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第094話 「パピヨンvsヴィクトリア&音楽隊の帰還」(後編)





 修行。



 或いは、恩返し。








【9月6日】【9月7日】 どちらともとれる境界線上の夜。



──────パピヨンの研究室で──────



 パピヨンが図面片手に指示を出し、ヴィクトリアが従う。
 そんな光景がもう何時間か続いていた。
 分厚い合金の板が山と積まれパイプの束が散乱し、大きな箱から零れんばかりに集積回路が覗いている。
 そんな研究室の中で彼らは時おり諍いつつも作業を続けている。


 彼らの前にある物体を一言で形容するなら、”金属で編まれた皿”
 直径5mほどのそれはひどく平べったく、内外を行き来するヴィクトリアは事も無げにひょいひょい跨いでいる。
 作られ始めて間もないのだろう。皿は骨組がよく目立った。そこを跨いだ少女が屈みこみ、粗笨(そほん)極まるスカスカ
空間へ曲った合金をはめ込んでいく。パズルの如く、組立作業をしていた。

 皿の中心には、六角形の窪みがあった。
 パピヨンの手元にある設計図によれば、いずれその窪みに同形の柱が立ち……。

 真っ白な核鉄を収蔵するらしかった。

 皿へ肉付けするヴィクトリアの動きがわずかだが乱れた。どうやら合金が嵌らぬらしい。
 図面を見ていたパピヨンが舌打ちし、やや声を荒げた。骨組のやり方を見直せ、入れ方を見直せ……
 口調はどこか、厳しい。
 やがて何とか合金を嵌め込んだヴィクトリアは、せわしいパピヨンの様子にブスリと呟いた。  



「悪かったわね。突貫作業なのに」
「無駄口を叩くぐらいならそこの合金の板でも運べ。グズグズするのは性に合わん」


 濁り切った目を図面から離さぬままパピヨンは呟く。
 どこか焦っているように見え、ヴィクトリアは首を傾げた。
 協力を申し出た時の彼や、そのずっと以前、女学院の地下で出逢った時の彼は傲岸ながらに「余裕」という物をたっぷり
持っていた。
 それが崩れている。ヴィクトリアは指示通り合金の板を運びながら、眉を顰めた。


(また……?)

 余裕が崩れ、苛立ち、黒く沈み込む。そんな状態がここ数日よく見られた。寄宿舎生活と学生生活の間隙を縫うようにして
通っているヴィクトリアでさえ「よく見られる」事だ。一人きりでいる時の彼が一日何回黒い感情に染まっているか、ヴィクトリア
はまったく想像も出来ない。

 もっとも10分も経てばすぐ元の彼に戻り、いつものような世界人類総てにとって憎らしい自信をその口からたっぷりと振りまく
のだが。
 急ぐのは分かる。
(確かにパパや武藤カズキのコトなら時間制限つきよ? でも、それで片付けるには、何かが)
 おかしい。パピヨンの奥底で何か黒々とした恐ろしい物が蠢いているようだった



 ヴィクトリアの父、ヴィクター=パワードはおよそ1世紀ほどまえ怪物となった。
 錬金術の世界に身を置くものの中には自ら人間をやめ、ホムンクルスの不老不死と弊害を大いに楽しむ者もいるが、ヴィ
クターの場合は違っていた。
 人間を守るための戦いの中で。
 瀕死の重傷を負い、意識不明の重体となり。
 仲間と、妻の意思によって蘇生させられ。

 その過程の中で、偶発的に。

 怪物となった。

 彼にとって不幸だったのは、その怪物が「ホムンクルスよりさらに上」の存在だったコトだ。
 賢者の石を目指して作られた『黒い核鉄』。
 それを移植されたヴィクターは……

 周囲の者から強制的に生命力を巻き上げる、悪夢のような存在と化した。

 エナジードレイン。

 戦団はヴィクターの恐るべき生態をそう名付けた。
 彼に近づいた人間は誰であろうと生命エネルギーを搾取される。ほんのわずか間近にいるだけでも全力疾走2〜3km分
の疲労を抱え込む。
 ヴィクター自身の意思では止めようがなかった。
 同じ建物にいた。それだけで殺してしまった戦士さえ数えきれない。
「悪魔」。そう罵るのは立ち寄った村の人々だ。彼らは昏倒する子や親をきっと抱きよせヴィクターを睨んだ。
 森を行けば木々が枯れ、川を行けば魚が浮く。
 悪夢だった。
 完全に満たされた瞬間だけ望まぬ生命搾取がやみ、少し経つとまた始まる。
 他の者なら、例えば私欲のためだけにホムンクルスとなり好んで人食いをするような者ならそれはむしろ僥倖だっただろう。
 だがヴィクターは違う。
 彼は戦士として錬金術の正しさを信じ、無辜の人々の笑顔と未来を願い戦ってきた。
 彼に黒い核鉄を埋め込んだ妻や仲間もそれは同じだった。
 にも関わらず、皮肉にも。
 黒い核鉄を埋め込まれたヴィクターは、理想とは真逆の存在と化した。
 人の近くにいるだけでその生命力を吸いつくし、死に追いやってしまうのだ。

 自身の変質──後にヴィクター化と呼ばれる忌むべき現象──を理解した彼は。

 逐電を、選んだ。
 どこか人のいない、自分以外の生命の何一ついない場所を目指して。
 誰一人としてエナジードレインなどという馬鹿げた生態で殺さぬよう、傷つけぬよう……。
 だが戦団は彼の逐電を許さなかった。
 存在(い)るだけで死を撒き散らす怪物(モンスター)。
 彼の属していた組織は錬金戦団。
 ホムンクルス討伐を生業とする戦団だ。
 見逃す道理はないという訳である。

 そして100年後。

 経緯こそ異なれど、ヴィクター同様「黒い核鉄」を埋め込まれた少年、武藤カズキもまた怪物として戦団に追われる身となり──…

 いまに至る。

 パピヨン。
 そしてヴィクトリア。

 出自も経歴も違う2人のホムンクルスが現在協力体制を敷いているのは、ひとえに「黒い核鉄」とそれのもたらす恐るべ
き生態のせいである。
 望まずして怪物になったヴィクターと武藤カズキ。
 錬金戦団は彼らを許さず、再殺を望み、追いたてた。

 もっともそれは、武藤カズキが半ば抱き合い心中という形でヴィクターもろとも月へ『飛んで』──突撃槍の推進力で、衛星
打ち上げのように──以降、中断されてはいるが。

 少なくてもヴィクトリアは父がこのまま見過ごされるとは思っていない。
 ヴィクターが人間に戻らない限り、「再殺」という馬鹿げた行為は収まらない……錬金戦団の都合のみでホムンクルスに
”させられた”或いは、ヴィクター退治の切り札に”仕立て上げられた”ヴィクトリアだ。戦団への不信は当然といえた。
 このままいけば月にさえ討伐部隊が差し向けられるかも知れない。

 武藤カズキという少年についても同じコトがいえた。

「事情が事情だ。貴様は父親を人間に戻したい訳だ。戻しさえすれば少なくても再殺対象からは外れるからな」

 数日前。
 協力を打診したパピヨンは酷薄な笑みを浮かべた。

 パピヨンもまた、武藤カズキを人間に戻したい人物だ。
 もっともその動機は「殺されそうだから人間に戻したい」というヴィクトリアのそれとは少し違っているようだった。
 巨大なフラスコの中で本を閉じ、不敵に微笑む蝶々覆面の男から感じられるのは、もっと殺伐とした、確固たる信念だ。

「とにかく。パパや武藤カズキを元に戻すためには白い核鉄が必要」
「言われずともその程度のコトは分かるさ。白い核鉄は黒い核鉄のカウンターデバイス……」
「黒い核鉄と重なるよう体内へ押し込めば、2人とも人間に戻るという訳」
「そして貴様はあののーみその元で長年白い核鉄の開発に携わっていた。アドバイザー程度なら勤まるだろう」
「ママを馬鹿にしないで。白い核鉄だってパパのヴィクター化がもう第三段階だったから、人間に戻せなかっただけよ」
「だから貴様はアレをもう1つ作る必要があるという訳だ」

 仇敵。または父親。

 対象こそ違えどホムンクルス以上の怪物と化した「大事な存在」への気持ちは両者とも同じ。
「人間に戻したい」。
 性格も立場も違うヴィクトリアとパピヨンが手を結んだのは自然な流れといえた。

 そもそも戦士とザ・ブレーメンタウンミュージシャンズの戦いにおいて、パピヨンが一向に姿を見せなかったのには理由がある。
 白い核鉄の精製を求める彼は、横浜にいる筈のヴィクトリアを探しまわっていたという。
 だが折悪しくも彼女は秋水に誘われる形で銀成市に居た。

 それをどうやって突き止めたのかはともかく、パピヨンが銀成市に戻って来た頃。
 一連の戦いは正に最後の一幕。あわや乱入者ムーンフェイスの一人勝ちという局面だった。

 そこへ彼が更なる乱入を加え、戦士と音楽隊双方の目的物……

「もう一つの調整体」

 を掻っ攫う形になった。

 そして去り際彼が発した言葉


──「まず探すべきは──…」

──「この街に来たというヴィクターの娘だ!」


 を秋水経由で(彼としては「近づくな」という警告で伝えたのだが、結果として逆効果となった)聞きつけ、ヴィクトリアはやって
きた。

 そして手と手は結ばれた。


「「事情が事情だ。貴様は父親を人間に戻したい訳だ」


 という一声は協力体制始動前に発せられた物である。


 彼らの目的は一つ。白い核鉄の精製。

 とはいえ、白い核鉄は黒い核鉄を基盤(ベース)にしなければ精製不可。
 これまでの錬金術史に現れた黒い核鉄は3個。
 1つはヴィクターに埋め込まれ。
 1つは武藤カズキに埋め込まれ。
 最後の1つは白い核鉄としてヴィクターの胸の中。


「本来基盤(ベース)となるべき黒い核鉄は失われているが」
「アナタのご先祖様が残した「もう一つの調整体」を使えば、可能性はあるようね」

 ヴィクトリアはパピヨンの手に目をやった。
 彼の手には黄色い核鉄が握られている。

「もう一つの調整体」

 Dr.バタフライが密かに作成し、戦士と音楽隊の面々が熾烈に奪い合った謎の核鉄。
 それを眺めるパピヨンの薄暗い瞳には確固たる確信の光が灯っている。

「選択肢なんてのは自ら作り出していくものだ。ご先祖様がどういうつもりでコレを作ったかは知らないが」
「せいぜい可能性を追わせて貰う……そんな顔ね」

 しかしなぜ可能性があるのか? 説明は後段に譲るとして。

 Dr.バタフライとDr.アレキサンドリアが残した研究資料。
 それをパピヨンが総合し指針を作り出し、ヴィクトリアが従う。
 という所で彼らは一致している。
 錬金術師としてのキャリアは実のところパピヨンの方が長い。100年地下で母の助手をしていたヴィクトリアであるが、実
態は雑用という方がふさわしい。これは彼女が錬金術を嫌いぬき、系統だった学習を一切放棄していたためである。
 唯一得意なのはクローン技術であるが、これはあくまで「母の脳細胞を増殖させるため」いやいや使っていたにすぎない。
 つまり錬金術師ですらないのだ。ヴィクトリアは。
 よって遥か年下のパピヨンに従う。

 のだが。

 パピヨンの指示ときたらそれはもう突拍子もなく傲岸で、右往左往の連続だ。
 彼は自称通りまぎれもない天才だが、天才だけに凡人との調和がまるでできない。
 ついていけねば露骨に失意を見せ、または嘲る。
 狭隘でねじくれたヴィクトリアの精神はまったくムカムカとなった。
 彼女は錬金術が嫌いだ。産物は核鉄であれホムンクルスであれ好かない。
 白い核鉄の精製という母の悲願をやるにしても嫌気はどこかに付きまとう。
 それを引きずり出しますます顕在化させるのが、パピヨンの不遜な態度。
 マニュアルを持って来い。無数の本の山の中に埋もれたそれを20分見つけられないだけで嘲りが来る。
 マニュアルを読んでも用語だらけでちんぷんかんぷん。
 まったく何もかもが分からないコトだらけで、しかもパピヨンはそれを教えるつもりがない。

 いざ作業に移れば機械付属のぐにゃぐにゃしたコードの川に足を取られ軽く捻挫。
 指示通り組み立てた筈の端末からは何度も何度もエラー音が響く。
 焦燥と無力感。汗ばかりがセーラー服に沁み込む。絶望的だ。


「…………」


 ヴィクトリアはきゅっと唇を噛んだ。自身の無為を悔いた。100年も錬金術への嫌悪に囚われやるべきコトもせず、何も
積み重ねなかったから、いま、ツケが回ってきている。
 自嘲じみた実感が浮かんだ。



 自分に対する嘲りが、ヴィクトリアに更なる災難を呼び込んだ。



「おい」



 最初何が起こったか理解できなかった。ひどく低い声とともに背後へ引き戻された……とようやく認識する頃にはもう細い
体が床を転がっていた。血が舞い上がったのは、錬金術製のパイプに掌をしこたま擦りつけたせいだ。
 気づけばヴィクトリアは、罅割れたフラスコに背を預け……座り込んでいた。背中にチクリとした無数の痛みが走る。機材
でも錬金術製ならホムンクルスに害を与えるというコトをヴィクトリアは初めて知った。
 もっともそれは後ほど「そういえば」程度で認識したコトで、この時のヴィクトリアはもっと直接的で簡明な危機感を催して
いた。
 右肩の辺りで爆発音がした。そちら方面の視界は夕焼けを最前列で見たようにまばゆく橙に眩み、そのまま眼球が焼け
落ちる錯覚さえ覚えた。とてつもない熱量が右半身を襲い、荒れ狂う熱風は束の金髪を燻していた。余波、だろうか。割れ
た分厚いガラスがチャリチャリと床に落ちた。奇跡的に脇の下をすり抜けるだけで済んだ鋭利な破片を、翳む視界の片隅に
認めたヴィクトリアは……やっと事態の全容を掴んだ。
 立っていた自分が後ろへ引き倒され、フラスコに衝突し、そこへ爆破の追い打ちを掛けられた。
 やった相手が、近づいてくる。
 濁り切った瞳で切歯した口で右手に無数の黒い蝶を従えて
 ゆっくりと。
 ヴィクトリアは寒気の中で悟った。失敗を揶揄し嘲笑を浮かべている彼はまだ良い方だと。
 黒々とした熱と悪意を全身の隅々からブチ吐きながら近づいてくる彼は──…
 1世紀前初めてみた、ホムンクルスの軍勢の誰よりも凄烈だった。
 そして少女たるヴィクトリアにこういう狼藉を働くほど、パピヨンの中で何かが狂っているらしかった。

「時間がないんだ。貴様の下らん感傷で俺の手を止めるんじゃあない」

 座りこむ彼の表情は凄まじく醜悪だ。
 言葉の意味と怒りのワケをヴィクトリアはすぐさま直観した。”感傷”。ヴィクトリアのそれはパピヨンにとってまったくどうで
もいいコトなのだろう。それに囚われ、作業の手を止めた。武藤カズキの再人間化には時間的制約がある。月にまで戦団
の追っ手が及び再殺される恐れ。実際のところはともかくとして、ヴィクトリア同様パピヨンにとっては危惧の一つだし焦るの
も無理はない。
 にもかかわらず個人的な感傷で作業を止めたのは……引き倒され爆撃を受けても仕方ない。
 希代の皮肉家にしては珍しくヴィクトリアは上記の道理に触れ、自らの非違を詫びた。パピヨンを恐れたという訳ではなく、
仮に自分が彼の立場で彼が自分のような所作をしたのなら──許せないと思ったからだ。
 蝶々覆面の下で表情が醜悪に歪んだ。語気が荒れた。
「ヒキコモリ風情が知ったような口を聞くんじゃあない」
 素直な謝罪が逆効果になる……細い首から空気を吐きつくす頃、ヴィクトリアはまったく暗澹たる憤怒に見舞われた。
 爪の鋭い手が自分の首にかかり、激しい力を込めている。痩身の青年に見合わぬ力は無論ホムンクルスの恩恵で、おか
げでヴィクトリアの気道は軋む頸椎に密着した。呻き、反射的に剥がしにかかる。それにますます激昂したのだろう。か細い
首がより強く絞められた。ヴィクトリアはかふかふと咳き込み打ち震えた。半開きの口から涎が一筋零れおち、首から延びる
黒い枝に吸いこまれた。それがまだらの潦(にわたずみ)と化す頃、パピヨンの左手で蝶が激しく舞い始めた。よほど心中を
言い当てられたのが腹立たしかったのか。周期的だが意味不明の鬱屈に見舞われたところに、ヴィクトリアの不手際と勝手
な感傷が重なり、激発。
 そこへあの謝罪(してき)……プライドの塊のような男にとって、目下とみなす存在から図星を指されるのは屈辱なのだろう。
 薄れゆく意識の中でヴィクトリアが気付いたのは、そんな絞首にいたる理由……ではなく。
 その奥。パピヨンが時おり見せる鬱屈の原因だ。
 薄れゆく意識の中で。彼の濁った、濁り切った瞳を見た。怒りと憎悪と遣る瀬無さを湛えた瞳。
 彼がなぜ時おり激しい鬱屈に陥るのか。
 ヴィクトリアだけが理解した。

(『そう』ね。そうだから、辛いわよね…………)

 翳んだ瞳が哀切に細くなる。悲しみと……わずかな感銘が全身を駆け巡る。パピヨンの手にかけた両手はいつしかダラリ
と下がっていた。
 パピヨンの表情がやや驚きに支配され──…

 彼は何かを言う前に。


 血を、吐いた。


 吐くなどという生易しい形容ではなく、斗貴子風にいえば正に「ブチ撒ける」という感じだった。

 後にヴィクトリアは知ったが、激昂したり激しい運動をすると決まってこうなるらしい。

 あぶくの混じった飛沫が欧州少女の顔をぴしゃぴしゃと汚し。
 地面に出来た血だまりの前で、パピヨンは身を丸め激しく咳き込んだ。
 その拍子に彼の手がはがれたので、ヴィクトリアはようやく喋れるようになった。

「……? アナタ、ホムンクルスになったのに病気はそのまま……なの?」
「うるさい!!!」

 数分後。パピヨンの姿はどこかへ消えていた。

 痛む首をさすりながらヴィクトリアは激しい怒りとわずかの同情に顔をしかめていた。
 作業の途中で手を止めたのは悪い。だがそれは謝った。にも関わらず首を絞めるとは……。

 パピヨンの秘めた感情は少しだが理解した。
 だがこの先、突然逆上して首を絞めてくるような不安定な男と上手くやっていけるかどうか。
 ヴィクトリアは自分の性格を嫌というほど理解している。大抵の辛さには耐えるつもりだが、いざ巨大な不快と不条理に
見舞われれば逃げを選ぶ……そんな弱さの自覚はある。
 そのせいで100年地下に居たし、寄宿舎に移ってからも人喰いの衝動を恐れ、逃げを選んだ。
 目を伏せる。瞳が少し潤むのが分かった。

(決めた筈なのに……馬鹿ね)

 不慣れな作業。
 不安定な男。

 目的のためにはそれらと向き合わねばならない。それがどれほど困難で苦痛を伴うかが分かってしまう。

(やれるのかしら。私なんかに)

 割れたフラスコに背を預け、無言で俯いた。パピヨンの作った血だまりが見えた。黒く固まり始めているそれは自分の心境
と重なって見えた。



「あなたもうちょっとしっかりしなさいよ」
「ご、ごめんなさい。先輩」


 見た事がある。
 まひろが、演劇部の女先輩からとても厳しい演技指導を受けているのを。
 ひどい演技指導だった。恐らく最近秋水(学園のアイドル!)と懇意だからやっかみ半分の厳しさだったのだろう。
 にも関わらずまひろは演技指導が終わるやいなや、すぐ言われたとおり練習を始めていた。

「よくやるわね。さっきの指導はどうせやっかみ半分じゃない。あんな奴のいう通りにして悔しくないの?」

 まひろはしばし考えた後、こう答えた。

「でも結構、「なるほど!」って部分もあったよ? それを試したら上手くなれるって分かってるのに諦めるのは勿体ない!」」
「単純ね。アナタを責めるためにもっともらしい理屈並べただけじゃない。だいたいあの人、人に説教できるぐらい上手いの
かしら? 見たとこ腹式呼吸さえできていないようだけど」
 絶賛大根演技中の女先輩をくつくつと冷笑混じりにヴィクトリアは見た。
 一方、まひろは小さな顎に手を当て「おや?」という顔をした。
「? もしかしてびっきー、私をかばってくれてたりとか?」
「……うるさいわね。別にあなたの為じゃないわよ。ああいう人間が気に入らないだけ」

 ゆらい嫉妬を抱えた若い女性ほど始末に負えぬものはない。
 正々堂々とそれを解消できないと悟りきっているから、蔭口や罵倒で気晴らしをする。
 秋水という恩恵を受けているまひろの些細な粗に正論じみた説教を突っ込むのもその一例だろう。

 屈折しきった精神を持つヴィクトリアは「そうに違いない」と思った。もちろん、ねじくれた人間ほど薄暗い解釈しかできぬ
自覚はない。上記の推測はある種合っているが一部は外れているといえるだろう。
 一方、まひろはいつものように明るい声を張り上げた。豊かな胸をドンと叩いた。
「大丈夫! 私が頑張って演技上手くなったら、先輩だって私もガンバローって腹式呼吸できるようになるよ!!」
 まったく論拠不明。ヴィクトリアはやれやれと肩を竦めた。
「頑張るのは、ついさっきアナタを責めた奴を上達させるため? アナタ馬鹿でしょ?」
「うーん。よく分からないけど、でもケンカしたり「もうダメー」ってやめたりするよりは私が頑張って上達して、みんなに「私も
頑張るぞー」って思って貰う方がいいんじゃないかな? それにね、私、まだ演技ヘタだし」
 ヴィクトリアはちょっと目を丸くした後、不快気にぶすりと呟いた。
「私は悪い方ってコトかしら? 当てつけ? 私は「もうダメー」って気分で地下に100年居たわよ?」
 まひろは慌てた。「そういうつもりじゃ」という意思表示をあたふた声でデコレーションの上、贈答してきた。
「冗談よ。アナタ皮肉をいえるほど賢くないでしょ? せっかく分かってあげてるのよ。安心しなさいよ」
「びっきー! ありがとー!」。そう抱きつくまひろに想う。
「悪口も分からないなんて本当に馬鹿ね」。でも、そういう奇妙だが懐の広い「馬鹿」だから付き合えているのかも知れない。
 本気で嫌いならホヤホヤ嬉しげに抱擁中の少女など片手で引き剥がせる。壁か窓にでも叩きつけられるのだ。
(ああでも暑苦しい。鬱陶しい。いい加減離れなさいよ)
「とにかく! 私が頑張るコトで他のみんなも演技上手くなるならそれでいいじゃない? ね? そしたら劇を見てくれる人
だってもっと楽しんでくれる……って思うんだけど」


 びっきーはどう思う? 


 いつの間にか寝ていたようだ。夢に出てきた気楽な顔に、ヴィクトリアは大きく溜息を吐いた。
 首を左右に動かす。現状を確認する。パピヨンは、いない。
 ヴィクトリアはコードの川に足をうずめている。迂闊さを笑う。割れたフラスコに背を預け、眠るとは。幸いあれ以上深く刺さっ
てはいないようだが……。
(あのコを馬鹿にできないわね)
 苦笑混じりに溜息をつく。慣れぬ作業の疲れと苛立ちに相当疲れているようだ。母提示のルーチンワークはいかに「娘が
やりやすく」手順を組んだかよく分かる。

 立ち上がる。硬いガラスに押しつけていた背中にどんよりとした痛み。目の下にはむくみ。空腹感。抜け切れぬ疲労感。
 それら総てを吐きだすように、ヴィクトリアは大きく溜息をついた。

「頑張る方がいい? 馬鹿にしてくる奴上達させる方がいい?」

 ダブって見えた。
 まひろを叱っていた女先輩が、パピヨンと。
 演劇が、錬金術と。

 嫌いな錬金術と苦労して向き合い、嫌いな奴を利したところでどうなる……という考えもあるにはあった。
 理屈さえつければパピヨンとの協力関係など幾らでも解消できる。尽くしても見返りがくる保証はない。
 ヴィクターが人間に戻れる保証など実はない。
 
 自分が歯をくいしばって頑張ったとして、報われる保証は?

 苦渋と理不尽に満ちた1世紀超の人生は、悪い想像ばかりかきたてる。

(…………)

 ではなぜ、敢えて嫌いな錬金術に関わっているのだろう。
 ヴィクトリアは静かな顔で自分に問う。

(きっかけは、あの時)

 人喰いの衝動から逃れるように、寄宿舎から逃げたコトがある。
 その時、秋水が追ってきた。どうやって所在を突き止めたかは分からないが。


 むかしパピヨンが住んでいた屋敷の地下で。


 秋水はヴィクトリアを説得し、彼女が寄宿舎に戻るきっかけを作った。

(その後よ)

 地上に戻った秋水は「総角主税(あげまきちから)」という敵の手によって、地下へ落とされそうになった。
 助けようとしたヴィクトリアに、彼はいった。

「寄宿舎に帰るんだ。皆、君の帰りを待っている。俺も帰還を望んでいる。だから戻れ」

 澄んだ瞳が語っていた。ヴィクトリアには錬金術の闇と無関係でいて欲しいと。


──「でも、さっさと戻ってきなさいよ。このまま居なくなられたら、勝ち逃げされたみたいで不愉快だから」
──「分かっている。君を助ける約束も必ず果たす」


(何よ。人の都合に踏み入る癖に、自分の都合は守るなんて卑怯じゃない。私だって……)

 その時の憤りが。
 ”私だって”
 何もできない訳じゃないという、反論のような気持ちが。

 ヴィクトリアの持つ彼女自身の可能性を気付かせた。


(…………もし、コレを実現できたら?)


 長年母の助手として携わってきた「白い核鉄の精製」を、ヴィクトリアの手でできたら?

 最初は小さな小さな灯火のような感情だった。
 だが地下での戦いに身を投じる秋水を待ちわびるうち……というより待ちわびるしかできない自分への苛立ちが募るたび
気持ちはより強く強くなっていった。

 何か、できるコトをしなくてはならない。

 そして秋水は鐶光というホムンクルスに負けた……というのを戦士経由で聴き

──(これだから錬金の戦士は嫌いよ。約束……反故になったじゃない)


 彼らと、鐶の戦いに思う所あって乱入し、期せずして勝因の一つとなり。


──「いまの生活は色々鬱陶しいけど悪くはないから、『やりたいコト』の準備が整うまではしばらく続けるつもり」


 斗貴子にそう告げた。


 やりたいコトは、白い核鉄の精製。
 それは100年前からの母の悲願だし、彼女が死んだいま、その意志を継げるのは自分しかいないとヴィクトリアは思う。
 母への手向け。父への救い。
 白い核鉄の精製は自分に課せられた使命だと……ようやく気付いた。

 そしてパピヨンが自分を探していると聞き、ここへ来た。
 彼とは少しだが面識があったし、来歴もわずかだが知っている。
 秋水からの説得前、蝶野屋敷を散策している時に。パピヨンの父の日記経由で。

 だからやってきて、白い核鉄を作ろうとしている。
 錬金術の総てをヴィクトリアは許した訳ではない。
 戦団だって嫌いだ。ホムンクルスも。核鉄だって正直好きではない。

 けれどそういう感情にだけ囚われていいか? と聞かれたら……ヴィクトリアは首を横に振りたい。
 そうしてきた100年間から得られたものなど何もなかった。
 そうしてきた100年間から引き上げてくれた者たちは、囚われていなかった。

 けっして無傷ではない、或いはヴィクトリアより重い苦しみや悲しみを背負っているかも知れない彼らは。


 それでも誰かを救おうと足掻いている。


(……そんな足掻きに乗った私も私ね)

 ヴィクトリアはうっすらと笑いを浮かべた。
 慣習上どうしても嘲りは抜けないが、どこか「仕方無いわね」という親しみが籠っている笑みを浮かべた。


 そして嘆息して、思う。
 とても簡単な疑問を。
 簡単だが、嫌悪や凝り固まった観念の前では浮かべてしまうのがやや怖い……自分の根底を覆しそうな疑問を。



(錬金術が演劇みたいに人を喜ばす。そんなコト、あるのかしらね?)



 黒い核鉄によって人外の、魔性の存在と化した者を元に戻すのには、白い核鉄が必要不可欠だ。
 パピヨンは武藤カズキを、ヴィクトリアは父親(ヴィクター)を人間に戻したい。
 だから、手を組んだ。




(武藤カズキ……)



 父と同じような運命に踏み込んだ少年を思い出す。
 初めて会ったのは女学院の地下。再人間化の手段を求めやってきた彼は……泥棒猫に見えた。
 母の100年がかりの研究成果と父の1世紀ぶりの救済機会を横から奪う泥棒猫。
 やっと見えた欠如の回復さえ世界は奪うのか……暗澹たる気分だった。
 だから心なんて開くつもりなんてなかったし、辛辣な言葉だって何度も何度も投げかけた。

 だが彼は。

 白い核鉄を。母の100年がかりの研究成果を。
 自分ではなく、父(ヴィクター)に使った。


 今なら思える。


 いや、彼を強く思う秋水とまひろが自分を救ってくれた時から気付いていたのかも知れない。


 彼は自分が嫌っていたほど、悪い存在ではない。

 と。

 ヴィクトリアを闇から引き上げた秋水とまひろにとっても、武藤カズキは大切な存在らしい。
 秋水もまひろも、目的こそ違えど彼との再会を望んでいる。
 だが人外のままでは戦団がそれを許さないだろう。


 蝶野邸で、秋水が地下に落ちたその時。

 微かな考えが一瞬浮かび、すぐ消えた。


 恩人の恩人。
 或いは、恩人の兄。


 彼を錬金術の力で人間に戻せる事ができたなら。
 秋水やまひろの元へ帰し、彼らを喜ばせられるのなら。





 心に溢れる彼らへの感謝を、そっくり返してあげられる。





 ……かも知れない。




「まったく。馬鹿が移ったわね。最初帰りかけてたのは誰だったかしら。そもそもパパのコト忘れちゃ意味ないじゃない」
「何の話だ」


 いつしか戻ってきていたようだ。パピヨンが首をかしげた。


 ヴィクトリアは一瞬息を呑んだ。青白い顔に血の気が薄く昇るのも感じた。

(落ちつきなさい。独り言は今の分だけじゃない。今の以外は、何も…………)

 でももし声に出ていたらどうしようと思いつつ、さりげなくパピヨンを観察する。
 颯爽とした立ち姿の病的な青年にこれといった嘲笑の気配はない。
 大丈夫のようだ。鬱屈が終わったという意味でも。
 何事もなかったように言葉を紡ぐ。

「なんでもないわよ。急ぐんでしょ? 早く指示出したらどう?」

 自虐めいた、しかしどこか生気を取り戻した笑みをヴィクトリアは浮かべた。



 嫌いなホムンクルスと協力し、嫌いな錬金術に挑むというのに。

 彼女はなんだか、うきうきとしていた。


 思った。


 これは修行だ。やり抜いてやる。







「厳しい修行だった……」


「だが、確かにこれならパピヨンに対抗できる!!」


【9月12日】 朝



────銀成学園までバスで7分。山あいのログハウス前で────



「厳しい修行だった……」


「だが、確かにこれならパピヨンに対抗できる!!」


 そこには。

 秋水と斗貴子、そして六舛の姿があった。何があったのか。最初の2人は全身のいたるところに包帯や絆創膏が見られた。
徹夜でアクションの修行をする──昨晩の修行の苛烈さが伺えた。
「斗貴子さん! 最近のジャンプの修行って過程見せないコトが多いよね! でも何をどうやってどうパワーアップしたか分
からないまま急に強くなって敵さん倒してもいまいちカタルシスないよ!」
「今度はまひろちゃんの声音か! いい加減にしろ!」
 斗貴子はがなるが──…
 彼女と秋水の顔はどこか明るい。直立不動の秋水は「いい試合をした」という顔である。俯き加減で拳を眺める斗貴子の
瞳で確信の光が赤々と燃えているのを認めたのは六舛で、彼もほんのわずかだけ口元を綻ばさせた。
「相変わらず上々だな。ありがと木場空牙」
 ログハウスの玄関前、斗貴子たちからは階段3段ほど上。そこにいる人物へ六舛は声をかけた。
 木場空牙と呼ばれたにこやかな青年は「いやいや」と軽く手を振った。
「いやはやそれにしてもいい朝で! 空は灰色太陽も灰色! いつもの如くくすんだいい朝で!」
「いやなコトをいうな! 空は青いし太陽だって綺麗な……綺麗な山吹色だ!」
「おっと世間的にゃそーでしたね。いやいやこれは失礼」
 彼は六舛曰く演技の神様だそうだ。
 そして最近演劇部を席捲するパピヨンに対抗すべく修行したい斗貴子と秋水の面倒を見た、という訳である。
「とりあえず礼は例のアレでいい? 」
 ワシントン条約とかにはちょっと引っかかるけど……六舛の言葉に斗貴子は「待て!」と声を荒げかけたが、それはどこ
か間のびした返事にかき消された。
「いやいやそれは六っちと俺っちの間柄、お礼はなしでいいってもんで」
 それに第一、感動してるんでさ……と演技の神様、上膊部で両目を拭う真似をした。感涙を示すには大仰な仕草だが、
続く涙声もまたまったく大袈裟、ウソ大袈裟まぎらわしい、公共広告機構カンカンの小芝居だ。
「演技の神様などと呼ばれて幾星霜! にも関わらず俺っちの特訓メニューについてこれる人ってのはリバっち以外まったく
いなかったか訳でありやして。ほとんどの方という奴ぁそりゃあヒドい! 耐えれば限りなき上達が待ち受けていると申します
のに途中で根を上げ脱落し、自分の身の丈よりちょい下ぐらいのらくらくメニューを選ぶ始末聞いて下せえこの前などは」
 愚痴は、5分ほど続いた。
 開始後5秒で「どうでもいい長話に発展するなコレは」と判断した斗貴子は迷うコトなく聞き流した。
 要するにかい摘まむに「みんな俺っちのコト神様神様って呼んでるのにいざ厳しい特訓つきつけたら妥協……。それって
どーなんですかい? 苦痛感じてまで慕情貫かねー訳で?」という些か自己愛に満ちた物であった。
 いつもの斗貴子なら怒鳴ってさっさと中断させるが、一応彼は一晩とはいえ師匠だったので自重する。
「されどここにいるお二方は苦痛を超えて俺っちの指示に従ってくれやした! これがまあ感動というか? 認めてくれてる
んだありがとうって奴なんでさ! 奴なんでさ!」
「なぜ二度言う!?」
 階段から飛び降りた「演技の神様」こと木場空牙は斗貴子と秋水の手を取りぴょこぴょこ振った。屈託ない笑いだ。斗貴
子はやや気押されながらもあまり悪い気分はしなかった。眼前の男は黙ってさえいればそこそこ端正な顔立ちだが、いちいち
毒のない、極論すれば好々爺のような笑みで造詣を台無しにしている。もっともそういう『虚飾』のなさあればこそ、当初文句
ばかりだった短気な斗貴子が一晩限定とはいえ師事できたのも明らかだ。
「ところで、少し質問したいが……」
 一方の秋水は「どうしても最後に聞きたい」と粛然たる面持ちで呟いた。
「へえ。答えられる範囲でなら何でも。あ! リバっちのスリーサイズはダメっすからね! あらぁ俺っちだけが秘蔵秘匿の
限りを尽くし密かに楽しむものでして!」
 ムンと身を乗り出し必死に口角泡を飛ばす神様に「いや、そうではなく」と秋水は(上体をななめ38度ぐらいの角度で後ろ
に追いやられながら)……質問した。
「小札零、という少女を知っているだろうか? 小柄で、おさげ髪で、シルクハットとタキシードの」
「……」
「知らなかったらすまない。知り合いと喋り方がよく似ていて気になった。それだけだ」
「……」
 演技の神様は笑顔のまま動きを止めた。悪意のない、笑みのままで。
 違和感。斗貴子の聴覚からさっと音が消えた。直感が告げる。「何かがおかしい」。演技の神様の表情はまったく動いて
いない。笑ったまま、あらゆる疑問もリアクタンスも肯定も弾き出さないまま……ニコニコと。秋水を見ている。
 表情は変わっていない。だが、「変わっていない」コト自体がひどくおぞましく思えた。
「性格がというよりは、たとえば……たとえばそう。同じ門下の噺家の調子が似通うように、君と彼女の語調は似ている」
「あー。それはっすねえ」



 傍観者の斗貴子はおろか、正面切って話していた秋水でさえ咄嗟に反応はできなかった。
 やや離れて淡々と彼らを観察していた六舛に至っては、総ての状況を成す術なく”押しつけられた”



 演技の神様はひょいと右手を突き出した。

「こっからは秘密事項。500円くれたら教えやす。へへ」

 とでも言いたげな軽やかな手つき。敵意も悪意もない、日常の所作。
 戦闘に慣れ過ぎた斗貴子や秋水だからこそ、出遅れた。
 演技の神様の掌には。

 いつの間に出したのだろう。

『核鉄』が握られていた。



 何が起こっている!? 愕然と固める戦士2人と一般人1人を「作り物のような笑顔」が一瞥し


「武装錬金!」




 叫んだ。

 転瞬、稲妻が槍のような武器から放たれ、3人に絡み付き。



 森から無数の鳥が飛び立った。

 それきり辺りは静かになった。

 異常なほど。

 異常なほど。




 異常なほど可憐な少女を前に、防人はポンと手を叩いた。


 きっかけはよくあるコトだ。もし斗貴子に話せば「ベタですね」と無表情に答えるだろう。
 防人は寄宿舎管理人だ。
 そしてもうすぐ「6人」ほど新しい住民がやってくる。5体、という方が正しいが、とにかく新しい住民が来るのは間違いない。
 お祭り騒ぎの好きな防人は歓迎会をやるべく──最近カレーパーティもやった。途中からそれはヴィクトリアの歓迎会に
もした──必要な物を調達すべく街をブラブラしていた。余談だが、ブラブラするのは彼の渾名の由来でもある。かつて任務
で潜入した津村家の住み込みの老人たちは、あちこち徘徊(もっともコレはジョギングや聞き込み調査のせいだったが)する
防人を「ブラブラ坊主」と揶揄した。そして……当時まだ10歳だった斗貴子が「ブラブラ坊主」を略して「ブラ坊」と呼んだ。
 防人の渾名、キャプテンブラボーはここから来ているのである。
 それはともかく。
 知り合いから頼まれた用事もついでに片付けよう。そう歩いていると、路地裏から下卑た大声がした。行った。するとガラ
の悪い「いかにも」な男どもが少女を取り囲んで何やら喚いているではないか。
 後はまあ、こういう場合のお決まりを踏襲するだけだった。

 声をかける → 男たち激昂 → 軽く叩きのめす → 奴ら退散。

 以上。

「怪我はないか?」
 そういって少女を見た防人は、「ほう」と軽く息を呑んだ。
 彼は別に女たらしではなく千歳一筋だが、そんな彼でさえ一瞬見とれるほど目の前の少女は綺麗だった。
 ふわふわとウェーブの掛った髪を肩のあたりまで垂らした笑顔の少女。
 とても大人しそうで、清楚な雰囲気だ。それでいて頭頂部から延びる長大な癖っ毛が愛嬌を醸し出している。
 やや笑顔が引き攣っているのはやはり「いかにも」な連中に絡まれたせいだろう。防人はそう判断した。
 服装も路地裏にはまったく相応しくない。飾り気のないジーンズにフード付きのゆったりとしたパーカー。注視するのも悪い
と思ったが、客観的な事実としてかなりスタイルも良かった。総合的にいえば桜花よりやや上かも知れないとさえ思った。
桜花の総合点を下げているのはもちろんあの腹黒さだが、要するに目の前の少女にはそれがないので、何か言いがかり
をつけられ引きずり込まれたに違いない。

 一方、少女はしばらく防人を怪訝そうに見ていたが──…

『大丈夫です。ありがとうございます。助けてくれて。
                                                                      ........................』

 足元から拾い上げたスケッチブックに、そう書いた。

(喋れないのか?)

 それも気にはなったが、防人の意識を引いたのはスケッチブックの片隅にある黒い点だ。
 確かにあった。ゴミがついただけかと一瞬思ったがそれは『やけに整然とならんでいた』
 しかも少女は、防人の鍛え抜いた視力が「黒い点」の正体を見抜く前にページを捲った。

『ところでこの近くに、孤児院はありますか? 門の近くにひまわりの絵がある所なんですけど』

 異常なほど可憐な少女を前に、防人はポンと手を叩いた。

「そういえばちょうどパピ……知り合いから言伝を頼まれていたな。もしキミが良かったら送っていこう。何しろ──…」

【外出の慣習上、シルバースキンを纏っていた】防人、力強く呼びかけた。

「さっきの不審な連中が来たら危ない!」

 少女は軽く「う」と呻いた。心底困った、何か言いたげな表情だった。笑顔だがちょっと泣きたい。そんな表情だった。頭頂
部から伸びるアホ毛がみるみるとしおれた。

『はい……。お願いします……』

 笑みに細めた瞳から滝のような涙を流し、彼女はよろよろとお辞儀をした。
 頼むというより観念したという言葉こそふさわしい態度だった。
「可哀相に……。よほど怖かったんだな」

 防人はとても気の毒そうに呟いた。気の毒なのは彼の頭であろう。

 だからか彼は、知らなかった。


『はい! お願いします!!』

 の2ページ前。

『大丈夫です。ありがとうございます。助けてくれて.』


 片端に打たれた点を拡大すると、こう書かれていたコトに。


『あの人たちを助けてくれて本当にありがとうございます』












「ぬぬっ。今日は東の端を調べに行こうとすれば。あれにこの上なく見えるはリバースさんじゃないですかディプレスさん!」
 全身フード姿の女性が叫ぶと、ディプレスと呼ばれたフード姿が「ちょwww」と口をふさぎにかかった。
「静かにしろwww 横にいるのは防人衛wwww アイツ耳がいいからなあww 下手に叫べば気付かれる。ああ憂鬱」
 
 彼らは、路地裏の遥か上にいた。路地裏を作る建物の屋上にいた。

「すいません。でもこの上なく妙です!! あの人はブレイク君と手分けしてですよ、ウィル君の武装錬金を『建てる』場所を
探している筈なのに、錬金戦団の戦士長と接触しちゃうなんて。裏切りデス! 裏切りの夕焼けデス!」
 声を潜めて騒ぐフードの女性にディプレスは「まwwww 偶然だろうなwwww」と答えた。幸い防人たちが気付いた様子はなく
ゆっくりとだが遠ざかっていく。防人は何か話しかけているようだが、「リバース」と呼ばれた女性が決して答えないコトもディプ
レスたちは知っている。義理で彼らを裏切らず、家庭的な問題で裏切れないコトも。
「でも、私達みたくフード被ってないような。あ、違いました。服にフード付いてますねこの上なく。ぬぬ? いやそこは全身フード
で行きましょうよリバースさん!」
「あれか。普通の服のフード被ってたけど絡まれた時点で取れたようだなwww いいんじゃないのwww 防人に顔見られた
けど正体バレてないしwww 楯山千歳はしばらくイソゴばーさん追跡で忙しいから捕捉できないだろうしwww」

 それに。
 彼女は逆鱗に触れない限り、「ある一言」を言わない限りは大人しい少女のままだ。
 ディプレスはそう呟いた。

「で、リバースが喋らない限り防人も地雷は踏まないwwww 踏みようがないwwww だからフードなくても大丈夫だろwwwww」
「それは些細な問題です!」
「え! 些細なの!?」
「私がいいたいのは未知の敵集団は全員全身フード! それです! 普通の服で妥協なんてまったく許されません!」
「そっち!?」
「そっちです!!」
 黒フードの女性──クライマックス──は力強く頷いた。
「そりゃあ正体バレした敵集団が個別ばらばらな格好っていうのも素敵ですよ! でもだからこそ正体バレる前はみんなお
そろいの全身フードにしましょうよ!! ロックマンメガミックスだって第1話のラストで2のボスたち全身フードだったじゃな
いですか! それです! それこそ未知の敵集団って感じで素敵なのに!」
「でもなあwww リバースはヤンデレで肉食系で妹萌えでゲーム好きだけどオタじゃないしwwwwww」
「まったくリバースさん、自分が二次元臭いくせにライトなオタですね!! お約束は例え陳腐でも全力で守りましょうよ! 
いまのジャンプの新人さんの漫画がほこほこ打ち切られるのはお約束とかテーマとか題材とか、「これ描きゃウケるだろう」っ
て選定の時点で妥協して! どうすれば面白くなるか全力で模索しないからじゃあないですかーっ!!」
「いやwww勝手に決め付けんなwwwそして俺の肩揺すんなwwww 仕事やろうぜ仕事www 無駄口はよくねーってwwww」
「そんな私のこの上ないお薦めは週刊少年チャンピオンのケルベロスですがっ!! とにかくリバースさんは一度私謹製の
エロゲで声優やるべきです! 元声優の私さえこの上なく感動するほど声綺麗ですし、ブレイク君の特訓で発声練習のつ
いで程度に演技のイロハ覚えたんですから! エロゲでショタやってガンガン喘いでこちら側に堕ちましょうよ!!」
「ショタかいwwwww」

 こいつはアホだ。ディプレスはつくづくそう思った。(ちなみにクライマックス作のエロゲは毎年コミケで250本ほど売れる)

「しかし残念wwww リバースの奴がチンピラ蹴散らすの見たかったのになあwwww」
「この上なく余計な手助けでした! リバースさん、武装錬金なしでもあのこの上なく馬鹿強い妹さんに勝てるのに!」
「まwww あれは精神的な物もあwるwけwどwwwwww ちょっとした共同体なら素手で殲滅できるわなwwww」

 だってアイツ怖いもんwwww ディプレスはそうあざけ笑い、相方と共にどこかへ消えた。








 パピヨンに首を絞められたとき、ヴィクトリアは確かに見た。

 いつか見た秋水の、澄んだ瞳とはまったく対照的な瞳を。

 濁っていて、苛立っていて、ヘドロとマグマを綯(な)い交ぜにして煮たてているような──…
 それがパピヨンの瞳だった。普通の人間ならまず嫌悪し、目を背け、悪と断じて貶めるだろう。

 だがヴィクトリアは……惹かれた。
 瞬間的に、瞳の奥にあるモノを理解してしまった。

 彼の境涯は僅かだが知っている。かつて彼の実家に行き、彼の父の日記を読んだコトがある。

 まだ人間だった頃のパピヨンは不治の病に罹り、誰からも必要とされず、死を待つだけだった。
 だからホムンクルスになったのだろう。
 イモ虫が蝶に変態すれば、華麗な変身を遂げさえすれば誰からも注目される。
 そう信じて研究を重ねた……というのはパピヨンの父の日記には書かれていなかったが……見当はつく。

 だがそれでも、一縷の望みを賭けたホムンクルス化さえ彼の人生を好転させなかったようだ。

 ヴィクトリアはホムンクルス化直後のパピヨンがどういう行動を取ったかまでは知らない。

 だが蝶野屋敷と呼ばれる彼の実家が荒廃し、住民が誰一人生存していないところからおおよその推測はできる。
 必要とされなかったから、殺した。
 想像に難くない話だ。

 武藤カズキという少年は、パピヨンを必要……とまではいかないが、何かを与え、何かパピヨンにとって一番大事な「何か」
を認めたように思える。人間に戻したいという執心を呼び起こすぐらいなのだから、きっと途轍もなく大きな物を与えたに
違いない。

 そんな存在が、月に消えた。
 父が同じ経緯をたどり、同時期に愛する母さえ失ったヴィクトリアだから、パピヨンの抱えている感情は少しだけ分かった。
 女学院の地下に秋水が来るまで彼女は、ただ、疲れていた。
 老女のように枯れてねじくれた精神から一絞りの何かが消えうせて、ただ疲れていた。
 総てを諦めていて、「そこから先」の人生に意味など見出せなかった。希望があっても縋るつもりにはなれなかった。
 そんな少し前の自分に溢れていた感情が、パピヨンの瞳の端々に見えた。
 違うところがあるとすれば。

 何もかもを諦めかけながらも。
 そこから先の人生の無意味さを悟りつつも。
 希望に縋るより絶望の赴くまま総てを破壊する方が楽だと知りつつも。

 自分にとって大事な「何か」を取り戻したいと奮起し、汚泥の中を歩いて行く。

 そんな意思の強さが瞳の奥に宿っていた。

 にも関わらず彼が揺らいでいるのは、大事な存在を失ったという失意のせい。

(平気な訳、ないわよね)

 鬱屈するのも無理はない。
 彼もまた、たった一人のかけがえのない存在を失っているのだから。
 不可能を可能にするという理念さえ、巨大な失意に引きずられ、飲み込まれそうなほど傷ついている。
 一言でいえば彼は……悲しんでいる。
 つい最近母を失ったヴィクトリアだから、同じ気持ちには敏感だ。例え彼がそう言わなかったとしても、彼を取り巻く雰囲気
は雄弁すぎるほど気持ちを物語っている。
「何か」を与えてくれた人間がいなくなり、悲しんでいる。
 普通の人間ならそれを誰かに伝え、喋り、憚りなく泣きさえすれば気持ちは少しずつ楽になる。

 だがパピヨンはずっとずっと孤独のままなのだ。
 そして孤独の中で「ならざるを得なかった」傲岸不遜な態度のせいで……誰にも弱みを見せられずにいる。
 にも関わらず無差別な破壊で憂さを晴らせないのは、やはり武藤カズキとの間にあった何らかの絆のせいではないか?

 パピヨンの瞳を見た後、ヴィクトリアは少しずつ思い始めていた。

 なんでもいい。少しでもいい。彼の悲しみを和らげられないかと。


【9月12日】 昼ごろ。


──────銀成市。とある孤児院──────



「ではお願いしますの。話をしたら子供たちがもう、待ちきれないっておおはしゃぎですの。ありがとうございますの!」
「いえ。礼には及びません。やっぱり子供達は笑顔が一番ですから」
 防人は孤児院の庭にいた。やや大きめの駐車場ぐらいしかないこじんまりとした庭には身寄りのない子供たちが10人ほど
いる。孤児院……というコトで防人はここに来る前、錬金戦団にある同様の施設──こちらはホムンクルスに家族を殺され
た身寄りのない子供たちを収容する施設だ。千歳や剛太もそこで育った──に漂う一種の暗さを想像していたが、ついてし
まえば何とも彼好みの明るい喧噪に満ちていた。銀色の覆面の下で頬を緩ませながら庭を一望する。じゃれあう子供たち。
追いかけっこをする子供たち。砂場にいるのは兄弟だろうか。よく似た顔つきの子供が2人、赤や黄色のスコップで砂山を
ぺたぺたと叩いている。庭の片隅では先ほどの笑顔の少女が子供たちと戯れている。

(まさか銀成市にこんなブラボー場所があったとはな)

 知り合いの代理で初めてやってきたこの孤児院は、とてもいい場所だった。親や身寄りを亡くした筈の子供たちが心から
の笑顔を浮かべている。それだけで防人は癒される気分だった。

 7年前、斗貴子の故郷・赤銅島で起きた集団殺戮事件は彼の心に今でも暗い影を落としている。
 初めての任務失敗。
 守れなかった人々。果たせなかった使命。
 結果からいえば、彼は斗貴子以外の誰も救えなかった。
 顔見知りの老人たちも、
 斗貴子のクラスメイトたちも。
 努力さえすれば世界の総てが救えるヒーローになれる。そう純粋に信じていた防人にとって、赤銅島の事件は大きな転機
となった。彼は自身の限界を悟り、せめて与えられた任務の中で最良の結果が出せる「キャプテン」を目指さんとするように
なった。
 事件に関わっていた防人の僚友たちもまた……変わった。
 無邪気で泣き虫だった楯山千歳は総ての感情を内に押し込めるようになり、自らの才能を信じていた火渡に至っては才
能さえ及ばぬ「不条理」を克服せんと自らも不条理足らんとするようになった。
 今の自分たちの姿は、若いころ描いていた輝かしい未来とはまったくかけ離れている。
 防人は時々そう思う。千歳にしろ火渡にしろ、いまの彼らの生きざまは彼らの本質からかけ離れた「無理のある」ものだ。
不自然さに満ちている。抱えた傷に触れぬよう、同じ傷を重ねぬよう……そればかりを考え、こす辛くさえある様々を積み
上げるコトでしか、痛みを忘れられないのだから。

 だからこそ、無邪気に微笑むコトのできる子供たちを見るたび防人は思う。
 錬金術の災禍に彼らが巻き込まれ、自分たちのような傷を負うようなコトがあってはならない。

 と。
 
 防人が子供たちに贈る視線に何かを感じ取ったのか。
「みんないい子ですのよ」
 もうすぐ50になるかという女性の院長は嬉しそうに庭を見渡した。
「不況で寄付が減って、おいしい物も食べさせてあげれないのにあの子たちは文句一ついわないんですの。それどころかお
小遣いを一生懸命貯めてくれて──…」
「成程。何かあなたにプレゼントでも?」
「いえ、値が張りそうなブランド物の限定品とかラー油とかレアなおもちゃとか、徹夜で並んで徹底的に買い占めてですね、
ヤフオクに流してくれるんですの。結構な利鞘を稼いでくれて……いまや運営費の8割が賄われているですの! ああ! 
なんて逞しいコたちなんでしょう!」
「は、はぁ」
「と失礼しました。ところで紹介がまだでしたね」
「?」
「ブラボーさんが連れて来てくれた人のコトですの。笑顔で無口でバインバインなあの女の子の」

 庭の片隅でその少女は幼稚園児ぐらいの子たちとドッジボールをしている。意外に運動神経がいいようで、子供たちの
ボールをひょいひょい避けたかと思うと、幼児ゆえの手加減のない投球をふわりと受け止め軽く返す。絶妙な送球だ。防人
は感嘆した。彼女はどうやら「相手がちょっと頑張れば取れる」ギリギリの加減を見極め、ボールを返しているらしかった。
それが証拠にボールを投げられた子供達。幼い闘争心をかきたてられているようで、右に左に飛んでは食らいつくように
ボールを取る。そこへ『よくできたね』とスケッチブックに文字を書き少女は応対する。余裕たっぷりだ。子供を見下して
いるのではなく彼らが楽しめるよう楽しめるよう、考えながら動いている。

 大人しいながらも利発な少女だ。防人は感心を込めつつ女院長に反問。

「失礼ですが彼女とはどういうご関係で?」
 彼女はここに来るとき防人に案内を乞うた。だがこの施設の子ならそれはそもそも必要ない。鐶光というホムンクルスの
ような方向音痴なら話は別だが、少女はどうやらチンピラに絡まれた弾みで道を見失っただけらしい。

「他の施設の院長さんですよ。まだお若いのに立派ですのよ? 是非運営の参考にしたいってわざわざ手紙を送ってくれ
て……」

 それで来るコトになったという。女院長自身、あの笑顔の少女とは今日が初対面ともいう。

「名前は確か……」

 その時、防人の耳を鈍い音が叩いた。振り返る。視線の遥か先には鼻を押さえて立ちつくす笑顔の少女。足元にはボー
ル。何が起こったか想像に難くない。

「失礼」

 防人が話を中断し少女に駆け寄ったのは、ひとえに彼女を心配してのコトだ。一見とてもか弱いその少女はとてもボール
の直撃に耐えれそうにない。幸い防人は経験上、軽い打撲や骨折、脱臼といった怪我の処置には慣れている。だからとり
あえず手当を……そう思い、自然に駆けだしていた。

「大丈夫か?」
 少女は防人を認めると……両手から手を放し、会った時のように足元からスケッチブックを拾い上げ、マジックでこう書いた。

『ぶみ!』

 ぶみとはなんだろうか。銀色覆面の奥で防人は目を点にした。方言だろうか。或いは怪我の状態をあらわす何か高度な
医療用語だろうか。
 やや鼻のあたりが赤くなった少女はしばらく防人を凝視し、しばらくすると「ぶみ!」の下に説明文を加えた。

『↑は鼻を打った叫び声です』

 やや照れくさそうに少女は微笑んだ。

(変わったコだな)
 コート越しに防人は頬を掻く。少女は「う」という感じに笑顔を歪め、慌ててスケッチブックを捲り、次なる言葉を紡ぎ始めた。
『へ、変な伝え方ですみません。ででででもブラボーさんが心配した様子で駆けよってきてくれたから、あのっ、その、どーし
てもいま思ってるコトを伝えなくちゃって思って……でもそーいえばお鼻が痛かったし急にぶつかってビックリしたなあって
気付いちゃってちょっと叫びたくて、気付いたら『ぶみ!』とか……あああ。なんでこんなの描いちゃったのかな私〜〜!!』
 笑顔のまま少女はしゃがみ込み、体育ずわりの姿勢で俯いた。空気は「やってしまった」とばかりどんよりしている。

(間違いない。このコは……天然だ!)

『とにかくありがとうございます』
(お。復活。もう立ち上がった)

 少女はペコリと一礼した。ふわりとしたショートのウェーブヘアが揺れ、汗の粒がぱあっと散った。軽い運動で汗ばんだ
少女の芳しい匂いが周囲に立ち込め、防人はわずかだが鉄の自制心が揺らぐのを感じた。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 ここでようやくボールをぶつけたと思しき男児が声を出した。声を出せなかったのは突如として疾走してきた防人の──
彼はあくまで普通に走ったつもりだったが、小さな子供にとっては最高速のバイクや自動車が突っ込んでくるようなド迫力
だった。しかも彼は全身銀色のコート! びっくりするなという方が無理である──姿に腰を抜かしていたせいだ。

『大丈夫大丈夫。怒ってないから。でもお姉ちゃんはこう見えて怒るととっても怖いから、あまり悪いコトしちゃダメよーっ!
ボールはいいの。うん。遊んでる時の弾みだったし、君の気持ちみたいなのが伝わったから逆に嬉しい……かな?』

 そう書いて少女は男の子をぎゅっと抱きしめた。笑顔のままの彼女は「気にしたらダメよ?」とでも言いたげに彼の背中を
とんとんと優しく叩いた。

 その時、男の子の顔が真赤だった理由に、防人はすぐ気付いた。そして咳払いをしつつ軽く目を逸らした
 男の子の体には、笑顔で大人しげな少女に見合わぬ豊かな胸がピッタリと密着していた。
 そして少女が背中を叩くたび抱擁が微妙なズレを見せ、それにつられてたっぷりとした膨らみの潰れ方が露骨に変わる。
余程の質量らしい。服越しでさえそれが分かるのだから……実際に密着されている男の子が如何なる感触を味わってい
るか全く想像に難くない。

(桜花なら籠絡狙いで同じコトをするのだろうが……)

 どうやら少女は天然でやっているらしく(自分がそういう凶器を持っているという自覚さえないのかも知れない)、またスケッチ
ブックを拾い上げると「今度はお部屋で積木崩ししましょ。積木崩しは楽しいっ、楽しいのよーっ!」とだけ書いた。






 しばらくその少女は孤児院に宿泊するらしい。





(となると、パピヨンが考えた例の企画。彼女もアレを見るかも知れないな)


 防人はそう考えながら寄宿舎に向かって歩き出し、孤児院の門をくぐり抜け……何かにぶつかった。

「っとすいやせん」
「いやこちらこそ。すまない。ちょっと考え事をしていたからな」
「奇遇ですねえっ! 実は俺っちも考え事をしていたんでさ!!」
 ぶつかられた人影は声を張り上げた。怒っている訳ではなく、何かを心底喜んでいるらしい。
 防人とほぼ同年代で、見た目はやや若いウルフカットの青年は、にっこにことエビス顔で揉み手をしていた。
「実はこの孤児院に知り合いがいるらしくて久々の再会に心躍っているんでさ。へへっ。再会! 再会ってのはいいと思い
ませんか灰色の人! 離れ離れだった愛する人にまた会える! くーっ! これだから人生はいい! 例え世界の総てが
灰色でも可愛いあの子だけは優しく輝いている!」
 生き別れの兄弟にでも会いに来たのだろうか? 防人はいろいろ聞きたくなったが折角の再会に水を差すのも悪いと
思い取りあえず親指を立てた。
「よく分からないがブラボーだ! おめでとう!」
「へへ。ありがとうございやす。ありがとうございやす」
 そして防人は彼と入れ替わりに孤児院を出た。

 今しがたすれ違った男の通称が「演技の神様」で──…

 先ほど斗貴子たちの前で武装錬金を発動したなどとは。


 そして斗貴子たちがいま、どうなっているかなどは……。


 本当に心底、露知らぬまま、防人は寄宿舎へと歩いて行く。






















【9月7日】

──────パピヨンの研究室で──────

「頼みもしないコトを」
「別に。私が勝手にやってるだけよ

 不機嫌そうな声を聞きながら、ヴィクトリアは雑巾を絞った。バケツの中に赤くぬめった液体が零れおちる様はなかなか
恐ろしい物があるが──ヴィクトリアは「慣れていた」。

 この日の作業はおおむねパピヨンの予定通りに進行した。
 ただこの日、ちょっとした変化が研究室に起こっていた。
 ヴィクトリアがしゃがみ込み、床を拭いていたのだ。そして雑巾は限りなく赤く、遠まきに観察するパピヨンの口元にはうっす
ら血の跡が滲んでいる。
 
 ヴィクトリアは、パピヨンの吐いた血を……拭いていた。

「病気なのにまた力むから血を吐くのよ。まったく。アナタって本当よく怒るわね」
「黙れ」
「早坂桜花から聞いたわよ。どうやらアナタ、ホムンクルスとしては不完全みたいね。だから人間だった頃の病気もその
まま。ずいぶんと変わってるじゃない」
「下らん邪魔が入ったからだ。慣れれば吐血の味も悪くない」
「はいはい」
「下らん同情を寄せているようだが、あいにく俺は貴様が思うほどの不便は感じちゃいない」
 憮然と呟くパピヨンだが、声音は鬱屈時ほど恐ろしくもない。どちらかといえば拗ねているような調子だ。床拭きという
作業外の時間を怒らぬのは──作業の都合上ヴィクトリアに与えた休憩時間中の出来事というのもあるが──その行為
の意外性にやや面喰らっているせいかも知れない。少なくても作業開始時のヴィクトリアは、軽い驚きに息を呑むパピ
ヨンを見た。
「はいはい。でもこの研究室、もうちょっと清潔にしたらどう?」
 研究室の空気は淀んでいた。窓も換気口もなく、埃だらけでその上名称不明の器具どもが無遠慮に薬品の蒸気を絶え
間なくブッ放している。このままでは1年以内に公害病の温床になるだろう。
「埃っぽいと喉に悪いでしょ? いちいち血を吐いていたら作業の能率にも響くと思うけど」
 毒舌少女にしてはやんわりとした物言いで、諭すように呟く。ただし返答は大体予測済みで、事実その通りになった。
「断る。この埃っぽさとカビ臭さが俺は大好きでね」
「はいはい」
 ヴィクトリアは少し吹き出しそうになった。
(ああ。なんだ)
 指示を下している時のパピヨンはひどく厄介でやり辛い相手に見えたが──…
 いざ普通に話してみると。
(要するに子供なだけじゃない)
 ヴィクトリアの言葉にいちいち突っかかってくる割にはどこかズレた、我儘なだけの青年である。
(もし弟がいたらこんな感じだったかも知れないわね。パパ。ママ)
 考えてみれば実年齢ならヴィクトリアの方がはるかに上なのだ。曾祖母と曾孫、或いはそれ以上の年齢差だ。
 だからヴィクトリアの思考はやや的外れなのだが……。
 なんとなく「手のかかる弟」としてパピヨンを見る方が精神衛生上良さそうなので、ヴィクトリアはその方向性で行くコトにした。

 一方パピヨンは、慣れた様子で血だまりを掃除するヴィクトリアをしばらく黙然と観察していたが──…
 やがて。
「で、どうして貴様は血を拭くのに慣れている」
 とだけ呟いた。
 質問する側とは思えぬ傲慢な態度だ。だが少し前のように腕力で訴え爆薬を放つより比較的マシともいえる。
 ヴィクトリアは、答えた。

「ママにまだ体があった頃、介護してたからよ」

 ママ、ことアレキンサンドリアはヴィクターが怪物と化した時、傍にいた。傍にいたからこそ首から下の体機能を総て失い
7年もの間昏睡状態に陥った。ヴィクトリアが言ったのはその時期のコトだろう。

「ふぅん。介護ねえ。しかし体機能を失ったからといっていちいち出血するものか?」
「アナタ、いちいち鋭いわね」
 床に溜まった「鋭いやつ」の血を綺麗さっぱり拭うと、ヴィクトリアは軽く嘆息した。
「戦士のせいよ」
「追撃部隊が来たという訳か」
「そう。私達の隠れ家にね。パパの行方を聞きに来たのか、私とママを人質にして”また”パパへの切り札にするためかは
分からないけど」
 そういうコトが何度かあり、しばしば意識のない、動けぬアレキサンドリアが手傷を負うコトがあった。
「よくもまあそれで生き延びられたもんだ」
「…………助けてくれる人がいたからよ」
 パピヨンの表情がやや硬くなった。無理もないとヴィクトリアは思った。
「私も、思い出したのはつい最近だから」

 いつか寄宿舎で見た遥か過去の夢。それに出てきた「金髪の男」。胸には認識票。
 彼とよく似た男とヴィクトリアはつい最近邂逅した。
 のみならず、彼はある意味でヴィクトリアの運命を左右した。

 総角主税(あげまき ちから)。

 かつて戦士と激しい戦いを繰り広げたザ・ブレーメンタウンミュージシャンズのリーダー。

 ヴィクトリアに蝶野屋敷へ行くよう促したのは彼だった。そして彼女は蝶野屋敷で秋水たちに説得された。

(……そういえばアイツ言っていたわね)

「この顔と同じ奴を見たコトはないか? もうちょっと老けていると思うが」

 凛々しい金髪の青年は自信たっぷりにそう呟いた。

 ヴィクトリアは、その顔に見覚えがあった。聴かれるまでは忘れていたが……見たコトがあった。

 崩れかけた家の中で、目覚めぬ母を前に泣きじゃくる幼い自分。
 やってきたのは男。金髪で認識票をかけた、生真面目そうな美丈夫。
 彼は戦団への怒りを露にし、ヴィクトリアにクローンの技術を教え……いつの間にか姿を消していた。

 総角はその男と似ていた。
 似ているといっても親や兄弟のような相似性とはどこか違っていた。
 簡単にいえば、同一人物の18歳と24歳の時の写真を並べたような相似性だ。
 同じ人物だが、年齢のせいで顔が少し違って見える。
 ヴィクトリアがあったコトのある金髪の男と総角は、そんな相似性を帯びていた。

(アイツは何者なのかしらね。結局。パパのコトも知っているようだったけど)

 戦団に連行された総角が何を供述しているかまでは分からないヴィクトリアだ。
 それはともかく彼との邂逅でヴィクトリアは「過去にいた金髪の青年」を思い出した。

「何しろこの100年ほとんどずっとママと2人きりだったし、その戦士が私達を守っていたのは本当に一時期……多分、3か
月もなかった筈よ。私達が日本に渡る手伝いをして、それっきり」
「それはそれは。随分酔狂な輩がいたものだ」
「本当にね。元々ママにクローン技術を教えたのもその戦士らしいし。…………え? 戦士? …………?」
「どうした?」
 ヴィクトリアはしばし口を噤んだ後、しばし視線を彷徨わせた。いっていい話題かどうか少し迷ったのだ。
 そもそもいまはパピヨンの与えた休憩時間中。それが終わっていたなら蝶々覆面はまた機嫌を損ねるだろう。
 まずは確認できる方から確認。素早く携帯電話に目を這わす。休憩の刻限はとっくに過ぎている。
「どうせアナタにとっては下らない話よ。続けていいのかしら。作業に戻れっていうなら戻るけど」
「手短に済ませ。下らん話を勿体つけられるのは嫌いでね」
「へぇ意外。それなりに融通効くようね……。意外……。で、話していて思い出したけど。確かあの戦士は…………戦士じゃ
なかった筈よ」
「意味が分からん」
「確か言ってたの。『戦団所属で核鉄も持っているが、戦士は本職じゃない』って」
「…………」
「武装錬金の特性がかなり特殊だとかで、研究畑にいながら試験的に戦士見習いもやっていたそうよ。正確な所属は、所属
は……。研究の、確か……そう。研究班の。……思い出してきたわ」
「…………」
「あの人は賢者の石研究班の班長。ママ(副班長)の上司。そう。あの戦士は……ママの上司」
 パピヨンは鼻を鳴らした。
「で、名前は?」
「名前は確か──…」



 ヴィクトリアの言葉を遮るように、けたたましいブザーが研究室に響いた。



 その出所を見たヴィクトリアは少し目を丸くした。
(もう? あと1時間はかかると思ったけど)
 研究室の一角に長い机がある。その上にはパソコンがあり、いかにもジャンクパーツから組み立てた雰囲気アリアリの
角の丸い直方体の装置が接続されている。
 更にパソコンの後ろには巨大な円筒形のフラスコが5つ並んでいる。
 総て大人1人が入れそうなほどの大きさという所までは共通しているが、フラスコの内容物はまちまちだった。

「ヘビのように」酷薄そうな男性。
「ゴリラに似た」チンピラ風の男。
「カエルじみた」気色の悪い青年。
「バラのごとく」美しく艶やかな女。

そして。

「ワシを思わせる」屈強な若い男。

 実に様々な特徴をもつ男女は、フラスコの中で眠っていた。よく見るとその体の所々は欠けているが、もし付きっ切りで
監視すればその部分が徐々にだが確実に再生しつつあるのが分かっただろう。

 それらのフラスコの上部から延びたコードもまたパソコンに接続され、何かのデータを絶え間なくやり取りしているようだった。
「解析完了か。『もう一つの調整体』。あれがどう霊魂に作用するか……いや、そもそも貴様が作ったあの装置が正確に
解析できているか。それがそもそも問題だがな」
「図面を引いたのはアナタでしょ。部品を作ったのも。私は組み立てとソフトウェアの微調整をしただけよ。……もちろん、そっち
に問題があったら謝るけど……」
 後半は消え入りそうな声だった。ヴィクトリアなりに素直な感情を表したつもりだが、大声で言うのはやや気恥しくもあった。
 一方、パピヨンは彼女の微妙な変化になどまるで興味がないようで。

「とにかくまずは貴様がクローン再生しつつある『連中』の霊魂で試してみるとしよう。ご先祖様はスゴイスゴイと自画自賛して
いたようだが……さて









──────薄暗いどこかで──────


「ほー。で、で!? 霊魂に作用しとったらどうスゴいん!? 」
「むーん」
「『もう一つの調整体』いうても要はあれ、ふっつーの核鉄ちょっと改造しただけやろ? 100年調整に調整重ねた白い核鉄
ほどスゴクないんやないかな。うん。ウチはそう思うとるでー」
「むーん。それはだね」


 ムーンフェイスは微苦笑していた。



 一連の戦闘終了後、目下ムーンフェイスは銀成市から退散中だ。
 いまは彼が「再就職先」と呼ぶ『組織』の用立てた建物に身を潜め、新たな戦いを待っている。
 のだが。

(やれやれ。LXEの間の抜けた連中が懐かしいよ)

 時々往時を忍ぶほど、再就職先の面々は「色々とヒドい」。
 例えば大人しそうだと話しかけた「笑顔の似合う少女」
(確か……リバっち。いや、リバース君だったかな。何にせよ……まったく怖かったよ)
『彼女にされたコト』は流石のムーンフェイスもあまり思い出したくない。

 いまムーンフェイスに質問している関西弁もあまり正常な人物ではないらしい。
 何しろ、つい12分ほど前まで坂口照星を筒型爆弾で破壊していた。
 何度も、何度も。
 端正な顔が爆ぜ骨と歯が見えた瞬間、関西弁はきゃっきゃと無邪気な歓声を上げた。
「カルシウムの白さが目立つようになった顔面」を掌と鮮血で隠し、倒れまいと踏ん張る照星めがけ筒型爆弾を更に射出。
 直線的に、ではない。
 関西弁が念ずるたび坂口照星の周囲で空間が歪み、渦が空き、そこからまず「疵のついた大きな瞳」が覗く。喜悦に
きゅっと細まった瞳。筒型爆弾はそれを押しのけるようにして飛び出し、例えば肘を爆破する。
 恐らく武装錬金の特性によるものだが、詳細までは分からない。
 確かなのは誘拐以降、同様の行為が坂口照星のあらゆる部位に対して行われたというコトぐらいであろう。

「日本には」

 1発当たりの殺傷力は低い。皮が焼け肉が飛び白く旨そうな部分がわずかに覗く程度だ。
 威力のない爆発と爆風がじわじわとじわじわと、皮を裂いて肉を剥がす。
 ムーンフェイスが知る黒色火薬ならば、パピヨンの武装錬金ならば、一撃で肘から先を落とすだろう。
 
「日本には、わざとナマクラにした鋸で罪人の首挽く拷問あったとか」

 とは「坂口照星担当医」の文言である。
 3発まとめ撃ってようやくニアデスハピネス1発の9割程度。単発では比較的低威力の筒型爆弾を、関西弁はわざと1発
ずつ投入しているようだった。敢えてナマクラにした鋸の、拷問だった。

(ひどいやり口だったよ)

 今ごろ照星は千切れかけの、皮一枚で繋がっている肘をぶらぶらしたまま無聊を感じているのだろう。
「腐るのを待っとるんや! 爆弾さんたちはな、今日はそういう気分らしいんや。うん」
 底抜けに明るい関西弁は心から楽しんでいる。異常で、しみったれた拷問を。
「そんな話よりな、調整体について教えてーなー。拷問はもう飽きたし」

 幼児の背丈ほどの赤い筒。

 その中から響く関西弁に、ムーンフェイスはため息をついた。




 「もう一つの調整体」。

 かつて戦士たちが血眼で探しまわった黄色い核鉄。
 これを巡り彼らは「ブレーメンの音楽隊」を自称する5体(あるいは6名)のホムンクルスと苛烈な争いを繰り広げた。


──────パピヨンの研究室で──────


 それが飛ぶ。本棚に靠(もた)れかかるパピヨンめがけ。

「解析、成功のようね」
「貴様にしては上出来じゃないか」

 相手が無事キャッチしたのを確認すると、ヴィクトリアは腰に手を当て、悪戯っぽく身を乗り出した。

「慣れれば大したコトないわね錬金術。100年もやらなかったのが馬鹿みたい」

 意地の悪い、小悪魔的な微笑だ。それでいてどことなく明るい。

「調べてみて分かったけど、どうやらそれ、他の核鉄とは違った材質でできているようよ?」
「の、ようだな。どこで採れたかは知らんが精製次第では更に違った核鉄を作れるかも知れん」

 或いは、攻撃力を高め。
 或いは、防御力を高める。

 遥かな未来、パピヨンはこの未知の材質と再び巡り合い……名付け親になる。
 パピヨニウム。
 約一年後、それは意外な形でパピヨンたちに関わってくるが──…
 それはまた別のお話。

「研究資料にウソはないわよ。『霊魂』に作用するわ。間違いなくね」

 束ねた金髪をふぁさりと揺らしながら姿勢を正す。今度は薄い胸を逸らす格好だ。
 対するパピヨンは黄色い核鉄を手にしたまま腕を組み、「やはりな」とだけ呟いた。
 ヴィクトリアも頷いた。

「そう。『肉体』でも『精神』でもなく」



「『霊魂』に」






──────薄暗いどこかで──────


「ほー。で、で!? 霊魂に作用しとったらどうスゴいん!? 」
「むーん」
「『もう一つの調整体』いうても要はあれ、ふっつーの核鉄ちょっと改造しただけやろ? 100年調整に調整重ねた白い核鉄
ほどスゴクないんやないかな。うん。ウチはそう思うとるんやけどー」
 シュールな光景だ。ムーンフェイスは自分の風貌を棚に上げ、会話相手を見た。
 どこからどうみても赤い筒だ。高さはようやく1mというところで、太さは電柱より一回り上ぐらい。先ほどからの声は全て筒の
中からしている。
 つまり筒が喋っているのだ。そしてムーンフェイスは筒に応答している。シュールな光景だ。戯画的三日月が困ったように見下してい
るのも加えればシュール度の点数は二乗で跳ね上がる。
 再就職先の同僚たち曰くこの赤い筒は武装錬金という。とすれば創造者が中にいるのかも知れないが……筒はあまりに
小さすぎた。個人差や男女差もあるが人間はおよそ3歳ごろ背丈が1mを超える。筒は1mあるかどうかだ。幼稚園児が体
育ずわりしてようやく入れるという程度。ひょっとしたら筒の中には創造者などおらず、自動人形的なシステムで動いたり喋っ
たりしているのかも知れない……ムーンフェイスは推測したが、合っているか、どうか。

 筒のコードネームは「デッド=クラスター」

 再就職先の幹部の1人だ。

「どーしたん月のお兄ちゃん? ウチはマレフィックムーン。『月つながり』やし仲良うしよーや」
「あ、ああ。すまないね。ちょっと説明をまとめるのに苦労してたよ」
 ムーンフェイスは微苦笑した。何が悲しくて筒相手の講釈をしなくてはならないのか。
「まず錬金術の成り立ちから説明しないといけない。君は錬金術についてどれほど知っているかな?








「初歩的なコトぐらいなら知ってるわよ」

 じゃないとママを手伝えなかったから。錬金術嫌いの少女──ヴィクトリア=パワード──は指を曲げ始めた。
「そもそも錬金術の教義だと、人間は」

 肉体。
 精神。
 霊魂。

「の3つからできてるっていうじゃない」
「まあ上出来だ。錬金術師どもはその3つを等しく高め、賢者の石を目指す」
 などというのは錬金術嫌いのヴィクトリアでさえ知っている。初歩も初歩。基本だ。
「賢者の石を作るのは錬金術師の最終目的……だったわね」
 肉体を。
 精神を。
 霊魂を。

 等しく高めるコトでしか賢者の石には到達できない。

 アンチ錬金術師のヴィクトリアでさえ分かる不文律だ。




「ところが、だね」
 ムーンフェイスはひどくおどけた調子で目の前の赤い筒に呼びかけた。
「ところが、この世界の『一般的な』錬金術の産物が高められるのは3つのうちの2つだけときている」

『肉体』を高めるのは”ホムンクルス”
『精神』を高めるのは”核鉄”

「ホムンクルスになれば肉体は限りなく強くなる。核鉄を使えばあらゆる精神が具現化する」

 いずれも錬金術によってより高次の存在へと導かれるのだ。




 だが、霊魂を高める術だけはない。





「それは戦団も同じコト。奴らが手がけるのは所詮ホムンクルスと核鉄だけ」
 とパピヨンが確信を込めて呟くのは、かつて桜花を使い戦団をハッキングしたからだが……ヴィクトリアの知るところではない。
「つまり……霊魂に関してはホムンクルスや核鉄のようなアプローチの手段がないというコト?」
「正解。ヒキコモリにしては上出来だ」
 あれば今頃戦団が管理している。されていないのは「ない」証明。
 高めようがない。
 この世界には霊魂を高めるための具体的手段がまるで流布していないのだ。
「じゃあ賢者の石がいまだにできないのって」
 蝶々覆面の下で詼笑(かいしょう)が浮かんだ。手首が踊り、流れるようにヴィクトリアを指差した。
「さっきかららしくもなく鋭いじゃないか。そう。誰も彼も出来合いのホムンクルスと核鉄を捏ねくりまわすだけ。真に研究すべ
き霊魂については最初から挑もうとさえしていない」
 つくづく傲然とした物言いだ。思わずヴィクトリアは「一旦は霊魂の研究に着手したが結局カタチにはできず挫折した」錬金
術師を妄想し、いるかいないか分からぬ彼らの弁護をしたくなった。
 恐らくはいた筈なのだ。
 肉体でも精神でもない霊魂の存在に着目し、研究した者が。
 もっとも冷静に考えればヴィクトリアは錬金術のせいで家族を引き裂かれ100年来の失意と鬱屈を味合わされた身でもある。
 見も知らぬ錬金術師が何を研究しようと挫折しようと弁護してやる義理は特にない。
(コイツの物言いに当てられすぎね)
 というコトにして鼻を鳴らし、弁護を引っ込める。代わりに反論。
「でも、アナタのひいひいおじいさまは着手していたじゃない」
 話が最初に戻った。

「もう一つの調整体」は霊魂に作用する。

 それはヴィクトリアの解析結果からも疑いようがない。
「ま、蛾とはいえまがりなりにも俺のご先祖様」
 それ位の芸当は当たり前。でなければ話にならない──…あまりな嘲罵と黒い冷笑がパピヨンから放たれた。



「でも霊魂に作用するってどういうコトなん?」
「ヴィクター君のエナジードレインに近いかも知れないね」
 筒の前で月がひらりと踊った。


「そうね。基本的な仕組みはパパのエナジードレインとほぼ同じ。コピー? じゃないわね。あくまでただの模倣よ」
 コピーと模倣のニュアンスがどれほど違うかの論議はさておき。
 鳥に憧れる人間が鳥その物ではなく飛行機を作るように、「崇拝はしているからこそ猿真似はせず、自分のやり方でより
高次の存在を作り出したい」……そんな感じの製法だとヴィクトリアは呟いた。


「デッド君。君はアナザータイプを知っているかな? ほとんどはダブル武装錬金の時に出てくるのだけれど」
「あー。武装錬金が元の核鉄の持ち主のモンに似るって奴やろ?」
「そう。例えば君が私の核鉄でダブル武装錬金をしたなら、出てくるのは……月の模様をあしらった筒だね」



 ダブル武装錬金。
 それは、パピヨンも見た事がある。



「超人になった俺をさんざ止めんとした武藤カズキの場合、2本目の突撃槍(ランス)の意匠はあのブチ撒け女の処刑鎌
(デスサイズ)を嫌というほど受け継いでいた」
(津村斗貴子の核鉄でダブル武装錬金をしたようね)
 この日あたりからパピヨンに対抗すべく錬金術を猛勉強中のヴィクトリアだ。頷きもどこか堂に入っている。
「およそ50%。どんな核鉄でも前の使用者の形質を受け継ぐって聞いたけど──…」
 視線を黄色い核鉄へ移す。




「もう一つの調整体」が受け継ぐのは前の使用者の霊魂という訳さ。割合? 廃棄版なら最大で100%。ヴィクター君の
エナジードレインよろしく、触れた時間に比例して霊魂を吸い取るようだね」


 同刻、パピヨンもまたムーンフェイスと同じ文言を呟き、続きを紡ぐ。

「廃棄版といえば」
「戦士が話しているのを聞いたけど、この前の戦いでLXEの残党が使っていたそうじゃない」


 逆向 凱。
 死んだ筈の幹部が鈴木震洋の体を借りて蘇ったのは……

 ムーンフェイスは指を弾いた。
「ズバリ。『もう1つの調整体』の特性のせいさ。何しろまだ普通に生きていたころの逆向君はテスターでね。あの西洋大剣
の戦士に殺される直前まで持っていたよ」
「でもその鈴木って奴はなんで廃棄版使たんや?」
「力が欲しかったんだろうね。なんとも平凡な理由。どうやって見つけたか? そこまでは知らないよ」


 そして震洋は廃棄版の核鉄を”食べた”
 恐らく彼も「もう一つの調整体」の存在を知り、その恩恵にあやかろうとしたのだろう。
 核鉄を食べるなどというのは些か荒唐無稽だが、もしかするとヴィクターや武藤カズキがされた核鉄の移植実験に倣った
のかも知れない。



 結果彼は、死んだ筈の幹部の霊魂に乗っ取られた。
 逆向凱は、秋水と苛烈な争いを繰り広げた。
 戦いがあったのは、ヴィクトリアが人喰いの衝動に怯え寄宿舎から逃げた頃……。


 ヴィクトリアは腰に手を当て自信ありげに微笑んだ。
「だけど完成版の方は前の使用者の霊魂に乗っ取られる心配はないわよ」
「らしいな。ご先祖様もわざわざ資料に書いている」
 手にした書類の束をパシリと叩き、パピヨン。
「『アナザータイプよろしく、前の使用者の霊魂の、”優れた部分”を受け継ぎ』」
「次の使用者の霊魂と混ぜる、か」
「例えば、アナタの後に津村斗貴子が使ったとしたらどうなるかしら?」
「フム……。恐らくあの女は知らず知らずのうちこの蝶・サイコーな格好をするようになる。つまり……真っ当な感性を獲得する!」
 最後の一文。鋭い叫びをヴィクトリアは黙殺した。
 何故ならそれは彼女にとって──…
 頷くまでもない、当たり前のコトだった。
「話をまとめるわね」
 ヴィクトリアは、手近なホワイトボードに結論を書いた。

『もう1つの調整体』の完成版について。

1.前の使用者の霊魂から”優れた部分”を受け継ぐ。
2.次の使用者の霊魂は前の使用者の”優れた部分”と混ざる」
3.2の状態の霊魂からさらに”優れた部分”を抽出し、記録。
4.記録される霊魂の質は、2〜3の繰り返しによって限りなく向上する。


 使う人間が多ければ多いほど真価を発揮する。端書を終えるとヴィクトリアは改めて呟いた。
 口調にはやや感心が混ざっている。

「ただ触るだけ。触るだけで向上できる……夢のような産物ね」
「何ともまあご先祖様らしからぬ小奇麗な仕掛けじゃないか」



「むーん。小奇麗すぎるが故に銀成学園での決戦にはとうとう用いられなかった代物だけど、これからは違うよ」
 月は闇の中で声を低くした。何かを狙い、壊さんとするように。低く、不気味に。



「兎にも角にも他とは違う特別製! 出来合いの核鉄を基盤(ベース)にするよりは手っ取り早いだろう」
 ヴィクトリアは一瞬彼が何をいっているか掴めなかったが、一拍置いて真意を悟った。
「白い核鉄の精製の話ね。本来基盤(ベース)にすべき黒い核鉄やその製法が失われている以上……」
 ヴィクトリアたちは一から黒い核鉄に匹敵する物を作りださなくてはならない。
 時間はない。
 しかし黒い核鉄に近い存在がいま、手元にある。
「あとはあののーみその残した研究資料とご先祖様の研究成果、そして何よりこの俺、パピ・ヨン! のズバ抜けた才覚を」
「組み合わせて『もう1つの調整体』を……白い核鉄に」
 ヴィクトリアの細い体が震えた。少しずつだが母の、自分の悲願へ近づきつつある。
 抑えようのない歓喜が、彼女の体を突き抜けた。



「まー、もう1つの調整体とか実はウチの盟主様」
 筒は気楽に呟いた。
「とっくの100年前に作っていたりするけどなー」


「だね。そして君たちの盟主が作ったそれは黒い核鉄に形を変え、ヴィクター君の胸の中にある」
 Dr.バタフライはかつて言った。

 ヴィクターを修復したフラスコだけが……Dr.バタフライ独自(オリジナル)の物だと。

 その言葉が紡がれる少し前、Dr.バタフライ謹製の調整体が銀成学園を襲っていた。
「修復フラスコだけが自分独自の物」というバタフライ謹製の調整体が。

「まぁ調整体なんてのは少々珍しくはあるけど、やっぱり100年以上前から存在する概念さ」
 月の囁きに筒も微かに揺れた。頷いているようだった。
「Dr.バタフライが使っていた調整体なんてものは、所詮文献を真似ただけでね。そもそもアレが猛威を震えたのは、
遥か100年前のコトだよ。皮肉にも歴史上、調整体を戦士と互角以上に作れたのは錬金戦団にいた『ある男』だけさ。
彼謹製の調整体どもはヴィクター君追撃に随分貢献したようだけど、しかし不思議なコトにその『ある男』もまた戦団に反
旗を翻し、討伐された。もっとも半死半生になるまで二百数十体の調整体と1振りの大刀とで散々に抵抗し、ただでさえ
ヴィクター君に半壊させられていた戦団を、徹底的に痛めつけたようだけどね」
「盟主様からその話聞いたコトあるで。その『ある男』が姿を消してから調整体の研究は凍結されたようやな」
「不思議なコトに、”彼”の残した資料はいつの間にか消えていたようだね」
「いまんところ調整体を真っ当かつ強く作れる組織はウチらだけやろうなあ〜。ここまで言えばムーンフェイスのにーちゃん
にも大体の背景が分かるやろうけど」
「まあね」
「で、並の錬金術師が調整体作ると、基盤(ベース)にした数の生物の精神がぶつかり合って理性がなくなって、ちょっと腕っ
ぷしが強いだけの化け物になる訳やなー。バタフライの作ったのもそれやな。まあでも? 主人が大好きなネコの細胞培養
して飼い主に幼態突っ込んだ時は……1つの体に飼い主とネコの精神が同居したけど」
「そして『もう1つの調整体』。こっちはもしかするとヴィクター君からの伝聞で作り上げたのかも知れないね」 
 ただし、とムーンフェイスの声がおどけた。
「アレは白い核鉄になんかしていいものじゃあない」
 白眼を剥いた月顔の怪人は笑っていた。口をおぞましく裂き、悪意をたっぷり乗せて悠然と。
「君たちの盟主様からすでに話は伺っているよ。アレはキミたちの悲願を果たすのにどうしても必要なモノ……」
「そー思うなら例の音楽隊と戦士追い詰めた時、あんたが奪えば良かったやろ? 盟主さまにいらん苦労かけたらあかん」
「まあまあそう怒らない怒らない。パピヨン君相手だと分が悪くてね。彼に勝とうとするなら……」
 筒──デッドは軽く息を呑んだ。パピヨンに勝つ。その方策を述べんとするムーンフェイスの雰囲気が俄かに変った。
 飄々とした雰囲気が消え失せ、代わりにドス黒い風のような雰囲気がムーンフェイスを取り巻いた。
 顔は相変わらず半笑いのままだが、輪郭が眼の縁が口の周りが肌の総てが……歪んで見えた。

「死魄……そう。廃棄版の『もう1つの調整体』でも持ち出して、死魄を発動でもさせない限りとてもとても」

 ジリジリと耳を焼くような不快な音がデッドの耳を叩く中……デッドは確かに見た。

 髪の毛が。
 肌色の肌が。
 白目と黒目が。
 血色のある唇が。

 名前通り月面のようなムーンフェイスの顔の端々に”浮かんでくるのを”。
 肉が浮かぶというより半透明の映像がせり上がってくるような感じだった。それでいて半透明の髪や黒目は確かに質量を
持ってもいる。不気味な光景だった。彼は右手に「廃棄版の方」を持ってもいる。そのせいだろうか?

「しかし困ったコトに死魄を使うと私自身も無傷ではいられない。しかも相手が『多すぎた』」
 何をいっているのだろうこの男は。デッドは息を呑んだ。30体に分身できる武装錬金の持ち主曰く……
『相手が多すぎた』

 冗談にしか聞こえない。話を聞く限りパピヨンが来るまでムーンフェイスは、協力しあう音楽隊と戦士たちを圧倒していた
そうではないか。彼らは合計で12人(11体とも)。ムーンフェイスの分身の3分の1程度だ。
 にも関わらず彼はいう。『相手が多すぎた』。
 だいたい、死魄とは何なのか。コードネームに同義を乗せるデッドさえ理解しがたい、おぞましい物を感じていた。
 言葉の矛盾の裏に、何か形容しがたい妖気が籠っている。

 やがてあらゆる変化が終息し、ムーンフェイスは元の顔に戻った。

「むーん。私とてこれまでの戦いで総ての力を見せた訳じゃないよ。君や君たちの仲間同様にね」
「……とにかく、ウチらはパピヨンとかいう奴から『もう1つの調整体』を奪わなあかん訳や」
「その点については心配ないよ。何しろ君の仲間が1人すでに動いているようだからね」
「?」
「リヴォルハイン君。先だってココを発った6人の幹部とは別に、彼もまた銀成市にいるようだね」

 筒は黙った。
 黙って。
 黙って。
 黙り続けてから。

 とても大きな声で絶叫した。

「待て! ウチはそんな聞いてへん!! そしたら結局ココに残ってるのは盟主様と水星とウチだけやないか! そんなん
ヒドいわ!ウチかて銀成市行ってのんびり観光したかったのに……! でも残っとる幹部は3人だけやからってグっと堪え
て愛しの盟主様守るためや守るためやって居残り決意したのに!! したのにーっ!!」
 予想外だったのだろう。柔らかな声はうろたえ、泣き声さえ混じっていた。
「まあまあ。どうやら君たちの盟主じきじきの密命だとか」
「そうはいうけどなあ……うう。買い物したかったなぁ……街メチャクチャにされる前に……売れてへん感じの商品買いあげて
店のおっちゃんとかおばちゃん、助けてあげたかったのに……」
 筒の下で煌くモノがあった。眼光と、涙のようだった。何者かが筒を持ち上げ、そこから顔を出したようだった。
 視線を下に落としたムーンフェイスは……笑った。
「ようやく分かったよ。狭い筒に君が入っていられる理由。むーん。それにしてもなかなか素敵な姿じゃないか」
「……ウチの体のコトはどうでもいいやろ? 意外に傷つきやすいんや。いうな。いうな……」




【9月12日】 

 まひろ所属するところの演劇部は最近とみに活気を帯びている。
 もちろん元々みんな演劇に意欲的だったのはいうまでもないが、それが細菌とても良い方向に刺激されている。
 だからまひろは最近部活がとても楽しい。

「でもびっきー、あまり部活に来てないよね。カゼかなあ? 体の調子が悪かったらどうしよう」
「しばらくアルバイトで忙しいみたいよ。何でもやりたいコトのためにお金貯めたいんだって」
「お父さんたちから仕送り貰っているのに立派だねびっきー。メイドカフェでも毎日一生懸命働いているし」
「そういえばヴィクトリアのご両親って何してる人なんだろう。今は離れて暮らしているらしいけど、あの子、家族のコトはあ
まり話したがらないから……」
「そそそそそそれはきっとホームシックになりそうだからだよ! う、うん。きっとそうだよ」
「? ? なんでまっぴーが慌てるの? でもびっきーって不思議だよねー。なぜか斗貴子さんと同じ制服着てるし、外国の
コなのに日本語すごくうまいし」

 そんな最近不在気味のヴィクトリアと入れ替わるようにやってきた男がいる。
 パピヨン。新たな監督である。彼の牽引力は良きにつけ悪しにつけ強烈なのだ。演劇部の活況は彼のせいでもある。
 更に彼に引き続くように、斗貴子、秋水、桜花といった知り合いたちも次々入部してきている。

 だから、まひろは最近の部活が楽しい。



 たとえ内心のさらに奥底に秘めた感情がどうであれ。



「ハイ! ハイっ! 監督! 木さんの役なら私が!」
「貴様がか? 馬鹿をいえ。貴様のような落ち着きのない女になど背景はとても任せられん」
「ううん! 向いてないからこそチャレンジするのよ! 何しろ私はまだ一年生ッ!!! 背景さんをコツコツやって先輩たち
の演技をしっかり勉強しなきゃダメなの!! え、どうしてもダメ? うーん。監督がそういうなら…… あ! あ、じゃあさじゃ
あさ、出会えー出会えーって悪代官さんに呼ばれてすぐ斬り殺されて爆発するミミズ怪人さんA! これ、これならどうかな! す
ぐ退場するし他の人にも迷惑にならないよ!!」」
「まっぴー。もうちょっといい役頼もうよ」
「というか何で悪代官が怪人呼ぶの? そんなの書いた覚えないけど……」
 顔をしかめたり呆れたりの友人たちのツッコミもなんのその、まひろは今日も絶好調である……と部員達は思った。
「生憎だが下っ端の要望を聞き入れてやるつもりはないんでね。役の配置は俺がする。貴様は──…そうだな。爆発現場
で仰天して騒ぐモブで十分だ。やかましいだけの貴様の声も場面によっては使いようがある」
「おぉ。さすが監督」
 メガホンをビシィ! と突き付けるパピヨンにまひろは心底感心したように頷いた。
「…………フン」
 最近就任したての監督──パピヨン──がやや目を丸くした。よくあるコトだ。まひろはいつも不思議に思っている。元気
よく発言する度、監督の内面はわずかだが確かに揺らいでいるようだった。無愛想で傲慢な鉄面皮が人間的な柔らかさに
はつと鞣(なめ)されるのだ。まるで、いなくなった誰かを懐かしむような機微が滲み出るのだ。
(むかし仲良かったコとか思い出してるのかな?)
 常々不思議に思っているが、もしその「仲良かったコ」が闘病の末に死んだーとか、お互い好きだったのに親の都合で引き
裂かれたーとかドラマチックな要素満載だったりすると聞くのは悪い。そう思ってまひろはあまり突っ込まないコトにしている。
(……私だって、お兄ちゃんのコト聞かれたらまだすごく悲しいし)
 カズキのコトを思い出すたび胸がちくちくする。
(きっといまも敵さんと戦っているんだよね。なのに私、フツーに過ごしていていいのかなあ…………?)
 秋水の病室で、メイド喫茶で、演劇部で。笑って過ごしていても時々不意にカズキのコトを思い出してしまう。そのたび自分
だけが兄に守られた世界の中で楽しく明るく過ごしていていいのかという疑問も浮かんでしまう。


「それについては構わないと思う。君の兄は、君がそう過ごせる世界を守りたいから敵とともに月へ飛んだんだ」

「君が笑ったり楽しんだりしていても、彼は決して責めない。身を張って良かった。心からそう思うだけだ」


 秋水などは生真面目な表情で気にしないよう諭してくれるし、そういう気配りはとても嬉しいが──…


(でもねお兄ちゃん。斗貴子さんはね。まだだいぶ元気がないよ。きっと毎晩泣いてるよ……?)

(びっきーって可愛いんだよ。お兄ちゃんにも会わせてあげたいなあ)

(六舛先輩や岡倉先輩や大浜先輩は悲しそうだよ。ちーちんだってさーちゃんだって寂しそうだよ)

(桜花先輩もブラボーさんも辛そうだし)

(きっと秋水先輩も、お兄ちゃんに謝らなきゃ前へ進めないと思うよ)

(私だって辛いんだよ。お兄ちゃんに戦わせて私だけ楽しく過ごすなんて)

(いくらお兄ちゃんがみんなの味方で、大勢の人を守ってくれていてもね…………)

(帰ってきてくれなきゃ…………みんな心から喜べないよ……)


「大丈夫、まひろ?」
「え?」
 心配そうな千里の呼びかけでまひろは現実世界に引き戻された。理知的な顔立ちのおかっぱ少女はひどく心配そう
な顔をしている。その背後にはやや瞳が赤い沙織もいる。頬を何か湿った熱い物が通り過ぎた。慌てて手を当てる。指先
が水分に光っている。それでまひろは自分が泣いていたコトに気付いた。見渡せば演劇部員たちの視線が嫌というほど
自分を向いている。
「あああええと、ええとねコレは、監督の見事な采配に感動していただけで、その、あの……!」
 慌てて胸の前で手を振る。必死に取り繕うが友人たちや部員一同の微妙な雰囲気は消えない。確か学校関係者には
カズキが原因不明の失踪を遂げたとだけ伝えてあるのをまひろは思い出した。今は収まっているが初夏以前の銀成市
では行方不明事件がよく起きていた。一説には全国平均の2倍という。大きなものなら高台に住んでいた蝶野一族の失踪
事件、小さなものなら銀成学園の英語教師の失踪(表向きは入院として処理されているが)などが記憶に新しい。カズキも
そういう事件に巻き込まれた。部員達はそう思っているのだろう。もっとも、カズキは失踪事件の根源をことごとく取り除い
た側で、結果、月にいるのだが。

「まあこの俺、パピ・ヨンの采配に感動するのは無理もない! せいぜい貴様はこの俺の素晴らしさに感動して泣いていろ!」

 パピヨンはどこ吹く風である。両手を華麗に広げて腰を左右に振りたくった。
 明るい雰囲気だが、まひろは見てしまった。
 一瞬難しげに何かを考え込み、少し泣きそうになるのを無理に明るくした「監督」の顔を。
(ひょっとして、私に気遣ったり──…)
「おうおうなんじゃなんじゃ。微妙にしけった雰囲気じゃのう。ひひ。いい若い者が昼日中から辛気臭くてどうする」
 ドアの開く音に遅れてカラカラとした声が教室に響き渡った。
 見ればいやにカビ臭い小柄な少女がそこにいる。
「あ! 理事長さんだ!! 理事長さんが来たよちーちんさーちゃん!」
 まひろの声が跳ね上がった。明るい声はどこか、無理をしているような響きもあった。

【9月9日】


 パピヨンのストレス値が高まっていた。


「シーツぐらい干さないと健康に悪いでしょ」


 太陽の匂いのするシーツをヴィクトリアが敷き述べた。ストレス値+1。


「何って……見ての通りただの掃除じゃない。埃ってコマメに取り除かないと喉を刺激するし……」

 三角巾を被ったヴィクトリアがハタキ片手にキョトリとした。ストレス値+1。


「夕ご飯買いに行くけど、欲しい物あるなら言いなさいよ。つつっ、ついでに買ってきてあげるから」

 やや顔を赤くしてやり辛そうにヴィクトリアが聞いた。ストレス値−1.


「え? ハンバーガーだけ……? あ、いえ。文句があるとかじゃなくて……でも、栄養が偏るでしょ? いつもアナタ血を吐
いてるからホウレンソウたっぷりのシチューがいいって……あ、ち、違うわよ。アナタに作ってあげたいとかそういうのじゃなくて、
単に私用に作るけど材料少なめに買うと却って高くつくし、でも沢山買ったら今度は余るから、その、その、捨てる位ならア
ナタにあげた方が経済的って…………。あ……。食べかけを押し付けるとかそういうのじゃなくて! あなたに分けてから
食べるし、滋養とか鉄分があるから、悪くないって、悪くないってちょっと思っただけで…………いやなら、別にいいわよ……」

 買い物のメニューにケチを付けてきた。ストレス値+4。



「なんだかんだで食べてるじゃない。ひょっとして……おいしかったり、する? 味見はしたつもりだけど……」

 シチューを5皿お代わりしただけでやや嬉しそうな上目遣いをした。ストレス値+16。


「ええい鬱陶しい!! 貴様は一体何様のつもりだ!」

 クローン培養中のフラスコに痛烈な一撃が与えられた。中で蛙井という名の試験体がひいと顔を歪めた。フラスコには軽く
罅が入り、内容液がうっすら染み出した。ヴィクトリアはいない。しばらく時間が空くと告げるや、学校に行った。

 横なぐりに叩きつけた右拳を戦慄かせながら、パピヨンは咆哮する。

「人間のころ余命幾許もないと宣言された俺にさえ看護師や医者どもはああまでしつこく関わらなかったぞ!! フザけるな!
100年来地下に籠ったヒキコモリ風情が俺を保護しようなど、思いあがりにも程があ──…」

 うっぷとパピヨンは口に手を当てた。怒鳴り散らした時のお決まりで、血液が込み上げてくるのを感じたのだ。

 黙る。
 黙る。
 黙る。

 血は、込み上げてこなかった。

「──っ!!!」

 それがいよいよパピヨンを激昂させた。
 ヴィクトリアの清掃作業は病人の気管支に対し確実にいい効果をもたらしている。
 ここのところベッドシーツは毎日洗濯され、太陽の光とアイロンの熨(の)しで常に新品同様だ。気管支にはとてもいい。
 彼は声にならない声を上げ、手近なフラスコを何度も何度も痛打し始めた。円筒形のそれは地震に見舞われたかのごとく
揺れに揺れ、中にいるオーバーオール姿のぼっちゃん刈りが恐怖の形相でもがいた。やがて彼は無数の気泡すら吐き、
白目を剥いて気絶した。

 最近のヴィクトリアはやや豹変しているように感じた。
 初対面の時のツンとした棘のある態度がなぜか急に軟化し、何かといえばパピヨンの世話を焼くようになったのだ。
 血を吐けば無言で口を拭き、机上で船を漕げば毛布を掛け、徹夜をすれば「雑務は自分がやるから」と睡眠を促し、腹が
鳴れば滋養のある暖かい食べ物をそっと差し出す。
 まったくヴィクトリアらしからぬ態度だ。もっとも小さな頃は純真無垢な少女だったしホムンクルスとなってからも母の介護や
100年来の守護をやりおおし、怪物と化した父でさえ家族として愛している。実際のところ根はやさしい家族思いの少女と
いえるだろう。ひねくれてしまったのは錬金戦団が押しつけたホムンクルス化やヴィクター討伐のせいだろう。
 秋水やまひろ、千里といった面々との関わりで屈折が程良く和らぎつつあるのかも知れないが──…

 とにかくヴィクトリアの一挙一動の総てが、パピヨンにとってはまったく腹立たしい。

 理由はよく分からない。嫌悪を催すというのではなく、内心の何か、かつては求めていたが今はまあどうでもいいと割り切っ
ている何事かが疼くのだ。傲慢な彼だから割り切ろうともしている。下っ端のやっている事なのだからその成果の総ては
搾取してもいい、自分にはその権利がある。言い聞かせながらヴィクトリアの差し出す味も量も質もひどく良い料理を「搾取」
その一言で腹に収めるのだが、見守るように侍るヴィクトリアの表情! ひどく安心したような、物質的にはまったく損をして
いる筈なのに限りなく満たされている柔らかな微笑を見ると無性に腹が立つのだ。

 そういったヴィクトリアの存在を認めてしまえば今まで自分の縋ってきたモノが無に帰すような。
 ズルズルと生ぬるい方向へ引きずられ、ついには「カズキを救う」という大志を失ってしまうような。
 自分を支え続けてきた矜持が根底から崩壊してしまうような。

 やるせないもどかしさにパピヨンはずっとずっと苛立っていた。

 ヴィクトリアへの対処が決定したのは翌日である。
 彼女のある行動が、訳の分らぬ怒りに満ちた堪忍袋を決壊させた。

 白い核鉄の研究に没頭する筈のパピヨンが、演劇部の監督に就任し、やや無駄な時間を過ごし始めたのは。

 翌日のヴィクトリアの決意のせいである。

【9月10日】

「研究も軌道に乗ってきたし、私、少し働こうと思うの。研究資材はともかく、食費はけっこうかかるでしょ? それ位捻出
したいし──…」

 おずおずと話しだしたヴィクトリアにパピヨンは激昂した。
 聞けば彼女はメイドカフェでアルバイトをする(ディケイドとかやる夫が出てきた091話参照)らしい。

 実際問題、食費の問題などはなかった。パピヨンは父や曾祖父の遺産をたっぷり持っている。端的にいえば湿地帯や
火山などが点在する広大な土地にパピヨンパークという名の施設を作れるぐらいはある。にも関わらずヴィクトリアは働いて、
食費を稼ぐという。

(俺は、ヒモか……!!)

 などという世俗的な感想こそ抱かなかったが、怒りの本質はまさにそれであった。
 奇妙な話だが、パピヨンのような独立独歩を貫く気高い男にとって、女に食費を稼がせるというのは我慢ならぬコトらしい。
 かといって「食費など貴様の分もまとめて賄ってやる」と言える度量もないらしい。吝嗇(りんしょく。ケチ)という訳ではない。
それをいえば疎ましく思っているヴィクトリアを自分の世界に一歩引き入れてしまうような気がしたのだ。彼女もなんだかんだ
で受け入れるのも見えていた。それも庇護にありつけたという媚態ではなく、もっとこう人間的な、心通わせれる相手ができた
というささやかな喜びと嬉しさを以て申し出を受け入れるだろう。
 頭のいいパピヨンは瞬時にそこまで考えてしまい──…
 限りなく正確な未来予想図が非常に非常に不愉快だった。

 彼はとうとう、決意した。

 ヴィクトリアとの対決を、決意した。

 彼女が世間話で「それなりに楽しい」と評していた演劇部を、めちゃくちゃに破壊したくなったのだ。
 壊してどういうメリットがあるかは不明だが、とにかくヴィクトリアにやられっ放しなのは気に入らないのである。


 ならばニアデスハピネスの一つでもブっ放して脅せばいいような物なのだが──…


 直接危害を加えたくないと無意識に思っている自分がまた、パピヨンにとって腹立たしい。


 そして彼は演劇部の監督に就任した。


【9月12日】

 誰もいない研究室の中でヴィクトリアは暗い表情をしていた。

 最近、パピヨンが不在気味である。

 特に喧嘩をした覚えはない。一昨日、バイトを始めた日あたりから突然彼が顔を合わさなくなった。
 原因が分からない上に所在も掴めない。携帯電話の番号はそもそも分からない。

 だから実は最近、(防人に外泊許可を貰った上で。ただし行き先は告げてない)研究室に泊まってはそこから学校へ行き
放課後はバイトという生活の繰り返しなのだが、パピヨンが帰ってくる気配はない。
 彼愛用の机の上にはシチュー鍋と書き置きがあり、後者にはしばらくの研究方針と作業手順が事細かに書かれている。
 託す、というコトはヴィクトリアの手腕をある程度信頼している証かもしれないが、傲慢な癖にいやに病弱で世間ずれしてい
る弟のような青年が研究室にいないというのは、少し寂しかった。

 ヴィクトリアはただ、パピヨンの健康状態が気掛かりだった。
 動けぬ母を介護していた時のように、少しでも少しでも健康に近づけるよう、ヴィクトリアなりに努力したつもりだった。
 掃除もしたし、料理も作った。研究に没頭するあまり床で寝ていたパピヨンをベッドに運ぶ時は、意外にあどけない寝顔に
ヴィクトリアらしからぬ安らかな笑いを浮かべたものだ。
 そんな風に彼の世話を焼いたのは、濁った瞳の奥に気高い光を見たからだ。
 彼女と似た悲しみを湛えながらも、彼女が到れるかどうか分からない素晴らしい強さを秘めた光。
 どう接していいか分からなかったが、なるべく親身になれるよう務めたつもりだった。
 自分らしからぬ表情をしてしまうたび、就寝前に「なぜあんな反応してしまったのよ……」と枕に顔を埋め自らの失態を
嘆いたりもした。でもそういうくすぐったい感情が失ってしまった何かを取り戻してくれるようで、気恥しくも決して悪い気持ち
ではなかった。

(私はただ少しでも力になってあげたかったのに……どうして、避けてるのよ)

 作り置きしたシチュー鍋の蓋を開ける。。減った様子はない。
「お腹が空いたら温めて食べなさい」。
 側面で揺れる張り紙がなぜだか瞳に痛かった。





「たまには……部活に顔を出そうかな……」





 まひろたちの顔が、無性に見たくなった。


【9月12日】

 放課後。

──────銀成学園。演劇部一同がよく使う教室で──────


「んふふ。そうじゃあ〜 もっともっとわしを撫でるのじゃあー」
 まるで夢見心地でうっとりする少女の頭を、まひろが楽しそうに撫でていた。
「おうおう。そこじゃ、そこじゃあ。んー」
 いやにカビ臭い口調の少女は、ひどく戯画的な眼差しである。三本線にくしゃついた瞳が今にも蕩けそうにずり下がっている。

 恐ろしく小さな体にややぶかぶかなゴシック系の制服をまとうポニーテールの少女。
 外見年齢およそ7歳程度の彼女こそ、現在の銀成学園理事長なのである。

 話によれば前理事長の孫であり社会勉強を兼ねて就任したという彼女、どういう訳かよく演劇部に出入りしている。
 とはいえ部員一同はあまり恐縮した様子もない。お菓子など与え適当にあしらいつつ、マイペースに練習をしている。
 この日も彼らは稽古に余念がない。例の「ざんねんだったね」を合唱したり筋トレに励んだり台本を読み込んだりだ。
 そんな喧騒と熱意に満ちた教室の一角で、まひろと理事長はじゃれている。

「理事長さんってフェレットみたいだよね。かんざしのマスコットもそうだし」
 そういいながらまひろは理事長のかんざしを物珍しそうに弄んだ。後ろ髪の付け根に差されたそれは愛らしいフェレットと
マンゴーのオブジェをぶら下げている。彼らは理事長が明るく楽しく叫ぶたび、夢の国の住民がごとくくるくる踊るのだ。
「ふぇれっとは可愛いからのう。まあ腐れ縁の連れ合いが選んだ理由は碌なもんじゃないが……」
 それはともかく、と理事長はまひろの腰にがしりと抱きついた。
「今度はだっこじゃ、だっこしてくれじゃ! だっこして、且つ! 撫で撫で!」
 身長は恐らく130cmもないだろう。そんな小さな子供が目をきらきらさせながら見上げてくるからたまらない。魚心あれば
なんとやら。ただでさえスキンシップが大好きなまひろ、目下大いに理事長がお気に入りだ。。
「きゃー!!
 ひとたび黄色い声を上げればもうすごい。頬ずりはするわお姫様だっこはするはペタペタペタペタ体中を撫でまわすわの
大騒ぎである。
「ちーちん! さーちゃん! やっぱり理事長さんってすごく可愛いよ! 一緒に撫で撫でしようよ撫で撫で!」
 可愛い子犬を見つけたという調子である。平素生命の息吹に満ちたあどけない瞳がより一層明るく輝いている。
 友人たちは、呆れた。
「いや……そうはいうけどまっぴー。そのコ理事長さん。銀成学園で一番偉い人だよ」
「ちょっとは手加減してあげなさい。ケガしたら可哀相」
「えー、でも理事長さん可愛いし……」
「ええよええよ。好き放題愛でるのじゃー。わしは可愛がられるのが大好きなのじゃー」
 ころころと理事長は喉を鳴らし、ひどくご満悦という様子だ。Vの字を描くまひろの両腕に抱きかかえられたまま、とても
とても幸せそうに目を細めている。
「ね、ね。理事長さんも演劇部入ろうよ!」
 表情がわずかに曇った。
「うーむ……演劇か。しかしわしは世阿弥観阿弥が催すがごとき煌びやかな舞台には甚だ不向きじゃぞ。もっとこう柿色の
裙(くん)穿き謀略偸盗(ちゅうとう)渦巻く裏舞台をば跋扈しとる方が性分にあっとるような」
「くん? ちゅうとう?」
 突如出てきた耳慣れぬ単語に一瞬あごに手を当て考えかけたまひろだが、由来彼女がその程度で止まる道理もない。
「大丈夫!」
「なにがよ」
 醒めた目で呻く千里と「いっても無駄だよちーちん」と額に手を当て嘆息中の沙織を無視し、まひろは叫ぶ。ぱんと手を打ち
大音声で呼びかける。
「理事長さんは可愛いから大丈夫!!」
「可愛い可愛いというが本当かのう? その、じゃな。実はわしの鼻はすこぶる低い……情けないほど低いのじゃ。だから
まあ、わしはの。鏡見てもわが顔が可愛いとはあまり思えんというか……うぅ、その。低くてぴんくが差した変な鼻がすごく
すごく嫌なのじゃ…………」
 それまで明るかった理事長の瞳が俄かに潤んだ。鼻を両手で覆い隠したまま頬を赤らめおどおどとまひろを見上げる辺り
よほど低い鼻にコンプレックスを抱いているようだ。
「ヌシが普通だと思うても、わしは低い鼻が嫌なのじゃ。まして、まして、衆目犇(ひしめ)く演劇場で舞台に登るなど。あ、ああ。
考えるだけで靦汗(てんかん)の至り……うぅ。恥ずかしい。いやじゃいやじゃ。きっと、ひっく。みなわしの低い鼻を笑うのじゃ」
「そうかな? 普通だと思うけど」
「ひあっ!?」
 理事長の細い体がびくりと跳ねた。千里と沙織の顔面が蒼白になった。まひろ! 彼女の指が低い鼻をつまみ、弄び始めて
いるではないか。いつの間にやら理事長の手が、剥がされてもいる。
「ほら。ちゃんと掴めるよ?」
「や、やめ……! ぎゅっとつまむでな……ここここれ以上つぶれたらどうす……あっ!」
 白い指が柔らかな丘陵を揉みつぶすたび、まひろの胸の中で幼い肢体がぶるぶると震えた。軟骨をしなやかな指が圧迫する
と必ず絹を裂くような叫びが小さな喉の奥から迸り、悶える。澄んだ大きな瞳には甘い靄さえかかり、艶めかしく潤んでいた。
 身をよじりもじもじと太ももをすり合わせるが、その動きはひどく弱々しい。まひろの腕から抜け出せないのは、彼女の力が
強いという訳ではなく、理事長自身の脱力のせいであろう。
「ごご後生じゃ、後生じ……んっ!! やめ、やめぇ、そんな強く引っ張……痛い……はぁ、はぁ、んんん……、あっ! あっあっ、
やめ、やめて……やっ、いや、いやあああっ、声、声っ、恥ずかしいぃ………」
 泣きそうな顔で理事長は首を左右に振る。しかしまひろは無邪気な物で、あくまで好奇心の赴くまま低い鼻をいじり続ける。
やがて理事長の声はとぎれとぎれになり、激しい吐息ばかりが教室に響いた。成り行きを見守る部員たちの顔は徐々に
深刻さを増していく。「背徳的な雰囲気だがいいのか」。みな、唖然とするばかりであった。

「斗貴子さん。自分がいかがわしい小説描いてた癖に他の人に描くなって命令する人ってどう思う? オレ? んー。まあその
人にもいろいろ事情があるとは思うけど、でもさ、ちゃんと説明しないと「お前はどうなんだ」って反発されて大変じゃないかな。
ほら、岡倉なんかそういう本が大好きでしょ? 実は大浜もちょっと危ないシュミの本集めてるし」
「知るか! ああもう何の話だ! それから声真似はやめ……待てェ! エロスはともかく大浜真史まで!?」
「…………戻ってきたのはいいが、少々妙なコトになっているようだぞ津村」

 六舛、斗貴子、秋水。

 教室に入ってきた3名もまた、硬直した。

「武藤まひろ! おーのーれは!! なにをしでかしておるんじゃ! え!! このわしが何者かと知った上での狼藉か!」
 数分後。教室の中央には魔王のごとき三白眼で腕組みする理事長がいた。
「ごめん……」
「御免で済むなら撃柝(げきたく)の衛士はいらんわ!」
 うなだれるまひろの前で踏み鳴るは理事長の細い足。相当の怒りが見受けられたが演劇部員たちにさほどの動揺はない。
駄々っ子を見るようなほのぼのとした目線が理事長に集中している。
「ご、ごめん。でも「げきたく」ってなぁに?」
「あ、それは夜警とかに使う拍子木でつまり撃柝の衛士とは”ぽりすめん”みたいなアレじゃ」
「なるほど」
「って違うじゃろ!! わしのすべきは説明でなく説教! ええと、ええと、よ、ようもわしを弄んでくれたな! おとめのじゅ
んじょう、どーしてくれる! 刺激されたぞあれが、ええと! こんぷり、こんぷりけ、ああいや、ええと。ええと……」
「コンプレックス」
 しどろもどろの理事長を見かねたのか。それまで窓際でぬっくと腕組みしていた斗貴子がぼそりと呟いた。
「お? おおお……」
 発進元にぶんと向き直った理事長、しばし目線を虚空に彷徨わせ「こんぷれっくす、こんぷれっくすなのじゃな成程成程」
とぶつぶつひとりごちていたが、それもつかの間。まひろや千里たちや秋水、他の演劇部員たちの「本当は知らないんじゃ……」
という疑惑のマナザシに気付くや否や慌てた様子で背筋を伸ばした。伸ばす、というより大至急立て直すという形容こそふさわ
しい勢いで、痛烈なバネの跳ね上がりさえ想起させた。彼女はそれの赴くまま薄い胸を反らし、腰に両手を当てた。仁王立
ち。うっすらと汗の光る得意顔はいかにも知ったかぶりの表情だ。
「う、うん。知っとるよ。知っとるよ? こんぷれっくすじゃな。あのでっかくてギザギザしとる奴じゃろ。な? な?」」
「ぜんぜん違う!」
「ち、違わんよ。わしの在所じゃでっかくてギザギザしとるもん」
「いいか。コンプレックスというのは」
「がおらお? がおらお?」
「コンプレックスというのは、自分の身体的特徴に」
「がおらおがおらお!!」
「身体的特徴に劣等感を抱く事を──…」
「ほぐゎー!!!」
「話を聞けぇ!!!」
「ひひっ! 聞くかよー!!」
 斗貴子のツッコミを黙殺し、理事長はやや語調を強めた。
「迂闊に話をきけばわしが横文字苦手なのがバレるではないか! ええ!?」
(それを大声でいうのはどうなんだ)
 鼻をひりひりと赤く腫らした理事長に秋水は眉をひそめた。が、当人は白状したコトにさえ気づかぬようで。
「とにかく! こここ、こん、こん、こんぷれっしゅ! わしのこんぷれっしゅをいじくり倒すとは失礼にも程があろう!」
(言えてない)
(言えてない)
(この理事長はとことん横文字が苦手らしい)
 演劇部員たちの頬が引き攣り始めたのは、理事長の説教の中に出てくる「コンプレックス」という単語が常に間違いだら
けでたどたどしいからである。にも関わらず彼女はこんこんとまひろを説教する。まひろもまひろで「こんぷれっしゅだよね!
こんぷれっしゅ刺激しちゃったらダメだよね。ごめんね理事長さん」と全力で間違った謝り方をしているのでますますおかしい。
(このコの方は相変わらずだな)
 秋水は嘆息したが、表情に嫌気はない。むしろ好意に溢れているといって良かった。
 だがある時、ふとその表情がわずかだが曇った。

(…………君はいま、無理をしていないか?)

(目が微かに赤い。もしかして、泣いていたのか?)

 やがて一同の間にいたく完成度の高い寸劇を見ているような錯覚が満ち始め、それとともに彼らはうつむいた。微妙に
震えているのはついに笑いを堪えられなくなったせいである。
「世が世ならわしは姫君のような立場……待て! いま笑ったな部員ども! わわわわしが姫君で何が悪かろう
よじゃ!! それはまあ鼻だって低いし気品なんぞ欠片もないしいつまで経っても稚(いとけな)い髫齔(ちょうしん)の顔立ち
じゃし、見知るおなごもことごとくわし以上の器量よし……おい部員ども! 何を笑っておるのじゃ!! わしはこう見えても
ヌシらよりずっと年上! あわっ! じゃなくて! なななななんというかっ! 精神の日月(じつげつ)において三歩の長が
あると……笑うなあ! ぐす。わしは、わしはなあ、ヌシらよりかなり年上なんじゃあ!!」」
 途中から理事長の怒りの矛先は部員たちに向き始めたらしい。彼女はぐずぐずと大きな瞳に涙を湛えながら懸命に
まくし立てている。

「理事長はともかくパピヨンはどこ行った? 私達は取り急ぎ用事を済ませたいのだが」

 ため息交じりに斗貴子が呟くと、たまたま近くにいた千里が「あ」と声を漏らした。

「今日は監督、ちょっと遅れてくるみたいですよ。なんでも急用だとか」
「ほう。私達にやりたくもない演技の修行をさせておいて自分は遅刻か」
「え! なになに斗貴子さん! 演技の修行したの!? いいなあ修行。私もしたい」
 栗毛の少女の双眸がぱあっと輝いた。のみならず豊かな胸の前で拳を揃え、しきりに話をせがみ始めた。
 一見、いつものような明るい態度である。
 斗貴子はいつものように気押され、六舛や千里たちといった顔なじみもやれやれと相好を崩したが……
(…………)
 秋水だけはまひろの目を見据えたきり黙然としている。


 □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇ □ ◇


「──と、言う訳だ。私と早坂秋水はその演技の神様の下で一晩修行した」
「そうなんだ。アクションの修行を。斗貴子さんと秋水先輩ならきっと大丈夫だよ。いいお芝居ができると思うよ! ね、
秋水先輩もそう思うでしょ。」
「あ、ああ」
 ややぎこちない秋水の口調に、まひろは一瞬微妙な、何か核心を突かれたような不安げな表情をしたが、すぐいつもの
ような底抜けに明るい笑みを浮かべた。
「で、その演技の神様ってどんな人!? やっぱりこう、神様だから白いおヒゲを生やした仙人さんみたいな人?」




 斗貴子と。
 秋水と。
 六舛は。




「「「……………」」」




 まるで示し合せたように黙りこんだ。



「どうしたんですか斗貴子さん。六舛先輩と秋水先輩まで黙りこんで」
「あ、いや。その……」
「やっぱりヒミツだったりする? そっちの方がカッコいいから?」

 はしゃぐ沙織に適当に相槌を打ちながら、斗貴子は恐ろしい怖気が立ち上ってくるのを感じていた。
 横目を這わせた秋水も同じ気分らしかった。平素超然としている六舛さえ血の気が引いているのが分かった。

(おかしい)


 おぞましい違和感がある。


(どうして、私はあの演技の神様の顔を──…)


 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
(思い出せない?)


(一晩付き合った記憶もある。あの人が教えた演技のやり方だって覚えている!)


(なのに)


 思い出そうとするたび


(なのに)

 演技の神様の姿が霞んでみえる。頭の中に靄がかかったようだ。声さえ正確に思い出せない。

(ど忘れしたという感じじゃない。妙だ。そもそも彼を紹介したのは六舛孝二。なのに旧知の間柄の彼でさえ)

「知らない、分からない」

 そんな顔で斗貴子を見ている。

(私や早坂秋水が忘れるなら分かる。初対面だからな。顔を忘れてしまうのも不思議じゃない。だが、六舛孝二! 演技の
神様と親交のある彼がどうして覚えていない!? 絶対におかしい。異常だ。演技の神様とは朝別れた筈なのに放課後よ
うやくここに来たのもおかしいといえばおかしい)

(そもそも演技の神様は男だったのか? 女? それさえ分からなくなってきている)

 紙のように白い顔で息を呑む。

(朝から今までの記憶が……ない? 何があった? 私達は、何をしていた……?)

 若々しく水気のある唇もいまは乾き、ひび割れそうな勢いだ。

(何かがあった筈なんだ。重要で、見逃してはいけない何かが)



*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−


「小札零、という少女を知っているだろうか? 小柄で、おさげ髪で、シルクハットとタキシードの」

「あー。それはっすねえ」


*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−





(そうだ。確か『何かがあった』。別れ際に、何かが)





*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−


 演技の神様はひょいと右手を突き出した。

 演技の神様の掌には。

 いつの間に出したのだろう。

『核鉄』が握られていた。


*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−





(クソ! どうして思い出せない!? 絶対に何かがあったんだ)



*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−



 何が起こっている!? 愕然と固まる戦士2人と一般人1人を「作り物のような笑顔」が一瞥し


「武装錬金!」




 叫んだ。

 転瞬、稲妻が槍のような武器から放たれ、3人に絡み付き。



 森から無数の鳥が飛び立った。

 それきり辺りは静かになった。

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−





(見逃してしまえばこの街がまた危険に晒されるような重大な何かが……)





*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−





「*****の武装錬金、バ@£‰ドル≒ッ&ー!」




 へへ



                          ────を禁ずる。







*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−

──────銀成市某所──────

「やっ! リバっち。あー。青っちの方がいいですかね。へへ。へへへへ」
「…………」
「戦士との遭遇についちゃ大丈夫でさ。俺っちの武装錬金なら遭遇したという事実さえなかったコトにできますからねえ。
ま、厳密にいえば「遭遇した俺っちの風貌風体口調などなど思い出すコトを

”※※※”

ですがねー。へへっ。さればこそ俺っちは放胆にも戦士さん方の前で武装錬金発動した訳で」
「…………」
「あーっ! 相変わらずエグいんだからって顔で微笑しつつ溜息した! そんな青っち可愛いっす!! お頭のアホ毛が
ぴょろりんって動いたのもキュートっす! ああもうやっぱり青っちは可愛い! 女神!! え? 文字? 文字……?
あっ、あああ! ちゃんと書きましたよそりゃあ。俺っちの武装錬金には文字が不可欠すからね! ええ。ええ! そう
意味じゃサブマシンガンで文字書ける青っちとの相性はベリベリグーっす! 最高のパートナーでさあ! 大好きっす!」
「…………」
「照れてる? 照れてる照れてる? 照れてくれてるんすか青っち、俺っちの言葉で! ああ。いいなあ〜。何気ない褒め言
葉にはにかんで恥ずかしがってくれる女の子。だからもう青っちは大好きなんすよ。え? 言葉が軽い? 軽いならいくらで
も放ちますよこの愛の言葉!! 青っちの心に届け俺っちの愛! え、そうじゃない? 武装錬金の話? ああもうマジメ! 
のろけたりしない! それが青っち! マイペースかつ倫理的。やっぱ可愛っ……うほほ! いま瞳の色反転させかけまし
たね怒りかけましたね! いや怒って俺っちぼこる青っちも好きでさあ! あの息継ぎなしのサブマシンガントークも禍々し
くて好きっすよ。でもアレやると後で青っちが落ち込んじまって可哀相なので(でも可哀相な青っちも儚げで大好きっす!)真
面目な話をしやす!」



「戦士さん方、俺っちとブレミュの小札零の関係に気付いたようですねえ」

「これはマズいって訳で」

「もし戦士経由で「俺っちがどういう存在か」ブレミュへの問い合わせがあったとすれば」



「漏れますよ。へへ。俺っちが幹部級だというコトも、幹部級が何を目論んでいるのかというコトも」



「だから防がせて貰いやすよー」

「出会ってしまったのは偶然ですからね。へへ。まさか六っちが戦士と知り合いだとは夢にも」

「でも俺っちが尊敬してやまぬ盟主様はまだ戦うなっていってますからね。ここは一つ、穏便に……」

「脳のあちこち、しばらく機能不全というコトで」






──────銀成市。以下の理由によりあちこち──────


 ヴィクトリアは、走っていた。


 部活に行くべく学校に向かったら、空を飛ぶパピヨンを見つけた。
 だから、追跡をしていた。
 奇しくも彼女が気付くと同時に向こうも気が付いた。彼はひどく嫌そうな顔をした。蝶々覆面の上からでさえ露骨に分かるほど両頬に皺を
寄せ、瞳を濁らせた。そしてそのまま速度を上げ、去っていこうとした。

「待ちなさいよ!!」


 気づけば、ヴィクトリアは走っていた。



(ああもう。なんで追いかけなきゃいけないのよ)


 さまざまな建物の上を飛ぶパピヨン。
 地べたを走るヴィクトリア。

 走るヴィクトリアはまったくただごとではないという顔である。
 ふだん冷たくすました顔がウソのようにあどけなく、ひたすら懸命になっている。

 走り始めたのが昼ごろだからかれこれ数時間は走っている。住宅街を抜け商店街を抜け、このまえ時間進行の時ごった
がえした大交差点を走り抜け、全身汗だくで走っている。華奢な体に纏わりつくセーラー服は疾走の風にくしゃくしゃとなり、
筒に通した金髪は風の中で時おりからから打ち鳴る。すれ違う老若男女が何事かと目を剥いているのも見た。そうしてヴィ
クトリアの視線を追った彼らはニヤニヤする。空を飛ぶ蝶々覆面。最近町のウワサになりつつある都市伝説。それに恋い
焦がれる少女が一生懸命追いかけている。そんな目をするのだ。
 正直、恥ずかしい。走りつつ、猫かぶりのホヤホヤした顔をちょっとだけ赤くする。

(ち、違うわよ。そんなんじゃなくて……。私はただ)

 パピヨンと話がしたい。最近急に研究室を離れがちになって、シチューを食べなくなった理由が、聞きたい。
 聞いてどうするかまでは分からない。ただ、彼が何か不満を抱えているのなら改善したいとは思っている。
 ヴィクトリアはパピヨンを害したい訳ではない。ともに白い核鉄を目指す間柄として、協力がしたい。
 自分が決して至れぬモノを瞳に秘めている相手に、少しでも力添えがしたい。

(だいたいまだ9月でも飛べば十分寒いのよ。ずっと飛んでたら体に毒よ……?)

 パピヨンの吐血風景が何度も何度もフラッシュバックする。脳髄のあちこちにモニターを置いたかの如く吐血のパピヨンが過る。
 その時の苦しそうな喘鳴。聞いている方が辛くなる。ホムンクルスだから死にはしないのだろうが、だからといって吐血する
環境に彼を置きっ放しというのは嫌なのだ。助けてやれるなら、助けてやりたいのだ。
 ホムンクルスが嫌いと公言して憚らぬヴィクトリアとしては、破格の感情であろう。

「いい加減に止まったらどう!? 私が気に入らないなら言えばいいじゃない!!」

 慣れない運動に(ホムンクルスだから高出力。だが一応運動不足という概念もあるらしい)へあへあと息を吐きつつ、叫ぶ。

「知らないね。俺がどこに行こうと勝手だろ? 引きこもり風情に干渉される謂われはない」
「そうだけど!! その、その……!!」

 ここで「どうして研究室来なくなったのよ」と聞ければどれほど楽か。だがヴィクトリアはいざ質問の直前になると躊躇われて
仕方ない。
 もし、彼が自分を見捨てていたとすれば? ひどい嫌悪を催していたとすれば? 二度と会いたくもないと宣言されたら?

 悪い考えばかり胸が過る。パピヨンに嘲られるのは慣れている。そういう性格だからと割り切れる。

 だが、やっと歩き出せた新たな道の途中で道しるべから不必要と断ぜられ、見放されるのは怖かった。


(私が気付いていないだけで何か大失敗した? アナタに迷惑をかけた?)


(看護がよくなかった? アナタの体質に合わなかったの?)





(シチュー、おいしくなかった……?)


 走っている内に悪い考えばかり浮かんでくる。ひねくれている筈のヴィクトリアにしては恐ろしく率直で素朴で素直な恐怖ば
かり身を満たす。

(何を不安がってるのよ。私らしくもない。どうせアイツのコトだから下らない理由で避けてるんでしょ? 不安がっても無意味
じゃない。馬鹿ね私……。どうせ下らない理由よ。そうに決まってるじゃない)

 必死に首を振る。浮かんでは消えるさまざまな恐れはまるで少女のそれだ。100年以上生きているヴィクトリアらしからぬ
怖れ。内心ではそれを馬鹿馬鹿しい、どうかしていると冷笑混じりに見ているのに……。

(下らない理由で私を避けている筈。そう考えようとしているのに────…)

 ふとした弾みに「あの時のアレが良くなかったのかも」と寒気混じりに思ってしまう。該当場面のパピヨンの表情を思い返す
たび、失意の色が濃かったよう錯覚している。妄想じみた不安に無理やりな確証をこじつけている。

(どうかしてるわ最近の私……)

 ホムンクルスに「変えられて」以降、自分を卑下し続けてきたヴィクトリアだ。自分の欠点など幾らでも自覚している。自分は
しょせん狭量で冷淡で、毒舌ばかり吐く刺々しい老婆だと是認している。
 そんな自分が、パピヨンのコトを思う時だけまるで少女のような素直さを覗かせている。
 まったくどうかしている。自分らしく、ヴィクトリアらしくない。
 そう思いながらも悪い気がせず、その感情を抑えようともしていない。見下しているのに、抑えたがらない。

(寄宿舎なんかに無理やり連れ戻すからおかしくなったじゃない。どうしてくれるのよ)

 羞恥の色の濃い顔で恨むのは、むろん秋水とまひろである。


 やがてパピヨンは最高速度でどこかへと飛び去っていった。


──────銀成市。市街地からやや離れた廃ビル前──────


 廃墟のビルの前で、ヴィクトリアは上体をやや屈めぜえはあと息をついていた。
 3階建てのそれを登れば大空で点を描くパピヨンの後姿ぐらいは見えそうだが、しかしそれをしてどうなるという思いもある。
 一瞬顔見知りの千歳に依頼しようかとも思ったが、相手は錬金戦団の戦士だ。
 戦団の手でホムンクルスにさせられたヴィクトリアがおいそれと頼めよう筈もない。
 目下できそうなのはいらだたしげに叫ぶコトぐらいだろう。
 よってヴィクトリアは、叫んだ。

「ああもう! 見失ったじゃない!」
「ああもう! 見失ったじゃん!!」

 声が、ハモった。

「?」

 訝しげに視線を移す。

 と。

 そこには──…




「奴め! 方向音痴も大概にしろ!! やっと捕捉したと思ったらもういない! なんだあの高速機動!!」
「まあまあ。そのうちひょっこり戻ってくるやも知れませぬ! 現に始めての出逢いではそうでした! おねーさんのところへ
言ったかと思いきや即座虚空のはぐれ鳥! 不肖ら食すレーションの匂いにつられてひょっこりと! 戻ってきたのであります!」
『はは!! 戦団に核鉄を没収されていなければなあ!!」
「フ。確かにな。ヘルメスドライブさえ使えたらすぐ捕捉できるんだが。おっと。すまない。催促じゃない」
「ダメですよー! 犬さんの武装錬金解除したりしたら、私が火渡様にお仕置きされてしまいます」
「千歳どのに依頼をばかければ何とかなるように思いまするがああしかし生憎千歳どの、根来どのともども新たな任務に従事
中! 平和な一家と鉤爪の戦士どののが突如消えた謎の事件をば調べておりますればこちらに振り向ける余力はございませぬ!!」
「でもさでもさどうすんのさ! ぱっとせん白ネコとか垂れ目たちのおるとこいけないじゃん! 全員いっしょって約束だし!!」

 えらく奇抜な一団が、いた。
 少女もいれば青年もいる。ガスマスクもいればいかにも手品師な少女もいる。
 少年の周りにふわふわ浮かぶランタンのようなものは、武装錬金だろうか?

 ヴィクトリアは、その中の何人かに見覚えがあった。


「…………フ。これは奇遇。いつかの避難壕以来。しまらぬ姿で再会とはな」

 その中の一人がヴィクトリアに気付き、微苦笑した。

「あー!! そだ! そだ! メルアドどうするじゃんあんた! 久しぶり!」
『はは! 寄宿舎の近くで会ったのはいつだったかなあ!』
「なにやら追いかけっこをされてるご様子! そういえば嘗ての戦いの最後パピヨンどのはいいました! ヴィクターどのの娘を
探している! となれば恐らくすでに合流済みにて研究をばすでに開始でありましょうー!」




「鬱陶しい。戻ってきてたの?」




 苦虫をかみつぶしたような表情で、ヴィクトリアは応答した。





──────銀成学園。演劇部一同がよく使う教室で──────


「三日後!?」

 部員達がどよめいた。

「そうだ。三日後。貴様たちは劇を発表(や)れ。題材は問わん。とにかく三日で発表可能なレベルに持って行け!」

 毒々しい表情で指を突き出すのは誰あろうパピヨンである。
 心なしか息が荒く、センスの良い黒スーツがじんわり汗に濡れているのを目ざとく見つけた部員どもも何人かいたが、
「まあ監督だから」と聞かずにいる。
 そして、斗貴子の口から限りなく不満に満ちた絶叫が迸る。
「三日後ぉ!? 待て! いくらなんでも無茶苦茶だ! このコたちの身にもなれ!!」
「やれやれ。これだからブチ撒け女は嫌になる」
「何だと!?」
「いいか。あの腹黒女にも言ったが、俺は常々怠け者は死ねばいいと考えている」
 丸めた台本が斗貴子の鼻先にビシィ! と突きつけられた。
「仲良しゴッコでダラダラやっているような連中に期間を与えても無駄だ。だからまずは敢えて追い込んでやる。さすれば余
程の怠け者でもない限り死に物狂いで練習に励むさ」
 ひどく暗い調子だが煮えたぎるような熱を秘めている。激昂しかけていた斗貴子でさえ危うく一理を認めそうになった。
「上達だの向上だのといったきっかけはそういうものから生まれる。……だろ?」
 そうニヤリと笑う監督に、演劇部は、湧いた。
「そうだ!! たまには三日間死にもの狂いでやるぞー!!」
「練習の密度を高めるってコトですね!!」
「やんややんや!!」
「やんや!!」
「がおらお!!」
 斗貴子はただ、愕然とするばかりであった。扇動されつつある部員(部員でない筈の理事長もなぜかノっていた)たちは
まあいつもの調子だ。気にするまでもない。問題は。
 急に監督らしいコトを言い出したパピヨンである。
「……どうしたヤブカラボウに? お前がマトモなコトをいうなんて。明日は雪でも降るのか?」
「いうさ。俺が受け持つ演劇部だ! 中途半端は許さない! 壊しても仕方ない気がしてきたしね」
「中途半端でいい!! というかとっとと飽きろ! それから、さっきから小さな子連れて何やってる!!」
 パピヨンの腰のあたりには理事長がしがみついている。ひどくうっとりとした表情だ。ほわほわと泡のようなものを飛ばして
ご満悦という調子だ。
「理事長特権とやらで臨時の顧問を任されてな。引き換えに面倒を見てやっている」
「今すぐ離れろ! お前は何かこう全体的に子供の教育に悪い!」
「知らんな。このガキが勝手に寄ってくる。文句ならそっちにいえ」
「ヌシ! ヌシ! ほれほれもっとわしを撫でるのじゃ〜。もっともっと可愛がってくりゃれなのじゃー♪」
 当の理事長は平気な顔だ。甘い声を出し、一生懸命顔を上げ、しきりにおねだりしている。
「すっかり懐いている。もう嫌だこの学校」


(ひひっ。ゲテモノほどうまいからのう……)



 うなだれる斗貴子は見落としたが。
 理事長の口には涎がうっすらと滲んでいた。


「待て。今お前、さらっと聞き捨てならないコトいったな! 顧問っ!? 部外者の貴様がか!」
「ノンノン。勘違いしてもらっちゃ困るね。そもそもこの俺は部外者じゃない! この学校に籍を置くれっきとした関係者! す
でに5年もいるこの俺が、転校してきたばかりの貴様にとやかく言われる筋合いはないね」
「2年余分に在籍した挙句来なくなったのはどこのどいつだ!!」
「あいにく学籍は置かれたままでね。生徒が学校に出入りして何が悪い」
「百歩譲ってそうだとしても生徒が顧問やるのはおかしいだろ!」
「大丈夫じゃ! わしが校則変えておいた! じゃからパピヨンは演劇部の顧問でええのじゃよ」
 斗貴子の顔が引き攣った。相手が子供だから怒鳴りこそしなかったが、震える拳はあきらかに怒りを秘めていた。
「演劇部を救おうと修行した私が体制側にさえ刃向われる、か。ふふ。面白い。やっぱりもう何もかも嫌になった。さっさとブチ
撒けよう。それが一番手っ取り早いに決まってる」
「落ちつけ津村。四面楚歌は元よりだ」
「お! おおー。いけめんさんじゃ! いけめんさんがおった!」
 今度は理事長、斗貴子を窘める秋水にすり寄った。
「のう、のう、抱っこしてくれんかの!? わしは面喰いなのじゃ! おのこ選びの基本は顔なのじゃ!! だから『面喰い』
なのじゃ!! いつも最初は、顔からなのじゃ!!」
「と言われても」
 難しい顔の秋水に「ええー!?」と理事長は首を振った。ポニーテールが飛び立ちそうに揺れた。
「いやじゃいやじゃ! わしは観ての通りの矮躯ゆえ高い視点という奴に憧れておる……。だから抱っこじゃ! 持ち上げ
てくれ! 持ち上げてくれなのじゃ!」
 やいやいと小さな体を全力で揉み揺すりながら理事長はおねだりする。不満気に寄せた眉根はひどく愛らしい。
「抱っこがダメなら肩車でもいい! かたぐるま! かーたぐるま!!!」
 騒ぐ少女を、秋水はほとほと持て余し気味に眺めた。
「ダメ、か……?」
 そして彼女が指を咥えたまま瞳を潤ました瞬間。

 周囲からの(主にまひろからの)熱烈な進めにより、理事長を高い高いする羽目になった。





──────銀成市。市街地からやや離れた廃ビル前──────


 ヴィクトリアの話し相手は、影や逆光で顔が良く見えない。ただ、服装や仕草や声で「彼ら」と分かった。
(でも、妙ね。あの鳥型がいないのに……『5人』?)
 「彼ら」の構成員は『5人』。内1人が不在。にも関わらず目の前にいる連中は『5人』。5−1+X=5。Xを求めよ。
(……1人は戦士? 監視役? それにしては弱そうだけど))
 尖る瞳が一点に吸いつく。ガスマスクを被った小柄な人物。伝え聞く戦いのどこにもいなかった人物だ。

 目があった。向こうはおっかなビックリという様子で頭を下げた。もしかするとヴィクトリアを知っているのかも知れない。
 首をかしげる彼女に渋みのある低い声と、やたら滑らかな明るい声が順にかかった。

「フ。成程な。大体の事情は把握した」
「そもパピヨンどのとは初対面からほどなくして胸貫かれたるヴィクトリア嬢どの! 普通に考えますれば第一印象、ヤな方
悪人ヒドい奴となりまするはまず必定! されどされどココが現実の奇妙なトコロ特異点、思慕お寄せになリまするはやは
りご両家の因縁ゆえなのでしょーか! かつてバタフライどのがヴィクターどのに心酔されたのとはやや逆の趣こそござい
ますが、やはりご両家には斯様がごとき相性の良さがあるのやも知れませぬ!!」

 交互に喋る相手達を見つつ、ヴィクトリアは嘆息した。くすんだビルの壁に背を預け、ちょっと遠くを見るような眼をした。

「いいわね。アナタたちは仲良さそうで」
「そうかな? 実を言うと出会ったころはな。俺、結構こいつを邪慳にしてたぞ?」
「…………不肖の方は、一目ぼれでありました」
「あっそう。というかなんであの時(ニュートンアップル女学院)の出来事まで知ってるのよ」
「ね! ねっ! メルアド! メルアド交換するじゃん! あたしさ、あたしさ! きかいはよーわからんけど、けーたーでん
わだけは好きじゃん! はなれてんのに声するじゃん! あと、しゃべってんのが見える! すごい!!」
『ちょ! 待て! 今は黙るべきだ! メルアドは後! は、はは! ごめん! だから、その冷たい眼はやめて欲しい!!
ははは! 中学時代高校時代の女子からの『コイツ駄目だ』みたいな冷たい目線を思い出して辛いんだッ!!』
(ああ、うるさい)
「匂いじゃ追跡できませんか? あ、ああ。予定がおしています。本当は昨日、防人戦士長たちと合流する手はずだったのに」
「匂い!? にににに匂いなど嗅げよう筈もないわ!! な、なんで我が奴の匂いなど……あ、いや違うぞ。そもそも奴は空を
飛んでいるゆえ匂いなど追跡できん。それがいいたかった、だけなのだ!」
「フ。あたふたするお前は最高に面白いな」
「不肖たちのなかで最も心配されている証でしょう。仲良きコトはよきコトですっ!」
 がやがやとやかましい彼らが相談に乗る気配はない。相談? ヴィクトリアは軽く鼻白んだ。自分は何を期待しているのだろう、
嫌って、見下している相手に手助けを求めるとは……。自分がとても利己的で勝手に思え、ヴィクトリアは嘆息した。
「話を聞くだけ聞いておいて自分語りばかり? やっぱりホムンクルス。話すだけ無駄だったわ」
「フ。踵を返すのは少々待て」
「なによ」
「パピヨンみたいな人はな。なまじ頭がいいばかりに自分のやり方が一番正しいと思っている。だから他者にあれこれいわれるのは
我慢がならないのさ」
「……………それ位、分かっているわよ」
「フ。失礼。だが付け加えると、人間だった頃、彼は誰にも相手をされなかった。家族にさえ優しくされた覚えはないのだろう」
「……」
「だからお前の看護や手料理には、正直言って戸惑っているのさ。彼は思い出さないようにしているのだろうが、財産目当
ての家庭教師に誑かされたコトもある」
(そんなコトが?)
「だから、厚意を受け取っていいかどうか迷っている。その上」
「その上?」
「彼はああいう性格だからな。最初に心から喜べるものを与えてくれた奴だけを至上としている。それ以外の人間は何を
してこようと認めない。いや、認めたがらないというべきだな。”最初”以外を認めるのは”最初”に対する冒涜だとさえ信じて
いる。だから、お前を素直に受け入れられないのさ。お前が劣っているとかいう問題じゃないさ。ただ、お前が彼と出会うの
が少しばかり遅かった。それだけだ」
「抽象的ね」
「仲のいい友人はいるか? そいつをお前は母親以上の存在と認められるか? 1位の席にいた母親を蹴落とし、友人を
その座に据えられるか? フ。できないだろう。彼はその度合いが他の誰よりも強いだけさ。普通の人間ならいくつでも用意
できる分野別の1位の席を、たった1つしか用意できず、1つしかないゆえに毎日毎日必死に守ろうとしているのさ」
「ご高説どうも。じゃあ、私はどうすればいいのよ?」
「あまり真っ向から接触しないのが一番だろう。こう、コッソリとだな。力添えをしてやればいい。ベッドのシーツをいつの間に
か替えておくとか、工具の並べ方をさりげなくあいつ好みにしてやるとか、とにかく奴が「パッと見は分からないが少し考えれ
ばお前の助力に気付き、軽く感嘆する」程度の内助の功を見舞ってやればいい」
「やんわりと、やんわりとなのです!! お言葉で窘めようとするよりより優れたやり方を遠慮がちに提示して頂きますれば
波風立たぬは正に必定!」
「ふーん。ホムンクルスにしてはまともな意見じゃない」
「だろう。フ。実をいうと俺もかつてはあんな性格だったのさ。自意識ばかりが先走っていた時代があるのさ」
「で、あるがゆえに機微がわかるのです! これも10年旅をしたからなのです!!」
「とにかくだ。あまり不安がっても仕方ないさ。悪い考えなんてのは願望に似ている。心配が見せるのは一番叶って欲しい
コトの対極さ。とはいえ人間関係、自分の考えが的中するコトは少ない。なぜなら相手はこちらばかりを見ていない。相手
は相手の辿ってきた道を基準に世界を見ている。こちらの知らない材料コミで考え、動き、生きているのさ。だったら」
「こっちの考えだけで相手を測ろうとするな……って言いたい訳ね」
「……フ。ご、御名答」
「あんたいまくやしそーな表情したじゃん」
『いったら駄目だ! 先読みされてガックシきたけど敢えて余裕の顔立ちで誤魔化したなどといったら失礼だ!!』
「なに? 貴方って実はただの見栄っ張り? その余裕ってただの繕いなのかしら?」
「フ。十年もリーダーをやれば外向きの顔も板に付く。大人ぶったリーマンも家に帰れば子供のようにはしゃぐだろ。
それを幼稚という奴はないさ。使い分けに過ぎない」
「尤もらしい言葉の羅列で真意を隠すお喋りが大人の対応っていうなら、世界はずいぶん窮屈ね」
「窮屈だからこその処世さ。言質をやらねば恥もない。お前も組織の長を十年やれば、乖離甚だしい「本意」と「社会的責
務」の妥協点がわかってくる。ま、技術を突き詰めるコトに比ぶれば退屈で、無味乾燥極まる理解だが」
「い、いいか。匂い追跡ができないのは奴が空を飛んでいるせいだからな。恥ずかしいとか奴の匂いを嗅ごうとすると黄砂
が吹き始めた頃の訳のわからぬモヤモヤが胸に籠って妙な気分になるとか、そういう理由で匂い追跡を拒んでいる訳では
ない!」
「わ、わかりましたから、とにかく早く探しましょうよ〜。せっかくの合流なのに副長サンがいなかったら駄目です……」
「アナタ」
「なんだ」
「思ったより嫌な奴じゃなさそうね。この前蝶野屋敷の場所を教えてくれたコト、感謝してあげないコトもないわ」



「フ。それはどうも。意見に真意が滲むうちは世界もまだまだ自由に見えるさ。彼のコトはどうにかできるだろう」




 揺らめく金髪に背を向け、ヴィクトリアは走り出した。

「去ってしまわれましたね。ご武運を! 幸運を祈りまする! ぐっどらぁーっく!!!」
「へっへー。メルアド貰ったじゃんメルアド!! あのコと仲良く、できるじゃん!!」
(女子高生のメルアド……! 女子高生のメルアド……!! いいなあ、僕は学生時代1度も貰えなかったのに!!)
「あ、ああ……!! メルアドといえば火渡様からの着信が50件を超えました。怒っています。怒っていますーーーーーーー!!」
「とにかく!! まずはあのアホウドリを見つけなくては話にならぬ!!」


「フ。俺はいま、久々にマズいと思っている。どこだ。奴はどこに行った? いやな脂汗が背中を濡らして仕方ないんだが」


 某所。


「いらっしゃい……ませー、です。ご主人さま……お帰りなさい…………です」
「イデオンの世界からただいまです。やる夫さんたち? ハッ! 置き去りにして逃げてきましたよ。敗色濃厚だったので!
僕はね、勝てる戦いしかしませんよ。ゲッターエンペラー? 勝てる訳がない! あれは逃げていい相手ッ! …………
ところであなた、新人さんですか?」
「はい……リーダーたちが……はぐれたので……アルバイト……です」
「我のスカウトに乗ったはいいが……なぜ裸足?」
「可愛いのはいいけど目が虚ろすぎかしら。大丈夫かしら?」
「知った事か。だがこの前どっかでみたような気がするぜ。そして空を飛んでいた気がするぜ!」
「時給は……3ドーナツです……頑張り……ます」

(ぷ)

 走りながらヴィクトリアは噴き出した。先ほどの一団が探していた人物。それが仕事場の店先で呼び込みをしている。
 とりあえず写メを取り、登録したてのアドレスへ送る。

 そして仕事場の仲間たちに逃がさないよう釘を刺し、本人にも忠告。双方から了解を得た。

 走りだす。ヴィクトリアは若々しい息吹が全身を駆け巡るのを感じた。



──「彼は誰にも相手をされなかった。家族にさえ優しくされた覚えはないのだろう」

──「だからお前の看護や手料理なんてのには、正直言って戸惑っているのさ」



(そう、なんだ。戸惑っているだけなんだ……)


 今までの自分らしからぬときめきに小さな心臓をとくとくと波打たせながら、”奴”を求めてヴィクトリアは走る。

 次に遭ったら何をいおう。考えるのも楽しかった。













──────銀成学園。演劇部一同がよく使う教室で──────

「ほう」
「以上が、修業の成果だ」
「三日後の劇には俺たちも参加させて欲しい」

 教室には鳴りやまない拍手が満ちていた。

「すげー! 秋水先輩と斗貴子さんの打ち合い!」
「これが修行の成果!!」
「秋水先輩の方は武術演武の流れをくむクラシカルな受け答え!」
「片や斗貴子先輩の方は美しくも荒々しい女豹のような動き!!」
「通常なら前者がヒーロー役で後者を倒すという流れこそ王道! にも関わらず斗貴子先輩の方が何度打撃を受けても
立ち上がり最後は勝つという流れ! たった3分という短い時間の中で起承転結と意外性に富んだアクションシーンは
まったく見応え充分だ!」
「特に2:31の倒れ伏した斗貴子先輩が最後の力を振り絞って立ち上がる場面! 一連の逆転劇の糸口になったこの
場面! スローモーションで見ると何と1秒で16回も秋水先輩の攻撃をいなしている! 特に8撃目と9撃目! ここ!
胸に迫った逆胴を大きく弧を上げつつ摺り上げる! その隙に秋水先輩が投げた火薬玉をクナイで迎撃! 2人の
間で爆発が起こるのだけれど、もしタイミングがコンマ1秒でも遅れていたら失敗していた!」
「爆炎を突っ切りつつ互いが互いに突進するのも良かった」
「げふう。牛丼うまかったのじゃ。次は特上寿司5人前にちゃれんじじゃ!!」
「クナイは1:06で秋水先輩が投げていた奴だね。よく見ると実はちゃんと拾ってある。執拗な下段突きを転がりながら
回避している場面だったから見落としていたけど、本当によく考えてあるね。2人は演技を始めてまだ1日だというけど
ぜひともこの先続けて欲しい。キラリと光る物があるよ」
「そんなコトよりわしはおやつが食べたい! プリプリしたクリームのたっぷり入ったパンが食べたい!」
「特撮出れるって特撮! 高岩さんの敵役ぐらいはできるって!!」
「どうします監督! 秋水先輩も斗貴子先輩も出るべきだと思うんですが!!」

 パピヨンは、笑った。




──────銀成市住宅街。学園から寄宿舎へ続く道の半ばで──────

「はあ。それで劇に出るコトに?」
「ただの劇じゃないそうだ」

 銀成学園から寄宿舎に続く道で、剛太は数度瞬いた。

「普通の劇じゃないって……まさかムーンフェイスが乱入したあげく先輩がダブル武装錬金発動したりするんですか?」
「そりゃドラマCD1の話だって。ゴーチン」
「対戦形式だそうよ」
 ふわふわ浮かぶ御前を愛しげに撫でつつ笑うのは桜花。その横には秋水。いつもの戦士一同が仲よく帰宅していた。
「対戦形式? 劇で?」
「パピヨンの意向らしい。ただ劇をやるだけではつまらない、と」


「感謝して敬え。伝手を辿ってなかなかの相手を用意してやったぞ。負ければお前たちは……そうだな。全員そこのブチ撒
け女と同じ服で卒業まで過ごしてもらう。ダサい服を着せられるのは屈辱だろ?」


「お相手は劇団よ。声優さんとか俳優さんとか、ちょくちょくテレビに出ている人たちがいっぱいいるらしいの」
「プロばっかじゃないですか。大丈夫なんですか? いや、負けても斗貴子先輩は影響なしか。じゃあ大丈──…」
「俺も、セーラー服を着るかも知れないのだが」
 静かな秋水の囁きに、剛太は「うげ」と顔をしかめた。想像してしまったらしい。
「あら? 秋水クンならそれもいいと思うけど。元がカッコいいんですもん。私の弟だし、女装もきっと似合うわよ」
「姉さん。まさか写真を撮るつもりかい」
「そんな……。撮 る に 決 ま っ て る じ ゃ な い 」
 にっこり微笑む桜花に秋水は黙りこんだ。
「そーだそーだ。秋水の女装姿なんてめったに見れないんだぜ! いっそ負けちまえ演劇部!」
(女装なんてなあ。やる奴の気が知れねェ)
「頼むから勘弁してくれ。この前の俺の不規則発言だって「消した」とはまだ聞いていないよ姉さん」
「あー。そっちはまだナイショ」
 げんなりする秋水に剛太は「ああ」と頷いた。「まっぴー」。メイドカフェでの戯れで飛び出た秋水の声。咄嗟にそれを
録音した桜花の恐ろしさ。セーラー服に喰いつかぬ訳がない。
「お前、最近運がないよな」
「いいんだ。総ては俺の不注意だ。総ては俺の不注意だ……」
 秋水は肩を落とした。眉目秀麗の顔も曇り気味だ。
 微妙にブルーになっているらしい。桜花などは「まあまあ」と笑顔で慰めにかかっているが、秋水の憂鬱の原因の8割方
はこの姉にあると剛太は思った。おかしな格好をさせられるコト自体より、それを面白がって後世に残さんとする桜花の
茶目っ気こそ恐怖なのだろう。
「キミが一番貧乏くじを引いたかもな」
「かも知れない」
「まったく。まひろちゃんにパピヨンの服を着せたくないと参加したばかりに」
 斗貴子の口調もやや同情的だ。
(あれ? 微妙に打ち解けてるような。……そーいや先輩とこいつ、昨晩はどっか泊まったとか。…………いや!! まさ
かな! 先輩はそんな軽くねェ!! あの激甘アタマ一筋なんだしコイツだって武藤の妹と馬鹿ップルなんだから、ンな
コトある訳が)
「どうしたの剛太クン? 顔が青いけど」
「な、なんでもねェ!!」
 必死に叫ぶ剛太を桜花はくすくすと眺めた。
「お泊りが羨ましかったら私としてみる? どうせ秋水クンはまひろちゃんの相手で忙しそうだし」
「断る!!」
「あら残念。でも確かに秋水クンへの棘がなくなってるのは気になるわね。修行の時、何かあったの?」
「いまはパピヨンをどうにかするのが先決だ。過去のいきがかりにこだわっていても仕方ない。それだけだ」
「そう。私達はどうこういえる立場じゃないけど、津村さんがそうしてくれるならまひろちゃんもおかしな目に遭わないでしょうね」
 悩ましげに頬を抑え溜息をつく桜花もまた、まひろを案じているらしい。天真爛漫なまひろだがこの点、妙に人徳がある。
「そうだ。もし演劇部が負けてしまい、パピヨンの思うままになればやがて部員達は全員彼の衣装を着る羽目になるだろう」
 粛然とした秋水の呟きに桜花は「え?」と目を白黒させた。
「そんな状態だったの……? え? あんな服を? ダメよあんな服! 人間として守るべき最低限の尊厳が侵される……!!」
 鋭い叫びに一同は微妙な表情を返した。「同意だが衣装に関して弟の尊厳を踏みにじらんとしているのはどこの誰だ」とい
うニュアンスが多分に伺えた。
「おい聞いてないぞ秋水! そーだとわかってたら桜花は入部しなかったって!」
「あ。そういえば生徒会のお仕事が残っていたわ。先に行ってて。私は学校に戻ってくるわ」
 立ち止まりたおやかな笑みを浮かべる桜花に、剛太は疑惑の視線を突き刺した。
「……あんたも部員だったよな。まさかとは思うけど、会長権限で自分だけこっそり退部手続きしようとか思ってないだろうな?」
「う」
 決まりが悪そうな頬笑みは、頬のあちこちが引き攣っていた。面頬には特大の汗。図星なのはまったく否めない。
「「う」じゃないぞ桜花! 面白半分で入部しておいて都合が悪くなったら自分だけ逃げるのか!? 実行したらブチ撒けるぞ!!」
 勢い低くざらつく斗貴子の声に、桜花はいよいよ震え出した。
「だ! だって! セーラー服ならいいかなあとは思うけど、でもパピヨンのスーツとか嫌よ! 気持ち悪い! 胸元がはだ
けるから嫌とかそういうのじゃないの! パピヨンの格好だから嫌なの! ダメ。ダメよ……。メイド服もバニーさんもいいけ」
どあの格好だけは絶対にダメー! だから私は退部したいの。いいでしょそれ位、お願い。見逃して津村さん」
 桜花はいやいやと首を振った。振り乱れる見事な黒髪から立ち上るかぐわしい匂いに剛太はやや我を奪われかけたが「これは
きっとハニートラップ!」と踏みとどまる。
 だが桜花はかなり本気で泣いているようだった。こういう場合の慣習として、剛太も斗貴子も演技を疑ったが、童女のよう
なあどけなさが包み隠さず覗いている所を見ると、どうやら「素」らしかった。
「今から退部手続きを取ろうとしても無駄だよ姉さん。パピヨンはやめた部員にもあの服を着せようとしている」
「え? じゃあ秋水クンはあの格好の私を撮るの? いや、やめて。ごめんなさい」
 やおら弟に向き直った姉は胸の前で手を交差させ半歩後ずさった。声はいまにも消え入りそうだった。
「許して。寝顔に水性ペンで肉って書いた写真とか瞼にきらきらお目目書いた写真とか全部消すから許して……」
「元より撮るつもりはないが……落書きをするな姉さん。いい加減、俺で遊ばないでくれ姉さん」
「ふぇ!? あ、いえ、そのたとえ話というか出来心というか、ちちち違うのちゃんと水性ペンだからティッシュで落ちたし、ま
ひろちゃんにも送ってないのよ。あとちょっと悲しい時とかに見ると元気が出てくるし食欲も湧……あ、違うの! 秋水クンを
食べたいとかそういうのじゃなくて、ああああの、あのね! あのね秋水クン──…」
(すっげー取り乱してやがる)
 剛太は思わず口に手を当て、顔を背けた。その横で斗貴子だけが厳しく釘を刺した。
「彼の言う通りだ。じゃれるのはいいがやりすぎは良くない。少しは自重しろ」
「だって、だって秋水クン最近私に構ってくれないんだもん」
 寂しそうな拗ねているような表情が美貌を塗り固めた。
「だもんとかいうな。腹黒女の癖に」
 まったく中身のない会話ばかりが続いていく。このまま放置しても仕方ないと思った剛太は、ふと話題を変えた。
「ところで先輩。どうしてみんなして寄宿舎に向かってるんですか?」

 粛然たる面持ちで、斗貴子は呟いた。

「いま、大戦士長の誘拐事件がどうなっているか聞きたいというのもあるが……どうもあの劇の発表、戦士長が一枚噛んで
いるような気がする」
「防人戦士長がですか?」
「ああ。パピヨンの奴、対戦相手を用意するため伝手がどうこうと言っていたが、あんなフザけた格好の元ヒキコモリに伝手があって
たまるか! あんな奴と関係を持つ物好き、カズキ以外じゃ戦士長ぐらいなものだ!!」
「あらあらひどい言い草」
「だから今から問いただす! 演劇と戦士長の関係をな! いろいろ我慢してきたが私もそろそろ限界だ!」

「だから」

「戻るぞ! 寄宿舎へ!!!」






──とある道で──

「ぬ……ぐぐぐううううううううう!!!」
「ごめんなさい……です……」
「や、やかましい! 痛くなんかないわ! 痛くなんか!!」
「なにあったのさご主人?」
『はは! ”大事な時にフラフラするな!”と殴ったら特異体質で防御された! そして殴った方の手がぐしゃぐしゃになった!』
「うわぁ。あんたさ。あんたさ。さっきこのコに、あたしとご主人と3人がかりでボロ負けしたの忘れた訳?」
「さっきではない! 1年ぐらい前だ! あと我は、最終的には引き分けた!!」
「ハゲタカかはたまたクマタカか!! 咄嗟のコトゆえよくは分かりませぬがとにかくゴツンと殴られる瞬間、特異体質にて
頭をとても堅くされたご様子! ぬおお!? 実況どころではありませぬ! 大変です! 殴ってぐしゃぐしゃになってしまった
右拳、果して大丈夫なのでしょうか? 大丈夫でありましょうか! 痛いの痛いの飛んで行けです!!!」
「母上ーっ! わーっ!!」
「ごめんなさい……ごめんさない……です」
「フ。殴られた方が謝りまくっているのはなかなか面白い」
「ふ、普通に殴られれば……よかった……です。ケガさせて……ごめんなさい……です
「や! やかましい! 古人に云う、積悪の家には必ず余殃(よおう)有り。アホに脊椎反射で殴りかかった我の方が悪いのだ!」
「フ。積悪うんぬんの使い方、微妙に違うぞ」
「なんかさ。アイツ。えらそーな感じなのにすっごく謝っとらん?」
『はは! 不器用な奴!! 女のコ殴った自分が悪いと素直にいえないようだ!!』
「不肖がふーふーいたしましょう。え? いい? むー。昔はけっこうやってましたしけっこう喜んでくれたものですが、これは
やはり思春期ゆえの照れ臭さなのでしょーか」
(ふーふー……したい……です)
「と! とにかくやっと全員が揃われましたね!」

「ですから」

「行きましょう! 寄宿舎へ!!



──寄宿舎・管理人室──

「ああ。俺が手をまわした。戦士・斗貴子の入部も発表場所の選定も、対戦相手の募集も全てやっておいた!」
 実にあっけらかんと答える防人は、まったく会心の笑みだ。
「フフフ、フザけている場合ですか戦士長! そもそも大戦士長が誘拐されているんですよ! いつまでも呑気な気分で日
常生活に浸ってていいんですか」
 ばんとちゃぶ台を叩く斗貴子だが、防人はまったく涼しい顔だ。卓上で揺らめく湯呑みを手に取り、緑黄色の液体をゆっくりと
流し込み始めた。成り行きを見守っていた秋水たちも釣られる形で湯呑みを取り、或いはせんべいなどを齧る。つかの間の
休息時間。ゆるやかな空気が、管理人室に立ち込めた。


「誘拐されているからこそだ。戦士・斗貴子」
 1分ほど経っただろうか。湯呑みを置くと防人はぽつりと呟いた。
「?」
 防人らしからぬしんみりとした口調だ。斗貴子は首を傾げた。
「何か、進展があったんですか?」
「結論からいおう。キミたちが日常を楽しめる時間は残り少ない」
 秋水達が思い思いの驚愕を浮かべたのは、次の言葉の持つ意味を理解したからであろう。


「3日後の劇発表が終わり次第、キミたちには大戦士長の救出作戦に従事してもらう」


 斗貴子は息を呑むと、ゆっくりと反問した。
「居場所が分かったんですか? 大戦士長の」
「ああ。戦士・犬飼たちの追跡の結果、大まかな位置までは絞り込まれた。後は戦団全体の体勢が整い次第、作戦を実行する」
「その期間が、3日間……という訳ですね」
 品良く頷く桜花の横で、剛太はかるく頭を掻いた。
(戦団全体の? あれ? でもいまの戦団ってヴィクター討伐の余波で……確か)
「ブラボー。気付いたようだな。戦士・剛太」
「あ……。は。はい。確かほとんどの戦士はヴィクターとの戦いで疲弊しきってる筈ですよね。なのにあと3日ぽっちで大戦士
長助けられるぐらい回復するんですか?」
「それはすでに解消された。ようやくだが総ての重軽傷者が戦えるまでに回復。今は火渡の元、組織を再編成している」
 秋水の表情が曇った。
(全員が? 自然回復にしては早すぎる。もしかすると──…)
 脳裡にさまざまな人物の姿が浮かぶ。かつて激しく戦ったその人物たちのうち何人かは「回復」に適した能力を持っていた。

「ひいては3日後。現在動ける総ての戦力が戦士・犬飼たちと合流する。もちろん俺たちも彼らとともに大戦士長の救出作
戦へ従事する」
「だったら、演劇をするヒマはない筈です戦士長。パピヨンのコトも気になりますが、私達だけでも早く戦団に合流して、足並み
を整えた方が──…」
 立ち上がらんとするセーラー服姿の部下を、防人は「いやいや」と手で制止した。
「実はだ戦士・斗貴子。救出作戦開始までの3日間、俺たちは別の任務も託されている。
「別の任務? こんな時にですか?」
「あー。何というか、こんな時だからこそ、だ。救出作戦が現実のものになったせいで新たに生まれた任務というべきか」
 防人の歯切れはやや悪い。
「どこから説明すればいいのか。その、だな。火渡の奴はあまり快く思っていないらしい。戦士たちのケガを治したのはいい
が、救出作戦直前に日本支部で造反されても下らないとか何とかで」
「話が見えないのですが……」
 訝しげな斗貴子の横で、桜花だけがただ、くすりと笑った。
(私は見えてきたわ。つまり、そういうコトね)
 寄宿舎管理人室は2つの部屋から出来ている。いま桜花達がいる居間(台所付き)と、寝室に。
 いまは襖で覆われた寝室を、桜花は意味ありげに見つめた。
(…………)
(…………)
 秋水と剛太もまた黙りこんだ。もし斗貴子が防人との会話にのみ神経をとがらせていなければ、彼女も隣の部屋を見た
だろう。

 寝室の方から、かすかな気配が漂う。
 息遣いと微かな囁きが、漏れてくる。

「すまない。順を追って話そう。実は大戦士長救出にあたり、ある外部組織の協力を仰ぐ事になった。ヴィクター討伐で疲弊
していた戦士たちがある程度戦えるまでに回復したのも」
「その、外部組織の協力で?」
「ああ。だがその外部組織の素性にちょっとした問題があってな。困ったコトに火渡は日本支部に置きたがらない。そこで
一旦俺たちに預けた。要は、救出作戦まで監視しろというコトだ」
 ここまで話を聞いた斗貴子は、他の戦士たちの尋常ならざる雰囲気にようやく気付いた。

「……もしかすると戦士長? その、外部組織というのは──…」

 協力者。
 疲弊した戦士の回復役。
 火渡が快く思わない。
 造反の可能性。
 ちょっとした問題のある素性。

 様々な言葉が斗貴子の脳裏で組み上がっていく。
 ただしそれが導く予想図は、戦団の常識を、これまで従事してきた任務の不文律を根底から覆す代物だった。

「ま、対面した方が早いだろ」


 防人はゆっくりと襖に歩み寄り。
 
 そして。

 開けた。
                                                                        












「お、お前たちは─────────────!!」
















 誰が発したのか。驚愕に満ち満ちた絶叫の中、寝室の5体の影は思い思いに喋り出した。

「フ。聞いての通りだ」
 流れるような金髪の下で、綽綽たる笑みが漏れた。

「いやはや、以前より不肖、僭越ながら祈っておりましたが叶ってみれば正に妙味不可思議奇縁の再会劇!」
 タキシードをまとった小柄な体が、ぴょこぴょことおさげを跳ねあげる。

「古人に云う。昨日の敵は今日の友……。フン。早坂秋水など認めたくもないがな」
 不機嫌そうに腕組み中の忍者少年の周りには、龕灯がいくつか浮遊している。

「お久しぶり……です」
 バンダナをつけた虚ろな目の少女がはにかみ混じりに小さく手を振り、

『はっはっは!! まあそういう事なんだ! 宜しく頼む!!』
 どこか後ろ向きに突き刺さる大声を物ともせず

「お! 垂れ目いるじゃん垂れ目! さっきはくすりありがとじゃん!」
 豊麗な佇まいのシャギー少女が人懐っこい笑みでまくし立てる。





 総角主税。
 小札零。
 鳩尾無銘。
 鐶光。
 栴檀貴信。
 栴檀香美。

 ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズ!

 かつて戦士と激闘を繰り広げた異形の戦士たちが、そこに居た!!




「戦団に勾留された筈の音楽隊がどうして!? 解き放っていいんですか!?」
 居並ぶかつての敵達に、斗貴子は叫んだ。無理もない。倒すのにどれほど苦労したか。
「まあまあ。彼らは俺たちに協力すると約束してくれた。自ら望んでホムンクルスになったという訳でもないし、人間を喰い殺
したコトは一度もないという。なら大丈夫だろう」
「……彼らの話を信じるんですか? ホムンクルスのいうコトを」
「勾留中にたっぷり話したからな。目も濁っていない。信じていいと思う
 気楽な調子の防人だ。よくもまあと斗貴子は反論したくなったが押し留まる。よく考えてみれば彼女自身もこういう不可解な
温情を戦団から賜り、結果助けられた覚えがある。武藤カズキをめぐる逃避行。ヴィクターIIIという人外へ変質し、再殺を
余儀なくされた彼に斗貴子は肩入れし……結果、戦士1人を内部から『ブチ撒けた』。戦士に危害を加えたという一事だけ
見ればホムンクルスと遜色はない。本来ならば反逆者としてカズキもろとも殺されても不思議ではなかったが、紆余
曲折を経てどうにか許され、今も戦士を続けている。
(反逆を不問にされた私が音楽隊の解放に異を唱えるのは……)
 どこか身勝手なきらいもある。仮に「彼らは人間を喰いかねない」と拘留継続を求めたところで「お前は私情で仲間を殺し
かねない」と皮肉を言われるだろう。私情での叛意を不問にされてなお私情を押し通そうとする是非はどうか。
(そもそも私の反逆を許してくれたのは大戦士長だ。あの人を助けるために戦団が敷いた共同戦線に反対できる道理はない)
 思う所はいろいろあるが、斗貴子はひとまず黙った。
「気休めかも知れないが、念のため鳩尾無銘以外のメンバーからは核鉄を没収してある」
 そういえば、と秋水は気付いた。総角の首にかかっている認識票は……武装錬金ではない。
 どこにでも売っていそうな既製品だ。小札が持っているのもただのマイクであり、ロッドの武装錬金マシンガンシャッフル
の姿を確認するコトはできなかった。鐶の手にも貴信の手にも、短剣や鎖分銅は見当たらない。
「にも関わらず無銘の武装錬金だけ残してあるのは……」
「そう。監視用だな」
「どういうコトだよブラ坊。あのランタンみたいな奴がどう監視用になるんだよ?」
 手を上げ質問する御前に答えたのは意外にも秋水だった。
「彼の武装錬金は映像投影が可能だ。特性は性質付与。直接的な攻撃力はない」
「あー。だから取り上げられてないんだ」
「そうだな。6つある龕灯(がんどう)の内、1つだけは戦団本部に残してある。実はいま彼らが見ている映像も、龕灯を介して
火渡たちへと送られていてな。まあ、絶対ないとは思うが、もし彼らが監視役に危害を加えれば即座に戦士達が差し向けられる」
「……ん? 監視役? どこにいるんですか?」
 斗貴子はゆっくりと振り返る。そこにいるのは音楽隊だけだ。一瞬斗貴子は監視役が根来ではないかと思った。彼が例の忍者刀
の特性で亜空間に居て、監視を務めているのではないか……と。
 だがすぐ違うと知らされる。

「強力かどうかは分かりませんが」
 総角たちの後ろからひょいと出てくる影一つ。隠れていたというより、身長のせいで見えなかったらしい。
「火渡様からは許可が出ています……」
 小柄──小札とほぼ同じ──というコトを除けばその身体に際立った異常はない。ただ、首から上があまりに常軌
を逸している。斗貴子が呆気にとられるのもむべなるかな。なぜならその人物が被っている物というのが……

 ガスマスク

 だったからだ。

「確かキミは……毒島。根来や千歳さんと同じ再殺部隊の戦士だったな」
 旧知、というほどでもないが会ったコトがある。御前や剛太も頷いた
「確かブラ坊が火渡のせいで死にかけた時だよな」
「あー。そういやいたな。救急箱持ってうろついたり、火渡戦士長に灰皿投げられたり」
「でも正直、キミは強いのか? 見たところ奇兵らしくかなり異常だが、とても強そうには見えないぞ……」
「私の武装錬金、エアリアル=オペレーターの特性は気体操作です。いざとなれば音楽隊のみなさんを制止するコトぐらいは
できます。頑張ります!」
 敬語だが千歳と違って事務的という感じはない。声こそ低くくぐもっているが何やら懸命に喋っているという気配が滲んでいる。
 そもそもこの毒島という戦士の年齢はおろか素顔さえ知らない斗貴子である。一瞬、「まさか子供?」とも疑問を浮かべたが
いまはそれどころでもない。いろいろ初耳な事柄が多すぎる。
「気体操作……?」
「平たくいうとだな。戦士・斗貴子。あの武装錬金は毒ガスを作れる」
「はい。一般人に被害がなければサリンでもVXガスでも使っていいとの許可が出ています」
「強力なのは分かったが、それでも穴が多すぎないか? 鐶なら毒ガスが撒かれるより早く動けるだろうし、全員が一斉に
かかれば武装錬金の破壊も可能。だいたいここまでどうやってきた? 鉄道を乗り継いで、旅館に泊まったりした……?
やっぱり……。よくキミは寝込みを襲われなかったな」
 溜息混じりに思う。戦団はいちいちツメが甘いと。武装錬金が強力とはいえ毒島1人に6人ものホムンクルスを引率させる
のは危険すぎる。
 ヴィクター討伐の余波や救出作戦の準備で戦団が人手不足なのは分かっている。
 それでもやはり不満や割り切れなさが消えない斗貴子だ。
「フ。もっとこう、ないのか? 『敢えて信頼を寄せたがゆえに俺たちも心から戦士を尊び、得難い協力関係が結ばれる』とか
なんとか、前向きな考えは。かつての敵との共闘だぞ共闘。小難しく考える前に喜んでみてはどうだ?」
「疑われている組織の長がいっても説得力はないぞ。総角」
 秋水の突っ込みに金髪の美丈夫は両手を上げた。やれやれと言いたげだ。
「とはいえ殺す殺すの一辺倒で万事解決といくものかな? フ。ヴィクターにしたって戦団が追い回し、あのお嬢さんをホムン
クルスにしなければ、案外大人しく従っていたかもだぞ。北風と太陽の例えよろしくな」
 相変わらず、腹立たしいまでの余裕だ。斗貴子のこめかみに青筋が浮かぶのも無理はない。
「一理はあるが貴様が言うな」
「フ。これは失言。とはいえ俺たちが戦団に協力したいのは事実だ。利用はしない。助けられる戦士がいるのなら、一人でも
多く助けさせて頂きたい。それは俺も小札も無銘も鐶も香美も貴信も、心から、願っている」
 芝居がかった調子で恭しく一礼をする総角の横で小さな影がぴょこりと跳ねた。
「意外やも知れませぬがそうなのであります! 特に無銘くんにおきましては一年ほど前、ご自身と鐶副長どのをば狩らんと
した戦士の方に噛みついたり、地割れに引きずり落としておりまして! いや、幸いにといいましょうか奇跡といいましょうか、
戦士どのは無事でございましたが、手を出してしまったコト、無銘くんはかなり気に病んでおりまする!!」
「……信じられると思うのか? 私達をさんざんひっかき回しておいて」
「信じて貰えなくても、だな。本意は行動で示す。だいたい嫌だろ? 使命感に従い、一生懸命動いているだけの戦士が理不尽
に命を奪われるのは。少なくても俺はまっぴらさ。『また』見殺しにするのかと、とても嫌さ」
「それは、そうだが……」
 言いよどむ斗貴子を見つつ、秋水は疑問符を掲げた。
(『また』?)
 なぜか戦士に好意的なのも謎だが、いやに実感のこもった『また』が引っかかる。総角は誰かを見殺しにしたコトがある
のだろうか?

「まあなんだ。突っ立っているのも辛いだろ。キミたちも座って一服しなさい)

 と、ここで防人は寝室に佇む音楽隊一同に手招きをした。


「一服! となりますればお茶汲みは必定! 防人戦士長どの防人戦士長どの! 不肖をお使い下さればまさにまったく
本望の極み、ゆらめく玉露の碧い波、まさに協力体勢証する濫觴(らんしょう)の一杯! いえいえ遠慮は御無用、いずれ
流れいずる協力の大河はいまこの時の觴(さかずき)、とゆーか湯のみの一杯一杯から生まれるのでありますっっ!!
ゆえにや不肖、心を込めて90度ぐらいのお湯をばズバババーっと注ぎ、お茶っ葉をさらさらーとやるのです!!」
「ブラボーだ! 君はもてなしの心をよく知っているようだな」
「よくぞ聞いて頂きました! 実は不肖、10年前までは巫女さんとして実に様々な方々をおもてなししておりました! 馬肥
ゆる稔歳の時わっしょいわっしょいお神輿来訪大宴会の時などは、肩に手ぬぐい巻きし農家の方々めがけとぷとぷと!
ああっ! とぷとぷと! お茶をついで回っていたのであります! ですので腕に覚えあり! 心配は御無用なのであります!」
「うむ! 注ぎ方も味も温度もまったく申し分ないお茶だ。ブラボー! おお、ブラボー!!!」

(さっそく意気投合してる……)

 愕然たる面持ちで斗貴子はお茶くみを見た。

(……? おかしい。いま私は小札に何か質問したかったような。だがそれが……分からない? どうしてだ?)

 朝方から続く違和感に、首を傾げつつ。


 やがて、卓袱台の上に沢山の湯呑みが置かれた。常備しているものだけでは足りず、ティーカップやグラスまで引っ張
り出す大騒ぎだ。その構成成分の8割が小札で、目下彼女は大わらわ。せっせかせっせかガス台と卓袱台をで往復している。

「とゆーかさ、とゆーかさ、とゆーかさ! きゅーびはぶすじまに一回やられたじゃん! どれほどのもんだ! ってとびかかっ
たら、ヘンな臭いのがぶしゅーって出てさ、で! あたしら巻き添えで仮ぎゃーしたじゃん!」
「おい! 我はいうなと釘をさしたぞ!!」
『挑戦したがるのも無理はない! 何しろ無銘の武装錬金は火渡戦士長たちと交戦したコトがある! その時の決め手が
毒島氏の武装錬金だったから、復讐心みたいなのが湧きあがったのだろうっ!!』

(011話(2)より)

──先ほどの編笠の矢はもうないらしく、黒装束の男は防戦一方だ。
──戦部は突き、薙ぎ、石突でゆるゆると牽制しつつ時には連続で突きを繰り出していく。
──その野性味あふるる槍技に流石の黒装束の男も押され始め──…
──やがて彼は、足をよろけさせた。
──しかしそれは疲労と見るにはあまりに性急。かすかに覗く目元も病的に色が失せている。

「おかしいとは思っていました。あの時、一酸化炭素中毒にした筈の無銘さんがすぐ動けた理由。それは薬のせいじゃなく
自動人形の無銘さんだったからですね」
『そうだ!! 元々毒ガスは効かない!! けれど自動人形だとバレれば本体を探されややこしいコトになる!! だから
無銘は一芝居を打ち、あの兵馬俑が自動人形であるコトを隠した!! けれどそれが面倒だったらしく、ちょっと毒島氏を
恨んでいるようだ!!』
「そ、そ! よーわからんけど、そ!!」
 毒島と騒がしい掛け合いをするシャギー少女──栴檀香美──はうんうんうんと素早く頷き、最後に剛太へブイサインを
繰り出した。
「でもなんとか仮ぎゃーからなおったじゃん! あたしらスゴいでしょ垂れ目! ご主人は特に強い訳よ!」
 得意気に胸を逸らすや豊かなふくらみがぷるんと揺れた。もっとも斗貴子(B78)一筋の剛太が惑わされる道理もなく。
「相変わらずうるせーホムンクルスだなオイ」
 ただただ、嘆息するコトしきりである。野性味あふれる引きしまった肢体をタンクトップとハーフサイズのジーンズで申し訳
程度に覆ったネコ型ホムンクルスはそれなりに端正な顔立ちをしているものの、絡めばやはり、かなりうるさい。快活すぎる
性格もあるが、その喧しさに一層の拍車をかけているのが、彼女の後頭部より時おりぶっ放される甲高い少年の声だ。

「そうだ。挨拶が遅れた。久しぶりだな。貴信」
『こちらこそだ!! はは!』
 どこか気弱な大声の持ち主を秋水はあまり嫌いではない。むしろカズキに通じるようで、敬意を抱いている。

 秋水は知っている。
 香美が首を180度回せばレモン型の瞳した異相が現れるのだ。
 さすれば体つきも少年の物となり、凄まじい膂力の籠った鎖分銅を嵐のように暴れさす。

(栴檀貴信。ネコ時代の栴檀香美の飼い主)
 秋水は腕組みをしながら回想する。思い起こされるのはかつて彼らと争った時のコト。

──『んーにゅ。あたしらさー、もともとご主人とネコで別々だったワケよ』

──「だがちょっとした事情で一つの体を共有するコトになったんだ!!」

──『そそ。さっきさぁ、なんかこわいれんちゅーにアレコレされてこんなんじゃん! おかげであた
──しネコなのに暗いトコとか狭いトコとか高いトコとか苦手っつーかこわいじゃん』

──「でだ、香美が僕などと同じ体なのは申し訳ない! いつかちゃんと飼い主として責任を持っ
──て、僕とは違う肉体を与えてやりたい! そしてちゃんとしたお婿さんと引き合わせてやりたい!
──ただ、それだけだ!」

(体を共有する飼い主と飼い猫。調整体にも似ているが、各々の人格が完全な形で残っているところは違う)
 なぜ、こうなったのかまでは分からない。ただ確実なのは目下その2人が剛太を大いに苛んでいるというコトである。
 秋水は、姉の未来の戦友候補をただただ同情的な目で眺めた。
「つかさ! さっきひかりふくちょーさ、久しぶりとかいったけどさ! さっきあってたじゃんさ。久しぶりってどーい
う感じじゃん。いまいちサッパわからん! 説明するじゃんせつめー!!」
「うるせえ! いきなりすり寄ってきてベタベタすんじゃねェ!!」
 見れば香美はすでに剛太へ歩み寄り、ぐなぐなという感じで全身を絡みつかせている。剛太は先ほどから着座しているから
香美もつられる形で横ずわりだ。うぐいす色のメッシュが入った派手なシャギーが剛太の肩などをつんつんつんつん叩いてい
る。彼のどこが気に入ったのか。いやに気安い調子でしだれかかったり首に手を回したり、顔を急接近させたりと、香美は
まったく忙しい。ついには質問さえ放棄し、けらけら笑いながら剛太にじゃれ始めた。
「もーなに聞いてたかもわからんくなってきた! めんどい! まずは遊ぶじゃん!! 遊ぶ!」
「やかましい、離せ。くそ! ホムンクルスだから力だけはありやがる!!
 ホムンクルスになる前はよほど人懐っこいネコだったのだろう。剛太の鼻先で形のよい鼻梁をスンスンさせるのも秋水は
見た。ネコとしての挨拶、とは瞬時に分かったが、居並ぶ戦士や音楽隊の面々はどうも別な解釈をねじつけたくて仕方無い
らしい。ブラボーと親指を立てた防人に呼応するように総角が口笛を吹き、小札や鐶は「大胆」と頬を赤らめる。「見た目に
騙されるな」と釘を刺すのは斗貴子で、剛太はただただ慌てふためき自己に非がないと弁明するばかりである。
 秋水は、見なかったコトにした。
 香美のスンスンの瞬間、笑顔の温度を絶対零度めがけ急降下させた桜花を。
『い、いや!! 香美は悪気はないんだ!! ただネコらしくスキンシップしたがっているだけで!!』
「あら。誰も怒ってないわよ貴信クン。ええ。分かっているわよ。ええ」
 果てしない笑顔の桜花が、秋水はとても怖い。
「フン。姉ごときに怯えるような男が我はおろか師父を下したなど……到底信じられん」
「無銘……」
 かつて秋水と激闘を繰り広げた忍者少年は──…
 怨敵の首筋に、ギラリと光る刃を押し当てていた。
(いきなり何やってんだお前!!)
 御前は目を剥いた。剛太も、唖然とした。
 再会直後の挨拶としてはいささか物騒すぎる。清潔感のある後ろ髪がすうっと撫で斬られ、はらはらと畳に落ちるのも桜
花は見た。つまり刃は真剣である。いま膝立ちの持ち主がそのつもりになったが最後、秋水の頸動脈は血の噴水をあげる
だろう。ちなみに小札はお茶汲み中のため以上の事態に気付かなかった。
(まだ恨んでいるようね。自分だけでなく小札さんまで倒しちゃった秋水クンのコト)
 少年ほど誇りや矜持にこだわり、それを傷つける者を激しく恨む。少年忍者の体から立ち上る青い陽炎に桜花はつくづく実感
した。
 が、秋水はさほど気にした様子もなく、涼しい顔で答えた。
「そうか。確か君は以前、シークレットトレイルを気に入っていたな。というコトはそれは忍者刀。小札が買ってくれたのか?」
「おうとも! お小遣いを2年分ぐらい前借りしたのだ!! なかなかの業物で、その上龕灯(がんどう)の性質付与にて錬金
術の産物とすればホムンクルスにさえ通じ──違う! なぜ貴様、たじろがん! 首筋に本物の刀が当たっているんだぞ!?」
 一瞬はうはうと三白眼を輝かせた無銘はすぐさま不機嫌そうな顔をした。
「君に殺気がないからだ。だったら動かない方が安全だろう」
「ぐ!!」
(フ。やはり見抜いたか。ただの嫌がらせだと)
 ニヤリと笑う総角を察知したのか、秋水は軽く微笑した。
「そもそも殺すつもりならこの体勢自体成立していない。君が本気で間合いに入っていたら、俺の首は今頃血だまりの中だ」
 淡々とした分析だ。春風のごとき微笑で紡ぐ秋水は、無銘に負けず劣らずの異様さを帯びていた。いや、そこは犬型に怒
れよと剛太は呆れ、貴信は大笑いし、桜花は秋水らしからぬ円やかさにフクザツな笑みを浮かべた。成長が嬉しい反面、自
分の預かり知らぬ所でまた一歩大人に近づいた弟に寂しさを感じているらしい。
「もっとも、俺の首が転がりそうなら総角が止めに入っただろうし、俺もそれなりの防御はしたと思う」
 勝利の笑み、というより限りない親しさを込めて秋水は笑いかける。厳密にいえば背中合わせの少年がそれを見るコトは
できないが、全体的な雰囲気で伝わっているらしい。無銘はますます渋い顔だ。

「何しろ」

「劇で勝たずにやられたら、棺の中でセーラー服を着せられるかも知れない。それは困る」

 一座の目が点になった。いち早く通常運転に戻った剛太などは隣の御前にこう呼び掛けた。
「い、いまあいつ冗談言わなかったか?」
「スッゲー余裕だなオイ。総角に勝ったから成長したのか?」
「フ。無銘よ。刀を致命の至近に置いてなお恐懼の一片さえ引き出せぬというなら、それはもう証左に他ならん。お前自身
の格が根底から敗北しているという、な」
「師父……」
「可愛いちょっかいだと笑える内に退け。負けを認めるのもまた勇気。恥じゃないさ」
 総角の言葉でようやく刃を引くかどうか逡巡し始めた無銘。彼を完全に撤退させたのは。
「あ……もしかして無銘くん、例の六対一でのコト、まだ悔やまれているのでしょうか……」
 ガス台前から戻ってきた小札の言葉である。
「その……。申し訳ありませぬ。もし不肖が勝てておりますれば、無銘くんも秋水どのにしこりをば残さずに済んだ筈……」
 湯呑みやグラスが混在するお盆を手に喋る小札は、瞳をひどくくしゃくしゃにしている。

「ち、ちが……! あの時悪かったのはこやつを喰い止められなかった我の方で、母上は何ら!」

 秋水が息を呑んだのは、無銘とは無関係の事情による。

 一瞬、小札に対する何らかの質問が脳内で浮かび、それが強制的にかき消された。
 それだけ、である。

 ややあって。無銘と小札の鬱陶しくさえあるかばい合いが終わり。

 ひとまず小札は秋水にぺこりと頭を下げた。
「申し訳ありませぬ。根はいい子なのであります無銘くん。ただ、やるせなき感情と後悔に苦しむあまり、刃首筋に向けでも
せねば折り合いがつけられぬだけでして……」
「俺の事なら大丈夫だ。彼の気持ちはよく分かる。そもそも逆胴で君を傷つけたのは事実……これで無銘の気が晴れるなら
それでいいと思う」
(うぜえええええええええ!! この男、うぜえええええええええええええええ!!!)
 あくまでも爽やかな秋水に対し、無銘は顔面のあらゆる箇所を痙攣させた。
 眉が太く、眼光と犬歯の鋭い少年だ。歳は10というが全体に漂う気難しさは長年どれだけ苦渋を味わってきたかいやという
ほど物語っている。その少年はとうとう、逆上半分むずかり半分で様々な文句を叫び出した。
 曰く、一度勝ったぐらいで調子に乗るな。曰く、師父がダブル武装錬金を使っていれば勝っていた。などなど。
 秋水は一瞬額に人差し指を当てた。「そういえばこんな少年だった」。軽い頭痛──昔の自分を見ているような気恥しさコミ
の──を覚えながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だが君は音楽隊の中である意味もっとも信じられる相手だ。解除しようと思えばいつでも解除できる龕灯をここまでの道
中ずっと発動し続けていたのは、君たちの戦団への服従を立証するためだろう。だから本気で俺に斬りかかるようなコトは
絶対にない。何故なら、そうすれば総角や小札に矛先が向かうからだ。それを防げるのなら、君はどこまでも私情を殺す
だろう。違うか?」
「ぐ……っ!!」
「毒島に喧嘩を売ったのも、逆らえばどうなるか、仲間たちに身を以て説明するため。毒ガスといえど、忍びの君なら総角たち
より耐性はある。そう思ったからこそ、わざと汚れ役を引き受けた……。違うか?」
「何が汚れ役をだ! 結局他の師父達を巻き込んでしまったわ! それを承知で指摘したのか貴様!」
「い、いや。君の行動の理由と結果のすり合わせが十分でなかっただけだ。嫌味ではない。本当だ」
「ウソだ!! 嘲弄したな貴様!! おのれ早坂秋水、おのれえええええええええ!!!」
 凄まじい形相で(まなじりに米粒のような涙をたたえつつ)歯がみする無銘を「まあまあ」と両手で制しながら秋水は思う。
やはりやり辛い少年だと。もっとも、相手が生真面目な分だけ、まひろやパピヨンなどの「突きぬけちゃってる」人物たち
より与し易くもあるが。

(くうう!! なんだこやつ! なんだこやつ! こういうのが大人だというのか!? くそう!)

 秋水の内心しらぬ無銘は羨望半分怒り半分でまたまた歯がみした。

 鳩尾無銘。
 かつてはチワワの姿にしかなれなかった犬型ホムンクルスである。
(その原因は確か)


──「ほっほう。七週目だからかのう。まだまだ人間の形には程遠い。チト早まったかの」
──「かじりかけの桃切れを缶詰に戻してお魚の目玉つけたよう。色々な汁気たっぷりでウットリ」
──「まあよい。母体が事切れたゆえ急ぐとしよう。幼体はあるかの? 子犬のホムンクルスの」

──「どれ、この赤子に埋め込んでやるかの。ホムンクルスはホムンクルスを喰えんというが」


──「犬に仕立てた出来そこないの赤子。果たして味や如何? 腹を壊すのもまた一興……」
(まだ母胎にいる頃、何者かによって幼体を埋め込まれたせい。今は人間形態にもなれるが)

「…………?」

 本日何度目かの違和感が過る。秋水は気付く。自分がいま、”何か”に気付きかけたのを。
 無銘との戦いの時には聞き流せた言葉。なのに無意識が警鐘を鳴らしている。気付け、気付けと、
 かつて聞いた、不明瞭なノイズ混じりの音声。声の主が男性か女性か、子供か老人かさえ分からないのに……。

 うち片方の口調に、秋水は強烈な聞き覚えがあった。
 最近。本当に最近、同じ口調の人間と出会った記憶がある。

 少しずつだが、日常と乖離した何事かが忍び寄っている気がする。

 にもかかわらず、考えようとするたび脳髄が軋む。周りの人間、特に無銘へ伝えようとするたび脳の中で情報が逆流し
て有耶無耶にされている。何かに禁じられているような……演技の神様絡みの事を思い出そうとする時の、嫌な違和感
ばかりが脳を占める。

「無銘くんは……優しい……です」
 桜花にしっかと抱きとめられた少女が、ぽつりと呟いた。
(……こっちはこっちで物騒なもんいなしてるな)
 剛太は呆れた。垂れ目が地の底めがけずり下がっていく心持ちは、いつかのメイド喫茶入店時以来だ。
 桜花は座ったまま、小柄な人物を膝に乗せている。年の離れた妹か、はたまた小さな娘を抱っこしているような体勢だ。
 ただ剛太的には”核爆弾をそうしている”というのが率直な感想だ。
 なにしろ、桜花が親しげに呼びかけているのは──…

(あらゆる鳥と人間の姿に化けられる『特異体質』の持ち主)

(ただし強さと引き換えに、常人の5倍の速度で老化する少女)

 そのせいだろうか。たった1週間前後の別れにも関わらず、以前より大人びて見えるのは。

 ずきりと痛む脇腹をさすりつつ、秋水はその少女の名を心で呼ぶ。限りない、畏怖を込めて。

(鐶光。俺を倒したホムンクルス……)

 防人と斗貴子と剛太、桜花。更にいまはこの場にいない楯山千歳と根来忍を加えた6人の戦士を一斉に相手取り、最後
の最後、負けるその瞬間まで優勢を保っていた音楽隊副長である。怯えるなという方が無理であろう。
 にもかかわらずいまは桜花のされるがままだ。まったく不思議な少女と言わざるを得ない。
「きっと無銘クン、小札さんだけじゃなく光ちゃんにも毒ガスを浴びせたくなかったんでしょ。ねー」
「ねー……です」
「ちちちちち違うわ!! 前述がごとく結局貴様も母上も巻き込んだ訳で……その、ズグロモリモズの毒になると怒りもしな
かった貴様には感謝したいというか……あ、違う、違うぞ……避けなかった方が悪いのだ。毒の再利用など当然……」
 顔をぱっと赤黒くし両手をあたふたさせる無銘を、虚ろな目の少女はぼうっと眺めた。顔は紅潮し、今にもとろけそうである。
「ビ、ビーフジャーキー……食べます?」
「お、おうとも」
 ひったくるようにしておやつをもぐもぐ食べる無銘を、鐶は嬉しそうに眺め
「あらあら。相変わらずお熱ね。光ちゃん」
 桜花の膝の上でしっとりと俯いた。詳しい表情は分からないが、とにかく赤いコトだけは確かだった。
「……………………………………………………はい」
 今にも消え入りそうな声である。室内でもバンダナをかぶり、ダウンジャケットとチュールのついたミニスカートという活発
な出で立ちとはいかにも乖離している。だが真赤な三つ編みの揺れ動くところどれほどの灰燼と圧倒をもたらすか。
 まさに魔神がごとき少女なのである。

「でも、光ちゃんがいるなら総角クンたちもうちょっと早く来れたんじゃないの?」
「そーそー。お前が鳥形態になってブレミュ全員載せてくりゃあ瀬戸内海からあっという間じゃね?」
「はい……。一度、試しました……。そしたら…………あっという間に…………北極に……つきました。シロクマさんと……
殴り合いをしました……」
「何とか青森県には戻れましたので、そこから電車など乗り継ぎつつここまで来た次第!」
 戦団支部のある瀬戸内海と逆方向じゃねーか。剛太の口から愕然たる呻きが漏れる。
(そういえば方向音痴だったな)
 伝聞だが、秋水は思い出した。しかし戦えばあれほど強いというのに方向音痴とは。やや呆れたように目を細める秋水の
先で、鐶はピンク色のドーナツをもそもそと食べ始めた。咀嚼するたび食べかすが卓袱台に散らばり、香美や無銘が窘める。
 戦っていないと非常にボケーっとした性格で、いちいちいちいち抜けているようだ。
 その弊害をおっかぶされた者が約一名いるようで。
「申し訳ありません防人戦士長。予定では昨日、合流する手筈でしたのに……」
 ガスマスクがゴーグル越しに腕を当て、うっうと泣く仕草をした。
「……あー。遅刻したのは彼女のせいか」
「はい……」
「いや、北極に行ってこの程度の遅刻ならいい方だ」
「いえ。北極から日本までは数時間で着きました。ただ、よりにもよって、この街に着いてから1日ほど」
「迷っていたのか?」
 呻き、汗を垂らす防人に粛然と向き直り、鐶は力強く呟いた。
「はい……リーダーたちが……私と……はぐれて……迷いました」
「はぐれたのは貴様の方だろうが!!!」
 ばしりという音が鐶の頭からした。凍った蘇芳染めの手ぬぐいが彼女を襲撃したのである。もちろんそれは忍び六具の1つ
が薄氷(うすらい)なる忍法で凍結したものだから、犯人は誰あろう鳩尾無銘である。秋水は一瞬でそこまで見抜いた。
「痛い……です」
 バンダナを抑えながら鐶はうっすら涙ぐんだ。例の如くバンダナにはニワトリの顔が浮かび、鐶と同じ表情をしている。
「黙れ! 師父たちが貴様とはぐれたのではない! 貴様が虚ろなる笑い立てつつすずめばちを追っかけて、勝手にはぐれ
たのだろうが!!」
(すずめばちって)
(何で追いかけんだよそんなもん。あ。ひょっとしてズグロモリモズの毒用か。……!! じゃあつまり、喰うのか!? すずめばち!)
 剛太と御前が呆れる中、桜花だけはその光景を想像した。

「うふふ……あはは……すずめばちさん……待ってくださーい…… うふふ。あはははは」

 きっと、点描をバックにスローモーションで女の子走りしていたのだろう。虚ろな、病人のような目で。
 そうしてやがて口から異様に長い舌をべろりと出して、鞭のように地面をビターンビターンと2〜3度叩いて加速をつけ、
すずめばちを両断! 空中で巻き込み、口めがけ引きこむのだ。そこまで考えた桜花は盛大に吹き出し周囲の注目を集めた。

「ち、違います……はぐれたのは……リーダーたち……です。私はただ……道が分からなくなっただけ、です……」
「ますます貴様のせいではないか!! この方向音痴が!」 
「私は……方向音痴じゃ……ありません…………」
「マトモな方向感覚の持ち主がどうして銀成へ行けと指示され北極につくのだ!!」
(まったくだ)
 戦士一同はうんうんと頷いた。
「シロクマさんを生で見れたのは嬉しかったけれども!! え!! 貴様のせいで師父が協力すべき戦士長さんが待たさ
れたのだぞ! ホムンクルスだからとて約束破りを良しとしてどうする! 我も貴様も根底は人間なのだ!! 道義を踏み
外してどうする!! シロクマさんに延髄蹴りを叩きこんでどうする!」
「…………そう、ですが。でも……方向音痴じゃ……ありません」
「うっさい! この方向音痴方向音痴方向音痴方向音痴方向音痴方向音痴! ばーかばーか!!」
「り、理解しようとしていたのに……。そんなコトいう無銘くんは……嫌い……です」
 ぷいと顔をそむける鐶に誰もが溜息をついた。
(意外に頑固な子だな)
 防人は目を見張る思いだ。ドーナツで餌付けできるほど単純かと思いきや、欠点については妙に意固地になるらしい。
「ひょっとしてただの負けず嫌いか? となれば戦いの時、ああまでしつこいのも納得できるが」
 斗貴子は腕組みしつつ呻いた。まったく鐶という少女を負けさせるコトの困難さが今さらながらに痛感できた。
(本っっっ当。あの戦いは泥沼だった。正直二度と戦いたくない)
 ねじくれた感情を半眼から彼方めがけ飛ばしつつ、斗貴子は小声でブーたれる。
 つくづく泥沼な戦いだった。攻撃を叩きこめば回復。起死回生の一手を打てばことごとく破られ、追い詰めれば切り札を
使い敗北直前でもなお粘る。外見こそ可憐だが、まったく厄介きわまる負けず嫌いだ。
 無銘も辟易したらしく、とうとうさじを投げるような調子で叫んだ。
「嫌いでけっこう! 貴様に好かれても嬉しくないわ!」
「え…………」
 今度は青く澄んだ瞳が悲しみに溢れた。鐶はおろおろと無銘を見つめ健気な様子で何度も何度も淡い桜色の唇を震わせた。
何か言おうとしているようだが、言葉にはならない。ショックのほどが伺えた。とうとう鐶はすがるような視線を桜花に向けた。
 抱きかかえられているから首を後ろにねじ向ける形になる。半分涙目の上目遣いですがる鐶。桜花の保護意欲は大いに
かきたてられた。きゃーと黄色い声さえ上げ、まひろがよくやるような表情で頬ずりした。
(つくづく姉属性だなあ桜花)
 一応人格を共有している御前が思うのは、理知ゆえの客観視か。
 やがて桜花はバンダナ越しに鐶を撫で撫でしつつ、優しげに囁いた。

「こういう時は……謝った方がいいと思うわよ?」
「ごめんなさい……です。私がはぐれたせいで……合流が……遅れました」

(((謝るの早っ!!)))

「あ、あと……私を叩いても……無銘くんが……ケガしなかったのは……良かった、です」
「……やかましい」

 嬉しそうな鐶に、無銘は舌打ちした。

(確か彼女は姉の手でホムンクルスになったという。……姉妹の間に、どういう確執があったんだ?)

 秋水がその疑問を描く時、常に確固たる恐怖が胸を占める。

「なぜ、作れたのか」と。


「兎にも角にも不肖たちは合流した訳なのでありますっっっ!! 古来激しく拳を交えた者同士が擦りむけた手に手を取って
協力し合うというのは正にまったく王道の、力強くも勇気に満ちたお約束といえるでしょう!!」
 タキシードにシルクハットといういでたちの、まさにマジシャン少女が拳を固めて熱弁した。
(小札さんは相変わらずね)
(相変わらずすぎるなオイ)
 桜花、御前の溜息がシンクロした。いや、もともと彼女たちは人格を共有しているのだから当たり前といえば当たり前なの
だが、わざわざ本体と武装錬金の両方で溜息をつきたくなるほど、知己は一本調子である。
 小札零という小学生女児のようなロバ型は、正にいつもの調子だった。市販品のマイクを手にやんややんやとまくし立て
続けている。小さな体のどこから出ているのか不思議なぐらいのエネルギーを唇から迸らせ、肩のあたりでおさげを景気
よく揺らしている。
「あ……」
 斗貴子が一瞬、何かを言いたそうに口を開き、すぐ噤んだ。
(やはり君も同じ状態、なのか?)
 寸分たがわぬ反応をしながら秋水は思う。聞かなければならないコトが小札にあった。確か、演技の神様との関係性だ。
なのにそれを口に登らせようとするたび強制的に口を閉ざされる。自分の意思などないがごとく、口だけが強引に。
 秋水はいよいよ分からなくなってきた。あの、演技の神様という青年は、何者だったのだろう。
 いったい何を、したのだろう。
 そもそも小札自体、不思議な少女だ。副長という肩書こそ鐶に譲っているが、その実総角や無銘とともに音楽隊創設に
携わった最古参である。いま無銘が10歳なのを考えると、10年前の音楽隊黎明期において総角を補佐してきたのは実質
彼女一人といえるだろう。
 なぜ、総角につき従っているのか。
 実況が得意なのにいでたちが全身タキシードのマジシャンルックというちぐはぐさも不思議だ。
(そういえば彼女の前歴は香美や貴信、無銘や鐶のそれほど聞かされていない。音楽隊に属する前は何をしていたんだ?)

 その辺りが、例の演技の神様の謎を解く糸口になるかも知れないが──…

 懊悩などまったく知らぬ様子で、剛太は小札を揶揄した。
「ところでコイツって戦闘の役に立つんですか? 弱そうだし貧相だし」
「ひ、貧相!?」
 ショックを受けた様子で小札は胸を覆った。誰も身体的特徴には言及していないのだが、平素からのコンプレックスが
そういう行動をとらせたらしい。やがて質問の真意を悟ったのか、彼女は空咳を一つ打ち、再起動。
「むむ! やはりこの点さすがに鋭き剛太どの! 思考の歯車はいま不肖への分析に向かって激しく回り始めたという
ところでありましょう! 確かに不肖、戦闘能力におきましては他の皆々様より数枚劣りまする!」
 まるで他人事のように小札は熱を吹き、卓袱台の上で短い腕を「バババッ!」とばたつかせた。仲間達を順に指差してい
る。斗貴子が気付いたのは以下の紹介が終わったころである。

「卓越した剣客かつ理論上総ての武装錬金コピー可能なもりもりさん!!

「敵対特性の兵馬俑あーんど性質付与の龕灯! それら併用可能で忍術たくさん無銘くん!」

「さらにさらにエネルギー抜き出し可能な鎖分銅とそれを存分に扱われるコト可能な貴信どの!」

「あらゆる物をお手に吸い込め吐き出せる香美どの! 野生ゆえの直観力や瞬発力は動物型の中でも実はかなりの高レベル!」

「それから言わずもがなの特異体質と年齢操作の短剣持ちの鐶副長!」

 まるで何かのトーナメントの出場選手を紹介するような口ぶりだ。ほんわかした柔らかい大声は聞くだけで癒されるようだと
秋水は思った。どんぐり眼をきらきらさせる小札の顔はまったく人外のホムンクルスらしからぬ物だった

「以上5名の方々に比べれば不肖! 数枚劣るのもいなめませぬ!」
「あら。そうかしら。例の絶縁破壊は強力だと思うわよ。何しろ神経の絶縁体を破壊して、身動きできなくしちゃんんだから」
 桜花の指摘に小札は目を点にし、汗をだらだら流し始めた。
「そ、それはご体験ゆえの感想でしょーか。裏には何やら絶縁破壊繰り出せし不肖への厳しいご指摘があるような」
「あら。気を使わせちゃった? 大丈夫、おあいこよ。私も小札さんの前歯折っちゃったし」
 そういって艶然と笑う桜花に縮こまる一方の小札である。ちなみにこの両名は同い年(18)である。モデル並の体型で
美女といって差し支えない桜花の傍に小札がいると、その寸胴した幼児体型はますます際立つようだった。
「あああ。ああああ。なぜに同じ年月重ねましたのにこうまで差があるのでしょーか……」
 頭を両手で大仰に抱えるロバ少女は桜花の悩ましい体つきをこれでもかととても必死に凝視した。
 胸、腹、腰。視線から発する破線の矢印マークが下へ下へと傾斜するたび、小札の顔はいよいよ悲壮を極めていく。
 最後には口をあんぐり開け、顔全体をひくひく震わせた。目はもうぐしゃぐしゃだ。クレヨンで書きなぐったがごとくひたすら
乱雑で真黒だ。そのまなじりには超特大のガラス玉のような涙さえ溜まっている。
 打ちのめされた。まさにそんな顔だ。だが総角などはそんな彼女を本当に愛しそうに笑って眺めている。
(これが絆というものなのだろうか……)
 秋水はそんなコトを考えてしまった。男女の機微はよく分からない。少なくても自分が当事者になれるとは思えない。
 実の父親は浮気をした。それが、秋水たちの運命を狂わせる引き金となった。
 父を恨んでいる訳ではない。ただ、押しつけられている。
 妻を得ながら浮気をする人物の息子。それが自分だという事実を。
 それでも小札を見て愛しそうに笑える総角は、羨ましかった。
(……考えるのはよそう。柄じゃない。俺はまだ、それ以外にもやるべき事が沢山ある)

 戦わなくてはならない。

 そう誓う秋水は、まだ気付けない。

 誓いの傍には月を見上げて泣く少女がいるコトを。

 それが太陽のような微笑に戻るよう、祈り続けているコトを。

 疑問を抱く秋水の前で、小札はただ、いつもの調子で喋りまくる。
「ととととにかく、マシンガンシャッフルは壊れた物を繋ぎ合せ自由自在に操れまするが戦場におきまして都合よく壊れた物
があるとも限らぬ以上、戦局によって大いに弱体化するコトもまた大いにありえますのですーーーーーーーーーっ!」
「こいつはこいつで栴檀ども並にうるせえ!!」
 剛太の叫びを更なる叫びがかき消した。
「ですが実は不肖、先の秋水どのとの戦いでさえ使わなかった『7色目:禁断の技』を持っております! こちらはげに恐ろし
き威力ではありますが、戦闘援護の一助ぐらいにはやってみせます頑張りまする!」
 やー! っと拳突き上げる小札の勢いが、秋水の記憶を蘇らせた。
「『7色目:禁断の技』? それはもしかすると、あの戦いの後言っていた……」
「そう! その技なのであります!!」

──「人生というのは色々あるものでして、残る一つの技は故あって封じているのです」
──「……」
──「恐らく使うとすれば、それは絶対に倒すべき恐ろしい敵に対してでありましょう」


 とまあ、わいわいがやがや実に楽しげに騒ぐ音楽隊であるが。
 斗貴子の表情はうかない。





 音楽隊はホムンクルス特有の禍々しさが驚くほど薄い。秋水にちょっかいを出した無銘でさえ言葉の端々にはそこはか
とない愛嬌がある。
 だがそんな姿を見てもなお、斗貴子は受け入れ難い。記憶こそないが故郷の赤銅島はホムンクルスたちによって甚大な
被害を受けている。家族はおろか使用人やクラスメイトすら喰い殺された。唯一覚えているのは戦団の施設で邂逅したホムン
クルス。西山、と名乗るその少年は斗貴子の顔に消えるコトなき一文字の傷を刻んだ。顔に傷。女性たる斗貴子がホムンクル
スを憎悪するに十分だろう。戦団の技術なら傷跡も消せるが、斗貴子にそのつもりはない。傷跡とともに抱え続けたいほどの
憎悪。それをホムンクルスに覚えている。
 桜花や秋水は元々ホムンクルスに与していた。共闘に疑問はないだろう。
 剛太が家族をホムンクルスに殺されたのは物心つく前の話だ。共闘が戦団の姿勢なら、あっさり受け入れるだろう。
 斗貴子だけが、今にも叫びたい気分だ。
 だがそれを抑えようと思ったのは、黒い感情に振り回された時期あらばこそかも知れない。
「やはり、納得できないか? 戦士・斗貴子」
 問いかける防人の前ですうっと深く息を吸い、ゆっくりと正論だけを吐き散らかす。
「そもそも戦団がホムンクルスと共同戦線を張るなんて前代未聞です。あ、いえ。100年前のヴィクター討伐の時、ホムン
クルスの追撃部隊を結成したのは聞いています。ヴィクトリアも無理やり入れられていたとか。でもそれは……」
「共同戦線というより”差し向けた”というレベルだな。それでさえあのヴィクターが相手でなければ起こり得なかった事態だが」
「そうです。戦士とホムンクルスが対等に手を組んで戦うなんて、本来絶対にありえないコトです。なのにどうして火渡戦士長
まで黙認しているんですか? 彼の性格なら真先に反対しそうなのに」
「戦士・斗貴子」
「なんですか?」
「その答えは、キミ自身が既に言っている」
「…………?」
 冷静になったせいか。言葉を吐き終えた斗貴子は別の事実に気付く。
(ホムンクルスと、共同戦線? 私達をあれだけ苦しめた音楽隊を1人も殺さないまま……共闘?)
 嫌な予感が全身を過った。うなじの辺りから背中がじっとりとした汗にぬめる。
 以前から、予感があった。大戦士長の誘拐について、警戒していた。
 パピヨンをめぐる演劇部事件の中、思っていた。

──(すでに一線を退いている戦士長に連絡が来るとすれば大戦士長が救出された後か、或いは!)

──(大戦士長を誘拐した連中が、本部にいる火渡戦士長たちだけで手に負えないほど強大か!)

──(そのどちらかの筈! 残党狩りが終わった今、私達が備えるべきは後者!)

 凛々しい顔が青ざめていく。

(まさか……大戦士長を誘拐した相手というのは、私達はおろか音楽隊の手まで借りなければならないほど強大なのか?)

(100年前、ホムンクルスの追撃部隊を組織した時のように)

(ヴィクターに匹敵する敵が、控えている?)

 答えを求めて仰ぎ見る防人もまた一瞬微妙な表情を浮かべたが、すぐさまニヤリとほほ笑んだ。
 あたかも、来たる戦いへの不安を少しでも取り除こうとするように。

「まあなんだ。そう彼らを敵視しなくてもいいぞ戦士・斗貴子! 見ての通り彼らはなかなか気のいい連中だぞ」」
「私はそこの鳩尾無銘の敵対特性で重傷を負わされました。剛太も桜花も早坂秋水も他の音楽隊に」
 防人の頬に冷や汗が浮かんだ。
「鐶とかいう副長に至っては人混みを散々混乱させた挙句、調整体をけしかけ、将棋倒しさえ起こしました。一歩間違えれば
死人がでるようなコトを。戦士長は知らないかも知れませんが、銀成学園の生徒を何人も傷つけ、胎児にしたのも鐶です」
 鐶が小声で(無銘の分まで)謝る中、斗貴子はただ冷然たる面持ちで一人の男を睨み据えた。
「過去を責めても仕方ないのは十分身に沁みて分かっている。いま重要なのはこれから何をするかだ。それがキミたちとの
共闘というなら、戦団が判断したのなら、私は従うだけだ。一度は戦団に反逆し、再殺部隊の円山に重傷を負わせた私が今
でも戦士を続けていられるのは大戦士長のお陰だからな。戦団が大戦士長の救出にキミたちの……ホムンクルスの力が
必要というなら、私情を捨て、共闘を受け入れなくてはならない。強大な敵が控えているというなら、尚更」
 自分自身に言い聞かせるように、無理やり納得をさせるように、言葉を吐く。

「とはいえ」

 真一文字の傷の上、鋭く尖る双眸は、ただ一人の男だけ射抜いていた。

「正直、説明して貰わなければ気が済まない。戦士である私がかつて人々に厄災を振りまいたホムンクルスを見逃してまで
戦わなければならない組織というのは何だ? お前たちはその組織とどういう関わりがある? 仮にも協力を唱える以上、
その辺りの情報は伝えて貰わなければ困る」

 視線の先でその人物──総角主税──は静かに口を開いた。


「では単刀直入に説明させてもらう」

「大戦士長坂口照星を攫ったのは、俺たちブレミュ全員の運命を狂わせた組織」


 秋水は気付いた。余裕の権化のような総角から、その主成分がカラカラに蒸発しているのを。
 表情こそいつもと変わりないが、剣客としての鋭敏さがわずかな違和感を覚えた。
 まるで駆け出しの剣客が、名うての剣豪に挑む時のような清冽(せいれつ)で凄烈な緊張感が、総角の内面に満ちている
ようだった。
「総角。君は俺と戦った時、確かに言ったな」
「フ」
「ニオイ」に気付かれたのを恥じたのか、それともただ懐かしき記憶に陶酔したのか。
 金髪の美丈夫は目を閉じ、透き通るような笑みを浮かべた。

「小札達を一人ずつ俺にけしかけた真の理由が」

──「君の部下の『能力の底上げ』。……違うか?」
──「フ。珍しく長広舌(ちょうこうぜつ)御苦労。まぁ、大体は合っている」

「能力の底上げ、だと」
「確かにいったな」
「では」
 かつて震えとともに脳裡に描いた言葉が、総角へ放たれる。一言一句違わず、今度こそ。今度こそ。

「貴信と香美を一つの体にしたのも)」

「無銘を異常な方法で創造(つく)ったのも」

「小札のいった『絶対に倒すべき恐ろしい敵』も」

「鐶に無数の鳥や人間へ変形できる能力を与えたのも」

「すべて、その組織……なのか?」


 総角主税は質問を肯定する。残酷なまでに、呆気なく。事もなげに頷いて、肯定する。


「ああ。そうだ」

 一座は水を打ったように静かになった。

 音楽隊の面々は軽く息を呑んだきり硬直し、剛太や桜花は「まさか……」と戦慄いた。
(冗談じゃねェ。鐶を作ったのがその組織っていうなら)
(理論上は、光ちゃんレベルのホムンクルスを量産できるわね。或いは、それ以上を──…)
 防人は腕を揉みねじったまま直立し、斗貴子だけが回答を求めるように鋭い瞳を総角に向けた。
「つまり、君たちにとって戦団は、「敵」の「敵」。だから共闘を申し出たという訳か」
「御名答。部下を鍛えたとはいえ奴らはまだまだ手に余る。だから協力者が欲しかった」
 棘の消えぬ斗貴子に応じる声は、どこか暗く、そして硬い。
「なら、以前の戦いは共闘を見越した上での売り込みか? つくづくフザけた男だな。まだ利用されている気がしてならない」
「否定はできないが……安心しろ。既に言ったが、協力して頂く以上は俺たちも協力する。利用などは絶対にしない」                                                                「待てって総角! どんな敵かはしらねーけど、大抵の奴はお前と鐶がいりゃあ何とかなるんじゃねーの!?」

 緊張に耐えかねたように叫ぶ御前に総角はただ、爽やかな笑みを浮かべた。

「ならないさ。下っぱはともかく、幹部級については俺でさえ楽勝とはいかない。鐶でさえ2人同時に相手どれば負ける」

「そして幹部は10人」

「そんな相手が…………10人……?」
 形の良い唇から血の気が引いているのを桜花は感じた。軽い身震いさえ全身を支配しているようだった。
「……組織の強さはおおむね把握した。だが勿体つけずに名前ぐらい教えたらどうだ」





「レティクルエレメンツ」





 総角はただ、その組織の名前を静かに呟き、一瞬だが遠い目をした。
 綽綽たる表情は消え失せ、かなりの緊張と後悔に満ちている。
 後悔? 秋水は首をかしげた。目を細める総角は、後悔しているようだった。
 組織の名を告げたコトにではなく、いま名を告げた組織に奪われてしまった大事な「何か」を悔やんでいるようにも見えた。
 そして彼は、小札を一瞥し、すぐ視線を逸らした。
 小札も、総角と似た表情をしていた。沈痛で、今にも泣きそうな……それを前に進むコトで抑えようとする表情だった。

(君たちの間に、一体何があったんだ?)

 秋水の疑問など構わず、総角は言葉を紡ぐ。

「レティクルエレメンツ。それが組織の名前だ。幹部の階級を示すは太陽系を巡る星々。即ち。

月。
水星。
金星。
火星。
木星。
土星。
天王星。
海王星。
冥王星。

そして、太陽。

以上、10人だ。もっとも幹部に上下関係はない。全員が同格。名目上は冥王星さえ太陽と同等の発言権を持つ」
「デルザー軍団みたいだな……」
 いやに渋い例えを持ち出す御前に微苦笑を浮かべつつ総角は説明を続け、彼の部下達はそれぞれの表情で聞く。
 無銘は、尖った瞳の中で憎悪の蒼い焔をぱっと燃やし。鐶は、虚ろな瞳を空色に湿らせ。
 香美はわずかに不安げな表情をしながら、後頭部をさする。貴信の表情だけは、分からない。

「マレフィック。階級の枕詞に”凶星”を戴く彼らはいろいろとアクが強いが、『盟主』……『太陽』には絶対の忠誠を誓っている」
「太陽が……トップ……?
 露骨に嫌悪感を示す斗貴子に、総角はゆったりと応対する。
「そして。盟主の名は──…」







──数日前。パピヨンの研究施設で──


「で? 100年前、貴様とあののーみそを守っていたという戦団の物好きの名前は?」
「アナタまだ拘っていたの? 別にいいけど。はいはい睨まないで。言えばいいんでしょ?」
 ヴィクトリアは薄い胸をすうっと膨らませ、滑らかな声で彼を語る。

「私にクローン技術を教えた人」

「私の夢に出てきた人」

「元々はママの上司で、賢者の石研究班の班長にも関わらず」

「武装錬金の特性が『特殊すぎる』せいで、試験的に戦士見習いをしていたあの人」

「総角主税そっくりの、認識表を掛けた金髪さんの名前は──…」







──現在。光届かぬ各所にて恨めしげに佇む影達──


                                    「あぁもう、ほっしーなあ! いっつも着とる可愛い服!!」

          「面倒くさい……」  

                                      「激しいわよん。壊すのがセックスよりお好きですからん」    

「彼にゃ助けたかった命歪められたwwああ憂鬱wwwwwww」

                                  「お仕えする理由? 従えばうまい飯が食えるからじゃよ。ひひっ!」
 
「及公(だいこう)がお貸しになられたラジコン、ノリとテンションで壊すのやめろ! お前はあれか、ジャイアンか!」

                                 「プロデュースしやすよ。人の、飾りだけの枠ブチ破るにゃうってつけでさ」 

「いくらいくら伝えても伝えても伝えても笑って笑って許してくれるのよ怒りたいぐらい尊敬できる尊敬できるうふふあははは!!」 

                    「この上なく妬ましいです!! だって実は”※※※※”なのに尊敬されまくってるんですよぉ!?」




                         「「「「「「「「「そんな、盟主様の名は──…」」」」」」」」」









「メルスティーン=ブレイド」







 総角は、名状しがたき激しさを意思の力で抑えながら。
 ヴィクトリアは、どこか懐かしげに。
 影達は、実にさまざまな感情を込めて。


 その名を、呼んだ。






「メルスティーン=ブレイド?」
「ああ。それが、盟主の名前」


「そして」





”武装錬金の複製”
 それを武装錬金の特性とする青年は一拍を置き、決定的な事実をただ、無感情に告げた。







「俺は、彼のクローンだ」




──どこかで──




「あなたはまだ、破壊への希求を捨てていないようですね」




 ひび割れたサングラスの奥。理知的な瞳が捉えるのは、流れるような金髪。
 どこまでも綺麗に梳られたそれは、持ち主の目鼻を隠し、表情までもを隠している。



「しかしメルスティーン。ヴィクターの盟友だったあなたはいつどこで、何を、誰を、どう破壊しようとしているのですか?」

「あとどうしてあなたはスカートを穿いているのですか? 確か男性だったと思うのですが」


 坂口照星は、眼前に佇む男へ静かに呼びかける。
 神父風の衣服は所々が破け、口元や目元に赤黒い血がこびりついているが、口調には何ら消耗が感じられない。
 それまで受けてきたであろう凄惨な暴行などなかったように。
 まるで戦団の執務室で部下に呼びかけているように。
 照星は、静かに呼びかける。

「私を誘拐した真の理由は何ですか?」

「それからどうしてスカートを……?」

 すっと立ちすくむ細い影に応える気配はない。まるで女性のような細身だった。
 そして確かに照星の指摘通りスカートを穿いていた。ミニスカートだ。しかし男性だというのに脚はバッタのように限りなく
細い。痩せこけているのではなく、引きしまっているという感じで、スポーツ少女のごとき清楚な肉感さえある。暗がりのため
全貌は分からないが、素足と思しき脚は脛毛のなびく気配はない。ツルツルだ。
 影の中、唯一さらさらと光る頭髪から流れるえも言われぬ色香に照星は一瞬、円山という部下を想起した。円山円。現在
同輩とともに照星を捜索中の彼は、”彼”であるがあたかも女性のような仕草や思考、顔だちの持ち主で、世俗的な言い方
をすれば『オカマ』である。
 ただ、と照星はメルスティーンを見据える。ひどく細身で全体的に柔和な印象の持ち主だが、全身の筋肉は”ある部分”以外
強く、硬く、しなやかだ。まるでありったけ集めた鋼線の束に絶え間なく負荷をかけているかのごとく、筋の端々がみちみちと音を
立てている。かといって逆三角系の筋骨隆々ではなく、ぱっと見何の特徴もない筒型の肉体だ。大戦士長・坂口照星がそう
いう体型を必要とする時は大抵、「パッとしない特性の武装錬金を引き当てたばかりに武器その物の使い方に熟練しきった
厄介な人間型」か、「ホムンクルスになれないハンデを既存武術で埋めんと修行し続けてきた信奉者」に梃子摺っている時だ。
 要するに、「武器を用いた技術の熟練者(エキスパート)」の体型をメルスティーンは持っていた。
 よほど強い者でない限り見抜けぬ「内に向かって濃縮された」、無駄を一切削ぎ落とし研ぎ澄ました、緻密な肉と腱の持ち主だ。
 何かにつけ女性的な円山との決定的な違いはそこだろう。
 肉体の奥底に秘められた、恐ろしく、激しい、獰猛で加減などカケラも効かせるつもりもないひどく男性的で前向きな気迫もまた、
円山とは違う。
 一言でいえば、武人と無頼の二束草鞋ばきだった。武技に自身の何もかもを惜しみなく注ぎこんだ者だけが持つ重厚さ
や寛容さがあるかと思えば、今すぐにでも世界の総てに飛びかかっていきそうな危うさもあった。それらはどっちつかずという
様子ではなく、常に同じだけの分量で存在し、柔らかな鋼線の束のような筋肉をみちみちみちみち鳴らし続けている。

「流石ですね。その筋肉はたゆまぬ鍛錬の証。10年前バスターバロンの腕を斬り飛ばしてなお慢心のないその態度。私の
部下達にも見習わせたい程です」

 まろやかな笑いが影から立ち上る。一見軽薄そうだが限りなく素直で純粋な、聞く者の心を引きこむ爽やかな笑いだ。
 礼をいったらしい。声はまごうことなき男性のものだ。謙遜と謝意を混ぜた丁寧な応対はまるで一流派の開祖のような
「人物」のそれで、だからこそ照星はちょっと頭痛を覚えた。

(円山のような人種でないとすれば、尚のコトどうしてスカートを……?)

 もちろんスカートは必ずしも女性専用という訳ではない。古代より熱帯地方では男女問わず巻きスカートの要領で腰布を巻いて
いたというし、その他の地域でも──例えばスコットランドのキルトに見られるように──スカート状衣類は男女ともに受け入れら
れていた。化粧に造詣の深い照星であるからその辺りの事情はおおむね知っている。
 じゃあ民族衣装なのかと彼はミニスカートを凝視したが……生地ではなんだかファンシーな動物が犇(ひしめ)きあっている。
照星が民族衣装説を捨てたのは、裾にひらひらとした可愛いフリルを認めた瞬間だ。

 彼は、まごうことのない女物のスカートを……穿いていた。そして脚への視線を感じるや、恥ずかしそうにスカートの丈を下に
向かって引いた、

「え。ええと何の話でしたか。……ああ。そうでしたね。なぜ誘拐したか。ご指摘感謝しますよメルスティーン。頬は赤らめないで」

「10年前のような戦団への反抗……という訳ではありませんね? 頬は……赤らめないで下さい」

「私を誘拐したのは、意趣返しでもなければ場当たり的な憂さ晴らしでもない。頬、赤らめないで!!」

「もっと巨大な流れを呼び起こすため誘拐した。そんな気がしてなりません。頬! やめてといってるでしょう! やめなさい!!」

「いま気付いたのですが、そのふわふわしたパーカー……女性用ですよね? まさか、下着も?」

 細い影の手の中で核鉄が輝いた。鋭く光る刃が、闇の中で風を切る。
 1回。2回。濁った風を淀んだ空気を壊すように荒々しく刃を振り回し、彼は照星へゆっくり近づく。


 やがて金色の閃光が照星の正中線すれすれをなぞり──…


 床に突き刺さった。順手に持たれた『大刀』がまっすぐに振り下ろされたようだ。


「────」


 前髪が舞い散る中、照星はメルスティーンの囁きを確かに聞いた。」
 一瞬呆気に取られた彼は、「信じられない」、そんな顔で愕然と反芻する。

「あなたは、自分が最後の1人になるつもりはない…………?」

「そして女装はただの趣味!?」
 照星は、絶句した。

「あ、いいえ。女装はともかくですね。いずれ幕を開ける決戦。その最初の戦死者になっても構わない……と言ったのですか?」

「今はいない『11人目の幹部』……いずれ呼び起こす『地球』こそ、君が総てを託す相手だと?」

「え? え? 今度私にお化粧を教えて欲しい? いや、構いませんが、その、どうして女装が趣味なのですかあなた」

 メルスティーンと呼ばれる影は答えない。ただ、照星がらしくもなくペースを乱されているところをを見ても分かるように、真
面目な回答の端々で出しぬけにしょーもない話題を繰り出す人物のようだ。それが意図的なら掴みどころのない人間だろ
う。天然でやっているとするなら、どこかで演劇をやっている栗色髪の元気少女なみの厄介さだ。
 やがて彼はちょっとガッツポーズをしてから静かに踵を返し、扉目がけて歩き出した。


(もしいまの言葉が”はぐらかし”とするならば、メルスティーン=ブレイド)

 これ以上会話しても無駄だと踏んだのか、照星はサングラスにクイと手を当てた。

(やはりこの誘拐には何らかの”ウラ”がある)

(……というか、お化粧教える代わりに解放してもらうというのは)

 無理でしょうね。照星はため息をついた。

(ただ、戦団に打撃を与えたいのなら、誘拐などせず私を殺せばいい。かといって交渉材料にしている様子もない。私をカード
に使うなら、拷問風景かその結果を映像なり画像に収める筈。ですが、その気配が全くない。ふふ。残念ですね火渡。もし
彼らが何らかの交渉をしたならば、キミは私の無様な姿を笑えたでしょうに)

 床に散らばる腐った無数の肉片は、言うまでもなく彼の物だった。
 元は純白だった床はいまや、膿と血塊の醜いまだら模様に彩られもはや見る影もない。
 照星は下を見て困ったように微笑した。
 現在のところ彼の両足は膝から先がない。止血処理こそ施されているが膿と熱を持ち絶え間ない痛みをもたらしている。

(やれやれ。例のグレイズィングが居ればこの程度の怪我、すぐ治るものを。もっとも、拷問の痕跡も痛みも何もかも一瞬
で癒されてしまうあの感覚……あまりいいものではありませんが)

 昨日辺りから彼女の姿がまったく見えない……その事実にどこか安心している照星だ。

 普通に考えるなら、治療役の不在を恨むべき状態だろう。
 並の人物なら「治して貰えるならそれでいいじゃないか」と思うだろう。
 照星でさえそう思っていなかったとは断言できない。

 だが、逆だ。
 痛みも傷もすぐ治せる。そんな人物が拷問の指揮を取っているのは、ある意味ただ破壊され続けるより……恐ろしい。

(私でさえ、不覚にも傾きかけてしまいました)

 絶叫と激痛の渦中で。

 照星は、グレイズィングを見てしまった。

(辛うじて踏みとどまれましたが、心の弱い戦士や新人なら……堕ちていたでしょうね)

 治して欲しい。
 救ってほしい。

 そうしてくれるなら、靴でも何でも舐める。

 だから、

”痛みを取り除いて!”

 そう懇願するのだ。「あらゆる怪我と苦痛を治せる」衛生兵の武装錬金・ハズオブラブの持ち主に。

 痛苦が取り除かれなくなるコトを、状況が一層悪くなるコトを怖れ、媚を売ってでも鎮痛を願うのだ。

(目先の苦痛から逃れたいがために、尊厳を捨て、本来なら戦うべき、絶対に屈してはならない相手に降服してしまう……。
人間ならよくあるコトです。彼らはそれを、弱さゆえに知り抜いている。だからこそ、恐ろしい)

 では誘拐の理由はそれなのか? 幹部たちは、照星の心を折り、無様に従わせたいがために拷問をしているのだろうか?

(いえ。違いますね。あれはただの快楽のための破壊……。戦団への私怨を私個人にぶつける者もいました。八つ当たり
は少々困りますが……結果私が折れようと折れまいと、死のうが死ぬまいと……『どっちでもいい』。そんな感じで、楽しげ
に……拷問をしていました)

 幹部たちの顔ぶれが目に見えて減ったのも気付いている。
 減ったのは、グレイズィングが来なくなったのとほぼ同時期だ。
 彼女だけが来なくなったのではない。彼女を含む幹部が何人か、来なくなったのだ。
(……何か、動きがあったようですね。まるで私への拷問期間を何かのタイムスケジュールの一部よろしくしっかり決めていて、
それが終了したから”次”に移ったように。しかし、一体彼らの目的は何なのですか?)

(なぜ彼らが私の外出を知りえ、誘拐できたのか)

(あの盟主が女装好きな理由ともども気になりますが……)

 熱を持った体が前へと沈んでいく。辺りは腐肉と血膿びっしりの床、床、床。不衛生な環境だ。きっと脚の切断面から雑菌が
入っている……当たり前で、つまらない思考をしながら照星は体を支えるべく手をつき──気付く。

(腐肉と、血膿?)

 掌を返し、じっと見る。視覚的にぞっと不快なネバつくそれらは、間違いなく照星の物だ。
 敵の物ではない。武装錬金を取り上げられた照星はずっと抗うコトもできぬまま、嬲られてきた。

 だから床は、その痕跡でいっぱいだ。

 腐肉と血膿。照星から削られ、或いは排出された体組織たちが、大量に点在している。

 床一面を見た照星は息を呑んだ。俄かに思考が高速回転を始める。緊急事態。それへ戦闘部門最高責任者として対処する
時のように、脳細胞があらゆる情報をひっつかみ、速読する。

(まさか)               (100年前の彼の専門の1つは──…)   (残った幹部の内の1人)
          
      (いえ、でも、そうです)      (『赤い筒の渦』)   (アレキサンドリア。女学院の地下のあなたの源流も、確か)

(マズいです) (実利的な理由) (筒はとても強欲) (タイムスケジュール。計画。より大きな流れ) (回収) (核鉄は幾つ?)


 一見まったく体系をなしていない単語が脳内を掛け巡る。いよいよ40度に迫る熱の中、照星はただ、自らの一部の腐れ果ての
成れの果てに顔を叩きつけた。むっとする異臭の中、いよいよ意識が遠のいていく。


(大変、です)

               (この拷問は)

                            (私個人を狙ったものではなく)

                                                       (戦団全体への、害悪の……為)




「むーん。成程。そういうカラクリ」

 血だまりに力なく突っ伏す照星を悠然と見下ろしながら、ムーンフェイスは鋭い顎を撫でた。

「ただ、そうだとしても、もっと穏便にやれたんじゃないかな? 『ウィル君』」
「えー。だって……面倒くさいし……」

 いつの間に現れたのか。短い髪の少年が、ムーンフェイスの後ろで大きな生あくびをした。
 凄惨な現場には見合わぬ、あどけない少年だ。いろいろな理由で美形とはいいがたいが、ひどく白い肌やなよなよとした体
型はそれだけで女性の保護欲をかきたてる。

「むーん? キミは『大家さん』じゃなかったかな。実験には直接関わらないんじゃ? 穏便な手段をやるのは『研究班』……
ディプレス君とかリバース君だと思ったんだけど」
「だってさぁ。アイツらが拷問抜けて本業に専念したら、ボクの拷問当番が増えるもん……」
 寝起き、らしい。肩さえ露骨に出すだぶついた白い服の上で少年は寝ぼけまなこを擦った。よく見るとかなり整った顔立ちだが、
寝ぐせやヨダレのせいですっかり美形らしさをなくしている。代わりといってはなんだが、脇に挟んだ大きなまくらはチャーム
ポイントともいえた。

「確かにね。サボったら例の赤い筒……デッド君に叱られる。というか現に私がここまで連れてこさせられた訳だけど」
「あー。デッドで思い出したけどぉ、あのさあ。今日の拷問当番ボクだってアイツ言ったけどお、もう、いいよね」
 ムーンフェイスの袖をくいくい引きつつ、ウィルは二度めのあくびをした。やや小柄な少年だ。戦士と比べるなら例の津村
斗貴子が一番近い……月の顔はとりとめもない分析をした。
「この人、気絶しちゃってるしさあ。え。だめ? じゃあ必殺ちょっぷー。とりゃあ。はいコレ拷問とても拷問。だから終わり。あ
あ、面倒くさい」
 糸目の少年は血だまりに胡坐をかきながら、ポリポリと頭を掻いた。面倒くさい、まったくそんなニュアンスしかなかった。
 やがて彼は膝の上で枕に両手を掛け、がくがくと貧乏ゆすりさえ始めた。
「ああ。寝たいー。ダラダラお菓子食べたいー。ぐだぐだニコ動巡回して適当に笑いたいー」
(確か2006年に開設する動画サイトの名前だったね。いま(2005年)それを知っているのは……やはり武装錬金の特性
のせいかな? まったく……)

 ムーンフェイスはほくそ笑んだ。彼は知っている。ウィルの名の由来を。

 未来から来た。だから、「ウィル」なのだ。未来の予定、未来予測……。

「あ。小豆の先物取引で6千万円損してる……まあいいや……取り返すの面倒くさい」

 携帯電話を興味なさげにポイ捨てしたウィルは、「まだ8兆円あるし」と両手を上に伸ばし大あくび。ネコのような臆面の
なさだ。気だるげな気流が口からあふれた。
「まったくみんなムダなことばっかしてるよね」
「むん?」
 言葉の意味を測りかねたのか、ムーンフェイスは軽く目を細めた。
「マレフィックもメルスティーンさまもさあ。ボクのいた未来じゃ今から10年前に全滅してたよ? だから正史にいなかった
『マレフィックアース』なんて11人目の幹部探してさー、拷問に見せかけた小細工してさー、ちょっとでも時間稼ぎの足しに
しようとしてるよねー。ディプレスたちが銀成市にいるのも……ああなんだっけ。まあいいや、もう喋るのめんどくさい」

 一方的に会話を打ち切ったウィルは、何もかもが本当に面倒臭そうだ。持参の枕さえ適当に捨て、そのまま突っ伏した。

 ムーンフェイスは思い出す。このやる気のまったくない少年が、なぜ悪の組織にいるかを。

『だってさー、ここにいたら働かなくてもご飯たべさせてくれるっていうしー。人間食べるのってすごく面倒くさいんだよ? amazon
で売ってないからさー、わざわざ捕まえて食べなきゃいけないし……。一応さ、どうすれば楽に食べれるか考えた事はあるよー。
宅配ピザ頼んでさ、配達人の方ごちそうさました。らくだった〜。なのにさ、ああ面倒くさ。警察とか錬金の戦士がいっぱい来て、
ボク殺そうとするの。仕方ないから株で儲けた5億円あげるから見逃してって小切手みせたらますますキレるし。あー。わけ
わかんない。面倒くさい。どうしてみんないつも急にワケの分からないコトで怒るのかなぁ。結局戦うはめになってすごく面倒
くさかったから、マレフィックに入ったよー。ここなら保険未加入でもグレイズィングが病気とか治してくれるしー、戦いはディ
プレスたち武闘派が僕への家賃代わりに引き受けてくれるしー』

 いつか聞いた自己紹介を思い出し、ムーンフェイスは輝くような笑みを浮かべた。

(面白いね。ホムンクルスとしても史上まれに見る駄目なコだよ。金城とか太とか細の方がまだマシだ)

 だがその駄目さが彼にとっては、面白い。悠久の、永遠の命を得ておきながら人喰いさえ厭い、怠惰に費やす……まったく
あらゆる節理への冒涜だ。ただただ面白い物にだけ飛び付き、浪費し、何も生まないまま生き続けるのだ。

(実はキミこそが総ての人間の、『理想像』という奴かも知れないね)

「ボクこの人のコトどうでもいー。死んだら教えてよムーンフェイスー。適当に時間巻き戻して復活させるからさあ〜。という訳
で、おやすみなーさーいー」

 腐肉と血膿の中でうつぶせになってくーくー眠るウィル。見下ろす眼は歪んだ興味に満ちている。

「いやはや。乖離が激しいね。誘拐直後に私へ向けた『仕事モード』とはまるで別人。かつて『7色目:禁断の技』をブチかま
してきた忌まわしき小札零を殺したい……そう言っていたのがウソのようだよ」

 いや、とムーンフェイスは指を弾いた。ムーンフェイスの隣にいるムーンフェイスが。

「もしかすると、その禁断の技とやらの後遺症でこうなってしまったのかもね」

「『領域の中』に限っては」

「時を止め」

「加速させ」

「減速させ」

「結果が気に入らなければ消し飛ばし」

「気に入れば保存し」

「あまつさえ巻き戻すコトさえ可能な武装錬金『インフィニティホープ』(ノゾミのなくならない世界)の持ち主」

 うじゃうじゃと意味もなく増殖しつつ、ムーンフェイスは高らかに笑う。

「時空関連では並ぶものなしだよ。メルスティーン君ともどもレティクルエレメンツ最強といっても過言じゃない……」

「常に全力で『仕事モード』なら10年前のようなアクシデントでもない限り、恐らくずっとずっと無敵だろうね」

「だからこそ、かもね」
 
 今は血の”膿”の中に突っ伏しスピースピーと可愛らしい寝息を立てるウィルを見ながら、思う。

「小札零のような善良な少女が勇気と、”らしからぬ悪辣さ”を振りしぼり……あんな技を見舞ったのは」

 しかし、不幸なものだよ。30人同時に肩を竦め、嘲笑する。

「彼女は善良すぎるがゆえに自らの選択の結果に恐怖した。そして、つい、傷を癒そうとした」

「して、しまった」

「結果、罪一つ背負うだけで済んだ筈の人生が、大きく狂ってしまった……。絶対に倒すべき恐ろしい敵を生き延びさせると
いうオマケ付きでね」


 倒れ伏す照星に起きる気配はない。

 だが、彼を救う戦いは、着々と近づいていた。

 着々と、着々と──…。
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第090〜099話へ
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