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第096話 「演劇をしよう!!」(中編(1))



「不肖がいまおりますのは銀成学園の1−A! ただいまこちらでは発表に向け猛練習の真っ最中!! この熱気が分かる
でしょうか!!」
 ハンディカメラの液晶の中をロバが泳いでいる。ロバといってもそれは属性で風体はもちろん違う。
 パリっとしたタキシード姿の小柄な少女。シルクハットを被り肩に1つずつお下げをたらしている。同学年の中で最も中学生
に近いヴィクトリアよりもさらに幼い顔つきだ。
(小札零。なんで私が音楽隊なんかと……ホムンクルスと一緒なのよ)
「ちなみに不肖たちは演劇のメイキングをば収録中」
(黙って!!)
 ヴィクトリアは口角をみちみちと引きつらせた。家庭用、だろうか。収録に当たりとある部員から貸し出されたそれは片手で
十分なほど小さい。こういう時を想定したのか筺体には黒いバンドが(やや破れとほつれが目立っているが)あり、何とか無事
に保定されている。
 何か見つけたらしい。歓声。ある一点めがけマイクしゅっしゅする小札。
 促されるままカメラの舳先を変えると和装姿の秋水がフレームインだ。剣客だけあり恐ろしく映えている。特に短いながら
も後ろ髪を縛ってるところが女性陣にツボったらしく黄色い声は3割り増しだ。着衣の色は浅黄で袖にダンダラ模様がつい
ていた。もっとも日本史に詳しくないヴィクトリアなので彼が何を模しているか分からないし興味もない。
 遠く離れた外国生まれの少女に分かれというのも酷だろう。欧州基準で考えた場合幕末は陸続きでないぶん三国志よ
り伝わり辛い。或いは好事家が逆境を克服せんとばかり奮起し三国志以上に広めているかも知れないがその努力は
まだヴィクトリアまで届いていない。激動の京都でさえ最果ての一僻地……ましてそこの一警察ならヴィクトリアはなお知らぬ。
「おお!! 新撰組でありますか!! これは渋い! これは誰役ですか斉藤一どのでありますか!? ちなみに一説により
ますれば新撰組に斉藤一なる方は2名いたとか!! 土方どのに北海道までとてとて着いていかれた方は三番隊組長組
長じゃなかった方の斉藤一どのと不肖聞き及びましたがその辺の是非も含めてお答え頂きますれば僥倖っっ!!」
「い、いやただのコスプレなんだが……」
 しどろもどろに答える秋水だがその声はギャラリーにかき消された。「いきなり一瀬伝八とか渋っ!」「会津で官軍とやり
合ってた時の名前持ち出すお前も渋っ!!」「つか組長持ち出すなら普通鈴木三樹三郎からだろ」とかいう無責任な歓声
はヴィクトリアの眉間をますます硬直させていく。自分の知らない話で盛り上がられるのは不愉快だ。ましてそれが自分の
時間を浪費しているのが明確な場合怒りはますます強くなる。
 液晶の中では小札が手際よくマイクを差し出しインタビュー。聞いているのは意気込みとか役作りとかまひろとの関係とか
だ。みっともない。3流タブロイドの記者? あっという間の転落劇にヴィクトリアは冷笑しそれは秋水の答弁でますます深まっ
た。びっくりするほど面白味がない。助けを求めるようにカメラを見る彼にゼスチュア。「恩に着なさい」、ただし貸し1つよ、
冷笑交じりに助け船。

「ね、ね、小札さーん。向こうで何かすごいコトやってるよー」
 トロくさい間延びした声を上げる。ネコを被るのは得意だ。

 はたして小札は指差されるまま視線を移した。
 そこは教室の端の方で……

「心がリンクしてるー! 戦う〜すべてのぉー仲間とぉー!!」

 先日ヴィクトリアがメールアドレスを教えてやった少女──栴檀香美──が津村斗貴子と殴り合っていた。

「スクランぼー! ふぉーつーすりーわんレッツゴー!!」

 耳慣れぬ奇妙な歌を歌いながら拳を繰り出す香美。相対する斗貴子は真剣だ。もともと鋭い瞳を更に鋭くしながら踏み込み
左右に身を開き攻撃を避けている。不意に香美が飛び上がった。あっとギャラリーが息を呑んだのは腰骨と大腿部が大胆
な回転連動を描いたからだ。飛び回し蹴り。名うての格闘家でさえなかなかやれないダイナミックな攻撃──それをやれた
のはホットパンツ姿だからだ──が鼻歌の下で当たり前のように芽生え敵の側頭部へ吸い込まれた。一瞬小札はすわ事
故発生かと目を剥いたがしかし流石は斗貴子である。結果からいえば回し蹴りは捌かれた。クラシックな構えをほとんど崩
さず左腕だけをわずかに上げた。ス、ス、ス。いくつもの残影描く繊手。それがネコ足のベクトルを大きく変えた。擦り上げ
られる真剣のよう……後に秋水がそう絶賛するほど見事な捌きだった。であるから中空にあった香美の体が大きく傾き大
きく均衡を欠いたのは当然といえた。飛距離は5m。教室中央めがけすっとんだ。
「合気! 合気でしょーか!!」 
 そう叫んだ小札が驚愕に黙り込むまで1秒までかからなかった。床に落ちるかと思われた香美はしかし敢えて捌かれるまま
大きく宙返りをうった。背中が極限まで丸まったと見る頃にはもう遅い。ネコらしいくぐもった鼻息を吹きながら彼女は目一杯
背筋を伸ばしバンザイをした。両手を床に向ける変則的なバンザイを。タンタンタタン。次の瞬間斗貴子は頚部に異様な
圧迫を感じた。傍観者たるヴィクトリアでさえ最初事態が飲み込めなかったから当事者の惑乱甚だ察するにあまりある。
ホットパンツから延びる白樺のような両足。その大腿部が戦乙女の気管を頸動脈ごと圧迫していた。後にヴィクトリアが映像
記録で調べたところによるとまず香美は逆立ちで着地するや腕の力だけで全身を跳ねあがらせた。そして前転飛びを繰り
返し斗貴子に肉迫。あとは以上の如くだ。
 年代物らしくあちこちキッズアニメのシールの貼られたカメラは確かに映していた。斗貴子の額にヘソを押し付ける香美
の姿を。艶やかな短髪さえ足の間から生えているのを除けば”あぐら”をかくうな姿勢だった。ギリギリという音がした。香美
の大腿部はいっそう深く斗貴子の首にめりこんだようだ。彼女の背中では蜂のようにくびれた両脛がXを描きいっそう脱出
困難だ。あられもなく下腹部を押し付ける姿勢は男子生徒諸君の琴線にふれたらしくどよめきと歓声が起こった。
「俺もして欲しい」そう叫んだのはリーゼント頭の男子生徒でヴィクトリアの不興を大いに買った。
「よっ」
 軽い調子だが見ていたものはひたすらに驚愕した。香美が軽く腰をひねったと見るや彼女の体は斗貴子の首を軸とばかり
に旋回し反転した。つまり肩車のような姿勢に変じた。攻勢は止まらない。シャギー少女が後ろに向かって倒れ込むとグル
ンという不気味な音がした。一同を戦慄と衝撃が貫いた。小柄ながらに不沈戦艦のようだと評判の斗貴子。その体が宙を
滑り天井へ吸い込まれた。フランケンシュタイナー!? 絶叫の小札。追随。ギャラリーたちも鋭く叫ぶ。
 奏でられるは激突音。時間はやや減速した。投げた姿勢のまま、横ずわりをするネコのように臀部を突き上げたままの香美。
重力もやや減衰中だ。空中に漂いながらそして小札めがけピースをした。もっともそれを後悔したのはコンマゼロゼロ何秒
か後である。笑みに緩む頬。その横を青い影が通り過ぎた。はっとするころにはもう遅い。斗貴子の勝ちが確定した。銀成
学園理事長に収まっているイオイソゴが数十分後懇意の業者に天井板を3枚ほど発注したのはこのとき斗貴子が教室の
天蓋を蹴り抜いたからである。ガードレールも拉(ひしゃ)げる脚力で莫大な加速を得た彼女は、絞首と落下を選んだ。意趣
返しとばかり細腕を首に絡ませ腰を沈め……咆哮。耳さえ押さえ震えあがる中ギャラリーは目撃した。揉み合う女性2人轟
然と垂直落下するのを。
 かくして香美は成すすべなく叩きつけられた。床に。「うげぇ」と舌出し呻くだけで済んだのはむろんこれが練習の一貫だか
らである。平生ならそのまま殺してるでしょうね。ヴィクトリアは肩を竦めた。

「というか手筈にない動きを取るな!!!」

 絹を裂くような怒声をあげたのは斗貴子。どうやら彼女らはアクションの練習中だったらしい。そして香美が予定外の攻撃
を仕掛けた……滑らかに説明する小札を映しながらヴィクトリア、「わかっているわよそれぐらい」瞳を冷たく尖らせた。

「あのコも凄かったけど」
「ああ。いきなり対応できるあの人もすげえ」
「何て名前だったっけ」
「津村斗貴子さん。2年じゃいろいろ有名」

 ギャラリーたちはまだまだ驚き冷めやらぬ態だ。拘束を解かれた香美は立ち上がるなり斗貴子の肩をたたいた。何度も
何度も。からからと笑いながら。

「なーに言っとるのさ。これ特訓じゃん特訓!! ゲキワザを鍛え悪に挑むのよ!!」

 つまりあたしら正義のケモノ!! 腰に手を当てそっくりかえる香美。裏腹にうなだれる斗貴子。ぷるんと揺れるネコ
少女の胸。「ああきっと戦力差に打ちのめされてる」どこからかそんな邪推が聞こえてきた。


「さあ今度は大道具の方々を映しましょう!! 参りましょう参りましょう!!」
「分かったからせめてカメラに映ってよ」

 ヴィクトリアは猫かぶりverで顔をしかめた。というのもリポーターがカメラマンの肩を抱えしきりに移動を促すからだ。よほ
ど小札は次の場所に行きたいらしい。


(あの、僕は……?)


 特に映されなかった貴信。哀愁漂うその肩を秋水は叩いた。優しく。とても優しく。



「さーこちら工芸室ではただいま演劇本番に向けて各種さまざまの調度品が製造中!! あ!! ご覧ください監督の方が
こちらに手を振っています!! 応じましょう!! おおーー!! おおおーーっ!!」

 くるりと振り返り大きく手を振りだす小札にヴィクトリアは不快の色を強めた。カメラに尻を向けるリポーターがどこにいる。
いや放送業界のルールなど知らないしそれ的には大丈夫なのかも知れないが、とにかくロバ少女のおちゃらけぶりは見てて
正直、「ウザい」。気難しい狭量少女は限りなくそう思った。


「こっち!! こちらにどーぞ!! こちらに!! ああっ、来ました!! いらっしゃいましたこちらが大道具の監督を担当
される──…」
 やってきた大道具監督を見たヴィクトリアは危うくキレそうになった。余裕綽綽、いかにもテレビ慣れしている顔つきを見た
瞬間感情のさまざまな奔流がつい口をつきそうになったのだ。」

「大道具監督さんの……総角主税さんですっっ!!」






「大道具ぅ!!? 裏方!? お前が!!?」


 ヴィクトリアは知らないがこの人事については戦士側も震撼した。口火を切ったのは剛太だ。場所は寄宿舎管理人室で
休憩を兼ねた最終調整……およそ1時間前の出来事だ。


「そうよ総角クン!! あなたはむしろ後からしゃしゃり出てきた分際で主役になろうとして総スカン喰らう役回りでしょ!!」
「そーだぜ!! 揉めた挙句無理やり主役やって失敗してまっぴー辺りに宥められてよーやく渋々ながらに身分相応の役
をやる! で、協調の良さを知って反省して俺たちに頭下げる!! そーいう役回りだろ!!」


 口ぐちに罵る桜花と御前に心中同意を示したのは秋水。斗貴子といえば良くも悪くもいつも通り睨みつけている。彼女に
言わせればホムンクルスは何をやっても気に入らない。悪行をやれば当然殺意が湧くし善行を見ても腹立たしい。なかなか
屈折しているが戦士が持つべき感覚としてはおおむね一般的だ。普通の範疇である。

「なあなんかえらい言われようなんだけど俺。それなりに譲歩してるよな小札?」

 珍しく情けない表情の総角だ。一筋の汗を垂らし傍らの小札を見た。「普段が普段ゆえ仕方無かろでありまする」。小札
は涙した。

「というか特訓はどうする?」


 防人は特にどうという感慨もないらしい。もともとの取り決め──演劇練習に託(かこつ)け特訓する──がどうなるかだけ
聞いた。

「当然やらせて頂く。ただ場所はココ(管理人室)の地下にして貰うと有難い」

 総角がいうには常に全員学校で特訓できるとも限らない……らしい。

「どゆコトだよ桜花?」
「他の人もアクション練習するでしょ? 教室とか体育館じゃスペース足りなくなるでしょうね」
「そう。何も演武を練習するのは俺たちばかりじゃない。だったらセーラー服美少女戦士や秋水も他の連中の面倒を見るだ
ろ? 練習台。試しの相手だ。香美にしろ無銘にしろそれは変わらん」
 確かにな。防人は下あごに手を当てた。劇までもう3日もない。事情を知らぬ部員たちはいよいよ練習を頑張るだろう。
「そういう時に俺たちだけ特訓……という訳にはいかないか」
 秋水も呻いた。
「逆にいえばだ。他の部員連中の面倒見た分を取り返す時間。そーいった物もシフトに組み込むべきだと俺は思う。周り道
した分、より濃密に特訓する地獄のような時間がな」
「……まあいいだろう。私は一応賛成だ。練習がひと段落したら休憩するとでも言って抜け出せばいい」
 学校からココまでは幸い近いし。斗貴子の言葉に最速で同意したのは無論剛太だ。そんな彼にクスクス笑いながら桜花
も手を挙げた。その付属品ども(弟含む)もしぶしぶながら手をあげて音楽隊連中も「ハイハイ」とめいめい頷いた。
 防人の議決が賛成に傾いたのはいうまでもない。

「でもどうして大道具だ?」
 防人は首を傾げた。いきなり主役をやらないのは配慮だとしても──まあそれが普通なのだが──総角のような派手好き
が表舞台に出ないのは何だか妙だ。
 総角は微笑した。自身に充ち溢れた顔つき、いわゆるドヤ顔だ。秋水を見たのは下記の文言にツッコミを求めたからか。
「アレだな。確かに俺が出れば舞台は輝く。というか俺の独壇場だ。総ての女性客は俺へ釘付けとなり男性客でさえ俺の
華麗すぎる剣さばきに目を奪われ熱狂する。控え目にいってもまあ、演技界における俺の伝説がここ銀成市の養護施設
から始まるのは間違いない。なあお前ら」
「師父。お言葉ですがそれは過大評価というものです」
『はは!! 貴方はいつもそうやって夢みたいなコトをいうけれど!!』
「すーぐつまらんコトでつまずくじゃん!! で何か情けない顔するでしょーが!!」
「……リーダーは……中間管理職が……お似合い……です」
 口々に悪口を並べたてる仲間たちを小札はふわりと指差した。両目は向き合う不等号でおかしみ溢れる「わきゃー」で
ある。真白に硬直する総角などとっくの三手前にお見通し。そんな表情(カオ)だった。そして色のない殻にメキメキと罅(ヒビ)
が入り──…
「どーーーーだこの部下どもからの好評嘖々(さくさく)!」
 白磁の欠片をまき散らし再誕する総角だが叫びはやや震えそして弱い。
「悪評しかないように思えるのだが」
「ちょっとヤケになってね? お前」
 うん。うん。秋水は見た。首魁の後ろを。揃って頷く部下どもを。こういうコトはよくあるらしい。
「フ」
 総角は笑った。しかしそれをやるまで2度ほど深呼吸を要したところを見るとそれなりのショックがあったようだ。
「でもアレだ。顔もいいし動きも演技も完璧すぎる俺が演技をやれば一人勝ちになってしまうだろ?」
 斗貴子は無言で身を屈めた。寄宿舎管理人室の床にはこのとき鐶が量産したマレフィック勢の似顔絵の書き損じがかな
り大量に撒き散らかっていた。撒いたのは無銘であまりのクオリティにとうとう癇癪を起したからだがそれは直後勃発した痴
話喧嘩ともども本筋ではない。

 とにかくも斗貴子はその1枚を拾い上げた。拳の中で何かが圧縮された。
 次の瞬間響いたポフという音は総角の体表で生じたものだ。一拍遅れてカサリという音が畳でした。
 総角は2、3度瞬いてから下を見た。丸まった紙屑。それが転がっている。
 一瞬かれは斗貴子を凝然と眺めたが視線を外し──剥がす、という形容も相応しかった。意志の力で辛うじて黙殺したという
感じは否めなかった──声を上げる、朗々と。
「いうのは、いいか演劇というのはだな! 絶対の能力者一人で支えるものじゃあないッ! みんな1人1人の努力でよくして
いくものだ」
 剛太の手から白いツブテが飛んだ。つられて香美も投げつけた。2人とも無表情でそれは先駆者も後進(除くラス1)もみ
なみな同じだった。
「特定個人の恣意ではなく、人として捻出すべき素晴らしいモノのために、誰もが楽しめる普遍的かつ高度な娯楽のために協力し、
頑張っていくべきものだ。組織が素晴らしい結果を弾き出す時というのはつまりうぐっ、つまり、つまり、それでだな!」
 うぐっは鐶のせいである。彼女の投擲した塊は紙製ながらも時速380kmをはじき出した。速度即応の痛烈さ。それが総
角の脇腹に直撃した。一時とはいえ演説が中断したのはそのせいだ。ダメ押しとばかり鼻柱へぶつかった紙屑は桜花の
投げたものだ。低威力だがそれだけに屈辱。欧州風の端整な顔立ちがそろそろ歪み始めた。
 無銘はどうしたものかと首をオロオロ左右していたが小札がぴょいと投げつけたのを皮切りに倣った。ここでノらぬ防人で
はない。香美の手が二度目の投擲をしたのは貴信の分で、とうとう毒島までもが(謝罪の辞儀をしつつ)投げた。
 御前がここまでおとなしくしていたのは特大の球体をこさえるためでそれは総角の頭上から振り落とされた。
 やがてバラけたそれが足元に落ちきる──白雨やむ──ころ、やっと抗議する(できた)音楽隊リーダー。声は流石に上
ずっていた。
「痛い痛い。やめろ。物を投げるなっ。なんだ!! 何が気に喰わない!?」
「貴様の総てだ!」
 斗貴子の叫び。頷く戦士。誰も彼もかつて一杯喰わされてるから仕方ない。
「フ、フ。とにかくだ。いくら優れているからといって新参に過ぎぬこの俺が他の者を押しのけ舞台の中央へいくようでは駄目だ」
 丸みを帯びる金髪の頂点に紙屑が当たり景気よく跳ね跳んだ。「またか」。暗澹たる面持ちで総角は犯人を見た。
「あ、いや、済まない。儀礼的に一応」
(今頃!?)
(反応遅ぇ!!)
(でも投げるんだ……)
 犯人──秋水──は戸惑い顔だ。

「おのれどいつもこいつも!! もう終わりだな投げないな!! いいさもう、投げたきゃ投げろ!! でもこっからは俺も
全力だからな!!!!  全力でゼンブゼンブ捌いてやるからな!! 覚悟しろ!!」
(あ、キレた)
(昔の口調全開であります)
 ひとしきり吠えた総角は青筋立てつつ一座を見まわした。のみならず床の紙屑総てを拾い上げ窓を開け──…
窓を閉めゴミ箱に捨てた。
(捨てないんだ外には)
(窓開けた辺りで我に返ったようだ)
(理知的なのか感情的なのかわからねーよ)

 そして空咳。総角は叫んだ。

「いいかお前らよく聞け。いいか。組織というものはだな!」

「トップの、自負だけが肥大した何者かのスタンドプレーのためにあるんじゃない! 」

「「「「「お前がそれを言うかーーーーーーーーーーーーーーー!!」」」」」

 絶叫したのは秋水と桜花と御前と剛太とそして斗貴子。
 小札は瞳を細め笑った。にへらーと。
(考えようによっては戦団という組織の方々みなみな総てもりもりさんのスタンドプレーに振り回されておりますコト全く否め
ぬ訳で……)

「くそう紙屑あれば投げてやるのに!!」
「てめーもりもり先読みしやがったな!!」
「先読みして武器を捨てる……か。ったく!! 相変わらず小賢しいな!!」
「今からでも遅くない。回収しようか姉さん?」
「駄目よ秋水クン! 総角クンなんかのためにゴミ箱漁るなんて!!」
「ハッハッハ!! 喚くがいい叫ぶがいい!! だがもう遅い! もはやお前たちに武器はない!! フフフ……ハーッハッハ!!」

「しばらく揉めそうですしお茶にしましょう」
「そうだな毒島。お前たち、イモ羊羹ならあるが口に合うか?」
「あ、どうもです戦士長さん」
 無銘は軽く会釈した。防人には好意的らしい。
「フ。毒島よお前の反応が一番ひどい……人に紙屑ブツけておいてそれはないだろ」
 ごにょごにょ口の中で唱える総角だが10の目玉に気付き詠唱中断。
「優れているという自負があるのならその能力は他(た)のために使うべきだ。他を生かすために身を削るべきだ。リーダー
たる俺は常々そう考えているし、人材育成に対してはまったく計り知れぬモチベーションを抱いてもいる」
 斗貴子が短めの母音で反問した。鋭くもギラついた声は悪鬼のそれだった。
「よって裏方だ。部を見たが大道具に回され文句垂れてる連中がいた。そいつらを啓発する」
 ああそう。剛太は羊羹を食べに行った。
「フ。まずは演劇における大道具の重要性を説いてやる。目的意識をハッキリさせてやるのさ。自分たちの作る物がどれほ
ど役者を引き立てるか、観客の関心を惹起出来るのか……頑張れば頑張るほど役者と同じくらい劇に貢献できるというコトを
たっぷり知らしめてやる」
 言ってるコトはまともだけども……「お前が言うと胡散臭いんだよ」。口ぐちに混ぜ返すのは桜花ならびにその派生物。
「大道具の制作がどれほど創作性に富んでいるか、自己表現の媒体としては演技に負けず劣らずの可能性があるという
コトをきっちり教えてやる。フフフ。フハハハ!!」
 総角は哄笑した。両掌を上にむけ十指ことごとく鉤と化し。悪役のような笑いに渦巻かれながら秋水は口を開く。至って
普通のコトを普通に訊くために。
「……君は大道具に携わったコトがあるのか?」
「フ。ないさ」
「ないのかよ!!」
「だが要領など入門書を読めば大体掴める。要は、大道具担当の者たちに目的意識と張り合いを与えられるか、だろ?」


 最後に総角がこう言ったのをヴィクトリアは知らない。


「俺はどっしり構えて知ったかぶりをやればいいのさ。慣れれば誰でもわかる程度の基本事項を面白おかしく吹聴し、「まあ
俺も大道具は初めてだから分からないコトがあれば宜しく頼む」とでも頭を下げればそれで済む。一番大事なのは組織への
帰属意識だ。こいつらと一緒に頑張っていきたい、そう思える雰囲気を作るコトだ。俺はそれを阻む夾雑物を一つ一つ
取り除いていけばいい。組織に不安や苛立ちが満ちぬよう、な。そのためならば幾らでも身を削るさ」


 もし知っていても受け入れられたか、どうか。総角を見る彼女の眼は相変わらず厳しい。



「戦士長が監督ぅ!!?」
「はい。アクションの方ですが。ちなみに特撮監督は無銘サンです」
 斗貴子は愕然とした。演劇部をめぐる状況はだんだん凄まじくなりつつある。
「フ。俺にかかればこれぐらい簡単だ」
 振り返る。黒檀の素晴らしいタンスができたところだ。額の汗を拭う総角。歓声。周囲の生徒が燃えている。
 香美とのアクションがひと段落した斗貴子は大道具の方を見にきた。総角の動向が気になったというのもあるがそれ以上
に防人の所在を知りたかったのだ。
「助かった毒島。ケータイが通じなかったからな。手間をかけた」
「い、いえ。大丈夫です。仲間をサポートするのも仕事ですから」
 そういう彼女は小道具係らしい。先ほどから何やら赤やら緑やらの宝石を針金に通している。
「ところでどうしてキミは素顔なんだ?」
「防人戦士長の命令です……。ずっとガスマスクだと目立ちますし、その、体験入学扱いで皆様のお手伝いをするコトになり
ましたから素顔の方がいいって。でも、でも……私、やっぱりガスマスクの方が……。素顔だと……恥ずかしくて……」
 これがあの毒島なのかと目を疑う斗貴子だ。ひどく気弱そうな少女がそこに居た。大きな瞳は垂れ目気味でひどく愛らし
いが同時に小動物のように怖々と潤んでいる。物音がするたびビクビクとそちらを見ている。
 マスクのせいで紫外線とは無縁なのだろう。肌ときたらミルクを流し込んだように白い。青いカチューシャはいかにも良家
のお嬢様。なぜ戦団などにいるのか。斗貴子は内心首をかしげた。(もっとも良家のお嬢様なのは斗貴子も同じだが)。髪と
きたらたんぽぽの綿毛よりも柔らかそうだ。小柄な体はガスマスク着用時こそ奇兵の印象をますます強めていたが今はむ
しろ愛くるしさを倍加中。
(心持ち態度も変わっているような……)
 普段はむしろ千歳や根来寄り、秘書官的な知性を感じさせる佇まいなのだがいまはどこにでもいる恥ずかしがりの女の
コという感じだ。しかも幼い。年齢を聞いた斗貴子は仰天した。「2つ下!? たったの!?」。高校生というのが信じられ
ないほどの童顔だった。小柄な体と相まって小学生にしか見えない……それが毒島だった。平素のくぐもった声も今は
ない。桜色のぷにゅぷにゅした唇からは天使がごとき囁きばかり漏れている。
 そこに小札が来て立ち止まった。毒島も彼女を見た。


(なんだか)
(気が合いそうなコト請け合い!)


 どこか似た要素のある二人である。どちらからともなく握手をした。とても力強い握手を。


 とりあえず斗貴子は体育館へ向かった。防人と無銘はそこに居るらしい。




 栴檀貴信はガチガチに緊張していた。

「あ!! ああああの!! 頼まれていた資料だ!! た、た、足りるだろうか!!」
 大声を張り上げると少女が1人、驚いたように顔を上げた。執筆中だったのだろう。机の上には原稿用紙が何枚か。
書きかけのものもあれば白紙も。丸まっているのは書き損じだろう。そういったものが不規則に散らばっている。
 顔を上げた少女はしばらくおっかなびっくりで貴信を眺めた。メガネの似合うおかっぱ頭だ。若宮千里。豆知識の要領で
覚えた演劇部員の個人情報には「几帳面」とある少女。散らかり具合は苦闘のせいだろう。
「そ、その!! 脚本を書くのに必要な本を!! 探してきたのだけれど!! あ、あ、あ、大声でビックリさせたのは
すまない!! ぼ、僕はこうしないと喋れなくて!!!」
 手近な机に本を置く。10数冊はあるだろう。新刊の文庫本もあればホコリだらけでカビ臭いハードカバーもある。ズシリ。
置くと重苦しい手ごたえがした。
「あ、いえ。すみません。ありがとうございます」
 やっと状況を理解したのだろう。千里は微笑した。それだけでもう逆上せ上がる貴信だ。まだ人間だった頃、学生時代
ときたら恋人はおろか同性の友人さえ作れなかった彼である。ときどき総角とバカをやったりもするがそれは貴信の性格
を見抜いた彼のレクリエーション的なサービスだし(それが分かっているからなお辛い!!)、無銘に至っては『尊敬でき
る弟』なるフクザツな位置づけ……頼れるし自分以上だと認めているがときどき危なっかしいので年上としてさりげなく
教導したいという様子だ。友情の萌芽があるのは目下秋水だが既知のとおり完璧超人、友誼を結びたいが結んでいい
のかという葛藤もありどうも踏み込めない。

 まして異性など!! 見た目だけなら同年代の異性など!!
 テンパって仕方ない貴信だ。
(わーーーーーーーーっ!! 良くない!! 良くないぞお!! ちょっと笑われたぐらいで意識するのは良くない!!!!
誰だって愛想笑いぐらいする!! そこを勘違いするのはダメだ!! ひょ、ひょ、ひょっとしたら僕の顔を笑ったのか
も知れないし……!! そ!! それはないと信じたいが!!! でででもでもやはり学生生活なんて僕には……!)


 なぜこうなったのか。


「栴檀貴信。キミも高校生活をエンジョイしたらどうだ?」
『ま!! 待つんだ戦士長さん!! 僕なんかが表に出ていい訳が!!』
「素顔のコトを言っているなら気にするな!! 戦士・秋水から聞いた!! キミもまたブラボーな精神の持ち主だ!!
あと足りないものがあるとすればそれはズバリ、勇気だ!!」
『勇気!?』
「そうだ!! 己を曝け出す勇気こそキミには必要だ!!」
『しかし僕はホムンクルスで……!!』
「総角主税から話は聞いている。例の、キミたちを1つの体にした『月の幹部』」

「奴に対しキミが取った行動……実にブラボーだ!! もちろん人によって反応はさまざまだろうが」

「あの姿勢を貫こうとする限りキミは奴らのようにはならない」





「んーにゅ。なんかよーわからんけどたまには交代したらどよご主人」





(勇気……)

 防人の励ましで香美との交代を決意した貴信だがしかしいきなり舞台に出る勇気はない。
 何か裏方作業がないか探しているうち文芸に空きを見つけたので立候補した。本を読むのは昔から得意である。
中学時代は昼休みになるたび図書室に居た。本の世界に浸るというよりは他人との交渉材料が欲しかったので
ある。豆知識。話のとっかかりを集積すれば自然と会話上手になる……そう思っていたが大失敗。人見知りが災
いし高校デビューは頓挫した。披露しても大した反応が返ってこないのが豆知識。会話の広がりなどまるでない。
「……の」
(あ、ああ。思い出すに辛い学校生活……。でも全うしたかった……)
「あの」
「うええええ!?」
 貴信はレモン型の瞳を張り裂きそうに見開いた。漆細工かと勘違いする見事な黒髪が40cmほど先にある。
「あの。本、好きなんですか?」
 千里が立ち上がっている。どうやら会話のとっかかりを探してくれたらしい。内向的であるが故に(ほぼ同質な)
相手の機微が分かりすぎる貴信だ。同時に相手の配慮に凄まじい罪悪感を覚えてしまう。いらぬ気遣いをさせて
しまった。申し訳ない。マンゴーって実は漆科だからあまり触れるとかぶれるぞ。反問と豆知識がぐるぐる揺れて
言葉をうまく紡げない。「あ、ああ!!」。広がりのない応答を漏らすのが精いっぱいだ。
(何! 何を聞けばいいのかなあ!! でも迂闊に踏み込むのも失礼だし!! 変な質問して気持ち悪がられた
ら悲しいし!! ど、どうしよう!!)
 助け舟は、予想外のところから来た。
「あー居た。貴信先輩ー。ちょっといいですか?」
 教室に明るい声が響いた。振り返る。まばゆい金の光にさまざまな既視感がよぎる。駆けよってきたのは少女。
貴信の知る範囲では小札をあてはめるのが一番近そうだ。お遊びのすぎるゴシックな制服がぶかぶかに見える
ほど小さな体で幼い顔。色素の薄い髪は光の中できらきら輝いている。それを頭の両側で短く縛っている姿に
もまた実は既視感。なぜなら──…
「沙織? どうしてココに?」
 千里の声。現実に戻る貴信。かぶりを振る。『過去』に浸りかけていたのは失敗だ。

「てかちーちん。本好きですかとか言っちゃダメだよ。もー。文芸選ぶぐらいなんだから好きに決まってるじゃない。ね。貴
信先輩?」
「こら沙織。いきなり名前で呼ばないの。失礼でしょ」
「えー。だって「せんだん先輩」じゃ呼びづらいし香美先輩とも区別つけ辛いし……。あ!! 香美先輩とは兄弟!?
それとも親戚!? まさか夫婦ってコトないよね!! というか香美先輩どこなのかなー」
「香美とは!! 血を分けた中で!! いまは割と近くに居る! と思う!!」
 目をキョドキョド泳がせたのは不意の来訪に驚いているせいでもあったが。それ以上に


(思い出した!! 思い出したぞこのコ!! 確か鐶副長がすり替わっていた!!)


 河井沙織。彼女は知らないだろうが記憶を抜き取るため頭に鎖分銅をぶつけたコトもある。


(本人と会話するのは初めて!? どうする!! 謝るのが筋!?)


 結果からいえば貴信属する音楽隊は沙織を一時期監禁していたカタチになる。
 鐶がなり変わっていたため騒ぎにはならなかったが……。


「そ!! そのだな!! 貴方は夏休みの一時期ちょっと記憶が飛んだりしてはないだろうか!!?」
「ふえ?」

 もともと丸い瞳を更にまろくして沙織は考え込んだ。

「言われてみればいろいろおかしかった気がする……。見覚えのない部屋で目覚めたりいつの間にか何日か過ぎてたり」
「くくく詳しくは話せないが!!! その件じつは僕も関わっている!! 本当に悪いコトをした!! すまない!!」
「? どゆコト?」
「え、えーと!! たとえば鎖分銅が頭に当たったりとか色々!!」
「よく分からないや」
 沙織は相好をくしゃくしゃに崩し舌を出した。
「えーと。何か事故があったってコトですか? 鎖分銅の練習中当たって……とか?」
「というか貴信先輩鎖分銅使えるんだ。スゴーい!!」
 口々にまくし立てる少女たちをほとほと持て余す貴信である。

(しまった!! というか思わず謝ったが機密的にどうなんだコレ!!)

 重要な情報こそ伏せはしたが……。疑念は尽きない。話題を変える。

「とととというか河井沙織……さん!! どうして貴方はココに!?」
「そうだった!! あのねあのね!!」

「六舛先輩たちが『見たら教えて』って。話があるって!」

(……!!!)

 六舛先輩。名前を聞いて即座に顔が浮かんだのは教室での出来事あらばこそ。


(確か彼は友人に耳打ちされていた!! 大浜という人に!!)

 あのとき香美の後頭部にあった貴信の顔。それを目撃した大浜。すかさず六舛に報告していた。



「六舛先輩たち今は体育館に居るよ。もし良かったら案内するけど……来る?」

 頷くほかなかった。正体を知られるコトは恐怖だが……それでも話すほかないと思った。


(なぜなら僕たちはこの学校に対し決して無害とは言い切れない!! すでにいくつか被害を出している!!)


 歩きながら携帯をイジる。総角と防人めがけ送ったメールはすぐ返信が来た。暴露を良しとされたのは六舛たちがカズ
キの親友であり薄々ながら錬金術の存在に気付いているせいだ。

 同時に貴信は沙織も六舛たちと同じ立場と知った。

 廊下の中央。立ち止まる。沙織に声をかける。汗だくになりながら言葉を発する。

 ……図らずも沙織がまずかつての戦いを知った。

 ただしヴィクトリアがホムンクルスだというコトは…………伏せた。

 彼女は音楽隊ではない。生活を脅かすような暴露はしたくなかった。



「なんだったの……?」


 一人教室に残された千里はしばらく呆然としていたが……すぐさま執筆を再開した。

 と。そこへ。


「さあ今回お送り致しますのは脚本でありまする!! 執筆されておりますのは若宮千里どの!! その筆力たるやまさに
鼎を扛(あ)ぐという風!! 新進気鋭! 期待のルーキー! 名場面の数々! はたして如何に生まれいでるか!!
隅から隅までズズ・ずいーーーーと映させて頂きたき所存!!」

 騒がしいリポーターがやってきた。一瞬撮影を拒もうかと思ったがカメラマンの姿を見てそれもやめた。
 カメラを持つヴィクトリアは薄く頬を染めながら千里を見ていた。美しい彼女のそういう表情を見ると脳髄の何事かが甘く
とろけそうだった。断われる理由がなかった。







 体育館。

「ブラボーさん? さっきまでその辺りをブラブラしてましたけど。いないわね今は」
「ったく。ブラつくならせめて携帯の電源ぐらい入れてくれ。細かい打ち合わせができないじゃないか」
 マジメ一方ね。桜花が揶揄するように笑うと斗貴子は喰ってかかった。剣呑な雰囲気だが演劇部はとっくに順応している
らしい。体育館に集まった生徒のうち何人かが面白そうに眺めている。
「だいたい戦士長は彼らを信じすぎている。ヴィクトリアといい、学校にホムンクルスを招くなどどうかしている。大体……」
 斗貴子はある一点を見た。鐶。打ち合わせ中らしくパピヨンと何事か話している。視線に気づくと気まずそうに首を竦めた。
 それもその筈。鐶は。
「蒸し返すようで悪いが、何人もの生徒を傷つけている」
 かつて繰り広げられた六対一。学校にて繰り広げられた大決戦。剣道部員たちはじめ多くの生徒を傷つけたのは年齢吸
収のためだから死者は出ていないがそれにしても特性のおぞましさ、当時校庭付近にいた生徒みな悉く胎児である。
 しかも斗貴子はその現場を見ている。戦士として防げなかった悔しさもある。ホムンクルスたる音楽隊の通学、もとより許容
不可である。まして鐶は平然といる。生徒を傷つけながら学校に。嫌悪たるや想像を絶するだろう。

「フム。確かに精神衛生上良くないな」
「戦士長!?」

 いつの間に!? 斗貴子は仰天した。背後に防人がいる。いつの間に!? そんな金切り声を浴びながら彼はしばし
考え込む仕草をし──…

「まあ精神衛生上こうするのがブラボーだな。桜花。今からいう生徒たちをココに集めてくれ」

 鐶の方へ歩いて行った。



「良く分からないけど、まあ」
「実は刺されたような気もするけど、その辺りよく覚えてないんだよなー」
「なー」
「傷も残っていないし」
「何より!」
「何より!」

「可愛いからオーケー!!!」


 無数のサムズアップが鐶めがけ突き出された。



「と言う訳で謝らせてみたぞ戦士・斗貴子!!」



 得意気に瞳輝かす防人の向こうには人だかり。先日鐶に一撃喰らわされた被害者たち。赤い髪の少女は彼らめがけ
ペコペコ頭を下げている。斗貴子はただ成り行きを眺めていたが、生徒たちの反応が明らかになるにつれ凛然たる表情
をどんどんどん情けなく取り崩した。誰一人責めていない。

(というかそもそも!!)

 人だかりはそろそろ崩れ始めている。蟻のような人影がばらばらと千切れ飛んでいる。
 その塊の一つが斗貴子の傍を通り過ぎた。唐突な謝罪について感想を漏らし合っているらしく、こんな言葉が聞こえた。

「いやー。しかしまさか悪いヤツに操られていたなんて」
「このまえ学校襲った連中の残党がやったのかな。あんな可愛いコを利用するなんて! 許せない!!」

 泡を食った表情で手まねき。寄ってきた防人に小声でまくし立てる。

(なんで捏造したんですか戦士長〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!)
(理由は簡単だ戦士・斗貴子!! ありのままを話せばコトがややこしくなる!!)

 なんという力押しで大雑把な事後処理。いつものコトだが斗貴子は肩を落とした。

「もうやだ。相変わらず戦士長は甘いし生徒は生徒で気楽すぎる……。私の心配はなんなんだ……」
「まあまあ。そんな人たちだからいいんじゃない」
「そうだぞ。だいたい鐶だって犠牲者……望まずしてホムンクルスになったんだ。仕出かしてしまったコトはちゃんと謝るべき
だが……許されたならエンジョイすべきだ。高校生活を」
 ぽんぽんと肩を乗せる桜花と防人。慰めているらしいが斗貴子には届かない。ただ悩ましげに嘆息した。
「で、アイツはいま何をしてるんだ。もう見たくない……。概要だけ説明してくれ」
「いま? そうね……」



「斗貴子先輩! 俺謝りましたけど正直本当に馴染めていくんスかね(声色)」
「生徒たちは許してくれたんだろ。なら大丈夫だと思うが(声色)」



((同じタイプの特技!!)


「あっちで生徒・六舛と睨みあっている。俺の見たところ拮抗している。ブラボーだ!」
 指示されるままそこを見た斗貴子は一段とうなだれた。六舛と鐶。お互い油断ならぬ相手と認めたらしくじつと
対峙している。
 もう馬鹿馬鹿しい。他の場所へ行く。肩いからせ去りかけた斗貴子だが意外な影に押しとどめられた。
 その影は別に斗貴子を留置するつもりはなく、原則の赴くまま部屋に飛び込んできたらたまたま衝突したまたま押し留
める結果になったというのが実情だ。影は誰か。斗貴子はすぐさま理解した。
「カメラどのカメラどのこっちこっち! ご覧下さい!! 時に演技とは戦争よりも苛烈なのでしょーか!! 何の練習か
よく分かりませぬが恐らく相当重要な場面なのでしょう!! 漲る白熱くゆる波濤! おっとまず動いたのは鐶副長、全身
から金色(こんじき)の火を噴いた! 出ました十八番・大得意の光輝の膜! それが怒髪よろしく天を突くううう!! 大き
い!! 時々思い出したように消防署の方がヘンな棒ぺったんこする天井のアレ! アレ! 正体不明、憎くてハダカの白
い奴がゴールド極彩色に染めあがる! これには六舛どもも表情を崩した!! 何という先手! 甘露が薄くけぶる瞳!
もはや相手さえ映っておりませぬ! 見るのは天挑むのも天! 神よ演技の覇権は我にあり認めぬならば殺すのみ!! 
そんな声さえ聞こえるほど猛っております!! 鐶副長肉体年齢12歳、かつてないほど猛っております!! オオオ!! 
しかし六舛どのもまた動いた! 一瞬深く息を吸い、吸い──、出したああああ!!光輝の膜ッ! くゆりにくゆる山吹の
ヴェール! 精緻! この世に存ずる何ものよりも美しい!! さあさあ、両者の気迫がとうとう動き出した。互いの速度は
まさに互角、ゆっくりと、しかし確実に相手めがけ……そろそろと動きつつ動きを探り──…放 た れ た ー っ! 勃発
です!! ついに勃発のジハード、その始まりはお二方の制空圏外ギリギリが触れ合いしとある個所! せり出したオーラ
がついに激突ーーーー!! さあ、さあっ!? 第一次銀成大戦その最前線はのっけからの膠着状態! 互いの威圧が
威圧と絡まり合いジガジガジガジガスパークしている! 激しい!! 対立のエチュードはかくも激しいものなのか!! ぶ
つかりあうオーラが右下とか斜向いとかとにかくその辺でボンボンボンボン弾けております!! もはや人の目に映るコトさ
え放棄した光の戦い! 戦況を示すものはただ一つ、せめぎあう境界を具現化した橙のっ! ぐにゃぐにゃぐにゃ〜な稜線
のみ! その均衡は雄弁かつ壮大に語っている!!  五分ッッ!! 両者はまったくの五分!! 果たしてこの戦い、一体!
一体どうなるのでありましょうーーーーーーーーーーーーーっ!!」

「あの人も何かスゴいんだけど」
「……気にするな」

 近くにいた生徒の呟きにただ諦観を返すしかできぬ秋水である。


 パピヨン率いる演劇部の陣容はいまや最高のものとなりつつある。
 抜群の運動能力を誇る秋水と斗貴子。学園一美しいと評される桜花。遅れて加入した音楽隊はさまざまな分野において
めざましい可能性を秘めている。毒島や防人といった外様連中もまた然り。

 誰かがいった。とても面白い劇になるだろう。

 誰もがいった。きっとそうだろう。

 笑いあい気運を高める生徒達は……気付かない。

 楽しい時はいつか終わる。その、逃れられない事実を。

 もっとも……もし気付いたとしても彼らは気楽に笑いこう答えただろう。

「そーだよな。劇はもうすぐ終わるんだよな」

「ん? ひょっとして学園生活のコト? 考えたら卒業式までもう1年半切ってるし」

 彼らはほんの僅かでも脳裏に描くべきだった。

 ありえからぬ非日常の存在を。

 かつて銀成学園はL・X・E創始者、Drバタフライ率いる無数の調整体の襲撃を受けあわや殲滅の憂き目にあった。
 さらにその数ヶ月後、多くの生徒が鐶光のせいで胎児と化した。

 ともすれば命を落としかねない境界線の上に2度も立たされながらまったく警戒するところがなかったのは、やはりまが
りなりにも「生き延びた」という安堵のせいか。

 されど日常はやがて終わる。
 劇の終わりとともに幕を閉じる。

 ありえからぬ非日常の存在の手によって。

 破滅をもたらす足音。

 それを導いてくるのは皮肉にも……。

 かつて学園を守り抜いた武藤カズキ。

 彼の中に日常の象徴として佇む……1人の少女。


「あ! ココココ! ココだよあっきー! ココでみんな練習してるんだよ」


 武藤まひろ。

 彼女はただいつもの通り、親切心を発揮しただけだった。
 街を歩いていたら道に迷っている者を見つけた。
 目的地が自分の知っている場所だから……案内した。

 たったそれだけである。もしまひろが案内しなかったとしても、非日常の存在は、その目的が銀成学園にある以上、いず
れ自ずとたどり着き、やがて結局日常を壊しただろう。

 まひろはトリガーを引いた訳ではない。ただ準備万端の「軽い」引き金に触れただけである。

 劇鉄が弾丸を押し出すおぞましい結末に期せずして関わってしまっただけだ。彼女自身に悪意はない。

 けれど……結果だけを見れば武藤まひろは確かに。

 おぞましい人物を銀成学園に招いた。招いてしまった。

 そして今は体育館の近くにいる。そこには秋水を初めとする錬金戦団の面々と音楽隊がいる。
 パピヨンと、ヴィクトリアも。
 銀成市における戦力が総て、結集している……。

「この上ない熱気! ああ、声優時代の舞台を思い出します!」

 体育館の外で手を組むのは若い女性。美人だが野暮ったい黒ブチ眼鏡をかけた”冴えない”タイプである。踵まで伸びた
黒髪は、着衣たる黒いブラウス同様ほつれと傷みがよく目立った。それでいて声は天女のように甘いから、すれ違う男子
生徒が思わず目を留めそして落胆する。桜花級を期待していたのに……ガックリうなだれる彼らはそう語っているようだ。

 クライマックス=アーマード。錬金戦団、そしてザ・ブレーメンタウンミュージシャンズ共通の敵であるレティクルエレメンツの
……幹部にして坂口照星を誘拐した実行犯の1人。(自らの武装錬金でアジトまで連れ去った)。

 捜査本部に犯人を招くというか、軍中枢部にテロリストを招くというか。

 まひろは自分がどれほど危ういコトをしているか知らぬまま、いつものように明るく笑い、もう1人に呼びかけた。

「えーと。名前忘れちゃったけどこっちだよー!!」

「うむ! いよいよ及公、パピヨンとご対面であるな!」

 手招きされたのは青い銀の貴族服。衣装に見合わぬ冷たい美貌の持ち主だが2mほどある背丈や特徴的な物言いの
せいでこれまたトンチキな印象である。

 リヴォルハイン=ピエムエスシーズ。鐶光をも凌ぐ、レティクルエレメンツ最新鋭のホムンクルスである。その形質は細菌
型……の集合体。バンデミックを起こせば銀成市など1時間で殲滅できる……と言われている。

 彼の狙いはパピヨンの所持する『もう1つの調整体』。
 かつて戦士たちと音楽隊が激しく争いあうほどに強く求めた戦利品……その正体は黄色い核鉄。
 霊魂の承継、ひらたくいえば前の使用者の霊魂を受け継げるDrバタフライの遺産がなぜ必要なのか。

 それはまだ分からない。

 とにかくクライマックスは冥王星の、リヴォルハインは土星の、幹部えある。


 そんな彼らがいま……秋水たちのいる体育館へ向かっている。


 先導するまひろの後ろで二者二様の妖気が徐々にだが膨れ上がっていく──…

 私の名前はクライマックス=アーマード! 社会的には秋戸西菜で通してます(コレ本名!)

 今日は銀成学園演劇部のみなさんにこの上なく宣戦布告です! 宣戦布告っていっても別にガチでケンカ売る訳じゃあ
ないですよ! お互いベストを尽くしましょうみたいなこの上なく無難かつ爽やかな宣言しました! だってだってこの上なく
オトナですからね私。『学生さんごときがプロの私たちに勝てるとでも』みたいなー、マンガでよくいるかませ臭ばりばりな
挑戦つきつける訳ないじゃないですかこの上なくっ! てかアレですよね、劇で対決とかこの上なく珍しいですよね。という
か普通ないような。ま! よく分かりませんけどパピヨンさんが提案して盟主様とかブレイクさんが乗れっていうならやるだ
けですよこの上なく! ……ぬぇぬぇぬぇっ!(笑い声)、これでも私は元声優、演技畑だから演劇経験とーぜんアリです。
ああっ、なっつかっしー! むかしよくやりましたよ演劇! 楽しいですよね演劇!
 劇団はブレイクさんの借りました。みんなこの上なく一般人です。実はホムンクルスで発表中銀成学園の生徒さんたち襲う
とかゆーオチはないですよぉこの上なく! 

 けほん!

 こーれーまーでーのー! あ〜らすじ〜!!

 早坂秋水さんはかつて刺してしまった恩人・武藤カズキさんの妹まひろさんとひょんなコトから関わるようになり絆を深め
ていきました! この上なくっ! 一方そのころ銀成市にあらわれた音楽隊ことザ・ブレーメンタウンミュージシャンズと戦士
さんたちとの間に戦いが勃発! さまざまな思惑が交差するなか秋水さんは音楽隊リーダー・総角主税をどうにか打破した
のですがこの上なくまだ終わってはいなかったのです!
 新たな敵、レティクルエレメンツ! 音楽隊が生まれる元凶となった悪の集団……まーつまりはこの上なく私たちのコト
なんですけど、そのレティクルとの戦いがもーすぐ始まる訳です!

 戦闘開始は救出作戦から。私たちがこの上なく誘拐した坂口照星さんの救出から最後の決戦が幕をあけるのですが、
まるでその期限に合わせるよーにもう1つのプロジェクトが進行中なのですよこの上なく!

 演劇! パピヨンさんが主宰するコトになった演劇部! その健全化ならびに武藤まひろさんのパピヨンコス着用を防ぐ
ため手を組んだ秋水さんと斗貴子さん! さらにヴィクトリアちゃんとパピヨンさんとのドキドキワクワクな急接近とか白い
核鉄製造着手とか戦団に勾留されてた音楽隊の復帰とかいろんな流れが交錯するなか演劇! 迫ってます!

 ちなみに悪の組織たる私たちが演劇を見過ごしてるのには理由がありますっ!!

 マレフィックアース! 私たちはメチャ強な存在召喚してこの上なく幸せになりたいんですけどソレには器がいるのです!
 
 ちなみにマレフィックアースとはかつてウィルさんがこの上なく未来で逢った『最強の存在』……そー言われてます!

 肉体があった頃の名前は勢号始。またはライザウィン=ゼーッ! 電波兵器Zの武装錬金を使う天下無双の頤使者
(ゴーレム)にして光より早い『古い真空』! 歴史を変えうる力をウィルさんに与えた……黒幕!

 古来より存在する、人間の闘争本能の本流の中から生まれい出た最初であり最後でもあるマレフィック!!

 どれほど強いのか? えーとですね。羸砲ヌヌ行って改変者さんいるじゃないですか。あの人の武装錬金はスマート
ガンなんですけどー、実体はティプラーマシン(タイムマシンの一種)で、スペースコロニーが豆粒に見えるぐらい大きな
中性子の銃身が毎秒10万キロメートルぐらいで回転してるんですよ。しかもその周囲には常時3億個のブラックホール
が展開しててー、万物が持つ光円錐すべての情報のゆらぎをガッチリきゃっちしてるらしいです。だからヌヌさん自由自在
に歴史ロードして改変なかったコトにできるんですけど──…

 ライザさんはそのヌヌさんを下したのです。

 そしておもいどおりの歴史改変を……。


 ……ぬぇぬぇぬぇ。


 戦士さんたちはまだ知らないでしょう。

 いまこの時代が「本来あるべき」歴史からこの上なくこの上なく外れているのを!!

 例えば音楽隊は正史にいなかった存在です! 武藤ソウヤさんがタイムスリップして真・蝶・成体を斃したせーで生まれた
新たな未来! 300年先にいたウィルさんがこの上なく歴史を変えたばかりに生まれたものこそ!

 この時代!!

 ぬぇぬぇぬぇ。

 早坂秋水さん、あなたは開いた世界を1人で歩けるよ〜になりたいとこの上なく願ってるよーですが!
 もし真実を知ったらどーするつもりですか!?
 自分の歩いていくべき”世界”、それが多くの人によって書き換えられたものだとすれば……。

 本来の歴史とはまったく違う【偽物】とすれば──…

 そこに下してきた、或いは下していく決断もまたこの上なく偽りに満ちたものとなるのです!!

 ヒドい事実ですが私はまだ伏せますよぉ。オトナですから〜、盟主様たちの命令があるまで口つぐみます。



 告げるとすれば最悪のタイミング……肉体を刻まれ精神をすり潰され霊魂さえ尽きかけた最期の時!
 普通なら譲れない何かを杖にいま一度立ち上がるべき局面において……告げる!!



 盟主様を斃せるのは秋水さんか総角さん……ですからね!
 ココロ砕く準備はしておかなければなりません!!


 そして何事もないように、気のいい、劇団のお姉さんとして振舞うだけですっ!!


 ヌヌさんですか? 照星さん誘拐したときに武装錬金が大破。ソウヤくんともども時空の渦に呑まれ姿を消しましたが?






「アレが対戦相手か」
「あの劇団……いろんな公演で見たカオがチラホラ。全員プロかも」
 六枡は冷めた目でステージを見た。年齢も性別もバラバラな集団が袖めがけ捌ける。

 練習していると秋戸西菜──クライマックス。戦士たちは知らないが敵対組織の幹部──が乗り込んできてまくし立てた。
小札が思わずライバル出現かと目をむくほどの勢いだった。

「元声優で元教師……変わった経歴だな」

 戦う旨を告げると彼女はぴょこぴょこパピヨンに歩み寄り勢いよく手を出した。 
 応じる蝶人ではない。華麗によけると低く鼻を鳴らしどこかへ消えた。


「うぅ!? ……〜〜〜〜うぅぅうぅううううううう〜〜〜〜〜〜〜っ! う゛ーっ、う゛ーっ!!」

 途端に年甲斐もなく泣きだした秋戸西菜は手近な生徒に手を差し出すが掴まれずに終わる。「だって鼻水でカオぐしゃ
ぐしゃだったし」「なんか引いた」「美人だけどないわー」とは部員たちの弁、結局おとなしい若宮千里が半ば無理やり手を
握られた。「貧乏くじね」とはヴィクトリア曰く。

「あ!! ライバルな癖にいやに好意的だとか思いましたね!! そーですよねそーですよね!! フツー対戦相手って
いったらなんかもう初対面からイヤミ全開で一方的に突っかかってくるものじゃないですかこの上なく!! ぬぇぬぇぬぇ!
でも私は違いますよ!! 劇で対戦とかヘンな話ですけど、でもたまには競い合うのも必要ですっ!! 勝ち負けは重要
じゃないです!! 正々堂々っ、お互い力の限りを尽くしてこそ気持ちのいい劇ができますし何よりお客さんも喜ぶッ!
そーいう意味じゃマンガとかでよくいるイヤミな対戦相手はナシですナシ、この上なーーーーーく! ナシっ!」


 青ざめ引き攣る千里を誤解したのか。秋戸西菜は満面の笑みで手を振った。握られている千里はいい迷惑、細腕が折
れるのではないかと心配したのはヴィクトリア、幼い瞳を鋭く鋭く尖らせた。


「で、なんであの人さっきから早坂秋水と総角を見てるんだ? ただ見てるというかその、熱烈というか」
「斗貴子氏。世の中には知らない方がいいコトもある」

 六枡は概ね理解しているらしい。


(いましたいました元・月の幹部フル=フォースさん! やっぱこの上なく盟主様そっくりです! ぬぇぬぇぬぇ。何やら大道具
を秋水さんに自慢しているようですが私としてはその、ぐふふ、自前の大道具を見せつけて欲しかったり──うきゃあああ!
なに考えてるですかなに考えてるんですかこの上なく下ネタ自重ですよ私ーーーーーっ! ダメですダメです公共の場所で
そんないやらしい想像……あ! この組み合わせだと終盤秋水さん逆転する方が萌え萌えなんじゃ……で、で、舌をあんな
トコに這わ……………………きゃあーーー! いやーっ!! 恥ずかしーーーーーーーーーーっ!!)

 秋戸西菜の表情はめまぐるしく変わる。ヨダレを垂らしたかと思えば真意不明の照れ笑いを浮かべ、すぐさまキリっとし
更に頬を染め両手をあてて首を振る。

(でも無銘くんと秋水さんもアリ! なにかと突っかかってくショタとか最高ですっ!! 貴信さんは……顔的にないです!)

(ちなみに)

(敵幹部であるところの私とリヴォルハインさんがフッツーに戦士さんとか音楽隊の目の前に姿あらわしているのは)

(純粋に顔バレしてないから、ですっ! 今日が初対面! 鐶さんは一時期レティクルにいましたけどー、なかなか逢う機会
がなくて……)




 一方早坂秋水は辟易していた。


「なぜだなぜだなぜなのであるか! 秋ぽんはまっぴーが好きなのであろ! なぜに告白せんのである!!」

 原因は貴族服の男……リヴォルハインである。首にドクロのタトゥーを入れた冷たい感じの美丈夫、というのが秋水の第一
印象だったがいざ口を聞けば印象の崩れるコト崩れるコト。当初こそ黄色い歓声をあげていた女子たちの熱は4秒で冷めた。
 それだけなら、彼女らがクモの子を散らすように撒き散っただけなら良かったのだが、なぜか秋水に付きまといはじめている
リヴォルハインだ。学園の貴公子は欝蒼と目を細め巨体を見上げた。相手の双眸は美しく、山の端にかかる月をみるような
心持だ。

「どこで聞いたのか知らないが」
「ビッキーに聞いたビッキーに! あ!! あーーっ! ビッキーはピューマみたいな顔してるので三種混合ワクチン打って
いいですか秋ぽん!」

 諸事この調子である。会話というのがまるで成り立たない。先ほど総角の自慢話を聞かされた時とはベクトルを異にする
頭痛が込み上げやるせない秋水はかろうじて

「俺と武藤さんの関係はそんなものではない」

 とだけ言った。それはもっとも正しく現状を表している言葉だった。

(……………………)



──「私! 秋水先輩のコトが好きかも知れなくて!!」

──「でもソレが言い出せなくて思わず逃げちゃってたのーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」



 告白じみた告白こそ受けているが当のまひろ自身ココロの整理がつきかねている状況だ。
 たんに少女が兄の面影を求めているだけの適応機制かも知れない。
 そもそも秋水の心がまひろに引き寄せられたのは、やはりかつて姉……桜花を失う痛みを味わったればこそだ。
 そこにカズキに対する罪悪感や贖罪意識が交じった結果、音楽隊との戦いの中さまざまな交流が生まれ、絆が芽生えた。

 世間一般で言う恋愛感情とはまったく原点からして違うのだ。



「けど秋ぽん自身の実感というのはどうなのであるか?」


 リヴォルハインという男の精神はとても幼い……雪崩れ込むように下がる筋肉質な上半身をみながらそんなどうでもいい
コトを秋水は思った。2mを超える──かつて激戦を繰り広げた鳩尾無銘の兵馬俑よりも大きい──体躯をまったく持て
余しているようだ。ともすれば威圧もできように……毒気のなさにわずかだが警戒が薄れた。

「及公(だいこう)思われるにともに居てお胸がキュンキュンするのであればそれはもうすなわち好きというコトなのでは
なかろーかである!」

 目が泳ぐ。まひろの告白前覚えた束の間の安らぎ。まひろという存在を眺めている時の幸福感。桜花と2人でいる時に
似た、されど深奥に激しい情熱を秘めた好ましさ。
 やや痛み気味の栗髪。大きく澄んだ瞳。長い睫毛に太い眉。血色のいい頬もツルリと丸い頭頂部。
 何もかもずっとずっと眺めていたい。そんな心情に駆られたのは事実だ。

”仲間意識だ”

 爽やかでまっすぐなまひろへの感情が脳裏をよぎるたび秋水は強くそう言い聞かせる。剣客だから心の流れに無理と力
みが生じているのは重々承知だが、『せざるを得ない』。


「あまりマジメに考えすぎず1つ素直になってみるのも手である」

 リヴォルハインはそういう。世間一般の意見もそうだろう。

 だが。

 もしやりたいように振る舞えばどうなるか?

 まひろはいま傷ついている。弱っている。当人でさえ整理のつかぬ揺らぎにつけ込み自らの意思を通そうなど──…

(同じだ。変わらない。武藤を背後から刺したあの時と)

 贖罪はまだ終わっていないのだ。武藤カズキに直接謝罪しない限りは。

 それに──…


「俺の父親は妻子ある身で別の女性と関係を持った」
「フム?」

 秋水自身この独白が不思議でしょうがなかった。初対面である筈のリヴォルハインという男に、自らの深い部分をつい
打ち明けてしまった心情は冷静に考えればまったく不可解だった。にも関わらず彼は当り前のように内心を吐露してしま
う。巨体に見合わぬ毒気のなさに気を許した……では片付けられない何かがそこにあった。

「結果俺と姉さんは両親と離れ離れになった。例えあらゆる問題がなかったとしても」


 踏み出せないだろう。二の轍を踏むコトを恐れている……とだけいいこの論議を打ち切った。



「戦士長? 剛太の姿が見えませんが」
「買い物にでもいったのだろう。コレから忙しくなるからな」





 ゴプ。


 口から溢れる血を慣れた手つきで拭いさる。鷲尾が心配そうにすりよってきたが手で制す。


「いつものコトさ。人間だった頃とは違う」

 漆黒の笑みを仮面の下に張り付けながらパピヨンは地下にいた。

 白い核鉄の進捗率はこの日78%を超えた。


 総てが順調。演劇部も円熟しつつある。

 吐血などまったく問題にならない…………しかし悪寒は徐々に広がりを見せ──…






「まずは計画の第一段階成功ですねリヴォルハインさん!」
「ウム! 及公が一部、最近型ホムンクルスはすでに」

「パピヨンたちを初めとする演劇部全員に感染した!」

「防げたのはシルバースキンを着ていたブラボーさんだけですこの上なく」
「もっとも少し潜りこんだぐらいであるし、そもそも殺傷能力のない菌使っているから基本無害である!」
「ただし演算はこの上なくやります! そのぶん体力も使います!!」

『もともと極度に免疫力が低下している』人以外は無害なリヴォルハイン
 その効能が誰にどう及ぶかはさておき──…


「マレフィックアース!! その器にこの上なくなるべき人を炙りだすには演劇以外ありえないのですっ!」
「銀成学園に伝わる伝承。そして及公がご能力! 2つが合わさってこそ追及可能である!!」

「弱ったぞ。どーすりゃいいんだ」


 体育館から200mほど離れた校舎裏。そこにさびしく佇む倉庫の中で。

 中村剛太は頭を抱えていた。

「手、手を離したらいかんじゃん……。あたし、あたしっ! 暗いところとかホント苦手で、苦手でっ!」

 腰にしがみついているのは栴檀香美。シャギーの入ったセミロングの髪をぶるぶる震わせている。気だるくも艶やかな
アーモンド型の瞳からは大粒の涙がひっきりなしに溢れている。言葉を発するたび語尾が震えるのはしゃくりあげている
せいだろう。

 倉庫に唯一あるランプが使えぬのは確認済み。天井からぶら下がる古めかしい白熱電球はどうしたコトか何度スイッ
チをひねろうと発光しない。1つだけの窓は……台風対策がそのまま残っているのだろうか。外から厚い板が打ちつけられ
ている。光の入る余地はない。

 よって4畳ほどしかない倉庫は目下暗黒の闇に包まれている。

(なんでネコの癖に暗い場所が苦手なんだよ!!)

 空間よりも暗澹とした思いで剛太は香美を見る。諸事情により貴信は気絶中。

 よって密室に2人きり。岡倉ならば大いに鼻の下をのばすシチュも


「なんで斗貴子先輩とじゃないんだ!」


 不満極まりものでしかなかった。


 発端は10分前。クライマックス(秋戸西菜)の挨拶が終わった少し後──…



 なぜ香美と倉庫に閉じ込められたのか? いまとなっては剛太自身よく分からない。確か演劇部員の1人に何かの小道具
をとってくるよう頼まれた? ………………無責任なようだが剛太はただ斗貴子のいろんな姿を見るため仮入部した。活動
じたいにさほど興味はない。よって詳細など知らない。


(あの冴えねー女率いる劇団との勝負に負けたら先輩がパピヨンの格好する……? イイかも。他の部員にゃ悪いけど)


 頼まれごとをした時だって斗貴子──総角と秋水に熱烈な視線を送る秋戸西菜(クライマックス)にゲンナリしていた──
の横顔に見惚れていた。

 このときキャプテンブラボーこと防人が何やら耳元がごにゃごにゃいってる気がしたがよく聞いていなかった。

 間違いの始まりはそこだった。

 そして「倉庫ね倉庫、ハイハイ」といったはいいが何を探せばいいか分からぬコトに気づき踵を返そうとしたら……栴檀2
人がやってきた。で、愚にもつかない丁丁発止を経て目当てのブツを貴信が抱えあげた頃、入口の方で音がした。

 ガラガラ。ガチャリ。剛太は血相を変えた。
 …………最近秋水とそれなりの友誼あるせいか例の早坂家、「外は危ないから出ちゃダメよ?」が真先によぎった。

 施錠、倉庫は外から閉められた。どこかの迂闊な、しかしお節介な生徒がやらかしたのだろう。5cmほどはある鉄の扉を
何度も強くたたき大声でよばうが反応はない。倉庫が校舎裏、冷たく湿った日陰の中にあるのを思い出した剛太はすかさ
ずケータイを出す。不運。充電切れだった。(扉破るか? でも戦士が壊すっつーのもなあ。そもそもモーターギアにそんな
パワーあるか? ねェだろ……) 豊かな髪をくしゃりと撫でながら脱出法を考える剛太にさらなる不運を見舞ったのは他に
誰あろう、香美である。

「いやあああああ! 暗いの、暗いのダメええええええええええええええ!!」

 絹を裂くような、とはまったく良く言ったものだ。頭を抱えまったく惑乱なご様子のネコ少女、振り絞るような叫びをあげる。
ふだん気だるげな瞳が深刻の限界ギリギリまで見開かれすきとおる雫さえ舞い散った。

『ちょ、落ち着くんだ香美、僕がいる!! 僕がついているし中村氏だってそこに…………!!』
「ふにゃああ! なんかあしなぞった!! こわい!! だめだめだめ!! ももももーでる! でる!!!」

 まったく不便な体だと同情したのは、扉めがけ突進する彼女を貴信がムリに止めようとしたせいだ。あわれ複数の指揮系
統を有するその体は、「突っ込む」「止まる」を同時にこなそうとしたせいで、大きくバランスを崩した。しかもホムンクルスの
高出力、人間がこけるというより250ccのバイクが中央分離帯を爆砕するような加速が生まれた。そしてそのまま香美は
両手をばたつかせながら……壁へ。大地を揺るがす衝突音の中ホコリが舞い散り剛太は大きくせき込んだ。

(ん? でもあれだけ勢いよくぶつかりゃ壁に穴ぐらい開くんじゃ)

 開かなかった。どういう訳か壁は無傷……。

(あ? 何でだよ! ホムンクルスの突進浴びてなんで無傷なんだよこの壁!! シルバースキンじゃあるm──…)

 ……。剛太の背中に冷たい汗が流れたのは「シルバースキン」、その言葉に防人衛を思い出したからだ。出立直前かれは
確かに何やらごにゃごにゃいっていた。去来。いまさらのように蘇る言葉。


「あー。倉庫に行くなら気をつけた方がいい。外から鍵かけられると少々マズい」

「あそこはL・X・Eの襲撃の際、あちこち調整体に壊されていてな。まあ要するに」

「修理しがてら強化しておいた。たぶんフェイタルアトラクションでも壊せないぞ」

「まぁでも火事のとき逃げやすいよう窓だけはただのガラスにしておいたし」

「ケータイもあるし大丈夫だろうが念のため、な」


(言ってたぁ……)




 剛太は力なく崩れ落ちる。斗貴子に見惚れていたのはまったく致命的。

 趣味:日曜大工の防人衛の辣腕は向い来る香美を弾き飛ばした。そして後頭部の貴信から意識を奪う。ピンボールのよう
に反対側へ命中したかれは顔面に何tもの衝撃を浴び、喪神。

「ご主人?」

 とはもうもうと立ち込める芥子色の煙の中、ビョコリと座りなおした香美の弁。後頭部に手を当てじつとするコト二呼吸、
ふだんの機敏さがウソのようにそうぅっと左右を見渡した。広がる闇、窓こそあるが総て総て厚ぼったいベニヤで外から
塞がれている。まだ昼ながら真暗なのはそのせいだ。

「…………!」

 か細い息をつきながらそれでも香美が叫ぶのをやめたのは、剛太が、部屋中央にブラ下がるランプに手を伸ばすのを
見たからだ。野性つよき少女といえどそれが照明道具なのは分かるらしく、こわばった表情に一縷の期待が灯った。

「ん? なんだコレ壊れてんのか? 点かねーぞ」
「わあああああ!! 垂れ目ーーーーーーーー!! 垂れ目ええええええええええええええええええええ!!!」

 香美は剛太に飛びついた。か細い肢体ながらいかついアメフト選手のようなタックルだった。おかげで壁にしこたま頭を
ブツけた剛太が、眼球を上めがけグルリと気絶の動きを取りながらなお貴信の二の舞を踏まずに踏んだのは、馬乗りの香
美が

「ダメなのあたし暗いところダメなの、傍にいて傍にいて傍にいて。ご主人気絶しちゃったしあんたしか頼れんお願いお願い!」

 甘い声と涙と鼻水とを飛ばしながらひっきりなしに肩をゆすってきたからだ。

 吹っ飛ばされた余波で剛太は床にあおむけだった。香美は彼の腰をまたぐ姿勢だった。

 銀成学園へ転入して以降学生服をまとっていた彼女だが、この時は従来の軽装。白い二の腕がこぼれおちんばかりの
白いタンクトップ。縁が破れ色褪せたデニムの短パン。そこからブラ下がる鎖のアクセがじゃりじゃりなるたび剛太の眼前
で巨大な白い谷間が迫力ある律動を見せる。同年代の少女──例えばまひろなど──なら恥ずかしげに頬染め秘匿す
べき大きなふくらみは、しかし元来ネコの香美はまるで無頓着。
 日焼けを免れているらしく、服の形に白く染まる鎖骨から中は闇で浮かび上がるほど生白い。それが汗でぬめつき怪しげ
な輝きを放っている。

 斗貴子にしか興味がないとはいえ断種去勢を施されている剛太ではない。想い人とはダンチな早坂桜花の質量を背中
に押し付けられ赤面したのはいつだったか。あのぬくもり。弾力。柔らかさ。それらがどれほど呆気なく平素標榜する片意
地を粉砕するか!! 色香は魔力なのだ。人生を貫く大失敗あるいは不可抗力を呼ぶ化け物なのだ。
 しばし剛太が揺れ動く巨大な乳房に目を奪われたといって斗貴子への不貞になろうか。 いやない。むしろ野生美と貴信
へのコンパチーブルゆえ下着なき双丘が、拍動のすえタンクトップとの挟間に突発的に覗かせた桃色の特異点から、意
思の力で強引に視線を剥がしただけでも豪傑、万雷の喝采を浴び褒められるべき偉業ではないか。


(見てねェ! オレは何も、何m……ひゃっ!!)


 攻勢は止まらない。剛太の頬を生暖かくもザラついた湿気が通り過ぎたのは香美の舌が掠めたからだ。

「だまっとったら余計怖いの……! お願いじゃん、毛づくろいするからなんかいう、話す……」

 いつしかネコ少女はその体をびっとりと剛太につけている。一層身近に迫るぬくもり弾力柔らかさにさしもの剛太も真赤
となる。誕生以来これほど肉薄した女性はいない。さきほど懸命に忘却せんとした光景がいまは薄布一枚向こうで艶めか
しく息づいている。胸板の上でつぶれる膨らみの重さ、何もかも消し飛ばしそうだ。

(いや何でいま舐めた!?)
 突っ込む気力など根底から奪う甘ったるい雰囲気が満ちていく。倉庫の中へ、満ちていく…………。

 香美はもはや切なげに眉根を寄せ泣きそうな表情。しかも震えながら口を開け、恐る恐る剛太の頬を舐める。じゃれつく
というほのぼのしたものではない。あえらかに息を吐き、すぼめた舌を下から上へぐぐぅと這わす。名前通り香しい唾液が
なめくじのように跡を引く。この頃になると当然ながら跳ねのけようとする剛太だが相手は岩のごとく動かない。相手が動物
型ホムンクルス、人間を超越した膂力の持ち主なのだとつくづく痛感する間にも香美の体は艶めかしくくねる。舐めるたび
とろけそうな肢体が剛太に擦れて刺激をもたらす。上半身だけでも大概だが跨ぐ都合上腰もまたビトリと剛太のそこへつき
それが男性的な生理作用を痛いほど惹起する。

 目の前にはしとやかな涙顔。普段とはまるで違う、不安に慄く香美の顔。桃色の霞を瞳に宿し鐶よりも儚げに震える表情
はふだんがふだんだけに余計心を直撃する。

(コイツ、こんなカオもすんのか…………)

 愕然とする剛太だがしかし慌てて首を振る。すると鼻の穴を香美の舌がかすめ史上最大級の疼痛が心臓を直撃した。耳
たぶまでも真赤にしながら抗議というか提案を放てたのはやはり斗貴子への思慕あらばこそだ。

「つ!! つーか暗いのイヤなど窓壊せばいいだろ!! あれただのガラス! 目張りしてある板だってホムンクルスなら
カンタンだろ!! 壊せば明るくなるし外出られる!! それでいいだろ!!」
「……や、やだ!!」
「なんで!?」
「だだだだってガッコーのもん壊すなんてダメじゃん! ご主人そーいってたし、それにそれにそれに怖いからって壊しちゃ
まどとかいたとか可哀想じゃん!! なんも悪さしとらんのにジャマっつって壊したら……」

 香美は涙ぐんだ。

「カワイソ、でしょーが………………」


 どうにかどくよう説得できたのは2分後。どいてもらえたのはそこからさらに6分後……。


「あ、ありがと垂れ目。も、もうダイジョブ。いやそのまだダイジョブじゃないけどダイジョブじゃん」

 たしなめるコト249秒。香美は少し落ち着いてきたらしくいまは体育座り。太ももの後ろで手を組む彼女の横に剛太はい
て複雑な表情だ。

(ああクソ。なんで俺こいつの都合に付き合ってんだろ。ホムンクルスだしそもそも斗貴子先輩じゃないし!)

 戦士である以上ホムンクルスには冷淡であるべきだ。でなければ本分が果たせぬ。武装を行使し殄滅(てんめつ)する守
護者の本分が。さらに香美は斗貴子ではない。心身とも魅力に富み岡倉などは存分に鼻下を伸ばしているが、しかし剛太の
抱える恋慕はそういう系統ではない。存外、精神的箇所から出発タイプなのだ。斗貴子は心の支えだ。それだけでもう女神で
他の追随を許さない。よって香美が対象外なのは言うまでもないが……。

(………………)

 チラリと香美の横顔を見る。後頭部をさすっているのは貴信の安否をみるためか。反応はないらしく不安は消えない。

(コイツさっき……)

 剛太の心がわずかだが香美めがけ揺らぎ始めているのは意外だが斗貴子のせいである。交点。女神を原点とする感傷
や信条が冷淡も選別を熱く溶かしていく。鐶光との戦いで早坂桜花の手を取り校内を疾駆したときもそれがあった。


(泣いてたよな。暗いの怖いって)


 いま、剛太らしくもない激しい感情が体内に満ちていく。「女を泣かせる奴は大嫌い」。メイドカフェでの騒動、最後の
最後に鋭く言い放ったのはもちろんカズキを指してのコトだ。彼は斗貴子を置き去って一人勝手に月へと消えた。

 だから彼女は泣いた。あらゆる繕いを捨て憧憬からかけ離れた場所で。流した。大粒の涙を。

 そのとめどなさを間近で感じたから、月へ向かい無力な怒声を張り上げたから。

(女泣かせる奴は嫌いだ。大嫌いだ)

 ここで戦士の本分がどうこうと言い繕い香美を放置するコトは簡単だ。義理からいえば斗貴子ほど慮ってやる必要もない。

(けど)

 そうすれば香美は泣くだろう。暗い倉庫の片隅でいつ目覚めるとも分からぬ貴信を待ちさめざめと。

(我慢できるか!! やってみろ、俺はあの激甘アタマと一緒になる!!)

 最も腹立たしくそして悲しいのは彼だけ名前を呼ばれたからだ。

 月めがけ飛び立った直後、斗貴子はただただ連呼した。「カズキ……」「カズキ……」。

 ……………………すぐ傍にいる後輩は呼ばなかった。もしこのとき顔を見上げ呼ばわりそして表情で苦しさを訴えてくれ
たら剛太の心痛は致命的敗北感めがけ激増しなかっただろう。カズキを許せぬ感情の何割かは(情けない話かも知れない
が)、そういう圧倒的優位を誇りながら、あっさりと斗貴子を捨てそして泣かせた事実にある。


「…………?」


 香美は鼻をピクリと動かした。そしてしばらく首を振った後視線を落とし……少しだけ強く泣いた。

「あ、ありがと」

 剛太の手が自分のそれに絡まっているのを見た瞬間込み上げたのはもちろん感涙で、以降ベクトルは好転、上へ。


「…………うるせェ。騒がれちゃメーワクなんだよ。静かにしろ。握手じゃねーからな」

 彼はまったく目を合わそうともしないが香美はまったく気にしない。「〜♪」。楽しげに腕を握ったり揺らしたりだ。

 横目でチラチラ伺うその様子はまったくモチーフ通りで、それがかねてよりの懸案打開のとっかかり、橋頭保になった。

「つーかお前なんで暗がりが怖い訳? ネコだろ?」

 ややぶっきらぼうに話を仕掛けたのは葛藤のせいだ。カズキのようになりたくはないが、しかしそれでもやはり斗貴子では
ないホムンクルスの少女にニコニコ親切ぶりたくもない。

「う??? なにあんた突然?」


 香美は胡乱気に眉をしかめたがすぐ何かに気づいた。

「あ!! 分かった!! あんたカウンセリングやろーとしてるじゃん!」
「あ!?」
 乱雑な声を張り上げたのは図星だからだ。しかし意外。なぜネコにその概念があるのか。
「そりゃああんたあやちゃんとかもりもり(総角)が根掘り葉掘りアーダコーダ聞いてきたからじゃん! でなんであんたらそんなん
聞くじゃんゆうたらさ、聞いてさ、聞いてさ、げーいん突き止めて直すって」
 にも関わらず怯えている。つまり仲間たちでさえ治せなかった訳だ。いかに自分が軽々しく踏み込んだか痛感する剛太とは
裏腹に、香美の表情は明度を増す。野性的な双眸は山吹色の輝きを帯び口は綻び八重歯が覗く。だから、剛太は──…
「あんたもそれしてくれる。手も握ってくれとるし、いい奴じゃん、いい奴!!」
「………………」
「? どーしたじゃん急にボーっとして?」
「し!! 知るか!
 額にコツリと堅い感触が走った瞬間、彼は器用にも座ったまま横ばしりし距離を取る。見た。おでこを当てる香美を。熱でも
測りにきたのだろう。瞬間間近に迫ったネコ少女のカオは剛太をしっかと捉えていて。いちめん無邪気な信頼に暖かく潤んで
いて。だから必要以上に動揺した。

(クソ。どーかしてたぞ俺)

 心臓の弁がやかましい異音を奏でる。極彩色のしこりが痞(つか)えたようであらゆる感覚がそこへ向く。

(コイツがいつも通りになったとき)

(なんでホッとしたんだよ俺。ただうるせェだけなのになんで…………)

 ありていにいえば少年はただドキドキしていた。

 発動するのは斗貴子を除けば桜花がその膨らみを、惜しげもなく押しつけてきたとき以来だ。と描くと剛太の女性観はい
ささか浮ついたものに見えてしまうがしかし違う。絶世の美人たる桜花が誘惑的な盛り上がりを背筋にやってようやく斗貴
子の何気ない仕草に匹敵するのだ。つまり浮つくどころか不動、揺らめかすには相当の女性的力学がいる。

 香美の涙を結果的にだが止めた。たったそれだけの事実に少年は心揺らめかせつつ……喜んだ。

 一瞬去来した機微はつまり友人を持つものなら節目節目で味合うものだ。思いやりが感傷と混じり合い共有を経て陽へ至
る。人間が最も尊ぶ、しかしどこにでも有り触れたプロセス、類似事例などそれこそ鐶戦で桜花と味わい、その弟ともつい最
近メイドカフェで体験したというのに、剛太はまるで割り切れない。相手がホムンクルスというのもあるがそれ以上に見目愛ら
しい少女だから余計。
 だから幾分元気の戻ってきた香美にどこかでホッとしつつそんな自分が許容できない剛太だ。韜晦、いっそう不機嫌にな
るべく努める。なまじ頭だけ回る精神的未熟の少年はときとしてバカげた矛盾や葛藤を自ら作り苦しむのだ。

「あー。なんか怒らせた?」
「別に」

 覗き込む澄んだ瞳から目を逸らす。香美は香美で追及せず、本題へ。



「だってさだってさ……だってさ、あたしさっき怖いのに……めちゃんこ怖い目に遭わされてさ」
(さっき……? あ、昔ってコトか)
 香美にとって過去は総て『さっき』。いつだったか貴信にそう聞いた。


 やがて語られる彼らの過去は香美を通してだから断片的で多大に類推し辛いものだぅたが。

 どうにか剛太はまとめた。

(つまりアレか。俺たちがもうすぐ戦うレティクルの幹部。『火星』と『月』。そいつらが些細なきっかけで栴檀貴信とコイツを
攫い──…)

 加虐のすえホムンクルスにした。当時まだネコだった香美は幼体となり紆余曲折を経ていまの体へ。



「それでもご主人さ、あたしをさ、辛いのに守ってくれたし、悪いことしたらメッって怒ってくれたしさ、元のままでいてくれた
からさ」

 まったく人の来る気配のない蒼黒い倉庫の中、香美は語る。語り続ける。

「一緒なら暗いのも狭いのも高いのも何とかガマンできる訳。一緒だからさ、助けてくれたコト思い出せて……平気じゃん」


 だがひとたび貴信が意識を失えば。


「……怖いの。ホント、怖いの」

「怖いの思い出すから怖いっつーのもあるけどさ、さっきご主人すごくすごく怖い顔しててさ、ソレ思い出すとこの辺が」

 剛太がまたも香美に不覚を取ったのは、しなやかな動きがあっという間に距離を詰め肉薄したからだ。あっと目をむく
頃にはもう遅い。とても男性(貴信)と体を共有しているとは信じがたい半透明の白い腕が剛太の手を取り

「この辺がきゅーってなって……苦しい」

 タンクトップをまろやかに盛り上げる巨大な弾力に導いた。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」

 剛太の脳髄は真っ白になった。斗貴子曰く噛み合えば頼りになる歯車は火花と白煙の中こなごなに吹っ飛ばされあらゆる
言語と運動は消除の憂き目。にも関わらず暖かな柔らかさを受容したのは原生の、男性的な本能が捨てるに惜しいとみな
したからか。混乱は香美がそこに手をやる50秒間たっぷり続いた。

「でもさ。でもいまは垂れ目いるから平気じゃん。ご主人にも早く起きて欲しいけどさ、あんただとなんか安心する」
「なんでだよ。つーかお前なんで俺にばっか構うんだよ?」
「んーーーーーー。わからん!!」

 そういって香美は笑う。からからとした何も考えてなさそうな笑顔は斗貴子とまったく真逆なのにいまは見とれそうで直視で
きない。

「というかいい加減垂れ目っつーのやめろ。な? 俺の名前は中村剛太だっつーの。おかしなあだ名で馴れ馴れしくすんな」
「無理!!」
「即答かよ!!?」
「だってあんたの名前なんか長い。きっとずっと思い出せん!!」




 そのやり取りから1分後、彼らは倉庫から脱出した。

「礼なれば結構である!! 及公常に救いを求められている! 本日この刻限を持ちあらたな救いが1つまた生まれたとい
う輝かしき事実!! それだけでもうお腹いっぱいであらせられるんだから礼はむしろ害毒というかむしろ罵ってくれまいか!!
されば救ったにも関わらず痛恨なるものが心抉ったというコトになり要するに試練! 大衆の持つおぞましさの毒にいかほど
及公耐えられるかというアレになり新たな戦いが今日より始まる! ん!! じゃあアレだ誰も永劫救われん方がかえって
及公の進化あくなき向上のためにいいかも知れんのでもう一度倉庫入ってくだせえや少年少女、オナシャス!!」」
「断る」

 たまたま通りがかったというリヴォルハインに冷えた目でキッパリ告げるころやっと貴信が復帰した。

「あのさ。アイツちょっとお前に依存しすぎじゃね? お前いなくなったら大変だろ」
『ハハハ!! つまりアレだな少年戦士!! 僕に万が一のコトがあったら香美が泣く! それがいやだから来る戦いは
何としても生き残れっていいたい訳だな!!』
「ち!! ちげーっての!! 俺がいいてェのはお前抜きでも静かになるよう躾けろってコト!!」
『フフフ!! 言いだす以上、貴方にも協力すべき責務がある!! つまり僕が寝てるとき支えになるよう親交をだな!!』
「断る!! ホムンクルスなんかとベタベタしてみろ!! 斗貴子先輩に嫌われる!!」
『まぁそれはそれとしてだな!! 僕は昔から香美は素敵なお婿さん貰うべきだと思っている!! ネコ時代からだが人間
形態を得た今でも気持ちは変わらない!!!』
「俺になれとか言ったら殴るぞ? つかお前がなりゃいいだろ。飼い主も亭主も似たようなもんだ」
『い!! いやその発言はどうか!! 世の中の夫婦さんたちを敵に回すぞ慎むべきだ!!! だいたい僕にとって香美
は娘みたいなもんだ!! 懐いてるからどーこうしようってのは嫌だ!! 絶対に嫌だ!!』
「……いま気づいたけどお前」
『何だ!!』
「元の体戻れてもすっげー損するタイプじゃね?」
『いうなそれをオオオオオオオオオオオオオオ!!』
「あー。薄々気づいてた訳ね」
『分かってる!! トモダチいない僕が唯一心通わせられる香美をお嫁さんに出したら何も残らないなあってのは!!』
「飼い猫の親交うんぬんよりまず自分のコトをどーにかしろよ……」
『あーあー聞こえない!! 聞こえないぞオオオオ!! しかし運が良かったな少年戦士!!』
「あ?」
『こんな誰もこなそうなところにたまたま人が通りかかった!! しかもその人っていうのが部外者、生徒でさえ来るかどーか
怪しいトコに今日たまたま挨拶に来てた劇団の人が来た! ハハ!! どれほどの確立なんだろーな!!』

(確かになんかヘンだな。そもそも俺たち……)
(倉庫の中で静かにしてたぞ? アイツがその、ヘンなコトしやがるもんだから、俺なにも言えなくて固まってたのに)
(迷いなく倉庫開けやがった。突然のコトで気にも留めてなかったけど)

(なんかヘンだ)

 しかし同時に剛太の優れた思考力は矛盾が敵意の証明になりえないのをあっという間に弾き出した。そうではないか。
結果からいえばリヴォルハインは剛太と香美を暗闇から助け出した。仮に閉じ込めた当人だとしても、或いは閉じ込めら
ているのをしばし黙殺していたとしても、助けたという事実に変わりはない。もし閉じ込めらている最中巨大なデメリット
──例えば斗貴子が敵襲を受け傷ついたり──があったら疑念はますます強まるが、されど隔絶されている間、外の
時間はふだん通りに流れている。何も起こっていない。何も害を受けていない。だからこそ剛太は結論を下す。

(考えすぎか? 単に運が良かっただけかもな)

「くしゅん」

 香美は鼻水を飛ばした。

「細菌感染、ベンリすぎですこの上なく」
「彼らもやはりノット社員!! である!! されどされど及公にかかれば所在をつかむなどたやすい!!」
「で、いつもの救いうんぬんですかぁ?」
「そである!! なんか困っているようだったから及公自ら扉を開かれお助けになった!!」

 直接人を害さない傲慢はこの時期ひそかに戦士たちを犯しつつあった。
 そして、パピヨンも──…



 ──挿話。

 2人の男がいた。
 片方はまだ二十歳にも満たない青年で、もう片方は見た目こそ若いが1世紀以上生きている怪物。2人は生まれた時代
も生まれた国家も遠く遠くかけ離れていた。

 けれど2人は示し合わしたように同じ行為を続けていた。どれほどの月日を費やしていただろう。

 広大すぎるため彼方に灰みさえかかって見える潔白な心象世界の中────────────────────



 彼らは扉を叩いていた。青年は鎖の絡まる安っぽい合金の扉を、怪物は褐色の傷がいくつもついた樫の扉を。



 ある者が訊いた。

『なぜ扉をたたくのか?』

 青年は語る。いつか開き1人で世界を歩くためだ。

 怪物は笑う。これは武器でね、世界めがけ衝撃波を叩きこんでる。




 物語とはつまるところ停滞の化生である。

 本作は心ならずも扉の前で滞ってしまった2人が”それ”を抜けるまでを描く。

 その過程こそやがて至るべき終止符の前に横たわる巨大な停滞であり──…挿話。




 まったく違う場所まったく違う時間のなか、叩かれ続けていた2つの扉は流れて流れたその涯で出逢い……1つになる。

 開くまであとわずか。



 扉が開くまで……あとわずか。





◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ 




 リヴォルハイン=ピエムエスシーズ!!

 彼はやがて神となる。悪魔と蔑(なみ)されながらも神となる!!

 レティクルエレメンツ…………世界を害する組織にいる、しかも土星の幹部たる彼がなぜそう呼ばれるに至るか?

 巨悪を斃したのか? 否。彼は彼の立場のままやがて散華し消滅する!

 ならば絶対勝利をもぎとったのか!? 是。ただし半ばまでだ。半ばまでは否、敗れ去り死を遂げる!

 多くの偉人がそうであるように、彼が脚光を浴びるのは死後しばらくしてからだ。生前残した業績が錬金戦団に認められ
るのは墓標が2度目の冬を迎えるころ。実用化されるのはさらにその8年後。


 リヴォルハインの遺産は救いをもたらす。連綿と続く錬金術の戦い、逃れられぬ宿業に彩られた長い歴史をある意味で
終わらせるのだ。



 救われた者は数多い。ヴィクトリア=パワードはその洗礼を以て『やがて死を遂げる』が……救われる。



 リヴォルハインは多くの人間を犠牲にする。直接手を下したものは少ないが、見殺し、間接的に殺したものは数知れない。

【土星の幹部】

 悪に身をやつし悪として死んでいった彼を悪魔と罵るものもいるが──…

 救われたものにとって彼は神だった。扉が開き停滞を抜けた世界の中、流れ続ける歴史の中で彼だけは……。


 神として、生き続ける。




                 PMSCs 
 リルカズフューネラルは民間軍事会社の武装錬金である。本来は創造者のDNAが付着した者を『社員候補』とする武装
錬金だ。細菌型──体細胞総てが細菌から成る群体型──のリヴォルハインとの相性はバツグン。社員候補は空気感染
により際限なく拡大する。

『社員』の特徴は下記の通り。

○武装錬金が発動可能(ただし擬似的、核鉄を使ったものより精度・威力などグンと劣る)
○その身体能力はホムンクルスと遜色なしッ! (ランクによって強さは決まる。ランクとは? 次参照)
○体内に保有する細菌の数により階級が決まる。部長、課長、平社員……もちろん階級が高いほど強い!!
○階級如何に関わらずリヴォルハイン──社長──には逆らえない! (ある程度の意見は可能。説得も)

○ただ感染するだけではなれない!! 『ある条件』を満たしたものだけがなれる! (このへん普通の会社といっしょ)



 その気になればクライマックス=アーマードの無限増援をも超える『整備された組織……”ならではの恐ろしさ”』を誇る
軍隊的武装錬金だがリヴォルハインの主眼はそこにはない!


 演算能力!! 社員候補の脳、未使用領域を使った分散コンピューティング能力こそリヴォルハイン=ピエムエスシーズ
の真骨頂であり後世神と呼ばれる所以だ。

 一般的には白血病の解析などに用いられる分散コンピューティングを彼がどう使っているのか……この時期はまだ誰も
知らない。この時期は、まだ。

 本来はリバース=イングラム……玉城青空が義妹・鐶光の5倍速老化を治すため導入したリヴォルハインという演算能力。



 限りなく敷衍(ふえん)し増殖しゆく彼は錬金戦団との戦いの前すでに全知全能に至りつつあった。


 密かに潜んだ数多くの社員候補たち。脳髄の未使用領域を使ううち自然と流れ込んでくる感情と知識……。

 つね日頃から何千何万何億とフィードバックされるそれらの集積が限りなくリヴォルハインを巨きくしていく。




 人間だったころ彼は人間というものが分からなくなった。マレフィックの例外に漏れず人間という存在が弱さゆえもたらした
敵意、決して正義が捌けない膏肓(こうこう)にある病が如き敵意! それに深く深く傷つけられた彼はそれでも人間を理解
しようとあがき続けた。


 ヒトの都合総てを理解し、それに合致した『救い』を生みだそう。


 泥を啜る想いで生き抜いた結果かれはリバースに出会う。


 そして人間を捨てたとき、人間総てを理解しうる能力を手にした。

 なんでも手に入る、どんな人間だって理解できる。
 達成感も敗北感も失恋の苦しみも円満家庭の幸福観もわかる。
 死ぬ人間が最後の瞬間なにを考えているのかさえ分かる。


 だからこそ。

 分かれば分かるほど。

 とても空虚な気分になる。

 なぜか?
 それらは結局自分のものではないからだ。

 感動的な映画や逸話を知り「自分も変わろう頑張ろう」、そう決意しながらも翌日にはもう元の怠惰な生活に戻る人間を
『職業柄』何人も何人も知っている。
 どんな激しく素晴らしい感情でも、見聞きするだけではダメなのだ。
 困難を犯してでも内側へ引きずり込む努力をしなくてはならない。
 さまざまな抵抗や苦痛に耐えながら自分の中に呼び込まない限り、冷えた他人ごとなのだ。

 自分を変革したりはしないのだ。

 仲間たちは逆をやっている。自分の中にある様々な感情を他人に叩きつけている。
 他者の内側へ無理やりねじこむ。つまりは力づく。変革を強制している。

 盟主など最たる例だ。心に芽生えた扉を叩くのはそれ越しの衝撃波を期待して。扉から生まれた破壊の波が導火線を
往く火花のように外界に着弾し瓦礫を増やすのを……願っている。

 そして扉がとうとう壊れ下から順にビスケットのようにグズグズ崩れた瞬間あらわれる『外の景色』が瓦礫と黒ずんだ爆撃
痕に彩られているのを望んでいる。メルスティーン=ブレイドは樫に拳固を打ちつける時ただそれだけを願っている。

 リヴォルハインは思う。「それもどうか」

 仲間たちの原理は結局、「自分が満たされない。だから他者を傷つける」だ。憂さ晴らしなのだ。
 もちろんそれを何万何億と繰り返せば自分好みの世界にはなるだろう。

 だが……救われない。

 暗い熱を噴き、自分がどれほど被害者でどれほど正しいか弁明したところで無駄なのだ。
 彼らをそうせざるを得なくした原因……欠如のようなものは本当の意味で満たされない。
 遠い過去に負った傷。それを治したい治したいと思いながらも傷に触れるコトさえできない無力さや憶病さ。

 それへの苛立ちがあるから他者の些細な部分に怒りを覚え攻撃する。

 八つ当たりに過ぎない馬鹿げたやり方だ。

 もし力づくでどうこうされない、本当の意味で強い人間に出会えば破滅だというのに。
 何をやられても心を変えず最期の最期まで間違いを論いせせら笑う。
 そんな抵抗に出会ったが最後だ。
 自分を苛み続けている”傷”。それを与えられながらもなお挫けず、痛みに耐えながら強く生きる。
 そんな人間の姿は実に雄弁で残酷なのだ。

「誰もがお前のようにはならない」

「何を言おうとお前はお前が傷つけた人間以下だ」

「人間は傷の痛みに勝てるんだ。お前は勝てないままここへ来た。そしてまた勝てなかった」

「もう終わりだ。何億人を傷つけようと、変わらない」

「救われないぞ。馬鹿め」

 無言の敗者がそう伝えたら……傷ついたとき以上のやるせなさに打ちのめされるのだ。勝利の陶酔が吹き飛ぶのだ。

 そんなコトなど思春期のころに分かる筈なのに……

 彼らは傷が痛いと暴れる。傷があるから暴れていいと正当化する。

 リヴォルハインの見るところそれは矛盾である。
 彼らにとって”傷”とはどうやら縋るべき神のような存在らしい。

 傷様。悪道に落ちた自分をお守りください。

 そう言わんばかりの勢いで頑なに守っている。

 実は信仰対象そのものが二進も三進も行かぬ苛立ちと不快感と欲求不満を生んでいるというのに。
 そしてそれを心のどこかで自覚しているのに。

 傷ついたころ願っていた筈の平癒や救済を、今は逆に恐れている
 傷は神で正当性を得るための要件なのだ。失ってしまえば、救われてしまえば──…

 やらかした悪行が重く重くのしかかってくる。長年の苦しみの果て、やっと救われたというのにだ。

 傷の何十倍もの重さを誇る罪悪感。今度はそれに苦しむ日々だ。
 償おうとすればまた傷つく。
 傷つけられた相手がどれほど苛烈な攻撃をするか、そしてその攻撃がどれほど凄まじい傷を生むか。

 熟知しているからこそ償いはできない。

 しかも償うべき相手は無数にいる。

 たった1つの傷にさえ怖れ戦いていたというのに、それをもたらす人間が今度は無数に控えている。
 皮肉にも救いこそが地獄と悪夢を産むのだ。
 かといって償わないという選択肢も平穏にはなりえない。いつ、誰が、復讐しに来るか。
 そんな恐怖はあるだろうし、救いが復活させた良心とやらはとても罪悪感を忘却できるものではない。
 
 だから、救われない道を選んでいる。償わなくていい立場を守るため、八つ辺りばかり続けている。
 
 かわいそうなマレフィック。

 リヴォルハインはそんな仲間たちさえ救いたいと思っている。
 
 化け物をやめ、人に戻ろう。そして一緒に罪を償おう。
 
 そう呼びかけてはいるが誰も賛同は示さない。
 


 人間時代感じたもどかしさ。どうすればいいか考えるうち彼が出逢ったのは。


 精神世界を媒介する巨大な網に掛かったのは。





 お。まさかいまのオレを捕捉できる奴がいるとはなあ。なんつーかオドロキだぜ。お前ひょっとしてアイツの仲間か? なんで
分かるかって? だってお前の体の材料やったのオレだぜ。匂いでわかんだよ匂いで。そーか。こーいうのに使ったか。ハハ。
昔からアタマ良かったからなアイツ。ん? あーーーー……。ちょっと待ていま何年だ? 2000年代初頭? ああもうこれ
だから古い真空は困るぜ! 前グーゼン体ゲットしたのは33世紀終盤、その前は……ええと。確かツタンカーメンが生きて
るころだったか? 
 うぅ。武藤ソウヤと羸砲ヌヌ行ともう1人に肉体ぶっ壊されてから光超えた速度で飛びまわってるからなあ。ヘーガイ……無
軌道にタイムスリップしまくってるなあオレ……およよ。
 さっき「むかし」つったけどこの時代だと300年後のコトだな。? そそそ。アイツはそっから来たんだ。で……ほー。戦国
時代に飛んだのか。仕込みはおよそ500年前から、か。さっすが周到だぜアイツ。
しっかしすげえなあ。なんか重力感じるなあって思ってたけどよー。まっさかこんなマジすげえネットワークが構成されてるとわ。

 ん? なにお前ほかの奴んために展開してるのコレ? リバース? 鐶光? そいつらのためだけ使ってる?

 うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーわ!! なになになになになになになになになになに
なになになになにお前それなになになになになになになになにうわメッチャクッチャもったいねェーーーーーーーーーーー!!!

 自信持てって!! これだけのモン持ってたら正直戦争とかカンタンに起こせるぜ! つかオレならそーするッ!! 自分の
能力、お前の感覚の結集だろ!! 自身のために使わずしてどーすんだ!!

 見ろよ!!

 電波濃いぜギンギンだぜ! 1つの時代にとどまりづらいオレだけどさ、でもこーいうのあると道しるべっつーのかな、うん。
割と来やすいかも知れんぜこの時代! あーもうすぐ通り過ぎちまう、一瞬で送れる情報はコレぐらいか。まーとにかくちょく
ちょく通り過ぎるからお話よろしくー。(つか何でおまえオレと交信できるの? すげえな)



 オレの名前はライザウィン=ゼーッ! 人間名は勢号始!


 お前らのいう『マレフィックアース』とはオレであり……オレじゃない!

 なるほど。お前らがどんな戦いやろうとしてるのかだいたい分かった。……はっはー!! いいぜいいぜ流石アイツだ。
……う、浮気されたのはツレーけど。………………。泣いてるかって? …………。うん。涙はでねーが心で泣いてる。そ、
そりゃあオレの体消えちまったから仕方ないのは分かるぜ? うん、かなりわかる。そのあと何千年ってサイクルで歴史や
りなおしてよー、ずっとずっと1人でさまよってたらなんつーかさあ、人肌? ぬくもりなる感覚求めちまうのも理解できる。ま
だ相手……グレイズィング? そいつがオレ似の……つかオレの外面のモチーフなった人の親族ならしゃーないけど……

 がああああああああああ!! 浮気!! 浮気してんじゃねーぞ馬鹿やろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!

 オレは……オレは……!! ユーキューなる時のなかずっとずっとテイソー守ってたのにいいいいいいいい!!
 いつもなんやかんやで失われる肉体だからオトコとカンケー持っても大丈夫だろっていう奴もいるだろ!! でもこーいうのは
感覚!! タマシーの問題だろ! フテーをよしとしてみろ、肉体無くなってもオレの言霊にそれはしみつき同じコトを…………
だから!! だからオレはアイツ似の奴に出逢ってもフッてフッて袖にし続けてきたのに……うっうっ。むかしから手は早い奴
だったけどさあ、でもカタい奴とも信じてた。なのに。なのに。…………わああああああああああああああああああ!



 馬鹿!! 馬鹿!! アイツの……馬鹿あああああああああああああああああああああああああああああああ!!







 この前はワリ。アイツのコトだけで話終わっちまった。交信時間は短い、ムダづかいはできねーな。

 お前が何に迷っているかは分かった。仲間を何人殺そうとしてるのかもな。
 ん? ああ、別に止めはしねーよ。仲間割れ大いに結構! だぜ? だってお前やりゃあやるだけ新しい戦いが生まれる
じゃねーか! ソレいいわ。めっちゃいいぜ。うふふぅ。なんかゾクゾクすっぜー。第一アイツはターゲットじゃないしな。

 ま、ほぼ万能無敵だぜアイツ? 狙われても死ぬわきゃねー。はい? …………の! のろけじゃねーよ! そそそりゃ
あ核鉄やったからヒイキ目ってのはあるだろーけどさ……。アクマで客観的な話、客観的な!! そ! オレは恋愛っつー
戦いにおいても平等で割り切りたいとつねづね……つか話そらすなバカ! 時間少ねーつーのによ!! 


 オレはお前たちの企てにゃ納得してる。ヴィクターと武藤カズキが月にいるタイミングでの蜂起……見事じゃねーか。


 ただ1つだけ注文させろ。なんだいいよーってオレはお前の材料やった……待て。いいのかよ!!? えええええ。お前、
お前、なかなか変わって……時間ない? 分かったよもうさっさという。


 早坂秋水だけはぜったいに殺すな。斃させるなっつー意味じゃねーぜ。厳密にいえば『盟主にブチ当てるまでは』生かせ。
そっからは戦い次第……手出しさえしなけりゃどー転ぼうが構わね。うん。構わね。


 なぜかって?

 だってお前、バトルつったらやっぱ剣対剣だろ!! しかもアイツらの背景は似てる。ずっとずっと扉叩いてる。そんな連中
が未来ゆきの切符を賭け全力でやりあうっつーのはもう!! すっげタマンネ!! すっげタマンネ!! 見てええ!!!!!
超ぉーーーーーーーーーーーーー見てぇえええええええええええ!!

 そか。了解か。オレがいうのもなんだけどお前ちょっとアホっぽいよな……。でも信頼できそだ。よし!! ついでにもう1コ
言うこと聞け!! 

 見返りは与えるぜ。まずお前らが捜してる『マレフィックアースの器』。オレでありオレでない存在を降ろすその器が誰か
……教えてやるぜ。オレは別の時系列や並行世界に降り立ったコトがある。だから分かるぜ。誰が器に適してるか。

 ヒントは演劇だ。目覚めさせるタイミングはそこしかねー。お前の能力……リルカズフューネラルなら一斉蜂起前に違和感
なく覚醒できる。他んとき、強引に発現させるコトも可能だろーけどさあ、そするとレティクルは困る。だって一度負けてるから
な。蜂起ギリギリまで事は構えたくない。戦士との戦いは避けたい筈……コレが頼みごとその1の見返りな。

 あともう1つは……知識提供だ。リヴォルハイン。お前の願い、『救い』に必要なデータをやる。

 ハッ! 首ふんな!! 迷うなだぜー!! 迷ってんのは分かる!! 壮大すぎる考えだからな! 目先の利得に縛られ
てねーもんだから犠牲は出るッ! そこを恐れている! 犠牲を出しながら達成できねえのを恐れている! 

 要はお前、『昔の二の舞ふみやしねーか』ビビってんだよ!! でもいいじゃねえかやりゃあよ!! 偉人……名言バンス
カ生みまくった連中を見ろだぜ!! 決して人畜無害じゃねー!! その人生にゃ常に戦いの匂いがあるッ! 人の都合
害さなかった奴は1人としていねえ!! ガンジーだろがリンカーンだろが例外じゃねーぜ、奴ら既成利得に群がるブタども
の財布の具合さびしくしやがったからよォ〜〜〜〜〜〜ま! そゆう意味じゃ一種の加害者ッ! しかし勝ってもいるッ!
いいか、大事なのはそこだよーく聞け! 敗北者を生まない概念なんざ意味はねえ! 織田信長は反対勢力ボンボガ
ボンボガ殺しまくったけどよー! だからいいッ!! 道筋ってもんが分かってる! ヌリぃコトほざいて信長貶してる連中
なんざよォーーーッ! 所詮『新しい真空』! 本来高熱であるべき空間をどんどんどんどん冷ましていく! つまらなくする
一方! されど何も生みやがらねえ!

 勝負とはつまり『削ぎ落とす』作業だ。心なり肉なりにへばりついた『新しい真空』を削ぎ落とし原点へ至る行為だ。原初の
熱意に満ちた魂の輝きを掘り起こす行為……。原初にある古い真空。『霊性の輝き』。それを保ち続けるコトができるなら
負けまいと肉体を鍛え精神を高めるコトを『やり切れる』なら……敗北もまたいい。『霊性の輝き』は必ず次に受け継がれ
るだろう。勝利が重要なんじゃねー。さしせまる敗北のなか戦い抜くコトこそ重要だぜ。勝負はそれを生む……だから行う
べきなのだ。やり抜くべきなのだ。。

 アイツ……お前らがウィルと呼ぶ星超新はやり切る敗北者たらんと生きてきた。だから戦いの準備が整った。

 理念を追えだぜ。負けて死ぬ奴など気にすんな。『霊性の輝き』があればその犠牲以上のものを芽吹かせる。なければ
ないで最初から慮るべき存在じゃねーぜ。石くれのよーなもん。道のド真ん中に置いてどう役立つ? 戦いさえおきねー。

 覚悟したよーだな。

 おそらく錬金術史上最高峰の演算能力だが、まだまだ現代的な発想に縛られているフシあるぜ。もっと未来的な発想を
入れろ。オレのいた300年先未来の数学、量子力学、ネットワーク構築論……その他もろもろの知識を全部やる。錬金術
もな。勉強はニガテだけど読者家……だったからな。知識はたっぷり持っている。ゼンブゼンブ、人間が『まっとうな努力で』
地に足つけ進化させた知識! 学術的戦闘の純粋結晶! これほど確かなもんはねー! きっと役立つ筈だ。使え!



 で、オレの方のお願い2つ目は何かっつーとだな。


                                                                 それは──…





 未来を知った瞬間リヴォルハインは確信するッ!! 『救い』!! 自分が何をもたらすべきかを!!


 それはひどく根源的な着想!! 誰もがフと気にかけるがすぐ忘れる絵空事!



 しかし彼は実行しようと試みる! 空! 青さが沁みライザウィンは去った!



 だから剛太と香美を助けたあと向かったのは──…



 買い物!!! 



 駅前にある銀成デパートは今年で創業34年を迎える老舗の店だ。6階建てで最上階のレストランの夜景は絶品。クリス
マスともなれば58ある座席はカップルに尽く埋め尽くされる。(確実に座りたい人は夏の終わりとともに予約する)。

 その3階……暮らしと住まいのフロアを歩く少年少女は鳩尾無銘と鐶光。

 さまざまな商品の陳列された棚を抜け、いまはエスカレーターの傍。地図が掛った柱の根元には植木鉢があり緑鮮やか
巨大な観葉植物の葉が3枚、ニョキリニョキリと伸びている。

 小兵ながらに眼光を光らせる前者は今は銀成学園指定の学ラン姿で、しかし披膊(ひはく)なる肩当てをしている。三国志
のコスプレだろうか? すれ違う人々は怪訝な視線を送る。鳩尾無銘が歯噛みしながら肩をいからせノッシノッシと歩いてい
るのは訝しい眼差しに怒ったわけではなく……

「だから! なぜ貴様は迷うのだ!!!」
「ごめん……なさい」

 同伴者……つまり鐶のせいである。例によって方向音痴を発揮ししばらくはぐれていたらしい。ちなみにシルバースキンの
裏返し(リバース)を解かれて久しい彼女はやはりというか、銀成学園の制服を纏っている。クリーム色のゴシックな衣装に赤
い三つ編みはよく映える。ネクタイの前でぴょこぴょこ跳ねるリボン付きの毛先もまた愛らしい。なにか言いたげに振り返った
無銘はそれに一瞬見とれかけたがすぐさまわざとらしく咳払いをし

「だ、だから我について来いといっただろ!」

 怒鳴った。顔はやや赤黒い。対する鐶──愛用のバンダナはしていない。ポシェットの中へ──は小首を傾げた。

「だって……無銘くん……袖つままれるの…………嫌だって……」
「できるかァ!! 子供じゃあるまいし!!」
「年齢的には…………そう、では…………?」

 ウグと言葉に詰まった無銘へさらに追撃。

「ちなみに…………いまは私が…………年上……です。お姉さん……です。うふふ。うふふふ」

 鐶は笑った。笑ったというが双眸はいつも通りノーハイライトだ。明度を極限まで落としたスターサファイアの瞳は声ほど
笑っておらずだから無銘は震撼した。

(ええい!! 衣装だの背景に使うダンボールだのが足らんというから買出しに来たがなぜにこやつと!!)




 銀成学園を起つとき、その辺のコトは十分総角に訴えたのだが。


「じゃああのお嬢さんと行くか?」


 総角の後ろで絶対零度の笑顔を浮かべるヴィクトリアを見た瞬間、妥協した。鐶の方が比較的安全だった。

「なのに……なのに……くそぅ!! また勝手に迷うし! 靴買ってやったのに相変わらず裸足だし!!」
「アレは…………宝物……です。大事に大事に……仕舞ってます」

 その一言につい口をつぐんでしまう無銘だ。買ったものがそうまで厚遇されていると嬉しいやら恥ずかしいやらで胸のあた
りがムズムズする。イラつくような袖ぐらいつまませてもいいようなフクザツな気持ちになってしまう。

「あ……もしよかったら……1日弟……しませんか……」
「断る!」
「ちなみに……お父さんとお母さんは……弟ができる前に……殺られました……。お姉ちゃんに……殺られました……」
「貴っ様ぁ!! そーいうコトをココで言うか!!? 言われて断ったら我がなんか残酷無常の人物みたくなるではないか!!?」
「忍者だから……いいのでは?」
「いやいやそうだが!! それ以前に我は人間で……!!」

 あたふたと弁明していた無銘は一瞬瞳孔をカツと見開き……そして吠えた。

「からかったな!! 性分を見抜いた上でイジワルぬかしたな!!」
「うふふ……。そうです…………。そうなのです………………」

 反射的に殴りかかる無銘を鐶はスルリと抜ける。そして愛用の卵型ポシェットはね上げつつ”たたら”踏む少年を振り返り
微笑した。

「当たりません、よ? 戦闘能力で勝てるわけない……です。悔しかったら……捕まえて……下さい。うふふ……」

 そして少し早足で歩きだす。放置すれば本当どこ行くか分からない少女だから無銘の動揺はなはだしい。

「待てェ!!」
「待ちません……よーだ…………です」

 鐶光は浮かれていた。大好きな鳩尾無銘と2人きりで買い物できるこの状況に浮かれていた。

 大好きな少年が追ってくる。夕暮れの浜辺じゃないがとてもとても幸福な瞬間で。


 だから彼女はおぞましい事象が本当にすぐ近くで『自分を見ている』コトに気づかなかった。




『あぁ。恋する光ちゃんもステキ……』
「へへ。さすが青っちの妹さん。勝るとも劣らぬ可愛さ!」



 柱の陰から出てきたのは美男美女。男の方は20代後半。人好きのする笑顔のウルフカット。細長く絞られた体に纏うの
は虹の書かれた黒い半袖シャツにチノパンというそっけなさだが不思議と華がある。

『褒めてくれるのはうれしいけど違うわよブレイク君ッ!! 光ちゃんの方が私めより何倍も何倍も可愛いんだから!!』


 ブレイク君と呼ばれた青年につきつけられたのはスケッチブック。書き取り帳に薄く灰色で印字された手本がそのまま
貼り付けられたかと思うほど綺麗な文字が踊っている。

 描いたのは笑顔。笑顔としか形容ができないにこやかな少女。年のころは18か19か。乳白色のショートカットはふわふ
わとウェーブがかかりまるでお姫様な気品だ。着衣は水色のサマーセーターにジーンズとこれまたブレイク同様無個性だ
が極めて大きな特徴がある。


(嗚呼……おっぱい)


 爽やかな笑顔でブレイクは凝視する。スケッチブックの向こうでセーターが大きく大きく隆起している。華奢な少女で
ウェストのくびれなど物凄いものがあるが反面胸部ときたら……もう。

「なんつーか青っちマジ天使す! いつもいつも思っているけど可愛いっす!!」
『光ちゃんはもっとなのよ!! ステーキ皿で頭殴ると、か細く鳴くの。そのこらえてる感じが健気で健気で……!!!』

 見た目も筆跡もひどく美しい少女だが内面は明らかに破綻している。


 それがリバース=イングラム。玉城青空という……鐶の義姉。

 彼女は『かつて瞳が虚ろになるまで監禁した』最愛の義妹に気づかれぬよう、やおら立ち上がり拳を固めた。

『さあ光ちゃん追跡大作戦よ!! レッツトライ!! レッツらゴオオオオオオオオオオ!!!!』
「にしっ。戦い始まるまで表立って逢えませんからねえ。陰から観察と行きましょうか」

 ぴょこぴょこ揺れるアホ毛を愛おしく眺める灰色の瞳が次に捉えたのは……無銘。


(俺っちも興味ありますよー。お師匠さんの義理の息子で……青っちの妹さんの恋人たるきゅーび君。その……枠にね)

 その感情の動きはやがて衝突する『宿業』を感じた故か。




 ここにも2人の男がいる。

 1人は姉を愛し。

 1人は妹を愛した。

 兄弟の如く近しい立場の彼らが対立するのは──…


『鐶光は鳩尾無銘が大好きだ。

 彼女はむかし義姉に両親を殺された。その挙句監禁され、5倍速で年老いる人外へと……。

 瞳が暗色に染まるほどの戦いを強いられ続けるうち果たした出会いが運命を変える。

 ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズ。標的を殲滅した流れの共同体を急襲し、小札、貴信、香美と立て続けに重傷を負
わせた鐶光の前に立ちふさがった者こそ……当時まだ人型になれずいたチワワ姿の鳩尾無銘。
 苛烈を極めた戦いは引き分けに終わる。

 鐶が無銘を好きになったのはその後だ。

 折悪しくやってきた戦士から、鐶を、命がけで守ったから。

 好きになった。お世辞にも自分より強いとはいいがたい、チンチクリンなチワワが、傷だらけになりながら戦士を退け
…………守ってくれた。

 救ったのは命だけじゃない。
 親も尊厳も失い悲嘆にくれる鐶に彼は、道を示した。

──「本当に姉を愛しているのならば止めて見せろ! これ以上の魔道に貶めてやるな!!!」

 愛しながらも恐れ、隷属するしかなかった義姉・リバース=イングラム。玉木青空。

 彼女が憤怒の権化と化すに至ったさまざまな確執の原因が自分にあると負い目を背負い、諌めるコトも宥めるコトもでき
ぬままただ忌むべき循環に流されていた鐶光。
 身を委ねていればいつか戦士かホムンクルスに斃され死んで終われると諦めていた少女。

 鳩尾無銘は希望を見せた。

──「奇襲とはいえ師父たち5人と互角に渡りあった実力は本物……。姉に抗する術がまるでない訳ではない」

──「貴様の抱いている感情ぐらいならば聞いてやる。それで貴様が二度と虚ろな瞳で空を仰がないと誓うなら……聞いてやる」

 彼は何もかも解決してくれた訳ではない。今日いまに至るまで状況は出逢ったときと変わらない。リバースは未だ多くの人を
苛んでいるし、鐶の老化だってそのままだ。無銘自身、背負わされた宿業に苦しみ恨みに喘いでいる。決してヒーローでは
ない。本当は自分のコトをどうにかするのが精一杯なのだ。

 それでも道は示してくれた。話を聞くと言ってくれた。声を出すだけで暴力を振るった義姉! 訛りを出すだけでドス黒いス
テーキ皿を頭めがけ轟然と振り下ろしたリバース=イングラム! 彼女に比べればどれほど無銘が優しいか。声音を、言葉を、
なんだかんだと貶しながらちゃんと聞き、伝え返してくれる少年は、本当に本当に、大好きだ。

 自分だけでなく。
 傍目から見れば最早ただの怪物にすぎない「お姉ちゃん」を、殺さず、救えと言ってくれたのだ。
 だから希望が持てる』


「…………」

 何度目だろう。白い矩形の影がまた後ろに向かって跳ね上がる。ブレイクはただ黙っていた。

                                              マレフィックウラヌス
 ブレイク=ハルベルト。悪の組織の幹部である。コードネームはは『天空のケロタキス 〜または象の息〜』。
 どちらかといえば美男だが、今にもニヘラとしそうな緩い顔つきを除けばこれといって突き抜けた美点がない。街のそこ
そこ人通りのいい場所を探せば10分で同じレベルが拾えそうなほどありふれた絵姿だ。それが、体脂肪率1ケタかという
ぐらい細長い体のうえで目を細め頬をかいたのは同伴者のせいだ。

 少女だった。乳白色とも灰みの明るい銀色とも取れるゆるふわウェーブのショートボブだった。頭頂部から伸びる毛は滑
稽なまでに長いが(40cmはあった)それが却って過分な美しさに親しみやすさと愛らしさを与えていた。

 幽玄な気品に溢れた顔を清楚な笑みに染め上げながらキュキュリキュリキュリ。漆黒のタクトを熱心に振るっている。そ
れは商店街のしなびた文房具屋で買った98円の代物で、希釈された特殊引火物がとっぷり詰まっている。要するにマジッ
クペン。太字だ。スケッチブックに刻むのはしかし文字。速記記者顔負けの速度だ。肩から手首に至る執筆運動が円弧と
なり彼女の脇で跳ねている。このまえ映画で見たカンフースターがちょうどこんな感じだった、ヌンチャクを左右に振ってた
……などと囁いたのは道行く人の1人で、それでやっとブレイクはかねてよりの既視感に納得した。むかしハリウッド映画に
出たとき手首で日本刀まわすよう監督に言われ参考に見たのがブルース=リーか何かの映画だった。(なぜ連中は回した
がるのだろう。手首で刀を)。もっとも同伴者は鳥鳴やら猿叫やら何一つもらさず黙々と書いている。作業に苦痛を感じて
いる訳ではない。むしろ笑顔は緊張と歓喜に張り詰め、雪のような頬ときたら血潮にうっすら染まっている。そんな様子を、
ショッピングセンターの、数ある四角い柱の影でじつと見つめること48秒。やっと彼女はブレイクを見た。

『以上、光ちゃんの心理描写でした〜〜〜! 拍手〜〜〜〜〜!!』

 胸の前でたわわな質量を押しつぶしていたスケッチブックを翻し右手ひとつに持ち換えた少女。
 なにがそんなに嬉しいのか照れ照れと笑っている。残る片手など小さくガッツポーズをしている。頭のアホ毛もパタパタした。

 ……鐶光なる存在を雄弁に語りつくしたのはスケッチブック。20枚の紙はもう裏も表も文字だらけ。文字は太字のペンを
使ったにも関わらず輪転機をくぐりぬけてきたように細く綺麗。ひらがなも、カタカナも、漢字も数字も記号も読点も句読点も、
間隔等しく並んでいる。枠のある原稿でさえここまで整わないというぐらい綺麗でカッキリとした体裁だがそれが却っておぞま
しい。

 彼女は喋らないのだ。『喋れるのに喋らない』。

 恋する乙女のように書き上げるほど義妹を想っているのに、それを一切、声に乗せない。
 そのくせスケッチブック1冊犠牲にしてまで語りたい衝動を秘めている。容姿も文字も執筆機能も恐ろしく高い完成度を
誇っているのに根本の大事な何かが壊れている。

 それがリバース=イングラム。旧名を玉木青空という鐶の義姉で。

「素晴らしいっす青っち!!」

 身を乗り出し歓喜に叫ぶブレイク=ハルベルトの想い人。


 ぱあっと輝くような笑みを浮かべたリバースは再びスケッチブックに向かう。礼を述べるのだろう。2人にとってそれは
当たり前のコミュニケーションだが、しかしすれ違う雑踏のカケラたちは一瞬妙な表情で彼女を見て足早に去っていく。
同情的な言葉を連れと囁く若い男だっている。聞くに堪えない小さな嘲笑を湛え合うグループは女子高生。

 確かに語らぬ笑顔の少女は異質な存在だった。ただしその異質ぶりは、通行人たちの想像の『枠』など遥かに飛び越え
ているのだとブレイクは得心しウンウンうなずく。異質ではなく悪質なのだリバースは。それも一際極まった──…

 実父の頭を踏み砕き、殺し、望まぬ発声練習を強いた義母は意趣返しとばかり喉首にぎりつぶして頭を落とし。
 義妹を監禁し。
 ただすれ違っただけの幸福な家庭を武装錬金で誰1人殺さず崩壊させ、被害者が、新たな被害者を生むよう願っている。

 ブレイクはその総てを知っている。知った上で愛している。蜜言を囁くたび鋭い拳に顎を穿たれ、首が外れ、揺らいだ脳が
衝撃で坐滅しても、生黒い青あざが全身に浮かぶまで殴りまわされても、愛している。
 むかし憧れた女性、ブレイクを栄光に導いたプロダクションの女社長が、リバースの手で幸福な暮らしを壊され、流産し、
2度と子供を産めなくなったのも知っている。その上で、リバース=イングラムを愛している。

(人の枠をぶっちぎちまってますからねえ。何より可愛い!!)

 かつて付き合っていた女社長などどうでも良くなるほど魅力的なのだ。第一むかしの女ときたら彼を色々裏切っている。

(無銘くん! あーたが光っちから向けられてる好意と同じぐらいの愛を! 俺っちは青っちに向けてやすよ!!

 言葉と意識を向けるのは、30m先のホームセンター。『接着剤』のコーナーで赤毛の少女と何やら難しげに紛糾している
学生服の少年だ。

 ここは駅前にある銀成デパート。1971年(昭和46年)2月創業だ。当時の日本の出来事といえばとある四輪メーカーが
アメリカの大企業に先駆けて低公害エンジンを発表したのが有名だが、それは本題ではない。

 3階の暮らしのフロアにやってきたのは鳩尾無銘と鐶光。近々催される演劇に必要な資材の調達にやってきた。


「くそう。追いつくだけで体力を消耗したわ!! 少しはおとなしくだな……!!」
「段ボールの調達はおーけー……です。仕舞い……ます……」
「聞けえ!!」
 畳まれた状態とはいえ自分の背丈の半分ほどある資材を、当たり前のように、腰に下げたポシェットへ入れる鐶に無銘は
ただ唖然とするばかりだ。角が触れた段ボールは転瞬異様な縮尺を帯びるのだ。餅をつまんで引き伸ばしたような。矩形で
あるべき硬くザラついた再生紙が明らかに三角形へと歪んでいる。辺がおかしい。いうなればピンクのドアだった。国民的な
ネコ型ロボがポケットから出してる最中のピンクのドア。あれのように、風貌ごと、次元が、ねじれている。
「……いつも思っているのだが、何だそのポシェット。どういう仕組みなんだ?」
 鐶光愛用の、白い卵型のポシェットは何でも入る。入っている。見た目の大きさといえば、大人が2つの掌で包めるぐらい
だ。
「さあ……。でも、色々入ります…………例えば」
「デスクトップ型のパソコンが旧式のブラウン管のディスプレイごと!? 次は硫黄の粉末をたっぷり詰めたオオサンショウ
ウオの腸!! 携帯ゲーム機こいつは時々出してピコピコやってるからお馴染みだ!! 持ってきたのか据え置き型のゲー
ム機!! ゲームソフトも15枚あるが外では使えんテレビは無い!! 箱入りのドーナツはおやつ!! ジャーキーは無い
のか! 無い!!? くそう!!」
 入り口から少しだけピョコピョコだされては仕舞われる物品の数々に、目を白黒させつつ解説つける鳩尾無銘。他にも144
分の1スケールのプラモとか、無数の熱血ソングのCDとかとにかく色々な物が入っており総重量は30kgを下回らない。
 剛太などはそれを認識しなかったばかりに──せっかく防人が重量を教え対応するよう警告したのに軽んじた──まるで
巨大な鉄球を渡されたようにつんのめった。床に激突したポシェットが巨大な罅割れを生んだのはいうまでもない。

「一番凄いのって実は紐っすよね。動いても千切れやせんし」
『鉄骨を6年ぶら下げてもピンピンしてるほど頑丈、それでいて肩に優しい柔らか素材! を!! 採用してみました!!』
 細目のまま鼻息噴き拳固めるリバース。頭頂部の長い毛がビコーンと勃ち、ちょうど飛んでたハエを胴ごめに両断した。
「さっすが妹さん想いの青っち!!」
『あの子よく道に迷うもの。たくさん歩くでしょ、だからずっと掛けてても楽なように注文したの』
「にへへ。旦那とはえらい揉めましたからね〜。『できないできないって何よちゃんと作りなさいよ頑張りなさいよ光ちゃんの
肩に痣作っていいのは私めだけようふふあはははキレた攻撃する』とか何とか仰ってましたし……」

 柱の影にブレイクとリバース……闇の師匠というべき人物2人が潜んでいるとは夢にも思わぬ鐶だ。
 無銘の「それ誰が作った」的な問いかけに答える。淡々と、淡々と。
「ディプレスさん……作です…………」
「ああ栴檀どもをああいう体にした研究班副班長の…………って貴様答えになっとらんぞ」
「…………ディプレスさんは…………発明好き……なのです…………よ?」

 まったく感情のこもらない調子で鐶はズズイと顔を近づける。そうされると元々の力量差もあり無銘はつい威圧されてい
る気分になる。そも彼女との出逢いときたら最悪だった。いきなり仲間たちをバタバタ薙ぎ倒された挙句、散々といたぶら
れた。当時ちっちゃなチワワだったのに容赦なくだ。簡単に言えば、後ろ足を持って、岩にたたきつけて、もいだ。
 いまでこそ見た目少年だがやはり動物型ホムンクルスの無銘だ。鐶に対する本能的な恐怖は脳髄のどこかに深く深く刻
み込まれている。もちろんいまの彼女はただ親切心で、ポシェットを説明しているだけだ。顔を近づけたのは、声のか細さ
を知っているからだ。聞こえなかったら悪い、たったそれだけの配慮で近づいたのだが、名前が羊頭狗肉に思えるほどドン
ヨリ濁った双眸をすぐ間近で向けられて震えぬ者はいないだろう。鐶の瞳は虚無だった。色こそスターサファイアで綺麗な
のだが、まるで沈没船の宝箱に納められているような暗さと湿りに満ちている。陰湿……といえば率直で分かりやすいが、
無銘は意図的にそういう形容を避けている。なぜ今の瞳になったか存分に知っているからだ。罪なきが理不尽な暴悪に晒
された結果を悪心以て評するは理念に反す。

「ふむ。無銘くんはアレすね。忍びだけど忍びだからこそ正心に拘ってるようです」
『?? イオちゃんはめっちゃ悪辣よ? 光ちゃん逃がした時だって私の体にコッソリ耆著埋め込んでどっちにしろ勝ち!
みたいな企みしてたし』
「いやいや。本来忍びってのは人の心を大事にするもんす。怒らせたり傷つけたりでソッポ向かれたら最後、目的遂行でき
やせんからね。人を喜ばしたり楽しませたりして上手いこと誘導して”勝つ”のが忍びなんす。忍法とか忍術はあくまでその
補助す。だから光っちを悪く扱えないんす」
 ブレイクの講釈にリバースは少し感心したようだ。瞳は笑みに細まっているから奥を覗くコトはできないが、尊敬の念が
視線に混じるのを彼を感じ少々舞い上がった。
「チワワ時代、人間に憧れたのもあるでしょーね! きっと!!」
『ああそれにしても光ちゃん、瞳のせいで薄幸で儚く見える……』
「無視ですかい!?」
 彼女の関心はもう義妹に向いている。気付かれないのが不思議なほど熱烈な眼差しを向けながら
『でも攻撃全振りなのよね戦い方。そこがまた可愛いの。あ、もちろん頭が悪いって訳じゃないわよ。むしろスゴくいいの。
薬局の前に立ち果てしない雑踏眺めてるケロちゃんよりも小っちゃい頃から漢字テストでずっと満点とり続けるぐらい頭いい
のよ。このまえ戦士たち6人相手に人混み利用して互角以上に渡り合ったし。なのにいざ真向勝負となるとレベルを上げて
物理で殴ればいいという有様なの。ノーガードなの。きっとディプちゃんの影響ね。本当いうと戦い教えてくれたのは感謝して
るけどあの人悪い部分があるというか、人生の落伍者だから、なるべく悪い影響受けて欲しくないの。ヤローてめえ人の可愛
い妹が傷つくよーな戦い方教えんじゃないわよ、預かってるっつー自覚ないの自覚って話。実際あなたデっちゃんは娘のよう
に大事にしてるでしょ、なのにどーして人の妹そうできないかなあ。あ、話が脇道に逸れたわねごめんなさい。余計なコトまで
書いちゃうの悪い癖よね。とにかくあの、30kgはあろうかというポシェットを肩から提げて平気のへいざで動き回る光ちゃん、
これはもう萌えよね』
「へい!!」
 なんか話がアレな方向に行き始めたがブレイクは直立不動で返事をする。鬼軍曹に答える二等兵よりも粛然と、恋人に
蕩けるより艶然と。
『特異体質で色んな鳥に変形できたり、武装錬金で年齢操作できたりと技巧派っぽいんだけど、実はとびきりのパワータイ
プってギャップがいいのよギャップが』
 相変わらず超高速でスケッチブックにギュンギュンと文字を刻むリバース。笑顔は清楚だが唇の端に微かだが涎の筋が
垂れている。息も心なしか荒い。


 並外れた膂力と、無数の鳥への変形能力と、ついでにこのまえ銀成市ひとつ丸ごとの時系列を遅らせた年齢能力を有す
る鐶光。いざ戦いとなれば換羽と年齢操作の偶発的混合の副産物で、瀕死時オートで全回復する。


「チートか!!」
「……はい……。ディプレスさん…………チートです……」
「じゃなくて貴様が!!! なに、何やったら死ぬのお前!?」
 たまらず叫ぶ無銘に鐶は一瞬首を傾げたがすぐ微笑した。
「おかしな……無銘くん…………です」

 根来忍が笑うと猛禽類のようだと無銘はいつか戦士の誰かから聞いた覚えがある。鐶もそれに近かった。野うさぎを見つ
けたオオワシの薄ら笑いが感じられた。ただ根来との決定的な差もある。多分に孕んだ、霊的なおぞましさだ。焦点の合って
いない目で力なくしかし嬉しそうに浮かべた茫洋たる笑みは、デパート3Fの暮らしのフロアより怪談のオチが似合いそうだ。
「私メリーさん」。最後に振り返った主人公の前にババーン! スタジオの客キャー! みたいな。
「ア」
 叫んでいた無銘は急に黙る。そして咳き込むように叫びだす。
「その!! 寿命というのは除くからな!!」
「はぁ……」
 テンションについていけない。鐶はぼんやりした瞳を軽く瞬かせた。髪が赤い癖してなぜかまつげは黒かった。
「わ!! 我が言いたいのは、どういう敵なら貴様を斃せるというコトだ!! 戦略的な話題だ!! 無明綱太郎かという位
強い貴様を斃せる敵がいるとすればどういう能力かという話であって検討であって、埒外、寿命きたら死ぬとかいう結論は」
埒外!!」
 口角泡を飛ばしながらまくし立てる無銘を、冬のドブの底で死んで腐ったイワシのような目でしばらく眺めていた鐶だが、
やにわに広げた左掌を右拳でトンと打つ。やがて漏れ出でる声はミクロの鈴が転がるのを音程そのままに超低速再生した
ような……複雑で、緩慢で、綺麗なもの。
「私の5倍速の老化…………いつか来る…………老衰を…………気遣ってくれたのですね…………ありがとう……です」
 鼓膜でシャンシャンと永久に鳴り響くような声だった。沈鬱と痛惜に湿る人の世ならざる音階だった。無銘は顔を赤黒くした
ままそっぽを向き「別に」とだけつぶやいた。何が「別に」なのかは分からない。別に気遣っていない、のか、別に礼などいい、
のか。他の意味なのか。なんにせよ鐶は少年の無愛想な仕草が嬉しいらしく白い乳歯を明らかにした。
「約束……ですから……。私は…………生きたいです…………。お姉ちゃんを……元に戻すまで……何があっても……
生きたい…………です」
「……答えになっとらんわ」
 ちょっとその笑顔に見とれかけた無銘だが床を蹴るまねをした。
「一回貴様負けただろうが津村斗貴子に。なぜ負けたとか、如何なる敵に弱いとか、そーいうのをだな、分析しろ」
「……はい。でも」
 なんだ。渋い顔の無銘に──わざと作っているのが丸分かりで鐶はちょっと噴き出しそうになった。でも笑うとこの難物は
ますます無用の怒りを捻出するから気付かない振りをしつつ──鐶は淡々と意見を述べる。
「無銘くんも……秋水さんに…………負けてます……よね?」
「うっさいしとるわ!! 対策!! 貴様も牢で見たろうが!!」
「……タイ捨流」
 とは、かの上泉伊勢守信綱の門下四天王のひとり・丸目蔵人佐(まるめ くらんどのすけ)が編み出した剣術流派だ。「頗
る荒く、身体を飛び違え薙ぎ立てる」と評され、とかく技法の1つ1つがスピード感に富んでいる。
「そうだ! 真田十勇士ぐらい貴様も知っているだろう!! 根津甚八も使ってる忍びの剣法なのだ!!」
「……何度も聞きました………………。無銘くんが、牢の中で、練習するたび…………嬉しそうに……何度も……何度も」
 薄暗い瞳を伏せる鐶。このときすれ違った28歳OLは「何の話か分からないけどこのコ嫌そう!! しつこい話にウンザ
リしてる!」と解釈したが内実は違う。

「照れてやすね光っち」
『うふふ光ちゃんあんなに照れちゃって。男のコが大好きなものを語る無邪気な表情に弱いのねえ。傍から見たら変な趣味で
内心あきれてもいるけど、でもあんなに嬉しそうにされてるでしょ? そういうカオを見てると自分まで何だか幸せで、こそば
ゆくて、『まったくこの人は』みたいなため息交じりで許しちゃう。アレね。年下の旦那様見ているような気持ちよきっと。ああ
妹なのに姉さん女房な光ちゃんもイイ……素敵。可愛い』

 その義妹が生まれたのはおよそ8年前。無銘は10歳。本来お姉さんぶれる道理はないが、それを捻じ曲げた者こそ、
リバース=イングラム。鐶が年に5歳も年老いる体にした義姉である。それが姉さん女房どうこうを謳い萌えているのはど
うも薄ら寒い。

「次……行きましょう…………。買い物…………。買い物…………。うふふふふふふ」

 鐶は鐶ではしゃいでいる、ようだ。もっとも力ない笑いを淡々と漏らされると無銘としては怖い。靴下さえ未着用の、ほんのり
極薄の淡黄色を帯びた透き通るような白い足の甲でペトペト床を進んでいくのも(見慣れた光景だが)非現実的な何かがある。

 それが鐶光という少女。

「とにかく買出しはまだある。次の場所へ行くぞ」
「……はい…………」
 
 無銘に一歩遅れて鐶は歩き出す。


『ベブッ!!』
 リバースは目から血を噴き倒れた。
「鼻じゃなくて目!? ちょっとなにしてんすか青っち!!」
 慌てて抱き起こしハンカチで目を拭うブレイク。意識自体はあるらしく拭きやすいよう顔の角度を微妙に変えるリバース。
ふたりの距離はとても近い。突然の流血沙汰に目を剥く何人かの通行人も「介添えがあるなら」「その人が騒いでないなら」
と元あった視線と姿勢に立ち戻り過ぎ去る。やがてリバースの顔を綺麗にするとブレイク、慣れた手つきで座らせて、今度は
床を掃除する。
「光っち気になるでしょ。ここはオレっちに任せて先行っててくだせえ。なぁにすぐ追いつきやすって」
『んーん。ここに居る。お掃除手伝う? 私の血だしソレ』
 リバースはちょこんと横座りしたまま書面にて問う。
「大丈夫す! 青っちが興奮高まるあまり吹いちまった体液を拭う! ロマンじゃねーすか!! 男の!!」
『…………言い方がいやらしいよブレイク君』
 ふくれっ面で頭から湯気を飛ばしながらぽかぽか叩く。ブレイクはこそばゆそうにしながら床を拭く。
 用意のいい事に使い古した雑巾を持っている。ただそれはやたら赤黒い染みが目立った。まるで血糊だけ拭いてきたよう
な……。誰が流した、誰の物なのか。それで鼻歌交じりにリノリウムを拭くブレイクは、こざっぱりとした清潔
感の持ち主だから却って逆におぞましい。床が元通りになるころリバースは口を開いた。
『つい光ちゃんに萌えちゃって』
「くぅ! 口開いたのに喋らない!! さすが青っち!!」
 両目を不等号の対峙にして額を叩くブレイク。なにがどうさすがなのかよく分からない。
『ああ、無銘くんにトコトコついて歩く光ちゃん。むかしとちっとも変わらないわねえ。小っちゃかった頃は私の後ろついて
きたのよ。まるでカルガモのヒナだった。あのときから鳥っ娘だったのね可愛い光ちゃんマジ可愛い』
  頭のてっぺんから伸びる毛ときたら犬のように振られていた。いつかブレイクは聞いたが、髪、神経が通っている訳では
ないらしい。生え際の筋肉が発達している。それで何百本、何千本のケラチンとクチクラとキューティクルの紙縒りを動かす
というが、しかし髪とて質量はあるのだ。長い毛の束を動かすとなれば相応の筋力が要るだろう。そも毛根まわりの筋肉が
動くこと自体すでにおかしい。眉を動かしたとき頭髪全体がうごめくものがいるが、一部だけとなると難しい。
 ただ。
 足の小指が動くかどうかは個人差がある。両方自由にできるものも居ればまったく作動しない者もいる。右はいけるのに
左はノー、そんな者も。これは訓練で補えるらしい。動かなくても、指先に意識を集中し、動け動けと念ずれば神経回路が
形成され、意識下におかれるという。

 リバースもまたそういう訓練をしたらしい。

 もっとも指という動くべき器官と頭頂部という不動で差し障りのなき部位では努力の量に、隔絶したモノがあるが。


「ありがとうございましたー」
 自動ドアを潜り抜けた瞬間、ふたりの買い出しは終わる。
 ここは銀成デパート1階南西の隅にあるペットショップ。扱う物品が物品だから、こういう場所にしては珍しくガラスのドア
で区切られている。鼻からふっと獣臭が消えるのを感じ鳩尾無銘は一息ついた。彼も連れも本質は動物型ホムンクルス
だから犬猫その他の醸し出す独特の臭いをあまりどうこう言えないのだが、それでも一応ひとの身、1日の、入浴に費やす
時間分ぐらい文句つけてもいいだろうと思うのだ。連れなどは無銘の嗅覚鋭きを知ってか知らずかそれはもうお風呂好きで、
流浪の一団にありながら1日と入浴を欠かした事はない。僻地でも最低限の水浴びをする。
 とにかく、買い出しは終わる。
「というかなんで『コレ』なのだ。こんなのどう演劇に使うのだ」
「さあ…………」
 鐶はポシェットを持ち上げ首を傾げた。2つある紐を右掌で握りつぶしながら揺するポシェットが重く軋む。
「ところで………………これから……どうします?」
 と聞く鐶の頬が僅かに赤らんだのに横の無銘は気付かない。無遠慮に一歩ずいと踏み出した。
「どうするも何も買い出しは終わったのだ。帰るぞ銀成学え…………あれ?」
 ペットショップは南口に面している。正確に言えば、南西の角に嵌まり込むよう存在している。出入り口は2つあり、西の
それはそのまま外に通じている。名称の不明の雑草がレンガの隙間からちょこちょこ青々と覗く歩道の傍には小ぢんまり
とした駅前公園がある。そこを抜ければ銀成学園への道に合流できるのだが、しかし無銘は選ばなかった。なぜならその
道を歩くまひろと沙織を見たからだ。彼女らは彼女らで何か用事があって来たらしい。無銘は2人が苦手だ。ヴィクトリアよ
りはマシだが、年頃の少女らしい活発さはどうも持て余すというか対処に困る。見た瞬間それこそ忍者というぐらい気配を
消した。
 東にあるペットショップの入り口は、まひろたちの進行方向と間逆だった。ペットショップ西口から入ってこない所をみると
どうやらあそこから更に200mほど進んだところにある銀成デパート西口から入るのだろう。「上階へ一番速くいけるのは
西口。他3つと違い入ってすぐエレベーターがある」……これまた忍びらしくそれとなくデパートを検分していた無銘だから、
彼女らの動きは大まかだが予想できる。ただ予想というのはすぐ覆される。まして相手はまひろと沙織だ。特にまひろなど
は、この世にある、あらゆる精神的物理的道義的量子的予測的運動的な意味での『固定』が難しい存在だ。接触しただけ
でニトロターボの爆炎噴きつつ彼方へ吹っ飛んでいく直径4cmの球体があるとしよう。ナインボール全部それにすり替えた
ビリヤードだ。まひろを相手取るのは。キューの些細な衝突にさえ大騒ぎだ。思考も行動もどこへスッ飛んでいくか分からな
い。しかも他の球……というか弾をいくつも持っている。何がどう作用するか分からぬ超過反応の塊……とまひろを認識す
る無銘が、銀成デパート南口に面する寂れた道路に視線を釘付けたのは、別にまひろが居たからではない。むしろもっと
好ましい、安心の存在を認めたからなのだが、しかしそれは状況と場所からして奇妙だった。

 道路から一段上がった歩道にありがちな、羊のような、葉の小さな木。大人の腰ぐらいの高さあるその影から。

 シルクハットがチロリと覗いていた。鐶も気付いたようだ。一瞬ちょっと無銘を見て肩を落としたのは、女性としての敗北
感ゆえか。燃えるような髪の下で瞳だけが極北の深海だった。凍える闇に浸された。

 白く乾いた枝の入り組む隙間から18m先の室内を伺いかねたのか、見慣れた鳶色の瞳が髪ごとぴょこりと跳ね上がる。
視線が、絡み合う。反抗期一歩手前、何かの送り迎えでやってきた母親が嬉しいけれど周囲の目が気になって大仰に喜べ
ない少年の眼差しと、その女友達の、2人きりの時間を崩された微かな不満と、それはそれとした女性としての尊敬や好ま
しさや絶対勝てないという諦観を織り交ぜた複雑さがただでさえ沈鬱で図りがたい瞳に照射された名状しがたき眼光。

「あ、お師匠さんす」
『そういえばブレイク君、一時期師事してたよね。小札さんに』
 ペットショップと南口を挟んで向かい側。全国チェーンの有名なコーヒーショップの中で囁いたのはブレイクとリバース。
道路側はガラス張りで、レジを除けば先ほどまで無銘たちのいた場所に一番近い場所だから、自然南口の外もよく見える。
『というか元お弟子さんだよね? 向こうからも見えるよ? 顔見られたらマズくないかな?』

 コーヒーに七味唐辛子を入れながらリバース(別に吐いた訳ではない)。
 白魚のような手は当たり前のようにそれをしているが、偶然目撃したウェイターはちょっと泣きそうな顔をした。
 リバース=イングラム。大の辛党である。
「いやいや、教えて頂いてた時は整形前でしたからね。ホムンクルスになられてからも一度お会いしましたが、レティクル加
入はその後っす。たぶんお師匠さんは知らないかと。俺っち命野輪(みことの・りん)が光っちの師匠ブレイクとはまさかまったく
夢にも思わぬはず。だいたい整形しておりやすからね。いまの俺っちを見てもかつての弟子とは気付かないでしょ」
『成程』
 無銘にしても似たような物だ。小札と絶えず一緒にいる彼だから、『ホムンクルスになられてからも一度お会い』したブレイク
は見ている。ただそれは整形前の姿……。総角もまた然り。
 要するに。
『要するに光ちゃんに見られたらマズいのよね』
「そっすね。俺っちたち2人見てレティクルの幹部と気付けるのは、直接接した光っちのみす。整形後の俺っちに教えを乞い、
青っちの義妹として当たり前にずっと顔を見てきた……光っちだけす」
 動きがあった。小札が手招きすると無銘が矢のように飛び出した。しばらくふたりは話していたが急にイヌ少年は気色ばみ
ばたばた手を振った。しかし小札はそれまで眼前にブラさげていた巾着袋──何かの着物の切れ端から作ったらしい。太陽の
下でザラザラ反射をしていた──を半ば強引に押し付け駆け去っていく。
 あっと手を伸ばした無銘。足元から象牙色の煙を立て爆走する小札。もともと小さな体はあっという間に彼方で豆粒だ。
無銘は未練がましく視線を吸いつけていたがやおらデパートめがけ首をねじ向け再び小札の去った虚空を見る。逡巡。
二・三度おなじ所業をしていたが苦悶の形相で南口に駆け寄っていく。



「……なにか、あったのですか」
「休暇だ!」
 儚げに佇む少女の前で無銘は叫ぶ。音波の鞭でセメントの角をそぎ落とすような鋭い声だった。
「…………話が、みえないの……ですが」
 眉を顰める鐶。困惑が見て取れた。もともと演劇に関わるコトじたい彼女の中では休暇扱いだ。音楽隊は戦うために流浪
している。それこそいまカフェでやりとりを聞いてるブレイクたちレティクルエレメンツと戦うために。
「じゃあそのだ、慰労、慰労だ!!」
「小札さんは……なに……言ったのですか?」
 無銘ときたら何かヘンだ。いや元々鐶に「言論遅滞」だの「滅びを招くその刃だの」おかしな號を勝手につけては「どうだカッコ
いいだろう」と喜ぶヘンな奴だが(世間では中二病というらしい。困りながらも鐶は笑って見守っている)、今日は別のベクトルで
おかしい。言い淀みなど不遜な無銘らしからぬ行為だ。小札を持ち出したのは、もっと源流の言葉を聞いた方が早いという
合理的な判断だが、それが却って無銘を追い詰めた。
「…………飯を食い、適当に遊び映画など見る」
「はい?」
「だから飯を食い、適当に遊び映画など見るのだ! 貴様と我が!!」
 いよいよ赤黒い顔を誤魔化すように鐶の腕を引っつかみ、無銘はデパート内部めがけズンズカズンと歩き出した。
 連れ去られる鐶。瞳は白黒していたが分かったのは義姉ぐらいだ。


 小札は、言った。


「お仕事お疲れ様であります無銘くん!! ところでお見受けしたところ終了しだいすぐさま直帰直行なされるご様子。
いえ、無論忍びとしてはそれもご立派だと思いまする。しかしながら無銘くん、せっかくデパートに行きながら何も飲まず
召し上がらず帰られるのは深夜錦を着て故郷を歩かれるようなもの、まして鐶副長どのは御年8歳、肉体年齢は周知の
とおり12歳であらせられますが実年齢に限ってはまだまだ幼き方なのです。休日ご家族と斯様な場所にてお食事し、
遊ばれキッズ映画の一本など鑑賞なされる権利は当然にありまする」

「お仕事が終わったからとブラブラするのは性に合わぬと無銘くんは言われるでしょう」

「でしたらこう考えられてはいかがでしょーか? 公務、かねてより戦闘続き、つい先日まで投獄され、長旅終えてやっと
銀成にたどり着かれました鐶副長。お疲れかと存じます。ゆえに無銘くんは慰労なされるのです。無銘くんなれば鐶副長
も喜ばれるコト請け合い!」

「しかし無銘くんにおかれましては先日鐶副長どのに靴を買われたため懐具合、大変さびしゅうかと存知ます」

「ゆえにこれをお使いくださいとババーン差し出しまするはヘソクリっ!!」

「遠慮ご無用!! お金とは使うべきときに使うもの!! さあ、さあさあっ! 今がその時でありまするお覚悟をーーーーっ!」



「にひひ。むかしと比べ随分押しが強くなりやしたねえ。お師匠。母は何とやらでしょうか」
『?? むかしの小札さんっておとなしかったの? いまはその、”ああ”だけど』
 ブレイクとリバースは調整体である。但しDr.バタフライの作った粗雑なものではなく、基盤になった複数の動植物の精神を
統御できる『100年前失われた』高度な調整体である。肉体面・精神面は他のホムンクルスを大きく凌ぎ、ガラス越しの会話
を聞けるほど感覚も鋭い。小札の言葉が分かったのはそのせいだ。
「へえ。気弱少女でした。そのうえ巫女した」
『巫女!?』
 時々「でした」の「で」を抜いて喋るブレイクだ。巫女のくだりは何だか日本語を無視していて、それこそ渦中の小札から話芸を
習ったとは思いがたいリバースだが、調理師の作法とパティシエの礼儀は必ずしも一致する必要は無い。文法と、人を楽しませる
語りの技術が相容れるとは思えないし、そもそもそんな細かいコトより巫女の方が気になった。
『巫女……あんな騒がしいのに巫女…………』
 ここにクライマックスが居れば、真赤な袴萌えと騒ぐだろうが、あいにくあまりディープなオタク知識のないリバースは、ただ一般的
な、『神事を行い穢れを祓う』、神韻縹渺たる職業としての巫女と今の小札を突きあわせた。戸惑ったのは乖離ゆえだ。
「ですから」とブレイクはゆっくり立ち上がり、伝票を手に取った。
「巫女だったころは大人しかったす。いつも一世さん……お兄さんすね。アオフシュテーエンさんの後ろに隠れて震えておりやした。
俺っちに話芸仕込むよう言われたのも人見知り治すためす。最後のほうはそれなりに打ち解けやしたがね」



「さて、と」


 会計を終えたブレイクたちはデパートの配電室に居た。楽な道中ではなかったらしい。警備員が2人、彼らの足元に転がって
いる。年のころはバラバラだ。腹が出ているのは帽子の上からでも分かるほど髪の白い中年男性。決して背が低くない相方よ
り頭ひとつ高いのは肌のハリからしてまだ10代の少年だった。どうやらバイトらしい。共に胸は膨らんだりしぼんだりで、息は
あるようだ。外傷も無い。……しゃがみこみ、ツインの頬杖をついていたリバースはヒマらしく、彼らを指でつついたり頬をつ
まんだりし始めた。なんてコトのない作業だが楽しそうだ。童女のような笑みが広がった。

「武装錬金」

 配電盤の前でブレイクはハルバートを発現する。付近にいくつか防犯カメラがあるが電源はとっくに落としている。映像は
残らない。あとは警備員2人を起こし記憶を消すだけだ。

『……初めて聞いたよブレイク君。バキバキドルバッキーの『真の特性』』
「にひひ。隠しててすいやせんねえ。でもコレいうのは青っちだけすから」
『むー』
「お、照れてやすかひょっとして」
『知らない』
 プイと顔を背けたリバースはちょっと不機嫌そうだ。『文字が必要っていったからコンビ組んだのに、ウソだなんて』。何やら
騙詐的な交流が両者の間にあったらしい。
『組みたいなら組みたいって素直に言えばいいじゃない。ブレイク君の馬鹿。騙すなんて最低』
「お、言えば組ませてくれたんで?」
『……別にそこまで拒む理由ないもん。盟主様が必要っていったり、戦略上必要なら、そーするし』
「とか何とか言ってー。本当は俺っちと組みたいんでしょ?」
『のーこめんと』
「照れ屋さんな青っちも可愛いっすねー」

 もう少女は何も言わない。ブレイクに背を向けたまま若い警備員の首の、産毛をむしり始めた。
「てかまたマニアックなコトしてますねー」
『産毛ならむしっても平気だもん。髪抜いて生えなくなったら可哀想だし』
 器用にもその産毛で文字を書き答えるリバース。怒りながらも無視はしない。耳たぶだけがほんのり赤い。
 ブレイクはソレをにへらと眺めながら、ちょっとだけ笑みを止める。
(可哀想、すか。髪絶滅するのが天国な位の地獄いろんなトコに振りまいておいて)
 可憐で大人しげで、倫理観を持ち合わせている少女なのに、その振り分けはつくづく歪である。いわゆるリア充、青春を
謳歌している人間は平気で『意志を伝え』、破壊するのに、一方で孤児院を作り恵まれない子供たちのため身を粉にして
働いている。銀成市に来たのだって表向きは養護施設との意見交換だ。
(ま、壊れてるからこそいいんすけどねー)
 ひょっとしたら一番壊れているのは自分かも知れない。愛と我が名を唱えながら天空のケロタキスは槍を振り──…

 6階建ての銀成デパート。平日だが駅前とあれば客入りはそれなりに多い。

 このとき館内にいた客739名(無銘・鐶・まひろ・沙織含む)と従業員245名(配電室の警備員2名除く)事務員27名と人
型ホムンクルス調整体3体(ただしブレイク・リバース除く)の合計1014名の頭を稲妻が貫きそして消えた。彼らは結局気
付かなかったが、手近な、蛍光灯やエアコンといった電化製品から迸った無色透明の雷は、迷うことなく全員の頭蓋に直撃
した。

 針金のように長い背丈ほどあるハルバートを軽々と回しながらブレイクは笑う。

「俺っちの武装錬金の特性。それは禁止能力」
『……どうだか』
 リバースはまだ拗ねている。
「例えば早坂秋水さんや津村斗貴子さん、それに六っち。俺っちに遭遇した訳ですが、いまは『思い出すのを』禁止しておりや
す。かの養護施設で遭遇したキャプテンブラボーさんも同じくす。完全防備のシルバースキンこそ装着しておりやしたが、それ
でもバキバキドルバッキーを防げぬ理由がありやしてね」
 リバースも禁止能力については知っている。というよりかつて見た。化け物渦巻くライブ会場。128名の観客が逃げるコトも
できず全滅した事件。しかし小さな会場の出入り口は一切封鎖されていなかった。だがリバースは見た。逃げ惑う観客たちが
出口に着くや突然、扉の前でウロウロしだし、『開けられない』のを。……逃げるのを禁止したとブレイクは語る。彼を散々利用
しながら裏切った女社長は、その惨殺事件の後始末を不眠不休でやらされた。……眠るのも休むのも諦めるのも自殺するのも
禁止したとブレイクは語る。
 仲間内では禁止能力の使い手として大いに警戒されつつ重宝されるブレイク=ハルベルト。
 武装錬金から放たれる光を浴びたものは、ブレイクの命令どおり、あらゆる行動を禁止される。
 狙撃。特攻。殴打。逃走。沈黙。痛罵。呼吸はおろか心臓の鼓動さえ禁止できるある意味最強の能力。

 しかし今日リバースは聞いた。

 禁止能力を超える真の特性を。

 平素、年上ながらも手のかかる弟のように可愛く思っているブレイクに、リバースは時々おぞましさを感じる。
 必中必殺の能力を誇るリバースが。音波と固有振動数と怨嗟で人の体をじわじわ崩壊させるリバースが。
 ひとたび激昂すれば相手を徹底的に壊し、伝え、愛するリバースが。


 おぞましいと思った、真の特性。


 それはいま1000名を超える人間を蝕んだ。


 消え行くハルバートを一瞬荘厳な光が包み粒が散った。

「さすが骨したが、やれねえコトはねえす。ま、リヴォっちには劣りますがね」

 ニシシと笑うブレイクを背後に聞きながらリバースは立ち上がる。整った臀部をパンパンと弾きながら考える。

(バキバキドルバッキー。ブレイク君の武装錬金。真の特性がおぞましいのはブレイク君だからこそね)


 総角主税。数多くの武装錬金をコピーできる例外的な存在──義妹にとっては上司。このデパートで何か菓子折りでも
買わなきゃと、どこかズレた礼儀を描きつつ──に対して思う。


(たぶん貴方じゃ使いこなせない。真の特性どころか禁止能力さえ)


 武装錬金は精神から発現する。いうなれば移し身だ。創造主そのものだ。だからこそ、使い手のポテンシャルを最大限に
活かす。リバースの『マシーン』が数多くの悲劇を撒いているのもまた、ポテンシャルゆえだ。『意志を伝えたい』『声は嫌い』
『声に傷つけられるべき』。厖大な憤怒を抱えながら、伝達、声というものがどれほど得を生まないか思い知らせたいリバー
スの武装錬金は、難消火性の低温炎だ。ひとたび燃え広がればじわじわと相手をいたぶる。すぐ死なず、すぐ燃え尽きない
からこそ周りの人間が生き地獄を味わう。それを存分に理解しているからこそ、ただ効果的なタイミングでガスコックを閉め
るだけだ。たったそれだけの観察と行為で最大限の悲劇を生める。人間的な業の成せるわざだ。

(ブレイク君は、自分の知識や生き方を最大限に活かしている。ちゃんとした、人間社会で通用する努力や積み重ねに裏打
ちされているからこそ……『真の特性』も禁止能力も…………破られない。総角主税さんもコピれない)


「『把握完了』。じゃ、これで無銘くんと光っちのデート円滑にしますか」


 最強といえる能力でやるのがそれなのだ。溜息が漏れた。
(本当、人間なんかもうどうでもいいのね…………。いつでも好きなようにできる、と)
 一方で尊敬もしている。恨みが、思わぬところで爆発するリバースなのだ。高いところで飄々としている彼を……愛している。


 ブレイクにつられて歩き出す。「ついでにデートしやしょう」、申し出はみぞおちへの肘鉄で答えた。それが日常だった。


「……つっ。今のはアレやな。ブレイクの禁止能力」
「ああ面倒くさい。デッドが、こんなところ来ようっていうから……」
「うっさいわボケぇ。まだ『待機状態』、ブレイクの言葉聞かん限り禁止されたりせえへん」
 だいたい蜂起前やから荒事は起さん、そう断言するのはショッキングピンクしたキャミソールの少女。金髪でツインテール。
前髪に銀のシャギーが入ったいかにも派手な姿である。目は黄色のティアドロップのサングラスで隠れているが鼻筋と口
元は整っており、あたかもお忍びでやってきたアイドルのようだ。つまりそれだけ可愛らしさの期待できるいでたちだ。
 ……ただ、手足からときどきキィキィと、微細だが、なにか金属のこすれるような音がした。しきりに肩や下腹部を気にする
のも特徴的だった。
「というかまだ買い物するのー? もうボクやだ。さっきさんざん商店街めぐったしいいでしょ〜」
 気だるげな声をめいっぱい間延びさせ疲労を訴えるのは真白な少年。無彩の眩い光輝の化身かと思えるほど皓い。色彩
といえばベビーブルーが淡く滲んだ銀髪と、シグナルレッドの電子を爛々と帯びる瞳と、艶かしく湿るカーマインの唇ぐらいだ。
あとは総て白い。だぶついた上下の長袖さえウルトラホワイト。だらしなく着崩れた上着から覗く鎖骨の陰影さえ白かった。ど
こか人ならざる雰囲気があり道行く人は見蕩れかけてもそれが罪悪のように思えて視線を逸らし素知らぬふりだ。
 実際かれは人を超えていた。生まれは300年先。800年周期の時空改竄を何百何千と繰り返してきた神の年齢だ。



 デパート1階の中央部には駅前商店街がそのままある。幅10mほどあるゆったりした通りの両側にインテリアショップや
古美術商、本屋に服屋にCD屋さん。総て個人経営。大手デパートと地元産業が共存しているのは全国でも珍しい。事実
最近、ここは貴重なモデルケースとしてとみに注目を帯びている。
 銀成市初の名誉市民は2代目市長だった。杉本某氏という、どこか防人衛に似た名市長は、戦後荒廃する故郷を立て
直すため数々の手を打った。
 銀成市南部のサツマイモ畑が広がる平野に大きな幹線道路を造り交通の便を良くしたのもその一環であり。
引退間際の最後の一策こそこのデパートと商店街の……共存。
 全国チェーンのデパートでありながら地元産業に密着した収益形態は平成不況の冷風を凌ぐ傘としていまも銀成市を守
っているのだ。

 デパート内の商店街は吹き抜けになっており、少し首をあげれば6階まで一望できる。さらにその上には丸いドーム状の
天井が広がっていた。半透明で、天気のいい日は日光が仄かに注ぐ。蔦のように天蓋へ絡みつく無数の支柱は水色で、
明るさと爽やかさを一層際立たせている。

 1階の、通路の中央にはぽつり、ぽつりと木製の長椅子や観葉植物が置かれているが……。

 灰色の雑踏すりぬけ歩く無銘の顔は浮かない。

 肩に三国志の武将みたいな飾りをつける鳩尾無銘は忍びだし物言いもどこか時代がかっているから、現代社会に取り残
される古いタイプと思われがちだ。実際好みは古いもの──信楽焼きのタヌキや忍者刀の錆びた鍔など──で、最先端の
情報端末にとっぷり浸かるのは好まない。とはいえまったく社会情勢に疎い訳ではなく耳は早いほうだ。忍びとは情勢を
いちはやく掴み自分ないしは依頼主を利する存在。で、あるかしてら現代の、一般的な少年少女の慣習は基礎知識として
一通り知っている。(チワワ時代、人間形態になれたらすぐ潜入活動できるよう自ら叩き込んだ)。

 デート。心相通ずる男女が同行し飲食や買い物や娯楽を嗜む行為。

 小札に命じられた鐶の『慰労』はまったくそれに該当する。
 するが、意識するとマズい。忍びほど倫理と任務の間で苦悩する職業は無い。心を殺し問いかける。

「……で、貴様の行きたい場所は?」
 とにかく「ただ食事し」「ただどこかに寄る」。それだけ意識する。任務なのだ。小札から帯びた。私情はない、ない筈だ。
少年忍者の苦悩は濃い。

 さて、彼が懊悩する間、鐶は無表情ながらに大変うずうずしていた。口をのたくったミミズのような形にして期待いっぱい
に前往く無銘を見ていた。意外に太く浅黒い首筋にドキドキしていた。最近人間形態になったばかりなのに、もうタコや潰れ
たマメに堅く引き締まる拳の感触を、彼らしいひたむきな努力の痕を、掴まれている、自分の、細い左腕から目いっぱい感じ
ていた。

 そしたら無銘が急に振り返ってきた。行きたい場所を問われた。

 急なコトでどう答えていいかわからず、テンパった。

「わわわわし、無銘くんのおいでる所ならドコでもかまんぞなもし!」 (おいでる → 行かれる  かまんぞな → 構わないです)
 目を、やや垂れ気味の三本線に細め右手をブンブン振る。普段とはかけ離れたアクティブでコミカルな仕草だった。拳が
落書きのような丸と化し、腕ときたら線画の残影だ。顔は赤い。あと体の投身が戯画的にやや縮みしかもクネクネしている。
「ほうよ! わし、ついにおおれるならええんよー!!」 (ついに → 一緒に  おおれる → 居られる)
 声も闊達。元気一杯、弾みに弾んでいる。

 鐶光は伊予の出身である。
 厳密に言えば母親が、わざわざ郷里に里帰りして出産した。(育ちは義姉と同じ地域)。ただ快く思わないリバースが『躾け
た』ため、普段は標準語を用いている。翻訳には手間取るらしい。途切れ途切れのボソボソ喋りなのはそのせいだ。
 なので起きぬけや混乱時はつい未翻訳のままとなる。簡単に言えば”地”が出る。
「……おい」
「はっ!」
 半眼の無銘にやっと混線具合に気付いた鐶、
「なななななんちゃない!!(何でもない!)」

 バっと5m駆けそして隠れた。『銀成市で3番目に旨いコーヒー』そんな看板──高さ1mあるかどうかどうかの──の影に。
しゃがんだのだろう。横から、ちょろりチョロリと顔を覗かすのは、例えば子犬ならかわいい仕草だが、目がまったく虚ろな
ため心霊写真かというぐらい怖かった。「うおおっ!?」。現に道行く人の何人かなどは霊障を見たと真剣に勘違いし慄いて
いる。主婦はネギの飛び出た白いビニール袋を取り落とし、若いカップルは揃って硬直。アイスを口につけたままアカホエ
ザルより真赤な顔で泣くのは小さな男の子。驚きすっ転ぶ男子高校生は逆に幸運だった。鐶が、肉ある少女と気づけるの
だから。
(遁げた者たぶん信じ続けるぞ。怨霊見たと……)
 瞳が年相応に大きくパチクリしているから却って負の無限力に満ちている。ビタリと止まり看板のヘリに手を掛けじつと凝
視してくる鐶。照れ隠しか半笑いになった。ガチガチに強張ってるせいか正気に見えず、だから無銘は総毛立つ。
「怖い。本当怖い。戻ってこい周りに迷惑。あと貴様が行きたい場所を言え」
 鐶はゆらり伸びあがって(緩慢ながら残像が出るほど滑らかだった。それが強さの証なのだが無銘に言わせればキモかった)
トテトテ駆けより手を伸ばす。
「んっ……です」
 無銘に何かを渡しUターン。元の看板の影に。今度は仄かに赤い顔で無銘を眺めている。それで可愛くなればいいのだが、
今度は瞳孔がキュウっと開いたのでますます怖い。イッちゃってる覗き魔のようなカオだった。「いい加減帰ってくれないかなぁ
このコ……」。ボヤくコーヒーショップの店主に心底何遍も謝りながら拳を見る無銘。渡されたのは紙片であるに4つ
折りされたそれを広げる。デパートの見取り図が現れた。
 先生が答案用紙に振るような赤い丸で囲まれていたその店は……やはりというか何というか。
「ドーナツだな。ドーナツのお店でいいんだな」
「ん゛っ! ん゛っ!」。無表情が2度強く頷いた。真赤な三つ編みが元気よく跳ねた。

 鐶の示したドーナツのお店は平日でも行列ができるほどの有名処だが、運良くふたりは並ぶことなく買い物ができた。



「お客さん。何がよろしいですか?」
「プレーンシュガーで」



 3階。憩いの広場。合成樹脂製のマットが敷き詰められた空間は、未就学児童たちの天国だ。買い物に疲れた主婦たち
が我が子を放流し一息つく空間。「実家のサツマイモ畑に変な全身フードがうろついていた」だの「最近できた病院にはとん
でもない名医がいる」だの「ありふれた日々の素晴らしさに気付くまでに2人はただいたずらに時を重ねて過ごしたね」とか、
他愛もない会話が飛び交っている。

 そこからちょっと離れたところに丸テーブル×1と椅子×3のセットが5つほどある。若者たちが歓談する席もある。サラリー
マン風の男が座りノートPCを広げると、きょうび珍しく気遣ったのか、若人たちは声のトーンを落とした。それよりさらに小さな
声を漏らしたのは鐶だ。

「さすが……おいひい……でふ…………」
 先ほど買ったドーナツをもぐもぐ食べている。チョコに色とりどりの粒がまぶされたオシャレな奴だ。どうもプレーンシュガー
だけでないらしい。訝る無銘に「うふふ……。ドーナツなだけにプレーンシュガーです。プレーンシュガー……プレーンシュガー。
うふふ……ドーナツなだけに…………」などと意味不明な供述をしておりイヌのお巡りさんは追求を諦めた。
「といふか…………無銘くん…………どうしふぇ……コーヒーでふか…………?」
 いつもは飲まないのに。問いかけに苦い顔をしたのは味のせいではない。
(貴様が!! 看板に隠れたせい! だろうが!!)
 わずかな時間とはいえ客足は確かに減少した。悪霊に憑かれていると勘違いした人が何人か、舳先を曲げ去っていくのを
無銘は確かに見た。その分の売り上げぐらいテイクアウトで補填せねば気が済まぬ無銘なのだ。
(しかし味わってみればこのコーシーとかいう奴。……おいしいな。コーシーは普段飲まぬが旨いぞ。うむ)
 無銘は犬型である。一般流通のミルクを飲むとお腹が壊れる。でも山羊ミルクなら平気だ。件の店に取り扱いの有無を
聞いたところ、あっさりと出てきた。無銘は輝きを感じた。たとえるなら翡翠の朱と碧だ。店主の「俺通だろ!」みたいなサム
ズアップに少なからず友情を感じた無銘だ。
(とにかくいいな。大人だ。大人の味がするぞコーシー。匂いがつくゆえ敬遠していたがコーシーはスゴイ。山羊ミルクもいい。
力がみなぎる。フハハ。今の我は魔犬よ。ブルドーザーぐらいの魔犬よ!)

「あの…………無銘くん?」
「おっとあやうくオッドアイになるところだった。クク。危ない危ない」
「はい!?」
「ククク……。古人に云う。我が名はヒスイ…………。変貌の歴史より乖離せしただ1頭の! 魔犬!」
「む、無銘くんがようたんぼーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」(ようたんぼ → 酔っ払い)
 なんだか地鳴りを秘めているようなタダならぬ様子に声をかけた鐶だが、却って訳の分らぬことを言われ混乱した。
「古人に云う。疲労回復にはミルク入りのコーヒーがいい。本来カフェインは交感神経を刺激し、興奮作用をもたらすが、少
量の摂取ならば排泄反射を促し、副交感神経が優位になり、リラックスする! ミルクを入れた場合、脂肪がその時間を延長
する!!」
「落ちついとらんよ無銘くん! ああああとコーシーちゃーう! コーヒーぞなコーヒー!!」
 モズが溺れたようなギシギシ声をあげ。鐶は目を真白にしながら立ち上がった。椅子が倒れ派手な音を立てた。若人や
サラリーマンが何事かと目を向けた。
「フヒャヒャアヘハハハ見える見える前世が見えるー! 一人称我輩のウッソつきがー!! 我を大変強くしたー!!!」
 無銘は出来上がっているらしい。瞳をグルグルしながら意味不明なコトを抜かしている。
 初めて飲んだおいしいコーヒーに興奮しているらしい。
 鐶は説得を諦めた。自然回復を待つか総角か小札を呼ぶぐらいしか手は無い。とりあえずイチゴチョコのドーナツを食べる。
「むぐむぐ……むぐむぐ……」
「フフフ。ハーッハッハ!!」
 変な食卓だった。

 警備室。

「とりあえず普段混雑するお店に誰も行かないようしてみやした」
『みやした……って。簡単に言うけど普通できないよね?』
”してしまう”のがブレイクだ。リバースはいくつかあるモニターの中で、本来いないはずの朋輩2人が歩いているのを認める。
きっと異変に気付いているであろう彼らに、ブレイクは、『禁止能力の一環です』とだけ言って誤魔化すのだろう。

 外でバタバタと足音がした。続いて乱暴に開くドア。濃紺の服をきた一団は警備員ズで、先頭が、ブレイクとリバースを見て
あっと息を呑んだ。「何者だ君たち」とか「どうしてここに」とか月並みな声を漏らす彼らにリバースはただ微笑を向けた。

 ブレイクだけが少し大儀そうに立ち上がり……。


 稲光とともに具現するハルベルトを、躊躇なく、彼らに向かって振りおろした。





「……?」
 鐶は瞬きをして天井を見る。デパートは中央通りを境に西ブロックと東ブロックに別れている。こちらは細い通路の両側に
全国チェーンの薬局や和菓子屋が居並ぶありふれた内装だ。ショーケースの中でマネキンが服を着ている。

 白い床に白い天井。明るく清潔感のある照明がどこまでも降り注いでいる。

 ……。

 何かが、おかしい。

 景色に名状しがたい違和感を覚えた鐶が天井の電球の1つと睨み合いをしていると、引きずっていた無銘がやっと目を
覚ました。彼は、足首を掴まれゴミのように引き摺られる待遇に一瞬泣きそうな顔をしたが何事もなかったように戒めを解
き立ち上がる。何事もなかったコトにするため黙々と歩き出す。遅れまいと歩調を上げる鐶の頭上を電球が通り過ぎる。首
を捻じ曲げながら尚も凝視した電球。外観上は特筆すべき異常はない。

 ただ光が、ごく僅か、本当にごく僅かだけ紫がかって見えた。

 青みがかった紫。

 鐶の知る照明の色と微妙に食い違う色。

 ……虚ろな瞳に茫洋と浮かぶ電球型の蛍光灯。

 何かが、おかしい。

 微かにフラッシュバックした光景は総角。かつて在った霧の中の対峙。微細なる違和感のカテゴライズ。


 鳥の視覚は4原色の入り混じりだ。人間より1つ多い。光の波長を”より正確に”捉える。


 歩みを止めそっと蛍光灯に手を伸ばし──…
「あ! ひかるんだ!!」
 思わぬ声に硬直する。
「むっむーもいるよ。ナニナニひょっとしてデート!?」
 腕を上げたままようやく首だけを声に向ける。
 居たのは少女ふたり。
 髪が栗色で背中まで伸びているのは武藤まひろ。
 思わぬ遭遇が嬉しいのか駆けてくる。髪やスカートや、鐶に余裕勝ちしている身体部分を揺らして。元気いっぱいに。
 その後ろで、パーを口元に当てやや下世話な赤面笑いを浮かべているのは河井沙織。
 やや黄味のかかった髪を両端で結んでいる。
 ……鐶が一時期姿を借りていた少女だ。厳密に言えば監禁した挙句、何食わぬカオで成りすましていた。普通に考えれば
おぞましい行為。貴信同様、後ろめたさを感じている。スローペースな鐶にしては珍しく慌てて居住まいを正し向き直った。

 制服姿の2人を見た瞬間、照明に感じた違和感が褪せた。それでもまだどこかに引っかかっていた。
 よく調べれば、鋭い鐶は、仮説程度の疑念は抱けたのだ。
『なぜ日ごろ混雑している人気のドーナツショップが今日に限って空いていたのか』。
 一見ただの幸運に見える出来事の裏に何が潜んでいるか……少しだけ、考えられたのだ。

「あら光ちゃん。……と無銘君にまひろちゃんに沙織ちゃん」

 後ろから来たのは早坂桜花。恐るべきタイミングの良さで、だから青紫の光は意識から消し飛ぶ。




『2人きりのデートなのに他の人呼んじゃうの?』
「乱数調整す。まーまー見ていて下せえや。楽しいデートを演出いたしやす」




「おめでとうございまーす!! 1等の超高級ビーフジャーキー1年分です!!」
 ハンドベルの輝かしい音の中、鐶はコロコロ転がる黄色い玉を眺めていた。
「よくやった鐶お前よくやった!! 偉いぞスゴいぞ神だぞ貴様イズゴッド!! 貴様イズゴッドだ!!」
 肩が痛いのは後ろの無銘はバンバンと叩いてくるからだ。何も言わないうちからこの少年はご相伴に預かれると思って
いるらしい。やや図々しい反応にしかし鐶は苦笑いしつつ「あげます……から、ね」。振り返って約束する。
「あー。もっと後ろに並べば良かったねまっぴー」
「でもさーちゃん缶詰もらえたよ缶詰!!」
 後でちーちんやびっきーと食べよう。4等にも関わらずまひろは幸せそうだ。

 合流後しばらく歩いた一行は福引抽選所に遭遇した。館内総ての店舗の買い物レシート3000円分につき1回引ける
という。(引くというが実際は八角形の筺体を、2度直角に曲がった真鍮製の取っ手で回す。いわゆる”ガラガラ”だった)
 レシートなら幾らでも持っている鐶だ。何しろ買出しに来ている。3回は引けるだろう、そう目算をつけたがしかし買出し
は部費で行ったものだ。いわばガラガラの抽選券を学校の公費で買ったようなもの……。無銘とほぼ同時に気付いた鐶
は「いいのかなあ」という顔をした。

「大丈夫大丈夫。私が話をつけておくから」

 茶目っ気たっぷりに笑ったのは生徒会長。桜花だ。もし学校全体で使えそうな物が出たら、還元というコトでみんなの物に。
あまり高くない、ハズレな物品が出たら、それはもう買出しのお駄賃として貰っておく。……まったく清濁併せ呑む見事な大岡
捌きにまひろと沙織は色めきたった。「流石だ」「頼りになる!」。

 とはいえ、かつて銀成学園を襲撃し、校庭にいた生徒や剣道部、先生たちを悉く胎児にした鐶だ。それが学校のお金で
役得を得るのはやはり悪い気がした。無銘もそういう所には厳しい。

 とりあえず買出しのレシートは桜花に預けた。

 まひろや沙織は流石地元民というか、この日に合わせて沢山のお菓子と僅かな学用品をまとめ買いしていた。デパート
に来たのはそのせいだという。

 鐶は先ほど買ったドーナツの、無銘は同じくコーヒーのレシートで。

 ジャンケンの結果、桜花、沙織、まひろ、鐶、無銘の順番でガラガラを引いた。

「……」

 桜花の手にはティッシュが3個。狡いコトを目論んだ罰であろう。

「えー……。何に使えばいいのコレ」

 泣き笑う沙織。当てたのは般若の面。江戸時代中期の名工が創り上げた逸品で特賞だった。

「やた! おやつが増えたよ!!」

 喜色満面のまひろが高々と掲げるのは前述通り4等のフルーツ缶。

 で、鐶は超高級ビーフージャーキー1年分(販売価格365万円。懸賞の法律的にどうなのだコレは)を当てたが、表情は
どこか浮かない。

「どしたのひかるん。1等だよ1等。もっと喜ばなきゃ」
 声をかけてきたのは沙織だ。鐶は答える代わり、彼女の所有物をじつと眺めた。
「そりゃ特等だけど……特等だけど」
 沙織はベソをかいた。般若が腕の中で爛々と目を光らせている。
「こんなの喜ぶ人いないよ絶対」
「いいなあソレ!! 欲しい!」
「居たーーーーーーー!?」
 思わぬ声に振り返る。無銘がハッハと息せききって眺めている。
「それは幕末の御庭番衆も愛用した由緒ある逸品なのだ!!」
「……忍者が愛用品知られちゃおしまいじゃない?」
 能力知られそうだし。きわめて現実的な意見を述べる桜花の顔色は悪い。
(生徒会長なのに……3回も引いたのに…………なんで私だけ外れなの…………)
 ちなみに桜花、この日が福引初体験である。まがりなりにもテストや会長選挙といった学内競争は元よりL・X・Eでの生存
競争を勝ち抜いてきた自負がある。福引だろうと勝てる、そんなやや大人気ない、しかし年相応の少女らしい自信を以て
臨んだのだが、見事に打ち砕かれた。
「あの……大丈夫……ですか?」
 ええちょっとヘコんでいるだけ。鐶に軽く答えると桜花は微笑む。気落ちなど無かったような美しい笑顔に鐶はお姉ちゃん
分が補充されるのを感じ──…



 ガリッ


 カメラ越しに、警備室で、その表情を見たリバース。周囲で嫌な音がした。








「本当はアレ欲しかったんでしょ、アレ」
 桜花の指差す先を見てうなずく鐶。2等はバラエティ豊かだった。高級腕時計もあれば化粧品の詰め合わせもある。加湿
器にコーヒーメーカーに銀の装丁が施された食器たち……その中に紛れてプラモのセットがあった。箱にはいかにもヒーロー
チックなロボが描かれている。カラーリングも形状もまちまちなそれが20個。鐶曰く同じシリーズのロボットらしい。定価で買えば
約12万円かかるとも。
 鐶はひとつひとつ名前を挙げてどういう機体か説明したが桜花は半分も分からなかった。女性なのだ。ロボットには疎い。
 とにかくだ。
 鐶は目当てを外した。後ろには無銘がいる。
 これで盛り上がらずにいられないのがまひろと沙織だ。
「頑張ってむっむー!!」
「ひかるんにいいトコ見せるチャンスだよ!!」
 無銘は何か言いたげにグッと唇を尖らせたが、「反論すればますますつけ上がる」とばかり顔を引き締め一歩踏み出す。
「まあいい」
 鐶の頭を軽く撫で、通り過ぎる。
「ちょうど気に食わなかったところだ。タダでビーフージャーキー得るのは施されてるようでつまらん」
 レシートが係員の眼前に滑り込む。少年は腕まくりしガラガラに臨む。
「それにフハハ!! 今日の我はコーシーのせいか負ける気がせん!」
「むっむーが燃えている!」
「その意気だよ頑張って!!」
「クク、2等など軽く当ててくれるわ!!!!!」
 腕まくりして取っ手を掴む。やがて波打ち際のような音立て廻る八卦の函。
 沙織、まひろ、桜花、そして鐶が固唾を呑んで見守るなか飛び出た玉のその色は──…







 無銘は正座した。正座したまま成果の前でうなだれる。
 沈黙して5分が経った。空気は重かった。紫に着色されてもいた。黒い戯画的太陽がいくつもピヨピヨと旋回した。


 ポケットティッシュの、周りで。


「お、落ち込まないでむっむー! ほ、ほら私のオレンジあげるから!」
「ゴメン……。悪いのは私たちだよ。ヘンに盛り上げたから」
「そ、そうよ。私なんか3回連続だし…………。むしろ普通よ普通」
 こんなところで運を使わないほうがいい。人生は長いのだ、いつか今の不運分の幸福が訪れる。
 などという慰めは届かない。ハズレはハズレ。厳然たるハズレ。
 無銘は何もしゃべらない。答える代わり膝を抱えた。洟をすする音がした。
「泣いてる……辛いんだねむっむー」
「あー。その、そこまで悲しまなくてもいいんじゃないかあ」
 沙織は顔を引き攣らせた。むしろ泣きたいのは自分だともいった。せっかく特等当てたのに来たのは般若だ。
「恥ずかしいのよ。いろいろ大口叩いたから」
 三者三様の反応を見せる女性陣。その鼓膜を「ぶふっ」という奇怪音が叩いた。
 出所をみる。口元を押さえた鐶がいた。ぷるぷると震え目の下の皮膚が充血している。
「ハズレ……。ハズレ……って……。普通ココで引きますか…………。面白い、です。お腹痛い、です。運なさすぎ……です」
 紫の空間が一転燃え盛るのを桜花たちは目撃した。吹き抜けし一陣の黒い颶風は少年忍者。殺到という言葉
はこの時編み出されたのではないかと思えるほど速く、鐶に詰め寄っていた。
「貴っ様あ!! 人の!! 人の不幸をっ!! 笑うなああああああああああああああああああ!!!」
「『それにフハハ今日の我はコーシーのせいか負ける気がせんクク2等など軽く当ててくれるわ』……でした……っけ?w」
「声真似もやめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
 怒号と悲涙を撒き散らしながら無銘は少女を揺する。顔はいろんな意味で真赤だった。
「ティッシュは2等でしたっけ……? ティッシュは2等でしたっけ……?」
 揺すられる中、壊れたカラクリ人形のように、無表情を、カタカタ上下させる鐶。どうやら爆笑しているらしい。
「うぜえ!! 鐶貴様、本当うぜえ!!!」
「1等の……1等の……ビーフジャーキー……食べます……?」
「1等強調するなあ!! 笑いながら聞くなあ!!」
 怒りの無銘だが鐶が何か喋るたびどんどんどんどん失速していく。それがおかしかったのだろう。とうとう桜花までもが
噴き出した。この場における年長者が堰を切ったのだ。もはや止める者はいない。沙織はクスクス笑い、まひろも微苦笑
した。


「二度と外さんからな!! 今度こういう大事な局面が来たら絶対当てるからな!!」
「はい……期待して……期待して……います」
「だから笑うなあ!!


 プラモは結局当たらなかったが、無銘たちと過ごす和やかなひとときは決して悪くなかった。
 虚ろな瞳をしながらも、鐶は、束の間の幸福を味わった。



 警備室。10数分前かけつけた警備員たちだが今はふらふらと去っていく。
 まったくの部外者2人にセキュリティ総てを掌握されたにも関わらず。

「乱数調整す。光っちの『枠』的にこの展開が一番おもしれえので並び順変えてみやした」
『5回』。鐶より先にそれだけ回せばこうなるのは分かっていた……そうブレイクは述べる。
「ま、買い出しのレシートは使わないでしょう。でも桜花っちがいれば、生徒会長権限と枠にかけて全部消化しやす。まひろっ
ちと沙織っちだけじゃきっと躊躇ったでしょうからね。このお三方を誘導させて頂きました」
 軽く言うが一体どうやったというのか。彼は警備室にいる。そこから一歩も動かぬまままひろたちを意のままにしたのだ。
 ガラガラの中身を知りえた理由も分からない。

 リバースは喋らない。もともと寡黙だが、お馴染みのスケッチブックでの『お喋り』さえしない。

 モニターの中で、桜花が、鐶に何か話しかけた。鐶は恋する乙女のようにはにかんだ。


 リバースはそれを、笑いながら、見た。


 黒く染まった白目の中で血膿ほど濁った虹彩を爛々と輝かせて。
 口は鉤状に裂けていた。手近な壁には無数の爪痕。低い声で呪詛を漏らしながらギリギリと引っ掻いている。


「おお怖」


 ブレイクは肩を竦めて苦笑した。「でも可愛い」、蕩けそうな声を付け足して




 桜花たちと別れた無銘と鐶はそのあとしばらくデパートをウロウロした。

 デート、である。鐶は浮かれていた。

(なう! いっつぁしょーたい!! 最高のシチュエーション!!)

 未来なんて見えない、だから目の前だけを見つめて突き進むだけさなのである。


 まず巨大ロボットがカイジュウと戦うハリウッドの映画を見た。

(おお……スパロボにはない…………大迫力……です)
(頑張れ忍者ロボ! 頑張るのだー!!)


 次に向かったのはブティックショップ。無銘は、柄にもなく鐶の服を一緒に選んだ。

「き、貴様はいつも羽毛だからな。実は服きとらん。服に見えるのは毛だ。体毛……なのだ」
「どうして……そこで……赤くなる……の……ですか?」
「黙れダマレエ!! とにかくいまは銀成の制服着てるが、この際だ、服着る習慣をつけろ!」
「……でも…………戦ったら……破れ……ます……。すっぽん……ぽん……です」
 七分袖やフレアスカートといった着衣、に見える羽毛はなかなか頑丈。激しい動きにも耐えうる強度だ。鐶は強い。速い。
並みの服はついていけずすぐ滅失……と思い当たった無銘、黙り込む。
「…………光を……乱反射して……ステルス迷彩……やったり…………、蓄えた毒……滲ませて…………触れるだけで
注入したり…………できます……」
 羽毛の方が何かと便利。鐶の主張に押し黙る。
「……」
「その沈黙は……裸になって参っちんぐ……が、いいなあの……沈黙……ですか? それとも、困るヤバイやっぱ羽毛のが
いいの……沈黙……ですか?」
「貴様!! そーいう問いかけされたら、まるで我が裸目当てで着衣すすめてるようではないか!!」
「真意はどうあれ……羽毛でも……服でも…………私の露出は……高い……です」
「うぐ」
「無銘くんの……えっち」
「違う!!」
「本当に?」
 鐶は一歩歩み出た。
「…………」
 無銘は後ずさった。
「本当に?」
 更に鐶が前進。いやそのと口中でモガモガ言いつつ無銘が立ち止まったのは、まさに不退転の覚悟、けして退かぬと言う
意思表示だが、しかし虚ろな少女はなお間合いを詰めてくる。後ろに向かって弓なりに曲げた背中が全身のバランスを崩す
までさほどの時間はかからなかった。背後へと数歩たたらを踏む。反射的に手を伸ばしたのは商品の、服の、ハンガーで、
それは敢え無く崩れ行く体勢の慣性に巻き込まれる。ジャっと指先をすっぽ抜け飛んだ服を鐶は冷然たる無表情で掴み
元の位置へ。同じコトを何度か繰り返すうちとうとう壁際に追い詰められる少年忍者。まるでカラクリ屋敷の回転扉でも
探すように両手を広げ適当な場所をバタバタ叩いてみるが無論虎口を脱するには至らない。鐶はあくまで無表情のまま
歩みを止め「で?」と聞いた。声に感情がこもらないのは元よりだが、かかる奇妙な威圧の中では一際に恐ろしいとみえ
とうとう無銘は観念した。ギリリと歯噛みし、目を落とし、
「…………興味が、な、無い訳はない。我とて男、本能はある」
 苦悩の表情で呟く少年。少女は大仰に両手を広げた。
「爆弾……発言ですね……。びっくり……です。恥ずかしいけれど…………無銘くんなら……おk……です」
「で!! でも服着てちゃんと隠して欲しいというのも本音だ!!」
「おkは……スルーですか……?」
 鐶はションボリした。せっかくのアプローチが無視されて悲しかった。よく分からないが傷つけたようで、だから無銘は
慌てた。
「しなかったらまた我を苛むだろうが!! そもうら若き女子が肌を露にするのは嬉しいが! 嬉しいが、日本国に生きる
ものならもっと慎むべきなのだ!!」
「…………それはまた……複雑……ですね……。えっちな……癖に……」
 唇に人差し指を当てつつ鐶。淡くけぶった靄よりもボヤーとしている。無銘、馬鹿にされた気がしてヤケになる。

「っさい!! この際ブッちゃけるとだな!! 龕灯!! あれ、女湯とかに密かに忍ばせたらどーなるんだろうっていう
好奇心は確かにある!! 桃源郷見れるんじゃないか桃源郷見れるんじゃないかっていつもドキドキしてる!!」
「確かにアレは……映像記録……と再生……できますが……。やったの……ですか?」
「しとらん!!! 人としてダメであろうそれ! かなり駄目だ!!」
「…………夢を壊すようですが……女湯の……お客さん比率…………40代以上がほとんど…………です」
 電撃に打たれたように硬直する無銘。「わ、わかいおねーさんはいないのか」、目も唇もまっしろにして切れ切れに喘いだ。
よほどショックだったらしい。しかし鐶は容赦なく現実を突きつける。
「10代……20代の…………ギャルたちが……キャッキャウフフしてる……訳……ない……です………………。そりゃ、
私や……小札さんや…………後頭部に…………リーダーと無銘くんに……向こう半日は……絶対めざめないよう……
念入りにリンチされアブクを吹く……貴信さんを貼り付けてる……香美さんは…………キャッキャウフフして…………お胸
を……後ろから持ったり……触ったり……してますけど……そーいうのは…………住所不定の……訳ありの……女のコ
じゃなきゃしない……です」
 普通の若い女性は家で入浴する、集団でくる道理などない。だから覗いても無駄……宣告が進むたび無銘は目に見えて
消沈していく。はじめ白目を剥いていたのが、うつむき、やがて頭を抱えて座り込んだ。
 鐶はそんな彼に優しい眼差しを送り、そっと頭を撫で
「あと……さらりと言ってますが……女湯”とか”って……なんですか……?」
 死体蹴りを敢行。無銘の肩が大きく跳ねた。余罪を追及するとても厳しい尋問だった。
「他にもまだどこか覗きたいの……ですか……? どき……どき……。場所によっては…………すごく………………ヤバ
イ……です……。無銘くん、パピヨンさんぶっちぎって……変態さん……です……。どき……どき…………」
 うっすら頬を染めてソワソワする鐶。顔をあげた無銘は一瞬キョトリとした。
「…………。意外とこーいう話題に免疫あるのな貴様……」
 瞳のせいで儚げな鐶。日陰が似合いそうな雰囲気は言い換えれば清楚清純。瞥見の限りではエロスなど拒むか恥らう
かだろう。しかし意外や意外。喰い付いているではないか。
「私……一時期……レティクルに居ましたが…………近場にですね……グレイズィングさんが……」
「もうええわ。その一言で総て分かった」
 グレイズィングは無銘をチワワの体にした忌むべき仇のひとりだ。総角曰く、性欲の権化・変態女医。
「あ、あやつめ!! 穢れを知らぬ少女に悪影響あたえおって! あたえおって!!」
 少年はどうコメントしていいか分からない。とりあえず糾弾してみるが語気は思ったより飛ばない。勢いナシだ。
「……あと……お姉ちゃんも……お風呂場で……裸の私を……裸で……押し倒したり…………」
「も、もうええわ!」
 想像しかけた無銘はぶるぶると首を振って打ち消した。煩悩退散煩悩退散。仕掛けた方がどぎまぎしている。
「……もし…………口が……ハヤブサほど……尖らなければ……貞操……やばかった……です」
「食い破った!? 義姉の顔面食い破った!?」
 鐶は耳まで赤くして無言で頷いた。恥らうべきところなのかソレ? 困惑の少年におずおずと少女は言う。
「とにかく……興味がある……お年頃……です。無銘くんはどう……ですか」
 ここで「皆無だ!!」と切って捨てればカッコいいが、やったところでまた先ほどの二の舞、壁際に追い詰められるのは目
に見えている。白状する、素直に。
「ドキドキするのは否めんが……」
 ふと視線を移す。4つの瞳が捉えたのは女性のマネキン。下着姿だ。ただそれだけの光景に揃って薄く頬を染めるふたり。
「やばい……ですね」
「やばいな。これはやばい。やばすぎだ」
「ムチャクチャやばい……です」
「やばすぎて却ってやばくないんじゃないかとさえ思える」
「そこを狙ってガッとやばさをもたらすやばさ……です」
「油断したところを狙うのか。やばいな。虎視眈々ぶりがやばい」
「やばい……です」
 異口同音にやばいを連呼する。巡回していた店員さんは「可愛いなあこのコたち」とほっこりした。
「あ……! 覗き……。…………いってやろ……いってやろ……小札さんに……いってやろ…………」
「時間差攻撃やめろ!! 覗きなぞしとらん! そう言っているだろう!! あと母上にいうのやめろ!!」

「そう……ですね。無銘くんは…………覗きとか……しません……」
「分かってくれたか!!」
「貴信さんと……河原で……たまたま落ちてた……いかがわしい本を……ドキドキしながら……知らんぷりしながら……
……こいつさえ居なくなれば大っぴらに見れるのにとばかり……お互い不毛な牽制しつつ……横目でチラチラ…………
見るのが……精一杯……です」
「見てたのか!?」
「そして2人が消えたあと堂々と拾い上げ去り行く金髪の美丈夫。胸には2枚の認識票……」
「師父!!? 師父であろこやつ絶対!!  お戯れも大概にです師父!!」
「向かった先はゴミ捨て場……本を……捨てます。ぽんと捨てて……去っていき……」
「なんだ良かった。えっちな本ネコババする師父はいなかった」
「迷わずコンビニに直行……同じ本を……買います……」
「確かに載ってた人、母上にどっか似てたけど! 似てたけれども!!」
「……アジトの誰もいない部屋に戻ります。本を広げ……ます。肉体に劇的な変化……訪れます」
「もういい! もう師父はそっとしてやれ!! 男子なら誰でも起こし得る出来事なのだ!!」
「なんと……虚ろな瞳の少女に変身……です」
「なんだ貴様だったのか……って何で化けた!?! え、なに、何が目的でそーいうコトしたのだ!?」
「つまり……私に……可愛いカッコ……して欲しい……ですか?」
「まさかの閑話休題!! 何がどうつまり!? 謎めっちゃまる残りどーして師父に変身だ!?!」
「女のコは…………誰でも……変身……します……よ?」
「それっぽく綺麗にまとめるなあ!!」

 とにかく服を買うコトに。


「べ!! 別に貴様の姿なんぞどうなろうが知らんし!! コレすなわち憐憫なのだ!! お前裸足だし!」
「はぁ」
「たまには真っ当な服を着させてやらねば哀れで仕方ない。お前裸足だし!」
「はぁ」
「……え、えと。お前裸足だし! お前裸足だし!」
 暖簾に腕押し、こんにゃくのような鐶に業を煮やし地団太踏みつつ指差し連発。
「じゃあ……まず……ブーツ履きます」
「鐶の姿が消えた!? いったいどこへ……!!」
「えー……。足で……判別してるん……ですか……。えー。えー。えー……です」
 おたおたと探す無銘をただじっとりしたノーハイライトの半眼で見る。あのコゆるキャラだ可愛いとは買い物にきた女子大生
たちの弁。

 で、無銘。
 
 清楚なワンピースに、リボン付の麦わら帽子という森ガールな鐶に見とれたり。
 浴衣でうちわ持った少女の白いうなじにドキドキしたり。
 からかい半分で、髪をおろしウサギの耳よりピンと立った黄色いリボンをつけ、アイドルの着るようなフリフリした衣装を
着せたら、瞳のせいで全体的にだるーんとしていて、つい爆笑したり。(マイク投げつけられても止まらなかった。涙目でじっ
とり睨まれても床に膝つき腹を抱えて笑っていた)

 ありがとうございましたを背中に浴びながら店を出るふたり。無銘の両手には大きめの紙バッグ。当たり前のように持って
いる。ポシェットあるのに……虚ろな目に満ちるは余りある好意。
「ありがとう……です。あと、全部……お買い上げ……です」
「くっ! すまぬフリル……!! 我が遊び半分で着せたばかりに……!! 紫色の瘴気を噴くハメに……!!」
 好意が一気にストップ安だ。
「似合います…………。特異体質で……ぐすっ。話題のアイドルに化ければ……ぐすすん……かなり、ひくっ、似合うです……」
「くそう。鐶も傷つきフリルも尊厳も奪われた。何と言う忌まわしき出逢い。作ったのは我、罪の重さをまじに感じる」
 2人ともに哀切。特に右の鐶はすっかり湿気っている。鼻や瞳が汁気いっぱいだ。
「…………ぐす。しみじみ語られると……余計傷つき……ます。……いいです。無銘くんがそーなら……私にも考えが……」
「なんだ? 宴会の余興で着るのか?」
「それは……貴信さんに……させ、ます」
「させるのか……」
 想像した無銘の顔が古色蒼然とする。笑えない、おぞましい、モザイク必須の物体が、ステージ上で飛んだり跳ねたり歌っ
たりだ。
「…………というか、我たちは、栴檀の片割れを少し粗末に扱いすぎではないか?」
「言われてみれば、そう……ですね」

「奴とて一生懸命生きているのだ。根はいい奴なのだ。我がチワワだったころ、諜報任務で遠くへ行くとき必ずフィラリアの
薬くれたし。わざわざ手近な獣医さんで貰ってな。なかなか出来るコトではない」
「…………ひょっとして嬉しかったですか?」
「別に。我はホムンクルスだし。フツーの蚊に刺されて病気なったりせんし」
 誰かが捨てたのだろう。床に転がっていた丸いレシートを蹴る無銘。「ただ、悪でない以上ちゃんと向き合うのが忍びだ」
とだけ言う。些細だが心優しい配慮を思い出し、急に罪悪感に見舞われたらしい。鐶も同じだった。
「そう……ですね……。今度香美さんが……お風呂入るとき……貴信さんへのリンチ……止めます……」
「そうだな!! どうせ女風呂におねーさん居ないしそれ位ならばいいだろう!」
 ただし母上(小札)の裸見たら殴る!! 右拳を左手キャッチャーにパシリ打ち込む無銘。
 気勢は俄かに上がったが、鐶としては少々面白くない。
(…………私の裸は……どうでも……いいと?)
 けして貴信が嫌いという訳ではない。確かに見られて恥ずかしくはあるが、香美と体を共有している以上、画像情報が
彼に行くのは「そういうもの」と割り切れる。しかし男である。無銘は、他の男に、鐶の裸を見られて平気だと言うのだ。
(小札さんには……必死……なのに)
 なので鐶は頑張って、なるたけ眉毛をいからせて
「反省して……いませんね。謝るなら今、ですよ。私……いま……激おこ……ですよ」
 拳をのっそりと掲げてみせた。無銘は軽捷なものでターっと正面に回り込んで得意満面、少女をビシィっと指差した。腕を
通る紙バッグの輪がいくつかシャカシャカ跳ねた。
「ククっ! 何か知らんがやってみるがいい! 人間形態になったいま貴様なんぞ怖くないからなバーカバーカ!!」
「む……。火に油注ぐ……の……ですか。謝らないと……こっちにも……考え……あります」
「なんだぁ〜〜? 力押しか鐶! でも言って勝てず暴力に頼るのは負けだからな! ま・け!!」
 暴力反対暴力反対。いよいよ調子乗って囃し立てる無銘はまったく小学校低学年。本当は10歳で、そろそろ高学年なの
に(しかも学籍だけ見れば銀成学園に通う高校生)、コレである。誰が負けか分かったものではない。
 鐶はしばらく冷ややかに少年を見ていたが、やがて口を開く。
「1人で……歩きますよ」
「えっ」
 ぼそり呟かれた言葉は、ひどく鋭く、だから無銘は目をまろくした。人混みで、クッション越しに心臓を銃撃されたような、
唐突で意外すぎる致命的冷酷が脳髄を駆け巡った。
「無銘くんが……どうしてもというから……道案内させてあげているのです……。それをもう……なしに……します。契約
解除……です。せいぜい職にあぶれるがいい……です」
「ごめんなさい」
 鐶を1人にしたらドコへいくか分からない。無銘は頭を下げた。
(というか何で微妙に上から目線なのだ。方向音痴の癖に……)

 もちろん自覚はない。鐶としては「1人で大丈夫なのにどうしてみな過保護なのだろう」といつも首をひねっている。
 それでも無銘が一緒に歩いてくれるのは嬉しいから、目下黙認している。本人目線では「してやっている」。
 なら別に断る必要はない。ただ、無銘が、同行に対し妙に必死だから、ついからかいたくなった。

 わざとらしくツンとそっぽを向く。(謝る無銘にちょっと揺らいで、一瞬申し訳ないカオもした)
「あぶれるがいい……です。派遣村で土粥でも喰ってろ……です」
「この言い草!!」
 頭を抱える無銘。どう対処していいか分からないようだ。認め気が済み、ぎこちなくだが矛引く鐶。
「……フンだ……です。でも土粥はかわいそうなので特別にステーキに……してやる……です」
「ステーキ!! じゃあ忍者飯はあるのか!?」
「ご一緒に……ポテトも……いかがですか……?」
「ハイ!」
「あと……ビーフージャーキー食べます……?」
「おうとも!!」
 よく分からないうちに険悪になってよく分からないうちに和解した。「姉弟? 仲いいわね」。主婦がひとり笑いながら通り
すぎた。



 お次はミリタリーショップだ。『鳥の変形の参考に』と、いろいろなサバゲグッズやモデルガンを眺め回す鐶。無銘としても
忍者活動に使えるものはないか目を皿だ。忍びとはアリモノを使う人種。時代に適合すべきなのだ。いつまでも水蜘蛛だの
五色米だのに拘るのはナンセンスだというのが目下の持論。かさばらないならレーション大いに結構だ。そも秋水に負けた
苦い記憶もある。ここいらでパワーアップ、忍び六具あたり現代チックにナイズドするのも悪くない……ワイヤーフックや医
療パックなどに目移りする。

 で、見つけたのが──…

「ダミーバルーン……ですか?」
「使え! 鐶お前が使え!!」
 無銘はハッハと目を輝かせている。変わり身の術でも想像して興奮しているのだろう。そういうところはまだ子供で、可愛い
部分なのだが、
「なぜ……無銘くんが……使わないの……ですか?」
 そこは謎だった。でもあっけなく氷解した。「変わり身といえば服着た丸太! で、手裏剣が刺さる!」。王道への拘り故だ。

 ダミーバルーンは全項130cmほど。ほぼ3頭身で、四肢は亀のように短い。素材名の表記もあったがやたら長く鐶の記憶
に残らなかった。ただNASAでも使われている最新鋭のもので、防弾防刃、これまた最新鋭のレーザー兵器でなければ破
れないという。

「概要を読んだがどうやらこやつ、水素やヘリウムも注入可能!」
 空中戦にぴったりだろう。会心の笑みで頷く無銘だが、鐶の方は気が乗らない。並みの攻撃は回避できるし、受けても例の
年齢操作と換羽の相乗、瀕死時における自動回復がある。
「……クロムクレイドルトゥグレイブを使えば……かさばりませんが……」
 ノーともイエスとも取れる曖昧な表現でお茶を濁す。無銘は気をよくして二の句を継ぎ始める。「生きてた頃のお父さんが時々
こうだった」、的外れな嗜好の押し付けに論理を重ねいかにも自分が正しいと見せかける、男性特有の、鬱陶しいアレに、
 なおも続く正当化。真黒な半眼をやや垂らす鐶の頬にわずかだが血管が浮かぶ。
(ああ……。うぜえ……です)
 なかなか強烈でスゴいコトを考えたのは、父が、むかしこの論法で、プレゼントを安く買い叩いたせい。何歳の誕生日だった
か、鐶は超合金製のコンバトラーVをねだった。しかし父ときたら、廉価版の、プラスチック製の、合体も分離もできない、
ビッグブラストディバイダーはおろか超電磁ヨーヨーすらついておらぬチャチなコンバトラーVを口八丁かつ手前味噌な論法で
『いかにもこちらがいいよう』言い含め、買った。勿論この場合の「いい」はつまるところ彼の財布の中身に直結していた。当時
かれはスナックの悪い女に入れあげており、資金は僅かでも必要だった。切り詰められるものは少しでも切り詰めたかった。
超合金に比べ1万円は安い廉価版は救世主だった。
(2ヵ月後。スナックの攻略対象は痴情の縺れとかで情夫に刺し殺された。鐶の父は一時期容疑者として強く取り調べた)。
 とにかく幼心にドロリとしたものが感じられる理不尽な説得だった。鐶はショックでかなり泣いた。
 リバース(青空)は、日頃ヒイキされている義妹が珍しく冷遇されたのを『ちょっと嬉しくてざまあとか思う反面、小さいながら
に一生懸命、家族の手伝いをしている罪なき子がそんな目に遭うのは不憫だし可哀想だし、何より彼女まで自分と同じ思
いさせる必要ないんじゃないか。でも報われるのは不愉快』という、実に愛憎入り混じる複雑な笑顔で見ていた。
 なお、次のクリスマスの朝、鐶の枕元にあったのは超合金製コンバトラーV。誰がサンタか今もって不明である。

 長いがそういう経歴がある。「いかにも自分のみ正しく見せかける」セールストークアレルギーを有している。
 であるから、無銘が強引に推奨するダミーバルーン購入には到底気乗りしない。買い物ひとつとっても、男女の性差、好み
の違いは致命的なまでに埋めがたい。論理に頼るものほど、そういう、根本に広がる生物学を無視する。自分のため”だけ”
弁を振るうきらいがある。
(適当なところ……で、断り……ましょう。そう……しましょう)
「見ろ」、無銘はPOPを指差した。人と、無数の点と、赤の目立つPOPだった。


『尖った金属片を入れれば指向性散弾になります。(有効範囲 …… 爆破角度60度 水平距離30〜50m 高さ2m)』


「買い……です」
「だろッ!! だろ!! 指向性散弾なのだ!! 買うしかない!!」
「ないのです……。(断言)

 見た目小学生な彼らが食いつくべき要素ではないが……。無銘がはしゃぎ鐶も頷く。
 が。
「あ!!」
「どうした鐶!」
「コレ……20万円……です」
 値段を見て驚愕する。無銘も同じだった。
「なんだと!! 20万円といったら──…」
「私と無銘くんのお年玉20年分…………!!」
「どうしよう高い!!」
「高いです……!!」
 ふたりは心底困ったように顔を見合わせ、ついでポケットをペチペチ叩き始めた。持ち合わせが無いか調べたが、出てくる
のは当然小銭ばかりなり。しめて金158円、牛丼の一杯も買えぬ。
「鐶貴様、そのポシェットにこう……ないのか!! お金!!」
 もちろん彼らはホムンクルスで、ちょっとその気になれば簡単に強奪できる。店員も警察も難なく振り切れる。のだが、真剣
に購入を検討する辺り良くも悪くも子供である。
 鐶はポンと手を打った。
「ポシェット……ですか。そういえば……レアモノ……入ってます」
「ほう!!」
 無銘の瞳が輝いた。骨董品が好きなので、掘り出し物には反応よしだ。
「お姉ちゃんが……ウィルさんから貰った奴で……私の好きなゲームの……特別レアバージョン、です。ゲーム買った人の
うち……2000人にしか当たらない……シリーズ2作目の……アドバンス版……です……」
「よく分からんが高そう!!」
「高そう……です!」
 さっそくケータイを開き相場検索。画面を覗くふたりの顔がみるみると輝いた。
「すごいぞ高値で売れる!! これならダミーバルーン買えるかもだ!!」
「お姉ちゃんが……プレゼントしてくれた奴……ですが……別にゲーム自体は……PS版がありますし…………だいたい
戦闘シーン飛ばせない旧作など……2度としたくないので……いいです、…………売りましょう」
 恐ろしく冷淡なことを言いながら(監視カメラ越しに読み取ったリバースはくず折れて泣いた)、ケータイをすばやく操作する
鐶。「イケます」と胸を張った。
「そうかいけるかコレで買えるか!」
「ええ…………。まずヤフオクで……出品者になるための……いろいろな登録をします……。3週間もあれば……完了……
です。出品から……落札までは……2週間……ですね…………。さらにそこから落札者さんからが振り込むまで……」
「3日後! 決戦は3日後!! そんな待てぬわ!!」
 くそうどうにかならぬのか。呻きながら財布を開く。小札から貰ったそれに入っているお金が残りいくらかなどはとっくに
把握している無銘だ。ダミーバルーン買えるほどはない。わかっていながらなお未練がましく財布のあちこちを見ていた
無銘。ふと何やら固い感触を感じ手を止める。……財布の生地の裏に何か埋め込まれている!! 手刀で薄く小さな
切り口を作る。滑り落ちたのはやや厚い長方形。プラスチック製で、銀の立体的な数字が刻まれている。
「クレジットカード……ですね」
 気のない返事を漏らしつつどうすればいいか悩む無銘の前で、紙片が一枚、一拍遅れでひらり舞って落ちていく。
 すわ! 掴み広げた無銘に映るのは──…


『フ。限度額は無制限。なにか高いもの欲しがったら買ってやれ。副長ゆえの役得……という奴だ』


「師父最高ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
「やったバンザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ!! です!!」

 ふたりは満面の笑みで手に手を取り合いピョンピョン跳ねた。赤い三つ編みが元気いっぱいに上下した。


「ベアリング!! ベアリング入れられるぞなもし!!」
「ゾナモシなのだあーーー!!!




 実にアフターサービスのいい店だった。その場で水素と、クジャクに変形した時でてくるベアリング(もちろん錬金術性)と、
いろんな戦場で拾った大きめのガラス片をぱんぱんに詰め込んだ。
 店員はサムズアップした
「お客さん通だねえ! でも君たち未成年者は無能力者だから、クレカでの買い物成立しないよ!」
「何をいうか!! 違法スレスレの物品売る奴が何をいうか!!」
「…………たぶん……アウト……です……。指向性散弾……ぶっぱ……できる……ゴム風船…………。売っていいもんじゃ
…………ありません」
「そこ分かってて買うなんてお客さん通だねえ!」
 店員は、筋肉がボンレスハムかというぐらいパンパンに詰まった横に広い中年男性だった。世界が銀に反射する黒いサ
ングラスをつけ、黄土色の頬髭ボーボーしている姿ときたら、アメリカの赤茶けた荒野を貫く幹線道路をハーレーで抜けてい
くのがこの生物の宿命ではないかというぐらいアウトローだった。ブラックの革ジャン姿だった。
「とにかくそのトシで指向性散弾を必要としているんだ。君たちには何か人にいえない事情があるんだろう。分かった。売る
よ。仮に保護者さんが契約解除を申し立ててもそのバルーンは君たちにあげよう」
「なんか……いい話に……なってきました……」
「戦場にいけない俺の分までコイツを役立ててくれ!!」
「取引してるの違法物品だけどな。まあそれでも礼はいうわ。ありがとう……なのだ」
「染まるぜ日本? 俺の店からベガス色によ〜〜」
 ショットガンを構える姿が実に決まっていた。

 鐶は(ベガスってドコでしょうか。西日暮里?)とか思いつつトイレの個室に行く。
 そしてダミーバルーンをキドニーダガーの年齢操作で小さくしポシェットへ。


 ミリタリーショップは30分後、銀成警察に摘発され即日閉店と相成った。
 軍事転用できるヤバイものを数多く取り扱っていたのがアダとなった。


「クク。レティクルの誰が喰らうか楽しみだ……」
「多分……というか絶対……出番ないと……思いますが…………使えたら……使えます」


 きたる戦いで役立つかどうかは、のちの、お話。




 歩く。

「銀成で2番目に旨いコーシーの店……ありますよ……」
「興味あるがガマンだ!! 母上から貰ったお金、あまり無駄遣いしたくない!!」
「……リーダーの……クレカ……も……ですか」


 歩く。

「銀成で1番目に旨いコーシーのお店……も……ありますが……」
「ガマンだ!!」
「…………2件買い物しても……支出……1800円ぐらい……です……よ?」
 立ち止まる。無銘は頑として叫ぶ。
「その1800円が曲者なのだ!! いいか!! 1800円というのはな!!」
「はぁ」
「あと1200円足したら3000円ではないか!!」
「なに……いっているのか……ちょっと……わからない……です」
 当たり前ではないか。何をこのチワワは算数しているのだろう。
 というカオする鐶がもどかしいのか、少年無銘はグヌヌヌしばらく唸ってから決然と叫ぶ。
「3000円ったらお前、福引抽選できるではないか!!」
「……したいのですか…………」
「したい!!」
 即答だった。全身から半透明した黄金のプロミネンスを吹き上げながら「回すとガラガラ鳴るだろう! あれが好き!」とも。
「ずっとチワワだったからなあ。手で、なにか握ったり回したりは新鮮なのだ」
 どうやら相当、気に入ったらしい。腕組みして瞑目しウンウン頷く無銘。
「めっちゃ楽しい……ですか」
「うん。めっちゃ楽しい」
 人差し指立てて問う。あどけなく頷く。普段なにかと尊大で険のある無銘らしからぬ反応だ。大人ぶって、取り繕っているが、
時々なにかの拍子にフっと覗かせてしまう素の部分が鐶はとても好きだ。
「手でいろいろできるのスゴくいいのだ。この手で、きっと、これから沢山いろいろ楽しいコトができるのだと信じている」
 そういって彼はまっすぐ笑う。希望だけが未来を染め上げるのだとつくづく純粋に信じた笑顔で。
「少年なんだ」。実感の鐶。甘酸っぱい感情が全身いっぱいに広がって小さな心臓がとくとく鳴る。高ぶる感情。されど義姉に
きゃあと叫ぶ率直さを奪われている鐶だから、表現はどこか歪になってしまう。
「ウヘヘヘヘ。無銘くん……きゃわわ……。ウヘヘヘヘ」
 涎を垂らし無表情でカタカタ笑うしかなかった。本人的には可愛く微笑んだつもりだが、呪いの市松人形が精一杯だ。
「……鐶貴様キモい」
 右肩を引き、飛んでくる口液の粒を避ける無銘の顔はたいへん引き攣っている。ふうがわるい!? 笑顔の評判よろし
くないのですかと鐶は涙ながらの素で叫び
「あ……。まぁそれはさておき……くじ……どうして……しないの……ですか?」
 大好きなのにしたがらない無銘。なぜだろう。問いかけにしばらく彼は黙っていたが、
「古人に云う。偃鼠(えんそ)、河に飲むも満腹に過ぎず」
 とだけ言った。

 偃鼠とはかわうそである。かわうそは黄河の水を飲むが、お腹いっぱいになればやめる。

 ……無銘をずっと見てきた鐶だから、うら若いくせにこういうかび臭い単語はすぐ分かる。
「身の丈にあった…………コトが……大事……と。欲望に振り回されたらお腹バーン…………破裂で、破滅……」
「おうとも!! さっき我はハズレを引いた! 正直リベンジしたい思いでいっぱいなのだ!! だからこそ今一度の福引
は危険なのだ!!! もしまた外れたら確実にムキになる!! 2回……3回。次こそは次こそはと福引やりたさにムキ
になって無駄遣いするではないか!!」
「あるある……です」
 あるあるなのだ! 戛然と叫ぶ少年。魂の叫びだ。
「お金は!! 稼ぐのに苦労するのだ!! 母上が炉端でマジックされてコツコツ稼がれたお金を!! たかが福引で無駄
遣いしたくない!!」
「…………おお。自重する……無銘くん……えらいです…………」
 褒めた鐶だが、ふと顎に手をあて考える仕草をした。ややあって。鬱蒼と曇る瞳がツと申し訳そうに伏せった。
「節約するのは……私に……いろいろ……買ってくれた……せい……でしょうか……?」
 実は鐶、無銘より10cmほど上背がある。(155cm。12歳女子の成育は早い) それを屈めてまで少年の瞳を覗き込ん
だのは急にいたたまれなくなってきたからだ。

 自分に良くしてくれた少年が、好きなコトをできない。コーヒーを飲めずガラガラもできない。そういう不自由を強いているよう
で悲しかった。「ずっとチワワだったからなあ」。長らく、人生の9割以上の長らく、犬として過ごさざるを得なかった無銘だ。
人型になれたのは本当につい最近。しかも成るやすぐ戦団に収監され、来る決戦の準備を兼ねた事後処理に忙殺された。
 というコトを鐶は述べ
「だから……今日が……初めて……です。無銘くんが……自由に……人型で…………こういうにぎやかな場所で遊べるのは
…………今日が初めて…………生まれて初めて……なん……です」
 3日もすれば戦いが待っている。生き延びられるか分からない。ともすれば最初で最後かも知れない。
「なのに…………私なんかのせいで………………楽しく振舞えないのは…………嫌……です」
 訥々と語るたび瞳のふちが熱く彩られるのを感じた。ただならぬ様子に無銘は息を呑み目の色を変えたが、すぐに眉を顰め
声を荒げた。
「古人に云う! 武士は喰わねど高楊枝!」
「無銘くん…………忍者……では?」
「知らん! 母上が使えといったからカネを使った! それだけだ!!」
 彼的には、それで、音楽隊という、帰属すべき組織が鐶の買い物を是としているのを示したつもりだが、しかし逆効果だった。
(小札さんが……いったから……)
 好きな少年とのデートに浮かれていた少女にとって辛すぎる一言だった。さもあらん、お誘いではなく命による接待と知り平気
でいられる意中のあるや。心が軽度の暗黒に突き落とされた。
 零れ落ちそうな角膜の湿りが新たな痛惜に掻き出されそうだ。無銘はすっと手を差し出す。
「よく分からんが泣くな馬鹿め」
「ふぇっ」
 浅黒い指先が涙を掬うのに鐶は面食らった。さまざまな感情が昂じていたが総て吹き飛ぶ思いだった。睫を掠める爪の表面
が存外少女のように綺麗だと脈絡のないコトを考えた。
「云っておくが我は貴様より強いのだ」
「…………え?」
 大きな目を瞬かせると怒号が飛んだ。
「何を泣いているか知らんが! 我の件なら別にいい!! 今日は貴様が主体!! 少々の不都合に目をつぶるなど当然!」
 どうやら涙のワケを勘違いしたらしい。少年無銘への憐憫きわまるあまり泣いた……とでも思っているのだろう。確かに
方向は変わらないが正鵠は射ていない。
 自意識過剰というか鈍いというか。とんと女心の分からぬ少年である。
「ああ……でも…………、私が悪いとかは……言わないんですね……。私のせいで……好きなように振舞えないとは…………
言わないんですね…………」
「知るか。任務だからやってるだけだ」
 チョビっと出た鼻水をひと拭いして笑いかけると、無銘は唇尖らせ明後日を見た。鐶の歯切れは悪い。
「でも…………20万円の……ダミーバルーン……。あれは……小札さんの……計画にもない……もので………………」
 そのせいでコーシー飲めないなら返品したい。怯え混じりに二の腕を胸の前でもぞもぞさせる鐶の赤髪が小突かれた。
「あだ……」
「下らん。配慮など無用。そも薦めたのは我……。舐めるな。自ら蒔いた種を刈り取らせるほど腐ってはおらん」
 頭をさする鐶を腕組みで無愛想に眺めつつ、更に。
「古人に云う。奇貨居くべし。役立つ物は仕入れるべきだ」
 節約は大事だが、使うべきときに使わなければ意味が無い。そう言うのである。少年にしてはなかなか卓越した金銭感覚
であろう。
「コーシー呑まぬのは美学ゆえだ。我を、忍びたらしめる節制なのだ。貴様など関係ないわ」
 鐶はまだ何か言いたげに瞳を泳がせたが、無銘が、強く目を合わせてくるのに気付き口を噤む。
 頬には一滴の汗。これ以上困らせるな、突っ込むなという訴えだ。

 もっと素直な少年ならこう言うだろう。「別にお前が楽しいならいい」。けど言うのが恥ずかしいから、小札という、自分に
とって大きな存在をタテに買い物継続を言い張っているのだ。…………という機微がどうやらあるらしい。と、鐶はぼんやり
だが分かりかけてきた。
 義姉はひどく無口だった。経験則。喋らずとも行えるコミュニケーションの数々。鐶光は有している。言えないコト、語らぬ
方が立ち行くコト。虐待のなか知らず知らず身に着けた迎合。いつか女性の覚える男性の立て方を過酷と恋慕で組み上げ
る鐶。

「そう、ですね。……無銘くんは…………強いから……こんなコトじゃ……泣かない……です」

「ふふん。やっと分かったか。そうだ任務とは非情なるもの。何があろうと我は泣かん」
「何があっても……ですか?」
 時節柄、ちょっと冷風を帯びた緊張感が両者の間を吹きぬけた。
 レティクルエレメンツ。いずれ戦う10人の幹部はいずれも鐶に劣らぬ強者ばかり。
 戦えば『何が起こるか』。犠牲ゼロだと楽観するほど子供ではない2人。
「……何があってもだ。たとえ師父や……母上が亡くなったとしても……泣かん。泣くわけにはいかん」
 ぎゅっと拳を握る無銘。声は務めて静か。だが耐えているのが分かった。想像するだけで恐ろしい現象を、必死に、精神
力で捻じ伏せているのが見て取れた。鐶も同じだった。人は死ぬ。生命は散る。かつて目の前で、義姉に、両親を惨殺さ
れたのだ。いま喋っている無銘でさえ数日後には骸……かも知れない。考えるだけで怖かった。

 でも無銘はきっと耐えるだろう。

 なぜなら……忍びだから。

 まだチワワだった頃、小さな体で、ボロボロの体で、戦士と戦い、鐶を守り抜いたのだ。

 それが任務だったから。

 それを守るべき忍びだから。

「きっと…………泣かないです。どんな辛いコトがあっても……泣かない。そう……信じています……」
「フン。当たり前だ。言っておくが貴様が死んでも泣かんからな我は」
「はい。期待……してます」
 だが、と無銘は一歩進み出る。
「貴様を生擒(せいきん)せよという師父の命は今もって継続中」
 その背中は鐶より小さい。けれどこの世の誰より大きく見えた。
「…………忌々しいが貴様を、副長として機能させるのもまた任。守ってやる。くたばるな」
「はい……。ありがとうございます」

 こそばゆそうに微笑む。思えば彼は逢ったときからずっとこうである。任。任務。その一言でいつも傍に居てくれる。
来て欲しいときに来てくれる。逆はない。任務をタテに鐶を捨てるコトはない。
 ならそれでいいのだと鐶は思い、
「わずか1200円節約するためコーシー我慢するなんて……すごい……ですね……。立派……です」
 話を戻す。
 つい4000円のプラモとか衝動買いしてしまう鐶なので、瞳は尊敬に溢れた。無銘は得意気に胸そっくり返すと思われた
が、にわかに視線を落とした。声のトーンが急激に落ちる。頬かく彼は気まずそう。
「……だって、むかしお祭りのくじ引きでムキになって2400円も使っちゃったし…………。その反省なのだ」
「なにそれ……可愛い……です。可愛い金銭感覚……です」
 しかし、『むかし』の彼といえばこれすなわちチワワである。人間形態になれない時分、如何にしてくじ引きをやったのだろう。
兵馬俑でも使ったのだろうか? よく分からない。
「……? 福引……なら、それこそ、20万円のダミーバルーンの……レシートで…………すれば……いいの……では?」
 カード決済でも買い物は買い物、出来るはずだという鐶に無銘は深刻な顔をした。
「それだが、道行くものの声を聞くに、あの店、警察の手が入ったらしい。見るからに違法物品だらけだったからな」
「模造刀……と書かれた商品に……止まったハエ……足……切れてました」
「IED(即製爆弾)かんたんキット、アレ多分本物だ。あとレジの後ろ。棚と棚の間から向こうの空間がチラリと見えた」
「硝煙の匂い……しました。Mk19(オートマティックグレネードランチャー)とか……見えました……」
 潰れて当然の店だった。潰れるべき治安の敵だった。
 なれば客も追跡されるだろう。おまわりさんたちはきっとヤバイ物品を回収しようと必死……。
「いまあの店のレシートでガラガラするのは危険だ。きっとガラガラする所にも手は回っている。ガラガラしたら通報される。
ガラガラしたいのは山々だが、ガラガラしたら我の擬似風船による戦略構想もガラガラ崩れる」
「ガラガラ……いいすぎ……です」
 口では何だかんだ言っているが、やはりしたいらしい。なら鐶の買い物のレシートですればいいようなものだが、「それは
貴様の分」と頑として譲らない。あげるといっても拒む。とうとうガラガラという言葉じたい禁止だと──そも言い出したのは彼
なのだが──言い出した。
 鐶はちょっと黙ってから、ぽつり。
「…………ガラガラヘービが」
「やってきた」
 パシーン! ふたりは無言でハイタッチ。そして無表情で歩き出す。

「あいつらシュールやなあ」
「ねーデッド。いつになったらアジト帰らせてくれるのさ」

 フードコートでメロンフロート(M)をストローで啜っていた金髪ツインテールの少女の傍で、真白な少年が気だるげに呟いた。
 しんどいらしい。ホットドッグやポテトの散在する机の上に顎だけ乗せている。真紅の、宝石のような瞳はいま、総面積の6割
以上に霧が立ち込めている。瞼という肉質の霧が。

 デッドと呼ばれた少女は、サングラス──ティアドロップ型。色はクロームイエロー──をスチャリと直しながらカラカラ笑う。
関西弁も相まって元気いっぱいの印象だ。


「ウィル。もうちょい辛抱しい。ブレイク、気まぐれが終わったらイソゴばーさんに連絡とる言うとったからな。それまで物見遊山や」


 文句をいうウィルを尻目に「お」とデッドは呟く。何かの会話の弾みだろう。拳を突き上げる無銘が見た。

 その無銘の顔面右方10cmの空間がぐにゃりと歪む。現れたのは桶状の物体だ。

「使い込んだ木製製品のように黒い。あれがウワサの龕灯やさかいよー見とき」
「えー。いいよー。特性なんて知ってるしー。性質付与。取り込んだ映像から、質感とか、属性だけをコピペできるんでしょ〜」
 ウィルはますますくたった。具体的には、机からずり落ちた。椅子に縋るよう纏わりついている。ああ寝る前兆や、デッドは
当たり前のように顎を蹴り抜くどこからか聞こえた重い軋みに首を捻ったのは付近で遅めの夕食をとっていた外資系企業の
営業マン。ピンクのキャミソールから投げ出されるように伸びる細い脚は血流を感じさせないほど白く……。
 デッドはわずかの間、痛みに耐えるような顔をし太ももを撫でる。
「ちゃあんと見とけやコラ。お前かて一応アース降ろせる身ぃやろがい。盟主様ほどやないけど」
「でもボク、勢号みたいなコトできないし…………」

 視線の先で龕灯。下部から光を発す。輝きは柱となり、鳩尾無銘の右手を照らす。

「ええなー。ちっこい武装錬金は。道行く人ら見とるけど『最近のオモチャはよぅできとるなあ』程度の顔や」

 A4サイズのスクリーンが龕灯の前に投影されているのだが、誰も、特に、気にする様子はない。
 映ってるの忍者刀だよね。ウィルはそれだけ言って、寝て、蹴られた。




「忍法・三日月剣。我が手を刀と化すわざ。これはとっても便利なのだ」
 さきほど財布を切り裂いたのもコレだろう。少年無銘・やおら自らの髪を抜き放り投げる。続いて親指以外を綺麗に揃え
ぴゅんぴゅんと振り回した。髪の毛がパラパラと乱れ散るまでさほどの時間もかからない。幾本もの線条が走ったとみるや
あっという間に不揃いに散逸し落ちていく。そのさまを彼はうっとりと眺め
「なんでも切れる。我の意のままなのだ」
 心底嬉しそうに笑う。原型無視だった。無邪気さは柴犬のようだった。鐶は跳ね上がる鼓動を抑えながら一歩踏み出し軽く
うつむいた。髪が赤くてよかった……つまらないコトを思うのは耳たぶが熱いから。流れる炎に溶け込んできっと見えないコ
トだろう。
(……良かった…………ですね。人型に……なれて)

「人型になれたから、手で、いろいろ出来るのだ。我はそれを沢山あじわいたい」

 だからガラガラもしたいし、三日月剣だって振るいたい。秋水に? 途切れ途切れ聞くと大いに頷く。

「いいなあ手。手でいろんな感触味わえるって、いいなあ」

 ブンブン振ったり握ったり開いたりして、また笑う。網膜に笑顔が飛び込むたび、全身が切なく締め付けられるのを感じる
鐶だ。時々立ち止まっては、短いスカートの裾に手をやったり、細い太ももを軽くすり合わせたり、濃い青の靄が立ち込めた
瞳を湿りがちに伏せ熱い吐息をつく。秘めたる火照りが疼く痛みに刻まれて、心地よくて。でも辛くて。

 彼の幸福は別の女性のもたらしたものだ。鐶なくして成立するものだ。

 それが分かってしまうから、嬉しくも、悲しい。

 今でこそ無銘は心から嬉しそうだが、事ココに至るまで味わった苦しみの量は察するに余りある。生まれたときからチワワで
しかし意志だけは人間だった。どれほど屈辱だろう。人が、ずっと、犬の姿勢を強いられるのだ。箸ひとつ持てず、地べたの
食事に口を突っ込む。……。総角や小札曰く、「物心ついたときそれはもう荒れた」。思春期にありがちな、「どうして他と違う
のか」に泣き叫び、親代わりのふたりを苦しめたという。7年前のある事件を契機にある程度までは受け入れ、総角たちとも
親子になったが──…
 この1年、逢って間もない鐶でさえ分かるほど、無銘は、チワワな自分を嫌っていた。
 針に糸を通す。たったそれだけの誰でもできる手技行為を心から羨んでいた。兵馬俑の遠隔操作では飽き足りなかった。
「ゲテモノを食べたい」。たったそれだけの理由で犬の姿に押し込めた、レティクルの幹部ふたりへの憎悪は、不自由を味わ
うたびますます鋭さをまし、熱く黒く膨らんでいくようだった。
(……でも……人間形態になれたのは…………)
 早坂秋水との戦いあらばこそだ。
(……)
 鐶の心に影を差すのは、『成り方』。無銘は、小札を守りたい一身で、死を賭して、人と成った。
 少女は、救われてからずっと、少年の力になりたいと思っていた。
 人間の姿になりたい。そんな念願さえ共に叶えられると思っていた。なぜなら助けられたからだ。好きに……なったからだ。
きっと自分は恩を返せる。今度は自分が助ける番、長年望み続けたコトがとうとう現実になるとき、自分は、直前、かつてな
い大いなる助力をしているのだと根拠も無いのに信じていた。実年齢はまだ8歳の、過酷な目に遭い続けたからこそ、まだ
どこか夢見がちな──もっとも、だからこそ、豹変に豹変を重ねた義姉の命を諦めずに済んだ。更正と救済を望めている
──少女は、それこそ自分がアニメに出てくるヒロインのように、ヒーロー覚醒の端緒たる確たる絆とアシストを、『もたら
せる』と、無条件に、信じていた。

 無銘を人型にしたのは小札だった。
 母への想いだけが、無念も渇望も何もかも埋めた。

 男性が劇的に変わるとき、副座に別の女性がいる。
 ……喪失感は、埋めがたい。
 人型となりし無銘を見るとき、かすかに過ぎる小札への敗北感。

(皮肉……です)

 鐶は、特異体質で、様々な変身ができる。

 総ての鳥類。総ての人間。

 その範疇なら化けれない存在(モノ)はない。

 なれない存在(モノ)は……ないのだ。

(なのに……)

 それこそ鐶は思春期まっさかりで思うのだ。

(本当になりたい存在(モノ)には…………なれません)


 無銘に対し、小札のような。

 かけがえのない存在たりえぬ自分。

 どれだけ変身してもなれない。
 仮に変身して、なったとしても、無銘がかけがえなく思うのは、変身後の、姿。
 鐶そのものではない。
 鐶光という、ありのままの、姿から目を背かれるのだ。

 虚ろな目の、早老症を抱えた”鐶光そのもの”が受け入れられないのは、劣等感と相まって、辛い。

 色々な存在(モノ)になれる。しかし真に成りたい存在(モノ)にはなれない。

 無銘を人型にするほど突き動かした小札にはなれない。

 桜花は応援してくれる。頑張ろうとは思う。

 けれど残された時間は少なくて。

 やがてくる決戦で生き延びたとしても、体質を抜本的に変えない限り──…

 若い女性で居られる期間は……短い。

 5倍速のプロジェリア。短い時間で、9年もの歳月をかけて編みこまれた無銘と小札の絆に勝てるのだろうか。

「なりたいものになれない」。予感すると、ただ、辛い、


「とにかく! コーシーはレティクルとの決着がついてからだ!!」


 はっと顔を上げる。どうやら思考に没入している間、無銘はずっと喋っていたらしい。
 なら反応のなさを訝るべきだが、そこは普段が普段の鐶。また何かボーっとしている程度にしか思われていないのだろう。
 鐶の頭の回転は速い。(物理的な意味でも。フクロウの特異体質で360度回転する)
「無銘……くん」
「なんだ」
「それ……死亡フラグ…………です」
 なんだそれどんな旗……? よく分かっていない様子の無銘にポツリポツリと説明する。


「なにぃ! こーいうコト言うと死ぬのか!?」
「死にます…………。戦いが終わったらとか、故郷に婚約者が居るとか、言うと、死にます……」
 映画などを対象にしたネットスラングなのだが、どうも無銘はより根幹的な、言霊の問題として捉えたようだ。
 やや浅黒い顔を青くしてしばらく声も出ない風に口をパクパクさせていたが、すぐさま強がる。
「ふふふふふん。そ、そんなんどうせ迷信だからなっ! 鐶貴様、貴様あれだ、我を、我を担いでるだけだろう」
「……ちゃんとした…………統計とか……伝習に……裏打ちされた…………信頼できる……データ、です」
 ウソは言っていない。問題があるとすれば、つい、「虚構の世界のお約束です」と付け足し忘れたところで。
 鐶の淡々とした語り口は、それだけに却って説得力がある。言葉が進むたび無銘は青くなった。頬も微かだがこけた。
「助かる方法は……?」
「ないです」
 ビビビっと少年忍者の背筋が逆立つのが見えた。ヤマアラシのようだった。嫌だ死にたくないこわい……ちいさな呟きを
音速以上の並みでかき消すようにはつと居直り叫ぶ無銘。
「じゃ、じゃあ逆! 生存フラグはっ!」
 鐶はぼうっとした眼差しでしばらく考え込んだ。あまり聞かない言葉なので思い出すのに手間取った。
「な、ないのか! 我死ぬのか!?」
「………………胸ポケットに……金属製の……大事な人から送られた……何かを……入れる、とか……?」


 核鉄がいいという結論に落ち着くまで時間はかからなかった。


「よしコレで我ら生き延びる筈ッ!」
「戦いが終わっても……別に……何もしない……です。フラグ……回避……です」
「でも怖い!!」
「怖い……ですね」


 験を担ぐ無銘が、お小遣いの前借りという形で、銀成市No1&2のコーシーを飲みに行ったのは言うまでもない。

「1番目は少々甘すぎだったな。2番目は逆に酸味が強い。3番目最強!」
「そう……ですか」

 嬉しそうに講釈を垂れる無銘を見ると、それだけで幸せだった。


 最後にふたりは、ゲームセンターで白熱の、ゲーム対戦をした。

 鐶は、例の、ロボットのゲームが好きだが、それ以外はからきしだ。昔、義姉(リバース)を対戦で執拗なまでにいたぶった
過去を持つが、それは改造の力を借りればこそだ。こと戦いとなれば香美顔負けの速度で反応する、時もあるが、ゲーム
となるとさっぱりだ。格闘ゲームでさえ適当にレバガチャする無銘に負け越す。スポーツとなればルールがまったく分からない。
パズルもダメ。テーブルゲームもダメ。

 というのが判明。

「やっぱ……ボール投げ……です。取ってこい無銘くん……です」
「うるさいもうやらんからなアレは!」
「むかしは……よくやったのに……。遠くへ投げると……ハフハフ言いながら咥えて……持ってきて……また投げろといわ
んばかりに……ポロっと……落として……そんで投げると……矢のように走ったのに…………」
「…………本能がさせたのだ!! 我はあんなの不服だった! 不服だったぞ!」
「また本能……ですか。…………えっちなのも……そのせい……ですか……。どき……どき……」
「いまだ言うかソレ!?」
「とにかく……私……電子ゲームは……からきし……です……。スパロボの早解きなら……得意……です……けど」

 というわけで、体を動かすゲームで勝負。(ただしダンスゲームは除外。鐶はのろかった)

 今日びの遊興施設にあるものといえばエアホッケーかワニワニパニックぐらいだ。

 直接対決の前者は熱かった。両者とも武装錬金はおろか忍法や鳥の異能なしの真剣勝負。フェイントも駆け引きもなくただ
反射の限りを持って真っ向ガツガツと打ち合うのだ。
 ふたりはまだ年齢的に子供だからテンションが上がると

「鐶貴様卑怯だぞこら!!」

だの

「まけなーいぜ! まけなーいぜ! まけなーいぜ! ぞなもしーっ!!」

だの、地金丸出しで熱中する。様子は微笑ましいのに動きときたら神速vs神速というありさまで、ギャラリーたちはJr大会
の決勝でも見ているようにただ黙然と見守るほか無い。



 瞳を輝かせて右に左に小さな体をぴょんぴょん飛ばし。

 そしてドンドンドンドンふたりはテンションが高くなって、おおはしゃぎして、ふとしたきっかけで我に返って恥ずかしい思いを
するのだ。

 まだチワワだった忍びと河べりでボールの投げっこをしている時からそうだった。

 そうやって、思春期前の、まだ子供な子供らしいしくじりを彼らは共有してきた。

 ずっとずっと共有してきた。

 共有できるのが当たり前で──…

 この先もずっと、何かの拍子で、相手のそれが見られるのだと無条件に信じていた。

 逢ってまだ1年ぐらいなのに、一緒にいるのが当たり前で。



 だから、少し未来の、鐶と無銘は。





「とりあえず映画館には親子連れさん入らないよう調整。うっせーですからね。無愛想なブティックショップ店員さんは愛想よ
く。ゲーセンは苦労しやしたねー。ケンカしかけてる不良さんたちいましたから。落ち着けるの難しいんすよ」
『お疲れ様』
 ブレイクがちょこちょこ席を外すのを見たリバースだ。どうやらデパート内をうろうろしていたらしい。監視モニターの中に
ときどき現れるのを目撃した。客を、襲っていた。武器を出し、他者を無理やり意のままにするコトを襲撃というなら、ブレ
イクは確かにそれを繰り返していた。ただしハルベルトは部分発動、穂先が掌から1〜2cmほど出るほど些細な武装で、
流血もまたなかった。たとえば──…

 雑踏の中、いまから映画にと意気込む家族連れに、掌から、ピーコックブルーの雷を浴びせた。一瞬の出来事だった。
それこそ雷が閃いて消えるほど刹那。光を見た人間は何人も居たが、ガラケーのフラッシュだろうと気にも止めなかった。
以降、ブレイクは、衆人の群れの中で白昼堂々、静かな襲撃を繰り返す。

 一方、青緑系の雷撃を浴びた家族連れ4名は──…

「ムッ! 突然だが父さん達、本当に大切なことのお金を貯める習慣が芽生えた!」
「ロボット映画はキャンセルよ!! レンタルが出るまで待ちなさい!」
「わーい!! 50円で借りられる旧作になるまで待つぞーー!!」
「鑑賞料を学資貯金に回すぞーーー!!」

 眼球をグルングルンと回しながら彼らはうわ言のように呟いた。
 雷を浴びたのに火傷1つなかった。ニヘラと笑ったブレイクは静かに人混みへ消えた。

 そして遠くからやってくる無銘と鐶……。


 店の人間関係や、客どもの得手勝手に辟易しそろそろ転職を考えているブティックショップの店員には──…

 純白とミントグリーンの光。

「感じる……。負のパワーがむくむくと洗い流されるのを! 悪い縁から解放されたわ笑顔で接客ッ!」

 ドロドロとくすんでいたのがウソのように輝く笑顔。マネキンにやばいやばいと呟く子供達に笑えるほど心豊かになった。


 釘バットやチェーンを取り出し向かい合う不良の集団を柔らかなベピーピンクが包む。

「収まった! 攻撃的なホルモンの分泌が収まった!!」
「心のささくれ治ったらみんなトモダチ!! メシ喰い行くぞー!!」
「うぉーーーーーーーーーーー!!」



(映画鑑賞、無愛想な接客、ケンカ……ブレイク君は総てを……『禁じた』)
 それだけだけなら、看板の、禁止能力と相違はない。鐶と無銘のデートを阻む障害を特性で排除した、だけだ。
(問題は──…)
 なぜ親子連れや、店員や、不良の集団をピンポイントで『禁止』できたのか?
 モニターで見た? 確かに不良の集団は一目で一触即発と分かる。穏やからぬ雰囲気はカメラ越しでも察知できる。
 ブティックショップの店員にしても、機微に長けたものなら、無愛想だと分かるだろう。
 だが。
 親子連れ。

 彼らが襲われたのは、鐶たちと同じ映画を見るからだ。しかし何故それが分かった? モニターに映る彼らはただ普通に
談笑しながら歩いていた。前売り券やパンフレット、グッズの類は身につけていなかった。つまり外観からの
行動予測は不可能だった。にも関わらずブレイクは、ピンポイントで彼らを『禁止』し、遠ざけた。

 いや……そもそももっと前提となる大きな疑問がある。

 ブレイクは、親子連れたち、デートの障壁を先回りして取り除いていた訳だが──…

 なぜ先回りできたのか?

 鐶と、無銘が、どこに行くか分からなければ、そもそも先回り自体できないのだ。

 もちろん禁止能力を使えば、ルートを絞るなど造作もない。
 ただしブレイクはふたりの前に一切現れていない。そも彼は鐶の師匠だ。顔を見られればそれがもう釁端(きんたん)、
大戦争の幕開けだ。過去、無銘と逢ったコトさえある。当時は整形前の、火傷が目立つ風貌で、だから無銘に限っては
顔バレしないと言い切れるが、匂いを覚えられていればこれまたアウト。
 だから2人には近づいてさえいない。禁止能力もまた見舞っていない。

 にも関わらず、無銘たちがどこに行くか読み切り、来訪予定の場所を綺麗に均した。

 さらにドーナツショップに向かう筈だった無数の客……。彼らにいたってはブレイクは一切直接干渉していない。
 ただ、配電盤に、青紫の光を流し込んでいた。照明がわずかだが、青紫になった。

 ガラガラ。桜花たちと合流したからこそ盛り上がったアレも謎だろう。
 どうして彼女らをタイミングよく誘導できたのか?

(謎を解く鍵が……『真の特性』。禁止能力はその一環に過ぎないのよ。そして……真の特性は、弱い。総角主税にコピー
されても差し支えないほどね。ブレイク君だからこそ昇華している。もっとも言い換えれば、ブレイク君と、同じ経歴を持てば
総角主税……さんでも禁止能力は使用可能、だけど)

 思い出すのは毒島華花。毒ガスの使い手だ。もし総角がブレイクの武装錬金をコピーし、彼と同じように使いこなせるように
なったとしよう。それでも総角は、ブレイクほど、自由に能力を行使できない理由がある。ありえぬ話だが、毒島が、エアリ
アルオペレーターを『外したまま』、毒ガスを発するようなものだとリバースは思う。強すぎる能力。諸刃の剣。ブレイク以外が
ハルバートを使った場合、必ず跳ね返ってくる理由がある。

 総角がコピれないとリバースが思うのはそのせいだ。厳密に言えば「完全模倣しても、使いこなすのは難しい」。
 ……ブレイクと違って、明確すぎる弱点を、彼は有してしまうのだ。攻撃中の毒島がマスクを剥がされたが最後、大打撃を
負うような、そういう、弱点。


(まあいいわ。それより光ちゃん。光ちゃん可愛いわ可愛い! ぎゅっしちゃうぎゅっ!! きゃー!!)

 目を対立する不等号に細めて。
 リバースは無数の写真の束をぎゅっと抱きしめた。たわわな膨らみが重くつぶれた。
 写真はいうまでもなく鐶が中心だ。様々な角度から隠し撮りしたらしい。らしいというのは、どう撮られたか分からないから
だ。警備室のドアが開く。頭からつま先まで流行の、無個性な装飾に固めた若い女性が虚ろな目でデジカメを出した。ブレ
イクが顎をしゃくると部屋の隅にあるプリンタにSDカードを差込み現像開始。

 こんな調子で写真が沢山集まってきた。供出したのはそれこそ老若男女さまざまだ。若い女性はそのままふらふらと退室。
 操られているのは目に見えて分かる。だが……『操る』?、禁止能力では及ばぬ領域だ。ハルベルトの武装錬金、バキバキ
ドルバッキーの『真の特性』。いまだ明かされぬ能力を有している。

「どっすかー。光っち、楽しそうすか?」
 ブレイクはひょいとリバースの後ろに立った。顎を心持ち突き出しているのは、肩に乗せていいか伺っているからだ。
(本当甘えん坊ね。年上なのに)
 困ったように目を細めながらも特に拒絶は見せない。了解と受け取ったのだろう。柔らかな肩に顔を預け、ブレイクは
写真を1枚1枚検分し始めた。
「いいカオっすね。灰色にしか見えやせんが輝いてます」

 リバースは知っている。ブレイクは全色盲……2005年に改まった呼び方をすれば『1色覚』。それもとびきり珍しい後天
性のものだ(先天性の”数万人に1人”より更に少ない)。聞くところによると交通事故のせいらしい。頭を強打し、脳の色彩
を司る『腹側皮質視覚路3番目の領域(V4)』に何らかの障害を負ったという。
 だからブレイクの見る世界は灰色だ。ずっとずっと何もかもが灰色だ。
 リバースが彼をいとしく思うのは、そういう”傷”や”欠如”を共有しているからだ。生後11ヶ月で実母に首を絞められ、声帯
がつぶれ、癒着したリバースだ。大きな声で喋れなくなったせいで幼い頃から人の輪に溶け込めず、孤独を味わい続けた。

 そんな自分と彼はどこか似ている。救われもした。リバースはそう考える。

 事故前のブレイクは……優れた色彩感覚を持っていた。
 カラーコーディネートを施した、中学の文化祭の喫茶店は、学校始まって以来の驚異的な売り上げを弾き出した。色相や
配色をとっかかりに人間の『枠』を探る作業をますます好きになった。カラーコーディネーターになる。中学1年のころ抱いた
夢は高校2年生のとき灰色になった。

 そこから様々な栄光と裏切りを経て、人間の『枠』に限界を感じた。
 いまでは悪の組織の幹部だ。死に追いやった人間は限りない。

 リバースは想いを巡らせながら写真を見る。すぐ傍にある、ブレイクの息遣いに心が落ち着く。
『もうすぐ戦いだもの。ちょっとぐらい楽しんで欲しいから』
 虚ろな目の少女はそれでもどこか嬉しそうだった。ささやかな幸福を感じているようだった。
「にひひ。無銘くんもなかなかいいエスコートしたね」
 写真の中心からやや逸れた場所でしかめ面をする少年忍者をピンと弾く。なにしろ──…
「意識あるときは必ず腕ぇ握ってましたもん。枠も分かりやした。忍者すけどナイトすね。ナイト」


 目当ての少年または少女を見る2人の目は暖かい。

「戦うの楽しみす。お師匠さんの養子にして青っちの義弟すから」
『私も光ちゃんに沢山沢山、いっぱいいっぱい……『伝えたい』』

 いずれ戦う宿命を予感しながらも……暖かい。


「ありがと」。小さな声が警備員室に響く。

 頭をコツンと直撃し波打つ乳白のショートヘアーに青年は頬を緩めた。

 デパート西口。デパートの中でもっとも銀成学園方面に近い出入り口。


「帰るぞ」



 返事はない。
「帰るぞといってるだろう鐶!」


ふと手先から質量が消えているのに気付いて慌てて振り返る。鐶はいない。
消えている。泡を喰いつつ左右をグルリと見渡すと、遠くで、かなり遠くで、見慣れた赤い三つ編みがふらふらしていた。エ
レベーターめがけ歩いていた。





 


「なぜ勝手に歩く!!!」


 西口。外。叫ぶと無銘はぜぇはあと息をついた。膝に手を当て前屈だ。すんでの所で回収したはいいが、あまりに早く駆
けすぎた。車道に飛び出す子供を見た親がどんな気持ちかよく分かった。
「……再動で……修理…………です」
「はぁ!?」
 良く分からぬ単語が飛び出した。鐶は答える代わり眼前でゲーム機を振った。無銘は見たことがある。なんとかポータブル
という奴だ。鐶がお気に入りのゲームをしているのを良く見かける。一度すすめに応じてプレイしたが将棋より沢山のコマが
何やらゴチャゴチャ犇いていて良く分からなかったし大好きな白黒版の鉄人28号も出てないのでやめた。
 聞けば鐶、手を引かれている最中、急に思い出して始めたらしい。
「…………レベルを……7つ上げたら…………脱力……習得……です」
「知るか!!!」
「あ……補給のが能率いい……かも……」
「だから知らん!!」
「私は……ロボットとか……好きな子……です」
「知・ら・ん!! というか歩きながらするな!! 他の、歩いている人にぶつかったらどうする!!」
「…………いえ……無銘くんが…………案内してくれてるから……大丈夫かな…………と」
「……。貴様。そのゲームとやらは片手で出来るのか?」
「なに言ってるんですか……。両手……両手です……よ?」
 決まってるじゃないですか。むふーと鼻息を噴き、やや猫背気味で得意気に笑う鐶は何だか不気味だった。
 もうこの時点で鳩尾無銘の頭痛は最高潮に達した。本当怒鳴ってやろうかと思ったが、小札から慰労するよう仰せつかった
手前それはできない。
「鐶」
「はい」
「我が、我がだ。手を掴んでいるときゲームしようとしたらどうなる」
「振りほどき……ます」
 とても致命的な言葉を聞いた気がするが無視。
「じゃあ我から離れてしまうよな?」
「はい。離れ……ます」
 鐶はどこまでもボーっとしている。頭は結構いいのになぜ怒られているか分からぬようで。
「…………我からはぐれた理由、分かるか?」
「………………分かりません」

 小首を傾げる。まさに小鳥がそうしたという感じで可愛らしい。無銘自身ちょっと見とれかけたが首を振る。
 言い聞かせるよう、思う。
 駄目だ。根本的なところで噛み合っていない。いまはただ一刻も早く帰りたい。
「やた…………あとレベルを……1つ上げたら…………脱力……習得……です…………」
 もうしているではないか。気力50の少年。レベルアップのファンファーレがむなしく響くなか鐶はおもむろにポシェットをま
さぐって。
「ビーフジャーキー……食べます?」
「いらぬわ!!」
 しかしはたかれる。3本だった。宙をかっとぶ肉的嗜好品にシュババ、伸ばした舌を絡ませて見事にキャッチ。
 キツツキの特異体質。穴に潜む虫を食うため頭蓋骨表面を縦に一周してなお伸びる長い舌。軽く見積もっても20m超の
それを5分の1ほどボヤーとヌラリーと出すさまは、あたかもターキーレッドの生々しい棘皮動物が潜り込んだようでインモ
ラル。
 重力に従い一旦は垂れた舌が筋力で鎌首をもたげているのは、むろん尖端でビーフージャーキーを巻き取って持ち上げ
ているからだ。横から見ればちょうど「ひ」の字──とても巨大。3km先からも読めるほど──を描く少女の口腔器官から
粘っこい半透明が滴り落ちる。
 「もうやだこやつ」。無銘は太い眉をハの字にし肩を落とす。むかし小札の膝の上で見た日曜洋画劇場。幼い少年に徹底
的なトラウマを与えてくれたエイリアン。鐶の舌はそれだった。怯える反面、唾液にぬれ光る肉の鞭は、葉脈のように浮か
ぶ血管と相まってどこか淫猥だった。見知った少女の、力なく開く口の、磨いた象牙よりもツヤツヤ輝く乳歯の前からまろび
出ている、舌。生皮を剥いだヘビのような粘膜の、露出。無銘の心はズキリとした。度を越した性的な衝撃は興奮よりもむ
しろ先に心痛をもたらす……少年がそれを知った瞬間だった。
 丸く甘い果実。美しい花弁。『よりも』一種、醜を帯びた苦げな歪こそじつは淫靡なのだ。
 心臓は張り裂けそうで。だから思考回路は目下拡張中だ。
 勢い増す血流をそちらに上にと逃がさねば致命の醜聞は免れえぬ。
 ともかく社会通念上うしろ指を指されずに済む身体状況を維持しつつも、硬直し、一部を除いて棒立ちの体に脂汗を流す
無銘の前で、鐶の舌はぐぐりと動いた。デパートの出入り口にも関わらず一切誰にも見られずに済んだのは奇跡だった。
「ビーフジャーキー……食べます?」
「い!! いらんわ!!」
 すっかり鐶の唾でベトベトになったビーフジャーキーに赤面する。ちょっと太い針金程度の肉製品だがいまは故あって正視
に堪えない。
「…………他の、ありますけど………………」
「い、いや、いまは遠慮する」
「……あ。お腹いっぱいです、か…………?」
 うんといえば収まるだろう。ただもし腹が鳴るとやばそうなので(ウソがばれるとややこしい)、無銘は、そこそこ空腹だと
白状した。
「なら…………どうして……食べないの……ですか?」
「見たら、想像力が、やばい」
 それだけ言うのが精一杯だとばかり、無銘は真赤になって目を逸らした。ふだん生意気に吊り上っている金の瞳が熱く湿
りを帯びている。鐶は5秒ほど考えていたが急に背を向ける。舌が巻き戻った。収納ボタンを押された掃除機のコードのよ
うに不規則にくゆり。ビーフージャーキーがどうなったか考えかけた無銘は慌てて首を振る。舌ごと、唇に埋没するジャーキー
はいま考えるべき材料ではなかった。しかし鐶は想像されるコトを想像しているのか、背中越しでも分かるほどただならぬ雰
囲気だ。太い三つ編みはうなじの7割を覆っているが、残りの露出は確かに赤熱で。それが咀嚼につれて動くさまは、実情が
分からないからこそ逆にマズかった。つまりもう見えようが見えまいがどうしようもない詰みだった。そろそろ退避も視野に入
れ始めた無銘を、しかし鐶は肩越しに振り仰ぐ。流し目で、……ビーフジャーキーを1本、しゃぶったままで。
「……無銘くんの…………えっち」
 青黒く濡れた恨みがましい瞳。光なき眼差しはいまや虚脱の極致だった。だのに頬ときたら赤い。息も心なしか上がっている。
(や ば い !)
 無銘が電撃に打たれたように硬直したのは──…
 鐶がふらふら近づき始めたせいだ。
 見よ。ぎこちなく細まる垂れ目がちな碧い瞳。
 それは恍惚を恍惚として受容できぬ未成熟の証。熱くほとばしる情動の大部分をまだ苦痛としか解せぬつぼみの疼き。

 しかし確かに存する快美の泥に囚われて、少しずつだが蕩けてゆく。硬く、芯のある表情筋がまったくこなれぬまま未知の
刺激に犯されていくのは、ふだん日陰の花のごとくシンと佇む鐶だから却って艶かしい。
 時おりぐっと奥歯かみしめ情動に抑えようとする表情。
 一瞬よぎる苦痛を耐え脱力したところを運悪く横たわる心地よさの針先に貫かれ、一言も発さぬまま幼い肢体をビクリと
震わすさまは、瞳孔を見開くさまは、そして過ぎ去ったとき、生まれたての子馬のようにぶるりと一震えし、鼻先から細く長い
息をつき、長い睫を切なげに伏せるさまは、さすが全身穿つ義姉の虐待に耐え切った鐶ならではの忍辱だ。
「なにがあっても声1つ立てずやりすごせ」。そう教え込まれた習性に無銘の瞳に炎がともるのは、むろん年端もゆかぬ少
女を「元気な声など聞きたくもない」、残酷なエゴを押し付けここまで歪めたリバースへの義憤もあるが、若い獣特有の激し
い欲求にも立脚している。
 頬を赤らめ瞳を昏く湿らせる鐶。一言も発さぬからこそ……声が聞きたい。過剰に膨れ上がるものを決壊させたがるの
はどの雄にも備わる本能である。手を加え呱々の声を…………支配とはそれだ。

 いま醴酒の濁流を辛うじて受け止めている鐶に。
 
 強敵を見たときの熱く冷ややかな情動が全身を駆け巡るのを感じた。
 殺したいが、逃げたい。攻撃と逃走を同時に望む矛盾した想い。
 それにやや甘さを混ぜた実感は黄砂が吹き始めた頃のモヤモヤした疼きの原液だった。鐶。小札や、香美の持つ一種
健康的な魅力とはまったく逆を放っている。初めて風邪を引いた女児のような浮かなさで紅い。
 それが歩いてくる。
 妖しい雰囲気だった。あえなかな息。静かに波打つ発展途上の胸。細く引き締まった足。いつも野ざらしなのにシミも日焼
けも一切無いなめらかな踝。地面を踏みしめる指は童女のように丸く短い。そんな、ふだんは気にもかけない映像のひとつ
ひとつが少年の脳髄を麻痺させる今。張り詰めた、独特の、緊張感に促された少年の青い本能は歩き出す。制御も理知
もなかった。誘蛾灯に向かう虫のように少年は歩みだした。高熱に侵された夢遊病者の足取りだった。からからに乾いた
口内を潤す甘泉を思うとき見据えるのは唇だった。いますぐにでも吸い付き奥底で生鮮にぬめる朱桜の舌をついばまねば
収まらぬ渇きが無銘の息を荒げさせた。
 荒げさせつつもまだどこかに残る理性が、忍びとしての自制心が、すんでのところで飛び掛るのを抑えている。
 そうこうしている間にもう鐶は目の前で。
 しかもどういう意図か手をゆっくり伸ばしていて。
 無銘は混乱した。
 何もしなければ少女の好きなようにされる。それは、怖かった。自分より背が高くしかも強い鐶が、いつもと違う妖しい雰囲気
を孕んでいる。どういう目に遭うか分からなかった。街中……デパート前という場所柄は副長の高機動を考えた場合、まったく何
ら安全を保障するものではない。連れ去られ、人気のない場所で、遭う目はいかなるもの也か──… 
 どうなるか興味はあるがまだ怖いお年頃なのだ、無銘は。
 そもそも鐶にそういう感情を抱いたコトはない。ニュアンスとしては家族だ。或いは救うべき被害者で、任務を考えれば護衛
対象。手のかかる厄介な奴でもあり、だからこそ威張れる相手。少年らしい片意地はいつだって「こいつよりは上だし」と生意気
な見下しを以て鐶を見ている。なのに傷つかれたり悲しまれたりすると、病気の主人に右往左往する子犬のような感傷が
沸いてきてつい手をさしのべてしまう。
 要するに、よく分からない相手なのだ。
 で、あるがために、未知かつ恐怖の領域において蹂躙されるのだけは絶対に嫌だった。男子として取り返しのつかないレベ
ルで敗亡するのは絶対に避けるべきだった。
 ならば伸びてくる手を逆にひっつかみ少女を寄せて抱きしめれば間違いなく勝てるだろうが──…
 それをやると、無銘は、鐶に抱いている感情を、少なくても形而上において確定させざるを得ない。
 厳密に言えば、確定を認めなければ生ずる潜在的罪科を抱えてしまう。
 好きだから無理やりする。
 好きでないのに、した。
 忍者だからこそ人間らしい正しさに拘る無銘にとってそれらは禁忌である。
 逃れるためには好意と合意を確定する他ないのだが、それもできない。

 無銘にとってこの世で一番愛すべき女性は小札ただ一人なのだ。中村剛太が津村斗貴子を愛するように絶対的なもの
なのだ。小札だけが唯一で、鐶は、前述の通り、少年らしく「我は貴様よりすごいからなヘヘーン!」と論拠もなく見下してい
る。見下すことでしかモヤモヤする不確定な気持ちを整理できない。好意を伝え合意を引き出すのは矜持がゆるさない。
 八つ当たり気味に、思う。

(本当、鬱陶しい奴だ)

(ああ、鬱陶しい奴だとも。方向音痴の癖にぶらぶらするからな。世話が焼けて仕方ない)

(だが)

──「わわわわし、無銘くんのおいでる所ならドコでもかまんぞなもし!」
──「ほうよ! わし、ついにおおれるならええんよー!!」

 いくら邪険にしても、それこそカルガモのヒナのようにノソノソついてくる。
 つい辛く当たって「言い過ぎたか」、内心後悔しているときにさえ、気付けば何事もなかったように傍にいる。
 きっとそんな存在は、普通の10歳児なら学校で自然に得るのだろう。
 けれど無銘は異様な生まれ方をしたホムンクルスで。忍びで。
 普通の『普通』を普通に味わえぬ境涯だ。
 音楽隊で唯一同年代の鐶が、実はどれほど貴重か……分からぬ無銘ではない。

──「ビーフジャーキー……食べます?」

 好物だってくれる。鳥型だから鶏肉には本能的な嫌悪感を催す鐶だ。見るのも嫌な筈なのに、無銘のためにと買ってくる。

(……根はまあいい奴だ)

 音楽隊内では総角の次に強く、無銘が貴信や香美、小札と束になってかかっても敵わない。
 それだけの腕っ節がありながら、腕力に訴えて無銘を従わせたコトはない。
 チワワ時代あれこれひどい目に遭わされたのだって、彼女があまりに強すぎるせいだ。
 ゴリラの腕力と鶏卵の殻ぐらいの強度差が横たわっていたのだ、仕方ない。

 行為の対象になど、できない。
 無銘にとって。
 そういう儀礼を行うものは、いつか両親になるべきものだ。
 両親というものは、総角と小札のように好きあっていなければならない。

 鐶の感情は、分からない。
 ぼんやりとだが「いつか他の男を好くのだろうな」とさえ思っている。
 ワケの分からぬ狂奔で傷つけるのは、嫌だ。
 ただでさえ彼女は義姉に虐げられている。瞳の光が灯らなくなるほど徹底的に。

 なのに自らの勝手な情動を晴らすべく傷つけるなど──…

(同じではないか)

 無銘をチワワの体へ押し込めた憎き仇ふたりと。

 手は尚も迫る。無銘は決然と面を上げ──…


 殴られた。

「え……」
 びたりと硬直する鐶。何が起きたか理解しかねたが、確かに無銘は殴られていた。
 岩のように節くれだった拳にその顔面を、横から、メキメキ歪められている。
 殴りぬかれている真っ最中なのは疑いなかった。
 鐶が目をぱしぱししながら見比べたのは。
 伸びきったままの華奢な手と、いま無銘を殴りぬけて通り過ぎていく丸太のような巨腕。
 鐶が殴ったわけではない。にも関わらず無銘はげぶうと血しぶき撒きながら飛んでいく。

 どうしてこうなった?
 殴る? 誰が、何のために? 
 原状復帰の鐶は確かにみる。2mを超える巨大な人影を。鐶にとっては見慣れた、しかし最近はとんとご無沙汰の兵馬
俑が、野太い腕を、無銘の方へダラリと伸ばしているのを。犯人は、明らかだった。
(龕灯以外に無銘くんが持つもう1つの武装錬金! というコトはつまり──…)
 自らの武器で、自分を殴った。そしていまは錐もみながら飛んでいく。

「ふ、ふはは!! 我は急用を思い出したゆえ先に辞去する!!」

 哄笑を上げつつ傍の公園めがけ遠ざかる無銘。遊んでいた人々は上空をすっとぶ少年を見上げただ右から左に見送っ
た。
「後は兵馬俑に案内されるがいい!! いいな!!!」

 声はいつもどおり不遜を極めていたが左頬は潰れた瓢箪をつけたように腫れあがり髪ときたら落ち武者のように乱れている。

(いいなも何も……)

 やっと状況を理解した鐶はむくれた。要するに無銘、逃げたのである。

 清々しいまでの逃げっぷりだった。彼は甘ったるい状況から力づくで逃げたのだ。
 兵馬俑に殴らせるという奇行はつまり誤魔化しだった。まさにパンチの効いたアクションで相手の思考をかく乱したのだ。
真意を覆う考証的煙幕はさすが忍びといったところだが──…

 残された女性は当然面白くない。一瞬うつむきかけた鐶だがすぐに顔を上げる。
 そのとき差した西日の逆行のせいで表情は分からなかったが、唯一右目のあたりで一瞬ギラリとした閃光が瞬いた。
 そして彼女は歩きだす。目の周りを影に染めたまま。足取りこそ静かだが、名状しがたい威圧感が地鳴りのような音
を立てる。



「なんとか撒けたか?」

 茂みの影で無銘は呟く。落着したのはデパート横の銀成公園。の最外郭。木々と茂みの広がる憩いの広場。殴り飛ばさ
れている最中についたのだろう、枝や葉っぱをはたき落とすと、笑う。
「ふ、ふはは。そうだ最初からこうすればよかったのだ。兵馬俑に案内(あない)させとけば良かったのだ」
 頭には耳。犬の耳。武装錬金は1人1つだが無銘は例外。龕灯と兵馬俑を併用できる。どうも精神の問題らしい。無銘は
犬と人、2つを持っている。で、あるからして、その具現たる武装錬金も必然的に複数。そも動物型が武装錬金を発動する
コトじたい、既存の、錬金術的定義から大きく外れている。しかしチワワ時代抱いた人型への憧れはその不文律を覆すほど
激しく巨大だった。つまり兵馬俑は、犬としての無銘の精神が発動したものであるから、念願かなった今でも使役するには
禽獣としての類型を示すほかない。具体的にいえば犬耳としっぽが生える。かの早坂秋水との戦いでそれを発見した無銘
は、戦団に拘留されている最中ずっと克服を考えていたが、そも核鉄は没収されていたから実行に移せなかった。返された
のは毒島監視のもと銀成へ発つときだが、それは龕灯で戦団に状況を逐次報告するためだから、切り替えなどできようも
なくだ。
(着いてから防人戦士長さんが「いいよー」と言ってくれたので練習したが相変わらずしっぽ出てくるしっぽうぜえ)
 現段階では練習不足も相まって──そも人型になってまず優先するのは忍法再習得だった。兵馬俑越しに覚えた数々の
わざを肉体に馴染ませる必要があった。更にタイ捨流。忍者刀映えする剣法習得は急務だった。総角とふたりヒマさえあれ
ば速成に勤しんでいた。決戦は近い、とかく時間がなかった──発動時は犬耳としっぽが生える。いわば半獣半人の形態
になってしまう。
 ともかくも兵馬俑を発動しからくも難を逃れた無銘だが、やはり鐶が気になるとみえ茂みから元きた方をそうっと覗き見る。
「馬鹿っ! そちらは駅! 銀成学園はあちらなのだ!! くそう兵馬俑がせっかく誘導しているのに何故迷……あ、そうそう
そっちそっち。分かってくれたか良かった」
 遠くかすむ少女の一挙手一投足に怒ったりホッとする少年忍者は背後に何がきたか気付かない。
 ガラスの靴でも履けそうなか細い足の甲が一歩踏み出す。迫る影。細い足が彼めがけ静かに前進し──…
「何やってるのアナタ」
 肩に浴びせられた声は氷水のように冷たく、だから無銘はギクリと振り返る。
「いいわねホムンクルスは。ヒマそうで」
 2m先に立っていたのは金髪碧眼の美少女。腰まである艶やかな髪を筒で小分けしているのが特徴的だ。目はひたすら
棘を帯び、無銘のふるう忍法薄氷(うすらい)より絶対零度。不機嫌そうだがそれが平常、デフォルトだ。
(ヴィヴィヴィヴィクトリア=パワード!!)

 声にならない悲鳴をあげ尻餅をついたのは、先日些細なきっかけで争いそして負けたからだ。数多くの忍法を持ち、秋水
さえ徹底的に梃子摺らせた無銘だが、ヴィクトリアのような、広範囲を支配する巨大な武装錬金の持ち主相手だと流石に
分が悪い。かの敵対特性……兵馬俑に攻撃されたものが標準およそ3分で創造者に牙を向く反則的能力こそ有している
が、対象が例えばバスターバロンのような規格外のサイズを誇る場合、話はまったく変わってくる。3分ではすまないのだ。
実際試したコトはないが、総角の解説によれば、3時間……ともすれば3日かかってようやく発動する見込みだ。
 それゆえヴィクトリア操る避難壕の武装錬金、アンダーグラウンドサーチライトに運悪く敗れて以来、どうにも恐怖心が
よぎってしまう無銘だ。
「ところで聞きたいコトが……」
 口を開くヴィクトリアだが、やにわに黙る。ある一点を見てから黙りこくる。
 視線を追った無銘はやっと気付く。いまだ燃える男性的な残り火に。いよいよ進退窮まらなくなった象徴的な高ぶりに。
「ふーん」
 ヴィクトリアは衣服越しに高ぶる”それ”をしばらく眺めていたが突然鼻を鳴らし薄く笑う。心底小ばかにしていた。
「ち!! 違う!! 貴様に怯えたから縮……い、いや!! おしっこがだな、漏れそうなゆえこーなっただけであって!!」
 股間を抑え目を赤く腫らせて抗弁する無銘は女のコ座り。そこにティッシュが投げつけられる。
「恵んであげる。トイレ行きたいんでしょ? 使いなさいよ」
「貴様!!」
 がばっと無銘は立ち上がる。しらけた様に目を薄めるヴィクトリア。
(ハイハイ。どうせ必死に自己弁護するんでしょ。見苦しい)
 果たして無銘は血相変えて詰め寄った。
「あのな!! ポケットティッシュは水洗トイレに流しちゃいけないのだぞ!! 詰まる! 他の人とか業者さんが困る!!」
(そこ!?)
 珍しく目を見開き後ずさる。身の丈5cmは低い少年の気魄につい気圧されたのは、思わぬところから攻撃されたせいで
もあるが、何より言葉が正しいからだ。話題を逸らすためではなく、ただ真剣に訴えるひたむきさ。性根のねじくれたヴィクトリ
アはまったくそういうものに弱い。弱くなければかつて地下で秋水とまひろに説き伏せられたりはしなかった。
「というか何でヴィクトリア姐は来ているのだ」
「……ちょっと待ちなさいよ。なにそのヴィクトリア姐って」
 無銘はここでやっと従来の苦手意識を取り戻したらしい。ちょっとオドオドした様子で視線を外し、外しながらも鐶の様子だ
けは抜け目なく確認しつつ
「だって呼び捨てると叱られるし……」
 拗ねたように呟く。あどけない様子にヴィクトリアは心中の黒い凍結が溶かされるのを感じた。弟。もし人生が普通なら獲
得できたのだろう。早坂桜花の気持ちが分かるほど、使命感と責任感と、時おり訪れる一抹の幼い敵意を以て、面倒を見
たのだろう。
 そういう空想を、強く振り返るコトなく、ただフワリと撫でるようにするだけで、なんとなく満たされた気分になるのは、きっと
心が回復した証だろう。それが感じられて嬉しかった。
 尊大だと思っていた無銘が、ホムンクルスが、存外人間らしい正心と、少年特有の純朴さを持っているのも救いだった。
望まずして「なってしまった」人外の少女にとって、いわゆる「普通」ではない同属は、言葉にこそ出さないけれど、「こういう
生き方だってできるんだ」と勇気付けられる思いだ。錬金術を錬金術というだけで嫌っていた時代はもう終わる。終わらせな
ければならない。ヴィクトリアは白い核鉄の開発に乗り出した。助力したい、そう見初めたパピヨンは、かつて抱いた世界への
厭悪などとっくに超越している。悠然と空行く彼に憧れた以上、努力はもはや避けられぬ。
 ヴィクトリアは、超えたい。
「かつて」を。
「降りかかった邪悪な意思」を。
 父を討たさんと怪物に変えた錬金戦団は今でも許す気にはなれない。だが、だからこそ、辛苦に至った原因は正しく見据
えなければならない。経緯を見つめ、恨むべきものとそうでないものを、ちゃんと区分し、実態を正しく、ありのまま見られる
ようならなければ、白い核鉄という命題は絶対に解けない。
 世界は、篭った地下で100年思い描いていたほど悪意に満ちていないのだから。
 漆黒の陥穽に堕ちそうなとき、手を差し伸べたのは秋水とまひろ。
 暖かな恩義と邪悪な意志。どちらを心におくべきか考えるまでもない。

 錆びた怒りや怨恨を晴らす最大の復讐は結局「正しく生きる」なのだ。殺害や破滅を叩きつけても待ち受けるのは同一
化。嫌いぬいていた筈の邪悪な意思”そのもの”になるだけだ。
 カズキを刺してしまった秋水。
 まひろはそれを知りながら、決して責めたりしなかった。
(アナタ自身、傷ついているでしょうに)
 カズキは月に消えた。家族を失った傷心は痛いほど分かるヴィクトリアだ。なぜなら父は、彼と居る。
 まひろは、かつて思っていたほど能天気ではなかった。むしろ純真すぎるからこそ、突如降りかかった離別に人知れず
悲しみ苦しんでいる。なのに周囲を慮って務めて明るく過ごしている。それは強さで、ヴィクトリアにはないもので。秋水を
今でも少しずつ救っていて。
 だから彼はまひろを救いたいと願っている。半分はきっとまだ贖罪気分なのだろう。だがヴィクトリアの見るところ、もう
半分はもっと根源的な人間としての感情だ。青年らしく少女を大事に思っている。
 犯してしまった罪科は簡単には消えない。100年経っても怨恨に凝り固まっていたヴィクトリアだから強く思う。たとえ被
害者が許しても、真摯な者はずっと苦しむ。
 けれど、奪おうとした命を、今度は見事救えたなら。
 間接的でも構わない、絶望的状況をひっくり返す一助になれば、少しは彼の、恩人の罪悪感は薄まるだろう。
 まひろもきっと笑えるようになる。かつての、まだ両親が人の形を留めていた頃のヴィクトリアがそうしていたように。
 だから彼女はカズキを救いたい。秋水とまひろが大事に思う存在を、人間に戻したい。
 ゆえに白い核鉄を……作る。
 それは憧れるパピヨンの悲願と重なる。叶えるには、超えるほかない。
 憎悪を抱いたまま熟達できるものなど何一つないのだ。
 
 いつか疑った「人を幸せにする錬金術……果たしてあるのか?」
 いまは分からないが、無銘はその端緒のようだった
 ホムンクルスという、嫌悪していた存在の一粒を、パーソナリティを、知る。
 凝り固まった先入観をほぐすには必要だ。

 それでもいきなり好意的にはなれないので……からかう。

「いま見ていたのは例の副長? 出歯亀なんていいシュミね」
「違う!! あやつはちゃんと見ておかねば危なっかしいのだ!! ドコ行くか分からん!!」
「あっそう」
 眇めるように見下しながらヴィクトリア。顎を軽く引きつまらなそうに呟いた。
「じゃあちゃんと見ておきなさいよ」


「もう遅いけど」


「ふぇ?」
 気の抜けた声が漏れるのと腰の辺りにはみ出たカッターシャツの裾が掴まれるのは同時だった。
 もしいまだ龕灯を展開していれば見えただろう。青黒く引き攣る無銘の背後に佇む赤髪の少女を。
(目! ちょっと逸らした隙にもうここまで!!)
「忍者ロボめ……」
 頚椎が錆びた音を奏でる。短時間で二度もおっかなビックリ振り返ったからだ。そして飛び込む大きな顔。
「私の経験値…………返せ…………です」
 鐶は泣いていた。虚ろな瞳を、ぐしゃぐしゃに丸まった黒い糸くずのようにして。細長い涙は悲壮というよりむしろユーモラス。
固く結ばれた唇ときたら最大限うえに引っ張るものだからカルデラほど台形で不恰好。先ほどの妖しい艶かしさはもうどこへ
やら。安心したようなちょっと失望したような複雑な無銘だがツと気付く。
「マテ。兵馬俑はどうした。おかしな動きしたら止めるよう仕込んでおいたのに」
「んっ」
 涙目の鐶は振り返り後ろを指差す。まず無銘が見たのは左足首だ。そのちょっと後ろに右手首。以下、50cm間隔で、右腕、
左足、首、胸、腹が点々と転がっている。邪魔なの薙ぎ払った。事もなげに告げる鐶に無銘は思い知る。
(やっぱこやつ強い……。くそう。早坂秋水でさえ結構苦戦した兵馬俑なのに……)
 一方やっと赤い髪のニワトリ少女は気付く。ヴィクトリアに。
「く、曲者じゃ……であえであえ……」
「我を押すな!!」
 両手でぐぐっと無銘を押しやる鐶に嘆息するのは欧州少女。
「ひょっとしてアナタ私のコト忘れてる?」

 鐶はちょっと目の色を変えてから考え込む。表情は相変わらず暗く変化に乏しい。公園からの喧騒が空しく響く。風が木の葉
とワルツしながら三者の間を通り過ぎた。カタツムリの親子が4匹剥きだしの足の甲を横断する。最後列の殻のないナメク
ジが遠ざかってもなお眉一つ動かさない。死んだと言われても信じるほど立ちすくんでいた。奥州の弁慶だった。
「…………私もヒマじゃないんだけど? さっさと答えてくれる?」
 苛立たしげなヴィクトリアに「無理もない」と頷く無銘。弁護の余地がなくなるほどに沈黙は、長い。
「覚えてますよ……。ハイ……覚えていますとも……」
 真黒なジト目を明後日に向けながらやっと鐶は呟く。ヴィクトリアは静かに瞑目。こめかみには血管。浮かび上がる血管。
「でも……回答権は……無銘くんに…………あげます……。花を……持たせて……あげます…………。感謝して敬え……です」
「だからなぜそんな上から目線なのだ!!」
 口調こそしっとりしているが凄まじく不遜な物言いだった。無銘はただギョッとする他ない。
「ああもう分かったわよ。覚えてないのね」
 鐶はちょっと頬を赤らめ頷いた。
「はい…………。かつてブレミュと戦士の間で繰り広げられた戦い……。私に成すすべなく……1人……また1人と…………
倒れていき……いよいよ後は……斗貴子さんを……倒すだけ……というとき…………いよいよ最後の激突に入った私たち
の間に…………突如天井の穴から……飛び降りて……割って入ってきた…………私が……うっかり……沙織さんと間違えて
…………総ての年齢を吸収した…………敗因……の…………ヴィクトリアさんだとは…………ちっとも……分からない、です」
「知ってるじゃないの……」
 怒る気力が削がれた。どこかまひろと喋っているようなかみ合わなさを感じた。脱力、した。
「うふふ……引っかかった……引っかかった…………」
「貴様ちょっと逆恨みしとるだろ。姐さんのせーで負けたと」
 腕組みしてゾンビがドヤ顔してるような得意気を見せる少女に無銘は嘆息した。
「あと……無銘くん……イジめたら……ダメです……。ダメよダメなの……ダメですよ……です」
 明らかにヴィクトリアの雰囲気が硬くなった。無銘はかなり青ざめた。「やめろあまり刺激するな」。小声で忠告するがしか
し鐶は止まらない。
「勝ったらしい……ですけど…………それは……無銘くんが……優しいから…………です……。ムリヤリ……ホムンクルス
にされた……ヴィクトリアさんに…………自分の境涯を重ねて…………危害加えたくない……と……甘甘な……感傷で……
本気出せず……負けた……だけ……です……。調子……乗ったら…………ダメ……です」
「……」
 ヴィクトリアは一言も発さない。しかし元来冷酷を体現したような眼差しがいっそう凍っていく。眉もかなり引き攣っている。鐶
は鐶で無銘の無言のジェスチャーを黙殺し言葉を紡ぐ。ひどい修羅場だった。
「こんなんじゃ私…………ヴィクトリアさんを守りたくなくなっちゃう……です」
「アナタ鬱陶しいわね。かなり」
(マズい! このふたりの相性はかなり最悪!! どうなるのだコレから! どうなってしまうのだーーーーーーーーーーーー!!
 無銘は両手で頭を抱えた。



「そこで……集中……使うとか……スジが良い……です。そう、運動性的に……必中使わなくても……当たる……です」
「こんなの分かって当然よ。計算式使えばいいだけだし」
 数分後、彼女らは仲良くゲームをしていた。ベンチに座って携帯ゲームをガチャガチャするヴィクトリアを、鐶が後ろから
覗き込む格好だ。
「って仲良くなってるし!!」
 予想外の展開にビックリの無銘。発端はこうだ。鐶はいきなり「それはともかくスパロボ……しましょう……」と言い出した。
脈絡ない申し出にヴィクトリアは「ハァ!?」と言った。無銘がガタガタ震えるほど拒絶と高圧に満ちた「ハァ!?」だった。
しかし鐶は「こーいうゲームの……最速クリア動画……ネットに上げたら……友達みんな褒めてくれますよ……。まぁ……
私は……友達……いませんが……」と言い出した。いやそんな言い方で食いつかないだろと無銘が思ってると、ヴィクトリア
は「やるわ」と即答。「やるんだ……」。あきれる無銘をよそに、ちょっとカオを赤くして「千里褒めてくれるかな」とボソボソ呟
いていたのが印象的。で、現在。
「この敵、体力減らすと逃げるんだけど」
「…………このユニットの……この武器……使う……です」

「攻撃力すごく低いのに?」
「実は……装甲ダウンレベル1の……効果……あります……。装甲下げて……撤退ギリギリまで削ってから……援護攻撃
……使う……のが……鉄板……です」
「なるほどね」
「インターミッションで……強化パーツつけて……武器の地形適応Sにするのも……地味ですが……効きます」
「確かそれやると攻撃力が1割増しなのね?」
「はい……増し増し……です」
「そう。増し増しなのね」
「増し増しなのです」
 からかうように混ぜかえすヴィクトリアに鐶は大真面目に頷いた。
 買い物が変なコトになってきた。無銘はあきれる一方、珍しく同年代の、それもホムンクルスの少女と遊んでいる鐶に少し
だけ嬉しくなった。ずっと纏ってやまぬ孤独の影がいまは少しだけ薄らいでいる。きっとそれこそ本来あるべき姿なのだと
心から、思う。
「ってゲームしてる場合じゃないわよ!!」
 いきなりヴィクトリアは金切り声を上げた。だいぶご立腹らしくゲーム機は頭上高々だ。すわ叩き付けるのかとやっと修復した
兵馬俑ともどもキャッチに向かう無銘だが、ヴィクトリアはやおら手を止める。
「……返すわね」
「返されました」
 返却は、生後間もない子猫を受け渡すように優しく行われた。
 良かったゲーム機壊されずに済んだ。ホッとする無銘の鼓膜を叩くは落胆。
「よく見たらもう夜だし……。早く帰ってアイツの晩御飯作らなきゃいけないのに……なに遊んでるのよ私…………」
 ベンチの上で体育座りし俯いてバーコード状の影を背負う少女に、
「いいのです、たまには遊ぶのもいいのです」
 優しく語りかけ肩を撫でる鐶。
(姐(あね)さん。結構ノリノリだったな姐さん)
 そも1世紀以上前に生まれたヴィクトリアだ。コンピュータゲームなるものがまだ珍しくて大変楽しいらしい。加えて来歴が
来歴だからフラストレーション溜まりまくりだ。敵機を撃墜するたび鋭い瞳が攻撃的な恍惚に彩られるのを無銘は見た。
坂口照星みたいな声の中ボスは戦団退治とばかり意気込んでいたし、逆に鐶のプレイデータでネタバレ的に見たラスボス
は「パパみたいな声ね」とやや打倒に躊躇し、すごい合体攻撃を見ればやや驚きながらも「ふーん。それなりにすごいわね」
と冷笑交じりの評価を下し、溜まったポイントでパイロットをどう育てるか一生懸命考えるさまは意外にあどけなかったり、
とにかくとにかく色んな表情を見せていた。外見年齢相応の瑞々しさが戻ってきているようだった。
「というか……ここに…………何の用事で……きたのですか……?」
「デパートで買い物よ。武藤まひろに呼びつけられたの」
 そういってプイと顔を背けるのはツッコミを予見したせいか。果たして鐶は予測どおり、ちょっと考えてから、いう。
「まひろさんの……お誘い……受けたの……ですか」
「……」
「私が……沙織さんに化けてたころは……あんなに……でぇきらいだオーラ……だしまくりだったのに……打ち解けてる……
の……ですね」
 答えない。公園の青い闇の中で柔らかげな頬がちょっとだけ赤らんだ。無銘は「アレ?」と腕組みほどく
「武藤まひろ? 待て。あの少女ならしばらく前ココ通ってたぞ」
 何ですって。冷たい瞳が砥がれた。灯る光は疑念と怒り。カクテル名:「何で教えてくれなかったの」。
「い、いや、『わーびっきーだー。でもゲームに夢中だから邪魔しちゃ悪いしココは素通り! 何を隠そう私は空気を読む
達人よ!』とか何とか言いながら帰っていった」
「……アナタ忍者の癖に声マネ下手ね。というか気持ち悪いんだけど?」
 気持ち悪い!? 少年は白目を剥いた。
「だって姐さん……めっちゃ夢中……でした……し」
「う、うるさいわね。文句なら敵に言いなさいよ。何で急に一撃で沈まなくなるのよ」
 やや目を三角にし抗弁する。すっかりお気に入りのようだ。
「というかその呼び方アナタにまで伝染してるし……」
「フフフ……。無銘くんが言うなら…………マネ……です。フフフ…………」
「あっそ」
「あと……このフフフは…………デッドエンドシュート……な人の…………マネ……です……」
「あっそ」
「私は……モノマネ……好きなのです……!」
 鐶は拳を突き上げた。眉毛もシャキっといからせたが、瞳は相変わらず虚ろなままだ。
「だから……友達に……なりましょう…………」
「ならないわよ。というか何でそうなるのよ?」
「しょぼーん……です」
 独特なペースにいい加減嫌気が差したとみえヴィクトリアは渋い顔。
「あと……まひろさん…………帰る旨……メールで伝える…………そうですよ……。ソースは私のメール……です」
「最初に言いなさいよ……ソレ……」
 ぼやきながらケータイを開いたヴィクトリアは、淡い光のなか瞳を左右に這わす。やがて鐶発言の裏づけがとれたのか、
パチリ、小気味よく畳みポケットへ。機嫌はちょっと良さそうだ。
「ゲームやってていい。そう言われたに違いない」
「あの目は……間違いなく…………そうです……。あの目…………。Cougarさんのアイドルビデオ1日中見てていいと言わ
れたお姉ちゃんと…………同じ目……」
 ボソボソ囁きあう無銘と鐶にヴィクトリアは一瞬なにかを言いかけたがしかしグっと押し黙る。どうやら図星だ。それは屈辱的
沈黙に赤く染まる面頬から見ても明らかだ。
「たとえそうだとしてもアナタたちには関係ないでしょ。だいたいゲーム機返したし」
 ツンと済ました顔がたじろいだのは、鐶が先ほどのゲーム機を差し出したからだ。食指が動いたらしい。反射的に手を
伸ばしかけたがすぐ引っ込め鼻を鳴らす。指摘どおりだと認めるのがイヤで仕方ない……そんな風だ。
 なのに。
「姐さん……。遠慮しなくて……いいです……よ。本体も……ソフトも………………沢山……あります」
 ギョっとしたのは箱のせい。20はあるだろうか。鐶の広がる両手にあたかも出前そばのように重ねられ、聳えている。
総て辺と辺がビッタリひっつくさまは梱包機械が揃えたより緻密。右手に本体、左手にソフト。おのおの、10。
「……買いすぎだろ貴様」
「大丈夫…………です……。ブレミュのお金は……使ってません」
「ならいいが」
「はい……お姉ちゃんの財布から…………コツコツくすねたお金で…………買いました」
「何やってるのだ鐶おまえ何やってるのだ」
「天罰です、よ。少しは痛い目見れば……いいのです。フフフ」
「グルグル目で笑うな! 以前から言ってるだろ! 怖いからやめろと!!」
 あとでヴィクトリアは知るが、鐶は義姉から虐待を受けていた。ばかりではなく目の前で両親を惨殺されてもいる。いろいろ
募るものがあり時々思わぬところから、バレないよう、報復していたらしい。
「というかだ。古人に云う。貸す時の仏顔、済(な)す時の閻魔顔」
「いえ……あげます…………よ? 取り立てるとか……しません」
「偉そうに云ってるが貴様それ盗んだ金で買ったものだからだな」
「どうぞ…………保存用観賞用布教用もみがら食べるときに眺めて食欲増進する用……いっぱいあります……」
 塔のてっぺんで影が動く。伸ばした舌だ。箱を弾き飛ばし口に戻る。ヴィクトリアは、まるで妖怪あかなめか超高校生級の
殺人鬼かというぐらい、先が戯画的カモメよろしく割れた長い舌を、伸ばす、鐶を見た。見ていた筈なのに、直撃を受け、
ねっとりと唾液にぬめる大小の箱2つ、反射的にキャッチした。してしまった。
(やってしまった……。またよ。学習しなさいよ私)
 力なくくず折れるヴィクトリア。細い足を横すわりに揃え手をつく。俯く顔に影が差す。
 いつだったか、パピヨンが股間から出した紙を、今よろしくキャッチしたコトがある。その後悔がまったく役立っていない。
暗澹たる思いだ。両手を持て余していると、無銘が無言で忍び寄ってきた。差し出されたのはハンカチ。痛ましい、同情的
な顔に総てを悟る。きっと彼もむかし”やらかした”。分かち合える何かが心を溶かす。「……貸しにしてあげるわ」。ぶっき
らぼうな少女にしては破格の礼だ。
「……というかゲーム渡されてもするヒマないんだけど」
 正確にいえば「現を抜かしたくない」。忙しいのだ、彼女は。例の白い核鉄の製造にいまは全力投球すべき時期。しかも
パピヨンの身の回りの世話もある。昼は昼で学校がある。演劇部は発表を控え忙しいし、その手綱もまたパピヨンから渡さ
れている。というコトを述べると鐶は──…
「なるほど……。姐さんは通い妻、なのですね……」
 合ってるような合ってないようなコトを云う。ヴィクトリアは瞬間、頬がカッと熱を帯びるのを感じたが咄嗟に言葉は出てこない。
「主婦だな。師父から聞いたがあのパピヨンとかいうのは病弱……。きっとシーツとか洗濯しているに違いない」
「あとシチュー煮込んでるかも……シチュー……。ブロッコリーがくたくたになるまで……煮込んだ……消化の良い……シチュー……」
「してたら悪い?」
 してるんだ。おおーというさざめきが少年少女を行き過ぎた。どうも彼らは心底感心しているらしい。
「シチュー煮込めるのはスゴイ。大人だ」
「大人……です」
(え、そうなんだ?)
「カレーは子供だ」
「子供……子供……」
(違いが分からない……)
 よく分からぬ論理だが、一種尊敬を帯びた眼差しで見られるのはそう悪い気分でもない。結局こどもなのだ、ふたりは。対
するヴィクトリアは100年以上、それこそ鐶が総て吸って人類最高齢に達するほど生きている。そういう優位性を確かめると
いろいろ萎れていた感情が復活する。
 しゃんと腰をのばし顔を凛々しくする。話す姿勢。無銘と鐶は食いついた。
「いい? アイツの世話は本当大変なのよ。例えばこの前なんか──…」

 愚痴とは結局誇示である。耐えたり凌いだりした自分がどれほど偉いか標榜する行為である。ヴィクトリアはパピヨンがい
かに難物かを語る。正義感に溢れる無銘など義憤に燃えた。だいたいにして女性は男性を惚気以外で語るとき、常に不当に
歪めている。自らの落ち度は隠し、相手には毛を吹いて瑕を求め。子供は、いつだってそれを知らない。親権の大半が女親
に行くのはそのせいだ。そろそろ女子から女性になりつつある鐶は、ときどき「本当かなあ」というカオをしつつ、やっぱりヴ
ィクトリアの苦労話に感心したり同情したりだ。妙にどきどきした表情なのは、男女の関係の進捗率に興味たっぷりなせいか。
流石に──少なくてもヴィクトリアから見える範囲のパピヨンは──まるで無関心で指一本握らないとは言えない。自然、
話は艶っぽくない。ご飯が冷たかったら怒るとかそういう所帯じみたものになる。
「奥さんだ」
「完全に……奥さん……です」
 好感触。満更でもないヴィクトリアだが「ただの研究仲間よ」……相手に生活能力がないからやむなくやっているのだと敢えて
強く主張する。一種の惚気だった。
(というかパピヨンすごく年下だよな?)
(ひ孫ぐらい……年下です…………。姐さんめっちゃ……蝶・姉さん女房……です)
 ホムンクルスならではの年齢差に気付いたふたりだが、そっとしておく。口には出さない。
「いい? だからゲームなんてやってるヒマなんかないの。今日だってアイツの食事の材料買って帰らなきゃいけないし。掃除
もあるしもちろん研究だって」
「姐さん忙しい」
「姐さん忙しい……」
 ぱらぱらと呟きが漏れた。それでも声は、子供らしく、大きい。元気な証だ。ホムンクルスという怪物でありながら、彼らは
人間性を清らかなまま保っている。何気ない光景。けれど彼らの”ありのまま”は、ヴィクトリアが向かうべき錬金術への嫌悪
を削いでくれる。錬金術の産物総てが胸に突き刺さる黒い刃でないコトを教えてくれる。

 一瞬、まひろと秋水が胸を過ぎり。

(…………)
 少し微笑が浮かんだ。
 改めて感じる。
 世界は、鎖された扉の向こうは、決して悪い景色ばかりでない……と。

 だからこそ、手中にあるゲーム機とソフトを返したくなった。
 拒絶というより、対価だった。ずっとホムンクルス嫌いを標榜してきたヴィクトリアだからこそ、いま突然かれらと完全なる
融和を図るのは、矜持に賭けてできなかった。嫌悪を催さないコトと嗜むコトはイコールのようで違うのだ。茨の道の足元
に佇んでいる橙の小さな花を綺麗だと思いながら、語りかけるのが何だか恥ずかしいというか、その姿を誰かに囃される
のが腹立たしくて、でも一瞬心を解きほぐされた礼に、朝露にじむ細腕を下へ傾け振りまくような複雑な感情。用益を受け
ず、相手方を「持ったまま」にするのが、せめてもの対価だった。

「でも……」

 鐶はちょっと逡巡してから云う。

「ヒマな時に…………すれば……よい……です。………………忙しいからこそ……息抜き……すべき……です」
「……」
「最近の…………姐さん………………忙しいのは……分かってました……。傍目からも……疲れてるの……分かりました。
だから……ゲーム………………あげます…………。好きなときにすれば……よいのです…………。息抜きは……大事……
……です。ほどよくガス抜きしないと…………お姉ちゃんみたく……頭……おかしく……なります……」
「だから貴様は、義姉を何だと」
 救う気あるのか。渋い顔の無銘をよそにヴィクトリア。ため息まじりに瞳を尖らせた。
「あっそ。でも施しは受けないわよ」
 すわ怒るのかと身を硬くする少年忍者。だが危惧と裏腹に浮かんだのは冷笑。ニヤリとした皮肉交じりの笑いだ。
「いい? 飽きたらすぐに返すから」
 どうやら受けるコトにしたらしい。軟化は鐶の朴訥な配慮ゆえか。
(……いい話のようだが)
 少し狭まった鐶とヴィクトリアの距離に喜びながらも、無銘は思う。
(それ半ば盗品だぞ姐さん。盗んだ金で買った奴だぞ姐さん)
 いいのだろうか。答えは出ない。会話だけが進んでいく。
「たまには……スパロボ……談義……しましょう」
「ヒマ潰し程度ならね」
「じゃ早速……薔薇で……3号な……でっかいウサギ…………。参戦したら……パイロットの人…………が、最後に覚える
の……きっと、直撃でしょう……ね。そんな、そんなカオ……です」

「ヒマ潰し程度って言ったでしょ。だいたいそういう話なら仲間とすればいいじゃない」
 さっそく切り込んできた鐶にヴィクトリアはちょっとムっとした。不躾で馴れ馴れしく思えたのだ。これはホムンクルスへの
嫌悪というより100年の重圧が育んだ偏狭ゆえだ。
「話……ですか。香美さんは…………「そもそもゲームって何じゃん」というレベルで……論外…………です」
「辛口ね。ま、人のコトは言えないけど」
「ただ…………香美さん、全シリーズの全ユニットと全パイロットのデータ…………カンペキに暗記……してます」
「ゲームできないのに? 無駄ね……」
「貴信さんは……貴信さんなだけに…………スパロボやらせてもつまらない……です。むしろ作れ……です……。早く因子
そろえろ…………です…………」
「何ソレ。ちょっと意味がわからないわ」
「霧さん……OGでは…………どうなる、のでしょう……」
「知らないわよ」
「じゃあ貴信さん……です。強いて言うなら……初回プレイからすでに…………攻略本片手に……敵の位置とか……調べ
て…………戦略を練るの…………ですが……敵の座標とか……援護攻撃の……把握が……あまあまで……陣形がぐだ
ぐだになり……結局苦戦……です……。でも……図鑑は…………コツコツやって…………埋めます。全部、埋めます……」
「暗いわね。何と言うか」
「サルファの……ドミニオンは…………空気読め……です」
「だから知らないわよ」
「リーダーは……例えばフル改造ブルーガーの…………自爆と……復活の繰り返しで……ワンターンキルするタイプ……
です…………。模範解答ですが…………誰でもできるし…………あまり見てて面白いプレイじゃ……ない、です」
「でしょうね」
「小札さんは……初期配置の敵が……あまりに一箇所に集まりすぎで……増援来るの丸分かりなのに……最初の敵めがけ
…………全軍進撃させるタイプ……です。で、……反対方向に来た増援にあたふた……して…………向かっている間に……
規定ターン数を超え……熟練度……取り損ねたり……ゲームオーバーになったり……します……」
「…………(← 身に覚えがありすぎる)」
「無銘くんは…………「ええい何で将棋っぽいのと小説っぽいのがごちゃ混ぜなのだ!」と怒るばかりで……覚えません……。
にゃんとワンダフルで…………子犬と戯れているほうが……いいそう……です。古いしそもそも……犬が犬、飼ってどうする……
です……」
「きっと犬仲間が欲しいのよ。寂しいわね」
「……猫に首輪つけて繋ぐ……キティちゃん」
「人間が人間監禁するようなものね。異常よアナタ」
「異常!?」
 突然話を振られた無銘は白目を剥いた。ただ子犬と遊ぶのが好きなだけなのに……。
「あと私が覚えそうなツイン精神コマンドは……同調……です」
 なおもボソボソささやく鐶にあきれたのか。ヴィクトリア、首だけ動かし無銘を見る。
「このコひょっとして痛いコ?」
「…………」
 否定はできない。というか既に鐶が何を喋っているかまったく分からない無銘だ。
「闘志でも……可! ……です」
 力強く断言するニワトリ少女。しかし瞳はやっぱり虚ろだ。

 そんなこんなで他愛もないやり取りをして。

 ヴィクトリアと別れる。



 鐶光は、ホムンクルスになってしまった。
 そのうえで5倍速で老化する体になった。
 あと3年もすれば、外観は、無銘と親子ほど離れたものになる。10年もすれば祖母と孫。
 ヴィクトリアとパピヨンほど離れるのは20年後。

 ずっと少年の姿でいられる無銘と違って、鐶だけがどんどん年を取っていく。

 好きな男のコの近くで、自分だけが、加齢に伴う醜さを、ずっとずっと晒していく。
 心だけ少女の、ままで。
 いまの鐶の実年齢は8歳なのだ。それは、肉体年齢が62歳を超えるころ、やっと18となる。
 やっと高校卒業、進路が、無数の未来が開ける時期に、老婆となる。

 心だけ少女のままそうなる。一体どれほどの恐怖だろう。

 掛かる羽目に陥ったのは強すぎるせいで。無数の鳥に変形できる特異体質の副作用で。身体の、人より早い成長と性
徴を認めるたび、「人ともホムンクルスとも違う」、異質な自分の孤独さに人知れず泣いている鐶なのだ。
 利発すぎるからこそ、10年20年先どうなるか分かってしまい、ずっとずっと心の中で震えている。瞳を暗色に染めている。
 そんな精神(ココロ)から生まれたクロムクレイドルトゥグレイヴは年齢操作を行える。
 だがそれで老いた体を戻してどうなろう。ヒアルロン酸”やら”の注入で皺を伸ばすようなものだ、誤魔化しだ。なにかの
拍子で少女から老婆に戻ったとき、目を背けていた光景を突きつけられたとき……倍加した衝撃は容赦なく脳髄を貫く
だろう。幼いが、実年齢から「老いた」12歳の姿でいるのはそのせいだ。

 無銘は、普通に接してくれる。前歴も何もかも知った上で、肩肘張らず、無遠慮にからかってくれる。
 そうしてくれるだけで、鐶は、本当の自分──肉体年齢12歳の自分ではなく、去年7歳の誕生日を迎えた幼い自分──
に戻れた気がして救われる。
 だからずっと一緒にいたい。
 過酷な戦いが待ち受けているとしても、戦って、姉を救って、老化を治して。
 再人間化は果たせずとも、せめて、せめてただのホムンクルスとして。
 鳩尾無銘と一緒にいたい。

 たったそれだけの……ささやかな願い。



 すっかりふけた夜道で言葉を交わす。今日は楽しかった、また一緒に買い物したい。
 他愛もない言葉を交わす。
 無銘はいろいろ渋い思いをしたから軽々しく同意はしないが、それでも福引でリベンジしたいという。

「なら……決戦…………生き延びましょう…………。生き延びれば……フラグとか関係ない……です」

 鳩尾無銘は思い出す。出逢った頃の鐶を。当時彼女は死に向かっていた。
 過酷な運命の中で諦め、誰かに討たれるコトを望んでいた。

 比ぶればどれほど好転したか。少女は生を願っている。

「買い物などどうでもよいが」

 鳩尾無銘には悔いがある。犬として生まれたコトではない。

 ……救えなかった少女がいる。鐶に出逢う遥か以前の話だ。

 血の繋がりはない。されど魂は覚えていた。彼女と過ごした暖かな時間を。

 やっとそれに気づいたとき、状況はもう、どうにもならなく、なっていた。

 少女を殺す。そうするコト以外打開はなく。

 運命を受け入れた少女は無銘を見て、笑った。幕引きを許諾するように。

 けれど彼は……躊躇した。

 罪悪に駆られ手を止めた。つけるべき決着をつけられなかった。

 生まれて初めて繋がりを感じた少女の体に総角の一刀が吸い込まれるのをただ黙ってみていた。

 そのとき少女の瞳に灯った悲しみは今でも忘れられない。

(助けたかった。救いたかった)

 悔いがあるとすれば「丸呑み」だ。殺すか殺さないか。突きつけられた選択肢の衝撃性に目を奪われ思考を止めた。忍び
とはそれを「する側」だ。さまざまな感情を利用し、相手を桎梏(しっこく)し、最善手を打てなくする。而して無銘は囚われた。
相手の事情。世界の事情。慮ったとして救いにならぬ無意味な要素に怯え戸惑い、成すべきことを成すべき時に……成せ
なかった。大切な少女ひとり助けられなかった。のみならず総角に手を汚させた。自分は、綺麗なまま決着した。

(我は……卑怯だ)

 忍者はときに卑劣を犯す。しかしだからこそ根幹は正心を保たねばならぬのだ。人を、殺めるにしろ殺めないにしろ、付
帯する罪科や責務は総て総て背負うべき……少年無銘が強くそう信じるようになったのは、ミッドナイトという、レティクル
エレメンツ土星の幹部の一件を経てからだ。しり込みし、殺せず、穢れた役を総角に押し付けてからだ。

 かつて鐶を満身創痍になりながら守ったのは、悔いあらばこそだ。

 心情はいまでも変わらない。

 やがて起こる戦いの中でも彼は姿勢を保つ。

 腕組みしたまま鐶から露骨にそっぽを向きつつ、言う。

「前にも言ったが貴様は無明綱太郎だ。難儀だが腕だけは立つ。失えば師父や母上が落胆される」

 だから守る。そういうと傍らで俯く気配がした。微かに聞こえた甘い吐息から察するに、嬉しいらしい。

 鐶の、そういうところが、無銘は何だか好きじゃない。嫌悪とまでは行かないがモヤモヤする。心情を察しようとすると、
頭のやわこい未成熟な部分が気持ちいいようなムズ痒いようなオカシな感覚に囚われてしまう。そういう時は必ず務めて
ぶっきらぼうに振舞うのだが、鐶は別段気分を害さない。どころか、ぼーっとした瞳のまま、はにかむ。
 ちょっと……幸せそうに。
 そういう所はちょっとだけ小札に似ていて──ミッドナイトの1件から反抗期が落ち着くまでの僅かな期間、無銘はときど
き駄々をこねた。タヌキの置物が欲しいとか新装版の忍法帖が欲しいとか。結構泣き叫んだが、小札は怒らず、ちょっと
だけ財政を鑑みる困り顔で笑いながら、いろいろと買い与えてくれた。やっと得た絆を噛み締める幸福感がそこにあった
──だから少年は鐶に対し素直になれない。ますますもって。

 けれど守りたいというのは事実だった。

 買い物の中で生じた鐶への様々な想いと。
 後悔に賭けて鳩尾無銘は誓う。

「もし貴様が出逢ったとき同様死を望むなら我は必ず引き戻す。この手で絶対に引き戻す。この手は何でもできるのだ。
貴様を死なさぬなど造作もない。簡単だ。簡単にできるのだ。だから我は──…」

 死なさない。

 無銘なりの意地でそういう。言外にあえて「守れるほど、貴様より強い」と匂わせながら。


 鐶は何もいわず微笑した。顔は赤い。宵闇でも浮かぶほど。血潮の流れるサァっという音が零れ落ちそうだった。


 鳩尾無銘は気付かない。

 順番と、いうものを。
 自らの命脈が鐶の危殆より早く尽きる可能性をまったく描いていなかった。
 或いは鐶の微笑はそれを感じた故か。

 誓いが果たされず終わる未来まであと僅か。

 鐶たちがヴィクトリアと戯れているころ、武藤まひろは走っていた。
「お財布〜!! お財布返してよー!!」
 住宅街の中、遥か前を灰色の影が走っていく。ニット帽を被っているせいで年のころは分からない。

 彼女は、ひったくりに遭った。顛末はこうである。

 デパートからの帰り道、急にノドが渇いたまひろは桜花たちといったん別れ、自動販売機を探した。
 この春寄宿舎に入ったばかりだから土地勘はあまりない。ただこの少女は時々妙に勘がいい。自動販売機さんカモン
自動販売機さんカモンと念じつつ適当にホクホク歩いているとものの5分で発見した。
 とりあえず冷たいお茶を買い釣り銭を取ろうとしたところで、不意に、さっき見たヴィクトリア(ゲームに夢中)への連絡を思
い出した。思いつくとすぐ取り掛かるのが美点であり欠点だ。常人ならまず釣りを財布にしまいケータイを持つ。だがまひろと
きたらそれをしなかった。財布を左手に持ったまま右手でケータイをいじった。それが致命だった。横からフッと飛び込んできた
影がピンク色の小さな財布(取得価格498円。スーパーで買った特売品)を掻っ攫い走り去る。
「よしひかるんに送信完了! さ、戻ろ……ってアレ、財布ドコ?」
 いかにのん気なまひろでも、ただならぬ様子で走り去っていく影を見れば状況ぐらい分かる。
「ひったくられた!?」
 ギョっと白目を剥きながら「そういえば私ノド渇いてたんだった!」と缶をとりグビグ飲み。「ふー」と笑顔で一息ついて
「ダッシュ!!!」
 猛然と駆け出した。

 そんなこんなで追跡しているのだが、距離はいっこう縮まるどころか広がっていく。
 マラソンを苦手とするまひろだ。むしろ速攻で撒かれなかっただけ善戦したといえるだろう。
 とはいえ流石に体力が尽きたとみえみるみる速度が落ちていく。30秒後とうとうバテた。膝に手を当て息をつく。
 ひったくりは角を曲がりやがて足音さえ聞こえなくなった。
(油断した……)
 まっしろになって五体着地。落胆は深い。
 財布。
 別段たいしたエピソードもない安物だが、イザこういう形で日常から消えると胸が痛む。失くして初めて気付く大切さ。悪意
に対するやるせなさ。色々な感情が必要以上に胸を締め付けるのはやはりカズキの件が響いているからか。喪失という事象
を今の彼女は必要以上に恐れている。恐れているからこそ諦めがつかない。自分の不注意をひどく後悔しながら歩き出す。
ぜぇぜぇ息吐きながらブロック塀に手をつき手をつき。中身抜き取られし財布がポイ捨てされているのを期待しながら──
前向きなのか後ろ向きなのよく分からぬ考えを支えに──まひろは進む。

「イェーーイ! 獲物ゲットぉーーーー!!」
 ひったくりは受験生だった。家は資産家でベンツを3台持っている。生活苦とは無縁だが高校進学のストレスが彼を変えた。
次男坊にも関わらず弁護士になるよう親から強いられ来る日も来る日も勉漬けの毎日。それが昂じて人様の財布をひった
くるようなった。続ければやがて警察に捕まるだろうが構わない。されば何かにつけて世間体世間体とのたまう親どもの、大
事にしている名分は地に落ちる。一種の復讐だった。多くの復讐者がそうであるように「遂げた後どうなるか」は考えていな
かった。親たちに投げた泥がそのまま彼の生活基盤を粉砕しいま以上の不遇、貧困を招くとはまったく考えていない。
 いまはただ財布を取られうろたえる被害者たちの哀れな動揺をあざ笑い、ちっぽけな優越感を覚えるだけだ。
 ただでさえ傷ついているまひろを更に暗黒へ突き落とす卑劣な行為さえ愉悦にすぎぬ。
 自分はこれほど悪なのだ、勉強勉強と汗かく連中など生びょうたん、自分は奴らより優れている──…

 内心自らを賛美しながら走るひったくり。

 その首に腕が突き刺さった。正確にいえば指だった。親指以外の、ピンと伸ばされた4本が前から後ろに貫通した。神経
の束の詰まった頚椎の破砕される嫌な音に遅れるコト一拍、ひったくりの未だ続く薄ら笑いの口から血液がトプリと溢れた。

 裕福な彼は知らなかった。

 真なる悪意の生物濃縮を。

 世間のそこかしこで頻発するひったくりのような小さな悪意でさえ、浴び続ければ人は壊れる。
 況や巨大な不幸をや。
 受験勉強など比較にならぬやるせなさを押し付けられた被害者が、救われなかった被害者が、参差(しんさ)の牙剥く餓
狼と化すなどまったく夢にも思わなかった。『誰も手を差し伸べなかった』、そう信じ込む人間が、尊厳とやらにどれほど冷淡
で実利的な即断を下すか終ぞ知りえなかった彼の咽喉にぶら下がる──…

 腕には、先がなかった。肩から切断されていた。ロボットが推進力で飛ばしたような産物で、なのに皮膚の質感や血色は
まったく人間のものとみて間違いなかった。それが不意に闇の中から飛来し突き刺さった。


「奪う奴は……死んでええ」


 倒れゆく青年に影が差す。

 乾いた声だった。静かだが今にも爆発しそうだった。密かな怒りに満ちていた。

 暗転。何分経っただろう。


 狭い路地だった。廃材、だろうか。泥に汚れた塩ビ製のとても長いパイプが何本か壁に向かって辞儀をしている。その根元
でうつ伏せに、しかし顔だけは横向きに斃れているひったくり。

 眺める影は……2つ


「そう。奪う奴は死んでええ」


 1人はキャミソール姿の少女で、足とおなじく剥き出しの白い右肩に手を当てている。肩が動いた。あたかも脱臼を直す
柔道選手のような骨法的力学を踏まえた動きだった。ガキリという低く短い金属音が響く。二、三度肩をまわした少女はな
んとも派手ないでたちだった。金髪で、ツインテールで、前髪にはダメ押しとばかり銀のシャギーが施されている。
 そのうえクロームイエローのサングラスをかけており「ひょっとして芸能人?」的荘厳オーラだ。
 彼女は死体の傍に両膝そろえかがみこむ。
 拾い上げたのはピンクの財布。まひろのだ。

「人様が一生懸命働いて稼いだカネしょーもないマネで奪いくさりよってからに。死んで当然や。まぁ生活苦に喘いだ末に……
ちゅーならまだグレイズィングに頼もって気になるけどやな、お前どう見てもストレス解消程度やろがい」
 サングラスを髪の上まで押し上げしばらく値踏みするように死骸を見て……嘲る。
「そんな高そうな靴と服身につけて……ありえんやろ。生活苦」
「さすがデッド。目利きスゴいね〜」

 いま1つの影は壁にもたれて腕組みしていた。

 夜の対極がそこにいる。透き通るような白い肌を持つ少年で、瞳は紅玉よろしく爛々と光っていた。
 傍らにはリヤカー。白い布製の大きな袋が乗っている。力士の上半分ぐらいの大きさだ。表面のところどころが直方体に
ボコボコしている。
「あったりまえやろウィル。商売人やぞ? ヨロズの価値に通じとる。服からタンカーまでなんでもござれや」
「褒めたからさ〜、そろそろ解放してよ〜。荷物運び……。いろんなトコで物買いすぎだよ〜」
「断る!」
 デッドと呼ばれた少女は腰に手をあて胸を張った。
「あ」
 白い──アルビノ──少年ことウィルは一瞬なにか言いかけたが口を噤む。デッドの目ざとさはどうやら商品以外にも
作動するようで。少女はひどくムッとした。目を三角に首だけ振り向く轟然と。
「ああそやわ!! どーせウチは貧乳ですわ!!! 地平線! 凸真っ平らァ!!」
「ネコまっしぐらみたいに言われても……」
「ネコとかいうなこわい!!!」
「キレ気味に泣かないでよ……。面倒くさい」
 デッドはギュっと目をつぶりイヤイヤした。耳をふさいだまま真赤な顔を左右に振ると見事な金色のツインテールがサラサ
ラくゆる。そして急に黙り込み俯いて……。数秒後。
「アレはウチが盟主様に「やっぱお兄ちゃんたち無いよりあるほうがええんか?」そう聞いたときのコトやった」
「なんか語りだした」
「盟主様は「やっぱ巨乳だねっ!」と即答した。マシュマロボブみたいなカオでサムズアップした。ビックリしたわ。何ら迷い
なかったもん。その時のウチは結構な気合入れた格好で、はにかみつつ上目遣いで質問した訳やけど全部ガン無視。乙女
がシナ作っとんやぞちょっとぐらい媚びろや」

「ビールの大瓶ってさー、なんでみんな633ccなの?」
「知るか!! おま、ウィル、ウチの話聞いとるのか!?」
「昭和15年(1940年)の酒税法改定に伴いビール1瓶あたりの容量を統一する必要に迫られたのだけれど、当時のアサヒ・
サッポロの工場あわせて14箇所で作ってた瓶の容量がまちまちだったせいー」
「ほー」
「いっそ新しい瓶作って規格統一すれば楽だったんだけどー、当時日本は戦前でー、ガラスも貴重だからー、新しいの作る
余裕なかったんだー。だから当時一番容量少なかった瓶に合わせたわけー」
「ナルホド、それが633ccちゅー訳やな。いちばんちっちゃい奴に入るなら大きめの瓶でも対応でき関係ないやろこの話題!!!」
 デッドは怒鳴る。ウィルは何が嬉しいのか目を三本線だ。
「ないねー」
「ああでも小さいのはいつかスタンダードになるっちゅー教訓かも!!」
「うわぁ面倒くさい。話し逸らしたのにこじつけてる……。これだから女のコとか面倒くさい…………」
「腹立つわ。お前ホンマ腹立つわ。ちっとは乙女フォローせえや」
「自分で乙女とかめんど……え、なにどーして睨むのさ面倒くさい……。そーいうさぁ、イラっときた時にさー、手近な人に言
葉伝えて感情共有して晴らそうとすんのやめようよもうー。相手が心底同情するケースなんて稀だよ稀。「しょうむないコト
言ってるなぁ」って内心ウンザリしつつ前後の人間関係鑑みて取り合えず頷いてるだけなんだからさー、そんなんで紡がれた
言葉の実態知りもせず満足しても仕方ないじゃん。なんでみんな自分の感情他人に混ぜてようやく正しいと思えるのかなー」
「……」
「『自分の正当性犯された』、怒りの源泉は常にそれ。なのにどういう訳だかみんな怒るほど信じてる正しさの審判を人に委ねる。
訴えて認められてやっと満足さ。弱いよソレ。訳わからない。本当に心から自分が正しいって思ってるならさー、人の意見とか
いらない筈だよ本来いらない。不都合さえどうでもいいって嘲笑い進む訳だからデッド要するに後ろ暗いんでしょー?」
「出たわー。出よったわー。社会知らん癖に頭だけいい引きこもり特有の論理飛び出たわー」
「勢号よりあるし、いいじゃん」
「ロリやん!」
「イソゴ老にも圧勝だよー。ぱちぱちー」
「だからロリやん!!」
「中学生が幼女相手に勝負挑んで恥ずかしくないの? 分かってる? デッドの悪いトコはそこだよ?」
「説教!?」
「あのクライマックスより胸小さいのは屈辱だよねー」
「まったくやわ!! アレは本当しょうむない癖にDあるからなD!! そんかわり不摂生と運動不足でウェスト62やけど。
それでも色気ムっチムチのグレイズィングと胸だけは互角……。あとリバースはバケモン!! ぐぬぅー」
 ハンカチ噛んで涙するデッド。ウィルはちょっと角を見て耳を澄ます。
「ところで財布……持ち主歩いてくるみたいだよ? さっさと死体片付けないとマズイよね〜?」
「……。本っ当しょうむない奴。わかっとんならやれやウィル。お前の得意分野ちゃうんかい」
 関西少女。ふだんは隠しているのだろう。前髪の上に跳ね上げていたティアドロップ型のサングラスをかけ直す。露になった
素顔の瞳は10代の少女らしくパチクリとしているが、白目の部分に稲妻のような瑕がある。
 それを眇めたのを合図に……空間が、歪む。

 死体のすぐ横に佇む塀。2mほどあるそれの根元から天辺スレスレまで光線が走った。壁がごとく。バーナーに刳り貫かれる
合金のごとく。線は、4本あった。縦に伸びるものが2本、横に流れるものが2本。最初に描いた線分──縦──の両端と
直角に、眩いクリームイエローの光波を放射状に広げながら伸びていく。あっという間に3m引いた。それがいま1つの縦
──こちらでも光の線が塀を削った──と合流したとき金属音が一瞬響く。錠前が外れるような、完璧に噛み合う3つの歯
車を力づくで引き剥がし砕いたような小気味よい不協和音を合図に。

 塀が、開いた。

 塀の一部分、縦1m94cm、横3mの長方形が両側開きの扉となって立体世界にせり出した。

 開け放たれた部分に覗くは漆黒の空間。相当広いらしい。彼方で風の渦巻く音がした。虚空の響きは怨嗟にも似た。
 
 穴があいたワケではない。塀の一部が、まるで蝶番のドアのようにバカリと開いている。空間の曲率が明らかにおかしかっ
た。”ドア”に該当する部分には、塩ビのパイプがしだれかかっていたが、倒れるコトなく塀と一体、清冽を漏らす冷蔵庫の、
扉に張り付くマグネットよろしく共に正規の座標から外れていた。にも関わらず、曲率が普通の、ドアならざる箇所に伸びた
部分は、従前どおりの場所にある。シャムみたいな雑種猫が1匹、塀の縁を通り過ぎた。柔らかな毛に覆われた横腹が
僅かだがパイプに当たる。何と言うコトだろう。そこから1m離れた箇所めがけドアともども飛び出したパイプがカラカラと
揺れた。繋がっている。瞥見の限りではドアを境に明らかに断絶されているパイプが、繋がっている。

「インフィニティホープ(ノゾミがなくならない世界)。羸砲ヌヌ行ともども時空の果てを漂ってね〜」

 声と共に死体が暗黒空間に吸われ消える。ドアも閉じた。

「あとは血痕やなー」

 露出の多いキャミソールに光が絡み型を成す。それは弾帯だった。見るからに硬質のアイヴォリーブラックで、赤い筒を横倒しに
何本も何本も蓄えている。脇から背中に装着されたそれの1つをデッドは抜き去り

「てりゃ」

 血溜まりめがけ無造作に投げた。破裂音がし、赤い炎と黒い煙がワルツを踊る。爆竹程度の爆発だが世界は変わる確実に。
 爆発のあった場所に無数の渦が現れた。うっすらとシアンに輝く半透明の渦に月明かりが屈折し、青紫みした黒い向こう
が歪んで見えた。

「ムーンライトインセクト(月光蟲)。ワームホールで始末やでえ〜」

 そして血溜まりを吸う渦。音は高性能掃除機のように静かだった。

 異変はデッドの手にも起きる。指先を流れ落ちる血液をも吸われていく。

 海に降る雨を逆再生すればこうなったろう。赤黒い楕円が無数の雫となって渦に落ち込み──…




「ほれっ」



 まひろが目を白黒しながら財布をキャッチしたのは数分後。塀に手をかけ手をかけ青息吐息で歩いていると、突然声が
し投げられた。一瞬なにが起こったか測りかねるまひろだがすぐさま気付く、再会に。

「私の財布!! 良かったまた逢えて……。取り返してくれたの? ありがとー」
「かまへんかまへん。グーゼン拾ただけやし。ひったくりがぶつかってきてなー。落としよったわ」

 サングラスをかけた少女はそういって掌ふりふりカラカラ笑った。真実を知らないまひろは「いい人だ!」と直感し、通例す
なわち1割を差し出した。

「ええってそーゆうの。ウチは好きで持ち主探しただけやし」
 凛と手を突き出し断る少女。(ちなみに弾帯は解除済み。普通のキャミソール姿だ)
 傍らで雪のような美少年──存在に気付いたまひろは「おお、秋水先輩と同じぐらいカッコイイ」と感心した──がどうでも
よさげに大きな枕を抱きしめた。

(人殺しが謙遜とか面倒くさい……)

 デッド。コードネームはデッド=クラスター。栴檀貴信と栴檀香美にとっては……仇敵。

 彼らの平穏な暮らしを、些細な、実に些細なキッカケで破壊したレティクルエレメンツの幹部──…

.    か
『彼方離る月支』(マレフィックムーン)。

 月支すなわち的を定めた彼女の執心ときたら。横取りは決して許さない。
 相手がたとえ過失でそれを手に入れたとしても許さず破滅に追い込むのだ。
 貴信や香美がどれほど悲惨を味わったか知り尽くしているウィルだから、いまのデッドは薄ら寒い。
 強欲が何を約やかに──… そんな思いでいっぱいだ。
 もっともデッドに言わせれば「奪う奴が悪い」「奪われた人は可哀想、保護すべき」……である。だから財布を盗られたまひろ
に優しくするのは自然なのだ。もっとも、デッド自身に『奪われた』──例えば平穏な生活を奪われた貴信や香美のような──
人間にその論法は適用されない。何故ならば「先に向こうが奪った」からだ。だから何をしてもいいという。これほど都合のいい
二重基準もないだろう。そんなものが芽生えてしまったのはまだ人間の頃、様々なものを奪われたから──…

 音がした。重い音が。響いたのは一瞬だがまひろとデッドを取り巻く状況を激変させるには十分だった。

「げ! しもた!」
「!!」

 音を追ったまひろの大きく澄んだ目が色を変える。地面にある物が落ちていた。人間なら誰しも見慣れた物体だ。ただそれは
路上に落ちているべきものではなかった。日本という平和な国においては異常で、たとえ戦場でも即時撤去が謳われる。主
に衛生を守るため、だが。

 それは少女2人に境界線を引くよう真ん中に落ちていた。

 デッド=クラスターの奪われたモノにそっくりだった。というより、父親代わりのディプレス=シンカヒアが、同じになるよう
精魂こめた逸品だ。指は白魚のように細いし二の腕から手首にかかる曲線ときたらまったく芸術的で、だから年頃のデッド
はいつも外出時ルンルン気分でつけている。

 平たくいえば腕だった。詳しく言えば義手である。デッドは両手がない。足も太ももから先がない。幼い頃誘拐犯に切断された。
ディプレス謹製の義手は神経と接合し本物と遜色ない。ピアノも弾けるしワープロも打てる。足の指でテレビのリモコン掴んで
引き寄せるぐらい楽勝だ。

(まーた落ちよった。動きいい代わり接合弱いからな〜。さっきひったくりにロケットパンチしたんも悪い)

 デッドはため息をついた。ハッと面をあげたまひろは見てしまう。ピンクのキャミソールから剥き出しになった肩、それが
途中で途絶えているのを。財布の拾得者。金髪でコウモリの翼のようなツインテールのきらびやかな少女は腕がない。

(いやあるけどなー。いま地面に落ちとるけどなー)

 さきほど接合から逃れ叩きつけられた義手を見る。いつだったか、香美を人質に脅迫した貴信が、ある男の腕を斬り飛
ばした。因果だろう。残った左手で頭を掻く。

(ああもう。財布渡すだけの筈やったのに何でこうなるかなー。別にウチ自分の体んコトは気にしてないけど、でも初対面で
いきなりこんなんされたら引くわー。腕やで腕。腕腕腕。地面に転がすとかグロいわ。絶対このコ引いとるわー。ごめんな
不快な思いさせて。さっさと拾ったら行こ。リヴォかイソゴばーさん探さなあかんし)
「落ちたよー」
「おおきに。そーそーそー。油断しとるとすーぐ落ちるよってなコレ困ったモンや……ってなんかツッコめや!!」
 まひろはちょっとハテナマークを浮かべた。手には右手。ちょうど秋水が正眼に構えるように、手首を掴み高々ともたげて
いる。事情を知らないものが見たらゾッとする光景だ。夜道でも、マネキンではない、明らかに人のものと分かる腕を、結構
にこやかな顔で渡そうとしている。武藤カズキの雷名はレティクルエレメンツにも響いているが(かのヴィクターを追放したの
だ)、いまその妹が眼前にいるとは思いもよらぬデッドである。もっともだからこそ、まひろの孕む凄さをつくづく痛感するの
だが。
「あ。電球ー。便利だよね。髪につけると」
「つけたコトあるんかい!! いや確かに便利やけれど!」
 まひろは変なところに食いついた。ツインテールの根元でぴかぴか瞬く電球は、デッドが自らの武装錬金(クラスター爆弾。
本体は赤くて大きい重い筒)内部で作業するさい頼る灯りだ。いつなんどき使うか分からないので常時髪留め代わりにつけ
ている。

「あれ? 夜なのにサングラス? まさかひょっとして有名人!? お忍びでデートしてたり!?」
「いちお見えるし経営する方やしウィルなんぞと付き合ってないしウチ」
 矢継ぎ早にツッコむ。ウィルが小声で「息ぴったりだねー」と呟いた。
「ちゅーかしもた。腕。戻さな」
「どーぞ! 拾ったら拾い返す、何を隠そう私は倍返しの達人よ!」
 強く差し出しつつ眉をいからすまひろである。彼女なりのご遠慮なくどうぞだが、いつものごとく的外れなボケた行為。
 しかし破綻者たるデッドはちょっと内心身震いした。半分は欠如あるもの特有の感動だが、もう半分は純然たるドス黒い恐怖
だった。勝てない。闇が朝日を評するようつくづく思う。
(……あまたある商品に鼎の軽重・問い続けたウチやからこそ分かる。人物や。一見は愚鈍、出し抜くは容易く見える。されど
天稟、”流れ”はいつでも味方する。個において劣るからこそ人の縁が押し上げる。生まれつきソロバン越えたトコに位置する)
 不承不承腕を受け取り嵌め込むデッド。その間もまひろは親しげに笑っている。目の前で義手の接合作業が行われているに
も関わらず好奇も同情も何も無い。バッグを肩にかけ直すのを見るような平坦な顔つきだ。
「あ、そうだ。お名前。お名前なんていうの?」
 出し抜けに聞かれたデッドが逡巡したのは理由がある。もっとも同伴者はそれを無視した
「さっさと答えて帰ろうよー。名前は〜、デッ」
(アホ!!)
 牙剥きつつ振り返り、睨む。
(コードネーム名乗るアホがどこにおる!! ウチらきたる大決戦のために下見中!! んでこのコ制服的に銀成学園! 
例の飼い主やらネコやらと同じ学校! 何の拍子でバレるか分からんやろーが!! 『いま銀成にいる』、バレんのマズイ!!)
 ウィルは黙った。理解したというより、急に喋るのが面倒くさくなったようだ。
「もしかしてヒミツ? そっちの方がカッコいいから? ブラボーみたいだね〜」
 まひろはまひろで納得したご様子だ。うんうんと頷きつつそして笑う。
(くぁ〜。なんやこのコ! ええコすぎる!! 天使か!!)
 悪の組織の幹部にも関わらずデッド、人の善意とか暖かさといった感情が大好きだ。趣味はしなびた個人商店でのい物。
吹きだまる在庫を一手に買い付けるのが好きだ。社会の金回りをよくする一番の手段だと信じている。急によくなった風通し
におじさんおばさんが驚きつつも「ありがとー」とお礼を言ってくれる瞬間がたまらなく好きだ。
 まひろのような外見ほぼ同年齢の明るい少女も好きである。ドス黒いモノを内心に宿すデッドだからこそ裏表のない女の
コに憧れる。レティクルに同年代の少女がいない(イオイソゴ=キシャクははるか年上)のも大きい。
「樋色獲(ひいろえる)」
「うん?」
「ウチの本名。英語でいうとヒーローゲッターや。覚えとき」
「じゃあえーちゃんだね」
「さっそくあだ名とか馴れ馴れしいな! まあええけど」
「やた。本名ゲット。この調子ならブラボーの本名聞きだせるかな?」
「知らんがな」
 突っ込みながらも満更ではない。笑いながらまひろの周りをくるくる巡る。
 で、正面でピタリ止まり
「アレやな」
「ん?」
 感心半分、驚嘆半分、話しかけるとまひろは身を乗り出した。
「相関図ってあるやろ。ドラマとか漫画とかで人たくさん出てきたとき用意されるあれ」
「うん。誰が誰好きー、とか書かれてるアレだよね」
「自分はきっとそれに忠実や。自分と相手結ぶ矢印に書かれた文字、相関関係に対し全力……ちゅーのかな」
「???」
「ま、出し抜けに言われても分からんやろな。ウチの言いたいのは要するに『見かけで人、判断せん』やな。つってもそれ
は初見で本質見抜く聡さゆえやあらへん。相関図や。相手がどういう位置づけか……そこしか実は見えとらん。友達な
ら友達への、転校生なら転校生への、財布拾た奴なら財布拾た奴への、やるべきコトとかしたいコトとか何もかもひっくる
めて全力で向かってく。フリスビー投げられた子犬よろしくな。だから初対面から打ち解けているようで実は相手の本質まっ
たく分かっとらん。それは賢か愚でいえば愚……つまり、愚かや。相手によっては敬遠するし嫌うやろう。鬱陶しいとも思う。
ただ相関図に対し常に全力やからこそ、人を、本当に理解するまで付き合える。世間が要求する取り澄ました、格好よい
賢さとは対極にいるからこそ人間と、真の意味での絆を得られる。ま、本当に心底周りの奴が好きだからこそ成り立つ
芸当やけど」
「うーん。良く分からない……」

 まひろはちょっと泣きそうなカオで笑った。困惑が見て取れた。
「友を得るには相手の関心を引こうとするよりも、相手に純粋な関心を寄せることだ」
 不意に紡がれた言葉はウィルのものだ。デッドもまひろも驚いた。さっきから「まったく無関心!」とばかり立っていた彼が
突然格言めいたものを持ち出したのだ。しかしまひろの反応は早い。
「デール=カーネギー! 『人を動かす』!!」
「正解。……っていうか何で分かるのー? きみひょっとして勢号ー?」
「……アレ? なんで分かったんだろ? 急にパッと浮かんできて…………」
 どうも言葉の意味が分かってないようだ。なら何故言ったのか。
(突拍子もないけど、まぁ、そーいうコなんやろ)
 デッドは納得し、平手を眼前でパタパタ。
「それでええ。上等。小難しいコトわからんのは美点や。価値作れる条件や」
 なまじっか鑑定眼ばかり磨いているからつい長広舌に及んだ……そういうデッドの足元に影が来る。
「あ、ネコさんだー」
 茶トラだった。生後3ヶ月といったところか。夜道でシャンと輝く瞳は丸く愛らしい。
「ネコ!? ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
 デッドはビックリ仰天だ。両手ごと上体を右めがけ思い切りねじり片足を跳ね上げる。
 まひろはしゃがみ込み茶トラを撫でる。ノドをころころすると気持ち良さそうに目を細めた。
「いややいややネコ怖いめっちゃこわい!! どけて!! どっかやって!!」
 絹を裂くような悲鳴の天上世界を大きな瞳が覗き込む。
「ん? ひーちゃんひょっとしてネコ嫌い?」
「お、おう!! ちょぉっと昔、むちゃくちゃな目ぇ遭わされたよって!! じ、自業自得やけど以来ダメやダメダメ!!」
「じゃあ仕方ないねー。ネコさんネコさん、ちょっとだけあっちに行ってくれる?」
 適当な場所を指差すと、何かいいものがあると勘違いしたのか、子猫はとてとて駆け去った。

 まひろは知らない。かつてデッドを「むちゃくちゃな」目に遭わせたネコが──…

 つい先日銀成学園に転校してきた栴檀香美とは。

 かつてデッドの手によってホムンクルスにされた彼女は、貴信を傷つけられた怒り昂じて起動暴走に陥った。
 それまでの一悶着によって消耗していたデッドは成すすべなく甚振られ一時は命さえ危ぶまれた。
 レティクルの、幹部たるマレフィックが、たかが動物型相手に苦渋を舐めた。忌まわしき屈辱に本来ならば瞋恚(しんい)
の炎を燃やすべきだが、貴信と香美の一件につきまとう一抹の罪悪感も相まってそうはできぬデッドだ。むしろネコ恐怖
症に陥っている。実のところ香美が怖い。もっとも向こうはデッドのコトなど忘れてかけているが。


 ややあって。


「ええか。人と物の間には”縁”っちゅーもんがある」
 財布を指差す。
「人が生活できるんは物があるからや。色んな物が傍におってくれるから、寒さとか飢えとか、そういう理不尽なコトを避け
られるんや。便利で快適な生活を送れるんや。けどやな、物は人がおらな生まれへん。必要とされるから生まれてこれるん
や。どっちが優れとるかやないで?」
「持ちつ持たれつだね」
 素直に頷くまひろにデッドはニヤリ笑う。
「どう見ても安物、持った感じさほど入ってない財布を息せききって追っかけてた自分やからきっと分かる。財布にさえ相関図
持っとるらしいからな」
 財布を指差す。
「これがあんたの手にきたんも縁っちゅー奴や。あんたが必要としとるから買われたし今もこーして使われとる。そういうの
は奇跡なんや。日常ん中に当たり前のように存在しとる。欠けるコトなく揃っとる。それは本当奇跡で、誰かに奪われたり
壊されたりなんかすんのウチは見過ごしたくないから、拾って、届けたんや。……大事にしたり。この財布はまだあんたに
使われたがっとる。物の命尽きるまで大事に使て、んで、できたら役目すんでからも捨てずにとっとき。それが礼や。ウチに
対する礼。お金なんかよりもっと大事なコトなんや」

 まひろはいたく感激したようだった。うんうんと頷き、それからデッドとまるで10年来の親友のように世間話をしてそれから
帰途へ。ウィルはため息しつつ寝る。

(やだなーデッド。一見まともそうなコトいうからこそ鬱陶しい……)

 罪業と善行を秤にかければ左に傾くのがデッドだ。人ならざるホムンクルスを日本国の法で裁けるなら間違いなく犯罪者だ。
「奪った」。そういう人間を数多く殺してきた。時々恐ろしく小さな略奪にさえ激昂した。人々を怪物から守る錬金の戦士でさえ、
殺した。もう当事者総て鬼籍に入って久しい過去のゆきがかり──もと社長令嬢の彼女は戦団に、母と、仲の良かった使用
人たちを殺されている──をタテに八つ当たりし無残を振りまいている。
 同じような境涯の、父と義母を殺された(と信じている、信じ込まされている)リバースが、戦士たる防人と不意に出逢って
なお持ち堪えたのは、デッドの、「仇とは無縁の、ただ同じ組織にいるだけの」人間に当り散らす姿に思うところがあるから
だ。それで何とかギリギリのところで耐えている。もっとも、そう思える平衡に至るまで、坂口照星がどれほど甚振られたコト
か。
 精神年齢もある。いちおう高校3年生まで人間をやっていたリバース。『身体的特徴』ゆえに小学校すら行けず13歳で人
間を捨てたデッド。どちらが兇悪で我慢強くないか明白だ。もっともリバースの憤怒が日々膨れ上がるのは、ステロイドの
ような理性が散発を強く押さえつけているせいだ。総合的に言えばケンカっ早く口の悪いデッドの方が、さばさばしており人
当たりも良い。リバースは常に笑顔だが前述の理由もあり執念深く狷介(けんかい)だ。ただ両名とも社会の理不尽に困窮
する人間に対してはひどく優しい。

(レティクルはボク以外だいたいそうだけど誰得、だよねー)

 100万人殺すテロ集団が人口10人の限界集落を救ったとする。社会はそれを讃えるか?


 デッドは嘆息した。


(ウィル。お前かて外道ちゃうんかい。小札零とは因縁浅からんし)

 ウィル。

『水鏡の近日点』(マレフィックマーキューリー)。

 彼は時空の改変者だ。本来この時系列は数十年後、ムーンフェイスに蹂躙される。厳密に言えば彼の造り給いし真・蝶・
成体が地球を月面よろしく荒廃させる。カズキと斗貴子の間に生まれた武藤ソウヤはその歴史を……変える。真・蝶・成体
がいまだ目覚めぬ刻に翔び”親たち”と協力しこれを打倒──…

 未来世界は平和を取り戻したかに見えた。

 しかし。

(中国のナントカとかいう指導者はむかしスズメ全部殺せいうたそうや。田んぼでコメ食べるよってな)

(で、殺した。徹底的に殲滅した。それで収穫量上がったかというとむしろ逆。未曾有の凶作に見舞われた)

(なぜか? イナゴが大発生したせいや。異常気象のせいやないで? もうオチ分かるやろーけど人間が悪い)

(そ。スズメっちゅーのはイナゴも食べる。食物連鎖。虫の誇るおぞましい繁殖力っちゅーのを期せずして抑えてた訳や。
それをナントカという指導者の指一本の命令で無視したから)

(大凶作。スズメにコメ喰わしてた方が良かったっちゅーぐらいカツカツなった)

(歴史改変にもそういう所がある)

(真・蝶・成体。ナルホドあのバケモンはようけ人殺した。斃すには足る。けどスズメやない保証はどこにもない)

(哀れに見える犠牲者が実はイナゴで、将来、より大きな不都合を起こすコトだってありうる)

(当人がやらんくてもその子供や孫……末裔が、イナゴる場合も)

(改変後の歴史。西暦2208年。全世界で約30億8917万人が死ぬ)

(人類への未曾有の叛乱。首謀者あるいはその祖先たちは本来)

(真・蝶・成体に殺されとった)

 改変後の歴史にしか存在し得ない命。
 ウィルという少年もまた例外ではなかった。
 生まれたが故に爛熟する人間社会の傷痕に翻弄され──…

 やがて歴史改変を決意する。

(2305年から戦国時代を通り、1995年へ。幾度となく跳躍し、歴史を変えた)

 目的はただ1つ。レティクルエレメンツ生存。

(正史では戦団に負け消え去る組織。それを生き延びさせるため”だけ”歴史の微調整を繰り返した。気が遠くなるほどの
年月、何度も何度もループしてな)

 その果てでウィルは小札と出逢い。

(アレをホムンクルスにした。けれど無事では済まんかった。想定外の事態に見舞われた。人外と化したヌル……小札零が
覚醒したんや、本来のチカラに)

 あらゆる因果を書き換えるという7色目、禁断の技。小札零の切り札中の切り札を受けたウィルは根底から破壊された。

(かつては『傲慢』やったウィル。それが『怠惰』になったんは10年前──…)

 彼はあまりこのあたりのコトを語りたがらない。どうも小札に投与した幼体が相当特別だったらしいが……。



「あのー。デッドさんとウィルさん……スよね?」


 互いが互いを(貶しつつ)想っていると声がかかった。
 仲間以外にコードネームを知るものはいない。デッドはやや瞳を警戒に細めながら出所を見る。

 まひろが去ったのとは反対方向。ひったくりの死亡現場に続く道に男がいた。
 髪を金色に染め耳にピアスを幾つもつけている。一目で不良と分かる青年だ。

「ああやっぱり警戒された。『社員』す。社長の指令で来ました」
「なんやリヴォの手下かい」
「金髪でピアス……そうだキンパくんと呼ぼうー」
 ウィルはといえばあくび交じりに答える。
「ようやっとこれで合流できたわ。ま、イソゴばーさんの方が良かったけどリヴォならそこかしこに伝達しやすいやろ」
 いずれ錬金戦団ならびにザ・ブレーメンタウンミュージシャンズと干戈を交える悪の組織──…

 レティクルエレメンツ。

 10人いる幹部のうち実に9割がいま銀成市にいる。中でもウィルとデッドは最後発、予定外の来訪だ。
 そのため仲間たちと合流し、善後策を講じる必要があったのだが、デッドが趣味の買い物を優先させたコトもあり
到着後しばらく彼らは没交渉。それがいまやっと接触した訳だが──…

「つーかリヴォの野郎どこや? 性能的に考えてデパートかなー思て探したんやけど」
「ウソばっか……。買い物したさに選んだくせに」
 文句を言いながらウィルはキンパくんに荷物を渡す。リヤカーに乗った大きな袋を。
「え、俺が運ぶんスか…………。社長なら怒られてますよ」
「お、イソゴばーさんにか? そりゃそーやわな、銀成きたの予定外やし」
「いえ、試食のおばさんに」
「なんやそっちかい。調子乗って喰いまくったんやな」
「いや驚きましょうよ。悪の組織の幹部がそんなんでいいんですか?」
「リヴォのやるコトに驚くだけムダだよー。面倒くさい」

「せやせや。だいたいワルに品格求めてもしゃーない」
 からから笑ってデッド、キンパくんをしげしげ眺めた。
「何か?」
「自分、運がええでー? ウチらマレフィックのうち9人に遭ってまだ生きとるっちゅーのは、ホンマ運がええ」
 一瞬そうだよなあと考え込んだキンパくんだが、すぐ「アレ?」と気付く。
「聞いてるんスか? 俺が社長に会うまでの顛末」
 いんやと少女は首を振る。
「でも目の色見ればだいたい分かる」
「目の色……スか?」
「おぅ。ブレイクの禁止能力受けた奴はしばらく目の色がおかしなる。で、アレが蜂起前にバキバキドルバッキー使うと
したら理由は1つ。リバースに何らかの危害が及んだからや。するとや、必然的に女のコらしい『拒否』が『伝えられる』。
肉体は無事でおれん。じゃあ次はグレイズィングやろ? これで3人。遭ったのは分かる」
 流れるように──ときどき得意げに指を立て──説明するデッドにキンパくんはただ感心した。
「……残るお三方は?」
「重要なのは自分がどこで社員になったか……やな。まずグレイズィングの病院はない。リヴォはアイツ嫌っとるよって」
「細菌型だしねー。病院には絶対いかないよー」
「なら、拷問に耐えかね病院を飛び出した自分が社員になるまで相応のタイムラグがある。で、小耳に挟んだんやけど、
昨日の晩、銀成はちょっと騒がしかったらしい。不発弾がゴミ捨て場燃やしたり街灯倒れたり……たいしたコトない被害
やけど、まぁ、そーいうの起きるのはだいたいクライマックスのせい」
「アレがー、獲物ー、斃そうとするとー、そーなるよねー」
(……いつもかよ)
 昨晩さんざん追い立てられたキンパくんは内心愕然とした。
「ディプレスはなんやかんやで付き合いいいっちゅーか、『早よ引っ付けや男やもめが!』ってぐらい互いに憎からず思っ
とるのバレバレ。なら同伴しとるやろ。だからまとめると、自分は病院飛び出たあとクライマックスとディプ公に遭遇、で、
一悶着あったところにイソゴばーさんかリヴォが来て仲裁……やな。どっちが先かまでは流石に分からんけど、イソゴ
ばーさんが一枚噛んでるのは確か」
「何故ですか?」
「だってイソゴばーさんはウチらのご意見番やもん。リヴォより前に遭ったならあの人の指示で『採用』されたっちゅーコトや。
後だとしてもリヴォの性格なら『採用』していいか伺いを立てる」
「…………頭いいスね」
「武装錬金が武装錬金やからな。チエ使わな商売あがったりや」
 ただ、と少女はこうも言う。
「最後の1人……、盟主様に遭ったとき生き延びれるかどーかは分からんで〜?」

 やがて3つの影は闇に溶け──…


 9月13日の夜が始まる。


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