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第095話 「演劇をしよう!!」(前編)





 栴檀貴信(ばいせんきしん)。肉体年齢は17歳である。
 遡るコト7〜8年前、ホムンクルスと化した「やかましい」青年であるところの彼は。
 裂けたレモンのような巨大な双眸に芥子粒のような四白眼を泳がせている彼は……困っていた。

「ああもうヒマじゃん! ヒマ!」
「静かにしろ」
「ヘーイ! 転入生のカノジョー!! ヒマなら俺とお話しないー!」

 原因は”前”である。
(余談だが栴檀は本来「せんだん」と読む。「ばいせん」とは無論誤用だが、響きがいいので使っているらしい)

 ホムンクルスの製造には「幼体」が用いられる。多くは動植物型を基盤(ベース)にする。投与されたものはそれに自我
を喰い殺される。見た目こそそのままだがまったく別の生物に生まれ変わるのだ。
 だが貴信は『ある事情』によってそれを免れた。というのも投与された「幼体」の基盤が……当時彼が飼っていたノルウェージャン
フォレストキャットの変異種だったためだ。後に栴檀香美と呼ばれるようになる子猫。彼女と共有する『ある事情』が二身同体、
精神の同居を可能にした。
「あのヘンな髪のやつなにさ? なんか好かん」
「あのエロスは無視しろ! どうせ大したコトはいっていない!!」
「あそ。じゃあさじゃあさ、おっかないの! サンマ食べるサンマ! サンマの切れっぱあげるじゃん」
「不必要だ!!」

 大抵の場合貴信は、体の主導権を香美に預けている。大きな意味はない。強いていえば”恥ずかしい”からであり、”香
美の方が見栄えがいいから”である。
 人間だった頃の貴信はそのクセのある容貌(わし鼻+四白眼。ロシアの殺人鬼のような!)や男らしくはあるがどこか冴え
ない性格のせいで、学園生活にまったく溶け込むコトができなかった。
 毎年4月ともなれば年度初頭の気楽さにふわふわしているクラスメイトたちが寄り合いコンパ親睦会のお誘いをしてきたが
しかし「自分のような人間が行っていいのか? うまく会話できなかったら? 打ち溶けられないまま散会し、後で”なんでアイツ
来ていたんだ”的陰口を叩かれたら……」と怯えに怯え、結局一度たりと誘いに乗れなかった。人外たるホムンクルスになって
からもそれは同じで、町一つ歩くにしても相方に体を預け顔を後ろ髪に隠している。
 その点香美という快活極まりないシャギー少女は大したもので、まったく何も考えず周囲へ絡む。あまり何も考えていないよう
だが子猫の頃からボス猫として周囲から信頼を集めていた彼女である。
 なかなか気風がよく、何だかんだで人々から慕われる。
 何より、彼女の見目は貴信と違い麗しい。猫時代は捨てられていたのが不思議なほど愛らしい姿だったし、今でも貴信と同じ
DNAを使っているのが不思議なほど整った顔立ちである。(総角の見立てでは「貴信の母親似」という。貴信のDNAに含まれる
母親の遺伝子がこれでもかとばかり香美を盛りたてている……出会ったころ、彼はそういった。事実貴信の母親は、美人だった)

 とはいえなかなかクセのある少女でもある。絡む相手によってはひと悶着起こすコトもある。
 そして先ほどから彼女は、好きなように喋っている。
 貴信にとってそれはとてもマズかった。
 彼らのいる場所は、私語を慎むべき場所だった。
 約1名それを無視して振り返り、香美めがけて猛烈なラブコールを送るリーゼント(岡倉)も見えたが……
 基本的に、静粛であるべく場所だった。

「というか斗貴子さん、そのカワイコちゃんとお知り合いー? 良かったら紹介して……なーんて」
「黙れエロス!! いい加減自重しろ!!」
「垂れ目遊ぼうじゃん垂れ目! あんた銀紙丸めるじゃん! あたしそれ追っかけるじゃん。だから投げる! 早く!」
「ああもうだから静かにしろって!!」

 机を叩く音がした。語気に怒気が籠っているのも分かった。香美と話している相手がかなり苛立っているのが分かる。

(マズいッ! なんとかしなくてはッ!!!)

 普段ならこういう時、貴信は大声で香美を叱って黙らせるのだが、いまは「それができない」場所にいる。

 厳密にいえば決して不可能ではないが、大声を出せば香美を取り巻く状況が一段と悪くなる。

 ……そんな場所に、彼らはいた。

「いい加減にしろ!!!」

 津村斗貴子が立ち上がる音がした。
 そして彼女はこれまでで最強最大の大声で、香美を叱り飛ばした。

「ここは教室で今は授業中だ! 静かにしろ!!!」

 隣で中村剛太がうんうんと頷いた。

 他の生徒たちの視線が嫌というほど刺さるのが分かったので、貴信は内心斗貴子に謝りまくりながら、涙を流した。






『何と!! 僕たちが銀成学園に転入!!?』



 発端は昨日である。

 津村斗貴子たち錬金の戦士と、貴信属するザ・ブレーメンタウンミュージシャンズの共闘姿勢についてある程度話がまと
まった所で、その提案が飛び出した。

 監視の都合上、貴信達が学園にいる方がいいらしい……とは防人の弁だが、貴信的には疑念もある。

『で!! でもいいのかなあ! 僕たちはホムンクルス!! 筋からいえば人間に害なす存在!! 実際これまで戦士たちは
ホムンクルスから学校を守るため戦ってきた筈!!』
「まったくだ!! 監視のために音楽隊を学校にィ!? 本末転倒です!!」

 防人の突拍子もない提案に場はしばらく賛否両論に揉めたが、

「どの道あと3日もしたらキミたちは戦いに身を投じなければならない。せめてそれまでは日常を満喫していなさい」

 やや愁いを帯びた防人の微笑に押し切られるカタチになった。




 結果。現在のところ。

【3年A組】

「フ。本日からお世話になる総角主税だ。字面が難しいから”そうかく”でも構わない」
「3年A組の皆さま、大変お騒がせしております! 小札零! 小札零をどうかよろしくお願いいたします!! あ、ありがとう
ございます。ありがとうございます。暖かなご支援を! 皆さまのお力添えをお願いいたします!」

「……何の?」
 ややヒいた笑いの桜花の横で、秋水が難しい視線を教壇に送っている。
 そこにいるのは、金髪の美丈夫ととても小柄なおさげの少女。
 前者はひどく見栄えがよく、すでに女子生徒たちの注目の的だ。着衣こそ一般生徒とまったく同じ学ランだが、細く引き締
まった筒型の体にそれは恐ろしく映えている。後ろでくくった髪をこれ見よがしに肩口へ乗せているのはいかにも派手好きの
総角らしいと秋水はおもった。例えるなら漆塗りの器に金箔をまぶすように。黒一色の制服を流れる金の奔流はあたかも「闇
を引き裂く星の光芒」といった様子で、なかなか絢爛豪華な趣だ。
「ありがとうございます。ありがとうございます。ああっお手を振って下さりありがとうございます。長い旅を経まして不肖小札零、
遂に銀成市に帰って参りました! 何卒、何卒ご協力をお願いいたします」
(だから何の……?)
 桜花の表情が困惑に染まりきるのもむべなるかな。
 一方、小札の方はまったく制服に”着られている”といった感じだ。ゴシックロリータじみた衣装は童顔の彼女に似合っていな
くもないが、あちこちダブついているのが見てとれた。さりとて当人はあまり気にしていない(というより”よくあるコトすぎてヤケ
になっている”気配もある)ようで、マイク片手に選挙カーもどきの自己紹介を繰り返している。時には咆哮し、時には頭の上で
片手をぐるぐる回し、頬を緊張にうっすら染めつつ生徒諸氏の質問をいなしている。そして二言目には「小札零! 小札零を
どうかよろしくお願いいたします!」である。

 どうやら彼女、テンパっているらしい。


【1年A組】

「鐶光……です。”鐶”は……「かねへん」です……。でも私も時々……「おうへん」で書くので……その、どっちでもいい、です」
「鳩尾無銘だ」

 片や大人しそうな、片や無愛想な自己紹介が終わると、生徒たちは水を打ったように静まり返った。
 無関心、という訳ではない。男子生徒の中にはさっそく少女に色目を使っている者もいる。赤い三つ編み。虚ろな瞳。ぼそぼそ
喋る儚げな様子! あらゆる要素に心奪われたという感じだ。女子たちは女子たちで、「まるでまだ小学生」な太眉少年に保護
意欲を大いにかき立てられているようだ。学ラン姿もまだ初々しい、子犬のような少年だとみな囁きあった。
 それを抜きにしても銀成市民というのは転入生によく喰いつく。質問攻めは当たり前だ。
 にも関わらずあまり声をかけられずにいるのは……教室に居る、見なれぬ人物たちのせいである。

 率直に書くならば。

 教室の後ろに。

 銀色の全身コートとガスマスクが居た。
 これでもかと、突っ立っていた。

 無論彼らは、生徒ではない。教師でもなければ関係者でもない。
 まったくもって清々しいまでの部外者で、部外者の癖につくづく堂々と(ガスマスクの方は時々もじもじとするが)。
 居た。

「ああ。気にしないでくれ。人見知りなあの子たちを見守りに来ているだけだ。キミたちはいつも通り授業をしてくれ」

 恐る恐ると振り返る何人かの生徒に全身コートは軽く手を上げ応対。フレンドリーだ。しかし……反応はいま一つだ。

(できるか!!)
(集中できない!)
(なんで銀成市名物がここにいるのよ!)
(不審者丸出し! つまみだしてよティーチャー!!)
(言うな! 我慢しろ!! 俺だって嫌だが理事長が入れろと!!)

 教室のそこかしこから不満といら立ちが立ち上る。ここ1年A組は現在、銀成学園一の魔境と化していた。

「ねーちーちん。あの銀色の服の人ってブラボーだよね?」
 不意に肩を叩かれた若宮千里はその理知的な顔つきを一瞬だけ歪めた。後ろの席で不思議そうに囁くまひろは異常な
教室の中でほんのりとした暖かさを振りまいているが、しかし今は授業中なのだ。私語を囁くのは良くないし、それを許す
のは友人としての最低限の節度に反する。表情に微細な変化が現れたのは左記がごとき機微もあったが、もう一つ、まひ
ろの言葉の意味を理解するのに数瞬を要したというのもある。
「……え? あのコートの人って、ブラボーさんだったの?」
 何とも面白味のない鸚鵡返しで、吐いた千里自身無味乾燥なマジメ気質を悔いてしまう言葉だが、不思議と疑う要素は
ない。どういう訳かこういう直観的なコトに関してまひろの文言は外れたためしがないのだ。
「よく分からないけど、ひょっとしてヒミツの任務中かも。突っ込まない方がいいよまっぴー」
 隣の席からひょっこり寄ってきたのは河井沙織である。黄色い髪を両側で縛った幼い顔立ちの友人は、「スクープ発見」
とばかり唇の前で人差し指を立てた。はしゃいでいる。ヒミツに興奮しそれを守るコトに興奮している辺りまだまだ子供だと
千里は思う。かといってそんな友人の瑞々しさは貶す気になれない。むしろ好ましさと尊敬さえ覚えている。
「う、うん。突っ込まない。私は黙るよ黙っちゃう。何を隠そう私は黙秘権の達人よ!」
「いいから小さな声で喋りなさいまひろ。今は授業中よ」
 ヴィクトリアを見習いなさい、そう言いながら「先ほどからいやに静かな」まひろの隣席へ視線を移す。
 その時までその所作に大した意味はなかった。やけに静かだったのでまひろを窘めがてら友人の様子を見た……位の
動機だったが、千里は、やや意外な物を見た。

 ヴィクトリアは、「見たコトもない目つきで」ある一点を凝視していた。
 千里が彼女の視線を追うと、赤い髪の転校生へ行きついた。

(知り合い?)

 千里は首を傾げた。

 神ならざる彼女は知らない。かつてヴィクトリアと鐶の間に起こったコトを。

(……確か、あの時の鳥型)
(……確か、あの時の人型)

 かつて銀成学園を舞台に行われた戦士と鐶の決戦。その終盤、紆余曲折を経て乱入したヴィクトリア。
 鐶は彼女の年齢を吸収した。見た目とは裏腹に齢100を超えるヴィクトリアの年齢を。
 結果、鐶は一気に老化した。それが原因で、斗貴子に負けた。

 以上のような因縁を思い出したのか。
 ヴィクトリアと鐶はしばし見詰めあった。

「さーちゃんさーちゃん、転校してきた赤い三つ編みのコさ、なんで制服着てないんだろ?」
「前の学校の制服じゃない? なんか海賊っぽいけど」
「制服かなあ?」

 まひろだけが呑気に首を傾げた。
 鐶は奇妙な服を着ていた。白と濃紺を基調としたそれはまさしく沙織のいうとおり、「海賊」のような服だった。
 三角を三つ連ねたような帽子はとても学校制服の一部には見えないし、二の腕の辺りで大きく尖った袖はどう見ても男
性用のそれだ。
 まひろは知らない。かつて彼女の兄、武藤カズキがその「奇妙な服」に苦しめられたコトを。

(シルバースキン・裏返し(リバース)。戦士長さんは鐶の奴めを拘束しているのだ。あのガスマスクの戦士は控え……。
いざという時、鐶を抑えられるように)

 頬杖を突きながら無銘は不快そうに外を見た。

(師父にアレを使わぬ理由が気に食わんがな。「早坂秋水と同じクラスに居るから」。くそ。つまり戦団の奴らめ、早坂秋水
が裏返し(リバース)並の抑止力がある、と! いざという時、師父を止められると……)

 太い眉がぎりぎりと吊りあがる。犬歯も露の”すごい形相”を冷ややかに見る少女が一人。

(確かあの男子生徒も音楽隊ね)

 ヴィクトリアは冷笑を浮かべた。笑うしかないだろう。いまやこの教室には戦士が2人にホムンクルスが3体だ。誰も彼も
争う気はないがそれでも世間的には十分不穏だ。戦士長の防人。戦士たち相手に大立ち回りを演じた鐶。この2人がちょっと
本気を出すだけで校舎は3分と持たず地球上から消えるだろう。ガスマスク(毒島)にしろ無銘にしろ、並のホムンクルスよりは
強いだろうし、ヴィクトリア自身、避難壕を展開した時の自身の力量には(ひねくれた高慢な少女らしい)自信がある。
 それらを勘案するとこの教室はまったく恐ろしい状態だ。そう気付いているのは自分だけ……奇妙な優越感がヴィクトリアの
頬を歪ませる。

(どうやら手を組むコトにしたようね。音楽隊と戦士。パパが追撃された時以来かしら。問題は、なぜ手を組んだかというコト
だけど……ま、勝手にやりなさい。私は彼と白い核鉄を作るだけよ)

(とにかく、もりもり氏(総角)と小札氏は3年へ編入。早坂姉弟たちの監視を受けている! 無銘と鐶副長はどう見ても小
学生だけど1年生だ! 監視は防人戦士長と毒島氏!)
 そして2年生が貴信と香美。見張り番は斗貴子と剛太(体験入学扱いとかで特別に教室にいる)である。
(しかし香美はあまりに動物動物しすぎている! 学校はニガテのようだ!)
「うー。何さ。ヒマじゃん。ヒマ! なんでじっと座っとらなあかんのさ。遊びたい! あーそびたーい!!」
 セミロングの髪をツンツンに尖らせた少女は先ほどから落ち着きなく唸っている。身を丸めて机を揺すったかと思うと急に
体を伸ばしてハエに飛びかかったり……まったく授業を受けない香美。教師も生徒もただただ唖然と眺めるばかり。
「じゃあ一緒に授業ふけない? ハニー!!」
 ただ一人香美に声をかけるリーゼント──岡倉英之──に関してはその伸びきった鼻の下や胸にばかり行く目線からして
下心がバレバレである。まったくまともではない。
 蔑視。どん引き。下心。それらに斗貴子の殺意が加わって、教室はまったく恐るべき空気に包まれていた。
 香美もとうとう限界に達したようだ。とても真剣な表情で、何度も何度も拳を突き上げつつ訴える。
「遊びたい! 絶対! 覚えて! みたい! すーぱーせんたいれっつごー!」
「静かにしろ!! というか何を覚えたいんだ!!」
(まったくだア!!!!!!!!!)
「あだ! 痛い痛いご主人! よーわからんけどつねるのはやめて! え、なに? 静かにしろ? う、うん。そーする」
 香美の頬をつねりながら貴信は心中詫びる。この教室で生けとし生ける総ての者に、詫びる。
 周囲からすれば「騒いでいた少女がなぜか急に自分の頬をつねりだし、誰かに謝っている」という不可解極まりない光景
だが、それはそれ。仕方ないと割り切るしかない。

 元がネコの香美だ。学園生活を送るたび、周囲を騒がせている。
 そもそも。
 ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズという組織名を見ても分かるように、この音楽隊の構成員の大部分は動物型である。
とはいえ実のところ、どういう訳かロバ型(小札)とニワトリ型(鐶)に関しては人間時の人格がそっくりそのまま残っている。
基盤となった生物の自我が宿主の精神を喰らい尽す……そんなホムンクルスの”仕組み”からすれば驚くべきコトだが……
(レティクルエレメンツ! 僕たちをホムンクルスにした組織にはそれだけの技術力がある!!)
 まだ母胎にいる頃、妊娠第7週目の「胎児以前」の状態に幼い体を埋め込まれた無銘でさえ、その精神が完全に動物の
ものとは言い難い。
 だが香美だけは違う。
 その精神は、純粋な、「ホムンクルス幼体」の基盤(ベース)の生物のままである。
 いわば香美はパピヨン謹製の動植物型ホムンクルスたちにこそ近い。
 そのため人間社会の規則や法律というのはまるで理解できない。貴信のサポートがなければ携帯電話やパソコンといった
文明の利器はまったく使えないし、音楽隊の中では唯一いまだ武装錬金を発動できずにいる。(もっとも牙や爪などの本能
的な戦いしかできない動植物型の不文律や、人型ならではの特権──武器使用の概念あればこその武装錬金発動──か
ら考えれば香美こそ普通といえるのだが)
(アレ? でも小札氏ってレティクル謹製──…?)
「黙っていないでキミも栴檀香美を窘めたらどうだ。いちいち頬をつねるのは目立ってしかたない」
 苛立たしげな囁きに貴信は現実世界に引き戻された。「見れば」深刻な表情の斗貴子が眼前にいる。こちらを振り返る無数
の生徒も見えた。
「というか、いつも気になっているのだが……栴檀香美を見ても”見える”のか? いちいち後ろに回れとか言われたら
その、困るのだが」
『あ! それは大丈夫!! 僕と香美は視界などの五感を総て共有しているからな!!』
 と大声で答えた貴信は後悔した。(馬鹿!)と顔をしかめる剛太の後ろでざわめきが起きた。
「何、いまの声?」
「誰?」
「すっげ大きな声!」
「というか何であのコ学ラン?」

 やってしまった。
 香美の髪の中で貴信は口をぱくぱくとさせた。

「ふ、腹話術だ!! ここここのコの特技は腹話術だ!! そうだったな栴檀香美!」
 うろたえながらも腕を広げ、必死に生徒たちへ呼びかける斗貴子。いよいよ疑念を持って注視する生徒たち。
 香美だけが目を細め、呑気に質問した。
「あー。おっかないの。ひょっとしてあたしらかばってくれてるわけ?」
(だ!! 誰がかばうか!! ホムンクルスが学校にいるとバレたら色々マズいんだ!! この学園はDrバタフライと
調整体の襲撃を受けたコトがある!! その時の恐怖を引きずってるコだって! いまココにホムンクルスが居るなんて
知らせたくないんだ!!)
 小声でまくしたてる斗貴子の表情はかなり恐怖の度合が濃い。それだけ生徒達を大事に思っているのだろう。……貴信
の瞳が俄かに潤む。元人間として、そういうまっすぐな使命感はとてもとても好ましかった。
(香美。この津村斗貴子はおっかなく見えるが実はかなりいい津村斗貴子だ!! 困らせるのはよそう!!)
 内心で呼びかけると──意識を共有しているゆえの利点だ──香美は一瞬目を点にした後、ぶんすかぶんすか全力で
かぶりを振った。
「うん! うん! そ! そ! 今のふくわじゅつじゃん! よーわからんけどあのご主人の声はさ、あたしのじゃん!」

「なんだ腹話術か」
「腹話術ならしょうがない」
「可愛いからいいや!」
「なんかこうぐっとくるよな。女のコの学ラン姿って!」

 がやがやとそれぞれの感想を漏らしながら、生徒達は黒板に目を向けた。
「……」
 意外そうに目を見開く剛太に香美は「にゃっ!」とブイサインを繰り出し──…。
 同時に斗貴子は細く息を吐き、ホッと目を閉じた。しなやかな肢体からは見る見ると力が抜け、緊張状態を脱したのが
見てとれた。
(良かった。何とかホムンクルスの存在を隠せた)

 その時である。
 貴信の視線が、ある一点に吸いついた。

 後ろの席にいる男子生徒。いやに恰幅の良い、それでいて気弱そうな青年。
 その瞳へと……視線が吸い込まれた。
 平たくいえば「目があった」。
(マズい!!)
 貴信の動揺に気付いたのか、青年も慌てて瞳を逸らす。
 友人、だろうか。隣席の少年──短髪で眼鏡をかけた、いかにも優等生な──に呼びかけるのも見えた。
(は、はは! 気付かれた!?)
 指こそ指してこなかったが、貴信の存在について囁き合っているのは明白だった。
 なぜなら香美の優れた聴覚が、こんな会話を拾ったからだ。

「本当だって六舛君。あのコの髪の中に、目が……」
「静かにしろ大浜。斗貴子氏の知り合いならそれ位普通だ」

 眼鏡の少年は事務的だ。手にした教科書から目を離そうともしない。

(どどどどうすれば……!!)

「2人で1つの体を共有している」

 異形の貴信にとってそれは恐怖だった。

(ば、バラされたらどうしよう!! 香美はともかくここここんな顔つきの僕だ! 絶対化け物扱いされてしまう!!)

 誰よりも人間らしいホムンクルスは、ただひたすら怯え始めていた。

「というか何でお前学ラン姿なんだよ?」
「よー分からんけど、ご主人が「女モノだと交代後、大変なコトになる!」とか言ってたじゃん。だから黒いじゃん」


 そこでチャイムが鳴り、銀成学園は昼休みに突入した。


【銀成学園。廊下】


 購買部へと続く細い通路を白と黒の粒が流れていく。擦れ合い混じり合いながら、玄関へ、教室へ、曲がり角へと吸い込
まれ、吸い込まれたのと同じだけの粒が吐き出され、流れは永遠に続くように思われた。
 白い粒は女子生徒だ。いささか遊びすぎのきらいのある愛らしい制服から溢れんばかりの活力を放ちながらめいめいの
向きへ歩いて行く。人いきれさえ甘やかだった。
 黒い粒はいうまでもなく男子生徒だ。質素な黒い学ランは男子特有の熱い匂いを振りまきながらのっしのっしと進んでいく。
 その中でひときわ人目を引く生徒がいた。何かあったのか、窓際でじっと立ちすくむその生徒は、雑多様々の白黒たちから
会釈を受けたり質問されたりしながら、じっとその場に留まっている。途中「オウどうした?」と声をかけたのは彼の僚友たる
剣道部員たちだが、結局最後まで真意を知るコトはできなかった。
 恐ろしく端正な顔立ちの青年だった。短くも豊かな髪はうっすらと汗に湿り、えもいわれぬ色香を振りまいている。
「……えーと」
 早坂秋水はこめかみを押さえながら窓の外を見ていた。すぐそばの柱に靠(もた)れる金髪の美丈夫は落ち着いたもので
じっと目を閉じている。もっとも口元はニンマリと裂けているし、時おりくつくつと震えるところを見ると余程何かが面白いらしい。
 そんな金髪に油断ならない目線を送っていた桜花もいまでは、「あらー」としまりのない笑いを浮かべている。
「いったい何が。いったい何がーっ!!」
 小札はバンザイしつつ窓めがけピョコピョコ飛んでいるが、いまだ届く気配はない。

【窓の外。銀成学園中庭】

「ドーナツおいしい? ひかるん?」
「はい……おいしい……です」

 小箱を抱えたまひろが満面の笑顔で鐶にドーナツを与えている。
 後ろにはやや引き攣った笑みの千里が居て、その背後にはシルバースキンを見に纏う防人とガスマスク(毒島)。
 どこまでもどこまでもついてくる彼らに沙織などは半泣きだ。振り返るたび全泣きに近づいている。
「ま、まだ居るよびっきー」
「目を合わせない方がいいよ沙織」
 絶賛猫かぶり中のヴィクトリアの後ろでは、なぜか無銘がガタガタと震えていてもいる。
「は、早く合流しましょうよ防人戦士長。早くしないと火渡様が……」
「確かにな。戦士・剛太からも催促が来ている。とはいえせっかくあのコに友達ができそうなんだ。あまり急かすのも無粋
というかなんというか」
「防人戦士長!? メール打っているようですが、まさか少し遅れそうだとか連絡してるんじゃあ」
「ブラボー。その通りだ!」
 メールをする銀色怪人の前でガスマスクがうっうと泣く。
 一言でいえば、異常な状態だった。
 にもかかわらず鐶はすっかり慣れたという感じで、当たり前のように、まひろの施しを受けている。




「あの鐶を……手なづけている……」
 冷え切った声で秋水は呟いた。顔面はすっかり色褪せ、形のよい顎からは冷や汗が滴っている。驚愕の程が伺えた。
「フ。さっそく友達ができたようで結構結構。奴は姉のせいで引っ込み思案だからな。ああいう明るい女子とはどんどん触れ
合うべきだと俺は常々思っている。しかしあのコ、無敵だな」
 窓を覗きこんだ桜花が思わず口を押さえた。まひろが鐶に飛びかかり、背中越しに頬ずりをしている。相手はされるがままだ。
(おもちゃ? あんなに強かったコが……おもちゃに……)
 ぷるぷると笑いに震える桜花の姿にも秋水は呆気に取られ──…
 小札はバンザイしつつ窓めがけピョコピョコ飛んでいるが、いまだ届く気配はない。
「ねーねーびっきー。むっむーの顔色悪いけど大丈夫かな?」
 沙織の声になにか光明を見出したのか。無銘は土気色の顔でまくし立てた。
「ああああ、あの、その、そそそそ、その凍らせても燃やしても駄目で鏡もあらゆる忍法も内装ごと無効化されて……」
 歯と歯を火打石のようにガチガチとすり合わせる少年の姿に異常を感じたらしく、まひろが会話に入ってきた。
「なにかあったの」
「さあ。転校してきたばかりだし、緊張しているだけなんじゃないかなあ」
「えへら」と肩を揺するヴィクトリアに無銘は愕然と面を上げ、抗議する。
「え!? ち! 違う貴様が」
「いいのいいの。転入したばかりだから緊張するのも仕方ないよ。あ、そうだ。学校案内しようか? どんなところか
分かれば少しは緊張も緩むんじゃないかな
「ここ、ことわ……」
 いつの間に近づいたのか。ヴィクトリアは無銘の肩を強く掴んだ。間近で、とても爽やかな笑みを浮かべた。
「そ れ が い い よ ね ?」
「は、はい……」
「なんでもいいですから合流……! 早く合流しましょうよ……!」

 うなだれる無銘の後ろで毒島が叫ぶ。くぐもった声はまったく悲壮を極めていた。



(あれ? 確か防人戦士長に伝えるべきコトがあったような……? でも、思い出せません……)



「…………」
 無言で無銘を指差す秋水を見た総角はまず金色の前髪をゆっくりとかき上げた。そして柱から身を起こし、窓枠に頬杖
をつきながらまひろたち一行を微笑混じりに見回して──…大きく肩を窄めて見せた。
「フ。あのお嬢さんと何かあったな。そして負けた。それも仕方ない。何故なら無銘はアリモノを使う人種だからな」
「……?」
 言葉の意味を測りかねたのか。眉を顰める秋水に勿体ぶった解説が刺さり始めた。
「忍びという奴は人心だの地形だのといったアリモノを回して旨味を掠め取る生物だ。しょせん英傑とは言い難い人種……
目一杯の敵意が「忍びをすり潰す」そのためだけに人心や地形を拵えらえてきたら即投了の即詰みさ。英傑ならそれも
試練と乗り越えられるが忍びは違う。自身に向かう全力の敵意をどうにもできぬと分かっているからこそ忍ぶ。故に忍びだ」
「実はかの特性、巨大な武装錬金相手では不利なのです! 例のウロコ状の物体が隅々に行き渡るまでかなりの時間を
要しまする。そも手に持てるものでさえ3分のラグをばあります故! そして今度こそ届く筈! とあー!!」
 小札はバンザイしつつ窓めがけピョコピョコ飛んでいるが、いまだ届く気配はない。
「つまり……地の利を得られるヴィクトリアは天敵か。地上ならともかくアンダーグラウンドサーチライトの中へ引き込まれれば」
「そう。どうにもならないだろう。並の罠なら逃げるコトもできるだろうが……フ。地下ともあればそれも不可。あと俺はそれほど
忍びを軽蔑していないぞ? 俺のような英傑にとって忍びは必要不可欠だからな。そうだろ秋水。忍びもまた俺のような英
傑を必要としているよな秋水」
(……ちらちらと俺を見るな。英傑云々への反応を期待するな)
 どうも総角、本気で自分が英傑だと信じている訳ではなさそうだ。むしろ突っ込んで欲しいらしい。
 桜花はそんな総角に慈母のような微笑を送った。
「いま気付いたのだけど、ヴィクトリアさん、秋水クンがあれだけ苦戦した無銘クンに勝てるってコトは」
「流したか桜花。無視したか桜花。ひどいな。時々ひどいよなお前。まあいいけど」
 総角は「ちぇっ」と舌打ちしつつにこやかに人差し指を立てた。
「フ。そうだな。相性の問題もあるが、実はあのお嬢さんの武装錬金、かなり強い。俺も使ったコトがあるからこそ分かる。地下
限定とはいえ、自分の周囲の環境をだ、自分好みに都合よく造り替えられる。まったく反則的能力だ。そういう意味では毒
島という戦士のエアリアルオペレーター……周囲の気体を操作できるガスマスクと同じくらい強い。フ。まったく彼女らが俺
たちブレミュと敵対していなくて良かったと思う」
「すでにやられているんだけど。無銘クン」
「フ。アレはスキンシップだ。豪傑難敵を打ち負かす主人公といえどか弱い女のコのパンチには成す術なく吹き飛ばされるも
のだ。俺も大概強くて美形でカッコいいが、小札に「馬鹿ー!」とか殴られたら地平線まで飛んでいくのさ。飛んでいきたいな。
ああ飛びたいともさ。ベタなラブコメの文法を守らぬほど俺は無粋じゃあない。フ…………」
「何の話……? 総角クン」
 ダンスを踊るような手つきでうっとりする総角や大いに困惑する桜花をよそに。
「…………体力が6ケタぐらいのユニットを……説得して……仲間にしたのに……急に4980ぐらいの体力で……紙装甲で……
命中率25%ぐらいの攻撃にさえ……ばかすか当たりまくって……沈みます。無銘くんは……それ、です。味方補正、です」
 秋水が総毛だつ思いをしたのは、突然、窓ガラスに虚ろな目の少女が張り付いていたからだ。
 鼻と両手の皮膚が黄色くなるほどびったり密着し、ぼやけた瞳のままボソボソ呟いている。
 鍵がかかった窓を時々ガタガタ揺らしたりもした。ゾンビの押し入り風景だった。
「でも私は育てるのよだって無銘くんが大好きだから弱くてもいいの味方補正で弱体化してもいいの重要なのはキャラ性よ
無銘くんが無銘くんである限り私は育てるのパーツいっぱいつけて沢山改造してPPとことんつぎ込んで避けまくりーの当てま
くりーのの糞火力にするの最強にしたいの大好きだからいつもいつでも誰より強くいて欲しいのでも秋水さんに負けたりする
事もあってそれはなんだか残念なの悔しいの悲しいのだって最強で憧れでカッコいい無銘くんが負けるなんてあり得ない
あり得ないあり得ないあり得ないうふふあははそうよそうよ秋水さん背後から刺した時気持ちよかったの復讐できたって感じで
とてもとても気持ち良かったのでも今度はあんな女なんかに負けてやるせないの悔しいの悲しいのどうすればいいのねえ
どうすればいいの秋水さん教えて欲しいのやっぱり刺すべきなのでも根本的な解決にはならないわよねねえじゃあどうすれば
いいの教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えて教えなさいよねえ!」
「や、病んじゃってるー!!」
 どこからか出てきた御前がムンクよろしく叫び、股間から魂の汗さえ噴き出した。
 鐶。彼女は。
 怪奇現象のようだった。秋水でさえ見た瞬間、鼓動を嫌というほど跳ね上げていた。鐶だと分かってからもなお「来るなら
普通に来てくれ」と冷や汗混じりの情けない表情で訴えるのが精いっぱいだ。
「光ちゃん、そんなキャラだったの……?」
「お姉ちゃん風……です。本音では…………ありません」
 恥ずかしそうににへらと頬を綻ばせる鐶に桜花は寒々とした物を感じた。果たして本当に本音ではないのだろうか。とは
いえノーブレスの淡々としたまくし立ては確かに

”鐶以外”

 の声だった。彼女以上に楚々とした、たおやかな、妙齢の女性の声だった。
(姉……? 確か鐶をホムンクルスにしたという……『玉城青空』のコトか?)
 鐶(モノマネが得意)の口が再現した美しい声に秋水はおぞましい物を感じた。
「え……ええと、本当に本当に……本音では……ありません……ただ……お姉ちゃんの真似がしたくなった……だけで……」
 空気を察したのか、鐶はおろおろと首を振り始めた。赤い三つ編みが昼の光を切るように揺らめき、いかにも可憐な様子
である。
「フ。話半分で聞いておけ。こいつは姉ほど病んじゃいないが、見た目ほど可憐を極めてもいない。実は結構いい性格だぞ?
事実自分を虐待した姉をゲームで徹底的にボコボコにし何度も何度も泣きべそをかかせている」
 総角の呟きに鐶は「リーダー……」とだけ呟いて俯いた。秘匿すべき不利な事実をばらされたという諦観しかそこになかった。
「……まさかとは思うけど、光ちゃん、秋水クン刺した時、気持ちよかったの…………?」
「今は……そんな事はどうでもいいんだ……です! 重要な事じゃない、です!」
 ガラスから一歩引いた鐶は珍しく慌てた様子で上を指差した。



「早く……屋上にいかないと……津村さんが……キレ……ます! きっと人質の貴信さんたちの命が……マッハで、ピンチ、です!」



 あり得る話だ。いらつく斗貴子の前にホムンクルス! 剛太が傍にいるとはいえとても危ない状況だ。
 急ぐべき状況だ。
 一同は息を呑み、咳き込むように叫んだ。


「誤魔化そうとしてるってコトは光ちゃん、やっぱり秋水クン刺して気持ちよかったんじゃ……!?」
「俺の件はともかく、ヴィクトリアへの復讐など考えない方がいい! 無銘の立場が悪くなる! まずは話し合うんだ。俺も仲裁する!!」
「フ。貴信達を引き合いに話を逸らそうとしても無駄だぞ鐶! まずは先ほどの姉真似がどこまで本気か検証しようか……!!」

 ひっと息を呑み後ずさる鐶だが状況はますます悪くなる。
 まず防人が後ろから「確かに誤魔化しは良くないな!」とがっしりと押さえつけ、その上にまひろが飛び付いた。
 元よりシルバースキンリバースで拘束されている鐶だから逃げ場はない。
 沙織がはしゃぎ千里が困り、ヴィクトリアが笑う中、無銘だけが「古人に云う。賢士は苛察せず」と呟いた。「突っ込むな」という
擁護。しかし一度沸騰した場の雰囲気はどうにもならず、女性陣の冷やかし──かばってる→つまり無銘は鐶が好き? なる
邪推──ばかり膨れ上がりますます混迷の度合いが深まっていく。
 そんな中。
 小札はバンザイしつつ窓めがけピョコピョコ飛んでいるが、いまだ届く気配はない。
「なんでもいいです……でも早くしないと、私が、火渡様にお仕置きされてしまいますー!!」
「大丈夫だ! その辺りは俺が責任を持って処理する! フム。楽しくなってきたな。いっそ戦士・斗貴子たちもココに呼ぶか!」
 気楽な調子でメールを(胸の中でもがく鐶を事もなげに抑えながら。恐るべき膂力だった)打つ防人は気付かない。
 背後の毒島がおぞましい紫の気迫を漂わせ始めたコトを。
「いい加減……」
「ん?」
 振り返った時にはすでに何もかもが手遅れだった。
 ゴーグル越しでも分かるほど双眸に異様な光を湛えた毒島が居た。ガスマスクの円筒は白い煙を吹いていた。
「いい加減に……」
 後頭部から伸びる無数のチューブは今やその総てが逆立っていた。
 どれも尖端からは青白い気体が噴出しており、振りまかれるひどく不快な刺激臭は彼女がどれほど本気で怒っているか
雄弁に物語っていた。
「待て戦士・毒島! 合流ならここで! 落ち着──…」
「フ」
 余裕の笑みの総角が小札をお姫様だっこし廊下の奥めがけ逃げ出す頃……いくつも林立する銀成学園校舎。その間を
くぐもった怒りの叫びが駆け抜けた。
「いい加減にして下さいー!!!!」


 そして。
 爆発的事象を伴う煙がその場に居た総ての人物を覆い隠した。


 やがて煙が晴れた頃、立っている者は数えるほどしかいなかった。
 まひろは目をくるくるさせながら仰向けに倒れており、その横には目を×の字にした沙織の姿。うつ伏せになった千里の
の表情は当然分からないが、喪神しているのは明らかだった。「なんで私まで……」と魘されるのはヴィクトリアで、無銘は
なまじ毒への耐性があるせいか気絶もできず地面をのたうち廻っている。(優れた嗅覚に刺激臭がダイレクトヒットしてもいた)

「……ええと」
「すみません」
「大変なコトに……なりました」

 防護服とガスマスクとで難を逃れた防人と毒島と鐶は「あ」という顔で揃って廊下を覗きこんだ。

 所詮学校の窓である。気密性は薄かった。それゆえ煽りを受けたのだろう。

 早坂姉弟が白目を剥いて気絶していた。蟲のように地面に落ちた御前が泡を吹いて痙攣していた。
 通行していた無数の生徒たちもバタバタ倒れ始めている。


 つまり銀成学園は、おおむね平和だった。



【銀成学園。屋上】
 
 貴信は床の上にぼんやり座っていた。
 客観的にいえば香美があぐらをかいている状態なのだが、一応彼女と体を共有している身である。貴信もまた「座っている」
といえた。
 香美の目の前には斗貴子と剛太。まだ来ぬ防人たちについて愚痴をこぼし合っている。

 秋らしく床の感触はなかなか涼しい。きょろきょろと落ち付きなく目玉を動かし周囲を見る。一部やけに真新しい床板と
鉄柵が設けられている──屋上につくなり剛太が開口一番指差した。曰くこの前鐶にやられた。1階からここまで吹き飛ば
された。修理の跡だ──以外とりたてて特徴のない屋上だ。人気もない。
 ただ時おり生徒たちの声が下の方から響いてくる。校舎と校舎の間にある連絡通路からだろう。ここまで斗貴子と剛太に
両脇固められつつ『護送』されてきた貴信だ。当たり前だが屋上に行くためにはまず連絡通路を通り、校舎内の階段を登ら
なくてはならない。その道順を反復しつつ、「いかにも楽しそうな」生徒の声に溜息をつく。

(いいなあ!! きっとみんな楽しい学園生活を送っているというのに僕ときたら……!!)

 道中見た銀成学園生徒たちの輝くような笑顔が胸を抉って仕方ない。500mlのパック。菓子パン。幕の内弁当。それらを
ひっさげながら友達たちと昼休みモードでキャッキャしてる学生たち。中にはいかにもカップルという男女もいた。彼らは人目も
憚らず通路の端に座りこみ、手作りの弁当を「あーん」しあっている。それがますます貴信の心を辛くする。人間だったころ、
学生だったころ、円満な人間関係を築けなかった貴信にとって学園生活は地獄──(ハイみなさん2人でグループを作っ
て下さい!……あれ? ○○君だけまだですね。誰かー! ○○君とグループを作ってあげてくださいー!!」)──なのだ。

(て!!! 転入しなければ良かった!! 僕たちだけ寄宿舎に居れば……僕たちだけ寄宿舎に居れば良かった……!!)

 人知れず涙を流す貴信に気付いているのかいないのか。
 苛立たしげな叫びが屋上に広がった。
「……ガス中毒ぅ!? また何をやっているんだ戦士長たちは!!」
 屋上に不機嫌な声が轟いた。発信源を見る。ちょうどもの凄い形相の斗貴子が携帯電話を閉じるところだった。。
「どうしました先輩」
「早坂姉弟とまひろちゃんと若宮千里と河井沙織とヴィクトリアと鳩尾無銘がガスでやられたらしい」
「まさか……重症?」
「少し核鉄当てれば治るらしいが……他の生徒にも被害が出ている。戦士長と毒島と鐶で保健室に運びしだい、こっちに来る
そうだ」
「じゃあ特訓についての打ち合わせは? 大戦士長救出のための。今からやる予定でしたよね?」
「遅れるだろうな。まったく。今朝までに終わらせれば良かったものを」
「結局昨日は音楽隊の身の上話聞いて終わりでしたしね」

「つーかさ」
 それまで無言であぐらをかいていた香美が不思議そうに呟いた。
「もりもり(総角)とあやちゃん(小札)の名前でてこんかったけど、2人はなにしてんのさ? ここ来んの? 来ないの?」

 彼女を除く一同の目が点になった。一番早く動いたのは斗貴子で、彼女は電光のごとき素早さで携帯電話を開き、そし
て叩いた。20秒後。防人経由で現状と現況を把握したのか。彼女はこう叫んだ。

「ええい!! 逃げられた!!」
「逃げられたァ!!? まさかガス騒動のどさくさに紛れてですか!?」
「そうだ、小札を連れて!!」
「やばいじゃないですか! アイツ(副長戦の三分の一程度のページ数で負けたリーダーとはいえ)かなり強いんでしょ!」
 愕然たる面持ちで剛太が立ち上がる頃にはもう斗貴子、階段めがけ走り始めている。つられて貴信も立ち上がり、斗貴
子の後を追い始めた。
「ああもう!! だから裏返し(リバース)で拘束しろといったんだ!! 鐶と同じクラスにしておけばそれも可能だったろうに!!
『行くぞ香美! 僕たちも探すぞ!!』
「ああもうあの馬鹿もりもり!! 逃げんのはよくないでしょーが!! あんたはどーでもいいけどあやちゃんが困る!!」
「まだ遠くには行っていない筈だ!! キミは校外を探せ!! 私は校内だ!!」
「ラジャー!!」
「あと栴檀どもから目を離すな! 大事な人質だからな。いざとなったら利用して、脅して、抵抗できなくしてやる!!」
「ラジャー!!」
『え! なに、僕たちそんな扱い!?』
「さー出てこいもりもり!! あたしらの命が惜しかったらていこーをやめてでーてーくーるーじゃーん!!」
 口ぐちに叫びながら走る一同──香美はあまり良く分かってないらしく、剛太にぴょいぴょい飛び付きながら叫んでいる──
は階段に通じる扉を開き、そこに踏み入り、そして弾き飛ばされた。
 自画自賛したくなるほどの弾き飛びぶりだった。ばらばらと地面に散らばった一同は一瞬何が起こったのか判じかねた。

「バッキャロー大浜!! 斗貴子さんに何してんだ!!」
「ゴメン。急に走ってきたから」
「急いでいるみたいだけどちょっといい斗貴子氏?」

 扉から出てきたのは3人の男性だった。先頭にいたのは気弱そうだがひどく恰幅の良い青年で、彼への出会い頭の
衝突をして吹き飛んだのだと一同は理解した。その後ろには眼鏡少年とリーゼント。大浜、六舛、岡倉……貴信は彼らが
武藤カズキの親友というコトはおろか名前さえ知らないが、その顔には見覚えがあった。とても嫌な、見覚えが。

(確か授業中僕と目があった人たち!! マズい! まさか僕たちの正体を追求しに……!?)
 
 鼓動が跳ね上がる。汗が噴き出し香美の後ろ髪をべっとりと濡らす。大浜がこっちを見ているような気もした。

「ちょっと、といわれても。悪いが今は時間が……」

 口ごもる斗貴子の手の中で携帯電話が振動した。メールが届いたらしい。苦い顔の斗貴子がそれを剛太と香美に披瀝
した。

【差出人:フ】

【件名:フ。】

【内容:フ。失踪気味ですまない。いまから3分以内に屋上へ行く】

「……という訳だ」
「あんたさ、もりもりの名前「フ」で登録してんの?」
「違う!! 私が見せたいのはそこじゃない!! 奴がここに来るなら探す必要もないと!! ああもう! 音楽隊はこうい
う奴ばかりなのか!! いい加減いやになってきた……いつもこうだ、おかしな連中の面倒ばかり……」
 語調はだんだんと弱くなり後半に至ってはもはや泣き声だった。斗貴子の苦労が、伺えた。
「あの、もし3分以内に総角が来なかったらどうします?」
 やや蒼い顔で手を挙げる後輩に、先輩は迷いなく断言した。
「人質ごとブチ撒ける」
『やっぱり!?』
「あ、もう1通メール来たみたいですよ」

【フ。ちなみにいま小札をお姫様抱っこしているぞ。写真は1枚20円だ】

「知 る か !」

 凄い力で携帯電話が叩きつけられた。床板に罅(ひび)が入るほどだった。


「どうやら時間ができたみたいだし、単刀直入に聞くけど」

 騒いでいた一同ははっと六舛を見た。そして彼は言葉通りとても単刀直入な言葉を吐いた。

「あまり突っ込まないけど任務増えた? 演劇の方、どうする?」


 貴信は斗貴子を見た。「忘れてた!」。そういう顔を彼女はしていた。


「フ。成程な。状況を整理してみよう。まずパピヨンどのが演劇部の監督になった。部員への、とりわけ武藤まひろという
お嬢さんへの悪影響を懸念したセーラー服美少女戦士はそれを防ぐべく演劇部に入り、一晩だけとはいえ秋水ともども
演技の神様とやらの元で修行した。戻ってみるとパピヨンどのは3日後の劇発表を決めた。それは他の劇団との対抗形
式で、負ければ全員男女問わずのセーラー服着用。彼の影響、ますますもって広がるはまあ確実、絶対勝たねばなるま
い、と。フ。流石は俺の理解力」
「それが昨日の話だ。発表まであと2日しかない。だがお前たちの監視もしなければならないし」
「大戦士長どの救出に備え、俺たちと特訓もしなければならない、と。フ。すまない。悪いタイミングで忙しくしてしまったな」

 屋上の隅で斗貴子と総角がヒソヒソと話している。遠巻きに、訝しげに彼らを眺める六舛たちにはもちろん聞こえていな
いが香美(ネコ)と聴覚を共有する貴信には嫌というほど聞こえてくる。

「つかさあやちゃん、さっきからなんかあわあわしてるけどだいじょーぶ?」
「あわわ……お姫様抱っこ……お姫様抱っこ〜〜〜〜〜! 流れる金髪は正に騎士の如く、軽々と廊下を駆ける様たるや正
に英姿颯爽見惚れるほどの素晴らしさ! そもお姫様抱っこは乙女の憧れ拒める道理はありませぬ。腕Aが腕に当たり脇B
の下が逞しき胸板に当たるあの感触。腕Bを首に巻きつけるあの感触。嗚呼少女のロマンっ! 甘酸っぱさを感じずにはい
られません! それを何度夢見たコトか! 何度おねだりしたいのを呑みこんだコトでしょう! さささされど、されど実現した
らば抱えるは不肖が如きちんちくりん…………合いませぬ合いませぬパズルのピースが合いませぬ……にも関わらず生
徒どのに教師どのに老若男女様々な方々に見られ囁かれ囃し立てられまするは最早まったく羞恥の一言下車は不可! 
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしいィィィィー!! 抑え込まれ成す術なくあうあう首を振るばかりの不肖! そこへダメ押
しとばかり囁かれる悪魔の一言! 「お前軽いな」。ああああああああーっ!!! 直撃! 直撃ですーーーーー!! ぎゃあ
ああああああああああ!! 何という痛烈さ! 嬉しくも恐ろしきひとこ……ああっ、顔がッ、顔が近い! ダメですダメです
ダメなのでありますここは学び舎、人もおります! それ以上は、それ以上はーーーーっ!!」
「何言ってんだコイツ?」
 顔も真赤に瞳を渦巻かせる小札はまったく意識が混濁しているようだった。うわ言のように意味不明な言葉を吐くばかり
でまったくどうにもならなかった。時おり頬へオーバーアクション気味に両手を当てたり、首ごとおさげをブンブン振るが現世へ
復帰する気配はない。彼女が何かを拒むように両手をばたつかせた辺りで、剛太はなぜか総角を睨み、ひどく悔しそうな
顔をした。少し泣きそうだった。
「どーしたじゃんあんた! おなかいたい? おなかいたいときはクサ喰うといいじゃん。もさもさした丸っこいの吐くじゃん」
「うるせえ! 肩組みにくんな!」
「ヘーイ彼女! そんなつれない奴放っておいて俺とお茶しなーい!」
「しゃあー!! うっさい! さっきからあんたはなんか好かん! なんかこう、やな感じするじゃん!!」
 香美は牙を剥いた。恐ろしい気迫だった。
 それまでの鼻下伸びたエビス顔もどこへやら。岡倉はリーゼントも萎ませ崩れ落ちた。
「露骨すぎるからだよ岡倉君。付き合いたいならもっとこう手順ってもんが」
「下心バレバレ。せめて胸は見ない方がいいぞ。このエロスが」
「うるっせえ!! 黙って聞いてりゃ好き勝手いいやがってコンチクショー!!」
「お前もお前で俺にばかり絡んでくるな! あっちのリーゼントにしろ!! お前気に入っているみたいだし!」
「いやじゃん! ご主人かあんたに限る!!」
「なんでだよ!」
「なんでかは分からん!」

(なんかすごいなこの状況!!)

 貴信は笑いたくなってきた。分身のような香美が剛太とやいのやいのとじゃれ合い、六舛たちは軽く喧嘩し、小札は相変
わらず現世に復帰していない。総角はというと何やら叫ぶ斗貴子をまあまあと両手で制し、指を立てつつ語りかけている
らしい。説得。貴信がその内容を聞くともなしに聞いているうち斗貴子も譲歩する気になったようだ。彼女は不承不承と頷いた。

(いいなあ! こういうのが学園生活なんだよなあ!! 僕は参加できないけど、いいなあ!!」
「フ。参加したくばするがいい 。お前は自分が思っているほど嫌われる性分じゃあない」
(!?)
 髪のすだれの中で貴信は目を剥いた。すぐ眼前には見なれすぎた端正な顔。総角が余裕の笑みで囁いている。
 どうやら屋上の隅から一足飛びにきたらしい。面喰らった岡倉と大浜が「見たかよ今の動き!?」「早っ!」とざわつく中
音楽隊のリーダーは貴信の肩に手を置いた。
「弱さゆえに節義と正しさを守らんとするお前はその美点を知られさえすれば確かな信頼を得るコトができる。自信を持て。
たまには心を開いてみろ。人間だった頃とはもう違う。いまは仲間を、俺を頼れる。ヘマをやっても庇ってやるさ。頑張ろう。
俺たちと共に、楽しい学園生活のために」


(俺たちと共に……)


「フ。まだ復帰していないか小札。少々やりすぎてしまったかな?」
 目で追った総角は、ややバツの悪そうな笑みをしながらも小札の頭をくしゃりと撫でていた。彼女の耳が甲高い音と共に
蒸気を噴く中、香美は後頭部(貴信の頬の辺り)をぽりぽり掻きつつ、呆れたように呟いた。
「あのさもりもり。いまのあやちゃんにじゃれたいからじゃないでしょ? ご主人になーんかいいコトいったけど恥ずかしいから
ゴマカしてるって感じじゃん。恥ずかしいならいわなきゃいいじゃんあんた」
「フ。さあな。ところでそこの眼鏡の少年──…」
 細い後ろ髪をピンと跳ね上げた総角は告げる。音楽隊の命運を変えるかも知れない言葉を、六舛に告げる。

「演劇部の話は聞いた。俺たちも入部させて貰いたいが、いいかな?」

 貴信は確かに聞いた。総角と斗貴子の”密談”がこう締めくくられるのを。

「要は俺たちが演劇部に入ればいい。されば監視もやりやすい。特訓についてはアレだな。アクション。アクションの練
習のフリしてやろう。なぁに。銀成市民はノリがいい。鐶が変形しても貴信が手から光球出してもあまり深く突っ込まないさ」




【銀成学園の『地下』】


 時は少し巻き戻る。

「呆れた。保健室が嫌なんて」
「大仰なのは嫌いなんでね。なぁに。血を吐いた拍子に眠くなり倒れこんだだけさ。少々眠ればすぐ良くなる」

 真っ白な部屋だった。ベッドと、部屋の隅に洗面台がある以外はまったく何もない部屋だった。
 そんな部屋に『椅子を作って座りながら』ヴィクトリアはやれやれと微苦笑した。ベッドの上のパピヨンは強がっているが、
覆面(マスク)越しにもクマが見えるほどやつれている。
 原因は簡単で、最近彼は演劇部の監督と白い核鉄の精製を同時にこなしている。授業のある時間は研究室に引きこもり
放課後は銀成学園で監督業。それが終わればまた研究。ほとんど寝ていないようだった。
 ヴィクトリアとしては研究室を空にする是非も問いたいが、基本的に彼不在の時はヴィクトリアが研究室で番をしているし、
特に口やかましくいう必要もないとも思っている。加えて昨晩遅くようやく「嘗て彼の配下だったという」5体のホムンクルスの
クローンが完成した。ヴィクトリアの見るところカエル型はどうしようもない作るだけムダな役立たずのごみくずホムンクルスだが
他はなかなか強い。特にワシ型に至っては尋常ならざる忠誠心をパピヨンに抱いているようで、正に番人は適任といえた。
(もっともおかげで仕事が増えたわ。アイツらのエサを作るのも私じゃない)
 聞けばクローン元どもは無差別に銀成市民を喰い散らかしていたようだが、いまは時期が時期である。たかが動植物型の
食人衝動で騒ぎを起こし、戦団と対立するようなコトは避けたい……そういうパピヨンの意向を汲み、目下ヴィクトリアは
ママ味のミートパイを量産中である。

「しばらく寝る。起こすな」
 言うが早いかパピヨンはうつぶせになり、鼻提灯を出し始めた。
「器用ね……」
 目を見張りながら率直な感想を漏らすヴィクトリアは、そこできゅっと唇を結びゆっくりと上体を乗り出した。そして耳を澄まし
パピヨンが正体をなくしているのを認めると、視線を彼の掛け布団に移した。

(一番高くて柔らかいの買ってみたけど……寝心地、いい?)

 午前中の授業が終わるなりパピヨンからメールが来た。「手伝え」。訳も分からず指定の場所に行くと口から大量の血を
流し倒れているパピヨンが居た。ひとまず1階に運び更にアンダーグラウンドサーチライトの地下世界へ。しかし内装を
変えるコトのできる武装錬金といえど布団のような柔らかな物についてヴィクトリアは自信が持てず、取り急ぎ既製品を
買い求めた。店は遠かったし布団はかさばったが、その辺りの問題はホムンクルスの膂力と武装錬金の地下道を駆使
して何とかした。昨日聞いた総角のアドバイスを、実行した。

 パピヨンの寝息はまろやかだ。少なくても寝具が睡眠を妨げるほど劣悪というコトはなさそうだ。
(良かった)
 安らかな笑みを湛えながらしばらくヴィクトリアは鼻提灯を眺めた。安堵が全身に広がっているようだった。
(久しぶりねこの感じ。ママを看病している頃……熱が下がったり、呼吸が安定したりした時の)
 ひょっとしたらこういうカオのできるのが本当の自分かも知れない。とりとめもない考えを巡らせながらそっとパピヨンの
肩に布団を掛け、ヴィクトリアは地上に戻るコトにした。武装錬金の特性上、パピヨンはしばらく地下に閉じ込められるコト
になってしまうが、寧ろ外敵から守れるような気がして、それがヴィクトリアには誇らしかった。
(ま、目覚めたらすぐ出してあげるわよ。どうせ携帯電話で連絡してくるでしょうし)

 ヴィクトリアは無言で腕を振った。壁にも床にも天井にも、思いつく限りの防音設備を施して、それから外へ出た。



【銀成学園 華道部部室】
 
 華道部部室は騒然としていた。突然のガス騒ぎで多くの生徒が昏倒したため保健室だけでは処理しきれず、応急処置と
して畳のある華道部の部室に布団を敷き負傷者の介助に当てているのだ。
 その一角でヴィクトリアは歯がみしていた。


(今度は私が看護される番……? どうなってるのよ本当)


 恨めしい気分でいっぱいだった。戦士! 彼らの不手際のせいでヴィクトリアは療養を余儀なくされている。
 シャっという音がした。布団の周りを囲う水色のカーテンから栗毛の少女の首だけが生えていた。
「大丈夫びっきー? 一番高くて柔らかいの選んでみたけど……寝心地、いい?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
 ヴィクトリアは本当に心からまひろを怒鳴りつけたくなったが、それが原因で墓穴を掘るのも馬鹿馬鹿しいので取りあえず
頭まで布団をかぶった。そして真赤な顔で縋るように思った。
(だだだ大丈夫よ。偶然の一致に決まってるじゃない。だって私言ってないもの。言ってないもの……)

 ヴィクトリアが狼狽し生徒達がガスの余韻に苛まれる。
 そんな華道部に明るい声が響いた。

「ブラボーだ! 聞け、戦士・秋水! 遂に音楽隊も演劇部に加入だ!」
「総角たちが?」
 頭を押さえながら秋水は布団をはだいた。上体を起こすのもまだ辛い。鈍い頭痛に思わずこめかみを押さえると、今度は
軽い嘔吐感が襲ってきた。隣ではまだ桜花が白目を剥いている。白目!? 最初流した秋水さえ思わず二度見するほど
衝撃的な光景だった。才色兼備の桜花。男子の憧れの的である桜花が露もなく白目を剥いている。
「……!! …………!」
 戦慄(わなな)く唇から声にならない叫びを上げつつ桜花を指差すと、防人はポンと手を打った。
「ああそれなら大丈夫だ。人払いはしておいた。一般生徒に見られてはいない」
 手袋に指差されるまま振り返る。そこには即席のカーテンが広がっていた。どうやら外界との仕切りらしい。
 そうやって作られた2畳ほどの部屋の中に防人が立っており、
「桜花さんの顔……隠し……ます。バンダナ、で……」
「ダメです! 顔に白い布はダメー!!」
 後ろで鐶と毒島がじゃれあっている。
「しかし音楽隊が演劇部……? 確かに監視や特訓もしやすくなるだろうが、大丈夫なのか?」
「私は…………元演劇部……です。沙織さんに化けて……やって、ました。きっと他の人たちも……大丈夫、です」
 果たしてそうなのだろうか? 総角は目立ちたがりだ。頼みもしないのに出しゃばってきて、何もかもをブチ壊すのでは
……。そう思いながら秋水は別の疑問を口にした。
「無銘は? 鳩尾無銘は?」
「いま寝たところだよ!」
 まひろがカーテンを開けて飛び込んできた。ナース服を身にまとっているところからすると、他の生徒を看病しているよう
だ。
「君はガスから逃れたのか?」
「うーん。吸っちゃったんだけど2分ぐらい寝たら急に楽になってきて……」
(窓際に居た俺がまだこの調子なのにか? 君は確か外、毒島の近くに居た筈では)
「ホムンクルスでも直接吸えば10分は気絶するガスだったのですが……」
「動ける以上他の生徒さんの面倒を見るのは当たり前ッ! 何を隠そう私は看護の達人よ!!」
「で、鳩尾無銘は?」
 拳を固めるまひろに秋水は務めて静かに呼びかける。理解している。おかしなスイッチの入ったまひろに会話の主導権
を握らせていてはいつまでたっても進展しないと。
「えーとね、えーとね。隣の隣の隣のはすむかいのカーテンにいるよ! ついさっきまでとても苦しんでたけど、今は落ち付
いてるから大丈夫!
 でも……とまひろは表情を曇らせた。

「なんだか、うなされているみたい」


 鳩尾無銘は、夢を見ていた。


 授業が終わった後。
(確か師父達との合流場所は屋上だったな)
 そこへ向かうべく、防人や毒島、鐶と話していたらまひろが来た。
 彼女は屈託のない笑顔でこう聞いてきた。
「むっむーの好きな物は何? あと、周りに浮いてるのって風船?」
「わ、我の好物はビーフジャーキー……い、いや違う! 馴れ馴れしいぞ貴様!」

 あまりに邪気のない様子に無銘は一瞬釣りこまれそうになったが、忍びを自任する彼である。見知らぬ人間を気安く
信用するのはよくない。一瞬彼女の豊かな胸に視線が止まりかけたのも恥ずかしい。その癖彼女の衣服からは何か不快
な匂いも感じられた。
(…………? なんだ、この匂いは?)
 それは……。

  ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 遠い昔嗅いだ覚えのある
 匂いだった。忌まわしい記憶に付帯するくせに、ひどく甘く、かぐわしい匂いだ。一言でいえばコクのある柑橘の、いい
匂いだった。にも関わらず怒りと恨みと不快感しか覚えられない。とにかく奇妙な匂いで、それが無銘を困惑させた。

 
 以上のような感情がオーバーフローし、無銘はとりあえず赤黒い顔を背けつつ、ありったけ無愛想な声で応対した。
「古人に云う、親しき仲にも礼儀あり。初対面なら尚更だ! だいたいそのむっむーというのもやめろ!! 周りに浮いて
るのは龕灯(がんどう)!! 龕灯というのは懐中電灯みたいなやつ!」
「えー。無銘くんだからむっむーがいいんじゃないかなあ。あ、そうだむっむー! ビーフジャーキーはないけど、鳥の唐揚な
らあるよ!!」
 鳥……ニワトリ……軽い嫌悪を浮かべる鐶をよそに、まひろはガサゴソとポケットをまさぐった。
「まひろ。なんでポケットに唐揚げが入っているの」
「からあげ! からあげ!」
 千里のツッコミも気になったが、無銘はついつい瞳を輝かせてしまった。

 それが、良くなかった。

 気づけば無銘はまひろに揉みくちゃにされた。それは鐶のドーナツ好きが発覚するまでの5分間、たっぷり続いた。

「珍しいよね。まっぴーが男の子とスキンシップするなんて」
「そーだよね。なんでだろう……」
「なんか理事長さんと似てるからじゃない? ほら、目もととかそっくりだし」
「まさか兄妹!? あー、でも違うかも。名字違うし
「性格だって違うでしょ。とにかく放してあげなさい。」

 口ぐちに騒ぐ少女たちにとうとう堪えかねた無銘は。

「がああああああ! 離せ! 離さんかああ!」

 逃走を選んだ。
 背後で「毒島! キミが追え! 俺は鐶を見なければならない!」という防人の鋭い指示が飛んだような気もしたが、無銘
は逃げるのに必死でそれどころではなかった。全身に残る甘い感触の余韻を振り切るのに、必死だった。
 もみくちゃにしてくる女子。無防備なる女子! 外見年齢10歳の無銘をまったく男性として認識していないまひろは、
少女にするがよろしくすり寄ってきたのだ。柔らかなる手で少年無銘の肩を触り、頬ずりをし芳しい息を吹きかけ、抱きつく。
「お話しようよ〜」引っ張ったニの腕が例え自分の柔らかな膨らみに触れても彼女は顔色1つ変えないのだ。恐るべき弾力
だった。この世の何より柔らかく、まろやかだった。かつかつとした血の気が耳たぶにまで昇りつめ、黄砂の吹き始めたころ
の艶めかしい感情さえ全身を支配した。それだけでも無銘は自分をどうしようもできず困惑しているのに……。
 目の前で鐶が悲しそうな表情で自分とまひろを見比べている。
(……どうして我が貴様の勝手な表情に……胸を痛ませねばならないのだ!!)
 ますます混乱する。
 そうして少年特有のナイーブな感傷を持て余しているというのに、黄色い髪の少女(沙織)はからかってくるしまひろも可愛
い可愛いと飛びついてくる。特にどうというコトもない部位でさえ彼女はとろけそうなほど柔らかく、無銘はまったく(正直いって
かなり嬉しくもあったが、小札のような明るい少女を『そういう目』で見たくはない)、恥ずかしくて、いたたまれなかった。

(おのれ! おのれええ! あの女ども寄って集)たか)って我を弄びおって! かくなる上は何か忍法でおどかしてくれる! 
あ、ええと脅かすだけだなケガとかさせたら可哀相だし師父や母上に対する風当たりも悪くなる。うん。ちょっとビックリして
我をからかおうと思わなくなる程度の忍法だ。おう。何にしよ──…)

 子供らしい復讐劇を企てながら走っていた彼だが、その走りが徐々に遅くなる。
(?)
 高くもない鼻をひくつかせる。犬の嗅覚が何かを捉えた。
 軽く辺りを見渡した彼はやにわに平蜘蛛のように這いつくばり、床の匂いを嗅ぎ始めた。
「どうしました?」
 背後からシュウシュウという異様な音がした。振り返れば毒島が「飛んでいた」。ガスマスク後部に接続された無数のチュー
ブ。気体噴出で推進力さえ得られるらしい。
「というか、なんだそれは?」
 毒島の腕に視線が喰いつく。串刺しの焼き鳥がなぜかそこにあった。握られていた。
「武藤さんたちがお詫びにって……食べますか?」
「いや……そういう気分でもない」
「なにかあったのですか?」
 立ち上がった無銘は、両腕を揉みねじり、難しい顔をした。どう説明していいか迷ったが、戦団と音楽隊の関係を鑑みる
に隠し立ても良くないと判断し、ひとまずありのままを説明する。
「この学園。あの少女の服と云いこの廊下と云い、どうも覚えのある匂いが漂っている。それが気にかかった」
「? 無銘サンはお鼻がいいんですから、そういうコトもあるんじゃないですか? ほら、市販の香水とか整髪料の匂いとか
ならどこにあっても不思議じゃ……」
「我自身もそうは思う。だが、この匂い、我の忌まわしい記憶の中にありすぎる。まるで、我が生まれたあの場所にあった
ような……いや、我の誕生に関わった者たちの匂いのような……」
 毒島は軽く息を呑んだ。
「無銘サンの誕生に関わったのは確か、レティクルの幹部でしたよね?。『木星』と『金星』……その内どちらかの匂いがするって
いうんですか?」
「分からない。そこかしこにある分匂いは薄い。貴様がいう通り、奴らが身に付けていた香水なり整髪料と同じ物を使う生徒
がいる……それだけのコトやも知れぬ。だから我は、悩んで──…」
 どこか窓が開いているのか。風が突然廊下に流れ込んだ。それに頬を撫でられた無銘は言葉半ばで黙りこんだ。
「何か?」
「匂いが……濃くなった……」
「え!?」
 驚愕のあまり立ち尽くす無銘をよそに毒島は素早く指を立て、風向きを検証し始めた。
 数秒後。彼女は振り返る。ガスマスクのゴーグルに内蔵された望遠レンズを伸ばした。慌ただしく全身を揺すっているの
は発生源を探しているせいだろう。無銘は固唾を飲んでその作業を見守った。
 彼はその時、毒島が何を見ていたか、知らない。

(ありました!! 20m先! 確かに窓が。風はあそこから──… !?)
 本当に一瞬の出来事だった。
 その映像は、望遠機能で拡大しきった視界にさえ、本当にわずかしか映らなかった。時間的にも。面積的にも。
 果たして無銘には見えたかどうか。彼の武装錬金が「記憶に基づく映像の蓄積」だとしても、記録できたかどうか。
 開いた窓の近く。廊下の曲がり角。
 そこに、小さな影が吸い込まれていくのを毒島は見た。
 詳しい容姿までは分からなかったが、髪を後ろでくくっているのだけは辛うじて分かった。

 そしてもう一つ。人影は銀成学園の女生徒の制服を着ていた。

「居ました! あちらの曲がり角の近く!」
 とりあえず追うべく踏みだした毒島だったが、
「待て!!」
「きゃん!」
 矢も楯も堪らず駆け出す無銘に突き飛ばされ、転んだ。
「ごめん! 後で謝る!!」
 少年らしい声音で詫びながら無銘は曲がり角目がけて全力疾走し始めた。
(もしあの匂いが幹部のそれだとすれば!!)
 歯噛みする。凄まじい咬筋力が今にも奥歯をたたき割りそうだった。
(逃すわけにはいかない!! ずっとだ!! 我は奴らに復讐する時をずっとずっと夢見ていた!!!)
 鳩尾無銘はまだ母胎にいる頃、幼体を埋め込まれ、ホムンクルスになった。
 妊娠七週目。まだまだ人間の形には程遠い頃。絶対過敏期。催奇形がもっとも警戒される頃、帝王切開で剥き出しに
なった無銘は子犬基盤(ベース)の幼体を投与された。
 以来その余波で彼は人間の姿になれなかった。イヌ型……小さな小さなチワワとして生きるコトを余儀なくされた。
 もし彼の精神がまるきり獣のそれであればまだ楽だっただろう。
 だが、彼は人間の精神のまま成長する他なかった。心が人間でありながら、体はチワワのまま……。
(屈辱だった!! 母上も師父も優しくしてくれたが四ツ足で地面を蹴り皿を直接舐るような生活は……屈辱だった!!)
 そう仕向けた者たちは、記憶の中にいる者たちは、まったく遊び半分で「胎児以前の人間に幼体を投与した」。
 なぜそうしたかは知っている。聞いた覚えがある。
「ゲテモノを食べたい」
 それだけの理由で、母体の人間や胎内にいる人間の人生をめちゃくちゃにした。
 ようやく秋水との戦いで人間形態を獲得した無銘だが、それまでの塗炭の苦しみはまったく忘れようがない。異常な体を
与えた者たちを思う時、黒い炎が胸の中に燃え広がる。叫び、手近な何かを殴り付け、めちゃくちゃに壊したくなる。
(許せるものか! 『木星』に『金星』! 我を歪めた者たち!!)
 憤怒の形相で角を曲がる無銘は……。
 ちょうどそこから出てきた少女と衝突した。
「あた! ご、ごめんなさ……」
 咄嗟に謝りながら眉を引き締める。ぶつかった者が「匂いの元」かも知れないのだ。一歩飛びのき鼻を動かす。しかし
……「少なくてもその少女」から忌まわしい匂いはしない。辺りにはまだうっすら漂っているようだが……
(別人、か)
「あの、ここを曲がってくる人を見ませんでしたか?」
 一拍遅れて駆け寄ってきた毒島に、その少女は首を振って見せた。美しい金髪の持ち主だ。一目で外国人だと分かった。。
「誰も来なかったけど」
 振り返る少女につられるように無銘はそこを見渡した。どうやら渡り廊下らしい。一階にしては珍しく校舎同士を繋ぐその
廊下。側面には窓ばかり広がっている。駆けこめるような部屋はない。
「となると窓から逃げたのか?」
「調べてみます」
 そういって毒島がトテトテ駆けだした。やがて廊下の向こう側についた彼女はきょろきょろと辺りを見回しながら歩みを進め
やがて無銘たちの元へ戻ってきた。
「窓の開いた気配はありませんね。埃などの組成はどこも同じ。空気の流れた様子はありません」
 酸素濃度を一発で当てられる毒島である。空気に関しては相当の分析力がある……戦団でそう聞かされた無銘だから
頷かざるを得ない。
(ならば匂いの元はどこへ? そもそも匂いが濃くなったというのは錯覚、か?)
 悩む無銘へ急に冷たい声が突き刺さった。
「ところでアナタ、ホムンクルスでしょ? 周りに浮いているのは武装錬金? サーチライト?」
(え)
 無銘は知らない。彼女が今までどこにいたのか。
 ある種の親鳥は巣から直接飛び立たない。巣から離れた場所で飛び立ち、或いは着陸する。もしそれをやらなければ
──つまり巣を発着場にしたならば──外敵に卵やヒナを見つけられやすくなる。そんなリスクを避けるため、巣から離れて
飛び立つのだ。
 目の前にいる少女もそれと同じようなコトをやっていたのだが、無銘の知るところではない。地下に張り巡らせた迷路の
ような通路をぐねぐねと通り抜け、パピヨンの寝ている部屋から遠く離れたこの場所に登ってきたというコトも知らない。
 ただ彼女はその結果無銘とぶつかるコトになり、大変気分を害しているようだった。

「大方、武藤まひろと河井沙織に揉みくちゃにされて逃げてきて、何か復讐手段を考えているようだけど」

 長い金髪を筒で小分けにしたその少女に無銘は見覚えがあった。
 つい先日、総角と話しているのを見たコトがある。それどころか同じクラスにも居た。
 メールを交換しているという香美曰く、彼女もまたホムンクルスらしい。
(そそそそそういえばさっきはいなかった。手洗いに行くとか何とかで……!!)

 少女を中心に広がるのは冷たい雰囲気。武術を齧った強者のそれより冷淡な、女性ならではの威圧感。
 地鳴りさえ無銘は感じた。期せずして彼は、胆力で押されていた。
 そして不機嫌そうに目を細めたヴィクトリアが

「させると思う? この私が」

 細い手首をくるりと返した。

 浮遊感。

 そして、落下感。


 無銘があっと目を見開くころにはもう遅い。
 彼の足もとを中心に開いた六角形の穴は容赦なく彼を地下へと叩き落とした。


「走っていたし殺気が凄かったからピンと来たわ。ああ、武藤まひろと河井沙織に何かされたって」

「別に武藤まひろなんてどうなろうと知ったコトじゃないわよ。でも余所者のホムンクルスが暴れたら戦団がうるさいの」

 尻もちを突きながら無銘は見た。

 煉瓦塗れの殺風景な避難壕(シェルター)に冷然と立ち尽くすヴィクトリアを。
 彼女の横では壁が唸っていた。
 軋る床は今にも膨れ上がって無銘を飲み干しそうだった。

「ま! 待て! 確かに軽い報復を考えてはいたが、今はそれどころじゃないのだ! 話を──…
「あのコや河井沙織がケガするだけでも、ちー……若宮千里がすごく心配しそうじゃない。もし巻き添え喰らったりしたら……
もっと不愉快だし。とにかく」
 力ある言葉と共に世界が変わる。
 地下に地響きが木霊する。煉瓦達はいよいよ敵意の元、変質し始めているようだった。
 唖然とする無銘。その胸板をいつしか細い脚が抑え込んでいた。足蹴にされ、踏みつけられていた。
 状況も忘れ見とれるほど蠱惑的な器官だった。太ももの半ば、スカートと黒い靴下の間で僅かに覗く白い肌は薄暗い地下
空間でも艶めかしく光っていた。
「下らないちょっかいは──…」
 とそこまでいいかけたヴィクトリアは一瞬とてもあどけない表情で無銘の顔を見て、それから視線を追い、自らの脚を見た。
「〜〜〜〜〜〜!!」
 何か、誤解したのだろう。幼い顔を怒りと屈辱と恥辱とにたっぷりくしゃくしゃにすると濃紺のスカートを抑えた。
 下に向かって強く引かれた裾に無銘は叫びたかった。「違う」。「見えたら嬉しかったかも知れないが、違う!」と。
「お、お仕置きが必要なようね。躾けてあげる」
 無銘の胸板に一層強くかかった力は、誤解に基づく怒りを大変多く含んでいるようだった。

「え、ええと」
 とはいえヴィクトリア自身ここからどうすればいいかよく分からないらしい。
 少女らしい熱に浮かされた顔の中、尖った眼差しの中、冷めた瞳が泳ぎに泳ぎ。」

 やけくそのような叫びが地下を劈(つんざ)いた。

「下 ら な い ち ょ っ か い は 止 し て 頂 戴 !」

 胸板が潰れ肋骨の軋む音がした。息が出来ない中、名字と同じ部位が空気を吐きつくす中、無銘は痛感した。
 ヴィクトリアもまたホムンクルスなのだと。

 恐ろしい高出力があらゆる抵抗と叛意を奪う中、

 棘の生えた壁が両側から迫ってきた。

 叫び、ヴィクトリアの足を跳ねのけた無銘は……

 もうどうにでもなれ。手を燃やし、足元を凍らせながら吶喊した。

 そして。

 地下に少年の絶叫が響き、総てが終わった。


「やはりヴィクトリアの仕業か」
「はい。地下から戻ってきた辺りで無銘さんの態度がガラリと変わりました。ヴィクトリア嬢に何かされたのは確かかと」
 頷く毒島に「しかし……」と反問しようとした秋水の耳に破滅的な絶叫が届いたのはその時だ。

「あ、ああー!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい二度とあのお姉さん達にちょっかいを出さんと誓う! 本当だ!!
本当だから許し……ぎゃああああああああああああああ!!」

 悪夢がフラッシュバックしたのだろう。すごい寝言が華道部部室を揺るがした。思わずそちらを仰ぎ見た秋水は恐ろしく
濃度の濃い「恐怖の」「ニオイ」を感じた。無銘がいるであろう場所。そこのカーテンから紫の煙がどろどろと漂っている
ようにも見えた。

(えらい目にあった……えらい目にあった。あのおねーさんは怖い……とても怖い)

 布団の中、横向きに寝そべりながら無銘はただただ震えるしかなかった。心因性の凄まじい寒気が全身を貫く。顎の
筋肉が痙攣し歯の根もガチガチと打ち鳴る。
 恐怖はしばらく去りそうになかった。

「まったく。ホムンクルス同士仲良くすればいいものを」
 どこか論点のズレた意見を呟く防人だが、ふと何かに気付いた様子で秋水に呼びかける。
「いまキミは戦士・毒島に何か聞こうとしていたな? 何か疑問でも?」
「はい。毒島。君は確かに無銘が地下に引きずりこまれるのを見たんだな?」
「ええ。この目でしっかりと」
「なのにどうしてすぐ戦士長に連絡しなかったんだ? 君は俺たちを合流させようと懸命だった。無銘が地下に囚われたの
ならそれを何とかするべく応援を呼ぶのが自然だ。君ならばすぐ気付くはずだからな。自分の体格や武装錬金がアンダー
グラウンド攻略に不向きだと。応援を呼ぶのが最善だと」
 確かになと防人も頷いた。
「火渡のためにと俺たちを監督しているキミだ。任務で手を抜くなどというコトはあり得ない。ひょっとして何か、俺たちにい
えないような出来事があったのか?
「それは……」
 毒島は急に黙りこんだ。秋水はその反応に見覚えがあった。
(どこかで見たコトがある。どこかで……)
 何か伝えたいコトがあるのに、無理やり何かで押さえつけらているような気配だった。
「ああ。別に叱るつもりはない。突然のコトだったからな。自分で何とかしようとするあまり俺たちへの連絡を忘れてしまった
というコトもありうる。そもそも合流が遅れたのは俺のふざけ過ぎのせいだからな」
「そ、そうじゃなくてですね、あの……そのう…………」
 小柄なガスマスクの挙動がやや怪しくなった。毒島は落ち着きなく首を振り始めた。
 秋水が混乱したのは、彼女のそんな様子に自らの何事かまでが怪しくさざめき始めたからだ。
(思い出した。この反応は確か……昨日の津村斗貴子と同じ)
 演技の神様の”顔”を聞かれた斗貴子も同じような反応をしていた……そう気付いた秋水だが防人に報告するコトはできない。
(まただ、またこの感覚。言葉を出そうとしているのに何か『枠』のような物で押し込められているこの感覚)

 毒島もまた混迷を極めていた。」

(やっと思い出しました。防人戦士長。戦士・秋水。実は──…)

 決して吐けない記憶が脳髄の中で渦巻く。

(実は……!!)

 橙の雨。
 落ちてこなかった焼き鳥。
 品定め。
 天井から生える果実。
 蝋人形。
 黒ブレザーの少女。
 ポニーテール。
 磁力。
 斧のような刃。

 そして。

 カラフルで、恐ろしくまばゆい光。

 様々な単語と光景が断片的に浮かんでは消えていく。


「ひひっ!! しばらくわしらの事、黙っていて貰おうかのう〜〜〜〜〜」

「ハイ禁止、と。すいやせんねえ。もうすぐ全面戦争でしょ? それの最後の仕上げって奴でさ。今は」

(無銘さんが地下に行った後、私は)

「さて”ぶれいく”。昨晩わしが云うた通り行くでよ。ひひ。演劇をしよう」
「了解でさ”ご老人”。配置しますよ。クライマックス女史にリヴォルハインの旦那。ブレミュに顔バレしてねーお二方」
「そうじゃ。奴らめ使って演劇をしよう。ひひ。試してくれる炙りだしてくれる」
「最後の幹部。マレフィックアースを探すため……演劇をしよう! すね」

(敵に、レティクルエレメンツの幹部たちに……逢いました。でもそれが、言えないんです)

(気付いて下さい。敵はもう、この街……いえ、この学園にいます……!)

┌――――──┐
└――――──┘


┌――――――――――──┐
└――――――――――──┘


┌―――――――――――――――――──┐
└―――――――――――――――――──┘
                        



「ああっ!!!」

 毒島は叫んだ。全身の毛が逆立つ思いだった。床に開いた六角形の穴。それが無銘を地下へと引きずりこんだ。
 気付けばヴィクトリアの姿もそこにない。無銘共々地下に行ったのは明白だ。これから何が起こるのか……先ほど見た
少女の不機嫌ぶりからしてまず穏便には済まないだろう。大変な事になった。矢も楯もたまらずしゃがみ込む。
 余程慌てていたのだろう。それまで片手に持っていた焼き鳥が吹き飛んだ。
そしてそれは、天井めがけ大きく飛び、飛び、飛び……落ちてくるコトはなかった。


 代わりに、天井の辺りで粘着質な音が、した。


 何かが張り付いたような音だった。



 渡り廊下の湿度が微増した。柑橘の甘い匂いが濃くなった。

 異変が少しずつ始まっていた。


「あ、ああ……どうすれば」
 膝つきつつ床をポカスカと叩いてみる。特に変わった手ごたえはない。ヴィクトリアはすでに地上への道筋を閉ざしてい
るようだ。奇兵とはいえ火渡相手に副官をやれる毒島だ。切り替えは早い。すぐさま自力での打開を諦め、代わりにポケット
から携帯電話を取り出した。

(まずは防人戦士長に先ほどの人影と匂いについて連絡)

 思案を巡らす毒島は気付かない。その背後に舞い降りる影のあるコトを。

(髪を後ろで縛った小柄な女生徒)

 影は、先ほどの焼き鳥だった。

(背丈と髪型を伝えるだけでもだいぶ絞れる筈)

 焼き鳥は2つの変化を遂げていた。

 ネギや肉のところどころに齧られた跡があった。
 最も歯型の大きい部分には黄ばんだ糸がついており、糸はそのまま天井へと繋がっていた。

 ぶら下がっていた。
 ぶらぶら、ぶらぶらと。

 蜘蛛の糸に絡めとられた羽虫の残骸のように、ぶらぶら、ぶらぶらと。

 
 毒島の背後で、揺れていた。

(あの人影がマレフィック(敵幹部)であるにしろないにしろ真偽は確認──…   ???????)

 伝えるべき情報。その整理が終わるとともに外界へ振り向けられたリソース。
 それが毒島を振りかえらせた。
 果たしてそこには………………………………………………………………………………………………………………。
 何も、無かった。

(しかし、心なしか…………甘い匂いが濃くなったような……)

 匂い。無銘が忌み嫌う匂い。彼の生まれた場所にあったという匂い。
 或いは敵の幹部そのもののそれかも知れない匂い。

 甘い柑橘の匂いが、濃くなっている。
 先ほど無銘がそれに気付いた時……正体不明の人影が、居た。

 そう。

 いま、自分がいる辺りに──…。
 

 言い知れぬ恐怖が毒島の全身を包む。戦士としての勘が告げている。留まるのは危険だと。逡巡。場を離れるべく飛翔用
の気体さえ後頭部のチューブ群に充填しかけた毒島。しかしその視点がある一点に留まったとき毒島は硬直した。
 床。
 鳩尾無銘を飲み干した床。
 もとより彼の監視を仰せつかっている毒島だ。迂闊な動きは取れない。ヴィクトリアの持つあらゆる形質を鑑みるに無銘、消
失点にこそ戻ってくる公算が高いのだ。まして彼らは毒島の感ずる違和感も危機感も知らない。

(もし何者かが潜んでいた場合、ヴィクトリア嬢や無銘さんが奇襲を受けるコトも。地下から戻ってくると同時に、奇襲を。ホム
ンクルスとはいえ彼らはまだ戦団と敵対していません。今後を考えた場合、犠牲には)

 ましてここは学園。敵の気配を感じていながら逃げるという選択肢はない。
 にぎにぎしい生徒でいっぱいの教室を出てまだ1時間も経っていないのだ。彼らの取りとめのない雑談さえ脳髄に新しい
戦士が逃げる? 毒島は首を振る。そして重くのしかかるガスマスクの特性を反芻する。幸い眼前に広がる渡り廊下は
ほどよく密閉されている。能力行使に不利はない……。(ガス騒ぎの起こった場所は運悪く手抜き工事をされていた)

 なまじ戦士としての思考力があるばかりに彼女はその場に留まった。
 留まって、しまった。
 驚くほどの速さで毒島は携帯電話と向き合い、凄まじい勢いで指を動かし始めた。

(まずは連絡。何があるかは分かりませんが私の武装錬金なら時間稼ぎぐらいは。とにかく連絡さえすれば)

 何があろうと他の者が対応できる。

 そんな最終判断が。

 云い知れぬ恐怖感よりも任務への具体的方策を優先してしまえる精神力が………………………………………………。

 彼女の運命を、少しだけ狂わせた。

 文章が組み上がるまで15秒と要さなかった。
(後は、送るだけ……と)
 カーソルを『送信』に合わす。後はボタン一つ押すだけ……毒島がそう思った時、”それ”は起こった。

 ぴちゃり。

「……?」
 奇妙な物音に毒島は左右を見回した。何か、水滴が落ちたような音だった。しかし辺りにそういう痕跡はない。
 空耳? そう思いながらひとまずメールを送るべく液晶画面に視線を戻した毒島は…………………………凍りついた。
 橙色の雫。

 
. それが画面にこびりつき、光と色と文字をレンズの要領で歪めていた。

 ぴちゃり。
 ぴちゃり。
 ぴちゃり。

 愕然と立ち竦む毒島をよそに雫はなおも降り注ぐ。豪雨の中のフロントガラスのように携帯の画面はあっという間に橙の
粒に覆われた。画面だけではない。真鍮色のガスマスクもまたオレンジの雨を浴び始めた。注ぐ。注ぐ。謎めいた橙の雫は
いつしか毒島を中心に勢いよく降り始めていた。
(いったいどこから……?)
 ぞぞぞと身を伸ばしながら彼女が天井を見たのは、まったく反射的な行為だった。

 そして、見てしまった。
 天井板の隙間から。橙色の粘液が滾々と染み出しているのを。その粒が、廊下に降り注いでいるのを。

 渡り廊下の天井はもはや一面橙の雫に侵されていた。碁盤のように張り巡らされた板の隙間という隙間からオレンジの汁
がニュルニュルと分泌されている。それらは重力に従い落下する。大きな水滴も小さな水滴も一切合切の区別なくばちゃ
ばちゃと爆ぜ割れ、床のそこかしこでおぞましくも芳しい水たまりを作っていた。
 窓に散った水滴もある。昼休みを満喫しているのだろう。遠く向こうで談笑する生徒の景色をおぞましく歪めていた。
 あたかもこれから彼らに何をするのか、暗示しているように。毒島の顔から血の気が引いた。
「ひっ」
 また水滴が当たった。肩に沁み込んだそれは生暖かさを増しているようだった。
 全身がびくついた。その拍子に携帯電話が零れおち、床を滑った。
(しまった、つい! これでは防人戦士長に連絡が……!!)
 拾いに行こうと足を踏み出した毒島だが、そこで彼女は更なる異常に気が付いた。
(体が……動かない……!?)
 歩こうとしても体が前身しない。踏み出そうとする脚が鉛の枷をつけられたように重いのだ。
「重力攻撃? ヴィクターのような? い、いえ、というより、これは」
 彼女は気付いた。
 橙色の水滴たちがいつの間にか集合しているのを。水たまりと化したそれが毒島の両足をすっかり覆い尽くしているのを。
 おぞましいジェル状の感触が足首を登ってくる。もはや雫と呼べる代物ではなかった。正体不明の軟体動物のようなそれは
じゅらじゅらと音を立てながら毒島の両足に纏わりついている。粘土のような糊のような感触だ。怪物映画の主役が口から
吐くねっとりとした不潔感。それが現実のものとして足を蝕んでいる。気死しそうになりながら、毒島は自分が動けない理由
を分析した。
「これは……磁力?」
 横目に、ある風景が見えた。
 肩に染みついたオレンジ色の粘液が、後ろに向かって動いているのを。
 いつしか粘液は尖っていた。毬栗(イガグリ)。4分の1ほどに斬りおろしたそれを貼りつけたような、或いはヤマアラシが
肩に現れたような、兎にも角にも無数の棘がごちゃごちゃと無造作に連ねられ、携帯電話と反対方向、毒島の行くべき道
とは真逆の方へ突っ張っていた。再殺部隊の制服。その肩の生地は今や毒島の肌から大きく浮き上がり、後方へ後方へ、
棘によって引っ張られていた。
 それを見た毒島の瞳が大きく開き──…
「確かに柑橘の匂いがしますね。先ほど見た人影とはつまりあなた」
 白く光ったゴーグルに覆い隠された。
「……ひひっ! 御名答!!」
 声は、上からした。ある程度予想していたのか。毒島はひどく落ち着いた様子でそこを見た。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花。現象が明確なればなるほど研覈(けんかく)の、追及心が先立つか。ひひっ!! 流石は
かの根来めの侶儔(りょちゅう)……ともがら、奇兵仲間というだけのことはあるのう。いやあ流石流石。………ひひ」
 ひ弱に見えるが戦部・根来といった奇兵連中と肩を並べる毒島だ。同年代の一般人よりは遥かに肝が据わっている。
「………………戦士・根来ですか。戦部ではなく彼を。つまり、アナタも忍b」
「ひひっ。それについてはのーこめんと! なぁに安心せぇ。わしは別にヌシを害するつもりはないよ」
「……」
「そう。害するつもりはないよ。先ほど注いだのだって毒ではない……。ただの、よ・だ・れ……じゃっ!」
 毒島は眼前に広がる「あり得ない景色」を見ても、寧ろ頭が冷えて行く思いだった。
 先ほど粘液が吹き出していた天井板の隙間。
 その中のある一点。毒島にほどよく近いある一点から……。

 少女が生えていた。
……。
 
「胸から上だけの少女」
 
 が、生えていた。

「枯れ尾花という割には瑞々しい、果実のような姿ですね」
 毒島の修辞は皮肉でもなんでもなかった。少女の体は天井から直接生えているという訳ではなかった。
 天井板の隙間から「茎のような」粘液がおよそ30cmばかり生えていて、それが途中から急に膨れ上がり「胸から上だけの」
少女を形作っていた。当然さかさまになっている少女だが、さほど気にする様子もない。後ろでくくった髪の毛らしい造形も
垂れさがる気配はない。
 おぞましい橙一色、蝋人形のような少女の顔の造詣の中で、大きな瞳だけがどこまでもキラキラと輝いていた。
「果実か。ひひ。こう見えてとんでもない年寄りじゃがのう」
「??」
「それにわしはどちらかといえば肉派よ」
 そういいながら少女は串ざしの焼き肉を一齧りし、あむあむと咀嚼を始めた。
「その焼き鳥。私が持っていたものですか?」
 問いかける毒島だが返事は来ない。少女はいよいよ焼き鳥にむしゃぶりつき始めた。心ここにあらず、焼き鳥を食べる
のに必死だった。エサにありつく子犬のように一心不乱だった。そうして頬をぶうぶうに膨らませながら食べる、食べる、食べる。
「はぐはぐっ。はぐ!! うん旨い。肉の質も良いが何よりたれが良いのぅ。美味なりし美味なりし。ああ、旨いのう」
「あの、その焼き鳥……」
「のうのう! これ、これっ! どこで買ったのじゃ! なんかわしのつぼにはまった!!」
「あの、私の話を」
「ねぎの焼き加減がの! 絶妙なんじゃ! 産地はどこじゃ? 育て方の良さが味に出ておる!」
「さ、さあ……貰い物ですので詳しいコトまでは」
 食べかすを吐き散らかしながらまくし立てる少女を毒島は持て余し気味に見つめた。それは彼女が焼き鳥を飲み干し
口の周りのタレや食べかすを桃色の舌でぺろりと舐めとるまで続いた。
「お、おう。すまなんだの。質問に答えよう。うん。ヌシの持ってた焼き鳥じゃよ。ひひっ。まったく今の問答と言い先ほど
といい、わしという奴は、食い気を出すと必ずしくじるらしい」
「?」
「わからんか? 鳩尾無銘めに追われたわしはとっさに天井へと逃れた。本当は走って遁げようかと思ったが、地下から例
の最有力候補が昇ってくるではないか。見られてはマズい。そう思い咄嗟に天井へ”沁み込んだ”までは良かったが……
ほれ、ヌシが焼き鳥、吹き飛ばしたではないか。饑(ひだる)かったわしがつい武装錬金でこちらに……という次第じゃ」
 腕を揉みねじりながら少女はうんうんと頷いた。天井に固定された体が微かに揺れた。
「最有力候補が地下から? ヴィクトリア嬢が? いったい『何』の最有力候補ですか?」
「のーこめんと」
 低い鼻をこすりながら少女は笑った。どうやらわざと情報を小出しにし、気を揉ませようとしているらしい。
「まー、我慢はしようと思ったよ? 天井で飯喰わば気配でバレよう。だから我慢をしていたのじゃが、ほれ、我慢をしている
うちますます食欲が募ってなあ。そもそも無銘めを見たのも悪い……ひひ。ひひひ。10年越しの持粱歯肥(じりょうしひ)、
つまりは御馳走……あれの味を想像するだについつい思わず”よだれ”を垂らしてしまった訳でのう。いや失敬失敬」
 それまで明るかった少女の表情が、無銘を語る時だけひどく薄暗くなったのに毒島は気付いた。しかし御馳走? ホム
ンクルスたる無銘を指してそう言いきれるおぞましさ。
(ホムンクルスは人間を食べます。でも同族、ホムンクルスを食べようなどというコトはありません。それをやれるのは
ヴィクターのような”第三の存在”か、或いは」
「或いはヌシの朋輩、戦部とやらのように佯狂(ようきょう)酔狂極める輩か、じゃろ?」
「……」
 毒島は軽く息を呑み、少女を見た。驚きを感じたのは心を読まれたからではない。佯狂(ようきょう)。狂人のフリをする
コト。強者を喰らい精神を高ぶらせる戦部の儀式を”ママゴト”と言い切れる。ともすれば少女自身、戦部に喰われるコト
があるかも知れないのに、まるで恐れている様子がないのだ。それが、不気味だった。
 そんな理解を理解したのか少女は軽く手首を翻し、得意そうに高説を始めた。
「おっと。馬鹿にはしとらんよ。”さいえんす”の見地からすれば甚だ不合理、実効性もないことをこれ見よがしに繰り返す
のはまさしく狂人のふりじゃが……それを以て不可能を打破できるところにこそ人間の良さがある。事実わしはじゃな、
彼にこんぱすーを感じておるよ。うん」
「コンパス?」
 何をいっているのだろう。目を点にする毒島に「しまった」という顔が返ってきた。少女は困ったように眼をつぶり、人差し指
でこめかみをグリグリといじり始めた。
「そ、その、じゃな。ほれ、ほれ。共感、という意味の。しんばるーじゃなくて、ええと、ええと。何じゃったか。しんぼるー?
あ、てれぱしー!! てれぱしー!!」
「シンパシー、では……」
「え?」
「だから、感じるのはシンパシーなのでは……」
「ふぇ」
 少女の双眸がじわりと濡れた。大きな瞳は今にも溢れんばかりの涙に満たされている。
(今の指摘のどこに泣く要素が!?)
 のみならず彼女は腕で瞳をごしごしこすり始めた。涙をぬぐおうとしているらしいのだが、考えてみれば元々粘液状した
姿でもある。その行為に一体どれほどの意味があるのか。
「おのれ……なんで誰も彼もがわしを馬鹿にするのじゃ…………ちょっとぐらい横文字苦手でもよいではないか…………」
「よ、よくわかりませんがすみません」
「そ、そじゃ!! わしは漢字いっぱい知っとるんじゃぞ! 漢詩だって読み下せるし忍法もいっぱい使える! ちょちょちょ
長所の方が多いのじゃ! な! な!! 鼻が低くても横文字苦手でも良いじゃないかよ! のう!?」
「というか話、ズレてません?」
「よし一気に話を戻そう!」 泣いた鴉が何とやら。逆さづりの少女、満面の笑みで拳を突き”下げた”。
「まず戦部! 人の身ながらほむんくるすを喰うではないか? ならばほむんくるすたるわしがほむんくるすたる鳩尾無銘を
喰らおうとして何が不思議か? 大体あやつもともとわしの……よし!! この話題終了じゃ! で! よだれの話! ついよだ
れを垂らしたわしはヌシに気付かれこうなっている、と! 以上なのじゃーっ!!」
 何とも分からない少女だと毒島は嘆息した。明るいかと思えば薄暗い部分もある。そもそも敵なのかどうなのかもわから
ない。害を成すつもりがないなら、どうして拘束しているのか……左記のようなコトを告げると、少女はまた笑った。
「ひひっ。どの道ヌシは、わしの情報、防人めに連絡しようとしておったしな。よだれついでじゃ。動きを封じさせて貰ったよ。
いずれ干戈(かんか)を交える間柄とはいえいまはマズい。何しろわしはまだ地球を見つけておらん。この学園にいる筈の
最後の幹部。『まれふぃっくあーす』たりえる器を……見つけておらんからなあ」
(確か総角主税曰く、いま存命中のマレフィック……敵の幹部が冠するのは)

月。
水星。
金星。
火星。
木星。
土星。
天王星。
海王星。
冥王星。

そして、太陽。

(太陽系の惑星名。そのうえ更に、『地球』まで?)

(しかもその幹部が……ここ銀成学園に? いえ、というより最有力候補? 彼女が?)

 毒島は生唾を呑んだ。それに気を良くしたのが少女は楽しげに囁き始めた。

「最後の幹部はう゛ぃくとりあ。ひひ。ヌシはそう思っているのじゃろ?」
「ひっ」
 か細い肢体を震わせたのも無理はない。すでに粘液に拘束されている毒島だが、新たに纏わりつく物質があった。
 それは少女の、首だった。
 天井からぶら下がっていた少女のそれがいつの間にかニューーーーーーーーーーーーーーーっと伸び、毒島の体をゆっく
りと、ゆっくりと取り巻きつつあった。大蛇に巻かれるネズミの気持ちが分かるような気がした。そうやってせわしなく動きながら
少女は笑い、時には毒島の顔を覗き込みながら喋る。橙色の体の中で口の中だけが炎のように赤いのを認めた瞬間
毒島は怖気に震えた。並びのいい真白な歯がそのまま頭蓋を削りこんでくる気がした。桃色の舌が脳髄ごと思考を啜り
尽くしてくるような気がした。

「『まれふぃっくあーす』こそ丕業(ひぎょう)の鍵よ。我ら成すべき大事業のきーよ」

「総ては猷念(ゆうねん)、理想のための策謀よ」

「我ら庶畿(こいねが)う世界を創るため、『まれふぃっくあーす』は何としても必要……」

 ひどくカビくさい言葉ばかりが宙を舞う。それらを一つ一つ拾いながら心中で反復すると、毒島は自らの考えを述べた。

「あなたが学校にいる理由は、まさか幹部の……調整体の素材を探しているから、ですか?」
「ひひっ。言っておくが『地球』は別格。調整体などにはせんよ。何しろ世界を満たして貰わねばならんからのう。究極の破
壊と平和という奴を齎して貰わんことには癒されんよ。わしや! ともがらや! 盟主様の! 無念という奴がの! ひひっ!!」
「世界を、満たす……? 究極の破壊と、平和? まさかヴィクター化? いや、それ以上の存在に……?」
「う゛ぃくたー化あ? ひひ、そーんな100年前に作ったような、ひひ! 作ったようなものに今さら頼るかよ! ひひ!! ひひひ!!」
 狂ったように笑う少女の胸がぶちりと千切れた。果実でいえば正に「もぎ取られた」彼女はそのまま床に落下しバシャリと
弾けた。バケツ一杯の水を撒いたような音が廊下に響いた。もはや少女の姿はどこにもない。落下地点を中心に無数の橙
色した粒が大小もさまざまに散らばり、昼の光をてかてかと弾いている。瑞々しい柑橘の匂いがぱあと広がり、毒島の鼻孔を
くすぐった。
(消えた? い、いえ……)

「まれふぃっくあーす」

「其れは後天的に作れる物ではない」

 毒島は戦慄した。床に散らばった『少女だった水滴』。それがズズ……、ズズ……、とナメクジのように這いずりながらある
一点に集結していく。先ほど床にできた水たまりも同様だった。天井板の隙間に溢れたものも……。

「まずは稟質(ひんしつ)。生まれつきその本質が清らかであることが肝要」

「次に現状。幸福であってはならぬ。幸福であってはならぬのじゃ…………」

「清らかながらに深い悲しみを宿している。う゛ぃくとりあめはかなり良い線じゃ。良い線じゃなあ。ひひ」

 粒たちは動きこそゆっくりだったが確実に確実に集合し、その体積を増しながら進んでいく。最初はどれも10円玉以下だ
った大きさの水滴たちは今や重厚なサーロインステーキほどだ。それがおよそ50。ズズ……ズズ……と粘り気のある音を
立てながら集まっていく。

「天然自然。性格的、武装錬金的条件が合致せねばならぬ……」

「我らの求める条件。ぱぴよんめが有する『もう1つの調整体』の形質に合致する者こそ」

「まれふぃっくあーすなのじゃよ」

 じっと立ちすくむ毒島をよそに欠片たちはとうとう総て合一した。
 オレンジ色の塊はまず棒状に直立し、全体全て雑巾のように捩じれた。後は各所を尖らせたり窪ませたり分断しながら──
さながらクレイアニメのように──複雑な変形を繰り返し。
「しかし困る」
 先ほどのすずなりの、蝋人形じみたものではない。
「せっかくの選別中に音楽隊が転校してくるとはの!」
 明確な少女の姿を、形成した。
(……私より年下?)
 異常事態の中に居るというのに毒島はそんな世俗的な感想を抱いた。
 眼前に居たのは見た目10歳にも届かない小さな少女。ポニーテールで、黒いブレザーを着ている。装飾といえば首元の
真赤なスカーフと両手についたブカブカの手甲ぐらい。カビ臭い口調とは裏腹にひどくあどけなく愛らしい、鼻の低い少女だった。
「ま! 許可を呉れてやったのはわしじゃがなあ。ひひっ。どうせ三日もすれば地獄を味わう奴ら……。何人下泉(かせん)に
行くことか。ひひ! 正直わしにも想像がつかんわい! 故にいまぐらいは温い平和とやらを楽しませてやるが功徳というも
の。ひひひ!!
 そういって少女は芝居がかった調子で両手を広げた。頬にニタニタと貼りつく笑みはやはりかなり薄暗い。ひどく老獪な光
さえ瞳の奥で淀んでおり、毒島は本当にこの少女が”少女”なのか疑わしくなってきた。
(少女じゃない? そういえば先ほど彼女自身もそんなコトを。……まさか))
「おうおう。わしばかりに話させるでない。ヌシももっとこう、何か云え。会話が成り立たんと寂しいじゃろが」
「総角主税や無銘サンから聞いたコトがあります」
「ひひ?」
「レティクルエレメンツには見た目こそ少女でありながらおよそ500年以上生きている幹部がいると」
「ほう」
「『木星』。伝説的な忍びだそうです。10年前の戦団との決戦では終ぞ戦士の誰にも顔を見せるコトなく逃げおおせたとか」
「イオイソゴ=キシャク。まあ確かにわしのことじゃが……今さら顔を覚えても無駄じゃよ」
 ドス黒い笑みが少女……いや、イオイソゴの顔に広がった。
「どうせヌシはもうすぐこの件に関し、何も言えなくなる……」
 言葉と同時に粘液の締め付けが一層強まる。磁力ががっちりと毒島を押さえつける。華奢な彼女では振りほどくコトはおろ
か動くことさえままならぬだろう。
 毒島は黙りこんだ。イオイソゴもまた、黙りこんだ。
 廊下は静寂につつまれた。
 今や響くのはガスマスクから洩れる吸気音のみ……。
「いやー。参りましたねこりゃあ」
 転瞬。毒島の視界を巨大な影が覆った。影、と見えたのは一瞬で、毒島はすぐにそれが刃と気付いた。
 ただの刃ではない。斧のような肉厚の刃だった。
(増援……?)
 突然響いたその声は、若い男性のものだった。
「おっじょーさん! いけませんねえそりゃあ。身動きできないからってそれは良くねーですよ。へへ」
 ガスマスク越しに人懐っこい顔がすり寄ってくるのが見えた。
「大人しくお話聞いていたのは情報引き出すためでしょ?」
 彼は毒島の肩に自分の顔を乗せていた。尖った磁石が刺さっているというのに、平然と。表情には恍惚さえ伺えた。
 そして光った。何かを囁かれたようだった。
 それだけで毒島は、それまでしていた「ある攻撃」をはたりとやめた。自分でも驚きながら、再開するコトはできなかった。
「何か……無色透明の有毒ガスであのご老人の動き封じようとしてたんでしょ? お嬢さんの考え通り、いま体を拘束して
いる粘液はご老人の武装錬金によるもの……」
「わしに有毒なる瓦斯(ガス)をば呉れてやれば拘束は緩んだやも知れぬ。そしてその隙に携帯電話を奪取。防人めに連
絡……と行きたかったようじゃがそうは問屋が卸さん」
 もがく毒島に刃が一層強く、押し当てられた。
「云ったじゃろ? 「どうせヌシはもうすぐこの件に関し、何も言えなくなる……」。ひひっ。という訳じゃぶれいく。やれ」
「黙っていて貰いやす。ご老人の特徴も含めてね。ひひっ」

 そして彼女の目を最大級の光が焼いた。

「危なかったすねえ。いまからメール消しやすよご老人」
「ごくろう。いやはやしかし食い気を出すと碌なことにならんのう。ひひっ!」
「またまた。本当は鳩尾無銘が転校してきて嬉しいんじゃないんすか?」
「ひひっ。愛しくはあるが食い気は出さんよ。今は。ヌシこそ小札零との再会が待ち遠しかろ」
「そりゃあもう。何せ……」

「小札さんってば俺っちのお師匠ですから!! 小札師匠っすよ小札師匠!」

 他にも彼らは二、三会話をしていたようだが、毒島はただただ何もできず立ち尽くすばかりだった。

(敵が傍にいるのに何もできない……?)
 新しく現れた男がメールを消している。それを見ているのにどうするコトもできない。凄まじい絶望感だった。
(これがあの男の武装錬金の……特……性……)




 無銘が地下から戻ってきた時。

 毒島はただただ茫然と立ち尽くしていた。

 辺りにはうっすらと柑橘の匂いが立ち込めていたが……。
 「何もなかった」。彼女はそれを繰り返すだけだった。

【9月13日】

──────華道部部室。ガス騒動の臨時避難所にて──────

「幹部が?」
「匂いがしたというだけだ。いるかどうかまでは──…」
 そこまでいうと無銘は額を抑え渋い顔をした。布団の上でやっと上体だけ起こしている。そんな様子だ。毒が抜けるまで
いましばらくかかるように思えた。
(妙だ)
 胸中の違和感がますます強くなっているのを感じ、秋水は黙りこんだ。演技の神様に逢って以来、何かが迫ってきている
ような気がしてならない。明確な敵意こそ感じないが、輪郭を得る前のそれが少しずつ街を取り巻いてきているような……
 そもそもなぜ「黙りこむ」のか。違和感を覚えたのなら他の戦士にそれをいい、対策すべきなのに。
「とにかく柑橘の匂いだ。いま気付いたがあれはマンゴー。マンゴーの香りだった
「もう一度追跡してみるか?」
「貴様と組むのは願い下げだ。師父や戦士長さんが命ずるなら話は別だが」
 ぷいと顔をそむける少年無銘に秋水は微苦笑してみせた。「随分嫌われたな」。根はまっすぐで素直な少年のようだが
それゆえの潔癖さが「かつて小札を両断した」、秋水を受け入れ辛くしているらしい。
「ねーむっむー。よく分からないけどマンゴーの匂いが気になるの?」
 しゃーとカーテンが開き、見なれた顔がぴょこりと入ってきた。「むっむーと呼ぶなあ!!」 絶叫もなんのその、まひろは
いつものような朗らかな笑みを頬いっぱいに広げて見せた。
「そうだよね。マンゴーの香水、最近流行ってるみたいだもんねー。色んなところにあったら気になるよね」

 血相を変えて飛び出す無銘を秋水は追った。
 果たして小さな忍者は首を左右に振ると、道行く女生徒達から致命的な何かを察知し──…
 愕然たる面持ちで振り返った。
 秋水はただ、頷くしかなかった。

 芳しいマンゴーの香り。

 それは人間にすぎない秋水でさえはっきりと分かるほど、辺り一面に広がっていた……。

「でも、いつから流行っているのかな? 気づいたらみんな付けていたような」

 まひろだけは不思議そうに呟いた。





──────どこかで──────


「リヴォルハインが来たからなwwwwwwwww」
「社員にせずとも全員に同じ香水使わせるなんてのいうのはこの上なく簡単です!」


──────華道部部室前廊下──────

「そうだ秋水先輩! 女装の件だけどね。ごしょごしょごしょごしょ……」
 無銘の瞳がギラっと光ったのは、まひろの挙動のせいである。彼女は背伸びをし、秋水の耳を両手で覆って内緒話を
仕掛けている。秋水やや面喰らったようだが、特に嫌がる素振りも見せずじつと言葉の終わるのを待っている。
(おのれ! 鐶の奴めが我にそういうコトする時はとても強引で力づくなのに!! なんでそんな優しい! おのれ!!)
「あ、ああ。そうか。感謝する」
 やがて解放された秋水は視線を微妙に外しながら素気なく答えた。いかにも朴念仁な態度だが、まひろは特に気にした
様子もない。楽しそうに笑いながらブイサインを突き出している。
「……というか女装? 何の話だ」
「そういえば君はあの出来事を知らなかったな」
 細い溜息を洩らすと秋水は訥々と語りだした。
「昨日の話だ。演劇部の女子部員たちが、俺に女装させる。そういってはしゃぎ出した」
「女装か。まったく碌でもない行為だ。師父も同じコトを仰るだろう
「?」
 とにかく女装。
 火を付けたのは沙織である。2日後の演劇発表。それで負けたら(結論からいえば)男子は女装というパピヨンの提案に
悪ノリしたのか、「じゃあ勝つために秋水先輩に着せよう!」と言い出したのだ。些か破綻した論理であるが、彼女曰くそう
いうやり方で耳目を集めれば必ず勝てる、らしい。もっとも実際のところは「面白いものがただ見たい」であり、そのフザけ
た理屈をいかにもな正当性で押し通そうとしているだけであろう。
「で、貴様はそれに薄々気付きながら、同調する女生徒どもをどうにもできなかった、と!!」
 あらましを聞いた無銘は秋水の胸に人差し指を突きつけつつ「ざまあ見ろ」と笑った。とても嬉しそうな表情だった。歓喜と
恍惚に支配された子ども野獣の黒いカオ(表情)だった。
(そういう君も河井沙織やヴィクトリアといった女生徒をどうにもできなかったのでは……)
 内心突っ込む秋水の横で「でね!」とまひろが指を立てた。
「私みんなにいったの。やっぱり秋水先輩嫌がってるし、ダメだよって。そしたら何とか阻止できて……」
「どうして止めた貴様アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
 無銘は咆哮した。両掌を天に向け全身を震わせた。眦(まなじり)に涙さえ浮かんでいる気がした。
「え?」
「くそう! 我はこやつがもの笑いの種になっている様を見たかったのに!! ザマ見ろザマ見ろって指差し爆笑し、溜飲を
たっぷり下げてやりたかったのに!!!」
 地団駄踏む少年をまひろはしばらく不思議そうに眺めていたが、やがてどんぐり眼をパチクリさせこう言った。
「あ、ひょっとしてむっむー、女のコの格好がしたいの?」
「どうしてそうなる!!? 我の言葉、理解してるのか貴様!!!」
「似合うとおもうよ。むっむー可愛いもん。理事長さんにも似てるし」
 瞳を細めまひろはえへらと笑ってみせた。年老いたネコを思わせる長閑(のどか)なカオだ。だが却って無銘の苛立ちは
倍加した。更に文句を垂れるべく口を開きかけたが──…
「止せ無銘。彼女はともかく他の生徒に聞かれたらマズい。今度は君が無理やり着せられるかも知れない。セーラー服を」
「セーラー服……?」
「そうだ。女生徒たちが着せようとしていたのは……セーラー服だ。」
(!!!!!!!!!)
 セーラー服。その単語におぞましい記憶が蘇る。地下で見たヴィクトリア。彼女の着衣はそれだった。仕打ちの数々が
蘇る。恐ろしく冷たい眼差し。頭を踏みつけられる屈辱の記憶。そういえば彼女も演劇部という話を聞いた。今の話が
耳に入れば間違いなく強引に、無銘の衣装を変えるだろう。
 そう。
 おぞましい拷問を間に挟み!

「やだやだやだやだやだやだそれは怖いそれは怖い。頼む勘弁してくれ許してくれもう逆らわないから見逃してくれ……」

「むっむー。どうしたの? まださっきのガス残ってる? だるいならお部屋で寝る?」
「あまり突っ込まない方が」
 廊下の隅で膝を抱えてガクガク震える無銘を秋水は気の毒そうに眺めた。ヴィクトリアに何をされたかは分からないが、
トラウマなのは明らかだ。耳を抑え、首さえ左右にぶんぶん振りたくる彼はとても怖がっていた。
「分かった。無銘。ヴィクトリアには俺から話しておく。だからもう怯えなくていいんだ」
「ううううるさい。貴様の助力などいらん。そうだ。これは試練だ。我は自力で乗り越えるんだ」
「びっきーに何かされたの? で、でも恨まないであげてね。根はすごくいいコなんだよ」
 まひろは無銘をひどく心配そうに眺めながら、ヴィクトリアのフォローも一生懸命やっている。
 優しい少女だ。
 横顔を見ながら秋水は思う。毒島のガスを喰らってもまったくピンピンしているところは異常極まりないが……すぐ他の生
徒の看護に回ったところなどやはりカズキの妹である。年下だが、年齢など関係なく尊敬できる。率直な実感が胸に満ちる。
暖かな気分だった。栗色の髪。太い眉。白い鼻梁。大きな瞳はやや愁いを宿しながらも澄み渡り、初夏の泉のような輝きに
満ちている。そんな横顔を眺めているだけで秋水は澱(おり)や濁りが溶けるのを感じた。無数の傷で引き攣(つ)れた精神
から強張りが抜け、辛く抱えた様々へ立ち向かう勇気さえ湧いてくる気がした。無銘のコトは、忘れていた。
 どこからか風が吹き、マンゴーの爽やかな匂いが髪や鼻孔をくすぐった。爽やかな気分だった。視線を外すのが惜しま
れる気がして、もう少し、もう少し……風の中、同じ姿勢を続けている。

「むっむー大丈夫かな?」
 不意にまひろがこちらを見た。
 目が、合った。
 その瞳に映る2つの秋水はすっかり安らかに相好を崩していて、だからこそ彼は狼狽した。
 笑いながら人を凝視するのは無礼……。生真面目さゆえにそんなつまらぬコトが頭を巡り、慌てて視線を逸らすしかなかった。

(え? え? なんで秋水先輩、私見てたの? しかも笑ってたよね? え? どうして? どうしてなの?)
 まひろはまひろで大混乱である。秋水同様慌てて視線を外したきり、何もいえずただ俯いた。
 豊かな胸の奥で鼓動が強く大きくなるのを感じた。血で肥大した心臓がそこをきゅうきゅう締め付けているようで、息を吸う
たび苦しくなる。
 顔が熱い。耳たぶも。大きな瞳を切なげに細めながら首を振り、言い聞かせる。きっとそれはガスのせい。さっき吸いこ
んだガスのせい……。そう思わなければどうにもならないほど、気恥ずかしい気分だった。
 もしカズキが同じ反応をしていたらこうはならなかった。
「やっぱりお兄ちゃん斗貴子さんのコト好きなんだー」
 そういって沙織や千里と楽しく騒いでいただろう。
(じゃ、じゃあ秋水先輩、まさか私のコトを……)
 勇気を出して顔を上げる。秋水もこっちを向いた、またも視線は出会い頭の衝突だ。
「!!」
(〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!)
 もうまひろの頭の中はぐしゃぐしゃだ。結んだ唇がもにゃもにゃの波線になっているような錯覚さえある。微熱はいよいよ
全身に広がり切ない痛みが胸を刺す。とりあえず気まずそうに横を向く。できるのはそれだけで何をいえばいいか分からない。
(ど、どうしよう。また目が合っちゃった。何か言わなきゃ。何か言わなきゃ。秋水先輩アレでけっこう照れ屋さんなんだから
私が黙りこんじゃダメだよ。ほ。ほら秋水先輩だって困ってる)
 横眼でチラチラ伺う秋水はほとほと困ったようにまひろのつま先を眺めている。また目が合わないよう気を配っているの
だろう。
(だだだだいたい秋水先輩が私のコトをなんて……ないないない。ないよそんなの! 絶対! ある訳が──…)
 きっと今の思い込みはただの自意識過剰なのだと縋るように考える。
 秋水ほど見栄えのいい青年はいない。剣戟においては並ぶものはいないし成績も優秀だ。さまざまな奇縁があったとは
いえまひろとは到底釣り合わない。そもそも彼がまひろに抱く感情はかつて贖罪とともに総て聞かされている。そこには
投影や共感こそあれ恋慕はなかった。なかったからこそまひろも秋水の吐露を受け止め、ともに頑張ろうと思っている。
(そ、そうだよ。それだけ。だいたいいま秋水先輩大変なんだよ。お兄ちゃん帰ってくるまで一生懸命この街守らなきゃいけない
んだから。ちょ、ちょっと目が合った位で「まさか私のコトを」なんて騒いじゃダメだよ。どうせ勘違いなんだし、迷惑……だよ)
 だから協力だけしていけばいい。それが約束なのだから。
 頭では分かっているつもりなのに、いざ割り切ろうとするととても寂しい気分が襲ってきてまひろは困った。
(どうしよう。最近、私。やっぱり)
 葛藤の原因が薄々ながら分かってきた。
 でも、それは、恋愛沙汰より秋水を困らせそうで。
 武藤まひろはただただ貝のように口を噤むしかなかった。

(……あれ? この様子とか我の龕灯に記録したら)
 やっと恐怖から脱した無銘は2人の様子を交互に見ながら考える。
(こやつらへの報復になるのでは? 早坂桜花とかに見せたら間違いなく弟からかうだろーし)
 龕灯の武装錬金・無銘は創造主の見た物を録画できる。いま黙りこくっている秋水とまひろを凝視すれば未来永劫その
様子を残せるだろう。小札を両断した秋水。過剰なスキンシップをしてきたまひろ。2人の恥部を他者に明かせるのだ。
これが報復と言わず何と言おう。
(ただ)
 と無銘の動きが途中で止まる。胸中に訪れたのは、声、だった。

──「むっむー。どうしたの? まださっきのガス残ってる? だるいならお部屋で寝る?」
──「分かった。無銘。ヴィクトリアには俺から話しておく。だからもう怯えなくていいんだ」

(…………ま、いっか)
 
 なるべく彼らを見ないよう、少年無銘はうずくまるフリをした。

 
 3人が思い思い振舞う間にも生徒の往来は絶えない。

「午後の授業中止だって。ほら、さっきのガス騒動のせいで」
「ラッキー。今日は早く帰れるぜ」
「ところでアレ……副会長じゃね?」
「片方は1年の武藤。ガワだけ可愛いイロモノと評判の」
「馬鹿見るな。取り込み中だぞアレは」
「以下小声で」
(まさか告白中!?」
(してるの? されてるの?)
(いーやそこまで行ってない)
(どっちもまだ自分の感情に気付いていない)
(だから情動をうまく処理できなくて困ってる)
(中学生か! 昭和の!)
(でも一番おいしい時期だぜ)
(ああ、一番おいしい時期だな)
(付き合い始めりゃ夢はない!!)
(名言だ)
(名言だ)
(夢が覚めたら普通の人)
(あなた努力が足りないわ)
(古いわお前ら!)
(カレシ持ちの愚痴聞いてみ? 恋愛幻想薄れるぜ。ケケ)
(伝聞で決めるのは良くない。付き合っている状態にもそれなりの良さが)
(俺が聞いたのは、俺のカノジョの俺に対する愚痴なんだよ……)
(うわ)
(キツっ。それはキツっ!)
(他にも幾つかあるぞ。生々しい、解決が何の感動も生まなかった事例が)
(やめ! したコトない奴ほど恋愛に救い求めてるんだぞ!)
(いや救い求めるほど破綻するのが恋愛だから)
(でも副会長なら大丈夫じゃね?)
(うん)
(相手の女のコは?)
(イロモノだからこそ幻滅はない!)
(そうか)
(良かった)
(良かった)
(頑張れ)
(頑張れ)
(でも学校でいちゃつくのはやめてね。見るの辛いし呪い殺したくなるから)
(そーだそーだ)

 囁く生徒たちだがそれでも空気を読んでるらしい。素知らぬ顔で通り過ぎていく。
 そんな彼らが20人ばかり通過したころ。
 ようやく、秋水が口を開いた。

「ところで……。他の部員を説得してくれた事、心から感謝している」
「あ……。ううん。この前私のあだ名のコトで困らせちゃったしそのお詫び。気、気にしないで」
「そうか」
「うん」
「…………」
「…………」
 また、会話が途切れた。
(ああ、また! でもダメ! 今度こそ喋らなきゃ! 秋水先輩優しくてマジメだけどそのせいで堅くなりがちで口下手なん
だから! 私が何かお話しないと間が持たないよ。話題! こういう時は何でもいいから話すのよ! じゃないと気まずく
なる一方! よし、じゃあ喋るわよ私。大丈夫。何とかなる! 自分を信じて!!)
「ところで一つ聞きたいのだが」
「って先越されたーっ!?」
 がーん。そんな擬音も背景にまひろは絶叫した。絞り出すようなソフトな声が廊下の奥まで木霊した。
「どうかしたのか?」
「成長したね。成長したね秋水先輩。良かった。もはや師匠として教えられるコトは何もないよ」 
「師匠……いや確かに会話について手ほどきを受けた覚えはあるのだが」
「過去の話だよそれはもう。今日から先輩とは師匠でも弟子でもない。ライバルだよ」
 恥ずかしいやら悔しいやら。まひろの閉じた瞳から滝のような涙があふれた。
「よく分からないが、俺はいま、質問していいのか?」
「もちろんだよ。私もそっちの方が、その、助かるし」
「?」
 秋水は気付かない。この時自分を捉えた瞳が、僅かだが熱く濡れており、微かに「色の良い」返事を期待していたコトに。

「昨日はセーラー服騒ぎのせいで聞けなかったが、あの時、君の瞳が少し赤くなっていた。もしかして……何かあったのか?」

 まひろの顔が一瞬驚きに染まり、次いでフクザツな表情へと変貌した。
 悲しさと、申し訳なさと寂しさと……ほんの少しだけの「期待はずれ」が混じった表情だった。

「大丈夫」
 すぐさままひろはいつものような笑顔になった。
 まるでいつも通りを懸命に再現したような笑顔に。
 そして後ずさった。胸の前で平手を2つバタつかせながら。

「特に何もなかったから! 気にしないで! ね!!」

 上げた声はいつもよりやや甲高い。訝る秋水は更に2、3質問したが──…
 彼女はまくし立てるように「大丈夫」だけを連呼し、廊下の奥へと駆けて行った。



「朴念仁が!!!」



 追うべきか追うまいか逡巡する秋水の後頭部が衝撃に見舞われた。
「無銘」
 振り返れば忍びの少年が凍った手拭を持っている。なにで殴ったかは明言するまでもない。
「確かに今の質問は良くなかったな」
 無銘の横にはいつの間にか防人も立っている。どの辺からは分からないが、秋水とまひろのやり取りを見ていたらしい。
「ちょっと地雷でしたね」
 完全に、とはいかないが防人と毒島の反応から何事かを理解したらしい。
 秋水は猛然と踵を返し走り出した、
 走り出して、膝の裏を蹴られ、転んだ。
「問題を解決しないまま……突っ込むのは……ダメです、よ」
(蹴った)
(鐶の奴めが蹴った)
(裏返し(リバース)が攻撃だと見なさぬほどの速度で、ゆっくりと)
 防人たちが呆れるなか彼女はうつ伏せの秋水の頭を掴み、当たり前のように持ち上げた。
(すげーあの女のコ)
(ちっこいのに、長身の副会長を片手で)
「乙女心は……フクザツなのです…………。触れて欲しいけど…………相談したら迷惑だって……無理して……隠すコトが
……あります。……今のまっぴーのは……それ、です。明るい人ほど……深刻な悩み……相談、できません」
「そうですね。『それ』の正体を理解しないまま脊椎反射で追うのはオススメできません。ともすれば言い訳しながら問い詰め
てしまいますから。それは女性にとって大変迷惑。ですので、追うのは問題の根本を理解してからがよろしいかと」
 なぜか珍しく饒舌な鐶と毒島である。(乙女心の成せるわざであろう)
「ブラボーだガールズ! そして少し考えれば分かる筈だ戦士・秋水。武藤まひろがああいう反応をする原因は限られている」
「理解してやれ! あの少女は師父を倒した原動力だろうが!! 生半可な理解で関係を終わらせるようなマネは絶対に許さん!」
 誰も彼も秋水の返答など待たずまくし立てる。事態は彼の預かり知らぬところでどんどん変わっているようだ。
「キミならばこれだけのヒントで分かる筈だ。武藤まひろを追え。打ち合わせには参加しなくてもいい」
 防人の暖かな囁き。だが秋水は嫌な予感がした。とてもとても嫌な予感が。
「皆さん! 少し危ないので廊下の端に寄って下さい!」
 
 毒島が生徒達に呼びかけている。端に寄れ? いったい何のために? 
 ねっとりとした汗が秋水の背中を流れた。」
 ちなみに彼はまだ鐶に持ち上げられたままだ。
 そしてまひろは問答の間にも遠くへ行っている。
 秋水が距離を詰めるには、それなりの「無理」が必要だろう。
 鐶は、凄まじいパワーの持ち主だ。
「ま、待ってください。まさかとは思いますが戦士長」
 防人が指を立てた。鐶の腕が唸り始めた。見れば腕の部分だけ、裏返し(リバース)が解除されている。
「クク。いい面だな早坂秋水!! さあやれ鐶!」
 哄笑とともに無銘は告げる。秋水の運命を決定づける悪魔の一言を。

 ・ ・ ・
「投げろ」


 腕がしなって放物線を描き、秋水をそうした。


「さて、戦士・斗貴子たちと合流するか」
「そうですね」
 向こうの方から何かぶつかって何か壊れる音がしたが誰も見ない。意図的に見ない。
 無銘はそれが面白くて仕方無い。小さくガッツポーズをした。

「でも、無銘君もかなり……朴念仁、です」
「!!!」

 鐶はぽつりと呟き去って行った。







──────銀成学園屋上──────

 中央に整列する影があった。少年もいれば少女もいる。身長や年齢はばらばらな彼らだが床板に沿って一直線に居並
んでいる。中央に位置するショートボブの少女は宛(さなが)ら学級委員という顔つきで──時おり騒ぎ出す学ラン少女など
注意しつつ──左右を見渡している。そんな彼女と1mほどの距離を挟んで向かいあうのは全身銀色のコート姿。
 防人衛。いうまでもなく一団の指揮官である。

「とにかくガス騒ぎの影響で午後の授業は中止だ。その時間を打ちあわせに充てよう」
 ここで挙手。剛太だ。防人はすかさず指差し発言を促す。
「キャプテンブラボー。なんか毒島が落ち込んでいるんスけど」
(ああ。考えてみれば授業中止は私のせいですね。怪我の功名なのかも知れませんがあまり素直に喜んだりは、喜んだりは……)
 見ればガス騒動の主因が座りこんでいる。表情は暗い。ガスマスク越しでも分かるほどに。

「いまはそっとしておいてやるのが一番だ。さて本題だが……戦士たちと音楽隊の特訓についてだったな。
そちらについては総角主税からの提案通り、演劇の練習と並行して行う」
「つまり、練習のフリするんだな」
「ええ。演劇の練習なら武装錬金も小道具で通るし」
「ブラボー! その通りだ御前、桜花。何しろこの学園、演劇発表中に武装錬金が発動しても怪しまない部分があるからな。
鐶や他の者の特異体質についても、ま、何とかなるだろう」
(文化祭の話か。衣装に縫い込まれていた核鉄。それが本番中発動したらしい)
 まひろから聞いた「演劇部の逸話」を反芻しながら斗貴子はゲンナリと肩を落とした。
「というか本当にやるんですか戦士長? 武装錬金はともかく、鐶や栴檀どもの特異体質はいくらなんでも誤魔化しきれない
と思うのですが」
 防人はしばらく考えた後、親指を立てた。

「大丈夫だ! 問題ない!」
「戦士長……」

 覆面越しでも分かるほど瞳を怪しく煌かせる上司。斗貴子は理解した。「ああ、ノリだけで喋っている」と。
「大丈夫……小道具という……コトで……。演劇、頑張ります……!」
『僕らは特殊メイクってコトで!!』
「そ! そ! よーわからんけど、そ!!」」
「済むかァ!! というかなんでお前たちノリノリなんだ!!」
 叫ぶ斗貴子は見た。さっそく台本を読み込む小札を。幼い瞳がキラキラしていた。
(ナレーション、ナレーションの役をば空いていればやりたき所存。本分は実況ですがたまには、たまには。あああ、喉が
疼きまする。声をば張り上げ劇の勢い引き立てる一因子に不肖はなりたいのであります)
 小さな体をうずうずさせるロバ少女はまるでトランペットを眺める少年だ。

 そして斗貴子が気付く重大な事実。

「ちょっと待てェ! 鐶に特異体質を!? じゃあまさか裏返し(リバース)解除するのか!」
「何をいっている戦士・斗貴子。そうしなければ彼女との特訓は不可能だ!!」
「アイツにどれだけ苦戦したか忘れたんですか戦士長! 下手をすれば特訓どころか殲滅されますよ!」
「まあ解放しても大丈夫だろう」

 防人が指差す先を見る。薄々予想していた光景だが、斗貴子はもうどうしようもないほど情けない表情になった。

「むぐむぐ。ドーナツ……おいしい、です」
「はい光ちゃん。お代わりはまだまだあるわよ。劇に備えて栄養とらなきゃ」

 虚ろな瞳の少女はのんびりと好物を食べていた。

「ただ一つ断わっておくが、2日後の発表で負けたらキミたち音楽隊も罰ゲームだぞ」
『罰ゲーム!?』
「そうだ。全員戦士・斗貴子と同じセーラー服を来て貰う」
「女装、だと?」

 大気の凍る嫌な音がした。ついでおぞましい殺気も。
 ある一名を除く全員が発信源を見た。
 そこには。

 
 壮絶に嫌そうな顔をする総角──ある一名──が居た。とてつもない剣気と威圧感を迸らせ、平たくいえば墨絵調だった。

「フ。この俺に女装を、だと? 誰が、発案、シテ、くれた、かは、知らナイ、が、とても! 不快! だな!!」

(なんでカタカナ混じりに怒ってんだもりもり?)
(何でも、クローン元が女装好きだとか)
(ああ。メルスティーン=ブレイドとかいうレティクルの盟主か)

『と、というご様子なので僕たちも部活を頑張りたい!!』
「つってもさー。あやちゃんならおっかない奴の服でもにあいそーじゃん」
(…………………お小遣い溜めて母の日にプレゼントしよう)


(ナレーション。ナレーション。ナレーション♪)


 一同の喧騒をよそに小札だけは浮かれていた。薄い胸にしっかと台本を抱きしめ左右に小さく振れていた。


「次に鳩尾無銘が察知したという敵幹部(マレフィック)の匂いだが……」
「それに関しては、同じ匂いの香水が流行っている、とか」
 どういう訳かややぎこちなく答える毒島だが、「まあ落ち込んでいるせいだろう」と誰も気にしない。

(違うんです皆さん。戦士長。すでに幹部は、この学校の中に……)

 先ほど邂逅した謎の少女──イオイソゴと名乗る──に謎の男。最低でも2名、幹部がいる。

 来ている。

 恐怖が全身を貫く。非常事態だ。理解しているにもかかわらず毒島の口は報告を許さない。

「匂いか。勘違いならそれでもいいが、確かに気にはなる。せめて幹部の顔さえ分かっていれば、探しようもあるのだが」
 トン、トン、と防人の方を叩く者があった。振り返る。いつの間にか鐶が背後に回っていた。
「私……知っています」
 珍しく輝くような笑みを浮かべていた。
「……私は…………お姉ちゃんに……無理やり……レティクルに……入れられたので……何人か……幹部さんと……逢
いました……。顔も、知っています。うふふ。うふふ」
 役立てるのが嬉しい。そんな表情で屈託なく彼女は笑っていた。
「昨日の夜……渡した……絵を……みてください……。自信作、です」
 ついに微笑は輝きの頂点に達し、戦士達をまばゆく照らした。
「つってもよォ、ひかるん?」
 ライト状の目を歪めるのは御前。手にするは数枚の紙。それをぺらぺら揺すり指差した。
「なんでお前の描く絵ってほとんど浮世絵風な訳?」
 差し出された4枚の紙を見つつ一同は嘆息した。
 描かれていたのはまったく御前のいう通り、浮世絵だった。
 銅色の髪を立て巻きにした女性も錫色の髪を後ろで結わえた女性もウルフカットの男性もやたらクチバシの大きな鳥の
絵も、総て総て、目に隈取りのある、両手を妙な角度で前に突き出した、独特の画風だった。
 よって捜索の役には立たない。昨晩戦士達は苦渋の決断を下した。
「上手くはあるんだが何か違う……。クソ。カズキといい鐶といいどうして似顔絵描かすとこうなるんだ」
「義姉ならもうちょっとうまいだろうって描かせてみたら……これだ!!」
 剛太が更に1枚の絵を突き出した。彼の表情は深刻だった。目元に涙を溜めていた。
 それほどその絵は異様だった。
 まず、横向きになったA4用紙のほぼ半分を占める形で巨大な人物が描かれていた。
 スカートを穿いているところを見ると少女のようだったが、顔つきは明らかに異常だった。
 両目の形は鋭角を下に向けた三日月という形容こそまさに相応しかった。そうやって笑みの形にばっくり裂けた眼窩が黒
のクレヨンでどこまでもどこまでも黒々と塗りつぶされているのだ。
 その上から乱雑に描き足された赤い瞳はらんらんと輝いている。まるでこちらを楽しげに観察しているようで、戦士長たる
防人でさえ寒気がした。
 にも関わらず絵の中の少女らしき人物像は本当に心から笑っているようだった。
 ニタぁりと絶望的なまでに裂けた口に笑み以外の意味を求めるのは大変困難な作業だった。
 少女はショートヘアーで、片手にサブマシンガンを持っている。
 それ以外の余白はほとんど赤と黒との書きなぐりで塗りつぶされていたが、よく目を凝らして見ると左下の方で赤い三つ
編みの少女が泣いているのも分かった。鐶だろう。大変小さな絵だった。笑う少女の絵の8分の1もなかった。ひどく戯画的
な点目からこれまた戯画的な粒がぼろぼろと零れている。肌色一色の体に点在する赤い点の意味するところはもはや考
えるまでもない。
 耐えかねたのか。とうとう剛太が叫んだ。
「オイあいつ大丈夫なのか!? 目からして何かおかしいとは思っていたけど……病みすぎだろこの絵!!」
『ま、まあこれでも一時期よりはだいぶ良くなった方だ!! 鳩尾のおかげでかなり明るくなった!! ちなみに僕と香美は
『火星』と『月』に出会ったコトはある! 似顔絵は提出済みだ!」
「そっちも見たけど、変な鳥と赤い筒だろ。そんな目立つ奴いたらすぐ分かるって」
「フ」
 ここで総角が手を挙げた。何事かと皆が見た。
「思い出したが俺は鐶の姉の自動人形を見たコトがある。鐶が加入した時、いろいろあったからな」
「どーせ不細工な人形なんじゃねーの?」
「お前が言うな御前。で、それは幹部に似ているのか?」
「鐶の話では、な。ただ若干デフォルメが効きすぎてもいたが」
 斗貴子のリクエストに応じるように、彼は1枚の紙を差し出した。
 こちらはひどくファンシーな絵柄だった。ぬいぐるみのような少女がクレヨンで描かれている。髪は短く目は点で、にっこり
と微笑している。頭頂部から延びる一本の長い毛がそこはかとない愛嬌を振りまいている。更に渦状の適当太陽が空に
輝き、バックではとても可愛らしいロバやイヌやネコやニワトリや鎖持った青年がキャッキャウフフしていた。
「あら。意外に上手。スカした態度の癖に」
「まったくだ。スカした態度の癖に何だこの絵柄」
「スカした態度の癖に下らないオマケとか付けてんじゃねーよもりもり。ロバとかいらねーっての!」
「先輩。アイツ、スカした態度の癖にクレヨン使ってますよクレヨン。どんな顔して買ったんでしょうね」
「フ。小札よ。桜花達が貶してくるせいで俺はいたく傷ついた。なにか優しい言葉で慰めてくれないか」
「みなさまもりもりさんを責めぬようお願い申し上げます!」
 身振り手振りを交えつつ小札はきゃいきゃいとまくし立てる。
「確かにスカしたご態度であるコトはまっっっったく否めませぬがこれはいわばいわゆる自己防御、自衛と自律の成りすまし、
いいえなんといいますか、寧ろもりもりさん根本はまったく人畜無害、もしかしたら自分は無力で無能! アブラムシ以下の
クズやも知れぬと枕を濡らす夜さえございます!」
(クズやも知れぬ……)
 桜花が顔を背けた。ウケたらしい。口を覆ってプルプル震え始めた。
「しかるに!! だからこそ弱さゆえの努力で頑張って生きているのがもりもりさん! そのスカした態度が良いスカした態
度か悪いスカした態度かと問われますれば不肖、まったく良いスカした態度だとスカした態度にてスカした態度を助長して
差し上げたいほどスカした態度なのであります!」
 言葉が進行するたび総角がどんどん蒼くなっていく。
「あとクレヨンは「親戚の子供にプレゼントしたいのだが」ともっともらしいウソつきつつ、スカした態度で平然と! お買い求
めになられておりました!! 以上っ!! お慰めになりましたか!!」
「フ。所詮慰めを乞うような男の末路などこんなものだ。閨でもなければな」
 どこまでもスカした態度である。やや血色の失せた表情で、彼はなおも笑い、小札を撫でる。ともすれば著しく威厳が損な
われる暴露かもしれぬというのに、それを受けてなお凄まじい余裕だった。
「そして……ロバたちは要る。絶対に、絶対にだ。部下達を可愛く描いてやったコトに対し俺は些かの後悔もない」
(無駄にかっけえなオイ)
(でもウソついてまでクレヨン買ってるのよね総角クン)
(嫌なホムンクルスだ。いろいろな意味で)
「つーか、何でこれがこれにそっくりなんだよ」
 剛太は先ほどの「病んだ絵」を指差した。総角画とのひどい乖離が見受けられた。
「怒るとああなるらしーじゃん?」
「そうなのであります! ひとたび激昂すらば最早まったく笑面夜叉! 手のつけようがないとか!」
「なんでだよ!! まさか二重人格とか?」
「いいえ……そうじゃなくて……」
 騒ぐ少女達をよそに防人だけは黙然とその絵を凝視した。
(……どこかで見たような)
 極端にデフォルメされた笑顔。”アホ毛”という俗称を持つ長い毛。ふわふわとウェーブのかかるショートヘアー。
「ちなみに……お姉ちゃんは……あまり……喋りません……サブマシンガンで「書いて」……伝えます……」
「書く? サブマシンガンで?」
 他愛もない剛太の反問だが思考が一気に繋がるのを感じ防人は瞠目した。
(まさか)
 孤児院で出会った不思議な少女。
 笑顔で。ショートヘアーで。
 スケッチブックに言葉を”書く”少女。
「どうかしましたか戦士長」
 異変を察したのか。斗貴子は神妙な面持ちだ。

「ああ。実は──…」

 防人衛は口を開く。言葉を紡ぐべく。孤児院で出会った少女。鐶の姉かも知れぬ敵の幹部かも知れぬ存在の存在を明ら
かにするために。もし彼女がそうだというならば無銘のいう「別の幹部の気配」もいよいよ現実のものとなるだろう。
 マレフィック。敵の幹部。彼らが銀成市に来ているかも知れない。
 恐るべき予感を抱いたまま、防人衛は口を開く。



「ほう。すでに防人めにもか」
「ええ。いくら防御において無敵を誇るシルバースキンでも、俺っちの武装錬金特性までは防げません」
「抜け目のないことじゃのう。そしてりばーすについて語ることを禁じた、か」
「念のためすよ。なーんか妹さん来そうな気配だったんで、ま、あのコ経由で気付かれるの防ぐためにね


「すまん。気のせいだった。特に見覚えはない」

 斗貴子の顔に広がる失意。それをたっぷり網膜に焼きつけてから防人は愕然とした。
(いま俺は何といった?)
 見覚えがない? ない訳ではない。総角の描く「鐶の姉そっくりな自動人形」。その特徴と合致する少女を昨日見たばかりなのだ。
だからこそ言葉を紡ごうとしたばかりではないか。にも関わらず出てきたのは別の言葉……。
 同時に彼は気付く。青白く研ぎ澄まされた精神が自身の異常を客観的に分析する。精神の何事かが第三者の意思によって抑圧されて
いる。長らく戦いに身を置いてきた経験則がアラームを告げ始める。精神攻撃を得意とする相手との交戦記録の数々が脳裡を過る。
直面している違和感は精神面を攻撃された時のそれにそっくりだった。
(これは武装錬金の……特性)
 全容は分からないが間違いなくそうだった。分析は更なる疑問を呼ぶ。特性? 特性だとすれば一体、いつ? 
(思い出せ。彼女と出会った後、何があった?)
 薄皮を剥ぐように剥ぐように記憶の深層へ向かっていく。何かを忘れているような、否、忘れさせられているような気がした。


                                                                「っとすいやせん」

                           「再会! 再会ってのはいいと思いませんか灰色の人!」

            「あ。そうだそうだ灰色の人。すいませんねえ。本当の色は何色で?」

「失礼なコトを聞くが、もしかして君は色も──…」

      「そーいうコトでさ」

                                              「部分……発動。無音無動作で」

  「……あ。やっぱり会っちまってますねえ。あーもう! 「ぶみ」って! 本当まったくかーわいいんだから!」



                          「じゃあ何やるか決定!!!」


(攻撃を受けた? 俺が? あり得ない。絶対防御のシルバースキンを……かいくぐったというのか?)

 
 そう葛藤する間にも脳髄がぐにゃぐにゃと歪み記憶を埋め去っていきそうな恐ろしさがある。
 伝えようにも言葉は吐けない。書くコトも。示唆するコトも。
 そもそも何が起こったかさえはっきりと思い出せない。
 いつ、攻撃を受けたのか、防人自身認識できないのだ。

(これは一体どういう特性だ?)

 体に異常はない。思考も正常だ。ただ「鐶の姉らしき」少女とエビス顔の青年についてのみ詮索と暴露を禁じられている
ようだった。

「ねーねー光ちゃん。絵じゃなく口で敵の幹部について教えてくれない? 特徴とか性格とか」
「まー確かにな。もし幹部がこの街に来てるなら、早めに見つけるに越したコトはねェ」
 桜花の提案に剛太も頷いた。豊かな髪をぼりぼり掻きつつ、「厄介なコトになる前にな」とも呟いた。
 鐶はしばらく考えた後、ぽつりぽつりと囁き出した。
「知っている人だけで……いいですか?」
「もちろん」
「えーと……私が逢ったのは……天王星と木星……金星に……火星、です。あ、お姉ちゃんは海王星……です」
「つまり5人。幹部のうちの半分か」
「そうだ。木星の名はイオイソゴ=キシャク。だが顔までは分からない。我も師父も戦士たちも、誰も」
「誰も顔をって……。すっげー忍者らしい忍者だなオイ」
 頬に手を当て感心する御前に、無銘は切歯して見せた。
「少女というところだけは覚えている。だが詳しい目鼻立ちまでは……鐶めの似顔絵には期待していたのだが」
 出てきたのは浮世絵風……。現代社会ではやや一般性に劣るだろう。
「これだとちょっと難しいわね。まだ小さいから仕方ないけど」
 桜花はにこにこと笑いながら鐶を撫でた。赤い髪の少女は少しくすぐったそうに笑った。(あまり役立っていないという
自覚はない)
「天王星は……ブレイクさん……です……。私の師匠の……一人、です」
「師匠、というのは?」
 防人の質問に鐶は指折りながら答えた。要約すると鐶には師匠と呼べる人物が3人いるらしい。
 1人はホムンクルスとしての基本的な生き方を教えた義姉。
 1人は戦闘のイロハを叩きこんだ火星。ハシビロコウ型ホムンクルス。
「そして──…」





【昨晩……9月12日の夜】


──────使われていない資材置き場にて──────



「ははははははは」

 辺りにけたたましい笑い声が響いていた。夜半にも関わらず誰も文句を言いに来ないところを見ると、よほど住宅街から
離れているらしい。錆びた鉄骨やドロまみれの基盤、プラスチック製の大きな破片。砕けた塀。その瓦礫。赤いまだらのある土管。
血の溜まったブルーシート。割れた歯。肉片。皮膚のついた金髪の束。そういったものが転がっている60坪ほどの空き地で、
青年が一人、楽しそうに笑っていた。細い長身でウルフカットの青年だった。



「そして……私の特異体質を使った……潜入方法の指南……モノマネとか……演技とか……「他の人にすり替わる方法」
を教えてくれたのが……ブレイクさん、です」

 
「はははははははははは! ははっ ひーっ! ひーっ!」
『わ、笑わないでよブレイクくん。私だってやりたくやった訳じゃ』
 青年の横には少女が立っていて、いまは上記がごとき応答を恥ずかしそうに『見せている』。
 マジックでスケッチブックに描いた文字を、見せている。



「お姉ちゃんのコードネームは……リバース=イングラム。声は……出しません。言葉を……何かに、書きます」



「2人は……コンビ……です。らぶらぶ……なのです」



 ひとしきり笑い終わった青年は「ひー、ひー」と苦しそうに身を丸めつつ、こう語った。
「いやね。青っち何してるのかなーって部屋の方それとなく伺っておりやしたが、そしたらどっか出てく感じじゃねーですか? 
お花を摘みにかとも思ったんですがなんか小銭の音もしたのでピンときやした。コンビニですねと。夜食になんか辛いの買う
んですねと。されどされど今は夜半の丑三つ時、青っち一人で歩かせるのは危ねえ! なればと影ながら守るべく密かに後
つけましたら」
 彼は足元を見た。
 黒い影が横向きに倒れていた。人、だった。性別は男性で20を少し越えたというところだ。耳はピアスだらけで髪も金色。
世間的にあまりいい印象のない格好だ。
「案の定こういうお手合いさんがやってきて、こうなったと。へへ」
 ウルフカットの青年が揉み手をしながらしゃがみ込むと、金髪ピアスは苦しそうに息を吐き、けたたましく、叫びだした。
「たたたた頼む、見逃してくれ。命だけは。う、うちは貧しいんだ。お袋だってスーパーの値引き品ばかり何とかこの平成大不
況を凌いでいるんだ。時々買いすぎて腐らせて駄目にして、安売りだからって買いこまない方がいいとは思うけど俺だって
パチンコや競馬でスってるんだから文句は言えねえ。とにかくどの職場でもバイトさえ長続きしない俺だとしても死ねば母一人
子一人の家だ、収入が減ってお袋病院行けなくなり孤独死するのは目に見えている! 頼む。大家が特殊清掃と原状回復
の費用を負担しないためにも、俺を殺さないでくれ! これでも家賃だけは滞納したコトがないし大家も褒めてくれたんだ」
『……何このメチャクチャ具体的な命乞い』
「落ち付いて。すでに助けているじゃないですか。もし俺っちが来ていなければ死んでやしたよおにーさん。にひ」
 生きているようだが辛うじて、という状態らしい。着衣のところどころが大きく破れ生々しい傷を覗かせている。
 笑顔の少女がスケッチブックに一言。
『……やりすぎちゃった』
「なんなんだよあの女は!! ちょっと手を出しただけでこれだ!!」
「青っちすか? へえ。見ての通りの可愛い女の子でさ。怒るとちょっぴり怖いすけどそこがまた、可愛い」
「ちょっぴり、だと……」
 金髪ピアスの右腕と左足は歪な形に折れ曲がり、右掌には何本か指の欠損が見受けられた。ブレイクはそんな彼をごろり
と転がし仰向けにした。そして、微苦笑した。左肩から骨が飛び出している。横向きになった拍子に地面へ刺さったのか。
骨は血泥に塗れていた。激痛でやっとそれに気付いたのだろう。金髪ピアスは絶叫しのたうち廻った。叫ぶ口に前歯は一本
もなかった。奥歯にもいくつか欠損が見受けられた。皮ごと毟られ剥き出しになった頭に名称不明の甲虫が何匹も何匹も集り
血を吸っているようだった。虻に良く似た羽虫も止まり傷に腹部をせわしなく擦りつけ始めた。卵を産んでいるようだった。
「やめろ」。拒否の声を張り上げながら金髪ピアスは骨の折れた腕をぎりぎりと振りかざす。叫ぶたび彼は吐血し内臓の損傷
さえ疑わせた。
「こうなったのはー ひとえにー 伝えたーい だーけー」
 ブレイクはなめらかに立ち上がりくるくる回り始めた。裂けた指に喰らいつかれいよいよ狂乱を極める金髪ピアスなどまったく
眼中にないかの如くスピンを決め、月をうっとり見上げた。

「そう! ありゃあ憎悪とかトラウマとかで必死こいて攻撃してるわけじゃあねーです☆」

 灰色の澄んだ瞳にはひどく優しげな光が灯っている。足元から絶え間なく漂う絶叫と湿性咳嗽(しっせいがいそう)と吐血の
匂いを無視しているにも関わらず、慈愛に満ちた、聖人のような眼差しをしていた。

「伝えたい。自分が怖い思いをしているのを、自分が嫌がっているというコトを……青っちはただただ伝えたい。それが声
じゃなく拳に乗ってるだけなんですから、こりゃ別段狂ってるとかそーいうのじゃありやせんね」
 
 静かな優しい口調だが、言葉を吐くたびその語気が強まっていくのに金髪ピアスは気付いた。恋人を自慢するとかいう
低いレベルの語りではない。ブレイクの全身からゆらゆら立ち上る清冽な気迫から伺えるのは……信仰心。おぞましい
までの信仰心だ。神を信じその素晴らしさを群衆に説いて回る、敬虔かつ視野狭窄の宗教家だけが持つ異様の熱烈さが
徐々にだが確実に、ブレイクの声を、場の空気を、金髪ピアスの精神を……張りつめたものにしていく。

「嗚呼! 聞くも涙語るも涙の大事情! 青っちは生後11か月ごろお母さんに首を絞められ、首が歪み声帯が壊れちまいました!!」

 とうとう感情が爆発したのか。ブレイクは叫んだ。舞台役者のように腹臓から声を振り絞り。
 凄まじい声だった。熱気と整合性に満ちたコクのある、年代物の楽器のような声だった。
 そんな声を立てながらもブレイクはなめらかに歩を進め、やがて少女──リバース──に傅(かしず)きながら手を差し伸べる。

「だから大きな声を出せず高校時代に至るまで誰ともッッ!! まともなコミュニケーションをとれなかった青っち!! 実の
お父さんは手がかからぬからと半ばネグレクトをやらかし義妹ばかりを可愛がる! 義母(おかあ)さんは大きな声を出せぬ
青っちを否定し的外れなリハビリで苦しめるばかり!! クラスメイトも先生も! 決して彼女を救ったりはしなかった!!
嗚呼!! いかに努力しようと報われぬこの世の中! 才知も美貌も謙虚も努力も兼ね備えながらも……会話! その元
手をうまく転がせぬばかりに他者の枠へ入れず砂を噛むような孤独ばかり味わった……否! 味合わされた青っち!!
声を出せぬのはひとえに潰れた喉のせい。だがそれは決して青っちのせいではない! 寧ろ被害者だというのに世界は
救いの手を差し伸べなかった。すでに実のお母さんにさえ見放されていたというのに、差し伸べなかった……」

 彼女の人生に転機が訪れたのは! 凄まじい勢いで身を翻しながらブレイクは『何か小さい金属片』を手にした。
 と見えたのは一瞬で、やがて彼の掌は恐ろしく野太い柄を掴んだ。そしてそれを旋回させながら地面に突き立てた。


「そのブレイクって奴はどんな武装錬金使うんだよ?」

 御前の問いにちょっと考え込む仕草をしてから、鐶は答えた。



「ブレイクさんのコードネームは、ブレイク=ハルベルト。ハルバートの武装錬金を……使うそう、です」



 金髪ピアスは息を呑んだ。「特撮……?」と目を白黒させながら、その複雑な武器を見た。
 とても長い武器だった。穂先から地面までゆうに2mはあった。長身だが華奢なブレイクが持つのが傍目からでも不安に
なるほど、『重そうな』武器だった。いつの間に、どこから出てきたのか、疑わせる武器だった。
 とても大雑把な表現をすればクロススピアーの穂先の一つを『斧』に変えた形状で、今にも煙となって空気へ散りそうなほど
虚ろな灰色で塗り固められていた。
 それを持ったままブレイクはゆっくりと歩み出す。近づいてくる。直観的に察知した金髪ピアスは逃げようともがくが、
折れた脚では到底立ち上がれそうにない。立った所で逃げられるかどうか。ブレイクの背後で笑顔の少女がサブマシンガンを
構えている。見た瞬間、黒い絶望感が全身を包んだ。銃口は彼の動きにつれて微細な揺れを見せている。照準はまったく
外れる気配はない。精魂込めて立ち上がったところでアキレス腱を撃ち抜かれるのがオチだろう。そして槍を持ったブレイ
クがまくし立てながら近づいてくる。異常な気迫だった。最高潮を演じている役者のように青白い光が瞳に灯っている。凄ま
じく爽やかな笑顔だった。この世に存在する爽やかの総てを意思と努力で完璧に再現した凄まじい笑顔だった。そこには殺意
も敵意もない。ただ彼は叫びながら金髪ピアスをにこやかに凝視しているのだ。
 目が合った瞬間、怖気とともにようやく気付く。
 関わってはならない者だった……と。


「人生に転機が訪れたのは! 訳あって光っち、妹さんの頬を殴った時!!」


 適当につまめる程度の快美ばかり求めわずかばかり身を切られるだけで顔色を変え、その癖相手が太刀打ちできない
存在と知れば即座に報復は諦め「ああムカつく。誰かアイツ殺せっての」とばかり仲間と酒を飲み愚痴さえ数分で忘れ去る。
 そんな人間らしくも愛らしい感性によって今日も社会規範を大きく揺るがすことなく生きている金髪ピアスなどあっという間に
吹き飛ばせそうな概念が迫ってくる。

 
「妹さん殴ったときに気付いたのが「殴ると意思を伝えやすい!」 だから快美に魅入られた。さながら女子中学生が同級生
とのおしゃべりに熱中するかのごとく肉体言語に四六時夢中、それが青っち!」
 オペラ歌手のような声量だ。ギラリと光る穂先に震えながらつまらない感想を抱く。同時に「でかい声してるんだから誰か
助けに来いよ」と身勝手な期待をしたがそれは不可能だとすぐに気付く。
『私を襲う為にこんな人気のない場所を選んだもんねー。遠いよ? 住宅街からも繁華街からも』
 スケッチブックに無慈悲な文字が刻まれる。書いた主(あるじ)は笑顔のままだ。暖かな、慈母のような笑みだ。

「青っちは拳骨で誰かの頬の骨を、血やお肉ごと吹っ飛ばすのが楽しい! 『伝わった』 それを感じて、嬉しい!」

 いまの自分の表情に気付く。青っちと呼ばれている少女に向けた表情の数々に気付く。
 二度と襲いたくない。怖い。やめて。許して。
 暗い感情の羅列は明らかに、「青っち」好みのものだ。襲われた少女が加害者に言ってほしい、普通の言葉だ。
 それを伝えられるようになるだけの元手を拳経由でたっぷり与えた。
 伝えた。
 気付き、ぞっとする。口で言えば済む問題を恐るべき暴力にすり替えてなお彼女は笑顔のままなのだ。
 ともすれば自分の行為が暴力という名の忌むべきものとさえ気付いていないのかも知れない。
 拳は声の代わりでしかなく、相手の傷など鼓膜がちょっと揺らめいた程度にしか思っていない。
 そんな笑顔だった。

「でもすね青っち。暴力はおろか人に迷惑かけるのさえ大嫌いな優しい女のコなんすよ。だって暴力とか迷惑とか、
なーんも伝わりませんからね。怯えられ一方的に恨まれるだけ。気持ちも何も分かってもらえない。だから寂しい。
にひ。さっきアナタにやったようなコトなんて、叩いた内にも入りやせんよ」
「…………」
「っと。これだけのケガしちまったのはアレすよ。人間さんが弱くて脆すぎるから」
「…………」
「殺すつもりなら、最初から武装錬金の特性使ってここに放置していましたからね」
「…………」
「あと、格闘戦は意外と不向きすよ青っち。この前なんか真赤な髪した鬼のようなおじ様に絡まれましたけどねえ。30分殴り
合った挙句怖くなって逃げましたもん。あちらさん無傷、青っち両肩外れる重傷。だから青っちの負けといえるでしょう」

 やや落ち着いたのか。ブレイクは金髪ピアスの前に座りこんだ。
 槍がざくりという音を立て突き立ったが、危害を加えるつもりはないらしい。
 穂先は、掌から50cmほどの距離に刺さっていた。

(もしかしてもう解放してくれるとか? そ、そうだよな。こんなに殴られたんだしこいつ人当たり良さそうだし、そもそも仲裁
してあのコ止めたのもこいつだし……)
 安堵。期待。微かに瞳を輝かせる金髪ピアスの前で、ブレイクは「うーむ」と困った顔をした。
「ただ困ったことに、おにーさんのいまの重傷って奴は、青っちが「伝えた」程度のやつなんすよね。公平に見りゃあ、叫び声
をちょっと投げかけられた程度じゃないすか。つまり謝罪とか償いとか、まだやって貰ってないって話じゃないですか。ねえ?」
 金髪ピアスは最初何を言われているのかわからなかった。声が穏やかすぎるせいでその文脈のひどさをすぐには理解で
きなかった。
 死んでいたかも知れない重傷を、「叫びを投げかけた程度」と断定したのだ。ブレイクは。
 その上で謝罪や償いを求めている。しかもヤクザがやるような「もっと出せ」という恐喝でもない。ただ本当に常識に照ら
しあわせた真っ当な要求をしている。少なくても本人は心からそう信じている。
「わかりますよねおにーさん。青っちすごく怯えていたじゃないですか。今だって怖かった怖かったって泣きそうな顔をして
いるでしょ? 根は優しくてか弱い女のコなんですから、見知らぬオオカミさんに襲われてすぐ落ち着ける訳、ないじゃな
いですか」
 泣きそうな顔? ”青っち”を振り仰いだ金髪ピアスは唖然とした。彼女は依然として笑顔のままである。まるで天女の
ような幻想的な存在として、ただただにっこりと笑っている。
「ね。泣きそうな顔でしょ?」
「え……」
「俺っちにはわかるんです!! つーーーーか! 大好きな女のコなんだから微妙な表情ぐらい分からなくてどうするっつ
話ですよ。例え世界中の他の誰もが読み解けなくても、俺っちだけは理解して、いつでも傍で支えてやらなきゃならないで
しょーが!!」

 叫びとともに槍がまばゆく光った。その光は金髪ピアスの目を灼いた。

(なんなんだよ)
 彼はだんだん腹が立ってきた。相手が穏便になってくるや否や、生来の身勝手な主張がむくむくと首をもたげてきた。
(俺はこんなにボコられただろーが! 襲ったのは悪いが過剰防衛した奴も悪いだろ! なのにどうして俺ばかり)
 先に手を出したのは棚に上げ、毒づきながら槍を見る。地面に突き立ったままだ。良かった。胸をなで下ろす。
(使うつもりはないようだな。訳の分からない奴で助かった。つか物騒なカタチだな。あんなのでやられるのイヤだし、
適当に謝っておくか)

「だいたいお兄さん? わかりませんかねえ。いま辛うじてながら五体満足なのは通りすがったのが俺っちなればこそでさ。
盟主様が通りすがっていたら……にひ。殺されるより壊されるよりヒドい破滅を味わったでしょうねえ。そして泥沼行きの第
二の人生強制開始ですよ。むかしむかし有無を言わさず1つにされた飼い主とネコのようにね」

 彼は気付く。
 自分の手。
 それがゆっくりと、穂先に近づいていくのを。


「ブレイクさんの武装錬金の特性は……わかりません」


「青っちは「イヤだ」って伝えたでしょ? なのにまだ反省していない……。にひっ。歪み果てた枠ってのはやはりそう
簡単に変わらないようで。あーあ。やっぱこの辺りが人間ってやつの「枠」の限界なんでしょーかねえ」

 鋭く光る灰色の刃は触れるだけで指を裂くだろう。
 分かっていながらそこへ向かうのを止められない。
 穂先までの距離45cm。

「あ、あ、あ……」
 声にならない声を漏らしながらもう片方の手で押さえこむ。骨折部分から激痛が広がり涙と鼻水が出る。それでも腕は
着々と穂先に向かう。レミングスの自殺行進だ。もっと力を込めれば止まるかも知れないが、骨折部分がどうなるか
考えるとひどく躊躇われた。或いは穂先に手をやる方が痛みは少なく済むかも知れない……。
 恐ろしくこじんまりとしたみみっちい思索を見透かしているのかいないのか。

 ブレイクはにへらと笑った。 穂先までの距離25cm。


「………………ただ、お姉ちゃんの話だと……相手を……好きなように……コントロールできる、そう、です」


「おっと? どうしやした? どうしてお兄さん、おん自ら穂先に手をばかざそーとしてるので? 危ないっすよねー。ほら、
ほら。早く手をすっ込めて。俺っちはなーんも危害を加える気はないっすよ。ただお兄さんが『バキバキドルバッキー』の
穂先を危険だなあ、避けないと手が裂けるって怯えているからこうなる訳で」
 痛みと葛藤に歯を食いしばる金髪ピアスはすがるようにブレイクを見た。

 穂先までの距離15cm。
 涙と鼻水にまみれ、歯をガチガチ鳴らす男を、ブレイクはただ、楽しそうに眺めた。

「大丈夫。罰を覚悟すれば止まります。さーどうなるか(どきどきどきどき)」
 と言ってはいるが心から心配している訳でもなさそうだ。
 穂先までの距離5cm。

『危ないって思うならバキバキドルバッキーを地面から抜くか解除すればいいのに』
 笑顔の少女はまったく笑顔のまま嘆息し、更にこう付け加えた。
『提案しようかなって思ったけど、もう手遅れみたい』

 何か千切れたらしい「ブツリ」という音が資材置き場に響いた。

 次いで青年の絶叫も……。

「指!! オオオオオ俺の指ィィがあああああああああああああああああああああああああああ!!
 狂ったように喚く金髪ピアスの掌には成程明らかに「欠け」があった。それを補うように何本か、細長い肉の塊が彼の前に
転がっている。筋のようなものを垂らしながら赤い液体をとろとろ零しているところを見るとやっぱりそれは指のようで、何本
か切除する羽目になった、そう見るのが正しそうだ。
 突き立てられたハルバートの澄んだ刃。叫ぶ表情が歪んで映る。更にそこへ小指が、ぐっぐっ、と引きずられるように向
かっていく。一段と大きさを増した悲鳴が響く。金髪ピアス。彼の腕はなおも動いている! 意思に反した動きなのは彼が
懸命に手首を抑えているところからして明らかだ。なのにびィんと突き立った小指ときたら等間隔を滑るように動いていく。
 一瞬止まっては一瞬進み、一瞬止まっては一瞬進み。
 ぐっ、ぐっ。
 ゆっくりとゆっくりと刃に向かって動いていくのだ。恐るべき光景であった。まるで糸で縛られたように無理やり前身してい
くのだ。されど指に何か巻きついた形跡はない。金髪ピアスも糸の可能性を疑ったのだろう。しばしば起死回生とばかり手
首から手を放しては指先と進行方向の間に手をやりぐしゃぐしゃと掻きまわす。だが何の手ごたえもないと見え、彼はもはや
洟水さえ垂らし、ぐずる。「なんなんだよ」「なんでなんだよ」。すすり泣くような声がいよいよ号泣の様相を帯びた所で小指の
第二関節がハルバートの肉厚の刃に吸い込まれた。ぶちりという音を契機にまた一つ、肉の、血管の、神経の、末梢部へ
到る連続性が遮断された。

「ああっ!! ひどい! なんということにー!! ><」

 ハルバートの持ち主は「大変だー!」とばかり声を上げた。だがそれだけである。いよいよ指のストックが心もとなくなって
きた男をにこやかに眺めるだけである。現在のところ何か手助けしようという気配は見当たらない。だからといって危害を
加える気配もない。
 金髪ピアスはその青年──ブレイクと名乗るウルフカットの──の眼差しがどういうものかやっと気付いた。
 それは決して人間を超越した眼差しではない。むしろありふれた種類のものだ。誰もが日常の一場面でふと覗かせる
代物で、金髪ピアスさえ「ああ、俺もしたコトがあるのかもな」と納得できるほど普通の眼差しだった。
 だからこそ、身震いがした。


(コイツの目。指を切断されて苦しむ俺を見るコイツの目は──…)


「人間の価値を誰よりも認めているホムンクルス?」
 凛々しい眉を跳ね上げながら斗貴子は訝った。矛盾した文言だ。ホムンクルスにとって人間など本来ただの食糧にすぎな
い筈だ。兼ね備えた高出力も相まって見下し、侮るコトがほとんどではないか。少なくても斗貴子が斃してきた連中というのは
そういう「いかにも」な類型だ。
「はい…………。ブレイクさんは……常に……人間の可能性を……信じて、います」
「だったら何でレティクルとかいう組織に居るんだ?」
「わかりません……。確かなのは……人間を……倫理や感情で……見れない、というコトです」
「なのに人間を信じている? 訳が分からねェなオイ」
「いえ」
 分からない、苛立つ剛太へ説明するように、桜花はゆっくりと言葉を吐いた。
「利用価値っていうのはね、人を人として見なさないほどよく見えてくるものよ。何の感情も寄せられないから残酷なまでに
客観的に見れちゃう。私はそうだったもの。ブレイクって幹部の気持ちは分かるわ」
「嫌な理解の仕方だな……」」
「あらひょっとして自分の身が心配? 大丈夫よ。剛太クンを利用しようだなんてコト、ちっとも考えてないわよ。普通にお話
しできて、普通にお友達になれたらいいかなあって思うだけで」
「信用できねェ」
 照れくさそうに微笑する桜花。ぷいと顔をそむける剛太。彼らをよそに斗貴子だけが腕組みしつつ呻いた。
「つまり、だ。ブレイクとかいう幹部が信じる人間の価値とやらは、……自分にとっての、利用価値か」
「動物嫌いがペットショップ開くようなもんだな」
 御前に言わせれば「カケラも愛情がない癖に『商品売買の旨味』だけは知っている」らしい。だから慈愛を無視した能率的
な最善手ばかりで『商品』を扱える。利益のためなら廃棄もする。利益をもたらさないのなら排除する……。

 
「人間が好きなんじゃないのね。人間を上手く使って、利益を得るのが好き」
「お姉ちゃんの話だと……ブレイクさん……”ある出来事”をきっかけに…………人間全体に対する感情が……冷めてし
まった、そうです。…………『枠』……私には理解しにくい……色眼鏡で…………世界や人を見れるのはそのせい……とも」


 指を抑えながら金髪ピアスは改めて気付く。
 ブレイクの灰色の目に灯る感情の意味を。
(間違いない。この目は)
 映画でも見るような目だった。映画の登場人物が惨たらしい目に遭って苦しむのを見るような、怖れと、不安と、恐怖刺激
にキャーキャーわななく目だった。
 彼は決してエンコ詰めの光景を喜んでいない。罰だざまあだとせせら笑ってもいない。
 恐るべき情景だと理解している。
 自分がそれをされたら嫌だとでも思っている。
 痛みを想像し、同情さえ寄せている。
 なのにその表情にはどこか決定的な違和感がある。被害に苦しむ金髪ピアスと同じ世界、同じ空間にいながら「まるで
テレビの向こうの出来事を見ているように」、現実感が乏しい。

「うわこの場面すっごい怖い! でもまあ作り物だし実際この役者さんは重傷負ったりしてないからいいよね」

「昨日こんな爆発事故があったのか! 死者1000人で中には子供も、か。ヒドい。こんなコトもあるんだなあ(しみじみ)」

「はは。また珍プレー好プレーやってるよ。またボールが股間に当たるんだろ? 毎年あるよなこういうの。ははは!!」

 誰もがテレビという枠の中へ寄せる平凡な感情しかブレイクには無いようだった。目の前で、人間が、指を切断されて
いるというのに、それっぽちの感情しか動かないようだった。にこやかで、人当たりがいい、いかにも人畜無害な青年と
いう様子なのに、その根本は完全に壊れているようだった。

「さて、じゃあ次は」
『もう解放してあげようよ。ブレイク君』

 そんな文字を書いたスケッチブックがブレイクの肩に乗った。金髪ピアスはそれを見上げると口を半開きにしたきり硬直した。
 ブレイクの動きを制したのは笑顔の少女だ。彼の後ろでやや気恥しげに微笑みながら、金髪ピアスをじっと見つめていた。
 ごめんね。ウチのブレイク君が悪いことして。子供の悪戯をしかる母親のような穏やかな笑みだ。
(さっきアレだけ俺をボコにしといてどうして普通に笑えるんだよ。俺の怪我のほとんどはお前のせいだろ!)
 そういった過去などないかのごとく、少女はただ笑っている。
 普通ならば何を笑っているのかと詰るだろう。怒声の一つでも浴びせたくなるだろう。
 だが被害に遭った金髪ピアスでさえそういったコトを一瞬忘れてしまうほど、素晴らしい笑顔だった。
 暖かく、可憐で、優しさにあふれた、純真極まる頬笑みだった。見ているだけで癒され、傷の痛みさえ引いていくようだった。
 改めてその少女を見る。見惚れてしまう。
 ふわふわとウェーブの掛ったショートヘアーの持ち主だ。パーカーとジーパンという地味な出で立ちながらスタイルは良く、
くびれたウェストがウソのようにその上下が魅惑的なまでに盛り上がっている。ひどく日本人離れした肉感だ。にも関わらず
顔つきはまったく清楚、純潔極まる笑顔の持ち主だ。青年が何か話しかけるたびやや困惑した様子を浮かべるが、ニコ
ニコとした笑みは崩れない。
 応答。
 彼女にとってその行為は特殊なやり方でしかできないらしい。
 青年が何か言葉をかけるたび、彼女は胸に抱えたスケッチブックをいちいち翻し、文字を書くのだ。
 或いは喋れないのだろうか? ならば手話をやればいいようなものなのに、いちいちマジックで言葉を書き、答えている。
 青年は特にそれを咎める様子もない。寧ろ彼らにとってそれは普通の行為なのだろう。すでに何万回と繰り返してきたのが
見てとれた。
 とにかく奇妙なコミュニケーションだった。
 少女がスケッチブックを抱え直すたび、それが豊かな胸をぐにゃりと潰すのが見えた。文字を描くのに夢中で気付いていない
少女──たびたび”青っち”と呼ばれているのを思い出した──とは対照的に、ブレイクはとても幸せそうに鼻の下を伸ばしながら
その情景を眺めている。すさまじいエビス顔でとても幸せそうだ。お裾わけとばかりコッソリ指差しながら金髪ピアスに教えてき
たりもしている。その間にも指はハルバートに向かっており、都合2本ほど体を離れた。

 

「お姉ちゃん……ですか? 普段は優しくて大人しい……お姫さまのような人、です。土曜日の午後になるたび……ドーナツ
を焼いてくれて……それはとっても……ごちそう……でした」」

「刺激しない限りは……大人しい、優しい、お姉ちゃんのままです……」

「おお! 自分に毒牙をむけた方さえ気遣うとはさすが青っち。ああ、やっぱり可愛い!!」
 ブレイクは腕を広げ”青っち”に抱きつかんとした。
 転瞬。
 少女の腕がしなった。地をも削らんばかり救い上がった拳がブレイクの顎を捉え彼を天空高くへ追放した。
「あ? え、え?? えええ? 仲間を、仲間? あれ?」
 目を白黒させる金髪ピアスの前に少女は屈みこみ、にこにことスケッチブックを見せた。
『もう女の子に乱暴な事したらダメだよ? それから肩の骨とか開放性骨折してゴメンね』
 そのはるか後ろにある廃車に何かが落ちた。もちろんそれはブレイクで、いまは古びた合金を突き破り内部へ突入している。
「仲間殴る必要性は……?」
 車から閃光が迸った。一拍遅れ轟音も。爆発。奇跡的に残っていたガソリンがブレイク落下の衝撃で引火したらしい。
 しかも扉がおかしな歪み方をしているらしく全然開かない。何度か叩かれる音がしたが火勢の強まりと反比例してどんどん
小さくなりやがて消えた。ブレイクの出てくる気配はない。
 そんな炎に炙られる車を一瞬だけ横目で見た青っちは、しばらく腕組みしてじっと考え込み── 鮭色の炎に炙られる満
面の笑みは、幻想的でさえあった──こう書いた。
『困った』
「そりゃあ仲間爆発に巻き込まれたら困るけれども! 質問に答えてないし理由になってないし!」
 青っちの頭で何かが動いた。アホ毛。身も蓋もない俗称をもつ長大な癖っ毛が、笑顔の前で、困ったように揺らめいた。
『そ、そうだよね。消さなきゃ! 落ち付いて! 確か1キロ先にコンビニあったから、まずはお水買って……』
「ガソリン燃えてんのに水!? しかもコンビニ!? ちーがーう!! まずは消防署に電話!!」
『で、電話はやだ。恥ずかしい。知らない人といきなり会話なんて……』
「書いてる場合? ねえそんなコト書いてる場合なの今? なんかジュージューいってるよアイツ。口じゃなくて体表面全部
でジュージューいってるよアイツ。恥も外聞もかなぐり捨てて救いに行くべき場面じゃないの今」
「青っちが許すというなら即解放しまさ!! いい病院紹介しやすねえ!!」
 背後からの大声にびっくりしたらしい。アホ毛がビコーンと屹立した。そして少女はやや身を固くしながらぎこちなく振り返った。
『ふ、復活するの早すぎだよブレイク君。え? ガソリンって水ダメなの?』
 視線を背後に向けながらスケッチブックだけは金髪ピアスに見せる青っちである。自分が何を『言って』いるのか見せたいと
いう配慮なのだろうが、どこかズレている。
 一方ブレイクはそんなコトなどお構いなしだ。夜目で精いっぱい注視した彼は下顎が歪な形に折れ曲がり口から血さえ垂らして
いる。ところどころに車の破片が刺さっている。火はどういう訳か消えているが、あちこち煤だらけで髪もぼうぼう。ドリフのコント
のオチ状態である。
「今のは愛のやり取りっ! 苦しくなどないんでさ!!」
 けほけほと煙を吹きつつ彼は絶叫する。槍を突き上げ、勝ち誇ったように。しかし衣服はあちこちボロボロというか最早
燃えカスを来ているという状態で見るも無残である。
「ああしかし困りましたね麻薬的な内分泌性物質の生産効率がちぃーとばかり悪くてあちこちまだ痛いんす」
 ブレイク、2mほどシャッと飛んだ。
「これを和らげるにはもっとこう殴られて! 興奮して! 脳内麻薬ギンギンにしなきゃいけません!」
 もう一回跳躍。徐々に近づいてくる。金髪ピアスはサザエさんのOPを想像した。
「つきましては青っち! もっとぶって下さいやし!」
 ついに少女の眼前に到着したブレイクは、やや奇妙な要求をした。
「え」
 よほど驚いたらしい。これまで一言も発さなかった青っちが声を漏らした。
「ぶつんでさ、俺っちを! そしたら脳内麻薬出て痛み解消!」
「馬鹿やめろ! 今の一発は確実に足に来ている! 燃えてた廃車からここまで来るのに3回も跳んだのがその証拠だ。
……普段のお前ならあれぐらいの距離、ひとっ飛びだろ! なのに、なのに3回も……。お前の足はもう限界なんだ!
これ以上あいつの拳を浴び続ければ二度と立って歩けるかさえ……
「へ。知ってますよそれ位。でも、男のコにゃあ後の人生犠牲にしてでも達すべき理想って奴がありやしてね。今がそれで
さ。引くわけには……」
『う。どこからどう突っ込めばいいか分からない』
「とにかく増えるけど増えないんす!! 愛のヨロコビは何もかも凌駕しやすからね! だから青っち大至急俺っちをぶっ」
 少女の手からスケッチブックが転がり落ちた。
 真っ白な細い手がブレイクに向かってゆっくりと、動いた。
(ダメだ殴られる! アイツはもう──…)
 轟音。そして衝撃。破滅的な未来など見たくもないとばかり目をつぶる金髪ピアス。
 だが聞こえてきた音は意外にも柔らかな音であった。

 ほよん。

 何かが震えるような音である。
 恐る恐る目を開け、面を上げた彼の目に飛び込んできたのは驚くべき光景であった。

 ブレイクの手が、少女の胸に導かれている。
 ハルバートが緩やかに倒れた。柄が倒れからから地面をのたうった。予想だにしていなかったのだろう。ブレイクは目を見
開いたままただただ硬直していた。その掌は豊かな膨らみの大部分を覆ったまま徐々にだが柔らかさへ埋没していくようだっ
た。

「にゃああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?」

 やがて彼は目をグルグルにしながら鼻血を噴いた。後ろに向かって倒れていった。その鼻梁から噴き出す赤い曲線は
虹のような青春の輝きを帯びていた。
 そうして倒れたブレイクに少女は屈みこみつつスケブを差し出した。表情はよく分からないが、耳たぶがほんのり赤い
ところからすると自分の所業に倫理的羞恥を覚えているらしい。アホ毛も心なしか萎れている。
『殴ったりしたらブレイクくんボロボロになるもん。明日も一緒に『建設予定地』探さなきゃいけないし……落ちついて
貰うにはこうするしかないかな……って。だだだだって殴ったら興奮するけど殴らなくても興奮するヘンな人だもんブレイク君』
「ほよんって! ほよんっていままろやかななのがアアウアウアウよよよ良くないっすよそーいう行為は。う、嬉しいんすけど
ねそーいうのはもっと正式な交際を始めてから20回ぐらいデートして、ちゅーしてからじゃないとその、不潔というか、ああ
いやいや違います青っちのおっぱいが不潔だとかいーうんじゃなくて、正しい手順踏んでねーのにえろいことだけやるとか
いうのはダメ! 絶対ダメ!! 青っちが自分を安売りしてるよーでそういうの見るの辛いし、だいたい実はちゅーだってまd」
 また顎にいいのをもらい彼は天空へ吹き飛んだ。
(座ったままでアッパーカットとかできるんだ。すげえ)
『ばか。ブレイクくんの……ばか』
「拳。拳。スキンシップ。ああ、やっぱりこれすよ。岩石にゴム被せたような感触。イイ。やっぱ殴られる方がイイ……」
 倒れ伏すブレイクに金髪ピアスは思う。ああ、ドMなんだな。と
「俺っちMじゃねーですよ! S! どっちかというとS!」
 心を読んだようにブレイクは独白を始める。大の字になって夜空を眺める彼は、息せき切ってはいるがとても満足気な
表情だ。ケンカを終えて相手と友情をはぐくむ番長のような爽やかささえあった。
「殴られたコトをすね、青っちにいうと耳たぶ真赤にして座り込むんすよ! こっちが言えばいうほど泣きそうな顔になって、
それがまた興奮するんすよ!!」
「興奮ってお前」
「ギャップつーんすか? いつも笑顔のコが真赤な顔で涙溜めてしかも上目遣い! イイ。イイっす……。だから毎日欠か
さず殴られて言葉責めのストック貯めてるんす」
「いや、毎日殴られる必要はあるのか?」
「分かってね〜〜〜〜〜〜〜〜〜っすねえ!! 一方的に責めるなんてのは青っちが可哀相っす! 男女交際ってのは、
いいっすか男女交際っていうのは! 責めて責められて責め返してまた責められて、で、ちょっと時々2回連続で責めて「や
めてこれ以上はダメぇ」って言われてんのにもう1回責めるもんだから後で3回たっぷり責められて太腿とかつねられる、バラ
ンスのとれた奴じゃねーと!! 青っちを責めたいならまず俺っちが責められて殴られて、十分な肉体的ダメージを負うべ
きなんす! その上で青っちイジメ倒してゾクゾクしなきゃあ! ね!」
『…………うぅ。時々思うけどなんで私、こんな人のファンやってたんだろう』
「は! しまった。まさか青っち俺っちのこと嫌いになりやしたか? せせせ性癖が嫌いっていうなら直すよう努力しやす!」
『の、のーこめんと』
「ひらがななのがかーわいい! というかもしかしてひょっとして俺っちの言葉責めが気持ち良かったりしますかだったら
男としてとてもうれしーなあなんてブグっ!!」
 青っちの踵がブレイクの顔面を踏み砕いた。凄まじい勢いだった。
「えーと。ご褒美?」
「ご褒美す! ありがとうす!!」
『御褒美じゃなくて!! ああもう話がズレてるんだからもう!!』
 とにかく少女はブレイクの襟首を掴んで引きずり起こし、スケッチブックを突き付ける。
 笑顔ながらに必死の(紅潮した)顔だ。内容をしきりにアホ毛でぴょこぴょこ指差すほど狼狽している。
『ヘンなことばかりいってないで早くグレイズィングさんの病院! 教えて!!』
「そうだ早く教えろこのバカップルども!! 茶番見せられる彼女ナシの身にもなれ! 心も体も痛いんだ!!」
「バカップル!? え、カップルに見えますか!! 俺っちと青っち! やった! やったやったやったー!!! ほら青っち、
まだお付き合いしてないのにそー見えるって事はやっぱ相思相あへぐ!!!!」

 とうとう青っちはスケッチブックでブレイクの顔面をぽかぽか乱打し始めた。怒りと羞恥に引き攣った笑顔はあたかもラブ
コメのヒロインのごとくであるが、その裏に潜む修羅の激情を先ほどたっぷり味わった金髪ピアスにしてみれば、薄ら寒く、
不気味な表情にしか思えない。
「うぐぅ。『恥ずかしいから騒がないで』。何という伝え方か! 何という伝え方か!」
『大事なコトだから二度言ったのね……って、言わないでってば! 付き合わされる私はすごく恥ずかしいのよ!!』

 ややあって

「とにかくおにーさん、解放してあげやしょう」

 金髪ピアスの体に六角形の金属片が乗せられた。核鉄治療を施したのだが、当の金髪ピアスは何をされたか終ぞ分から
なかった。

「しかし、タダで解放してやるほど俺っち、甘くねーですよ?」

 やっと走って逃げだせるほどにまで回復した瞬間。

「あともうちょっとだけ、償って貰いやしょうか? ああ大丈夫。一瞬チカっとなるだけす」

 ハルバートが再び光り、目を灼いた。
 悪夢パート2が訪れる! 恐怖した彼はパート1で千切れた総ての指をポケットに突っ込みその場を逃げ出した。
 残り少ない指で病院の地図を握りしめながら……。

 入れ替わるように消防車のサイレンが迫ってくる。
 ブレイクと青っちは無言で頷き合うとどこかへ消えた。

「で、結局お前の義姉(あね)の武装錬金特性は何なんだ?」
「……私には、見せてくれませんでした。話しによると……必中で必殺の……かなりエゲつないものだ、そうです」
「まー、あんなバカ強い鐶にこんな絵描かすぐらいの姉貴だもんな」
「無茶苦茶怖い能力なんでしょうね」
 先ほどの「病んでいる」絵を交互に眺めながら剛太と桜花は同時に溜息をついた。
「そして」


「お姉ちゃんの武装錬金は……ブレイクさんと組んだ時…………さらに凶悪になるそう……です」


『うぅ。ブレイクくんの特性の使い方、相変わらずエグい。私の悪用っぷりも大概だけど、人によって使い方変えてるのが
エグい』
 路地裏を歩きながら青っちは書く。手を広げれば塀に手が当たりそうな狭い道だ。ところどころにゴミさえ落ちており
足元にはくれぐれも注意という所だ。夜でもある。にも関わらず彼女は歩きながらスケッチブックに文字を書く。執念めいた
何事かさえ感じられる仕草だった。
「そっすかねえ。いつも逃げ道用意してますが?」
『用意しているから、だよ。相手の人が改心して、『枠』を破ってでも償おうと決意しない限りぜったい救われないような使い
方してる……。逃げ道の数だけ、私の、『マシーン』の絶対逆らえない使い方よりエグい……』
「にしし。盟主様直伝のやり方っすよ。本気になりゃあ逃げ道なしの絶対逆らえないような使い方もできやすけどねー。姉御
とか早坂秋水とか、あと防人衛にやったアレなんかが正にそうで。ま、実害はありますが危害はない。そんな微妙な力加減
も可能す」
 青っちの歩みがピタリと止まった。彼女を見たブレイクは微苦笑した。
『姉御……津村斗貴子さん……』
 そう書かれたスケッチブックが落ちている。彼女は拾う気配がない。
『ふふふ。光ちゃん倒した人。羨ましい羨ましい……』
 だが、文字は次から次へと生まれていく。路地裏に響く不気味な音と共に。
「津村さんだけじゃないのよ戦士の人全部なのよ全部全部ぜんぶゼンブ全部!! 沢山伝えたい。大戦士長さんでだいぶ
憂さを晴らしたお陰で戦士長の防人さん見てもギリギリ何とか抑えられたけどやっぱり伝えたい伝えたい色々なコトを伝え
たい伝えたい伝えたいあははうふふふふ』
 鉢で薬草をすり潰すような音だ。ごりごりとした重みのある、何かが擂(す)り潰される音だ。
「にひひ。狂おしき青っちもまた可愛い。ですが今はまだ自重してくださいねー」
『うんうんうんイソゴさんがマレフィックアースを見つけるまでの辛抱辛抱うふふふガマンするガマンする私はいいコ我慢する』
 笑うブレイクは見た。
 路地裏に広がる塀。そこ一面に文字が彫られているのを。
 青っちは、指で直接、書いていた。塀に文字を、書いていた。
 人差し指で……だけじゃない。5本の指総てで。
 膝立ちしたまま無言で文字を書く彼女は、表情の見えなさも相まってまるで悪霊のようだった。なまじ美貌の持ち主だから
こそ成立しうる狂的の幽玄だ。
(ああもうだから青っちは素敵なんすよ。人間はおろかホムンクルスの枠さえぶっちぎった怖さ持ってますからねえ)
 ゾクゾクしながらブレイクは彼女の指を見る。
 それの動くところコンクリート製の塀が当たり前のように削られ破片を降らすのだ。
 その様子を鐶光の義姉、リバース=イングラム──本名玉城青空、俗称青っち──は肩をゆすって笑いながら笑いなが
ら、実にまったく愉しそうに眺めている。
 ニンマリと口を裂き、赤い瞳孔で。義妹の絵そっくりの表情で。
 そして彼女はひどく機械的な動作で急速にブレイクを向き、こうも問う。

『あ、そういえばさっき特性発動したけど、『文字』はどこから調達したの? 答えて答えて答えなさいよねえ早く!!』
「スケブすよ? どのページか忘れましたけど『消えてる』筈す」

 謎めいたやり取りだが当人たちにとっては重要らしい。

「それはともかくクライマックス女史に業務連絡しますかねえ」
『演劇の?』
「そう。演劇の」

 ブレイクは携帯電話を取り出し、軽やかに操作をした。



『ウソはつかないけど豆知識!! みんな知ってる『7つの大罪』、6世紀ごろまでは8つだった!!』

「暴食」
「色欲」
「強欲」
「憂鬱」
「憤怒」
「怠惰」
「虚飾」
「傲慢」

 いわゆる枢要罪である。

「いきなり叫ぶなお前。うるせェ」
 ムっとした様子の剛太に『すまない!』と詫びながら貴信は言う。
                                                              マレフィック
『このうち「憂鬱」と「虚飾」はそれぞれ怠惰と傲慢に統一され、「嫉妬」が追加された訳だけど!! 敵の幹部はこれらの罪
のうちどれか1つを持っている!! 規則で決められているかどーかは知らないけれど、必ず1つ! 何かの罪を!!』
 あ。ひょっとして。桜花はくすりと笑った。
「もしかして光ちゃんのお姉さんって『憤怒』? 『嫉妬』ぽくもあるけど」
 怖すぎるから。例の絵を弾き微笑む桜花に鐶は頷いた。
「成程な。乳児期に首を絞められたせいで他者とマトモに交流できなくなった。その鬱積が憤怒となり、『歪んだ伝え方』を
生んだ……という訳か。そしてブレイクという幹部の罪は『虚飾』」
『むむ!! 正解だが不思議だなセーラー服美少女戦士!! 今までの話からすると『傲慢』との二択になってしばらく
迷うのが普通だ!!』
「そーいやそうだな。人間に関心がない。でも可能性は信じている。それを利用して利益を得るのが好き。出揃っている
情報はそれだけじゃないスか先輩。なのになんで『虚飾』って言いきれたんです?」
「? 何かいまおかしな事をいったか?」
 凛々しい顔を不思議そうに澄ませる斗貴子に「だから」と剛太は人差し指を立てた。
「人間嫌いな癖に自分の利益のために何かやらそーなんてのは『傲慢』じゃないですか? なのにどうして虚飾っていったのか
気になっただけで。いや、先輩がそれだっていうなら俺は構いませんし」
 直感で言い当てるっていうのもカッコ良くてステキ。にへらと総合を崩す剛太にしかし斗貴子はにこりともしない。
「なぜって言われても。アイツは他人に一切関心がない癖に人当たりだけはいいだろう? 常に愛想よく笑いペコペコと頭を
下げる癖に人を育てるのだけは無性にうまい。人の心を掴むのがうまいというか、相手が何を望んでいるか見抜き、即座に
それをやってのけるだけの適応力を持っている。だから育てられる方は奴を慕い、能力以上の努力ができる。しかも育成
方針はすでに社会にとって有益で具体的な、価値のあるものを掲げている。結局はアイツのための努力なのに、誰も彼も
ついついやり甲斐を感じてしまう」
「確かに……私も…………特異体質でいろいろな人に……化けるのは……楽しかった……です」
(で、先輩たちを散々苦しめた、と)
 剛太は聞いている。ブレイクに育てられたという鐶。彼女は沙織に化けて秋水の間隙をつき、これを倒した。直後時間進
行により人混みでごったがえする大交差点でとある漫画家に化け群衆を散々惑乱させた挙句、防人たちをも翻弄し、逐
一違う人間に化けては攻撃し攻撃し、千歳を可愛いだけが取り柄の役立たず以下に貶め、ヘルメスドライブの捕捉(千歳が
見た人間は記録される。その容貌が全く別人に変形でもしない限り)さえ免れた。
 それを思い出したのか、斗貴子もやや苦い表情で鐶を見た。
「アイツは軽薄なようでいて、その実確かな眼力を持っていた筈だ。相手の能力をどう使えば成果が出るか。成果を出すため
にはどういう教育を施せばいいか。教育をやり抜くには自分がどうあればいいか。そもそも自分の望む成果を得るためには
どんな人間を探せばいいか。例えそれらの過程で見つけたやり方がどれほど困難なものだとしても、最善手である限り投
げ出しもせず楽な方へも逃げようともせず、相手……お前と共に労苦を背負いながらやり抜ける。そんな粘り強さと実行力
を持った……何ていうかその、ホムンクルスらしくない男だったんじゃないか?」
 思い当たるふしがいくつかあるのか、鐶は何度も頷いた。それを確認すると斗貴子はこう締めくくった。
「アイツは自分の勝手を押し通そうとしている癖にこちらとの兼ね合いはしっかり考えてくるからな。まったく。パッと見た感じ
私心がないから始末が悪い。奴を『虚飾』だといったのはそのせいだ。本意はどうであれ、他者や人間社会にとって都合よく
振る舞うコトができる。都合よく振舞いながらも少しずつ悪意を浸透させ、着実に社会を破滅させようとしている。『傲慢』な
ら逆だ。自分は変えようともせず、他者だけを変えようとする」
「それって『傲慢』より悪くね? 本心も見せずに自分だけ得しようなんて」
「確かに最悪だが、アイツは必ずしも自分一人だけが利益に与りたい訳じゃない。虚飾だからな。傲慢じゃない。行いのほと
んどは自分のためだし、さっきもいったが自分にとっての利用価値でしか人間を評価できない部分もある。……だが」
「だが?」
「ただの一人勝ちは好まない」
 断言する斗貴子に剛太は首をひねった。津村斗貴子といえばホムンクルスはおろかまだ人間の信奉者さえ手に掛ける
少女ではないか。それが長々と内面分析をぶっている。「どんな事情があろうとホムンクルスはホムンクルス! 全て殺す!」
文字通り何もかも斬って捨てる筈の彼女が半ば弁護じみた分析を披露しているのだ。違和感。桜花もそれを感じたらしく怪
訝な視線を投げてくる。ひとまず様子を見よう。無言で頷きあう間にも、斗貴子の口は言葉を紡ぐ。
 紡ぐ、紡ぐ。
 まるで何者かの意思を代弁するように……。
「間接的な利益。自分の指導を受けた者が、それまでの『枠』を破って成長し、自分にさえできないコトをやり始める、自分に
も至れない境地へ至る。そういう様を見る方が好きなんじゃないか? 本当は人喰いも破壊もない正しいやり方ができる。社
会や人の持つ『枠』を観察し、考え、求められているであろうものを見つけ出し、地道な努力でそれを作り上げるコトに至上
の喜びを感じる男の筈だ。なぜ道を誤りレティクルとかいう組織の幹部になっているかは謎だが」
 まるで旧知を語るような眼差しだ。剛太はどう切り込んでいいかどうか迷ったが、こういう時の探りのうまさは桜花の方が
上らしい。彼女はニコニコと微笑しながら──それは話に聞く青空の優しい笑みやブレイクの下男じみた愛想笑いとは
また違った、理知的で、魅惑的な、結婚詐欺師のようだと剛太が思う──軽い調子で問いかけた。
「やだ津村さん。まるで逢ったコトあるみたいな口ぶりね」
「まさか。ただの推測だ。聞いた情報からの……な」
 無愛想な表情でプイと横を向く斗貴子にこのときどのような抑圧が訪れていたか桜花たちは知らない。





「演技の神様?」
「そうよん。ブレイクのあだ名の一つ。ワタクシの仲間の」


 仲間、の辺りで滑らかな声がピクリと跳ね上がった。
 何らかの刺激に反応したのだろう。艶めかしい沈黙が訪れた。声はしばらく吐息に置き換わった。

【昨晩……9月12日の夜】

 申し訳程度の明りに包まれるそこは診察室だった。
 カーテンで遮られた診察台の中では 艶めかしい鬩(せめ)ぎ合いが繰り広げられているらしく、「ダメ」「今夜はもう終わ
り」「終わりですってばあ。もう」、文脈にはそんなフレーズが目立っていた。だがそれらの言葉とは裏腹に声は常に弾んでお
り甘くかかった鼻息さえ時折漏れる。
 肉の組成を貪りあう時の生々しい音や水分を”嚥下させられる”喉の苦鳴を時々合間に挟みながらも拒否を意味するフ
レーズは何度も何度も再発信される。だが本気の拒否でないコトは明らかだ。声は期待感と興奮にはしたなく潤み、品定め
るような笑いを織り交ぜながら……。
 何かをしつこく要求される。それを拒んでみる。無意味とも思える押し問答を心から楽しんでいる声だった。競りのサクラが
物欲塗れを挑発しガンガンと吊り上げる様相だった。
 すぐに許さない方がより甚大で素晴らしい結果を獲得できる。確信がますますの欲望高騰をやらかしている最中だった。

「きゃ」

 わざとらしい声。カーテンがレールの辺りでぶちぶちと音立て舞い落ちた。突き破ってきたのは真っ白な人影。一糸まとわ
ぬそれが机にぶつかり筆記用具と聴診器をブチ撒けた。落ちた無数のカルテを踏みにじりながら毛深い脛が白い人影へ
向かっていく。揺らめいたのは銅色の髪。それが柔らかな肩の上で踊りながら登っていく。床から、机の上へと。
 腹部から膝へと至る艶めかしい曲線が机上に鎮座した。呼吸はいよいよ激しくなる。男の手が両の膝に乗る。女の腕
が男の首の後ろに回る。割り開く。引き寄せる。無言の中、情動だけが合致する。



 やがて引き攣れた声と獣じみた唸りが重なり合い、嵐となって行き過ぎた。

 


「ブレイク。仲間の1人は世間じゃ演技の神様って呼ばれているのよん」

 しゅるしゅるとした衣ずれの音を立て終えると女医はそういって微笑した。

「フフ。実はとてもわるーい人なのに、ワタクシ同様オモテの顔を持ってますの」

 銀成市に最近できた病院。そこの女医だ。とある市民はぬるついた余韻の中、彼女を見た。

 女医というよりはプレイメイトという単語こそ相応しい容貌。縦巻きにした銅色の髪は恐ろしく艶やかで、小柄ながらも
恐ろしく豊かな肢体ともども一目で外国籍と分かる美女だった。年のころは20代前半、着衣こそ薄汚れた白衣と──
そもそも医者が着ていいのか。病院なのだ。衛生観念は?──まったく色気がないが、全身から漂う一種の艶めかしさ
の中では却って「メチャクチャにしたい」下世話な情動をかきたてるアクセントだ。紫のタイトスカートから覗く2本の大腿部。
真黒なストッキングに包まれたその辺りからはねっとりとした濃厚な匂いが立ち込めている。

「気になる? プロデュース業よん。若い人たちにウケのいいサウンドユニットを作るコトもあればアイドル発掘して殿方た
ち発情させたり。団塊の方々向けに演歌を送るコトもしばしば」

 言葉の内容は頭に入らない。久方ぶりの満足感に荒い息をつきながら思う事はただ一つ。
 薄汚れた白衣。血走った眼でそれを見る。勝利感。来院者総てへのざまあ見ろ。内実を知っているのは自分だけ、衣服
の下。着やせ。ホクロの位置。匂い。うねり。達し方。妻には近頃覚えのない征服感と達成感が次から次へと湧いてくる。

「今日はセーラー服着た美少女さんと美青年さんにアクション指導したとか……」

 女医との出会い。きっかけは娘。虫歯の治療。削らずに治せるお医者さん。それを探している内ここにたどり着き、知り
合った。
 妻には今日は残業といってある。疑われるコトはないだろう。彼女だって何をしているか分からない。ママさんバレーの祝
勝会に行くとかで娘を義母に預けているが……コーチは男で若くてイケメンらしい。歓心を買うためみな躍起になっている。
妻も情熱を燃やしている。「若い頃は運動なんてしたコトないけど、そろそろ中年だし」。だから健康のために? 目的は見
え透いている。そしてバレーへの情熱の5分の1ほども自分に向かない。
 夫婦生活は結婚後ほどなくして不妊治療の効果確認程度のものとなり、娘の誕生ともに消えうせた。
「2人目? ほら、いまは不況だし年収的に」
 意見は主婦の鑑だ。素晴らしい判断力だ。それほど賢明にも関わらず避妊対策を発案できぬ矛盾には苦笑だが。
 要は、冷めている。もはや疲れた夜に挑みかかるほどの魅力を自分に感じていない、つまりは睡眠欲以下なのだ。
 しかしそれを言えば生活に波風が立つ。だから大人らしく年収うんぬんのもっともらしい理屈を引きずり出し、セックスレス
という問題を有耶無耶にしているだけなのだ。
 とある市民は思う。そんな誤魔化しや不満足に彩られた生活もまた仕方ないと。夫婦生活のなさに不服を覚えていたとして
も我慢すべきなのだ。解決しようと乗り出せば亀裂が入る。魅力を感じていない男に詰め寄られ喜ぶ女性はいない。長年一つ
屋根の下で暮らしている夫なら尚更だ。向こうだって細かな不満に耐えている。だから耐える、我慢する。当たり前のコトだ。
 夫婦の問題に限らず誰しも必ず嗜む行為。
 恵まれているなら尚更だ。妻がいて、娘もいる。仕事も順調。ローンはまだまだ残っているが家も車もそこそこの質のも
のを有している。十分に恵まれている。酒もタバコも知っている。相談できる仲間もいる。ガスを抜く手段などいくらでもあるのだ。
 そう信じ、一般的に見て「正しく」生きていた市民である。行為の終焉とともに脳髄がみるみると冷えていくのを感じた。
 不貞。無垢な娘の笑顔が脳裏に浮かぶ。自分はそれを壊そうとしている。達成感や勝利感の後に襲ってきたのは現実的な
罪悪感。それは会社からここまで車を飛ばしている時も確かにあった。病院へ入るのを何度躊躇したか。だが女医がドアから
顔を覗かせねっとりとした笑いを浮かべた瞬間、ふらふらと引き寄せられるように診察室へ入り──…気づけば何度も何度
も頂点に達していた。

 初めてこの病院にきた時を脳裏に描きながら(2か月振りの休みだったのに)妻への不満を唱えながら(せっかくの有給が
ダメになった)言い訳を言い訳で繕いながら(ママさんバレーの大会!? 俺の2か月ぶりの休みを潰したのに)虫歯に苦しむ
娘を自分一人に押し付けた妻への当てつけのように(そうだ。これぐらいの役得はいいだろ)どうせ彼女も若いイケメンのコーチ
とお楽しみ……荒唐無稽な自己正当を描きながら、情動を突き動かした。

 いつの間にか腰かけたのか女医は机の上で脚を組みクスクス笑う。向き合う形だ。立ちつくす市民──まだ着衣はつけて
いない。彼女の視線は「下」にだけ向けがちだ──を眺めながら唇に手を当て、ぬぐう仕草。
「ああ。ステキ。あんな激しいのは久しぶり。奥様に対し相当フラストレーションが溜まっていたようねん」
 いったい何をぬぐったのか。とにかく露骨に指をしゃぶり、わざとらしく喉を鳴らす。ぞっとするほどの疼きが再来した。
「やたら直腸検査がお好きなようでしたけど奥さまにとってそれはNG? ふふ」
 艶めかしく光るキツネ目が自分を捉えた。悪循環だ。やめろ。情動が冷えていくのは分かった。
 社会で生きているから自分の感情ぐらい分かる。上司の理不尽な説教──総計3時間。堂々めぐりの、しつこい、同じ話題
が幾度となく重複する頭の悪い──を喰らった後に酒を求めるような感情。逃避。そうだ逃避だ。
 不貞を働いたという罪悪感と不安感から逃れるために求めている。柔らかな肢体。快美。ぬくもり。体を重ねれば重ねる
ほど罪悪感が深まりますます抜け出せなくなると予期しながら、求めずにはいられない。
「あん。駄目よ。本日の診察はもう終・わ・り。それにワタクシ……」
 戦慄きを曲解したのか、正しく理解しながらなお誘っているのか。
 とにかく彼女はうっとりと瞳を潤ませながらこういった。
「ワタクシ、余韻に浸るのが大好きなのよん。熱くてトロトロなのが中で段々冷めていく……女だけが味わえる特権だもの…………」
 実際そうかどうかも分からない蠱惑的なだけの文言だ。中身のない、挑発のためだけの挑発だ。分かっている筈なのに先ほど
賞味した素晴らしさが全身のそこかしこに蘇る。男を悦ばすためだけに生まれたような体だった。何をも拒まず何にでも甘く
痺れて跳ね上がる、「都合の良すぎる」体だ。それだけに平素妻には理性ゆえ試さぬ聞きかじりの歪な行為を次から次へと
叩きつけた。返ってきたのはどれもこれも理想的な反応だ。とろけそうな夢の時間だった。
女医はエスカレートしていく一方の行為総て受け入れるだろう。男の自分さえ何度はしたなくよがったか。とろとろの粘膜、
もう一度だけ、もう一度だけ……血流が一点に集中し硬度を増す。だが、続ければいずれ妻に、女医は──…
「大丈夫よん。今日のコト、口外しなくてよ」
 頬に手が当てられた。女医は何もかも見透かしているようだった。

「ワタクシ、エロい事は大好きですけど人さまの家庭ブチ壊すのは趣味じゃなくてよ?」

「ま、盟主様に限っては『ブチ壊す』、そのためなら寝取りさえ男女問わずやらかすでしょうケド」

 盟主? 耳慣れぬ単語にとある市民は首をひねった。そういえばさっきも仲間がどうとかいっていた。この女医は一体何者
なのだろう。

 市民の感じるキナ臭さ。
 それを忘れさせんとするが如く女医は述べる様々を。

「そうよねさっきのは男性的情動を晴らしたいだけの行為」

「奥様への感情とは別腹」

「殿方はみなそうでしてよ。お気になさらず」

「AV見てティッシュにブチ撒けた程度の意味合い」

「ワタクシなどは公衆便所のようなもの」

「好き放題ヤって下って構いませんわよ」

 好色でいぎたない笑みを頬一面に張り付けながら都合のいい論理ばかりを並べ立てる。
 だが現実問題、子供ができたらどうなる? 認知は? 堕胎は?
 そう問いかけると女医は手を引っ込め、しばし考えた後ニコリと笑った。どこか寂しそうな、笑みだった。

「大丈夫」

「子供なんてできませんわよ」

 薬か何かで避妊するのだろうか。そう聞くと女医は軽く身を乗り出した。形のいい下顎を右腕全体で支えながらゆったりと
問いかける。念を押すように上目遣いをしながら、微笑を浮かべ…
「薬も道具も必要ありませんわよ?」

 急に冷たい声を漏らした。顔つきもそれにつられたのか冷酷の色が濃くなった。

「必要なんてそもそもなくてよ。ええ。まったく、笑えるほどにね」

 嗚咽のような声が栗の花臭い唇から漏れ始めた。
 それが笑い声だと気づいた瞬間、とある市民はぞっとする思いをした。

「説明がまだでしたわねえ。ワタクシ実は赤ちゃんできない体ですのよ。できなくされましたの。遙かな昔。できなくね」

 女性にとっては致命的だともいえる事実。それを彼女は笑いながら告げるのだ。瞳をうっとりと細め荒い息を吐きながら
切なげに喘ぐのだ。気づけば彼女は胸の中にいて、「堪らない」。いまにも達しそうな表情で涙を溜めながらこちらを見てい
た。視認に満足したのだろう。すぐさま喉首に噛みつきくぐもった声を上げた。とても加減された甘噛みだった。生殖機能の
喪失それ自体に欲情する──ノーリスクになった、好き放題ヤれる。結局歓喜しか覚えていないような──淫靡な舌が鎖
骨の辺りを生暖かく這いまわる。
 そもそも見た目20を過ぎて数年という美女だ。遙かな昔? 心臓がどきりと高鳴った。穢れのない娘の姿が蘇る。彼女と
同年代のとき、女医はすでに? 混乱気味の脳髄を現実に引きずり戻したのは胸からの甘い刺激だ。見る。男には無用の、
形骸的な器官が艶めかしく弄ばれている。
「性欲と愛情は別モノ。皆様そーいう割り切りが足りなくてよ。ちょぉっと中に注ぎ込んだだけでどうしてギャーギャー騒がれる
のん? おかしいわよねん。殿方はフラストレーションを晴らしたいだけなのに。そしてその受け皿になれなかった、あ・る・い
は原因そのものの淑女さんほど顔も真赤に怒り狂う……」
 恐ろしく貞操観念のない意見だ。だがとある市民は内心それを肯定した気分でいっぱいだ。妻への不満の様々は自己弁護
を導きだすに十分だ。すすり泣くような息と震えを気管から引きずり出しながら女医の頭を掴む。心得たもので彼女は背伸びを
しながら桃色の尖りを含ませた。舌がしばらく絡み合い、離れるやねっとりとした蜜の線を銀色に輝かせた。
「肥沃さもなければ具合も悪い。感度も鈍ければ声もダミ。そのクセ殿方を悦ばす努力もしない。アレもダメでコレもダメ。
お尻の穴1つ使えというだけで怒り狂う、道具の使用さえ認めない。お粗末な癖に身を捨てて恥も外聞もなく乱れる覚悟さえ
ない。そもそもエロい事が好きじゃない。殿方寝取られる淑女さんはだいたいそんなもんよん。クス。自業自得、身から出たサビ」
 男性側にも原因がある、女性ばかり悪いとは限らない……当たり前の前提を無視した意見を甘い息とともに吐き散らかし
女医はオトコの手を取る。視線をやるのは診察台。
 好色そうな顔には絶対の自信があふれていた。色欲においてこの世の誰にも負けないと。

 だから何をしてもいい。
 メチャクチャにされてもいい。

 と。


「そういえば以前俺たちの傷を治した武装錬金。その本来の持ち主というのが──…」
 遠くで語り合う斗貴子、剛太、桜花、鐶を眺めながら防人は目を細めた。
「グレイズィング=メディック。師父に云う。性格最悪の痴女だ」
 無銘は歯ぎしりしながら語りだした。
「階級は『金星』。罪は『色欲』。我をチワワの体に貶めた仇の1人」


 アラームが鳴った。診察台の上にある何かの装置。そのランプがけたたましく赤く明滅している。
「急患さんのようねん」
 慣れた様子で女医は立ち上がる。……市民に跨った姿勢から、ゆっくりと。
「お預けよん。いいコに──…」
 言いかけた女医の体を市民の腕がしっかと抱き締め引き留める。男という生物はどうやら寸止めを我慢できないようだ。
恐るべき速度でやおら立ち上がり、行為の続きを要求している。急患患者? どうせ今日日流行りのモンスターペイシェント、
大したコトない無視しろ……色欲に血走る男の顔を女医はうっとりと微笑みながら見詰めた。手はすでに自身の腰と市民の
下腹部の間に潜り込んでいる。人形顔負けの真白な腕がくねり。
 くねり。
 くねり。

 
「そいやあああああああああああああああああああああああ!!!」」
 恐ろしく野暮ったい声とともに市民の体が浮き上がった。両腕と両足を無防備な大の字に広げた彼の下腹部でブチリとも
ボキリともとれる爆裂音が轟いた。そして吹き飛ぶ市民。どこをどう攫まれ投げられたかはよく分からないが、とにかく彼は
飛び、診察室の扉を粉々に破砕して、廊下の壁にめり込んだ。
 何が起こったか市民はつくづく測りかねた。夢かとさえ思ったが、下腹部から立ち上る未知なる痛み──とても形容しがたい、
人類史上類を見ない不思議な不思議なマーベラスな刺激だった──が現実だと教えてくれる。目を白黒とする間にも女医は
のっしのっしと肩を怒らせながら向かってくる。何かが、激変していた。
「くぉんの色情狂が!」
「え! なにその突然の自己批判!?」
 胸倉を攫み目を三角にする女医にどういっていいものか市民は困惑した。そんな様子がますます火に油を注いだのだろう。
女医はゲンコツで市民の頭頂部を殴りつけ、顔を間近に引きよせ金切り声をあげた。
「いいコト! 急患さんはひどい急病ないし重傷に苦しんで! すがる思いでやってきて下さってるのよん!! なのに色欲
に耽って放置だなんて到底許されるコトじゃなくてよ!! 出ますわよ、大至急診て差し上げなくてはッ!! 『まずは』医療ミス
も手抜きもない適切極まる正しい医学の恩恵を! もたらすのよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 そうまくしたてると女医はガニマタでドタバタと病院を出て行き、30秒もしない内に見慣れぬ人間を引きずってきた。
「指欠損しまくりじゃなくて!! ああンもう可哀想!! ハズオブラブで即効治療よん!!」
「ちょ、待て! よく考えたら俺、保険証がねーんだって!! 高い病院のお金払ったら今月の家賃が!!」
「保険証? 要りませんわよ! どうせ仲間の、リバースやらブレイクやらのやらかした怪我! 無料で診て差し上げるのは当然!」
 金髪でピアスをした、「碌でもなさそうな」人種だった。唖然と眺める視線に気づいたのだろう。彼も市民を見、顔をひきつらせた。
「ここにも怪我人!? 大事な部分がお尻の穴に対し複雑な刺さり方をした怪我人!! セルフか!!」
「大丈夫!! 大丈夫ですの!! ちょっとしたお仕置きしただけですしトータルで見れば気持ちイーーーーーーーーーーーーーイ
瞬間のが多かったですのよ!! 診察しましょう!! 楽しみましょう!! 2人より3人! 1穴より2穴!」
「やばいこの人もおかしい改造されるきっと改造される!!」
「改造!! ああんもういいじゃないソレ!! ちゃんと治療はしますけどん、お望みならお指ぜーんぶ猛々しい男性的なあれに
してもいいわよん♪」
「外道忍法帖の人!? ねえまさか外道忍法帖の人!?」
「そうよ目指すはイソゴ老曰くのーーーーーーーー!! お指っいかがわしい! 人↑間↑へーーーーーーーーーーーーー!!」
「胸に手ぇ当て声高く歌ってるよこの女医さん!! テンション、高ぇーーーーーーーーーーーーー!!」

 喚く女医と金髪ピアスはそのまま手術室に突っ込んでいった。振動でドアと壁全体がアニメ的にぐにゃりと歪曲したのを見た市民、
ぽつりと一言。

「……サザエさん?」


「そういえば彼女の武装錬金は、かなり特殊だそうですね」
 毒島はどこからか一冊の本を取り出した。防人はそれに見覚えがある。ありすぎる程に。
「教本か。戦団の」
 頷く毒島は滑らかな手つきでページをめくり、ある1ページでその手を止めた。

【第4章 武装錬金 第5 自動人形】

 と書かれたそのページには巨大な犬やメカメカしい伝書鳩、腹部に「夷」と書かれた肉達磨などなど様々な武装錬金のイラスト
が書かれている。その一番下、「衛生兵」と見出しのついたイラストを毒島は指差した。
「戦士・犬飼、犬飼老人、大戦士長に桜花さん……自動人形持ちの方は沢山いますが、彼女とコレは特殊な部類」

【特性:あらゆる傷病の完治。(死者蘇生も可能)】


「こんな武装錬金を有しておきながら、グレイズィング、金星の幹部はだ」
 鳩尾無銘は吐き捨てるように呟いた。
「生死を弄ぶ。色狂いにして何より好むは……」


                          「拷   問」







「きゃあああああああああ! どいてどいてどいてー!!!」
 明るい声が銀成学園廊下を劈(つんざ)いた。同時に激しい衝突音が響き大地を揺るがせた。
「ゴメン! ゴメンね!! ちょっといま急いでたから!! 大丈夫? ケガはない!?」
 上記全ての原因──武藤まひろ──は慌てて立ち上がると被害者に駆け寄った。そこは廊下の交差点だ。どうも曲が
角が人影を不意に吐き出したせいで衝突したらしい。
「……痛いわね。廊下を走るなって校則、知らないの?」
 ぶつかられた方はというと地面に尻もちをついたまま恨めし気に頭をさすっている。日本の学校にはそぐわない顔立ちの
持ち主だ。衝突のせいか筒に束ねた金髪はうっすらホコリを被っているがそれでもなお眩く輝いている。
「フン。衝突される方も衝突される方だ。仮にもホムンクルスなら避けてみたらどうだ」
「アナタが避けたせいでぶつかったんじゃない」
「んー。避け方一つとってもまったく華麗。流石は俺! 流石はこの俺パピ・ヨン!」
「はいはい」
 後ろで芝居がかった陶酔を見せる蝶々覆面に嘆息しながら少女は立ち上がる。まひろはその2人に限りなく見覚えがあった。
「あれ? びっきーに監督? なんで一緒にいるの?」

 なんで、と聞かれても別に大した理由はない。ヴィクトリアは二度目の溜息をつきながらその経緯を反復した。
 地下で休んでいたパピヨンの様子を見に行った。するとちょうど地上へ行くところだった。彼は演劇部に向かっていてヴィ
クトリアも演劇部に用事があったので同じ道を歩いた。
 それだけである。

「ナニナニ。もしかしてひょっとしてびっきーと監督ってストロベリーな仲!?」
「そんな訳ないでしょ。たまたま目的地が一緒だったから同じ道を歩いていただけ」
「いやー。風のウワサでこの前空飛ぶ監督を切なそうなカオで追っかけてたって聞いたからもしかしてとは思ってたけど」
「ち、違うわよ」
 嫌そうな顔、それでいてやや赤らんだ顔でまひろを見る。彼女は袖で口を抑え我がコトが如くニヘラニヘラと照れくさそう
に笑っている。パピヨンを追いかけていたのは事実だが、それを元にした曲解──まひろにとって都合のいい、刺激的なだ
けの──ばかりが脳髄全てを占めているのは明らかだ。一瞬怒鳴りつけたい気分になったが敢えて落ち着き息を吸う。ム
キになったが最後、まひろはそれさえ証左として囃し立てる。短い付き合いだが何が致命的で何が効果的かぐらいは分かっ
ているつもりだ。必死に自制心を動員する。落ち着く。言い聞かせる。自分に。静かに応答するのよ静かに応答するのよ
ヴィクトリア……。
「よく分からないけど良かったねびっきー!! 私でよかったら応援するよ!)
「違うって言ってるでしょ!!!!」
 理性の決壊は早かった。後悔と元にまひろの手を見る。つい今しがた跳ね除けたそれだが、一瞬前自分の両手を力強
く握りしめた瞬間いろいろな感情がバクハツした。バクハツしてしまった。それが決定打となったのか、まひろは「照れてる
照れてる」と楽しそうに笑い始めた。
(ああもう。イヤになるわ。このコは本当……!!)
 心から自分を祝福してくれている笑みだった。だからこそ腹が立つのにだからこそ毒舌で本格的に攻撃できない。
(大体)
 ヴィクトリアがパピヨンに抱いている感情は、まひろが思うほど単純で平易な物でもない。どちらかといえば尊敬に近いし、
尊敬しているからこそ身の回りの雑多な事柄を引き受け少しでも力添えしたいと思っている。それを続け、白い核鉄を完成
させるコトが父を救い母を弔う道なのである。つまるところパピヨンはその道標(どうひょう)なのだ。世俗的な感情を寄せれば
間違いなく怒るだろうし、ヴィクトリア自身そういう私欲的な感情の捌け口にはしたくない。
(…………今のままで、いいのよ)
 研究室の床を掃き空調を整え彼の吐血頻度を大幅に下げ自分のついでと称し滋養のある食料を提供する。そして半ば
下男のように知識を捧げ指示に従い作業を行う。何ら見返りのない行為だが目標に向かっているという確かな充足はある
し端々で見え隠れする青年らしいパピヨンの反応を見るだけで冷たい心はほのかに暖まる。まひろの考えているような”そ
れ以上”などとても求める気にはなれないヴィクトリアだ。
 ……もっとも、そこに憶病さや逃げのニュアンスがあるのにも薄々感づいてはいるのだが。
「フム。確かにせいぜい共同研究をしているという位の間柄だが……それはともかく向こうから走ってくるのは貴様目当てか?」
 共同研究をしているという位の間柄。その言葉に疼くような心痛と「共同なんだ。アレ」と微かな喜びを覚えるヴィクトリアをよそに
まひろはハッと後ろを振り返る。ヴィクトリアも視線を追う。見なれた人影。廊下の遥か向こう、50mほど先を走っていてもすぐ
それと分かるほど見栄えのいい長身の青年だ。秋水。『何故か』学生服のあちこちが破け痣や流血が見受けられたが、それ
にも負けず猛然と走っている。ぎゃんとした視線は確かにまひろを捉え、何が何でも追いついて見せるという強い意志が50m
の距離を置いてもなおヒシヒシと感じられた。余程本気らしい。
 それが分かったせいで狼狽したのか。まひろは太い眉を困ったように下げながらヴィクトリアの袖を強く引いた。何度も何度も
くいくいと。
「おおおお願いびっきー!! ちょっとだけでいいから地下に逃げさせて!!」
「何よ。ひょっとして痴話喧嘩?」
「そ、そーじゃなくて」
「よく見たらアイツ切なそうなカオじゃない。ふーん。アナタたちひょっとしてストロベリーな間柄?」
 まひろは言葉に詰まったらしく露骨に視線を外した。
 しめたとばかりヴィクトリアは薄く笑った。意趣返しだ。パピヨンの件で困惑させてきた意趣返し。よし決めたやれ決めた。
ヴィクトリアが行動指針は「まひろを秋水に突き出す」、それに決定だ。
(決めた以上何をやっても無駄よ。パターンなんて読めてるんだから。どうせアナタは私の肩でも掴んで揺すりながら必死に
頼むんでしょ? でもやらないんだから。早坂秋水のあの速度……。ちょっと私が粘るだけで簡単に追いつけるでしょうね。
普段私を困らせているんだから少しぐらい意趣返しされても仕方な──…)

 じわっ。

 意外な反応が、訪れた。
 騒ぎ出すかに見えたまひろは……。
 大きな瞳いっぱいに涙をためていた。
 それはヴィクトリアが要求を飲まないコトに対してではなく、何かもっと大きな理由を抱えているようだった。
「成程。追いかけられている理由は概ね察しがついた」
 黒々とした笑みを浮かべるパピヨンを見ながらヴィクトリアは困ったように微笑した。
「……わかったわよ。今日だけ特別に避難させてあげるから泣かないの」
「あ、ありがとうびっきー! やっぱり優しいんだね!」
「ちちち違うわよ!! これはあの、ええと、そうよ。アナタの涙なんて鬱陶しいだけだから仕方なくよ!! ああもう! アナ
タと話してるとペースが狂うわ本当……。こんなの違う……私らしくない……」
「いいじゃないか無様で。ヒキコモリにはお似合いだ」
「アナタは黙ってて!!」
 パピヨンの毒舌が嬉しいような悲しいような複雑なヴィクトリアだ。その表情を曲解したのかまひろは心配そうに呟いた。
「もしかしてびっきー、無理してる? その、イヤだったら自分で何とかするよ?」
「別にいいわよ。もう慣れっこ。アナタと絡んでイヤじゃない時の方が少ないのよ」
 足元に六角形の線を走らせながら、「けど」とヴィクトリアは念を押した。
「理由だけは聞かせなさいよ。理由次第ではアイツに引き渡すつもりよ私? それでもいいわね?」
 まひろは一瞬躊躇ったようだが瞳を軽く泳がせると覚悟したようにコクコクと頷いた。それを認めたヴィクトリアは彼女を片
手で優しく引きよせ地下への道を開いた。浮遊感。一同は地下壕めがけ落下し始めた。
「待てェ!! なぜこの俺まで地下にやる!? 俺はこれから息抜き程度の演劇監督をやり速攻で研究の続きを──…」
「急いでいるせいで微調整できないの。少しぐらいガマンしなさい。どうしても嫌なら別の場所に入口開いてあげるから」
「うおおおお! 上が閉じる上が閉じる! 貴様! 地下に着いたら速効で入口を開けろ! すぐにだ!!」
「はいはい。言われなくてもしてあげるわよ」
 落下しながら泳ぐように手足をバタつかせるパピヨンを慣れた調子でいなしながら──傍らでまひろが「スゴい。あの監督と互
角」と感心したように呟いたのにはやや嬉しくもあり誇らしくもある。正体不明意味不明の勝利感!──ヴィクトリアは少し
湿った笑みを浮かべた。
(痴話喧嘩じゃないって言いたかったのね?)

 
(でも説明しようとすると私まで困らせそうだから言えなくて)

(そもそも自分でもよく分からない気持ちだから──…)

(つい早坂秋水から逃げてしまった……当たらずとも遠からずという所でしょ?)

 そういう時は誰かに話して気持ちを整理すべきだ。
 当たり前だがそれが”身に沁みて”分かっているヴィクトリアである。

(聞いてあげるわよ。アナタが持ち込む厄介事には慣れてるつもり)

(でも、それが済んだらちゃんと向き合いなさいよ。逃げ続けていいコトなんて何一つないんだから)

 かつて逃げ込んだ地下で秋水とまひろの説得を受けた彼女は今。
 まひろを秋水から逃げさせないために地下へと向かっていた。



  マレフィック
 敵組織の幹部の情報が出そろいつつある。貴信と香美の話を聞き終えた剛太はふうと息をついた。
「お前らが今の体になった理由は大体わかった。やりやがった『火星』と『月』がどういう幹部かもな」
『そう!! 罪については火星の方が『憂鬱』! 月の方が『強欲』だ!』
「なんかさー。月? 月とかいうおっかないのは『デッド=クラスター』って名前らしいじゃん。んで、なんか喋りがおかしかった
じゃん。光ふくちょーみたくさ、なまっとる? うんうん。そーじゃんそーじゃん。なまっとった」
 屋上の床板を左右にゴロゴロ転がっているのは栴檀香美というネコ型である。容姿たるや豊満で野性味あふるる美少女
という様子だが、挙動はまったくだらしない。転がるたび薄い上着がはだけ血色のよい脇腹や背中が覗いている。どうやら
長い話に飽きたらしく、床で丸まって居眠りをしては貴信の鎖分銅でぴしぱし叩かれしかめっ面でイヤイヤ話に復帰してい
るという調子だ。
「訛って……ああ。関西弁ってコトね。貴信さんの話からすると」
 流石の桜花もケダモノ相手だとややヒくらしい。奔放な香美を持て余し気味に見つめながら言葉を繋ぐ。
「で、強欲だから色々集めてて、その過程で栴檀たちをこんな風にした訳か」
『だがもっと強く恐ろしいのは『火星』! ディプレス=シンカヒア!! 彼の武装錬金はかなりいろいろ分解できる!!』

『そう!! 人間やホムンクルスは当たり前! ウワサによればレーザーや毒ガスもどうにかできるとか!』

「物理攻撃だけならマレフィック最強っていうけど……つくづく厄介な連中ばっかだな」
 剛太は豊かな髪をかきむしる。先が思いやられる、そんな反応だった。



【昨晩……9月12日の夜】


「いいですかディプレスさん!! ディレクターズカット版こそあの映画のこの上ない完全版じゃないですか!!!!」
「完全じゃねーよクライマックスwwwwwwww 場面追加したせいでテンポ悪くなってるじゃねーかwwwww 劇場版こそ最強wwww」

 路地裏を歩く2つの影があった。彼ら(または彼女ら)は全身をフードですっぽり覆い、夜中だというのに何事かを大声で
話し合っている。片方は女性らしく耳触りのいい澄んだ声の持ち主だ。何やら映画について語っているようだが、出てくる単語は
どうも子供向けのものばかりでお世辞にも大人らしいとは言い難い。
「もぉー!! 盟主様だってディレクターズカット版大好きっていってるんですよぉ! 『ふ。悪い怪人が壊される場面が増えている!
悪い怪人が壊されるのを見るのは気分がいい!!』とか何とかこの上なく言って」
「悪の組織の盟主がwwww怪人壊されるの見て喜ぶなwwwwwwww」
「とにかくテンポが悪くなっているとしても!! その分この上なく物語的な深みが出ていいじゃないですかディプレスさん!」
「あーwwww オイラは深みよりテンポ重視だからwwwwwwwwww」
「ぬぬぬ……!!」
 もう片方──こちらはザラっとした男性の声を持つ──は相方の上げ足を取るばかりだ。それに立腹したのか。女性の
方がやや語気を荒げた。あわや会話が口論に移行せんとしたその時である。
 彼女の腰部から澄んだ電子音がした。着信音らしく(しばらく全身フード相手にやり辛そうにポケットをまさぐった)携帯電
話を抜き取ったクライマックスはしばらく画面を眺めていたが、やにわに明るい声でディプレスへこう呼び掛けた。
「!! ディプレスさんディプレスさん」
「なんだよクライマックスwwwwwwww そのミルキィな着信音はブレイクからだよなwww なんかいいコトでもあったのかよwwwwwwww」
「はいっ! 三日後私! 劇に出ちゃいます!! あの銀成学園さんの演劇部さんの対戦相手さんとして!!」
「マジですか!wwwwwwwww」
「マジですなのです!! ああ、久しぶりの劇……声優やってるころは演技の一環とか何とかでこの上なく無理やりやらさ
れた演劇! 毎日毎日イヤでしたがなぜか大ウケしてロングランした演劇! 好きになった日の公演中、5人ばかりの役者
さんが奈落に落ちてのーみそコネコネ・コンパイル★ しちゃったもんだから所属劇団が解散で、辞めざるを得なかった演
劇です!」
 往時を思い出したのか。クライマックスは胸の前で手を組んだりクルクル回ったりしながら歌うように返答した。身振り手振り
や声には経験者特有の小気味いいキレがあり、決して言葉に偽りがないコトを雄弁に物語っていた。
 そんな彼女とは裏腹に、ディプレスと呼ばれた方の全身フードはとても気の毒そうに呟いた。
「好いたものが必ずヒドい目に遭う不幸体質だもんなあお前。ああ、憂鬱」
「そーなのです! この上なくお気に入りの喫茶店は必ず強盗殺人や火事で廃業、大好きだったダウトをさがせ2は打ちきり、
好きなタレントは田代まさしさんで好きな社長さんはホリエモンさんで好きなプリキュアは明日のナージャ」
「ナージャプリキュアじゃねえwwwwwwwwwwwwwwwwww」
「仲良くなったネコさんが目の前で轢き殺されてグロ画像になるのも見ましたこの上なく……」
 指折り数えていくうち耐えきれなくなったようだ。声はだんだんと勢いを無くし全身は小刻みに震え始めた。全身フードの
せいで表情までは分からないが泣いているのは明らかだった。
「あーーーーーーーー憂鬱wwwwwwwwwwwwwwwwwwまったく同情すっぜクライマックスさんよォーーーーーwwwwwwwwwwwwwww」
 そんな彼女とは対照的にディプレスはいやにテンションを上げた。陽気ではあるがザラリザラリとした声音の、狂的な印象
ばかり際立つ喋り方だ。
「とととととにかく私、劇に出ちゃうのです! なにしろこの上なく人手が足りないようですから!!」
「まー、お前の武装錬金特性なら一人で何役もできるだろうがwww でもお前wwww そんな冴えなさで大丈夫か?wwww」
「大丈夫だ! 問題ない! です! わ、私は演劇なんか大嫌いなんですからねっ! だからうまくいきます! この上なくっ!」
「似非ツンデレは寒いってwwww」
 そんな他愛もない会話をキャーキャーかわしていく内、テンションが高まったのだろう。クライマックスとディプレスは手と手を
握り合いヒラヒラ踊りだした。そして最後に両手を繋いだままバンザイし、とてもさわやかな声で締めくくる。
「僕たち!」
「私たちは!」

「「仲良し!!!!」」

 その時である。路地の向こうから吹いてきた黒い風がクライマックスの腹部に突き刺さり、彼女を吹き飛ばした。
「ぬええええええええええええええええええええーっ!?」
 間の抜けた声を上げながら全身フードをは四肢をバタつかせてみるがもう遅い。行く手にはゴミ捨て場。成す術もなく彼女
はそこへ突っ込み盛大な音を立てた。バケツが壊れ冷蔵庫が倒れゴミ袋が破け本が崩れ缶が飛び散る大合唱。
「ああもう憂鬱ww ゴミのオールスターのお出迎えw つか明日いったい何出す日だよwwwww 分別守れっての人間どもwwwwwwwww」
 カラカラと笑いながらディプレスは黒い風の正体を見た。
 それは、人だった。
 髪を金色に染めピアスをした、「いかにも」な人種だった。人を弾き飛ばした呵責に悩んでいるようだが、慌てて背後を振り
返り怯えた様子を見せる辺り、どうやら何かに追い立てられているらしい。

「おーーーーーーーーーーーーーwwww なになになに!」
 けたたましい声を上げながらディプレスは金髪ピアスに詰め寄り両肩をバシバシと叩いた。気のいいあんちゃんが知り合い
にするような仕草だがやられる方はまったく迷惑らしく顔をしかめた。

 
「よく見たらお前昼間リバースに絡んでたチンピラAさんじゃないの!!wwww いやお前こんな所で会うなんて奇遇だな!!w
おいおいおいなんだその目wwwww 初対面でそりゃあちょっと不躾ってもんだろwwwwwww 傷つくっぜ!www 憂鬱だっぜwww」

 いやなフランクな調子の全身フードに金髪ピアスは凍りつかせた顔面の筋肉総て強引に引き延ばすような絶望的な表情をした。
 出会ってはならない者に出会ってしまった。相手の顔は分からないが全身から立ち上る異常な気配はこの晩すでに出会っ
た様々な男女とまったく変わらない。

「で、何よ何よ何なのよそのケガ?wwww ハッ! もしかしてお前リターンマッチとばかりリバースにちょっかい出した? 
そーか出したか!wwwww んでボコられたところでブレイクに仲裁してもらって命だけ取り留めたけどアイツになんかヒドい
目あwわwさwれwてwwwww紹介されたグレイズィングの病院で拷問の一つか二つかまされたもんだからwwwwww必死なっ
て逃げてたとwwwwwwwwww」

 んでクライマックスにぶつかったwwwwww高いテンションを早口でぶつけてくるディプレスに金髪ピアスは戦慄した。
 1つはその洞察力にだが、それ以上に彼を震えさせたのは。

 赤茶けた銅似の髪を縦巻きにした妖艶な女医の記憶である。




「あぐぐぐ……んぎっ! はーっ……。はーーーーーーっ……。や、やめろ……。やめて、ください。も、もう治らなくていいです……
これ以上痛いのだけは、痛いのだけは……!!」

 治療は、された。だが完治とともに有無を言わさず破壊行為と拷問の数々を働きだした。いかなる怪我もすぐに治ったが……
治るそばから、新しい苦痛が襲ってきた。

「せっかくケガしてたんですもの。治したけど再現して、たっぷり、たぁーっぷり苦しませてあげるわん」

「クス。1回目の治療はお詫び、仲間の監督不行き届きの罪滅ぼしにして医療の正しい恩恵」

「で・も、ここからはタダの趣味……クス。ブレイクはリバース襲われて頭に来て罪滅ぼしさせようとしたんですけど」

「ワタクシは違いましてよ」

「人をいたぶるのに理由なんていりませんわよ。ヤりたいからヤる。苦しんでる顔が見たいから苦しめる、それだけ」

「義憤だの正義だの自制心だのの理由づけ着飾ってるブレイクはまだまだ甘チャン」

「ブレイクで思い出しましたけど、インフォームドコンセントよん。あのね。アナタの体は今、麻酔を受け付けない状態ですの」

 女医はそういって頬に左手を差し伸べる。誘惑的な笑みだ。軽く細めた瞳は淫靡な光にうっとりと蕩けている。興奮性の吐息
をひっきりなしに荒げているその様だけ見ればまったく男女の甘美な行為の濫觴(らんしょう、始まり)にしか取れないが、
右手に握られた特殊な器具が何もかも総てをブチ壊している。市販のマジックペンより少し太いぐらいのそれは金属製で
ぐにゃりと歪曲した先端部分からは小気味のいい回転音がしている。ドリルが、付いていた。歯科用の歯を削る器具だった。
 彼女が何を目論んでいるかはかなり明白だった。それでも感染症を鑑みれば先ほどまでの錆びた針による瀉血(しゃけつ)
よりは何段階かマシといえた。
「麻酔ナシで頼むわねん。どーせ打っても効かないし……。ふふ。なぜそうなっちゃったか知りたいボウヤ? ブレイクのバ
キバキドルバッキーがそういう特性だからよん。あのコのハルバートはねん、「麻酔を受け付けるコトを禁じる」みたいなコ
トができるのよ……」
 ドリルがゆっくりと近づいてくる。器具によって椅子に拘束された金髪ピアスはイモムシのように身を捩らせる他なかった。
「あらん。そうおびえなくてもいいのよ。限度をブッちぎった痛みもまた快楽。大丈夫、大丈夫」
 いやいやをするように振られる頭を押さえこむと、女医はすぐ間近で粘っこく笑い──…
 金髪ピアスの唇に自分のそれをゆっくり重ねた。ねっとりとした生暖かさが口腔内に雪崩れ込んできたとき金髪ピアスは
あまりの事態に全身のあらゆる部位を固くした。あらゆる、部位を。
 口を蹂躙しているのは舌だった。舌が舌に絡まりつきねぶり上げ啜り上げ、遂には唇の外へと引きずり出した。
「あらん意外に長い。頑張れば肘舐めれるかもねん」
 白い舌苔(ぜったい)が目立つ薄汚れた舌を女医は愛おしそうに一瞥し、今度は舌だけを唇に含み顔を前後に揺すり始めた。
 赤茶けた巻き髪が豊かな胸の辺りで揺れる。淫らな水音が響きねっとりとした唾液が床を穢す。

 
 妙技だった。垂れがちな、縮みがちな舌を自分のそれで器用に捉えながらも唇とは干渉させず常に一定の張力を保ちつつ、
リズミカルに規則正しく首を振るのだ。舌の位置を小刻みに変え、艶めかしく這い回らせながらも保定できるのは異常の一言
だ。そもそも彼女の舌に籠る力は人間のそれを遥かに上回っていた。まるで『人を超えた存在だけが』持ちえる高出力を
淫らな方面へ濫用しているようだった。
 限界まで無理やり引き伸ばされた舌は下部いっぱいに緊張感のある痛みを走らせるが、それを打ち消すほどの甘い刺
激と甘い匂いが次から次へと襲い来る。
 接吻とはやや違った、しかし特定分野では確かに確立されている肉塊愛撫だった。濃密な匂いのする唾液で舌を穢し、
或いは噛み、とにかく恐ろしく煽情的な行為の数々を繰り返しながら、女医は頭から手を剥がす。肩から胸、胸から腹へと
さするように手を動かす。
 下へ、下へと。
 白い手。期待しがちな男性の単純な直感はそれがどこに伸びるか直ちに明察し、そして事実その通りとなった。
 金属の羅列が解放される音。衣擦れ。脳髄を突き抜ける甘美な衝撃。それらの中、金髪ピアスは見た。
 歯科用のドリルがさんざお楽しみだった唇のすぐそこにもう迫っているのを。
 恐怖に歪む顔に女医はうっとりと微笑した。

「ほら言うでしょう。初 め て は い つ も 痛 い っ て 。大丈夫。慣れれば気持ちよくヨガれますわよん。クス」

 健康な前歯をドリルが貫通した。
 絶叫。それが何か限度を超えた力を導いたらしい。獣のように唸りながら顔を背けた金髪ピアスの口から前歯が飛んだ。
厳密にいえば「歯ならびに女医の腕へ強い力で固定されていた歯科用ドリルから強引に逃れようと無理のある甚大な力で
もって顔を動かしたせいで歯が折れ、脱落した」という所であるが一言でいえば飛んだ。もっとも歯は相変わらずドリルに
貫通したままで、変わったことといえば断面から様々の解釈ができる桃色のどろどろを巻き散らしつつ旋回している位だ。
ドリルは止まる気配がない。ヤニで黄色くなった前歯が手元でぐるぐる回転する様に流石の女医も最初やや面喰っていた
ようだったが、すぐにうっとりと笑い、
 笑い、
 笑い、
 けたたましく笑い。
 目を剥き舌を出しながら床へ這いつくばり──… 
 飛散したどろどろを舐め始めた。甘ったるくも耳を塞ぎたくなる牝の叫びを上げながら、舐め始めた。


「その隙に最後の力を振り絞って逃げてきた、かwwwww 馬鹿だろお前wwww あのまま拷問耐えてりゃあ居合わせた別
の男といい思いできたしケガも全部治ったっつーのによぉwwwwwwwwwww」

 前歯が抜けた金髪ピアスを楽しそうに眺めながらディプレスはくつくつと肩を震わせた。

 冗談じゃない。逃げるときに見た女医の顔を思い出しながら金髪ピアスは全身を震わせた。
 薄汚れた床を躊躇いなく舐める彼女の顔はどんな娼婦より浅ましかった。その浅ましささえ自覚し興奮の材料にしている
ようで、決して潔癖ではない金髪ピアスでさえゾクリとした嫌悪と吐き気を催した。

(何なんだよアイツ……。何なんだよアイツは)

 人間というより妖怪を見たような気分だった。


「あらん。逃げちゃった」

 服や床についた桃色の液体を『総て舐め尽した』女医は、蛻(もぬけ)の空の椅子を一瞥すると残念そうに呟いた。
「ああんもう! ああんもう!! ハズオブラブですっぱり治した後は痛みの数だけの快楽をもたらそーと、具体的には見も
知らぬ殿方交えた3Pやろうと思ったのにん!」
 あどけない調子で右手を大きく振りながら指を弾くがあまりいい音はでない。ぽしゅりぽしゅりとしょぼくれた音を奏でながら
女医はとても残念そうに「ああんもう!」を繰り返した。

「まあでも乱交騒ぎは近々ありそうですわよねん」

 やがて指を弾くのにも飽きたのか。女医は艶めかしい肢体をくねらせながら診察室を出た。

「発案:盟主様。プロデュース:盟主様のが」

「演劇の発表の後に」

 
 縦巻きの髪を軽く一払いするとグレイズィング=メディックはそこを一望した。

 廊下をしばらく歩き出た先は待合室。片隅にはある市民が所在なげに座っている。一連の騒ぎのせいか彼は眼を丸くして
おりグレイズィングを見てもしばらくぼんやりしていた。
 女医は彼に笑いかける。逃げれば良かったのに。快楽に魅かれたせいで今は蜘蛛の糸の上……。
 そんな思考が滲み出た好色で野蛮な狩人の笑みをい汚く浮かべながら彼女は市民に近づき、その頬を優しく撫でた。
「先ほどは失礼。ワタクシとしたコトが取り乱したわねん。あらん?」
 あらんをややワザとらしくいいながら頭を見る。先ほどゲンコツで殴りつけたそこはうっすらと血が滲み、コブまでできて
いる。
「怪我、ちょっとひどいんじゃなくて……? ふふふ。ごめんなさい。医療ミスですわね」

 そして立ち上がり、数歩距離を取り、腰の後ろで手を組みながら、首だけ後ろに向ける女医。
 彼女は、ねっとりとした笑みでこう聞いた。

「また治療していきます?」

 市民は数秒逡巡したが──…

 よろよろと立ちあがると、目を血走らせながら頷いた。

 その反応に満足したのだろう。女医は上着を脱ぎながらクスクスと笑った。

「ほどほどにねん。朝帰りで奥様と修羅場っちゃ、可愛い娘さんが泣くわよん」

 橙の光が闇の中を進んでいた。円形のそれは時おり左右へ傾き空間の暗黒を削っていた。灰色の壁。丸く歪曲した天井。
そして線路。光が無造作に抽出する景色はここがトンネルであるコトを示唆していた。
 光はどうやらライトらしく後方から硬い足音がコツコツコツコツ常に響いている。それはもつれ合うような不協和音。足音の
主は複数いた。
「しかし広いわねココ。電波とか届くのかしら?」
 場所に不釣り合いな嬌声が淀んだ大気を震わせた。
「届くって入ってすぐの頃に言っただろ! 戦団への定時連絡! 毎日毎日ボクに押し付けやがって!!」
 こちらはいかにも坊ちゃんといった感じの若い男性の声。懐中電灯を握る手をぶるぶる震わせ憤りも露だ。
「何にせよ大戦士長救出作戦まで後2日。大まかな位置は把握できたな」
 いかにも無頼漢じみたハスキーな声が笑みを含ませると、前者2人は軽く同意を示した。
「まさか地下にトンネルがあるなんてね。地上から追跡しても分からない筈よ」
 まず応じたのは中性的な美貌の持ち主である。髪は短く瞥見(べっけん)の限りでは男女の区分がわからない。
 そんな”彼”を眼鏡の青年は得意げに指差しカラカラと笑った。髪には跳ねが多く寝ぐせだらけという方が分かりやすい。
「ボクのレイビーズたちに感謝しろよ円山。大戦士長の位置だって今日中に見つけてみせるさ」
 自信あり気な声音だがあまり余裕は感じられない。笑みもどこか卑屈な青年で丹力の乏しさが伺えた。
「確かに感謝だな」
「ひ……!」
 青年の頭が背後からガシリと掴まれた。彼は蒼い顔を恐る恐る後ろへねじ向け、背後の大男を見た。
「ヴィクターIIIの捕捉と言いなかなかどうしてやるじゃないか。見直したぞ犬飼」
 堂々たる体躯と十文字槍を持つ男がそこにいた。単純すぎる形容をするとすれば野武士であろう。荒々しく伸ばした黒髪
といい、いかにも元亀天正からそのまま現代に迷い出てきたような風貌だ。
「分かったから頭を放せ戦部!」
「フム。無作法だったか。しかし……ようやく」
 それほど強く掴まれていなかったが何となく怖かったらしい。犬飼、と呼ばれた青年は引き攣った胸に手を当て兢々(きょ
うきょう)たる息を付き始めた。だがもはやそんな様子など目に入っていないのだろう。戦部は槍を背中に回しのっそりと歩
きだした。通り過ぎていく彼を見た美貌の青年はわおと歓声を上げた。戦部の頬には凄烈な笑みが張り付いている。舌舐
めずりさえする様はまさに獣を狙う獣の顔つきだった。


 犬飼倫太郎。
 円山円。
 戦部厳至。


 かつて戦士長・火渡赤馬に坂口照星とその誘拐犯の追跡を命じられた男たちである。
 戦士ではあるがその分類は奇兵。今夏は一時期”再殺部隊”として毒島華花・根来忍といった連中ともども津村斗貴子や
パピヨンと熾烈な戦いを繰り広げた。力量面では申し分なしというところだが人格や性質に難があり、自然ヴィクターIII討伐
に代表されるような「難儀な、汚れ仕事」ばかり回されがちである。手がかりもなくその癖危険ばかりは大きい坂口照星追
跡を一介の戦士長に過ぎぬ火渡に丸投げされたのも、それを戦団に黙認されているのも上記一例であろう。

「まあスゴいといえばスゴいわねレイビーズ。地下トンネルを探し当てちゃうなんて」
 レイビーズ。一般的には狂犬病を意味する言葉だが、この場では犬飼の武装錬金を差す。形状は軍用犬(ミリタリードッグ)。
核鉄1つにつき1対2体の自動人形である。いまは4体が地上を捜索している。
「大戦士長の匂いが漏れていたからね」
「?」
「言うまでもないけどね。楯山千歳が捕捉できなかった以上、大戦士長は何らかの武装錬金の影響下にあった筈さ。「外部
からの干渉を完全にシャットアウトするタイプ」かな? とにかくバスターバロンごと拘束されていたのは間違いない。けど敵
側に何らかの事情があったようだね。一瞬だが特性が解かれ、本当にわずかだけど匂いが漏れちゃってたよ」

 
──「ところで照星君はどこにいるのかな? さっきから全然姿が見えないけど」
── ウィルはかすかに気色ばみ、そして瞑目した。
──「では、ご覧にいれましょうか。ボクの『インフィニティホープ』、ノゾミのなくならない世界と共に」
── 突如として大蛇のような巨大な影が空間をガラスのようにブチ破り、ムーンフェイスを襲った。
──「止まれ」
── ウィルの指示で肩口スレスレで止まったそれは低く唸ると、割れた空間に引き戻る。
── そこでは水銀に輝くブ厚い扉が開いており、中には照星の姿が見えた。
── 神父風の彼はアザと血に塗れてピクリとも動かない。
── 胸のかすかな動きで息があるコトだけが辛うじて分かった。
──「こりゃビックリ」
── 感想をもらすムーンフェイスはどこかわざとらしい。

                                             (11話─(3)参照)

「ナルホド。それがこのトンネルに残っちゃった訳ね」
「もちろん完全密閉とはいかないよ? どこかに通じている以上、空気の流れがないワケじゃない。第一天井なんかにも隙
間があるしね。長いトンネルの天井全部一枚の板で賄えないだろ? コンクリートでもそれは同じさ」
「ホントだ。何mかごとに分けて嵌めこんである。隙間はこのコたちの境目に……ね」
 円山は感心したように高い天井を見上げた。その様子にますます気をよくしたのかますます弾む犬飼の声。
「空気の流れに隙間。地上に、大戦士長の匂いが漏れていた理由さ。おかげで何とか嗅ぎつけるコトができた」
 そこで犬飼はニタリと唇の端を吊上げた。自信に満ちてはいるがやはりどこか劣等感の見え隠れする薄暗い笑みだ。
「しかもトンネルにはムーンフェイスと、誘拐犯の匂いもあった」

(ブ厚い土の上から、な。犬の嗅覚の倍というだけはある)
 聞くともなしに二人のやり取りを聞いていた戦部は微かに微笑した。

「どういう訳か誘拐現場には犯人たちやムーンフェイスの匂いがなかった。けどトンネルの中は違うよ。一応彼らは歩いた
らしい。だったら追跡はしやすくなる。たとえ大戦士長を何かの武装錬金で外界から完全に隔離していたとしても、今度は
同行者たる彼らの匂いを追えばいいだけだからね。乗り物に乗って移動したようだけど匂いはまだまだ残っている」
「後はそれを追うだけ……そんな方針だったわね」

(乗り物か)
 戦部は足元に目を落とし思案顔をした。地下鉄に使うようなレールがどこまでもどこまでも闇の奥まで伸びている。
(トンネルもだが線路も人工物のようだ。武装錬金特性で作られた訳ではない)
 ふむうと顎に手を当て戦部は考える。道中何度も繰り返した思案だが、これだけの長さこれだけの深さのものを作り上げ
ようとすればやはり相当の組織力がいるだろう。
(莫大な資金は言うまでもなくそれを兵站に生かしきる手腕は欠かせん。ホムンクルスは量産が効き人間以上の高出力を
持ってはいるが、大規模な物を作らせるには相応の教育が必要だ。統率、といってもいい。奢り高ぶり人喰いに傾注しが
ちなホムンクルスどもを長期間巨大な工事に従事させ、かつ水準以上のものを作らせたとすれば…………)
 戦部の趣味は戦史研究だが、歴史家にいわせれば歴史上勝利を収める組織とは上記が如き兵站と涵養(かんよう)
を達成できる物らしい
(いささか寓話じみた警鐘だが強者を招きやすいのもまた事実)
 質の高い組織には自ずと実力者が集まってくる。果実を期して幹と品種を眺めるように戦部は目を細めた。
(レティクルは10年前より強くなっている。俺が『弁当』の喰い方を覚えたあの時より)

 とりあえず行き止まりにたどり着いたのが数日前。9月9日である。
 そこから出口──梯子を上りマンホールを開ける──を見つけ再度レイビーズで追跡したところ、いくつかアジトらしい
場所が浮上。それらを戦団に報告したところ「救援部隊の体制が整うまで監視を継続」との結論に落ち着いた。音楽隊経
由で判明した敵の正体を伝えられたのもその頃だ。
 目下戦部らは警邏と絞り込みの最中だ。敵地は近い。襲撃も半ば期待していたが平和なまま現在に至る。

(このあたりに列車はない。消えたのだろう。誘拐に使われた物は武装錬金)
 退屈な現状把握をなぞりながらも内心線路に垂涎している戦部だ。
(10年前はなかったタイプ。詳しい形状は分からんが列車は列車、小ぶりというオチもあるまい。是非とも戦ってみたいものだ)
 そんな彼の思案をよそに背後では明るい声が響いている。

「でも分かるまでは大変だったわねー犬飼ちゃん。なかなか見つからなくてキャプテンブラボーに核鉄まで貸して貰って、4
体がかりであっちこっち探してたもの。もうほとんど涙目で取り乱してばっかり」
「黙れ!! 匂い追跡は難しいんだぞ!! 今回みたいなトンネルとか特殊な武装錬金使う相手なら特に!! というか
なんで誘拐現場の近くに入口なかったんだよ!! それさえあればボクは苦労せずに済んだんだ!!」
「どうやって地上に出たんでしょうね。誘拐犯さんたち」
 他愛もなくきゃいきゃいと戯れる2人に戦部は軽く嘆息した。道中こんなやり取りが何度もあった。よく飽きもせずに
何度もと呆れもするがそうでもしなければ気分が滅入って仕方ないのだろう。真暗で先の見えないトンネルは無言で
歩き続けるにはあまりにも長すぎる。
「でも匂いがあった以上確定さ。このトンネルが大戦士長誘拐に使われたのはね。毒島に調べて貰ったけど、誘拐現場
近辺に地下鉄や坑道といった類のものはない。敵が作ったとみるべきさ。そして匂いはブラフじゃない。ブラフを敷くなら地
上の方さ。けどアレだけ探しまわって一回もそれらしい匂いを捉えられなかったんだ。敵はブラフなんて使ってない。だったら
後はトンネルを辿るだけだろ?」
「そうね。大戦士長が誘拐された辺りにも戻ってみたけど、あっち方面のトンネルは一本だけの行きどまり」
「で、逆方面に向かった結果、ココにいる。分かれ道はなかったね。どうやら大戦士長誘拐用の直通らしい」

 衒学的な演説もひと段落というところだ。実力不相応の自意識もそろそろ満足だろう。アタリをつけた戦部は振り返り野太い
笑みを浮かべてみせた。

「重ねて言うが感謝するぞ犬飼。標的はすぐ傍。貴様のお陰でホムンクルス以上の連中と戦えそうだ」
「昂ぶっちゃって。もしかして敵の気配でも感じた?」
「ああ。居るぞ円山。近くにおよそ4体。内1体は恐らくヴィクター級。救出作戦が愉しみだ」
 一団の中で一番の美貌の主はやれやれと肩を竦めてみせた。僚友だから知っている。現役戦士中ホムンクルス最多撃破
数を誇る戦部は常に強者との戦いを望んでいるコトを。彼に言わせれば記録保持など望みを追い続けた副産物、通過点にす
ぎないのだ。ゆえに大戦士長誘拐という異常事態さえ彼にとっては新たな強者出現ぐらいの意味合いしかない。
「ヴィクター級ねえ。まあ1人ぐらいはいると思うけど……どうする? ボクたちだけでそいつ倒してみる? やれば大手柄だけど」
「悪くない提案だが、生憎俺は常々思っている。大戦士長とも戦いたいとな。救出をしくじり死なせては折角の飯もまずかろう」
「自重しなさい犬飼ちゃん。私たち結局ヴィクターIIIさえどうにもできなかったじゃない」
 軽く歯噛みし目を逸らす犬飼に円山は思った。「ホラー映画とかでまっ先に殺されるタイプね」と。実際彼は今夏のヴィクターIII
(武藤カズキ)討伐においてまっ先に交戦しまっ先にやられた輝かしい戦績の持ち主だ。
 それを気にしているのか。どうも最近功を焦っているフシがある。コンプレックスもあるのだろう。代々戦士を輩出した家系
の生まれで祖父──円山の記憶が正しければ、恐らくは──犬飼老人に至っては戦士長さえ努めていた。その後任に収ま
りいまは大戦士長にまで登り詰めているのが他ならぬ坂口照星なのである。一方犬飼は奇兵扱いの厄介者。救出作戦には
つまり戦士たち家族たち両方への面目躍如がかかっているという訳だ。
「私情挟みすぎね。2人とも。まあイイけど」
 円山は特に思うところはない。火渡に命じられたから付いてきた。それだけである。もし敵に円山好みの可愛いコがいれば
風船爆弾の武装錬金バブルケイジで身長を吹き飛ばし鳥カゴで飼いたくもあるが、それはついで程度である。主目的にする
ほど乗り気でもない。なぜなら──…腹部が痛い。傷が疼く。胃の中にゴロゴロとした不快感が走りいまにも爆発しそうな恐
怖がある。少し前、ある人物から受けた傷だ。
 円山の武装錬金の特性は「触れた相手の身長を15cm吹き飛ばす」。吹き飛ばした量が対象の身長を上回る場合、相手は
消滅する。
 今夏、円山はその特性を縦横に駆使し、ある対象の身長を34cmまで縮めた。しかし円山は目測と詰めを誤り、たった2発
しか当てなかった。差し引き4cm。そこまで縮んだ相手がどこに向かっているかも知らず、円山は大きく口を開け、笑い、不用
意な発言──鳥カゴで飼うのも悪くなかった──をしてしまった。

 
 相手は、津村斗貴子だった。不用意な発言が飛び出すころにはもう影も見せず円山の口に飛び込み胃の中へ潜り込ん
でいた。そして発言を悪趣味と断じ、「人間の」「円山の」胃を内部から切り開き、脱出した。
 その傷はトラウマとなり以来そのテの諧謔を浮かべるたび警告的ファントムペインに苛まれる。
 思い出したくもない──だが激痛もたらす法悦への期待もやや滲む、そんな──やや強張った笑みで円山は話題を変えた。
「私情といえばココ裂いてくれちゃったあのコ。今頃銀成市で怒っているでしょうね」
 同じ部隊のよしみか。毒島はこまめに戦団の現状を教えてくれる。おかげで暗いトンネルを歩くだけの円山たちもいっぱしの
事情通気取りだ。特に銀成市の現況は──かつて戦った相手と縁深い土地というコトもあり──よく話題にのぼる。
「ホムンクルスとの共闘ねえ。いいじゃないか。捨て駒にできるんだろ?」
 いささかひどい犬飼の意見だが、戦士としては模範解答だ。
「…………フム」
 戦部の目に鋭い光が灯ったのは戦後を鑑みてのコトだろう。共同戦線は救出作戦限定なのだ。終わってなお生き延びて
いる者があれば始末と称して挑むのも悪くない。野趣あふるるニュアンスに苦笑一方の円山だ。
「ま、見て気に入れば別の選択肢も有り得るがな。だがどちらにせよ──…」
「?」
「奴らが生き残っていればの話、だがな」
 機微を察したのか、大男は踵を返し仲間を見た。
「お前たちはまだ若いから知らないだろうが」
「チョットぉ。確かに若いけどアナタだってまだ27じゃない。私のたった4つ上」
 円山の抗議をしかし微笑でゆるりと流し戦部厳至は言葉を紡ぐ。
「敵は強いぞ。並のホムンクルスでは生き残るのも難しい」
「レティクルだっけ? それも毒島から聞いているよ。大戦士長を誘拐したのもそいつらだってね。でも10年前戦団に負けた
んでしょ? とてもそんな強いとはねェ」
「強いさ。実際見れば分かる。まだ若いお前たちと違い、俺はあの場に居たからな」
「へぇ初耳。10年前の決戦にいたなんて。その頃アナタまだ17。よく許可が下りたわね」
「武装錬金の特性が特性だからな。もっとも……その時まで『弁当』の喰い方も知らん新米だったが」
 犬飼と円山は顔を見合わせた。話がややズレている。余談だが戦部の武装錬金は『激戦』という十文字槍で、特性は槍
本体および創造者の高速自動修復である。戦部は例え黒色火薬で跡形も残らぬほど吹き飛ばされてもたちどころに再生する。
ただしその代償として莫大なエネルギーを要するため、戦闘突入時には『弁当』が必須だ。もしそれがなければあっという間に
ガス欠をきたし修復不能となるだろう。
 とはいえそれが敵の話とどう関係あるのだろう。戦部の話、続く。
「弁当の喰い方を覚えたのは幹部と戦っている最中だ。ディプレス……だったか。火星の幹部は圧倒的に強かった。あの
決戦における記録保持者は間違いなく奴だ。多くの戦士がディプレスによって分解され、命を失った。俺の居た部隊も例外
ではない。決して小さくはなかったが遭遇から5分と経たず壊滅に追いやられた」

 最初はただの掃討任務だったらしい。80体からなるホムンクルスの集団を壊滅寸前にまで追い込み部隊の士気はとみ
に高かったという。そのとき面妖な鳥型が音も立てず戦場に紛れ込んだ。

「まずは3人。気づいた時にはもう遅かった」

 仲のいいグループだった。一ツ所に固まってめいめいを補佐していた彼らの首から上が当たり前のように爆ぜた。ぶしゅ
りという不気味な音がした。首から夥しい出血を催す死骸が3つ仲良く膝をつき、傾き、そして丸太を転がすような音を奏で
る頃ようやく他の戦士も異常に気付いた。一瞬止まる戦場の波。滑り込む影。ある直線状にいた戦士が6人、『大きく削ら
れた』。運が良いものは右肩と右腕と右肺全部に気管支と左肺を少々。不運なものは腎臓同士の中間点を中心に腹部と
腰部のほぼ総て。人体を構成するいろいろな器官の落ちるリズムのやかましい中、戦士たちは見た。いたく嘴が巨大な、
不格好な鳥がはるか先で顔半分だけ振り向かせているのを。三白眼と口元をたっぷり歪め酷薄な笑みを浮かべているのを。

「飛火飛鴉(しんかひあ)?」
「中国のロケットミサイルみたいなものさ」
「特性は分解能力。無数にあるボールペン大の武装錬金。奴がそれを飛ばすたび俺を含む戦士どもが分解された」
「ま、アナタは激戦があるから問題ないでしょうけど、他の戦士はねえ」

 
 誰かが怒号をあげた。
 激烈な感情が伝播した。膨れ上がった殺気がそれまでの相手を軽くすり潰しながら鳥へ鳥へと向かい始めた。

「武装錬金の名はスピリレットレス(いくじなし)。いわば最強の矛だが最強の盾にもなりえる」
「成程。身にまとう訳だね? いや、周囲に漂わす……といった方が正しいかな?」
「キャプテンブラボーのシルバースキンが殴ってきた相手の腕分解するようなものね。物騒すぎてイヤになっちゃう」
「ゆえに激戦の高速自動修復を以てしても攻撃は届かなかった。もっとも、”その時までの”修復面積と回数ではな」

 近接戦闘を嗜むものは挑みかかるたびことごとく武器を砕かれその隙に頚部を打ち抜かれ絶命したという。
 遠距離攻撃をする者も末路はおおむね同じ。ディプレスは地を蹴りそして飛んだ。迫りくる銃弾やエネルギー弾を『盾』で
分解しつつ相手へ肉薄! 工夫も何もない。ただの体当たりを見舞った。周りに展開する分解能力の武装錬金ごと身を
ブチ当て戦士を肉塊へと造り替えた。

「なかなか面白い戦いだった。初陣から2度の戦もせぬうち大将以下が総崩れだ」
「楽しんじゃってるわねェ」

 やがてエネルギーが尽きた。隻腕の戦部は片膝をついた。手にした十文字槍は柄の上半分が穂先ごと消失。修復に伴
う稲光が微かに瞬いているが高速と呼ぶにはあまりにも精彩を欠き、遅かった。

 ラスイチ。よく戦った。嘲るような労いを囀りながら巨大な嘴の鳥がゆっくりと歩み寄る。周囲は屍の山。戦部の運命もまた
そこへ合流するかと思われた。

「その時さ。弁当の喰い方を覚えたのはな」

 負け戦。そんな絶対不利さえ愉悦と好む形質が奇跡を生んだ。腰だめのまま戦部は右腕ごと十文字槍を跳ね上げた。
居合いのような峻烈さだった。鞭と見まごうばかりしなる打撃の軌跡の中、神速ともいえる速度で元の形へ復した激戦、
がりがりと凄まじい音を立てながら分解され──…ディプレス=シンカヒアの嘴の一部を削り飛ばした。微かに驚き汗を
流す敵。彼とは逆に会心の、野太い笑みが戦部を支配した。劣勢の中、弱卒が一瞬だけ至強を上回る。戦部厳至の心が
躍るひとときである。

「修復速度が分解速度を上回った訳ね。でもソレをテンション一つでやってのけるなんてねえ」
 呆れたように円山は呟いた。きっと戦部は起死回生などカケラも目論んでいなかったに違いない。この一撃が通じなければ
負ける! 常人なら焦燥し繰り出すコトさえ躊躇う場面だが戦部にしてみれば「負ける!」という絶望的要素さえ面白い。もし
通じなかったとしてもその後の悪あがきさえ笑いながらとても楽しげにやってのけるのが彼なのだ。
 ただただ腹の減った子供が旨い料理の乗った皿を徹底的にねぶり尽くすようなに、戦闘という料理に残る余地、残滓も
何もかも消化せんとする貪欲さあらばこそ戦部は腹臓から高ぶり、高速自動修復の”高速”を更に一階梯上へ押し上げた
のだろう。回数も、面積も。
 つくづくと呆れながらも感心する円山の横で犬飼だけはしたり顔で自説を垂れ始めた。相手への称賛よりまず自分の発想
の素晴らしさとやらを披歴せずにいられない辺り、彼もまた子供じみている。
「ディプレスとかいう奴の武装錬金、シルバースキンと真逆だね。あっちは敵の分解速度が修復速度を上回れば攻撃が通
じる。戦えば分からないよ。どうなるか

「その辺りは分からんが……とにかく」

 削り飛んだ嘴の欠片。それを喜悦の表情で眺めながら戦部はゆるゆると手を動かした。果たして野太い槍の柄は器用にも
欠片を叩き、飛ばし、戦部の口にへと放り込んだ。

「後はまあ、いまやっているような弁当喰いと同じだ」

 咀嚼し、飲み干す。人を喰らうホムンクルスを人が喰らうというこの矛盾! だが戦史註(ときあか)す戦部にしてみれば
整合性に満ちた当たり前の行為である。攻撃が通じた瞬間、思い出し、腹が鳴った。古の戦士は斃した相手の血肉を喰ら
ったという。自らがそれより強いという証のために。そして相手の強さを取り込み、更なる強さを得るために。
 戦部の部隊に居た戦士は彼以外みなホムンクルス撃破数100以上。そんな手練れどもをあっという間に壊滅させたディプ
レス=シンカヒア。覚えるのは憎悪でも義憤でも復仇の念でもない。戦いたい。もっともっと戦いたい。そして打ち斃し……
もっともっと喰らいたい。なんと旨そうな羽根だろう。丸い頭を噛み千切れば何がどろりと出てくるのか。
 かつてない高揚の赴くまま──女を抱く興奮などこれに比べればまったく話にならぬほど矮小だった──戦部は叩き、薙
ぎ、突いた。全力で踏み込むあまり時おり足の下で仲間の死骸がナマ柔らかい何かをうジュりと吐き出したようだったが些
細な問題だ。戦後訪れた遺族や同僚どもの激しい抗議もひっくるめ、どうでもいい、つまらない問題だった。
 戦闘のもたらす高揚感。それこそが戦部を突き動かすものなのだ。それ以外は不要なのだ。

「半日は戦ったな。最初は小さな欠片程度しか飛ばせなかったが、徐々に徐々に喰いでのある塊を獲れるようになっていた」
「あらやだ。完ッ全に食べ物としか見てないわね」

 食べ物は食べ物でかなり興奮していたという。最初こそ食欲丸出しで迫ってくる戦部に激しくヒき、憂鬱だ憂鬱だと涙さえ流
していたが一通り泣き終えると、逆に、ハイになった。

「イヤだねェーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!! 何ィ!? 一体何なのよあんた!? 人間でしょ! 人間の分際
でホムンクルスさん喰っちまう訳!? え!! 何よナニナニおかしくねそれ!? 普通逆だよなあ逆!! 俺が! お前を!!
喰う!!! ホムンクルスさんがビビり倒す人間食べる!! それが摂理ってもんだろうが! 正しい流れってもんじゃねえか!!
なのに……オイ!! なんで俺がさっきから食べられちゃってる訳ェ!? おまっ、頭おかしくねーか!! なあ!! ……
ああ、ヤベえ。キタキタ鬱ってきた。せっかくよォ、惨めな人間の姿捨ててホムンクルスっつー化け物になって蹂躙する立場
手に入れたってのによオ〜〜〜〜喰われてるだァ!? クソ! 世界がまたてめェみたいなん差し向けて憂鬱にさせやがる! 
いつも、いwつwもwだw! こりゃあああもうううううアレだよなあああああ!! てめェ大好きっ子ちゃんになってよオオオオ!! 
うっとりと抱きしめて受け入れてやってからよおおおお!!! 世界!! てめェがいまさら何寄越そうと俺はもう揺らがね
えぞって強くなった寛容さの元に主張してやるべきだよなああ!! そして憂鬱を乗り越えてからてめェを殺すッッッ!!!
来な!! ゴーイングmy上へってな具合になぁ! 突き進むぜ俺はよォ!! 何があろうとよおおおおお!!!!」

 犬飼はため息をついた。
「狂っているね。どっちも」
「アジトに危機が来たとかで奴が撤退するまで戦いは続いた」


「それじゃバーイバーイバーイwwwwww それじゃバーイバーイバーイwwwwww」


「追おうとしたが相手は鳥型。あっという間に遠ざかり二度と見つけるコトはできなかった。あと4日もやり合えば喰えたのだ
が……惜しかった」
「負けなかっただけでも大したものよ」
 今更ながらに円山は実感した。火渡を除けば再殺部隊最強は戦部だろう。ホムンクルス撃破数の記録保持者だからと
いうのもあるが、そもそも戦闘に対する精神が根本から違いすぎる。”あの”坂口照星を誘拐した組織の幹部さえ、他より
わずかに面白くて喰いがいのある食料(エサ)ぐらいにしか見ていない。
「しかし、気になるな」
「何がよ?」
 十文字槍を持ちかえトンと肩に乗せると戦部はぎょろり目を剥いた。
「確かあの後、奴や盟主を斃したという報告があった。だが奴らは現に生き延びている。腑に落ちんな」
「どうせクローンってオチじゃないの? ヴィクターの娘にソレ教えたのレティクルの盟主っていうし」
「例の音楽隊の金髪剣士も盟主のクローンだしね」
「いや、事後処理をした連中も最初その線を疑っていたが、調査の結果、間違いなく『本人たち』だと確認された」
「ワケわかんない」
「ただの手落ちかそれとも全く別の理由か……。ム? そう言えば『木星』の幹部だけは逃げおおせていたか? …………
いずれにせよディプレスに関してはしばしば生存説が出ていた」
「へぇ」
「鐶光。およそ1年前の話だが、音楽隊の副長はとある戦士と戦った。そのとき奴は、こう、だな」
 戦部の節くれだった掌が鼻のあたりから胸の半ばまでスッと下りた。
「ディプレス……ハシビロコウの嘴を作り、応戦した。関連性が疑われ、生存説が強まった」
「強まった? じゃあそれより前にも何かあったの?」
「7年前か8年前だ。殲滅任務に従事していた戦士が8名、惨殺されてな。死骸さえ残っていない者もいる。最後まで生き残っ
ていたらしい軍靴の戦士は戦団に連絡を入れ、こう言った。『敵は2人。うち1人は『火星』。ハシビロコウ。応答しろ。ディプ
レスは生きている』……と。
「だったらその時探せば良かったじゃない。まったくヴィクターのコトといい、戦団は詰めが甘いわね」
「探したさ。だが結局手がかり一つ得られず保留(テイクノート)扱いになった」
「やれやれ。その時ボクが戦士だったら今のように探し当てて見せたのに」
「ちなみに、だ」
 戦部はニヤリと笑った。
「その時人数分の核鉄が奪われたが、つい最近発見された」
「どこにあったの?」
「例の音楽隊から回収した26の核鉄の中にだ。どうやら奴らもまたディプレスと遭遇していたらしい」
「ん? 遭遇しただけじゃ核鉄取れないわよね? 戦ったの? でもまだ生きてるらしいわよねディプレス」
 不可解な話だ。音楽隊はディプレスと交戦し、彼を斃してはいないが所持品(核鉄)だけは8つも手に入れている。
「ところで献上されたのは20じゃなかったっけ?」
「それとは別に一時回収した音楽隊専用の核鉄が6つある。合わせて26。内1つは鳩尾無銘に返しているが」

 ディプレス=シンカヒア。

 かつて矛を交えた幹部はいまどこで何をしているのか。
 どうやら先ほど察知した気配の中にはいなかったらしく、戦部厳至はフウとため息をついた。
 むかし行ったうまい屋台がいまどこで営業しているか気にかけるような表情。犬飼と円山はそう思った。


 そして時系列はやや前後するが……。

 戦部が気にかける火星の幹部は。




 自販機でジュースを買っていた。

 銀成市の。

 人気のまったくない路地裏で。


「”これだ”って思えるものがあるならばー♪ 人の目ばっかり気にしちゃ損でしょーうー♪」


 金髪にピアスという”いかにも”ないでたちの青年はやや青い顔で歌を聴いていた。
 視線の先には全身フードがいて、自販機から戻ってくるところだった。

「しwwwwwかwwwwwwwwwしwwwwwww ツイてないよなあお前もwwwwwwww たて続けにマレフィックと会うなんざwwwww」
「え? ああ? う?」
 目を白黒しながら手を伸ばす。飛んできたのはジュースの缶だ。反射的にキャッチしながら愕然とする。
「それでもよォーwwww 病気のリヴォ野郎に業突張りのデッドwwwwww ワーカホリックなニートのウィルに破壊大好き盟主様
wwwwwwwwwそーいったのが銀成にいないだけマシだぜwwww アイツらにゃ理屈ってもんは通じねーwwww 話ができて加減も
できる分wwwwwグレイズィングとかマシな方だぜwwwww」
 どうやら奢ってくれるらしい。そもそもこんな路地裏に自販機があるのも妙な話だが膨れ上がる違和感に比べればまったく些
細な疑問だ。どうして奢ってくれるのだろうか。
                                                   マレフィック
「後よ後よwww お前が逢った奴らとかオイラの連れ以外にももう1人うろついてんだわ幹部wwww 木星、イソゴばーさんwww 
気をつけなwwww 見た目はチビっこい可愛らしい感じだしwwwww温和で穏健だからww暴力もエンコ詰めも拷問もしないけどwww」
 ガシリと肩を組みながら全身フードは低い声で耳打ちした。
「惚れられたが最後、喰われちまうぜ?」
 ぞっとするような声だった。純粋な殺意も確かに含まれてはいた。だがそれ以上に甘美な陶酔が大きく、男の自分でさえ
性的な何かをゾクリと蠢動させられる声だった。
「なーんつってwwwww なーんつってwwwwwwwww ビビった?wwww ねえビビった?wwww ンな顔すんなよwwwwww 
大丈夫だっつーのwwwww イソゴばーさんは自制できるお方だっぜwwwww 滅多なコトじゃ喰わないっぜwwwwwwwww」

 カラカラと笑いながら彼は肩を叩く。

「大体な!ww いまあのばーさん、お仕事の最中wwww 新しい仲間の候補探すのに忙しいwwwwwwwwwwwwwwwwwww
マレフィックアースつってなwwww オイラたちのしたいコトに必要な最後の幹部を探してんだよwwwwwwなのに人喰いとかやったら
戦士が騒いで台無しだろーがよwwww だからしねーよwwwwwイソゴばーさんはオイラたちん中で一番大人だからなwwwww
まーwwwww 体は子供丸出しなんだけどよオwwwwwwwwww あ、オイラロリコンじゃねーよwww おしとやかなよーwwwww
どっちかつーと巨乳なおねーさんのが好きだぜwwww」

「は、はぁ」と不明瞭な応答をしながら金髪ピアスは考える。

 この晩出逢った男女たち。カタチこそ違えど異常な破綻とおぞましさを抱えた彼らの仲間がまた一人、目の前にいる。理
由は分からないが気に入られたらしい、されたコトといえば他愛もない軽口だけで特に危害は加えてこない。
 だからといって飲む気になれぬがジュースである。掌をひんやりとさせ心地よく誘惑的だが口をつければどうなるか。幸い
プルタブの辺りは固く閉じられている。何かを混入された痕跡はない。悟られぬよう「くっ」と拳に力を込めアルミ製の筺体を
歪曲。液体の噴き出す気配はない。針のようなもので小さな穴を開けられてもいない。大丈夫そうだがさりげなく全身フード
と見比べながら逡巡する金髪ピアスくんである。
「wwwwwwww なんだよwww 毒なんて入ってねーよwwwww」
 ぎくりと身を強張らせる金髪ピアスだが相手が気を悪くした様子はない。
「まあ初対面だしwwwwあんな連中の仲間だからwwwww疑うのも無理はないよなwwwゴメンwwwゴwメwンwなwwww 心配
かけさせちゃってるよなあオイラwwwwwwwwwwwwああ憂鬱wwwww」
 笑っているがだからこそ恐ろしい。笑い声、笑み、笑顔。慈母のようににこやかな少女でさえ豹変し、恐るべき暴力──
当人にとっては『伝える』程度の軽い行為らしいが──をもたらしたのだ。安心などできよう筈がない。
「なんだったら俺が毒見すっけどwwwwwww あ! コップか何かに注いでなwwwww 口はつけねーよ口はwwww 男同士
でおまwww間接キスとかwwww照れるわwwww恥ずかしいwwwwwオイラがwwwwwwwww」
 身を固くする。心を読まれている。そういえばと汗を流す。先ほど彼はここに来た経緯をスパリと言い当てた。もし逃げよう
とすればたちどころに察するだろう。それがきっかけに爆発せぬとは限らない。
「ジュース飲む?wwww 飲んじゃう?wwwwwww」
 首をぶんぶんと左右に振りながら全身フードが迫ってくる。非常にうぜえと無意識に思いながら頷く。
「じゃあ開けるねwwwwwwww 開けちゃうwwwwwwwww」
 気障ったらしく指が弾かれた瞬間、それは起きた。プルタブ。それが魔法のように消失した。
「え?」
 何が何やらという顔で缶を傾ける。最初ただ開いただけかと思っていたがすぐさま違うと理解した。いくら角度を変えても
飲み口付近にタブは見えない。普通開ければ見える筈なのに……。良く見ると起こしたり戻したりする方のタブ──漢字の
『日』の下半分を丸くしたような──も消えている。
「さぁwwwwお近づきの印にwwwwwww一献wwwwwwwww一献wwwwwwwww」
 あっと目を剥くころにはもう遅い。素早い手つきで缶が奪われ口の上で傾いていた。強い力でこじ開けられた下顎めがけ
橙色の清涼飲料水がドボドボドボドボ降り注ぐ。吐きたいが吐けば何をされるか分からない。
「さぁ!! 吸い込んでくれーい! 僕の寂しさ、孤独を全部君がー♪」」
 恐怖。それは言い訳のように先ほどの女医を思い出させる。大丈夫。仮に毒が入っていてもきっと運んでもらえる。助け
てもらえる。命までは取られない。そうだったじゃないか。今まで遭った連中は……。
 妥協と甘えに満ちた生ぬるい考えのもとコクコクと喉を動かし飲んでいく。ただのジュースがおぞましい液体に思えた。し
かし品質自体はごくごく普通の物で、味に異常もなく異物混入も認められない。やがて缶が空になったころ気付く。消失し
たかに見えたプルタブ。口に残っていないし食道を通り抜けた形跡もない。缶にも残っていない。
 では、どこへ? どこへ消えたのか?
「さぁ? wwww気にするなwwwwww 本当にただ消えただけwww 原子レベルにwww分解されただけwwwww」
 そういって全身フードは肩を揺すって笑って見せた。その手に黒い靄のような物が漂っているのに気づき金髪ピアスは目
を擦った。もう一度見える。何もない。確かに黒いボールペンのようなものが飛んでいたのだが……。 
 とにかく今までの人物とは違って比較的無害そうだ(ジュースを無理やり飲まされたが)。安心した金髪ピアスだがふと彼に
同行者がいたのを思い出す。いた、どころか先ほど突き飛ばしてしまっているではないか。今宵さまざまな刺激ですっかり
ベトベトになった背中を新たな汗が流れる。
 ゴミ捨て場の方から音がした。先ほど、同行者を体当たりで追いやったゴミ捨て場から。
 恐る恐るそちらを見る。

 黒い影が今まさに自分めがけ殺到しているところだった。
 同行者。それは女性のようなシルエットを持っていたがそれも分析するヒマあらばこそ。
 胸に何か強い衝撃が走った。上体がどうと揺れ思考が一瞬完全停止した。

 やがて巨大な泣き声が夜空に響き………………………………………………………………静かになった。


 翌日の昼。銀成学園地下。

 ヴィクトリアはまひろを前に眉を顰めていた。

「で? いつになったら話してくれるの?
 申し訳程度に作られた地下室。中央のヴィクトリアは嘆息しつつ問い掛ける。まひろはやや俯き加減なので、気持ち上体
を屈め覗きこむような格好だ。腰に手を当て返答するよう鋭い上目遣いを送っているがやればやるほどまひろは委縮する
らしく──怯えているというよりは、「びっきーがこれだけ真剣に聞いてくれるんだからちゃんと言わなきゃ」と言葉選びに一
生懸命になり、ますます言えなくなっているようだ──埒があかない。もとより狭量で短気なヴィクトリアだ。流石に怒りのマー
クが跳ねのある前髪で脈動し始めたころ、意外なところから声が掛った。
「いう必要もない!! 貴様の悩みなんてのはこの蝶・天才の俺にかかれば全部全部お見通しだ!!
「ひゃあああああ!?」
 素っ頓狂な声はヴィクトリアの口から上がった。見ればパピヨンの顔がすぐ横にいる。それだけなら何とか耐えられたが、
なぜか彼は逆さ吊りになっていた。名状しがたき気持ち悪さだった。うっすら涙の溜まった眼で慌てて天井を見る。申し訳程度
に低く作り過ぎたか。長身の彼は片足を天井に刺し、ぶら下がっていた。もう片方の足はバレエダンサーのように高々と掲
げられてはいたがあまり意味は感じられない。ただの趣味なのだろう。薄い胸に手をあて背を丸め「びっくりした」。見た目
相応のあどけなせで荒く息をつくヴィクトリアだ。
「? 何をそんなに驚いている?」
「どうしたのびっきー? 蜘蛛さんでも降ってきた? 任せて! 怖かったら私が取るよ!」
「な! なんでもないわよ!!」
 全く分かってない様子のボケ2人にヴィクトリアはかなり本気で泣きたくなった。パピヨンの容姿は決して嫌いではないが見
る角度によっては美しさが突然醜怪なものに変じるらしい。純粋に突然の声に驚いたというのもある。
「蜘蛛ねェ。おいヒキコモリ。そろそろ蜘蛛の糸を垂らしたらどうだ。この俺がめずらしく貴様の都合に付き合ってやったんだ。
さっさと出口を開けるのが筋にして貴様がやるべき責務! 急げ!! さっさと!!」
「分かったわよ」
 ぐんらぐんらとシャンデリアのように体を揺すってまくしたてるパピヨン(残像さえ発生し、そのせいで5体ばかりのパピヨン
が同時に存在するという悪夢を見せつけられた)にいささか辟易しながらヴィクトリアは地上への入口を開こうとし──…
少し考えてから冷笑を浮かべた。
「足。刺さってるわね。そこに開けたらどうなるかしら? やっぱり落ちる?」
「ホウ。いつの間にか随分なコトを言うようになったじゃあないか! やってみ!!」
「冗談よ冗談」
 クスクスと笑いながらヴィクトリアは部屋の隅に出口を開いた。転瞬パピヨンはくるりと宙を舞い「しゅた!」と言いながら
両手を広げとても華麗かつ美しく素晴らしく麗らかに華やかにとにかくすごくカッコよく着地した。まひろは拍手し「10.0」と
書かれたプレートを掲げた。無理やりそれを握らされたヴィクトリアも嫌そうな顔で相談相手に準じた。
「とにかくだ。武藤まひろ」
 軽く肩をいからせながらパピヨンは出口へ歩いていく。背中を向けているため表情までは分からない。
「奴が貴様の描く予想図通り動いた試しがあったか? なかっただろう。あの男は常に必ずこちらの企図を飛び越える。
ならば貴様如きが幾ら悩み抜こうと無駄なコト。下らない葛藤から逃げ回る暇があるならこの俺パピヨンのように何か一つ
でもそれらしいコトでもやってみせろ」
「……うん。ありがとう監督」
 振り返りもせずパピヨンは鼻を鳴らし──…

 やがて彼の姿が地下から消える頃、ヴィクトリアは嘆息した。

「いいわねアナタは。ああいう優しい言葉をかけて貰えて」
 しばらくパピヨンと行動を共にしているからこそ分かる。あれは彼なりのエールなのだ。平易すぎるまでに要約すれば「心
配無用。アイツを信じろ。やれるコトをやってその時を待て」だ。他者を受け入れないパピヨンとしては破格なまでに親身な
言葉だ。アイツ、とはもちろんカズキのコトだろう。
(私には、何もいってくれないのに)
 ヴィクターの件に関し特に励ましらしい励ましを受けた覚えのないヴィクトリアである。自分の力でどうにかすべきだとは
思っているが、いざ似たような立場のまひろにだけ優しい言葉が掛けられるのを見るとダメだ。心臓が軽く締め付けられ
る。睫毛の細い瞳を伏せる。鼓動が少し早くなる。自分とは違うまひろへの対応にこわごわとしたものを覚え、気づけば
セーラー服の胸元をくしゃりと握りしめていた。
(優しいのはアイツの妹だから? それとも──…)
「それにしてもやっぱりびっきーと監督って仲いいよね」
 何気ない一言にヴィクトリアは「ああもうこのコは!」と怒りたくなった。誰のせいで悩んでいると思っているのだ。やや不快
になりつつもまひろはそういう相手だとも割り切っているので口論には発展しない。ところどころ欠点もあるが美点も多い。
明るく、他人思いで、素敵な笑顔の持ち主で、その場にいるだけで周囲を和やかにして──…
 美点を数えるたびその名前の刻まれた石碑が肩にズンズン乗っかってくるようで全く落胆の一途だ。「どれも私にないじ
ゃない……」。羨ましいやら悲しいやらだ。暗い感情の具現たる紫色のどよどよした空気の中、ただただ溜息をつき肩を落
とす他ないヴィクトリアだ。。
(アイツが、アイツが気に入ってもおかしくない…………)
「どうしたのびっきー」
「……ほっといて。というか私とアイツそんなに仲良くないわよ」
 考えれば考えるほど悪循環に陥りそうなのでヴィクトリアは話題を変えた。
「そーかなあ。監督が誰かとあんなに打ち解けて話してる姿、初めて見たよ」
 優しい。慰めてくれる。私怒っているのに……。そんな碑銘の石ころ3つが石碑の塔へ次々ダイブ。重みで肩がまた落ちる。
(ああもうイヤ。悩み聞こうとしただけなのになんでこんな気持ちにならなきゃ……)
「そうよ! こんな会話してる場合じゃないでしょ!! さっさと悩み言ったらどう!!?」
「ええーーーーーーーーー!?」
 突然叫びだしたヴィクトリアに面食らったらしい。まひろは両目を剥いてあらん限りの驚愕を浮かべた。
 しまった叫び過ぎた。らしからぬ感情発露をごまかすようにぜぇぜぇ息を吐き、きゅっと唇を結ぶ。
 ヴィクトリアはやや迷いがちにトーンを落とし、ぽつりぽつりと呟いた。
「………私は、アナタや早坂秋水ほどたくさんの物事を乗り越えてきていないし第一こんな性格だから、解決策なんて出せ
ないかも知れないわよ」
 でも、と今度はややバツが悪そうに距離を取り、そっぽを向いた。そして一呼吸。二呼吸。わずかな沈黙を作ってから静
かに静かに呟いた。
「聞き手ぐらい、努めさせなさいよ」
「…………?」
 聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。最初まひろはこの人形のような少女が何をいったのか分からなかった。それも
その筈で彼女はよほどその文言を告げるのが気恥ずかしいらしく、か細い息をつきながらようやく言葉を捻出しているという
様子だった。右手は垂らし肘に左の掌を。そっぽを向いても”絵”になる少女だった。
「私なんかが相手でも、言って、スッキリして、本音に気付くぐらいはできるでしょ……?」

(あ…………)

 やっとまひろは気付いた。「相談してほしい」。遠まわしだが確かにそう言われているのを。
 微かに赤い頬の上で鋭い三角の目がじーっと自分を見ている。瞳孔は相変わらず明るいところのネコのような夜行性爬
虫類のような垂直のスリット型だ。「冷たい」、平素そう見えるそれもいまはどぎまぎと瞠目中だ。言い方が正しいかどうか迷っ
ているのだろう。そもそも相談に乗ろうとする姿勢が気恥ずかしくて照れくさいのだろう。そんな感情を持て余しているらしく
細い眉さえごうごうと吊り上がっているのも見えた。眦(まなじり)直下にはひとしずくの汗さえ浮かんでいる。焦りと羞恥と
真面目さとでガチガチに緊張した、ユーモラスでさえある目つきだった。横向きの口も珍しくにゃらにゃらとした波線に結ば
れている。まひろでさえ初めて見る表情(カオ)だった。
 もしかするとこの毒舌少女は生まれて初めて相談を受けようとしているのかも知れない。敢えて特技がまったく通じない行
為をやろうとしているのかも知れない。
 気づいたまひろは、後ろに手を回しふわりと微笑した。
「ありがとうびっきー。私なんかのために。心配かけてゴメンね」
「別に。感謝してるならさっさと言いなさいよ。まったく。武藤カズキがらみの悩みだなんて最初から見当ついてたのに」
 すぐ横道に逸れるんだから……ぶつくさと文句を言うヴィクトリアが髪をかきあげ向きなおった瞬間、まひろの腹はくくられた。

「そうだよね。監督の言う通りなんだよね。私がいくら悩んでもいても、「帰ってこないかも」って心配していても、お兄ちゃんは
いつだって戻ってくるって約束して、ちゃんとそれを守ってくれた。「すぐ」か「長いお別れになるけど」って違いはあるけど、
必ず……って」

 まひろはとても申し訳なさそうにヴィクトリアを見た。
「実をいうとねびっきー。少し前、秋水先輩が気付かせてくれたの。最後に会ったときお兄ちゃん、「長いお別れになるけど
必ず戻ってくる」って約束してくれてたの。なのにまた同じコトで悩んでいたのはね……」
 いま自分を苦しめている悩み。武藤まひろは訥々とそれを語りだした。


「ほう。こんなに長くねェ」
 校舎の傍の秋水を眺めながらパピヨンは下顎に指を当てた。毒々しい蝶々覆面の下に微かだが感心の色が浮かび、す
ぐ消えた。地上に戻りしばらく歩いていると疾走中の秋水が見えた。向こうはパピヨンにさえ気付いていなかった。何かを賢
明に求めているらしく、ただただひた走り体育館や校舎に入っては落胆と焦燥の表情で出てくるという繰り返し。15分ほど
は走っていた。面白半分に尾け回していたパピヨンは「そろそろ飽きたかな」と1人ごち秋水めがけ優雅に歩き出した。


「 呆 れ た 」
 相談を聞き終えるとまず、まさに言葉通りの顔つきをした。
 ヴィクトリアのコトである。
 乗る前の緊張もどこへやら。いつもの毒舌少女の顔つきで彼女は相談内容を実に簡潔に述べ、斬って捨てた。
「要するに『武藤カズキがいなくて寂しいから』『早坂秋水が自分のコト好きだったらいいなって思った』だけじゃないソレ」
 まひろの顔はみるみると赤くなった。「ちちち違うの」「そうじゃなくて」とあたふたするも悉くを論破され、こっきんと俯いた。
 勝った! 何にどう勝ったのかは分からないが、とにかくヴィクトリアは両手を腰に当て薄い胸を逸らし得意気に鼻を鳴らした。
「……簡単にまとめすぎだよ。びっきー。私、私、もっといろいろ言ったよ…………?」
「でも結局そうじゃない。そうだからそう言えずにアイツから逃げたんでしょ? 違うの?
 ぼっ、という音がした。よく見ると俯いたまひろは首筋まで真赤にして黙り込んでいる。図星としかいいようがない。
「とりあえずアナタのいったコト、順番にいうわよ。まず最近演劇部が賑やかになってきた。転校生たちも何人か入ってくる。
上り調子よ。だから部活が毎日楽しい」
「……うん」
「でもそこに武藤カズキはいない。楽しいからこそ不在が悲しい」
「……うん」
「一度そっち方面に気持ちが行っちゃうと、津村斗貴子や千里や沙織、武藤カズキの親友たちや早坂姉弟にあの管理人
(防人)も寂しいんだろうなって思って、どうしようもなくなる。合ってる?」
「……うん」
 頷くばかりのまひろだ。平素少しは自重しろと思っているヴィクトリアでさえ元気出しなさいよと毒づきたくなる状態だ。
「そして武藤カズキを含む他人のコトを考えると自分だけ楽しんでいていいのかと思う訳ね。で、楽しめなくなる。代わりに
もう解決した筈の”武藤カズキは戻ってくるのだろうか”という不安ばかりがまた首をもたげてきて、押しつぶされそうになる。
寂しくて寂しくて仕方なくなる」
 ヴィクトリアはだんだん楽しくなってきた。いよいよ羞恥が濃くなってきたまひろを冷たい笑顔で眺めた。
 口を開く、銃弾のように言葉を注ぐ。
「でもそれは相談できない。なぜかというとさっきいった通り、周りの人間も同じ悩みを抱えているから。迷惑をかけてしまう
……そんな妙な遠慮が湧いてきて、誰にも何もいえずにいる。早坂秋水でもそれは同じ。いえ、もっとヒドいかしら。なぜなら
武藤カズキの件はアイツが一度解決してるもの。蒸し返せばアイツは無力感を感じるでしょうね。自分の言葉では解決できて
いなかった……本当はそうじゃないからこそ、アナタは早坂秋水に無力感を覚えさせたくない。だから、相談できない」
 罵るような分析と反復だ。相談やカウンセリングにはとんと不向きな少女である。(特殊な需要層はヨロコぶだろうが)
「そんなとき、早坂秋水と目があった。アイツはアナタを見て微笑していた。だから期待してしまった。実は自分のコトを……と」
 ぶんぶんぶんとまひろは首を縦に振った。「そこは否定すべきトコでしょ」。呆れながらもあまりの素直さへ逆に感心さえ覚
えてしまう。
「でもアナタはこうも思った。『武藤カズキがいない寂しさを早坂秋水で埋めようとするのは失礼』……って」
 ここでまひろはやっと復活。いつものごとくヴィクトリアの肩を持ち、大っぴらに揺すり始めた。
「だだだだって秋水先輩まだいろいろやるコトがあって大変なんだよ!? きっとお兄ちゃんに直接会って謝らない限り、本
当の意味で前へ進めないと思うし……!!」」
(ハイハイ揺すりなさい揺すりなさい。元気出てきたようで何よりね。とても、すごく迷惑だけど)
 最近まひろに対する気分が悟りの域に達しているような気がしてならぬヴィクトリアだ。ガンジス川のように総てを受け入れ
柳のように受け流すのがもっとも効果的な戦法なのかも知れない。そんなコトを冷めた表情で思いながら束ねた金髪と形の
いい白い顎をやられるままされるまま、がっくんがっくん揺らしている。
「そんな時に私が困らせるようなコト言ったりしたらダメだよ! あくまで私は秋水先輩に協力しなきゃ!! 先輩がお兄ちゃ
んにちゃんと謝れるよう支えてあげなきゃ……今まで一生懸命私たちのために戦ってくれた2人に悪いよ!!」
 ヴィクトリアを解放するとまひろは明後日の方向を向きながら拳固めて力説した。「どこ向いて喋ってるの」。半眼ジト目の
ツッコミはまるで届いていないようだ。くるりと反転すると今度は深刻な表情でこう語る。テンションは乱高下まっさかりだ。
「みんな、みんな……お兄ちゃんがいなくて悲しいんだよ? 寂しいんだよ? なのに私だけ秋水先輩お兄ちゃんの代わり
にしようだなんて…………ダメだよ。斗貴子さんだって辛いよ」
 大きな瞳にうっすら涙を浮かべるまひろをヴィクトリアは無言で眺めた。
 カズキはいまもまだ月面で戦っているのである。この惑星(ほし)にいる大勢の守りたい人のために。その辺りを知ってい
るからこそ、周囲もまた辛さを感じているからこそ、、まひろは自分だけ楽しむコトを許せないのだろう。
「そうね。辛い時、楽しそうな人間が傍にいるのは気分悪いもの。そこまで考えて踏みとどまってるだけ、アナタはまだまだ
マシな方」
「偉くなんかないよ……。秋水先輩、お兄ちゃんの代わりにしようとか思っちゃったもん私」
(代わり、ね)
 まひろを悩ましているのはその言葉らしい。笑みが漏れる。ヴィクトリアは少し昔のコトを思い出した。振り返れば滑稽な、
それでも当時は深刻だった悩みが脳裏に去来する。それを言えばまひろの本音も幾分引き出しやすそうだが、いきなり
核心をついても却って縮こまるだろう。自分の弱さを嫌というほど見てきたヴィクトリアなのだ。弱みを突かれた人間が
どういう反応を示すかぐらいは知っている。まずはまひろの好きそうな話題で外堀を埋めるコトにした。
「別にいいんじゃないの。あっちもアナタのコト、嫌いじゃなさそうだし」
 むしろ別格といえるのではないか? 
 ヴィクトリアはこれまで見聞きした様々な情報を元に、いかにもまひろが喜びそうな秋水情報を提供する。
 沙織の話では入院中の秋水を見舞う女子生徒は数あれど、ともにハンバーガーを食べてるのはまひろだけらしい。
 千里の話では8月の終わりに秋水自らまひろを食事に誘ったとか。
 メイドカフェではまひろのメイド姿に目を奪われていたし、演劇がらみではまひろと一緒に何か作業をしているという。
 学園のアイドルに憧れる他の女子生徒にしてみれば血涙を流したくなるほどの圧倒的アドバンテージをまひろは誇っている。
 にも関わらず当の本人だけはまったくそれに気づいていない。
 なんだか普通の人間の、普通の女子生徒──実際そういう容貌なのだが──がする様なコイバナで持ち上げたり喜ばし
たりするヴィクトリアだ。心中「なにやってるのよ私」という疑問もあったが、話していると不思議なもので心がうきうきと踊り
立ち、だんだんだんだん本当に秋水がまひろを好いているように思えてきた。
 一方のまひろはいろいろ驚いたり期待に満ちた表情をしていたが、すぐに「でででででも」と手をばたつかせた。しかし表情
は満更でもなさそうなのがまひろのまひろたる所以なのだろう。
「いいじゃない。最初はアイツの代わりでも。付き合っていく内にその人そのものを見るようになっていけば案外うまく行く
んじゃないかしら? 人間関係の始まる、ひとつのきっかけとして捉えたらどう?」
「おー。さすがびっきー。大人だね」
「当たり前よ。こう見えてもアナタのおばあ様より年上だもの」
 ヴィクトリアというとあまつさえ上記がごとき悟った意見さえ述べ始めるから分からない。もちろんコレはまひろの心を自分
好みの方へ誘導するための方便だ。まひろ以外の人間を救う措置など何もない。斗貴子に聞かれたが最後ヴィクトリアの
首から上は鎌上(れんじょう)で罵声を浴びるだろう。
 他人思いではあるが刺激的な出来事にはすぐ忘我し暴走するまひろだ。呈示された解決策に思わず目を点にし両頬に
手を当てた。だいぶ心が揺らいだらしい。それでもやはりすぐさま他の人間との兼ね合いを思い出したらしく、ぶんぶんと
栗色の髪を左右に振り一生懸命喋り出した。
「確かに秋水先輩、お兄ちゃんのコトで私にいろいろ良くしてくれたけど……でもそれってやっぱりそれはお兄ちゃんのコ
トがあったからだし、ダメ。ダメなの。期待なんかしちゃ! それに、それにね、私!」
 またも拳を固めたまひろ、今度は目をぐるぐるの渦にし滝のごとく涙を流した。
「お兄ちゃんの代わりに私へ謝ろうなんていうのはダメだよ? ってカンジのコト、言っちゃってるしーーーーーーーーー!」
「墓穴ね。自分を武藤カズキの代わりにしないでって言った以上、アナタも早坂秋水をそうできない」
 この世の終わりを迎えているのかと聞きたくなるほどまひろは苦悩している。とうとう彼女はわーっと泣きながらヴィクトリアの
胸に飛び込んだ、
「どうしよう! 私どうしたらいいのかなびっきー!  このままじゃ秋水先輩にあわす顔がないよ!」
 機械のような無表情で頭をぽふぽふと叩きながらヴィクトリアは「そうね……」と言葉を紡ぎ始める。やっと本題に入れる。
 そういう思いがあった。
「馬鹿ね。さびしいから代わりにしたい。それだけしか考えられない人間が、アナタみたいに悩むと思う?」
「ふぇ?」
 ヴィクトリアは顔をしかめた。セーラー服にまひろの鼻水がべっとりと付いている。固めた拳を怒りに震わせかけたが
意志の力で鎮静し、ただしやや迫力のある力強い声で文言を継続する。
「最初に断わっておくわよ。同情はしないで。悪いコト聞いたなんて謝ったりしないで。いい? 私が自分で話すって決めた
コトなんだからいちいち嘴を挟まないで。分かった?」 
 良く分かっていないようだがまひろは不承不承うなずいた。
「ココに来る前、私のママがね。死んだの。しばらく……寂しかったわ」
 その言葉を皮切りにヴィクトリアは語りだす。かつてその母の面影を千里に見ていたコトを。髪を梳いてもらうたび母にそう
して貰っているようで嬉しくて、いつしか彼女を母の『代わり』として見ていたコトを。だが皮肉にもそれがきっかけで千里に
対して食人衝動を覚えてしまった……一時期寄宿舎から姿を消していた理由の暗澹たる部分まで包み隠さずまひろに話す。
彼女はフクザツな表情だが、ヴィクトリアの刺した釘を守り同情めいたコトは何一ついわない。食人衝動についても決して
蔑視を浮かべずただ「道理で辛かったんだ」という光を目に宿した。親友を食べようとした。その事実に対する恐れより、
食べたくなってしまった不幸を悼んでくれているようだった。そんなまひろで、少しだけ嬉しかった。
「いい。経験者に言わせればね。寂しいからすり寄る。そんな感情ならいちいち相手へ悪いとか思わないわよ。情けないぐ
らいめそめそして、悲しさから逃げる為だけにすりよって。そうして上手くいかなくなったら逃げるだけ。まったく。自分でも情
けなかったわよ」
「逃げる……」
 まひろの顔が曇った。「そんなカオは全部聞いてからにしなさい」。ぴしゃりと言葉で叩いてから、ヴィクトリアは冷たい上目
遣いで相談相手を凝視した。
「自分の寂しさを埋めたいから代わりにする。それだけしか考えられない人間が、アナタのようにいろいろ考えると思う?
現にアナタ、代わりにしたいって自覚した瞬間アイツから逃げてるじゃない。私は違うわよ。自覚してからもママとの区別を
つけようともせず千里に髪ばかり梳いて貰ってたもの」
「それは今もなの? びっきー」
「いえ。千里は千里だって分かっているわよ。お陰さまで、アナタとアイツに連れ戻された時からね。でもアナタは武藤カズキ
の代わりにしようとする前に早坂秋水から逃げた。つまり『本心では代わりにしたくない』。その辺りは昔の私と違うわよ」
「うぅ。私の心なのに難しい。難しすぎるよびっきー」
「呆れた。アナタの心だからでしょ。アナタ自身がフクザツにしてるだけじゃない」
 泣き笑いするまひろだが罪悪感はやや消えたらしい。そこを見計らったヴィクトリア、すかさず問題の核心へと斬り込んだ。
「アナタは言い訳しているんじゃないの? 本当の気持ちは別にあって、でもそれを満たそうとすると結果的にアイツを武藤カ
ズキの代わりにしてしまうって気付いてしまった。だから迷っている。私にはそう見えるけど」
 どんぐり眼が瞬いた。言葉の意味を測りかねたのが見て取れた。
 それもその筈だ。指摘が示すはまひろの悩みから2段も3段も上の領域だ。
「もう一度聞くけど、アナタの本音はどうなの? アナタの本当の気持ちはどうなの?」
「本音……?」
 切なげに眉を寄せ、まひろは少し視線を下げた。
「私の推測も交じってるけど、アナタ早坂秋水のコト、好きなの? 好きだからこそらしくもなく色々考えて遠慮して、怖がってるの?」
 一気に畳みかけるヴィクトリアだ。まひろ相手にはこれほど直截簡明(ちょくせつかんめい)な物言いの方が効くと踏んだから
だが、言い終わるやいなや別の思案も湧いてきた。
(なにこの青臭いセリフ)
 先ほどまひろの祖母より年上とのたまった少女がいうにはやや滑稽なセリフだ。鐶がするような黒一色の戯画的半眼を
しつつやや引き攣った顔をする。だんだん、恥ずかしくなってきた。何を自分は言っているのだろうかという思いが湧き、つ
いで他人の恋愛に口をはさむより先に自分のコトをどうにかしろという空しさも湧いてきた。恋愛? なぜか浮かぶパピヨン
の顔にやや顔を赤らめながらじつと俯く。知識の中にしかなかった思春期という化石が今は生々しく蘇り感情の中を泳いで
いるようだった。
 まひろはまひろで深刻だ。期せずして2人は同時に盛大な溜息をついた。
「そんなコト……考えたコトもないよ」
 まひろは顎に手をあて悩ましげに俯いた。瞳も熱く潤んでいる。
「そりゃ秋水先輩はカッコいいし優しいよ。でも照れ屋さんで不器用で、見てるとどうしても助けたくなっちゃうし、そこが可愛
いかなあとは思うよ。私だっていろいろ助けてもらったし…………。お兄ちゃんがいなくて、寂しいけど、先輩が色々いって
くれたから今まで何とかやってこれた訳で……。でも、好きかどうかなんていうのは…………分からないよ」
 まひろはくるりと背を向け小石を蹴るようなしぐさをした。腰のあたりに回された手と手の間で時おり幼い指同士がぎゅうっと
絡みう。籠る力は苦悩のほどを示していた。
「だってね。私……斗貴子さんもちーちんもさーちゃんも六舛先輩たちもブラボーも桜花先輩も、監督も、それからもちろん
びっきーも、とにかく周りにいるみんな大好きだよ。もちろん秋水先輩だって大好きだけど、でもみんなへの大好きと違うか
どうかまでは分からなくて……」
(気付きなさいよまったく)
 何度目かの嘆息をしつつ、ヴィクトリアは天を仰いだ。狭い地下なので灰色の天井が広がっているだけだが、何か挙動
を取らなければ間が持たない気がしたのだ。
(ふだん何も考えず突っ込んでくアナタがそこまで深刻になってる時点で──…)

(答えなんて分かりきってるじゃない)

 視線を移す。まひろの背中。語りかけるように凝視する。
 
 彼女はフラれるという結果など恐れていないようだった。秋水がそう決断したとしても彼への手助けはやめないだろう。ヴィ
クトリアは心底からそう思った。まひろは見返りや自分への好意は求めていない。何か問題があれば自分の身を顧みず、
他人のためだけに動ける少女だ。
 だから「フラれる」という結果的なものより、「カズキ不在の中、秋水へ一歩踏み出そうとする」自分の決断、過程こそ周囲に悪いと
思い相手にさえ遠慮しているフシがある。

(これ以上つつかない方が良さそうね。迷う気持ちはそうすぐには変えられない。自分のコトさえ100年間どうしようもなかった
私がこのコの悩みを全部解決しようなんて思い上がりもいい所。傲慢じゃない)

(できるコトは1つ。たった1つ──…)

 近づき、ぽんと肩を叩く。戸惑ったように見返してくるまひろにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「とにかく。まずはいまの指摘が合ってるかどうかじっくり考えなさいよ」
 思わぬスキンシップに一瞬喜色を浮かべたまひろではあるが、すぐに太い眉をハの字に歪め哀願するように訴える。
「でも、私そんなに頭良くないよ? すぐこんがらがって分からなくなっちゃうかも」
「その時は今みたく私に話せばいいでしょ?」
 唖然とするまひろに「してやったり」とばかりヴィクトリアは笑みを浮かべた。
「私なんかが相手でも、言って、スッキリして、本音に気付くぐらいはできるでしょ。どうせアナタは一人で悩んで貯め込んでも
何も解決できないわよ。だったらどこかで適当に発散すればいいじゃない」
「で、でも……それじゃびっきーに悪いような」
「悪い?」
 フンと鼻を鳴らすとヴィクトリアは思いっきり皮肉と冷淡の混じった笑みを浮かべた。演説の題目は2人の関係性。まひろにされた
所業がどれほど嫌で苦痛を感じたか、だ。氷の釘で射抜くようにチクチクと毒舌を振るう。そしてそれを最後にこう締めくくる。
「今まで散々私を苦しめたアナタよ。いまさら何したって悪いも何もないじゃない。ホラ。こっち向きなさいよ。ねえ」
 戯画的な表情で丸っこい涙をどらどら流すまひろの顎に手を伸ばす。首のしなやかな稜線を駆け抜けた繊手が下顎を撫でると
豊かな肢体がピクリと震えた。刺激に喘ぐ愛らしい顔立ちが恐る恐る見返してくる。いいカオ……妖しく震える嗜虐心。ヴィクトリアの手は
まひろの頬をつるりと撫で皮膚と栗髪の間に潜り込んだ。ぱさついた髪の束が浮き上がり、まひろは小さな叫びを軽くあげた。
「それとも……私じゃダメ……? アナタも武藤カズキしか見てないの……?」
 
 まひろは見た。眼下で急に瞳を潤ませるヴィクトリアを。やや紅潮した顔は名状しがたい切なさを孕んでいた。思わず唾を飲む。
彼女は恐ろしく攻撃的な姿勢とは裏腹に懸命に背伸びをしていた。踵や足の甲がぶるぶると震えていて、それだけなのにとてもと
てもズキリと来た。
 普段軽くのぼらせる「可愛い」とは違った何かを感じる。桜花の美しさともまた違う何かが。今すぐにでも抱きしめたいが抱きしめると
ヴィクトリアの関係性が変わっていってしまうような予感がした。それはともかくとしてまひろは純粋にヴィクトリアの申し出が嬉しかった
ので──そういう明るい感情を前面に押し出さないと美しくも甘い雰囲気にどうにかなってしまいそうだったので──とびきりの笑みを
浮かべ快諾した。

(アナタも? 誰か他の人もそうなの? 秋水先輩のコトならそこまで悩まないよね?)

(誰なのびっきー? その人は)

 かすかな疑問を、残しつつ。

「分かってくれればいいのよ。とにかく逃げるのだけは絶対ダメよ。何の解決にもならないんだから」
 かつて人喰い衝動の件で寄宿舎から逃げた時のコトを思い出しながらヴィクトリアは最後の注意を始めた。
「気遣うコト自体は悪くないわよ。むしろアナタにしてはよく配慮した方。だけど早坂秋水にしてみれば、アナタに逃げられ
るのは迷惑な話よ? 分かるわよね。少し前の話だけど、説得さえ怖がって地下へ逃げ込んだ誰かさんが居たでしょ?
その誰かさんを追ってわざわざ地下まで来るの、大変だったでしょ?」
「私は大変だなんて思わなかったけど……でもいま、秋水先輩は困っているよね」
 まひろはしゅんと肩を落とした。いろいろな感情の果てに彼を一番傷つけずにすむ選択をしたつもりだったが、それでも
やはり迷惑だし解決放棄だった。そんな反省をたっぷり聞くと、ヴィクトリアは「そうね」とだけ呟いた。
「それでもアナタ、少しぐらいいまの気持ちを整理できたでしょ? だったら無難な部分だけアイツにいえばいいじゃないの」
「そ!! そうだよね!! 私が秋水先輩好きかも知れないーってコトいうのが恥ずかしくて逃げたんだから、今度はそこだけ
伏せればいいんだよね」
「ええ。アナタにしては理解が早いわね」
 呆れたように呟いたヴィクトリアはふと顔を上げやや真剣な表情をした。
「どうしたのびっきー?」
「やられた。パピヨンね。勝手に招き入れたみたい」
「?」
「早坂秋水よ。向かってきてる。私には分かるわ」
「ええええええええええええええええええ!?」
 まひろは絶叫しながらヴィクトリアの肩を揺すり始めた。
「どどどどうしようびっきー!! 私まだ先輩に何いうか決めてない! というか心の準備が……!!」
「準備も何も、さっきまとめたコトをいえば済む話じゃない。まさか忘れたりしてないでしょうね?」
 大丈夫! とまひろはふくよかな胸をドンと叩いた。
「何を隠そう私は記憶術の達人よ!! え、ええと。まとめるね。つまり私は演劇部が楽しくなってきたからお兄ちゃんがいな
いの寂しくて、でも他の人もそうだから悩みを言えずに困っていて、秋水先輩にもそれをいいたかったんだけど実はこの
前先輩に解決してもらった悩みだからいうの蒸し返すようで申し訳なくて言い出せなくて、で! 逃げちゃった! これで
いいかなびっきー!!」
「ええ。上出来よ。早坂秋水到着まであと5秒。さっさと準備しなさい」
「うん!! きっと大丈夫!! 何とかなる!! 来るなら来いだよ秋水先輩!!」

 
 俄然テンションを高めたまひろは部屋の片隅にある出入口を爛々と睨み──…







 10秒後。ヴィクトリア=パワードを爆笑させた。



 秋水が地下に着くと、まひろは先制攻撃だとばかり一気に駆け寄り、あの、あの! と先ほど逃げた理由を述べようとした。
 しかし彼は機先を制し、「俺の方こそ悪かった。君が悩むとすれば君の兄の件しかない。それにも気付かず不躾な質問をし
てしまった。触れられたくないのは当然だ」と深々と頭を垂れ、謝った。
 決してまひろの心理総てを言い当てた訳ではない、若干齟齬のある理解。しかし思わぬ先制攻撃にまひろはテンパった。
若干の齟齬しかないからほぼ大当たりなのだ。せっかくまとめた言葉が言えなくなった。しばらくあわあわと唇を震わせてから
「あのね!」と「そのっ!」をしつこく連呼し、最後にヤケクソのようにこう叫んだ。

「私! 秋水先輩のコトが好きかも知れなくて!!」

「でもソレが言い出せなくて思わず逃げちゃってたのーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」



「は!!」

 いま自分は何をした? そんな表情で目をパチクリさせるとまひろは全身を思いっきり戦慄かせ、鳴いた。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」



 腹の底から笑ったのは一体何十年ぶりだろう。もしかすると1世紀またぎかも知れない。
(アナタは……アナタは……アナタは……アナタは……!!)
 たっぷり1分近く笑って気付いたコトがある。ホムンクルスは笑い死にする。絶対。ヴィクトリアは凄まじい筋肉痛の腹部を
さすりながら思った。きっと錬金術製の気管やら横隔膜やらが呼吸不全をもたらすのだろう。
 もし近くに秋水がいなければ臆面のない大爆笑を続け今ごろは川向うの母と楽しくおしゃべりしていた。
 身を丸め口を押さえてプルプル震え考えるのはそんなこと。
 まひろ。
 相談で得た成果を活かそうとするあまり、相談で得た何もかもをブチ壊してしまっている。普段からアホね馬鹿ねと呆れて
はいたがここまで景気よく自分の尽力を破壊されると皮肉でもなく本当に純粋に尊敬の念さえ覚えてしまう。
 一方、秋水。
 驚愕。まさにその一言の表情だ。真赤な顔で「違う、違うの。これには訳が……!」と懸命に弁明する告白相手を落ち着き
なく眺めている。頬には露骨に汗が浮かび、瞳も露骨に泳いでいる。

 寸劇だ。コントだ。

 パピヨン絡みで仄かに抱いていたまひろへの嫉妬も一時的に忘れ、ヴィクトリアはくつくつと笑いをかみ殺していた。



「嫉妬と」
「傲慢か」

 残っていそうな罪は。
 秋水を除く戦士一同はそんな分析をしていた。

 
 マレフィック……『凶星』を意味する敵組織の幹部たちはいわゆる7つの大罪に憂鬱と虚飾を加えた罪をそれぞれ持って
いるという。ただし10人いる幹部のうち盟主だけは例外的に何の罪も背負っていないという。というより彼の趣味で上記9つの
罪の持ち主が選ばれるらしい。そして鐶や貴信、香美や小札、無銘といった音楽隊が出会ったマレフィックの内
「不肖と縁ありまする『水星』の幹部ウィルどのにつきましてはまさに怠惰の権化!! 勤労のない社会を作るために悪の
組織に属されておりましたのです!! 働かなくてもよい社会! それはまさに地獄でありましょう!!」
「我をこの体に貶めた『木星』のイオイソゴは間違いなく……大食」
『虚飾』『憤怒』『色欲』『強欲』『憂鬱』『怠惰』『大食』は出た。残りは2つ。
 どんな幹部なのだろう。剛太と桜花はあれこれと想像を巡らせていた。




 迫りくる黒い影! それが胸にドンとブチ当てた衝撃!!
 刺された!! 金髪ピアスはぎゅっと目をつぶり思わず身を丸くした。
 しかし数秒後。
 何の痛みもない胸に違和感を覚えおそるおそる目を開いた。
 そこには。

「ひぐっ! ひぐ!! よ、よくも突き飛ばしてくれましたねえこの上なく!!」

 おそろしく情けない表情で泣きじゃくる女性がいた。
 不美人、という訳ではない。むしろこの晩出逢った「青っち」や「女医」に勝るとも劣らない美貌の持ち主だった。
 眼鏡をかけた大人しそうな雰囲気で、見た目は20代前半ほど。ぱちくりとした目と少し聞いただけでも忘れられなくなる
綺麗な声が印象的だ。
 やや傷のある黒髪は踵まで伸び、左耳の前あたりにぱっちん留めがついている。おかげで左肩辺りの髪の束がばさりと
かかりなんとも言えない色気を醸し出している。衣服はその辺りの安物を適当に身につけたという感じで、ロングスカート
はあちこちがほつれている。しかしスタイルは中々よく、着るものさえ選べばかなり化けるように思われた。
 ただし。
 全体に漂う”冴えない”感じが美貌も色気もスタイルも何もかも台無しにしている女性だった。
 詰め寄っている今でも腰を引いている。覇気のなさときたら少し怒鳴るだけで一気に折れそうだ。
 恐らく一番の美点である声さえ台無しにするように、会話の内容も、ひどかった。

「おかげで全身フードがこの上なくズッタズタじゃないですかあ!!」
「怒るポイントそこ!?」
「怒るポイントはこの上なくそこですよ!! あのですね!! 全身フードっていうのはですね!! 未知なる敵の命なんですよ!
「髪は乙女の命みたくいわれても!」

 金髪ピアスは気付いた。胸に当てられていたのはナイフではなく、乱雑に畳んだ全身フードだと。
 しかしなぜこいつらは全身フードを着ているんだ? 根本的な疑問をはらみつつもう1人の全身フード──ディプレス──
を見ると彼は笑い、肩を揺すった。
「こいつはクライマックスwwww マレフィックプルートwwwww 『嫉妬』の幹部wwww」
「そ、そうですよ!! 私こう見えても天性のシリアルキラーでクリスマスとか来るたび誰か世界中のカップル皆殺しにして
くれないかって願いながらも自分では実行しないほど極悪非道の幹部なんですよ!!」
「普通か!!」
「うぐ。でででも冥王星って肩書きからしてもういかにも最強って感じでこの上なくムチャクチャ怖いじゃないですかあ!!」
「惑星から降格されるってウワサあるぞ冥王星」
「え? そーなんですか? あ、いやいやいや。違いますよ。それはもう冥王星のあまりの力を恐れた学者さんたちのやっ
かみなのです。だから怖い筈です! だから謝るならこの上なく今です!! さあ!! さあ!! はやく謝るのデス!!」
 また奇妙な奴に出会った。そろそろこの運命から脱したい金髪ピアスである。

 あー、コイツもヘンな奴だ。しかも弱そう。冷めた目の金髪ピアスに構わず女性はひたすら一生懸命まくし立てる。
「私としてはですねー。戦士のみなさんに『女!?』『しかも割と普通の』みたいな反応して欲しかったんですよ。そしてですね、
そしてですよ? もし良かったら『見た目に騙されるな! 奴も幹部見くびってはならない』みたいなー反応してもらえたらー
この上なく嬉しいですなんて思ってた訳なんですけど。エヘヘ」
 後頭部をぽりぽり掻きながら女性は笑った。あどけない、というより幼稚な、世間ずれした笑みだ。「イタい」という方が正し
くもある。
「なあお前」
「なんでしょうーか!!」
「センス古くね?」
「え!?」
「仕方ねーよwwww こいつの肉体年齢ほぼ30だからなwwww」
「ちょ、ディプレスさん!? 女性の年齢をいうなんて失礼じゃないですか!!」
 クライマックスの視線。それを追い振り返る。背後には同伴者(ディプレス)がいた。いつの間にかそこにいる彼ときたら
相も変わらずフード姿だ。頭からつま先まで万遍なくすっぽり覆われているため表情こそ伺い知るコトはできないが……
露骨に震える肩。感情スートが喜怒哀楽いずれかなどまったく見るだけで丸分かりだ。
「な?ww な?ww 見てみwwww コイツの姿をようく」
「はぁ」
 改めて観察してみる。
 一言でいえば微妙だった。パーツだけ抜き出せばスタイルのいい黒髪美人なのだが冴えない雰囲気や安物の服のせいで
恐ろしく野暮ったい。垢抜けない雰囲気がぷんぷんだ。分の厚い黒ブチ眼鏡などもっての他だ。しかもよく見ると両目の瞳
孔の大きさが微妙に違う。更にやや猫背気味。髪もボリューム過多である。踵まであるそれは見るだけでゲンナリする。い
まは暑気残る秋の夜なのだ。切れよ鬱陶しい。そういう心情も相まってますます魅力薄く見えてくる。
(……うぅ。でもスペックはそこそこなんだよなあ。どうせ売れねーんだし試しに付き合って鍛えりゃ結構化けたりする可能性も)

(いや。いやいや。30間近だぜコイツ。遊ぶにゃ重すぎる。こっちの思惑がどうあれあっちはぜってー結婚前提だ)

(切り辛いし切るならよほど上手く切れなきゃ無茶苦茶厄介なコトになる) (だいたい結婚した後はどうするよ?)
(全身フードがどうとか喚く夢見がちなタイプ……幼稚な女だ)
                                     (家庭経営に必要な哲学など持てない)

(厄介事は全部俺任せにするだろーし家事だってちゃんとこなせるか怪しい)
(不況)
(子供)
(作る)
(大変)
(お袋の老後の問題)(場合によっちゃコイツの両親の介護も)
(長女か?)
(長女なのか?)
(兄弟は何人だ?)
(1人っ子だと負担全部来るしな〜。理想なのはアレだな。親が長男夫婦と同居!)

(って! だいたいコイツ悪い連中とつるんでるっぽいしその時点でやべえだろ! ないない。コイツだけは絶対ない)

 びゅんびゅんと脳髄をかけめぐるワードを総合するに、やはり”ない”相手だ。
 そういえば仲間らしき連中は誰も全身フードを着ていなかった。推奨を無視されたのだろう。見え透くのは低いヒエルラキー。

【結論】

(旅先で適当にナンパしてちょっと食べて終わらせる位がちょうどいいレベルの女!)

(だって見た目洗練しようとしてもぜってー途中で飽きそうだもん! 「ありのままの私を愛してくださいよぉ」とかなんとか言
って努力の放棄! こーいう女は論点をすり替えるからな!! 辛いやりたくない、そう思ったが最後ふにゃふにゃした感
情論で正当化ばかりするんだ!!)
 少なくても見た目に関しては「青っち」や「女医」といった連中の方が遥かに上だと金髪ピアスは1人頷いた。前者は天性
の輝くような美貌の少女だし後者は妖しく研ぎ澄まされた雰囲気の美女だ。
 対してクライマックスはなんだか「決して悪くはないが選んだら負け」という感じがして仕方ない。
 男性としてそんな気分を目ざとく見つけたのだろう。ディプレスがポンと肩をたたいた。
「お考えの通りwwwwwwwwwwwマレフィックの女どもの中じゃ一番情けなく、一番トウが立っているwwww」
 反論の余地をなくしたのだろう。クライマックスは口に雑巾でもねじ込まれたように数度呻くと双眸に瞳を湛え泣き始めた。
「うぅ。全身フード破かれた上に謂われなき暴言!!  あんまりです。この上なくあんまりですぅぅぅぅぅぅ!!」

 彼女はとうとう両膝をつきくずおれた。それなりに豊かな胸からズタズタの全身フードが零れおちた。それがますます哀切を
強くしたのだろう。平蜘蛛のように身をつくばらせ物言わぬコスチュームに取りすがって泣きに泣いた。

「あ!! そだ!! 金髪さん金髪さん!! お父さんかお母さんか妹さんあたり殺されてませんか!!」
 10秒は経っただろうか。クライマックスは不意に顔を上げそんな質問をした。表情は泣いていたのがウソのように大変明るく
それが金髪ピアスを覆いに困惑させた。困惑といえば彼女は四つん這いのまま腕ごと胸を地面につける姿勢だ。いきおい臀
部が心持ち高く突き上げられているのだが、佇まいのせいか煽情的というより滑稽な姿勢にしか映らない。
 そういったもろもろの事情もあり金髪ピアスは複雑な表情で頬をかいた。
「いや……一人っ子だし父親は去年ガンで死んだけど。でもなんでそんなコト聞く」
 ぴょこりと行儀よく座りなおしたクライマックス、「え、えぇと」と頬を染めて目を逸らした。ほつれた黒髪ともどもやや愛らしく
金髪ピアスは一瞬ドキリとした。
(くそ。しおらしい表情すると途端に二十歳ぐらいの雰囲気かよ! やべえ罠だ。落ちつけ。こんなのはフォトショ加工した
”出来のいい”一瞬の奇跡! コレに引っかかると後がマズい。表紙買いした写真集にガックリする100万倍マズい!)
 訳の分らぬ葛藤をよそにクライマックスははにかんだような表情で柔らかなブレスを継ぐ。それが妙に艶っぽくますます
どぎまぎする金髪ピアスである。
「この上なく、後付け設定で、ですね」
 まるで告白寸前の女子のような恥じらいとトキメキの入り混じった声だ。とても甘い。元声優だからなコイツ。ディプレス
の解説に成程とも思う。実にアニメアニメした声が耳をくすぐり突き刺さる。経歴は伊達ではない。三十路直前? 声だけ
聞けば10代だ。だからこそ欲望を刺激する。手練手管の限りを尽くしアレやコレやの声を聞きたい。
 やがて彼女はとても美しい声でこんなコトをいった。

「実はお父さんたちの仇が私たちレティクルエレメンツだった的なコトにしたら……その、全身フード破られたのもアリかなーって」

 わずかばかりのトキメキも好意も欲求も何もかもいっしょくたにして粉砕する絶望的な一言だった。泣きたい気分で金髪ピアス
は絶叫した。

「ああよく居るねえそういうの!!! 巨悪が主人公たちとコトを構える前に現れるモブ!! お父さんの仇だっつって
健気にナイフ一本で立ち向かうがボロゾーキンのようにやられるタイプの!! 確かにたまに素顔暴いたりするよね!」
「そ!! そう!! それです! それになってくれますか!!」
「なれるかァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
 ヤケクソのように放ったビンタ。それを認めたクライマックスはニヤリと笑って拳を突き出した。クロスカウンター!! 進撃
途中の腕にビンタが当たった。なぜか肘がカクリと鳴った。旋回する前腕部。向きを変えた拳が狙うのは……
「え?」
 唖然とするクライマックス。その顎の下に残影が奔った。やがて来(きた)るは力学の、爆発的開放。
「ぐべぇ!!」
 自らの拳にアッパーカットを喰らわされたクライマックスは情けない声を上げながら後ろ向きに倒れていく。
「うぅ。骨を削って肘の可動範囲を広げたのがこの上なくアダに……」
「プラモ感覚で体改造してんじゃねーよ!!!」
 ジョーを貫きたての拳はそれでも腕ごと頭の方でピンと張りつめられている。なんだか自爆にガッツポーズしているような
アホさ加減さえ感じられ金髪ピアスはつくづく悲しくなった。地面を揺るがす落着音が辺りに重く響き渡った瞬間、感情はと
うとう爆発した。
「何がしたいんだお前!!」
 黒髪を放射状に広げつつ仰向けのクライマックスは息も絶え絶えにこう答えた。
「ク、クロスカウンターをお見舞いしようと……そしたらこの上ない衝撃が下から上へ…………げふぅ」
「その結果が何だよ!! アッパーだよ! 一方的だよ!! 全ッ然クロスじゃないしカウンターもしてない!!」
「wwwwwwww 晩飯のとき漫画喫茶で何とかとかいうボクシング漫画読んでたからなあwwwwwww」
 影響か!! こめかみを抑える金髪ピアスの頭痛は「髪にごみが、髪にごみがあ!!」と泣き叫ぶ声にますます助長された。
「クロスカウンターなんて素人がやってうまくいく訳ないだろ!! ましてビンタ相手に!! 漫画と現実の区別ぐらいつけろ!!」
「そんな!! 一緒になりきって遊びましょうよぉ!! 二次元ってやっぱ素敵じゃないですか!! 金髪ピアスさんだって
漫画とかにアニメとかに可愛い女のコいたらこの上なくトキメクでしょ!?」
「……俺の初恋は峰不二子だ」
 髪を掃除し終えたのか。クライマックスは「しゃん!」と直立した。そして両手の指先をちょんちょん触れ合わせながら「です
よねー」「不二子ちゃん。分かります。いいですよねー」と頷いた。
 今度は妙に落ち着いた様子である。
「wwww 声優の次は小学校で女教師やってたからなwwww マジメにやりゃ割と年相応wwwwwww」
「なるほど」
 ディプレスのいうコトももっともだ。落ちついた様子のクライマックスには何かこう男としてクるものがある。いかがわしい気持ち
というよりはこう、初めて担任の女の先生が家庭訪問に来たときのような、中学校の個別面談で割と真剣な進路の相談に答えて
貰っている時のような、或いは保育園のときに保母さんに覚えたような、甘酸っぱい気持ち。「年上の女性への憧れ」。
 そんな落ちついた女性はニコリと微笑しながらこう言った。
「私いちおう女ですけどー、でもやっぱり漫画とかでこの上なく純粋でかわいい女のコ見たら、お店行って同人誌ないかナーって
探すじゃないですか。あ、同人誌っていうのはこの上なくえちぃ薄い本です!!」
「さすがに探さん!!」
「えー。口にするのも憚られるようないかがわしい行為の数々があんな所にもこんな所にもされまくってる薄い本ねえかなゲヘヘっ
て半笑いでお店うろついたりしないんですか? あと買ってからですね。この上なく白くてドロドロしたエフェクトが不足気味だっ
たら自分で付け足したり……あ、いや、ホワイトとかそういう市販の塗料的な手段でですよ? 付け足したりしないんですか?」
「するかボケ!!」
「ヘンですよそれ!!」
「ヘンなのはお前だ!! 女のクセに直球すぎるわ!!!」
 馬鹿だった。一瞬でも年上の女性へのほんわかした憧憬を抱いた自分が馬鹿だった。金髪ピアスは俯き右前腕部を両目に
当てオイオイないた。そんな反応が不服だったのか、クライマックスは腰に両手を当てムっと顔をしかめた。
「何をいうんですか!! 私なんかで騒いでいたらグレイズィングさんなんて直視できませんよこの上なく!!」
「まあアレの投げる直球はいつも歴史的大リーガー最高の一品でお前のはせいぜい少年草野球の5番手ピッチャーが下痢
ん時に投げるカス球だが!! それはともかく漫画のキャラ! まずは愛でろ!! 普通に!!」
「この上なく普通じゃないですか!! 好きだからこそこの上なくえちぃの見たい!!!!! どこがおかしいっていうんですかあ!!!」
 叫びながらクライマックスはずずいっと詰め寄った。凄まじい勢いだった。体が密着し金髪ピアスの上体を後ろへ押し曲げるほど
大迫力だった。いいデスか! とピストル状にした人差し指をぐいぐい振りつつ主張する。
「私はこの上なく腐ってはいますがね!! でも可愛い女のコも大好きなんですよぉ!! 愛でるなんていうのは漫画とか読んで
ほわほわ萌える状態! いわばデート!! デートを重ねると段々段々この上なくッ!! ”次”に移りたくなるのが人情って
ものじゃないですか! 三次元じゃそれこそこの上なく正しくてお友達とかに相談するネタにさえなるというのに!! どーして!! 
どーして二次元でそれをやるのがダメなんですかあ!!」
「なあもう助けてくれよあんた。こいつもう手遅れだ!! いろいろと手の施しようがない!」
 きーきーいいながら長い髪を振り乱すクライマックスは怒りながら泣きじゃくっておりまったく尋常ならざる様子だ。
 すがるように見たディプレスはしばらく腕組みをして黙っていたが、やがて「ブヒ」と笑いながら口を開いた。
「なあなあwwww」
「何だよ」
「もしココでオイラがフィギュアの鎖骨部分舐めるの好きとかカミングアウトしたらお前ビビる?wwwww」
「お 前 も か あ ーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
「ウwソwだwよwwwwww 顔真赤wwww 顔真赤wwww ビビった?www オタ2人に囲まれるかも知れないってビビった?wwwww」」
「ああもうフザけんな!!」
 怒りが爆発した。金髪ピアスはクライマックスを突き飛ばした。そして拳を固めて咆哮した。
「俺はちょっとあの青っちとかいう女襲おうとしただけだぞ!! なのにお前らみたいなおかしな連中と関わっちまっていろ
いろヒドい目にあってんだ!! これ以上巻き込むな!!」
「自業自得じゃね?w 自業自得じゃね?ww お前強姦未遂だよなwwww」
「女性の敵!!? ケダモノ!!? まままままさか次は私なのデスかーーー!! だだだダメですそーいうのは心に
決めた人じゃないといけません。だいたい金髪さんの顔って二次元の美男子さんに比べたらゴミ以下ですし……」」
「…………オイ」
「そ、そうですよね。気持はわかります。嘘はダメですこの上なく。じゃあお家行きましょうお家」
「は? なんの話を」
「お母さんをちょっと殺します!! そしたら全身フード破壊も、因縁を果たすための前払いみたいな感じになって帳尻が……」
「まだ拘ってたの!? しかもけっこう言うことゲスいのな!!!」
「wwwwwwwww マレフィックに真人間がいる訳ねーだろwwwwwwww」
「つーかマレフィックというのは何だよ!! お前たちはいったい何なんだ!!!」



                                                                     ……ギチッ

 辺りが、静まり返った。いや、違う。金髪ピアスは気付く。今は深夜。静まり返っている方が本来自然なのだ。
 やっと気付く。今までこそが不自然だったのだと。
 夜中に騒いでいる方が。
 そして。
 ディプレス。そしてクライマックス。これまで散々と自分を甚振ってきた連中の仲間。
 彼らがやいのやいのと雑談で騒いでいる方が。
 不自然だったのだ……。


                                                   ギチ

 クライマックスを見る。先ほどまでの騒々しさがウソのような無表情だ。しかし口元だけは微かに綻んでいる。
 腰の前で手を組んだまま氷像のように固まってもいる。
 なのにこちらをじっと凝視する様は彼女が信仰して止まぬ二次元世界の住人よろしく美しく、そして恐ろしい。

 ディプレスの表情は相変わらず分からない。分かったとしても言動の端々に狂気が感じられる男だ。
 腹臓の目論見など最初(ハナ)から計り知れない。
 ただ軽口を一切叩かなくなったのが逆に怖い。

   ギチッ

                    

 じわじわと変質を遂げつつある場の雰囲気に触発されたのか。
 冷汗が一滴、地面に落ちた。

 ギチ


                 ギチ

 ギチギチギチ

                                    ギチッ!


                               ギチギチギチギチギチギチ


「あーあwwwwwwww 突っ込んじゃったwwwwwwwwwww」


 最初に喋ったのはディプレスの方だった。

 
「教えてやるよwwww マレフィックというのは悪wのw幹w部wwwwwww 知った以上無事じゃいれねえよなあwwwwwwwww」


 先ほどのフィギュアうんぬんの下りと同じ冗談なのかそれとも本気なのか。
 笑っているからこそ分からない。
 ただ確かなのはディプレスの全身からギチギチという音がし始めているというコトだ。
 そして音とともに全身フードのそこかしこが「内側から」ぼこぼこと山を作り、膨れ上がっているというコトだ。

ギチッ! ギチギチギチ……ギチ!! ギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチ
ギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチ
ギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチ
ギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチ……ギチ! ギチギチ!! ギチ! ギチ! ギチ!!!!

ギチ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


「ひィ!!!」

 情けない悲鳴だと自分でも思う。金髪ピアスは尻もちをつきながら震え上がった。
 ディプレスという男の全身フードは変質を遂げていた。
 一回り大きくなった。体は今にもはち切れんばかりに膨れている。
 そして変質を決定づける明らかな異変が起こっていた。

 顔の辺りから、巨大な嘴が生えている。

 目深に被ったフードのせいで目のあたりはうす暗い闇に覆われており内実を伺い知るコトはできないが、おそらくそこも人外
めいた変貌を遂げていると考えて間違いはないだろう。

「さて、どぉーしょっかなアアアアアアアアアアアアwwwwwwwwwww 殺す?w 殺す殺す殺す殺す殺しちゃう? お前いま俺
の正体に繋がるクチバシ見たし他の幹部連中とも関わったみたいだしwwwww 始末しておいた方がいいのかなアwwwwww
wwwwwww」

 笑いたくるディプレスの周囲に黒い靄のようなものが生まれた。最初コウモリの群れに見えたそれは保育用の玩具を思わせる
軽やかな音を奏でながら飛び狂い……塀や、建物や、ゴミや、地面とやかましく擦れあった。
 悪夢のような光景だった。黒い靄の触れるところ霧が立ち込め砂が舞う。塀は崩れ、建物は部屋を露にし、ゴミは風化し、
地面は舗装を粉々にする。その向こうから大きな嘴の全身フードがゆっくりと近づいてくる。先ほどまでそういう仕草はなかった
のになぜか急にびっこをひいているのが一層不気味だった。足を引きつつひょこりひょこりと忍び寄ってくるのだ。

「万が一戦士連中に遭遇して、情報を漏らされても、事・だ・し・なアアアアア〜 でも盟主様は騒ぎ起こすなっていってるけど、
どーしょっかなアアアアアアアアアアアアアアwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」

 全身フードがまた破けた。翼だった。人間の腕を通すべき袖から灰色の翼が生まれた。足元も変貌を遂げており、鳥の
ひび割れた脚が見えている。

 やがて彼の周囲からひときわ多くの黒い靄が噴き上がった。やがて放たれたそれらは総て金髪ピアスへ吸い込まれ──…

「もー。ディプレスさん? やめましょうよぉ。口止めなんてブレイクさんに頼めば済む話でしょ〜」

 金髪ピアスは見た。自分の前で『何か人型をしたもの』が数体、ばらばらと風化していくのを。

「スーパーエクスプレス(レティクル座行き超特急)wwwwwwww 無限増援で防御かクライマックスwwwwwwwww」
「そうですよぉー。もともとスピリットレス(いくじなし)とじゃ分が悪いですけどねー。……よいしょっと」

 暖かな手の感触が両脇の下に挟(さしはさ)まれ視界が上へ上へと昇っていく。どうやら後ろから立たせて貰っている
らしい。ディプレスの口ぶりからすると背後にいるのはクライマックス。知らぬ間に背後へ来るのは彼らの趣味なのだろう
か。とにかく理由も理屈も分からないが彼女に助けられたというのは間違いない。

「分かっていて脅すなんて可哀想ですよー。だからですね。名案があるんですよ。この上なく平和的な解決の」

 ホッと安堵しつつ振り返った金髪ピアスを見てクライマックスもまた笑った。

 



 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・  
 ナイフを大きく振りかぶったまま。

 俗にいうコンバットナイフだった。明らかに首筋を狙っていた。その姿勢のままクライマックスはキラキラと双眸を輝かせ
とても嬉しそうに笑っていた。

「でwww解決手段は?wwwwww」
「この上なくぶっ殺しましょう!!!」
「のわあ!?」

 3つのセリフはほぼ同時に放たれた。岩をも削る勢いで振りかざされたナイフをしゃがみ程度で避けれたのはまったく
奇跡だった。髪が何本か斬撃軌道に吹っ飛ばされたが頸動脈をやられるコトを思えば些細すぎる問題だ。金髪ピアスは
そのまま地面を蹴りディプレスもクライマックスもいない方向へ着地した。無理のある跳躍だったため着地はつくづく不安定
で踵辺りの筋がズキズキと不快な痛みを訴えているがそうしてでも得るべき距離だった。

 一方、クライマックスは空を切ったナイフと金髪ピアスとを不思議そうに何回か見比べた後、首をかしげた。
「なんで避けるんデスか?」
「それ何!? 刃物! 死ぬだろ!」
「死なしてみたいんですよー♪ 夢なんです! 小さい頃からの!」
 胸の前でわきゃわきゃと両腕を動かしてから彼女はブイサインを繰り出した。(ナイフを持っていない方の手で)。
「おかしいだろ!! いまの流れじゃ口封じで殺すの反対、みたいな感じだったろ!!」
「違いますよ。殺す気もないのに脅すのが可哀相って意味ですよぉ」
「wwww アレはコケ脅しwwwwwww 釣りwwwwwwwww」
 ね、とクライマックスはディプレスを指差し、「だから殺して楽にしてあげようかと!」とブイサインを作りなおした。
「いやお前! 俺の、人の命を何だと思っているんだ!!」
 魂を込めた怒号だがどうしてそんなものを投げかけられたのかつくづく分かっていないらしい。
 クライマックスは一瞬メガネの奥で大きな瞳をきょとりと見開いたがすぐさま笑顔でブイサインを翻し、指折り何かを数え
始めた。
「大丈夫! わかってます! この上なく大事でー、地球より重くてー、みんなそれぞれ1度きりのー、とにかくとにかく守る
べきものですよね! ほら言えました! これでも声優やめた後は小学校の先生でしたからー、道徳は得意なんですよ」
 分かっていながらやってるのさ。くつくつ笑うディプレスに「ねー」と相槌を打つクライマックスはとても不気味だった。
「殺人が悪っていうのもこの上なく理解してますよ。誰かから誰かという大事な存在を奪う。うん。この上なく悪いコトです。殺
される人にだって明日の予定とか来月の目標とか来年始まるアニメを待つ心がありますよね。それを一方的に奪うというの
は良くありません。まったく最悪の行為デス」
 でもですね
 と、元声優で元教師のアラサーは胸の前で両手を組みきゃるきゃると瞳の中に星を浮かべた。

「でも最悪だからこそ命! 一度でいいから奪ってみたいんデス」

「二次元で可愛い女のコ見た時に生じるリビドー。綺麗だからこそメチャクチャにしたい!! それとこの上なく同じなんですよ」

 月明かりの下でクライマックスは少女のようにうっとりと笑った。先刻会ったブレイクも同じような表情をしていたが、あちら
は信仰心や集中力といったある種建設的な感情だ。
(コイツは違う。純粋な残虐性……何も生まない利己的な衝動のもと動いてやがる)
 劇団風味のブレイク。元声優のクライマックス。根本が違うにも関わらず両者ともその発露に陶酔を孕むのは芸術的な
感性ゆえか。
「だからですね!!」
 クライマックスは地を蹴った。長すぎる黒髪がぶわりとたなびき風のように舞った。
「いろいろな要素をつなぎ合わせて考えるとー、殺人が一番なんですよ! この上なく!」
 気付けばすでにメガネのアラサーが眼前でナイフを振りかざしている。小さな手にありあまるほど巨大な肉厚のナイフ。
触れれば指ぐらい簡単に切り飛ばされるだろう。一晩に二度もそれは御免だ。決死の思いで横に転がる。風が額を撫でた。
つま先が上へ突き抜ける最中だった。そのロングスカートでよくもまあ、少し中身を見たい思いを抑えながらごろごろ転がると
肩に何か当たった。ゴミ箱だった。自販機の。

「何しろほら、私に好かれたものって必ず後でヒドい目に遭うじゃないですか!」

 缶をブチ撒ける。酸っぱい匂いのする金属筒が宙を舞う。だが悉く紙吹雪のようにサクサク寸断される。何の牽制にもならない。

「逆に嫌いなものほど幸運に恵まれてグングングングン発達します」

 盾にしたゴミ箱も一瞬で寸断。へびり腰で踊るように駆ける。逃げる。回り込まれた。唸る右肘。来る刃。

「なんていうかこの上なく嫉ましいんですよぉ。他の人はちゃんと好きも嫌いも叶えられるのに何で私だけって」

 肩を竦め身をよじり嵐のような猛攻をどうにかこうにかくぐり抜ける。身代わりになった壁や塀が火花を噴く様は絶望の一言。

「だから私は一度でいいから”私の嫌い”を自分の手で貫きたいんです。嫌いかなーって思う相手を私の手でこの上なく
キチンと殺したいんですよ」

 しゅっとクライマックスは息を吐き、脇の辺りでナイフを構えそのまま突進。

「殺しさえすればいつものように!」

 ヤクザのよくやる刺し方! ゾッとする思いで繰り出した足払いは見事に決まった。つんのめるアラサー。

「相手が幸運に恵まれるなんてコトありませんから!」

 鼻のあたりに鋭い感触が奔る。生ぬるい液体が垂れてくる。水平に立てられた刃が飛沫をブチ撒く様が見えた。遥か高いところに。

「それをきっかけに私の不幸体質が治るのだろうとこの上なく信じてます」

 ザっと足の滑りを止めたクライマックスは右腕を曲げ戻した。そしてシャリシャリとナイフを弄びながらニッコリ微笑んだ。
 やられた!! 踵を返し金髪ピアスは走り出した。
 足払いを決められたクライマックスは逆に倒れ込む勢いで攻撃を仕掛けてきた。
 鼻と……肩口に。
(一瞬で2か所も)
「5か所ですよぉ。この上なく」
 甘い声だが心臓を握られる思いだ。クライマックス。彼女は当然のような顔で並走し当然のような顔でナイフを振りかざしている。
 避ける。飛び退く。激痛が走る。脇腹。右大腿部。左側頭部。傷口が一斉に裂け血を噴いた。5か所同時は本当だった。
「ぬぇぬぇぬぇ!(←笑い声)。この上なくいいですよね! やっぱり。命を奪うっていう背徳的行為はきっと私の心を重くして
成長さえ促してくれるかも知れません!」
 そういいながらクライマックスは童女のような表情でナイフの向きをあれこれ変え始めた。ときどき先端を口に近付けては
何かを伺うように金髪ピアスを見て、遠ざける。
「……ひょっとしてベロで血を舐めたいのか?」
「は、はい! お約束ですから!! この上なくナイフ使いのロマンですから!!」
「じゃあ舐めろよ」
 い、いや……とクライマックスは後頭部を掻いた。
「舐め方が、分からないんですよぉ」
「…………」」
「あと金髪さん的にはヒきませんかそーいうの? なんかいやらしいというかやっぱり二次元と三次元の区別ついてないじゃ
ないかとか。あとこの上なく臭くて不健康ぽくて病気持ってそうだから純粋にイヤだなあというのもあります」
「ガチで殺しにきた上そんな暴言まで吐く方がヒくわ!! そーいうコトいう位ならやめろ!!」
「やめませんよ!! 私は私を救うためだったら他の人なんて幾らでもこの上なく犠牲にしたいタイプですから!!
「なんつー傲慢な意見だ!!」

「傲慢? いえ。私はこの上なく」

「嫉妬です!!」


 大きく踏み込むクライマックス。
 凄まじい風が路地裏に吹き込んだ。狂乱はまだまだ終わりそうになかった。

 







「世間で言われてるような傲慢なんてのは存外それほど恐れるべきじゃないのかも知れないね。パピヨン君がいい例さ」
『彼』は指を弾きそして語る。
 パピヨン。
 彼は人を見下すあまり遂には人そのものへの関心を失くし我が事のみに没頭している。
 Drバタフライもそうだった、と。 
「彼はヴィクター君を隠匿せんとするあまりホムンクルスの本分たる人喰いさえ見事に統制しきっていた。むーん。なんとも
コントロラーブル。皮肉だが傲慢さに救われた命も少なからずあるという訳さ」

 ねばついた腐肉がどこまでも広がる異常な部屋の中。
 半ば蹲(つくば)りながら坂口照星はため息をついた。

「そして私も今まさしく傲慢さに生かされているちいう訳ですねムーンフェイス」

 目の前に聳(そび)える長身の怪人は気の毒そうに顔を歪めた。

「同情するよ照星君。どうやら彼らに言わせればキミなどいつでも始末できるらしい」
 しかし、とムーンフェイスは乏しい顔のパーツを今度は最大限にしかめてみせた。
「愚かな話だよ。敵の戦力なんていうのは減らせる時に減らしておくものだ」
「真希士の話なら結構ですよ。コトの顛末は防人に聞かされていますからね」
「おやおや。キミも存外傲慢だね。又聞きだけで部下の生死を割り切るのかい? せめてそれなりの捜索隊に骨の一つで
も探しにいかせればもっと違った結末になるかも知れないのに。オススメするよ。見つけられればこれ以上悪くはならない」
「フフ。お気遣い感謝しますよムーンフェイス。ですがもし隊を編成できるのでしたら私はまず私を探しに行かせます。2人揃
えばもはやどうにもならぬ現状もそれなりに打開されるでしょう」
「……むーん。何とも上手なかわし方」
 剣持真希士を殺めた張本人は何とも期待外れという顔をした。
「もう限界とばかり嘯(うそぶ)きながらなお部下を殺した分裂性と交代性を当たり前のように求められる……キミの恐ろし
い所だね。妄言に見えて少しも熱に侵されてないときている」
「何に感心したかは分かりませんが……買いかぶりすぎですよ。拷問のおかげでマトモな受け答えができなくなっているだけです」
 平然と微笑する照星にムーンフェイスもまた笑いかけた。
「さっきの言葉、訂正するよ。少なくてもレティクルの連中の傲慢さだけは恐れるべきだ。それなりの意図はあるようだけど
キミほどの男をみすみす殺さず捨て置くデメリットを考えればいかなる方策も得策とは言い難い。むーん。まったく誰も彼も
愚か。望みのためとはいえ同盟を破棄できずお喋りに終始している私も含めてね」

「ところで、だね。この世でもっとも厄介な傲慢とはどんなものか……キミは分かるかい?」

 息もつかせず急に話題を変えたムーンフェイス。
 神父よりも静粛な顔つきが一瞬だが微妙な揺れを見せた。
「むーん。一足飛びだけど部下たちのコトでも心配したのかな? そう固くならない。グレイズィング君がやったようなオチは
ないよ。ただの雑談さ。リラックスリラックス」

 ニカリと歯を見せ笑ってみせる月の顔だが照星はいまだ怪訝の色が強い。
 それを無視するように朗々たる語りが悪臭漂う血膿の部屋に響き始めた。

「世界には実に様々な傲慢がある。最も一般的な物はやはりパピヨン君のようなものだね。私の知る限り彼ほどプレーンで
強力な傲慢な持ち主はまずいない」

「ただ前述の通り、世界に及ぼす害は少ない」

 
「少ないでしょうか」
 いつか写真で見た毒々しいファッションを思い出し照星はうめく。人にとっては恐ろしく不快になる姿だ。
「無害さ。武藤カズキとかいう戦士にご執心のあまり当初掲げていた世界全体への復讐などもはやどうでも良さげ。人喰い
さえもうやらないかも」
「その境地に至るまでかなりの犠牲者を出していますがね」
「キミのいう点も含めて色々難儀な相手だけれど、最も厄介な傲慢ではないね。むしろ月並みにいえば気高い。むーん。月
並み。私がいうと奇妙な感じ。とにかく彼は月(わたし)並みに多くの人間に好かれるタイプさ」
 片足を軽く曲げ人差し指を立てながらムーンフェイスは朗々と語りそして述べる。
「じゃあ権力へ執着し、悪政を敷く独裁者はどうかといえばこれも違う。一般大衆の諸君がすぐさま追い落としにかかる」
「組織の長は何かと目立ちますからね。現に火渡にとっての独裁者はいまこのような状態ですから」
 傷と欠損のよく目立つ体を眺めまわしながら照星は微苦笑した。微苦笑しつつもムーンフェイスの言葉を促す。
 曰く、もっとも厄介な傲慢とは何か?
「独裁者と同じく無能ではあるね。だが目立たない。とても普遍的で世界のどこにでも潜んでいて、害意などカケラもなく
したがって法では裁かれないが人々の嫌悪だけは一身に浴び続ける……そんな人種さ。駆逐不可能な、ね」
「貴方がいうと重みがあります」
 30体に分裂可能しかも1体でも残れば増殖というムーンフェイス。
 そんな恐ろしさを秘めた彼さえ「厄介」と目する傲慢とは何か?


「答えは……『何の力も持たない癖に他者を救えると信じている』だよ」


 もとより静粛な拷問部屋が静まり返った。反応を期待しているのだろう。ムーンフェイスは黙りこみ口元を綻ばせたまま
じつと照星を眺めた。返答を求められている。やれやれという顔で細い息をたっぷりつくと照星は自らの見解を述べ始めた。

「あなたのいいたいコトはだいたいわかりましたよムーンフェイス。結論からいえば『少年少女でもないのに』、ですね?」

「そうだね。今の双子や津村斗貴子ぐらいの年代なら大なり小なり持っている気持ちだよ。純粋、といっても過言じゃない」
 身の程などまるで与り知らないが故にただひたすら全力で大事な存在を救おうとするタイプ……やや嫌悪を込めてムー
ンフェイスは断言した。
「ですがどんなに遅くても防人たちの年齢(トシ)になるころ悟ります。全力を傾けても救えないコトがある。自分の力は決
して自覚や理想像ほど膨大ではないと。もっとも、真に強くなれるのはそこからですがね」
「けど稀にだね。ブラボー君たちが7年前直面したような『自負や理想を粉々にする』ひどい出来事に直面してなお成長して
いない者がいる」
 ムーンフェイスは肩を竦めてみせた。
「彼らは実にひどい。悲劇から自分の矮小さを何一つ学んでいない。無力だという自覚もない……。なのに人を救えると信じ
ている。揉め事を見つけては事情も考えずしゃしゃり出て、結果、ますます事態を悪くする」
「救いたい」、当事者たちの事情を一切無視した自分の考えばかり述べ立てる。
 そういう人種こそ厄介な傲慢の持ち主だとムーンフェイスはいいたいらしい。
「つまりは自分だけが正しいと信じ、諌める者やギャラリーを悪と断じる視野狭窄ですか」
「困ったコトに熱意だけはある」
 そして滅多に法を犯さないがために裁かれるコトもなくはびこりつづける。月の声音は笑いとも怒りともつかぬ様子で言葉
を紡ぐ。曰く、”返事どころではない”被災地に古着を送り続けるタイプ。曰く、事故現場で救急隊員を邪魔し民間療法を進
めるタイプ……。1つ1つ丁寧に事例を挙げるムーンフェイスに照星は嘴を挟んだ。
「いやに饒舌ですが、あなたひょっとして最近そういう者と出会いましたか?」
「むん?」
 話を中座させられた月の怪人はもともと丸い目を更に円やかにした。
「マレフィック。いまこうして私を拘禁してくれている幹部たちは10年前もこれ見よがしに『罪』を掲げていました。今もそうです
ね。10年越しでようやく顔を見せてくれたイオイソゴは『大食』。大家さんことウィルは『怠惰』、デッド、でしたか。あの赤い筒
は『強欲』……いわゆる7つの大罪に古めかしい『憂鬱』と『虚飾』を加えた罪。幹部がそれを標榜する以上、居ますよね?」
 じっと顔を覗き込むコト5秒。ムーンフェイスはしばらく顎に手を当てていたがすぐに指を弾き明るい声で話し始めた。

 
.「『傲慢』かい? 確かにそんな幹部もいるよ。でもまずは雑談から片付けようじゃないか」
「雑談、ですか。そろそろ遠まわしな紹介にしか思えなくなってきましたが、まあいいでしょう」





 ダム。ダム。ダムダム。




 銀成市の路地裏で何かが弾む音がしていた。





「幸か不幸か。彼はとても頭がよく、そして何より前向きだ。だからブラボー君たちのように何もかもを背負いこんだりはしない。
後悔を引きずるコトもない。並の人間なら自責か責任転嫁で直視できなくなる凄まじい悲劇にさえメスを入れ、過失割合で
も算定するかのようにあらゆる要素を整理してしまう。動機はとても純粋。信念を貫こう。再発を防ごう。ただそれだけさ」




 街頭一つない真暗な露地で弾むそれは漆黒に覆われ色も質感も分からないが、時おり掌らしき物体に上部を叩かれる
たびアスファルトめがけ急降下しその勢いの分だけ跳ね上がる。そしてまた叩かれ、弾み、叩かれては弾み……。
 掌の主は歩いているようだった。掌の座標が前へ前へと移るたび「何か」も前へ前へと進んでいく。



「それもまた悲劇の中で命を繋いだものの務めでしょう。物事というのは何であれ複雑な要素が絡み合っていますからね。
残酷な言い方ですがそれは悲劇にしても同じです。誰か1人。あるいは何か1つ。それらにだけ原因を求め、元凶と呼び責
め続けたところで何の解決にもなりません
 毅然と言い放つ照星をムーンフェイスはいたく気に入ったようだった。
「さすがいうコトが違う。確かに職責が大きければ大きいほど総てを見渡し総てを公平に判断すべき……7年前しくじった
ブラボー君たちにもそうあるべきだとキミは言う訳だ」
「ええ。防人にいたっては感傷のあまり再起不能ですからね。戦士長たるものがそれでは部下に示しがつきません。もっとも
これまで7年前を雪ぐ任務を用意できなかった私も私ですが」



「何か」の動きが止まった。掌に掬いあげられ貴族服の前で静止した。
 かすかに、声が響いてた。

『いやお前! 俺の、人の命を何だと思っているんだ!!』
『大丈夫! わかってます! この上なく大事でー、地球より重くてー、みんなそれぞれ1度きりのー、とにかくとにかく守る
べきものですよね! ほら言えました! これでも声優やめた後は小学校の先生でしたからー、道徳は得意なんですよ』



 ムーンフェイスの舌はよく回る。無理もない。語るのはかつて自分を下した防人だ。密かな対抗意識とそれなりの思い入
れがあるのだろう。
「確かに彼らはいささか感傷的になりすぎだ。しかし私に言わせればまだブラボー君たちの方がマシさ。考えておくれよ」
「最も厄介な傲慢を、ですか?」
 何気なく答えながら照星はわずかに驚いていた。ムーンフェイスが防人を「マシ」と評している。敵はおろか味方にさえ
敬意を抱かぬ男が……。ともすれば比較対象を「自分を捕縛した防人以上に」嫌っているのかも知れない。
 機微を知られているという機微に気を良くしたのか。ムーンフェイスは軽やかに頷いた。
「ああ。責任の度合いはともかくだね。直接関わった、自分の根幹を揺るがすような悲劇の後でなお、守れなかった人間の
屍の傍で負うべき責任の正確すぎる量を弾き出せる……そういう男だからね彼は」

 
 ムーンフェイス曰く、どれほど責められても分析結果をタテに抗弁する。過失割合以上の反省など決してない。故に人間
好みの成長はないが挫折もなく、ただただ自我のみ貫き邁進する。彼はそうなのさ。念を押すように述べてから、ムーンフェ
イスは高い声をじっとりとねばつかせた。
「まったく面白味に欠けるタイプだよ。からかい甲斐がまるでない」
「フフ」
「むん?」
 不意に漏れた笑いをムーンフェイスは不思議そうに眺めた。めずらしく坂口照星は「素」で笑っているようだった。いまの
話のどこに笑う要素があるのか。訝る視線を感じた照星はまず「失礼」と品良く謝り、理由を述べ始めた。
「やや不快そうですがそれはただの同族嫌悪ですよムーンフェイス。あなたにとってL・X・E壊滅は何ですか? 属する組織
の瓦解……客観的な悲劇さえ最低限の自己反省を差し引けば後はもう単なる事故例。今後の参考材料程度の意味あいで
しょう。もちろんあなたはあの出来事に根幹を揺るがされてはいませんし元より人を救おうという意思もない。ですが求める
物の為だけ動くという点では同じじゃないですか? あなたが不快気に話す傲慢の持ち主とね」
 今度はムーンフェイスが「素」を見せる番だった。戯画的な顔をひどくあどけない無防備な様子にたっぷり歪めてから……
「かもね!」と歯を見せた。それを見ながら照星はサングラスを掛け直し、一言。
「ヤケになって肯定しているようにしか見えませんよムーンフェイス」
 笑顔が硬直し、しかめっ面になるまでさほどの時間を要さなかった。
「やれやれ。キミは本当に恐ろしい。私が彼に抱く嫌悪なんてとうにお見通しのようだね」


 ダム。
 ダム。

 ダムダム。


「私はこれでも寛大な方だけどね。彼だけはまったく好きになれない」


 再び路地裏に静かな音が響き始めた。
「何か」は弾む。ゆっくりと。


「つくづく『病気』だからね。マレフィックはキワモノ揃いだが彼ほど厄介な存在もない」


 貴族服からきらきらと光る粒子が散り、そして消えた。


「他の幹部連中は盟主を含め大なり小なり挫折を引きずりブラボー君たちよろしく背中に影を落としている。だが、彼は違う。
彼だけは迷いも葛藤も復讐心も嗜虐心も何もない。他の幹部たちとは出自からして一線を画す存在だ」

「そう」

「『土星』の幹部。リヴォルハイン=ピエムエスシーズ君はね」


 貴族服は「何か」を弾ませながら歩いていく。金髪ピアスとクライマックスの争う現場めがけゆっくりと、ゆっくりと。


 しばしの沈黙の後、照星は静かに告げた。

「ピエムエスシーズ、ですか。また特殊な武装錬金の使い手ですね」

「ほう。博識だね。まさか略称だけで分かるとは。流石は大戦士長」
「たまたまですよ。職務上そういう手合いの動向はよく耳にしますから」
「私は耳にした時驚いたよ。まったくもって有り得ない武装錬金だからね



「何しろ、その形状というのが──…」


 
「さあそろそろ犠牲になってくださいよぉ。この上なく尊び(たっとび)ますからあ」
(追い詰められた)

 行き着いたのは袋小路。背後には塀。両側にも塀。これでもかと積まれた灰色のブロックどもは左官の奏功、目測が馬鹿
らしくなるほどの高さだ。登るのを考えた瞬間全身のそこかしこが悲鳴を上げた。手足の傷は決して軽くない。疲労もある。
衣服に染み込んだ血や汗ときたらクチクラやキチン質よろしくバリバリと凝固を重ね運動性というやつを大きく喪失せしめてい
る。もはやできそこないの甲虫外骨格か甲殻類の表面かというありさまで気だるい重量ばかり全身にのしかかる。つまりまっ
たく心身とも登攀(とうはん)不可の極地にまで追いやられている。
 そのうえ眼前には黒い影。
 まさしく絵に描いたような追い詰められ方だった。

 影が一歩進んだ。街頭に照らされ素顔が明らかになった。右手の得物も同じくだ。放たれた鈍い銀光に金髪ピアスは戦
いた。肉厚のナイフ。その刀身に漾(ただよ)うおぞましさという名の陽炎はいまや鹿の大腿を肉ごと切断できそうなまでに
膨れ上がっている。当たれば朽木のように消し飛ばされる……。不吉な、しかしかなり精度の高い予測が全身の汗腺を開
放する。こびりつく脂分や塩分があっという間に流し落された。口の中がひび割れるように痛い。水分ともに全霊が抜けて
しまったのではないか──…逃避じみたコトを考える間にも相手は着々とにじり寄る。
 見た目20代前半の女性だった。どちらかといえば美人だが冴えない感じが頭頂部からつま先に至るまで万遍なく振り分
けられている、黒縁眼鏡のスーパーロングヘアーだった。
 そして彼女は元気よく背筋を伸ばし、叫んだ。

「大丈夫! この上なくっ! だぁーいじょぉーぶ!! ぶいぶい! 死んでもグレイズィングさんが蘇らせてくれますよ!!」
「蘇らせた後どうなる!! アイツは間違いなく拷問狂!!」
「…………」
「いやなんか言えよ!! なんつーのココは三流悪役丸出しにせいぜい苦しむがいい下等種族くけけけみたいな安っぽい
文言吐かれる方が気楽な訳でさあ!! そしたらヒドい目に遭う俺は理不尽な被害者つー感でさ正義じみた怒りで耐えら
れるのになんで何も言わない訳!? 怖いよ、怖い!! 手なれた感じが怖い!!」
「ままま。グレイズィングさん、私の同人誌の監修してくれてますしー。イケニエさんを差し上げるのはお礼というコトで〜♪」
 クライマックスと名乗る女──見た目20代前半、元声優にして元女教師らしい──の口調は軽い。足取りも。殺人以外の
用途がまるで見いだせない武器を可愛らしい手ごと前後に振り振りゆっくり近づいてくる。あまつさえ軽く唇を綻ばせ周囲を
見渡している。あくまで落ち着き払い、「逃げ場のなさを再確認している」。戦慄が金髪ピアスを貫いた。脳天からきんたま
に至る正中線内部ときたら黒く野太い氷柱を差し込まれたようにぶるぶる震えている。
(家を出るときはこんなんなるって思わなかったのに!! ああ、お袋今頃どうしてんだろうなあ。またクラッカーにラード塗っ
て喰ってんのかなあ。夜それやるとますます太るっていつも怒ってんのに聞かねーの。買い物の時はいつもの賞味期限間近
の奴ばかり探すお袋。見つけると店員さん呼んで値引きシール貼らせる厚かましいお袋。息子はいま、ピンチです)
 ばかばかしい日常の一幕さえ今は懐かしい。
 現実はとにかく泣きたいほど悲惨である。
 彼が踏みしめる地帯は三方を高い塀に囲まれ、とても狭い。道路の幅はおよそ2m。正面突破は自殺行為、鋭く尖った
刃にハイどうぞと的を投げるようなものだ。奇跡が起こってすり抜けられたとしても首や背中を深く刺されるに違いない。
 クライマックスもその方向性で一致しているのは明らかでド真ん中で通せんぼ。
 いやな一致だ。涙と情けなさでくしゃくしゃになった顔で眺めていると彼女は不意に止まった。距離は3mほどだ。そこで両
手を胸の前で小さく構えガッツポーズをした。更に両方の拳をくりくりと回すさまは笑顔ともども愛らしい。もっとも右手のナイ
フが総てを御破算にしているのだが。
「ぬぇーぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっ!」
「!?」
 奇妙な声が上がった。とても高く、いやにアニメアニメした奇声である。表情を見るにどうやらクライマックスは笑って
いるらしかった。とても楽しげにあどけない瞳──30間近とは思えないほど大きな──を輝かせ、マシンガンよろしく
甘ったるい声をばら撒いている。
「さらにもう一発!! ぬぇーぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっぬぇっ!」
「なにその笑い声」
「ぶっふっふ!! 分かっていませんねえ金髪さん!! キャラを立てるためにはヘンな語尾ヘンな口癖ヘンな笑い声が
この上なく不可欠ですっっ!! なにしろ見ての通り私ってばマレフィックの中で一番この上なく地味地味さん……キャラ立
てないと埋没する一方じゃないですか。ブレイクさんとかリバースさんとかみんなみんなアクが強すぎですし」
「知らん!!」」
「で、最初は敬語キャラで行こうかと思ってましたけどそれは仕事モードのウィルさんと被っちゃってるじゃないですかあ。
じゃあ方言カナって思ったんですけど関西弁ならデッドさん居ますし……」
 喋りながらクライマックスはその黒髪に手を掛けた。
 左肩に乗った、長すぎるそれへ……。
「いや聞いてないし。誰だよウィルとかデッドとか」
 内緒です。悪戯っぽく微笑するクライマックスの下で白い手だけがススリと動く。
「ディプレスさんから聞いてないですかこの上なく?」
 疵だらけの髪を鞣(なめ)すように上へ、上へ。
「とにかく周りを見渡せばこの上なく強烈すぎる人たちばかり!! だから私は埋没しないよう毎日必死!! 体のコトとか
能力のコトとかこの上なく一生懸命考えた結果こういう笑い方になりました!!!」
「……年齢考えるとイタくね? それ」
「イタいイタくないを考えたらやってけないのが声優!! 大御所さんなんか70超えても幼稚園児やりますよ!!」
 どこかズレた答え──そもそもこのアラサー、声優辞めていなかったか?──を返しながらクライマックス、ルンラルンラ
と音符を飛ばしつつ髪止めを軽く弄(いじ)った。左耳のちょうど前あたりにあるそれは少し奇妙な形だった。電車とその操縦
席をミックスしたような奇妙なデザインが幅10cmほどの半円の中にごちゃとごちゃと押し込められている。何気なくクライマック
スの挙措を追っていた金髪ピアスは更に奇妙な点に気付いた。

 液晶画面。

 ぱっちんを形作る奇抜なデザインは決して刻印されていたものではない。画面に浮かんでいたものだった。それが証拠に
クライマックスが表面を一撫でるするやバッとかき消え別のものを映し出した。今度はATMの初期画面──”引き出し”や
”預け入れ”といった項目名が規則正しく並んでいる──を思わせる画面だ。そのうちの1つに指が乗った。ピロリン。小気
味いい電子音とともに別の画面へと切り替わる。ピロリン。ピロリン。ピロリン。目まぐるしく変わる画面と電子音の洪水に
ただただ金髪ピアスは圧倒され呆然と立ち尽くした。好機を見ながらも逃げられない虜囚の心理が全身を支配していた。
「とにかくもーぅ逃げられませんよ金髪さん!! この上なく!!!」
「!?」
 金髪ピアスの両側で光が膨れ上がった。虹色に輝く無数の幾何学模様を内包したそれは瞬く間に人の輪郭を結び確か
な質量で佇立した。
(人形……?)
 左右を見渡した彼は2つほど重大な事実に気付いた。1つ。彼らには顔がない。代わりに迷彩柄が煙のように当所(あてど)
なく輪郭を這いずりまわっている。服飾品は光さえ飲みほしそうな漆黒のヘルメットといかにも防刃防弾の極厚プロテクター。
特殊部隊かよ……不穏な雰囲気に身震いした辺りで彼は気付く2つめの重大事実。

 両手が、拘束されている。

 さらに重大事実3つ目追加。

「ああ、憂鬱wwww」

 クライマックスが、景気よくナイフを構えている。そしてこちらをニッコニコと眺めている。

「クライマックスの武装錬金は装甲列車(アーマードトレイン)wwwwwwwwww 恐ろしく巨大な武装錬金だぜwwwww 長さ
たるや銀成市クラスの市町村をまるっと完全に包囲できるぐwらwいwwwwwwwwwwwwwww」
 肩に小石が当たった瞬間、金髪ピアスは情けない悲鳴を上げ首を背後めがけ捻じ曲げた。

 背後の塀。
 その上に。
 いたのは。

 2mを超える嘴の大きな。
 鳥。

 節くれだった鉤爪がごわごわした塀のてっぺんを掴んでいる。コンクリ製だというのに亀裂が入り握力の強さが伺えた。
 彼を見たクライマックスは双眸をキラキラ輝かせた。
「やりました!! 追い詰めました!! 追い詰めましたよっディプレスさん!!」
「手数かけすぎだろお前wwwwww 追い詰める、ってのは要するに追い詰めるまで時間かけちまったってコトじゃねーかww
wwwwwwww 戦士ならともかく一般人ぐらい路上でスパッ!!! ってよぉーwwwwwww 一撃で仕留めろwwwwwwwwwwwwww
幹部だろお前wwwwwwwww 悪wのw組w織wのw幹w部wwwwwwwwwwwwww」
 つくづく馬鹿にした声。クライマックスは一瞬唖然としてからえぐえぐとえづきだした。
「うー。言わないでくださいよぉディプレスさん。ここまでこの上なく梃子ずったのは不幸体質のせい……。殺そうとすれば
するほど相手の人は幸運に恵まれちゃうんです。相手がラッキーマンになるような感じでデスね!! この上なく実力
行使ができないんです。ああ思い返すに辛い不幸の数々!! 偶然転がっていた空き缶!! 偶然飛んできた古新聞!!
偶然埋まっていた不発弾とか偶然支柱部分が整備不良だった街灯とかいったものがことごとく!! 私の攻撃を邪魔して
くれたんですよぉ!!」
 色気もへったくれもない黒ブチ眼鏡から向こうの領土が洪水に見舞われた。引き攣った、葬式の弔辞をうまく読んでいる
ようなよく通る声が路地裏に弁解を振りまいた。よく見ると安物の服はところどころ破け顔面にはドロやススがたっぷりついて
いる。遠くから響くサイレンの音。今ごろ銀成市消防局は不発弾処理に追われているのだろう。ゴミ捨て場を焼く程度の
ちゃちい爆弾で良かった。一市民としては安堵の思いだ。

「つかよーwwww そろそろやめた方がいいと思うぜクライマックスwww 今回も多分ムリだわwwwwwwwwwwああ憂鬱wwww」

 彼はいったん金髪ピアスから視線を外すと『なぜか』説得を始めた。
 「やめておけ」「退散」そんな言葉がよくよく目立った。そして結果からいえば受け入れられなかった。「せっかくここまで
きたのにどうしてですか」。不満げに唇を尖らせるクライマックスからあきらめ交じりに視線を外したディプレス、翼をすぼめ
た。やれやれと、大儀そうに。

「じゃあーーーーーーーーー話ーーーーーーーーー戻すわーーーーーーーwwwwwwwwwww 武装錬金がデカすぎんもんだ
からよぉwwwwwwwwwwコイツいつも部分発動してんだよなーーーーwwwwww」
 何の話? 一瞬呆気にとられた金髪ピアスだがすぐに気付く。武装錬金。何かはよく分からないがどうやらクライマックスの
武器について解説しているらしい。
「髪止めのパッチンは端末wwwwwwwww 早坂桜花が弓なしでエンゼル御前発動できるようにwwwwwwwこいつは端末だ
けを発動できるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwそして完全発動したり自動人形召喚したりする時にぃーーーーーーー使う!!
さっきお前を援護防御したようにwwwwwwwwwwつwかwうwのwだwっwぜwwwwwwwwwwwwwwww」

 直立姿勢でけたたましく笑う巨大な怪鳥──見た覚えがある。ハシビロコウだ。動かないコトで有名な鳥。テレビで見
た。1年もすれば消えゆく芸人を適当に配置しただけのお安いバラエティ番組で笑いを誘っていた。とにかく奇抜な──は
極端すぎる2.5頭身でずんぐりムックリした佇まいだ。青みがかった灰色はいかにも不吉な色合いで絶望感が加速する。

「あー。オイラは手ぇ出さねえぜwwwwwwwwwwwwwww どうせもう無理だし」

 鋭い三白眼をいぎたない笑みに歪める鳥。
 誰か聞くまでもない。狂的で常に嘲笑うようなその声の持ち主はどうやら全身フードをやめたらしい。
(……?)
 違和感。もう無駄? 小声で諦めるように呟かれたその言葉に引っかかるものを感じた。
(あの女が絶対俺を殺せるって確信があるのか?)
 にしては何か調子が違う。うまくはいい現わせないが……。

「話戻すけどよwwwwwwwwwwwww クライマックスの武装錬金で一番えげつないのはデカさじゃなくて特性wwwwwwwww 無
限増援ってなwwwwwwwww 装甲列車の中から無尽蔵に自動人形が生まれんだwwwwwwwwww 部分発動の時も召喚可能で
wwwwww 端末イジるだけで生みだせるwwwwwwwwwwwwww タッチして数とか種類を決めるんだぜwwwwwwwwwww」

 そういう経緯でやってきた人形どもの力は凄まじい。金髪ピアスがどれだけ身を揺すっても捩じっても微動だにする気配
がない。クライマックスは後ろで手を組み「どうです!」、上体を乗り出した。

「本当はー、追っかけてる時300体ばかり自動操作の人形出して追跡させようかな、って思ったりもしたんですけどねー。
でもやっちゃうとほかの市民さん達に見つかってこの上なく大騒ぎになるかもじゃないですかあ」
 それに、何よりぃ〜。歌うように囁くアラサーの唇がニヘリとだらしなく歪んだ。薄桜の肉たぶの端にヨダレが滲む。

「なにより、獲物は自分の手で仕留めたいじゃないですかこの上なく。……あ!! いま金髪ピアスさん、”人形に両手押さ
えさせてトドメさすのはいいのか”ってカオしましたねこの上なく!!! 正解は「ぃぇす」です「ぃぇす」!!! 人間を殺した
コトのない私ですから最初は誰かの何かの介助というのがこの上なく必要なのです。と!! ゆー訳でぇ!!」

 彼女はしゃきりとナイフを構え直し、笑う。「ぬぇぬぇぬぇ!!」。特徴的でけたたましい声のなか金髪ピアスは理解する。死
刑執行を告げられる虜囚ははたしてどんな気持ちなのかと。生きたいという渇望がどれほど反作用的に湧くのかを。
 絶望的な表情にクライマックスは興奮したらしい。「おおー。おおおおお〜」。全身に鳥肌を立てた。高所から落ちたアニメ
キャラよろしく足元からウェーブを駆け昇らせた。
 ご様子はもはや我慢の限界、頭上でぶんぶんナイフを回す。回す。回す。

「イイですよイイですよお〜〜〜〜。予感ッッッ!! っていうんですか!! 3等8万円の宝くじ買った日の朝のような!!
或いはリテイクに次ぐリテイクを迎えた収録現場でオーケーサイン勝ち取る演技をやる寸前のような!! 『今度こそイケる』
無意識の確信ッッ!! 湧いてきましたこの上なく!!  そーいえば今日は朝からいいコトありそうな気がしてたんですよう。
うんうんうん! めざましテレビの占いでも私の星座7位でしたしとくダネのきょうの占い血液型選手権でも3位でしたし!」
「両方ともロクな順位じゃねえwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
「ええい放せ人形ども!! 俺はこんな訳の分からん女になんざ殺されたくねえ!!! チェンジ!! チェンジだ!!!
そ、そうだ!! アレ!! あのコ!! 青っち!! 青っちにしろ!! 思い返せば一番最初が一番マトモだった!! 
チェンジ!! チェーーーーーーーーンジ!!
「で、でででででわ行きますよ」
 クライマックスはやや緊張の面持ちで構え、すぅっと息を吸い、吸い、吸い──…
 とても恥ずかしげに瞳を潤した。
「私、人殺すの初めてなんです。優しく……して下さい」
「何をどう!?」
「いいからさっさとやれよwwwwwwwwwww」

 ディプレスは薄く笑った。

「ま、もう無理だろーけどwwwwwwwwwww」

「ふへ?」
 ダッシュ途中でディプレスを見上げたクライマックス。その後頭部で衝突音が巻き起こった。バゴン! 乾いた音に叩き
出されるように彼女は鼻血をしこたま噴いた。笑顔のままというのが逆に惨たらしかった。血は噴水のような勢いだった。
「やっぱり元声優だからアニメっぽく鼻血噴くんだろうか」、ぼんやり考える金髪ピアスの足元に叩きつけられたのは哀れな
哀れなアラサー女。うつ伏せなのはすっ転んだからですっ転んだのはどうやら頭に何かぶつけられたせいらしい。そして彼
女はしばらくヒキガエルのように呻いていたが……やがてめでたく動かなくなった。
「失敗もいいじゃん♪wwwww 次につながっていくならwwwww そうでしょ〜♪ オウオウwwwwwwwwwww」
 気絶。両腕を抑えていた人形が消滅した。自由になった反動で金髪ピアスは前に向かって数歩たたらを踏み──誰か
の背中をクソ長い黒髪越しに思いっきり踏みつけたような気がしたがどうでもよかった。「ぐげぇ」という呻き声も──ただ呆
然と闇を見詰めた。
 正面に広がる、果てしない闇を。

 ダム。ダムダムダム……。
 
 何かが弾む音。悪寒が走る。危機は依然去っていない……緊張がぶり返す。まだ背後の塀にディプレスがいるという
のもあるが、それ以上に。

(あの女に何かぶつけたのは違う奴!! 何をぶつけたかまでは分からねーけどそれはあの馬鹿なアラサーの後頭部に
当たった!! ディプレスは……正面に居た!!)

 つまり第三者が近くにいる。クライマックスの背後から正体不明の何かをぶつけた存在が……。

「ヒュウwwwwwwwwwwwww こらまた予想外のおでましだぜwwwwwwwwwww」

 
 ディプレスが口笛を吹く中、それは来た。
 転がる何かを拾い上げ、闇の中からゆっくりと。

「ようwwwwww病気野郎wwwwwwwwww」

「土星の幹部・リヴォルハイン=ピエムエスシーズwwwwwwwwww」





【同時刻 日本のどこか山深い地方で】


「村だな」
「村ですね」

 狭く、近未来的な部屋だった。パネルやレバーといった操作器具が敷き詰められ電子音が規則正しく響いている。
 その部屋の正面にはモニターがあり今は粗く緑がかった風景を映し出している。

 モニターの中央と向かい合うように椅子が3つ、配置されていた。うち2つは隣同士で1mばかりの感覚が空いていた。
座っているのは両方とも20代以上の男性で、片方はやせ型、片方は小太り。生白い肌と浅黒い肌も対照的な彼ら、
先ほどからモニターを見てひそひそと話している。

 モニターが遠望していたのは確かに村だった。
 いかにも小規模なそこは山の中腹にあり提灯や屋台が所狭しと並んでいた。時節柄解釈するに祭りでも開いているとみ
るのが妥当だろう。いかにも農民風な人々が望遠レンズの映し出す世界で踊ったり屋台に並んだりとにかく祭りを楽しんでいる。

 麓と村を繋ぐ道は1本しかなかった。とびきり長くて緩やかなのが1本だけだった。村付近の斜面はどれも崖という
べき垂直ぶりだ。コンクリートが固めていなければ台風1つで崩落するだろう。しぜん道は傾斜の緩やかな方へと
伸びざるを得なかった。

 村から吐き出された道は山を螺旋状になぞり緩やかな勾配を描いている。と男たちがモニターから読み取れたのはコケ
の浮いたガードレールが木々の中で長々と自己主張していたからだ。規則正しく並ぶ街灯の向こうで碁盤状の法枠(のりわ
く)が整地区画の草花畑をどこまでもどこまでも伸ばしていた。

 様子からして路面はアスファルトだろう。村まで車で15分というところだ。
 
 その道に。

 麓の辺りに無数の人影がいた。
 黒い服とサングラスという「いかにも」な人種だ。それが6ダースほど闊歩していた。
 黒服の男たちはところどころ人間らしさを喪失していた。爪が恐ろしく長かったり牙がにゅっと伸びていたり羽根が生えて
いたりでとにかく怪物性を誇示していた。

「ホムンクルスだな」
「ホムンクルスですね」

 彼らは坂を上っていた。ペースは早い。車ほどではないが人間の速度は凌駕している。
 このままいけば20分で村に着くだろう。
 やせた方の若い男は生白い顔を後ろめがけ軽く捻じ曲げ、こう聞いた。

「どうしますか艦長」

「…………」

 最後の椅子は部屋の一番奥にあった。一段高いところにあるそれは見るからに上役用で肘掛けさえついていた。
 艦長と呼ばれたのはいかめしい顔つきの老人だ。彼はしばらく沈黙を保ったままただただ画面を見つめていた。目深に被っ
た帽子の下で瞳だけが鋭く光っていた。荒波を超え続けてきた男だけが持つ威圧感がひたすら黒服どもを射抜いていた。

 
 黒服たちは知らなかった。
 自分たちが見られているという事はもちろん……背後彼方の場所にある森の中に何があるかというコトを。
 戦艦が一隻、森の広場の中にいた。海からはかなり離れているというのに、どでんと。
 真鍮色のそれは鉄板をごてごて塗り固めたように不格好で、至るところに据え付けられた3連装砲や連装機銃座の数々が
とことん全体のフォルムをややこしくしていた。艦首に居たっては双頭の竜よろしくにゅっと2つに分かれている。
 つまりディティールこそ精緻を極めているが小学生が考えた出来の悪い発明品を思わせる気色の悪い物体だった。
 とても真っ当な軍隊の制式に収まりそうもないそれは錆びついたダンプカーの横にぷかぷかと浮かんでいる。積載量10t
の隣人さえ霞む大きさだった。高さこそ等しくしているが幅や全長はゆうに3倍を超えていた。にも関わらず空気の浮上力
によって一切の重量感を排している。通ってきたと思しき方角を見れば無数の木々が折り重なるように倒れている。強行軍。
これまでの『航路』を言い表すにふさわしい言葉である。

 2人の若い男といかめしい顔つきの老人はその戦艦の中にいた。

 「ディープブレッシング」という戦艦の中に、先ほどからずっと。
 
 武装錬金の中には複数の創造者や核鉄を要するものもある。好例がディープブレッシングであり、核鉄の組み合わせに
よって姿さえ自在に変える。基本形態こそ潜水艦だが宇宙船を思わせる空中戦艦にも変形可能。創造者たちいわく三核鉄
六変化、つまりは全部で6つの形態を持つ変わり種の武装錬金なのである。

 その操縦席の奥で老人──艦長──が口を開いた。とても厳かな声だった。

「諸君。我々は現在大戦士長救出作戦を補佐する立場にある。数多くの戦士たちを合流ポイントに向けて輸送中……。
それもヴィクターにはとうとう見せてやれなかった陸戦艇形態でだ」
「アイアイ」
「アイアイ」
「本来戦艦であるディープブレッシングがこのような扱いを受けている。不当だと感ずる者もいるだろう。だが戦団がヴィク
ター討伐により数多くの輸送手段を失っている以上、やらねばならない。辛いだろうが諸君らの一層の克己と奮励に期待
する」
「アイアイ」
「アイアイ」
「敵はレティクルエレメンツ。1秒の遅参も許されない。海域空中戦形態で空を飛べばもっと早くつけるだろうとかという
文句も戦士たちから上がっているがアレは目立つし第一ヴィクターに見せたからもういい」
 アイアイ。アイアイ。機械のような返事を聞き届けると艦長は深く息を吐き椅子にもたれた。画面の中では黒服たちが
とうとう山の中腹にまで登り詰めている。進行速度は予想以上でともすればあと5分で村は惨劇の舞台になるだろう。
「では艦長。村民たちは」
「航海長。命令を忘れたか。『とにかく余計な戦闘に時間を裂くな』。火渡戦士長は我々にそう伝えた筈だ」
 底冷えのする声だ。航海長と呼ばれた痩躯の男は沈黙した。
「すでに上層部は彼を大戦士長代行とさえ認めている。である以上、火渡戦士長の命令は絶対だ。私は艦長として万難を
排し不要な戦闘を避けねばならない。……という訳だ航海長」
「アイアイ」
 ・ ・ ・ ・ ・ ・
「村へ向かえ」
「アイアイ。また命令違反ですか艦長」
 にこりともせず艦長は答えた。
「人命を助ける。そのどこが余計だね?」
「アイアイ」
 航海長は特にどうという感慨も浮かべぬまま桿を握った。こんな問答は茶飯事らしい。
 やがて戦艦各所にしつらえられた通風口を大量の空気が通り抜けた。唸る艦底。熱ぼったい奔流が艦全体を緩やかに
持ち上げる。草木がさざめいた。流れる木の葉は五線譜の音符だった。さらさらと綺麗に鳴り消えていった。

 
 静かな空気の音が充満する操縦室の中、小太りの男が一言ぼやく。「帰ったらまた大ゲンカか」。浅黒い顔の後ろで腕を
組み天井を眺めるうち艦はとうとう錆まみれの隣人に別れを告げた。
 ほどなくして山裾に達した艦は木々の犇めく斜面を登り始めた。艦長はぽつりと呟いた。
「第一火渡はディープブレッシングをいろいろ小馬鹿にしてくる上に何かと突っかかってくる。嫌いだ。命令など聞いてやらん。
まったく。戦士になりたての頃誰がサバイバル訓練に付き合ってやったと思っている」
「やはり重りを付けて深海に放置したのはマズかったですね」
「火炎同化を持つアイツにはあれが一番サバイバルだと思ったのだ。ディープブレッシングの全形態も見せたかった」
………………水雷長。艦砲射撃準備」
「アイアイ。もう終わってますよ艦長。いつでも行けます!!」

 やがてディープブレッシングは山を登り始めた。道は使わず直接村を目指した。木々の密集する斜面へ突入し山肌を削
るように疾走し、登りながらも高度を上げた。「ガードレールまで距離200」「面舵いっぱい」。大きく円弧を描きながらガード
レールをブチ破り道へ合流。風が法面に吹きつき艦の動きが静止した。
 遥か前方で黒い影がまろぶように駆けている。

「艦長! やはり気付かれたようです!! 黒服たちは……村へ!!」
「ああやっぱり。ばらばらに発動した方が良かったんじゃ」
「艦内へ通達。総員前方からのGに備えよ。これより本艦は最大船速に入る。目標到達後は船速の如何に関わらず村へ
突入……ホムンクルスを殲滅せよ」
「アイアイ。要するに爆走中の戦艦から飛び降りろってコトですか」
「アイアイ。時間がないとはいえ恨まれますよ」
「機動力のあるものや押しつぶされたくないものは直ちに下艦。のち後方より本艦を援護せよ」

 やがて艦後部で空気が爆発した。道路の幅いっぱい以上に広がるディープブレッシングはガードレールを歪なかつら剥き
にしながら火花を散らしぐんぐんと黒服に追いすがり、追いすがり、追いすがり──…

 村の入口付近で6人ばかり撥ね飛ばした。
 振り向いた黒服たちはまず艦の威容に息を呑んだ。慌てた様子で村を振り返り再び艦を見るものもいた。逡巡。わずか
だが一同を迷いが支配しその動きが止まった。その瞬間ディープブレッシング右側面のある位置でハッチが開いた。
 出てきてきたのは老若男女さまざまだ。服装もまちまちで手にした武器もどれ1つとして同じ物がない。
 ただ全員ただならぬ眼光を持っているのだけは共通しており、それが黒服たちに不吉な予感をもたらした。
 戦士たちが、一歩踏み出した。

(来る)

 身を固くする黒服たちの前で…………戦士たちはそろって踵を返し、艦を蹴った。

「あれほど言ったのに急加速してんじゃねえ!!!」
「おぇ。ただでさえ船酔いしてんのに……いきなりあんな速……おぇ」
「最高船速の船から飛び降りろだあ! できるか!! 死ね!」

「あの……」

 黒服たちは困惑した。戦士たちはみな悪態をつきながら執拗に艦を蹴っている。とても異様な光景だった。

「だいたい何で陸戦艇なんだよヴォケ!!!」
「3人別々に小型飛行機発動してピストン輸送する方が効率いいだろ!! どう考えても!!」
「傷病兵だって乗っているんだ!! 目立ちたいからって無茶すんな!!!」
「だからお前らに輸送されたくなかったんだよ!!!!」

 ハッチの奥から海兵らしい人物たちが引きずり出された。若い男2人と老人だった。彼らは顔面に殴られたような痕が
あり衣服もところどころが乱れている。特に老人などは筋骨隆々の中年男に襟首を掴まれいまにも処刑されそうな勢い
だ。(そのくせ眼光は異常なまでに鋭かったが)

「なんかいえよ艦長!! ア゛!!」
「諸君らに告ぐ。我々は目標地点に到達せり。速やかにホムンクルスを殲滅し村民を救助せよ」
「おーおーおーおーおー!!! 命令する方は楽でいいよなあ本当に!!」
「だいたいお前ただのヒラだろヒラ!! 勝手に艦長とか名乗ってるだけだよな!!?」
 筋骨隆々の男は露骨に青筋を浮かべながら艦長のヒゲを引き始めた。それなりの痛覚があるらしく艦長はうっすらと
脂汗を浮かべた。

 
「やめろ。私に手を上げるのは構わんがディープブレッシングを蹴るのは止めてもらおうか……!!」
「蹴りでもしなきゃやってらんねーだろうがアアアアアアアアア!!」
「デカいから目立つんだよコレ!! 人の目のあるところ飛べないんだよ!!」
「潜水艦形態は嫌だっつーし!」
「いつも通るの獣道! しかもそういう場所に限って共同体があるからケンカふっかけられるのな!!」
「お陰で俺たちボロボロ!! 決戦前なのに!!」
「くそう!! あのときパーを出してればヘリ乗れたのになあ!!」
「ヘリ組は毎日ホテルで寝れるらしいぜ。フランス料理とか好きなん食えるらしい」
「もうすぐ決戦で死ぬかも知れないから? いいなあ。俺も寿司食べたい」
「あのー」
 黒服たちは困り果てた。仲間の肩を借りているのは先ほど跳ね飛ばされた者だろう。彼らもまた呆然と見守るばかりだ。
攻撃された恨みも忘れるほど異様で滑稽な喧噪だ。
「クーデターが発生」
「艦内放送後すぐ戦士たちが操舵室を制圧。安全な速度でここまで来る事になった」
「は、はあ」
 いかにもデコボココンビな男たち──航海長と水雷長──の説明に黒服たちが首を傾げていると。
 騒ぎを聞きつけてきたのだろう。
 村人たちが何人か、誰何の声を上げた。

「オイ騒いでる場合じゃねえぞ!! 要救助対象者がホムと鉢合わせだ!!」
「誰だよお前たち!! ココで何を……」
「ええいもうこうなったら襲うしかねえっぺよ!!!」

 三者三様の喧噪の中で最も早く動いたのは黒服たちだ。
 混乱と動揺を振り切りるように村人たちへ振り返るや凄まじい形相で突貫し──…



 30分後。村は灰燼と化していた。
 生き残りだろうか。村人が黒服に追い立てられ金切り声を上げている。
 求められた助け。戦士である筈の艦長はしかし一瞥さえくれず黙殺し、じっとその場にたたずんでいる。
 彼を軸に林立する航海長や水雷長も同じだった。戦士たちはというと事後処理に忙しく駆け回っている。
 怨嗟と憤怒と断末魔の絶叫が混じり合い響き合い、村は狂乱の様相を呈していた。

「航海長。これはいったいどういう事だね」
「アイアイ。調査結果を報告します。ホムンクルスは村人の方でした」
「で、麓から人間攫ってきてお祭り騒ぎかよ」
 大柄な男──水雷長──は溜息をついた。元民家のカーボンが視界両側にどこまでも伸びるこの場所は大通りとみえ
屋台の残骸があちこちに散乱している。「焼き人間」。煤まみれの看板が転がっているのが見えた。比較的原状を保って
いるその屋台へ何気なく視線を移した水雷長はうっと口を抑えた。調理用の小型ガスボンベの前で横倒しになったバケツ
から色々なものが零れていた。長い髪や小さな手はまだいい方だったがウニやネギトロに似た質感のサーモンピンクは流
石にダメだったらしい。「陽菜!!」「ヤスシ!!」。別の屋台の商品もだいたい似たような品ぞろえだ。『商品』へ涙ながら
にすがりつく黒服たちが如実に証明していた。

「……ちなみに黒服たちは人間とのコトです。麓に住んでいるといえば何をしに来たか……言うまでもありません」
「人間!? んな馬鹿な!! お前もモニター見たろ。アイツら確かに牙とか爪とか生やしてたよな!?」
「しかし調査の結果、全員間違いなく人間……錬金術とは無縁の一般人です」
「でもあの黒服たち、ホムンクルスども圧倒してるぞ。陸戦艇に魅かれた人も無事だし」
 水雷長の指さす先で村人が袋叩きにあっている。本来錬金術以外の力では破壊不能のホムンクルスが無手の黒服たちの
殴る蹴るでどんどん壊れている。事態の異常さに気付いたのだろう。何人かの戦士たちが驚いたように凝視している。
「戦士でもない人間がホムンクルス倒せるとかおかしいだろ」
「それですが興味深い証言があります。実は──…」
「オイ!!!! あれはなんだ!!!!」
 戦士の誰かが発したのだろう。割れんばかりの声が航海長を遮った。

 
 すわ何事かと目を剥く水雷長の足元が大きく揺らいだ。すんでのところで転びそうになったがどうにかこうにか持ち直す。ズドン。
足元が再び揺らいだ。それは村にいるもの総ての身上に注ぐ宿命だった。消し炭の家屋も崩滅寸前の屋台も何もかも飛び
あがって元の場所へ叩きつけられた。地響きがしている。当たり前でつまらない結論へたどり着くまで3度のズドンを要した
水雷長は”判断力が衰えている”そんな痛感と──最初に訪れるのは20をいくらか過ぎたあたりだ。もっとも何万かの脳細
胞が死滅し始めるころだいたいは社会に対するうまいやり方を覚え互助に預かれるので30年後ぐらいまでどうにかトント
ンでいられる──痛感と、どよめきの中で見た。

 ホムンクルスを。
 高さ200mを超えるシロナガスクジラ型を。
 そしてダンプカーさえスクラップにできそうなほど巨大なヒレが頭上3mでうねりを上げているのを。

 水雷長の口を叫びが貫いた。恰幅のいい体は猛然と航海長を跳ね飛ばし野太い腕は無遠慮に艦長をひっつかみ、そして
投げ飛ばした。
 痩せた色白の相棒は心得たもので上役を受けとめながら地を蹴った。幸運を上げるとすればヒレの向きがそうだった。水
雷長たちの視線と水平だったのだから。30m超の長さに不釣り合いな狭幅(きょうふく)の稜線。仲間たちがその埒外に無事
逃げおおせたのを確認すると水雷長は誰ともなしにニカリと笑い──…

 山が煙を噴いた。村の辺りからたなびくそれは闇夜にとても生える茶色だった。震度6クラスの振動が大地を揺るがした。

 爆発的な衝撃が水雷長の全身を貫いた。黒光りする749kgの金属板は彼の肉体に接触しまるで勢いを殺さぬまま地面に
向かって振り抜かれた。ダイナイマイトの炸裂の方がまだマシだという破裂音が航海長や艦長の鼓膜を著しく傷つけ膨大な
土煙を巻き上げた。屋台や家屋のひしゃげるめりめりという音がした。難を逃れたものたちはただ唖然とその様子を見ていた。
尻もちをつく黒服もおり中には涙を浮かべる戦士さえいた。

「具申しよう!! みどもはこの村の村長……つまりは共同体のボォス!! どうだこの大きさスゴいだろう絶望だろう!!」

 山の手高くにある村へ悠然と並び立ったホムンクルスはとてもとてもクジラだった。瞳は球体型ジャングルジムに匹敵す
る大きさでそれがぎょろぎょろぎょろぎょろ忙しく動き回りながら戦士を見ていた。

「普段はこの大きさゆえに村入るンじゃあねえ出禁くらってやむなく穴掘って地下でうつらうつら眠っているが今回みたいな
有事の際には何かと頼られるタイプ!! 現に戦士1名殺害!! え!! なんでみんな祭りやってたの!! 先週貰った
お知らせのプリントには一言もなかったのに!! 連絡の不備なのかなあどうなんだろう」

 でっかい頭をぐにぐに左右へ振りながらシロナガス型は「ま。いっか」と潮を吹いた

「戦士全滅させれば誘ってもらえるよねえきっと。うん。さあ覚悟しろこんなでっかい村長さんに効く武装錬金などある訳──…」
「なあー!! いまの文言訂正しておいた方がいいぜー」
 戦士の1人が声を上げた。
「???」
「だからー。お前いま水雷長殺したようなコトいったけどー」
 大通りに振り下ろされたままのヒレに異変が生じた。ほぼ中央。水雷長の居た辺りに穴が1つ。穿たれた。
「??????」
 針でも刺したような、凝視せねば分からぬほど微細な穴。だがそれを中心に大きく亀裂が入った。ピキリ。ヒレの外装が
花瓶のように割れ飛んで火花散る内装を露呈した。ピキリ。ピキリ。スプーンで叩いたゆで卵を思わせる様相で伝播する
亀裂。それはあっという間にヒレ全体を覆い尽くし息も尽かさず粉々にした。そして──…

「なんだ。この程度か」

 破片の雨の中、水雷長はぼんやり呟いた。腕を無造作に突き上げたまま無造作に突っ立っている彼は特にどうという
外傷もなく、それがシロナガス型をうろたえさせた。

「な。言った通りだろ」
「俺らのかなり本気の総攻撃喰らって無事だもんな」
「キャプテンブラボーとの組手、33勝56敗だからな。シルスキなしのガチンコだけど」
「負け越し? いやいや素手で勝てるだけでも大したもんだ」
 楽しそうに顔を見合わせうんうん頷く戦士たちがまた混乱に拍車をかける。


 
「おーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!! なんだよ!! なんでだよ!! 村長さんの
ヒレはねえ!! 749kgあるんだよ!! しかもホムンクルスだから金属っぽいし!! なのに生身の人間が直撃受けて
無事なのはどうしてなの! 手ごたえは確かにあったよね! ね!!」
「あー。いや。俺いちおう深海を生身で動けるし。6000mぐらいなら平気」
「はい?」
「だって俺らとか艦長とか潜水艦持ちだろ。万が一武装解除に追い込まれた場合でも核鉄だけは持ち帰れって戦団から強く
いわれてるんだよな。だから訓練した。今まで味わった超深海層の圧力とかの悪条件に比べたらお前のヒレは、そのまあ、
別に……かなあ?」
 気休め程度だけどいちおうこの制服も耐圧使用だし。後頭部をかきつつ淡々と述べる水雷長。シロナガスは「ええと、え
えと」と汗を飛ばしてからまくし立てた。
「いやいやいや。どんな訓練ですかそれは。学研の2年の科学とかだとカップラーメンの容器がめちゃくちゃ小さく圧縮され
るのが深海なんですってば。それ以外にもいろいろあるし、普通絶対死ぬんじゃ」
「いや。戦士の特訓の要領で核鉄治療繰り返せば割と何とかなる。わざと死にそうになって回復。わざと死にそうになって回
復。すると段々頑丈になる。最初は大変だったな。浅いところから始めてみたけど深さ4ケタ辺りから様子が変わってきてさあ
ちょっと生身で潜るだけで半年ぐらい意識不明。植物状態になったな。で、治ったら寝てた分だけリハビリしてまたチャレンジ。
それを8セットぐらい繰り返したかな。10代のころ学校も通わず。航海長も似たようなものさ」
「…………えーと」
「脳だけで200回は手術した。なんだかったかな。よく覚えてないけど血栓だか浮腫だかの問題で手術しなきゃ死ぬって言
われたから仕方なくサインしてさ。自前の肺なんてもう32分の1ぐらいしか残っていない。後は深海用にチューニングされた
人工物。でもまあいいかなって。だって肺ガンにだけはならない、なりようがないって聖サンジェルマンの連中はいってくれるし。
あ、でも骨は一応全部自前。ただ困ったコトに」
 『白い輝き』が不自然に目立つ拳を水雷長は突き上げた。
「頑丈になりすぎちまった。トドメこそさせないけどホムンクルスの攻撃凌ぐぐらいはできるんだよなあ……」
(ヒレに皮膚擂り潰されたせいで露出した骨!! それで防……いや、ヒレにカウンターかまして砕いた!!? うそぉん!!)

「いま考えると部分発動だけで防御できたかもな。こういう風に」

 水雷長の腕の辺りで空間が……”歪んだ”。小さな光とゴテゴテした影が収束し、そして消えた。
 次の瞬間。
 妙な物体が30本ほどシロナガス型を襲撃した。筒に羽根とトンガリのついたタイプのミサイルだった。「3BK29?」「成形
炸薬弾キタコレ」「水雷長のくせにアイツいろいろなミサイル使えるんだぜ」。はやし立てる戦士たちの目の前で巨大なホム
ンクルスは顔面のあちこちを爆発させた。内部機械が剥き出しになり破片がガラガラと降り注いだ。

「あれはキくぜー。ユゴニオ弾性限界を超えた銅のメタルジェットがうんぬん」
「なんやかんやで装甲との相互作用面が装甲材自体の機械的強度を無視するんだ!」
「つまり防御力無視? でかくて頑強そうな分、ショックだろうな」
「ああ。よろめいた。侵徹口から弾片や爆風が染み込んだんだ」

 シロナガスクジラは後ろに向かってたたらを踏んだ。身長ゆえに後ずさりもダイナミックだ。あっというまに先ほどディープブ
レッシングが停泊していた森へ達し。とうとう錆びついたダンプカーに足を──クジラにも関わらず、ある。不思議な──取
られ蹴躓いた。そのとき村にいた戦士のひとりは大笑いした。10tは積める決して小さくはない車両運搬具がヒラリヒラリと
夜空にきり揉んでいた。夜中(やちゅう)にも関わらず観測できた理由は高度にあり、最高時はおよそ58mまで達していた。
弱り目に祟り目。律儀にも垂直に飛び上っていたダンプカーはほぼ元の位置に落着した。そこはやや様子が変わっており、
仰向けで呻くクジラの腹が広がっていた。落着。ダンプカーはささくれたバンパーから全重量をねじ込んだ。柔らかな腹が
地軸へ向かってひん曲りトランポリンよろしく陥没した。ほとんどテイルランプの辺りまで埋まった巨大車両は何本かの脊柱
にヒビを入れた辺りでようやくびょーんと飛び上り森の奥へと去って行った。

 
 さてクジラ。彼は泣きながら立ち上がり大慌てで走り始めた。口から零れおちる消化液臭い大量のオキアミが道程をどし
ゃどしゃと汚した。脊柱のヒビはすぐ治ったが──錬金術制のダンプでなかったのがせめてもの幸いだった──あらゆる非
情の予想外に決心した。
 逃げよう。
 どこか海で暮らそう。

 彼の旅は、ここから始まった。

「逃げるのは勝手だが一言だけ言わせてもらおう」

 エコーの掛った厳粛な声。その出所を求め頭上を見上げたクジラは戦慄した。
 潜水艦。全長だけなら自分を凌ぐ超ド級の武装錬金が……飛んでいる。
 落ちて、来ていた。
 もちろん頭部──急所たる章印のある──めがけ轟然と。
 体感だがそれは音速を超えているようでまだまだ20mある距離などまったく気休めにならなかった。

「私は貴様を絶対に許さん。絶対にだ。なぜなら……」

 わずかな沈黙の後、艦長はいらただしげに肘掛けを叩いた。

「クジラが陸にいるなど……まったく場違いにもほどがある。不愉快だ!」
「潜水艦に言われたかねえええええええええええええ!!!」

 絶叫と轟音が世界を揺るがす中、戦士たちは胸中「まったくだ」と十字を切った。それがせめてもの哀悼だった。


 10分後。夜空を巨大な戦艦が飛んでいた。満ち始めた月も背後に緩やかに飛んでいくその船は艦首に巨大な
ドリルが付いている。やがて雲海の中で艦影が加速を帯びた。艦は何事もなかったように飛んでいく。

「戦団本部に打電。我ら無辜の人々を救出せり。以後は予備兵にて保護されたし。場所は──…」

「……以上だ」
「アイアイ」
「アイアイ」
 いわれたとおりの作業を行うと狭い操舵室に安堵の空気が満ちた。
「しかし結局何だったんだあの黒服ども? 最初見た時は明らかに化け物だったよな?」
「ホムンクルスも圧倒していた。ディープブレッシングに跳ね飛ばされてもほぼ無傷だった」
 珍しく雑談に紛れ込んできた艦長に水雷長は気をよくした。軽く席から身を乗り出し航海長に呼び掛けた。
「でも調べじゃあの黒服たち人間なんだろ? どういう訳だ」
「ええ。人間です。その点については聴取済みです。艦長。報告してよろしいですか?」
「うむ」
 艦長はただ、重苦しく頷いた。




 
【以下、黒服たちの証言】

「山神さまだべ。山神さまがおでらに力ばくれたんたべ!!」

「んだんだ。先代がむかす迷惑かけちまったからって助けてくれた!!」

「よぐできた2代目さんだべ。先代はあなたもう本当ヒドイ奴だったば」

「作物は荒らすわコッコ食べまくるわ娘ご犯すわで本当手がつけられんかった」

「おで子供6人ぐらい喰われたべ。仕方ねーから父ちゃんと頑張って10人ぐらいこさえたべ!! ははは!!」

「先代の山神さんべか? あー。7年前か8年前だったべか? 死んだの」

「金髪の剣士さんとか実況好きな女のコとかが退治してくれたんだべ」

「あんとき不慣れな感じでビクついてた鎖使いさんいま何してだろーね」

「やたら声がでかくてねえ。しゃべるたび山さ崩れるんじゃねーかってオラ不安で不安で」

「2代目の山神さんべか? 1年半ぐらい前からちょくちょく村さ来るようになったべ」

「最近? 最近はあなた来なかったべよ。なんか関東の辺りさ出稼ぎに行くとか何とかで」

「入れ替わりに村の奴らさ来だのもそのころだっぺ」

「あいつらもまたヒドかった!!」

「作物は荒らすわコッコ食べまくるわ娘ご犯すわで本当手がつけられんかった」

「おで子供6人ぐらい喰われたべ。仕方ねーからまた父ちゃんと頑張って10人ぐらいこさえるべ!! ははは!!」

「実際アイツラもまたヒドくて! でもどうせ戦っても勝てねーからってオラたちじっと我慢してた」


「そこであーた2代目さんが帰ってきたべよ」

「いーい山神さんだったべ」

「事情話したらあいつら倒せる力ぽんとくれたべ。最初腕とか変形した時はびっくらこいたけどよー」

「ん? お金取られたかって? いんや何にも。タダでくれたべタダで!」

「怪しい実験? それもされなかったべ」

「んだんだ。ちょっと自己紹介して欲しいって言われたぐらいだな」

「名前教えるぐらい普通だっぺ。それがお前敬意ってもんだぁ」

「最近の都会の若いコたづはそこがダメだべ。ゆとり世代の弊害だべか」」

「とにかく山神さまがオラたち点呼したらキバとか生えたべ」


【以上、黒服たちの証言おわり】

 

「するとアレか? その山神さまとかいうのが黒服たちに」
「ホムンクルスを打破しうる力を与えたようです」
 水雷長はあんぐりと口を開けたまま天井をしばらく眺め……面倒くさそうに溜息をついた。
「いまはもう黒服たち、人間に戻ってるんだよな」
「はい。調査用の武装錬金を持つ戦士が何人か彼らをくまなく調べましたがどの結果も”シロ”です」
「じゃあ何なんだ? ホムンクルス幼体を埋め込まれたって感じでもないし」
「……武装錬金だ」
 はい? 若い男2人は思わずハモりながら背後を見た。
 そこにいるのはやはり艦長で、やはりいつものまま鋭い三白眼をギラつかせている。
「航海長。戦団に再び打電。調査要請を掛けろ」
「アイアイ。相手は誰ですか」

 艦長は迷いなくその名を告げた。

「戦士・千歳と根来だ」



 
 影は一歩進んだ。街頭を頂点とする円錐の輝き、そこへ向かって。やがて影が明度的事由により漆黒のベールを脱ぎ捨
てたとき、金髪ピアスは瞠目しつつ思った。

 でけぇ。

 いま背後の壁のてっぺんでケタケタ笑っているディプレスを2mとすればそれより10cmほどは高い。がっしりとした体格
だが逆三角形ではなく筒型で、巨漢ながらも野卑な印象はまったくない。
 しかも着衣ときたらうらぶれた路地裏にまったく不釣り合いで、貴族服だった。上着は青と銀を基調にしたジャケットで、下
は純白のズボン。一目で高級品と分かる生地は内包する筋骨隆々にほとほと辟易しているようで、”今にもはち切れるよ”、
男が動くたび泣いていた。
 顔は衣服に負けないほど気品がある。どちらかといえば短い髪にウェーブを掛けているところは先ほど遭遇したリバース
──青っち──と似ていなくもない。違いを上げるとすれば右側頭部から伸びる髪で、それはいかにも気ざったらしく長く長
くぐにゃぐにゃと伸びている。髪が途絶える辺りのちょうど反対側──つまり左の首筋──には黒いドクロのタトゥーがある
が不思議と全体の気品を損なっていない。
 ただ気品高ずるあまりいかにも貴公子という顔つきなのが逆に欠点ともいえた。庶民は結局相手の高尚さにひれ伏した
りはしない。とっかかりや取っつきやすさといった「自分がどこか優位を覚えられる要素」……欠点や欠如にこそ心惹かれる
ものなのだ。そこから選出された被害者候補は嫌悪を覚えながらもぞっとしていた。男の顔はどこまでも端正で気品に溢れ
ている。だからこそ氷のような冷たさばかり感じられる。冷淡、冷酷。今度はどんな酷い仕打ちをされるのか。不安と恐怖
しか覚えられない顔つきだった。

 その顔が、金髪ピアスをついに見た。そして……喋った。

「大丈夫だったであるか!!」
「…………はい?」
 底抜けに明るい声に瞳をぱちくりとする。視界の中では巨大な体がどたどたと走ってくる。殺到、というよりは飼い主を
見つけた大型犬だ。無邪気な調子ではふはふ言いながら突進してくる。ひたすら嬉しさの赴くまま向かってくるのだ。一言
でいえば……アホ。どこか足りない男のようだった。
「おっと服に泥が……。お取りになってあげよう。紳士たるものやはり身だしなみはしっかりすべきである。すれ違う人々に
不快な思いをさせぬよう頑張ろうという思い。それこそが敬意! もちろんそれ自体はちっぽけなものよ!!」
「ぐぇ!!」
 一歩踏み出した巨人の足元で何かうめき声が聞こえた。金髪ピアスの記憶が正しければ先ほどその辺りに黒ブチ眼鏡の
アラサーがすっ転がっていた筈だ。移動した気配はないのでたぶんそういうコトなのだろう。リヴォルハインと呼ばれた男は
そこで立ち止まり熱弁を振るい始めた。大きな声だった。足元から巻き起こる悲痛な移動要請がかき消されるほど大きな
声だった。
「しかし世界のありようとは結局小さなものが積み重なって積み重なって積み重なって、ななななんだ、うん!! なんかいっ
ぱいのアレコレ!! アレコレが組み合わさったりしたりで決まるのではないか!? ……真偽はともかく及公(だいこう)、
表敬は常にすべきだと思っている!!」
 まくしたてつつ金髪ピアスの着衣を払うと彼は手にした何かを突き始めた。まるで子供だ。或いは明文化さえ危ぶま
れる酷い表現さえ浮かんだ。。踏みにじられるアラサーの声はいよいよなりふり構わなくなっている。「痛い痛い」「重いん
ですってばあ! どいてくださいよぉ」「う゛にゃああああああああああ」。
 助けを求めるように足をつかんだ細い手を無言で振りほどき思いきり蹴り飛ばすと、金髪ピアスは嘆息交じりに問いかけた。
「及公(だいこう)ってなんだよ?」
「”余”みたいな一人称だwwwwwwwww 偉い奴が自分をwwwwwww 呼ぶときのwwwwwwwwwww」
 あーそう。背後で笑うハシビロコウに軽く手を上げると、今度は足元から声がかかった。
「クライマックス先生のはちみつ授業〜〜〜」
 どうやらやっと足をどけて貰ったらしい。元声優の元教師は地べたに伏せたまま青白い顔だけぬっと持ち上げている。
「なんだお前まだいたの? 早く死ねばいいのに」

 
「この上なくヒドい文言!? うぅ。私これでも一生懸命生きてるんですよぉ。10代のころ私なんかどうせオシャレしたって無
駄だって女磨くの放棄したばかりにいまだに恋人できませんし20代は灰色でしたけどぉ、ひょっとしたらこの先ステキな出
会いがあって救われるかも知れないって。だから退屈な毎日を何とか生きているんですよー」
「生々しい。コメントし辛い」
「過去が消えていくなら私はせめて明日が欲しい! のです、この上なく」
「アニメか特撮かしらねーけどそういうセリフへの拘泥をまず捨てろ。そしてちゃんと現実を見ろ! 救われたいなら尚更!」
「ちちち。甘いですよ! 救われないから拘泥するんですよ!! いろいろ忘れさせてくれますからねこの上なく!!」
 これ以上問答を続けても埒があかない。そう判断した金髪ピアスは本題に入るよう促した。

「『及』は『だい』とも読みます」

「ちょっと特殊な読みですけど! 『きゅうだいてん』の『だい』と覚えればこの上なく簡単です!」

「あー。なるほ……」
 納得しかけた金髪ピアスはふと眉を顰めた。
「……『きゅうだいてん』の『だい』は『第』じゃなかったか? 字ぃ、『及第点』だよな?」
「うぇ?」
 分厚いレンズの向こうで大きな瞳が瞬いた。よく見ると左右で大きさの違う瞳孔が驚愕に絞られるまでさほどの時間を
要さなかった。髪が一房、ぱらりと落ちた。
「ぬ、ぬぇぬぇぬぇ。そそそそーですよォ〜〜〜〜!! そこに気付いて貰えるかというのを先生この上なく試したのです」
(素で間違えてたなコイツ。大丈夫なのか元教師)
 気配を察したのだろう。クライマックスは慌てて立ち上がり金髪を揺すり始めた。すごい涙目だった。必死だった。
「間違えていませんよぉ!! うぅ!! 学習の要諦というのは取っつきやすさな訳でして! あの! あのですねあの
ですね! イキナリ『及』は『だい』と読みますなんて言ったって誰も覚えてくれないじゃないですかこの上なく!! だいた
い生徒さんなんてのはこっちが一生懸命授業してるのに英語の辞書を1枚破りマジックでなんチャラかんチャラ描いて紙
飛行機にして先生に命中させるんです」
「……やっぱお前のセンス古いわ」
「だからこその取っつきやすさです。生徒さんが興味を持つようなアプローチ、記憶に残りやすい授業! それが私の
この上ないモットーです。ああ、あのとき先生が及第点うんぬんミスってたなあという生暖かい記憶があれば及公が
どう読むか覚えられる筈ですこの上なく」
「結局認めるのかよ!! ミスったって!!」
「ミミミミスじゃありません! たとえばの話です!」
 いいかげん認めろよ。呆れる金髪の視線の先で、クライマックスの袖がくいくい引かれた。
「先生!! 先生!! お話は終わりましたであるか!」
 ブラウンの髪を持つ巨大な青年が輝くような笑みを浮かべていた。人差し指を物欲しそうに咥えているのはまったく
大きな子供という感じだ。
「そーいえばお前になんかブツけたのコイツだよな? なんでだ?」
「なんでも何も。リヴォルハインさん、人が襲われていると助けに行くタイプなんですこの上なく」
「えーと。お前の仲間ってコトはコイツも」
「ええ。悪の幹部ですよぉ。でも人助けがこの上なく好きで……だからいつも困るというかぁ……」
 やや歯切れの悪い元声優は肩を落とした。その後頭部をリヴォルハインが「あたまー。あったまー」と歌いながら撫でている。
「先生、つーのは?」
「私がまだ小学校で教師やってたころ、生徒のフリして学校に潜んでたんですよぉ。で、手引きしちゃってくれたもんですから
私以外の先生や生徒さんたち全滅……。その時私をマレフィックに誘ったのがリヴォルハインさんという訳です」
 いやいや。と金髪ピアスはクライマックスの元生徒を見た。身長は2mを超えている。
「なにまさかコイツこんなデカいのに小学生ぶれると思ってたワケ!? ムリだろ! 頭おかしくね? 頭おかしくね?」



「くしゅん」

 


「……風邪か?」
「いえ。ただのくしゃみよ」
 万病の元だな。言葉短かにその男は金の刃を跳ね上げた。ブタの顔を持つ亜人が血煙を上げどうと倒れ伏した。
 男を取り巻いていた群衆からどよめきが上がった。円環が一団と後ずさり粗笨(そほん)さを増した。最外周から人影
が1つまた1つと零れ出した。リーダー格だろうか。プテラノドン型が声を張り上げ制止する。隣のサル型の顔面を
衝撃が貫いたのはその時だ。爆ぜるような音に慌ててそちらを見た彼は相棒の目玉が短刀に高速輸送されているのを見
た。刀はそのまま壁──廃工場の──に当たり……突き刺さるコトなく『埋没した』。

 刀は、忍者刀だった。

「シークレットトレイル必勝の型」

「真・鶉隠れ」

 後はもう終わるだけだった。剣の風と刃の嵐が無数のホムンクルスを薙ぎ払い、薙ぎ払い、薙ぎ払い──…

 壁の下でサルの目玉が塵と化すころ彼の領袖以下総ての集団がこの世から消えた。



 クライマックスは腰に手を当てえっへんと胸を逸らした。
「リヴォルハインさんですね。私と出逢ったときはどういう訳かイソゴさん……あ、イソゴさんっていうのは小さな女の子なん
ですけど、その人の姿になってたんです。だから小学生として潜入できてたわけです」
「はぁ」
 気のない返事を漏らすと超ロングヘアーはなぜか急に眼を剥いた。
「え? リ、リヴォルハインさん? いま私の後ろに居るのってリヴォルハインさんなんですかこの上なく?」
「なに急に驚いているんだ? さっきまでフツーに語ってたんじゃ──…」
「ぎみゃあああ! ヤバイですヤバイ!! 感染カンセンKANSEEEN!! 入れてくださいディプレスさんーー!」
 感嘆すべき逃げっぷりだった。黒光りする害虫のように地面を疾駆したかと思うと、ディプレスのいる高い塀を超高速の
ロッククライミングで登りつめた。
 驚いたのは金髪ピアスである。彼女の叫びは聞き捨てならない代物が過ぎた。真偽のほどを確かめるべく慌てて後を追う。
もっとも、高い壁は登れず、はるか下で見上げるばかりだったが。
 話しかけようとしたとき、ヒソヒソとした会話が聞こえてきた。頭上のクライマックスを見る。とても青ざめていた。
(ちょちょちょちょ、ディプレスさん!? この上なく聞いてませんよリヴォルハインさんが来るなんて!!!)
(オイラも聞いてねーけど?wwww まぁ盟主様のいつもの気まぐれだろ気にすんなwwwwww)
(お!! 落ち付いている場合ですかあこの上なく!! リヴォルハインさんはああ見えて『病気』なんですよ!!)
(確かに病気だけどいいんじゃねwww オイラたちの下準備手伝ってくれそうだし)
(いやいやいやいや!!! そんなのこの上なく吹っ飛ばされますよぉ!! だって!! だって!!)

 一拍置いてクライマックス、身震いしながらこう告げた。

(その気になれば1時間で銀成市民全員殺せますよ!? リヴォルハインさん!!)

 元声優だけありよく通る声だ。小声でもなお聞こえるほど。金髪ピアスは「え?」と息を呑んだ。

(まーwwww 鐶作ったリバースの最新作だしwwww もともとの設計思想は広域殲滅だからなあwwww)
(そうですよ!! マレフィックにはこの上なくいろいろな能力の人がいますけど広域殲滅に限っていうなら最強なのはリヴォ
ルハインさん! この上なく理論的最強で実際やったコトはありませんけど!!)
(やろうと思えばやれるわなwwwwwwwwwwww リルカズフューネラルの特性ならwwwww)
 リルカズ? 耳慣れない名前に首を傾げる金髪ピアス。気配を察したのかいったん彼を見たクライマックスは一層声をひ
そめた。それでも聞こえてくるのは「バンデミック」「致死率100%」「対処不能」といった物騒な言葉ばかり。

(まあよっぽどのコトがない限り皆殺しはしないだろwwww まずはちょっと探りを入れようぜwwwwwwww)
(は、はい。目的によってはこの上なく手綱を握れるかも知れません。

 影が2つ、地上に降りた。彼らは貴族服の青年に向きなおり、質問を始めた。

 


「おつかれさま」
 事務的と形容する他ない女性だった。冷たく輝く美貌には一切の表情が見えない。生来ない、というより意志の力と修
練とで脳髄の奥底にしまっているのが見てとれた。
 工場からやや離れた場所にあるその公園は夜半というコトもあり人影はまったくない。
 ところどころに塗装の禿げや錆の目立つ遊具の中に申し訳程度におかれたベンチ。
 その上に行儀よく腰かけた彼女は日本茶を注いでいた。たおやかな手つきだ。魔法瓶は付属の蓋めがけ緑黄色の滝を
作っている。そこから立ち上る湯気だけが初秋の夜を温(ぬく)めていた。
 やがて短い返事が静寂を破り、ほどよく満たされた杯(はい)が持ち上げられた。まろやかな匂いを立てる湖面に影が落
ちた。白皙の青年だ。顔は細い。目つきの鋭さときたら猛禽類を思わせるほどでまったく剣呑。事務的という括りだけでいえ
ば隣の女性と同じだが、実はまったく真逆らしい。事務的合理的で行く。そんな感情を徹頭徹尾前面に押し出している、と
書けばやや矛盾の気配があるがそうではない。最初に縋ったのが何かを考えれば両者の違いは明確だ。

 前者はまず無邪気な使命感に縋った。だがそのために巨大な罪と癒えぬ傷を追った。
 そして無邪気を捨て、冷徹なる遂行機械たるべく自らを戒めるようになった。

 後者は最初から前者の理想像にたどり着いた。であるがためしくじりは殆どない。

 突き詰めれば彼らの表情を作っているのは自負なのだ。生の自分がどれほどのものか。評価が高ければ掲げるし低け
れば隠匿する。矛盾はない。

 前者は楯山千歳という妙齢の女性だった。後者は根来忍という青年だった。

 やがて根来は茶を飲み干した。まるで毒物とみなしているかの如くむっつりとした顔つきで杯を置いた。
「もう1杯飲む?」
「足りている」
「そう」」
 この合理主義者に云わせれば過度の水分は毒らしい。千歳は一瞬かれが水中毒でも危うんでいるのかと思ったが
話を──とても短い言葉だったが──聞くうち違うと知った。呑み過ぎればたかが膀胱の水分貯蔵量に振り回され
るようになる。精神の箍(タガ)は得てして些細な問題を些細と侮るところから緩み始める。そういう、精神的な意味合い
において過度の水分は毒だという。
「夜も深い。後は適宜貴殿が処理しろ」
「お言葉に甘えるわ」
 千歳の表情がわずかだが綻んだ。根来が何かを気にかけてくれるようで嬉しかった。防人や火渡、照星といった旧知の
人物たちと居るような気分だった。ゆっくりと飲む緑茶は肌寒い夜の中で確実に体を温めてくれた。
「いまの任務の進捗率に関わらず3日後の救出作戦には必ず参加」
「それまでに片付けたいものだ」
 雑談にもなってない言葉の切れ端の見せ合いが終わったのを合図に2人の携帯が同時に震えた。



【同時刻。寄宿舎管理人室にて】

「では戦士・千歳はいま根来と居るんですか?」
「ああ。そうだな。最初は別々の任務に当たっていたが調べていくうち鉢合わせたらしい」
 今は合同で捜査している。防人の言葉に斗貴子は少し目を丸くした。
「合同で? いったいどんな任務だったんですか?」
「そのだな。少しばかり事情が混み合っているんだが……平たくいえば根来は密売人の追跡、千歳は殺人事件の調査だ」
 防人の説明によれば、音楽隊との戦いが勃発する少し前から各地の共同体に奇妙な売り込みがあったという。
「密売人は人身売買を生業にしているようなんだが……少々毛色が違う」
「と、言いますと?」
「食用じゃない。軍用目的だ」
 斗貴子は難しい顔をした。軍用? 人間の戦闘力などたかが知れている。売るならば普通、ホムンクルスではないのか?
「それがだな。どう作ったのかホムンクルス並の力を持つ人間をあちこちに売りさばいているらしい」
「人間なのに、ですか?」
「ああ。調べによれば幼体を投与された気配はない。戦っている時こそホムンクルスのような姿をしているが、1度倒せばすぐ
元通りになる」
「……もしかすると、それは」
「ああ。武装錬金の特性だろうな。何かまでは分からないが……」
 防人は着座すると熱い緑茶を一気に飲み干した。ずずーという音が何ともいえない余韻を生んだ。斗貴子も追随する形で
ゆるりと湯呑みを空にした。
「他にもだ。その密売人はホムンクルスの製法や核鉄も売り捌いているようだ。ホムンクルスに訓練を施すコトもあれば自ら
共同体の警備を引き受けるコトもある。その手際が実に見事でな。討伐に向かった戦士たちは必ず道中不意打ちを受け
気絶する。気がつけば共同体はどこかに消え、核鉄だけが奪われているという寸法だ」
 とにかく神出鬼没。名前はおろか素顔さえ誰にも見せていないらしい。
「確かなのは赤い甲冑と赤い鉄兜を身に付けているというコトだけだ。」
「成程。そんな相手だから根来ですね。戦士・千歳が追っていた事件の方は?」
「被害者は戦士・鉤爪。お前もお世話になった人だ」
「ええ。新人の頃、何度も。確か純粋な戦闘力だけなら戦士長クラスだった筈ですが」
「殺された。死体は見つかっていないが状況から見て間違いない。そして──…」
 密売。戦士殺害。場所も性質もまったく違う2つの事件。
「繋がっていたんですか? それが」
「ああ。もともと戦士・鉤爪はとある学校の襲撃事件について調べていた」
 防人の云うところによれば犯人だけでなく被害者……行方不明者の捜索にも当たっていたという。
「その彼らを見つけたのが、根来だ」
「密売されていたという訳ですね。軍用で、共同体に」
 ようやく斗貴子は納得した。
 密売人の手がかりを求める以上、根来は「商品」たちの出自を調べるだろう。
 千歳は千歳で彼らが行方不明になった襲撃事件を調べざるを得ない。
 彼らが遭遇したのは必然といえる。
「奇縁といえば奇縁だが、まあ何だかんだでいいコンビだしなんとかなるだろう」
 そういって防人はまた茶を啜った。
 とても呑気な調子だ。斗貴子は一瞬とてつもない呆れを浮かべてから努めて静かに呼びかけた。
「いや、心配じゃないんですか?」
「? 何がだ?」
 だから、と斗貴子は柄にもなく世話を焼きたくなった。千歳と防人がどういう関係かぐらい薄々分かる。(ただし後輩が自分
に向ける熱い視線にはまったく気づいていないが)。しかし防人は一応上司でもあるし一個人としても並々ならぬ恩がある。
 露骨な物言いは流石に憚られたので、斗貴子は遠まわしに嗜めるコトにした。
「最近何かと組むようになった相手はよりにもよって”あの”根来。もう少し心配して下さい」
「そうか? 大戦士長の話だとそれなりにうまくやっているらしいが」
 ああこの人は底抜けにお人好しなんだ。斗貴子の全身に怒りとも呆れともつかぬ感情が広がった。折角の心配を違う方に
解釈している。根来は冷徹な奇兵だから殺されないよう気を付けろ、その程度にしか受け取っていない。
(違う!! そうじゃなくて、もっとこう他の……ああもう何で私がヤキモキしなくちゃいけないんだ!!)
「根来は根来で戦友の1人ぐらい作るべきだ。まだ若いんだ。トモダチがいないのは寂しいぞ」
 目を線にする防人は先輩として心から根来を慮っているようだ。それはそれで好ましいのだが、果てしない無防備さに腹が
立つやら情けないやらの斗貴子だ。戦士ではなく女性として思う。いいのかと。千歳だって女性なのだ。付き合いが長いだけ
の最近まるでアプローチなしの男性を捨てるコトもままある。最近仕事上何かと縁のある身近な男性へ走るコトもままある。
「とりあえず戦士・千歳に電話してみたらどうです」
「なんだ突然ヤブカラボウに? 向こうの状況はだいたい分かっている。忙しいだろうし落ちついてからの方が」
「いいから!! して下さい!!!」
 斗貴子の絶叫にやや気押されたのか。よく分かっていないと様子で防人が携帯電話を取り出した。
「ああ、千歳か」。後に続く会話はまったくぎこちないし要領を得ない。一口でいえば面白味のない電話だった。
 スピーカー越しに聞こえてくる千歳の声がやや戸惑いながらも嬉しそうなのが唯一の救いといえば救いだったが。

「ったく。桜花たちが音楽隊の話を聞いている間に打ち合わせしようと思っただけなのに、どうしてこうなる」

 顔にぺたりと掌を貼り付けぐぅと呻く。手のかかる上司にはまったく辟易だった。

 
「ごめんなさい。防人君から用事で」
「そうか」
 根来はわずかだが微笑した。その反応に千歳は微かな違和感を覚えたが、時々つかみ難いのが根来でもある。
 深くは追求せず、いつものごとく淡々と問いかけた。
「あなたの方は?」
「戦団からの連絡だ。密売と思しき事件がまた発生。余力あらば艦長たちと合流。調べろというコトだ」
 千歳は無言でヘルメスドライブを発動した。根来が頷き終わる頃、彼らの影は光となり彼方へと跳躍した。


「で、何しに来たんですかこの上なく」
 ため息交じりにクライマックスは問いかけた。
 すると。
 よくぞ聞いてくれた!! リヴォルハインは歓喜の表情で右手の何かをダムダムとついた。激しく。早く。
「残暑!! 探し物はまだ見つからないけどのんびりのんびり行かれよう。ああしかし月日とはなんと残酷なものか!! 
散らばるセミ!! 死骸!! 奴らの命ときたらまったく奇抜な味したポテトチップスより期間限定である! やるせない!! 
まったく秋口だからと示し合わせたように続々くたばるアホ命!! たまには摂理に逆うべきである! ! 中にはジジとか
鳴きもうすぐ死にますアピールしてるブラゼがいるから及公の心、散々とかき回されるそれはすなわちズバリ悲しい! 
……ブラゼ? アから始まるくそメジャーなセミの略ですわ。そ! そうそう。カナカナゼミ、カナカナゼミ!」
 何が何やらである。呻き交じりにクライマックスを見ると泣きそうな顔が振り返った。「この上なく絡み辛い人なんですよ」。
ぺそぺそと泣きながらなお彼女はリヴォルハインに向きなおった。問題児に向きなおる教師の魂がそこにあった。
「で、何をしに──…」
「とにかくとにかくジジとか鳴いとる場合じゃないのです!!!! いかにも看取ってくれてありがとうみたいな声出してくた
ばんじゃねえよ!! 悲しいんだよ!!! 及公が!! 命消える瞬間とかおま、滅茶苦茶せつなくて悲しいではないか!!
また救えなかったのかと及公はお泣きになった! 動物の、病院で!!」
「セミを獣医に見せんなwwwwどう考えても無理だろうがwwwwww」
「仕方ないので及公、診察料58万お払いになって病院を出られた!!」 
「またボッタくられてる!?」
「またって何だよまたって!
 絹を裂くような悲鳴に金髪ピアスは軽い頭痛を覚えた。鎮痛すべく額を抑える。また碌でもない奴が……そんな予感ばか
り巻き起こる。その原因はまったく無自覚らしくただただ不思議そうだ。
「ふむ。確かに及公ペット保険に入られている。交渉すれば2割ぐらいにはなったか……。でもいいのだ58万円!!!!
セミを診るなどという荒唐無稽かつ高度な治療を施してくれて獣医さんへの敬意である!! あーーーりがとぉーーーー!
素敵な獣医さあーーーーん!!
 そして彼は感謝のネコ! にゃー!! などという訳の分からぬセリフをほざきながらバンザイした。指は丸まりネコの
手だった。
「で、いったい何しにきたんですか」
 クライマックスはもうだいぶ疲れているようだった。頬がこけ、目の下にはドス黒いクマが生まれていた。
 巨大な体がメトロノームよろしく左右に揺れ始めた。リヴォルハインは楽しそうだった。

「例の『もう1つの調整体』をパピヨンから奪う! 盟主さまから仰せつかった命はそれである!!」

 
【翌日。銀成学園地上1F。廊下】

「感謝する」
「何がよ?」
 ヴィクトリアは怪訝な顔をした。目の前には秋水がいて深々と頭を下げている。地上に戻るなりそれだ。まったく訳がわか
らない、愛らしい顔つきを不快に歪め詰問する。
「相談に乗ってくれたのだろう。ありがとう」
「確かにそうだけど、なんでアナタが礼をいうの?」
 武藤姓でもないクセに。からかうように笑うと瞳の光が揺らめいた。
 辺りには人気がない。いくつかある校舎のうち一番南側の更に隅っこというところだ。敷地的にも辺境らしく窓の外には
フェンスがある。錆やほつれの編み目を縫うように広がる裏道を一台、豆腐販売の車が通った。うら寂しい笛の音は訳も
なくヴィクトリアの感傷を誘った。フェンスから校舎までは3mほどあり、薄い黄土色の校庭にはコーンやバレーボールが無
造作に転がっている。いずれも乾いた泥や埃の洗礼をたっぷり受けており新品とは言い難い。ゴミ置場かも知れない。
 内外ともよほど人が近づかない場所なのは確かだった。
 廊下の行きどまりにあるのは第三視聴覚室。それを背に見る教室の群れと来たらパっとしないものばかりだ。プレートを
見るだにゲンナリする。美術準備室、多目的教室A、同B……少子化で不要になった教室どもの墓場だった。
(こんなにあるなら部室ぐらいくれてもいいでしょ)
 なぜか練習場所の定まらぬ演劇部だ。いまは専らまひろたちのクラス(1−A)を拠点に活動中。なのにどうして……学校
生活につきまといがちな不合理に軽く瞳を尖らせていると背後から黒い声が掛った。
「確かに遊ばせておくのは惜しいな。理事長とやらに掛け合ってみるか」
「だ、だよね〜! 部室ある方がみんなヨロコブだろうし!」
 どこかわざとらしい声はまひろのものだ。秋水と並び立ちながらも露骨に横を向いている。そして真赤な顔に引き攣った
笑みを浮かべている。ボリュームだけはでかい上ずった声で話しかけているのは美術準備室に取り残された作りかけの顔
面石膏像だった。
 尋常ならざる様子だ。秋水が心配そうに話しかけた。すると赤道直下のまひろフェイスに熱帯低気圧顔負けの渦が生ま
れた。澄みわたる瞳の黒が線となりぐるぐるぐるぐる廻り始めた。それが最高速に達するまでに乱れ放たれた言葉は少な
くても英語圏で生まれ育ち日本語圏で長く過ごしたヴィクトリアにはまったく翻訳不可能なもの言語だった。もはや少女特
有の柔らかさと甘ったるさとまっすぐな明るさだけが取り柄のオノマトペだった。頭から星型した色とりどりのガラクタをばら
撒きながらとにかくまひろは言葉を放ち、放ち──…まったく要領を得ない。
(そんなに恥ずかしいなら離れればいいのに)
 やれやれね。笑いを一齣(ひとくさり)かみ殺し助け船を──好意を示すというより自らの優位性を保つため──出す。
「私の後ろにでも立つ? そこじゃいろいろやり辛いでしょ?」
「……いいよ。ココで」
 柄にもなく静かな声だ。ココとはつまり相変わらずの秋水の横。俯き加減で瞳を熱く潤ませている。
「そう。で、ソコで満足してるのはどうして? 早坂秋水のコトが好きだから?」
 返事は来なかった。代わりにぼっという音がまひろの顔から弾けとび炬燵よりも赤熱した。同時に狭い肩が窄まりか細い
首が埋没した。蒸着した前髪が双眸を覆い隠したせいで表情は見えない。唯一見える桜色の唇が切なげに開きわなないた。
「──」「──」「──」。声というより甘い吐息だった。耳を欹(そばだ)て聴覚経由で言語化したヴィクトリアは色素の薄い唇
を一瞬開けかけ……そして閉じた。代わりにエメラルドのようだと友人一同から大好評の瞳を悪戯っぽく左に振るとすぐさま
ある人物へ視線を移した。
「なんていったのそのコ?」
 驚いたのは秋水である。この欧州少女の声は時おり外耳道や鼓膜にねっとりこびりつく蜂蜜のような魔性を見せるが彼は
一切の悩乱を見せなかった。代わりに息を呑み瞳孔を収縮させゆっくりと「キミ(ホムンクルス)なら聞こえたはずだろう」とだけ
呟いた。
「どうかしらね。ホムンクルスだからって感覚まで強化されるとは限らない。……で、そのコは何て?」
 小悪魔のような冷たい微笑を浴びせかけると秋水は観念した。うっすらと汗ばみながらゆっくりと、文節を区切りながら、
代弁した。
「俺の事については好きかも知れないというだけで確定はしていない。そう言ったのだが」
「ででででも私なんかのために何も考えず地下に飛び込んでくれたのは嬉しいよ。その、ね。……ありがとう」
 うっすら頬を染めて上目遣いを送るまひろを秋水は困ったように眺めた。
「へえ。良かったじゃない」
「…………」
 秋水はやや恨めし気にヴィクトリアを見た。パピヨンは、不思議そうに呟いた。
「なんだ。貴様ひょっとして女運がないのか。哀れだな」
「本当ね。でもアナタに言われたくないわよ。むかし財産目当ての家庭教師に誑かされた癖に」
「!!?」
 なぜ知っている。珍しく驚愕を浮かべるパピヨンをよそにヴィクトリアは薄ら笑いを浮かべた。
「ところでアナタ、戦士たちに合流しなくていいの? ガスマスクの戦士がしきりに気にしてたようだけど」
 端正な顔がにわかに引き締まった。そんな秋水にまひろは向きなおった。向きなおったといっても俯きがちなのはそのま
まで、かろうじて正中線をさらけ出したという感じだ。
「ゴメン秋水先輩。忙しいのに邪魔しちゃって……」
「大丈夫だ。戦士長からは不参加でもいいと言われている。それに──…」
 大きな手が肩に乗った瞬間、まひろは小さな肢体をぴくりと震わせた。そうして恐る恐る息を吐きながら顔を上げた。
「俺自身、必要だと思ったから優先した。それだけだ。君が気に病む事はない」
 蒼い光の宿る切れ長の瞳に射すくめられたように少女の時が一瞬止まった。彼女はその容貌からあらゆる強張りを
解き放ちただただ無防備にあどけなく秋水を見た。やがて大きな瞳を少し嬉しげに蕩かせるとそれを細め、射線を外した。
「ありがとう」。切なげな小声を聞きながらヴィクトリアは腰に手を当てた。なだらかな鼻梁を通り抜けた吐息は呆れと安堵
が半々だった。そっと手を離した秋水はその挙動が良かったものかやや逡巡しているようだった。そんな2人はまるで遠い
昔たしかに自宅に居た2つの大きな存在で、悲しみの向こうにある大切な懐かしさの具現だった。自分が何を目指し何を
大事にすべきか示してくれるのはこの無言の蚊帳の外だった。
 もっとも世界というのは常に誰かの心地よさを奪いにくるものらしい。
 美しくも毒を秘めた声が静寂を破いた。
「ところでそろそろ足元を気にしたらどうだ」
「何が言いたい?」
 鼻で余裕たっぷりに笑いながら蝶々覆面、一歩踏み出した。漆黒の棒の先で飾り布が翻る。紫の爪の照準が美剣士に合わ
さった。
「誤魔化すなよ。右足首を捻挫しているんだろ」
 急に話題が変わった。まひろは円らな瞳を白黒させた。
「え? なに? なに? どういうコトなのびっきー」
「あの時。アナタに会うため何も考えず地下へ飛び込んだのよ。人がせっかく作ってあげたハシゴも無視してね。穴は相当
深かった。ホムンクルスならいざ知らずただの人間が着地して無事でいられるかどうか」
 秋水の頬に汗が浮かんだ。その瞳は後悔をもたらす過去を眺めているようだった。
「大方、奴に仕出かした所業のせいでそいつに負い目を抱いているんだろうが生憎俺は貴様ほどお優しくないんでね。下ら
ん逃げを打った結果なにを招いてしまったか。ちゃあんと教えてやるのさ」
 秋水はまひろを見た。彼の映る瞳のガラスは申し訳なさという液体でぶわりと滲んでいた。
「……君は彼女をどうしたいんだ」
「さあね。というか貴様こそどうするつもりだ? 女を追い回した挙句ケガとはまあ随分情けない話じゃないか」
「集合場所はたぶん屋上ってところね。いけるかしら? 歩いて」
「屋上……!! いったいどれほどの苦難が秋水先輩を襲うの……!」
「拳固めてヘンな顔しないの。誰のせいだと思ってるの」
 それは私だよね。まひろはしゅんと頭を垂れた。歌舞伎役者も真っ青の勢いだった。栗色の髪がぶぅんと振り乱れかぐわ
しい匂いを振りまいた。
「重ねがさねゴメンね秋水先輩。私なんかのせいで足を……。劇の練習、斗貴子さんとあんなにすごいアクションしてたのに
…………きっといっぱいいっぱい練習したのに私のせいで……」
「その辺りに支障はない。それに何度もいうが俺が必要だと思ったから優先しただけで……」
(歩かなかったのはこういう気遣いをさせたくなかったからでしょうね)
 一緒にいるだけで顔面筋肉がみるみると解されていくようだ。秋水は、まひろと。平素は謹厳極まる表情の美丈夫が年
相応の揺らぎを大いに浮かべている。聞いたコトもないやや高の声さえ喉から漏らしている。
「本当アナタ必死ね。もう確定じゃないの? 早坂秋水への感情」
「ちちち違うよ! 秋水先輩が好きかも知れないからとかそーいうのじゃなくて!!」
 
 眉毛を額の肉ごと切なげに漏り上げながらまひろはぽつりと呟いた。

「私のせいで捻挫しちゃったんだよ。放ってなんかおけないよ……」

 彼女を除く全員がほぼ同時に息を呑んだ。秋水はやや感嘆したらしい。パピヨンは黒い笑みを大いに浮かべた。
(馬鹿ね。放っておく方がいい場合もあるのよ。今がそれ)
 なのに愚直にも助力を考えている。だがそのひた向きさはこの場の男どもの琴線に触れて仕方ないものらしい。
(……羨ましいわね)
 パピヨンが異性の挙動に心くすぐられ笑っている。でもそれを成したのは自分ではない。まひろを見る。いかにも困惑の
極みで自分は無力だという雰囲気にしょげかえっている。いまどれほどスゴいコトをしたかなどちっとも知らないのだろう。
それがやれないコトに無念を覚える者がすぐ傍に居るとは、知らないのだろう。
「…………」
 自らの周囲だけ暗くなっていく錯覚。それがヴィクトリアを襲った。過去何度か味わった苦さ、結局何をやっても報われない
のだという絶望的な感覚。やや形を変えたそれが肌を寒くしていく。
(いつまで経っても進歩がないわね私。本当、嫌になる)
 それを繰り返してもどうにもならない。俯きかけた首をしかし意志の力で立て直し、力強くまひろを見る。ポケットから「ある物」
を引き抜き披歴したのはつまり矜持だった。相談相手を全うする。そうするコトでしか心痛に耐えられそうになかった。
「大丈夫よ捻挫ぐらい。コレ当てておけば治るから」
 まひろの目が点になった。「何それ?」。視線が吸いついたのは六角形の金属片だった。
「核鉄。私の地下壕とか早坂秋水の日本刀とか」
「この俺、パピ・ヨン! のニアデスハピネス!」
「を発動する道具よ。これ当てておけば治癒力が高まるの。捻挫自体軽そうだし、何とかなるでしょうね」
 思わぬ助け船に秋水は「そうだ」と自分のものを取り出した。だから心配には及ばない。訥々とした説明に(よく分からな
いながらも)まひろは納得し語気をやや弱めた。
「そうだ。俺も核鉄を持っている。自分でどうにかできる。君が気に病む方が辛い。処置は俺に任せてくれ」
「そ、そういうコトなら」
 しぶしぶという調子だがまひろは自説を引っ込めるコトにしたようだ。
 総ては丸く収まる。ヴィクトリアが確信しかけた時、それは起こった。
「まあ核鉄の治癒力などという物は生命力を強制変換しているだけに過ぎんがな」
(ちょっと)
 小声で抗議するヴィクトリアもなんのその、パピヨンは実に楽しげにまひろを指差した。
「命を削って無理やり治しているだけだ。平たく言えばその男の寿命は縮む!」
 ええー!! びっくり仰天のまひろをよそに秋水は颯爽とパピヨンに駆け寄った。軽いとはいえ捻挫は捻挫らしく右足
を振り下ろすたび顔をゆがめるのが印象的だった。そして近づくやいなやぬっと顔を近づけ困惑しきりで詰問した。
「また君は。なぜそれを今言うんだ」
「人に命を削らせておきながら自分だけはぬくぬくと過ごす。そういう奴が俺は大嫌いでね」
「構わない。俺は納得しているんだ。なのにどうして……!」
「がなるなよ。ただでさえ短い寿命の浪費.を防いでやったんだ。感謝されこそすれ抗議される謂れはない」
「だが」。胸倉を掴まんばかりの勢いで距離を詰めた秋水だがこの口達者な享楽主義者には何を言っても無駄と気付いた
のだろう。頬を波打たせながら息を吐きこう述べた。
「ならば保健室で手当てを受ける」
「いい提案だけどきっとさっきのガス騒ぎで満員よ? 私なんか華道部で寝てたぐらいだし」
(毒島……!!)
 まひろがどういう申し出をするか気付いたのだろう。
 秋水はその美しさが台無しになるほど暗澹とした表情で俯いた。
 そしてその袖が引かれた。振り返ればまひろが居た。子犬のように瞳を濡れそぼらせ、とてもはにかんだ様子で、おずお
ずと呟いた。


「私なんかでよかったら……肩、貸すよ?」


「普通に歩いた方が早そうね」
 のろのろと角を曲って見えなくなった2人めがけ皮肉をこぼしながらヴィクトリアは嘆息した。
「で、貴様は何をしている?」
 携帯電話を忙しく叩くヴィクトリアを不思議そうにパピヨンは見た。
「メール。早坂桜花に事の顛末を教えてあげるのよ。だって面白くなりそうだし」
「貴様も物好きだな」
「アイツが悪いのよ。私はすっかり早坂桜花を忘れてたのに去り際」

(姉さんにだけは言わないでくれ)

「なんて小声で釘を刺すから。墓穴ね。アナタの言う通り女運がないみたい。……さて、送信しようかしら?」
 などと冷笑を浮かべつつも内心良心とやらが葛藤しているのにも気付いているヴィクトリアだ。
 客観的にいえば秋水には恩がある。戦士だが、人格そのものはさほど嫌いではない。
(やめてあげようかしら? そっちの方が恩を売れそうだし)
 黙っておくのが義理だろう。人として行くべき道だろう。
 なので。
「えい」
 ヴィクトリアは送信ボタンを押した。
(だって私ホムンクルスだし)
 桜花という悪魔がこの事実をどう悪用し秋水を困らせるか。
 想像したヴィクトリアはとてもとても晴れやかな笑顔を浮かべた。
「非道いコトを嬉々としてよくもまあ。もっともああいう奴らは不様にからかわれる方がお似合いだがな」
 瞳を濁らせ呵呵大笑のパピヨンはさしものヴィクトリアさえ軽く背筋に寒気を覚えるほど狂的だった。半ば呆れながらも笑
みを浮かべたのは彼が心から嬉しさや喜びを感じているのが分かったからだ。そんな顔を見るだけで微かな幸福感が
全身をよくしていくようだった。
「本当、珍しいわね。アナタが他人を気に掛けるなんて」
「気に掛けてなどいないさ。動ける癖に動こうともしない……そんな奴が俺は大嫌いでね。周りが必死に保護しているなら
尚更だ」
「要するに逃げているあのコが気にいらなかった訳ね」
「そ。奴ならば希望しか信じない。結局それを理解しているのはこの俺パピヨンだけという訳だ」
(奴? ……ああ、武藤カズキの。つまり妹なのに分かってないから)
 厳しく当たった。恩人の妹として礼を尽くし厚遇している秋水とはまったく正反対だ。
(でも根っこは同じ)
 まひろを正しい道にやろうとする作用がある。秋水の場合それはあくまで優しく卵でも扱うようにおっかなびっくりだが、
パピヨンはもうまったくの無遠慮。傷つけてでも首根っこを掴み向かうべきものに直面させようとする気迫がある。
 決して優しさだけではない。けれども抱いた敬意を何一つ妥協せず貫こうとする誇り高さがある。それは時に単なる優しさ
よりも励ましとなり人を立たせていくだろう。
(武藤カズキの妹だもの)
 多少の手心があるに違いない。そう思うとき桜色した薄い胸の奥がきりきりと痛んでしまう。払拭した筈のまひろへの劣等感が
違う形で全身に広がるのだ。自分がパピヨンに抱いている仄かな想いなど遥かに飛び越えた深い絆があるような気がした。
(私もあのコと同じなのに)
 軽く目を伏せる。
 大事な存在が月に居る、という点ではまひろと変わらぬヴィクトリアだ。
 なのに彼はまひろにだけ特等の対処をしているのだ。
(馬鹿ね。パパとアイツは喋ったコトさえあるかどうか分からないのに)
 月に大事な存在がいる。その程度の大雑把な共通項でパピヨンの歓心を求めている。そんな感傷など侮辱にしかならないのに。
自分の弱みがたまらなく嫌だった。
(…………)
 自分はしょせん最近出会っただけの存在で、母の研究成果がなければ共にいる価値さえないという自虐さえ湧いてくる。
長年暗いところにいた精神の悪い癖。分かりながらも落ち込んでいくコトを止められない。砂を噛むような無力感とはまた
別の、むしろそれを乗り越えたからこそ蘇った生々しい1世紀遅れの感傷が心を大きくいじめている。

──「あまり不安がっても仕方ないさ。悪い考えなんてのは願望に似ている。心配が見せるのは一番叶って欲しいコトの対極さ」

 声が蘇る。いつか聞いた総角の。頭では理解できている筈なのに、感情が納得を妨げる。

(どうして縋ろうとしてるのよ。大嫌いなホムンクルスの言葉なのよ。なのに……どうして)
「オイ」
 少女特有の世界が振動によって打ち砕かれた。まずヴィクトリアが知悉したのはむにゅりと歪む背中だった。訳も分からぬ
という顔で横目を這わす。窓ガラスがあった。土色した雑巾汚れがタイヤ痕のように乱舞する透明にヴィクトリアは自分が窓
際に追いやられたのだと気付いた。輪のついた細い両腕──輪はアクセサリーだった。自分でさえ時々つけているコトを忘れて
しまうそれが白いブラウスの半袖に2つして軽く潜り込んでいた──は艶やかな金髪よりはるか上に高々と掲げられていた。
 
目の前にはパピヨン。痩せながらも男性らしくコツコツとした大きな手がヴィクトリアの両手を軽くねじあげていた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
 翠色の双眸を大きく見開きながらヴィクトリアはパピヨンを見た。相変わらずの仏頂面で感情は読めない。少なくても怒って
いないコトは乱暴のなさから分かったが、それでも鼓動を早めざるを得ない姿勢だった。ひんやりした手は真白な手を造作
もなく拘禁している。辺りときたらまったく人気がない。惑乱に混沌とする脳髄を不安と期待が半々で走り抜けた。反射的に
白い大腿を擦り体を捩らせる。だが逃れられない。男性らしい逞しい力の前では無駄な話だった。もっと拒絶を爆発させれば
スカートから核鉄を引き抜くぐらいはできるだろう。さればすぐにでも地下壕を発現し逃げられるというのに、それをも忘れじ
つと赤い顔で見上げていた。
「な、なによ。いきなり暴力? 乱暴ね」
 かろうじて毒舌を飛ばしてみるがいまいち勢いがない。むしろ声の上ずりを感づかれたような気がした。慌てて口をつぐみ
視線を外す。その挙措がいささか艶めかしい気がしてますます気まずいヴィクトリアだ。視線は揺れ動きながら遂に左爪先の
大外へ落ちた。すると細長くまとめた金髪が2房、さらりと擦れ悲鳴を上げた。ヘアバンチの硬質な打ち合いはそれだけで
ドキリとする余韻だった。パピヨンは直立不動のままだった。遠くから聞こえてくる野球部やサッカー部の掛け声が時間の止
まった世界を唯一現実のものと見せていた。流れ込んでくる昼の青い光は場違いなほど爽やかだった。
(顔、顔……!)
 うひゃあと叫びたい気分──学校生活で猫を被っている時はよく上げるが流石にいまは憚られた──を必死に抑えながら
接近対象を横目で見た。パピヨンは上体を屈め毒々しい覆面ごとその眼差しを近づけてくる。距離が縮むたびもともと大きな
瞳がますます見開かれる一方だ。いよいよ鼓動は章印ごと胸部を張り裂きそうだった。口の細いボトルで注ぐほど大きく激し
かった。軽く後じさる頭。ひくつく口周りの筋肉。自分の白い頬はいま緊張性の汗をまぶしている。鼻先が髪にかかった。き
のう洗髪しておけば良かった。てんでバラバラの役にも立たない知覚をショートした思考回路にブチ込むうちとうとうヴィク
トリアは両目をぎゅうと閉じた。パピヨンの顔は本当にすぐ間近だった。
「こんな時期に戦士どもが打ち合わせをする以上、大戦士長とやらの救出作戦は近い」
「え?」
 覚悟を決めたように両目を見開くと、面白くもなさそうな顔が洞察結果を淡々と出力していた。
「? どうした? 何をそんなに落胆している?」
「べ、別に……。アナタがいう割にはつまらないコトだなって思って」
 少女らしい声に憮然と失望とちょっぴりの安心感をブレンドしながらヴィクトリアは反問した。
「分かってるわよアナタのいいたいコトぐらい。転入してきた音楽隊と特訓するんでしょうね。戦士は。でも津村斗貴子と早
坂秋水はアナタに演劇部を渡したくない。だから残留する。そうすると」
「戦士は連中ともども入部する。練習に託(かこつ)けて戦闘訓練をやるつもりだろう」
「で、私に何をやらせたいの?」
「フム。結論からいってやろう。演劇部のタガは貴様が締めろ」
 とここでようやくパピヨンはヴィクトリアの両腕を解放した。重心の崩れを幸いと身を泳がしさりげなく距離を取るヴィクトリア。
彼女に対し蝶人はとうとう理由を述べ始めた。歌劇でも送り出すような調子だった。
「新し物好きの部員どもだ。音楽隊連中の自己紹介やら自己主張が来れば雰囲気が緩む、劇までもう72時間もないのにな」
「それを引き締めればいいのね。いいわよ。やってあげる。でも顧問でもない新入部員の私がそんなコトしていいのかしら?」
「特別に委任状を認(したた)めてやる」
 そういうなりパピヨンは黒いスーツのとある一か所に手を突っ込んだ。
 腰のあたりだった。両足が骨盤によって合流するデルタ地帯だった。そこに手を突っ込み当たり前のようにガサゴソとまさ
ぐり始めた。「ちょ。何を」。1世紀以上生きているとはいえいまだ精神は乙女のヴィクトリアだ。思わず顔を赤らめるのと同時
にA4用紙がぬらりと現出した。どう入っていたのか考えたくもない。それをパシリと振って広げるとまたも手を突っ込み今度
はボールペンを取り出した。
 その先端を青紫の下でペロリと舐めたコトについてかなり様々な指摘をしたかったがどうせしても無駄だと諦め黙認する。
 やがて何事か書き終えたパピヨンは筒と丸めた委任状を投げてよこした。ヴィクトリアのその後続く遠大な人生にメガトン
級の後悔が発生したのは直後だった。思わず手を伸ばしキャッチしてしまった。えもいわれぬ生暖かさが紅葉のような白い
手を這い上がってきた瞬間彼女は自分がしてしまった大失策を怖気とともに痛感した。爬虫類のように酷薄な瞳をこのとき
ばかりは情けなく半円に貶め……力なくその場にくずおれた。
「取ってしまった。取ってしまった……」
 ドス黒い靄が全身から立ち上った。押しつけるように両手をつけ横ずわりするその顔は果てしなく地下を見ていた。
 一方パピヨンはといえばその背後で腰に手をあて高らかに佇んでいた。心なしか腰をくねらせデルタ地帯を押し付けてきて
いるような気がしてヴィクトリアは涙した。いかに好意があれど許容できない行為もあるのだ。
「感動のあまり涙さえ出ないようだな」
(泣いてるわよ。いますごく泣いてるわよ。私)
 後ろにいるせいで分からないらしい。気楽な調子でこう続けた。
「もしそれで効果がなければ人を使え」
 使う、といわれても総角とは違い組織を持っていないヴィクトリアだ。その辺りを問うとパピヨンは「居るじゃないか」とだけ
呟き笑みを浮かべた。
「オトモダチにでも頼め。武藤の妹がそうだろう」
「あのコはただの知り合いよ。トモダチなんかじゃないわ。下の名前なんか”素”で呼んだコトなんてないし」
 そこまで呟いてからヴィクトリアはふと考え込む仕草をした。はたして自分と彼女の間柄はなんなのだろう。
 好きかどうかと問われればむしろ千里の顔こそ浮かぶ。取っつきやすさでは(『本物』と出会って間はないが)沙織の方が
まだマシだ。むしろまひろに対しては苦手意識や鬱陶しさ、種々様々の劣等感さえ覚えている。
 にも関わらず関係性を壊そうと思ったコトは──秋水と2人しての説得を受けて以来──ない。ああいう人間だという割り
切りの下つかず離れずなのだ。
(……なのに何なのよこの不安感)
 近々彼女との関係が大きく変わっていきそうな予感があった。先ほどから身の中を通り過ぎる『変化の数々』。それがやが
て未知なる激しい感情へ帰結してしまいそうな。漠然とした胸騒ぎが起こり始めた。


 一度は1世紀近くいた地下を捨て寄宿舎という日常を選んだヴィクトリア。
 彼女がようやく手に入れた筈の幸福な日常と決別するのは──千里に自らの正体を曝け出し、秋水たちとの対立を選ぶ
のは──もう少し先の話である。


 パピヨンは、鼻を鳴らした。
「どうだろうと知ったコトじゃないね。文句があるなら自分にいえ。まったく貴様と武藤の妹の道楽に何分付き合わされたと
思っている? 時間切れだ。息抜きに振り分けるつもりだった時間はもうない。今から研究に戻らなくちゃいけない」
「……意外。時間配分とか気にするタイプだったのアナタ」
「? 何をそんな不思議そうにしているんだ? 遊びは遊び、仕事は仕事。ケジメをつける。至極当然のコトじゃないか」
 ヴィクトリアはぽかんと口を開けたままパピヨンを見た。
「大丈夫なの? 熱でもあるの? アナタがまともなコトをいうなんて」
「至って真剣! そもそも演劇など研究の間の息抜きにすぎん。白い核鉄の研究こそ本命!」
 そういいながら彼は窓をガラリと開け飛び立った。
「という訳だ。残りの雑事は貴様が片づけておけ!」
「ハイハイ」
 重力から解放され蒼穹へ向かうパピヨンに溜息をつきながら窓を閉める。
(やってあげるわよ)
 勝手な言い分に呆れながらも何故か頬は緩んでいる。雑事とはいえまひろにではなく自分に振ってくれるのは嬉しかった。
そこには”見切り”というものがないように思えた。少なくても『貴様には無理だろう』という判断はない。あればそもそもあの
頭だけはいい合理主義者は言い出すコトさえしない。

「さて。どう言い出すべきかしら。適当にネコ被って『なんでか押し付けられちゃった』ともいえばみんな納得するでしょうけど」

 一人ごちながら演劇部に向かいはじめた。

 脳裏に浮かぶのは千里だった。どこか母の面影のある少女だった。


(髪。また梳いて欲しいな)


 ヴィクトリアは歩いていく。待ち受ける運命を知らぬまま。

 
【時系列は巻き戻り、深夜。銀成市の路地裏にて】

「なるほど。『もう1つの調整体』を奪うよう盟主様から命じられたのはいいけれど」
「どこにあるか分からないから迷ってるwwwwwwwwwとwwwwwwwwwwwwwwww」
「そう!!!! パピヨンのアジトの所在、及公とんとご存じない!!!」

 声が、聞こえてくる。

「パピヨン自体の目撃証言は『社員たち』から数多く上がってきている。だが奴は常に突然姿を消す。歩いている
時は言わずもがな、飛んでいる時もスラーーーーーーーーーっと降下したかと思えばもういない……そんな報告ばかり
だ。一番近くにいる社員どもは常にそう報告する!! 事実及公ご自身『視点を切り替え』あちこちご覧になるがニンともカ
ンとも見つからぬ!!!」
「いやいやそんな不思議がるコトないじゃないですかこの上なく」

 上の方から。

「『ウィルさんの知る正史』じゃこの時期ヴィクトリアさんと協力しているんですから」
「地下壕の武装錬金使って出入り口を作っているwwwwwwwww アジトから離れた場所にwwwwwwwwwwwwwwww」

 彼らが何をいっているか分からない。

「及公、社員たちを地下にやるコトも考えたがアンダーグラウンドサーチライトは内装自在の武装錬金。尾行者などあっと
いう間に排斥されるに違いないであろう!」
「だいたいヘタに尾行なんかしてバレたらますますこの上なく難しくなっちゃいますよねー。『もう1つの調整体』奪うの」
「アジトさえ分かればwwwwwwwwww アイツのいない隙に奪えるのになwwwwwwwww」
「その考えはッ!! 違うだろディプちょんーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」

 叫び声が聞こえた。次にめきょめきょという分解音が響いた。

「ぎゃあああ!! 及公の腕!! 腕がチーズ状の虫食いだらけにして、ぷらんぷらんではないかー!!」
「あwwww 悪りwwwwwwwww 自動防御発動しちまったwwwwwwwwwwwww」
「うぅ。何やってるんですかぁリヴォルハインさん。スピリットレスはこの上なく攻守に優れた武装錬金。防御に回ればどんな
攻撃もオートで分解! そういったじゃないですかー!」
「く。い、いいのだ。いいのだ。仲間に突然殴りかかるなどという敬意なき行動の結果及公はかかる羽目に陥られておられ
るのだ。いわば自業自得!! どんな理由があるにせよ口頭で!! ちゃんと伝え相互の理解を図るべきだったのだ。
そうやって互いに互いを理解していく的なアレがだんだん相手への敬意になって絆が生まれる!! ああやはり敬意は
いい!! あと、腕がジンジンするので赤チン買って下さいクライマックス先生!!」
「赤チンはなんだか毒っぽいし今も製造してるか分かりませんしそもそもそれはこの上なく大けがなのでグレイズィングさん
に診て貰った方が……」
「やである!! 病院は怖い!! 医師グレイズィングめは何かと執拗に下腹部を触ってくるからきらい!!」
「……話ズレてませんか?」

「そうだった! もう1つの調整体!!」

「正々堂々戦って勝って!! 奪うべきなのだ!! どんな敵が相手であろうとひきょうな手段で陥れ勝ちをかっさらうよう
なマネなどしたくない!! 戦いにおいてもそれは同じでつまり及公真っ向からパピヨンと戦い『もう1つの調整体』を奪って
みたい!」
「おうおうおう随分熱吹いて下さるじゃねーかwwwwww でもよォー、奪うっつーのは果たして正々堂々って言えんのか? ア?」
「そこは知らん!!」
「知らんのかwwwwwww」
「だが及公、奪うという行為を正々堂々なさりたいとお思いだ!! ちゃんと所有者に挑み!! 戦い!! 誇り高い争い
の末!! この手に掴みたい!!」


「引き合っているのだ。及公が細胞の総てが!! 『もう1つの調整体』を掴めと!!」


 恐ろしく熱のある声だった。

 
 いや、熱に浮かされ叫んでいるような声だった。

 まるで、病気のような……。

「敬意敬意といってる割にずいぶん自分本位じゃねえかwwwwwwwwww」
「人は何かを欲するがため戦いを挑む!! 奪えるか奪えないか守れるか守れないか、趨勢を決するはとどのつまり精神
力!! 堂々たる戦いの場というのはつまり及公とパピヨンの矜持のどちらが勝るか洗い出すための装置!! 決闘!! 
そーいったチャンスを与えられながら守り切れない方が悪い!!! 敵を前に守り切れぬ、脆弱な精神力こそ悪い!!」

「ところでそこに転がってる人どうしましょう。この上なく……」

 気の抜けた声。視線がこちらに向く気配がした。

「どうしよう」

「どうするも何も……攻撃したの、リヴォルハインさんじゃないですかあ」

 彼らはいま、自分について語っているらしい。
 地面に突っ伏している惨めな自分について。

「ふぅむ。話のさなか突如として殴りかかってきたから思わず及公反撃されてしまった」
「でもなんで急にこの上なく怒ったんでしょうね?」
「!! そうか!! そういうコトだったのか!!!」
「何か分かったんですか!!」
「うむ。誰のせいであのセミが死んだかという割合!! 40:28:22!!! 
「まだ引きずってたんですかぁ!?」
「一番悪いのはコスパ的な問題どうこうで昆虫医療研究しなかった獣医師。次に樹液あげたりしなかった及公。で、地上に
出て1か月も持たんセミもまた悪い!! よし分析完了!!」
「ああそうですか」
「奴らめ!! 何世代何十世代という進化の機会を得ておきながらどうして、どーして!!! いまだ地上でサクリと死に
成虫状態で冬まで生きられんのか!!! 発展しようという意思はないのか!!! 親どもが必死こいて生き抜いた結果
生まれいでるコトができたんだろーがである!! あと生きるためにいろいろ喰っているしその喰ったいろいろにありつけ
んだばかりにくたばった他の命というものもあるのである! 犠牲を出し屍の上に立脚しておきながら旧態依然に甘んじる
敬意なき堕落に満ちた忌むべき種族的傾向こそあのセミの命を奪った一因なのである!!! だから及公悪くない。悪く
てもたぶん28%、ぐらい!! 頑張れよ!! もっと大胆に進化しろよセミども!!」
「なあ、残りの10はwwwwwwwwww」
「その他!! 環境等もろもろの雑駁要素を合算した数値!! 内訳を知りたいなららば披歴しよう!! ちなみに一番責
任の低いのはウラジオストックにある長靴の工場で過失割合は0.0000000000000000289%だ。24年前流出した
ジメチル酸フタレルが人々の愛憎の果て海を越え巡り巡ってあのセミにダメージを……」
「あ。もういいです。黙ってくださいリヴォルハインさん」

 そういって彼らは自分が激高した理由をしばらく言い合っていたが。やがて。

「原因、それじゃね?wwwwwwwwwww」

 ダム。何かが弾む音がした。

「これか

 ダム。ダム。ダムダムダム……。

 転がってくる。自分を怒らせた原因が。

「さっきから何をダムダム突いてんのかなーとこの上なく思ってましたけど」

 目の前に、来た。
 人の顔が。
 見覚えのある、顔が。

 
「まさか金髪ピアスさんのお母さんだったとは……」

 変わり果てた肉親の顔があった。
 生首、という生易しいものではなかった。
 むしろ生首”だけ”ならまだ良かった。
 そこにあったのは、全身だった。
 ボール大の肉塊に体の総てが圧縮されていた。
 ヨガで見た記憶。うつ伏せになったまま腰を上げ頭を両膝に間に入れる柔軟の、姿勢。
 それをもっと極端にしたやつだ。

「テラトマのフェルメネスくんもびっくりの変身だな!! うむ! さすが及公!!」

 抵抗の跡、だろうか。年甲斐もなく茶色く染められた髪はざんばりと乱れ根本のくすんだ白銀がいびつなまだらを作って
いる。それが臀部と癒着している。よほど強い力で圧着されたらしく着衣はびりびりに破れぶよぶよとした脂肪の皺やたわ
みの間から乱雑にはみ出ている。荒縄よろしく攀じあわされた両手と両足はバレーボールを思わせる巻き方で表面を覆っ
ていた。とはいえ大きさ自体はバスケットボールほどだ。もっとも人体の容量を踏まえた場合その程度の差異にいかほど
の意味があるというのか。贅肉の波打ち際から覗く顔ときたら歪み切っている。

「やっぱりリルカの葬列。『リルカズフューネラル』。この上なく、この上なく発動しちゃってます……」

 一度後頭部を轢かれた大型犬の死体を見たコトがあるがそれは今見ている光景を形容するため天が与えし配剤なので
はないかと思えるほど、そっくりだった。小学生のころ。確か水曜日だった。4限授業の帰り道、好奇心でひっくり返したセ
ントバーナードはあらゆるホラー映画のあらゆるメイクよりも見事だった。歪んで、崩れて。口や両目同士の中間点が正中
線を通っていない……ただそれだけで人間の視覚受容は吐き気を呼び膀胱の蛇口さえ全開させるのだと知った。半年は
夢に出た。泣かせた。そうやって飛び起きるたびどこからかやってきて、おおよそ世間一般が羨む母親像とはほど遠いガ
ラついた声で文句いいつつもなぐさめてくれた存在が惨たらしく転がっている。

 耐えがたい悲しみが襲ってきたのは歪んだ顔が息を吐き目を動かし、自分の名を呼んだ時だ。

 リヴォルハインと呼ばれた頭のおかしな……。
 病気、というべき美青年の掌の中で。
 歪んだ母親に呼ばれた時。
 ノータイムで感情が爆発し、突進し、衝撃が走り地面に突っ伏し……今ができた。

「ああ、憂鬱wwww ボール人間ここに誕生wwwwww 果たして元に戻れるっかなあwwwwwwwwwwww」
「あー。そういえば及公小腹がすいてたな」
「また何の話ですか……」
「うむ。及公お腹が空いたのでスーパーで買い物された。デッドがいうには賞味期限間近のやつが半額シール貼られる前
に買うのが敬意らしいのでそうされた。お買い上げになった商品は小型パックのマミーと筒入りのマーブルチョコ! あれ
はおいしい!! ホクホクする!!」
「小学生かwwwwwwwwwww」
「で、レジに並んだら前にいたこいつが」

 とボール状態の母親をリヴォルハインは指差したらしい。

「こいつがだな、自分のカゴに入っていた3本1パックの乳酸菌飲料を指指しそしてゴネた」
「はあ」
「売り場の表示価格と違う。向こうじゃ78円だったのにレジスタ通したら88円。10円高いと」
「…………」

 クライマックスという女が息を呑み、黙るのが分かった。

「店員は及公に待つよう促し売り場へ走った。値段を確かめるべく。レジは混雑していた。及公の後ろにもまだ6人は居た」
「…………」

 今度はディプレスという鳥男が黙った。微かだが嘲笑を漏らすのが分かった。

「なので」

「こーした」

 
「また話飛ばしてる……。うぅ。私たちリヴォルハインさんほど演算能力ないんですから、もっと分かりやすく語ってくださいよお」
「まあ何だ。他に並んでる人もいる訳なのである。10円ぐらいの安い高いで待たせるのはどうかなーと思われたので会計後、
及公その点について指摘を入れられた。『あそこは10円損してでもみんなの会計スムーズにしよう。それが人の道』とか何とか。
するとなんか怒ったので」

「こーした」

「まったく敬意がない。及公待たされたコトについて憤怒を覚えられた訳ではなくもっと公序良俗的なる見地から話をしようと
されただけなのである。なのにどーして怒られなければならないのか。正直ムっとしたので攻撃かつ採用!!」
「……これって課長待遇ですよね?」
「下手すりゃ部長待遇かもなwwwwwwwwww どんな特性が出ちまったかは知らねーけどwwwwwww これで課長クラスの
4割なら悲劇だっぜwwwwwwww あwあw憂w鬱wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」
「でも良かったです。帳尻があって」
「何のだよwwwwwwww」
「全身フード破いたコトです。お母さんがこうなったとか因縁じゃないですかぁ。破いたのは復讐の、前払いです!!」

「オタこええwwwww しかし……相変わらずえげつない攻撃だよなあwwwwwwwwwwwwwwwwww」



 脇腹に何か固い感触がした。ディプレスの肢にひっくり返されたと気付いたのは目の前に夜空が広がった頃だ。満点の星。
呪詛のように漏れる母親の声さえなければとても感動的な光景だ。



「一体、何をした……」
「まーまー。外傷はないんですからいいじゃないですかこの上なく」
 重い首を持ち上げ体を見る。クライマックスのいう通り目立った傷はまったくない。
「あるのはすげー頭痛に倦怠感……」
「なーにフシギそうにしてんだよwwww」
 凶悪な笑いが夜空に広がった。ハシビロコウという名の嘴の大きな鳥はとてもとても酷薄な笑みを浮かべこちらを見ていた。
「オイラ確かに言ったよなあwwww リヴォルハインは病気だってなあwwwwwwwwww」

 ぞくりという悪寒が蘇生する。
 思い出す。殴りかかったのは肩だった。
 渾身の一撃は恐るべき速度でそこへ殺到した。相手は身じろぎもしなかった。外れるとはまったく思っていなかった。
 結論からいえば拳は確かに肩へ当たった。
 だがその瞬間……肩は粒子となって霧散した。空虚な手ごたえが拳のみならず前腕部をすりぬけた時、美青年は両目を
不等号に細めながらわきゃーと叫び一歩進んだ。足元が縺れ釣り込まれるように懐へ衝突した。そして──…

「リヴォルハインさんは病気……。でもそれは頭が病気という意味じゃあありません

 衝突の瞬間、見た。
 砂のように崩れていくリヴォルハインを。
 端正な顔も美しい服も逞しい体躯も何もかも粒、粒、粒、粒ツブツブつぶつぶTUBU粒つぶつぶツぶつブtubu溶けて崩れて
舞い散って群れになりまとめて飛んで、飛んで──…

 ざらついた赤黒い粒どもの奔流が。
 口に入った。
 粉薬を何万倍にもけむたくした質量はしばらく口の中に留まっていたが後続どもは止まらない。えづきとともに頬が膨らん
だ。口腔の容積はあっという間に満杯だ。ごぎゅり。喉を通過する異常な感触に絶望が奔る。飲んだ。飲んでしまった。ぶう
ぶうに頬を膨らませたまま涙を流す。気管支と食道にきたのは強姦魔だった。押し広げられる。挿入される。性的特権ゆえ
生涯無縁だと思っていた蹂躙が体の内部で起こっている。消化器官の両端どちらかに『突っ込まれる』方がマシだという
恐怖があった。使用済みの注射器に触れてしまったような血膿臭い絶望が空気とともにしばらくドクドク注ぎ込まれた。

 おぞましいフラッシュバック。
 鉛のように重い指を持ち上げる。ぶるぶる震えるそれを口にやるのさえやっとだった。
 蒼ざめた顔の入口に突っ込む。咽頭奥深くに泥まみれの指が当たった瞬間激しい”むせ”が奔る。涙に震えながら一層
強く深く挿入する。惨めな気分だった。汚らしいと軽蔑している吐瀉行為を救済と期する感情に大粒の涙がこぼれた。

 
 何か言われたような気がした。
 何か答えたような気がした。

 自分だけの、大切な何かについて。


 視界の隅に移ったのは異形の母。同じコトをされたのだろう。
 どうなる。入った。入った。確実に。末路はたぶん……。

 クライマックスは腰に手を当てしゃんと背筋を伸ばした。
 とてもとても得意な顔だった。
 知識を与えてくれる素晴らしい先生の顔だった。
 それが紡ぐ。絶望的な言葉を。
 リヴォルハインは。
 リヴォルハインは……!!

「存在そのものが病気……。『 リ ヴ ォ ル ハ イ ン と い う 病 気 』なんです」
「また感染したかwwwww 流石あの鐶を作り上げたリバースの最高傑作wwwwwww レティクルナンバー1の手間とコストの」


「細菌型ホムンクルス」


 意識が闇に沈んだ。
 ディプレスの口笛が合図だったかのように。




「ナニナニナニどーしたのまっぴー!! いきなり肩なんか組んじゃってェ」
「別にいいけどそういうのは影でやりなさい。ファン多いのよ秋水先輩。後で他の女子に何されるか……」


 口々に囃し立てる河井沙織と若宮千里の声に早坂秋水は顔をひきつらせた。「違う」「これには理由(ワケ)が」。懸命の
弁明も彼女たちには通じない。沙織は瞳を輝かせ、千里は眼鏡を曇らせながらそれぞれの意見を投げてくる。どちらも
言い方こそ違うが要約すれば「こんなコだけど根はすごくいいコだから大事にしてあげてください」。友人らしい思いやり
のある意見である。君たちもいいコなんだなと少し感動したが困惑は収まらない。
 首を後ろにねじ向ける。油の切れた機械のような音が耳をひっかく。背後から刺さるは無数の視線。好奇。嫉妬。絶望。
号泣、笑顔、憤怒、爆笑。祝福やリア充死ね爆発しろといった様々な感情が痛いほどに刺さってくる。
「秋水先輩屋上まで運ぶの! 影なんか歩けないッ!! なぜならこのルートが最短だから!!」
 傍らで少女はぜえはあと凄まじい息を吐き背筋を伸ばした。
「もうそろそろこの辺で」
「まだだよ!! まだ2階! 屋上までまだまだある!!」
 まひろはというとすっかり変なスイッチが入っているらしい。熱血丸出しで太眉をいからせながらエッチラオッチラと歩いて
いる。その肩には秋水の手。体同士が密着。まさに前言通り彼女は肩を貸し歩いていた。
「いやもうここまでくれば大丈夫だから」
「遠慮しないで!! 捻挫させちゃった以上運ぶのは当然!! ふぅ、ふぅ〜!! まだよまだまだ倒れる訳には……!!」
「君の言い分も分かるがあまり激しく動かないでくれ」
「なんで? 足に響くの?」
 あどけなく見上げてくるまひろに秋水は困った。
 制服越しにも分かる柔らかさが確実に秋水を苛んでくる。
 かなりの身長差があるためまひろはほぼ全身で秋水を支えていた。脇の下に潜り込み体の横半分をペタリと密着させて
いた。その位相は必ずしも常に定位置を保っているという訳ではなく階段の昇降や角の右折左折を遂げるたび微妙な変化
を遂げていた。少女の体は時に期せずしてその正面を秋水に擦りつけた。多くの場合それは一瞬の出来事でまひろ自身
特に意に介した様子もなく運搬作業にご執心という感じだったが……。
「…………」
 柔らかな感触は生々しい質量と重量を帯びていた。密着し且つ動いた場合なまめかしく蠕動し形を変えるのが種々の衣料
を介してさえ分かるほどだった。

 
 剣一筋に生きてきた秋水である。そういう方面への興味は特にない。いちいち完璧すぎる桜花を見慣れてるため知らず知
らず目が肥えすぎている……というのは総角主税の勿体ぶった学説だがそれを差し引いても桜花以外の女性に対する関
心はとみに薄い。その桜花にしても家族で、守るべき対象で、何より大事な存在だった。男性的欲求など皆無に等しい。せ
いぜいが二次性徴期において変貌を遂げつつある桜花の不思議に少し首を傾げた程度だ。
(弱った)
 いつぞやのメイドカフェで組み敷いてしまった白い裸身。ちらちらと脳裏に浮かんでくるそれを払拭するのに必死だった。
総角や無銘や貴信や逆向といった連中との戦いを思い出す。逃げるように。貴信の効果はまったく覿面だった。侮辱という
より感謝したい思いで彼の顔を必死に思い出す。でなければもやついた感情が尾を引きそうで怖かった。

「クソォー!!! やっぱりオトコは顔か!! 顔なのかァ〜〜〜〜〜!!」
「いや、そういうのじゃないと思うよアレは。まひろちゃん、カズキ君の妹なんだし」
「まあ親切心だろうな。ああなりたかったら下心ぐらい捨てろ岡倉。みっともない」

 三者三様の感想を漏らしているのはカズキの友人たち。剣道の練習のとき見かけた記憶があるのでそれと分かった。




 豪華な部屋、と書くといささか平易だがそれ以外の形容ができないほど豪華な部屋だった。
 壁や天井は金色に輝き大理石の敷き詰められた床には絢爛なる絨毯が広がっている。壁にはこれまた金色の額縁に
入れられた名画の数々が居並び部屋の中央に鎮座する黒檀の机には三又槍を思わせる銀色の燭台が置かれている。
 その机の上を含む周囲には豪華さを消し去る物体がこれでもかと蝟集(いしゅう)していた。
 机の右には高さ1mほどの赤い筒。左には月の顔を持つ燕尾服。上には毛布ごとごろごろする少年。
 傍若極まる連中が部屋の威容をこれでもかと壊していた。

「むーん。細菌型ときたか。とくれば感染者はさぞや惨たらしい死に方をするんだろうね」
 実に興味深い。黒目のない真白な瞳を仄かに輝かせながら月は口を綻ばせた。
 およそホムンクルスの類型というのは3種類に分けられる。植物型。動物型。そして人間型。調整体やヴィクタータイプ
といった存在もいるにはいるがそれらは基本3種の派生形にすぎない。少なくてもムーンフェイスがかつて所属していた
LXEという組織ではそれが通念だった。
 議題に上っているのはリヴォルハインという幹部について。類型に収まらない……細菌型だという彼に錬金術師としてお
おいに興味をひかれたのだろう。柔和な笑みを浮かべながらムーンフェイスは筒と少年を見渡した。
 細く、女性と見まごうほど端正な顔立ちの少年だ。もっともその表情はまったくしまりがない。不真面目で緩みきって
つくづくとだらしない顔つきだった。
「まー厳密にいえばー。リヴォはさあ、色んな細菌のいいところどりした調整体みたいなカンジだけど」
 円卓の上で寝返りを打ちながら相槌が1つ。眠そうな顔の少年は枕に顎を埋めそしてムーンフェイスを見た。
「面倒臭いコトにさあ、アイツいまは無害なんだよね」
「むん?」
「だーかーらーさぁー? 理論上は有毒な細菌1株見つけるだけで乗っ取ってコピーして銀成市ぐらいあっというまにバンデ
ミック。1時間で市民全滅。でもアイツ頭がおかしくてさあ、正々堂々がどうとかいってやらないんだよ」
「なんでまたそんなコトになってるんだい? 私が盟主なら真っ先に命じるけどね」
 ガツッ。机が揺れた。ムーンフェイスは一瞬目を丸くした震源地を見ると薄く笑った。
 赤い筒が微かに揺れている。動いた拍子に当たったのだろう。
 くぐもった咳ばらいと同時に筒の下部へ金髪が引き込まれるのを彼は見逃さなかった。
「結論から言おか。常在菌っておるやろ? 基本、毒にも薬もならん細菌や」
「彼は、それだと?」
「ああ。ホムンクルス化の影響か感染力こそ凄まじいけど人間の体内に入っても発熱1つ起きひん。感染者がホムンクル
スになるっちゅーコトもない。感染して体調崩すとしたらそいつの抵抗力とか体力が極端に落ちとるせい……リヴォのやら
かす『活動』のわずかな労力さえ負担になるほど弱ってなければ、まったく無害な細菌や」
 というより、無害な細菌だけを選びホムンクルス化し自らの支配下に置くのがリヴォルハインという男の仕組みらしい。
 つまり人間ではなく細菌専門の幼体をばら撒いていると考えていいだろう。

 
 そして細菌を介し人間に感染……。やや迂遠な気配はある。
「あとはー、もともと病気で免疫力が極端に落ちてる人とかもやばいよねー」
(免疫力が極端に、か。正に適任という訳だ)
 地下に充満する黒死の蝶の映像が円錐に巻かれ脳髄を刺したようだった。」
 赤い筒は一瞬そんなムーンフェイスを見て笑ったようだが実際の表情は分からない。
「リヴォの体は無数の細菌型ホムンクルスからできとる。スイミーみたいな群れやないで。人間の細胞ぜーんぶ細菌に置き換
えたような感じでな、奇妙な話やけど無数の細菌がスクラム組んで1個の生命を作っとるんや」
「それらが人間に感染した場合、まず脳を目指すんだっけ? それから全身に広がっちゃうんだよね」
「そやそや。でも幼体のように自我を乗っ取る訳やない。脳細胞の使われてない部分に住み着くんや。ん? 脳梗塞とかど
うかて? リヴォの細菌はめっちゃちっこいねん。人間の細胞の100分の1とも1000分の1とも言われとる]
「言われている?」
「どうやらリヴォは日々勝手に進化しとるらしく詳しい現状は創造主のリバースさえよく分からん。とにかく最初より小型化し
とるのは間違いない。おっきさ的にはもはやウィルスって感じやけど最初は細菌型やったしそっちの方が呼びやすいので
みんなそう呼んどる」
「感染者がホムンクルスにならないのは、あまりに小さすぎるせいかな? いや、というより我々ホムンクルスが人間の体内
に入り込むような感じだね。入るのが幼体じゃないとくれば保存されるね。相手の自我は」
「あとさー、材質的な問題もあるんだよねー。ね。デッド」
「?」
「そ。ちょっと変わった材質やからな。体内に潜り込んだアイツは人間的には異物やけど免疫系統に攻撃されるコトはあら
へん。もし仮に攻撃されてもそこはホムンクルス、錬金術の産物使わん限り駆除すんのは不可能や」
「むーん。仕組みはだいたい分かったよ。でもどうして君たちは彼の存在を黙認しているんだい?」
「そりゃあ……面倒臭いから?」
「アホ!! アホウィル!! お前は何かっちゅーとそれか!! 月のお兄ちゃんの質問ちゃんと理解したれや!!」
 怒鳴り声と共に何かが飛んだ。机上の上空に達したそれはすぐさま力尽きたようだ。
 幾つか、ムーンフェイスの前へと転がった。
(メダル……?)
 銀色をしたそれは様々な動物の意匠が刻まれていた。どうやら筒の下の方から飛ばされたらしい。またも金色の髪が
波打ちながら赤い円筒へ吸い込まれるのが見えた。素顔ぐらい出したらいいのに。溜息交じりにメダルを弄ぶムーン
フェイスの眼前に渦が現れたのは滑らかな関西弁の咆哮と同時だった。
(ああ。確か武装錬金だったねそれ。クラスター爆弾。特性は)
 媒介を用いたワームホールの生成……だったか。記憶を辿るムーンフェイスをよそに渦が次々と生まれた。
 渦は総てメダルの傍に開き、そして無数の赤い筒型を吐きだしていた。
「むーん」
 閃光と爆音が部屋を揺るがした。机上のウィルが煙に包まれた。標的が誰か言うまでもない。
「仲間割れかい? およしよ。決戦も近いんだし」
「そうだよ面倒臭い……」
 煙の中から出てきたウィルはつくづく言葉通りの表情で生あくびをした。どこからとりだしたのか漫画本を広げ適当に
まくっている。怪我はおろか衣服の破損さえまったく見受けられずムーンフェイスは舌を巻いた。
(『領域の中』限定だけどこの少年は時間を操れる。今のは……時間を巻き戻した。そう。デッド君の特性発動前に)
 メダルの落ちる音が筒の中から響いた。引き攣った声と舌打ちもそこから響いた。
「あとさ。ムーンなんとかさん?」
「むん」
「言外に意味とか込めるのとかやめてよね」
 一瞬場の雰囲気が変わったのをムーンフェイスは痛感した。枕の上で首だけもたげた少年がやや挑戦的な目つきでじぃ
と眺めてきている。それだけなのに空気がキリリと軋み氷結していきそうだった。迂闊だがムーンフェイスさえ妖月の光を
ウィルに認めた。瑞々しい吐息が間近でした。振り返る。短い髪の少年が背後にいた。しかも彼はすでに燕尾服越しに
胸を抱きすくめ薄く笑っている。
(時間が飛ばされたようだね)
 横眼で見た少年はうっすら汗ばんでいるようだった。さらさらとした髪がべとりと顔に張り付き左目だけが甘い輝きを
放っている。
「洒脱なつもりなんだろうけど回りくどいだけだよ」
 尖った顎が撫でられる。とても上品に。愛撫するように。
「ふふっ。でもそうやっていつまでも勿体ぶって底を見せないところは……好きだよ」
 そうやって笑いながら彼は何度も何度も顎を撫でる。
(……仕事モード。ウィル君の別の顔。1日に1時間しか見せないというアレかい)
 年若い中性だけが持つ凶々しい魅力が闇の中から這い出てきた。そして甘くくすぐっている……幼少期の桜花や秋水に
さえついぞ覚えなかった感覚に薄く唾を呑んだ。
「男に色目使うなやー!!!!」
「ぶげっ!!」
 破裂音が聴覚に三連の爪跡を立てながら消滅した。ムーンフェイスは見た。爆破によって浮きあがった重々しい筒が横
合いからウィルを張り飛ばし壁めがけ吹っ飛ばすのを。
「ううあああ〜〜〜」
 壁を見る。瓦礫や埃の中でウィルは奇妙な声を上げぐるぐると目を回している。
「ぬむあわわぬうぃいーー!! やめぇやホンマもう男同士でそーいうのとか! アカンアカン。男女同士の健全な奴しか
アカンねんクライマックスの奴へんな本見せてきよったけどアカンねんアカンねん男同士でそんなんとか不潔や不健康や……」
 筒を見る。もともと赤い表面が更に赤熱しているのが分かった。時々こんにゃくのようにブリブリ左右に触れたりもしてい
る。どうしたものか。悩んでいると筒は俄かに「はうわ!」とギリシャ字のシグマを飛ばし慌ててまくし立て始めた。
「月のお兄ちゃんの言いたいのはつまり『細菌型の癖して病気感染で人殺せもせんやつ幹部に据え置くな』っちゅーコトや
ろがい!!! おま、たいがいにせえよ!! 仕事モードのときはイソゴばあさんの次ぐらいには頭回る癖に!! 行間読
んでちゃんと答えたんのが渡世やろうが!! それがええ商売人の心意気っちゅーもん違うんかい!!」
 ウィルはと見れば48倍速の尺取り虫のような姿勢でキュッキュと机に昇りつめ、枕にぼふりと顔を埋めた。
「えー。しょうばいにーん? やだよ面倒臭い。ちょっとFXやるだけで2000万円ぐらい稼げるんだよボク……」
「働けやお前は!! そーいう、そーいう虚業で儲けんなや! ちゃんと額に汗してやな、人と人との関わり合い大事にして
お客さん笑顔にした上でお金もらうんが一番やないのか!! ああ!!?」
「えー。ボクたちホムンクルスだしデッドももう沢山人殺してる訳だし正しい道とかいわれても……」
「う、ウチが殺したんは人から何か奪う奴だけやもん。強盗とか盗人とか下らんポカで取り置き別の奴に売ったバイトとか」
「でも殺しは殺しじゃん」
「うううう!! 口だけは達者なー!! このー!!! ぼけー!!」
「あー。怒られたので熱出たー。今日の坂口照星の拷問当番サボっていいよねー」
「サボんなや!! ちゃんとしっかり拷問して血ぃ出すのが使命やろがい!!」
「話がずれてるよ。デッド君。当番なら私が彼を連れてくよ」
 お、おう。悪かったな。筒はもじもじと体を捩らせると息を吸い、言葉を継いだ。
「おにーちゃんおにーちゃん、自分、分散コンピューティングって知っとるか」
「むーん。確か匿名掲示板とかで白血病の解析をやっているアレだね」
「そそ。さすがおにーちゃん頭ええわあ。うんうん。そや。そや。調整体1つ見てみてもわかるよーに、ウチらマレフィックは
LXEなんか足元にも及ばんぐらい高度な研究をしとる。それこそ白血病の解析並や。むっずかしーコトばっかやっとんね
んで。スゴいやろ。主に盟主様がな、スゴいんや。もうすぐクライマックス改造手術して鐶並にするしなー」
 いやに朗らかな声である。案外人懐っこい筒なのかも知れない。
「察しがついたよ。取りついた人間の脳を使っているという訳だ」
「アイツ細菌型でしょ? だからさあ、とりついた人間の脳を使う訳。人間の脳ってふだん使ってない部分がかなりあるから
さ、そのあたりだけ一時的に乗っ取るの」
「無限に近い細菌たちやけど、みーんな意思を共有しとる。そやからこその分散コンピューティングや。スパイウェアにも近い
な。こっそり潜り込んでちょっとずつちょっとずつ勝手にリソース使うんや」
「そしてそれこそがリヴォルハイン君が作られた目的」
「うーん。今はそうなんやけどな。発案当時はちょっと違(ちご)とった」
 筒はあせあせと汗をかいた。
「7〜8年前やったかなー。確かウチとディプレスが例の猫と飼い主を1つの体にした少し後や。前の『土星』が音楽隊にやら
れてなー。その数年前にも一度大破してたし、そろそろ除却して新しい『土星』を作ろって話になったんや」
(7〜8年前、か)
 といえば防人たちが赤銅島の惨劇に直面したかしないかぐらいの時期である。斗貴子が戦士になる前かも知れない。
(パピヨン君は……中学生ぐらいかな?)
 デッドという筒はそんな時期から幹部をやっているらしい。見た目からは想像がつかないが、なかなか古株なのだろう。
 筒の話、続く。
「せっかくやから何か新しいの考えよってコトでマレフィックたちで知恵出し合ったんや」
「むーん。何ともいい心がけ。LXEではまず考えられないよ」
「そやろ!! そやろ!! 盟主様はウチらの知恵大事にしてくれんねん。偉い人やのに偉ぶらへんねん。だからまあ
ほんま好きやわぁ。ふわふわした服似合うし可愛いしなあもぅ。ぎゅっとしたい!! ぎゅって!!」
「……キミの性別がだんだん分かってきたよ」
「うぅ。顔見といてそれないわ。怖いからか? 怖いから分からへんだんか? それはちょっと傷つくわあ……」
「とにかくさ、最後の幹部を召喚するためにも新機軸は必要でさ」
「最後の幹部……? ああ。イオイソゴ君が捜索中の……マレフィックアースだね」
「そそ。それ呼ぶのに必要なのか何か考えた結果採用されたんがグレイズィング提案の細菌型やったんやけど、それがま
た難しくてなー」
「最初はさー。みんな、ゾンビ映画よろしくホムンクルス幼体のすごく小さいのばらまいてさあ、空気感染で人間次々バケモ
ノにしようとか思ってたんだよねー」
「けど細菌サイズの幼体とかめっちゃ作りづらいんやて。だいたい、細菌型とか何? って話やんか。動植物型みたくテキトー
な細菌基盤(ベース)にしてテキトーな人間に埋め込んでみたけどやなあ、なんかもうグネグネグネグネ動くだけで全然使い
もんにならへん。一応増殖はしたけどやなあ、人間サイズのまま増えよんねんあのアホ。いやいやいや!! そんなでかい
細菌やったら感染せえへんがな! もっとこう細かく分裂できへんのか! って思いつつ実験を繰り返してみたけどあんま
芳しい結果はでえへんかったな」
 いやいやいや、に合わせながらぷんすか飛び跳ねる筒に感心するやら呆れるやらのムーンフェイスだ。ウィルはと見れ
ばラジカセを無造作に置いたきりグースカ眠り始めた。『会話めんどい。再生ボタン押して。タイミングあう』。そんな張り紙
を見た瞬間、ムーンフェイスは柄にもなく椅子から転げ落ちそうになった。
(君はどれだけ面倒くさがりなんだい)
 呆れる思いでボタンを押す。眠そうな声が聞こえてきた
「研究が一気に進んだのは今から2年ほど前。リバースが加入してからだよ〜」
「なるほど。そういえば例の音楽隊の副長を作ったのも彼女……だったね」
 ラジカセに答えながらムーンフェイスは軽く汗を流した。海千山千の連中を相手取ってきたという自負はあるが、ラジカセ
相手はなんだか勝手が違う。
(なんかの漫画の影響かい?)
 ウィルの読み捨てた漫画を見る。冷静で涼しそうなタイトルだった。
「そそ。鐶の作者。割とすぐ細菌型に必要な小型化成功させてさー。長年研究やってるディプレス涙目。リバースってさ、
素手でもむちゃくちゃ強いけど錬金術師としてもなかなかなんだよねー。怒るとケダモノだけど」
 筒も盛大な溜息を洩らした。
「もっとも、アイツが一番怖いのは怒り狂っとる時やない。自分を救わなかった世界にどうすれば効率よく復讐できるか……
笑顔の裏で冷然と目論んどる時や」
「むーん。確か彼女の武装錬金は必中必殺の『マシーン』(機械)……喰らってしまえば完全回復持ちのグレイズィング君で
さえ根治不能の恐るべきサブマシンガンだったね」
 笑顔の似合う、いや、笑顔そのものとさえいえる清純な少女を思い浮かべながらムーンフェイスは嘆息した。
「それで敢えて『誰も殺さず』『しかしそれ以上の破滅を』、何の罪もない家族にもたらし続けてきたリバース君だ。なかなか
ステキな提案をしたんじゃないかね」
「まーなあ。アイツ曰く、せっかくバンデミック起こして人間ぎょうさん殺しても、5回もやれば大体対処されるようになってしまう
らしい。人間の対処力というのを考えた利発な意見やな。まあそれならそれで毒性を高めたりとかもっと違ったやり方もある
けど、それは結局イタチごっこ……下手すれば蜂起前に察知されまた戦団に負けるかも知れん。だからリバースはそんな
伸びしろのない破壊を敢えて捨てた。目先にある沢山の被害より、長期的にじわじわじわじわ人を害し、恒常的にウチらが
得をするような……アイツお得意の”自分の敵意を見せない”怒りの発露を提案した」
「具体的には?」
「情報戦略や。常在菌のようにいろんな人の体にへばりついてやな、いろんなところからいろんな情報を仕入れられれば
それでええって考えやったらしい」
「ボクたちが坂口照星の外出を知り得たのもさ、リヴォが戦士の体に取り付いてたからだよね」
(タイミングばっちりやなお前!!)
(いつ録音したかも分からないのに……)
 ラジカセから流れてきたウィルの声に2人して息をのむ。ウィルはグースカグースカ寝息を立てている。枕にしがみつく
彼の顔はとてもとても幸せそうだった。
「そういえばキミたちがLXE残党の浜崎君や佐藤君といった連中に接触できたのも」
「そやな。リヴォの能力のお陰や。そっちにもちょっとした理由とか見通しはあるけど……後にしよ」
 とにかく。と筒は背筋を伸ばした。
「ま。そーいった恩恵はリバース的には副産物に過ぎひん。アイツがリヴォ使った分散コンピューティング発案したのはやな」
「したのは?」
「鐶光。妹の5倍速老化を治すためや。リバースはそうといわんがまず間違いない
「へー。それは初耳だね
「さっきもゆうたけどやな、先進的な研究やろうとするなら白血病解析するぐらい沢山のコンピュータがいる。まして今まで
誰も作ったコトのない特異体質持ち改良しようとするなら尚更や」
「あの5倍速老化はボクたちにとっても未知の領域だからね。ま、ボクの武装錬金を使えばさ、進行はもっと遅く出来る
し巻き戻すコトさえできるよ? もっともそうすると今度は『インフィニティホープ』の籠の鳥だからリバース的には閉じ込め
たくああもう面倒くさい」
「…………」
 当たり前のように会話に参加するラジカセをムーンフェイスが鬱陶しそうに見たとき、赤い筒からも溜息が洩れた。
「ブレイクが聞いた話やと進捗率は90%を超えとるらしい。たぶんウチらと戦団の戦いが終わるころその研究は完成する」
「つまり救われる訳だね。あの音楽隊の副長は」
 それも生き延びられればだけど……皮肉めいた笑みを浮かべるムーンフェイスをよそに筒は自分の言葉を紡ぐ。
「けど……そこにジレンマがある。リヴォはな。リバースの予想さえ上回っとる」
「むん?」
「増殖速度が速すぎるんやアイツは。進化のスピードも」
「そういえばさっきも同じコトを言ってたね。彼の詳しい現状はリバース君にさえ把握できていない……と」
「そや。リヴォルハインはただの実験材料で終わるつもりはさらさらなかったようや。リバースが鐶を救おうとするように
リヴォもまた救いたい存在がいるらしい」
「彼の経歴なら聞いているよ。……傲慢だね。未だに自分の無力を理解できていない癖に」
「誰か分からんけど人を救おうとしとるからな。しかもアイツのやろうとする救いはどこかズレとる。的外れや。その癖大きな
コトだけはいいよるよって始末が悪い。加えて何をやるか具体的に言ったりせえへん。ブレイクの能力で隠し事を禁じてもや」
「暴走の危険がある……ってコトだね」
「そやさかいな。実はリヴォには常に『マシーン』の特性を喰らわしとる」
「アレをかい? 対象の声から逆算した固有振動数で体を緩やかに分解する……例の必中必殺を?」
「治療せんかぎり最長でも発動から2時間で死ぬ。それは人間でもホムンクルスでも同じや。リバース本人でさえ喰らったが
最後解除せん限り絶対死ぬ。しかもおぞましい幻覚のオマケ付きで振り払おうとすればますます死に近づく……本来はな」
「本来は? まさか死なないのかい? それを喰らっても?」
「ああ。リヴォの武装錬金が武装錬金やからな。せいぜい増殖と進化を抑制するのが精いっぱい……」
「むん? いまキミは幻覚のオマケ付きといったよね? そっちはどうなんだい?」
「幻覚自体はキチンと見えとる。が、恐怖は一切感じてないらしい」
「つまり……実質無効という解釈でいいのかな
「無効っちゅー訳やない。放置すれば際限なく感染範囲を広げ想像もつかん境地に行きウチらの敵になりうるかも知れん
リヴォルハインをどうにかレティクルっちゅー組織に繋いどれんのはリバースのお陰や。もっともリバースがそうしとるのは
義妹(いもうと)救うためなんやろうけど」
「リヴォルハイン君の処理能力は決して劇的に伸びない。かといって放置しておけば敵となり演算ができない」
「ジレンマいうたんはその辺のせーやな」
「そんなリヴォルハイン君の武装錬金は、何だい?」

 
「『自分は人を救える』。勘違いもはなはだしい傲慢ぶり。そして細菌型ホムンクルスに変貌を遂げたが故の精神の変化。
それらが生み出したおぞましい武装錬金は……細菌型の体ともっとも相性のいい奴や。最悪といってもいい規格外れや」



「そや」




   PMSCs             リルカの葬列
「民間軍事会社の武装錬金・リルカズフューネラルはな」





「リヴォルハインが武装錬金を発動すんじゃねえよなwwwwwwwwww」
「ですねー。どっちかというと武装錬金がリヴォルハインさんって病気を発動するような気がこの上なくです!」


 全身フードをつけなおしたディプレスとクライマックスは誰もいない夜道へと消えていった。

「そう!! この会社の目玉商品はまさに及公という病気! 副業でいろいろやってはいるが、基幹はあくまで及公の流布っ!」
「ハイハイ。でもみんな愚痴ってますよ。いつも。民間軍事会社のどこが武器なんだって」
「え? 民間軍事会社イズ武器ちゃうのであるか?」
「いや名前聞いた時点で気付きましょうや! 武装錬金って突撃槍とか処刑鎌とか、いかにも武器! って奴ばっかですぜ!
よくてチャフとかガスマスクぐらいまで! 何か違う!! 何か違うよ民間軍事会社!!」
 がなりたてるとウェイターが不思議そうな顔で通り過ぎた。
「とにかく民間軍事会社はですねえ! 組織とか国とかがですよ、警備員とか戦闘員の派遣頼んだり補給とか武器の整備
任せたり兵士の教育してもらったり時にはアドバイス依頼したりする組織で傭兵集団みたいな武力とはちょっと違うんですっ
てば」
「おー。そうだったのかー」
「分かってくれましたか」
「じゃあ国とか大きな組織にとっては武器であるな!」
「なんでそうなるんすか!?」
「だって自分の力だけじゃ敵に勝てないからみんな手を伸ばし頼るのであろー? だったら武器である! うむ。キンパくん
がご不満なのはたぶん個人の手に負えない大規模な組織だからであろう。ならば及公もっと巨大な組織と化し果ては国家
規模のネットワークを形成されるおつもりだ! されば解決さまざまな敬意にも反さない!!」
 ああダメだこいつ。細菌感染者を沢山社員にしているせいでマクロすぎる。金髪ピアスはしくしくと泣いた。
(意識取り戻したらなんかこんな格好だし。変なあだ名つけられてるし)
 服装を見る。スーツだった。
(なんやかんやでファミレス来てるし)
 トントンとテーブルを叩きながら辺りを見渡す。深夜というコトもあり人は少ない。よれよれのカッターシャツを着た中年男
性は夜勤明けだろうか? 窓際でベタベタしているカップルはいろいろ造詣がマズく見ているだけで不愉快だ。家でいちゃ
つけ。そんな毒づきを一通り漏らすと金髪ピアスは深いため息をつき項垂れた。
(幸いお袋はすぐ元の姿戻って家帰ったけどよー。どうなるんだ俺の運命)

──『このファミレスで仲間と落ち合うのである!! 待とう!!』

 そう言われて何となくついてきてしまった金髪ピアスだ。もっとももし逃げようとしても「社員」として無理やり服従させられ
るかも知れない。
(実際なぜか敬語で向き合っているしなあ俺。武装錬金の影響下にあるもんだから創造主……社長には逆らえんのか?)
 そもそも武装錬金が何かという認識を持ってしまっているのが悲しい。
(セミナーとかやるんだもんなあ。そして1時間ぐらいで基礎知識全部叩き込むんだもなあ)
 テーブルに転がるノートやテキストを眺めながら盛大な溜息をつく。

 
──「え? 勉強するんすか」
──「入社してもらった以上当然である!!」
──「てか手作業!!? なんか能力的なアレで社員にしたのに!?」
──「うん!!!!」
──「うんじゃねえよ!! ふつうそういう時ってご都合主義的に知識とか勝手に流れ込んでくるんじゃないのか!!」
──「うん!! それもできるっちゃあできるのである!!」
──「じゃあやれよ!!」
──「だがやらん!!」
──「なんで!?」
──「なぜなら知識に対する敬意に反する!!」
──「また敬意か!!」
──「手指も動かさず直接脳髄に知識を流し込むなど、良くない!!!」
──「いや最高だって!! 俺のようなぐうたらには!!」
──「入力と思考、そして出力を経て初めて知識は自らのものになる!!!」

(聞けば定期的に新入社員集めて直接教えてるらしいぜ。マジ普通の会社じゃねーか)
 悪の組織やその幹部にしてはあまりに地味すぎる。嘆いてみるが現実は変わらない。

(つーかこの世界には錬金術ってのがあって人間食べるホムンクルスが暗躍してるのか)

 最近銀成市で多発する行方不明事件。ホムンクルスの仕業かも知れない。

(どうすりゃいいんだろ。俺)

「はい!! はいっ!! 先生!! クライマックス先生!! 及公から質問があらせられるそーです!!」
 向かいの席では身長2mを超える美形貴族が楽しそうにピシピシ手を上げている。
「いや俺クライマックスじゃないんですが……」
「じゃあ……クライマックス先生V号っっ!! ぶいごー!! 及公から! 質問があらせられるそーです!!」
 いろいろ突っ込みたくなったが敢えて流し言葉を促す。
「戦団の錬金力研究所、武装錬金な秘密基地は武器に入りますか!!?」
「バナナはおやつに入りますかみたいなノリで聞かんで下さい。しかもサラリと痛いところを……!!」
「本人は無心じゃからて。論破目的でなく心から純粋に不思議がってるゆえ始末悪い」
「そうスね」
 これ以上民間軍事会社を発動するコトの是非を論じても仕方ない。そう判断した金髪ピアスは新しいテキストを手にし
そして広げた。
「社長。あなたこうやって自分の能力教科書にまとめてますけど、いいnスか?」
「いい!! 書いておけばみんなすぐ分かるではないか!!」
「いいのかなー。敵とか正義の味方に見られたら弱点突かれて死ぬかも……」
「知られてなお敵を打破できる。及公の求める強さというのはそれなのである!!」
「はあ」
 気のない相槌まじりにテキストを読む。

【たくさん及公入れた奴ほど偉い!】


社長 … 細菌とてもたくさん
部長 … 細菌ちょっとたくさん
課長 … 細菌たくさん
係長 … 細菌ふつう
社員 … 細菌すこし


「どーしたのであるか?」
「…………もっと詳しく書いてください」
 机に突っ伏したまま呻く。どうやら感染した細菌の数に応じて社員のランクが決まるらしい。
「まーあれじゃよ。その時点に於いてりるかずふゅーねらるが保有する細菌のおよそ5割持っていれば社長になれる。部長
クラスで1割前後。社員は1厘もあればおーけーじゃ。じゃからこの図……いささか大雑把すぎるの」
 ちなみに、と言葉を紡ぐ声はひどく滑らかだった。
「りるかずふゅーねらるの特性はの、『戦闘知識の提供ならびに肉体や精神の強化』。決して社員を無理に操る能力では
ない。と、いうより社員に仕立てあげない限り分散こんぴゅーてぃんぐでちまちま処理能力かっさらうぐらいしかできん」」

 
「つまりこの武装錬金……真価を発揮するには契約とかが必要なんですか?」
「武装錬金とはいえ会社じゃからの。社員を使役するにはまず対価を与えねばならん」
「なるほど……」
 広大無辺な能力だがそのぶん制限もあるらしい。便利なのか不便なのか分からぬ武装錬金だ。
「ちなみに係長クラス以上になると武装錬金が発動できる!」
「チートか!! 核鉄ないとムリなんだろそれ!!」
「厳密にいえば疑似というべき武装錬金である。詳細はテキスト24ページ参照されたしっ!」
 見る。


【疑似武装錬金って何?】


ブレイク君    「博士! どうしてリルカズフューネラルの社員は核鉄なしで武装錬金発動できるんですか!」
リバース博士.  「それはだねっ! リヴォルハイン君を構成する物質が、特殊だからだよ!」
ブレイク君    「どう特殊なんですか!?」
リバース博士.  「リヴォルハイン君はパピヨニウムでできているんだよ!」
ブレイク君    「パピヨニウム!? 未来でパピヨンさんが発見した鉱物で! すごーい!!」
リバース博士.  「しかもパピヨニウムは特殊核鉄だって作れるのだー!!」
ブレイク君    「特殊核鉄を身に付けるといろいろな効果があるんだよね!」
リバース博士.  「そうよー! 攻撃力アップ、移動速度上昇、ヒートアップゲージ最大でバトル開始。いろいろできますっ」
ブレイク君    「あれぇー? でもこの時はまだ開発されてないんだよね特殊核鉄。登場はピリオドの後のパピヨンパークですよね」
リバース博士.  「ふっふっふ。実はね。ごしょごしょ」
ブレイク君    「えー! ウィル君が未来から持ってきたんだー! すごーい!!」

「あの、この辺りで読むのやめていいスか?」
「だめ」
「ブレイク……漫画の中とはいえ目に星浮かべて驚くな……」
 軽い頭痛に耐えながら必死にテキストを読む。ブレイクとリバースを可愛らしくデフォルメしたキャラが妙なテンションで
説明をしている。ヘンな漫画だった。「文章:ディプレス=シンカヒア/イラスト:クライマックス=アーマード」という注記は見
なかったコトにする。

リバース博士.  「細菌型の研究が難しかったので使ってみましたパピヨニウム!」
ブレイク君    「無数の細菌が1つの意識を共有できるのはパピヨニウムの効果あらばこそなんだね」
リバース博士.  「うん。核鉄に精製すれば肉体強化可能な鉱物だもの」
ブレイク君    「ホムンクルス幼体に使えば性能上がるよねー」
リバース博士.  「更に武装錬金特性とも相まって核鉄のような効果を出せます」
ブレイク君    「どういうコトですかそれは?」
リバース博士.  「リルカズフューネラルには決まった形状がありません」
リバース博士.  「”会社”という突き詰めればとてもとても観念的で精神的な存在なのです」
リバース博士.  「それを唯一実証してみせているのが細菌状態のリヴォルハインさん」
リバース博士.  「彼は社長であると同時に雇用契約であり労働規約であり社訓なのです」
ブレイク君    「武装錬金発動とどう関係しているのですか?」
リバース博士.  「矛盾しているとは思いませんか? 持つ者が秘めたる戦う力を形に変える」
リバース博士.  「それこそが武装錬金。にも関わらずリルカズフューネラルには形がありません」
ブレイク君    「つまりそれって……」
リバース博士.  「私の学説ですが武装錬金発動時のリヴォルハインさんはとてもあやふやな存在なのです」
リバース博士.  「核鉄によって精神を形にできているのかいないのか分かりません」
リバース博士.  「前述の通り彼は自らの存在を以てしてようやく社員との繋がり、民間軍事会社の存在を証明しています」
リバース博士.  「ならば彼自身が……武装錬金になっている可能性さえあります
リバース博士.  「もしかすると彼という存在の一部は核鉄と混じり合ったまま精神世界のどこかに溶けているのかも知れません」
リバース博士.  「そもそも彼の武装錬金が民間軍事会社というのはあくまで自己申告の結果そうなっているだけです」
リバース博士.  「実はもっと違った、私たちにも想像のつかないおぞましい兵器という可能性さえ孕んでいます」
リバース博士.  「武装錬金の形状が、見えないのですから」
ブレイク君    「非常に不安定」

 
リバース博士.  「あくまで仮説ですが、社員に巣食うリヴォルハインさんは」
リバース博士.  「具象化と観念の境界線上を行ったり来たりしているのかも知れませんね」
ブレイク君    「揺らぎのなか時おりごく一部とはいえ核鉄を核鉄のまま現出してしまう
ブレイク君    「そして核鉄がわずかに発動してしまった社員さんの武装錬金を」
ブレイク君    「リルカズフューネラルの特性で何倍にも強化し、無理やり発現させている」

リバース博士.  「そういう可能性が、あります」

頭痛ぇよ!! なんだこの武装錬金ワケの分からない!!」
 悲鳴を上げながらテキストを机に叩きつける。この晩いろいろ厄介そうな能力持ちに遭遇したがこれは段違いだ。
「ひひっ。りう゛ぉ坊は色々規格外じゃからのう。まぁ、漫画好きのでぃぷれすだのくらいまっくすだのといった連中が悪乗り
してわざわざ小難しく書いとるという節もあるが……」
 あまく細い息が横から聞こえた。
「ま、りるかずで発動する武装錬金はの、正規の手段で生まれる奴より三枚も四枚も劣る。しかももともと戦士でもない輩の
武器じゃろ。修練不足も相まって絶大な戦闘力というのはあまり期待できん」
「何でしたっけ? 貴方達と敵対してる組織。音楽隊? そのリーダーの武装錬金より下ってコトですか?」
「まあのう。あっちがコピーするのは「戦いの経験がある奴が」「正規の手段で発動した」奴じゃからの。相性によって復元率
が上下するとはいえ武器の体裁は成しておる。こっちはまあ、歪じゃな。リルカズで生まれるのは不完全な武器が多い。
当てよう如何でホムンクルスは斃せるが……」
「……だったらあまり意味なくね?」
「いやいや。りう゛ぉ坊からの知識提供や肉体強化でそれなりには戦える。それに」
「それに?」
「ひひっ。能力というものに本来上下はないよ。使いようによっては単なる武器複製より役立つこともままある……。まった
く盟主様め味な真似をしおる。ひひ。御蔭でまれふぃっくあーす探しが捗(はかど)りそうじゃわい」
「何の話だ……? というか、あんたは──…」
「細かいコトはどうでも良いのだ!!」
 リヴォルハインはやにわに立ち上がり胸を力強く叩いた。
「及公、大義をお持ちだ! 錬金術の闇を払拭し総ての人々を救うという大義が!!……それを達するためにはレティク
ルの技術力はとても魅力的である。他の共同体や戦団が10年かかっても作り出せぬものがココでは1年で呆気なくだ!」
「声大きいって!」
 少ないとはいえ何事かと他の客たちがこちらを見ている。まあまあとリヴォルハインを制止しながらわざとらしく、もう前の
お店でお酒飲み過ぎたんだから〜と声を上げる。酔客か。ウェイターも客たちもめいめいの世界に戻った。
「何百年も前から固まりきった陋習、誰もが『どうせ無理だろう』と思っているルールは並のやり方では打破できん!!!
及公かつて人を守る組織に居られたが、そこは目先の犠牲を恐れるあまり抜本的な解決などまるでしようとしなかったの
である。そして新たな犠牲が……」
「は、はいはい分かりました。そうですね〜。今の世界は大変デス」
「問題を先送りにし後世に迷惑をかけるぐらいならこの時代で決着をつけるべきである!! 犠牲は確かに避けられん!
だが! 現在(いま)いま『どうしようもないルール』を解決しておけば10年後100年後泣かされる人間はいなくなる!」
「分かります。分かります」
「そして正々堂々の戦いにおいて希望がかなうという前例を!! 及公は仲間たちにお見せしたい!! きちんと努力し
きちんと正しい行為を行えば願いがかなうとお教えになるのだ!! されば仲間を救えると、及公常々信じられておられ
る!!」
「もうそろそろ静かにせんかい。りう゛ぉ坊」
 隣の席が引かれ誰かが座った。不意の声はあまりに自然に入ってきた。一拍遅れの反応。はつと瞠目しそちらを見る。
(……子供?)
 深夜のファミレスにいるのが不自然すぎる年齢の、少女だった。すみれ色の髪を後ろで纏めている。いわゆるポニーテー
ルの付け根には装飾付きの大きな簪(かんざし)が突き刺さりフェレットやマンゴーが可愛らしく揺れている。
 服装はシックな黒ブレザーだ。赤いスカーフを巻き長袖をだぼだぼさせているところはそこはかとない愛嬌がある。
(さっきからしていた声は、このコの……?)
 視線を感じたのだろう。彼女はくるりと金髪ピアスを一瞥すると人懐っこい笑みを浮かべた。

 
「おう。初めましてじゃの。その後大過ないかの?」
「あ、ああ」
 いやに古風な物言いだ。よく考えると矛盾もついでに孕んでいる。どう対応していいか迷っていると彼女はテーブルに細
い両手をまっすぐに投げ出した。メニュー表を眺めているらしい。大きく背を丸め胸を机に押し付けている様はあまりに行
儀が悪いが諫めていいか迷われた。初対面というのもあるが少女はひどく楽しそうだった。鼻歌を歌いながら両足をばたつ
かせとてもとても嬉しそうに双眸をきらめかせていた。
(まさか待ち合わせ相手? 仲間、なのか? リバースとかディプレスとかの)
 それにしてはあまりに幼すぎる姿だ。助けを求めるように見たリヴォルハインは驚きの笑みを浮かべた。
「ごばーちゃんだ! ごばーちゃんがきたー!!」
「はいはい来てやったぞ。でも話は後な。な。しばらく黙っとれ」
「うん!! 黙る!! 及公沈黙を守られるのである! でもご飯食べたら遊びたいのである!!」
「はいはい」
 やがて少女は「じーぐぶりーかー!! 死ねえ!!」と明るく叫びながら掌を「お呼びください」のボタンに叩きつけた。

「ご注文は?」
「全めにゅーを6人分!!」

 ええええええええええええええ。唖然とする金髪ピアスをよそに少女は諭吉の束を3つぐらいテーブルに叩きつけ「これだけ
あれば足りるじゃろう」。満足そうに頷いた。


 
「やれやれ。照星君もなかなかしぶといね。あれだけの拷問を受けながらまだまだ理性は残している」
「そろそろ気づいた頃かもな。ウチらの本当の目的に」
「おやデッド君。よくここまで来れたね」
 拷問部屋から出るとムーンフェイスは視線を下に移した。
 奇妙な来訪者だった。
 陳座していたのは1mほどの赤い筒だった。重々しい存在感は視界に入るなり「でん」、無遠慮なる音を立てた。
「ああもう、遅、遅かった。ウィルさぼらんように見に来たけど、あかん、あかん。やっぱウチの武装錬金、めっちゃ重い。
便利で頑丈なんやけど重すぎるさかい、移動、移動、めっちゃしんどい。着くの遅い。しかも通気性悪いから暑い、死ぬ」
 息も絶え絶えという調子だ。薄く目を細め廊下を見ると荒れ果てていた。壁のところどこどに爆破の跡があり、更に何か
印刷された紙が焦げも露に散らばっている。床のところどころには何か引きずったと思しき痕跡がある。蒼黒くくすんだ
床板の削られようときたら獣が暴れたといって通じるほどだ。その他、円筒形にくぼんだひび割れなど。
「むーん。爆破の反動で移動してきたらしい。しかしどう反応すべきだろうね。重いなら武装解除したらどうだい……などと
いえばキミはきっと傷つくんじゃないかな」
 手を銃へとすぼめながら笑いかける。筒の右上に無数の縦線が走った。それがどんよりとした気落ちのエフェクトだとい
うのは急転直下湿り果てたソプラノがいやというほど証明していた。
「体が体やっからなあ……」
 筒が壁に向かってやや傾いた。人体構造に当てはめれば「俯き」だろうとムーンフェイスは分析した。
「一応慣れとるし下手に気ぃ使われるとそれはそれでアレなんやけど、その、やっぱり言われたら言われたで心にチクリと
くる訳やし……ああなんやろこの葛藤」
 言い訳がましくボソボソ喋っていたら筒はしかし「いやそーやなくて!」と叫んだ。そしてとてとてと筺体を揺すりながら小刻
みに前身し、ムーンフェイスに体当たりした。
 厳密にいえば彼の抱えている、ウィルめがけ赤い表面をブチ当てた。
「起きんかいぼけー! おにーちゃんに手間かけさたらあかんやろーがい!」
「……」
「おま!! いま起きたやろ!! 起きたけどウチと話すのめんどいから寝たフリしとるんやろう!! 見たで!! 見た
からな!! 何かビクリなって腑抜けた図体に力入ったん!! 覚醒や!! 目覚めの時や!! あったらしい朝が来た!
きーぼーうの朝だーーー!!  それやのになにお前やり過ごそうとしとんねん!! きぃー!!」
 実に騒がしい筒である。どーん、どーんと叫びながら引切り無しに体当たりを繰り返している。
「だいたいお前ウチより年上やろ!! しゃんとせい!!」
「……前から言ってるけど年下だってばあ。だってこの時代にはまだ生まれてないもんボク」
「屁理屈こねんな!! いまこうして存在しくさっとるお前の肉体年齢はどう見てもウチより上やろが!!」
「えー。分からないよ……。だってデッドいつも筒だし」
「お・ま・え・はー! 昔ウチの素顔とか裸見ておきながらよくもヌケヌケとー!」
「うぅ。無視してもめんどいよデッド。分かった。やるよ。やればいいんでしょ」
 ウィルはしくしくと涙を流しながら掌を翻した。

 同刻。血膿に突っ伏す照星の遥か上で空間が弾けた。水色の光芒を孕む線が4平方mの正方形を描くや”空間そのも
のが”ガラスのように弾け飛び不気味な風切り音が死臭の部屋を突き抜けた。破れた空間から覗いたのは闇だった。この
世のどんな穴よりも深く、底が見えない……直視したが最期、肉体も魂が何もかも引きずり込まれそうな”虚無”だった。そ
の左右めがけ肉厚の扉が観音開きになっていたが、その水銀色の輝きさえ位相を歪めダクダクと呑まれていた。
 その虚無から節くれだった一本の影が照星に向かって殺到した。影は腕の形をしていた。異形だった。長短さまざまの黒
ずんだ蔦を何万本もより合わせた筋肉のところどころに生臭く輝く鱗や粘膜がこびりついていた。皮がすりむけ薄紅色の
肉を覗かせている部分もあれば虹色の羽毛と薄茶けた体毛が乱雑に入り混じっている部分もある。指は三本でいずれも
形こそ人間のそれだが太さは電柱ほどあった。更に肉など一切なくただただ醜く肥大した骨だけだった。血膿でようやく
かろうじての彩りを帯びた指どもに握られたとき照星の全身の骨が絶望的な悲鳴を上げた。意識なき照星の顔が苦悶に
歪みその口から血しぶきが飛ぶ中、腕は帰還した。何も見えぬ虚無の中へ。

 
 ガラスのように舞い散った空間が逆回しのように元へ戻った。
 照星の姿は部屋になかった。腕に掴まれていたようだ。腕ごと虚無の中へ消えたようだ。
 何かを殴るような巨大な音が部屋を揺るがした。音は響くたび遠ざかっているらしい。5回目の打撃音はとても微かで部
屋はそれきり静寂に包まれた。

「同居人にやらすけどいいでしょー。アイツ制御するの結構骨だし」
 しばらく後。ウィルは壁際にへたり込んでいた。
 廊下は濃い青の合金で造られている。近未来的な様相を呈しあちこちで四角いライトが白い光を振りまいていた。それ
に淡く焙られるウィルの顔つきはひどく疲れ切っていた。薄く目を細め汗ばむ彼はどこか病的な色気があり光の効果も相
まってデッドさえ「お、おお」とたじろぐ様子を見せた。
(同居人、か。そういえば。居たね。確かに)
 ムーンフェイスは思い出した。照星誘拐後起こった出来事を。

──突如として大蛇のような巨大な影が空間をガラスのようにブチ破り、ムーンフェイスを襲った。
──「止まれ」
──ウィルの指示で肩口スレスレで止まったそれは低く唸ると、割れた空間に引き戻る。
──そこでは水銀に輝くブ厚い扉が開いており、中には照星の姿が見えた。
──神父風の彼はアザと血に塗れてピクリとも動かない。
──胸のかすかな動きで息があるコトだけが辛うじて分かった。
──「こりゃビックリ」
──感想をもらすムーンフェイスはどこかわざとらしい。
──「失礼。少々気性の荒い者が同席していましてね。坂口照星は殺さないよう命じてありますが、
──それ以外には容赦がなく見物に骨が折れる状態。先に断っておくべきでしたね。申し訳あり
──ません。深くお詫びいたします。戦士を2、3殺したので落ち着いているかと、つい」

「で、あのとき私に攻撃しかけたのは誰なのかな? いや……『何』かと聞くべきかな?」
「誰も何も……」
 ウィルはけだるそうに欠伸をしながら立ち上がった。
「あんたの知り合いでしょ? アレ」
「むん?」
「そやな。あのとき攻撃されたんもそのせーかも知れへんでー?」
 ムーンフェイスの目が点になった。記憶を探るが当たり前というかああいう異形の存在にやはり見覚えはない。もしかす
ると人間時代の知己が改造されああいう姿になっているのかも知れないが……そうだとしても腑に落ちない。
(調べる筈がない。怠惰な少年が米ソ冷戦時代まで……)
 となると「ホムンクルス・ムーンフェイス」の来歴を聞きかじる程度で──…
(把握できる人物。するとL・X・E関係ぐらいしかない訳だけど)
 早坂姉弟やパピヨンは健在。爆爵、金城、陣内、太、細は死亡。ヴィクターは月へ。
(一番可能性のあるのは震洋君だがしかし違う。私が襲われたとき彼は逆向君に体を乗っ取られ銀成市に潜伏していた)

(じゃあ一体……誰なんだい?)



(すげえ)
 空皿の山を金髪ピアスは唖然と見た。回収しにきたウェイターたちも同じ感想らしく凄まじい目で少女を見ている。
(俺の記憶が確かなら15回目だぞ。回収)
 おい急いで作れー!! 厨房の方から騒ぎ声が聞こえてくる。どうやらまだ注文の半分も作れていないらしい。先ほど
店長らしい人間が寝ぼけ眼を緊張に染めながら入ってくるのが見えた。従業員用ではなく顧客用の入口から入って
きたのを見るにつけ余程慌てているらしい。焼き肉ポーションが底をついたとかそういう悲壮極まる叫びさえ聞こえて
くる。米を使った商品については深夜突如の大量注文のせいか一部お作りできませんがいいですかという急使すら
何度か来た。「ないのか」。そのたび少女は寂しそうな顔で人差し指を咥え瞳を潤ませた。潤ませながらもコクリと
頷き机上の皿へと手を伸ばす。はぐはぐはぐむがむがむがむが……。実に元気よく食べている。ハムスターか何か
のようなせわしなさだ。小児性愛者では決してない金髪ピアスさえなんだか「良かったなァ」と和む光景だ。

 ひとしきり食べ終わると少女は皿を置き、きらりと金髪ピアスを見上げた。大きな瞳はどこまでも澄みわたり、この
世の総てを信じ切っているようだった。眺めているだけで薄汚れた20代の垢がこそげ落ちる気分だった。

「紹介がまだじゃったの。わしはイオイソゴというものじゃ。本名はイオイソゴ=キシャク」
「イオイソゴ……?」
「おうよ。盟主さまが僕(やつがれ)の一人……木星の幹部じゃ」

 
──「木星、イソゴばーさんwww」
──「気をつけなwwww 見た目はチビっこい可愛らしい感じだしwwwww」

──「温和で穏健だからww暴力もエンコ詰めも拷問もしないけどwww」

──「惚れられたが最後、喰われちまうぜ?」



「……あの、俺イケメンじゃないですし、ダ、大丈夫ですよね?」
「ん? ひょっとして誰かからわしのこと聞いとるのか? なら話が早い」
 パスタを啜り終えると彼女はソースまみれの唇を歪めた。「ひひっ」。とてもとても薄暗い笑みだった。
「そーじゃーよ〜。わしはこう見えど人を喰ったやつ! わーるーい、やーつーじゃ〜」
 そういって彼女はバンザイし掌だけ幽霊のように大きく曲げた。どうやら威嚇しているらしい。とはいえ腕をめいっぱい
のばしてやっと金髪ピアスの頭に届くかどうかという身長だ。鼻の低い可愛らしい顔つきと相まってまったく怖くない。
「むう。これでもわしの父御はすごいやつなんじゃぞ」
「はぁ。どんな人すか?」
「薬師寺天膳!!! 伊賀の忍びで不死身じゃ!!」
 本当か、どうか。それはともかく、
「このやろー!! びびれー!! びびるのじゃー!!
 がたりと立ち上がったイオイソゴは金髪ピアスをぽかぽか殴り始めた。きゃあきゃあと幼い笑いを立てるさまは殴るという
よりじゃれるという方が相応しかった。ポニーテールとフェレットたちがじたばた揺れるさまは金髪ピアスの心を和ませた。
この晩さんざんな目にあってささくれだっていた心が癒されるようだった。子供と笑い合う親という存在どもがどうしてあそこ
まで和やかなのか理解できた。
 そのうちイオイソゴはじゃれるのに疲れたのか。くたりとその場に座り込み
「だっこ」
 唇を尖らせた。
「え?」
 聞き返すと小さな顔が露骨にむくれた。拗ねた苛立ち。ぱたぱたする足は割りたての割りばしのようにまっすぐだった。
「もーわしつかれたあー。自力じゃ立てん。だっこ! だっこしてくれじゃ!」
 そういって澄んだ大きな瞳を向けてくるイオイソゴはとても保護意欲をかきたてる存在だった。生まれて間もない子猿の
ような……髪は漆で湿っているように艶やかで輝かしく、控え目な店内照明のオレンジさえ白く瑞々しく照り返している。
「だ、だっこがダメならその……」
 人指し指を咥えながらイオイソゴは瞳を赤く潤ませた。羞恥と躊躇がとても濃い遠慮勝がちな表情だ。
 彼女は視線を外し
「な、撫でるだけでもええぞ……?」
 それから恐る恐る見上げてきた。

「〜♪」
 数分後。彼女は金髪ピアスの胸の中にいた。席は変わり一番奥の角のソファーだ。あちこち灰色に捲れ上がった古めかしい
緑の皮張りの上。そこでイオイソゴは抱きかかえられていた。後ろから。太ももの上にちょこりと腰かけている。ころころと喉
を鳴らしていた彼女が振り返る。マンゴーの爽やかな香りが広がった。髪を撫でる。それだけのコトがとても嬉しいらしい。
幼い老女はくるくると心地よさそうに声をもらし瞳を細めた。
 そして席を立ち隣へ座り、こつり。頭を金髪ピアスの左肩に当てた。凭(もた)れかかった。
小さな体はやがてススリとソファーを滑り隣の男へ密着した。甘えている。甘えられている。未知の体験。どぎまぎと見返す。
純白の笑いが帰ってきた。いわゆる小児性愛じみた背徳を感じた自分を愧じてやまぬほど真白な笑顔だった。心から人を
信じ心から純粋な好意を差し向けてくれる……子供の笑顔だった。頼りない両腕で大人のそれを抱え込み何か他愛もない──
取りとめのなさがとても子供らしい──呼びかけをひっきりなしにやっている。黒目がちな大きな瞳をきらきらさせる鼻の低い
少女はとても悪の幹部には見えなかった。不明瞭な返答にさえけらけら笑い喜んでくれる彼女はやはり人間としてとてもとても
守りたくなる存在だった。
 すみれ色した見事な後ろ髪が垂れた。うち一房が肩にもかかった。その軽さをどうしていいか分からない。そんな顔する
金髪ピアスに
「妹さん? かわいいですね」
 でも深夜の外食はほどほどに。カップルが笑いながら通り過ぎた。リヴォルハインはといえば無言で輝くような笑みを浮か
べながら金髪ピアスとイオイソゴを交互に眺めている。散歩行くの待ってる柴犬。とは社員の描く社長評。
「とにかくじゃ。来てもらったのは他でもない。ヌシら2人の今後をどうするかという話をしたい」
 少女の声が厳かになると同時に金髪ピアスの脳髄に電撃のような感触が走った。
 そして、理解した。

 
.(このコ……500年以上生きてる…………!?)
 リヴォルハインからの提供らしい。イオイソゴにまつわる様々な情報が脳髄を暴れ狂った。

 曰く、武田信玄一派に連なる歩き巫女のまとめ役。
 曰く、伊賀の高名な忍者の娘。
 曰く、伝説的な忍び。
 曰く、大食い。

 妊娠中の女性を拉致しチワワの幼体を埋め込んだという情報さえ頭を駆け巡った。

(そして横文字が苦手!)

(しかも鼻が低いのを気にしている!!)

「これ。話を聞かんかい」
 顎が小突かれた。といっても何が起こっているのか察しているらしい。くの一は笑っていた。

「簡単に事情を説明するとじゃな。りばーす、ぶれいく、ぐれいずぃんぐ、でぃぷれす、くらいまっくす……といった連中はい
ま、とある決戦の下準備のため銀成市をうろついておる」
「の、ようですね」
「わしもまたそうなんじゃが……ヌシら2人に関しては彼らほどの企図や方針を持っておらん」
「はい! はい!! 及公は盟主様からちゃんと命令貰ってるのである!!」
「ひひ。盟主様がどれほど気まぐれで場当たり的か知らぬヌシでもあるまい。方策など無きに等しいわ」
「つまり……最年長のあなたの指揮下に入る方が得策。という訳ですか? 確かあなたはまとめ役……他の、アクの強い
連中(マレフィック)たちの調整役……」
 察しが早い。ローストチキンを大きく噛み破るとイオイソゴは満足げに頷いた。
「でじゃな。金髪よ。結論からいえばりう゛ぉはわしの手伝いを、ヌシはくらいまっくすとの交代を、それぞれして欲しい」
「クライマックス? あの冴えない女とですか?」
「おうよ。奴はいまでぃぷれすともども隣の市との境界線を巡っておる。おっと理由は聞くな。言われたままやってくれれば
後はまあ母ともども逃がしてやるわい」
 逃がす。その単語に唾を呑む。居住地たる銀成市からそうするというコトはつまり──…。
 窓から覗く夜景を見る。何の変哲もない街だ。東京辺りと比べれば娯楽も少ない。学生時代はつまらぬ街だと不満を
覚え華やかな都会に憧れたものだ。

 目を泳がせる。従えば自分たちの安全”だけ”は保証されるのだ。逆らったとしても勝てる見込みなどあろう筈もない。
 今晩出逢った男女のうち誰か一人でも勝てそうな相手がいるだろうか?
 いない。
 そもそも彼らはいったい何を目論んでいるのだろう。
 破壊? ただ単純に街を破壊したいだけなのだろうか?
(それも何か違う。こいつらの敵意とか悪意というのはもっと奥底に押し込められてるもんだ。目的のためなら何であろうと
平気で壊せる恐ろしさがある。けど、壊すだけじゃ満たされないって嫌な歪みもある。だから耐え凌ぐっていう概念がある。
何のために耐え凌ぐ? 簡単な話だ、いまこのコが自分で言った。もっと大きな解放にたどり着くための……)
 下準備。
 リバースとブレイク。
 グレイズィング。
 ディプレスとクライマックス。
 そしてイオイソゴ。
 彼らはそれぞれ何か思惑を秘めて動いている。
 めいめいの好き勝手のためではなく──…

(組織の、盟主の理想を叶えるための? 俺はどうすべきなんだ?)

(俺は……銀成市が好きだ。危機を知ってやっと気付いた)

(なーんもない街だけど……壊されるなんて嫌だ)

(じゃあどうすればいい? どうすれば防げる?)

(戦うのか? 勝てないのに)

 
(だったら)

(だったら……)

(戦士たちに知らせるっていうのが一番良i──…)

 破裂音。思考が現実に引き戻される。音は大きかった。店内の密かな喧噪が途絶した。横を見る。厚手のマグカップを
握るイオイソゴがそこにいて、まさにいま叩きつけたばかりという余韻が漂っていた。白いカップの下部はひび割れており、
小さい破片がいくつか床へ落ちる最中だった。

「考えるのは勝手じゃが……やめた方がいいぞ。古来知り過ぎた奴の末路などまったく無残なもの」

 子供が力余って叩きつけた程度に解釈したのだろう。店内に喧騒が戻ってきた。明け方近くのささやかな喧噪。それに
さえかき消されそうなほど静かな声でイオイソゴは要望を述べた。
「中庸凡庸こそ美徳よ。詮索など全く以て無用。ひひ。無用無用……」
 苦み走った笑いを浮かべながらイオイソゴは何かを金髪ピアスを喉笛に突きつけた。黒い舟形をしたそれはとある筍型の
菓子とほぼ同じ大きさだ。それを親指と人差し指で挟み込み軽く揉みねじる少女の顔が近づくズズイ。
 声は、一層低い。
「僅かとはいえ我々に叛意を催しているようじゃが無駄な事。ひひ。人間という奴はおかしなものでのう。ふだん堕落を貪り
得手勝手やらかしておる癖にいざ澆季末世(ぎょうきまっせい)……滅びを撒くもの近づかば突然倫理をうるさくしおる」
 白い肌と滑らかな髪が眼下で踊る。あどけない少女は相変わらず笑っている。しかし大きな瞳はまったく笑っていない。

「ただなる拒否反応。ひすてりー且つあれるぎーな驢鳴犬吠(ろめいけんばい)を正義とばかり血相を変え唾を飛ばし……ひひ」

ただ射すくめるような光を放っている。声はまったく静かなままだが眼光と同じ清冽(せいれつ)さを孕んでいる。金髪ピアスは
震えた。今まで浴びたあらゆる怒鳴り声より恐ろしかった。彼は悲鳴を喉奥でうろつかせたままただ歯だけをガチガチ打ち
合わせた。それしかできなかった。
「分かるな? 貴様がいま抱きかけている義憤というのはまるで土に根を張っておらん。いや、義憤ですらない。これまでの
腑の抜けた行住坐臥の端々で雇用主なり政治家なり暴力団なりに舌打ちとともに覚えた場当たり極まる怒りじゃ。吹けば
飛ぶ寝ても飛ぶ……小さな、どの対象にも炸裂しなかった庶民の……いいな。理解しろ。貴様はどうしてここにいる? え?」
「ひっ」
「悲鳴などいらんわ。答えろ。え? 今宵さんざ痛苦を味わう羽目になったのは……どうしてじゃ?」
 喉笛に黒い舟形──耆著(きしゃく)という忍者が用いる方位磁石の一種──がめり込んだ。肉が溶けた。ジュらジュら
とした液状に何かに置き換わった。その感触にぞっとしながら震える声で応答する。
「青っち……あんたの仲間のリバースって奴を襲おうとしたから……」
「ひひっ」
 皮肉めいた笑いが漏れた。強姦未遂が少々力を手にした程度で正義面か。尊厳も何もかもせせら笑っていた。
「それもまあ人間らしくて好きではあるが……やめておけ」
 イオイソゴは顎をしゃくった。血走った眼を必死に動かし後を追う。見せつけられたのは……2m超の貴族服。
「筒抜けじゃぞ。ひひ。成程やつの武装錬金は叛意をそそるだけの力を与えはしたが、それゆえ貴様の思考や感情など
丸分かり……。奴のところに行くよ。総てな」
「店員さん店員さんチーズケーキひとつー! 旗立ててね旗ー!!」
 リヴォルハインは元気よく手を上げチーズケーキを注文した。社員の危機にまるで無関心らしい。そのくせ何もかも知っている。
詰んだ。情けない表情で金髪ピアスは頷いた。あなたの嘲笑は正しい。降伏の肯定だった。
「いいな? 忘れるな。おとなしく従っている限りヌシと母御の安全は保障してやる。一時とはいえ仲間は仲間。尊厳は犯さ
ん。れてぃくるの目的は悪だが組織自体の質まで悪であってはならん。助ける、といった以上わしは必ずヌシを守ろう」
 ゆっくりと耆著が剥がれた。喉の肉はみるまに再生した。それを凄まじい半目で眺めた彼女は明らかに欲情していた。
涎を垂らし腹を鳴らし……空腹のもたらす動物的本能に心のほとんどを支配されていた。
「…………」
 唖然と眺める視線に気づいたのか。からぜ気を一つ打つとイオイソゴは
「わしもちーずけーきひとつー!! 旗立ててくれじゃ旗ー!!」
 元気よく手を上げた。声はもう元通り。底抜けに明るかった。今の詰問がウソだったのではないかと思えるほどだ。
(喉も治っているし……夢、か?)

 
 そう思いたい自分の世界の中で絶望的な出来事が起こった。何気なく目にしたマグカップ。それ目がけて白い破片が、
”下”から降ってくるのを。思わず目をこする。床に落ちた幾つかの破片はまさに戻ってくる最中だった。
「ひひ。根来めも斯様な忍法を使っておったかのう」
 あたかも割れた過程を逆再生しているように。
 やがて破片は陶器の鬆(す。穴)にピタリと合致した。ひび割れもいつしか消滅している。
ただ唖然とその光景を眺めているとカップから耆著が飛び出した。横薙ぎの腕で軽やかにそれを受け止めたイオイソゴ
今度はとても意地の悪い笑みを金髪ピアスに向けた。チロリと舌を出す様子はお茶目な少女という風だがそぞろに戦慄
を禁じ得ない。

「とにかくじゃ。くらいまっくすめは明日から演劇に参加することになったからの。りう゛ぉにもそっちへ行って貰おうと思っとる」
 演劇? そんな遊びじみたことのために下準備とやらを放棄するのだろうか? 
 疑問に気付いたのかイオイソゴはくつくつと薄暗い笑みを浮かべた。
「なぁに。実をいうとじゃな。演劇をやってもらった方がわしの目的に合致する。りう゛ぉの調整体収奪もやりやすい」
「そう!!! 及公が武装錬金を一気かつ目立たず発動させるには演劇こそ一番である!!!」
「…………」
「おっと。気を使わせたかの? すまんすまん。わしの目的について語ってやらねば動き辛かろう」

「人探し、じゃよ」

「人探し?」



「ああ。最後の幹部。マレフィックアースの器となりうる者を……わしは探しておる」




「で、マレフィックアースというのは一体どういう存在なんだい?」
 ウィルとデッドの一悶着を仲裁し終えると、ムーンフェイスはニマリと笑った。
「未来の話だけどさ。核鉄とか武装錬金とかに関する面倒臭い仮説があるんだよね」
「ほう」
 ウィルを見る。相変わらず面倒くさそうな表情で後頭部を掻いている彼が”そういう”存在だというのは以前から知っている。
 未来から来た。だから、ウィル。
「でもボク的には荒唐無稽だしどうせ話しても馬鹿にされるというか面倒臭いし……やーめた
 赤い筒がウィルの脇腹に突き刺さり、そして吹き飛ばした。硝煙めいた匂いにムーンフェイスは気付いた。爆破の反動で
浮き上がったデッド。それが頭突きをかましたのだと。

「なあおにーちゃん」

 筒は何事もなかったようにムーンフェイスを振り仰いだ。ウィルはその横で尻もちをつきながら面倒臭げに頭をかいた。

「不思議に思ったコトあらへん? 『なんで核鉄は100コしかないんやろ』って」
「あとさ。『本当に核鉄は100コしかないのか』って考えたコトはある?」

「まあ確かに不思議ではあるね。錬金術の歴史は長いんだ。誰か……それこそパピヨン君のような存在が101番目以降
の核鉄を拵えていてもいい筈だ。或いは……造られるのではなく発見という形でもいい」
 何しろ。綽綽とした態度のままムーンフェイスは鋭い笑みを浮かべた。
「有史以来総ての核鉄を管理しきれた組織はないよ。ある程度集めては散逸の繰り返しだ。というのに誰も彼もが核鉄は
100個だと信じている。どこかに101番以降が埋もれているかも知れないというのにだ。信じている100という数が余りに
キリが良すぎるのも良くないね」

 人為的な何かを孕んでいる。何者かの都合がそこにあるような。

「核鉄が人の手によって作り出されたものであるならその研究成果を示す文献ぐらい残っていても良さそうだ。そうだとす
れば……いや、そうでないにしてもか。誰か1人ぐらい作ろうとするだろう」
「なにしろホムンクルスの数は無尽蔵やからな。ちょっと幼体作って投与するだけで化け物の群れが完成や。100個しかない、
核鉄で対抗するにはあまりに分が悪すぎる」
「ホムンクルスの私がいうのもあれだが核鉄も幼体のように量産出来たら……どれほど素晴らしいだろうね」

 
「けど、ボクが見てきた長い歴史の中でそれをやろうとした人間はいなかったよ。いつもわずかしかない核鉄にすがり、絶
望的な戦いを繰り広げてきた。どの歴史でもそう。ずっと何度も。……不自然なほどにね」
(むーん?)
 違和感が奔る。何かおかしい。しかしそれも介さずウィルは乱れた髪もそのままに大きな生あくびをした。
「だからさあ。荒唐無稽な仮説だけどひょっとしたら正しいのかも。よく考えると疑う方が面倒臭いし」
「むーん。焦らされる方になって初めて分かるもどかしさ。そろそろ結論を急いでくれるとありがたいんだけど」
 筒は、薄く笑ったようだった。

「もし、やで?」

「核鉄自体が武装錬金やったらどうする?」

「人の闘争本能を形にし戦端を開くための……『武器』の武装錬金やったら」

「手にした瞬間、抜本的な解決をできなくするような強制力があったとしたら」

「武装錬金使うたび消費した体力や精神が……」

「核鉄の創造主のとこ行っていたらどうする?」

「核鉄の創造主だけ利するためだけに使われていたとしたら」

「おにーちゃんはどう思う?」




「うぃるめがいうには世界という奴は無数にあるらしい」
「並行世界って奴ですか? でもそういうのって漫画の話じゃ──…」
 ひひっ。少女はすすり泣くような声を立てた。そして人差し指を金髪ピアスの胸に突き、「いやいや」と間延びした声を上げた。
「現に最近それを証明する輩がこの街に来たではないか。え? ヌシもあの場で見た筈じゃ」
 あの場……? しばし考え込んだ金髪ピアスは「あ」と息を呑んだ。
「ディケイド」
「そうじゃ。次元を渡り歩くという世界の破壊者。わしも見たよ。ヌシ同様、あのメイドカフェ野次馬してたからの」
「そういう輩がいらっしゃるというコトはである!! ウィルの並行世界説! まさに正しいのであろー!!!」
 沈黙に耐えかねたのだろう。2mを超える美丈夫がやおら立ち上がり拳を元気よく突き上げた。
「あの勤労に対する敬意なき少年はいった!!」

「世界は無数に存在する!! と!!」

「で、じゃな。次元というか宇宙というか、とにかくそういう広大な舞台の中には、世界同士近場により固まり、競合を繰り返
す……そんな地帯があるという」
「競合、というのは?」
「戦いである!! 世界の中で戦いを展開し、何やら及公らぶっちぎったドデカイ高次の存在に見せるらしい!!」
「御前試合よろしく判定を仰ぐのじゃ。であるからしてその戦いという奴は”引き起こされた”奴が多い。うぃる坊の与太話の
錬金術師が如く他の世界の存在に気付いた連中が舵を取り、いわゆるげーむますたーとして主導する」
「戦いの質が高ければ高次の存在どもはエネルギーを放出し、その世界をますます繁栄させる。何柱もの神がかった存在
が介入するコトもしばしばだ。世界の動きが滑らかになり色が鮮やかになり美しい音が満ちるのだ」
「むろん戦いの主催者どもも莫大なえねるぎーを手にする」
「しくじったとしても我々が武装錬金に費やしたエネルギーそのものは主催者を成長させる!!」
 頭が痛くなってきた。リヴォルハインの武装錬金といい、今晩は金髪ピアスの脳髄が軋みに軋む時らしい。


「ボクのいた未来の与太話だけどさぁ。えーと。『むかし他の世界の存在に気付いた錬金術師が居ました。彼はずっとこ
の世界を良くしたいと思っていました。他の世界は戦いの代償に発展する可能性を秘めていました。だから彼は研究を
重ねこの世界に戦いを蒔こうと考えました。まず自らをホムンクルスにし悠久の命を獲得した彼は人喰いの衝動を持つ
この生き物を”敵”とし、同時に対抗しうる”武器”を作りだしました。しかし敢えてその数は少なくしました。圧倒的不利の
”味方”が”敵”を全滅するその過程を面白おかしく演出できるよう』……そんな寓話」

 
「確かに、荒唐無稽だね。少なくても私は聞いたコトがない」
「しかもその錬金術師、自分が斃されたら戦い終わるから肉体捨てて精神生命体みたいなんになったらしいで。核鉄っちゅ
う武装錬金……精神具象化したアレとは別に。無茶苦茶やろ?」
 笑うしかない説だろう。錬金術につきまといがちな四方山話としかムーンフェイスには思えない。
「真偽はともかく……とかく世界が戦いに傾きがちなのは間違いない」
 つまりだ。なめらかに掌を翻すとムーンフェイスは
「核鉄が100しかないせいで人間の私たちに対する敵意はずいぶんと助長されているからね。もちろん人喰いをやめようとも
しない私たちにも責任はある訳だけど……むーん。そこはなかなかやめられない」
 もし核鉄が無限にあり、人類総てがホムンクルスへの対抗手段を獲得できたとすれば?
「戦い以外の選択肢だって取れる筈だ。文明を発展させ力と錯覚させるさまざまの器具や手順を編み出せば猛獣さえ見世
物に貶める。それが人間だ。現に彼らは本来素手で勝てない捕食者さえ隣人として愛しんでいる。檻を抜け、家族に牙を立
てない限りは、だけど」
 といった。これにはデッドも大いに頷き──猛獣とホムンクルスの頭脳レベルの差を入れていないという反論もわずかに
混ぜたが──次に戦団への批判を上らせた。
「奴らいまホムンクルスへの対抗手段を独占しとるようやけど、それは別に人類さん全部から頼まれた訳やないからな。秘
密結社とか何とかのたまって勝手にやっとるだけや」
 核鉄の数が少ないからこそそれが人類全体の一般的な通念とならず、通念とならないばかりにローカル、またはニッチな
組織だけが一手に掌握している。およそそういう公式性のない新興宗教団体にも似た寄り合いというのは腐りやすい。デッド
はそう断言した。
「ウチのおかん社長でよう言っとったけど、親族経営じみたアレは結局ナァナァで組織を堕落させるもんらしい。だからウチを
継がせるつもりはなかった……ああ話ズレたな。とにかく戦団や。リヴォもゆうとったけどアイツら共存とか、抜本的な解決
は何も考えてない。ただホムンクルス殺して人間守ればいい。それだけや」
 望まずしてホムンクルスになったものだっている。デッドはある少女の名を挙げた。ムーンフェイスも頷いた。
「ヴィクター君のような不都合が起きれば我々でも思いつかないような卑劣な手段で対抗し、隠蔽する。解決も図らぬまま100
年後まで先伸ばしにし」
 現代人を大いに苛んでいる。
 そんな構造を作り出した理由の1つは核鉄の少なさにこそ求められるだろう。核鉄が少ないからこそ戦士も少ない。肉体面
ではいうまでもなくホムンクルスに劣る戦士たちだ。武装錬金を手にしてなお殺される危険性を秘めた戦士たちが些少な数で
──自らのみならず他者を守るという条件付きで──戦うとすればこれはもう手加減知らず。宥和を捨て、闘争本能を振り
絞り殺戮を繰り返すしか術はない。するとホムンクルスたちも抵抗を選ばざるを得ない。核鉄の数が限られているからこそ
奪おうとする。戦士を殺せばそれだけで2倍安全だ。やらない馬鹿はいない。激化する。戦いは。
「そんな流れのようなもの……舞台装置を核鉄やホムンクルス以外の何事かに置き換えれば国際情勢にさえ通用する、
誰かが源から引いた無意識下の闘争本能。人類全体が多かれ少なかれ内包し共有する戦いへの意識……君たちが寓話
じみた核鉄の創造主とやらに形を求める見えざる流れこそ」
「そう。マレフィックアース」
「この星を凶(まが)くする奴や」


「りう゛ぉの分散こんぴゅーてぃんぐというのはじゃな。無論研究の裨益(ひえき)、助けにするためでもあるが……もっと大き
な検証のために存在しておる」
 コーンスープを飲み干したイオイソゴはぽつりと呟いた。あどけない外見がウソのような厳かさだった。
「我々が仮定するまれふぃっくあーす……核鉄の創造主の構造というものが論理的に成立するかどうか。それを試すため
でもある」
「ええと。武装錬金の発動者からエネルギーを集められるっていう、アレですか……?」
「そして!!! 各自めいめいの”知恵”という名のエネルギーは集約できるコトは証明された!!」
 話を聞くうち金髪ピアスにも彼らの目論見が分かってきた。
「つまり……居るかどうかはともかく。あなた達はそのマレフィックアースと名付けた何か巨大なエネルギーを──…」
「そうじゃ。適した器に下ろしたい。憑依させるという方が分かりやすいかの?」

 
 とここで言葉を切り、イオイソゴは席を立ちどこかへ歩きだした。どこへ行くのかと眼で追ううち彼女はドリンクの供出装置
やコップの並ぶスペースで立ち止まった。笑いながら指さしたのはスープの鍋だった。お代わり自由。先ほど何やら涙目の
店員が3度目の補充を行ったそれの前にイオイソゴはカップを10個ほど置いた。銀色のお玉から琥珀色の液体がばしゃ
ばしゃ降り注ぐのを金髪ピアスはただ黙然と見送った。今ごろ厨房では5リットルほどのスープがコンロの上で煮立ちつつ
あるのだろう。涙とともに、生まれているのだろう。
「ひひ。器はまさに器よ。斯様に汲み上げる。旨味のあるものを分配し我々の理想のため使役する」
 あ。と金髪ピアスは息を呑んだ。
(コイツのいう器っていうのはカップの方じゃねえ。スープ鍋の方だ。熱とか配合を経た純度のあるモノを自分たち……カッ
プに注ぐための)
「そうである!! しかもあのスープ鍋と違いマレフィックアースの器は汲めども汲めども尽きぬのである! 井戸水のよう
にこんこんと純度ある何かを無尽蔵に!!!」
 リヴォルハインの言葉に背中が粟立つのを感じた。何故ならば……。
 少女はとてとてと戻ってきた。大きな鍋を両手で抱えて。
「もらったもらった!!!」
 双眸を輝かせた彼女は見せるつけるように鍋をぴょこぴょこ前後させている。体の半分ほどあるそれはまだかなりの熱を
持っており傍にいるだけで皮膚がチリチリ焼けそうだった。
「いや、勝手に貰っていいんですかソレ」
「んー。店員さんがもう鍋から直で呑んでええと言ってくれたし、いいじゃろ!」
 幼児特有の高い声を上げながらイオイソゴは両目を細めた。向き合う不等号の形はバブル経済より景気が良かった。
(あれだけお代わりすればそうなるわな)
 厨房から出てきたウェイトレスが壮大な溜息とともに汚れたカップのタワーを回収するのが見えた。ごめんなさい。横目
を這わせながら内心謝る。
「で、何か言いたげじゃがなんじゃ?」
 いや、その。しばらく口ごもるがどうせリヴォルハイン経由で──リルカズフューネラルという武装錬金は社員の意識が社
長に筒抜けなのだ──バレるのだと意を決し、恐る恐るだが具申する。
「だったらあなたたちは……負けないんじゃ」
 マレフィックアースという構造に対する意見である。
「ま、そうなるじゃろうな。仮説が正しければ武装錬金に費やした体力や精神力はまれふぃっくあーすのもとへ行く。我々が
斯様な存在を擁するとすればこれはもう……」
 ワンサイドゲーム。
 戦士たちはマレフィックたちを斃さんと決死の思いで武装錬金を展開し、向かってくるだろう。
 だがそのために消費したエネルギーは皮肉にも斃すべき敵の1人に。
(還元される)
 強化される恐れさえある。
 しかも。
 器を経由し濾過されたエネルギー。マレフィックたちはそれを『何か』に使うつもりらしい。
 リルカズフューネラルという民間軍事会社の武装錬金が分散コンピューティングの要領で鐶光の──リヴォルハインからの
情報で金髪ピアスは”青っち”の妹がどういう存在か知った──5倍速老化の治療法を模索しているように。
 だが同時に疑問が浮かぶ。
(それだけのエネルギー……いったい何に使うんだ?)
 ただ何かを壊すためという風ではない。むしろ破壊さえフェーズの1つにしか思っていないフシがある。好例がリバースだ。
人を撲(なぐ)る。一般的な価値観からいえば罪悪感と自責で押しつぶされるおぞましい行為さえ軽々とこなしていた。意思
を伝えたい。恐ろしく人間じみた衝動を恐ろしく人間離れした膂力で発散し、ぬけぬけと暴力嫌いさえ公言していた。
(世界総てをぶっ壊したいとかいうタイプじゃないんだよなあコイツら。多かれ少なかれ世界って奴が好きみたいでその部分
だけは壊したくないって思ってるみたいだ。例えばクライマックスがアニメヲタクなように)
 先ほどイオイソゴに釘を刺されたにも関わらずの詮索である。猫さえ殺す心のタイプ、野次馬根性はどうも抜けきれない。

(ねーねーキンパくん)
(なんだよ)

 思考を中断したのは……
 念話。リヴォルハインからの通達だ。

(先ほど聞いたけどである。マイドクトア……リバース=イングラムが邪魔なのであるか?」

 どうやら「襲う」という単語をそのまま理解したらしい。どういえばいいか迷っていると、彼はこういった。

(実は及公、マイドクトアを以前より亡きものにしたいと思っている!!)

 
 聞けば彼女の武装錬金がリヴォルハインの増殖速度を極端に遅くしているらしい。

(だから殺す? いや、敬意はどうなんだ敬意は!! お前作ってくれた奴だろうが!!)
(うむ!! その点については及公大変に感謝していらっしゃる!! だからマイドクトアの妹の治療法についてはかなり
本気で演算中だ!! 実際一時期、鐶光めの特異体質を我が身を以て再現し、あれこれ考えられたのである!!)
(あー。だからクライマックスと会ったとき変身してたのか? でもなんでイソゴばーさん)
(ゴばーちゃんが好きだから!!! なぜならば会うたび塩味の飴とかくれる!! 今日はくれるかなくれないかな!!)
(知るか!!!)
(とにかく鐶光めの老化については治す!! ウソも騙しもない正しい!! 研究結果において!!)

 だが、とリヴォルハインはこうも伝えた。

(その完成結果の提供を以て及公のマイドクトアに対する敬意とする!! それが済めば及公の理想がため邪魔なので
消していい!! マイドクトアさえいなくなれば及公の増殖速度は爆発的に増大する!! 比例して処理速度も!!)
(…………)
 仲間意識も何もない男だと思った。そもそもつい今しがたイオイソゴを好きだといったばかりではないか。「組織の質自体
は悪とせん」そう断言し、仲間への温情を見せた彼女を。にも関わらずリヴォルハインはヌケヌケと仲間殺しを宣言してい
る。空恐ろしいものを感じた。
(及公は大義をお持ちだ。達すれば錬金術の災禍に苦しむ人たちを救える大義。マレフィックアースの敷いた果てしない戦
いの宿命を消すコトのできる大義。それを達するためならば多少の犠牲などお厭いにならぬのが及公!!!)



(だから!! リバース=イングラム殺害を……手伝うのだ!!




(こいつ……)


 もし気取られ始末されても他人ごとなのだろう。無数いる社員の1人が消える。その程度にしか扱われていない。


(なんて傲慢な奴だ!!)


「ひひっ」

 苦悩する金髪ピアスを流し眼が一瞥した。気取られたか。じわり焦燥する金髪をよそに老女は笑う。何も知らないかのご
とく、純粋に。

「ともかくじゃ。わしはまれふぃっくあーすの器を探すべく銀成学園に潜入中じゃ。りう゛ぉよ。明日少し手伝え。そろそろ鳩尾
無銘めがくるころじゃ。匂いを誤魔化せ。社員にせずとも柑橘の香水つけさせるぐらいできるじゃろ」
「あいさー!!!」
「さーて、探そうかのう。まれふぃっくあーすの器」

 イオイソゴが指折り上げる器の条件。
 それは。



「まずは稟質(ひんしつ)。生まれつきその本質が清らかであることが肝要」

「次に現状。幸福であってはならぬ。幸福であってはならぬのじゃ…………」



 
 そして彼女はもう1つ言葉を紡ぐ。

 しばらくのち、銀成学園廊下で毒島に遭遇した時。
 ついぞ彼女には言わなかった情報を。

「最後に。武装錬金」

「器として、分配に適した形状のものを」

「発動できる人間。……それこそ我々の悲願に必要」



(うぃる坊は言った)


【確か居たんだよねー。”どの歴史”だったか忘れたけど正にマレフィックアースにピッタリな奴】



【顔も名前も忘れたけど……】



【この時期、銀成学園に通っていたのは確かだよ】




「ひひ。りう゛ぉの武装錬金特性。……金髪めの母親が”ああ”なったのは武装錬金を半ば強制的に発動させられた為」

「そして演劇。これらをうまく活用すれば器を一気に見つけられよう。ひひっ!!」

「大胆かつ秘密裏に。相反するが可能じゃ。うぃる坊の見た歴史。その一つが実証しておる」

「仮に無理でも最有力候補に縋ればいい。ひひ。寝返らせるなど容易いわ……」

「恋慕。満たされなさ……揺らいでおるよ奴は。少女らしさとやらを取り戻したばかりに」

「かの武藤カズキの妹めに寄せる複雑な感情。それをつけば離間など。ひひっ。容易い。実に容易い……」



「いまのところマレフィックアースの器の最有力候補は」





「? 珍しいわね。私の方に来るなんて」
 書きかけの台本から目をあげると、若宮千里は来訪者に呼び掛けた。声は届いているようだが来訪者はドアの前で止まっ
たままだ。ただ小さな肩ごと胸を上下させているのは分かった。それで千里は来訪者がどうやってきたのか知り
「ダメでしょ。廊下を走っちゃ」
 柔らかい微笑を浮かべた。夕日が眩しい教室だった。差し込む光のオレンジは影の暗さと強烈にコントラスト。でもそんな
光景はなんだか劇的で来訪者にぴったりだなあと千里は思った。
「……うん」
 鼻にかかった甘い吐息を漏らすと彼女はまた走った。今度は千里に近づくために。
「もう」
「廊下じゃないもん」
 呆れる千里の手を取ると、来訪者は悪戯っぽく笑った。そしてしばらく他愛のない会話──とうとうまひろが秋水に対し

 
コマを一歩進めたとか台本の進捗状況はどうだとか、監督が急に演劇部を任せてきて大変だとか、でもそれが満更でも
なさそうだとか少しはにかんだ「そんなコトないよ」とか──普通の、女子高生の会話の後、彼女は千里にこう頼んだ。
「ね。千里。寄宿舎に戻ったら……髪。また梳いてくれる?」
 断る理由はなかった。千里はその来訪者に少しあこがれていた。
 金に輝く滑らかな髪。日の光などまるで知らないような白い肌。人形のように整った愛くるしい顔。
 どれをとっても「いかにも地味な」自分とは対極だ。髪を梳くのはせめて憧れをもっと綺麗にしたいという心情のなせる
わざかも知れない。
 筒に小分けした長髪をいじりながら「いいかな。大丈夫かな」と不安げに見つめてくる来訪者……大事な友人の頭を
軽く撫でる。返事はそれだけで十分だった。後は来訪者が「わー!」と嬉しげに抱きつくのを困り顔で宥めるだけだ。


 千里はこの時まだ知らなかった。一見無邪気な友人がどういう人生を歩んできたのか。

 その正体を。

 夥しい血を流し死に瀕する自分を冷たい爬虫類の目で見る未来を。
 のみならず正体を明かし、非情な現実を突きつける未来を。


 何ひとつ知らないまま千里は彼女の名前を優しく呼んだ。



「ヴィクトリア」



「そう。ヴィクトリアや」

「ヴィクトリア=パワードなんや。器の最有力候補は」



「ほう。それはヴィクター君の娘だからかな?」
「というか……」
 だぼついた長袖をけだるげに垂らし、ウィルは答えた。
「あんたの相棒でしょあのコ」
「?」
「だーかーらさー。あんたヴィクトリア=パワードと組んで大反乱劇を開催してたじゃない。忘れたの」
「あのコが器の最有力候補なんはその辺りのせいやな」
「…………?」
 意味が分からない。解説を求め赤い筒を見ると朗らかな関西弁が漏れ出した。
「あー。悪かった。こいつの言うとんのは別の時系列の話や。違う歴史の話」


【銀成学園】

「マレフィックの1人。『水星』のウィルどのの武装錬金。その形状は不明。しかしながら」

「時間を操れるのは確か絶対間違いなし。ゆえに」

 そこで小札はマイクをきゅっと握りしめた。俄かに下がった声の声トーンは聞く者総てに戦慄を与えた。

「過去に飛び歴史を歪め変貌させるコトなど朝飯前」



「今回の歴史はいい感じだよー。ま、そうじゃないと困るけど。マレフィック。正史じゃ今から10年前に全滅してた筈だけど
いろいろ頑張ったからいまこうして坂口照星とか誘拐できてる」
「正史、か。確か前にもキミはそんなコトを言っていたけど」

 
そのまんまの意味だよー。知らないの?」


 ウィルはムーンフェイスを見た。猫のように悪戯っぽい瞳を濡れそぼらせ。


「本来の歴史じゃヴィクターたちが月に消えた後、時間は何事もなく過ぎた」

「何事もないまま津村斗貴子たちはパピヨン討伐に赴きそして武藤カズキを月から連れ戻す」






「…………」


「…………」

 ムーンフェイスは沈黙した。たっぷり20秒は黙った後、


「むーーーーーーーーーーーん?」


 ウィルを理解した。本当の意味で。




【銀成学園】

「こ、ここまで来れば大丈夫だよね?」
「ああ」

 屋上に続くドアの前でようやくまひろは秋水から離れた。俯き加減の彼女は何をいえばいいか分からなくなったのだろう。
急に口をつぐんだ。栗色の髪の間から見える額はうっすら湿り桜色で、不覚にも秋水は「綺麗だな」と思った。
 そういえば、と気づく。

 彼女との距離が縮み始めたのは、この屋上の踊り場からだった。


 いま目の前に広がる扉を開けて、そして出会い──…


 ウィルは微笑した。


「少なくてもこの時期──────────────────────────────────────────」


                               「………………………………早坂秋水と武藤まひろは接近しなかった」


 言葉少なだがいつもの会話をする。ギクシャクとしていたまひろの体から力が抜けた。
 いつも通りの秋水に「秋水先輩。大人」とでもどんぐり眼をぱちくりさせ。
 そしていつものように笑った。笑って階段を下り、すぐ途中の踊り場で手を振ってぴょこぴょこ去って行った。

 そんなまひろの姿を見るのが、秋水は好きだった。

 
 いつの間にかそんな何気ない光景がとても好きになっている。そう自覚した。
 くすぐったい気持ちをどうにかしたくて、彼は頬を少しだけ掻いた。

 そして扉を開ける。
 彼女と出会った時とは違い……行く手に誰がいるか確信した上で。



                                                     「……つまり、本来の歴史には」


 ムーンフェイスは努めて静かに返答する。らしくもない。頬を流れる汗にそう思う。足元がいまにも崩れていきそうな不安
がある。


                                                             「うん。なかったよ」


 見知ったいくつもの顔がこちらを見る。
 まず目に入ったのは剛太と桜花だ。当たり前のように隣同士で、彼は剛太に礼がいいたくなった。
 鐶との戦いのさなか、傷ついた桜花を励ましてくれた戦友を。
 あの戦いがあったからこそ、桜花も開けた世界で知己を得た。



 秋水は心からそう思い、彼らを見た。



                                             「音楽隊と戦士との戦いなんか……なかった」


 とても賑やかな連中だった。
 もしカズキと出会ったらどういうやり取りをするのか。秋水は時々らしくもなく想像する。


                                                               「正史にはね」


                                       「ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズなんてのはいなかった」


                           「総角主税も小札零も鳩尾無銘も鐶光も栴檀貴信も栴檀香美もいなかった」


「武藤カズキに出会えるワケ、ないじゃない」


 ウィルは生あくびまじりに話す。話しつづける。
「ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズなんていうのは歴史のズレが生み出した存在に過ぎない。マレフィックが10年前、
あるべき手順で全滅しなかったばかりに生まれいでた徒花さ」

「そして歴史のズレは他にも細かな相違点を生んでいる」

「正史じゃ根来忍と楯山千里はコンビなんか組まないし」

「ヴィクトリアも銀成学園に招かれない」

 いまの歴史にたどり着くまで無数の歴史が生まれ同じ数だけ上書きされ、消えていった。
 ウィルは面倒くさそうに吐き捨てた。

 
「防人衛が五千百度の炎で焼け死ぬ歴史もあった」

「武藤カズキの初武装錬金。歴史によってタイミングはまちまち。巳田を殺す奴もそうさ」

「円山と犬飼が武藤カズキではなくヴィクター討伐に赴く歴史もある。そこには早坂秋水も居たかな」

「歴史は武装錬金の位相さえ変える。バブルケイジの特性……クロムクレイドルトゥグレイブの創造主……」

「人もだ。鈴木震洋は殺人経験アリの凶悪な未成年、坂口照星はいまと真逆の」

「武藤カズキの後輩の一人。女だったかな。そいつの父親がホムンクルスだったり」

「ヴィクターがエナジードレインでヴィクトリアを殺すっていうのもある」

「そうそうムーンフェイス。あんたが佐藤と浜崎と一緒に銀成学園の演劇発表襲う歴史もあったよ」



 歴史は変わった。変え続けてきた。ウィルは言う。何の感慨も込めず。

「西山とか言うホムンクルスの捕縛された経緯」

「剣持真希士。邪空の凰。彼らの戦い。組織の内実……首魁の正体」

「防人。千歳。火渡。彼らが現在に至るまでの軌跡」

「そして……100年前。ヴィクター討伐の真実」


「どれも正史とは違うよ」

「わずかな差異で済むものもあれば」

「捏造としかいいようのないほど様変わりしたものも」


 総てウィルの仕業や。歴史改変のせいや。デッドは笑いながらそう述べた。


「随分スゴい話になってきたね。神にも等しい力だ。世界を支配するのも夢じゃない」
 なのになぜ一共同体の幹部に甘んじているのか。そうムーンフェイスが聞くと
「怠けるためー」
 ウィルは無表情でピースした。




「どしたんおにーちゃん。急にすっ転んで」
「い、いやその……ウィル君。キミはとても変わっているね」
 埃にまみれた長身をよろよろと立て直しながらムーンフェイスは反問した。震える声には呆れと戸惑いが存分に混じって
いる。
「そやな。フツーに考えたら歴史改変とか莫大な手間と労力がかかる。いろいろ調べていろいろやって……うまくいくまで
付き合い続ける根気の作業や」
 怠けるだけならそれこそ人の来ない秘境で延々眠っている方が効率的……ムーンフェイスの見解と見事一致したそれ
を赤い筒は並べたてた。滔々と。
「えー。やだよそんなの娯楽のない。ボクはさー。冷暖房の完備した部屋で毎日毎日面白いものだけ見てゴロゴロしたいのー」
 どこから出したのか。大きな枕を強く抱きしめウィルは首を振った。いやいやをするような仕草は恐ろしく子供じみていた。
「なんかボタン押すだけで食事が来てさー、寝てる間に誰か洗濯とか布団干ししてくれて、ゲームも発売日に最強のセーブ
データ付きで届くような。あ、食事ボタンじゃなくてもいいや。ストロー。部屋にでっかいストローつけよう。ウィダーインゼリー
みたいな噛まなくていい奴ちゅーちゅー吸う方が面倒くさくない!!」

 
 眠そうな目を一瞬だけ開きキラキラ輝かせるウィル。デッドは言葉さえなくしたらしい。ムーンフェイスもその声を震わせた。
「分かったよ。つまりキミはそういう生活を手に入れるため”だけ”に歴史を変えて変え続け」
「そう。ホムンクルスの自分が戦士に襲われたりしない、戦いのない、ぬくぬくとした庇護の下、好き勝手やれる世界を作るため
”だけ”ウチらに加担しとる。自分1人で戦うつもりなんかサラサラない」
「ある意味、働き者なのかものね。歴史を変えるのは確かに莫大な労力がいる。けど」
「ホムンクルスが戦士に狙われる」、その一文が不動の常態となり果てた社会でウィルの理想を全うするのは恐ろしく困難だ。
生きている限り人喰いは避けられない。多くのホムンクルスはその対策にさえ苦慮し生活を汲々とさせている。人並みの生活
さえ保持できるかどうか。
「ボクは逃げたりしたくないもん。だって面倒くさい。一生懸命逃げても戦士はまたボクを見つけるんだ。人がせっかく一生懸命
考えて引っ越しても数か月でブチ壊しだよ? ほんとー、戦士とかー、イミフー。ちょっと人間食べるだけですーぐブチ切れて
襲いかかってくる。ボクだって苦しんでるんだよー? 食人衝動に。なのにそれ解決しようともせずさあ、殺す殺すの一ツ覚え
でボクの楽しい生活ブチ壊し。まったく。あほだよ。アイツら」
「だからそんなものに逐一対応する位なら……多少なりとも労力を払い、ホムンクルスが……いや。ウィル君が。すごしやすい
世界を作る方が結果的には楽かもね。何しろ、ホムンクルスの人生は長い」
「そー。人間よりずっとね。しかも病気も老いもないし」
「歴史いじれるこいつがジブン人間に戻さん理由やな。はは。ここまできたら老後めざしてコツコツ貯蓄しとるおっさんと変わ
らへんがな。つくづく自分本位なやっちゃ」
 仲間意識もなければ盟主への忠誠心もない。そんな男だ。やや嫌悪交じりに話すデッドに向かい
「だからさー。ボク、いくら怠けても大丈夫な世界が欲しいんだもん。だから何度も何度も時間飛んでさあ。歴史変えようと
頑張ってたんだよ? でもいつもいつも『アイツ』に見つかってダメになってさあ何度も何度もやり直し……」
 ウィルは枕にくたりと顎を乗せた。そして目を細めた。
(……アイツ?)
「というかさあ。この世界なんか変なんだよねー。1回大きな終わり迎えてるみたい。その後2回、何か強力な力の隆起が
起こってさ、歴史が再始動してる感じだよ。しかもその後何度か細かい力が加わって、後から後から細かな修正されてる
ような……お陰でとても改変しやすいんだけど、ヘンなんだよねー」
「むん? キミのような歴史改変者が他にいるだけなんじゃ?」
「んーん。『アイツは確かにそうだったけど』、違うよー。本来の歴史そのものが、歴史自体の持つ力で変わってるの」
「もし例の核鉄の創造主やら世界の競合とかその傍観者の説が正しいとすればや。それらの妙な圧力とか勢いが、この
世界の成り立ちを他の並行世界と違うものにしとる……こいつそんなコトいうねん」
「そうそう。あ。生放送の時間だ。見ていいデッド?」
「ニコ動ばっか見とんなボケ!!」
 ウィルは携帯電話を取り出した。すかさず赤い筒が炸裂し粉々になった。
「うー。いいじゃない。適当に見てダラダラ笑うにはピッタリなのに……」
「だいたいなんでそのケータイ、未来のネットが見れんねん!!」
 また言い争いだ。ムーンフェイスはまぁまぁと笑いながら仲裁した。


「まあ、音楽隊の連中についてはどうでもいいよ」
 ムーンフェイスは軽やかに指を弾いた。
「重要なのは私だよ。私は正史に居たかい? 正史の中で……果たして地球を月世界よろしく荒廃させていたかい?」
「うん。少し未来の話だけどねー。ただ」
「ただ?」
「そのせいかな。ボクが歴史に介入できるようになったのは」
「ま、きっかけの一つではあるな」
 デッドは頷き
「真・蝶成体……やったかな。完成はもうすぐや」
 と言った。ムーンフェイスは「ほう」と会心の笑みを浮かべた。浮かぶ感嘆は誰がためか。
「いちおう試作品は浜崎君で試してはいたけど、そうか。成功したんだね」
「けど、よくなかったな。本来の歴史やと真・蝶成体は地球を破壊し尽くす。おにーちゃんの望みどおり。止められるものは
おらんかった」
「だからこそ、良くなかったんだよねー」
 ウィルは溜息をついた。

 
「その時代に1人。歴史を改編しようとする奴が居たんだよねー。親と仲良くしたい……そんな感じのつまらない動機でね。
実際歴史改変は叶ったよ。運よくというか運悪くというかタイムスリップ可能な武装錬金があって、だからそいつは望みどお
り未来を変えた。今から少し先、パピヨンの元を訪れ、両親と協力し……真・蝶成体を打ち倒した」
「未来は平和になった。荒廃したんはなかったコトになった」
 ムーンフェイスはやや気分を害したようだった。一瞬瞳も口も醜く歪め恐ろしい顔つきをした。
「あー。おにーちゃん怒った?」
「むーん。当然だよ。私の理想が阻まれるとあってはね。まったく余計なコトをしてくれた」
 くるりと踵を返し表情を見せなくなったムーンフェイスの背後で筒がケタケタ笑った。
「あ。ひょっとしたらそいつタイムスリップさせたのウィルやと思っとる?」
「キミたちが私に話した情報から想像する限りはそうだね。まあ、まだ何か隠しているなら別だけど」
 怒っとる怒っとる。弾けそうな笑いの中でウィルは面倒くさそうに後頭部をかいた」
「違うよー。それをやったのは別の奴。でもさあ」
 興味深そうに振り返ったムーンフェイスにウィルは目を輝かせた。
「知ってる? 歴史改変って奴は難しいんだ。 何か1つ不都合を消せば新しい不都合が生まれるんだ。まあそれは主観
の話なんだけど、歴史を変えた結果別の何かが生まれてしまうっていうのは結構ザラだよ」
「もう焦らすなやウィル。結論からいうとな。真・蝶成体が地球全体を荒らしまわった結果、結構な数の核鉄が散逸したんや。
殆ど所在不明……人知れず眠っていたものがたくさんや」
 ここまで言えば分かるやろ? デッド=クラスターは柔らかい声を期待に弾ませた。
 ムーンフェイスも、笑った。
「その所在不明だった核鉄がウィル君。キミの手に渡った訳だね?」
「そ。真・蝶成体が正史どおり地球を荒廃させていたなら絶対ボクの手には渡らなかったであろう核鉄がね」
「そもそも正史やとウィルの祖先、真・蝶成体に殺されとったくさいしなー」
 存在しない筈の存在。現存しないはずの核鉄。
「ありえないもの同士が出会い……そして歴史改変が始まった」
 高らかに読み上げたムーンフェイスはしかし腰に手をあてたままふと動きを止めた。
「しかしおかしくないかい? 真・蝶成体を斃すためはるばる未来からやってきたというその人物はいったいいま、何をして
いるんだい? ウィル君。キミが歴史を変えたばかりにレティクルエレメンツは生き延びてしまっている」
 そもそもその改変を呼んでしまった張本人ではないか。
 なのになぜ、真・蝶成体のときよろしく来ないのか?
「まさかキミたち10人合わせて真・蝶成体に劣るというコトもないだろう」
「介入ならしてきたよ。何度もね。随分責任を感じていたようでさあ。もう必死必死。鬱陶しいのなんのだよ」
 ぺたりと座り込み少年は
「だから何度も歴史を変える羽目になってさあ。ああ面倒くさかった」
 堕落の赴くままうつ伏せに寝転んだ。
「ま、真・蝶成体も良し悪しっちゅーコトやな。ウィルが核鉄が持てたのもウィルが邪魔されたのも元をただせば真・蝶成体のせ
い。これやから歴史改変はややこし」
 ウィルは軽く息を吸い、寝そべりながら手を振った。

「本当は殺したかったけどね。色々あってできないんだ」

「でも再びこの時代の連中と手を組まれても厄介だ。異形として管理している」

「何の話──…」
「名前を知りたがっていたね? 紹介するよ」
 少年の横で空間が割れ爆ぜた。漆黒の方形から飛び出したのは異形の手。

「アイツはコイツ。人間のまま時空のねじれでこうなった」

 その先にある爪がムーンフェイスの頬を薄く切り裂き、ピタリと静止した。

 かつて照星に凄惨な暴行を加えムーンフェイスにさえ襲いかかった『同居人』。

 その人物の名前をウィルは告げた。淡々と。淡々と。

 


「武藤ソウヤ」



「もうすぐ真・蝶成体を斃しにくる未来人」

「武藤カズキと津村斗貴子の子供」

「その……なれの果てさ」










【銀成学園】

「……という訳だ。ここまで何を話したか、ちゃんと把握したか?」
「ああ」
「まったく。まひろちゃんのためとはいえ少し遅いぞ」
 プリプリと怒りの蒸気を噴く斗貴子を秋水は少し不思議そうに眺めた。無愛想で血の気が多い癖に妙なところで親切だ。
「なんだ」
「いや、教えてくれて感謝する」
 その横をエンゼル御前が独特の飛行音を奏でながら通過した。ピンク色の饅頭を思わせる不格好な人形はしばらくふら
ふらと上下していたが、やがて止まった。どこからともなく取り出した煎餅は顔とほぼ同じ大きさだが、一齧りで半分ほどが
口へ消えコナゴナと咀嚼された。そして食事が終ると彼女は
「つーかよー、なんで10年前負けたんだよマレフィックども」
 といった。その頬が内部からぼこぼこと滑らかに隆起しているのを見ながら秋水は──時々本当にこれが姉の内面なの
かと疑いたくなる。もっとも桜花は弟の疑念をただちに嗅ぎつける。そして意外な一面をあたかも下着の紐のように覗かせる。
ますます弟を惑乱させそのさまを楽しむのだ──ふと瞳を細めた。

「確かに……なぜ負けたんだ?」

 10年前居合わせた幹部を指折り数える。

 触れた物を何でも分解できる神火飛鴉(しんかひあ)の所有者。
 蘇生さえ可能な衛生兵の使い手。
 ついぞ戦士の誰にも顔を見せず逃げおおせた伝説の忍び。
 ウィルにいたっては時間を自在に操れるという。

「なお10年前の戦いに置かれましてはマレフィックどの3名ほどご落命されましたが内お2人の能力もまたいずれ劣らぬ
ものばかり!! 残りお一方につきましてはただなるレーション、攻撃力は絶無であります!!」
「そんな連中がなんで負けたんだよ? おかしくね?」
 剛太も垂れ目を更に垂らして総角を見た。
「フ。ついでにいうが盟主は武装錬金特性じゃ殺せんぞ」
「はあ!?」
「マレフィック連中の分解能力や時間操作では絶対死なん。火渡戦士長の火炎同化や毒島のガス操作といった『特性』で
も無理だ。絶対に」
 もう言葉もなくしたという風だ。剛太は顔面のあらゆる筋肉を引き攣らさせた。氷がひび割れるような音がした。
「しかも俺以上の剣腕!! バスターバロンの右腕ぐらい簡単に斬り飛ばせる!」
 すかさず総角は端正な顔を剛太のそれギリギリに近づきおどけた調子で叫んだ。やられた方はとても顔をしかめ
「だから何で負けたんだよそいつら!!!!」
 叫んだ。かすれた声が膨れ上がり秋の空へと木霊した。

 
「単純な話だ」
 総角は小札に目くばせした。あどけないお下げ少女はうっすら頬を染めるとしばらく大きな瞳を左右に揺らしていたが、やがて
意を決したように頷いた。それを見届けた総角が一瞬寂寥の影に染まるのを秋水は見逃さなかった。
「奴らよりもっと強い存在が、あの戦場に居た。ただ、それだけだ」
「念のために聞くけど……バスターバロンのコトじゃないわよね?」
 桜花の質問に「そうだ」と総角は頷き肩口の髪を跳ね上げた。
「彼は……強かった。人間の身ながらディプレスとイオイソゴを同時に相手どり見事に退け、一時は盟主さえ追い詰めた」
「……名前は?」
 腕組みする斗貴子の顔に微かな動揺が走ったのは「人間の身で」という部分に反応したせいか。
 総角は紡ぐ。その名前をゆっくりと。



「アオフシュテーエン=リュストゥング=パブティアラー」


「我が音楽隊の雛型たる秘密結社……リルカズフューネラルの社長にして」




「小札の、兄だ」





 同刻。ウマカバーガー。

「奴は強かった。うぃるめが歴史改変を繰り返しこのわしが籌筴(ちゅうさく)計略の限りを巡らしてもその勢いはわずか
しか弱められんかった。結果奴と戦うはめになったわしとでぃぷれすは敢え無く戦線離脱……すでにぐれいずぃんぐめが
半壊していたのもマズかった」
『他に方法はなかったんですか?』
 と書いたのはリバース。いつもの笑顔でいつものスケッチブックだ。
「ひひっ。無理をいうな。正史はもっとひどかったらしいぞ」
『どういう風に?』
「小札の兄め自らをほむんくるすにしおった。そして木星、でぃぷれす、ぐれいずぃんぐ、当時の冥王星海王星天王星に
盟主様を加えた幹部7人を悉く討ち取ったあと、自刎して果てた」
 リバースの手からスケッチブックが落ちた。慌てて拾い上げた彼女はあせあせと
『チートすぎる……』
 と書いた。イソゴは愉快げに肩を揺すり「いやいや」と笑った。
「戦闘力自体も非常に高かったがそれ以上に戦いの段取りがうますぎた」
「戦略的不利は戦術的勝利で覆せない……自分があらかじめ有利に戦える枠組み作るのがうまかったと?」
「そーそー。あおふめは戦団と綿密に連携しておっての。小癪にも我々の動きを逐一報せ先手を打たせた。それを断つため
にも小札の方をほむんくるすにする必要があった」
 ひとしきり息を吐き終えたイオイソゴの前でリバースの笑顔がわずかに傾き、そして曇った。そんな彼女が何かを書かんと
した時
「? 正史じゃお師匠のおにーさん、ホムンクルスだったんすよね? じゃあどうして──…』
 とブレイクが声を上げた。ややわざとらしい調子だがリバースは何事かを感じたらしく微妙なはにかみを彼に向けた。
「ひひ。貴様自身は分かっているのに代理質問ご苦労ぶれいく」
 大事にしてやれりばーすよ……貫禄のある物腰で若い男女を見比べながらイオイソゴこう告げた。
「答えは簡単。小札の兄めは連携を取り終えてからほむんくるすとなった。それは我々を斃すために用意した最後の手段ら
しく、勝つにしろ負けるにしろ最初から死ぬつもりだったようじゃ」
『だからこその連携』
「そーじゃな。どうせ死ぬ以上、確実に勝たねばならん。幹部どもをほぼ同じ箇所に集めたうえ、盟主様に防人をけしかけると
いった──各幹部の弱点をついた──戦士の波状で着実に弱らせおった」
「そこへ人間の枠ブチ破ったおにーさんの攻撃! そりゃあ7タテもできるってもんでさ」
「ひひ。自分という奴に何ができ何ができぬか知悉し抜いた上での段取りよ」
 人間という奴の良さであり恐ろしさ。

 
「なるほどなるほど。ただホムンクルス化防ぐだけじゃダメすねそりゃあ。聞けば人間の状態でも馬鹿強かったらしいすし、
戦団とのつながり断ち切れただけでも御の字でしょー」
 シェイクをちゅらちゅら啜るのはウルフカットの恵比須顔。
「ちなみにうぃるとわしと総角は正史にはおらんかった。じゃらからま、今の歴史と共通して存在していたのは」
『土星。リヴォルハイン君の前の……。強いけど化け物丸出しだったとか』
「戦団でも始末できるれべるじゃった。ひひ」
「そーいや遠目すけどお師匠のおにーさん、見たコトありやすよ」
 ブレイクはぽんと手を打った。
「えらいシスコンでしたねぇ」
「ちなみに決戦のどさくさにより死骸はまだ見つかっておらん」


「実はまだ生きているのでは……わしが一番恐れている事じゃ」





「ところでだウィル君。もしこの先我々が負けた場合、キミはまた歴史改変するのかな」
「あー。それは無理だよー」
 けだるげな少年はテレビに向かったまま答えた。振り向きもしない。握ったコントローラーがせわしなく鳴っているところを
見ると佳境らしい。
「それはできへん相談やでお兄ちゃん。ウィルの性格ぐらい何となく分かってきたやろ?」
 曖昧な返事を漏らす。なんとなく部屋を眺める。床には色とりどりな巨大なピースが敷き詰められている。右手には滑り台、
左手にはさまざまなゲーム機。乱雑に転がっているそれらの一つと思しきものが真正面5mほどに鎮座しバーチャルな興奮
をウィルに提供している。声がしたのは彼の左からで、赤い筒がでんと居る。どうやらゲームの様子を眺めているらしい。
(いや、見えるのかい? それで?)
 突っ込みたくなったがよく見ると筒とテレビの間には無数の小さな渦がある。風が軋んでいるような空間のぼやけ。それは
確かデッドの武装錬金特性で視覚情報も送っている……ムーンフェイスがそんなコトを思い出していると……………………
渦の中に”目”が現れた。瞳の両側に大きな傷のある、怪物のような眼差しが。聞くところによれば、デッドのものらしい。

「ウィルの性格なら10年前レティクルが負けた段階で歴史改変するやろ? でもまだこの時代におるっちゅーコトはや」
「できなくなったのかい? 歴史改変」
「時間操作も限定されとる。ま、それは武藤ソウヤ抑えるのにパワー使ってるせーでもあるけど」





「一番の原因は音楽隊の一人……あのコのせーや」





「ねえ戦部。もし音楽隊の中から1人だけ好きな相手を選んで戦えるとしたら誰にする?」

 待機時間のヒマ潰しにと円山がそんなどうでもいい話題を提供すると、戦部はしばらく思案顔をした。

「そうだな…………鐶はもちろん総角や栴檀どもも悪くはないが」


 彼は意外な人名を上げた。そのとき犬飼はやや離れた場所でキラーレイビーズの毛づくろいをしていた。
 そんな彼が思わず面を上げブラシを取り落とすほど意外な名前だった。


「へー。意外。まさか」

 

「小札ちゃんを御指名だなんて」



 逢ったコトもないのに馴れ馴れしい。そんな円山をよそに犬飼はまくしたて始めた。

「なんでだよ。おかしいだろ! 聞いた話じゃそいつあまり強く──…」
「7色目。禁断の技」
「!!」
「聞けば10年前の決戦のとき、時間を操る幹部を無効化したという。ぜひとも見てみたい」





「あの技はね、本当、すごいよ」

「反射、探索、追撃、回復、射撃、絶縁破壊……小札の持つ他の6色なんてのはあの技を分解し、意図的に弱体化させた
にすぎない。強すぎるコンボから弱Pとか中K×2だけ抜き出したといえば分かるかなー? ただの派生さ」
「逆にいえば小札君の6色の技を同時に発動させるのが……禁断の技かい?」
「更に超必殺技の補正つき」
 テレビに向いたままウィルは指を滑らかに動かした。ボタンがカタカタと小気味よく鳴った。すると画面全体が暗くなり、
プレイヤーキャラクターを中心に金色の光が爆発した。無数に蠢いていた敵らしきオブジェははたしてダメージエフェクトを
盛大にまき散らしながら爆発し、全滅した。戦闘終了を告げるファンファーレにデッドは「おー」と叫んだ。
「破壊や悪意とは対極にある。だからこそ、恐ろしい。恐ろしいんだ。僕のような浮ついた歴史改変者にはね」
「どんな技なんだい?」
「複雑な仕組みなんだけど、一言でいえば因果律に関わる技だね。この世界の時間をだね。一本の太い管の中を流れる
無数のタキオン粒子みたいなものとしよう。タキオンは何となく思いついたアレだから別のでもいいけど……とにかく粒子み
たいなのが大小様々な球体因子を押して前進させている。ボクは時間をそう解釈している」
「むん? 何だか口調が違わないかいウィル君」
「因子自体も自らの意思で動くコトはできる。人間でも動物でも戦士でもホムンクルスでもいい。或いは肉体的な枠を取り
外した意思そのものと見てもいい。ぶつかりあって混ざり合い、大きくなったり小さくなったり、或いは砕けることで世界は
変わっていく」
「歴史改変ゆうのはその因子みたいなのの動きを変えていく作業らしい」
「だが小札零の技はその上を行った……。彼女は、あの実験体は!!」


「時間のみならず因子そのものを追尾した!!」


 コントローラが異様な音を立てた。砕けた。実態を確かめたムーンフェイスは「おー」と笑った。
「哲学的だね」
「時間の作用で押され続けてきた因子に『線』を引くんだ。流れを無数のグリッド線で解釈して……矯める」
 訳わからんやろ? デッドはけたけた笑った。テレビ画面の中ではコントロールを失った主人公が敵にボコボコにされている。
 ゲームオーバーは間近だ。
「小札をホムンクルスにしたのは不和と誤解を呼ぶためだった。彼女の兄と戦団との間に軋轢を生むためには……同時進行
で起こっていた鳩尾無銘誕生の経緯と同じくらい良い手段だった。連携を阻止する最良の手段の1つだった……なのに」
 ウィルはコントローラを投げ捨てた。そしてただ一言呟いた。
「失敗だった」。声は暗かった。後悔というものがたっぷりと滲んでいた。
「彼女やその兄をホムンクルスにしたあの幼体……あれは他のものと違っていた。盟主様でさえ作れるかどうかだ。そして
ボクは思っていた。思い込んでいた。『強者に与えるべきではない』。そうだろ? 高出力なんだよ。ホムンクルスは。だったら
弱い奴に与えた方が安全って、普通だれでも思うだろ……?」
 すするような吐息を洩らしながらウィルは肩を抱えた。少年の体は震えていた。もよおそ悪寒は後悔と絶望の副産物だった。
「なのに……なのに……実は妹の方こそ適合者だったなんて…………ないよ。ありえない」
 体育ずわりで頭を抱えるウィル。すっかり自分の世界に入り込んでいる。赤い筒は呆気に取られていたようだが、すぐさま
姿勢を正し明るい声を張り上げた。
「小札が禁断の技とかいうムチャクチャなワザ発動できるんはー、使とる幼体が特別製やから。たぶんやけどアイツの御先祖
さまがマレフィックアースに対抗するために生み出したんちゃうかな?」

 
 その割にはただのか弱い少女にしか見えないけど。ムーンフェイスは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「正史でどんな生涯を送ったかはともかくだ。ウィル君いわくの『今回の歴史』だと私は何度か逢っている」
 音楽隊はしばしばL・X・Eを訪れた。最初こそ戦いが勃発し金城や陣内といった連中が傷を負ったりもしたが……。
 総角と爆爵が何事か密約を取り交わしたらしく、関係は以後良好だった。
「メルスティーン君のクローンたる総角君やキミたちが特異体質とやらを与えた栴檀君たちや鳩尾君、そして鐶君」
 彼らに比べれば小札という少女はとても弱い。武装錬金なしでは太や細にさえ劣る……いささか見くびった評価を
つけるムーンフェイスにデッドは
「弱いからや。戦いを嫌い戦いと縁薄い性格やからこそ出来るコトもある」
 けたけた笑い、視線を移した。ムーンフェイスも底を見る。すっかり肩の煤けたウィルが何かボソボソと呟いている。
 どうやら小札に何をされたか言っているらしい。
「しかも僕が時間と定義する筒の外部からも線は来る。他の世界というべき次元からさえ……武藤ソウヤの時間飛翔と僕の
歴史改変のせいで時間の管はただでさえ不安定に膨れ上がり、外郭を薄く、そして脆くしていた。そこに小札零は異様な線を
呼びこんだ」
「そしたらどうなったんだい?」
 膝頭が一層強く抱きしめられた。
「筒の外郭が壊された。時間を移動するとき僕が道標にする外郭をだ。因子とよぶ球体や時間とみなす粒子が……壊れた
箇所から、穴から、流出を始めた。世界の枠を外れた場所を流れ始めたんだ。それだけじゃない。時の流れや因子の動き
の持つ歴史自体の圧力が時間という筒の形をぐんぐんと歪めた。平坦で面倒くさくなかった一本道の時空がとてもややこし
くなったんだ。時空の流れが滝のように外部へ落ち込んでいく個所もあり巨大な僕の武装錬金でさえ流されそうだった。ここ
から歴史改変をやろうとするのは普通に生きて偉業を成し遂げるぐらい難しい。でもそれがやりたくないからこそ歴史改変
してた僕だ……。どうすればいいんだ。どうすれば」
「ディケイドゆうのが本来まったく組成の違うこの世界に引き寄せられたのはそのせーかも知れんな」
「僕自身もまた破壊された。彼女が自らの技を恐れ途中でやめたからこそ……ひどい破壊を受けた。未来からきた僕だ
からこそ常人以上のおぞましい線を張られた。凄まじい質量を背負わされた」


「彼女はそこまで気付いていない。ただ本能的に自分の技に怯えた」


「それでも薄々は感じているだろう。7色目がどれほど危険な技か」

「あれは世界そのものを変質させる力だ」

「時空を渡り歩く者でなければあの恐ろしさは分からない」

「虹色にギラつく60兆の線分が時空の彼方からギザギザ折れくねりながら飛んでくる様は圧巻さ」

「ただ1つの因子を正しくするためだけに時空を何万か所も爆発させるビリヤードのキューさ」

「観測できただけでも6つの文明と58の王朝、283種の哺乳類が絶滅した」

「いや。絶滅という言い方さえ生ぬるいね」

「彼らは……発生さえできなかった」

「抹消されたんだ。歴史から。ボク1人襲撃するためだけに……あらゆる奇跡と偶然と絆を無きものとして」

「とにかく、このさき時間がどう流れていくかは僕にさえ分からない」

──「おんぶ」
──「は?」
──「ほらこの前、武藤と防人戦士長が戦ったときに俺、斗貴子先輩をおんぶしてモーターギアで
──走ったでしょ」
──「そーだったか? 手を繋いで横浜を自力で走っていたような気がするが」
──斗貴子は記憶を辿ってみるがどうもはっきりしない。
──ひょっとすると剛太のいう「おんぶ」もされていたかもしれないし、剛太の勘違いかも知れない。

「ひょっとしたら修正前の歴史が混ざってる部分……あるかもね」

 
「ボクが辿ってきたいくつもの歴史が消え切れず、混ざり込んで」


──「人斬り抜刀斉。京都や東京で活動した後はどういう訳か ぷつりと闘いをやめている。島原へもう一人の継承者を倒
──しに行ったとか北海道でも活躍したとか日清戦争の折に大陸に渡り、帰国後に妻ともども病没したという文献もあるに
──はあったが…… こちらの真偽は分からない」


「影響が出ているとしたら一番モロなのは鐶のクロムクレなんたらかな? 時間を操る以上、その歪みの影響はモロさ」


──「……あれ? リーダーと…………早坂秋水さんが戦っているなら……クロムクレイドルトゥ
──グレイヴだけじゃなくて……もっと色々使ってる筈……です。短剣を解除して……他の物に……
──だから私がいなくても……年齢のやり取りが解除されて……さっきの沼は元の……枯れた場
──所になるのでは……? なんだか……不思議な話です……。込み入りすぎて……難しいです」
──「ボソボソやかましい! というか戦士長に抱きかかえられたままでいるな! 走れ!」
── 長い煉瓦造りの廊下をひた走りながら斗貴子は怒声を張り上げた



──a.クロムクレイドルトゥグレイヴで年齢を『与えた』場合

──『死』を除くあらゆる状態変化は武装解除ともに『消失』する!
──(対象が本来の年齢より未来の時間軸にあるため)

──. ┌      本 来 の 年 齢      ┐ ┌ 与えた年齢 ┐
──┣━━━━━━━━━━━━━━━━┿ ━ ━ ━ ━ ━ ┥
──
── この状態の対象に対する破損・決壊・治癒・成長などの諸々の変化は総て「与えた年齢」の
──方へと生じる。そのため武装解除または年齢の吸収によってこの状態から年齢が減少すると
──諸々の変化は消滅。(なお、吸収した年齢が与えた分を下回る場合、つまり

──「吸収分<与えた分」

──の場合は後者に対する前者の比率分だけ効果が薄まる。
── 単純にいえば10歳年齢を与えた相手へ10cmほどの切り傷をつけた後に年齢を4歳分吸
──収すると、相手の傷は4cm分消滅する)

──(なるほど。街が直っているのは合点が行った。確かに年齢を与えられ、銀成市だけ時間が
──進んでいたからな。というコトは学校も直っているだろう)



── 秋らしく床の感触はなかなか涼しい。貴信はきょろきょろと落ち付きなく周囲を見る。一部やけに真新しい床板と
──鉄柵が設けられている──屋上につくなり剛太が開口一番指差した。曰くこの前鐶にやられた。1階からここまで吹き飛ば
──された。修理の跡だ──以外とりたてて特徴のない屋上だ。










「時間を元に戻す方法? ふふ。僕と武藤ソウヤがこの時系列から消えれば或いは」

 
「小札零が死ねばもっと確実かもね」


「世界は戻るかも知れない。素晴らしき素晴らしき正史へと」








「えーと」
 桜花は小札を見た。その美貌は大いに揺れている。戸惑いを隠しきれないようだ。
「お兄さんがいたの? 小札さん」
「……はい」
 消え入りそうな声を漏らしたきり小札は俯いた。両目がシルクハットのつばに隠れたため表情は見えないが……しっとりとした
声音がいつも通り小札を雄弁にしていた。気落ちしているのは誰の目から見ても明らかだった。
「…………」
 秋水は彼女と総角を覗く音楽隊全員めがけ視線を移した。どうやら彼らも初めて聞いたらしい。鐶は目を丸くし香美は静電
気を浴びたネコよろしく頭髪を逆立たせている。貴信が辛うじて黙っているのは小札の兄が故人だからか。
 もっともショックを受けているのは無銘で彼は
「え? 母上にお兄さん? 我におじさんが? え」
 などと露骨にうろたえている。
(……そういえば俺との戦いで、総角は)
 カズキやまひろへの感情。それを支えに挑みかかる秋水に対して。

──「君を倒す!」
── 双眸に映る碧眼の男は微苦笑した。
──「やれやれ。お前は俺の嫌いな物を見せてくれるな」
──「?」
──「俺の嫌いな物は鏡だ。理由はいわずとも分かるだろう。そして澄み渡る水は銀面となり近く
──の物を写し込む。今のお前の瞳のように」

 と言った。
(似ている……と言いたかったのか?)
 誰かの兄を想い誰かの妹のために戦いを選ぶ。そんな秋水が。

「つーかもりもり何で黙ってたのさ!!!」
『そーだ!!! ズルいんじゃないかなあ!! 貴方は僕たちや鐶副長の過去!!』
「根掘り葉掘り……聞きまくり、でした。なのに……いつも……大事なコト……秘密……このやろリーダー、このやろ、です」
 わっと歓声があがる。見る。美少女2人が総角に詰め寄っている。香美はグーでポカポカをやり鐶は瞳を暗欝に尖らせ
上目遣い。猛抗議。しかし金髪の美丈夫は涼しげに瞑目したまま
「フ。そうだ。お前たちの今の顔。驚き慄くその顔が見たかった」
 前髪をかき上げた。抗議の声がますます膨れ上がる中、無銘はただ1人「おじさん……おじさんが……」と呻き続けた。
「だいぶショックを受けていますね」
「そういえば彼も音楽隊の初期メンバーだったな」
 創立当時からいるのに知らなかった……自負の強い少年にとってとても衝撃的な出来事だ。
「そうだ総角。彼の本当の両親というのは……」
「フ。分からない。だからこそ旅をし探しているのさ」
 防人は呻いた。何か思う所があるのだろう。
「というか先輩。アオフシュテーエンとかリュストゥングとかどこの言葉すか?」
「まったく少しは勉強しろ剛太。ドイツ語だ。アオフシュテーエンは覚醒とか……目覚め」
「リュストゥングは鎧ですね」
 くぐもった声をガスマスクが上げると今度は銀色防護服が首を捻った。
「じゃあ小札。キミはドイツ人なのか?」
「あ、いえ。違うのです!! 一応国籍は持っておりますが100年前から不肖がお家は日本に土着、いわば一族総出の
居候。で、ありますれば配偶のつど混血を繰り返しいたしまするはまったく必然、代を重ねた結果、不肖はほとんど日本人!
ドイツの土を踏んだのは一度きり、迷いに迷われました鐶副長どのの不時着で偶然到着せしただ一度……」

 
「あー。道理でそんなちんちくりんなんだお前」
 憐れむような御前の声に小札はぶわりと涙を浮かべた。
「うぅ。ゆらい欧州の女性につきましては生育が早くかのヴィクトリアどのでさえ成長再開が望ましき素地下地79」
 なのにどうして自分はこうなのかという悲しい嘆きを桜花は満面の笑み──勝者だけが持つ特権の──で切り捨てた。
「パブティアラーっていうのは?」
「あー。それは秘密の符丁みたいなものでして、特に意味はありませぬ」
「小札零っていうのは音楽隊用の名前? それとも日本人としてのお名前?」
「ああ何という追及の嵐! 来まする来まする桜花どの! ここぞとばかり追及力の爆発ググググイグイ質問攻め! …………
ええええと苗字は前者でありますが名前は後者、本名のもじりなのです」
「本名は何? やっぱりドイツ語?」
 桜花は小札に迫りつづける。輝くような笑みだ。5歳は若く見える。そんな評論を剛太は漏らし、
「なんかすごい喰いつきいいんだけどアイツ」
 顔だけ秋水に向けたまま黒髪美人を指差した。
「……気にしないでくれ」
 桜花はすっかり舞い上がっている。弟の変な一面に喰いつくときの変なテンションだ。一度発動したらどうにもならないの
は大変よく存じている。
「ウム。他人に関心があるのはいいコトだ」
 防人がどこかズレた感想を漏らすうちにも小札の本名追及は止まらない。香美や御前といった賑やかしも喰いつき鐶さえ
その後ろで興味深げに「あの、あの」と呟いていた。ウズウズする毒島に斗貴子は「キミもか」と嘆息した。
「で、本名は?」
「いえよ減るもんじゃねーし」
「そーじゃん! あやちゃんご主人のほんとーの名前知ってるでしょーが!!」
「私も……知りたい……です」

「ううあああ!?」

 いつしか小札は女性陣ほぼ総てに詰め寄られている。起伏のまったくない体をコキコキ小刻みにゆすりながら後ずさる。
小さな背中が衝突音を奏でた。振り返った小札は幼い顔立ちをあわあわと青くした。屋上の隅に追い詰められている。い
やというほど進路を阻む柵に両肘を押しつける。もはや彼女にできるコトはただ一つ。極まった表情でトレードマークのおさ
げをぶんすかぶんすか横に振るぐらいだ。
 絶世の美人。変な人形。快活そうなネコ少女。虚ろな瞳。それらが本名を求めながら小札に迫り、そして──…

「で、どーすんだ? 助けないのか?」
 顔だけ秋水に向け、小札を指差す剛太。押し黙るしかできない。一度好奇心に火がついた女性がどれほど厄介かつく
づく味わってきた秋水なのだ。どうにもできない。残酷だがそれが結論だった。
 やがてとてもさっぱりした顔つきの桜花が前を通り過ぎた。その後ろに御前や香美や鐶といった連中がぞろぞろ続き、
最後に小札がのったり歩いてきた。足取りはとても重かった。もし核鉄があれば文字通り杖にしていただろう。
「うぅ。もはや隠し立ては不可能。潔く白状仕りまする。不肖の本名は……」
 大きな双眸に涙を浮かべる彼女はとても疲れた様子だった。着衣も乱れ髪も乱れ、自慢のシルクハットさえ情けなく傾
いていた。
 そして彼女は意を決した告げる。自らの真名を……。

「ヌル=リュストゥング=パブティアラー」

((((((意外とカッコイイ!!!))))))

 貴信以外の男性陣と斗貴子と毒島はほぼ同時に同じ感想を抱いた。

「うぅ。確かに通して読みますれば響きはとても美しゅうございます。でも、でも……」
 最初だけ抜き出すととても悲惨! いつの間にかマイク片手の小札はだぁだぁと泣き始めた。
 どういう意味か計りかねている秋水の横で防人と剛太が順番に囁いた。


「ヌル」

「ヌルか……」


 ドイツ語で「零」を指すというが……
 秋水は改めて小札と名乗る少女を見た。

 
 身長は18歳としては異例の低さだ。小さい。顔つきも童顔で少年のように細くしなやかな体つきだ。パリっとしたタキシー
ドとシルクハットを身にまとい、前髪は分けている。大きなおさげを両肩に乗せ、鳶色の大きな瞳を持っている。
 そんな少女の本名は。

「ヌル」

 改めて呟く。呼気ともにいろいろなモノが抜け落ちていきそうな気がした。
 近くで香美が犬の名前みたいだと呟いた。それは桜花の何事かにダイレクトヒットしたらしく、彼女は盛大に吹き出した。
貴信や無銘から大いに糾弾される香美と姉。まったく他山の石だ。秋水は粛然と表情を引き締めた。


「オイオイ。小札よぉ。合ってんだか合ってないんだかわからねーよ」
「でも……小札さんらしくて……可愛い……」
(また笑ってる)
 唇に手をあてクスクス笑う桜花に秋水は呆れた。姉は最近、笑いに対しゆるくなっている。




 同刻。銀成市のとある病院。診療室にて。

「ヌル。んー素敵な名前だ・コ・ト♪ 名前がエロいっていうのは体もエロいってコトよねん」
「いやなんでそうなるんですか」
 銅色の髪を持つ女医にそっけなく答えると、金髪ピアスはそろりと距離を取った。昨晩散々な目に合わされている。
「ふふ。ひょっとしてあのコが小さくて色気の欠片もない幼児体型だからエロ期待してないのん? いーえ違うわ!!
エロっていうのは体型がどうとかまったく関係なくてよ!! むしろ逆!! 性的魅力のまったくない体が段々段々
反応するようになって!! 戸惑い怯えながらも女として目覚めていく!! そーいう過程こそエロいのよん!! そう!!
心から昂ぶり未知の衝撃に我を忘れて喘ぎまくる!! 女の本当の美しさが見れるのはそこからなのよー!!!!!」
「あの。俺もう帰っていいですか?」
 高い声で絶叫するグレイズィングに頭を抱える。彼女ときたらえらい気合いが入っている。椅子に乗り、片足だけをデスク
に乗せ固めた拳を天井めがけぶんすかぶんすかやっている。
 そして力説。まだ夜でもないというのに口を開けばこうだ。淫語と猥談しか言語中枢にないロボットの方だってもう少し淑や
かだ。つくづくとそう思う。
「あらん。診療時間はもう終わり……好き放題ヤれるのはこれからよ?」
 白い手が頬を撫でた。誘惑する手つきだった。それが恐ろしい。挑みかかれば何をされるか……。
「とにかくよーwwwww 10年前ウィルがミスったのはヌル……小札のせいだわなーwwwwww」
 ベッドを見る。ハシビロコウが腰かけている。2mを超える巨大な鳥が、喋っている。
(イヤな病院だなあ。イヤな病院だなあ!!)
 泣きたい気分で話を聞く。
「アオフ……小札の兄のヤローをホムンクルスにしない。そして戦団から孤立させる。その為にゃよーwwwwwwwwwwwwww
小札をホムンクルスにしちまう必要があったんだわwwwwwwwwwwww」
「なんでまたそんな回りくどいコトを?」
「いろいろ理由はあったさwwwwww とにかく当時としちゃそれが最善だったのwwwwwwwwwwwwwww」
「で・も! あのコったら予想外の踏ん張りを見せちゃったのよん。私たちにとってはただの雑魚だったあのコ……。でも
ある一点に於いてはお兄さん……アオフシュテーエンさえ凌いでいた」
「ある一点?」

「破壊を好まねーってとこwwwwwwwwww それが脅威なんだよwwwwwwwww」

「アイツはwwwwww カウンターデバイスwwwwwww オイラたちのような破壊者へのwwwwwwwwwwww」

「望まずしてなったんだからカワイソーだよなあwwwwwwwww まwwwオイラは救ってやらねーけどwwwwwwwwwwwwww」



【ある山間。ディープブレッシング:操舵室】

「調査へのご協力。感謝します」
「いや構わん。報告義務を果たしただけだ」

 
 艦長は重々しく呟いた。内心小躍りしてるくせに。航海長はくすりと笑った。
「しかし何だったんだ? 例の村人の件」
 水雷長はいつもの調子でぼやいた。背後で千歳が何事かと足を止めたがすぐ動き出し操舵室の外へと消えた。美しい
女性が消えただけで部屋はその息苦しさを増したようだ。
「普通の人間が突如として怪物の体になりホムンクルス以上の戦闘力を発揮する……でしたね」
 気のない返事を漏らす相方に航海長はありのままを報告する。
 その顔が光に炙られた。光源を見る。根来が亜空間に潜っていく最中だった。とても何か言いたくなったが見なかった
コトにする。
 話を、続ける。
「同じ案件が現在全国各地で発生しています。戦士・千歳と戦士・根来はそれを調査しているようです」
「なるほどな。他に何か分かったコトは?」
「彼女から提供されたデータを見る限り……どうやら何らかの武器組織が動いているようですね」
「つまり……人間を人間のまま怪物にする何かの武器を売っている。そういう訳か?」
「アイアイ」
 それはこーいうときの返事じゃないだろ。ぼやきを受け流しながら航海長は「私見ですが」と前置きし
「気になるのは売り方ですね」
 といった。すると水雷長はオウム返しを擲ち横向きに身を乗り出した。
「安すぎるんですよ。代金が。実効性や危険性のなさを考えると……データ。モニターに出します」
 やがてパパっとモニターに転送されたのは「武器の売値一覧」。水雷長の目が上に下にと忙しく動いた。やがて総てを
閲覧し終えた彼は感嘆のため息をついた。
「オイオイ。たった5万円払うだけで人間1人がホムンクルス10体斃せるように……!?」
「ホムンクルスが戦団を撒くための費用一覧もありますが、まあ、似たような安さです」
 とてもリーズナブル。欲の見えない価格設定だ。
「もしその武器組織の運営者が先ほど村人たちに力を与えた者だとすれば」
「営利目的の線は薄いよな。じゃあ何のために売ってるんだ?」
「布石、かも知れんな」
 航海長と水雷長は同時に振り向いた。そこには鎮座しているのは艦長だ。目つきは相変わらず厳めしい。
「布石、ですか?」
「たとえば何か、争いの種を撒くための……?」

 いや、と艦長は首を横に振った。

「敵は組織に属している。仲間がやりやすいように、仲間の能力が生かせる土壌を作るため……その武装錬金のみでは、
単騎では無意味に思える行為を繰り返しているのかも知れない」


【銀成市。児童養護施設の前で】

「えー。じゃあリヴォルハインさんタダで色んな人、社員にしたんですかぁ?」
「そうである!! 何やら困っていた及公はみなみなを助けられた!!」
 ちなみに今はもうデリートしたので調べられても問題なし! 意気揚揚の大男の傍らでしかし
「タダはマズいじゃないですかこの上なく。もう」
 クライマックスはがっくりと肩を落とした。
「? なにかマズかったであるか?」
「だから!! あちこちリヴォルハインさんの細菌売って回っているのはデッドさんの武装錬金の媒介にするためじゃない
ですかこの上なく!!! 『ムーンライトインセクト』の特性が作用するのは市場性を有した商品だけです!! だから敢え
て市場を開拓してるんじゃないですか!! 儲け出なくても戦いの火種にならなくても!! デッドさんの武装錬金とコラボ
れるならいい! そーいう考えで売り始めたんじゃないですか!!」
「なるほど!! じゃあタダで売るのは悪かったですかクライマックス先生!?」
「う。まあ、少しだけなら試供品ってコトで何とか……」
 とにかく! 冴えないアラサーは拳を固め突き上げた。

「今日から私たち演劇をやりますよ!! この上なく!!」
「ウム!! 敵はパピヨン率いる銀成学園演劇部!! 劇の見せっこで対決なのだ!!」



「及公は勝つ!! 勝って救うべき存在を必ず救う!!!」


 












「むーん。少し席を離れてみればこれとはね」

 誰もいない部屋の中で、ムーンフェイスは一枚の紙を眺めていた。


<なんや銀成市が楽しそうになってきたからウチらも行く! せっかくリヴォ媒介にしたんや! 近くにおる方がもう1つの調
整体奪いやすいよってな!!>

<アジトの規模ちょっと縮小するねー。銀成行く方が怠けられるってデッドいうしー>




「やれやれ。結局幹部の9割が銀成か。このアジトも何のためにあるのやら」



 周りを見渡す。そこは会議室らしい。いかにもオフィスという感じの床は薄紫でその中央には円卓が置かれている。10あ
る席のうち9つまで「外出中」の三角錐が置かれいる。思わずムーンフェイスは嘆息交じりに微苦笑した。
 マレフィックとはつくづく勝手な連中らしい。




「しかし……」

 ムーンフェイスは手紙を握りつぶした。彼は笑った。黒い胚のような瞳を浮かべ、爛々と。

「他の幹部はともかくウィル君。キミは少し危険すぎる」


──「地球の荒廃? やだよそんなのー。amazonもニコ動もない、食べるコトごときに必死にならなきゃいけない世界なんてー」


「私とは相容れない。歴史さえ改竄できる……いまは無理だが万が一というコトもある。回復される前に、いっそ」

 空間が割れ爆ぜムーンフェイスの肩口が裂けた。ぶわりと舞い散る血しぶきの向こうに異形の腕を認めたムーンフェイスは
四白眼のまま口元を細めた。



「ソウヤ君……だったかな? キミも彼は斃したい……違うかい?」



 利害の一致。本来仇敵であるはずの男にそれを覚える皮肉。不気味な薄笑いが月の顔を支配した。

 



「ったく。いつまでこんなカビ臭ぇ場所にいなきゃならねェんだ」
 パピヨンの研究室にボヤキ声が響いた。
「我慢なさい猿渡」
「我々が蘇ったのは『もう1つの調整体』を守らんがため……創造主(あるじ)の命は絶対」
 最初の声は妖艶な女性の、次の声は堅苦しい戦士の声。
「面倒くさい。出て行きたければ勝手にしろ。ああなってもいいならな」
 机に腰掛けた男が顎をしゃくる。部屋の片隅に妙なものが転がっていた。
「ひどいよ……ちょっとメイドカフェ行こうとしただけなのに……」
 キノコのような髪型の男が涙で顔をくしゃくしゃにしている。首から下はなかった。近くに転がっている小さなガラクタの
山が彼の体で、それは茨や羽根でぐしゃぐしゃに壊れていた。
 惨状。しかし最初の声の主は口笛を吹いた。恐ろしく体格がよい男だった。ランニングシャツ一枚の上半身は今にもそこ
かしこから筋肉が零れておちて行きそうだった。年のころは30間近というところだろうか。
「やるね花房。鷲尾。ウチの若い衆にも見習わせたい位だ」
 花房と呼ばれた女は巨大なフラスコにもたれかかっていた。それだけでむしゃぶりつきたくなる色香の持ち主だ。髪は
長く上着には薔薇の刺繍が施されている。
 鷲尾と呼ばれた男は精悍な顔つきでただ事務的に頷いた。味もそっけもない対応だが猿渡は知っている。
 いま部屋にいる5人の男女の中で最も強く信頼のおけるのは……鷲尾だと。
「しかし難儀だよなあ巳田。面倒くさがりのてめェが蘇らされるなんて」
「別に」
 とは机に腰変えた男性だ。30をやや過ぎたあたりの彼は横分けの髪の下で冷たい瞳をトヨリとさせた。どうでもいい。
そんな顔つきだった。
「『もう1つの調整体』を守る……我々の使命はそれだけだ」

 鷲尾はただ静かに呟いた。




「いつまで待たせんだこの野郎」
 激しく揺れたベッドに鈴木震洋は声にならない悲鳴を上げるしかなかった。ブーツが、側面に刺さっている。鍛え抜かれた
見事な足が蹴り抜いたのだ。白いズボンを怯えたように一瞥すると恐る恐る視線を移す。
「ンだよ?」
 凶悪な顔がそこに広がっていた。目は吊り上がり口ときたら牙が何本もむき出した。咥え煙草が噛み破られていないのが
不思議なぐらいだ。
「じろじろこっち見る体力あんならとっとと尋問に答えろよ。オイ!!」
 そういって彼はガシガシとベッドを蹴る。いよいよベッドの耐久力が限界という辺りで天井のスピーカーが
「そろそろお静かに願います火渡戦士長」
 冷たい女性の声を響かせそのつど攻撃がやむのが先ほどからのお約束だった。
 バツが悪そうに舌打ちを漏らすと火渡はパイプ椅子に腰かけた。折れた! そう思える破滅的なな軋みが響いた。足を
組み凶悪な瞳をますます尖らせているのはとても戦士には見えない。震洋のいた共同体にさえいなかった凶悪な化け物だ。
「クソッタレ! 聖サンジェルマン病院の連中がとっととこっち(日本支部)に搬送してこねーからこういうコトになんだよ!!
てめェもてめェだ!! 脱走なんざしやがって! しかも脱走してすぐ例のクソ生意気な新人(ルーキー)どもと揉め事起こ
して重傷だ!! 話聞こうにも話せねェと来ている! 腕まで折りやがって! 筆談も無理じゃねェか!!」
 そうなのだ。例のメイドカフェの騒動のさまざまなドサクサで震洋は重傷を負い病院に逆戻りした。そして何がどうなった
かは分からないがあれよあれよと瀬戸内海にある戦団日本支部に運び込まれた。
 話によればどうやら例のムーンフェイス脱獄について聴取したいらしい。照星救出が間近に迫っている。少しでも多く敵の
情報を……といったところだ。
(で、その担当というのが!!)
 火渡赤馬。攻撃力だけなら戦団最強と目される男。役職は戦士長だが坂口照星誘拐に伴い現在は大戦士長代行。日本
支部を指揮している。
 防人や千歳の朋輩たる彼はいまかなり忙しいらしい。先ほどから老若男女さまざまな戦士たちが掛け込んでくる。
 電話もかかってくる。
 それらの報告を受けるたび

 
「まだそんな場所うろついてやがるのかディープブレッシングのヤロウども!! とっと移動するよう言いやがれ!」

 とか

「遅ぇぞ毒島!! 定時連絡欠かすなって言ってるだろうが! あ? 違ーよ! 誰もてめェの心配なんざしてねェ!!」

 とか

「テメーいつまで千歳と居るんだ!! 密売人の追跡なんざ押し付け……護衛? いらねェだろ! 千歳だぞ!」

 とにかくとにかく声を荒げている。喉が壊れていて怒鳴り声以外上げられないのではないか。震洋は本気でそう考えた。

「クソ!! どいつもこいつも使えねェ!!」

 火渡は携帯電話を叩きつけた。どうやら戦団本部が大戦士長代行就任時にまず行ったのは備品代の節約らしい。
恐るべきと力と速度で叩きつけられた携帯電話は割れもせず砕けもせずただ跳ねた。衝撃吸収性と耐久度に富んだマテリ
アルで改修されており──だいたいこうなるコトはみな予想していたのだ。急きょ照星の後釜に据えた火渡が忙殺ともどか
しさに耐えかねるなど。八つ当たりが総額幾らの携帯を葬るか! 筺体の強化はまったく的確すぎるカネと労力の使い道だっ
た──窓や壁を縦横無尽に飛び回ったあげく震洋の頬を痛打した。7章7敗の千秋楽で仇敵とやり合う相撲取りの張り手
さえ優しく思える衝撃が頬肉ごと口腔を貫き彼は横向きに倒れた。追撃。拉(ひしゃ)げた柵に頭が当たりダメージプラス。
 一瞥もくれず携帯電話をぱしりと受け止めた火渡

「? 何ハシャいでんだよ」

 不思議そうな表情である。口をパクつかせて見せるが真意はまったく伝わらない。もっとも伝えたところで文字通りの火に
油だが。

(うぅ。そもそも脱獄の話を持ちかけてきたのはリヴォルハインとかいう変な男なんだ!! 変な能力の持ち主でそれで
ムーンフェイスのいる場所を突き止めた!! でも大戦士長誘拐なんてのは頼んでない!! むしろあいつらは大戦士長
の誘拐ついでにムーンフェイスを脱獄させたフシもあるんでわ……。でもいえない。いわない限り怖いのは止まらないのに……!)

 悩んでいるとドアがあき、若い女性が入ってきた。ドアの前でくるりと身を翻し片手を大きく伸ばすと

「やあやあ火渡戦士長くん。元気しとったかい〜?」
 火渡の顔が一瞬にして不機嫌最高潮に達した。震洋はただ息を潜め──空気のように無きものとして──飛び火を避
けるほかなかった。

 タテシ   タライ
「殺陣師……盥。てめェまだ前線行ってねえのか!!」
 女性は目を細くした。糸よりも、ずっと。
「はっはっはー。志願したけどもっと前線向きの奴がいるだろって後回しされたのぞよー。いやん。なにしろ殺陣師サンの
武装錬金ってば騒擾(そうじょう)鎮圧盾ことライオットシールド! あはは。特性も特性でツッかいづらいしさー。うははははっ」
 柔和な雰囲気な女性だった。年のころは20に届くか否か。袖のない黒いインナーにダボダボの迷彩ズボンといったいで
たちは戦士というよりサバゲー帰りの大学生という調子だ。髪は野性的なショートカットで真赤なベレー帽を被っている。
 顔つきこそ中性的で愛らしい少年のような明るさに満ちているが、その上体は細いながらも起伏に富んでいる。だらしなく
胸元を覗き込んだ震洋だが……。
「こらこら青少年。そーいうの興味あるからってイキナリ見るのはいけないゾ★」
 あはあは笑う女性──火渡が殺陣師と呼んだ──に肩を叩かれ断念した。
「つか殺陣師サンみたいなの見ても仕方ねーんじゃないのかニャ?」
(えーと)
「おお。なんだよそのー、ガックリしちまうぜえ割とマジでっつー反応! くぉのー、いつまで経っても女心の分からん奴めえ」
 女──殺陣師──はそう笑いながら震洋を小突いた。うりうり、うりうり。とてもとても楽しそうだった。
(いつまでもって……いまが初対面だろ!!)
「ウソでもいいからこういうときは見たいですってカオしときなベイベー」
 その癖「見て喜んでくれるなら大いにおっけー!」などという。よく分からぬ女性である。
「あ! この施設から西に3kmほど行った踏みきりの前にあるけど買ってくる?」

 
「なにをだ……なにをですか?」
「エロ本!! の!! 自販機!! 何がいい? 巨乳? 貧乳? 女子大生? それとも熟女? ロリはダメだよ可愛いけど!」
 どう反応すべきか。沈黙する震洋をよそに殺陣師は「あのねあのね」と一生懸命しゃべりまくる。
「あのねあのね殺陣師サンああいうの見ると「くはぁー!!」ってなって足早にとおりすぎる訳さね。でもたまには!! たまには
ちょっと買ってみたくもあるから困りものだよゾゾゾのゾ。あはは。ヘンかな? 女なのにねー」
 笑う彼女の背後でびきりという音がした。仁王がいた。顔面のあらゆる筋肉を引き攣らせる火渡が。彼の八重歯は一部欠けて
おりその視認をして震洋は先ほどの「びきり」が何か理解した。欠け割れた先端は当たり前のように火を吹いている。今はチロチロ
蛇の舌。小さく見え隠れしているだけだがいつ激情の爆発が部屋を吹き飛ばすか。
 声にならない声をあげ制止する。
「あーあーあーみなまでいわんでいい分かっとる分かっとる。男のコだもんたまには発散せんとあかんね」
(コイツまったくわかってねえ!!)
 ますます蒼くなる震洋。彼に手を突き出したきり殺陣師は気ざったらしく目をつぶり指で額をグリグリした。
「だからさー。火渡戦士長くんも遠慮なく炎を発したまえ!」
 いままさにそうされんとしたとき殺陣師の背中が光に覆われた。武装錬金が発動した。一拍遅れで理解した震洋の眼前に
巨大な盾が広がった。半透明の素材で構成されたそれは創造主たる殺陣師とほぼ同じ高さだった。
「たまには怒ってスッキリするのもアリだよアリ! 私はこの病室で生けとし生ける総ての存在を守ってみせるからさ。どーぞ〜」
 素早く盾を構えた殺陣師、火渡と数mの距離で向かい合う形だ。
「まーたぶんマッけるけどさ。あはは。負けるんだ殺陣師サン。啖呵きっといて負けるとかいうんだ〜。いやなにこのネガティブっ
ぷり。もうちょっと頑張ろうよ殺陣師サン。負けるなマッけるなファイトだおー!!!」
 そういって殺陣師は片手を上げた。
 実によく分からない女性だ。震洋がいままでの人生で最もビックリしたのは桜花が初めてエンゼル御前を発動したときだが
──いったい何であんな代物が──そこから5ランク下ぐらいには入る状況かも知れない。
「……っとと。とにかくさー。負けはするけどナースさんたちが消火器持ってくるまでの尺ぐらいは稼げるヨー」
 火渡は舌打ちをし何やら口中で何やら文句をごにょごにょ唱えた。多くは聞き取れなかったが
「弱すぎる癖に」
 というのが怒りの大きな要因らしい。
「だーよーねー。そこが殺陣師サンの武装錬金最高の悩み。使うたび傷増えるし入院するし……」
 そういいながら殺陣師は当たり前のようにズボンを下ろした。剥きたてのゆで卵のようにつるつるとした太ももが最初何か
震洋ははかりかねた。少なくてもLXE時代なんとか生き延びた同年代の信奉者の更に女性──主に桜花だが──はその
ような挙措に打って出るコトはなかった。(色仕掛けをされるほど武力も魅力も権力もなかった。震洋は)。蒼い下着を紐ごと
露出させながら殺陣師はケラケラと笑い太ももを何箇所か指差した。
「銃弾捌いたときのアレでしょー。特訓でヤケ起こした斗貴子の介が事故った時の傷でしょー。あ! ウツボカズラ型のホム
ンクルスに剛太の介溶かされそうになった時の傷もだ!! ないと思ったらこんなところに飛ばされてたんだー」
 事もなげに指針を変える殺陣師の指を眼で追ううち震洋は信じられない思いがしてきた。
(なんだよこの傷。何だよ……!)
 ズボンの片側は膝のあたりまでずり下がっている。それで視認できる大腿部は女性らしく細く、そしてとてもしなやかだが
美しさとは程遠い様相を呈していた。青紫のケロイドが豹のまだらがごとく点在しそこに醜くえぐれた肉のクレーターがおぞ
ましいアクセントを加えている。もっとも衝撃的だったのは太ももを走る一本の線で薄紅色したそれはもはや傷というより
再接合の跡──斬り飛ばされたそれを無理やり癒着させた──というべき勢いだ。
 良く見ると殺陣師の腕や鎖骨の辺りもそんな調子だ。古今東西あらゆる傷の展覧会だった。無傷な顔が異常とさえ思え
た。斗貴子よりも傷だらけであるべきなのに……。
「うー。悪いね悪いね堪忍だよ。せっかく見て貰ったのにあまりお得感ないでしょ? ごめんねぇ」
 さばさばとしたようすで殺陣師はズボンを履きなおし、

 
「イッつもこんな調子でさー。最初は医療班に頼んで傷とか消して貰ってたけどあまりに面倒臭くなってきたから殺陣師サン、
最近行ってないのよさー。聖サンジェルマン病院にいるトモダチは来い来い言ってくれるけども。気、使ってくれるけども」
 大いに顔をしかめてみせた。
「あ!! ごめんごめん話過ぎたかなあはは。ダッめだよねー。初対面なのに自分語りばっかとか。トモダチにももうちょっと
黙れとか言われるんだけど殺陣師サンついつい喋りすぎちゃって……
「つーかなにしにきたんだよてめェ。遊びに来たとかいったらキレるぞ」
「あ」と目を瞬かせた殺陣師は震洋を指差し
「そのコの検査結果が出たから報告にきたのだよ殺陣師サン」
 おもむろに茶封筒を取りだした。B4サイズほどの大きなそれを親指と人差し指でちょんと持ち、ペラペラ揺すった。
「みんな救出作戦で忙しいからヘルプ!!」
 えへんと得意げに胸を反らす。服越しでも分かる豊かな膨らみがぷるんと揺れた。

「予想通りデッす★ 不完全なもう1つの調整体を使ったのがきっかけとなり」

「彼の体ってば人間とかけ離れつつあるのだっ!」
(え?)
「1か月もすれば駆除対象!! ホムンクルスと同格の化け物。うきゃあ。タイヘン!」
(ええええええ?)
 ここで初めて火渡は笑顔を浮かべた。眉間に濃い影のある凶悪な微笑みだった。
「いまぶっ殺しちまうってのはどうだ?」
「構わん!! 構わんぞよ戦士長くん!!」
(いやそこは構えよ!!)
 殺陣師は意外な言葉を吐いた。
「ただなんかさ。胃袋の一部が核鉄のような材質らし!」
 ホレホレ。殺陣師は自らの武装錬金を指差した。同時にライオットシールドは白く輝き出した。そこに張り付いているもの
があった。レントゲン写真だった。盾はそれを貼るのに最適な装置へと早変わりだった。半透明だった盾はいつしか白く
濁り、しかも奥底から照明相当の輝きがこんこんと湧き出ていた。
(と、いうか)
 青白い骨格と影で構成された自らの透視図を遠目ながらに凝視。震洋の顔からみるみると血色が抜けた。
 悪性腫瘍が見つかるよりひどいありさまだった。
 これだから、これなのだー。殺陣師は写真のある一帯を指差した。
「見ての通り、胃のあたりから神経のようなものが伸びちょーる!!」
「こりゃあ全身にだよな}
 殺陣師は笑顔で頷き影の正体を報告した。分類すれば神経のようなもの。その影響か震洋の身体能力は強化されて
いる。ホムンクルスに近づきつつある、と。
「いまは一般的な人間型の63%ほどのパワー!! 力こそパワー!!」
「だったら別に問題ねェ。しかしどーいうコトだオイ。例のもう1つのなんたら喰った影響か」
 火渡は震洋の頭をつかんだ。そして強く揺すり始めた。
「いいえー。改造手術だボヨン☆」
 殺陣師は横ピースをした。火渡は無言で蹴りを繰り出した。それをアハアハ笑いながらひらりと避け、殺陣師はライオット
シールドの影に隠れた。そして顔半分だけ出して──恐怖刺激を期待するラクダのようの表情で──こう言った。
「ほら、このコ聖サンジェルマン病院から脱走させた鳴滝とかいう予言者いたでしょー? ア・イ・ツ。殺陣師サンが小耳に
挟んだところによるとね。アイツね。なんか別世界の悪の組織の幹部らしいんですよゲヘゲヘ。ひゃー悪の幹部!! 殺
陣師サンも一度ボンテージ着てみたーい!! え? ダメ。そ。鳴滝? ああ。幹部ですもの改造手術なんてのはお手の
物。ん? 斃されたの本物コピった奴だっけ? まあいいや。とにかく後は遺留品のメモ見てちょー☆」



【不完全なもう1つの調整体。大部分はムーンフェイスに抜き取られたが欠片とか粒子はわずかながら残留している】

【それをクウガの世界から持ってきたゴオマのベルトの破片……霊石と融合させてみよう!】

【増幅されるかも知れん。待っていろディケイド!! この武装錬金の世界こそ貴様の墓b】

(鳴滝てめえ!!)

「ゴオマって何だよ?」
「ヨッく分からないけど未確認生命体第3号ぉ! コウモリらし!」

 
「それが不完全版:もう1つの調整体のイミフな副作用と合わさったもんだからもー大変! 青少年はもはや戦うためだけ
の生物兵器一直線!!」

「いまなら武装錬金も発動できちゃうヨー。治癒力だけなら常人の3倍……え? メイドカフェで負った傷? あーあれは
簡単に言うとねぇー。ふつーの人間ならばらばらになってるレベル!!」
(うげ)
「うむむ。よくぞ頑張ったぞ青少年! で戦士長くんどーするよ?」
 火渡はますます笑った。笑いながら震洋に歩み寄りその襟首をむんずと掴み持ち上げた。
「話は聞いたな。人手不足だ。てめェも救出作戦に参加しろ!!)

(なんて不条理な!!!!!!!!!)




「総角。無数の武装錬金を使える君が敢えて剣術を修めている理由。それは──…」
「フ。想像通りだぞ秋水。仇討……成すためには」



「剣であの男を上回る他ない」

「俺のクローン元をな」






 円卓の上。

 三角錐。

 外出中。
 外出中。
 外出中。
 外出中。
 外出中。
 外出中。
 外出中。
 外出中。
 外出中。

 …………………………。


 拷問中。


 扉が開いた。靴らしき影が競り出した。行く手に広がるのはまだらの沼だった。かさかさに黒ずんだ血液と濃緑色の膿が
混じり合う溷厠(こんし)に劣る床だった。ねとり。ねとり。ねとり。靴は進む、裏底に引く汚物の糸をものともせず。

 照星はまだ意識を取り戻さない。ただ仰向けに突っ伏している。血膿と腐臭に満たされた広い部屋の中央で……。

 彼の傍で靴が止まった。遥か上方で薄い笑いが漏れた。

 
「総登場だ。幕間の幕切れは近いよ照星。君はせいぜい血を流してくれたまえ」

 金の奔流が照星めがけ放たれた。風切る音が一拍遅れでようやく響くほどの速度だった。照星の長い髪がふわり棚引いた。

「破壊には準備が必要だ。積み上げた物を壊すのはとてもとても気分がいい」

 照星の右肩から血があふれ出した。黒い外套を穿孔するものがあった。金色をしたそれは刃だった。片刃の鋩(きっさき)
だった。それは靴の持ち主の手めがけ果てしなく果てしなく伸びていた。独特のわずかな湾曲は明らかに日本刀だった。

「だから演劇だ」

 暗い、しかしどこまでも大きく高らかな声を上げ彼は叫んだ。

「演劇をしよう!!」



「MELSTEEN=BLADE」 そう刻まれた認識票が跳ね上がり──…



 やがて世界は暗転した。
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