったのは無論彼女の戦闘力を信頼してのコトである。
(なんでキミたちそんなにノリノリなんだ! じゃない! しまった! つい、反撃を──!)
 首捻じ曲げつつ反省する斗貴子の眼前で意外な出来事が起こった。背後の男が消えたのである。目つぶしと貫手は鮮
やかな残像を突き破り、空を切った。
(消えた? どこへ?)
 きょろきょろと周囲を見渡す斗貴子に六舛と秋水は「前」とだけ呼びかけた。
 それでようやく正面を見た斗貴子が思わず飛びのいたのは、胸の辺りに手が伸びてきていたためだ。
(っの! ヤブカラボウに変なコトをするな!! ブ、ブチ撒けるぞ!!)
 距離を置き、用心深く胸を覆いながら相手を見る。空を切った五指は未だに「何かを揉みこむように」わきわきと動いてた。

「へへ、すいやせんねえ。可愛い女のコを見るとついついスキンシップしたくなるもんで。へへ」

 想像とは常に現実と乖離するものだ。斗貴子はつくづくそう実感した。
 息を呑む。凛々しく尖る瞳を丸くし、その人物を見た。

「おお。そこに見えるは六っち。ひさぶー」
「ひさぶー。キバっち。ところでドコへ?」
「ここから徒歩2分のとこにある秘湯でさ。男湯と女湯隔てし壁にほどよい覗き穴がありやしてね。後は言わずもがな。へへ」

 六舛と親しげに言葉を交わす”キバっち”こと演技の神様は……。

「ああ、ところでお姉さん、もしカレシがいやしたらご勘弁を」

 想像図には。
 老人には。

 あと半世紀ばかり必要な男性だった。20代の中ごろといった所だが、防人よりは年下に見えた。

「ええ、ええ分かりやす。意中の方以外に触れられる、それは女性にとって問題でゲしょーし、カレシにとっても取られたよう
で落ち着かねー。俺っちもリバっち触られたら嫌でして。へえ」

 ぺらぺらとよく喋る彼はひどく細長い体系だ。180cmほどの全身には贅肉もなければ厳つい筋肉もついていない。飾り
気のない黒の半袖Tシャツから覗く腕ときたらまったく女性のように頼りない。しかしそういうか細さが却ってスタイルをよく
見せている。プロデューサーというがモデルをやっても遜色ないほどの体型だ。

「罪なのはあなたの可愛いさでありやしょう。男は常に可愛いコに触れたくなるものどうか何卒ご容赦をば。へへへ。リバっ
ちはそういうとちょっぴり喜んでくれやすよ。それがまたかーわいいんでさ」

 ウルフカットの下で端正な顔が人好きのする笑みを浮かべていた。エビス顔、というべきだろうか。ニッコニコと眦(まなじ
り)を緩めながら彼はしきりに揉み手をしている。

(この顔……?)

 一瞬秋水は丸テーブルに散らばるCDへ目をやった。「似ている」。目の前の人物はかつてホムンクルスに喰い殺された
というアイドルにやや似ていた。
 ただしすぐさまその思考は雲散霧消した。雰囲気はあまりに乖離していた。
 CDジャケットの中にいるアイドルの凛々しい、人間離れした──かの総角主税さえ足元に及ぶかどうかの──顔つきと
眼前にいる青年のエビス顔はまったく違っていた。むしろ「似ている」と直感した方がおかしい……観察を終えた秋水はそう
思った。表情の違いを差し引いても顔の造形は全てにおいて微妙に違う。1ランクから2ランク下だ。共通点と言えばせい
ぜいウルフカットぐらいであろう。それもファンによくいる「髪型をマネしました」程度の共通だ。
(そういえば彼の号は木場空牙……。空牙。例のアイドルの名前「Cougar」のもじりか)
 死後もCDを持っているのと総合し、秋水は──ただの熱心なファンなのだろう──と結論付けた。

「あ、リバっちってのは俺っちが片思い中の人でしてね。そりゃあ怒ると滅法怖いですよ? なにせ口の悪い仲間と大喧嘩
した時ぁ相手を1週間ばかり意識不明にしましたからねえ」
「……」
「……」
 六舛と秋水は斗貴子を見た。
「……キミたち、何が言いたい?」
 彼らの目は語っている。同族だ。同族がいた! と。
「あぁでも相討ちっすかね。リバっち、自分も瀕死になりやしたから」
「自らの身が滅ぼうとも敵を討つ、か」
「すごいね斗貴子氏。もしかしたら生き別れの姉妹かも」
「言いたいコトがあるならハッキリ言え! いい加減にしないとブチ撒けるぞ!」
「え? 姉妹? いやー、それは流石にないでしょ。だってリバっちの妹って……」
「?」
「あ、いや。普段は笑顔が可愛いコなんすよ。リバっち。おっぱいも大きいす。95す。ジーパン時のむっちりしたお尻のライ
ンもいいっすけどね、やっぱおっぱい! 俺っちはいつかあのロケットおっぱいを直に触りたいんす! もちろん合意の上で!」
「黙れ! エロスはほどほどにしろ!!」
「ほどほどにしまさあ! 見る触るだけならほどほどの範疇でさ姉御!!」
「誰が姉御だ! えええいもう! おかしなコトをいちいち叫ぶな! 叫ぶようなコトか!!!」
「もち! なぜなら俺っちリバっちラブ! ボイン大好きっす! 怒りっぽいところ含めて大好きっす!」

 彼は聞かれもしないコトをまくしたてて、一人で勝手に照れて首を掻いたりしている。
 決して造詣の悪い顔という訳でもなく、黙って、笑うのをやめ、それなりのメイクを施せば中堅どころのモデル雑誌の巻頭
ぐらいは飾れるだろう。

(これが演技の神様!? ただのエロスなダメ人間じゃないか! 本当に大丈夫なのかこんな人に師事して!!)
(しかし、さっきの動きは……。俺の目でさえ完全には捉えきれなかった)
 秋水は慄然とした。
(間違いない。瞬発力だけなら俺はおろか音楽隊の栴檀香美や鐶光より上だ。しかし)
 人間の身でホムンクルスの香美を凌駕している「演技の神様」は何者なのであろう。

「で、何の御用で?」
「実は──…」

 ややあって。


 六舛から用件と秋水たちの経歴を聞いた演技の神様はぴしゃりと額を叩いた。「くぅ!」と目を細めているのは、やられた、
一本取られた。そんな顔である。
「難しぃっスねそりゃあ〜。まあ確かにお2人とも素材はいいですよ? 片や見ての通り超美形で去年の剣道全国大会ベスト4、
片や小柄ながらに女豹のごとき美少女さん! まっとうに訓練を積みゃあ、まあ、3か月でブレイクさせるコトはできますけどねー。
しかし1日ってのは、1日で演技力最高レベルってのはこれまた難題些か難儀の五里霧中。果たしてどこまでやれるやらで
ありましょう」
 えらく明るい神様だと秋水は思った。同時に彼のそんな表情や口調が『誰か』に似ているのに気付いた。
(顔の次は表情や口調か……。だが今度こそ確かに似ている。俺の身近にいる人間ではないが……)
 斗貴子はいつものような無愛想な表情だ。もっとも無理は承知らしく
「不可能なのは最初から分かっている。ならばせめて基礎だけでも教えて貰えないか? もともと私達の問題、後は自力で
どうにかする」
 とだけいった。
 すると演技の神様は、
「いやいや姉御? 俺っちは難しいっつってるだけで不可能たぁいってませんよ。へへ」
 といった。ニッコリと笑い、真っ白な歯を見せながらぱたぱたと手を振った。
「なにせ2人ともルックスのみならず体がいい感じに出来上がっていやすからねえ。えーと、あ、津村斗貴子さんでしたっけ?
演劇部に入るまでは何を? さっきの貫手はお見事でした。何をやってたか分かりやせんがね、体の動かし方ってのを余程
ご存じでねーとああは動けませんや。いやお見事お見事」
 ぴょこぴょこと飛び跳ねながら彼は斗貴子の拳を取った。
「ど、どうも。(というかアレを避けれたあんたこそ何者だ。一朝一夕で身に着く動きじゃなかったぞ)」
「一方、早坂秋水さんの方は言わずと知れた剣道経験のモチヌシ……じゃあやりようはあるってもんで。へえ。お見受けした
ところ声の出し方も完璧っすから基礎練なしでいけやすよ」
「具体的には、何を?」
 秋水の反問に神様はぱあっと瞳を輝かせ腕を上げた。
「俺っちは常々思っていやす。人というのは『枠』の生き物だと! 粋じゃねーすよ。わく。わ・く! 衣服! メイク! アク
セサリーに皮膚ーッ! そーいうのが枠となり、俺っちら個人を世界と各別してくれてるんじゃあないですか」
 分かったような分からないような意見だ。アーティスティックな感性は斗貴子にとって理解しがたい。
「で、精神的な意味でも枠はあるんす。信念とか個人的特性とかそういうの。俺っちが役者さんや歌手をプロデュースする
時ァ、まずその枠をよく観察しやすね。へえ。この枠をどう使い、どう飾れば売れるのか? 或いはどー言いくるめればもっと
いい演技とか歌捻りだせるのかってね。で、需要って枠と役者さんたちの枠がズバリと嵌りこんだ時の快感って奴ぁ本当、
忘れられませんぜ!」
「そ、そうか」
「だから俺っちはプロデュース専門なんでさ。自分どうこうするより人間って奴の枠をうまく使う方がはるかに面白いす」
「で、秋水先輩や斗貴子氏の”枠”は」
「お2人とも生真面目な枠の持ち主ですから、いきなり自分とかけ離れた役はやれやせんね。自分に似た役でも、まあ一晩
の修行ですから? 細かい感情表現まではムリかと。厳密にいえば見てくれるお客様の心に訴えかける表現ができねー
というべきでしょうかね」
 ですがね! と演技の神様はバンザイをして天井を見上げた。
「アクション! あらかじめ決めた手順を生真面目に守り最適速度で実行する演技力! そいつなら断然向いてやすよ。特撮
俳優みたくガッシガッシ打ち合ってる姿、今は想像だけですがきっと観客さんたちを沸かせられる確信がありやす! つか俺っち
自身そういうのがダンゼン見たい! ってえ話しでどでしょ? 六っち」
「だな。どうせパピヨンのような色っぽい演技はお2人には無理だし」
「いまキミはさりげなく物凄く失礼なコトをいわなかったか?」
「どうするの? アクションならパピヨンの不得意分野だけど」
「確かにな。彼は激しい運動をするたびすぐに血を吐く。体術自体さほど得意ではないようだ」
「つまり、私達の得意分野で奴を超えるという訳だな。了解した」

「じゃあけってー! メインはハデハデな殺陣の練習。あとは俺っち特性の台本記憶術を伝授しまさ。徹夜になりますがいい
ですかね? 突貫でやりゃあ明日には演劇部の上位陣にはなれやすよ。うんうん」
 演技の神様はぱちぱちと手を叩いた。

 話は、まとまった。
 後は細々とした打ち合わせや防人たちへの連絡といった雑事、それから練習という感じに落ち着いた。

(そういえば)
 と秋水は気付いた。先ほどよぎった演技の神様への既視感。その正体が具体像を帯びた。





(彼は、音楽隊の小札零に似ている。たまたま似たような形質の持ち主というだけか? それとも──…)





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